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酒やBAR、音楽の話題を一応ブログの「ウリ」にしていながら、ここ何回かそのテーマで書いていない。またまた違う話題で少々気がひけるけれど、もう一つだけ、どうしても書いておきたいことがある。 1人の喜劇俳優が7月26日、67歳の若さで世を去った。岡八朗(僕には、八郎の方が馴染みがあったが、03年に改名したという)。かつて吉本新喜劇の座長まで務めた、偉大な喜劇俳優。 岡八朗は天性の喜劇俳優だった。僕が初めて舞台で見た彼は、浅草四郎という人とコンビで漫才をしていた。しかし、まもなくコンビを解消して彼は新喜劇という舞台で、俳優として新たな生きがいを追求する。 そして、僕の青春時代、吉本の舞台(新喜劇)の中心にいたのは「八ちゃん」こと、岡八朗であり、平参平、花紀京、原哲男、船場太郎らだった。なかでも、僕は八ちゃんが好きだった(写真左=長女の市岡裕子さんと一緒の八ちゃん)。 彼の定番ギャグである「くっさー」「えげつなー」「スキがあったらかかってこんかい」は、学校でもクラスメイトがよく真似をした。「こう見えても、ワシなぁ、昔、空手やっとってんぞ…、通信教育やけどな」という全員ズッコケ・ギャグも人気だった。 街や電車の中で八ちゃんを何度か見かけたことがある。実物の八ちゃんは、舞台とは違って物静かで、とても真面目そうな人だったが、サインには気さくに応じてくれた(写真右=舞台での八ちゃん。右手前へっぴり腰で「スキがあったら…」のギャグを披露中)。 1989年には、吉本の新喜劇若返り方針によって、座長引退を迫られる。それを機に、八ちゃんは吉本を離れ、テレビや映画、他の舞台などで活躍の場を広げていく。NHKの大阪放送局製作のドラマなどでは、貴重な脇役としてよく顔を見せていた。 家庭的には、あまり幸せな人生ではなかった。妻の自殺、長男の病死。アルコール依存症との闘い、そして胃がん手術で胃を全摘…。長年の過度の飲酒で肝臓もボロボロだったという。晩年には自宅で転倒して脳挫傷になって、その後遺症でセリフが覚えにくくなるという悲劇にも見舞われる。 吉本からは遠ざかっても、時々、吉本の記念特番には出てきて定番のギャグを連発してくれた。そんな八ちゃんが大好きだった。さすがにここ数年は痩せこけて、弱々しくなって、気の毒なほどだったが…。 稀代の喜劇俳優・岡八朗。僕は、素晴らしい笑いをふりまいてくれた八ちゃんのことをいつまでも忘れない。八ちゃん、ホントに有難う。
2005/07/31
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会ったこともない、顔も知らぬ中高年の男5人(1人は若干若かったけど御免!)が、ある日集って意気投合して、話も弾む。そんなことはまずなさそうに思うだろうが、それが現実に起こることもある。徳島に住むブログの友人の「きんちゃん1690さん」から、彼のブログのオフ会を大阪で催すという連絡をもらった。そこには、彼も会ったことのない4人がやって来るという。 ブログを通じて知り合った友人と、僕もこれまで、実際に何人か出会った。しかし基本的には今も、ヴァーチャルな付き合いから一歩踏み出すのは、極力慎重であった方がいいと思っている。慎重さを欠いたが故にトラブルに発展したケースも聞くし、悲劇的な結末を迎えた話も新聞などで報じられている。だから、書き込みやメールのやりとりをかなり長く続け、その人の人間性やキャラクターをかなり把握したうえでないと、会ってみようとは思わない。 ヴァーチャルな付き合いだけで、人間性は分かるのかと聞かれれば、100%とは言わないが、かなり分かると言える。例えば、書き込みへの返信や、メールの返事でも、きっちりしていて、文章にも誠意が感じられる人に、まず悪い人はいないと思っている。人柄は文面と几帳面さににじみ出る。 話が本題から若干それたが、「きんちゃん」は、僕のブログに初めて書き込んでくれたとき以来、そんな几帳面で、誠意あふれる人柄だった。だから、お誘いを受けても、僕はまったく躊躇しなかった。 きんちゃんはなぜか、出会いの場所に僕のブログの友人の店でもある「あらかし」を指定した(写真左上=「あらかし」入り口にはチーフの似顔絵)。何を食べても美味しいお店と、僕が以前ブログで紹介したあの「あらかし」に惹かれたようだ。 僕は仕事があって、少し遅れて合流した。すでに4人がテーブルにおそろい。最初は、どの方がきんちゃんか分からなかったが、「**です」と自己紹介すると、きんちゃんが立って、「**でーす」とすぐ挨拶してくれた(写真右上=初対面の5人で「あらかし」で記念撮影)。 ブログでも、トラッド・ファッション好きと聞いていたが、噂通りのかっこいいトラッド紳士という感じ。一分の隙もない着こなしだ! そういうトラッド好きのきんちゃんのブログ仲間とあって、皆さんそれぞれ、トラッド・ファッションできまっているー! 集まったのは、きんちゃんと僕以外では、なんと新潟から参加のトラ松さん、大阪のトライ21さんと、トラ松さんの大学の後輩で、現在は大阪在住のSさん。早速、生ビールで乾杯して、「あらかし」の美味しい料理を次々といただく。名物の「豆腐三昧」はすでに注文されていて、僕が着いた時には、すでに半分ほど食べられていた。 僕おすすめの「ダチョウの塩焼き」「自家製コロッケ」も当然注文したが、予想通り、皆さん「美味しい、美味しい」を連発。でも、皆さん、お酒は進むんだけれど、あんまり食べないねぇ…。食べないで飲んでばかりは体に悪いよー、と思いながら、僕はしっかり食べてました(写真左下=僕ときんちゃん=BAR「M」で。初対面のような気がしませんでした)。 さて、「あらかし」の後は、最初はしっとり落ち着いたBARにでもと思っていたのだが、4人という人数(Sさんとはここでお別れ)と、相当みんな出来上がっていることを考えて、急遽、行き先を僕のホームグラウンド・ピアノBARの「M」に変更。北新地へ向かった。 「M」は火曜日ということもあって、すいていた(ほぼ貸し切り状態!)。おまけに、僕といつも歌伴をしているSさんもちょうどこの日は店にいて、ラッキーの一言。乾杯した後、歓迎がてらに早速、僕のピアノでSさんに2曲ほど(竹内まりやの「駅」とクリスタル・ケイの「Motherland」)歌ってもらう。 きんちゃんも含め、一緒に来たみんなは「うまいなぁ、いい声してるなぁ」と、ただただSさんの歌声に聴き惚れている。それに刺激されてか、トラ松さん、きんちゃんもマイクを持って登場! なかでも、きんちゃんの「悲しい色やね」は、情感こもった歌い回しで、最高でした(写真右下=きんちゃん熱唱。この時の伴奏は「M」に時々顔を出すピアノの先生です)。 「M」を訪れる時、僕はいつも「マイ楽譜」(洋楽&邦楽)を持参で来るのだが、予定外の訪問だったのでその準備はなく、「M」に置いたままにしている僕の古い楽譜などを使って、なんとか歌伴をした。応えられなかったリクエスト曲も何曲かあった(ごめんなさーい。次回はちゃんと準備万端で臨みまーす)。 きんちゃんら御三方とは、「M」でお別れ。僕はSさんと、もう少しセッションを楽しんだ。きんちゃんの日記によると、あの後、ラーメンを味われたとか。そりゃ、一次会はあまり食べずに、皆さん喋って飲んでばかり。そりゃお腹もすいたでしょうに…。 冒頭にも書いたけれど、会ったこともない5人の男が数時間を共にして、意気投合した楽しい一夜。ファッションと音楽という共通の趣味・嗜好を通じて、こんな出会いがあるとは…。ブログが取り持ってくれた不思議な縁にただ、ただ感謝するばかり。
2005/07/29
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25日夜、なにわの町に夏本番を告げる風物詩、天神祭見物に出かけた。普段の年は、蒸し暑い最中に、兵庫県からわざわざ出かけることはないけれど、今年は祭の名物「船渡御」(ふなとぎょ)と、恒例の大花火が間近で見られる友人宅から、嬉しいことに招待を受けたのだ。 大阪天満宮の祭でもある天神祭は、日本三大祭の一つで、千年余の歴史を持つ。祭りの出し物はいろいろあるが、なかでも天満宮周辺の川をたくさんの奉納船が練る船渡御がとくに有名だ。 船渡御は天暦5年(951)、川に流した神鉾が再び流れ着いたのを氏子が船を仕立てて出迎えたのが始まりとされる。何度も消滅の危機があったが、町衆の力で守り育てて、今日に至っている。 友人宅は、帝国ホテル大阪のすぐ隣に建つ高層マンションの22階。花火の打ち上げ場も川を挟んですぐ向かいで、船渡御の船列もよく見えるという絶好のロケーションである(写真左=近くで見ると凄い迫力。台風接近で風が強かったので、打ち上げ後に火の粉も飛んできた)。 午後6時半ごろ友人宅に集合。集まったのは我が家以外の友人も含めて、約10人。マンションのバルコニーから下を眺めると、辺りはすでに花火見物目当ての人、人、人で、道路も、川辺も、橋の上もほぼ埋め尽くされている(人出は最終的に、大阪府警の発表によれば、約93万人)(写真右=バルコニーから大阪城方向を見る。中央右奥、白くライトアップされているのが天守閣。ピンボケ御免!)。 船渡御の(約100艘出るという)船上では、早くもビールを飲んで盛り上がっている様子。「打ちましょ」ばん、ばん(手拍子)、「もひとつせー」(ばん、ばん)、「祝おうて三度」(ばばんが、ばーん)という大阪三本締めのかけ声が船の上からも聞こえてきて、否が応でも、祭の雰囲気は盛り上がる。 我々は、取りあえずビールではなく、シャンパンで乾杯! そして、友人が、この日のために注文しておいてくれた「たん熊」の美味しい松花堂弁当(写真左下)を肴にして、花火の開始を待つ。お重のほかに、刺身や吸い物まで付いている豪華版で、幸せな気分(持つべきものは心優しい友人!)。 テレビでは、東京ヴェルディ対レアル・マドリードの試合をやっているが、観光気分のレアルはあまり緊張感がないのか、開始早々、ヴェルディに1点を先制される有様。スタジアムにも空席が目立つ。毎年のように小銭稼ぎに日本にやってくるレアルにファンも少々あきたのか? そんなことを考えていると突然、窓の外からバン、バーンと花火の音だ!聞くところでは、この夜打ち上げられる花火は計約4千発という。約10分間隔で2カ所の打ち上げ場から、6、7分くらいの間、次々と趣向を凝らした花火が上がる。夜空に光れば、キティーちゃんの顔になるという面白いのもあったが、写真に撮れなくてすみません。 打ち上げがいったん休止すると、バルコニーから室内に入って、またビールとお弁当に食べる。食べていると、また打ち上げが再開されて、「そら、始まったぞー」と、箸を置いてどたばたとバルコニーへ。あわただしいけれど、華麗な花火の醍醐味には勝てない。 花火打ち上げは夜9時ごろまで約2時間続いた。花火大会は何度も見ている僕だが、こんなに迫力ある花火を見たのは生まれて初めて。友人には心から感謝しなくてはいけない(写真右=フィナーレの大花火。夜空一面に、ダイヤモンドの花が咲いたような美しさ)。 デジカメ持参で行った僕は、綺麗な花火を撮ろうと何枚もシャッターを切ったが、なにぶん今持っているデジカメで花火を撮るのは初めてで、準備不足。スローシャッター・モードで撮ったにもかかわらず、出来はいまいち(プロから、花火の撮り方のアドバイスを事前に聞いておけばよかった…と反省)。 という訳で、今回の写真、若干ピンボケばかりでーす。すみません。来年は必勝を期します。でも、また来年も呼んでもらえるかなぁ…。
2005/07/27
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昼のテレビをたまたま見ていたら、やしきたかじんが司会のトーク番組で、たこ焼き(写真左)の話題で盛り上がっていた(たぶん関西ローカル…、関西以外の方、ごめんなさーい)。 ご存じのように、関西(とくに大阪)は「粉もん文化」といわれる。お好み焼き、たこ焼き発祥の地ともいわれるだけあって、実に様々な「粉もん」フードがある(ほかにも、イカ焼き、チョボ焼き、うどん、豚まん…)。我が家に「たこ焼き器」がある家庭も、番組で千人に聞いたら、実に約93%という高い割合だった。 その番組中、「同じたこ焼きでも、大阪と京都は具が違う」という意外と知られていない事実を取り上げていた。どこが違うかと言えば、京都のたこ焼きは、刻んだキャベツを具に入れるというのである。大阪では絶対にキャベツなんか入れない。タコ以外には、店によっては若干の違いはあろうが、天かす、サクラエビ、紅ショウガ、ネギが普通だろう。 恥ずかしながら僕も、大阪のすぐ隣にある京都のたこ焼きに、キャベツなんかが入っているなんて、ウン十年生きてきて今日まで知らなかった(京都生まれの僕だが、幼稚園に入る前に大阪に出て来たので…)。京都で昼飯、晩飯を食べる機会は多いが、わざわざ京都まで行ってたこ焼きなど食べない。それが盲点だった。 番組では、京都のたこ焼きがキャベツを入れることについて大阪人に聞いていたが、「キャベツ入れたら水っぽうなる」「そんなん、ただのお好み焼きボールやん」「とにかく邪道やで」などと8割近くが否定的だった。 逆に、京都のある商店街で通行人に大阪のたこ焼きを試食させて反応を探っていたが、約9割の人が「タコ以外の具がないみたいで物足りん」「なんでキャベツ入ってへんの」「美味しゅうなーい」という反応だった。所変わればとはいうが、隣同士の大阪と京都でこんな食文化の違いがあるのは驚きだった(写真右上=大阪のたこ焼きで一番行列のできる店として有名な道頓堀の「大たこ」)。 司会のたかじんは京都出身だが、「(キャベツの入ってない)大阪のたこ焼きの方が好きだ」と言う。ゲストの桂ざこばも、大阪派。「たこ焼きが大阪発祥というのははっきりしてる。京都へ伝わって、京都人のプライドから大阪と違うたこ焼きを作ろうとした結果やろ」と言っていたが、説得力ある解説かもしれない。 同じ関西でも、言葉だけでなく、明治以降の食文化までこんな違う方向へ発展してきたのかと思うと興味深い(写真左=「大たこ」のたこ焼き。「うまい!」という人と、「たいしたことない」という人と、人それぞれ。ただし、大阪のたこ焼き屋とお好み焼屋は、どこに入っても、まず大はずれはないというも真実)。 なお、番組で「京都のたこ焼きはすべてキャベツ入り」みたいな取り上げ方をしていたが、ネット検索で京都のたこ焼き屋さんのサイトをいろいろ調べてみると、意外や意外、「うちはキャベツは入れてません」というたこ焼き屋さんも(アバウトな感じでは)2割くらいはあった。だから、京都のたこ焼き屋さんがすべて「キャベツ入り」という訳ではないようだ。 僕も、たかじんと同様、大阪風たこ焼きが好きだ。近い将来、京都のキャベツ入りたこ焼きを食べたとしても、おそらく結論は変わらないような気がする。しかし味はしょせん、個人の嗜好に行き着く。どちらが美味しいかは、関西以外の方の舌に決めてもらうのもいいかもしれない(写真右=京都のあるお店の、キャベツ入りたこ焼き。見た目は大阪のと全く変わらない) 最後におまけ。たこ焼きは「進化する」ともいうが、大阪・北新地に最近(と言っても、もう1年半くらいになるが)、イタリアン・テイストのたこ焼きを売る「スパたこ&オイスター・バー」という変わった名前の小さな店ができた。バジリコやガーリックなどのスパイスを効かせ、オリーブオイルで焼く(10個500円)たこ焼きだが、これが、きりっと冷やした辛口の白ワインなどにばっちり合う(別にソース味も)。 お店には「オイスター・バー」の名の通り、生ガキも置いてるので、ワインがすすむこと、すすむこと! 僕はオープン以来やみつきで、しばしばお邪魔している。「目からウロコ」のたこ焼き! 皆さんも大阪に来る機会があれば、ぜひ一度ご賞味ください。【2021年追記】「スパたこ&オイスター・バー」は残念ながら、現在は閉店しています。
2005/07/25
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モルト・ウイスキーを飲み始めた頃、アイラ系、シェリー系以外で一番飲むことの多かったのは、「プルトニー」(Pulteney、「オールド・プルトニー」とも言う)という銘柄(写真左上=プルトニー・オフィシャルボトルの12年もの)。 スコットランド本土では最北の、北海に面したウィックという港町にある蒸留所。ウィックはニシン漁で栄えた町だが、あの「宝島」を書いた作家、スチーブンソンの故郷としても有名だ。プルトニーという名前は、漁業の町としての発展に尽くした国会議員の名前にちなむという。 プルトニーの特徴は、スパイシーな潮の香りとともに、「オイリー」ともしばしば表現される、バターのような不思議な味わい。舌ざわりも、実際ねっとりとしている。それに加えて、ナッツやハチミツのような香りも感じられる複雑さが魅力だ。 複雑な味と香りの理由は、海岸のそばという地理的な条件、ひょうたん型の蒸留釜、ヤーロー湖という湖水から引いている仕込み水など、さまざまな理由があるようだが、ブレンダーではない僕には、ほとんど謎の領域である(写真右=プルトニー18年もののシェリー・カスク。昨今のシェリーカスクばやりの流行を追うことには賛否両論があるけれど…) 蒸留所が出来たのは、1826年。当初は、ブレンディド・ウイスキーの「バランタイン」や「インバーハウス」のキー・モルト用にのみ生産されていたが、オーナーが変わった1995年になってからは、モルト・ウイスキーとしても発売されるようになった。 プルトニーは、その味だけでなくボトルの形も、蒸留釜(ポットスチル)のような独特の丸み、ふくらみを帯びていてユニークだ。こんな形をしているスコッチ・モルトは、おそらくプルトニーだけだろう(写真左下=プルトニーの26年もの。飲んだことないけど、きっとまろやかで、旨いだろうなぁ…)。 ひと頃は、BARでモルトを何杯か頼むときは、必ずと言っていいほどこのプルトニーをまぜていた時期があった。あるとき、バーテンダーさんから、「百幾つも蒸留所があるのに、同じ銘柄ばかり飲まず、もっといろんなモルトを味わってみてくださいよ。人生、一度だけなんだから」とたしなめられた。 確かに、それもそうだ。一度だけしかない人生なのに、自分から「出合いのチャンス」を放棄してしまうのは、なんともったいないことだろうか。僕は、これからもプルトニーをきっと飲み続けるだろうが、それ以外のいろんなモルトも、きちんと味わってあげよう。どんなモルトだって、職人の愛情と汗が一杯こもっているのだから…。
2005/07/23
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寝ている間に、夢をよく見る方だと思う。夢をよく見るのは、眠りが浅い(いわゆるレム睡眠?)からだとも言われるが、夢を見たからと言っても、翌日、寝不足気味っていうことでもない。医学的にはどうなんだろうか? それはともかく先日、奇妙きてれつな夢を見た。有名人が出てくる夢は結構よく見るが、場所はサッカー・グラウンドのような広い芝生の隅っこ。そこになぜか、あぐらをかいて座っているミック・ジャガーがいた。ミックは通りかかった僕を呼び止めた(確か、英語で…)。ミックは上は白いTシャツ、下はジャージ姿。それに何と腹巻きをしている(何という珍妙な格好!)。 僕を呼び止めたミックは、僕がしていた腕時計を指さして、「オレの持っている腕時計と交換してほしい」と言った。そして、腹巻きの中から次から次から、いろんなデザインの腕時計を(10個近く)出して、僕に見せ、「好きなのと交換してくれ」と頼んだ。 僕の腕時計は昔、ロンドンの「蚤の市」で買った安物。だけど、個人的にはとても愛着ある品。僕は「ダメだ」と断った。しかし、ミックは執拗に「交換してくれ」と食い下がる(写真左=「奇妙な夢」という言葉から僕が連想したのは、ゴッホの絵「星夜」。晩年のゴッホの精神状態を映すとも言われる)。 その気迫に根負けした僕は、仕方なく、ある時計との交換でミックに僕の腕時計を渡した。するとミックは喜んで、グラウンドを去って行ったという、訳の分からない、変ちくりんな夢(ちなみに、この夢の出来事を、連れ合いに話すと、「ミックが腹巻きー?!」と言って、思いきり笑っていた)。 さて、この夢はいったい何を暗示しているのか、夢は心の内面を映すとも言う。自分でもとても気になった。そして、「夢」と「診断」というキーワードを打ち込んで、Yahooで検索してみたら、あるわあるわ、「夢診断」関係のサイトの数の凄いこと!(写真右=夢に出てきたミック。最近はジュード・ロウ主演のリメイク映画「アルフィー」の主題歌で話題に)。 そのうちの一つで、調べてみる。まず、ミック・ジャガーという有名人が出てきたこと。ミックは好きだけど、別に夢に出てきてほしいほど好きという訳ではない。 あるサイトでは、「気にしている有名人(芸能人)が夢に出てくるのは、その人物の情報が脳の中で整理されている途中であるから」と解説。逆に「気にしていない有名人なら、毎日行われる脳内の整理の小さなミス」とか。僕の場合は、ここ最近、ミックのことが気になって仕方ないという訳では全くないので、後者の方だろうか。 では、「腕時計」は何を暗示しているのか? ぴったりの説明はなかったが、別の「夢診断サイト」の「夢に***が出てきたら」というページに、「時計」は、「死に対する恐れ」「取り返しのつかないことをするのではないかという不安」「気持ちを緩めてはいけないという自らへの諫め」「仕事や勉強への焦り」などとあった。 ついでに、「腹巻き」は何なんだと調べてみたが、さすがにそんな解説はどこにも見つからなかった。いずれにしても、そんな奇妙な夢は、あまりいいことを暗示しているのではなさそう。僕の最近の心の内(揺れ)を、微妙に反映しているのかもしれない。 ミックが交換してほしいと言った腕時計は幸い、まだ僕の手元にある。1年半~2年に1度電池は交換しているが、日本円で3500円くらいの品物だったにもかかわらず、約8年近く経った今も故障もなく、時を刻み続けてくれる。もちろん、本物のミックが頼んできても(アホか!)譲るつもりはなく、壊れるまで大切に使うつもりだ。
2005/07/21
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遅ればせながら、ようやく、レイ・チャールズを描いた映画「Ray」をレンタルDVDで借りて、観た。na_geanna_mさんや、きんちゃん1690さんがこの映画のレビューを日記に書いていたのに、触発されたことが大きい。2時間半という長い映画だったが、テンポが良くて長さは感じなかった。 映画は、音楽家レイの単なるサクセス・ストーリーではなく、薬漬けだった前半生など、彼の人生の恥ずべき部分もきちんと描いている(生前のレイも、映画でありのまま描くことを了解していたという)。見終わって、レイ・チャールズの生涯について、あまりにも無知だった自分が恥ずかしくなるような映画だった。 レイ・チャールズは僕が子どもの頃すでに、日本にもその名が轟く米国の一流ミュージシャンだった。「ホワッド・アイ・セイ」「愛さずにはいられない」「我が心のジョージア」などのヒット曲で、確固たる地位を築いていた。だから、彼の幼少の頃や青年時代の苦労などは、残念ながら知る機会はなかった(写真右=映画「Ray」のポスター&サウンドトラック盤の表紙)。 黒人に対する偏見と差別がまかり通っていた1940年代。南部フロリダの貧しい小作農の家庭で育ったレイにとって、生きるということは、差別とのたたかいでもあった。7歳で失明し、15歳で母を亡くしたレイが、音楽で身を立てようと17歳で単身、フロリダから西海岸のシアトルまで、長距離バスで旅立つシーンが印象的だ。 「目の見えない乗客の世話などできない」と乗車拒否をしようとする運転手に、「ノルマンディー(上陸作戦)で視力を失ったんだ」という機転を効かせるレイ。とたんに運転手は尊敬の態度に変わる。そこまで芝居もしないと、弱い立場の黒人は生きられない時代だった。 取り巻きの黒人プロモーターでさえ彼のギャラをごまかすという、安心できない環境の中、レイは持ち前の「生きる智恵」を生かしながら、ゴスペルとブルースを合体させた、独自のR&B、ソウル・ミュージックを創りあげていく(写真左=「Ray」の1シーン。ジェイミー・フォックスはレイそのもの)。 やがて音楽的にも成功し、素敵な妻と子どもに恵まれる。だが、幸せな結婚生活を送れたはずのレイは、人生の古傷を癒すためにドラッグ(ヘロイン)と縁が切れず、体はどんどんむしばまれていく。結婚生活も、愛人との浮気などで崩壊寸前。音楽的な成功はつかんでも、人生は波乱の連続だった。 レイを演じるジェイミー・フォックスが文句の付けようのないくらい、素晴らしい。ピアノを弾くときの体の傾け具合といい、細かい仕草まで徹底的に研究し、ピアノや歌も厳しいトレーニングを積んだというが、モノマネの域を超えて、まるで本物のレイが乗り移ったかのような演技。アカデミー主演男優賞をもらったのは、当然すぎるほど当然かもしれない。 映画は、矯正施設での薬物治療に耐え抜き、かつてコンサートをキャンセルしたレイを永久追放したジョージア州が1979年、「我が心のジョージア」を州歌に制定する際、レイを招いて公式に謝罪するシーンで終わる(写真右下=レイ・チャールズ本人。誰にでも愛されたレイ…、素晴らしい音楽を有難う、レイ!)。 その後もレイは25年、73歳まで生きた(クスリをあれだけやったのに長命だったのは神のご加護か?)。映画では、80年代以降の、彼の反アパルトヘイト運動や、「We Are The World」などの難民支援、ジャズやロックの大物ミュージシャンとのデュエットなど、後半生の幅広い活動にも少し触れてほしかった気もするが、その部分を省いても2時間半だから無理は言えまい。 レイが世を去って(昨年6月10日)、はや1年余。昨今のレイ・チャールズ再評価の動きを、天国の彼はどう思っているだろうか。「僕は、好きな歌を歌ってきただけだよ。これからもそうするさ」って言うのかな。サザンの「いとしのエリー」の英語バージョンでしかレイを知らない若い世代に、僕はこれから機会あるごとに「Ray」を観てごらんと勧めていこう。
2005/07/19
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東京の湯島と言えば、関西人の僕には、「湯島天神」のイメージしか浮かんでこない。東京に出張へ行っても、銀座のBARが中心だから、湯島まで足を伸ばすことはまず、ない。湯島を訪れたのは、その昔(と言っても、かなり昔のこと)、「湯島に、いいBARがあるんですよ」と、東京在住の友人に連れていかれたのが初めてだった。 飲食店がひしめき合い、細い路地の多い下町。そんな界隈の、比較的近いエリアに3軒もの「Good Bar」が集まっていることに、とても驚いた記憶がある。その3軒の名とは「琥珀」「EST(エスト)!」「AB・・E(アベ)」。ともに住所は「湯島3丁目」。続く番地が一つずつ隣同士という不思議な関係だった。 歴史的に言うと、「琥珀」(写真左上)が昭和30年(1955)の開業で、一番古い。「EST!」と「AB・・E」はいつ頃の創業か、正確には知らない。ただ、「EST!」は20年ほど前僕が訪れた際、すでに老舗の風格を漂わせていたので、きっと1970年代初めのオープンだと想像している。 唯一、「AB・・E」は、僕の記憶ではマスターはまだ若かったので、おそらくは開業まもない80年代の半ばにお邪魔したのだと思う。その「AB・・E」も、今では、もうすっかり老舗BARの仲間入りをしている。 「琥珀」は、現在のマスター木村文比古さんのお母さん淑子さん(故人)が創業した。お母さんがご健在で、店に出ておられた頃は、作家の三島由紀夫や阿部知二、木下順二ら文人がよく集うBARだった。三島は入り口奥のテーブル席の中央がお気に入りだった。三島の愛したテーブル席は今も残り、店内は昭和の良き時代の雰囲気をとてもよく伝えている。 「EST!」(写真右)も、古き良き時代のBARという場所だった。白いバー・コートを着た渡邊昭男さんという方がマスターだったが、関西から訪ねてきた若造を実に温かく迎えてくれた。カクテルが得意な渡邊さんのジン・リッキーに、思わず「ホンマに旨い!」と、隠していた関西弁が出てしまった思い出がある。 ちなみに、渡邊さんの息子さん兄弟もバーテンダーになり、現在は東京・新橋で「Atrium」というBARを営んでいるという。やはりBARへの情熱は、親から子へ、脈々と受け継がれていったということだろうか。 「AB・・E」(写真左下=切り絵に描かれたオーナー・バーテンダーの阿部勝康さん。(C )成田一徹 )は前の2つの店に比べると、こじんまりした、スタイリッシュなBARだった。長身の阿部さんは、真面目そうで、口数の少ない方だったように記憶しているが、まるで、馴染みのBARような居心地の良さを感じさせてくれる空間だった。 実は、僕を案内してくれた友人は、この湯島から徒歩でも帰れる場所に住んでいた(現在も!)。「ネイバーフッド・バー」という言葉があるが、自宅の身近に、そんな素敵なBARを3軒も持っている友人が、僕は羨ましくて仕方がなかった。 湯島とも、もう随分ご無沙汰している。ただ、聞くところでは、現在の湯島は、風俗店と客引きが増えて、「街の雰囲気も、随分変わってしまった」と老舗BARのマスターらは嘆いているという。それはともかく、次回、東京出張があった際は、「久々に湯島の名BAR巡りでも」と目論んでいる僕である。【琥珀】=文京区湯島3丁目44-1 電話03-3831-3913 【EST!】=同湯島3丁目45-3 電話3831-0403 【AB・・E】=同湯島3丁目43-11 電話3831-5755
2005/07/15
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あちこちのBARなどでピアノを弾いていると、素人の僕でも、明らかに「音が狂ってるなぁ」というピアノに出合う。鍵盤も時々、押したら上がってこないようなピアノもある。 でも、僕はプロじゃないし、文句も言わず、いつも有り難く弾かせてもらっているが、一応、帰り際には、「あれ相当、音狂っているから、調律した方がいいですよ」とマスターの耳元でささやく。 家で僕が弾いているアップライト・ピアノ(写真右=YAMAHA製です)は、年に1回ちゃんと調律しているので、いつも「いい音」が出ていた。それが最近、弾いても音がきちんと出ない(鍵盤を押しても、また上がってこない)キーが、いくつか出てきた。 僕は、近頃は週1回くらいしか(運が良くても2回か)しか練習できない。普段なかなか、ゆっくり落ち着いて弾く時間がとれないので、この練習の時は、3~5時間でも集中的に弾く(連続して弾いても、そんなに疲れない)。だから、弾いても音がきちんと出ない鍵盤があると、途中、とてもイライラしてくる。 家にあるピアノは、もともと連れ合いが実家で小学校低学年くらいから高校生くらいまでクラシックを習っていたころ弾いていたもの。その後、うちの娘が中学校卒業まで弾いていたが、今では、僕しか触らなくなった。それでも連れ合いは一応、毎年1回、調律を頼んでいた。自分が弾かなくても、「ずっと弾いてきた愛着あるピアノだから…」と言っていた。 調律はピアノにとって大事な手入れでもあるし、ピアノへの「思いやり」だと思う。そして調律師は、プロのピアニストにとっては、自分の思い通りの音色を実現させてくれる大切で、重要な存在だ。 例えば、キース・ジャレットは、ライブでいつもスタンウェイのグランド・ピアノを弾く。やや専門的に言うと、スタンウェイのD型のグランドが好みで、調律は「440-442Hzの平均律」だという(と言われても、僕にはちんぷんかんぷんですが…)(写真左=キース・ジャレット・スタンダーズのライブ風景)。 キースの日本ツアー中は、いつも専属の日本人調律師・Mさんが同行する。Mさんは、リハーサルの段階からキースに付き合って、希望通りの音に近づけていく。キースは、音色のはっきりしたものを好み、鍵盤の重さにはあまりこだわりはないが、「クリアなピアニッシモの音」にはとくにこだわるという。透明感あふれる彼のピアニッシモには、そんな調律師さんの存在があってこそかもしれない。 「ねぇー、そろそろ調律する時期かなぁー?」と連れ合いに持ちかけてみたら、「あっ、そう言えば、去年は調律の人、電話して来んかったわー」という。鍵盤が上がらないのは、「手入れ」を1回飛ばしてしまった影響もあるのかもしれない。 調律師さんは毎年、必ず決まった時期に、「そろそろどうですかー?」と電話してくる。調律師さん、どうしたんだろうかと気にもなるが、それはともかく、このピアノの音を、鍵盤をなんとかしなければならない(写真右=アップライト・ピアノの内部構造。その複雑さは芸術的だ)。 鍵盤が上がってこないとなると、部品も一部交換しないといけないかも。いつもは、1万円ぽっきりで済んでいた良心的な調律師さんだが、今年はちょっと費用がいつもより余計にかかるかもしれないなぁ…。
2005/07/13
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グラスによって、酒の味は変わるのかどうか? 答えは「イエス」だ(と僕は信じる)。同じお酒を飲むにもグラスにこだわれば、確実に酒はおいしく味わえる。これは、僕の個人的な意見ではなくて、多くのバーテンダーも同じことを言う。 例えば、バーテンダーの間で人気のあるスコットランドの「エジンバラ・クリスタル」のグラス、1個1個が職人の手作りというが、カットの技術はさすがに素晴らしい(HOYAや佐々木クリスタルも、残念ながら勝てない…)。 エジンバラ・クリスタルは、日本ではオフィシャルな輸入代理店はない。ネットで取り扱う業者はあるが、1個1万数千円から2万円近くなんて、法外な値段を付けている。面倒くさくても、エジンバラ・クリスタルの公式HPのショップで直接買うことをぜひお勧めする(半額くらいで買えるし、決済はVISAとかで簡単にできる。注文して英国から10日ほどで届きます!)。 グラスで味が変わると言っても、ただ値段が高ければいいというものではない。値段や材質よりも、(1)グラスの形(2)カットなどのデザイン(3)作者がグラスに注いだ愛情――が重要だと、僕は思う(写真左上=エジンバラ・クリスタルのロック・グラス。独特のカットが素敵です)。 「形」は、飲む酒によって向き不向きがある。味だけでなく、香りも楽しむウイスキーやブランデ-、ワインなら、絶対に先細で、香りをグラスの中に閉じこめられるようなグラスがいい。テイスティング・グラスの様な形で、飲む際の香りと、飲んだ後の「アフター・テイスト」が楽しめるグラスが、僕は一番だと思う。 「カット・デザイン」は好みの問題だ。装飾も何もないシンプルなグラスがいいという人もいる。それはそれでいいと思う。ただ、僕はカット・グラスが好きだ。このカットのデザインに込めた職人の思いを想像しながら飲むと、同じ酒がより美味しく味わえる(写真右=1900年頃のカクテル(シャンパン?)グラス。カットの文様が面白い)。 機械生産のグラスがほとんどの現代でも、もちろん職人が、1点1点手作りするグラスはある。ただし、カットや吹き付けなどの高度な技術を継承しているグラス職人の数は、昔に比べてはるかに少ないという。 とくに、ヨーロッパでは激減しているという。昔、東京・南青山のBar「2nd Radio」を訪れた時、アンティ-ク・グラスの収集で有名なオーナー・バーテンダーのOさんが、「(第二次世界)大戦後のグラスは、いいものがほとんどありません。職人の腕は戦前の方が圧倒的に上です」と話していたのを思い出す。 僕もアンティーク・グラスが好きだ。古いグラスで、デザインが凝ったものには目がない。8年ほど前、ロンドンを訪れた際も、アンティーク専門のガラス器の店に行き、19世紀半ばのものというリキュール・グラス(写真左下)に一目惚れして買った。 これがわりと大ぶりで、60ml近く入る容量。カクテルに使っても映えるので、とても重宝している。「約150年前、このグラスをどんな人が使っていたんだろうか」と想像しながら飲むのも楽しい(お値段も、日本円で3500円くらいと、とてもリーズナブルだった!)。 今でも、百貨店などで「ヨーロッパの骨董市」とか「英国フェア」とかが開かれると、会期中に必ず覗く。まめに通っていると時々、掘り出し物に出合える。気に入ったものがあれば、つい衝動買いしてしまう。 もちろん衝動買いと言ってもキリがないので、一応、原則として1個5千円以内という「枠」は自分にはめている(一昨年は、朝食用の薄切りパンを挟んで立てる銀製の器を見つけた。ロンドンで泊まったホテルで見て、ずっ~と欲しかったもの)。 連れ合いからは、「そんなに買ってどうするの? 墓場まで持っていくつもり?」と時々怒られる。男にはなぜか、グラスに限らず、こういう蒐集癖がある。女性にはほとんどない。それは、たぶん男と女のDNAの違いだと思う(許してくれー!)。 もちろん僕も、そんなアンティ-ク・グラスを「棺桶に一緒に入れてくれ」と言うつもりは、さらさらない。たぶん遺言状には、「僕の一番お世話になったバーテンダーに寄贈してくれ」と記すつもりだ。職人の汗と愛情がこもった素晴らしいグラスを、僕一代でこの世から消す訳にはいかない。
2005/07/11
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60年代は、日本でウイスキーというものが大衆化した時代だった。高度成長期の入り口に差しかかった頃、S社のトリス・バー展開の効果もあって、サラリーマンが会社帰りに、BARという場所に立ち寄り、ハイボールや水割りなるものをよく口にするようになった。 それでも、サラリーマンが飲んでいたのは、S社の角瓶や白札(ホワイト)、トリスなどが主だった。日本国内では「舶来もん」のスコッチ・ウイスキーは高嶺の花。普通のBARで見かけることはほとんどなかった。 当時、比較的よく流通していたのは、ジョニー・ウォーカーの赤・黒、シーバス・リーガル、オールド・パー、バランタイン、ホワイトラベル、J&Bくらい。しかもジョニ赤で7千円前後、黒に至っては1万円以上した時代だった。モルト・ウイスキーに至っては、BARではグレンフィディックか、グレンリベット、マッカランくらいしか置いていなかっただろう(個人的には、当時、「フィディック」しか見たことがなかった)。 そんな60年代の初め(62年)、大阪キタに、「Stag Bar Kimura」という1軒のBARがオープンした(写真左上=「Kimura」の玄関プレート。いつも美しく磨きあげられて金色に輝いている)。 スコッチ・ウイスキーに魅せられたマスターのKさんは、ほとんどの日本人が国産ウイスキーしか飲まなかった時代に、わざわざ個人でスコットランドまで行き、珍しいウイスキーを直接買い付けたりしてきたパイオニアだ。自ら写真も撮って、「洋酒ガイド」を自費出版(写真右上=60~70年代の懐かしい、珍しいボトルが数多く紹介されている)するほど、ウイスキーを愛してやまなかった。 Kさんのそんな志向を知ってか、輸入しても売れないモルト・ウイスキーの在庫を抱えて困っていた酒の代理店は、Kさんに泣きついて、在庫を引き取ってもらったりすることも多かった。気のいいKさんは断れずに、しばしば商売度外視で買い取ったという。 「Kimura」の自慢は、10m近い長~いカウンターと、その正面、約500本ものボトルが、4段のひな棚に並ぶ圧巻のバック・バーだ(写真左中)。壮観なバック・バーとは対照的に、カウンターには何も置かないシンプルさ。 昔、泣く泣く買わされたモルト・ウイスキーの数々は店の「財産」になり、歳月を経て、店の「顔」(ウリ)にもなった。気が向けば時々、モルト好きの常連のために封を切ってきた。 そんな「財産」も今ではだいぶん残り少なくなってきた。でも、本人は気にしている様子もない。「酒なんて、飲んでなんぼですから…」と(写真右下=カウンターの背中側のキャビネットには、オールド・ボトルが並ぶが、一応非売品です)。 実は、Kさんの苗字は「Kimura」ではない。このBARはもともと東証1部にも上場している「木村化工機」という会社の、役員専用の会員制BARだった。そのBARが廃止になることが決まり、Kさんが買い受けたのがオープンのきっかけ。 しかし、KさんはBARの名前は変えずに、そのままにした。「長年親しまれた名前だし、そのままにしていた方が、前のオーナー会社の関係者もまた飲みに来てくれかもしれないと思って…」(写真左下=Stag Bar Kimura玄関へのアプローチ。赤レンガタイルの壁、アーチ形の天井が素敵だ)。 誰が付けたか知らないが、関西のBAR業界では、Kさんは敬意を込めて、「ウイスキー博士」と呼ばれる。普段は口数少なく、静かなKさんだが、ウイスキーの話になると、突然、目が輝いて話は止まらなくなる。客の初歩的な質問にも何でも優しく答えてくれるので、嬉しい限り。 ちなみに。「Stag Bar」とは「野郎たちのためのBar」という意味の俗語(前の会社の会員制時代から「Stag Bar」という言葉が頭に付いていたのかは聞き忘れたが…)。もちろん、今も昔も、「ウイスキー好きの女性も大歓迎です」とKさん。 今年で44年目になるという「Kimura」には、一時のはやりに流されない、時間と空間がある。時代とともに「変わるもの」もあっていい。しかし、頑固に「変わらぬもの」もあってほしい。何もないシンプルなカウンターで、ウイスキーを煤(すす)っていると、改めてそう感じる。【Stag Bar KIMURA】大阪市北区曽根崎新地1-6-21 イトヤビルB1F 電話06-6345-3650 5時~11時 日・祝休(新地にしては、とてもリーズナブル、良心的なお値段です)。
2005/07/09
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お待たせいたしました。「1日の日記」で紹介した「大阪(関西)難読地名駅名クイズ」の回答でーす(なお、1~20は大阪市、21~33は大阪府下、34~36は兵庫県です)。1.西中島南方 ( にしなかじまみなみかた=または、「みなみがた」とも)=淀川区。地下鉄御堂筋線・新大阪~梅田駅の間にある駅名です。駅をつくる際、付近にある「西中島」と「南方」という地名を合わせた安易なネーミング。「南方」の由来は「南の干潟」とか。2.十三 ( じゅうそう )=淀川区。淀川の上流から数えて13番目の渡し場であったことが由来という説が有力。阪急電車の京都線、神戸線、宝塚線が交わる大乗り換え駅にして、駅前には庶民的な大歓楽街を抱える。僕の大好きな、あのBAR「十三トリス」もあります(写真右)。3.御幣島( みてじま )=西淀川区。大阪・住吉大社に、中国・朝鮮からの貢ぎ物を運ぶために寄進された「幣島浜」の名にちなむとか。JR東西線の駅名にもなっています。4.柴島( くにじま )=東淀川区。「柴」で「くに」なんて、まず読めません。平安時代には「国島」だったらしいが、いつのまにか…。大阪市民には市営最大の浄水場のある場所としても知られる。柴とは、薪材のこと。昔は薪材に「クヌギ」がよく使われていた。「クヌギ」が転じて「クニ」になったという説も。5.河堀口( こぼれぐち )=阿倍野区。788年(延暦7年)、和気清麻呂が開削した堀の名が由来。堀自体は現存していないが、近鉄南大阪線の駅名にその名を残すほか、天王寺区には「北(南)河堀町」という地名もあるので、これも河堀口の名残かな。6.茨田大宮( まったおおみや )=鶴見区。日本書紀にも登場する古い地名という。「茨田」は「茨」の田、すなわちかつては湿地だったことを意味する。「大宮」は文字通り神社のこと。現在も残る「大宮神社」にちなむらしい。7.放出( はなてん )=鶴見区。大阪の珍地名の代表格。知らなかったら、他県の人にはまず読めない。関西人には昔、深夜時間帯のテレビで放送していた「ハナテン中古車センター」のコマーシャルでお馴染み。「あなた、車売る? 私、高く買うわ」というセリフとともに意味もなく、半裸の美女が出てきたりして、もうB級CMの横綱!だったが、同社は2015年、BIGMOTORに買収されて完全子会社となり、あのCMももう見られなくなった(写真右=ハナテン中古車センターのHPから)。8.道修町( どしょうまち )=中央区。薬といえば道修町、道修町といえば薬屋という言うくらい、昔から薬関係の会社や薬の卸問屋さんが密集しています。この界隈に本社を置く国内大手メーカーも多かったが、最近の業界再編で、本社を次々と東京へ移すところが増えて、昔の活気はなくなりました。9.丼池( どぶいけ )=中央区。船場商人の集まる街・丼池。今も繊維関係の卸問屋さんが軒を連ねています。昔は「素人さんお断り」と表に書いた店がほとんどだったが、不景気もあって、今では「素人さん歓迎」という店も増えた(写真右下=船場商人の故郷、丼池商店街の風景)。10.靫本町( うつぼほんまち )=西区。靫公園という有名な公園も近くにあります。靫とは、あのどう猛な魚。江戸時代、この地に塩干魚の商人が数多く住んでいた名残でもあるという。11.立売堀( いたちぼり )=西区。大阪夏の陣の際、伊達氏の陣所となったことから「伊達堀」と言われるようになったという説と、川を利用して木材の立ち売りが行われるようになったことからという説などいろいろありますが…。12.四貫島( しかんじま )=此花区。昔は海であった埋め立て地。江戸時代、この地を開発した人が「四貫文」で買い受けたという説が一般的だが、定かではない。13.波除( なみよけ )=港区。阪神高速道路の「波除」ランプ(入り口)でお馴染み。貞亨元年(1684)、大阪湾の河口に造られた人工の山「波除山」がその名の由来とか。14.遠里小野( おりおの )=住吉区。万葉集にも詠み込まれている古い地名。瓜の名産地で、昔は「瓜生野」(うりうの)と言っていたのが、転じて現在の地名になったという説が一般的。15.粉浜( こはま )=住吉区。この辺りはかつては海岸だった。古くは「粉洲」とも言った。きっと、粉を蒔いたように美しい砂浜だったのだろう。16.杭全( くまた )=東住吉区・平野区。中世には「杭全荘」と呼ばれていたという。「河川が杭状に分かれた地形から」とか「百済」がなまったとか、地名の由来には諸説ある。「杭全神社」というのが今もあります。17.喜連瓜破( きれうりわり )=平野区。「喜連」と「瓜破」という地名が一つになったもの。「喜連」は渡来人の「伎人(クーレン)」が住みついた、「伎人郷」がなまったものという説が一般的。「瓜破」は、当地の法師が瓜を割ってお供えしたことからとか、「瓜」の産地であったことからとか諸説あり(写真右上=「瓜破天神社」というのが今もあります)。18.野江内代( のえうちんだい )=都島区・城東区。地名ではなく、地下鉄谷町線の駅名。新駅の名を付ける際、付近の地名の「野江」するか「内代」にするかで地元で綱引きがあり、悩んだ市交通局は2つを単純にくっつけたのでした。19.蒲生( がもう )=城東区。ご想像の通り、古来この地が低湿地で、蒲穂の産地だったことが地名の由来という。ちなみに埼玉にも蒲生っていう地名がありますね。20.鴫野( しぎの )=城東区。昔はこの辺りも干潟が多く、鴫(シギ)が舞い降りてきたのだろう。ちなみに、叶姉妹は、あんなにセレブぶってるけど、意外や意外、大阪市城東区鴫野の出身という話を上沼恵美子がある番組で暴露していました(写真右=かつては、大阪城の城内に位置していた「新鴫野橋」)。21.富田林( とんだばやし )=富田林市、22.枚方( ひらかた )=枚方市、23.交野( かたの )=交野市。いずれも市名です。地名の由来は省略します。富田林市はあの夏の「PL」の大花火で有名。枚方市は、同市出身でV6の岡田准一クンが「名誉園長」をつとめる「ひらかたパーク」で知られる。24.樟葉( くずは )=枚方市。古事記には「糞袴」(くそばかま)とある。これが「久須婆」→「楠葉」→「樟葉」となったという説が信じられているが、はたして?25.私市( きさいち )=交野市。交野には「私部」(きさべ)という珍しい地名もある。私部とは皇后のために仕事をしたり、世話をしたりする役所だったという。結構由緒ある地名らしい。26.水走( みずはい )=東大阪市。阪神高速の渋滞名所、「水走」出口で有名です。僕は大人になるまで、「みずばしり」だとばっかり思ってました。豪族「水走氏」が住んでいたことが地名の由来とか。ちなみに現在、地元に「水走」姓はなく、子孫は東京在住という。27.弥刀( みと )=東大阪市。弥刀は「水戸」「水門」から転化したもので、河口の意。地元には「弥刀神社」もあります。28.布忍( ぬのせ )=松原市。地名の由来には「白い布を敷いて神を迎えた」とか、「布忍」という豪族がいたとか、様々な言い伝えがあるが…(写真右上=地元にある「布忍神社」の本殿。朱塗りが鮮やかです)。29.七道( しちどう )=堺市。天平年間の740年頃創建の、地元の寺、浄得寺に七堂伽藍があったことが地名の由来とか。南海本線に「七道」駅があります。30.淡輪( たんのわ )=岬町。日本書紀にも「田身輪巴」と見えるというから、相当古い地名のようです。昔は海もきれいで、海水浴場として賑わいましたが…。31.深日( ふけ )=岬町。漁港として、そして、淡路島とを結ぶフェリーの発着港としても有名だったが、フェリーは経営難で現在廃止になったとか。万葉集にも「吹飯」(ふけい)として登場、「吹飯」が「深日」になったのは江戸時代という(写真右下=南海電車・深日変電所。明治44年に建てられた赤レンガが綺麗な建物です)。32.箱作( はこつくり )=阪南市。古くから見える地名。かつて石棺をつくっていた職人がたくさん住んでいたことが由来という。33.堅下( かたしも )=柏原市。由来は定かでない。「続日本紀」にも「堅下郡」として登場するという。この辺りは、ブドウの産地として有名。34.売布( めふ )=兵庫県宝塚市。地元にある「売布神社」にちなむ地名。出雲風土記にも登場する「売布の社」が由来とか。阪急宝塚線には「売布神社」駅があります。35.清荒神( きよしこうじん )=同・宝塚市。これも阪急の駅名になってます。平安初めに開祖の地元のお寺「清荒神清澄寺」にちなむ。「火の神(台所の神)」として有名です。36.大物( だいもつ )=同・尼崎市。平安末期の古文書には「大物浜」として見える。地名の由来には定説はない。「大物主命」「大仏」「大きな材木」とかいろいろ。阪神電車に「大物」駅あり。【追記】この日記の執筆にあたっては、大阪難読地名がわかる本(創元社編集部編)ほか、多数の辞典、参考書、ホームページのお世話になりました。この場を借りて心から感謝いたします。
2005/07/05
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ギター(アコースティック)を手にし始めた頃、練習の手本にしていたアーティストは、いろいろいた。まず、ピーター・ポール&マリー(PP&M)、ブラザース・フォー、ディラン…。日本だと、加山雄三、フォーク・クルセダーズ、赤い鳥、岡林信康…。 アルペジオやスリー・フィンガー・ピッキングという基本を教わったのはPP&Mだが、ギターという弦楽器の面白さを一番教えてくれたのは、サイモン&ガーファンクルのポール・サイモンかもしれない。 サイモン&ガーファンクルとの出会いは、他の多くの人がそうであったように、映画「卒業」(1967年=写真左は、大ヒットしたサントラ盤)だった。映画館では、映画の筋書きよりも、その音楽の新鮮さに衝撃を受けた。 「ミセス・ロビンソン」などの歌はもちろんのこと、ポールのギターの奏法の素晴らしさ、表現力にもただ魅入られてしまった(映画「卒業」について言えば、6月8日の新聞には、「ミセス・ロビンソン」役を演じた女優のアン・バンクロフトさん死去のニュースが…。合掌)。 ただし当初は楽譜もなく、「サウンド・オブ・サイレンス」や「スカボロー・フェア」の、あの印象的な、独特のイントロは一体どうやって弾いているのか、解明できずに、悶々とした日々を過ごしていた(写真右下=S&Gのベスト盤と言えば、いろいろ出ているが僕はこれが好き)。 その後、映画のヒットのおかげで、日本で未発売だったS&Gの初期のアルバムも次々とリリースされ、楽譜も出回るようになった。「水曜の朝、午前3時」「パセリ、セージ、ローズマリー&タイム」等々(ちなみに、僕がハーブ栽培に興味を持ったのも「スカボロー・フェア」を聴いたのがきっかけ)。 僕は必死でコピーして、練習した。小柄で、きっと手も小さいはずのポールがあれほど上手く弾けるんだから、僕にもきっと弾けるはずだ、と信じて…。ポールのおかげで、僕のギターの腕もひと回り成長したはずだ(と思う)。 S&Gはその後70年に、「明日に架ける橋」(写真左下)というグラミー賞6部門を獲得する大ヒット・アルバムを出すが、その直後、なぜか突然、デュオの解散を発表してしまう(詳しい理由は今も、僕はよく知らない)。 ポールはその後、ソロで活躍、73年には日本に初来日し、僕は初めて生ポール・サイモンを聴くことができた(このコンサートでは、ポールそっくりの弟がゲストで出てきて、2人でギターを弾いて一緒に歌い、ファンにバカ受けしてたのを今も思い出す)。 S&Gは、解散したとはいえ、81年のセントラル・パーク・コンサートを始めとして、10年に一度くらいは“再結成”してはツアーに出たりしているから、不仲という訳ではないようだ。アートも解散後、次々と素晴らしいソロ・アルバムを出したが、大ブレークというまではいかなかった。 僕はその後82年、S&Gとしての初来日コンサートを、今は無き大阪球場で聴いた(この時のバック・ミュージシャンは、ドラムがスティーブ・ガッド、キーボードがリチャード・ティーら、凄いメンバーだった)。アートは、さすがに昔ほどの澄んだ高音は出なくなったが、素晴らしい歌声を聴かせてくれた。 ポールもアートも同い歳で、今年で64歳。彼らの公式HPを見ると、03~04年にかけて全米ツアーをしている(「小銭稼ぎの再結成」という批判はあるが、それでも昔のファンは嬉しい…)。もう一度、来日してくれたら、僕は、万障繰り合わせて行って聴いてみたい。
2005/07/03
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久しぶりに言葉の話題を(ただし、言葉といっても地名の話)。どこの土地に住んでも、初めて見る地名(や駅名)に戸惑うことは多い。「どう読んでいいのか、さっぱり分からんよー」と、困り果てた経験が皆さんもおありだろう。 かつて住んでいた徳島にも難読地名がいろいろあった。佐那河内(さなごうち)、宍喰(ししくい)、土成(どなり)なんてまだ簡単な方。鷲敷(わじき)や鮎喰(あくい)も、少し想像力を働かせればなんとかなる。だが、府中と書いて「こう」と読ませるなんて、「どこでいったいそうなるんだ」という感じだった。 地名は、方言同様、その土地の歴史や風土が詰まった「文化遺産」でもある。地名一つひとつに、人々の長い暮らしの歴史が染み込んでいる。行政効率の名のもとに、あるいは市町村合併という大義名分のために、消えて行った貴重な地名が何と多いことか。 吉良上野介邸があった「本所松坂町」という由緒ある地名は、今は大きく「両国」の中にくくられてしまった(写真左=現在の吉良上野介邸跡。両国3丁目にある)。 大阪ミナミには、かつて1970年代末まで、笠屋町、畳屋町、炭屋町など、文字通り、どういう職人たちが集まっていたかがわかる由緒ある地名が長く使われていた。しかし1981年、行政効率の論理が優先され、すべて東(西)心斎橋という味気ない地名に統一されてしまった(唯一、生き残ったのは「宗右衛門町」という地名だけ)。 個人的には、これほどの愚政はないと今も思う。あの大阪市なら、さもありなんというところか(一方で、十計町=かぞえまち=という加賀藩ゆかりの由緒ある地名を復活させた金沢市なんて、すばらしい土地もあるのに…)。 ミナミの住民たちは今も、比較的若い世代でも、鰻谷(うなぎだに=写真右下=現在の鰻谷かいわい)や三津寺(みってら)という、もうなくなってしまった地名を、普通によく使う。仲間うちでは、昔の地名の方がそのエリアや、イメージをうまく伝えやすいからだ(ただし、旅の人には、「その店なら、鰻谷にあるよ」とは決して教えたりはしないので、ご安心を)。 さて、首都圏から関西に就職、転勤、あるいは結婚で初めて来られた方は、この僕のブログに遊びに来られている中にも、何人かいらっしゃる。おそらくは、初めての関西の、いろんな難読地名・駅名に驚かれたことも多いに違いない。 以前、関東から転勤してきた社内の同僚のために、「関西弁クイズ(50問)」をつくった(4月23日の日記ご参照)。それとは別に「大阪(関西)難読地名・駅名クイズ」(兵庫県も一部含む)なるものも、つくってあげて、意外と好評だったので、ご紹介する。 もうすでに「誤読して→指摘され」の“洗礼”を受けている方も、そうでない方も、確認の意味で一度、以下のクイズに挑戦していただければ幸い。なかには僕自身、成人してかなり経ってから正しい読み方を知ったものもある。 「いまさら聞けない」地名の読み方。さぁ、8割できれば、貴方には「なにわの地名博士」の称号を贈りましょう(正解は、後日の日記で紹介します)。 【大阪(関西)難読地名・駅名クイズ】1.西中島南方( ) 2.十三( )3.御幣島( ) 4.柴島( ) 5.河堀口( ) 6.茨田大宮( )7.放出( ) 8.道修町( ) 9.丼池( ) 10.靫本町( )11.立売堀( ) 12.四貫島( )13.波除( ) 14.遠里小野( )15.粉浜( ) 16.杭全( )17.喜連瓜破( ) 18.野江内代( )19.蒲生( ) 20.鴫野( ) 21.富田林( ) 22.枚方( )23.交野( ) 24.樟葉( )25.私市( ) 26.水走( )27.弥刀( ) 28.布忍( ) 29.七道( ) 30.淡輪( )31.深日( ) 32.箱作( ) 33.堅下( ) 34.売布( ) 35.清荒神( ) 36.大物( )
2005/07/01
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