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ジャズを好きになったのは、以前にも書いたけれど、社会人になってから。最初は、何から聴けばいいのか分からなかったから、よく「スイング・ジャーナル」の別冊「モダン・ジャズ名盤カタログ」なんかを参考にしながら、いわゆる定番ものを、聴きかじっていった。僕はピアノが好きだったので、ピアノトリオものが多かった。 サックスは、ソニー・ロリンズやジョン・コルトレーンは聴いたが、オーネット・コールマンのようなフリー・ジャズにまでなると、もう付いていけなかった。トランペットの入るジャズは、残念ながらあまり縁がなく、いまだにマイルスのレコードは、ごくわずかしか持っていない。ヴォーカルものは、最近はよく聴いている。 ピアノトリオは実にいろいろ聴いた。出逢いだったビル・エバンスに始まり、オスカー・ピーターソン、レッド・ガーランド、ソニー・クラーク、ウイントン・ケリー、バド・パウエル、マッコイ・タイナー、セロニアス・モンク、デューク・ジョーダン、ケニー・ドリュー、チック・コリア、キース・ジャレット…、名盤といわれるアルバムはおそらく、ほとんど聴いただろう。 最近だと、昔のエバンスを彷彿(ほうふつ)させるブラッド・メルドーとかが比較的お気に入り。でも、「で、だれが一番好きなの?」と聴かれたら、やはりエバンスになる。エバンスとの出逢いがなければ、僕がジャズピアノを始めなかったのは間違いない。 エバンスの魅力は、一言で言って、うっとりするようなリリシズム。どんな曲を弾いても、底には彼独特の繊細で、リリカルな香りが漂う。「My Romance」「My Foolish Heart」「Alice In Wonderland」など、ミディアムからスローなバラードにとくに、彼のリリシズムの真骨頂が発揮されるように思う。 ジャズがもともと、黒人たちの音楽から発展してきたということもあるが、ジャズ・ピアニストには、なぜか昔から白人が少なかった。だから、1950年代末、エバンスが彗星のように現れたとき、白人であるエバンスのピアノを、ジャズとは認めない黒人ミュージシャンも、現実にはいた。彼がわずか1年でマイルスのバンドを離れたのは、この「逆差別」が大きな理由だったと、読んだことがある。 「白人にジャズの魂が分かるはずがない」。長年、白人に虐げられてきた黒人たちにとって、そんな思いがあっただろう。だが、エバンスは彼の創り出す音楽で結果を出し、その存在を認めさせた。マイルスは終生、エバンスに好意を持ち続けたという。そして今では、現役ジャズ・ミュージシャンは人種を問わず、彼に敬意を払う。エバンスがいたからこそ、逆に黒人と白人の融合・和解も進んだとは考えすぎか。いや、僕はそう信じたい。 今やジャズに人種は関係ない。ピーターソンも、キースも、白人のメルドーも、そして日本人の小曽根真や松永貴志も、聴くときに(少なくとも僕は)人種を意識することはない。純粋に、音楽そのものが心を揺さぶるかどうか、だけ。いい音楽には、国境も国籍も人種もない。 エバンスはその後、元妻や兄の自殺などの不幸もあって、麻薬に溺れていく。蝕まれた体にムチ打ち、演奏活動は続けていったが、1980年9月15日、ライブ中に倒れて、そのまま息を引き取った。死因は、出血性胃潰瘍と肺炎だったという。まだ51歳の若さだった。生きていれば、今年76歳。彼の音楽はどんな変化を遂げていったのか、ぜひ聴いてみたかった。 彼のオフィシャル・アルバムはほとんどを聴いたが、僕が好きなベスト3は、最初の出逢いとなった「Waltz For Debby」は「別格」として、(1)初期の名作「Portrait In Jazz」(1959年)=写真左上(2)晩年の名作「You Must Believe In Spring」(1977年)=写真右上(3)ソロ作品の「Alone」(1968年)=写真左下 (1)は「Waltz…」と同じトリオで、59年にスタジオ録音された名盤。「枯葉」や「Someday My Prince Will Come」の演奏が素晴らしい(初期のアルバムでは、62年の「Moonbeams」=写真右下=も捨てがたいが…)。(2)は甘美な曲ぞろいの隠れた名盤。深夜に聴くと、心がとろけてしまいそうになる。(3)は味わいあるソロピアノでのアルバム。「Here's That Rainy Day」という美しい名曲が収められている。いずれも、これからジャズを、エバンスを聴こうという方は、おすすめのアルバムです。【追記】きょう(28日)でページ開設3カ月。いつも訪れてくださる優しい皆さんに、心から感謝の言葉を捧げます。今後ともよろしくご贔屓に!
2005/02/28
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そのBARは、ツタのからまる一軒家だった。しかも、銀座の一軒家だ!重厚なドアは、一見客を拒絶するかのような、威厳と迫力に満ちている。昔は、会員制で、一般客は入れなかった。しかし今から7、8年前、その「禁」を解き、受け入れるようになったという。 そのBARの名は、「BORDEAUX」(ボルドー)。昭和2年(1927年)の開業。銀座で最古のBAR。禁が解かれたおかげで、僕にも、BORDEAUXでお酒が飲める機会がやってきた。しかし最初は、一人でドアを開ける勇気はなく、以前に訪れたことのある、東京在住の僕の友人が同行してくれた。 一軒家のBARの中は意外と広く、中央部が2階までが吹き抜けになっていた(写真左は、2階から見下ろした1階カウンター辺り)。1階にはスタンディングのカウンターとテーブル席。2階はテーブル席だけ。贅を尽くした内装は、ほぼ開業当時のまま。椅子も机も柱も、磨き抜かれ、輝きを放っている。 店内の公衆電話は、おそらくは何代目かだろうが、それでもいまだに黒いダイヤル式だ。従業員の女性には、戦前のカフェの女給さん(?)のような服装をしてる方がいたりして、ここにいると、まるで、昭和初めにタイムスリップしたような錯覚に陥る(写真右は、1階店内にある暖炉と、その前にあるテーブル席)。 BORDEAUXは、ただ歴史が古いだけではない。歴史を彩る客が、このBARを愛した。戦前、海軍省が築地にあったこともあって、ここを、旧海軍の将官が数多く訪れた。そのなかには、のちの連合艦隊司令長官・山本五十六や、海軍大臣・米内光政といった海軍の重臣もいた。 彼らはよく2人連れで訪れ、2階の奥、隅っこにあるテーブル席の「指定席」(写真左)で、ウイスキーを飲みながら、よく密談していたという。店の方にお願いして、その愛用した「指定席」を見せてもらった。何の変哲もない椅子だが、昭和史を見つめた「証人」でもある。 新参者の僕は、BORDEAUXでは、いつもカウンターで過ごす。そしていつも、あの2階のテーブル席で、山本と米内が日米開戦すべきか否かの議論をたたかわせた姿(山本は開戦に反対だった)を思い浮かべながら、1、2杯飲んで、さっと引き揚げる。心地よい余韻をいっぱいもらって…。 この老舗酒場には、銀座の歴史が詰まった贅沢な時間と空間がある。「BORDEAUXを見ずして、日本のBARの歴史を語るなかれ」と言っても、決して言い過ぎではないだろう。皆さんも、もし機会があれば勇気を出して、その重いドアを押してほしい。【BORDEAUX】東京都中央区銀座8丁目10-7 電話03-3571-0381 JR新橋駅から徒歩約5分。料金は、はっきり言って少々お高めです。目安は、スタンディングのカウンター席だと、2杯で4千円~5千円くらい。テーブル席だと2杯で6千円~7千円くらいは覚悟を。【追記2017年1月】大変残念で慚愧に堪えませんが、「BORDEAUX」は2016年12月22日、90年近い歴史に幕を閉じ、建物は取り壊されてしまいました。この歴史的重要文化財のような貴重な店を保存できなかった日本のバー文化の薄っぺらさ、そして東京都の文化行政の貧困を、私は永遠に恨みます。
2005/02/26
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◆2月19日(土)&20日(日) 小樽&函館 北海道2日目、19日の朝、小樽はほぼ快晴。でも、気温は零下2~3度。「蔵群」をチェックアウトした僕らはとりあえず、小樽へ。そして、小樽で最も人気の観光スポット、運河沿いの倉庫群の辺りまで歩く。駅からは歩いて20分余。雪道は滑りやすい。「でも、今回はまだ一度も滑ってないね」と連れ合いに言っていたら、途中でステン!と初めて転んだ。幸い、軽い打ち身で済む。 小樽では2月11日から20日まで、「雪あかりの路」というイベントが市内で開催されている。運河へ向かう道中のあちこちにも、小さいかまくらのような雪の器が、昨夜燃えたキャンドルを抱いている。花びらを入れて凍らせた氷の彫刻のような器もあって、可愛い。当たり前だけれど、零下の気温だから全然溶けることはない。 実際に見た運河沿いの倉庫群は、想像していたよりは小規模で、ちょっとがっかり。でも、倉庫群の周辺は、市が歴史的景観保存地区に指定しているためか、明治から昭和初期のビル建築がたくさん残り、とてもいい雰囲気を漂わせている(写真左)。 そして、次なるお目当ては買い物。小樽と言えば、ガラス工芸が有名。運河周辺にも、ガラス工芸のお店が目立つ。全国にその名を知られる「北一(きたいち)硝子」という会社もここにある。僕らはその「北一硝子」製品の直営店へ。連れ合いは、母親に頼まれたイヤリングをあれこれ物色している。僕は、カクテルグラスやロックグラスでいいのはないかと見たけれど、残念ながら気に入ったものに出合わず、断念。 話はちょっとそれるが、小樽には、韓国や台湾からのツアー客が目立った。あちらの国では今、北海道旅行ブームなんだそうな。それはそうと、昨晩の蔵群に外国人家族2組が泊まっていたが、そのうちの一組はなんと、カンタス航空の社長の家族だった(なんと女性社長!)。 もう一組の家族のお父さんが酔っぱらって、ライブラリーにいた僕らに話しかけてきたので、聞いてみると、「ニセコにリゾート施設をつくる」という。「オーストラリアと時差のない日本の北海道は、冬のスキーレジャーで今、とても注目されている」とも。北海道に、オーストラリア人観光客があふれる日も近い? お昼は「小樽の寿司屋で」という当初の計画通り、僕らは寿司屋が軒を連ねる、有名な「寿司屋通り」へ。どこで食べるかは、4軒ほど候補を考えていたが、実際に店の前に行って、お値段とか雰囲気とかを検討した末、「おたる大和家」という店に入る。店では、おまかせコースを頼む。ボタンエビ、ウニ、イクラ、ホッキ貝、アワビなど、12カンに、アラの吸い物が付いて3900円也(安い!)。 ふと壁の張り紙をみると、「鮭児あります」の文字。鮭児(けいじ)とは、その名の通り、子どもの鮭(生後3~4年以内)で、子どもなので筋子や白子はないが、脂肪の割合が20%と、超脂の乗った幻の鮭(普通の鮭の脂肪はは2~15%とか)。知床~網走沖で、1万匹に1匹くらいしか捕れず、浜値でもキロ3万円前後はざらという。 僕はおそるおそる「にぎりでいくら?」と聞くと、1皿2カンで1400円とのお答え。もっと高いと覚悟していたら、意外と手の届くお値段。さっそく「1人前、別にお願い」と頼む。味は、大トロを上回る脂のノリ。しかし、大味ではなく肉質はなめらか。 「幻の鮭」も味わって北の海の幸を堪能した僕らは、小樽を後にして、いよいよ函館へ。函館までは札幌から、「スーパー北斗」という特急で約3時間。途中の駅に、苫小牧→登別→室蘭→洞爺→長万部…と昔、学校で習った地名が次々と出てくる。道南の地理にも詳しくなったような気分。室蘭でポイントが凍結して動かなくなるハプニングもあり、列車は20分遅れて午後7時近く、函館着。すぐにタクシーで宿へ。 2日目の宿は函館駅から車で10数分の湯の川温泉にある「わか松」という旅館。1日目の蔵群とは違って、ここは純日本風(JTBの人の薦めもあって決めた)。津軽海峡に面した全室オーシャン・ビュー。ところが、函館に着いたころから、なぜか天気がおかしくなってきた。雪は雨に変わり、風もビュー、ビューと、音を立てて吹き荒れてきた。 夕食の後、最も人気の観光スポット、函館山からの夜景を楽しもうと計画していたのが、「お客さん、今夜は(山頂への)ロープーウエー、運休ですよ」と、仲居さんから冷酷な一言。ついてないけど、天気ばかりはどうしようもない(晴れていればこんな夜景=写真右上=が見られたはずが…トホホ)。そんなわけで、2日目の夜も夕食後は温泉&お酒三昧。ただし、蔵群のようにバーはないので、部屋でテレビを見ながら、ビールやウイスキーを飲んで憂さ晴らし。そうこうしているうちに、外は台風並みの暴風雨に。 3日目。朝起きると、風雨は少しおさまったが、天候はまだ雨まじりで不安定。部屋での朝食時、仲居さんは「きょう飛行機、欠航するかもしれませんね」と冗談とも本気ともつかぬ一言。でも、旅館に居残るわけにもいかず、覚悟を決めてチェックアウト。 まず、港町・函館の面影を今に伝えるウォーターフロント地区へ。昔のレンガ造りの、倉庫群を改造した特産品ショップで少し買い物。その後、函館と言えば誰もが行く、もう一つの観光スポット、「五稜郭」へ。タクシーは使わず、市民の足である市電で行く。路面電車が走る街では、僕はできるだけそれを利用する。ゆっくりとしたスピードで、街の風景を見ながら、乗客の話す方言を聞きながら、旅をするのが一番好きだ。 五稜郭は明治元年、官軍と幕府軍が相対した箱館(昔は函館ではなかった)戦争の舞台。新選組副長の土方歳三は、最期まで幕府側であることを貫き、この地で戦死した。訪れた五稜郭は雪に埋もれた状態。もっとも、かつて五稜郭内(城内)にあった幕府の箱館奉行所などは、箱館戦争の後、すべて取り壊されてしまったので、地上には今は何もない。(そばにいた観光客も「五稜郭は、空から見るしかないなぁ」と皮肉っぽく言う)。 もともと目に見える部分が少ない五稜郭だが、せっかく来たんだから、中に入りたいと思うのが人情。でも、城内へつながる道は雪で埋もれて見えないうえ、昨晩からの雨でシャーベット状。これでは歩けない。観光が重要な産業でもある函館なのに、何の整備もしていない。せめて城内に通じる道くらい除雪するサービスがほしい。 そんな不満をぶつぶつ口にしながら、五稜郭近くにある函館ラーメン(塩ラーメンで有名)の人気店、「あじさい」で昼飯(塩ラーメン=600円)。そして五稜郭を後にし、函館駅のすぐそばにある観光スポットの「朝市」へ戻る(着いた時はもう昼すぎだったので「昼市」か)。 朝市では、誰もがそうするように海の幸のお土産を買う(もちろん宅配便OK)。関西人の連れ合いはシビアで、若い兄ちゃん相手に、値切る、値切る。ボタンエビ(写真左)、タラバ(それも足が折れたり、1本欠けたりした値段の安いもん)を買うと言って、値切る。値切ったうえに、イクラの醤油漬をおまけに付けさせる。関西人のド迫力に根負けして、お店の兄ちゃんは「もう参った、その値段でいいよ」と交渉成立! さて、買い物も済んで函館もさらばと思いきや、まだ1時間余裕有りということで、朝市すぐ近く、「はこだてビール館」で「地ビール4種飲み比べセット」(1260円)を味わってから空港へ。僕らが乗る便は、午後4時半発。空港には、最後のお土産を買おうと1時間前には着いたが、その頃には、天気は回復して晴れ間も出てきた(僕の普段の行いがよかったのかなぁ…)。 函館発関空行きのANA便は、そんなこんなで心配もしたけれど、無事飛び立って、何とか、20日のうちに我が家へたどりつけました。 以上で「旅日記」はおしまい。長々とお付き合い有難うございました!
2005/02/24
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お待たせいたしました。北海道2泊3日の旅の報告です。何から書こうかと考えた末、分かりやすいように、時系列で書き進んでいくことにしました(本日「上」と24日「下」の2回に分けます)。◆2月18日(金) 余市&小樽 午前9時半伊丹発、同11時15分、新千歳空港着。気温は零下10度。伊丹出発時は摂氏7、8度くらいだったので、思わず、「やはり北海道は寒い」とつぶやく。すぐにJR新千歳駅から、快速エアポート号に乗る。空港も駅も、近代的で美しい。何よりも飛行機を降りて、歩いて10分弱で列車に乗り継ぎができるのが嬉しい。 約30分で札幌着。そこで「ニセコ・スーパーエキスプレス」という特急に乗り換え、いざ余市へ。余市は普段は各停か快速しか停まらないらしいが、スキー・シーズンだけは、特急も停まるようだ。しかし車両内には、僕らも含めて乗客は5、6人ほど(なぜ?)。 札幌は晴れだったが、列車が石狩湾沿いに差しかかると雲が多くなり、吹雪に変わった。車両はまさに海のそばを走る。北の海が足元まで迫ってくるようで、絶景だ。 ◇ 午後1時半、余市着。まずは腹ごしらえ。あるバーテンダーの方に教えてもらった、「海鮮丼」で有名な駅前の「かきざき」へ。ここは海鮮市場の2階にあり、魚屋さん直営なので、安くて、新鮮で、旨い。店内は200人近くは座れる大衆食堂のような感じ。僕は貝3種(ホッキ、ツブ、ミル)の「磯丼」(900円)を、連れ合いは、「ウニ丼」(1700円)を頼んでシェアしたが、素材の自然な旨さが生きている味! 他の客は、丼以外にもホッケの一夜干し(なんと190円という値段!)や、イカの姿焼き(これも250円!)なども頼んでる。僕らもつられて注文しそうになったが、「いかん、いかん。夜のご馳走にたたる」とあきらめる。 ニッカ余市蒸留所(写真下)は、駅から歩いてわずか3分という近さ。雪は多いところでは、1mくらい積もっているが、歩道などはある程度除雪しているので、30~40cmという感じ。気温はなぜか札幌よりは若干暖かくて、零下4~5度。 抱いていた余市蒸留所のイメージは、人里離れた山の中に、静かにひっそりと、というものだったが、実際は、余市の街と隣り合わせにある。雪で埋もれていたので、構内の広さがあまり実感できなかったが、意外とこじんまりした印象。 ウイスキー博物館、旧竹鶴邸、貯蔵庫、蒸留棟など主なスポットの見学もそこそこに、お目当てのお土産を買う。蒸留所のお土産コーナーは、ゲストハウスと、ウイスキー博物館内の2カ所に分かれているが、蒸留所限定の原酒販売は、なぜか博物館内の売店だけ。 瓶入りの原酒は5年物、10年物と5年刻みで、25年物まで5種(大きさは大=500mlと、小=180mlの2種)。他に、「ピーティー&ソルティ」とか、「スイート&メロウ」とか、個性別の原酒4種も販売されていたが、買おうと思っていた、「未貯蔵原酒」の瓶(以前、現物を味わったことがある)は、なぜか売っていなかった。残念! 僕は、友人やバーテンダーらへの土産にと原酒の小瓶(180ml入り)をたくさん買った。持ち歩くわけにはいかないので、宅配便での発送を頼むと、発送手続きは、「(徒歩で1、2分離れた)ゲストハウスでしかやっていない」と言う。 「こんなにたくさんの重い瓶を持って、この雪の中、ゲストハウスまで、(客に)持っていけというの?」と嫌みを言うと、「なんなら私がお持ちしますが」と高齢の従業員。どうみても僕より年上なので、「あなたに運ばせるくらいなら、自分で行くよ」と言って、雪道を歩き、運んだ。 なぜ博物館の売店のところで、配送手続きをできるようにしないのか、まったく理解できない。関西じゃ考えられないようなサービス不足、商売っ気のなさに唖然としたが、無料の試飲や、非常にお安く飲めるバー・コーナーで、いい気持ちになって怒りもだいぶおさまり、蒸留所を後にした。 ◇ 余市滞在は、実質約2時間半ほど、再びJRに乗り、小樽へ戻る。小樽でさらに各停に乗り換えて、2駅。午後5時すぎ、「小樽築港」という駅で、今夜泊まる宿の送迎マイクロバスと落ち合った。 宿は「蔵群」(くらむれ)という名前。小樽の市街地からは車で20分余の、朝里川(あさりがわ)温泉というところにある。02年の春にオープンした新しい宿だが、木と石と鉄とコンクリートを巧みに使い、「和とモダン」が調和した、とてもおしゃれな空間。ある女性誌では、「予約がとりにくい人気の宿」の一つとして紹介されていたというが、僕らは1カ月ほど前の電話1本で、運良く予約ができた。 小樽の倉庫群を模したダークグレーの外観(写真右は玄関)は、看板一つかかっておらず、まさに隠れ宿という感じ。部屋数19室とキャパは小さいが、一つひとつの客室が3~4部屋をもつ贅沢なつくりで、温泉風呂も各部屋に完備している(もちろん露天風呂付きの大浴場も)。 室内や館内には、オーナーが各地から集めたアンティーク家具や、アート作品が数多く置かれており、雪に埋もれた周囲の雰囲気と相まって、最高の非日常的空間だった。 何よりも嬉しかったのが料金。一人1泊2食付きで32000円~36000円(税・サービス込み)は、一見かなりお高い感じもする。だが、料金は館内での飲食などすべてが込みになっている。すなわち喫茶のコーヒー類はもちろん、夕食時の酒も、館内にある本格的なバーでの酒も、すべて飲み放題。メニューも豊富。酒飲みには涙もののシステムで、たくさん飲む人には本当にお得な宿だ(逆に、飲めない人には損なお宿か?)。 「夕食(和洋折衷の創作料理)の後は、小樽の夜の街へ繰り出そうか」と連れ合いと話していたが、雪模様の天気と、この館内飲み放題のシステムに負けて、外出はとりやめ。(宿の近くの川沿いで、「ゆきあかりの路」というイベントをしていたので少しだけ見に行った。夜空から降ってくる雪が、結晶の形のまま落ちてくるのを見て、感動!)。 そんなわけで夕食後、温泉に入った後は、ただひたすら、バーのすぐ前のライブラリー(バーの酒持ち込み可!)で、オーナーのコレクションであるLPレコード(ロックが中心、自由にかけてOK)を楽しみながら、カクテルやウイスキーや焼酎を飲みまくり、夜は更けていったのでした。 (以下、「24日の日記」へ続く)
2005/02/22
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2泊3日の旅から先ほど(午後8時半ごろ)帰ってきました。どこへ行ってきたかと言えば、北海道の余市&小樽&函館です。いちおう、連れ合いと一緒の二人旅でした。 札幌には行ったことのある僕ですが、余市(もちろんニッカの余市蒸留所訪問が目的)も、小樽も函館も初めてなので、毎日がとても新鮮でありました。 食い物も、カニ、ボタンエビ、ウニ…と、この季節、やはり美味しかった。飽食の3日間で、きっと太ったと思う(体重計に乗るのがちょっと怖い)。 でも、北海道って広いので、上記の移動は、結構強行軍で大変でした。(距離を考えず、計画を立てたのが失敗だったかも)。おまけに北海道は、昨日の夜から各地で暴風雪警報なんかが出ていて、ひどい大荒れの天気。 3日目は函館から帰って来たのですが、小樽での雪は函館では雨に変わりました。午前中はなお風雨が強く、市中観光もそこそこで、切り上げました。 宿の人は「きょうは欠航するかもしれませんねぇ」なんて脅かしていましたが、幸い、午後から晴れてきて無事、ジェット機は飛びました。でも、伊丹着の便ではなく関空着だったので、そこから家までがまた遠かった…。 詳しい、細かい話をもっと書きたいんですが、ごめんなさい。強行軍の疲れもあって、きょうはちょっと頭が働きませーん。次回22日の日記で、詳しくご報告いたします。 きょうは早めに寝ます。おやすみなさい。
2005/02/20
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「Master of Heavy Metal Funk」の異名を持つ当代きってのスーパー・ベーシスト、と言われても、正直言って、私も最初はピンと来なかった。普段よく聴く音楽ジャンルの人でもなかった。それが、ひょんなことで出逢うことに。 T.M.スティーブンス(Stevens)。ニューヨーク出身。1951年7月生まれだから、今年誕生日が来れば、54歳!になるが、(本人に会った私の印象では)、まったく、そんな歳に見えない。せいぜい40歳前後っていう感じ。 徳島で仕事をしていた頃、私が一番よく出入りしていた洋琴堂(ようきんどう)というピアノBARがあった。猫好きのオーナーのせいか、いつも店内には人なつっこい猫がいた。ピアノ好き、猫好きの私としては、好きにならないはずのない場所だった。 洋琴堂では、いろんなジャンルの音楽好き、楽器好きの人が夜な夜な集まってきた。ジャズ、ロック、ポップス、ラテン、シャンソン、歌謡曲…。店にはピアノ、ウッドベース、エレキベース、ドラム、ギターなどが常備されていたが、「マイ楽器」を持ち込む人も多かった。 毎夜のように、見知らぬもの同士のセッションが自然と始まった。私がそのうちの一人に、仲間入りさせてもらうのに、さほど時間はかからなかった。 そんなある夜、私がちょうど友人らの前で、ビリー・ジョエルの「New York State of Mind」を弾き語りしている時だった。T.M.が、突然やってきた。美しい日本人女性とともに…。 オーナーは以前から、T.M.と知り合いだったようだ。私はもちろん初対面。がっしりした体。身長約185cmの大きな黒人男性。しかも、ただものではないという雰囲気を漂わせている。 演奏を中断しようとした私に、T.M.は「Com'on, keep on playing!」と言って続けさせた。外国人の前で、英語でビリー・ジョエルを歌うなんて。なんと大胆な、恥知らずな…と思うと、私は顔が真っ赤になってきた。 そんな初めての出逢いから、私はT.M.とすぐうち解けた。とにかく彼の素晴らしさは、「フレンドリー」ということ。一緒に店を訪れた日本人女性は、実は奥さんのTaka(タカ)さんだった(写真右上は、T.M.とTakaさん。T.M.の向かって左隣に私に写っているが、お見苦しいのでカット)。 Takaさんは地元・徳島の鳴門の出身。里帰りの機会には、「(T.M.は)トクシマが好きだから、いつも付いてくる」と話していた(「阿波踊りも大好き」とか!)。 T.M.は徳島へは、毎年のように奥さんに付いて帰ってきているようで、その後も、何度か(主に洋琴堂であることが多かったが)再会した。そしてしばしば、店のエレキ・ベースを手にして、オーナーのピアノの伴奏をして遊んだり、時には、その神業のようなチョッパー・ベースを聴かせてくれたりした。 数年前には突然、僕の携帯にTakaさんから電話があった。「あすの夜、大阪でT.M.がライブするんだけど、バック・ステージに遊びに来ないか」という、とても嬉しいお誘いだった。その時は残念ながら、先約があったため行けなかったが、徳島を離れた後も、忘れないでいてくれてることに、心から感激した。 ステーブ・ヴァイ、マイルス・デイビス、ジェームス・ブラウンら、有名アーチストのバックをつとめることが多かったT.M.だが、最近は、リーダー・アーチストとしての活動もめざましい(なんと2001年には俳優として映画出演まで!)。 彼の音楽には、ジャズ、ブルース、メタル、ロック、ファンクなどすべての要素が詰まっている(アルバムでは、歌も歌ってますが、これが結構うまい!)。機会があれば、ぜひ貴方もT.M.のCDを聴いて、脳天に一撃をくらってほしい。【追記】大変残念な事実ですが、T.M.は2017年頃から認知症を患い、ナーシングホームに入院中であることが明かされました(なので現在は目立った活動はありません)。Takaさんともその後離婚したとのこと(出典:Wikipedia英語版&日本語版)。
2005/02/16
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先日、新聞を読んでいて、「方言の良さを見直そう」という特集に目が止まった。「お国言葉を守ろう」という運動も、各地で芽生え始めているらしい。そんな記事を読んでいたら、ふと脳裏に、かつて住んだ金沢で聞いた、 懐かしい言葉がよみがえってきた。「食べまっし(食べなさいね)」「あんやとね(ありがとうね)」「ゆーたがいや(言ったじゃないか)」……。 最近は、メジャーな映画でもセリフを方言にこだわった映画が増えてきているが、私は大賛成だ。コミュニケーションには共通語は大事だが、ふだん話言葉まで、標準語である必要はない。言葉はその地方の文化だ。その地域で、長年育ってきた人々の歴史であり、命のようなものだ。どこへ行っても標準語だったら、まったく味気ないではないか。 私は社会人になって初めて地元(実家)を離れ、北陸の金沢(写真左は、金沢のシンボル、兼六園)で一人暮らしを始めた。金沢は、ご存じのように加賀藩前田家・百万石の素敵な城下町だ。戦災(空襲)に遭わなかったおかげで、藩政時代の面影をよくとどめている。 前田の殿様は文化・工芸の振興に熱心で、このため、加賀宝生流の能楽が生まれ、友禅、金箔、蒔絵、九谷焼、輪島塗などという全国に名だたる工芸品も発展した。 金沢弁(加賀弁とも言うが、厳密には違う)が、どういう発展の経過をたどったのかは、言語学者でないので詳しくは知らない。お隣の富山や福井ともちょっと違う。同じ石川県でも、金沢地方と、加賀地方、それに能登地方ではまたかなり違う。能登は海を通じた交流のせいだろうが、山陰地方の方言とかなり似ている部分もある。 イントネーションは関西弁に近い部分もあるが、表現や単語(語彙)に共通するものは、数えるほど。思いつく言葉では「なんなん?」(何なの?)、「~ねんて」(~ですよ)、「いきしな」(行く途中)くらいか(これらは、なぜか関西弁でもまったく同じだ)。 イントネーションが近いのは、おそらくは航空機による行き来がまだ盛んでなかった頃、JR特急「雷鳥」(今は特急「サンダーバード」)による関西圏との経済的な結びつきが強くて、人の行き来が関東圏より関西圏が多かった影響もあるのかもしれない。 金沢弁と言えば、まず「~まっし」(~なさい)という接尾語が有名。「来まっし」「見まっし」「食べまっし」と、日常的に頻繁に耳にする。「~がや(なのです)」「~やぞ、~ぞいや(なのだよ)」「~うまいじ(うまいね)」「~ねーじ?(ないね?)」など語尾に濁音も多いのも特徴。 少し間延びした喋り方も独特だ。例えば、「あのぉ~ん、野村せ~んせ~い、きのお~う、会えんかった~からぁ~」なんて、いらちの大阪人が聞いたら「はよ言わんか」と怒りそう。僕は、若い女性に優しい声で耳元で、こんなしゃべり方されたらもうメロメロだったが…。 日常の単語でも、標準語とは少し違うものがあった。例えば、「きのどくな」=ありがとう、「あたる(あたった」=もらう(もらった)、「がんこな!」=すごいことだね!、「曲がらん」=曲がるよ、「こけ」=きのこ……。 またまったく独特な言い方をするものも。例えば、「な~ん」=いいえ、「あおくさ屋」=八百屋さん、「おかべ」=豆腐、「かいぶし」=煮干し、「おあんさん」=ご主人、「かーか」=お母さん、「にゃーにゃ」=娘さん、「おゆるっしゅ」=じゃぁね、よろしくね、「いじるかしい、いじくるしい」=面倒な、「かたがる」=傾いている、「1題目」=1番目……(もっとも、テレビや学校で標準語に慣れ親しんだ今の若い世代ではあまり使わないかもしれないが…)。 とくに同じ単語でも、使い分けが難しいものがあった。「おいでる」という動詞。とくに電話でのやりとりだと要注意だ。「**さん、おいでるか?」という電話があると、それは、「いらっしゃるか?(在席ですか?)」という意味。しかし、「これからおいでるか?」となると、「(こちらに)お越しになるか?」と聞かれている意味。稀に、「**さん、そちらへおいでるよー」と使う人もいる。こうなると、「(そちらへ)行くよー」という意味。 英語でいう「Be動詞」と「COME」の両方の意味で使い、前後関係で意味が変わる「おいでる」。今となっては懐かしい思い出だが、最初はよく間違って、行き違いの原因にもなった。 笑い話では、僕の経験談ではないが、酒席で相手から「はよ、しねま!」と言われて、険悪な雰囲気になったなんて話も聞いた。これは、金沢弁ではなく、石川県でも加賀地方の言葉らしいが、「早く、しなさいよ」という意味。突然言われた方は、そりゃ怒っただろうなぁ…。 金沢には5年暮らした。僕には第二の故郷…。あの冬の陰鬱な空もよく知っている。「雪国暮らしで、あれだけが、どうしても嫌」と言う人もいたけれど、僕はそれでも、金沢と同じくらい、金沢弁を愛している。
2005/02/14
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先日、南極の氷(写真下)でウイスキーのオン・ザ・ロックを飲んだ際、その氷が奏でた「神秘的な音楽」の話(1月23日の日記ご参照)を書いた。 コメントを寄せてくれた方の中にも、「私も一度経験してみたい」という人がいた。僕も、できればもう一度あの電子音楽のような不思議な調べを聴いてみたいが、あの氷は「大陸の奥地の地中深くから切り出したもの」という話だったので、南極観測隊員に個人的な友だちでもいない限り、無理だろうなぁとあきらめていた。 ところが、先日何の気なしに、Yahooで「南極の氷」と打ち込んで検索したら、なんと「南極の氷を通信販売しています」という業者のサイトがあるではないか! 通販しているところは複数あった。一つは「やまね」(東京都品川区)という会社。ここでは、「1kgの袋詰めの南極の砕氷」を、1350円で売っていた。 普通のパック入りのロック・アイスは、1kg200~250円くらいだから、1350円は結構いいお値段には違いない。でも、何万キロも離れた南極から運ばれてきたことを考えると、僕は、あながち高いとも言えないと考えるけれど、これは味わった人の価値判断だろう。 「やまね」のサイトの説明によると、この氷は、南極大陸上から押し出されて海を漂っている氷(小さな氷山みたいなものか?)を、遠洋のオキアミ漁船が採取し、日本まで運んだもので、証明書付きとのこと。もちろん、「飲食のための検査をし、飲食に適していると許可を受けた製品」とまで、銘打っているので、まず安心か。 探してみるとほかにも、「弥生産業」(三重県四日市市)という会社のサイトでも、南極の氷の通販をしていた。ここでは、200g単位(420円=1kgなら2100円!)から、販売しているけれど、当然割高になる。 このサイトでは、「アラスカ氷河の氷」とか「海洋深層水の氷」なんてものも売っていた。飲み比べてみるのも、面白いだろう。普段はもちろん、こんな高い氷では、もったいなくて飲めないが、パーティーか何かの話題づくりにはいいのかもしれない。 ただ、「南極大陸上の氷が海に押し出された」結果、得られたという話を聞くと、南極の氷が味わえることを、果たして素直に喜んでいいものかどうか。地球温暖化の進行で、南極大陸や北極辺りの氷河の氷がどんどん溶け出し、面積が小さくなっているという話を最近、新聞やテレビでよく見たりする。 それは、僕たち人類の将来への不安材料だ。どうせそんな遠い将来、自分は生きていないからどうでもいいと考えるのは、無責任な考えだ。海水面の上昇で沈むモルジブのような国もあるのに、京都議定書への参加も拒否し、欲望のまま、エネルギーを浪費し続けるアメリカのような国もある。 僕は、無駄なエネルギーの排出はしないライフ・スタイルを貫き、温暖化進行にささやかでも抵抗していきたいと思う。神よ、罰を与えるならアメリカのような国に対してだけ与えてください。
2005/02/12
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昨晩は、早々と会社を抜け出て、アイリッシュ・パブにいた。キタの曽根崎にある「Blarney Stone」(写真左下は、店の入り口)という店。ご想像の通り、W杯サッカー予選・日本対北朝鮮戦を大型テレビで観ながら、ビールを飲み、フィッシュ&チップスをつまもうという魂胆だった。 会社から歩いて10数分、キックオフ30分くらい前に店に着いたので、テレビがよく見える好位置のカウンターに、いい席を見つけた。試合が始まる頃には、かなり広い店内もほぼ満杯(100人近くはいたか?)。外国人客も半分くらい。立ち見も出るほどの状態になったので、早めに会社を出た作戦は成功だった。 それはともかく、日本は辛勝だった。早々とフリーキックで先制したまではよかったが、同点にされてからは、苦しかった。北朝鮮あなどるなかれ、だ。「こりゃ、きょうはドローかなぁ…」と、ほとんどあきらめかけていた時間の決勝点。なんとか「勝ち点3」を拾ったけれど、あれはキーパーのこぼれ球からきたラッキー。これじゃ、次のアウェーのイラン戦が思いやられるね。 店内では、日本の得点シーンで大いに盛り上がったのはもちろんだが、北朝鮮が1点を入れたシーンで、大声出して喜んでいた若い女性の2人連れがいた。常連らしく、同じく常連らしい外国人客とも意気投合していた。2人連れのうちの1人が「彼女(もう一人の連れ)、日本とコリアのハーフやから、うちら、きょうは北朝鮮応援すんねん。同じコリアやしー」と。うん、それも良し。 北朝鮮が点を入れた際、喜んで騒いだ彼女たちを、奇異の目で見る人はいたが、非難する客は一人もいなかった。日本人も、昔に比べたら、確かに大人になっている。政治のごたごたは置いといて、とりあえずスポーツはスポーツで楽しもう。スタンドの日本サポーターのマナーも、実に気持ち良かった。 最後まで、ハラハラさせられた試合展開のおかげで、結局、試合終了まで、そのパブにいてしまった(途中で帰る奴なんかおらんやろ!)。キルケニーを2パイントにハイネケンのハーフまで飲んで、お腹ほもうじゃぶじゃぶ。 よせばいいのに、その後、会社の同僚と試合後の余韻を味わおうと飲みに繰り出した。あー、ほんまに疲れた…(これじゃ、風邪もなかなか治らんよねぇー)。 【おわび】本日は、あんまし中身のない日記になってしまいました。すみませーん。
2005/02/10
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「大阪らしいBAR」というテーマで、ミナミなら「Eve」、キタなら「十三トリス」だと、2度に分けて記した(1月5日と19日の日記ご参照)。ではミナミやキタ以外ではどこか、と言えば。やはり、天王寺・新世界かいわいに辿りつく。 そういう訳で、「大阪らしいBAR」ツアーの3軒目として、僕が関東のお客さんをお連れするのは、新世界のシンボル、かの有名な通天閣のほぼ真下にある、「BABY」という実に庶民的な雰囲気のBARである。 1955年(昭和30年)開店の老舗。内装はほぼ開業当時のまま(写真右は、昔から変わらぬ天井のランプ。)。棚に置かれた古い陶器のボトルや、壁に飾られたコースターやトレイなど、昔のウイスキーのノベルティを見ているだけでも楽しい。 「BABY」のもう一つの自慢は、壁に直接描かれた、著名な洋画家、東郷青児氏(1897-1978、没後「文化功労者」に)の絵(写真左)。かつて客として訪れた東郷が、興が乗って一気に描いたという。黒の単色で描かれた裸婦(僕には菩薩像にも見える)は長い歳月を経て、退色も見られる。劣化防止のため、今は透明なアクリル板で保護されているが、流麗なタッチは十分に堪能できる。 現在のマスターのTさんは60代前半。「もう年金もろてる歳ですから、店は、まぁ体こわさん程度に…」と言う言葉通り、営業時間は6時-10時という、わずか4時間。でも、商売っ気ないのかと思ったらそうでもない。気配り上手で、客を楽しませる術(すべ)は、お手の物。 店にはマスターが好きな、懐かしいジャズや歌謡曲のLPもたくさんある。ひとたび興味を示せば、これでもか、これでもかと言うくらい、次々と流してくれる(右下は、成田一徹氏の切り絵に描かれた「Bar BABY」。絵中の左側の人物がもちろんマスターのTさん。 (c)成田一徹 )。 このBARの常連客には、関西(いや、いまや全国区かも?)の有名人が2人。1人は、今をときめく「なにわのソウルの女王」大西ユカリさん。大西さんは、今や全国をライブで飛び回るが、自宅は今も大好きな新世界。BABYのマスターとは、メジャーになる前からの仲良しだという。 そしてもう一人は、ヨーロッパのジャズを日本に紹介し、独自にCDの制作・販売を手がけている澤野工房代表の澤野由明さん。歩いてすぐ近所に会社(澤野商会)があるので、この「BABY」は、仕事の合間の息抜きの場でもある。「BABY」で僕は、澤野さんにはお会いしたことはないが、大西ユカリさんとは昨年春、運良くご一緒できた(嬉しいことに、ツー・ショットの写真まで!)。 念のために言うと、「BABY」は一応、「一見さんお断り」という建て前。ドアを開けた瞬間、貴方はマスターから怪訝な目で、少し観察されることもあるだろう。が、それはあくまで、品の悪い客は入れたくないというマスターの信条が故。「店を覗いた時点でもう酔っぱらっている人は、お断りしてます」と。 けれど、マナーよろしく飲む限りにおいては、いつでもウエルカム。「BABY」のカウンターは、今夜も貴方を待っている。【Bar BABY】大阪市浪速区恵美須東1-6-11 電話06-6641-7192 午後6時~10時 日祝休
2005/02/08
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以前の日記にも一度書いたけれど、僕がジャズを聴くようになったきっかけは、社内の3年後輩のAが、ある1枚のLPを教えてくれたから。もう20年以上前の話だけれど…。 僕らはともに北陸の金沢という街で働いていた。夜、仕事帰りによく、会社の近くの「もっきりや」というジャズBARに出入りした。とは言っても、JAZZに興味があったのはもっぱらAの方で、僕はただ酒が飲めればよかった。 そのとき、Aが僕に勧めたのは、Bill Evans(ビル・エヴァンス)というPianistの、「Waltz For Debby」(写真左)というアルバム。今では、ジャズの定番中の定番として、あるいは入門編として、最も人気の高い1枚。だが、僕にとっては、初対面の恋人みたいなものだった。 それから、僕はピアノ・トリオものの、いわゆる名盤と言われるLP(当時はまだCDなどなかった)を、少しずつ聴いていった。Sonny Clarkの「Cool Struttin’」や、Wynton Kellyの「Kelly Blue」とか、Oscar Petersonの「Please Request]とか…。 Aはしばらくして、「サックスの入った曲はどう?」と言って、John Coltraneというサックス奏者のLP、「Ballards」(写真右下)を貸してくれた。これはこれで、泣かせるバラードがびっしり詰まったアルバムで、僕をすっかり虜(とりこ)にした。金沢での一人暮らしのさびしさを、癒してくれたのは、EvansやColtraneだったと言っても言い過ぎではない。 その後、Aとは職場も離れた。僕も仕事が忙しくなって、ジャズからはしばらく遠ざかる。そして、再びジャズと向き合うまで、10年以上の歳月が流れた。 再びEvansを聴くようになった僕は、今度は聴くだけでなく、演奏にも挑戦することになる。まず最初に取り組んだのは(これも以前にも書いたが)、「My Foolish Heart」という美しいバラード。 それから、必死の練習の日々が始まる。ジャズのコードを、ピアノの鍵盤上でただひたすら、覚える。そして、僕でも弾けそうな、比較的やさしい曲を選びつつ…。徳島では、ジャズBARのオーナー兼ピアニストのおかげで、上達も早まったかなと思う。 しかし、「ジャズの恩人」とも言える後輩のAには、僕がジャズピアノに、そんなに夢中になっていることは、あえて伝えなかった。Aはその後、東京勤務となり、2人で飲むことも、JAZZを語り合うこともほとんどなくなった。 そのAが先日、久しぶりに大阪に来るという知らせをもらった。僕は事前にメールを送り、「夜のお付き合いが一段落した後ででも、一緒に飲まないか?」と誘った。そして深夜、僕はAを、僕のホーム・グラウンドBARであるキタの「M」に呼んだ。 Aを誘ったのは、旧交を温めるのが第一の目的だが、僕の「JAZZの恩人」でもある彼に、僕のピアノを聴いてもらうことが、一つの恩返しになるかもと信じていたから。僕は、Evansの曲もはじめ、10曲近くをメドレーで聴いてもらった。Aは「いやぁー、**さん、なかなかのもんじゃない。いつのまに…?!」と言ってくれた。 聞けば、Aも40歳前後になってから、ジャズ・トロンボーンを始め、アマチュアのビッグバンドで、月に2回ほど練習しているという。JAZZへの情熱はまだ衰えていないようだ。いつの日か、ピアノとトロンボーンで共演できる日がくれば嬉しい。その日のためにも、僕ももっと頑張らなくては…。
2005/02/06
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Dale Degroff(デイル・デグロフ)と言っても、よほどバーテンダーの世界に詳しい人しか、ご存じないかもしれない。現代のアメリカで、他に比類なき素晴らしい創造力を持ったバーテンダー(年齢は60代の前半くらいだろうか)。 以前は、ニューヨーク・マンハッタンのBAR「Rainbow Room」のオーナー・バーテンダーだったが、今では、第一線から引退し、自称BARコンサルタント、あるいはバーテンダーの指導者として、出張パーティーでカクテルをつくったり、若いバーテンダーに教えたりして過ごす日々。 そんなDaleを紹介する番組が、2年ほど前、NHKのBSで放送された。「Hellow! New Yorker」というその番組の中で、彼は、出張パーティーなどに呼ばれ、遊び心あふれる創作カクテルをつくって、お客を目でも楽しませていた。 Daleのメジャーでの計量は、結構アバウト(使わないことも多い)。また、手元にリキュールや氷を少々こぼそうが、あまり気にしない。フルーツ・カッティングでも、細かいテクニックでは、手先の器用な日本人バーテンダーの方が、きっと上手に違いない。 でも、Daleの所作は、実にスピーディーで、鮮やかで、テンポがいい。カイピリーニャに入れるライムを、小さく切り分けるナイフさばきにも、目を見張った。その彼の、オリジナルを含むカクテルのレシピやテクニックを紹介した本、「The Craft of the Cocktail」(写真左上 Porter社刊、230頁)が、2年ほど前に出版された。 当たり前だが、本文はすべて英語。でも、比較的分かりやすい英語で書かれているので、辞書さえあれば、十分に読みこなすのは可能だろう。カラー写真もたくさん使われているから、見ているだけでも楽しい。 この本のレシピを真似て、僕も家でいくつかカクテルに挑戦してみたが、なかでも、「Blackberry Julep」というDaleのオリジナル・カクテル(写真右)が、一番のお気に入り。レシピは、だいたい以下の通り。 ブラックベリーのリキュール(45ml)、レモンジュース(30ml)、グレナディン・シロップ(10ml)をシェイクして、クラッシュド・アイスを詰めたグラスに注ぐ。そして、トップにミックス・ベリーのマリネ(注)を飾る。(注:ブルーベリー、ラズベリー、ストロベリーなどを、ブランデーとコアントローに数時間漬け込んだもの)。 これが実に旨い。風呂上がりなどに飲むと最高(ソーダを加えても、さらに爽やかさが増して美味しいと思う)。ミックス・ベリーのマリネは、保存瓶に貯蔵し、冷蔵庫に入れておけば1カ月くらいは持ちそうだ。 Daleの素晴らしいカクテル・テクニックの数々を、ぜひ目の前で見てみたい。NBAかHBAの全国大会のゲストででも、一度呼んでもらって、公開パフォーマンスをしてくれないかなぁ…。
2005/02/04
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「ダ・ヴィンチ・コード」(ダン・ブラウン著)という翻訳ミステリー小説が、ベストセラーになっている。全米では800万部を超え、日本国内でも、すでに100万部以上が売れているという。 ルーブル美術館内で見つかった館長ソニエールの不可解な死体。その謎を、たまたまパリを訪れた米ハーバード大学の教授ラングドンが、警察の暗号解読官ソフィー(殺された館長の孫でもある)と協力しながら、解き明かしていくというストーリー。 ミステリー小説好きの僕としては、話題作の一つとして、やはり押さえておかねばと思い、先日、上下2巻の本を、一気に読んだ。感想はどうかと言えば、独断と偏見で点数を付けると、10点満点で8.3くらいか(書評では、ベタ誉めが多いがこれには異論もある)。 上巻は、息をつかせぬ展開で、読者をぐいぐい引っぱっていってくれた。だが、下巻の、とくに後半に出てくる「犯人に迫る種明かし部分」は(まだ読んでいない方のために、詳しくは書けないけれど)、無理矢理こじつけたという感が、なきにしもあらず。 読み終えてすぐの、僕の感想も、「ここまで引っ張っておいて、それはないよなー」だった。9点以上が付けられなかった最大の理由は、下巻の後半部分の構成(展開)の粗っぽさである。 ただ、エンターテイメントとしては、それなりに面白い。ダ・ヴィンチの、かの有名なモナリザや人体図を始めとして、聖杯伝説、謎のシオン修道院、暗号、フィボナッチ数列…等々、小道具をいろいろ用意し、読者をあきさせないような工夫も光る(もちろん、キリスト教や宗教史に、どの程度関心があるかでも、面白さは変わってくるが…)。 僕と同様に、この「ダ・ヴィンチ・コード」を読んだつれ合いと、「映画にしたら華やかで、面白いかも」「ルーブルが館内の撮影認めるかなぁ」「主人公の大学教授のイメージは、ハリソン・フォードだよねぇ」などと話していたら、先日、ある新聞に、映画化されることになったというニュースが出ていた(さらにルーブル美術館側が、撮影を許可したというニュースも)。 でも主役の教授役は、ハリソン・フォードではなく、トム・ハンクスでやるという。「イメージ違うー!」と僕。ソフィー役はフランス人女優から選ぶ予定とも書いてあった。願わくは、原作の粗さを逆手に取って、原作よりも面白い映画に仕立ててほしいなぁ…。 ※本の画像は、Amazon HPから引用・転載しました。感謝いたします。
2005/02/02
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