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と、ため息をおつきになって、
「あなたさまが六条院をお離れになれば、心底から私を嫌ってお見捨てになったのだと、
きまり悪くも辛くもなりましょう。私を可哀そうだと思ってください」
「出家した者にとっては、物のあわれも人情も関係のないことだと聞いております。
まして私はもとより情趣など知らぬ者でございますれば、お返事のしようもございませぬ」
とお返事なさいます。
「それはあんまりな仰せですな。男女の仲については、よくご存知でいらっしゃるはずですのに」
とだけ言いさして、若君をご覧になります。
おん乳母たちは身分も高く、姿形のきれいな者だけをお召し出でになり、
心構えなどをお話しになります。
「哀れだね。余命少ない私なのに、この子はこれから大きくなっていくのだから」
と、お抱きとりになります。
若君は色白でまるまると肥えて、可愛らしく無邪気ににっこり笑います。
大将の幼いころをほのかにお思い出しになっても、似ていらっしゃらないのです。
女御の宮たちが似ていらっしゃらないのは、
父・帝のおん血筋を引いて皇族風に気高くこそおわしますが、
図抜けてにこやかでもご立派でもいらっしゃいません。
しかしこの君はたいそう上品な上に可愛らしさが添い、目もとがいきいきとして、
いつもにこにこしている点などをたいそう可愛らしくお思いになります。
でも気のせいでしょうか、やはり衛門督によく似ているように思われるのでした。
まだ幼子でありながら、まなざしにゆったりとした落ち着きがあり、
こちらが恥ずかしいほどの表情が世の常ならず、うつくしさが薫り立つようなお顔立ちです。
尼宮は、若君が父親似である事にお気づきではなく、
女房たちはまたさらに事情を知りませんので、
大殿はお心内で『子の顔を知らずに先立つとは、人の世ははかないものだ』
とご覧になるにつけても世の定めなさをお思い続けられて、
しぜんに涙がほろほろとこぼれるのです。
「今日は祝いの日ですから、不吉な涙は慎まねばなりませんね」
と隠れて押し拭い、
「静かに思いて 嘆くに堪えたり
( 静かに考えてみると、子供の誕生は喜ぶに十分であり、嘆くにも充分であった)」
と、誦じなさいます。これは白楽天が五十八歳の時の歌ですが、
これより十歳若い御年でいらっしゃいますのに、
すっかり年老いた心地がなすってひどく物悲しくお思いになります。
されば『おまえの父の短命に似るな』と、若君を諫めたくお思いだったでしょうか。