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同人誌の友人が伊豆で民宿を始めた。文章を書きそれなりに本も出し、それで満足できずに、何やら人間交流・観察の場を作りたがっていた。 逗子に住んでいた頃はよく遊びに行った。膝を痛めてからはちょっと遠のいていたのだが、膝の調子も良くなりだしたので、伊豆まで足を伸ばそうかと思っている。 冨士にも友人がいる。少しづつ動き出そうと思っている。
2007.01.28
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八王子・野猿街道で仕事。はじめこの野猿という文字を見て驚いたが、今ではしっかりと馴染みになっている。 日没まで仕事が続いた。4時45分。夕陽が山の端にかかった。すっかり太陽が沈むまで5分。富士山の北側で2月中ごろには富士山の頂に沈むだろう。 日中暖かくて防寒具を脱いだ。 帰りバスを待っていたが時間通りに来ない。南大沢まで歩いた。ショッピングモールを通る。まだ、増築の予定があるようだ。
2007.01.27
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仙道という仙人になる道を説いた教えがある。丹を獲得する。その丹に天丹・人丹・地丹があるという。 天丹とは瞑想・祈りなどで神仏と向きあう。呼吸法も入れていいと思う。 人丹とは男女の交わり、性に関することで流派によって教えが違う。 地丹とは食に関すること。何を食べればいいのか。薬膳とかダイエットというのはこの地丹の教えの応用編であろう。 旬のもの、生命力のあるものを食べればいいという。昔は食物が常に不足していたから現代のようにカロリー制限など考えに入らなかったと思う。 ポイントは『気』というもので気の交換・交歓・交感・好感であって、宇宙・神仏と交換・交歓・交感・好感、異性との交換・交歓・交感・好感、食物とも交換・交歓・交感・好感。気を通じるというのが全てに共通していることで、食事・献立に小宇宙を感じなければならない。 面倒な事だが少量の食事に小宇宙を感じて充足する、このプロセスを怠ると少量が大量となる。天地人のバランスが取れてこそ、ダイエットもうまく行くと思う。
2007.01.26
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今日は建築現場の応援。ご近所に高倉健が住んでいる。常駐の警備員は「毎日、見てるよ。ここ通るから」と言う。 私は十数回その現場に行っているが一度も見かけたことはない。今日はラフターが来ていて現場の前は片交。お昼休みも交替で警備に立った。12時過ぎ、黒っぽい外車。狭くなっているので誘導の合図。 車内は暗くなっていてはっきりとは見えないが、シルエットは確かにゴルゴ13風の高倉健だった。 この現場に常駐している警備員は昭和14年生まれの卯年。生めよ増やせよの時代で結構人数が多い。私が手袋にもカイロを入れていると言ったら、しかめっ面をされてしまった。『年寄りくさい事をするな!』という意味だろう。 見た目50代半ば、私より若く見える。
2007.01.26
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現場の前に古本屋、帰り3冊を買う。立原正秋『たびびと』文芸春秋・1977・3・20花田春兆『殿上の杖 明石検校の生涯』こずえ・1980・10鎌田茂雄・NHK取材班『大黄河 第四巻 仏陀の道』1987・2・8 立原正秋は知っているけれども彼の作品を読んだ事がない。幼い頃、家にあった青磁を割ってしまった。父親に言うと「いい機会だから割れ目をよく観察するように」という返事だったそうだ。 花田は出生時の脳性マヒで歩行起立不能の人。この小説は南北朝時代・琵琶法師のものらしい。
2007.01.25
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南大沢には3年前まで約2年間通った。警備員になりたての頃、8年前だが、何日間か通った事がある。縁のある場所ともいえる。 その記憶の風景からするとかなりくすんでいる。排気ガスの性だろう。この冬の季節かもしれないが。 自分が居たゲート、警備ボックスのあったところに大きな木が植わった。その木を毎年見に来ているのだが、去年は膝のこともあって、来なかった。 今日は何時ものコンビニで鱒寿司のおにぎりを2個買っただけ、今度は日曜日にでも来ようか。ここから小山田に抜けると直ぐに鶴見川の源流に行けるにだが、まだ、膝が本調子ではない。
2007.01.24
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「あるある・・・」が番組打ち切りとなった。始まったころは良く見たいたし、最近は時々は見ていた。ある時に「血圧」が話題になっていたが、日頃、病院や医者から言われている血圧と違った解説がなされていて、【おや?】と思った。 やはり無理があったのだろう。【紅の豚】さんのように【シャレ】と割り切るのも一つの見方だと思うが、【シャレ】が通用しないのがマスコミの世界である。 ある時期、高級チーズに凝っていた。グラムにすると高級牛肉より高い。高級品を少量食べる。これもダイエットの方法だと思うが、引っ越してこの習慣は終わってしまった。 お酒は一合くらいなら体に良いという。お酒の好きな人に聞くと一合飲んだら「さあ、これから」と止められるわけはないという。0か1か。その1の単位が合か升の違い。食べることも同じで、少食を続けていても、ある時、どっと元に戻る。 贅沢な悩みは続く。
2007.01.23
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今日の場所は永田町2-18だという。パソコンで調べると2-18には1と2があり、一つは衆議院議長公邸、もう一つは参議院議長公邸で、青山通りだという。 何時もは1時間も前に行ってその場所にどっかと座っているのだが、場所が場所だけに不審人物に間違われる可能性がある。 そこは30分くらいで終わって後は渋谷に移動。池尻で終わった。 東京都内、桧原村から永田町まで、今年は何処まで行くのだろうか? 明日は八王子。
2007.01.23
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空海がいて最澄がいて、後から法然・親鸞・日蓮・道元が出てきた。 全てに回答を用意した空海だったが、整いすぎて悩める人には無縁だった。来世・死後の世界に極楽があると説いた法然・親鸞に対し、現世にこそ極楽を求めるべしと日蓮が説いた。否、そのどちらでもなく人間の内側に真理を求めたのが道元だった。 それぞれ真理の側面を説いているが、側面でしかない。 それぞれの象徴として太陽との関係が面白い。夕陽を拝する法然・親鸞はその来世を説く。朝日を拝する日蓮は現世を説く。道元は座禅を薦めたが、それは日の出前が相応しい。空海は世阿弥同様、真夜中の太陽だろうか? 梅原猛・司馬遼太郎・清水幾太郎、それぞれの人達の本を読むとそれぞれの人達が到達して空海・法然・親鸞・日蓮・道元が見えてくる。 栄西の薦めるお茶を飲みながら、コーヒーでもいいのだが、言葉にしなかった先達達の世界を垣間見ている。
2007.01.22
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ゲーデルはナチスの迫害でアメリカに亡命した。で、市民権を取る為に審査官と面接、その前にアメリカ憲法を充分に調べたという。その結論は独裁者の出現を阻止できない欠陥憲法であるという見解をもった。 この意見で審査官と決裂寸前までいったのだが、アインシュタインのとりなしで事なきをえたという。 晩年は絶食による餓死であったという。
2007.01.22
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ゲーデルという名前は覚えていなかったが、この「不完全性定理」というのは岡潔の本に出ていた。ただ、この高度な数学上の定理と私の生活にどのような関係があったのか、よく分からない。 しかし、40年以上たって、こういう新書版でその意義が確認できるというのは楽しい事ではある。 梅原猛『シギと法然』この中に書かれている干潟の話。ラジオ深夜便で聞いたことがある。ちょうど、集中治療室に入っていたときで、もう8年も前。諫早湾は閉鎖された直後で、ムツゴロウの気持ちを諫早弁・伊東静雄の言葉で語るんだと言っていた。 仲正さんの本はお金・金融資本を縦軸にした文学論でもある。取り上げられた本は(1)『ヴェニスの商人』(2)『ファウスト』(3)『ドラキュラ』(4)『海辺のカフカ』など。アリストテレス・マックスウエーバー・マルクス・キルケゴール・アドルノなどの理論で料理されている。
2007.01.21
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(1)仲正昌樹『お金に「正しさ」はあるのか』ちくま新書 2004・10・10(2)高橋昌一郎『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』講談社新書 1999・8・20(3)宮沢眞一『「幕末」に殺された男 生麦事件のリチャードソン』新潮選書 1997・9・25(4)向井敏『海坂藩の侍たち 藤沢周平と時代小説』文芸春秋 1994・12・20(5)岩橋邦枝『評伝 長谷川時雨』筑摩書房 1993・9・1(6)梅原猛『シギと法然』文芸春秋 2000・10・10
2007.01.21
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『猫』は高校時代読んだ。100回以上は読んでいる。楽しい世界に入り浸っていた。40年ぶりに読むことになった。 2004年9月14日に五反田の新刊書店で買っている。もう漱石の歳は追い越してしまったが、新鮮な気分で読める。猫はクシャミ先生の日記をも盗み見している。 漱石→寺田寅彦→岡潔→中谷宇吉郎と読みすすんだのだが、もう一度、読み直してみようと思っている。
2007.01.21
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私が一番沢山読んでいる作家は司馬遼太郎だと思う。で、親しみを感じる反面、何か、物足りない。 読むと豊富な情報、決して損をした気分にはならない。元は取った。いや、それ以上のものを得ている。しかし、・・・。ということを繰り返してきた。 今回もその不満が奥さんの福田みどりさんに向けられていたということに気が付いた。奥さんの福田みどりさんも面白く楽しい人である。 思想・哲学には内容と様式があるという。司馬遼太郎の欠陥はその思想内容・情報ではなくその形式・様式・形態にあるのではないか? 今回一連のものを読んでの感想である。
2007.01.20
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地上波のデジタル化をどうして急ぐのだろうと疑問に思っていたのだが、自分がこうやって楽天でブログを3年書いて見ると、地上波の放送、ほとんど見なくなってしまった。 はっきり言って番組の内容、面白くない。あの低脳なコメンテーターに付き合っている暇はない。それよりブログの賢明な諸先輩の意見を聞いている方がいい。 しかし、世の中、共通の広場は必要で、地上波がデジタル化して各地のブログ世論を糾合できれば面白い番組ができると思うが、まだまだ、紆余曲折が続くと思う。
2007.01.20
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今日は大寒、朝からチラチラ雪である。 私が住んでいるのは横浜市だが緑区で地図で見ると江ノ島の真北に当たる。そのまま北上すると府中・国立・国分寺、所沢・川越・行田・館林・足利に至る。足尾銅山もある。 東の方は九十九里、市原、川崎、西の方は丹沢を越えて河口湖・西湖など裏冨士に当たる。引っ越して4年近くになって、はじめて地図で確認したのだが、これも休日だからこその楽しみである。 コーヒーを飲んでいる。コーヒー・メーカーで作るのだが自分が飲む分だけ。1杯目は濃いが2杯目、3杯目とだんだん薄くなる。この出がらしコーヒーが好きで気分がのんびりとなる。 朝、膝の治療に行った。途中、道路拡張工事で、その警備員は知り合いである。以前、応援に行った会社の人。何度か、その現場で会っている。一服のコーヒー代150円渡してきた。何時もは貰っているので今日はお返しである。 晴れていれば図書館に行こうと思っていたのだが雪の日、家で読書。
2007.01.20
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得意だった数学、高校時代に挫折している。もう、10年前だが娘達が高校生の時に夏休み数学の勉強に付き合った。以前から高校数学の参考書は持っていたので、それを見ながら解説したのだが、「成る程、こういう意味だったのか!」と内心思いながら説明を続けた。 nak1 さんの日記に高校時代の数学の勉強の様子を教えてもらったのだが、とにかく目の前のものを暗記していくという作業の連続だったと。 私の場合、目の前の「問題」に「自分で考える」という作業が入って、それを飲み込むという作業に抵抗していたようである。 この辺がある高度なシステムを受け入れるか否かの分岐点であったように思う。遅まきながら、楽天の日記で色々な人々の話に触れて反省しているところである。
2007.01.19
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「音」を「楽しむ」と書いて音楽(おんがく)と同様に、「数」を「楽しむ」と書いて数楽(すうがく)と読むようにしたらと思っている。 世に数学嫌いが多いそうなのだが、数学ほど面白いものはない。 小学6年の時だった。担任の先生が出張で自習になった。臨時に隣のクラスの担任が来て、問題を出した。「1から100までとか、ある数字まで順番に足して、その合計を求める公式がある」 興味のある人は考えてみたら? という。 当時、ソロバンをやっていて、1から100まで足すと5050になるということは知っていた。1と100から5050を導き出せばいいのだが、はて? どうするか? 授業時間は40分。その時間、考え続けた。で、5050というのは101に50を掛けた数だということに38分目くらいに気が付いた。「100に1を足した数字と100を2で割った数字を掛ければいい」 こう考えがまとまった時、先生は「教室を見回して、誰も分かった人いないよね」と言って教室を出てしまった。私は急いで後ろのドアから出て廊下で先生を呼び止めた。 先生は元々大きな目だったのだが、その目をもっと大きく丸くして驚いた。 中学の時、数学好きの友人(大学は数学科へ進んだ)と休み時間、複雑な虫食い算を楽しんだ。 最近では入院中、行列式の問題集をやっていた。以前、住んでいた川崎には大人の数学クラブがあった。一度、問い合わせたことがあったのだが、仕事の都合で行けなかった。数学の検定試験を受ける為のサークルということで、地域の情報誌に活動が載っていた。土地柄、富士通や東芝・日本電気などがあるところだから、数学好きな人が集まっていたのかも知れない。 しかし、年々、頭がボケてきている。早く勉強を再開しないとと、思っているだけの日々である。
2007.01.19
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昨日は片交・休み無しで4時間半。今日は道路中央部の黄色の線上付近で車線侵入禁止の合図。4時間半。前も後も大きなダンプ・トラックが通る。 軍手の手袋で口や鼻の周りを拭いていたら真っ黒になっている。排気ガスをもろ浴びての仕事。 疲れた。夜はぐっすりと眠れた。で、土曜日休む事にした。
2007.01.18
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今日、1月17日は阪神淡路大震災の日である。印南野きつねさんから「大震災の日に鎮魂の祈り」というコメントをもらったのだが、9月1日でもないのに何故・大震災の日?と思ってしまった。 すっかり多摩川の水に洗脳されている。今年に入って、仕事先が伝通院近くで2日。藤沢、福生で2日、秋川渓谷、座間、今日は八王子、明日も。 大阪を出て40年、東京に住んで32年。思い出の中の大阪が3年前から楽天を始めて、毎日のように情報が飛び込んでくるようになった。 福生に行った時、工事現場の警備員がアクセント関西風であった。で、「関西ですか?」と聞き、自分の顔を指差して「オレ、大阪!」という。こういうことはめったにしなかった。楽天のブログを始めてからで、この3年のこと。 「えぇ! どこ?」「西成」ちょっと間があって、「生まれは大正区なんだけど」また、ちょっと間があって「宝塚に引っ越した」という。普段使わない地名だから直ぐに思い浮かべられないのである。「こっち来て35年になるよ」 最近、テレビ・ラジオ・新聞とご縁をこちらから断ち切っているのだが、過去の記憶は向こうの方から断ち切られて来るようで、今年は私にとってボケ元年かもしれない。
2007.01.17
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明治維新後、紀州藩改革に実績のあった津田出(天保3年・1832・3・3-明治38年・1905・6・2)のご先祖が居た土地の話。 河内国交野郡津田城主だった。楠正儀の後裔、室町末、紀州に移る。藩祖入国以前からの住人。家禄は300石。 『大阪弁「ほんまもん」講座』・新潮新書の著者・札埜和男氏の出身地がこの交野である。この交野、古代は新羅系の秦氏が支配、弥勒菩薩を崇め、星の信仰を持っていた。織物技術を伝えた。時代が下って天皇が支配する土地となる。三宅とか私部という地名が残る。 桓武天皇はここで星を祭った。その母・高野新笠(にいかさ)は百済系で、薬師如来を崇め、妙見信仰が深く、鎮宅霊符信仰が浸透する土壌があった。 札埜さんの解説だが、子供が転んで足を怪我して痛がった時に、大人が「よしよし、大丈夫大丈夫、チンコのまじない、チンコのまじない」と言って指に唾をつけてなでる。 鎮宅霊神という中国の神様がいて、家の新築・移転の時の厄除けの符を出していた。この鎮宅→チンコとなったという。 ちなみに、私が生まれ育った西成ではこういうおまじないの言葉聞いたことがない。ただ、私が知らないだけかもしれない。
2007.01.16
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サウナに入ると気分が悪くなることが多かった。それでも、時々は入りたくなる。 今回、カイロで足先を温めて、膝が多少良くなったのだが、体全体が不調、基礎体力が弱まっているのだろう。
2007.01.16
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私は暖房の効いた部屋から寒い外に出ると直ぐに風邪をひく。で、極力、部屋の中では暖房を使わない。昨日から軍足にカイロを入れている。膝の調子がいい。それで、ずっとカイロを入れっぱなしにしていたのだが、これは暖房のつけっぱなしと同じ状態だった。 今朝、家を出ると寒気がする。途中、乗換駅でクシャミが出た。風邪をひいた。 帰って、直ぐに寝た。風邪薬も飲んだ。足をカイロで温めた。1時間半が限度である。ずっとお風呂に入っている状態と同じで、時々は靴下を脱いで冷やす必要がある。 膝は電車のシートに腰掛けても痛くならなかった。一歩前進である。
2007.01.15
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完全に膝の痛みがなくなったわけではないので、喜ぶのはまだ早いかもしれないが、痛みが弱まっているのは確かである。 痛風の時もそうだったが、痛みが消える瞬間がある。血流が活発になることで炎症部分が急速に回復した結果なのだが、まあ、気長にやってみよう。
2007.01.14
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岡潔から「あなたの文章は、作家学者のを入れて、いちばん数学のできる人の文章だ」と言われた事があるそうだ。 しかし、司馬さん、数学は不得意だった。で、最低合格点の弘前を選んで受けたのだが1次100人は通ったのだが、2次80人で撥ねられた。東洋史を勉強したかったのだが、国立大学で唯一入試に数学がなかった大阪外語大学を受験した。 そこで、モンゴル語、中国語、ロシア語を学んだ。軍隊に入って、満州の戦車隊に配置されたのだが、語学がその理由だった。弘前に入って東洋史を学んでいたら、フィリピンで戦死していた可能性が高い。 大阪外大→モンゴル語→満州→戦車隊→国内で訓練→終戦。何が幸いするかわからない。 こういう事情を岡先生にお話した。 岡先生は「日本の神様がそうして下さったのです」と、余り数学的でない宣託をした。 司馬遼太郎は「これジマンかな?」と産経の司馬遼太郎担当編集者・福島靖夫氏に手紙で語っていたそうだ。
2007.01.14
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納豆が品不足とか、日頃食べないので、影響はありませんが、大阪でのお話です。 20年ほど前から大阪でも納豆が普及し始めました。スーパーで売られるようになって、健康にいいということでした。 私が小学校5年の時(昭和33年、49年前)に、教科書に納豆のことが出ていました。先生は「大阪にはないんだけどね。だけど、納豆食べたことある人?」と聞きました。すると、1人、サッと手を挙げました。普段、目立たない大人しい男の子でした。 その日彼はクラス中の人気者で皆から次々に質問を浴びせかけられて、まるで宇宙飛行士でした。注目を浴びたのはその日だけでしたが。 私は40年前、東京に出てきた事に時にはじめて見ました。これが納豆か!以来、食べる時、40回目までは数えていましたが20年ほど数えるのは前から止めました。 心筋梗塞のリハビリのときは毎日食べていました。心臓の薬と合わないという情報があって、病院で看護婦さんに文句を言う人もいましたが、お医者さんに確認すると、「弁膜症の薬」で合わないのがあるとのこと。それ以外はドンドン食べてくださいという事でした。
2007.01.14
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【わが君のみ車にそふ秋川の 瀬音を清みともなはれゆく】*この歌は美智子皇后が皇太子妃の頃、作られたようです。 今日は武蔵五日市、駅前に皇后様の歌、石碑になっていた。シャルドネ。さんが皇后様のファンだそうで、「おみやげ」として掲載しました。 この五日市の駅から17Km奥まで山道を行きました。東京都内ですが秋川渓谷に沿った道。夜なら完全に凍結しているでしょう。4か所、道路標識の交換です。 昼からは里に下りてきて、八王子市内でした。終わりは多摩ニュータウン。 朝は横浜線で八王子、八高線で拝島まで、そこから五日市線。乗り換えに八王子で30分待ち、拝島で25分待ち。八高線で朝日が昇るのを見ました。7時。 帰りはモノレール、京王線、横浜線。十日市場に出て、DVDのレンタル屋へ。NHKの「街道を行く」を借りようと思ったのでしたがありませんでした。以前、見かけたのですが、借り手が少ないものどんどん入れ替えているようです。 バスで青葉台の新刊書店。「年をとったワニの話」を買おうと思ったのですが、ありません。この前見かけたのですが。 で、「もったいないばあさん かるた」を買いました。孫とやろうと思います。 セブンイレブンで「しらたき」を買って、夜の食事は「すき焼き」。今日一日、ピクニック・コースでしたから、最後は「すき焼き」でないと落ち着かないようです。
2007.01.13
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陸奥宗光(1844-1897)という人物がいる。紀州藩、脱藩して海援隊にいたこともある。西南の役で西郷に協力した土佐藩士と親しかったことで投獄されている。 大井憲太郎が元老院少書記官だった時の上司が陸奥だった。この時、意見が衝突、大井と一緒にケンカをして辞めた人物に中江兆民がいる。西南の役の1年前、明治9年のこと。 薩摩・長州・土佐・肥前に加えて紀州人脈も面白い動きをしている。 三井発祥の地・松坂は紀州藩であった。
2007.01.12
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家に帰って、急に横になると、心臓がアップアップしている感じで、動悸が不規則になる。今まで垂直だった体が水平になるわけで、心圧の調整が急に出来なくなっているのだろう。 パソコンは椅子に座ってやっているので、太腿部分は水平だ。 最近、図書館から借りた本を読むようになった。ある程度、集中的に時間をかけて読む。その時の姿勢は足を投げ出して体はソファーに寄りかかっている。ソファーに座っているわけではない。上半身は垂直で下半身は水平という状態。 全身垂直状態から半身垂直・水平状態を経て就寝という全身水平状態になる。期せずして図書館から本を借りて読んでいるというのは私の心臓にとってよい事なのかもしれない。
2007.01.12
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数日前から、軍足にホッカイロ、貼っている。午後9時が過ぎると足先が冷えてくる。軍足・カイロ・軍足・軍足と、計三足。朝まで暖かい。膝の調子も気のせいか良いようだ。 10日ブランクがあるとまだ、体、本調子ではない。 頭寒だから、今日から頭を冷やそうか? 本の読み過ぎかなー?
2007.01.11
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今は法務省というが、昔は司法省といった。警察は内務省の管轄で、検察は法務省。このルーツは明治維新まで遡る。 その司法省の設立目的は江戸時代を引きずった内務省・警察・行政を近代的な法律によって運営されるように監視・監督するためだった。 明治5年、判事とは別に、公益の保護者として検事の職制が定められて、公訴の提起、刑の執行監督を行わせた。【司法職務定制】 それまでは代訴は禁止されていた。その伝統的原則を廃止、証書人・代書人・代言人の制度が定められた。 弁護人の制度確立までには、まだまだ、時間がかかった。 『大井憲太郎』の本に出ていた。初めの目的が時を経て全く違った組織になってしまった。常に新しいシステムを模索する努力が必要だと思う。
2007.01.10
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透明水彩を習ったことがあった。普通の絵の具と違って、下の色彩に上の色彩が重なって、新しい色になる。 最初は基本色、黄色、青色、赤色の3色で、抽象的な図形からはじめたが、自分の内面がその画図に現われてきて面白かった。 この透明水彩の作品展示会が予定されていて、久しぶりに行ってみようかと思っている。●ダニエル・モロー展●色の語らい・100人展
2007.01.10
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福田みどりさんは夫・司馬遼太郎の事を「司馬さん」と呼んでいたという。それでタイトルに『司馬さん・・・』となったようだ。 電話の会話中でもこの「司馬さん」が出てきて、阿川弘之さんからは「あなたねー・・・」とはっきりと注意されたことがあるらしい。 新しく来たお手伝いさんから仕事の説明の後質問を受けたという。「『アタシントコ』ってどういう意味ですか」 自分の夫のことを「アタシントコ」と言っていたわけで、そのお手伝いさんは高知から来たばかりだったそうだ。 夫・司馬遼太郎のことを書き始めるのに7年の歳月を要したというのは肯けることだ。彼女が産経新聞に入ったのは20歳。昭和24年の事。その前年に司馬遼太郎が入社している。 結婚は昭和34年、遼太郎36歳、みどり30歳。直ぐに会社を辞めて専業主婦になって欲しい遼太郎の意見を退けて、5年間仕事を続けた。 10年、同僚だったわけで、それは福田定一だった。みどりさんとって司馬遼太郎はフィクションの世界の人で「司馬さん」と呼ぶのがごく自然なのかもしれない。 舞台裏を語る中でいろいろなヒントをこれからも提供してくれるであろう事を期待したいと思っている。
2007.01.10
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みどり夫人、昭和4年生まれ、インタビューは1996年の6月。亡くなって4か月。 「全体がフィクションの人でした」という。 微笑ましい写真があった。文化勲章授賞式の日、二人並んだ記念写真。みどり「うちのお父ちゃんなぁ、文化勲章もろてんで!」遼太郎「そう、いいないなぁ。この国のかたちに、いちゃもん付けてんねんやからなぁ」という、やりとりがあったかも知れない。【あくまでも推測】 統帥権を問題にしていた。そのために『この国のかたち』を書いていた。
2007.01.09
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本年・初仕事。道路の使用許可が今週からでないと下りなかったからだ。 タップリと休んだので、朝の電車、渋谷までの30分で少し酔った。ひ弱な・お坊ちゃま(笑)として育ったもので。
2007.01.09
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神近市子:明治21年(1888)6月6日ー昭和56年(1981)8月1日 彼女を有名にしたのは短刀で大杉栄の首を刺した「葉山日陰茶屋事件」これで2年の刑を受け八王子刑務所に服役している。 彼女の大杉栄評:もって生まれた貴族趣味がわざわいして、ついに大衆の心を掴むことができなかった悲劇的人物。 この人、徳川義親(1886-1976)と時代が重なる。殿様と農村部(長崎)に居た医者を兄に持つ娘。普通にお嫁に行っていたかも知れない。しかし、彼女は殿様と人脈を共有する。 吉田一である。彼がソ連に行く資金300円を彼女が提供している。殿様は吉田一を好意的に語っているが、彼女は手厳しい。その人柄の面白さは認めるにしても革命家としての理論水準は落第であるという。 長崎の女学校では飯田マサ(後の中山マサ・池田内閣の厚生大臣・女性初)と同級で仲良しであった。 津田塾に入学。当然、津田梅子から指導を受けている。在学中に青鞜社に参加。しかし、文学結社が政治結社化したと有志で新しい雑誌を作る。顧問に森鴎外、寄稿も約束。 竹久夢二の家に集まって、「本読み」をする。一番人気のあった作家は泉鏡花だったという。そして、新聞記者に。 その人脈が大杉栄につながっていく。
2007.01.08
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壇一雄『火宅の人』のモデルになった女優さんである。【入江杏子(いりえ・きょうこ)】昭和2年(1927)大阪生まれ。福岡高等女学校卒業。舞台芸術学院を経て、昭和26年劇団「民藝」付属演技研究所に入所。昭和31年同劇団に入団。以後、舞台女優。 彼女のお父さんは大阪毎日新聞の記者。大阪NHKの開局に関わる。理事をしていたが半官半民になり、役人とケンカ、一家で福岡に引き上げる。ある日のこと壇「お前さん、太宰に会わなくてよかったよ。会ってたら恋仲になってたね」入江「どうして?」壇「いやー、似てるんだよ、物の譬えとかさ、比喩の仕方が似てるんだよ」入江「ふーん」気持ちが通じているようで通じていない。彼女はこの本を書くためにやっと『火宅の人』を通読できたという。あるものを共有している男と女が居て、その共有を確認する作業は膨大な時間とエネルギーが必要で、その為に何度も輪廻転生を繰り返している。『火宅の人』という作品、まだ、読んでいない。たぶん、読まないと思う。
2007.01.08
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(1)平野義太郎『大井憲太郎』吉川弘文館・人物叢書・1965・10・10(2)入江杏子『壇一雄の光と影 「恵子」からの発信』文芸春秋・1999・9・20(3)神近市子『神近市子自伝』日本図書センター・1997・2・25 *底本:神近市子『神近市子自伝 わが愛わが闘い』講談社・1972(4)夕刊フジ・産経新聞・編集『みどり夫人「追悼の司馬遼太郎」』 産経新聞ニュースサービス・1997・1・30(5)福田みどり『司馬さんは夢の中』中央公論社・2004・10・10(6)福田みどり『司馬さんは夢の中 2』中央公論社・2006・1・10
2007.01.08
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司馬遼太郎が何時も言っていたそうだが、「新聞は休刊日が出来てから悪くなった」24時間体制というのは情報産業の基本でその基本体制を守る努力をしなくなった。 これは宅配体制を維持する為の、宅配店サイドからの要請だったのかもしれないが、この宅配をも含めて、もう一度、【休刊日の廃止】を検討してもいいと思う。 ネット配信用の新聞を24時間にして、それで広告が確保できれば、宅配制度は自然消滅すると思う。 絶滅種として、補助金対象産業の指定を受ける、その為の検討の方が現実的かもしれない。
2007.01.08
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フラメンコ≠スペインだという。フラメンコは踊りではなくて唄、それもスペイン南部アンダルシア地方の唄だという。 スペインは地域で全く違う音楽が存在する。以下は天本さんの解説。●スペイン西北・ポルトガルの上。ガリシア地方では、「ムニェイラ」という音楽。「アイラーラ、アイラーラ」という掛け声、聞いたような気がする。●中央北部・アストリア地方では、「アストリアナーダ」という音楽。のんびりした広い広い平原を歌う。●北東部・バスク地方では、笛・太鼓が使われる。フラメンコとは似ても似つかない音楽。●南東・バルセロナを中心のカタロニア地方では「サルダーナ」という音楽。笛・小太鼓・葦笛、足のつま先を軽く動かす、ギリシャ民族のなごり。●アラゴン地方では「ホタ」跳びはねる。また、フラメンコにもいろいろあるという。トナー・マルティネーテ・シギリージャ・ソレア・サエタ・ペテネーラ、その総称をカンテ・ホンド。カンテとは唄、ホンドとは深い、深い唄・・・それがフラメンコだという。トナーは無伴奏、唄だけ。マルティネーテは鍛冶屋(ジプシー独特の職業)がハンマーで鉄を叩きながらリズムをつけて唸るように唄う。だから、伴奏はハンマー。死に直面して生を見つける、これがスペインだという。
2007.01.07
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この本を借りたくて図書館カードを作った。天本英世(1926・1・2-2003・3・23)福岡県北九州市若松区生まれ。生涯独身。遺灰は遺書通りに2005年10月、スペイン・アンダルシア・グヮダルキビール川源流に撒かれた。 【生涯独身】の理由。昭和23年春、七高を卒業して東大法学部政治学科に入学した。しかし、当時、天本さん(23歳)はある女性と恋愛関係にあった。下宿屋の奥さん、未亡人で子供が3人いた。年は11歳上。京都出身の和服の似合う美人だった。 その関係は東京に行っても続いた。勉強が手につかず、結局、中退。俳優になる道を選んだ。28歳になっていた。 その頃、フランスの俳優・ジャン=ルイ・バローに似ていた。『天井桟敷の人々』『しのび泣き』という映画に出ていて、天本さん、自分でもそう思ったという。 競演の女優さん達の間でも評判になっていたという。その女優さんというのは、岸恵子・久我美子・高峰秀子で、木下恵介監督の葬儀の時に久我美子さんから聞いたという。 今の日本人は自由な発言が出来るのにやっていないという。戦前の大本営発表と同じ状態だと憤る。その為にこの本が書かれたのだが、本当に『遺書』になってしまった。
2007.01.07
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これは『marrying buddha』の訳である。英語のを読みはじめたのだが、私の英語力では3年はかかる。丁度、図書館にあったので借りてきた。 現代中国・女流小説ということか、この衛慧という文字には見覚えはあるが、手にとって見るということはなかった。 何処の社会も女性が強くなっている。元々、中国には逞しい女性が居る。それが顕在化したということか。 西洋の文化で育った中国娘がニューヨークで4分の1イタリアンの日本人と出会って、東洋の神秘主義に目覚める。しかし、心の拠りどころは禅の仏教。 そして、イタリア人のプレーボーイと二股交際。身ごもったけれどもどちらの彼の子であるか分からない。 彼女の内なる声は marrying buddha とささやく。
2007.01.07
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昭和20年、司馬遼太郎22歳、学徒出陣で満州の戦車隊に配置されたが、5月内地に呼び戻されて、栃木県佐野で終戦を迎えた。 郷里は大阪である。職を探していた。今里の闇市で電柱に貼ってる募集の文字を頼りに、ある小さな新聞社を訪ねた。「新世界新聞」海軍の元学徒兵と一緒だった。彼が強引に頼み込んだ。テストは100行の記事を書くことだった。 その新聞社は大阪市生野区猪飼野にあった。そこでベテランの記者から記者魂を学んだ。特ダネとは如何なるものか? どう書けば優れた記事になるか? 「無償の功名主義」 処世術も教わった。書くことは剣術なりということか。 そこは5か月で辞めた。一緒に入った元海軍が上司とケンカしたからだった。その元海軍、関学の出身で先輩の記者を産経に見つけて就職を頼み込んだ。時期を待てということで、京都の「新日本新聞」を紹介される。そこは個性派揃いの梁山泊だった。 産経新聞に入ったのは2年後、昭和23年6月のことだった。 平成8年2月12日、司馬遼太郎・福田定一は亡くなった。享年72歳。もう10年も経っている。前年、オウム騒動があった。山折さんとテレビで対談していたが、その同じ対談をラジオでも聞いた。声が怒っている。表情は柔らかだけど、本心から怒っているのが声だけだと分かる。 この本はその4年後に出ている。墓碑銘・長い墓碑銘である。鶴橋のあのガード下を22歳の司馬遼太郎が歩いていたというのは嬉しいことだ。
2007.01.06
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春の小川という歌がある。あの小川、渋谷の小川だそうで、現在は暗渠になっている。その昔、春の小川の岸辺だったところに木造モルタルのアパートが密集しており、その中の一室に寺山修司は住んでいた。 加賀まりこを神楽坂の通りでスカウトして20年は経っていたと思われる。 暴力には2つあるという。下から上に向けられる暴力をヴァイオレンス、上から下へ向けられる暴力をフォース・権力。 寺山は言語に即した場合、活字は権力的であり、話言葉は暴力的だという。 ブログの時代、寺山が生きていたら何と言うだろうか?
2007.01.06
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私は大阪を出て40年になる。大阪→東京→金沢→岐阜→東京→川崎→横浜という経路を辿って4年前から横浜に住んでいる。横浜といっても山奥の方で多摩丘陵に近い。 両親が健在の頃は子供を連れて時々大阪に行く事もあったが、両親が亡くなり親戚とも疎遠になって、大阪は私にとって記憶の彼方、横浜に引っ越したのを機に、その記憶にも封印しようと思っていた。 しかし、人生・どんでん返しが起こるものである。3年前、娘達から楽天のブログを書くように勧められた。何やらこの父親、本はよく読んでいるらしい。本の紹介をさせて点数を稼ごうという目的であったらしいのだが、この父親の読んでいる本は楽天では点数の対象にならないものであるという。 娘達からは見放された訳だが、ブログは続けて書いている。コメントを貰ったり、リンクしたりと交友関係が増えて行ったのだが、その殆どが大阪・関西方面の人達である。 40年前ならぬ、現在の大阪が毎日のように私の生活の中に飛び込んで来るようになった。 で、大阪関連の本も読むようになった。この富岡多恵子さんの本は初めて読む。私が知っている大阪は自分が住んでいた南方面で、具体的に言うと南海本線の西側、関西本線の南側であって、その他のところは殆ど知らない。 知っていると言ってもテレビや新聞を通じてであって、それだと他の人達と変わらない。 この釈迢空という人については学校で習った。折口信夫ともいう。国学院と関係があった人で、新聞記者時代、国学院の人との付き合いがあって、よく耳にした人物だったが、大阪と関連付けることはなかった。 しかし、自分でも和歌を詠むようになって、大阪に関することを発言すると当然知っているべき人物となる。遅まきながら、空白欄を埋めなくてはならなくなった。 折口の生まれた木津は私の住んでいた西成に近い。また、奉職していた今宮中学は近所である。また、養子にした藤井春洋(はるみ)の出身地・羽咋にはよく行った。彼は今話題の硫黄島で戦死した。 明治30年代に盛んになった「新仏教」運動ともかかわりがあるらしい。 小説家としての宇野浩二、詩人としての小野十三郎、歌人としての釈迢空、皆、大阪の出身でそれぞれが大阪について語っているが、その切り口が違う。 富岡さんの本は何度もレポートすることになると思う。
2007.01.06
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神田生まれの神楽坂育ち、根っからの江戸っ子である。お母さんは神田小町と言われるほどの和風美人で、祖母は松本亭の女将。この女将は伝説的な人物で、川合貞吉が本にしている。神田錦町の松本亭には、田中正造・幸徳秋水・犬養毅父子など出入りしていて、当時の壮士の拠点であった。 21歳の彼女が川端康成をダチ扱いするのは、この女将の孫であれば当然かも知れない。 17歳の女子高生の彼女を神楽坂でスカウトしたのは30歳くらいの男2人。この2人、映画の脚本を書いていた寺山修司と松竹映画の監督をしていた篠田正浩だった。この2人、困っていた。 その事情を東北訛りの寺山が説明した。主演俳優が所属プロダクションともめて、相手役の女優候補を全部そのプロダクションに潰されてしまって、新人を起用するしかなかった。 その寺山達の哀願する姿は江戸っ子・まりこの心を動かすには充分だった。彼女の父親は大映映画のプロディーサーだった。父親の許可は直ぐにおりた。 神田神保町の古本屋で立ち読みをするのが彼女の日課だった。本に折り目をつくったが、店主は見逃してくれていた。しかし、渋沢龍彦のサド全集に折り目をつけたときは、店主は怒って買ってくれという。その本は今も彼女の本棚にあるという。
2007.01.05
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去年の2月にDVDを見ている。最後の乱闘シーン以外は原作通りの映画。 ロココの事をここまで的確に解説してくれたのはこの著者が初めてである。 この主人公・桃子のように【ダチ】に期待しない生き方、今のような情報社会に生き残こっていく為には必要な哲学の一つだと思う。 しかし、その冷徹な哲学の持ち主がどうしてロココという形態を選んだのか? 今一よく分からない。 ロココの芸術に対して百科事典学派のディドロは痛烈に批判しているらしい。しかし、おフランスに発祥した【お耽美】な生活芸術はロリヰタという名称の元に世界の僻地・東京にストリート・ファッションとして登場し、時代と共に○○族という、彼等が出没する【通り名称】がマスコミから与えられていたが、この下妻物語によって、【通り】から【奥座敷】に定着したのかもしれない。 ヤンキー、これも暴走族というストリート・ファッションなのだが、これはおフランスというより、ご当地・日本産の風習である。 アナーキー・パンクの個人主義・ロリヰタとダチ至上主義ヤンキーの結合を模索する野ばら先生の紙一重エンタテナーは、これからも注目に値する。
2007.01.05
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図書館カードを作った。6冊を2週間借りる事が出来る。(1)加賀まりこ『とんがって本気』新潮社・2004・1・30(2)天本英世『日本人への遺書(メメント)』徳間書店・2000・1・31(3)寺山修司『暴力としての言語』詩論までの時速100キロ 思潮社・1983・7・4(4)衛慧『ブッダと結婚』泉京鹿訳・講談社・2005・5・30(5)富岡多恵子『釈迢空ノート』岩波書店・2000・10・25(6)石井英夫・皿木喜久・鹿間孝一 『新聞記者 司馬遼太郎』産経新聞社・平成12(2000)2・12◆今日から仕事のはずが、連絡が来ない。まだ、本格始動ではないらしい。道路は来週からだから、まあ、昨日までは正月休みで今日からは待機休み。で、散髪にいった。1000円の例のチェーン店。長津田にも出来たのだが、今まで行っていた小じんまりした鴨居まで行く。理由は話し声が聞こえるからである。大きいところだと騒音がひどくて会話が聞き取れない。大声を出すほどのことでもないし、また、この季節、鴨居駅の改札を出て真正面に富士山が見える。 十日市場で下りて図書館へ。いつもならその足でDVDのレンタル屋に行くのだが、本を6冊、先ずは家に帰ることにした。
2007.01.05
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以前だとこの年末年始、多摩丘陵を歩き回っていた。仕事で巡回警備があって、8日間の内半分の4日間は仕事だった。定期があるので交通費はタダ。 都会近くの自然、国木田独歩の武蔵野ではないがそれに近い風情が残っている。大阪のゴミゴミした街中で生まれ育ったので、そういう環境も懐かしいし、精神的にも寛ぐのだが、また、里山の風情にも憧れがある。 今年は膝のこともあって、寝正月。読書三昧というわけでもないが、落ち着いて本が読める環境だった。 テレビを見ないし、ラジオも聞かない、新聞も読まない。ネットでのニュースで情報は充分である。 年賀状は15通。一頃の半分。 ブログは辻説法に似ている。楽天市場の辻で皆がわあわあ騒いでいて、それを喫茶店の椅子に座って眺めていて、自分もその騒ぎの中に時にお立ち台に立って、・・・。 この次の形態が、どうなるのか?
2007.01.04
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息子である林武が『日本語原学』という本を昭和5年に出していなかったら、完全に人々の記憶から林甕臣の存在は消えていたと思う。 林甕臣の「一音一義」説は現在の言語学者からは評価されていない。しかし、『日本語原学』の序文は上田万年、新村出といった日本を代表する言語学者が寄せている。が、その文章をよく読むと【お義理】であることが分かる。 捨石という言葉があるが、日本言語学の【捨石】に甕臣の一音一義説がなっている。これはこれで評価すべきである。 この捨石の上に金田一・福田の表記論争があり、時枝・三浦と続く、言語過程説があり、日本語および言語の本質とは何かという哲学的問題の追求となる。 もう一つ、この甕臣・武、父子の残した証言はアーネスト・サトウとの関係である。 明治革命は平田神道の過激な一派が関わっている。そして、革命数年にして挫折した。その事情をアーネスト・サトウはこの甕臣から聞かされている。東洋文庫『アーネスト・サトウ 神道論』には甕臣の名は何処にも出てこないが、あの短期間に日本の宗教事情・神道事情をサトウが把握できたのは甕臣のレクチャーのお陰だと言うのは推察できる。 今の並みの日本の評論家以上に神道についてサトウは把握している。さすがは英国の派遣した通訳官である。日本の根本的な神学が英語で語られているというのは戦後に始まったのではなくて明治初年からの出来事だったのだ。 国学院は神道の現在の建前に阻まれて本当の意味での研究をしている人が疎外されている。これは何処の世界でも同じで、甕臣の場合、国語学・言語学・宗教学と幅があったので、今日検討すべきテーマを残してくれたことになる。 後、西郷からと頭山、宮崎につながるアジア革命人脈とのかかわりもある。金田一さん、ぼやぼやしてると捨石が叫びますよ!
2007.01.04
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