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★☆晩秋の道を散策するベートーベンのイメージを感じる季節☆★ Late autumn ~何気ない風景に感動するのは何故なんだろう?~ 今年の「立冬」は、11月8日だった。「立冬」という言葉で季節的には「冬」と思いがちだが、まだまだ紅葉も残っており、11月の下旬から12月上旬は、正確には「晩秋」に当たる。いよいよ秋も終わりに近づいたと言うことだろう。REALISTの週末のいつもの朝の散歩であるが、初めて歩く道に少しコーズを変えたり、初めて見かける風景や民家を含む建物や道すがらの自然の変化を楽しんでいる。ここ最近は、寒さのためか、負荷をかけても汗をかかなくなった。8000歩余りの歩行だが、心身の健康維持のためには欠かせないものだ。ハードな山登りも好きだが、のんびりと裏道を歩くのも好きだ。 ベートーヴェンは、寒さ感じる秋や冬の道をくしゃくしゃの髪でコートを羽織り、作曲の合間にしばしば散歩をしていたそうだ。多分、歩きながら曲作りのイメージを考えていたのだろう。歩いていると、ふと、そんな情景が浮かんできた。 歩く道すがら目にとまった物は、いつも愛用のアイフォーンで撮影している。 朝は、気温が低く寒々としており、空も少し暗い。雲の様子で冬が近いことがわかった。川縁を歩いた。静寂の中に水の流れる音が響く。ここには写っていないが、シラサギのような鳥が水面をじっと獲物を狙って見ていた。「三輪の百合」が咲いていた。ドイツ軍歌にも「三輪の百合」があるが、百合は三輪咲くのが普通なのだろうか?ほとんど人が歩かない丘の上の水道上水設備のある施設付近を歩く。深紅の椿の花が元気よく咲いていた。綺麗だ!花は美しさを体現したものだ。素晴らしい。マンホールの蓋があった。まじまじと見ることがなかったが、よく見ると、夏の山口市中心街で行われる「提灯まつり」の様子が刻印されていた。こんなデザインだったとは知らなかった。女性の腰にあるのは浴衣の帯だろうか?立派な屋根付きのお地蔵様が迎えてくれた。近所の住民が、きちんと花を活けているようだ。地方でもこういう風景は珍しくなったが、それでも、まだここに残っているのがいい。歩いていると。また民家の片隅に古い仏様の石像があった。この付近は、江戸時代から存在した街道に近い。ようやく青空となり、綺麗な黄色に染まった木が美しい。私が好きなワインレッド色に染まった高貴な赤色の木が好きだ。しばらく、見とれていた。 ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2019/11/23
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★☆ 秋らしさの季節感を楽しむウォーキング ★☆ The day to have felt autumn 今年の夏は異常に長かった。いつまでたっても気温が30度以上の夏日が続いた。10月初旬になってもうだるような暑い日が終わらない。いよいよ異常気象が加速度的に進んでいるように感じる。これは人災だろう。きっと、神様が傲慢な人類に天罰を下しているのだろう。 REALISTが子供の頃は、10月になれば、少し肌寒くなり枯れ葉舞い散る冬の前の歩けば涼しくて心地よい春同様に一番好きな「秋」だった。10月28日(月)は、たまたま仕事が休みの平日だった。天気も清々しい青空の午前、自宅を出て散歩(スマホの万歩計で毎日計測記録)というかウォーキングに出た。少し汗ばむ程度に体に負荷を与えるべく少し早足で、長い坂道を登るいつもの1時間コース、普段は見慣れない奥まった異国の様な住宅地を過ぎて、帰りには別の急な坂道を登り、できるだけ裏道を遠回りに帰る。この頃になると、さすがに朝晩は肌寒くなったが、それでも日中はまだ26度程度まで上昇した。 散歩中に見かけた街路樹の秋 途中、中年の散歩中の女性とすれ違った。 互いに軽い会釈と「こんにちは!」の挨拶。 この人も私と同じ気持ちで秋を楽しんでいるな! 秋を感じる青空と雲 夏の入道雲とは全然違う。 こんな雲が空一面に広がっていた。 ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2019/11/04
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★☆ 「 ヨーロッパ絵画 美の400年 」 (山口県立美術館) ★☆ I appreciated a picture in 400 of Europe. In Yamaguchi Prefectural Museum of Art. REALISTは、山口県立美術館で開催中の「ヨーロッパ絵画 美の400年 」を鑑賞しようと、久しぶりに美術館を訪れた。開催期間がこの10月22日で終了するからか人出は多く、周囲の駐車場はどこも満車だった。以前から気になっていて、もう一生実物を目にすることができないだろうとの思いで、土曜の朝(10月19日)、自宅を出て他の用事を済ませた後の午前11時過ぎに到着した。 美術書や歴史書で何度も見かけたことのある有名な「ナポレオンのアルプス越えの馬上の絵」やモネ、ゴーギャン、シャガール、ゴッホ、モディリアニの作品群や西暦1600年代初頭のルネサンス期やロココ、バロック、ゴシック期、近世の印象派の時代までの400年にわたるヨーロッパ絵画を鑑賞した。特に中世から19世紀までの写実的な絵画には衝撃を受けた。まるで、目の前で呼吸をしているかのようなリアルな存在感ある素晴らしさ、目の輝き、顔の表情、その当時のまばゆいばかりの美しい婦人や少女、その身に付けているきらびやかな服装や風俗、持ち物、ファッション、当時の建物や町並みや農村風景、生活風景まで知ることができた。一般は1300円、70歳以上1100円、18歳以下はなんと!無料!なので、タイムマシンに乗って、昔のヨーロッパ世界を目で見れる!目の前の当時のヨーロッパ人に出会える!・・と思えば、是非、特に若い人は行くべきだろう。 この絵は、唯一撮影可でSNSでも使用可だった作品。 制作年は、1877年 作品名は「鏡の前での装い」、 作者は、ジュール・ジェーム・ルージュロン(フランス人) 写実的で情熱的で、当時の若い女性の雰囲気が伝わる。 ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2019/10/20
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★☆ ハイテクの塊イージス艦「こんごう」の一般公開に参加 ☆★ The opening to the public of Aegis destroyer " KONGOH " ~ 戦艦大和のイメージでは、かなりコンパクトな印象 ~ 2019年4月27日(土)、REALISTの親戚や甥が住んでいる下関市に所用でたまたま訪れた際、偶然にも下関港あるかぽーと岸壁に寄港中だった海上自衛隊のイージス艦「こんごう」が翌28日まで一般公開中であることに遭遇、またとないラッキーなことだと、早速、乗艦見学した。キビキビした海上自衛官の方々の丁寧な応対に感心しつつ、じっくりと楽しませていただいた。 イージス艦と言えば、「イージス」という言葉がギリシャ語の「あらゆる邪悪を払う盾」を意味するそうで、フェーズドアレイレーダーと高度な情報処理・射撃指揮システムにより、200を超える目標を追尾し、その中の10個以上の目標(従来のターター・システム搭載艦は2~3目標)を同時攻撃する能力を持つハイテク戦闘艦だ。 ハイテクの塊(かたまり)のイージス艦は、全長161m、基準排水量7250トンだが、小学1年のときに初めて父から買ってもらったタミヤプラモデルの「戦艦大和」が軍艦というイメージが強く、それに比べかなりコンパクトな印象だった。大和の全長は263m、基準排水量は64000トンだから、単純に基準排水量で比較すると、この船の9倍の大きさだから、いかに大和が巨艦だったのかがよくわかる。 これは、ただ一門ある127ミリ速射砲だ。大戦中の軍艦が針の山のように大砲を装備していた時代とはまるで違う。最近は、英米の最新艦でも似たようなもので、ステレオタイプの様に同じ傾向にある。 艦首方向を撮影した。 艦首から艦橋方向を撮影した。艦橋下にはミサイル格納部があり、艦橋中央部にファランクス20ミリ多連装機関砲が装備されている。艦尾方面にも同一型機関砲が装備されている。 艦尾に向かう通路部分を撮影。 中央に対艦ミサイルが見えた。 艦尾にはヘリポートとここにも多数のミサイル格納部がある。 韓国が最近になって急に嫌がりはじめた軍艦旗の「旭日旗」と艦名「こんごう」。 韓国が「旭日旗」を批判始めた最初の経緯は、2011年1月25日のサッカーアジア杯準決勝の日韓戦がきっかけだった、この試合中に、韓国人選手が日本人に対してわざと猿顔のパフォーマンスで茶化して、このような不適切な選手に対して国際的な批判を受けたことに対し、その批判を受けた選手が、「日本側の応援席に「旭日旗」が見えたので気にくわなかったからだ」と釈明したことに対し、韓国のマスコミや韓国政府や反日団体が呼応し、「旭日旗は戦犯旗だ!」と騒ぎは初め、日本側に批判の矛先を向けたことが始まりだが、韓国という国は決して自国民の非を認めず他国を批判するだけのおかしな国だと痛感する。 ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2019/05/02
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★☆ 魏志倭人伝の「一支国」、「元寇襲来の地」だった『壱岐(いき)』 ★☆ Iki Island is administered as the city of Iki in Nagasaki Prefecture, Japan.. 台風接近中でも、運よく好天に恵まれた旅行日和を遊ぶ 台風16号が沖縄県の石垣島周辺から北東方の九州本土へ接近中の9月17日(土)~18日(日)にかけて、REALISTは、長崎県壱岐市の『壱岐島(いきのしま)』にて周遊旅行を敢行しました。『壱岐島』は、長崎県の『対馬』と福岡県の『博多』との中間点に位置する島です。 前日までの天気予報では、両日とも山口県、福岡県とも雨天で、大雨警報も出ることが予想されるほどで、「暴風や豪雨で壱岐行きは、無理ではないだろうか?」と諦(あきら)めに近い不安もありましたが、旅行会社(http://iki.halimao.com/)や博多埠頭のフェリー会社(九州郵船)からは、壱岐方面のお天気は、雨雲の予想位置からも、なんとか持ちそうだとの情報があり、自分自身も「晴れ男」とよく言われるほど天候に恵まれる強運もあり、「なんとかなるだろう」と運を天に任せて旅立ちました。 「壱岐」に行くには・・ 山口県の新山口駅発の新幹線こだま857号で午前7時11分に乗車、午前8時には博多駅に到着、そこからタクシーに乗車し、目指す「壱岐島」へ向かうフェリー乗り場は、「博多埠頭第2ターミナル」ビルの2階にあります。博多駅からは近いので「大博通り」を進めば、混んでいる時でもタクシーで15分程度しかかかりません。 この「博多第2ターミナル(http://iki.halimao.com/ferry/ryoukin.htm)」からは、「壱岐」(所要時間2時間半)をはじめ、「対馬」(同4時間半)、「五島列島」(同8時間)方面にもフェリーやジェットフォイル(高速船)で手軽に行けます。しかも、料金も思ったほど高額ではなくリーズナブル(壱岐方面なら、片道の大人料金で、フェリー2等船室:で1920円、ジェットフォイル;3920円)です。 『 壱岐 』とは・・・? 『壱岐島』は、東西15km、南北17km、周囲140kmあります。海岸線の長さは190kmにもなります。面積は、約138k㎡で、島の中では、全国で20位で、琵琶湖の1/5の大きさの面積です。人口は、27000人余りですが、自然に恵まれた一方、島というイメージを上回るほどにライフラインもしっかり整備されており、道路整備状況も良好です。壱岐は、1つの島ではなく、複数の島で成り立っています。有人島としては壱岐島の南西部の沖合いに原島・長島・大島が、北側の沖合いに若宮島があり、島周辺には19ヶ所の無人島もありますが、これらをまとめて「壱岐」と呼ばれています。行政的には、現在は長崎県壱岐市の1市体制で、市域全域が「壱岐対馬国定公園」に指定されています。 山らしい山はありません。そのなかでも、「岳の辻」が212.9mで一番高く、次いで「久美の尾」の175m、「男岳山」156mと続きます。 距離感覚では、一番近いのは唐津港からで42km、博多港からだと76km、対馬の厳原からは68km、長崎空港からは94kmあります。壱岐は長崎県ですが佐賀県が一番近い距離の場所にあります。朝鮮半島-対馬-壱岐-博多の距離は、それぞれ50km、68km、76kmあります。 歴史的に見ると、はるか昔の2200年以上前の縄文時代、弥生時代の集落跡、土器などの遺跡多数が発掘され、古墳時代の銅剣や鉄器なども多数発見され、古墳多数が存在し、神話の時代の「古事記」に「伊伎島」と記され、国土誕生の際日本で最初に出来た「大八島の一つ」とされています。また、また、「魏志倭人伝」に、「邪馬台国」の支配下にあったが王のいた「一支国(いきこく)」が存在し、対馬の1000世帯をはるかに超える3000世帯、推計人口15000人以上もの住民がいた、当時の日本では特に人口の多い地域であったと記され、一支国律令制下においては、「壱岐国(いきのくに)」に属したとされています。対馬とともに、古くから朝鮮半島と九州を結ぶ海上交通の中継点となっていましたが、15世紀の朝鮮王朝との通交を記述した『海東諸国紀』にも、壱岐島や対馬島についての記事がある半面、「大陸方面からの悲惨な侵略を受けた過去の歴史」もあり、朝鮮や中国に近いというハンデから容易に侵略を最初に受ける場所でもあります。奈良時代~平安時代にかけて、朝鮮半島の新羅の賊や中国大陸の女真族系の刀伊賊(といぞく)の侵略を受けて、島民が虐殺・略奪され全滅の状態になりました。また、鎌倉時代には、2度にわたる「元寇」という日本史に残る大侵略を受け、壊滅的な打撃を受けました。逆に、豊臣秀吉が朝鮮出兵をする際は、前線基地にもなり、太平洋戦争時代には、壱岐と対馬との間を通るアメリカなどの連合軍側の軍艦を沈めるため、戦艦長門級の「東洋一の41センチ連装砲台のある海岸要塞」が建設されました。 島には、唯一の温泉「湯ノ本温泉」があり、温泉質は濃厚で、茶褐色に近い色をしている源泉かけ流しのまろやかな湯を堪能できます。 日帰り湯では、「国民宿舎壱岐島荘(https://onsen.nifty.com/iki-onsen/onsen004165/)」(入浴料:315円、営業時間:10:00~16:00、住所:長崎県壱岐市勝本町立石西触101、電話:0920-43-0124)があります。 壱岐に向けて出発!(17日) 「博多埠頭第2ターミナル」から壱岐(郷ノ浦)行きのフェリーに乗船、 午前10時に出航!、壱岐到着は午後12時15分頃になります。 17日の朝ですが、雨もなく、風も穏やかで、台風接近が信じられない 晴れ男にふさわしい青空のお天気でした。波もなぎの状態です。 壱岐(郷ノ浦)到着! 予定通り、「郷ノ浦港」に到着!お天気は御覧のとおり、快晴です。スマホで雨雲の状態を調べると、この時点で、「壱岐島」周辺は雨雲なし。ところが!付近の韓国南岸や南九州、山口県方面では大雨状態でした。大型観光バスが7台、客を待ってましたが、そのうちの1台に乗り込みました。 安国寺 最初に向かったのが、一休和尚で有名な京都の「安国寺」と同じ系列のお寺です。この寺は、1338年(暦応元年)足利尊氏が、平和祈願と元寇以来の戦死者の冥福を弔うため、従来あった海印寺を安国寺としたものです。室町時代の貴重な文化財を多く所蔵し、なかでも「高麗版大般若経」は国の重要文化財に指定されています。 大般若経591帖が6箱に収められ、安国寺境内にある宝物殿経蔵に保存されていましたが、先の有名な韓国人による対馬の仏像盗難事件同様、壱岐の安国寺でも、1994年7月23日に591帖のうち493帖が、韓国人により宝物殿から盗まれていることが発覚しました。1995年にしみや汚れ、巻末の署名などが酷似したもの3帖が韓国で「発見」され、やがて韓国の国宝284号にまで指定されましたが、日本の外務省が1998年に韓国政府に対して調査を依頼しましたが、個人所有であるとして返還が認められませんでした。所有者は、コリアナ化粧品会長で韓国博物館会会長の兪相玉(ユ・サンオク)なのだそうでですが、韓国は、盗品と分かりながらも被害国への謝罪や返還措置を講ずることもなく、盗んだ物も自国の物という感覚で反日感情に偏った不公正な司法判断が可能な北朝鮮や共産中国のエゴイズムとも共通する不公正で異常な偏狭国家としか思えません。 拝殿(写真左)は室町時代に建造されたものです。とても凝った造形美があります。右は、戦国武将の松浦久信(まつうらひさのぶ)とキリシタンであったその妻メンシアのお墓ではなく拝塔だということです。キリスト教を示す様式があるそうです。 境内の中にある樹齢1000年のクスノキです。この木は、過去の歴史をどれだけ見てきたことでしょうか?直径6m、樹高30mもあります。長崎県の天然記念物に指定されています。さすがに、風格があります。 ご神木ですね。このバスガイドさんによれば、壱岐には広葉樹はほとんどなく、紅葉の秋は、この島では見ることができないそうです。 麦焼酎蒸留工場見学 「壱岐」は、「麦焼酎の発祥の地」だそうで、蔵酒造に行き、酒蔵や焼酎製造の蒸留塔を見学、製造の工程を拝見しました。この島限定販売の「壱岐の島」や「二千年の夢」の銘柄をお土産に購入しました。試飲したら、とても美味しかったです。 八幡 左京鼻(岬) 「左京鼻」と言う岬を示す観光地の紹介で、よく出される写真が、この奇妙な形の岩なのですが、しかし、これ自体は岬ではありません。 「左京鼻」に関する説明のある看板。 これが、正しい「左京鼻」の写真です。 このあたり一帯を歩きました。 これも違う方向から見た「左京鼻」です。岬の先端には、赤い鳥居があります。勿論、先端まで歩きました。 少弐公園(弘安の役瀬戸浦古戦場・壱岐神社) 2度目の元寇侵略!「弘安の役(西暦1281年)瀬戸浦古戦場」に関する説明文。 弘安の役の際、島の守備隊の鎌倉武士団の侍大将「少弐資時(しょうにすけとき・19歳)の墓と伝えられる遺構。 「元寇」の2度目の侵略となった「弘安の役古戦場」と刻まれていました。 西暦1281年、900隻余りの元のクビライ帝の大型軍船がこの海岸線一帯を埋め尽くしていたことでしょう。この日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の大艦隊であったと言われています。蒙古・漢人の混成部隊3万人、元の属国であった朝鮮の1万人余りの高麗軍部隊が、島に上陸、占領しました。島守備隊の鎌倉武士軍団はわずか500騎足らずの騎兵でしたが、奮戦するも多勢に無勢、やがて全滅し、守備隊の総大将(19歳)の「少弐資時(しょうにすけとき)」も海戦で最期を迎えます。 この対馬・壱岐の戦いでは、島民のほとんどが殺され、あるいは女たちは手に穴をあけて縄を通され、見せしめのために船に結わえ付けられていたという伝承もあり、蒙古人・漢人・高麗人の連合軍の去った後の島の惨状は、修羅場と化していたとのことです。 写真左は、西暦1281年の元寇の蒙古襲来の「弘安の役」の際、壱岐の防衛任務にあたる武士団や馬の搬送に当たった日本側の大型船の錨(いかり)の石(長さ2.5m)、左は、壱岐守備隊として大群を相手に奮戦した武将「少弐資時(しょうにすけとき)」を弔(とむら)う「壱岐神社」です。 神社発祥の地・月讀(つきよみ)神社 神社としては、小規模ですが、日本最古の神社!、「月讀(つきよみ)神社」入口です。神社の発祥は、ここから日本全国に広まったそうです。この島内の神社の総数は、神社庁登録だけで150以上もあるどうですが、それだけ、この島が神代の国の時代から神的なものを持っていたという証(あかし)でしょう。 急な階段を歩き、本殿でお詣りを済ませ、バスガイドさんお勧めのお守りを買いました。 奇岩「猿岩」 右手に見える岩が「猿岩」だそうで、そう言われて見れば、猿の左側の横顔に見えます。この岩は、ここでは結構有名な観光名所の様です。 黒崎砲台跡 (巨大要塞) 戦時中は、東洋一であった、迷彩を施された「41センチ連装砲台のある海岸要塞」の概念図。 戦艦「長門」級の拡大改良版の戦艦「加賀」の姉妹艦である戦艦「土佐」(基準排水量39900トン)は、1922年のワシントン海軍軍縮条約成立により、廃艦の運命となり、その際、積載していた主砲である41センチ砲2連装の砲台部分を活用し、壱岐・対馬海峡を通過する敵艦攻撃用に壱岐の黒崎に沿岸要塞砲台として5年余りの歳月をかけ建設されたのが、巨大な黒崎の41センチ2連装砲台要塞でした。 口径は、戦艦大和の46センチ砲に次ぐ41センチの巨砲であり、土台部分を含めた金属部分の砲台総重量は1000トンもあり、最大射程距離も35kmもありました。 終戦後、アメリカ軍が上陸、重量1000トンを超える砲台の撤去作業に爆薬による爆破作業でも破壊できず、遂に新日鉄の前身の八幡製鉄に撤去を依頼するも作業は難行、結局、完全撤去に5年間も要したそうです。 小学生の頃、映画好きな父親に連れられて観た映画に、グレゴリー・ペック主演、アンソニー・クインなども出演していたアメリカの戦争映画に『ナバロンの要塞』という映画がありました。これは、第2次大戦中のギリシャ沿岸にドイツ軍が建設した海岸要塞の巨砲が、通過するイギリス軍の駆逐艦などに脅威となったことから始まる物語ですが、詳しくは、イギリスの作家アリステア・マクリーンが1957年に発表した戦争小説で、1961年に映画化され、小説・映画ともども評判となったものです。この映画は、1962年の第34回アカデミー賞の特殊効果賞、および第19回ゴールデングローブ賞の作品賞(ドラマ部門)を受賞したものですが、このドイツ軍の要塞に据え付けられていた2門の大砲ですら、せいぜいクルップ製の28センチ要塞砲程度のもので、それに比べれば、比較にならないほど、黒崎砲台の方がはるかに巨砲だと感じました。 左は黒崎砲台跡展望通路入口、右は、砲台を取り除いた直径30m位ある巨大なコンクリートの台座部分です。地下部分からも入れるそうですが・・・・それにしても、当時の状況を想像すると巨大な砲台であったことが想像できます。終戦まで、訓練射撃のみで、実際の戦闘射撃は一度もなかったとのことでした。 夕食(アワビステーキ、壱岐牛、新鮮な刺身、ウニ飯) 普通は食べれないアワビステーキ(写真)、やわらかい壱岐牛ステーキ、海鮮茶わん蒸し、赤ウニたっぷり飯、新鮮なカツオ、イカ、ヒラマサなどの刺身、磯の香りのする吸い物・・・とても美味しかったです。 食後、休憩して温泉に行きました。 静かな翌朝の風景(郷ノ浦)(18日) 壱岐島唯一の温泉「湯の本温泉」で入浴し、その後、郷ノ浦のホテルで宿泊しました。これは、翌18日の早朝、ホテル7階の窓からの静かな郷ノ浦港の静寂な風景です。昨夜来、南九州や山口県などは、大雨が続き警報が発令されているとかでしたが、ここはいたって平穏、雨も風もなく、海もなぎ状態でした。不思議なことに、北の韓国、対岸の福岡市でも大雨でしたが、壱岐島の周囲だけは、ぽっかりと穴が空いたように雨雲が存在しません。やっぱり、晴れ男だわ! 牧崎 ゴリラの岩・鬼の足跡 写真左は、「ゴリラの岩」と呼ばれるもので、なるほど、ゴリラの右側の横顔の様です。また、付近には、「鬼の足跡」と呼ばれる海岸沿いの巨大な穴があります。 これが、その「鬼の足跡」だそうです。この島には、昔から、鬼が支配していた時代があったという「鬼ヶ島伝説」があるそうなのです。 「鬼の足跡」付近の「牧崎」付近の海岸線を歩いてみました。険しい海岸線が目を引きます。 「ゴリラの岩」に近づいてみました。見る方向で色々と変化して見えます。 美しいピンクの花一株が目に入り、思わず撮影しました。「何という花だろう?」・・・「私も花の名はわかりませんが、綺麗ですね。」と、バスガイドさんもスマホで撮影しました。 壱岐の代表的神社 住吉神社 壱岐島住民が初詣などで訪れる神社といえば、この「住吉神社」が定番なんだそうです。 前を進むバスガイドさん、この島の出身だということで、色々と詳しく教えていただきました。2日間にわたり、大変お世話になりました。 なんと!左の写真は、この神社で神前結婚式をされていた様子です。まだ20代前半の若いカップルでした。右は、神木の二股の巨大夫婦杉です。バスガイドさんのお知り合いだったとか!この周りをグルリと歩けば、長寿や結婚相手を願えば、かなうとのこと!バスガイドさんも独身だそうで、お婿さん募集中だそうです! 掛木(かけぎ)古墳(探索) 「掛木(かくぎ)古墳」という古墳時代の豪族の古墳に来ました。実際に、古墳には入ったことはないので興味津々でした。巨大な岩を組んで墓室を作り、その上に土盛をした構造です。 左は、古墳の入り口で、中は狭いので順番に入ります。バスガイドさんの説明で色々勉強になりました。右は、室内の天井部分ですが、巨大な岩で蓋をしたようになっていました。 この写真は、当時の古墳建設風景をディオラマ化したものです。 古民家園(江戸時代の標準的農家の再現) 壱岐島の江戸時代当時の農家の標準的な屋敷がまえを再現した「古民家園」の「壱岐風土記の丘」と言う施設を見学しました。 当時の農家は、別棟に「隠居(いんきょ)」があり、息子が結婚した時点で、老夫婦は、母屋から出て「隠居」で生活するというパターンが定着していたようです。 「隠居」の建物と外部・内部とも、付近の状況も細かく再現されていました。 母屋(オモヤ)は、元々は、老夫婦が住んでいた住居ですが、新しい息子夫婦の住居となるということです。 江戸時代でも、母屋は2階建てで部屋数も多くとても広いんです。 ホンマヤは、納屋と物置を兼ねたもので、農機具小屋です。 コメの脱穀機を置いていて、足踏みの脱穀作業をしていたようです。 セッチンは、今のトイレのこと。 写真左は、セッチンの様子、右写真は、牛小屋とつながれていた牛たちの様子です。江戸時代でも、以上の建物がセットになっていたのが標準的だったとは知らなかった。 鬼の窟(いわや)(古墳) 「鬼の窟(いわや)」も古墳時代の有力者の古墳の一つですが、少し大きな墓室でした。大昔の人が巨岩をどうやって組んだろうと思いました。 原の辻ガイダンス(原の辻一支国王都復元公園) 近年の発掘調査の結果、「一支国」の王都であったことが判明、「原の辻一支国王都復元公園」として復元されています。そこを訪れた際、風雨が一時激しくなり、写真撮影はできませんでしたが、その状況や説明する展示物などがある写真上の「原の辻ガイダンス」という施設で見学しました。 これが、復元された「一支国」王都の再現された遺跡公園です。門や柵、物見櫓(見張り台)や集会所、迎賓の建物、王の館、倉、民家など様々な当時の建物や港の跡なども再現されています。佐賀県の「吉野ヶ里遺跡公園」とも似ています。土器なども日本の弥生時代に共通する部分が多いと思います。 遺跡の出土品から再現された「一支国を守る兵士」です。右手に銅剣、左手に持つ大型の木製の盾(たて)は、人の身長よりも大きいです。ローマ帝国の歩兵の盾も大型でしたが、それ以上に大きいようです。木製の胸当ての様な剣道の防具にも似た「短甲」という鎧(よろい)も身に着けています。 一支国博物館(黒川紀章設計) 「一支国博物館」の玄関ホール内部の様子です。この建物は、外観を撮影していませんが、有名な「黒川紀章」の設計による建物です。この2階には、多くの様々な歴史的遺物が展示されていました。展示物は写真撮影はできません。 玄関ホール付近に展示されていた「元寇・弘安の役」の様子を描かれた絵です。絵は、矢田一祥「元寇図(海上)」で・・・「弘安の役(1281年)において、”元軍の船に立ち向かう総大将「少弐経資(しょうにつねすけ・19歳)」軍”の様子です。 写真左は、天窓のある明るい玄関ホールの天井部分です。右は、同じく玄関ホール出入り口上部に掲げられている壱岐の凧揚げの凧(たこ)です。壱岐島が鬼に支配されていた時代、ある若武者が鬼退治をやり遂げ、最後の鬼大将の首を切り落とした際、空に舞った首が若武者の兜にかぶりつき絶命した図を現したものだそうです。この凧は、壱岐市内の温泉施設や公共施設に掲げられています。 帰宅へ向けて ・・というわけで、周遊を終え、帰りも午後4時のフェリーで博多埠頭に午後6時25分に無事戻りました。フェリーに乗船するまでは、雨は降っていませんでしたが、博多埠頭に到着すると多少強い雨が降っていました。この時点で、台風の影響でも山口県では大雨警報が発令中でした。近いのに、天候にこれだけの違いがあるんですね。新幹線で帰宅する前に、博多駅に隣接するヨドバシカメラ博多駅店ビル内4階にある回転寿司店「魚べい」で夕食を済ませました。ここは、新鮮で安くて美味しい寿司が手軽に食べれるので便利です。REALISTは、博多に来れば必ず立ち寄るほどのお気に入りです。最近は、ここを訪れる韓国人や外国人旅行客も多いですね。当日も、旅行に来た若い女性やカップルの韓国人でいっぱいでした。おそらく、安くて美味しいという魅力で口コミで訪れるのだろうと思います。・・というわけで、とても楽しく有意義な旅を過ごすことができました。 ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2016/09/26
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★☆ 発見された山岳風景画展『 遥(はる)かなる山 』を鑑賞しました。 ★☆ 8月11日の『山の日』制定記念山岳風景画展覧会(松本美術館との共同企画)~ 山口県立美術館(山口市亀山町3-1)にて ~ REALISTは、2016年6月12日(日)、「山口県立美術館」に赴き、明治後期から昭和前期にかけて「山」を描いた46人の画家の作品120点のリアルな山岳風景画を鑑賞し、山の魅力の原点を絵画の世界からも垣間見ることができました。「山口会場」での展覧会は、既に7月3日で終了したものですが、この後、長野県松本市にある「松本美術館」の「松本会場」でも7月16日~9月4日まで同一内容での展覧会が催されます。 日本では、2009年ごろから始まった登山ブームで「山ガール」と呼ぶ言葉も生まれましたが、登山がレクレーションやスポーツとして最初に一般化されたのは明治時代後期からでした。それ以前は、主として宗教や狩猟が目的の入山に過ぎなかったとのことで、それでも、最初は、皇族や画家、医者などのごく限られた人々の趣味に過ぎず、その後、山小屋などの施設が急増し一気に大衆化が進み、日本で最初の登山ブームが到来したのは、大正期になってからとのことです。 『 遥かなる山 』山口県立美術館正面玄関付近 山岳画家たちの多くは、明治38年に創立された日本最初の山岳クラブ「日本山岳会」の 会員でもあり、実際に日本アルプスに登山を行い、雄大な山の風景美を描いています。 主な作品の画家には、 丸山晩霞、吉田 博、石井鶴三、古賀春江、中村清太郎、五百城文哉、 榎本千花俊、大下藤次郎、大久保作次郎、玉井敬泉などがありました。 描かれた山は、富士山のほかに、 大半は、日本アルプスの山々で、槍ヶ岳、剱岳、白馬山、北岳、穂高、有明山、 涸沢などの雄大な山岳風景でしたが、当時の山ガールの姿やテント泊の風景など の時代を感じさせるものも多数ありました。 画家たちが、苦労してたどり着いたアルプスで描いたその風景画には、 見たこともない山岳で遭遇した自然の造形美に驚き感動した様子を 垣間見ることができました。それにしても、雄大な槍ヶ岳、剱岳、 穂高や涸沢の圧倒的な風景がリアルに展開されていました。 まさに、絵を見て山に登った様な感覚になれました。 後に、NHKのTV放送で、山岳画家「吉田 博」のドキュメンタリー番組を 見る機会があり、改めて当時の山岳画家たちの苦労を知ることができました。 当時の日本アルプスは、現在とは比べものにならないぐらいの山道は未開に近く、 道標もない、山小屋もほとんど未整備の状態で画材を担いで、アルプスの峰々 を歩いていたことを想像すると、さぞ大変だったろうと思いました。「吉田 博」 は、とにかく山頂を目指す人だったそうです。 『 遥かなる山 』入場チケット 8月11日が『 山の日 』を記念しての 『 市毛良枝 』さんのコメント記事掲載の「Mountain Days News」 市毛さんは、1971年のTVドラマ「冬の華」でデビューされた女優です。 市毛さんが山好きになられたきっかけは、「最初の登山の1回だけで体験したブロッケン現象や様々な気象条件、沢山の素晴らしい景色を見ることができたことがきっかけで、すっかりはまってしまった。」のだそうで、テントを背負っての南アルプスでの単独縦走を敢行するほどに、山好きで知られる登山家でもあり、九州では大分県の九重連山にも訪れ、その美しさに感動されています。 山口県立図書館前庭付近 美術館の前にあるため、ここの大駐車場を利用させていただきました。 6月19日(日)、図書館内のレクチャールームで女優で山岳家の『市毛良枝』さんの 記念トークショー「山の絵から迫る山登りの魅力」が開催されました。 長野県立松本美術館との共同企画展の『 遥かなる山 』広報パンフレット バックの絵は、丸山晩霞(まるやまばんか)の「白馬三山」 大久保作次郎「山へ」・昭和15年(1940年) まさに、元祖「山ガール」! ピッケルを持っています! 戦前の時代でも、こんな登山を目指す人々が いたことを知りました。(Thanks) !!↓(ありがとう)^^)/~~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2016/08/05
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★☆ 初秋の柔らかな朝日を浴びて九重の滝にたたずむ ★☆ The ”Krazomenotaki” Waterfall~ 大分県九重町『 九重連山 』吉部(よしべ)登山口付近 ~ REALISTは、2015年9月28日(月)、九重連山の平治岳(ひいじだけ・標高1642.8m)を目指して、吉部(よしべ)登山口をスタート、途中、その約40分後の午前9時10分ごろに立ち寄ったのが、この『 暮雨)くらぞめ)ノ滝 』だった。 初秋の柔(やわ)らかな朝日を受けて眩(まぶ)しくキラキラと光る水面や光線の帯、静寂な中に滝の水音や水流の音が響き、とても幻想的な雰囲気を演出していた。 「坊がつる讃歌」にも出てくる落差7メートル、幅15メートルの滝だ。目的の平治岳(ひいじだけ・標高1642.8m)山頂を目指して、是非立ち寄りたかったのが、この『 暮雨(くらぞめ)ノ滝 』だった。冬は、この滝が凍り、氷瀑(ひょうばく)と化すそうだ。吉部登山口付近にある有料駐車場に前夜に到着、車中泊で朝7時半に起床、朝食後の8時半に登山口をスタートした。この道を進めば大平原の「坊がつる」に至るのだが、途中の目の前の木に『 暮雨(くらぞめ)ノ滝 』の案内表示を発見!案内表示に従って、左に「鳴子川」方面に下った。ここから、約10分の行程で、滝のある川に向かった。これで、往復20分+撮影・鑑賞時間をロスするが、それでも、観たいという欲求には負ける。滝に到着して、まず足元で見かけたのが、朝日に輝く美しい水面だった。初秋なので、落葉した葉がそこらじゅうを埋めており、水面にも浮いていた。『 暮雨(くらぞめ)ノ滝 』(大分県九重町・2015年9月28日) 』(REALIST撮影)九重連山の吉部登山道付近に位置する『 暮雨(くらぞめ)ノ滝 』の朝日を浴びた風景。朝日にきらめく滝の水面はユラユラ波打ち、水の勢いよく流れる様子がわかる。この滝は、「坊がつる賛歌」の一節の詩にも出てくる落差7メートル、幅15メートルの滝だ。平日なので、他に登山者はいたが、ここでは幸いに誰一人いなかったので独占して鑑賞できた。ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2015/11/19
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★☆ 総称『 黒岳 』の天狗岩、高塚山、前岳方面で観た秋・紅葉! ★☆ The autumn scenery of colored leaves in the Kujū Mountains~ 大分県九重町『 九重連山 』 ~ REALISTは、平成27年10月19日(月)、『 九重連山 』の「男池(おいけ)登山口」をスタート、天狗岩(てんぐいわ・標高1556m)、高塚山(たかつかやま・標高1587m)、前岳(まえだけ・標高1334m)の3つのピークを尾根伝いに縦走し、そのまま白水鉱泉・黒嶽荘に下り、林道から「男池登山口」にゴールの日帰り登山をした。 紅葉の風景を観察できたのは、主に天狗岩、高塚山に至る範囲で、前岳周辺部、山頂での見晴らしは悪く紅葉の風景を観ることができなかった。同じ九重でも、前回の(その1)で紹介した景色とは大きく異なり、また違った意味での魅力を感じることができた。ここでは、紅葉の風景に限定した撮影写真のほんの一部をご紹介する。『 黒岳(くろだけ) 』の最初のピークの天狗岩(てんぐいわ・標高1556m)に登頂した山頂から目の前に見えた大船山(たいせんざん・標高1786.2m)の風景。山全体にうっすら拡がった紅葉の風景が見えた。これも同じく、天狗岩の山頂付近を移動して観た大船山の様子。正確には、この山の左端突起部分が大船山で、右端が北大船山と呼ばれている。観たとおりに火山の形状をしている。中央のくぼみは火口だったようだ。天狗岩山頂から、北北東方面を観た状況だ。一番遠くの中央部に突起が見える山の先端が少し割れた山は、「豊後富士(ぶんごふじ)」と呼ばれる由布岳(ゆふだけ・標高1583m)だ。一面に広がる紅葉がはるか彼方まで続いていた。天狗岩の山頂から観た東方面は、一面に雲が広がり、遠くにうっすらと山の輪郭が見えた。太陽の光に眩しく光る紅葉が目に入った。天狗岩山頂から北西方面を観た風景。左から、大船山、次に奥に観える山は、平治岳(ひいじだけ・標高1643m)、次に手前に見える右の山が、ここから登りにかかった次のピークの高塚山(たかつかやま・標高1587m)だ。『 黒岳・天狗岩(標高1556m)山頂から周囲360度を観る! 』By YOUTUBE(REALIST撮影)天狗岩の山頂での撮影で、大人二人がやっと立てる広さしかないので、恐る恐る体を回しながら撮影したものです。高塚山に向かいつつ振り返って観た、先ほどまで山頂にいた天狗岩の風景。岩山部分の左側の突起部分が、天狗岩の山頂部分で、大人二人がやっと立てる広さしかない岩の部分だ。燃える様な赤色でまだら模様に染まっていたのに感動した。これも、ようやく高塚山山頂に到着して、再び天狗岩を観た状況。高塚山の方が30m程度高いだけだが、天狗岩がずっと小さく見えた。赤色がうねる様な広大な風景は神秘的だ。高塚山山頂から東方を眺めると、やはり、雲で遠くがかすんでいた。この風景は、今、この時でしか二度と見ることができないと時間の大切さを感じた。 高塚山山頂から観た西方の風景。向かって左から、大船山、中央の奥の山は、三俣山(みまたやま・標高1744.7m)、右端が平治岳(ひいじだけ・標高1643m)だ。いずれの山も既に登った山だが、こうして眺めると感慨深いものがある。高塚山から、次のピークである前岳(まえだけ・標高1334m)に向かう途中の登山路は、紅葉でオレンジ色に染まった木々の狭い道が続いた。 前岳に向かう薄暗い登山路で見かけた赤く染まったカエデの葉。前岳山頂は、木々に覆われ視界が悪く、紅葉の風景は見えなかった。前岳山頂で後から到着した若者二人の登山グループと遭遇、「ここの道はわかりにくいですねー!」と声をかけられたが、確かに不明確な分岐も多かった。前岳山頂では、互いに写真を撮影した。若者グループは、もう1人の仲間が遅れているのでそのまま待つとのことで、REALISTは、彼らの無事を祈って先に下山した。 先の記事【 九重の秋・紅葉の風景(その1) 】も御覧下さい。ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2015/11/14
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★☆ 沓掛山、星生山、中岳、久住山方面で観た秋・紅葉! ★☆ The autumn scenery of colored leaves in the Kujū Mountains~ 大分県九重町『 九重連山 』 ~ REALISTは、平成27年10月16日(金)、『 九重連山 』の牧ノ戸峠登山口から、沓掛山(くつかけやま・標高1503m)、星生山(ほっしょうざん・標高1762m)、中岳(なかだけ・標高1791m)、天狗ケ城(てんぐがじょう・標高1780m)、久住山(くじゅうさん・1786.9m)の5つのピークを尾根伝いに日帰りで縦走した。 紅葉の風景を観察できたのは、牧ノ戸峠登山口から沓掛山、星生山に至る範囲で、久住山、中岳周辺では、岩山で樹木が少ないこともあり、ススキの穂ばかりで紅葉は少なかったが、岩の間で咲く青い可憐なリンドウの花を見てホッと安らぎを感じることができた。ここでは、紅葉の風景に限定した撮影写真の一部をご紹介する。牧ノ戸峠登山口に近い、沓掛山(くつかけやま・標高1503m)山頂から星生山方面を観た早朝の紅葉風景。この稜線を進むことになる。写真奥中央右の山が、ここから目指す星生山(ほっしょうざん・標高1762m)。尾根伝いに星生山(ほっしょうざん・標高1762m)に向かう途中、眼下の西千里浜を観る。左奥は久住山(くじゅうさん・標高1786.9m)。紅葉は、部分的だが、上品な赤色がとても美しい。上に同じ尾根伝いの道で来た道を振り返り観た風景。写真左下が西千里浜、右奥の小高い部分は、扇ケ鼻(おおぎがばな・標高1698m)だ。星生山に向かう稜線沿いの山肌染める紅葉。はるか彼方まで続く稜線を歩いて進めば、星生山!さらに、久住別れ、久住山、中岳、天狗ケ城に進める。どちらかというと、まだ紅葉が少なめかもしれない。11月にもなれば、さらに紅葉が深まるだろうか?写真中央奥右側が、久住山(くじゅうさん・1786.9m)、その左奥に天狗ケ城(てんぐがじょう・標高1780m)、中岳(なかだけ・標高1791m)が位置する。雄大な自然の中では、自分の存在がいかに小さいかよくわかる。赤く染まる星生山の東端部分、まず、ここをよじ登って尾根の稜線を歩けば、星生山山頂にたどり着く。アルプスや東北に比べ、九州の紅葉はまだまだ時間がかかる。それでも、何とも秋らしい山の風景だ。 これは、久住山の中腹当たりで見かけたリンドウの花。この時期は、花が少ないので見かけただけでホッとする。 天狗ケ城を下山中に見かけた輝くような鮮やかさで見事な赤に染まった樹木。 こちらも中岳下山途中で見かけた秋らしく黄色に染まった樹木。扇ケ鼻から沓掛山に向かう下山中に観た赤く染まる星生山の風景。観る方角から山の形はどんどん変化して見えるのが面白い。 下山を終え、紅葉に染まりつつある丘から眼下の駐車場のある牧ノ戸峠登山口を観る。ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2015/10/28
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★☆ 西日本一の群生地に咲く「大狐の剃刀」などの花を観る ★☆ オオキツネノカミソリ(学名)Lycoris sanguinea var. kiushiana ~ 福岡県糸島市 花の名峰「井原山」にて ~ REALISTは、2015年7月30日(木)、例年7月下旬から8月上旬にだけ咲くと言われる『 オオキツネノカミソリ(大狐の剃刀) 』という花が福岡県糸島市内の佐賀県との県境にある「井原山(標高963m)」で観ることができるということを知り、登山を兼ねて写真撮影に出かけました。その独特な花の名にも奇妙さを感じましたが、鑑賞できるのも期間限定だし、「いったいどんな花なのだろう?」と実物を見たい強い欲求や興味が湧いてしまいました。 もう秋を迎え、既に花の時期は過ぎましたが、オオキツネノカミソリを中心に登山路で見かけた花々を紹介します。 木漏れ日の光が注ぎ、花部分はまぶしく輝いていました。オオキツネノカミソリ(学名Lycoris sanguinea var. kiushiana)は、ヒガンバナ科の多年生草本球根植物で、クロンキスト体系ではユリ科に分類されています。花の名の由来は、花の形状が剃刀(カミソリ)の刃の様に鋭いことから名づけられたそうです。 福岡県糸島市内の佐賀県との県境にある「井原山(標高963m)」、オオキツネノカミソリの群生地は、水無登山口から沢沿いの山頂に向かう登山道にあります。「花の名峰」とも呼ばれ、春の4月下旬~5月初旬では、コバノミツバツツジでも有名です。 清楚な美人の様な趣があります。 華麗な美人が笑っている様に見えました。 オオキツネノカミソリの群生地を示す表示板。 カメラで撮影をしつつ、熱心にメモをされていました。あまりの熱心さに、お邪魔してはいけないと声をかけずに通り過ぎました。 仲良し兄弟の様なお花グループです。 笑顔が素敵なあなたでした。 太陽に向かって、にこにこ笑顔で歌ってます。 沢の水の流れる音が聞こえるあたりで、たたずむ3人の美女姉妹たち。 オオキツネノカミソリの咲く登山道を、早朝登山を終え、下山中のハイカーたち。お花が好きな人々が多いことがよく分かります。 兄弟姉妹の多いグループですね。元気がいいわ!にぎやかなおしゃべりが聞こえてきそうです。 「やあ!こんにちは!]と思わず声をかけそうな、雰囲気でした。 お花の道は続くよ~、どこまでも~♫。 山頂付近の雷山縦走路分岐で見かけたアカショウマの花。小さなお花の集合体の様なお花で、動物の尻尾の様です。 山頂付近の雷山縦走路分岐で見かけたイヌキクイモの花。割と似た様な花種の多いキク科のお花です。 水無分岐付近で見かけたキカラスウリの花。花に毛が生えた様な不思議な形状のお花でした。 山頂付近の雷山縦走路分岐で見かけたコバキボウシ。花の形は、一見、リンドウ似ですが、横から眺めると、ツリガネソウの様でも・・ 水無分岐付近で見かけたシシウド。豪華で上品なお花です。直径3cm位の円盤状のものが集まっています。シャンデリアの様な・・・・ 山道の途上で見かけたヤマアジサイ。最近、登った鳥取県の大山でも見かけました。 これは、何の花の実?蕾(つぼみ)なのか?いったいこれは、何なのでしょうか?どこかで以前にも見かけた様な・・・ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2015/09/08
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★☆ 頭に浮かんだ映画ミッション:インポッシブルのクライミングシーン ★☆ Mount Ishizuchi is a 1,982 metres (6,503 ft) high mountain~ 愛媛県西条市『石鎚(いしづち)山』 ~ REALISTは、6月17日(水)、西日本一の山「石鎚山(標高1982m)」に単独でアタック遠征した。正確には、最高峰に位置する天狗岳(てんぐだけ、標高1,982m)・石鎚神社山頂社のある弥山(みせん、標高1,974m)・南尖峰(なんせんぽう、標高1,982m)の一連の総体山を石鎚山と呼ぶそうだ。この山は、初めての山だが、登山コースは、ロープウェイ経由の山頂成就(じょうじゅ)駅からの一般的な登山コースではなく、敢(あ)えて、サブコースの石鎚スカイライン終点の土小屋から登る「土小屋コース」を選択した。山頂近くの二の鎖(くさり)、三の鎖(くさり)の絶壁をよじ登り、ようやく弥山山頂、そして、天狗岳、さらに南尖峰ピークへと4時間余りをかけて縦走した。 岩の先端頂上部に立つこの写真は、たまたま、この地まで来た二人連れの若い登山家に撮影していただいたものだ。既に天狗岳でも互いに写真を撮り合った仲になっていたわけだが、その二人も天狗岳のさらに奥にあるこの南尖峰(なんせんぽう)ピークにまで到達したわけだ。弥山(みせん)から天狗岳に向かい多少は眼下に見える断崖絶壁への恐怖心も次第に和らいだ感があったが、このピークに達したところで、思わず脳裏をかすめたシーンは、なぜかトム・クルーズ主演の映画、「ミッション・インポッシブル(Mission Impossible)シリーズ」の第2作目『M:I-2』のプロローグ場面のクライミングシーンだった。『 Mission Impossible 2 Rock Climb 』 トム・クルーズ主演の映画、「ミッション・インポッシブル(Mission Impossible)シリーズ」でも、このロッククライミングのシーンがよほど衝撃的だったのか、いつまでも忘れることができなかった。このシリーズの最新版が、8月7日から全国で公開されるそうだが、見逃せないシリーズだ。それにしても、岩を握りしめ進みながら1982mの眼下を見おろす風景は鳥肌が立つ感があったが、まさに、このシーンにも共通するものだったからだろう。突然、この映像がREALISTの頭に浮かんだ。『 石鎚山 南尖峰 フリークライミング』 弥山から天狗岳を登り、さらに、その先の南尖峰(なんせんぽう)のピークを目指していくフリークライミングの迫力あるシーンの映像だ。私の撮影ではないが、観るだけでも南尖峰のフリークライミング疑似体験ができるのでお借りした。 石鎚神社頂上社のある弥山の山頂(標高1974m)から観た天狗岳(てんぐだけ)(標高1982m)、ここを訪れた人々の大半は、ここから天狗岳を鑑賞して下山するのが多く、さらに天狗岳を目指す人は少数であり、さらに、その先の南尖峰ピークまで進む人はほんのごく少数に過ぎない。 天狗岳の山頂は、弥山よりも8m高い1982mで、周囲は断崖絶壁!狭い頂上部でたまたま一緒になった若い二人連れの登山家たちと互いに写真撮影をし合った。残念なのは、天狗岳の文字のある看板が厳しい環境のためか文字が読めないほどに傷んでいたことだった。 石鎚神社頂上社のある弥山の山頂にて。天狗岳登頂前に、神社を参拝して登山の安全祈願を済ませ、お守りを購入し、食事を済ませた。『 石鎚山 』 この動画は、「石鎚山」登山の私と同じ「土小屋ルート」をたどった映像だったのでお借りした。とてもよくまとめられた映像だ。鎖場の状況もよくわかる。ここを目指す人にも参考になるだろう。この山は今後も何度か登ってみたいそれほどに魅力的な山だった。♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2015/07/27
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★☆ 標高1000m付近に立つ「小便小僧」は迫力あり! ★☆ The urine novice~ 徳島県三好市「剣山国定公園」祖谷渓 ~ REALISTは、それまで休まず貯めていた3日の連続休暇をようやくGET!!、一大決心で自宅で時間を潰すよりも行動あるのみと、エコなハイブリッドマイカーで山口から高速道路の深夜料金を有効に使い、5時間余りで岡山県の倉敷から四国の香川県に到着、それから、愛媛、徳島、高知県を2日間で縦走遠征した。・・・というか、四国に2つ存在する、日本百名山の 「剣山(標高1955m)」 と西日本一の山 「石鎚山(標高1982m)」 に単独でアタック遠征した。残念ながら、6月16日に登山中に雨天となったが、強行突破で「剣山」山頂に立ち、その下山後、翌17日にアタックする「石鎚山」に近い愛媛県西条市内の安宿ホテルに向かう途中のことだった。 運転走行中に窓を流れるワイルドでスケールの大きな剣山(つるぎさん)系の山脈からなる祖谷渓谷を左手に眺めていると、「あらら!・・・あれは?なんだ?」・・車を左に寄せて止まると・・はるか眼下に流れる祖谷川に向かって立っている「小便小僧」が!・・・おお!迫力ある~!巨大な山脈にうっすら流れる雲の様な流れが、さらにも現実離れした一層の神秘さを与えてくれる。幸い他に通行する車もなく思わず、車外に出て見入ってしまった。 この付近は元々標高が1000mを超える高地だが、その祖谷渓にある祖谷川から高さ約200mの絶壁に突き出た岩に立つ像で、祖谷渓のシンボルとなっている。見下ろせば足がすくむほどだが、昔の人々が度胸だめしをしたと伝えられている。周辺は紅葉の名所でも有名なのだが、「ここで、こうしたら・・・さぞ気持ち良いのかも。」と思った。 調べてみると、・・・この「小便小僧」は、徳島県三好市の「剣山国定公園」内の吉野川支流である祖谷川沿いに約10km続く深いV字谷の秘境「祖谷渓」にある岩で渓谷沿いに走る「祖谷街道」の断崖絶壁の名所「七曲」にある。祖谷川上空200mに突き出た大きな岩は、昔から「度胸試しの岩」と知られ、祖谷街道の建設工事の際にもそのまま残されていたもので、ここに地元ゆかりの彫刻家、徳島県美術家協会会長で徳島大学名誉教授の河崎良行氏が1968年に制作されたものだ。この場所は昔、旅人や地元の男達が切り立った崖に上に立ち、度胸試しをしたと言われる場所で、その名残に小便小僧の像を置いているのだそうだ。現在は、写真のように危険であるため木柵を模したコンクリート柵により進入禁止とされている。この近くには、秘湯として有名な「祖谷温泉」がある。 最初は、こんな感じで車から・・・人らしきものが見えてびっくりしたわけだが・・・ 近づくと、案内表示に「剣山国定公園」とあり、「危険ですので、柵を越えないでください。」と警告文がある。 突き出た岩の上に立つ「小便小僧」だが、こうして、この付近の昔の人は、子供のころから、度胸試しをしていたのだろうか? 巨大な渓谷と山々にガスがかかり、付近一帯は神秘的な空間だった。 小便小僧の後ろ姿も、幼さがあって可愛い。岩の上にあるのは無数の1円硬貨などの硬貨だ。多分、観光客や地元の人々が願掛けで投げ入れたものだろう。落ちないで、岩の上に止まればラッキー!幸運に恵まれる・・・ということではないかな?♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2015/06/18
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★☆ 写真芸術に観る美と過去のドラマチックな競演 ★☆ The artistry of the photographs~ 『 山口県立美術館 』にて ~ 前回の記事で往年のアイドル「南 沙織」の歌を紹介した際、そのご主人にあたる写真家の「篠山紀信」氏のことにも触れていたのだが、それが、偶然にも、山口県立美術館で『篠山 紀信展 「写真力」』が開催されていたのだ。それで、ゴールデンウィーク期間中の5月3日(日)は朝から雨だったこともあり、登山もできないため、久しぶりに芸術的なものを鑑賞したくなり、来館者が多くなるのを嫌い、早朝から美術館を訪問した。・・しかし、私と同じことを考えた人も多く、もう既に駐車場は満車状態だった・・・。 これは、入場チケットの一部で、それをかなり拡大している。チケットにあるこの写真も、今からかれこれ35年前も前の1980年に日本国内で撮影された、あの有名な革命的ビートルズのメンバーだったジョン・レノンとその妻のオノ・ヨーコの有名なキスシーンだ。ビートルズと言えば、中心的メンバーだったポール・マッカートニーがつい最近、来日公演したばかりだった。1980年と言えば・・・自分は何をしていただろう?・・・なんて、この展覧会に登場する数々の一世を風靡した芸能人やスターたち、しかも一番輝いていたころの写真を鑑賞しつつ、その当時のREALISTの時代についても回想していたわけだ。写真は、大きく「GOD」、「STAR」、「BODY」、「SPECTACLE」、「ACCIDENTS」の5分類に分けられていた。最後の「ACCIDENTS」については、先の東日本大震災を題材にしたもので、悲しげな被災者の方々の表情が何とも言えない悲惨な戦争の様な感覚を呼び起こした。スターたちの写真の中には、過去に雑誌のグラビアなどでも見た記憶のあるものもあったようだった。もちろん、彼の奥様の「南 沙織」さんの写真も拝見した。懐かしさと同時に、あのころは若かった~~~!とも感じた。最近のAKBの写真もあったが、まさに美と過去の競演だった。写真は、その時代の美しさを忠実に記録している、しかし、それでも、時は流れ、そうしたものも絶えず過去となる厳しい現実があるというわけだ。♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2015/05/16
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★☆ 吉田松陰の門下生「高杉晋作」の墓所を歩く ★☆ LAST SAMURAI ”SHINSAKU TAKASUGI”~ 山口県下関市吉田1184 『東行庵』 ~ 今月16日(火)、下関市吉田にある幕末の志士『高杉晋作(たかすぎしんさく)1839~1867年』の墓所「清水山」の『東行庵(とうぎょうあん)』を訪れた。来年のNHK大河ドラマは、吉田松陰(よしだしょういん)の妹の文(ふみ・配役は井上真央さん)を主人公とする『花燃ゆ』が1月4日から始まることもあり、郷土に残る関連する史跡を歩いた。 高杉晋作は、江戸時代後期の長州藩士で、13歳で藩校の「明倫館」に入学、18歳で「吉田松陰(29歳で没)」の私塾である「松下村塾(しょうかそんじゅく)」に学び、同じ門下生の久坂玄瑞(くさかげんすい)、吉田稔麿(よしだとしまろ)、入江九一(いりえくいち)とともに「松下村塾四天王」と呼ばれた。しかし、わずか27歳で結核でその短い人生を閉じたが、若くして日本の国の将来を憂(うれ)い、全国を行脚(あんぎゃ)し、その生涯はすさまじく壮大なものだった。晋作は、通称名を「東行(とうぎょう)」とも呼ばれた。長崎のオランダ商人グラバーや坂本龍馬(31歳で没)とも親交があり、危険が迫る龍馬に愛用のピストルを護身用に手渡している。 「東行庵」は、下関市の東部、隣接の山陽小野田市側に近い位置にある。元々は、ここに建てた「無鄰菴」という居宅に「奇兵隊」軍監の「山縣有朋」が住んでいた。 東行庵の案内図。 剣道着姿の高杉晋作(血気盛んな18歳前後か?)柳生新陰流剣術も学び、免許を皆伝された。 「面白き こともなき世に おもしろく」晋作・「すみなすものは 心なりけり」望東とある晋作の辞世の句の石碑。病床で下の句を継げない晋作に、看病の福岡の女流歌人「野村望東尼」が下句を結んだ。それをうけた高杉晋作は「おもしろいのぅ」と言い、息を引き取った。「俺はくだらない世の中を 面白く生きた!」・「心の持ち方で世の中は変わるのです。」 最近新設された高杉晋作像。 坂本龍馬とは親交が厚く、江戸に向かう龍馬にピストルを渡した、一緒に小倉戦争で幕府軍と戦い、龍馬が家族に宛てた手紙でも晋作を「天下之人物」と紹介しているとある。 「東行記念館」玄関。 偶然に見かけた花に止まる蝶。 晋作の遺言でここが墓所となり、晋作と生死の行動を共にした愛人「おうの」が出家し、尼(谷梅処・たにばいしょ)となり、「東行庵」を山形有朋から贈られ、24歳~67歳の生涯を終えるまでその菩提(ぼだい)を弔(とむら)った。 芸者時代の愛人『おうの』(出家後「谷梅処」)晋作とは、江戸で芸者時代に知り合い、下関の芸者小屋で偶然に再会。その後、二人で生死を共に全国を行脚した。 これが、谷梅処が住んでいた清楚な『東行庵』の建物。彼女は、伊藤博文、山形有朋、井上馨らから援助を受けた。 裏庭の入り口の石の門。 これが、本家本元の裏の清水山に昔からある晋作像。 同じく、晋作像を近接撮影。 何だろうと?と、付近で見かけた「日露戦役凱戦記念碑」。「元帥侯爵 山縣有朋書」とある。 ここは、モミジが沢山ある名所だが、なぜか?まだ青々して紅葉ではなかった。 晋作(東行)の墓に向かう階段。付近には、高杉家(本妻マサ「雅子」)やおうの(谷梅処)、戦場で亡くなった奇兵隊諸士の墓などもある。 明治44(1910)年、毛利元昭、伊藤博文が建立の晋作の顕彰碑。伊藤博文の「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」という名文から始まる業績碑文がある。 23歳の時、幕府貿易視察団に加わり、清国上海に渡り、ヨーロッパの半植民地化した街を見て大変な衝撃を受けた。また、ここ上海で購入したリボルバーは、後に坂本龍馬に手渡す。24歳で下関を外国艦からの防備のため、武士以外の町民・農民でも「志(こころざし)」が有れば入隊可能な『奇兵隊』を創設、25歳で「四国連合艦隊」を関門海峡で迎え撃つ砲台を設置指揮し奮戦、「功山寺」で奇兵隊を挙兵し長州藩内の幕府派を破り討幕派に統一、さらに薩長同盟を締結、26歳で奇兵隊を指揮し、幕府軍の長州征伐派遣軍を福岡小倉口で激戦の上撃退した。 伊藤博文(伊藤俊輔・初代総理大臣)、井上馨(井上聞多・初代外務大臣)、木戸孝允(桂 小五郎・第2代文部卿)の寄進した灯篭。 「東行墓」とある高杉晋作の墓。 晋作は、慶応3(1867)年に下関で27歳と8か月の生涯を閉じ、遺言により、奇兵隊本拠地であるここ「清水山」に葬られた。 付近にある『谷梅処(おうの)』の墓。晋作の正妻の高杉マサ(雅子)の墓もここの高杉家の墓にある。マサは、当時、防長一の美人と言われ、士族(山口町奉行)の娘だったが、晋作死亡時、22歳で晋作を思い生涯再婚せず東京で78歳で生涯を終えた。 晋作のよき伴侶となり、幕府の追手暗殺団からの決死の逃走劇でも九州から四国、京都、江戸まで随伴した。 戦場で亡くなった奇兵隊士の大半は、10代~20代の若者であり、それまで、各地にそれぞれの墓は荒れ果てたまま放置され、これを嘆いた東行庵3代目の尼(谷玉仙)が、ここに墓を集めて供養した。 奇兵隊士の墓群の一部。 山頂の「観音像」が静かに見守っている。 ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2014/12/23
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★☆忽然(こつぜん)と消えた人々の幻の集落に生きた証(あかし)を探る ★☆ Tyuuzankei(Ravine) in Japan Yamaguchi Prefecture shimonoseki city ~ 山口県下関市菊川町東中山『大了寺(おおりょうじ)』集落跡 ~ 前回記事でご紹介した『中山渓(ちゅうざんけい)』という渓谷の奥にある『雄滝(おすだき)』の奥をさらに進むと、過去に存在した『大了寺(おおりょうじ)』という集落の痕跡がある。今では誰もいない木々が生い茂る集落跡だが、その地にたたずむと、かつては、男たちが鉱山や野畑で働き、多くの子供たちが声高らかに野山を駆け回り遊び、女性たちが子供を育て井戸端会議で楽しそうに笑い生活していた様なイメージが不思議と湧いてきた。 REALISTが、2013年3月12日(土)に散策した過去記録。 『中山渓』の『雄滝』の上方に伸びる階段を進むと「駐車場」の矢印!『大了寺』集落跡は、その反対側の右を進む。間もなく、林道がしばらく続く。そして、林道の中央に案内表示が現れる。一つは「大了寺」はこちら!・・その下は、帰りに立ち寄る「大了寺鉱山跡」だ。「大了寺」を指す方角には、幅約10mの小川があり、半分にちぎれた橋の様なものがあり、ここを用心深く渡った。 川の対岸にたどり着くと、木立にこんな詩文が、これは、かつて集落に生きた人々のことを偲(しの)ぶものか? 矢印に従い川沿いの道を進む。集落跡への道のりは予想よりも遠く、道を約30分、距離にして約3Kmを歩くと、ようやく、案内表示が見えた。 矢印方向に歩くと、人工構造物が!これは、用水路の護岸をセメントで補強した跡。長い間の放置で崩壊状態。用水路の奥を進むと、線路の枕木を並べたような橋が!しかし、木が古く腐っていて穴が開いていた。 どんな用途だったのか?さらに、竹製の水道管の様なものが設置されていた。 最初の住居跡だ。綺麗に積まれた石垣の上に暖かい家庭のあった痕跡が。用水路を古い丸太とコンクリートの橋が・・ 再び石積みの住居跡、人の代わりに長い年月で樹齢30年程度の杉の木が育つ。右下に「大了寺」の表示があり、ここが集落のメインストリート?奥左側に白い看板がある。 看板には、「大了寺」に思いをはせる文章がある。18世紀の絵地図には、13軒の家が記されていたそうで、昭和後半でも2、3軒が残っていたらしい。 周囲に残された人工構造物が、昔、人がいた痕跡を残す。住居跡に隣接している井戸の様な構造物、中には水が満たされている。何だろう? 石積みの住居跡。 これも住居跡。 同じく・・ 高さ5m以上の立派なもので、城跡の石積みの様に綺麗に積まれていた。 右側の下水の側溝は土砂で埋まり、セメント舗装された道路もボコボコの崩壊状態。 住居の基礎の一部をセメントで固めたもので風呂の跡か?水が流れるように溝がある。 付近には、名も知らない花が咲き、農業で使った溜(ため)池なのか?多くの人が歩いた橋もほとんど壊滅状態。 ゆったりとした坂を歩くと大邸宅が存在したかのような雰囲気。石積みの上には、昔の住民が使用したであろう茶碗や瀬戸物などの壺や食器類の破片が残っている。人が住まなくなった家の崩壊は早い。雨漏りから部屋の中にカビが生え、木材が豆腐の様にスカスカになり、瓦の重みに耐えられず押しつぶれる。残るのは、こうした陶器類や瓦のみ。 小さな石の橋がある。 帰りの途中に鉱山跡に立ち寄った。崩壊したセメントの道を進むと鉄鉱石の坑道跡だ。坑道跡の穴だが、現在は使われていない。 日本全国で800万戸もの空き家が存在するそうだが、地方の村や町も高齢化が進み、若者が去っていくと、やがてこの地と同じ運命をたどるだろう。 ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2014/10/20
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★☆ 雄滝・雌滝が清流作る、美しい渓谷『中山渓』★☆ Chuzan kei(Ravine) in Japan Yamaguchi Prefecture shimonoseki city ~ 山口県下関市菊川町東中山『中山渓』 ~ REALISTが訪れた『 中山渓(ちゅうざんけい) 』という渓谷には、小規模の「雌滝(めすたき)」、「雄滝(おすたき)」という滝があるが、水不足のため少々遠慮がちな「雌滝」は勢いがなく、その一方で渓谷のもっとも奥にある「雄滝」は、雄々しく滝らしい姿が印象的で、静寂な自然の中に流れる水の音がとても心地よい空間を提供してくれた。「雄滝」の様子や滝を流れる水の音を動画でも記録したので見れば少しは体感できる。 REALISTが、2013年3月12日(土)に散策した過去記録。 山口県下関市菊川町の木屋川沿いの県道34号線にある西念寺前に架かる中山橋の入り口にある案内表示『中山渓』発見!中山橋を渡ると東中山の地だ。 橋を渡ると、左手に向けた中山渓まで1300m、道なりに進むと到着する『中山渓』入り口には小規模な駐車場あり。駐車場を出ると、古びた「遊歩マップ」表示板と遊歩道入り口がある。進路右手のエメラルド色の湖を見ながら遊歩道を歩く。湖面沿いの道を進む。気温は10度前後。 間もなく、林道の様な道が出現。 静寂な湖面、鳥のさえずりしか聞こえない。 林道をしばらく歩くと、なだらかで細い道となる。すぐそばの湖面に太陽光が眩(まぶ)しく写っていた。 「道が狭いので転落しないよう、くれぐれも注意して下さい」と親切に注意喚起の木札が目の前に。 左に大きくカーブする道に差し掛かかり。 湖沿いの遊歩道が終わるあたり。 道のそばの水面を見ると、メダカより一回り大きな魚が群れていた。コンクリートの階段の登りが続く。 間もなく現れた「雌滝さま」の案内板、その先に小さな滝が見えた。 流れる水の音が響くが、やや水量不足の「雌滝さま」 。 さらに進むと、再び赤い橋が見え、雄滝まで400mとある。 赤い橋を渡って階段を進む。 渓谷に沿って上り坂を歩く。道の左下を見ると、豊かな水が光っていた。 水が流れる沢沿いのゴツゴツした道が続く。渓谷の底を緩やかに流れる水。「今一度 振り返り 見つつ 滝壺を 逆のぼり 住みし 落人が里」とある詩文、そして、「雄滝さま」の案内板も清水の流れが目の前に・・ 「雄滝」が目の前に現れた。静寂の中に水の流れる音が響き渡る。 滝壺の輝く水の美しさ。 『中山渓(ちゅうざんけい)の「雄滝」(下関市菊川町東中山)』(REALIST撮影)清らかな水の流れと周囲に響き渡る水の音でマイナスイオンいっぱい。 この滝周辺は、昔、この渓谷の先に存在した「大了寺」という集落の人々の憩(いこ)いの地。次は、この先に残る集落跡をご紹介する。 ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2014/10/13
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★☆ 自然の脅威に飲み込まれる人類近未来の姿か? ★☆ Natural threats and Appearance in future of humanity~ ドライブで見かけた風景で感じたこと ~ REALISTが、最近、ある地域のある路線を長距離ドライブの途中、見かけた風景・・・それは、・・・倒産か何かの理由で廃屋となったドライブインの建物の周囲を覆う木々の緑の集団が、まさに!その建物を飲み込もうとしている様にも見えた異様な風景だった。それで、思わず、車を止め撮影した。 周囲が緑であふれた人気のない道路を走行中、こんもりした緑の中に見えた建物の壁に「お食事処(しょくじどころ)」とある看板、さらに道路側に「ドライブイン・UCCコーヒー」と文字のある白い表示板が見えた。・・・・「うん?こんな所にドライブイン??」 そこを通りかかって、よく見ると建物正面には、緑で覆い隠された隙間からガラスドアの出入り口が見え、その前にはアスファルトで舗装された来客用の駐車場が広がっている。しかし、人気もなく、以前はドライブインのレストランかカフェの店舗内の窓から客たちの目を和(なご)ませ楽しませたであろう観賞用の木々が伸び放題に育ち、今や窓や壁を覆い隠そうとしている。 報道によると、日本では少子高齢化が進み、地方都市から若者が流出するとともに、生涯未婚のままや晩婚化で子供が極端に少なくなり、残された親世代が亡くなると、残された家屋がそのまま空き家状態となるものが増加し、このままでは町や村が消滅するのではないかとも言われている。総務省の2013年の調査では、全国で820万戸もの空き家が存在するそうだが、子供や人がいなくなれば、それに付随した小中・高等学校までが廃校となり、産業や店舗まで消える運命であることは容易に想像できるが、今回のドライブインの風景も何となくそれを物語っている様な気がした。 見るからに、以前はお客たちであふれて繁盛したであろうドライブイン。緑に覆われている部分の駐車場は、20台以上も駐車可能なスペースがある。また、この建物の奥には、この建物の経営者が住んでいたであろう大きな邸宅や倉庫などもあるが、遠く屋根のみが見えるだけで、周囲を木々が深く繁茂し、通りかかる人間を遮(さえぎ)り、人々の記憶からも消してしまおうと必死に覆い隠(かく)している様に感じた。観光客が激減し経営に行き詰まって倒産したのか?、経営者が倒れ、子供たちは都会に飛び出たまま帰らず、跡継ぎもなくそのまま廃業し放棄されたものなのか?かなり広い土地スペースがあるので、その背景にある人間ドラマまで想起させる風景だ。 これを見て・・・かつては人々が行き交い武士たちで溢(あふ)れていたであろう山城跡(あと)や遺跡群が今では深い森に覆(おお)われ静まりかえっている風景と同じに見えた。人類が何らかの理由で滅びても、村や町は木々や草があっという間に埋め尽くされ、家や建物、道路までをも覆い隠し飲み込んでしまい、短期間でその存在や痕跡すらなかった様な世界になるだろうことが容易に想像できた。それほど、自然には人類が勝てない力強さや迫力があることに気付かされた。♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2014/08/10
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★☆ 菅原道真公を祭神として祀る天満宮の総本社 ★☆ Dazaifu Tenman-gū is a Shinto shrine in Dazaifu, Fukuoka Prefecture, Japan.~ 福岡県太宰府市宰府4丁目7番1号 ~ 山口県に隣接する福岡県には、菅原道真(すがわらみちざね)公を「学問の神」とする『 太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)』があり、毎年、受験時期が迫ると大勢の学生たちや家族が受験祈願に訪れる全国でも有名なパワースポットだ。REALISTは、受験時代はとっくに過ぎ去ってしまった身であるが、「厄(やく)払い」の神でもあるため、縁起担(かつ)ぎも含め、7月23日(水)に生まれて初めてここを訪れた。 REALISTの太宰府天満宮の壮大な規模の勝手なイメージと比べ、意外と小振りだったことがわかった。山口県防府市にもある同じ菅原道真を祀る『防府天満宮』とも比較することができたが、甲乙つけがたい。太宰府駅方面から向かった参道にある大きな石の鳥居(とりい)だ。・・・・とは言っても、明治神宮のあの大鳥居に比べれば可愛い大きさだ。この日は、うだるような暑さの炎天下だった。夏に弱いREALISTには少々こたえた。参道を進むと、やがて平安時代調の朱色の欄干(らんかん)のある太鼓橋が続く。天満宮らしさの独特な雰囲気が醸(かも)し出されていた。平日の暑い日だったが、それでもここを訪れる人がいる。しばらくすると、聞き慣れない中国語をしゃべる若いカップルや家族の一団が歩いていた。中国人か台湾の旅行者だろう。彼らも興味深く周囲を見ていたので不思議な感じだった。橋の欄干から・・ふと池の水面を観ると・・・なんと、亀が2匹、岩の上で甲羅干しをしていた。亀をじっくり観たことがないので、ついつい、じっくり観察していた。首を長く伸ばし、気持ちよさそうにしている。亀は長生きの動物で、めでたい生き物とされてきたが、実際は何年まで生きるのだろうか?亀をペットにしている人もいるが、飼いたいとは思わないが、意外と人に馴(な)れるらしい。池の噴水が少しだけ涼しくさせてくれた。 古代中国から伝わったと言われる想像上の動物の『 麒麟(キリン) 』の像だが、江戸時代にここに寄進されたもので、麒麟麦酒(キリンビール)のトレードマークの絵と同じ「麒麟(キリン)」だろう。いよいよ、本殿に至る境界となる『 楼門(ろうもん)』が目に入った。楼門付近に鎮座する狛犬(こまいぬ)の一体。この狛犬のデザインは独特で、ペルシャ帝国の遺跡にあるデザインを彷彿(ほうふつ)とさせるものだ。もう一体の別の狛犬だが、笑っている表情がおもしろい。『 御神牛(ごしんぎゅう) 』の像。牛は神の使いとされていたのだろうか?『 楼門 』に鎮座する武士像、天満宮を守る武士だろうか?楼門を抜けるといよいよ本殿に至ることになる。朱色は高貴なめでたい神聖な色とされていたのだろう。正面の建物が、本殿だが、ここが菅原道真の墓も兼ねている。右大臣であった菅原道真は昌泰4年(901年)、左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に権帥として左遷され、翌々延喜3年(903年)に同地で逝去した。門を入って、すぐ左手にお守りなどの売り場がある。REALISTは、「厄除」のお守りを購入した。門に入り右側にある「絵馬記入所」、絵馬を見たが・・・どれも大学、高校、入社試験などの合格祈願を求めるものが多い。 池には鯉が泳ぎ、正面には、沢山の買ったおみくじが結ばれていた。REALISTも、「吉」と出たおみくじを結んでおいた。本殿は、朱色に金色、黒色、白色の壁のアクセントで塗り分けられている。こうして見ると、なかなかシックな雰囲気がする。 本殿正面に鎮座する白い狛犬(こまいぬ)は珍しい。西門付近にある大楠(おおくすのき)、高さ39m、根回り20m、樹齢1000~1500年とある国の天然記念物に指定されていた。 ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2014/08/05
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★☆ 日本最古の『 万葉集 』でも歌われた地 ★☆ Westernmost cape of Japanese main island~ 山口県下関市吉母字御崎 ~ 『 毘沙ノ鼻(びしゃのはな)』は、山口県下関市吉母字御崎にある本州最西端の岬だが、REALISTは、山口県に住みながら、まだ一度も足を踏み込んだことのない未開の地だった。・・・というわけで、どんな景観の地なのかとても興味があり、ドライブがてら車を飛ばし訪れてみた。北緯34度6分38秒、東経130度51分37秒に位置する本州最西端の地『 毘沙ノ鼻(びしゃのはな)』、この岬の海抜120メートルの所に駐車場が備わった展望広場があり、本州最後の夕日が見える丘と呼ばれている。本州の東西南北最端の地とは、・・・岩手県宮古市【本州最東端】、山口県下関市【本州最西端】、和歌山県串本町【本州最南端】、青森県大間町【本州最北端】とされている。「毘沙ノ鼻」は、本州の山口県の西端で響灘(ひびきなだ)に面する位置にあり、西へ約5km沖に「蓋井島(ふたおいじま)」がある。 下関市街から国道191号線を10kmほど北上すると吉母(よしも)地区となり、案内標識も出ているので、さほど苦労することなく辿り着くことができる。途中で見かけた案内の看板、そして、民家の割と少ない海岸近くの道を進むことになる。道路は舗装状態も良いが、目標に近づくにつれ、車両は走行可能だが次第に狭くなってくる。いよいよ「毘沙ノ鼻」の岬に近づいた海岸線の道路から撮影の風景。眼前にある自然な海岸の状態をじっくり眺めた。道路がアスファルト舗装されているほかは、自然な雰囲気が心地よい。あと少しで到着だ。目標のある展望広場付近の駐車場に到着!駐車場スペースは、約30~40台分だろうか。きちんと舗装されている。約200mの道のりを歩けば、「毘沙ノ鼻」の岬にある展望広場だ。歩きながら、後方を撮影、向かって右が駐車場、左の建物は公衆トイレ、付近にジュースなどの飲料物の自動販売機があるが、売店などはない。こんな感じの道が200m続く。 展望広場に到着!道の広場への出口を振り返って撮影。 展望広場をまっすぐ進むと、海に向かって設置された展望所がある。また、その手前に「本州最西端の地」とある灯台の形の記念碑や案内表示板がある。展望広場の一角に設置されているこの地に関係する万葉集の歌碑であり、「長門なる沖つ借島 奥まへて 吾が思ふ君は 千歳にもがも」とは、西暦753年、都の橘家の宴で、長門守巨曽倍対馬(ながとのかみこそべのつしま)詠んだ歌。万葉集にも載っていて、沖つ借島(=蓋井島)は古代には名が知れた島だったようだ。 先の説明のように、奈良時代にこの地の長門国守護職を命ぜられ赴任した人物が、中央の右大臣に、沖つ借島=蓋井島(ふたおいじま)でたとえて、長生きして欲しい・・という和歌を詠(よ)んだという説明文のある記念碑。これが、展望所から観た眼前の風景だ。5km沖に見える島が・古代から有名な「沖つ借島=蓋井島(ふたおいじま)」だ。古代の人は、こんな感じであの島を見ていたのだろうか?そして、海に沈む夕焼けを観ていたのだろうか?蓋井島の名の由来は、神功皇后が三韓征伐の時、この島の水の池と火の池の二つの井戸を蓋(ふた)で覆(おお)ったことからきているそうだ。島の人口は約100人。 視線をやや左に向けると、遙か先には、方角的には九州の福岡県北九州市方面になるはずだ。海は広いな~♪、大きいな~♪右手に見える金属製の板は、現在地からの先に見える方位的な地理上の説明がある。おばあちゃんとその孫たちだろう。・・・心が和(なご)む風景だ。空も海も青く、お天気の良い日だった。視線を右に向けると、方角的には朝鮮半島方面になるだろう。展望所から少し身を乗り出しての撮影。古代の風景はこんな感じだったのだろうか。しばらく、ボーッと眺めて古代の妄想をしていた。♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2014/07/13
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★☆ 宿泊施設のある高速道路パーキングエリア ★☆ Highway Hotel~ 中国自動車道路『壇之浦PA(下り線側)』 ~ 『 壇之浦(だんのうら)パーキングエリア 』は、山口県下関市壇之浦町の海峡側の関門橋付近にあるパーキングエリアだ。「壇之浦PA」は、関門海峡を挟(はさ)んで、下関側(下り線)にあるが、門司側(上り線)にあるのは、「めかりPA」だ。どちらも高速道路のPA(パーキングエリア)施設だが、『壇之浦PA』側には、ハイウェイホテルが完備しているという大きな違いがある。高速道路でありながら、素泊まりが可能なのだ。『 壇之浦パーキングエリア 』にて、関門海峡の門司側を望む。初夏の陽光を浴びた関門大橋、橋の塗装のお化粧直しなのかシールド幕がある。 遠隔地で登山する場合、高速道路のサービスエリアで車中泊することがあるが、それよりもずっと寝た気分になれるのは、こうした手軽な施設だろう。ネット予約すれば、そのまま車を止めてそのまま風呂に入り、身を清めやすらぎの眠りの世界に没入できる。車の窓のシールドを張りめぐらす必要もなく・・・・ 広い駐車場の一部だが、中央奥の施設がハイウェイホテルの「ファミリーロッジ旅籠(はたご)屋・壇之浦PA店」だ。これだと、高速道路を降りることなく、安価で宿泊できるので便利だ。「ファミリーロッジ旅籠(はたご)屋・壇之浦PA店」ホームページ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2014/07/02
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★☆ 浮世絵に観る江戸時代の日本伝統美に感動! ★☆ Yamaguchi Prefectural Art Museumu (山口県立美術館) ~ 国内、国外からかき集めた著名な作品群 ~ REALISTは、先日、『 大浮世絵展 』が開催されている山口県山口市の「山口県立美術館(山口市亀山町3番1号)」を訪れた。どれも歴史に残る本物の浮世絵の美しさや芸術性、描かれた江戸時代に生きた人々の姿などに感動した。今回の催しは、国際浮世絵学会創立50周年記念として、江戸時代に活躍した著名な浮世絵師作成の浮世絵を保有する国内の美術館ばかりか、ホノルル美術館、ギメ東洋美術館、ベルリン国立アジア美術館、大英博物館などの国外からもかき集めた作品群だ。これほどの実物作品群を一挙に鑑賞することは、おそらくなかなかできないだろう。『 山口県立美術館 』正面玄関に掲げられた大浮世絵展の看板。『 山口県立美術館 』ホームページ 作品は、どれも学生時代の美術の教科書や記念切手などで見たことのある有名なものばかりで、葛飾北斎の「富嶽三十六景」シリーズや歌川(安藤)広重の「東海道五十三次」シリーズ、喜多川歌麿の「ポッペン(ビードロ)を吹く娘」など・・・また、岩佐又兵衛の美人図シリーズに代表される多くの江戸時代の若い美人女性を題材とした姿を観る事ができた。それにしても、はるか昔の江戸時代の風俗、若い女性のあでやかな姿、お洒落(しゃれ)な髪型、持ち物、着物などの現代では見ることができない当時の独特なデザインや絵柄のきめ細かな伝統美は素晴らしいものだった。この種の美術鑑賞では、じっくり鑑賞したいREALISTは、・・人混みを嫌い平日の午前中に訪れたが、既に多くの人が館内にいた。『 大浮世絵展 』紹介パンフレットの一部。この浮世絵展は、単に浮世絵を鑑賞するだけのものではなかった。300年間以上にわたる浮世絵の歴史を知ることもできる。したがって、展示方法も浮世絵の始まりや古い時代から始まるわけだ。実に、439点もある作品群だが、展示期間が限定されているものもある。出品作品の主な浮世絵師名岩佐又兵衛、菱川師宣、鳥居清信、宮川長春、奥村政信、石川豊信、鈴木春信、勝川春章、磯田湖龍斎、鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重、歌川国貞、歌川国芳、長谷川貞信、月岡芳年、小林清親、豊原国周など・・他多数 浮世絵に描かれた300年以上の江戸時代の歌麿(うたまろ)などに代表される多くの美人画は、江戸の吉原の遊郭で働く遊女が多い。おそらく10代後半から20代までの女性が大半だろうが、とても美しい女性たちばかりだ。切れ長の目、細い白い指、芸術的な髪型で当時の最新のファッションで着飾った彼女たちの人生まで垣間見れるようだった。お洒落(しゃれ)度の点では、おそらく現代の女性よりもはるかに上ではないかとさえ思った。『 大浮世絵展 』の入場チケット。~ 「 山 口 県 立 美 術 館 」 ~( 所 在 地 )・・・山口市亀山町3-1 (電話:083-925-7788)( 開館時間 )・・・9:00~18:00(入場は、17:30まで) ( 休 館 日 )・・・月曜日 ( 入 場 料 )・・・一般:1200円、学生・シニア:1000円美術館までのパークロードを歩く。お天気もよく、さわやかな気分で歩ける。美術館の駐車場は狭いので、道場門前商店街の駐車場を利用した。土曜、日曜日なら、付近の県庁の外来駐車場を利用できる。「山口県立美術館」の正面入り口付近。美術館は、パークロード沿いにある赤レンガ模様の壁面の建物だ。足早に美術館の中に入ると、午前中なのに既に多くの入館者がいた。どうも人混みを避けたいという心理は、REALISTだけではないらしい。久しぶりに山口市内の道場門前商店街を歩いた。職場の仲間が教えてくれた老舗ラーメン店に突入!大浮世絵展鑑賞後の興奮やまないままに、美味しいラーメン一杯!あっさり系の醤油ラーメンだった。確かに「味はよし!」山口市内では、かなり老舗(しにせ)のラーメン店「江戸金」。以前あった道場門前商店街中心部から、やや東側に移転していた。REALISTが入店すると、既に5名の若い女性が席を占領中だった。カウンター席の端っこにそそくさと着席できた。♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2014/06/29
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★☆ 上りは飛行機で、下りは新幹線で・・・ ★☆ Day trip travel~ 千葉市内5時間滞在、往復10時間で移動 ~ REALISTは、6月9日(月)の弟の奥さんの葬儀に出席のため、急遽、山口から千葉に向かった。行きは、山口宇部空港で羽田行きの午前8時出発ANA(全日空)第1便に搭乗した。通常、東京方面に行く場合は、ほとんど新幹線を利用するので、久しぶりの飛行機利用だった。なぜなら、時間がなく当日12時30分からの葬儀なので、やむ負えずの飛行機利用だった。 『山口宇部空港』の国内線旅客ターミナル内の搭乗待合室。 飛行機の予約は前夜にネットで申し込んだところ、通常なら3万5千円程度かかるはずが、運良く特別割引サービスを利用できたため、ほぼ半額の1万8000円程度で済んだ。こうなると、帰りの新幹線の方が値段が高く、指定席で2万3千円もかかった。しかも、飛行機なら宇部から羽田までの所要時間はわずか1時間30分!それに比べ、新幹線なら東京駅から新山口まで6時間30分もかかるのだ!往復で移動にかかった時間は、途中のバスやタクシーの乗り継ぎを含め約10時間を要した。山口県を午前8時に出発し、約5時間千葉市内に滞在し、その日の午後11時30分には山口県の自宅に帰った。乗り込む直前の全日空機を搭乗口付近から撮影。その日の天気は、一日中曇り空だった。自分の座席から機内を撮影、客室乗務員は8頭身美人ばかり!午前9時30分には羽田着!リニューアル後の羽田は初体験!長い長い動く歩道がいつまでも続いた。なんて、長いんだ!羽田空港ロビーを抜け、空港前の千葉市内行きのバス停に到着!京浜急行バスだった。バス停の向かい側は、大きな立体駐車場の建物だ。バス乗り込み、目的地の千葉市内まで約1時間かかった。バスの車窓から見えた平凡なビル2棟。ここは、「JR海浜幕張駅」前のバスターミナル。幕張市内の幕張メッセ付近のようだ。弟は新婚時代は、幕張市内の会社のマンションに住んでいた。そういえば、東京出張の際に一度立ち寄ったことがあった。奥さんのA子さんは、暖かく迎えてくれた。千葉市内の弟の自宅には午前10時40分ごろ到着。これは、葬儀を終え、火葬場でA子さんと最後のお別れを済ませ、帰路の東京駅の新幹線ホーム、この時、時間は午後4時30分ごろ。東京駅では、職場などに配るお土産を購入した。いよいよ乗り込む直前の新幹線を撮影。所要時間6時間半だが、昔は8時間から9時間もかかった。実は、帰りも飛行機を考えていたが、残念ながら座席の空きがなかったのだ。今後は東京方面に行く場合、きっと行きも帰りも飛行機を利用するだろう。♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2014/06/19
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★☆ 大学生やビジネスマンで賑(にぎ)わう定食屋さん ★☆ Delicious ramen ! ~ 山口県山口市平井678 ・『 ばんちゃ屋 山口店 』~ 「誰でも普段着で気軽に入れる、しかもボリュームがあって美味しい定食を食べたい!」という方にお勧めなのが、手軽な定食屋の・・・山口市内なら『 ばんちゃ屋 山口店 』がある。店員もアルバイトの山口大学などの学生たちが頑張っている。同じ店舗は、宇部市内にも『 ばんちゃ屋(本店) 』(山口県宇部市野原1-1-7)がある。こちらも、宇部市の山口大学工学部や医学部の学生たちが多い店だ。どちらの店もおふくろや家庭の味を懐かしむ学生や出張中のビジネスマン、家族連れも多い。また、漫画好きな人は、沢山のコミックマンガ本が本棚にぎっしり備え付けられているのでその点でも楽しめる。ここの一番人気は、『 チキンカツ定食 』であり、REALISTも立ち寄ればいつもの定番メニューだ。 撮影前に沢庵をうっかり一枚食べたのはご愛嬌だが、見てお分かりのように、純和食風だ。チキンカツに千切りのキャベツ、お味噌汁にタクアンと豆腐、レンコンの煮物にフカフカで美味しい白ライスと極めて平凡だが、味は逸品だ!特に、最初から食べやすいようにスライスされ、自家製の甘酸っぱい特製ソースとキャベツにも自家製のドレッシングが乗るキャベツも最高に美味い!この平凡な定食が学生やビジネスマンにも人気が高い秘密がよくわかる。独身で単身赴任や出張中の方や県外から来た大学生などには、男女を問わずおふくろの味を懐かしむ人が多いのではないだろうか。REALISTもこの味が忘れられず、ここに寄れば必ずこれを注文してしまう。これで650円!満足! 駐車場側と幹線道路側に2か所ある出入り口のドア。入れば、・・明るい声で「いらっしゃいませ~!」と明るい女性の声が響く!お昼時は満員なので、REALISTは敢えて時間帯をはずして来ることが多い。 ここの手前も2台程度駐車できる余地はあるが、お昼時は、来店した大学生の自転車置き場となる。メインの駐車場は、この先にあるが6~7台程度駐車可だ。 『 詳細情報 』☆所在地:山口市平井678 (湯田温泉駅出口から徒歩約9分)☆電 話:083-902-8218 ☆駐車場:普通車8台駐車可)☆営業時間:午前11:00~午後9:00(定休日:火曜日)☆平均予算:650~1000円程度(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2013/12/10
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★☆ 縦長スライスの白ネギが魅力の美味しいラーメン ★☆ Delicious ramen ! ~ 山口県防府市富海25・『ラーメンショップ 椿峠店』~ 国道2号線を運転しながら、椿峠(つばきとうげ)に差しかかると、いつも目に飛び込むのが、道沿いに『うまい、ラーメンショップ、うまい』と書かれた赤い大きなラーメン店の看板だった。その店の裏に見える広い駐車場にはいつも大型トラックが数台駐車していた。そのため、「このラーメン店はトラック運転手がメインのお客なのだろうか?ここにトラック運転手が多いのは、きっと美味しいからだろう」と思いながらも、いつも気になっていたラーメン店が『ラーメンショップ 椿峠店』だ。いつか食べに行こうと思っていたが、先日、登山帰りに立ち寄って、遂に、そこのネギラーメンを食した。感想は、・・・期待を裏切らない美味しいラーメンだった。 ネギラーメンは500円だった。これに、ギョウザを一人前(150円)を付けた。ギョウザは外側がカリカリして香ばしく、中はジューシーなひき肉と玉ねぎ、ネギ、ニンニクなどのヌクヌクな具がぎっしり、肝心なネギラーメンだが、表面にモヤシの様な細く白い食材がのっていたが、何だろうと食べると、なんと!白ネギを輪切りではなく、縦に細く長く千切りしたものだった。噛(か)むと、シャキシャキして・・・まさにネギの味だった。ネギと麺とスープと絡(から)めて食べると・・・これがなかなどうして!ウマイ!イケル!、客がコンスタントに多い理由が理解できた。 「ラーメンショップ」は、東京に本店があるフランチャイズチェーン店のようだ。店の外観は、お世辞にも綺麗だとは言えない。しかし、この店の裏側には広大な駐車場がある。・・・だから長距離トラックも楽に止めることができるわけだ。ラーメン店の中に入ると店員は中年風の女性のみ数人が忙しく調理や配膳(はいぜん)をしていた。客層は、やはりトラック運転者風の男性たちがワイワイ会話をしながら食事しておりとても賑(にぎ)やかで明るい雰囲気だった。店の外と中でのギャップを感じた。おそらく、再びここを昼抜きで通ることがあれば、きっと立ち寄るだろう。マンダムの歌を思い出す様な・・・ワイルドだろ? 『 詳細情報 』☆所在地:山口県山口県防府市富海(とのみ)25 ~国道2号線・椿峠☆電 話:0835‐34‐0883☆駐車場:広大(大型10台以上、普通車数十台駐車可)☆交通手段:JR西日本山陽本線「富海駅」から2,821m☆営業時間:年中無休(平日;午前8:15~午後8:00、土日祝日;午前9:00~午後8:00☆金曜日はサービスデイ☆ネギラーメン、ネギ味噌ラーメン、味噌ラーメンが500円(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2013/12/05
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★☆ 秋から冬へと向かう風景を楽しむ ★☆ Road of autumn tint~ 山口県山口市 維新百年記念公園内 ~ お天気な日に、再び山口市にある「維新百年記念公園」に立ち寄った。周囲の木々が見事に紅葉でいっぱいだった。道路沿いの紅葉に染まった木々の道を歩くと、異国の地にいる様な不思議な雰囲気に包まれ、「秋だなぁ」とリアルに季節感を感じることができた。巨木にはさまれた道を歩きながら、目の前を見上げると赤く染まった紅葉で、空から降り注ぐ光も赤色になる。 こんな風景を観ながら、思い出すのは・・・セピア色に染まった古い白黒の写真、卒業写真かな? 道路の先に見えるのは、車メーカー「VOLVO(ヴォルヴォ)」の看板が!でも、ここは、もちろん、スウェーデンではない。『 恋の予感 山本潤子 』By YOUTUBE 『恋の予感』は、1984年10月にリリースされたロックバンド「安全地帯」の7枚目のシングル曲で、ボーカルの玉置浩二が唄っていた。この曲の作詞は井上陽水、作曲が玉置浩二であり、なかなか渋みのある大人っぽい恋の情熱を感じ取れる曲に仕上がっている。この曲をカバァーしている山本潤子は、以前、ハイファイセット(1994年解散)という3人のコーラスグループの元女性ボーカリストであり、今もシンガーソングライターとして活躍している。 公園内の赤く染まった木々の形状などを観察すると、日本独特な和風な景色でなく、ドイツなどの洋風のデザインだ。 空も青く澄み渡っていたが、気温は低く、寒々としていた。気温は、午前中だったが、5度前後だろうか?県内では、下関市でも初雪が降ったそうだ。(Thanks) !!↓(ありがとう)^^)/~~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2013/11/28
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★☆ 美しい秋の空と雲と山の風景を楽しむ ★☆ Autumnal sky, cloud, and mountain~ 山口県山口市阿知須・江崎付近 ~ 風向きが変わったせいか、中国のPM2.5の影響がほとんどない本来の秋の空がよみがえった。遥(はる)か先のどこまでも空気が澄みわたり、太陽の優(やさ)しくまばゆい光で溢(あふ)れていた。見上げると青い空に真っ白な雲がフワフワと楽しそうに浮いていた。 綿菓子の様な雲の切れ目から、ほど良く暖かい光が降り注いだ。空を見上げるとまばゆいが、優しい光がほほ笑(え)んだ。 道は遥(はる)か先まで続く。風はなく熱くも寒くもなく。(山口市阿知須在 きらら公園付近にて) 逆さまのお椀(わん)の様な「きらら多目的ドーム」の上にたなびく雲の群れたち(山口市阿知須在 きらら公園付近にて) 火の山連峰を正面に進むと、左上方には巨大で奇妙な形の雲が横たわっていた。(山口市江崎付近県道212号)『 Eagles: "Desperado" 』 『イーグルス』という1970年代に活躍したアメリカのロック・バンドの曲。アメリカ西海岸を拠点に活動しながら世界的人気を誇り、トータルセールスは1億2000万枚を超えた。この曲「Desperado(無法者)」は、このグループの曲のなかでも異色で、バラード調にまとめられている。なかなか大人の味がするシブイ曲だ。 目の前に手を伸ばせば、つかめそうな錯覚のある雲、気持ちよさそうに浮いている。(道の駅阿知須きらら付近にて) 動物の様な雲たちが遊んでいる様なイメージだった。(「道の駅・阿知須きらら」付近にて) 広い田園の遥か先にあるノコギリの様な「火の山連峰」、その上を勇壮な雲の竜(ドラゴン)たちが泳いでいる。この山には、亀山、火の山、陶ケ岳が連なるが、REALISTは2度登り縦走した。(山口市江崎の県道212号から火の山連峰を望む)(Thanks) !!↓(ありがとう)^^)/~~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2013/11/23
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★☆ 維新百年記念公園陸上競技場(山口市) ★☆ Walking and Jogging~ 山口県山口市維新公園4-1-1 ~ 平日の仕事が休みの日の朝、空気も澄み渡り青空が美しく輝いていたので、爽(さわ)やかな汗をかきたくて、無料駐車場の充実した山口市の『 維新百年記念公園陸上競技場 』に向かい、ウォーキングとジョギングを楽しんだ。 平日の朝でもあり、健康志向の強い体育系の若い女性7、8名のみが朝からウォーキングに励んでいた。彼女らの黙々と必死に励む姿を観ると、何か目標でもあるのだろう、登山もそうだが、最近は男性よりも女性の方が元気な人が多い。山口市にある「維新百年記念公園」は、国が明治百年を記念して全国10か所指定した公園の一つ。陸上競技場、体育館、ラグビー・サッカー場、テニスコート、弓道場、野外音楽堂などを備えたスポーツ・文化活動の拠点であり、住民のふれあいの場である。周辺の環境も良く、無料駐車場(1200台)も充実している。この陸上競技場は、2011年の山口国体で使用された。 ここは、陸上競技場正面玄関前の位置、競技場の周囲に赤色の歩道があり、ウォーキングやジョギングに利用できる。デジタル表示の電光時計があり、歩道の外側がジョギング用、内側がウォーキング用だ。この地点をスタートし、コース1周は1000mと表示されていた。 久しぶりの青空と陽光がまぶしいが、空気は澄み渡り、木々の色や周囲の景観がとても美しく見えた。気温は10度前後だったが、少し肌寒い程度で運動には丁度いい。左の競技場の屋根には太陽光発電パネルが貼りめぐらされており、施設で使用する必要な電力に利用されている。内部のトイレは、人感センサーで人が入れば自動的に点灯する。 お天気が良いので撮影のためにスマホを片手にウォーキング、最初の1周は、風景の撮影も兼ねて緩めのウォーキングで歩いた。撮影中に、後方からスタスタという音・・・・、あっと言う間にかなりの早歩きの若い女性が追い抜いて行った。感じからして・・・女子大学生か夜勤明けの看護師さんか? まもなく、進行方向右手に視線を向けると・・・・、テニスコートゾーンの白い管理棟の建物が見える。テニスコートは10面程度ある。 間もなく見えた、右手に高さ20m程度ある巨木が林立している風景はなかなか壮観だ。木は杉の木でないが、針葉樹に属する大きく成長する木だ。 赤い路面は、指で押してみると・・・コルク状の弾力がある。ウォーキングやジョギングでショックを吸収する構造になっている。これにより、踵(かかと)や膝(ひざ)の負担を軽くさせる仕組みが導入されている。また、撮影中に、後方から気配が!、力強い速さの別の若い女性に再び抜かれた。 進行方向の左側には、競技場の夜間照明用のポールが見える。これは、太陽光発電パネルが付属した夜間照明灯、昼間に溜(た)めこんだ太陽光エネルギーで夜間に自動照明する。こうした設備が、公園内には沢山設置されている。 後半にかかる直線コースを進む。光の加減でなのか?全体が白っぽく撮影されていた。 台座に「栄光」とある男性の立像がある。 スタート地点まで残り200mの地点、ここをゆっくり左に進行すると、間もなく競技場正面だ。REALISTは、撮影をやめ、ウォーキングに集中し、この後、さらに2周のウォーキング、さらに1周をジョギングしたが、汗はじわりと首や額(ひたい)ににじんだ程度だった。とても朝の爽(さわ)やかな汗だった。(Thanks) !!↓(ありがとう)^^)/~~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2013/11/20
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★☆ 乃木希典(のぎまれすけ)が10歳から育った地 ~ ★☆ 山口県下関市長府 ~ 父乃木希治は、長州藩支藩の長府藩藩士 ~ REALISTは、1905年の日露戦争の203高地の戦い(旅順要塞攻囲戦)でロシアに勝利した『 乃木将軍(大将)』こと『 乃木希典 』に縁(ゆかり)のある『 乃木神社 』を訪れた。ここは、私が小学校3年生当時、歴史好きな父と一緒に訪れたことがあった地だ。『 乃木神社 』は、山口県下関市長府にある神社で、乃木希典将軍を祀(まつ)り、地元では学問の神として知られている。 大正3年(1914年)、乃木の郷里の長府に乃木希典が幼少時代を過ごした旧家を復元し、乃木の幼少期の像や遺品などを展示する乃木記念館とした。大正8年(1920年)、乃木記念館に隣設して乃木希典を祀(まつ)る乃木神社が創建された。撮影時は夕刻で逆行撮影となった。 『乃木神社』は、山口県下関市長府宮の内町3-8にあり、周辺に長府図書館、忌宮神社、長府高校などがあり、付近は旧長府藩の武家屋敷跡のある古い街並みで道路が狭い。 『乃木神社』は、東京都港区赤坂八丁目11-27にもあり、こちらは、乃木夫妻の最後の邸宅に隣接して大正12年(1923年)に創建された。神社の境内の様子、ここは学問の神。乃木希典将軍(1849~1912)その武功のみならず、降伏したロシア兵に対する寛大な処置、特に水師営の会見における敵将ステッセルの処遇については、世界中から評価された。 世界中から賞賛された乃木将軍に対し、ドイツ帝国からプール・ル・メリット勲章フランス政府からレジオンドヌール勲章。チリ政府から金製有功章。ルーマニア国王カロル1世からルーマニア星勲章イギリスからグランド・クロス・オブ・ザ・ヴィクトリア勲章イギリスからバス勲章などが授与された。乃木将軍とドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の接見1911年(明治44年)8月1日、乃木希典将軍がドイツ国マインツ付近での陸軍大演習視察時に親しくドイツ皇帝と対談した光景。乃木神社正面の様子。教科書などに掲載されている有名な写真。 旅順要塞攻略後、「水師営の会見」での乃木大将(中央左)の希望で、敗軍の将であるロシア帝国陸軍ステッセル将軍(中央右)や幕僚にも着剣させて一緒に並んで撮影させた。両将軍は互いに相手の武功を褒(ほ)め讃え、ステッセルは、乃木に愛馬の白馬を寄贈した。ステッセルは、ロシアに帰国後、軍法会議で死刑宣告を受けたが、それを知った乃木が助命運動を起こし、自筆の助命嘆願書をロシア政府に送った結果、禁錮10年に特赦減刑された。『日露戦争 乃木希典』有色人種の日本が白人のロシアに近代戦で勝利した「日露戦争」・・当時の貴重な記録動画と日本の勝利に驚く世界の報道など・・神社には、高校・大学受験合格祈願、就職などに関する絵馬が掲げられていた。宝物館や乃木家の旧邸宅は、神社正面左奥にある。日本国歌「君が代」の歌詞の一節にある「さざれ石」(左)とその説明文。「さざれ石」は、細かい小石の意で、小石が巌(いわお)となり、さらにその上に苔(こけ)が生えるまでの長い年月の過程の比喩として用いられている。「乃木の名水」の由来の説明文。乃木家で使われていた井戸水がそのまま飲料用として無料で飲める。「乃木の名水」!・・飲んだ!冷たく美味しい!右は、乃木希典将軍と静子夫人の像、左は、敵将であり、友人ともなったステッセル将軍から武勇を讃えられ贈呈された名馬「壽(ことぶき)号」『 水師営の会見(乃木とステッセル) 』敵将に対する仁愛と礼節にあふれた武士道精神は世界に感銘を与えた。希典が10歳から育った乃木家の旧邸宅。武士階級の士族でも居間が2つ、台所の土間が1つと小さな家だ。乃木旧邸の説明文。乃木の父秀治は、希典が9歳まで、長府藩の江戸詰め藩士で江戸(現東京)麻布で勤務していた。そのため、希典は江戸で誕生した。 左から父秀治、母壽子(ひさこ)、希典が再現された様子。父親の希典に対する躾(しつけ)や養育は相当に厳しかったようだ。中間の居間、台所風の土間の様子、極めて質素だ。台所の左手には、井戸や米の脱穀用の石臼(うす)などがある。「宝物館」についての説明文。「宝物館」入口の様子。入れば、センサーで自動点灯する。入館料は無料で、希典や静子夫人の愛用品や貴重な各種資料が展示。残念ながら内部撮影はできない。乃木神社に隣接する「下関長府武道館」、地元剣士の子供たちなどが通う。(Thanks) !!↓(ありがとう)^^)/~~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2013/11/03
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★☆ 山口県最北西端の島『 角島(Tsunoshima) 』までドライブを楽しむ ★☆ Tsunoshima (角島) is an island located in the Sea of Japan. Located in the north west of Yamaguchi Prefecture ~ 角島の海岸から思い起こす『日本海海戦(The Battle of Tsushima)』 ~ 自らの命を犠牲に人の命を救った崇高な人もいれば、今度は・・東京都三鷹市内での殺人事件・・女子高校生をストーカーの上、刃物で刺殺したどうしようもない残虐な人間もいる。やりきれない事件だが、まずは可哀想な被害女性のご冥福を祈るしかない。 先日(9月17日)、お天気も良く、今よりも涼しいさわやかな日だったので、綺麗な景色を見たくてドライブに出かけた。行先は、以前も記事を書いたことのある山口県下関市豊北町にある本土最北西端にある『 角島(つのしま) 』だ。期待どおり、青い海と青い空に恵まれ、のどかな美しい景色を満喫できた。平日だったので、それほどの混雑はなかったが、私と同様にカメラ持参でドライブに訪れた人も多かったが、都会の喧騒を逃れて来たのか、福岡や北九州などの県外ナンバーの車が多かった。 『 角島(つのしま) 』に行くには、『 角島大橋 』を渡る必要があるが、まずは、橋の手前入口にある駐車場から『 角島大橋 』やその先の『 角島 』を撮影した。綺麗なピンク色の花も満開で咲いていたので、花も合わせてコラボで撮影。 本土の山口県最北西端にある島が『 角島 』だ。平成12年に橋が完成するまでは、交通の便が悪く、島の住民は渡し船で往来していた。 少し位置を変えて同じ方向を再び撮影した。この直後、突然、知らない若い女性から・・・「あのうー、もしもし、すみませんが、橋をバックに私のスマホで撮影してもらえませんか?」と声がかかり、「あー、それはいいですよ!」と、ポーズをとらせて2枚撮影してあげた。まぁ、これも何かの縁だろう。しかし、ここ最近、REALISTは、道を歩いていると知らない小学生の女の子や子連れの若い女性などから笑顔で、「こんにちはー」と挨拶を受ける。・・・「はて?誰だろう??」と思いながらも、「あ!こんにちは!」と挨拶を返す。こういう挨拶は、登山の山中ではよくあることだが、街を歩いているときは珍しい。それにしても、何故だろう?誰かに間違われているのだろうか? 『 探訪・海をまたぐ景観 一躍全国区 角島大橋 』 『 角島大橋 』を紹介する動画を見つけたので、参考までに載せる、この角島大橋開通後、テレビドラマや映画のロケ地として利用される機会が増え、2005年に公開の映画『四日間の奇蹟』がほぼ全編に渡って角島を舞台としたほか、2006年に放映されたフジテレビ系ドラマ木村拓哉の『HERO』のスペシャル版でも主たるロケ地となった。青い海を走る白く長い橋がドライブでも気持ち良い。全長1780mで通行料は無料だ。 島の北西に位置する「夢ケ岬」の海側の公園から撮影の『角島灯台』。白亜の大理石風の石がまぶしい。 この灯台は、日本で多くの灯台を設計した英国人のリチャード・ヘンリー・ブラントンによる日本海側では初の洋式灯台。1876年(明治9年)初点灯。高さ43m、光達18海里。レンズは日本でも6箇所しかない特大のフレネルレンズで、第1等灯台に指定されている。見学も可能な参観灯台だ。明治時代は、英国人技師がここに寄宿し、灯台を管理していたので、石造りの洋風住居が現存している。 灯台の海側に英国式庭園の公園がある。 『 角島 - 空中散歩 - 』 角島の海岸や灯台周辺などを空中撮影した動画を見つけたのでご紹介する。 灯台をバックに英国式庭園から海側を観る。 英国風の展望台の建物があり、熱くなく風もさわやか、海も静かでなぎだった。なんとも心洗われる。 10年くらい前にこの海の沖に中国の錆だらけの難破した貨物船が漂着していたのを観たことがあった。この海をしばらく眺めていると・・・そういえば、・・・今から108年前の1905年(明治38年)5月27日〜28日にこの先の対馬沖で、世界最強だったロシアのバルチック艦隊と日本帝国海軍の連合艦隊が戦い、日本が大勝利し世界を驚かせた『 日本海海戦 』があった戦場の海であることをふと思い出した。 ロシアのバルチック艦隊は対馬近海で連合艦隊と遭遇し、日本海南西部で撃破された、略図のとおり、ここは『日本海海戦(The Battle of Tsushima)』 のあった海域に近い。『 坂の上の雲 日本海海戦 Turning Point 』 バルチック艦隊は戦力の大半を一回の海戦で失った。損害は被撃沈16隻(戦艦6隻、他10隻)、自沈5隻、被拿捕6隻。他に6隻が中立国へ逃亡し、ウラジオストクへ到達したのは3隻(巡洋艦「アルマース」、駆逐艦「ブラーヴイ」、駆逐艦「グローズヌイ」)のみであった。兵員の損害は戦死4,830名、捕虜6,106名であり、捕虜にはロジェストヴェンスキーとネボガトフの両提督が含まれていた。連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没のみ、戦死117名、戦傷583名と軽微であり、大艦隊同士の艦隊決戦としては現在においてまで史上稀に見る一方的勝利となった。当時鎖国が解けてから50年ほどしか経っておらず、列強と違い植民地もない、欧米から遠いアジアの小さな新進国と見られていた日本の、大国ロシアに対する勝利は世界を驚かせた。また海戦の結果、極東海域における日本海軍の制海権が確定した。ロシア軍にとっては、満州で対峙する日本軍の補給を断つことで戦争に勝利できる可能性が消滅した。1905年3月の奉天会戦でロシア陸軍主力の撃滅に失敗した日本にとって海戦での決定的勝利は和平交渉の糸口となり、ポーツマス講和会議への道を開くことになり、その後の列強五大国入りにつながった。ロシア側の6,000名以上の捕虜は、多くが乗艦の沈没により海に投げ出されたが、日本軍の救助活動によって救命された。 灯台付近に咲いていた名も知れぬ花たち。 (Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2013/10/09
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★☆ 平家の落ち武者の権勢誇る大邸宅の遺構『長者ケ森』 ★☆ Akiyoshidai Kokutei Kōen is a Quasi-National Park in Yamaguchi Prefecture, Japan.~ 山口県美祢市秋芳町秋吉『秋吉台』長者ケ森 ~ 前回記事の『秋吉台』のトレッキングの帰路の途中に『長者ケ森』を初めて訪れた。伝説によると、ここには、かつて、「壇之浦の合戦」に敗戦して落ちのびた平家の武将が移り住み、次第に付近一帯で勢力を強めこの地に大邸宅を構えていた。しかし、三代目で一族の間で内紛が起こり四散し、その後、江戸時代となり、一族の子孫が先祖を偲(しの)んで邸宅跡に木を植えたものが成長し、現在の姿になったというものだ。 『長者ケ森』南側にある案内標示板。 北側から観た『長者ケ森』の風景。 ここだけ茂った小さな森は目立つ。 北側からの森への入口。 南側から観た『長者ケ森』。 『長者ケ森』に関する説明標示板。詳細な説明があり、「壇之浦の合戦」、「平家の落人」・・山口県の歴史を感じる。 内部に入り撮影、薄暗く直射日光を避けることができ、涼しい。 上を見上げると、木漏れ日が見える。太陽の光がわずかにまぶしい。 内部をパノラマ撮影、地面は草が茂っておらず、居心地はよい。 大木を下から見上げた。ここにどんな人々が生活していたのだろう?どんな建物が存在したのだろう?・・少し想像してみた。 森の片隅にかなり古めかしい石の祠(ほこら)があった。平家の先祖を弔(とむら)うものか?(Thanks) !!↓(ありがとう)^^)/~~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2013/06/02
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★☆ 下関で最高峰「華山(げさん)」の麓(ふもと)にある滝 ★☆ Mystery waterfall~ 山口県下関市豊田町江良「徳仙の滝」 ~ REALISTは、2月11日(月)、下関市豊浦町の「狗留孫山(くるそんさん・標高618m)」の登山を終え下山し、車で狭い山道を延々と1時間ぐるぐる進み、下関で最高峰の「華山(げさん・標高713.3m)」の麓(ふもと)にさしかかったところ、偶然、道沿いで高さ12mの大きな滝に立ち寄ることができた。 滝は、『 徳仙(とくせん)の滝 』と呼ばれる、少なくとも1300年以上前の奈良時代から僧侶や山岳信仰の山伏(やまぶし)などに修業の場、信仰の場として利用されていたようだ。 山道にしては、舗装状態の良い車道だったが、まったくすれ違う車両に遭わなかった。偶然見かけたこの案内表示板のおかげで、この滝の存在を知った。 山口県下関市豊田町江良、徳仙にある滝。 県道34号線から「華山」方面へ行く県道262号線に入り、約2km行くとある。高さ12mの2段の美しい滝だ。”夏はソーメン流しやキャンプで多くの人が訪れる”・・そうだ。滝手前に車が数台止められる駐車場有り。 『 「 徳仙(とくせん)の滝 」 (山口県下関市豊田町江良) 』 REALISTが撮影。 滝の流れる音が聞こえますか? 奈良時代から変わることなく水はよどみなく流れる。 この説明文にある『 役小角(えんのおずぬ) 』とは・・・、 ”平安時代の山岳信仰のなかの修験道の開祖”を意味するようだ。 大昔のことだが、山に対する神が宿る存在としての信仰があったのだろう。 知識不足で意味がわからず、Wikipediaの説明で何となく理解した。 この説明文では、・・・ 西暦705年に『 役小角(えんのおずぬ) 』が「華山」に訪れた時代、 「徳仙上人」という高名な僧侶がこの滝にこもり修業していたことが由来で、 『 徳仙の滝 』と呼ばれる様になった・・・とある。 滝の傍に設置されていた『 華山(げさん) 』の登山コースの案内板。 この山も登ったが、そのうち時間差でブログに載せることになる。 (Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2013/05/02
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★☆ 鎌倉幕府の平家追討を逃れ隠れ住んだ落人たちの悲劇 ★☆ Heike's fugitive legend ~ 平家の落人伝説~ 山口県下関市大字高畑 『 平家塚 』 ~ REALISTは、3月25日午前、下関市大字高畑の『 霊鷲山(りょうじゅせん:標高288m)』登頂を目指すと途中、その高畑の地に壇之浦の合戦(1185年)で滅亡した平家の落人(おちうど)が隠れ住んでいた部落があった地に『 平家塚 』と呼ばれる平家の墓や平家の落人の霊が祀(まつ)られていたという『 霊神社 』を訪れた。 平家の落人伝説は、日本中に存在するがここは間違いなく実在した地だ。 県道246号沿いの『 霊鷲山(りょうじゅせん) 』と『 平家塚 』入口を示す案内表示板。ここからは、平家の里、高畑部落への入口でもある。 REALISTは、関門海峡の壇之浦沿いの国道9号線から高畑方面に向け、住宅街を北進、県道246号線に出た。壇ノ浦の戦いがあった早鞆の瀬戸から直線距離で約2kmしか離れていない谷間の集落。あまりに近すぎたため追手に気づかれなかったと言い伝えられている。平家塚と呼ばれる場所に五輪塔などがある。 車で通るにはやや狭い一本道をしばらく進むと・・・その部分だけ広くなった道に到着、そこに、この『 平家塚 』の石碑があった。 石碑の裏の丘に登る道を歩くと、間もなく『 平家塚 』がある。 『 平家塚 』の説明文。平家の落人が隠れ住んだ部落は、時が流れ・・・「平家やぶ」と呼ばれ、近づくと「たたり」があるとしばらくの間は恐れられていたようだ。しかし、最近になって、整備され、地元の婦人たちの手で清掃やお香が手向けられているとある。これが、平家の五輪塔のお墓だ。2基が寄り添うようにたたずんでいた。夫婦だったのだろうか? この様な五輪塔の形状は、平安期、鎌倉期の特徴だ。 鎌倉幕府の平家追討軍が平家の落ち武者や落人を必死に探していたようだが、命からがら逃げのびて隠れ住むのも大変だったに違いない。 地元の婦人たちの手でよく手入れがされている。 『 平家塚 』から、さらに奥の道を進んだ。こうした竹藪(やぶ)の道が続く。 平家の落人は800年前から、こんな竹藪で生活していたのだろうか?まもなく・・・目の前に『霊神社』、『旗かけの松跡』とある標示板が現れた。何だろう?と・・・左折して『旗かけの松跡』に向かった。 すると、開けた広場に出たが、平家の末裔の墓だろうか?沢山ある。正面の奥に何やら説明文のある看板がある。 近づくと・・『旗かけの松跡』とある石碑と説明文のある看板があった。右の木が松の木。 「壇之浦の合戦で傷ついた落ち武者がここまで辿(たど)りついて平家の赤旗をそばの松の木に立てかけて休んだ」・・・とある。 来た道を戻り、次は『霊神社』方向に再び竹藪(やぶ)の中を奥に進んだ。 一番奥に至ると、 『霊神社』の鳥居が現れた。こんな竹藪の奥に神社があるとは・・・ 『霊神社』の説明板。平家の落人の霊を祀(まつ)った『霊神社』は、元々は、『平家塚』のあった付近にあったが、明治時代に大火に遭い、この地に移されたとあった。 焼けた建物は再建されていないが、狛(こま)犬や祠(ほこら)、灯篭等が設置されて当時を偲(しの)ばせる雰囲気があった。 なんとも静寂で厳粛なミニ神社だったが、平家滅亡に伴い京都の生活から、落人はこんな不自由な山奥での生活を強いられたという歴史の悲劇を感じた。 ここを守る狛(こま)犬の表情は、威厳のある力強さを感じた。 この辺りを歩くと、いたるところに、この種の石垣が多数残っている。平家の住んだ居宅の基礎だったのだろうか?石垣の上の平地はどこも雑草や木々が茂り、人々が住んでいた当時を想像するしかない。 (Thanks) !!↓(ありがとう)^^)/~~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2013/04/22
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★☆ 壇之浦合戦(1185年3月)の陶製壁画 (めかり公園第2展望台) ★☆ Battle of Dan-no-ura (March, AD 1185)~ 高さ3m、長さ44mにわたる有田焼製の歴史大絵巻パノラマ ~ REALISTは、3月25日、山口県下関側から『 関門トンネル人道 』徒歩で渡り、北九州市門司区の『 和布刈(めかり)公園 』を散策した。その公園内の『 門司城跡 』が山頂に残る『 古城山(標高175m) 』を目指す途中に立ち寄ったのが、 壇之浦合戦のパノラマ歴史絵巻を有田焼の陶板1400枚で再現した『 壇之浦合戦壁画 』のある『 和布刈(めかり)公園第2展望台 』だ。 第2展望台の案内表示板。和布刈神社から徒歩で20分程度かかる。 この階段を登ると第2展望台! 展望台に到着、眼下に広がるのは門司港だ。明治以降から戦前まで国際貿易港として賑(にぎ)わい、1922年、アインシュタインも夫婦で訪れた。 下関側に目を向けると、高速道路と関門大橋が目に入る。向こう側の黒づくめの若い女性軍団がキャツキャツとはしゃいでいた。 『 壇之浦合戦の想定図 』。白が源氏側船団、赤が平家側船団、図の右側の上から下に、そして左側の上から下の順に説明がある。最初は、潮の流れに乗り圧倒的に優勢な平家側の攻撃で源氏側は防戦一方だった。しかし、潮の流れが逆流すると、次第に源氏側の攻勢が強まり、源義経の指示で兵士よりも船の漕ぎ手や水夫、舵取りに矢などで集中攻撃する作戦が功を奏し、平家側軍船が行動不能となり、形勢逆転!一挙に平家の敗戦、滅亡となる。 『壇之浦合戦のゆかりの地』の案内板だ。左上が『赤間神宮(下関市阿弥陀時町)』、右上が『みもすそ川公園(下関市みもすそ川町)』、左下が小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の小説で有名な『耳なし芳一像(赤間神宮内)』、右下が平家ゆかりの『御所神社(門司区大里)』 『 源平最後の決戦の地 』の解説案内板。図の右から左に・・『一の谷の戦い(1184年2月7日)』、『屋島の戦い(1185年2月19日)』、そして、最後の『壇之浦の戦い(1185年3月24日)』だ。 展望台にある広々とした木製デッキ型施設。背景には、『 壇之浦合戦壁画 』の様子が見える。大き過ぎて全体が撮影できない。 、『 壇之浦合戦壁画 』の案内板。壁画は、赤間神宮(下関市阿弥陀寺町)所蔵の『安徳天皇縁起図』から「壇之浦合戦」の模様を有田焼の陶板で再現!源義経、平教経、二位の尼(平時子)、安徳天皇、建礼門院(平徳子)などが描かれている。 『源平壇之浦合戦絵巻』の説明文。『 おごれる人は久しからず、唯春の夜の夢のごとし 』・・と『平家物語』の一節が書かれている。史上まれにみる海戦で、平家は白色の旗印、平家は赤色の旗印をなびかせ、実に両軍合わせて4000隻以上の軍船が最後の戦いを合いまみれた。 長刀(なぎなた)に刀の源氏と平家の若武者の一騎打ち。 陸上待機の源氏軍の軍勢。 右上の海中に身を投じたのは、安徳天皇の母である建礼門院(平清盛の娘・平徳子)で、源氏の兵士が引き揚げて助かった建礼門院は、出家して京都大原寂光院の尼僧として過ごした。写真右下の船の中央屋根の下にいる白服の女性が建礼門院の母で平清盛の正室の二位の尼(平時子)で、その左隣が安徳天皇だ。二位の尼は、安徳天皇を抱きかかえたまま、「波の下にも都がございます」と慰め、壇ノ浦の急流に身を投じた。安徳天皇は、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4ヶ月、6年124日)で崩御した。敗戦が迫ると、他の多くの女官や武将なども次々に海中に没した。 山口県の日本海側の長門市沿岸に『 二位の浜 』という海岸がある。その名前は、安徳天皇と共に海中に没した二位の尼(平時子)の遺体が漂着したことが由来の地名である。 関門海峡から日本海側まで、かなりの距離だが、潮流は早く、かなり以前に関門海峡で入水自殺した若い女性の遺体が、二位の尼同様に付近に漂着した事実があったことからも、これが不自然でないことはREALISTは容易に理解した。 『 めかり公園側から関門海峡の潮の流れを観る 』 合戦が終わったのが午後4時ころ、同じ時間帯にREALIST撮影! 平家の猛将「平教経(のりつね)」に追われ、「八艘飛び」で逃げきる源義経 。 当時の屋根付きの軍船の形などがわかり、興味深い。 両軍の旗印は、長い長方形の形状の布張りだ。平家の女官たちが目を押さえて泣いている。 手前右に注目!イルカの群れだ。この日の合戦当日、イルカの群れが現れたと伝わっている。現在ではイルカは見れない。 展望台から門司側の海峡をパノラマ撮影。 (Thanks) !!↓(ありがとう)^^)/~~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2013/04/14
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★☆ 関門海峡直下を徒歩で山口と福岡を往復しました! ★☆ I walked in the submarine tunnel. ~ 山口県下関市みもすそ川町『 関門トンネル人道 』 ~ REALISTは、3月25日、『 みもすそ川公園 』前の国道をはさんだ向かい側にある『 関門トンネル人道 』の山口県下関側入口から、エレベーターで関門海峡の下まで降り、人道のトンネルを歩いて、福岡県門司側の和布刈(めかり)側までを往復した。海峡を渡る交通路には、関門トンネル車道や鉄道、関門大橋の高速道路や連絡船など様々あるが、関門トンネル人道と他の交通路との決定的な違いは、人道で徒歩の場合は通行料は無料であり、他の交通路はすべて有料だということだ。 「海底トンネル」と言っていい、このユニークな施設の様子は、普段なかなか見ることができないので、写真撮影した。 下関側の『 関門トンネル人道入口 』がある施設の標示看板。英語と韓国(ハングル)文字でも表示されている。 写真手前は、『みもすそ川公園』、その先には下関側海峡沿いの国道9号線、車道先の左側の高い建物が『関門トンネル人道入口』がある施設、右側が付属施設、トンネル施設の前には無料駐車場がある。REALISTも駐車してトンネルを利用した。一見、施設は古く見えないが、人道が開通した昭和30年代に立てられた建物だ。開通直後は話題となり、修学旅行や学校の遠足で多くの学生が歩いたことだろう。トンネルに入る前に付属施設にある『関門プラザ』に立ち寄った。トンネルに関する歴史や写真資料、開通工事の模様などを展示。入場は無料。自動ドアの正面は、下関のシンボルで有名な「河豚(ふぐ)」の絵。 部屋の中は明るく、エアコンも常時動いていて快適だ。ここで、トンネルの勉強ができる。 「年譜」を見ると、トンネル工事は昭和12年に始まり、途中戦災を受け、昭和33年に開通まで、20年以上を要している。トンネルの構造は、上が「車道」で下が「人道」という構造だ。 相和30年代のトンネル工事中の模様と断面の状況がわかる写真。 この図を見ると、トンネル部分の総延長は3461m、そのうちの海底部分は780m、水抜きとあるが、海水の水漏れがあり常時ポンプで排出しているのだ。 『関門トンネル人道』の構造が模型で示されている。上がエレベーターで、下部分はトンネルに接続する状況がわかる。 関門海峡を結ぶ7つの交通路が表示されている。1.関門鉄道トンネル、2.関門トんネル車道部、3.関門トンネル人道部、4.関門大橋、5.新幹線新関門トンネル、6.関門連絡船、7.関門海峡フェリー トンネル工事の方法や状況が20分の1スケールで再現されている。 まるでプラモデルやプラモのフィギュアだ。 なるほど、文字で説明するよりも、ディオラマの方がわかりやすい。 人道口エレベーター前に設置された通行可能時間や注意書きのある掲示板。 海底トンネルに降下するエレベーターに乗車する。 エレベーターを降りると、目の前に下関側ホールがあるが、意外と広い。 いよいよここから先が海底の下となる。 トンネル内での現在位置を示す表示板。 海底部分が780mということがわかる。 まだまだ先は長い・・トンネル内はヒンヤリとしていた。 ここは、海峡の真ん中だ!ここが半分の県境地点! 15分後にようやく、門司側のホールが見えた。 このエレベーターに乗って門司側の地上に出る。 この建物が門司側の「和布刈(めかり)公園」内にある『 関門トンネル人道 』門司側出入口の建物だ。REALISTは、わずか15分で海峡を歩いて渡り、門司側でゆっくり楽しみ、再び、帰りもトンネルを歩いて下関に向かった。 門司側、下関側でも人道口近辺の住民には、毎日のトンネル内の散歩で健康的に楽しんでいる人が多くいるそうだ。(Thanks) !!↓(ありがとう)^^)/~~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2013/04/09
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★☆ 山口県下関側からのビューポイント「みもすそ川公園」 ★☆ Scenery of history of Japan~ 山口県下関市みもすそ川町「みもすそ川公園」 ~ REALISTは、3月25日、日本の平安期末期の最後の源平の合戦となった『壇ノ浦の合戦(寿永4年:西暦1185年)』が繰り広げられた関門海峡、また、日本の近代の夜明けを迎える前、江戸幕府の「外国船打払令」を受けた長州藩による攘夷(じょうい)のための英米蘭仏(イギリス・アメリカ・オランダ・フランス)四国連合艦隊との砲撃戦(文久3年:西暦1863年)繰り広げた地で有名な古戦場の下関側のビューポイントとなる「みもすそ川公園」を散策した。 「壇ノ浦の合戦」で船と船の間を次から次と鎧甲冑姿で身軽に飛び移ったという伝説の「義経の八艘飛び」を表現した源 義経(1159~1189)像 REALIST作成の源氏の指揮官級クラスの兜(かぶと)(作品は源 義家のもの)長い「鍬形(くわがた)」と呼ばれる角(つの)部分が特徴で、 両側部分には、「毘沙門天(びしゃもんてん)」像が描かれている。『 源 義経(Minamoto no Yoshitsune) 』義経(幼少時:牛若丸)の生涯が簡単にまとめられた動画 『 みもすそ川公園 』は、国道9号線沿い関門大橋の下関側橋脚付近に位置し、道路の向かい側には、「関門トンネル人道口」がある。 「みもすそ川」とは、元々はこの様な漢字で表現された。この辺りに存在していた川の名称が、そのまま町名となっている。 関門海峡(壇ノ浦)、関門大橋、門司側の和布刈の古城山を背景にした「壇ノ浦古戦場跡」の記念碑、REALISTは、この日、あの古城山(門司城跡)にも訪れた。 源氏の義経(左)と平家の知盛(右)の像と関門大橋 義経、知盛像の前にある関門海峡の歴史説明文 源 義経は、平安時代末期の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟で、仮名は九郎、実名は義経である。河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に奥州平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平家打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、その最大の功労者となったが、その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平家との戦いにおける独断専行によってその怒りを買い、それに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。 平知盛(たいらのとももり)(1152-1185) は、平安末期の武将で、平 清盛の四男。以仁王(もちひとおう)・源頼政の挙兵を宇治で鎮圧、源行家を尾張・美濃で破った。壇ノ浦の合戦で平家側の敗戦を前にして、「見るべき程の事は見つ」と鎧二領をつけ、碇(いかり)を身に付けて海に入水自害した。平家屈指の勇将であった。 2005年のNHK大河ドラマ「義経」の主演の義経役だった「滝沢 秀明」の手形 2005年のNHK大河ドラマ「義経」の建礼門院徳子役だった「中越 典子」の手形 2005年のNHK大河ドラマ「義経」の平 資盛役だった「小泉孝太郎」の手形 この石碑にあるのは、祖母に当たる平 清盛の正室である二位尼(平 時子)は、安徳天皇を抱きかかえたまま、「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じたと伝えられるが、そのとき二位尼の辞世の句だ。 長州藩が英米蘭仏四国連合艦隊との砲撃戦で使用した「天保長州砲」のレプリカ展示物。 「天保長州砲」のレプリカが安置された歴史的経緯の説明文。 「長州砲」に関する性能データ。 150年前の当時を再現した迫力ある「長州砲」レプリカ群。 史実では、四国連合艦隊と砲撃戦をした「長州砲」は、戦利品として連合軍が本国に持ち帰った。 公園内では、観光ボランティアが観光客相手に「高杉晋作」の紙芝居を無料で熱心に演じていた。 公園向かい側の関門トンネル人道口付近にある下関市の観光案内図。 (Thanks) !!↓(ありがとう)^^)/~~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2013/04/05
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★☆ 源氏と平家の最後の決戦、壇ノ浦古戦場跡に観る桜の花 ★☆ Cherry blossoms seen in platform bay old battlefield mark~ 福岡県北九州市門司区和布刈(めかり)公園 ~ REALISTは、3月25日(月)、山口県下関側から関門トンネル人道を徒歩で福岡県北九州市門司区の和布刈(めかり)側に渡った。関門大橋の和布刈側でもある付近は「和布刈(めかり)公園」として整備されている。 この付近の関門海峡は、「壇ノ浦(だんのうら)」と古くから呼ばれ、REALISTが訪れたまさに前日に当たる、寿永4年(西暦1185年)3月24日、源 義経(みなもとよしつね)をはじめとする源氏勢が、平家一門と最後の戦いを繰り広げた決戦場の『 壇ノ浦古戦場跡 』だった。REALISTは、海岸付近から観る海峡の激しい流れを観ながら過去の歴史を感じ、桜を眺(なが)めて楽しんだ。 海峡の海岸付近に咲く白い大きな桜の花がどれも美しくまぶしく感じた。春の訪れを教えてくれる汚れのない純白の花たちを眺めていると、心が洗われるようだった。 さくら by ケツメイシ もう懐かしい曲になったケツメイシの”サクラ”この時期になると聴きたくなる曲です。公園内を海岸に沿って歩くと、関門大橋の門司側の橋脚(きょうきゃく)付近にたどり着く。これは、門司側から関門海峡をはさみ下関側に向けて橋の下付近から撮影したもの。こうして観ると、意外と海峡が狭く感じた。ここで、関門大橋については・・・関門海峡の最狭部である山口県下関市壇之浦と福岡県北九州市門司区門司(和布刈地区)を結ぶ。1973年に開通。橋長1068m、最大支間長712mは、若戸大橋(橋長627m、最大支間長367m)をしのぎ、開通時点では日本および東洋最長の橋となった(1983年開通の因島大橋が関門橋を上回る規模の橋として完成し、その後もより大規模な橋梁が複数架設されている)。 壇ノ浦の古戦場だったこの海峡の潮の流れは早いことで有名だ。海面を観ていると・・・白く激しい波が大きく渦(うず)を巻いて激しく音を立てながら流れていた。こうして、平家一門の滅亡となった海戦では、どれだけ多くの人々が亡くなったのだろうか。祖母に当たる平 清盛の正室である二位尼(平 時子)は、安徳天皇を抱きかかえたまま、「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。このとき安徳天皇は、歴代最年少の数え年8歳(満6歳4ヶ月、6年124日)で崩御した。敗戦がいよいよ迫ると、船に乗船していた他の多くの女官や武将なども次々に海中に没したそうだが・・・・3月の海はまだ水温が低い。しかも、この急流の海の中に飛び込めば、まず助からないだろう。公園の海岸付近は、以前に比べかなり近代的な整備が進められており、一部は、まだ工事中のフェンスや縄張りの部分があった。「平家の一杯水」これは、下関側にも海岸に自然な石組のようなものが存在するが、ここはどんなものなんだろう?・・・と興味をあったので先を進んだ。 桜の花に観取れて・・・ついつい海峡をバックにパチリと撮影した。 さて、たどり着いたのが・・・これ!ウウムッ・・・これが・・!「平家の一杯水!」・・だが、中を見ることができない!入口が閉鎖して近づくこともできないうえに、周囲を完全に分厚いコンクリートで遮蔽(しゃへい)している。「な~んだ!これじゃあの案内表示板の意味はないではないか!」・・・なぜなら、「平家の一杯水」自体を何も確認できないからだ。北九州市は訪れる人々の目線で公園整備にもっと工夫をすべきだろう。「平家の一杯水」の説明内容が書かれているので、一応はその意味だけは理解できたが・・・・ ここ和布刈(めかり)に古くからあるのが由緒ある「和布刈神社」だ。REALISTは、幼稚園の修学旅行で和布刈公園を訪れた際にここにも母と同伴で立ち寄っていた。 「和布刈神社」を訪れ、神社なら必ずある境内の手水で身を清めるための「手水舎(ちょうずや・てみずや)」を撮影した。 公園内で見晴らしの良い「第2展望台」を目指して歩くと、あちらこちらに満開の桜が咲き誇っていた。 葉桜も咲き乱れていた。 関門港と関門大橋が綺麗に観えるビューポイントは、和布刈公園内の第2展望台だろう。ここから関門大橋を撮影してみた。 (Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2013/04/01
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★☆ ああ!美味しかった!・・・また、行きたい! ★☆ Delicious ramen !~ 山口県下関市大字勝谷218-6 『らーめん匠屋』~ プラモデル完成後のラーメン、険しい登山を終えてのラーメンは格別に美味しいものだが・・、REALISTが下関市内で登山を終え、下山後にたまたま立ち寄ったラーメン店でとても美味しいラーメンに出会うことができ感動したのでご紹介する。店名は山口県下関市大字勝谷の道路沿いにある 『らーめん匠屋(たくみや)』 だ。 REALISTは、これまで、「食」に関する話題はほとんど取り上げていなかったが、今後は出会った中でも感動したものに限定してブログアップすることにする。 REALISTは、こってり博多系の「豚骨ラーメン」も好みだが、ここでは敢(あ)えて「醤油(しょうゆ)ラーメン」(550円)と「ご飯」(100円)のセットを注文した。観た感じでも、ギラギラこってり系の好きな人には物足らない極めてシンプルでアッサリ系であるが、麺の程よいコシのきき具合、喉越しの良い今までにない美味しさのスープには感動した。また、純白のライスも良かった。普通はスープは残すのだが、ここではついつい最後まで飲みほしてしまった。 『らーめん匠屋』は、道路沿いにあり、車の出入りは容易で、しかもよく整備された駐車場は広く、15台以上は駐車可だ。私が訪れた時間帯が平日の午後3時ごろだったので駐車場は空いていた。店舗はまだ新しく、店内はとても清潔感があり、カウンター席のほか和室で仕切られた席もある。客を案内する従業員の接客態度は極めて良好で、世話になった店員がたまたま良かったのか、とても親切で良い印象を受けた。思うに・・・店の繁栄の第一は、単にそこの出し物だけでなく、特に店の雰囲気、従業員の接客態度にかかっていると思う。訪れた客にそのイメージが記憶に残り、リピート客が増えるか否かという結果になる。どこでも同じだが、会社でも店舗でもその企業イメージを決定する「従業員(社員)教育」は最大のテーマだろう。その意味でもここはピカイチだった。ラーメン店の浮き沈みは激しいが、ここは頑張って欲しいと思った。 『 詳細情報 』★☆所在地:山口県下関市大字勝谷218-6★☆TEL・予約:083-257-0733★☆営業時間:11:00~22:00★☆交通手段:JR西日本山陽本線「長府駅」から2,224m★☆駐車場:15台程度可(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2013/03/22
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★☆ 日本最大の城『 大阪城 』の遺構を歴史探訪 ★☆ Osaka Castle Park~ 大阪府大阪市中央区大阪城 ~ 『 大阪城 』は、現在、姫路城、熊本城と共に日本三名城の一つであるが、戦国武将の豊臣秀吉が、1583年(天正11年)に築城、その死後、徳川家康軍15万5000人の攻撃を受けた「大坂夏の陣」の1615年(慶長20年)5月8日、秀吉の側室茶々(ちゃちゃ)(淀殿)とその子豊臣秀頼(ひでより)の死と共に落城炎上した歴史に残る日本最大規模の城だ。 REALISTが訪れたのは、今回で2度目であるが、じっくり探訪した。 天守閣のある現在の大阪城本丸は高さが54.8mあり、最近までも度々改修工事が施されたが、基本的には、最上部の五層目だけが黒塗りを基調とした壁のある豊臣時代のものが再現され、以下の部分は、炎上消失後に徳川氏が白塗りの壁を基調として再建した当時の様式を採用した折衷型として、1931年(昭和6年)に復興建造されたものだ。 公園内に設置されていた「大阪城公園案内図」、JR環状線の「大阪城公園駅」を下車すれば、大阪城は目の前にある。 駅から「東外堀」に向かい、「青屋門」から公園内に入る。 写真左が「東外堀」付近、右が「青屋門」前の風景。 「内堀」の外側から天守閣の最上部がわずかに見えた。 天守閣が観える「桜門」付近の石垣遺構周辺を散策。 石畳で舗装された通路は広く、確かに巨石で構成された石垣の規模は大きい。写真右は、城側から内堀側に向けられた多数の銃眼跡が残る石垣。当時は、屋根と壁のある構造物がこの銃眼の上に存在した。 1615年(慶長20年)5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼と母淀殿が山里丸にあった櫓(やぐら)の中で自害したと伝えられる石碑 。 別の銃眼付近から内堀を見る。巨大なダムの様だった。かなりの高さもあり、急傾斜の石垣をよじ登っての攻撃は困難だろう。 写真左は、城内の片隅にあった「南無阿弥陀仏」とある供養塔や仏像群、「大坂夏の陣」では、城内で女子供を問わず数万の老若男女が徳川軍に惨殺された。また、豊臣方の武将は12000人が斬首されている。それらの多くの霊を慰めるものだ。写真右は、城内にあるロマネスク様式の建物で、旧帝国陸軍第四師団司令部庁舎で、終戦後、占領軍の接収を経て、大阪府警警察本部、大阪市立博物館として使用され、博物館移転後は、大阪市管理下で空き家状態だが貴重な建物だ。 内堀から観た天守閣と近代的ビル。 秀吉は、通常の住まいとして、金箔瓦葺きの聚楽第(じゅらくだい)を使用したが、城も一部は金箔化していたのだろうか? 天守閣や城門などの一部が復元されているが周囲の石垣の上に存在していたであろう建物群を想像すると当時の大阪城がいかに大規模であるかがよく理解できる。写真右は、天守閣への建物入り口と左のその付近にあった大砲。写真左は、天守閣最上部から観た「金の鯱鉾(しゃちほこ)」、右は城を出て内堀の外から観た「桜門」。 「桜門」を出ると、「豊国神社」前に豊臣秀吉像あり! 「豊国神社」は、学業や出世、大願成就を祈る神社だ。 大阪城大手口を守る重要な隅櫓(すみやぐら)の千貫櫓(せんがんやぐら)と呼ばれる施設、大手門に向かう敵を側面から弓矢や銃撃で攻撃できる堅固な構造だった。 写真左は、「大手口枡(ます)形の巨石」と呼ばれる石垣の巨石、その上には規則的に並ぶ銃眼の穴がある。右は銃眼の内側の状況。この種の銃眼が城の内堀・外堀の周囲に外に向けて無数に張り巡らされていた。写真左の「大手門」を出て、外堀に至ると、間もなく右の「大阪府庁」を確認。 外堀周辺を歩くと、「ばけもの屋敷」跡が! ばけものを退治したとあるが、真相は如何に? 外堀から観た天守閣、観る位置によっては近く感じる場所がある。 (Thanks) !!↓(ありがとう)^^)/~~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2013/03/11
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★☆ 防府市最高峰「大平山」のロープウェイと雄大な景観を楽しむ ★☆ Yamaguchi Prefecture Hofu City Mure Mt. Ohira-yama~ 山口県防府市牟礼 大平山(標高631m)~ REALISTは、お天気の良い青空の日、防府市最高峰の山、『 大平山(標高631m)』にロープウェイを利用して訪れた。自分の足でなく、ロープウェイ利用の登頂では物足らなさを感じたが、数十年ぶりのロープウェイは、子供のころ親と乗った昭和の昔にタイムスリップした様な懐かしさがよみがえり、周囲の景色がぐんぐん遠くなり、遥か先の海や山が次第に広がっていく雄大な景観がとても視覚に刺激的で楽しい気分だった。 乗り場の建物の屋根にある『大平山ロープウェイ』の文字看板。付近には無料の広い駐車場があるのでマイカー利用が良い。 ロープウェイの運行は、運休日の水・木曜を除く日で、日中をほぼ20分間隔で運行。このロープウェイは、1959年(昭和34年)3月21日に開業した。それにしても懐かしい昭和の匂(にお)いがする形状をしている。運賃は、大人片道600円(往復1000円)、子供片道300円(往復500円)。麓(ふもと)の乗り場を出発!・・内部から乗り場を撮影。ぐんぐん離れていく。ロープウェイの長さは953m、所要時間は約6分だそうだ。 山頂から下界を見る風景とは明らかに違う。なぜなら、視界に入る景観が静止でなく、常に動いて移動しているからだ。 突然、目の前をロープを支えている巨大な鉄柱と滑車が目に飛び込む。そのメカニックな形状を見て、本体に動力のない極めてシンプルな乗り物だと感じた。 内部から西側の『 矢筈(やはず)ケ岳 』方面を撮影。かなりの高さだ。 瀬戸内海側の南側に向けて撮影。遠くには、旧長州藩の港があった三田尻港方面が見える。 下りと離合した。あれよあれよと遠ざかっていく。車体に動力部分がないので、ロープウェイ内部は極めて静かだ。先ほどの車体が遠く離れて見える。 そして・・もう見えない。地表の構造物がどんどん小さくなる。人家の見える方を眺めると、どれも小さくなっている。 二度目の鉄柱が目に入る。 そして、・・到着!! 久しぶりに子供の様にウキウキ気分。 山上の駅の内外の様子。 駅を出ると正面に最新式のトイレ、右(東側)に進むと展望所がある。展望所付近はどこに立っても瀬戸内海側が一望できる。海が銀色に輝いていた。素晴らしい眺めだ。防府市三田尻港の湾の形状がよくわかる。幕末は、吉田松陰や高杉晋作などの若者志士たちがここから旅立った。 南西方面の防府市街を撮影。 西側方面を撮影。向かって右側が、『 矢筈(やはず)ケ岳 』、その奥中央が『 右田ケ岳 』だ。頂上への登り口は、トーテムポールの様なモニュメント、頂上部分には、テレビ局の送信所などがある。送信所の建物群を抜けると『 大平山 標高631m 』の標示板! 山頂から見た展望所や公園の風景。 手前にローマ風の野外半円形劇場、右手奥が山頂駅、左奥に展望所施設。野外劇場では、音楽演奏会などのイベントも開催される。 山頂駅、さようなら! (注意)このロープウェイは、その後、老朽化に伴い再建が断念され、廃棄されました。(Thanks) !!↓(ありがとう)^^)/~~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2012/12/04
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★☆ スーパーのリンゴでは味わえない濃密の味 ★☆ Tokusa apple garden~ 山口県山口市阿東徳佐 りんご園 ~ 山口市内から国道9号線を島根県の津和野方面に北上すると、途中、JR西日本の山口線が並行しており、その「地福駅」、「鍋倉駅」、「徳佐駅」周辺一帯には、徳佐のリンゴ農園が散在している。徳佐は西日本一の大りんご園のある町だ。リンゴのシーズンには、観光バスの団体やマイカーで立ち寄ってリンゴ狩りを楽しむ人も多い。また、リンゴ農家が、国道沿いの店舗で種類も豊富なリンゴの販売もしている。 ここ山口県のリンゴ栽培のピークは9月~11月末だろうか。REALISTは、先月末、リンゴ園に立ち寄りたわわに実った新鮮なリンゴをもぎ取っては存分に味わった。県内のスーパーには主に青森産などの東北のリンゴが豊富に販売されているが、ここ山口県産の徳佐の独特なジューシーで甘酸っぱい蜜の味が口一杯に広がる美味しさを味わえば、多分、青森産など食べる気がなくなるだろう。それだけ、本当に美味しいのだ。ただし、リンゴ狩りは11月末がリミットだ。 リンゴの実の重さで枝が垂れ下っている。このリンゴは、「フジ」と呼ばれる種類だが、スーパーで販売されている通常のリンゴよりもひとまわり大きいサイズだった。どれもよく手入れされており、色も良く実がとても美しい。色々な種類のリンゴを味わったが、それぞれに特徴があり、どうにか5個食べることができた。 一昨年も訪れたのだが、その時は、外国人留学生が団体で訪れて、リンゴ狩りを楽しんでいた。白人、黒人、アジア人など数十人で大学の留学生だった。リンゴ農園では、バーベキューや焼き肉を楽しめる設備が併設しているところもある。 リンゴの木で美味しいリンゴを食べるなら、枝の高いところのものよりも、比較的低いところの方が美味しいそうだ。蜜が多く、ガブッとかぶりついたら、シャキッと歯触りがよく、リンゴの香りと甘酸っぱいジュースが口に広がる。 (Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2012/11/26
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★☆ 深まる秋の自然の変化を感じた日 ★☆ Road toward in autumn~ 下山ルートから見る秋の風景 ~ REALISTは、先週の金曜日(10月26日)にも、山口市徳地の「白石山(541m)」に登頂した。この山も巨大な岩穴や山腹に観音像が安置された、前回の「陶ケ岳」同様に神秘的な山だった。これで先週は、宇部市の「荒滝山(459m)」、防府市の「魚切山(370m)」を加えて三つの山を連続制覇登頂したことになる。休日は、完全にアウトドア状態だった。山の地図とコンパス、山岳会が木々の枝に目印として残した赤いテープや標示板を頼りに辿(たど)る登山は冒険の世界に近い楽しいものだ。しかし、登山中に撮影した写真が沢山たまっても、それを使ってブログを作成する気力も時間的余裕もまったくなかった。 山の自然は変化が激しい。ほんの少し前までは、まだまだ紅葉が見られなかったはずなのに、今回の「白石山」では、紅葉や枯れ草がいたるところでかなり進んでいた。この山を登頂後、下山ルートを麓(ふもと)まで下って、帰りの駐車場までの1kmの道のりを歩く中で、深まる秋が印象的な風景を目にした。この道を歩きながらこの道は、「秋に向かう道だ」と思った。 しばらく歩くと、青空と周囲の山々の稜線(りょうせん)や黄色や紅葉に染まる木々、黄金色に染まる枯れた草原のコントラストがソフトで、とても心が癒(いや)される風景が続いた。 「リンドウ」の花を発見!!淡い紫色の独特な形状の花びらが美しい。 花の名はわからないが、小さな花の集団だ。 可愛らしい白い花たち、比較的よく見かける花だが、花の名はわからない。【送料無料】日本百名山地図帳(〔2008年〕) [ 山と渓谷社 ]価格:2,310円(税込、送料別)『 登山・トレッキング用のザック、リュックの選び方 』 登山やトレッキングで必需品となるザックの選び方について、登山ガイドが、初心者にもわかりやすく説明している動画だ。(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2012/10/28
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★☆ 自然の不思議な空間に遭遇 ★☆ ~ 自然と一体感を感じた日 ~ 先日、登山での山中の中で、緑の自然にできたトンネルの様な長く続く空間を歩いた。何となく自然の中に没入した様な不思議な感覚をおぼえた。 自然は美しく素晴らしい感動を与えてくれるものだ。これだからやめられないんだなぁ・・・トレッキング、登山は。 もう10月も半ば過ぎとなったが、紅葉はまだまだだ。山肌の木々や草は青々としている。自然に出来上がった長い緑のトンネル・・・山中で聞えるのは鳥のさえずりだけ、空の青さと静寂と澄み切った空気、心地よい風が肌に優しい日だった。【送料無料】山口県の山改訂版 [ 中島篤巳 ]価格:1,995円(税込、送料別)『 mixi女子山岳部 秋 』 女子山岳部の秋バージョン、この動画にある様な本格的なキャンピングも楽しそうだけど、REALISTの場合は、大半が県内の日帰りコースだ。(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2012/10/23
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★☆ 山口県山陰長門市湯本温泉付近の風景 ★☆ Nostalgic scenery~ 昭和の時代を感じる懐かしい温泉街 ~ 山口県の山陰側にある萩市の西隣に隣接する長門市は、「こだまでしょうか、いいえ、誰でも・・」の詩文で知られる女流詩人「金子みすゞ」の生地でも知られる地、市内の南側の山合いに位置する「音信(おとずれ)川」沿いの「湯本温泉」を訪ねると、一昔前の昭和の懐かしい時代にタイムスリップした様な不思議な空気を感じることができる。先日、ブラリと平日日帰りの温泉浴びに訪れたのでご紹介する。 「音信川(写真)」、「大寧川」沿いの両岸には15軒のホテル、温泉宿が立ち並んでいる。1427(応永34)年、大寧寺3代目住職が、住吉大明神のお告げで泉源を発見したと伝えられている。江戸時代には、長州藩主の毛利公も度々湯治に訪れた山口県の代表的な温泉のひとつである。泉質は、胃腸病、リウマチに効果があるアルカリ単純泉で、夏には、川で天然記念物である源氏ボタルが飛び交い、カジカが鳴く。JR長門駅からバスで10分程のところにあり、萩市や秋吉台の観光拠点として人気が高い。 橋の欄干に設置された「音信川」とある石板。REALISTは、この漢字の読みを「おんしんがわ」と思っていたが、「おとずれがわ」が正しいのだと初めて知った。 「音信川」沿いに設置されている舗装された遊歩道があり、川面を見ながら散歩できる。また、ここの遊歩道には、誰でも利用できる「足湯」の設備もある。川の水の流れる音が耳に優しい。 「音信川」の名前の由来が書かれていた。それは・・『 「音信川恋伝説」にあるそうだ。それは、藩主おかかえのお茶屋「清音亭」で働く湯女が叶わぬ恋に落ちる。彼女は思いの文を綴った恋文(=音信(おとずれ) を橋の上からそっと流し、願ったのだそうだ。「川の流れよ、この気持ち、どうかあの人に届けておくれ」と・・・それが、この川の由来となった 』のだそうだ。何ともロマンチックでないか。 川沿いに設置された「足湯」にあった川の由来を示す看板と「恋人の聖地」とある石碑。 これが、音信川に設置された「足湯」で、一度に10人は座る余裕がある。中央の四角い穴から源泉のお湯が昏々と湧いており、それがそのまま周囲の溝に流れる構造で、炬燵(こたつ)に座る様な感じで足を入れれば何となく温泉気分を楽しめる。それほど熱くはなく、適度な湯加減だ。川の流れや周囲の温泉街の風景を眺めながら足湯につかるのも情緒的でよい。 温泉街の中には、昔ながらの湯治場の雰囲気をとどめた外湯の「恩湯」、「礼湯」があり、ここが泉源とされている。これらの湯では、市営であることから、銭湯並みの低料金(大人200円、小人100円)で温泉を楽しむことができる。駐車場も隣接しており、昭和風の建物で、手軽にノスタルジックな雰囲気を楽しめる。 川沿いに位置する老舗の「恩湯」の建物、昭和初期風の外観で赤い郵便ポストも何とも昭和30年代を感じさせる不思議な雰囲気だ。付近の住民も安いのでタオル持参で利用しているようだ。「礼湯」は、この建物の左側を進んだ奥に位置している。 これが、「礼湯」の建物の外観、入浴料はここも大人200円、小人100円だ。宿泊はできないが、「恩湯」、「礼湯」ともに休憩室も完備しており、湯上りもゆっくり休める。 大きな絵馬があった。珍しいので撮影、横4mx縦2mぐらいはあった。湯本温泉街のシンボルである「大寧寺」や「住吉神社」も書かれている。 「恩湯」に隣接する駐車場にあった女流詩人「金子みすゞ」のモザイク画、横は約7m、縦2mはあるだろう。 先の駐車場の脇に立っていた、つた植物に覆われている奇妙な民家が珍しかったので撮影、人が住んでいるのか否かわからないが、建て増し、建て増しのいびつな構造で、3階建ての木造家屋の様だ。それにしても、マンガのトトロの映画の中に登場する様な雰囲気だった。これも、昭和の雰囲気が漂っていた。長門市観光コンベンション協会ホームページ(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2012/10/02
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★☆ 護衛艦「ひゅうが」の姉妹艦「いせ(ISE)」を訪れました ★☆ 海上自衛隊(JMSDF) JS ISE (DDH182)~ ヘリコプターなどの垂直上昇機積載を志向した空母 ~ 先日(8月26日の日曜)、山口県下関港埠頭に停泊中の海上自衛隊(JMSDF)所属の新鋭護衛艦「いせ(ISE)」(DDH182)が一般公開中だったので、見学に訪れました。当日は日曜日で快晴、駐車場は満杯状態でしたが、正味1時間の実物観察を満喫できました。 全長が長く全体の撮影が困難、パノラマ撮影で左右2枚撮影し1枚に合成です。(この護衛艦の諸元データ)・・・・基準排水量:13,950トン、全長:197m、全幅:33m、速力:30ノット、搭載機:哨戒ヘリコプター3機、乗員数:340名、主要武器:Mk41 VLS(対空・対艦・対潜水艦ミサイル)x16セル、短魚雷発射管x2、高性能20mm機関砲(CIWS)x2、12.7mm機関銃x7 ★☆『 海上自衛隊DDH-182護衛艦「いせ」 』★☆ この動画では、最初、音響測定艦「ひびき」が登場、「いせ」は、約3分経過後にようやく登場です。白波を切って海上進行する様子は、大きさだけでなく美しい艦艇のフォルムにも魅力が感じられます。 駐車場から徒歩で向かいます。何となく子供の頃の修学旅行の様なドキドキ感を久しぶりに味わいました。男性だけが興味を持つものだと先入観がありましたが、どうしてどうして、若い女性ギャルたちも多く、子供連れの親子、アベックなども多かったのが印象的でした。 巨艦に比べ人間の小さいこと!この護衛艦の大きさが想像できると思います。すると・・・戦艦「大和」は、基準排水量がこの船の約5倍の7万2,000トンですから、「大和」がいかに大きかったことか!乗船する前に、乗船口で簡単な手荷物検査、金属探知機の検査などを受けました。 艦内は、大型格納庫の構造で、後部と中央部に航空機用大型エレベータがあります。後部エレベータに乗って、飛行甲板に移動!写真左は中央部のエレベータ付近の様子 後部エレベータで甲板に上昇!船尾側の飛行甲板に出ると、眼前に広がるグラウンドの様な広い飛行甲板、右手には、三次元レーダーなどの様々な探知機類搭載の射撃指揮装置のある艦橋部分が! 甲板上の作業用のクレーン車 船尾に設置された「旭日旗」と背景にある「関門大橋」のコラボです。関門海峡!昔、源氏と平家の「壇ノ浦の合戦」がありました。 小学生と母親が興味深げに、12.7ミリ機関銃を触っていました。左手奥の白い建物は水族館の「海響館」 羽を折りたたんだ哨戒ヘリの操縦席に乗り込もうとする人々の様子 哨戒ヘリの後部周辺の様子 写真左は、ヘリの尾翼部分でカメラ装備です、右は、船首側から見た艦橋部分 船首側から見た中央エレベータと艦橋部分の様子 艦橋のドアハッチですが、なんと頑丈な!開けるのは容易ではない! レーダー?探知機?よくわかない白い物体! 船首側から甲板を見た様子、見返り美人がニッコリ! SF「スターウォーズ」に登場する様な「高性能20mm機関砲(CIWS)」を鑑賞する人々の様子 「高性能20mm機関砲(CIWS)」、レーダー・カメラとコンピュータシステムのコラボで飛行機ばかりか飛来するミサイルまで自動追尾で射撃、撃墜可能だとか・・・多銃身で毎分4,500発も発射!・・まさに射撃ロボット! 船首側から下関港を撮影、右手に「海峡タワー」が見える。 甲板から見た駐車場、下関市内の様子 これも同様に下関市内の様子 関門海峡を走る遊覧船 「いせ」付近上空を遊覧飛行するヘリコプター 写真左は、船首側の日本国旗、暑かったけど、有意義な1時間でした。(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2012/08/30
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★☆ 大内時代終焉の地「大寧(たいねい)寺」 ★☆ ~ OLD TEMPLE ~ 「大寧寺」は、戦国の武将大内氏の一族が1410年に創建した曹洞宗の寺院で、山口県長門市南南西の山合いの風光明媚な「長門湯本温泉」に近い県道34号線沿いに位置する。 戦国武将「大内氏」は、1353年に大内弘世が現山口県の周防国を平定、以降、九州から京都方面まで勢力を拡大、大内政弘は、西軍の武将の大軍を率いて「応仁の乱(1467~1477年)」で京都を中心に華々しく活躍した。その後も福岡の博多を治め室町期における「日明貿易」を独占し、最後の大内氏となった第31代「大内義隆」では、多数の公家や宣教師を保護、日本に上陸した「フランシスコ・ザビエル」に謁見しキリスト教布教や教会を許可、京都風の街づくりを導入し、「雪舟」などの多くの文人や芸術家を招き、独特な「大内文化」の最盛期を築いた。 「大寧寺」の前を流れる「大寧寺川」に寺の境内から架かる朱色の「虎渓橋」から川を観る。木々の緑が目に優しい。 「織田信長」が自らの家臣「明智光秀」の謀反(むほん)で滅亡した「本能寺の変(1582年)」と同様に、「大寧寺」は、「大内義隆」がその武断派重臣として重用した「陶晴賢(隆房)」の謀反により襲撃を受け、立てこもった側近武将や公家・息子・姫君ともども奮戦むなしく自刃、寺は炎上し、200年間余りの栄華を誇った大内氏時代の事実上の終焉・滅亡となった「大寧寺の変(1551年)」の歴史的な地で、その時に亡くなった「大内義隆主従の墓」が建立されている。 左は、「虎渓橋」を寺の境内側から観た状況、橋の下を流れる「大寧寺川」や付近の「木屋川」、「音信川」周辺は、天然記念物「源氏ボタル」の発生地で、夜はホタルの舞い飛ぶ情景がある。 大寧寺川には、「盤石橋(ばんじゃくきょう)」と呼ばれる自然の大小の石だけを組んで掛けた橋もある。これは、寛文8年(1668年)に建架された文化的価値の高い橋で、歴史的な重みと風格を感じた。 旧山門跡に向かう一角に「大寧護国禅寺」とある石柱。「護国」とは、「国を守る」ということだが、二度の「元寇の役」で元の中国・朝鮮連合軍の大軍に九州博多周辺を侵略された脅威から、鎌倉期以降、特に日本全国に「護国」の名称を付けた寺が増加した。 左には、「大内義隆公終焉の地」とある石柱、正面の石段の前には、かつて豪華絢爛たる大きな山門が存在した。今は、建物の柱部分を支えた丸い石の基盤だけが整然と並んで残る。 旧山門跡から入った正面に「大寧寺本堂」がある。本堂は、1551年の大内義隆自刃の際に炎上、その後も二度にわたり火災に遭った。 「釈迦三尊及び十六羅漢像」の石像群だ。神様が集合している様だ。 境内には、おそろいの赤い毛糸の帽子と前掛け姿の地蔵尊があり、他にも数十体が散在していた。右は古めかしい「準堤観音」のお参り所だ。 本堂の正面からの撮影は避け、南側から撮影。写真の鐘楼は、銘文では1396年に鋳造されたものだ。 右は、本堂に隣接する「開山堂」、左は、本堂の前の敷地に置かれた屋根瓦であるが、大内家の家紋の「大内菱(びし)」が装飾されている。これは、焼け落ちた昔の建物の遺物なのか? 大内義隆にまつわる「姿見の池」と「兜(かぶと)掛けの岩」に関する説明文 大内義隆が死ぬ前に兜を脱いで掛けたと伝えられる岩(右)と乱れた髪を治そうと自分の顔を見ようとした池(左) 「経蔵跡」とは、寺の経典などが保管されていた蔵(くら)のことだが、今は存在しない。草に覆われた石垣があるだけだ。義隆の重臣「冷泉隆豊」の戦いの最後の場となった説明文「大内義隆主従の墓所」を示しているが、墓所はこの位置から、まだ約300m先だ。 本堂裏山に入ると、間もなく墓石群の入り口となる。その奥は、遠く過ぎ去った時の流れと静寂がある。 石柱には、「史跡 大内義隆主従の墓所」とある。これは、室町期の古い墓を後の「毛利元徳」が明治21(1888)年に寄せ集めて墓所として建立したものだ。元徳は、「三本の矢」の逸話で有名な「毛利元就」の末裔で長州藩の第14代(最後の)藩主だった。大内氏を滅ぼした「陶晴賢」は4年後の1555年に宮島の「厳島の戦い」で毛利元就に負け敗死している。 「大寧寺の変」で犠牲となった大内家の20歳前後の姫君や女官、公家などの墓である。室町期様式の古い墓石とともに明治時代に再建された新しい墓もある。 広い境内にある庭園には、蛇行した水路があり、山からの清らかな湧き水が勢いよく流れる。 境内の南側に「長門豊川稲荷神社」が隣接している。白キツネ像が印象的だ。(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2012/08/06
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★☆ 大寧(たいねい)寺の池で泳ぐ鯉(こい)で納涼気分 ★☆ Carps in pond~ 山口県長門市湯本温泉付近の大寧寺 ~ オリンピック中継の日本人選手の活躍を祈って観戦している今日この頃ですが・・・・・ 先日、長門市「湯本温泉」付近にある由緒ある「大寧(たいねい)寺」を訪れた。ここは、戦国の武将大内氏の一族が1410年に創建した曹洞宗の寺院である。その敷地内には、体長40センチもある大きな鯉(こい)のいる池がある。その悠々と泳ぐ色とりどりの池の鯉たちを眺めているだけでもとても涼しく感じることができた。寺の詳細は次回として、まずは鯉のいる風景をご紹介する。「長門市」は、維新発祥の地「萩市」の西隣に位置する。女流詩人「金子みすず」の育った地で、「楊貴妃」の墓まである歴史的な土地だ。大寧寺は、長門市の南側に位置する湯本温泉付近に位置する。 REALISTが、この地を訪れたのは、何も鯉を観たいためではなかった。ここが、室町時代の「日明貿易」を独占、多数の公家(くげ)や宣教師を保護し、フランシスコ・ザビエルにキリスト教布教を許可して、独特な「大内文化」の最盛期を築いた周防・長門の戦国武将「大内義隆」の終焉の地だからである。「織田信長」が自らの家臣「明智光秀」の謀反(むほん)で殺害され滅亡した「本能寺の変(1582年)」と同様に、この寺が、「大内義隆」がその武断派重臣として重用した「陶晴賢(隆房)」の謀反により襲撃を受け、立てこもった大寧寺で側近武将や長男・姫君ともども奮戦むなしく殺害され、事実上の大内氏滅亡となった「大寧寺の変(1551年)」の歴史的な地であり、その時に亡くなった大内義隆主従の墓も建立されているからだ。 この寺には、自然石で形作られた比較的こじんまりとした池がある。静寂の中に裏山からの湧水が池の水面に流れ落ちる音が響き、ゆっくりとした時間が流れる。水は清らかで、水面が光を反射してキラめいている。 黄金や白、色とりどりの体長40センチもある大きな錦鯉(にしきごい)がゆったりと水の中で仲良く泳いで遊んでいる様に見えた. 鯉の模様や色彩は美しく自然の芸術品の様だ。なんてこんなに美しいのだろうと思い、いくら見ていても飽きない。 白い大きな鯉が、REALISTの方に向かって浮かんできた。まるで「餌(えさ)をちょうだい!」と求めているようだった。好奇心が強いのだろうか? REALISTが、池の周囲を歩くと鯉もそれを追うように移動してくる。ここの住職かこの池の世話をする人が餌(えさ)を与えているからだろう。餌をもらえると思っての移動だろう。写真右奥の鯉が、こちらを見ながら顔を出していた。 鯉たちには人間の様な争いはないようだ。とても仲良く平和的な動きをしている。鑑賞用に交配して色とりどりの錦鯉を完成させたのは日本人のようだが、報道では、最近、この様な錦鯉の魅力に夢中になる海外のアメリカやヨーロッパ人のファンが増えたそうだ。大邸宅に錦鯉の泳ぐ庭があるのが海外のお金持ちの理想的な趣向になりつつある。 鯉にも人間同様に、仲の良いもの、ペアで遊んでいるもの、親子や夫婦、一匹狼など、いろいろある。 池の水は山から湧き出る水で満たされ、暑い夏でも冷たそうで池の周囲も涼しく感じる。 白い大きな鯉は、REALISTが移動するたびにしばらく私の後を追うように移動しながら目立つ動きをしていた。鯉さんありがとう! 寺の本堂がある場所から下を観ると、別の池がある。こちらは、自然石の池ではなく、一般的な土掘りの様な池である。 その池の中を覗くと、ここにも鯉が泳いでいた。こちらの池は、水草などが生い茂り、水質が濁っているように見えた。それでも、鯉たちは元気そのもので生き生きと泳ぎ回っていた。・・・・次回は、大寧寺の詳細を紹介する。(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2012/08/02
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★☆ 紫陽花(アジサイ)の花は、日本の初夏のイメージ ★☆ Hydrangea(ハイドレインジア:英語)、Hortensie(ドイツ語)~ でんでんむしはいない最近のアジサイ ~ 子供のころから梅雨(つゆ)時には見慣れた花、紫陽花(アジサイ)、この花は、私の子供時代、紫陽花の花を見に行けば、必ずと言っていいほど、葉や花付近にビッグサイズのカタツムリ(でんでんむし)が何匹もいたものだった。それを捕まえては自分の手の平などに這(は)わせて遊んだものだった。しかし、最近では、紫陽花の花はあっても、カタツムリは見たことはなく、どこにもいないのだ。いつ頃から忽然(こつぜん)と消えたのだろうか? 梅雨の長雨のやんだ久しぶりのお天気の今朝、テクテクとウォーキングを兼ねて通りかかった道端付近で咲いていた紫陽花(アジサイ)の花を撮影しました。紫陽花は、日本原産とも言われていますが、英語でもドイツ語でも呼び名があるので、ヨーロッパにも存在する花のようです。 道端に咲いていた水色の紫陽花小川沿いに咲いていた水色とピンク色の紫陽花のカップル地域の子供会組織で育てられている白い紫陽花御近所の庭に咲いていた紫陽花これも同じく民家の道路沿いの畑に咲く紫陽花これも民家の庭に咲く純白の紫陽花綺麗で鮮やかな色の可愛らしい花が元気に咲いていました。(Thanks) !!↓(ありがとう)^^)/~~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2012/07/08
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★☆ ウォーキングの途上で発見、食べてみると・・・甘かった! ★☆ 一般的なイチゴとは違う野生に存在する種類のイチゴ~ 学名「草イチゴ」Rubus hirsutusキイチゴ属バラ科 ~ ウォーキングの途上で国道沿いの山側ののり面に育っている「野イチゴ(草イチゴ)」の群生を発見しました。1個だけ食してみると、甘い味覚で美味しかったです。 小学生の頃、山好きな伯父に連れられて山を歩くことがありました。柏餅(かしわもち)の柏(かしわ)の葉を採取に行くこともありましたが、山の中で偶然に野生に育つ「野イチゴ」の群生を見つけ、その存在を初めて知り、一緒に食べた思い出がありました。その時に「野イチゴ」とはこんな物だというのを学びました。 直径は、平均で2cm程度の大きさです。触ると、柔らかくてフワッとした感じで、つまめば簡単に果肉が取れます。 一粒、一粒に果汁が満たされています。一般的なイチゴとは形も果実の内容も異なるものです。野イチゴの中には、見た目は一般的なイチゴに近い「ヘビイチゴ」もありますが、こちらは食べることができないので注意が必要です。 日本では古代から室町時代ごろまでは栽培されていたが、その系統は途絶えているそうです。現在の日本では欧米のラズベリーやブラックベリーが小規模に栽培されているのみです。 「草イチゴ」は、キイチゴ属バラ科の植物ですが、その葉を見ると、まさにバラの葉に似ています。 この実が綺麗だったので、食べる前に撮影! これが、自然に育った「草イチゴ」の群生の一部です。 野イチゴの付近で見かけた花いっぱいのツツジです。 あまりに綺麗だったので、眺めていました。(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2012/06/08
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★☆ 散歩の途中で見かけた懐かしい風景 ★☆ ~ あー!まだ、こういうのあるんだー! ~ 健康のために続けているウォーキングの途中で見かけた、「映画館の看板のある風景」に遭遇しました!映画館が人気があった子供の頃には、どこの街角でも見かけることができた風景でした。小中学校時代の通学途中で思わず立ち止り、「この映画面白そうだなぁー、観に行こう!」などと友だちと会話することもありましたね。 ・・・しかし、最近ではこんな看板のある風景はほとんどなくなってしまいました。それで、珍しいのと懐かしく感じたので、撮影しました。 この最新映画情報の看板を見て・・・何か物足りないと思ったのが・・・「何故?ないの!上映する映画館の名前・・”〇〇映画館”という肝心なものが欠けている!」・・と思いました。それがあれば、もっと宣伝効果があり、さらに、電話番号やHPのアドレスも入れておけば、さらにその効果が増すだろうと思いました。この中で最近観たのは・・・「BATTLE SHIP」です。この映画評はまぁまぁ・・可もなく不可もなくでした。娯楽性ではまずまずの出来栄えでした。 REALISTは、仕事がお休みの日の朝は、普段のコンピュータ漬けの生活から解放され運動不足を解消するためにも、自宅周辺のアップダウンのある4km前後の道のウォーキングを続けています。その効果があってか・・春の会社の定期健康診断では、昨年の様な「要精密検査」の指摘もなく健康を維持しています。コレストロールも脂肪も尿酸値も血圧も標準値をパスすることができました。また、食事療法も効果があったと思います。朝はパン食で、会社でのお昼はオレンジなどのフルーツ寒天ゼリー(0kcal、90円)とカロリーオフのフルーツジュース(500ml入り、14kcal、90円)でお腹を満たすだけですが、空腹感もなく、・・・その代わり晩御飯は栄養のバランスも良く腹八分目に食べる・・・そうして、1か月で2kg以上も体重が減少しました。ここから、肝心なのがリバウンドしないように続けることです。やはり、健康が一番ですね。不健康だと病院の世話になり、高い治療費や薬代が必要になるからです。 この作品は見ていませんが・・・「Marilyn Monroe(マリリン モンロー)」・・これも、懐かしい響きの名前のアメリカの女優だった人。子供の頃に映画好きな父に連れられて観た映画の中の「アメリカのセックスシンボル」とも呼ばれた女性・・・子供の目にもとても魅力的に見えました。19歳で早くもハリウッド入りし、華々しい女優の道を進みますが、わずか36歳で突然の孤独死を迎えます。それまで、結婚・離婚を繰り返し、大リーグのジョー・ディマジオ選手とも再婚、そして日本にも訪れます。間もなくまた離婚、そして、暗殺された有名なジョン・F・ケネディ大統領とも不倫関係にあったそうです。20年以上前に彼女の波乱万丈な人生を描いた「マリリン・モンローの生涯」という岩波新書の本を読んだ記憶もよみがえりました。 Marilyn Monroe & Frank Sinatra YOUTUBEで見かけたモンローの動画、・・・当時、モンローと仲が良かった男優・歌手のフランク・シナトラがバックで歌っています。(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2012/05/31
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★☆ 桜満開の風景を眺めるだけで癒されるのは何故? ★☆ Cherry Blossom in Yamaguchi-city Japan~ 今年のサクラは、これが見納めでした。 ~ 桜の花が満開だったほんの1週間前、山口市内にある室町時代(1442年)に戦国武将大内盛見氏が建立したと伝わる『国宝 瑠璃光寺・五重塔』を訪ねてみました。残念ながら、北朝鮮の「人工衛星と称する大陸間弾道弾ミサイル」の発射騒動があり、ブログに掲載するタイミングを失いましたが、せっかく撮影していたので掲載することにしました。 山口市内にある川沿いの桜の木々が一面に満開の桜の花で輝いていました。 近づいて花びらを観察すると、純白というよりも少しピンク系のある色の5枚の花びらが輝いて見えました。思わず新鮮な気持ちになります。 「国宝 瑠璃光寺(るりこうじ)五重塔」を訪れたところ、施設駐車場は観光バスや家族連れの乗用車で満杯状態、どこもかしこも人、人、人でした。写真の被写体に人がいない瞬間を狙って撮影を試みましたが、残念!駆け回る元気な子供の足が映ってしまいました。空を見上げると、ジェット機が飛んでいる様で白い線模様がまっすぐに伸びていました。 鏡のように周囲の景色を写す池の奥には五重塔が見えます。この種の五重塔は全国に40基もあるそうですが、この五重塔の特徴は、屋根に桧皮葺(ひわだぶき)といって、ヒノキの皮で葺(ふ)かれていることだどうです。また、この塔は、この地の領主大内義弘が「応永の乱(1399年)」の戦で命を落としたので、その霊を弔うために、義弘の弟にあたる大内盛見が今から約570年ほど前に建てたそうで、中には、義弘の位牌とブロンズ像が納められているそうです。この位置から、人のいない状況での撮影は不可能でした。それにしてもお年寄りや周囲で遊ぶ子供たちの風景を観ると・・どこか昭和のREALISTの子供時代にタイムスリップした様な懐かしさを感じました。 被写体に人物が入らないように、池の手前まで出て苦心惨憺で無人の状態の撮影に成功したのがこの写真、570年前の世界はこんな感じだったのですかね?大内氏は、鎌倉時代から鎌倉幕府御家人の六波羅探題に任命され、室町・南北朝時代まで活躍した武将で、応永の乱(1399年)、応仁の乱(1467年)で活躍し、最大勢力時には、本拠のあった周防(すおう)・長門(ながと)の国(現山口県)ばかりか、北部九州から中国地方一帯、現在の大阪、京都辺りまでのその領土を拡大し、その勢力を誇りました。海外でも日明貿易・朝鮮との交易をほぼ独占していたそうです。大内氏は、山口に京文化を取り入れ、京都の町並みを模して碁盤の目の様な区画整理をしていたそうです。それで、ここが「西の京」と呼ばれた由縁のようです。また、大内義隆の時代には、ここを訪れたスペインの宣教師フランシスコ・ザビエルに布教の許可を与え、日本で最初の教会が存在した地だそうです。 五重塔のある一帯は「香山(こうざん)公園」とも呼ばれていますが、この中や周囲には桜の木が咲いています。二人のアベックが桜の木を観ている風景も良いものです。二人の中でどんな会話がささやかれているのでしょうか?REALISTも撮影しつつ、同様な若いころの胸キュンのころをついつい思い出してしまいました。こういうのを、「ロマンチシズム」と言っていいのでしょうか?さくら by ケツメイシ もう懐かしい曲になったケツメイシの”サクラ” 右側の銅像は、山水水墨画の天才「雪舟」です。彼は、備中(びっちゅう)の国(現岡山県)に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護(ひご)のもと周防(すおう)に移り住んでいました。「雪舟」と言えば、幼いころに悪さをして柱に縛られ、落とした涙で足の指を使って床にネズミの絵を描いた、その絵がまるで生きていた様であったという逸話で有名な人物ですが・・・彼の現在の画家のアトリエに当たる庵(いおり)が五重塔の裏の丘の上に存在していたという言い伝えがあります。彼は、その後、遣明船に同乗して中国(明)に渡り、中国の画法を学んでいます。 花の重みで枝が垂(た)れているようでした。 「香山公園」内には、こんな赤色の桜も咲いていました。桜でも種類が違うようですが、木の枝の生え方や形状に特徴がありました。 「香山公園」ないにある「大内弘世(ひろよ)(1325~1380)」の銅像です。彼は、南北朝時代の武将、守護大名であり、大内氏の本拠地を山口に移転し、京都を模した区画都市整備を始め、大内文化の基礎を築いた人物だそうです。 公園の中を歩くと・・・古い石灯篭(いしどうろう)が並んでいました。カエルの様な?狛(こま)犬の様な?生物が描かれています。 手を清めるための石製のカメがあり、矢印で「ウグイス張りの石畳(いしだたみ)と標示板があります。 これが、その石畳で、この上で拍手したり、足音をたてると反響してウグイスが鳴く様な音になるそうです。・・・確かに・・音が響きました。ここに来た少年たち一行も音を鳴らして楽しんでいました。この階段の上は、毛利家代々の墓が鎮座しています。 桜の花の塊(かたまり)が見事に「これでもか!」と言わんばかりに元気に咲いていました。(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2012/04/19
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