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三縁山 広度院 増上寺
浄土宗大本山
開山: 西譽聖聡上人
本尊:阿弥陀如来
札所本尊(観音堂本尊):西向聖観音
家康が二十万坪の寺域を寄進
増上寺は浄土宗四大本山の一つで、正式には三緑山広度院増上寺という。寺伝によると明徳4年(1393年)、現在の平河町付近の貝塚にあった真言宗の光明寺を、浄土宗の八世西譽聖聡上人が改宗して増上寺と改め開創し、文明2年(1470年)増上寺三世の音譽聖観上人の代に、後土御門天皇の勅願所となった。そして天正18年(1590年)徳川家康が江戸入りしたとき、菩提寺として20万坪の寄進を受けて芝の現在地に移し、十二世の存応上人が紫衣と永代常紫衣の論旨を賜ったといわれている。また江戸時代は浄土宗の学問所である関東十八壇林の筆頭になっていた。
現在の上野公園が18万坪というから、20万坪という当時の寺域はその広大さが想像されよう。現在の東京タワーあたりから浜松町駅付近までが寺域であったのである。ところが、昭和20年(1945年)の戦災に遭って、一部を除いてすべてを焼失してしまった。
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廃仏毀釈の嵐のなかで
増上寺は、江戸時代には二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の将軍・夫人・子女たちが葬られている。また徳川家の庇護のもとに栄えて子院が50を超え、学僧が3千人もいたという。寺領もはじめは千石であったが、のちに1万石を超えた。他に蔵米4千俵ももらっていたというから、経済的にはかなり余裕があったと思われる。
秀忠こと台徳院の廟所は、本堂南にあった元芝ゴルフ練習場にあって、二千坪を超す広さをもっていたようだ。そばに五重塔が建ち、参道入り口には極彩色の惣門があった。また将軍家宣・家継らの廟所は、ほとんどが東京プリンスホテルとその前面の駐車場にあった。家継こと有章院の場所の参道入り口には、広目天と多聞天が祀られている二天門が建っていた。当時の写真を見ると、それら廟所の外観は 日光東照宮 のようにきらびやかで、屋内は石や青銅の宝塔を中心に奉安され、 中尊寺の金色堂 のようにまばゆいくらいであった。とりわけ台徳院の廟所が豪華であったという。
増上寺の境内にはこのような建物が大小七十もあり、江戸第一の名所としていつも参話者で賑わっていたそうだ。
明治維新の前後は混乱の時代で、大きな社会変革をもたらした。新政府は宗教界に対して神仏分離法を出し、「祭政一致」と「神仏分離」 を旗印として、神社にいた僧侶に蓄髪させ、仏像を神社から追い払った。日本全国で予想外の廃仏毀釈の暴挙が頻発し、寺は至るところで廃寺に追い込まれたり、打撃を受けたりした。江戸三十三観音札所のなかでも、特に徳川家と緊密な関係にあった傳通院、護国寺、金地院、そしてこの増上寺などがその最たるものであった。増上寺の境内の一部が芝公園になったのもこのときである。
再建された徳川将軍家霊廟
ようやく世の中が治まって神仏が崇拝されるようになったが、第二次世界大戦の末期になると、残念なことに昭和20年(1945年)5月の空襲によって、三門、御成門、惣門、二天門を残し、すべて灰燼に帰してしまった。観音さまは、その地獄絵をどんな想いで間近に目撃されたのであろうか。お身体に傷は負わなかったのであろうか。御詠歌にあるように、参詣する人々の現世安穏・後生極楽という願いを聞き届けてくださる。まことに有り難い西向きの観音さまである。
昭和27年(1952年)に仮本堂が再建され、昭和33年(1958年)にはその裏手およそ300坪の土地に、8基の将軍と夫人たちの宝塔が徳川家霊廟としてまとめられた。この徳川家霊廟は有料での拝観ができる。私は桜が満開の一日と、バスツアーでの参詣のとき拝観する機会にめぐまれた。
奥の右手に秀忠の石の宝塔、左手に家宣の青銅の宝塔があり、それぞれの側に三基の宝塔が居流れるように立っている。空襲前とは比較にならないくらいに縮小されている。
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三解脱門(三門)
増上寺の表の顔として、東京都内有数の古い建造物であり東日本最大級を誇るこの門は、当山の中門にあたり(表門は大門)、正式名称を三解脱門といいます。
煩悩から解脱した覚りを開くための三種の修行「空門」「無相門」「無願門」の三門を三解脱門といい、またこれを通称「三門」ともいいます。
慶長16年(1611年)徳川幕府の助成により、幕府大工頭・中井正清とその配下により建立。元和7年(1621年)大風により倒壊するも、元和8年(1622年)に再建。増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されています。
建築様式は三戸二階二重門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、美しさを見せています。二階内部(非公開)には、 釈迦三尊像と十六羅漢像 が安置されています。この門をくぐると、念仏を称えて阿弥陀様と親しく近しい縁を結び、「むさぼり、いかり、おろかさ」といった煩悩から解脱した安らぎの世界「極楽浄土」への往生を願う空間が広がっています。



グラント松
米国第18代大統領グラント将軍は明治12年(1879年)7月国賓として日本を訪れ、増上寺に参詣し記念としてこの樹を植えました。


鐘楼堂(しょうろうどう)
寛永10年(1633年)の建立ですが、現在の鐘楼堂ほ戦後に再建されたものです。鐘楼堂に収められている大梵鐘は、延宝元年(1673年)にあまりの大きさに7回の鋳造を経て完成し(東日本で最大級)、江戸三大名鐘の1つに数えられています。
朝と夕べ、2回撞く鐘の音は、時を告げるだけではなく、人を惑わす108の煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと導く6度の誘いでもあります。
江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草( 浅草寺 )か」「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」「西国の果てまで響く芝の鐘」等と謳われ、庶民に親しまれました。




















木造阿弥陀如来坐像(本尊)
寄木造、金箔押、漆箔で阿弥陀定印を結んでいます。室町時代の作とされ、江戸期には華頂宮門跡・尊超法親王の念持仏であったものを明治42年(1909年)、旧大殿が火災に遭った折り、当時の総本山知恩院門跡山下現有猊下から寄贈されました。









石像の珍しい西向き観音さま
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この石造りの札所本尊は、北条時頼が諸国回遊のとき、すぐ近くにある丸山古墳群(建立されたのは現在東京タワーが建っているところとする説も)の上に西向きに祀ったという。
当時は、古墳群の北に池などあって風雅な憩いの場所でもあり、辻堂に出家者が住んでいて街道を行く人々にお茶の接待をし、道中安全、子育て開運の信仰を集めていたそうだ。昭和50年に浄土宗開宗800年を記念してお堂をこしらえ、いまの場所に移されたのである。














圓光大師堂
元祖法然上人800年御忌を記念し、総本山知恩院門跡第八十六世 中村康隆猊下と増上寺第八十七世法主 成田有恒台下との尊い結縁が実を結び、平成18年(2006年)11月25日、知恩院より法然上人御廟の御浄砂を拝領しました。
御浄砂を成田台下は「御身柄」と命名、この法縁を承け奉安する御堂の建立を発願し「圓光大師堂」として平成21年(2009年)9月に竣工しました。
御身柄は内陣奥の特別な厨子に経筒型の五輪塔に納められ奉安されています。
建築様式は木造平屋建、妻入入母屋造、軒唐破風付吹放し向拝の意匠を施した和様の伝統建築であり、身体と心を養う念仏道場として開放しています。













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