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いよいよ真夏日到来。かんかん照りに路面の照り返しも強くうだるような暑さです。二十歳の頃、今日の様な炎天下、早朝から日没近くまで汗流す飯場生活を送っていました。そこは中国自動車道建設工事現場でした。真夏、私の夏休み。黒部ダム工事「黒部の太陽」の石原裕次郎青函トンネル掘削大工事「海峡」の高倉 健・・大工事を成し遂げるために生きる男達・・・しかし、格好いいイメージには程遠い。昔、日活映画の渡り鳥シリーズあの小林 旭が主演する映画によく登場するシーン。山間の工事現場に、つるはしを持った荒くれ人夫を荷台に乗せて、トラックが土煙を上げて走っていく。まあこんな感じでしょうか。いやだいやだと思いつつ、日が昇り始める早朝から天井のないトラックの荷台に乗せられて現場に向かう麦わら帽子姿の私。やがて日没には、へとへとでまた荷台に乗って飯場に戻るのです。兄貴と称するチンピラ風と手下風。孫受けのまた孫受けの様な不可解な二人に集められた、我々若者数人によるたこ部屋生活でした。かくして中国自動車道は完成した!まるで私が造ったようですが、山の斜面を転がるように上がり下りして、どこか側溝の一部造成を請け負ったに過ぎません。しかし例え一部としてもなんとなく「やった」が残る私の思い出です。帰省の折には必ず通るその高速道。多分この辺り・・を走りながら、ひとり心の中に思い出すあの夏の日。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。平和と希望そして、愛のシンボルマーク☆ このロゴは、特定の組織や団体とは無縁のマークです。(転載フリー画像)戦争や飢餓や暴力のない平和な世界。弱者を思いやる「豊かな感性」を世界中の人たちの心に!!と願い、「平和と、希望と、愛」のロゴマークは作成されました。 勇気と愛のパワーを秘めていますからきっと、あなたの試練や苦悩を解消して、希望と幸せを運んでくるはずです♪☆ 触れ合う人達の喜ぶ姿を我が喜びに♪~お友達にこのロゴを紹介してください。あなたの心に灯った、一本の小さな愛の灯が、やがて世界の闇を無くす大きな光になることでしょう。☆ 「幸せを呼ぶバッジ」が、楽天さんで販売開始されました。「世界のコイン」や「エジプトキーホルダー」も売っています。どれも幸運を呼ぶ、心のこもった品々です。。経費を除いた利益は、全額が奉仕活動に使われます。バッジの会HPができました☆撮る事の楽しさを教えていただいた、優しさに溢れたお隣さんブログです↓☆北九州市詩的写真集☆花・空・海・無料素材ブログ新刊!リーダーのための「イソップ童話」の正しい読み方よびりんさんの新刊誰も教えてくれなかった社長業新刊『半分の法則』↓人生に・経営に成功する半分の法則半分の法則応用編
2009年08月10日
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沢田研二さんが、60歳を迎えての記念コンサートをしたとTVで垣間見ました。が、しかし・・絶句であります。よく肥えられましたね。まるでメタボリックロッカーであります。沢田研二さんといえば、ソロでも随分と活躍したのですが、ソロになるその以前は、グループサウンズ全盛期のザ・タイガースとして、堺正章さんのスパイダースやブルーコメッツと、数あるGSの中での人気は断トツでした。GS(ガソリンスタンドではありません。グループサウンズであります)のなかには、萩原健一ことショーケンがリードボーカルをしていたザ・テンプターズというのもありました。そのザ・テンプターズの演奏を、銀座にあったライブハウスACB(アシベ)で観ました。高校の修学旅行の時でした。コーク付きで450円だった?遠い遠い、昔の思い出です。そんなGSやビートルズやローリングストーンズが流行っていた時代。そうそう、高校一年の時には、加山雄三さんも、あの大ヒット曲「君といつまでも」をひっさげて歌手デビューしたばかりでした。それから市川染五郎の「野バラ咲く路」も大ヒットでした。よく歌番組に出ておられました。この歌は、当時の私にとても新鮮に聴こえてきて、私の大好きな曲でした。野バラ咲く路もちろん今の染五郎のお父さん。資生堂のMG5と好みを二分していた、ライオンから出ていた硬派的「バイタリス」という整髪料のCMにもお父さんは出ていました。精悍さがあり格好よかったです。あの頃と今も、市川幸四郎さんは変わっていないような気がします。あの時代聴いた多くの思い出のレコード、押し入れのどこか隅に今もあると思います。そのGS時代。私の青春高校生は、学校にエレキを持ち込み練習。夜は、バンド仲間の1人の家が経営するダンスホールで演奏。夏祭り、運動会、キャンプ場・・いろんなところで、5人で演奏していました。そうそう演奏大会にも出場しました。もちろん見事三位入賞です。審査員のなかに、バンド仲間の1人の親父がいました・・・ “^_^”色あせた懐かしき一枚。↓田舎のザ・タイガースです。今は・・・沢田研二さん同様、メタボリックのどつぼにはまっています。ところで・・・ここだけの話ですが・・・私、ベースやっていたんですが、実は、音符読めないんです。^_^;美空ひばりさんも確か読めないのです。(^^)爽やかさ溢れる?田舎のジュリーランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。撮る事の楽しさを教えていただいたお隣さんブログです↓北九州市詩的写真集☆花・空・海・無料素材ブログよびりんさんの新刊誰も教えてくれなかった社長業新刊『半分の法則』↓私はもう読みましたよ。とても為になり誰もに役立つ、目からウロコ的法則。人生に・経営に成功する半分の法則半分の法則応用編
2008年06月29日
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財産なりし我が青春~胸いっぱいの幸せ振り返れば、充足感に満たされ送った日々と、必然的出逢いというものに恵まれた青春時代。真夏、古い木造家屋の屋根瓦を焦がして陽射しは室内まで攻め込み、窓を開け放って、ランニングシャツ姿に、手にした団扇(うちわ)でばたばた顔に風を送りながらも、いっこうに火照る身体は癒せず、いまどきのように扇風機もエアコンもない時代に、しかし板塀の向こうに見える青空は素晴らしく心地よい風景だった。梅雨の季節、瓦を強く打つ長雨も、地面に伝い落ちる雨だれの音も、それはそれで心地よく耳に響いてくる。例えば冬には、閉めた戸のあちこちから吹き込む寒風に、できるだけの着込みをして身を縮めながらも、小さな炬燵ひとつで温もりは必要十分に感じることができた。直径1M弱幅程のポリ製のたらいは、洗濯に行水にと、結構便利に利用し、家賃4,500円、四畳半の我が部屋はパラダイスだった。関係者に迷惑を掛け、親に甘えての学生生活は、緩やかに流れていく四季の移り変わりのなかで、それなりに個人の成長過程での精神のぶつかり合いはあっても、気持ちだけは真っ直ぐ突き進み、何はなくとも私の心は幸せな充足感で満たされていたのだ。友のなかでもKさんには特にお世話になった。Kさんは一期後輩になるのだが、私より年上だった。ある年の瀬。帰省できずに年を越す事になった私。同じく留まることにしていた彼は、食べるものにも窮していた私に、「○○さんうちへ来ませんか、食べるものを用意しておきますから・・」いつもの飾り気のない、しかしとても優しく温もりのある口調で声を掛けてくれたのだ。彼の部屋に行くと、彼は仕入れてきたという一匹の鯛を七輪の上で焼き始めてくれた。やがて焼きあがった一匹の鯛。彼はその鯛に真半分に箸を入れ、笑顔で、そしてやっぱり穏やかな優しい口調で私に勧めてくれたのだった。アパートの一室で過ごす二人の贅沢な新年だった。私も彼も、巧みに言葉を流していけるタイプではなく、だからこそ、ぶっきらぼうなやりとりがまた程よく互いに気を使わなくて楽であった。ぼそぼそと、Kさんが発する言葉には、いつでも気持ちがこもっていたし、Kさんは何より人としての懐の深さを持っていて、今以上に精神的に未熟だった私はというと、振り返っても恥ずかしくなるほどの接し方しか彼にできなかったのだ。そして、後輩ながら年上のKさんは、そんな年下の私をいつも広く優しい心根で立てて付き合ってくれたものだ。バイトに明け暮れ、時にチキンラーメンをかじりながら、そして大失恋も経験しながら・・そう、その失恋に打ちひしがれている私をみた先輩が、先輩の彼女に頼んで紹介してくれたのが、今の・・といっても今も昔もひとりだけ。”^_^”妻だった。深く考えもせず、紹介者の顔を立て、まあ気楽な気持ちで真面目な青年?に会って見ただけの妻。私は、まるで観音様に出会ったようだった。”^_^”慈愛に満ちていた。そりゃそうでしょ。何せ、日々の食事に困っていた私に差し入れをしてくれるのですから。きゃい~~ん きゃい~~ん。私は、犬が尻尾を振って餌を与えてくれる人に懐くように・・。まあしかし、妻からすればこんなはずではなかった。まさか、貧乏学生を紹介されるなんて。^_^;だから、適当なところで私から離れるつもりだったらしい。これ事実。結婚間際まで妻がそう思っていたとは露知らず。随分とお気楽だった私。まあ、なんだかんだ言って、私は、その後、妻の家にも頻繁に出入りさせてもらいながら食事にありつきながら、両親にもよくしていただいた。内気で遠慮屋のところがありながら、結構厚かましいところもあった私。口数少なく多少他人の家に気を使いながらも、しかしまるで我が家のように内心寛いでいたものだ。妻の家庭の団欒は、私にとって実に居心地よかった。やがて、県外に就職し、これで厄介な私とも縁が切れると思っていた妻の期待をまんまと裏切って、私は数々の就職試験に失敗しながら妻の近くを離れることはなかった。私ラッキー。妻アンラッキー。(^^♪その後も私は、妻の世話になりっぱなしだ。よく言うのだが、人生何が幸いなのか。私は今でも本心で思っているのだ。中途半端に頭が良くて中途半端に進学して、あるいは飛び切りの頭脳を持っていて地位のある職に就こうと、決して得ることのできないものがあると。例えば一見マイナーな道程を歩いてきて本当によかったと。未熟だらけのこの私の心で、あちこちぶつかりながらも、私は私なりに、多くの真の充足感を持ちながら生きてこられたのだから。それはもう、どんなに考えても、何にも替えがたい必然的素晴らし出会いであったと確信できるものだから。人間は、心の捉え方ひとつで、ほんの小さな事にでも幸せを見出せるもの。いつも、いつも、満たされない日々を送ることしかできない人は、その尽きない欲望に、常に眼前の事象に翻弄されながら、人生における真の価値も真の幸せにも気づくことなく、また出逢うこともなく大切な人生を後方に流している。人を観、不変の価値を心に捉えることができるなら、悠久の幸せに必然的に出逢うことができるだろう。ガスを止められ炊く米もまたなく、四畳半、四千五百円の曲がり生活も、何度振り返っても私には、ひもじい生活印象は全く甦ってこない。真夏の暑さも冬の寒風も、友を初め多くの出逢いも、その経験は、有難いことに十分過ぎる精神の滋養として財産として、今も、心のじょうろからその都度決して尽きない価値ある栄養素を、様々な場面で必要に応じて注ぐ事ができるのだ。名誉も地位も物質的財産はいつか尽きるもの。それに比べ養分を蓄えた心の財産は尽きることもなく、いつでもどこへでも身軽に持って行くことができる。私は現在、まるであの学生時代と変わらぬままの気持ちで、つましくとも極上の、私なりの幸せを感じながら、のほほんと日々を過ごさせてもらっている。人の本質は人生を生きるなかでそう変わらないものであろう。元来そのようなところがあるから、経営を含めての「生きる」という強さには正直欠けているかもしれないけれど、結構これでやや身勝手な私は満足なのである。落ちこぼれでよかった。それなりの困難もあってよかった。それなりの、しかし素晴らしい幸福感もよくわかる。回りまわった人生でよかった。貧乏生活は、極上の出逢いを私にもたらしてくれた。私になかにあるのは、これらの小さな出来事のひとつづつを、必然的財産と捉えながら感謝する気持ち。妻とも出会うことができた。人にはその人に合った魂の出逢いが必ず存在する。物事を人を心眼で観れる自分自身でよかった。どんな頭脳明晰より、これはもう両親がくれた一番の私へのプレゼントだろう。あの学生時代。警察食堂の通い帖に溜めてしまった一食180円の焼肉定食の5千円か7千円のつけ。払えなかった私は、結局その後払うタイミングを見失い、今に至っている。いつだったか・・夏期休暇に帰省していた私に、その食堂から暑中見舞いの葉書が届いた。葉書には、払えないでいるそのつけのことには一切触れず、しかし、決して含みのある嫌味な請求もなく、丁寧に「お元気ですか?・・季節柄ご自愛ください・・また元気な姿を見せてください・・」云々と、ただそれだけ書かれてあった。私は、申し訳なさと何をどうできないジレンマを辛く心に持ちながら・・そして、私をそっと免除してくれたに違いない家族経営のその食堂の家人達の心。私は三十年を過ぎた今でも、遠く過ぎた青春の日の、これら小さな出来事と出逢いを、時々思い出しながら、それぞれに永遠の感謝の気持ちで、何物にも替えがたい私の大きな財産として持ち続けているのだ。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。撮る事の楽しさを教えていただいたお隣さんブログです↓北九州市詩的写真集☆花・空・海・無料素材ブログよびりんさんの新刊誰も教えてくれなかった社長業新刊『半分の法則』↓私はもう読みましたよ。とても為になり誰もに役立つ、目からウロコ的法則。人生に・経営に成功する半分の法則半分の法則応用編
2008年05月01日
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この四畳半の部屋は、私にとって正にはパラダイスだった。月に1万~1万五千の実家からの仕送りは、時に遅れ、時に送られてこない事もあった。ガスがあっても炊く米もなく、米があってもガスがなくということもあった。私が唯一親に甘えたのはこの進学だった。高校三年の時に父の会社が倒産し、進学どころではないのに、多くの人の援助と犠牲によってとりあえず大学に転がりこませてもらった。だからその状況下において仕送りもままならないのは当然で、悔やむ事もなく、実に有難いと思うと同時に、多くの人に感謝の気持ちを忘れることはないのだ。しかし、自分でいうのもなんだけど、小さい時から気持ちだけ純粋培養され・・要するに世間知らずに、正義が正義として存在するのだというようなことを信じてこられた私には、まだ世の成り立ちの大変さなど気づくこともなかった。だから、その後、卒業して社会人になってからは、その未熟さ故、人間関係には大変苦労したものだ。悩みも喜びも、のほほんと純粋な部分だけに想いを馳せるような、自由な心で自分世界に生きていられる日々というものは、例えチキンラーメンをかじりながらの生活であっても、心だけは実に満たされていた。このまま永遠に、贅沢云々ではなく、綺麗な素晴らしい世の中が存在し続けるとさえ思った。友にも恵まれて多々世話になりながらの日々は実に楽しかった。振り返っても、嫌な事もつらさもなく、心に充足感を持った私だけが甦ってくる。隣接する大家さんが、部屋の横の通路を「また家賃が遅れているか・・」とぶつぶつ言いながら通っていくときはつらかったけど。”^_^”いや~しかし、コカコーラーの配達助手、土木工事、空調ダクト取り付け助手、キャバレー&クラブのボーイ、警備員、手際よくボンベを回して移動させるのに苦労した酸素ボンベの配達助手。中国自動車道の工事現場での飯場生活。帰省したときには漁船のペンキ塗り、鉄工所。様々なバイトをした。競艇場の警備には、制服を着てバスに乗って通った。駐車場の整理で、斜め付け駐車した黒の大型外車に、持っていた拡声器で注意を促しながら、言う事聞かない相手に。「こら~~!ちゃんと停めんか!!」(@_@)と拡声器でどなったら、黒いスーツの厳つい怖い兄さん達が四、五人勢いよくこちらに走ってきて取り囲まれたこと。それまで怖い人なんかみたこともなかったし、私は、警備の服を警察の服。拡声器を拳銃くらいに思い違いしていたのかもしれない。”^_^”まあしかし、若い頃は正義感が結構強かったのである。中国自動車道の建設現場では、鉄建公団の下請けの下請けの・・ずっと下請けのような二人組みの兄さんに雇われ飯場生活。しかし、私の気分は、映画「黒部の太陽」の石原裕次郎のような感じだった。中国自動車道は俺が造ったんだ!。まあ、仕事と言うのは、車道の側面、走っていても決して見えない法面に排水のためのU字溝を設置したりしていたんです。真夏の朝早くから夜まで、汗びっしょりへとへとになりながら、その法面の草地で仰ぎ見る青空は素晴らしかった。キャバレーのボーイも楽しかった。客を待っているホステスさんの世界。人生悲喜こもごも。時に、オードブルをつまみ食いし、並べ直して客に出したり。裏方である調理のおばさんによくしてもらったり、客にチップをもらったり。ホステスさんはみな私より年上だったけれど、好みのホステスさんを指名してあげたり、時に弁当を作ってもらったり。”^_^”クリスマスにはサンタクロースの衣装を着けて、街頭でビラを配ったり。恥ずかしく赤面状態だったけれど、衣装も赤でこれ幸い。客と喧嘩したこともあったな。^_^;宴が終わってホステスさんと一緒にマイクロバスで送られて帰る。いや~~、学生生活は勉強はした覚えがないけれど、幸せな最高の青春だった。第二幕 おわりつづく。(^^♪ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。撮る事の楽しさを教えていただいたお隣さんブログです↓北九州市詩的写真集☆花・空・海・無料素材ブログよびりんさんの新刊誰も教えてくれなかった社長業新刊『半分の法則』↓私はもう読みましたよ。とても為になり誰もに役立つ、目からウロコ的法則。人生に・経営に成功する半分の法則半分の法則応用編
2008年04月21日
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ある日、リヤカーに全ての家財を乗せ、月7000円の木造アパートから引っ越したのが一軒の古い木造家屋を三室に区切った内の一部屋、間借りだった。もう三十年以上も前の事だ。生活費を落とすためだったその間借りは、確か月額家賃が4500円程度だったと思う。風呂なし、入口の板戸といえば、それこそ炭焼き小屋の戸の様に、廃材的板をすのこ状に、ただ木枠に打ち付けた、隙間だらけのものだった。しかもその戸は、傾いていた。といいより、どうやら古い木材に取りつけた蝶番も悪く、外れかけていたというに等しかった。傾いているので戸を開け閉めするときには、必ず戸板の下を地面で擦ってしまう。閉めた後、今では物置の戸締りにも使わないような、ただ簡単な留め金を捻って南京錠を掛けるだけなのだ。その鍵は気休め程度に過ぎず、戸板を抱えて少し強く引っ張れば、その戸自体が簡単に外れてしまう程度のもの。戸板、戸板と言っているが、あくまで部屋の玄関ドアである。オートロック・・、そんなの関係ない。防犯上も、盗られるものは何もないのだ。入口を入ると畳一枚程度の土間。その土間には、昭和初期の映画に出てくるような、石器の流しが傾いて置いてある。湯沸かし器なんぞとうていなく、LPGのコンロ。コンロのスイッチを捻ると・・点火しない。壊れているわけではなく、小さなガスボンベは時々空なのであ~~る。”^_^”その土間から障子戸を一枚開けると・・そこは、そこは・・パラダイス~~!(^^♪四畳半の我が城なのだ。引越しの折に、誰からかもらったベッドには汚い煎餅布団。夏は窓を全開で心地よい風が入り、正に夏を感じ、冬は・・あちこちから隙間風が入り込み、冬らしい冬を感じた。夏には時々たらいで行水した。銭湯は歩いて10分程度のところにあったが、帰りはすっかり凍え切ってしまう。唯一の暖房は、強・弱しか効かない炬燵。熱くなったら足で蹴る。寒くなっても足で蹴る。すなわち手動ならぬ足動。当時流行っていたのがビニール製のファンシーケース。部屋に唯一お洒落な代物だった。このファンシーケースは時にこんなことにも役立ったのである。5、6人を雇って大小あちこちの工事を請け負っていた土木工事業の社長に雇われ、私も一時そのチーム?の一員としてバイトをしていたことがある。炎天下、そして冬。都度の工事現場は結構きつく、ある日、私はどうしても出て行くのがいやでサボったのだ。するとこの社長、私をわざわざ部屋まで呼びに来たのだ。カーテンを閉め切っていた私は、外で声を掛ける社長に、とっさにファンシーケースの中に隠れたのである。ほとんど無錠の部屋に、社長は部屋のなかまで入り込んでくることがあるのだ。何度も何度も「○○君」と呼ぶ社長に、私は必死でファンシーケースのなかで息を殺していたのだった。^^;いや、ちょっと待てよ。これは事実だけれど、この時、土木工事会社の社長ではなくて、空調ダクトの取り付け工事のバイトをしていたときの社長だったかな・・?どちらかには間違いない。この時、極めつけの言葉があった。「○○君!今日は弁当も用意しとるから、いかんね~!」(^^)この燻り出しの言葉に、私は思わず心よろめきながらも、なんとかファンシーケースのなかで頑張ったのである。だってバイトはきついし、時にはさぼりたいもん。(~_~;)第一幕おわり続く。間取り図ソフトで描いたらなんだか豪華なかんじですね。"^_^"ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。撮る事の楽しさを教えていただいたお隣さんブログです↓北九州市詩的写真集☆花・空・海・無料素材ブログよびりんさんの新刊誰も教えてくれなかった社長業新刊『半分の法則』↓私はもう読みましたよ。とても為になり誰もに役立つ、目からウロコ的法則。人生に・経営に成功する半分の法則半分の法則応用編
2008年04月20日
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昨日の熱きコンサートの心地よい余韻のなか・・・仕事しています。1時間仕事に集中して少し休憩。此の適度な自己コントロールが大切ですね。で、今、仕事する振りして日記書いています。”^_^”私、YAZAWAも好きですが、JAZZもハワイアンも好きなんです。ハワイアンって、とても聴いていて癒されますね。その昔、大学祭で・・・高所恐怖症の私が強制的に入部させられた山岳部。そして鬼部長・・・秋に開催される大学祭では、毎年いろんな部が仮装して街を練り歩きます。そして、我々山岳部の仮装・・一年生の私が、その初めて経験する学園祭。「我が山岳部は、今年ハワイアンでいく!」何を考えているのか、血迷ったのか、この鬼部長の一言。私達新入部員数名は、街に出て仮装の道具を仕入れてくることに。女性用品専門店で「あの~~ブラジャー○○枚ください」"^_^" ^_^; "^_^"「えっ!?」もちろん店員さんは怪訝な顔して「L?S ?それとも2L ?」・・と言ったかどうだか・・サイズの呼び方はわかりましぇ~ん。もう恥ずかしくて死にたい気持ちで、とりあえず買い求め、その他、腰に巻く藁や頭に着ける飾り等も用意し、もちろん顔は白粉を塗りたくり・・レイを首から下げ頬紅までして。いや~~~もうまるで完全に松雪泰子に変身~~~。(^_-)-☆さてその恥ずかしき当日。白い短パン(海水パンツでなくて良かったです。^_^;)を穿き、腰に藁を巻き、もちろん裸の胸には、自ら買い求めた、純白のブラジャーをして多くの人通りのなかを練り歩きましたよ。歩きながら人目に恥ずかしくて恥ずかしくて・・その時の私の気分?もう、大切な私の青春を奪われたような・・・?そんな感じかな。"^_^"でも、結構様になって、可愛く変身した仲間もいました。あの鬼部長・・どこまで行っても、やっぱり顔もいかつい鬼部長のままでありました。思い出した昔のあの頃。私?もちろん美少女に変身していましたよ。(●^o^●)↓ こんな上等の変身ではありませんでした。しかし、しょぼいがこの様な、私にとってはとても恥ずかしい格好でした。トホホであります。アロ~ハ~ランキング参加中です。ポチッと宜しく。よびりんさんの下、共に学びを得ている『福岡よびりん学校』仲間のパワールックMIWAKOさんが、この度自社HPをリニューアル。↓感性豊か、その心のこもった確かな仕事を推薦します。(^^)design office POWERLOOK亞さんの新刊「人生に生かす易経」発売中↓楽天仲間の「ひめようこ」さんの新刊です。 転職8回のnextもびっくりの転職30数回。 ちょっとコミカルに、ちょっとエロチックに・・ 愉快にそして元気の出るお奨め本ですよ。(^^) 楽天ブックスでどうぞ。
2007年11月08日
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昨日は、当社に立ち寄られた、私より二回りも年下の青年と、会社の近くの居酒屋で酒を飲まず、焼き鳥等で長時間に亘り、真の良き仕事とは・・、その互いの仕事により、関わる皆が幸せになるには・・やはり大切なのは人の縁。周りが幸せになって、自分も活かされ儲かる。それこそ本望・・等と熱く語り合いました。謙虚に正道、王道を行く。真っ直ぐな心で共通意識を持った人との語り合いは、元気が出ます。実にいいですね。前向きな話は、大いに夢も膨らみます。夜11時半、シャッターの閉まったビルを裏口から入り、事務所に帰って改めて戸締りをして、心地よい気分で帰宅しました。しかしこのところの厳しき暑さ。しかし夏は一瞬の時で過ぎ去るような寂しさも持ち合わせています。何故でしょう。学生の頃も、皆解放的に外に出て、辺りは静かな状態で、内気な私は、なんかぽつんと取り残されたような感じが嫌だったんでしょうね。私の場合、泳ぎも苦手ですし、夏の若大将、サーフィン、湘南、若者・・気持ちの上で、ロマンチックにその夏の光景に少し感情をダブらせながらも、内気?な青年は、なかなかその格好いい輪に入っていけなく、あっという真に秋風が・・(^^)まあ、そんなとこです。今でも気持ちは波乗り野郎。サザンの感じなんですが・・。学生時代は良き想い出だらけですね。失恋も、友との語らいも、妻との出会いも。何故か楽しき貧乏学生時代。私の夏の想い出はやはりあの青春の夏なんですね。全く未練がましくもなく、行動範囲の狭い私にとってのやはりその時代の数少ない大切な時のひとつとして残るのです。人生は本当に不思議な縁の連続。現実に辿りつかせようと強く意思を持っても辿り着かない縁を、複雑に回りまわって出会うのですから。私が全くの初心だった故に、その後出逢うことができた伴侶。もし私が、あの当時、異性に手慣れたプレーボーイだったら・・今頃はあちこち付き合って、結果良き縁に巡り合ったかどうかはわかりません。(^^)十八の夏に始まり、数年を経て冬の尾道駅で終わった、私の恋の前夜祭!?恋の若葉マークの私にはつらかった傷心後、数年してほろ苦く思い出しながら何気なく書きとめておこうとした想い出の記。↓しかし1ページ目で中断したまま。何故って?もちろん瀬戸内海に溺れた私に、愛の浮き輪を投げ込んだ人がいたんですね。その方は、やや遠巻きに、ただ溺れた男に向かってその浮き輪を放り込んだだけなのですが、運悪く?しがみつかれた末に、自分も引きずりこまれてしまったのです。不運ですね~。その内、嵐になるわ、波高く、その青年の波乱の人生の波間を、共に永遠と漂う羽目になったのです。”^_^”どんまいどんまい。(^^♪波の花よびりんさんの生きる勇気が湧いてくる本。絶賛発売中!勇気と愛に満ち満ちた経営指針、人生訓満載。
2006年08月04日
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夕刻になると、大通りから一歩入り込んだ路地のその店先には、勢いよく水が打たれ、その濡らした路面は、暮れかける陽とともに、路地先にある公園から流れ来る風によってわずかに冷やりとして、日中の暑さを遠ざけながらほっと心地よくさせた。この界隈は、日暮れとともにきらびやかな灯りと華やかな光景を映しだすのである。店の玄関口の両脇には、たっぷりと目映いほどに純白の塩が盛られて、やがて、このキャバレーはゴージャスにオープンする。・・・・・・・・・・・な~んちゃって。(^^♪いや~思い出すな。開店間際の高級キャバレーの、奥の席では女の子は皆何故か俯いて、横の誰とも話すことなく黙して客を待っています。私はボーイ服を正し、鏡でチョーネクタイを両手で真一文字に揃えます。さあ開店。やがてそぞろやって来る客達。「いらっしゃいませ!(^^)」と、私は元気よくドアを開けながら客を招きいれ、席へ誘導。「御指名は?」「いらっしゃらなければ私どもが・・」と言って指名するのは、我輩が心の中で・・「いいな~~~"^_^"」と想うホステスさん達。当時は当然学生の私より皆年上。ステンレス製のトレイにビールを5~6本載せ、もちろんあの頃はウエスト73センチで身も軽やかに、私はテーブルとテーブルの間を、すい~すいと行ったり来たり。時に1オンス2オンスと計り、しかし適当に私がカクテルシェーカーを振ったりもして。時々楽しみなチップも結構客からもらいながら、私は友人とそのキャバレーと系列のクラブを掛け持ちでバイトをしていたのです。その店は、その地域では、なかなか高級で、綺麗な女性も多かった気がします。(^^)休憩のために入る調理場では、気のいい賄いのおばさんと世間話をしながら時間を流し、日々ろくに食っていない私は、いよいよどうしょうもなく腹減って、時々オードブルの注文の品をちょっと失敬して摘み食い。その皿の上に崩れた渇きものや果物を、丁寧に並べ替えて、また何食わぬ顔で客のテーブルに出したものです。おばさんはにっこりと笑顔で私に「どんまい どんまい」と。ホステスさん達は、「ボーイさん!おしぼりちょだい(^^)」「ウォーターないわよ(^^)」と優しく、そしてうまく私を使います。しかしこのバイトでの一番の想い出は、当時このお店で私が最も素敵だな~と心で想っていたホステスさんに、ある日、焼肉弁当を作ってきてもらったこと。もちろんそれ以外は何もなしです。これは感激でした。女性と話すことすらあまりできなかった私はそれだけで幸せ満点でした。(^^)賑やかな、そして一見華やかなキャバレーの一日が終わり、私は、ホステスさん達と一緒に店の送迎マイクロバスに乗り込み帰途につきます。やがて途中途中、すっぽりと闇に包まれた、あの町の通りの角で、そこの町の団地の前で、それぞれホステスさんは一人、そして一人と降りていきます。華やかなお店の内と裏腹な、ひとつひとつの人生。夏の夜の闇に消えていくドレスは、見送る学生の私の心に、何故かほの寂しく投影されたものです。よびりんさんの生きる勇気が湧いてくる本。絶賛発売中!勇気と愛に満ち満ちた経営指針、人生訓満載。
2006年07月27日
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昨日女房殿がぽつりと・・「あの頃の貴方は、ほんと汚いところに住んでいたね・・」「ネズミと住んでいたんじゃない?」確かにネズミと同居していたかもしれない・・。万年床の煎餅布団。(汚な~)そんなあの頃の話が出て、ふと思った。そういえば・・ある年、その女房殿と出逢った遺跡級のその部屋に、もう少しましな近くにあった7000円アパートから引っ越したのは何故なのか。そう振り返ってみればほんとに何故だったろう。すぐに思い浮かばなかったが、その内、この妙に懐かしきその部屋を、ずっと家賃7000円と思っていのは実は勘違いで、それよりもっと安い4000円台だったのでは?と、それらしきことに気がついたのだ。そうだそれに違いない。それで、友人と誰かが借りてきたリアカーに荷物を乗せ、坂の上の7000円アパートからその4畳半の、やはり風呂なしの一部屋に引っ越してきたのだ。その部屋へは、リアカーでの引越しは2、3回の往復で十分足りた。所有物のタライでは、洗濯と、夏は行水もできるのである。タライに裸の若き青年・・なかなかエロチックな風情ではないか。銭湯は少し離れていたから、冬には、湯上りの身体は、部屋に帰ってくるまでにすっかりシャーベット状態になっていた。しかし今思っても汚い布団。天干しもしたことなかったから、それで今喘息気味になっているかも。この部屋の入口の戸は凄かった。内から外が見える隙間だらけのスノコ状の、桟にただ板を釘で止めたにすぎない戸は傾いて、開閉時には地面を擦って、その内はずれるのではないかと思わせた。鍵は一応ついていて、錠前をひっかけるだけのもの。だいたいその留め金もねじがむきだしだから用を足さないし、板戸も抱えて少し力を入れて引っ張れば子供でもはずせる代物だった。で、妻の言う、ネズミと同居?もまんざら嘘でもないかもしれない、と思うのである。チキンラーメンかじるような生活だったけれど、振り返ってみても、気持ちは実に平和な日々。心はリッチ。(^^)骨董品的その部屋も、今では懐かしく思い出す、愛すべき我が人生のワンクリック(!?なんのこっちゃ・・)女房殿再び・・「そうそう、あの頃、近くの寿司屋に何度か行ったことあるね・・」「私が全部おごったけれど・・」
2006年06月02日
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現在TVで、森村誠一原作の「人間の証明が」放映されています。私はこのTVは見ていませんが、もう20年以上前にこの原作が映画化されたときに、映画のヒットともに世に広く知れた、劇中出てくる、この言葉。「母さん 僕の帽子 どうせたんでしょうね」というフレーズに、当時私のなかに過の記憶が思い起こされたものです。原作も読んだこともなかったし、これが西条八十の詩ということも勿論知りませんでした。実は同じような光景に出合った事があるのです。どうです?羨ましいでしょう!?羨ましくもないか・・私の母親の実家は、その頃住んでいた町からバスで1時間ほどの、山間に深く入ったところに在し、年に何度か母の里帰りに連れて行かれたものです。その日は、私の服装や帽子とその風景から、おそらく初夏だったように思われます。小学校の低学年でした。私は乗り合いの数人の人達と、青空の広がるのどかな田園地帯の田舎道を、土ぼこりを上げながら走るボンネットバスに揺られていました。バスは小さな町を、走り出すまもなく離れ、もう田舎道。私は開け放った車窓から、やや身を乗り出し、心地よい風にあたりながら移り行く風景を楽しんでいました。バスはのんびりしばらく走った頃私が被っていたその帽子が、バスがカーブに少し傾いたか、同時に強い風が吹いたかで、ふいと私の頭から離れて向こうの田んぼの方に飛んでいったのです。その帽子は麦藁帽子ではありませんでした。薄い水色の布生地で、周囲がひさしの(今は見ないけど、当時は子供は結構していたような気もする)、しかも思い出してもこっけいな、白いゴムバンドがついていて、帽子がとれないようにそれを伸ばして顎に留めるものでした。そういえばよく幼稚園児がしている・・いやあれとも違うなあれよりまだずっといいやつ。しかし今の子はかっこ悪くて絶対しないような・・その時、私はその細くて白いゴムバンドをそのようにしていなかったのです。吹き飛ばされた帽子は田んぼに落ち、見る見る後方に遠ざかっていきました。もうあとは、バスのなかでその帽子のことと、気付かない母親に言い出せないまましょんぼり。日は経ってもしばらくの間、無くした帽子の残念さと、その時の光景ばかりを追っていたようなあの夏の日の思い出でした。
2004年07月29日
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