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★☆第2次大戦後期におけるドイツ軍歩兵部隊の戦車乗車シーンを再現!★☆ It reproduces the tank ride scene of the German military infantryman corps about the latter period of World War II! ~戦車と歩兵のコラボシーンのPANZER RIDERS~ 第2次大戦中に活躍した戦車(PANZER)という兵器は、そのヨーロッパでの大戦初期(1939年9月)から終戦(1945年4月)までのわずか5年余りで急速な進歩を遂げました。ドイツ軍で言えば、初期の貧弱な最大装甲13mm、機銃のみ搭載、重量4.5tの小さなⅠ号戦車から最大装甲180mm、長砲身88mm砲搭載、重量70t余りのタイガーⅡ型(キングタイガー)に至るまでもの凄い進歩と変化がありました。 戦闘方法にも変化があり、そんな強力な戦車と言えども、車内から外部への視界が極めて限定され死角だらけのため、戦車のみでは、偽装して隠れた歩兵部隊からの対戦車兵器を使用した近接攻撃でいとも簡単に破壊されることから、そのような敵歩兵部隊をいち早く発見・排除する必要性及び歩兵の効果的な攻撃力を高めるためにも、強力な破壊力を持つ戦車との共同作戦のためのコラボが生まれたわけです。 では、既にご紹介した4体のドイツ歩兵による戦車とのコラボを再現します。 4体のドイツ歩兵を下のDRAGON社のbox art(箱絵)を参考に配置してみました。箱絵でもドイツ軍のパンサー戦車だったので、以前作成した大戦後期の基本塗装色だったダークイエローのパンサー戦車を使用しました。これが、まさに箱絵にあるように、1944年のドイツ国境に近いフランスのロレーヌ地方で英米連合軍と激戦となった当時の記録写真にあるシーンと言って良いでしょう。英米仏加連合軍が1944年6月6日にフランス北西部のノルマンディー上陸作戦を敢行した西部戦線では既に制空権を失っており、ドイツ軍の必死の抵抗にもかかわらず、8月23日にはパリ市を放棄、撤退します。9月1日には東部戦線では、ソ連軍の大軍がドイツ軍の防衛ラインを破りドナウ川に到達しました。まさに、このシーンはこの間の出来事だと言ってよいでしょう。 DRAGON社のbox art 大戦初期の統一された軍服にピカピカのブーツ姿で連戦連勝を誇り世界に冠たるドイツ軍だったはずが、繰り返す戦闘で最前線では次第に将兵の消耗が進み補充にも持ちこたえられなくなり、大戦末期には、各部隊の生き残り兵で再編成された新たな部隊となるわけで、ベテランの古参兵と子供の様な新兵との組み合わせで服装や手に持つ武器も新旧の組み合わせとなるケースが多かったようです。 この兵士達は、みんな視線が同一方向で、何か注目すべきものがその先にあったのだろうと思います。そんなこともいろいろ想像するとさらに他の新たなシーンに発展させることもできるでしょう。 ★☆[ドイツ軍歌] ローレ (森林官の娘) ★☆森林を管理する森林官の娘「ローレ」に恋い焦がれる若い兵士の思いを歌った歌です。 これは、「G43セミオートマチックライフルを手に持つ歩兵」1体を後方に移動させてみました。こんな風にいろいろと想像を膨らませて組み合わせアレンジに変化をもたせるのも面白いと思います。 戦場のワンシーンですが、緊張感があるものの少しのんびりとした様子もうかがわれますので、前線に向かう途中に何か興味をひく物を見かけて、それを眺めているということでしょう。 様々な角度から撮影すると、また違った雰囲気になるのが、こうしたコラボの魅力でもあります。プラモデルは作成して、それで終わりではなく、その作品を通してその時代背景や歴史考証にまで触れることで、より一層の興味が湧き、それまでの未知だった領域の新しい歴史的な事実にも行き当たることができます。 ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2018/10/21
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★☆企業の中間管理職同様に忙しい小隊指揮官★☆ The German second lieutenant which survived in many battles ~戦車と歩兵のコラボシーンのPANZER RIDERS~ 前回ご紹介したDRAGON社の「PANZER RIDERS(LORRAINE 1944)」(35分の1スケール)を作成中のドイツ陸軍兵士の最後の4体目が完成しましたのでご紹介したいと思います。 小隊指揮官(少尉)は、一般企業では中間管理職的立場です。上官(上司)からの命令を受け、任務を遂行するために身を粉にして、確実に部下を指導・指揮しなければいけません。とても重い責任を負う存在です。上官に厳しい叱咤を受け、部下たちを上手に管理していかなければなりません。時には、一部の部下から不満や反発を受けることもあり、それをいかにして統率し部隊を一枚岩にしていくかということで、常に悩み葛藤していくわけです。絶えず生死の狭間にさらされる最前線では、我々の想像以上に苦しみの多いことだと思います。それでも、心を鬼にして、短時間で的確な指揮をとらなければならないのは、その指揮官の判断一つで部隊が全滅するか勝利するかが決まってしまうからです。 では、4体目の作品をご紹介します。 一見しただけで、このドイツ陸軍兵士は、最前線で戦ってきた歴戦の野戦軍指揮官のようです。まさに、あの映画「Cross of Iron(鉄十字章)」~邦題「戦争のはらわた」の主演俳優ジェームズ・コバーンが演じたシュタイナー伍長の様な雰囲気があります。ヘルメットは,戦場で失ったのか、1943年型野戦規格帽をかぶり、左膝の上に乗せ手に持つのは、下士官以上に支給された「MP40(マシーネン・ピストーレ40・短機関銃)」です。ここでも、自然な感じに、銃の革製スリングベルトを再現しました。 組み立て及び塗色参考図 胸元には、北アフリカ戦以来使い続けたサンドイエローに塗装されたカールツァイス製の6×30倍の双眼鏡、ゴム製のレンズ蓋が装着されています。また、左右の腰ベルトにはやはりサンドイエローのMP40用の弾倉マガジンケースも装着しています。少し疲れくつろいだ表情に見えますが、それでも、常時戦闘可能な緊張感を感じることができます。 当時の記録写真には、こんな風景を見かけることが多いのですが、戦争映画のワンシーンの様でもあり、3cm余りの小さなプラモデルフィギュアに過ぎないのですが、写真で見ると、この兵士に声をかけたら直ぐにでも返答してくれそうな気持ちにもなれます。初戦の対フランス戦、北アフリカ戦、イタリア戦を経て、ドイツ国境に近いフランス国内のロレーヌ地方での戦闘にと転戦してきたという戦歴を感じる威厳のようなものも感じてきます。次回は、これまでの4体をすべて戦車に乗せて、本来の「戦車と歩兵のコラボシーンのPANZER RIDERS」としてご紹介します。 ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2018/10/20
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★☆第二次大戦後半にドイツ軍が戦線に投入したセミオート銃G43★☆ The German military soldier who has by having G43 rifle in the hand ~戦車と歩兵のコラボシーンのPANZER RIDERS~ 前回ご紹介したDRAGON社の「PANZER RIDERS(LORRAINE 1944)」(35分の1スケール)を作成中のドイツ陸軍兵士の4体のうちの3体目が完成しましたのでご紹介したいと思います。 第2次大戦初期のドイツ陸軍では、早い段階から下士官クラス以上に「MP40(マシーネン・ピストーレ40・短機関銃)」が支給されましたが、その一方で、通常の一般歩兵には、標準小銃としてボルト・アクション・ライフルの「Kar98k(カラビナー98クルツ)」が支給されていました。この銃は、単発で発射するたびに1発ずつ装填する必要があり、連発射撃ができないものでした。歩兵銃のセミオート化が急がれたものの実現が遅れ、大戦後半になってようやく開発されたのが、10発入りの着脱式ボックスマガジンを付属したセミオートライフルの「G43(Walther Gewehr)・ゲヴェーア43」でした。 では、3体目の作品をご紹介します。 この兵士のヘルメットは、迷彩ヘルメットカバーではなく、ヘルメットに直接迷彩塗装したものです。大戦後期には、様々な前線部隊の生き残り兵士を再編成した部隊が生まれました。兵士の消耗により、いわゆる寄せ集め部隊となっていくわけです。手に持つG43小銃ライフルは、黒い10発入りマガジンボックスが装着されています。 組み立て及び塗色参考図 この兵士を見ると、少し緊張感があるようです。これから向かう戦場のことでしょうか?何か不安で頭がいっぱいな若い兵士の雰囲気が感じられます。 写真で見ると、大きく見えますが、高さ3cm余りに過ぎません。組み立ても神経使いますが、一つ一つの塗装も細かい作業になります。それでも、少しずつ完成に近づくのが楽しいので苦にはなりませんでした。 この兵士を見ると、こんなイメージがわいてきました。・・・彼は、兵士になる前は、ホテルマンとして働いていた真面目で実直誠実な青年でした。今やかつてのドイツ勝利とのかけ声から、大攻勢で勢いを増したソ連軍、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア軍などのノルマンディー上陸により、東西から挟み撃ちとなり次第に劣勢となりつつあるドイツ軍ですが、若い青年兵士は、それでもドイツの勝利を確信していました。 次は最後の4体目をご紹介します。 ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2018/10/20
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★☆現代の迷彩戦闘服の原点となったドイツ軍の迷彩活用★☆ As for the starting point of the camouflage battle dress in today, the German army during World War II is the starting point. ~戦車と歩兵のコラボシーンのPANZER RIDERS~ さて、前回ご紹介したDRAGON社(香港製)の「PANZER RIDERS(LORRAINE 1944)」(35分の1スケール)を作成中のドイツ陸軍兵士の4体のうち1体は前回ご紹介しましたが、2体目についても完成しましたのでご紹介したいと思います。では、前回に続き、2体目の作品をご紹介します。 ヘルメットの迷彩は、当時の迷彩パターン図を参考にしました。フィールドグレイ、ダークイエロー、レッドブラウンの三色を使い、極細筆を使用して塗装しました。35分の1サイズなのでヘルメットも小さく、拡大鏡を使い手が揺れないように慎重に塗装しましたが、少しだけ苦心しました。 組み立て及び塗色参考図 表題に「迷彩カバー付きヘルメット」とありますので。その「ドイツ軍と迷彩」について、少し触れたいと思います。 資料によりますと、最初に迷彩装備を制式化したのは、1929年にイタリアが軍事用のテントに採用したのが始まりで、次いで、1932年からドイツ国防軍が陸軍兵士の個人装備品であるツエルト(携帯天幕兼雨着)に迷彩を採用しました。その目的は、宿営時に上空を含めた遠方からの視認性を低下させるカモフラージュ効果を狙ったものでした。その後、第2次大戦に突入、ドイツ陸軍では、当初は、一律にフィールドグレイ色の野戦制服にお決まりの黒ブーツ姿で戦場へと向かいましたが、特に東部戦線では、次第に広大なロシア平原や森林地帯、山野、渓谷での戦場が多くを占めるに至り、戦場の各陸軍師団関係者からは、活動しやすい、季節ごとに周囲の自然に溶け込む迷彩柄を効果的に使用した制服の上に着用する防寒スモック(ウインドブレーカー)や迷彩ヘルメットカバーなどの要求が高まりました。 最初は、武装親衛隊(SS)各師団に優先的に支給されましたが、1942年頃から、迷彩ヘルメットカバーと3型迷彩スモックが国防軍にも師団単位で支給されました。迷彩が採用された理由は、第1次世界大戦以前までの陸軍歩兵の戦闘形態とは大きく異なり、火力の増大でカモフラージュ効果でいかに敵側に自軍の存在を察知されにくく、被害を最小限に、戦闘に少しでも多くの有利性を確保することにありました。大戦中、どの国よりも積極的で効果的に迷彩を使用したのはドイツ陸軍であり、大戦後の今では、現行の陸上自衛隊をはじめ、世界中のほとんどの陸軍で採用されています。 「迷彩柄のあるヘルメット」をかぶり、山岳ブーツ仕様の革製編み上げ靴にフィールドグレー色のキャンバス製レギンスを装着したスタイルの兵士が戦車の上に座っています。この姿を見ただけで、1944年以降のドイツ陸軍兵士だろうと推測できます。 この兵士は、遠くを見ながら戦地に向かっていますが、いったい何を思っていたのか?本国にいる両親や家族のことか?恋人のことか?それともこれから向かう戦場への不安なのか?あと残り2体も作成後に引き続きご紹介します。 ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2018/10/14
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★☆大戦末期の記録写真に多いパンツァファウストの風景を再現!★☆ The terminal scenery of WWII The German military soldier who has by having anti-tank arms in the hand ~戦車と歩兵のコラボシーンのPANZER RIDERS~ 第2次大戦中でのドイツ陸軍では、機動力と攻撃力のある戦車と柔軟な展開での偵察能力や攻撃可能な歩兵は、両者がそろってこそ最大の効果を生み出すということで、特に市街戦などにおいては歩兵は戦車にとっては必要不可欠な存在でした。どちらが欠けても格段に弱いものとなります。 最近のプラモデル、特に外国製のものには、様々な戦車上の乗車シーンなどを演出する歩兵や戦車兵キットが出現していますが、長い間、本棚の上に眠っていたプラモデルの一つにDRAGON社(香港製)の「PANZER RIDERS(LORRAINE 1944)」(35分の1スケール)があり、これが、記録写真でよく見かける典型的な大戦末期のドイツ陸軍の風景にも合いピッタシだなと感じたので作成することにしました。キットの表題にある「LORRAINE」とは、フランス北東部にあるドイツ国境に近いロレーヌ地方のことで、1944年、ここであった英米カナダ連合軍との激戦当時の様子のことを指すのだろうと思います。このキットは、4体のドイツ歩兵から構成されていますが、完成後に一体ずつを順次ご紹介したいと思います。まず、最初の一体は、「パンツァファウスト(対戦車防御兵器)を手に持つドイツ兵士」です。 右手に「パンツァファウスト」、左手に「Kar98k小銃」を持つ大戦末期のドイツ陸軍兵士の様子です。大戦初期に見られた黒いピカピカのブーツスタイルとは異なり、大戦末期では、山岳ブーツ仕様の革製編み上げ靴にフィールドグレー色のキャンバス製レギンスを装着しています。物資不足もあるのでしょうが、よく考えれば「山野などのオフロードで長いブーツスタイルが果たして、歩きやすいのか?」と考えれば、山登りが好きなREALISTからすれば、「ブーツでは歩きにくい!、長時間は疲れる!とても使い物にならない!」と断定できます。それからすれば、当然に現在の登山スタイルである「登山靴にゲイターの組み合わせ」と似たスタイルがベストだと思いますし、陸上自衛隊、アメリカの海兵隊なども靴は登山靴とほぼ同様な構造の靴を使用しています。今回も小銃に付属する革製スリングベルトを自然な雰囲気で再現しました。 「パンツァファウスト(対戦車防御兵器)」は、成形炸薬弾頭を使用 する無反動砲とロケット技術を組み合わせた歩兵用の使い捨て対戦車 兵器で、1943年中頃に開発されました。東のソ連軍、西の英米カナダ 連合軍からの押し寄せる戦車の大軍を迎え撃つために歩兵が携行可能 で、命中すれば、ほとんどの戦車を破壊可能でした。写真は、ロシア 戦線でのパンツァファウストを構える迷彩服姿のドイツ陸軍兵士。 この「パンツァファウスト(対戦車防御兵器)」は、弾頭が大きいので、射程60mのものになります。この兵器は、戦後、ソ連軍の「RPG対戦車ロケット弾」やアメリカ軍の「携帯対戦車ロケット弾」を開発する基礎となったものです。威力はあるのですが、敵戦車に接近しての仕様はかなりの勇気を必要としました。発射時の噴射炎が凄いので、後方に誰もいない状態で使用しました。 組み立て及び塗色参考図 色々な角度から見ると、光線を受けた顔の陰影等に変化があり、何となくリアルなドイツ人兵士らしい雰囲気が感じられます。 以前作成したドイツ軍のパンサー戦車とのコラボはバッチリでした。たった1体なので、淋しい風景ですが、4体が完成後は、改めて4体とのコラボを組み合わせた状態でご紹介しまたいと思います。 ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2018/10/10
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★☆1943年ロシア戦線での「メッサーシュミットBf109 G-4・R6」の再現★☆ MESSERSCHMITT Bf109 G-4/R6 Erich Hartmann The war plane which the super ace loves ~前人未踏の352機撃墜の記録を成し遂げたスーパーエースの愛機~ 数年ぶりの戦闘機作成、何か懐かしいものを感じるこのごろ。さて、作成したプラモデルに関しての話題をひとつ。第2次大戦中のドイツ空軍には桁外れのスーパーエースが存在しました。その中でも、個人で300機以上の敵機を格闘戦で撃墜した強者のパイロットが二人いて、そのトップは、352機を撃墜したエーリッヒ・ハルトマン(Erich Hartmann)大尉、次いで、301機撃墜のゲールハルト・バルクホルン(Gerhard Barkhorn)少佐でした。二人ともその戦績の大半は、東部戦線での圧倒的に数的優勢なソ連空軍機を相手にしたものでした。終戦後、部隊ごとアメリカ軍に投降したはずが、どういうわけかソ連軍の捕虜となり長い抑留生活を終え、1955年に釈放され帰国、それぞれに生き残り、当時の西ドイツ空軍に少佐として入営、ドイツ空軍の再建や指導に当たり、その後ハルトマンはわずか48歳の若さで退役、バルクホルンは、少将まで昇進し戦術攻撃航空団司令官を務めた後に退役しました。 人類史上第1位と第2位の二人のスーパーエースの 2ショット! 左がハルトマン、右がバルクホルンだ。 二人が同じ航空団に所属していた時期もあった。 1943年頃の撮影。 作成したプラモデルは、FineMolds製の「1:72Scale、メッサーシュミットBf109 G-4・R6」です。72分の1スケールなので、すべてが小さく、塗装などにかなり苦労しました。機体の大まかな塗装には、TAMIYA SPRAY-WORKのエアーブラシを使用しました。また、塗装色も特殊なものが多く、不足分を少し買い足しました。このモデルは、かなり以前に購入し、ずっと本棚の上で眠っていたものです。機体の塗装やデカールなどのマーキングに際しては、1943年5月、第52戦闘航空団第7中隊に所属していたハルトマン(当時少尉)が、ロシア戦での占領した旧ソ連領内のタマン空軍基地に在籍していたときに使用した愛機を再現することにしました。 ハルトマン使用のメッサーシュミット「 Bf109 G-4/R6」を再現しました。 ドイツ機は、パイロット個人の個性的な塗装がバラエティーにあります。 これは、その中の、ハルトマン固有の塗装・マーキング状態です。 これは、塗装やマーキングで参考にした図面です。 上からみた場合と横から見た場合では、デザインが異なるので、まるで違って見えます。 左側面の独特なマーキングですが、英数字や記号などのそれぞれに固有の意味があるそうです。ヒョウ柄の模様にも特徴があります。 「Bf109 G-4/R6」の諸元は、全幅9.924m、全長9.020、エンジンは、ダイムラーベンツDB 605Aで離昇出力1475ps/2800rpm、最大速度630km(高度6600m)、武装(機首上部→MG17 7.92mm機関銃×2、(プロペラ同軸)MG151/20→20ミリ機関砲×1、(ガンパック)MG151/20→20ミリ機関砲×2 ハルトマンは、148機を撃墜したところで、その功績 により、1943年10月29日付けで、「騎士鉄十字章」 を授与され、愛犬とともに撮影したもの。世界最高の 撃墜王は、1922年4月19日にシュツットガルトに生 まれ、高校卒業後の1940年に戦闘機パイロットを目 指し、東プロイセンの空軍訓練連隊に入隊しています。 終戦を迎えたときは、まだわずか23歳でした。とい うことは、入隊した18歳から23歳までの5年足らずの 実質4年間で352機を撃墜したことになります。 彼は、1993年9月20日に71歳で亡くなりました。 ハルトマンは、戦闘時は僚機と行動をともにしましたが、戦闘中にどういうわけか一度も僚機を失うことがなかったというのも奇跡的なことでした。このメッサーシュミットを見ると、旧日本軍の「飛燕(ひえん)戦闘機」にスマートなエンジン部が酷似しています。もしかすると、日独の間に戦闘機の技術的な支援交換があったのかもしれません。 ハルトマンは、そのあまりの強さから、ソ連軍から「黒い悪魔」として恐れられていました。数多くの戦闘に参加しながら、終戦時まで生き延びることができたというのも強運でした。 ハルトマン中尉は、敵機300機(正確には301機) を撃墜し、空軍基地に帰還した際、戦友達から花輪 を受け祝福され、軍報道部の取材班から写真撮影や 空軍報道担当将校からもインタビューを受け、シャ ンパンで祝杯をあげた。一介の中尉に過ぎないのに 第6航空艦隊司令官デスロッホ上級大将が直々に 出迎えをしている。 後方から見ても、ヒョウ柄模様は無く、直線的な模様だけになります。 ★☆Luftwaffe March(ドイツ空軍マーチ)★☆ 機体の部品は72分の1サイズなのでとても小さく、ピンセットが必要でした。しかし、完成すると、なかなかの出来映えに満足しました。作成で最も面倒な点は、機体の塗装でした。特に塗装する順番やデカールの正確な位置への貼付でした。1/72 メッサーシュミット Bf 109 G-6“ハルトマン1943”【75998】 ファインモールド楽天で購入 ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2018/10/07
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★☆自然な動きのドイツ・アフリカ軍団兵士にスパイスの味付け★☆ Die WAFFEN Des DEUTSCHEN AFRIKA- KORPS ~小火器のスリングベルト再現でリアル度が増す効果~ 久々のドイツ兵士フィギュアの作成です。1941年2月に北アフリカのトリポリ上陸から1943年5月の降伏まで、ロンメル元帥指揮下で英米連合軍と砂漠で死闘を繰り広げた「ドイツ・アフリカ軍団(DAK)」をイメージして作成しました。 この種のフィギュアは、これまでも作成していますが、今回は小火器に付属する革製のスリングベルトに注目しました。スリングベルトの自然なしなりなどを再現するだけで、リアル度が増すことが分かりました。これまでは、ほとんど重視せず、ただ適当に作成したものですが、革製スリングベルトの質感や自然な形状にこだわってみました。たったこれだけのことで、随分と違うことが実感できました。 作成に使用したのは、タミヤ製プラモデルの1970年代の傑作キット「MILITARY MINIATURES 1/35SCALE ドイツ歩兵セット(アフリカ・コーア)」ですが、古さもあり、最近のフィギュアキットに比べかなり粗さが目立つものでした。それでも、できるだけ修正を加え組み立てて彩色するうちに、それなりに動きのあるリアルなイメージに仕上がりました。 これは、まさに熱砂の高い位置から偵察部隊の分隊長クラス(軍曹・伍長)が、双眼鏡を手に敵情視察中のイメージシーンです。主に下士官クラス以上に貸与された「MP40(マシーネン・ピストーレ40・短機関銃)」を携行していますが、これに、自然な形状にフィットしたスリングベルトを付属するだけでぐっと雰囲気が変わりました。双眼鏡の首かけベルトも追加したものです。 写真は、実際の大戦当時のドイツ・アフリカ軍団「88ミリ高射砲部隊」の様子です。砂の上にひざまづいた部隊指揮官が敵情警戒視察をしています。背景に部分的に見える88ミリ砲は、連合軍側に比べ圧倒的に戦車・兵力・物資不足に悩まされたアフリカ軍団の中で、長射程で正確なアウトレンジからの攻撃により英米連合軍側の戦車部隊を何度も壊滅させるなどのめざましい活躍をしました。こういう記録写真からも当時の様子が伝わります。ドイツ軍ヘルメットは、当初はヨーロッパ戦線同様にフィールドグレイ色のものが使用されましたが、次第にダークイエロー色に変更塗装されました。 砂漠戦を駆けるドイツ軍兵士、手に持つ小火器は、当時の歩兵の標準小銃でボルト・アクション・ライフルの「Kar98k(カラビナー98クルツ)」ですが、これに付属する革製のスリングベルトを再現してみました。革製ベルトの質感を出し、体の動きとともに空気抵抗で揺れてしなる自然な動きを表現しました。 これは、前の写真の後方から撮影したもの、腰に付けた装備品の柄の長いものは、塹壕などを掘る際に使用する携帯型スコップと銃剣がセットされたもので、水筒やガスマスクケース、雑嚢などと同様に陸軍兵士の標準装備の一つでした。 こちらは、半ズボンスタイルのドイツ・アフリカ軍団兵士、ここでも携行する「Kar98kライフル銃」に自然にたるんだしなやかな革製スリングを付属表現してみました。ドイツ軍特有のブーツではなく、革製の編み上げ靴と厚手のハイソックスを使用していました。当時の半ズボンスタイルのイギリス兵も同様なハイソックスを使用していました。 右手に「Kar98kライフル銃」、左手に「MG34軽機関銃」の弾薬箱を持ち駆け足で進むドイツ兵士、ライフル銃に付属した革製スリングが動的なフィギュアにマッチするように表現してみました。たったこれだけで、十分にその雰囲気が伝わります。 「Kar98kライフル銃」を携行し先を急ぐドイツ兵士。走るたびに揺れる革製スリング。 この兵士は、長ズボンスタイルで「MG34軽機関銃」を携行しています。古いキットなので、MG34の形状に粗さがありました。ここは何となく雰囲気で・・・機関銃のスリングも長年の使用でへたっているのが伝わります。「Kar98kライフル銃」の重量が4kg程度なのに比べ、軽機関銃とはいえ12kg以上だったので、低姿勢で重そうに表現されています。 ★☆『 DAK:(Deutsches Afrikakorps) 』★☆ The German Afrikakorps 先ほどの2体を組み合わせて、MG34チームが戦場を駆け出します。こうしてみると、やはり自然なスリングの表現による効果は高く、それにより一層のリアルな表現を醸(かも)し出すことが分かりました。 これも前と同じもので、左後方からの撮影です。二人の砂を蹴る音や荒い息が聞こえそうなほどの雰囲気があります。 12kgの軽機関銃、4kgのライフルとMG34の500発入り金属製弾薬箱が7kgと、いずれにしても、熱砂での戦闘は重労働というか、とても過酷だったことは間違いないでしょう。・・・なーんて、プラモデルを眺めながら、色々と調べて未知の領域を知ることができたり、イメージがふくらみます。タミヤ 1/35 ドイツ アフリカ軍団歩兵セット Item No:35314価格:1037円(税込、送料別) (2018/10/7時点)楽天で購入 ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2018/10/06
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★☆ 連合軍を勝利に導いたアメリカ軍のウイルスジープ ★☆ 1/35 MILITARY MINIATURE SERIES NO.219 U.S.A.JEEP WILLYS MB ~ 現在の四輪駆動車の先駆けとなった軍用車両 ~ これまで存分にアウトドアを楽しんだRIALISTは、今年の暑い真夏は好きな登山もキッパリ避けました。暑さに弱く強い紫外線から皮膚を守るためです。これまでは、真夏でも関係なく出かけていたのですが、特に真夏明け後に体調不良や皮膚の劣化があることがわかり、今年からは夏は極力避けることにしました。その間、趣味の一つであるプラモデル作成も久しぶりに再開しました。 今回は、第2次大戦中に連合軍側で最も活躍したアメリカ軍の軍用車両であった「ウイルスジープ(JEEP WILLYS MB)」(TAMIYA製、35分の1スケール)を作成しました。では、作品をご紹介します。 これが、第2次大戦中のウイルスジープの典型的なスタイルで通常のマーキングや塗装の状態です。 ボンネットには、大きく「U.S.A.(アメリカ合衆国)」の文字があります。当時のアメリカ軍の軍用車両の塗色は、「オリーブドラブ色」でした。しかし、年代や製造工場によって、多少の変化があったそうで、資料によると、大戦初期は茶系の強いオリーブドラブ、大戦末期になるにつれ、緑系の強いオリーブドラブに変化したそうです。フロントウインドウには、電動ワイパーもありますね。このジープは、大戦初期には、北アフリカ方面、さらに、イタリアのシシリーから上陸、後期にはノルマンディー上陸作戦を経てフランスからのヨーロッパ各地の戦場ばかりか、対日本軍との激戦地各地でも活躍した車両です。日本の敗戦後に進駐したアメリカ軍やカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、イギリス軍も連絡用、占領後の治安用などに多数使用し、日本全国各所で走行していました。 後部には、スペアタイヤ、ジェリ缶(補助ガソリン)が設置されています。極めてシンプルなデザインですが頑丈さもしっかり備わっています。どんな悪路でも4×4(全輪駆動)で走行可能でした。山口県防府市内に学問の神「菅原道真」を祀った「防府天満宮」がありますが、終戦当時を知る古老の男性によると、この正面にある96段の石階段を市内をパトロール中の進駐軍のアメリカ軍MP(ミリタリーポリス=日本軍の憲兵と同様な軍隊の取り締まり部隊)がジープで最上段まで登坂して巡回していたそうですが、それを見て、「これは凄い!これでは日本軍は勝てない」と感じたそうです。REALISTもここを何度か訪れたことがありますが、石階段を眺めながら、「こんな段差のある急傾斜の石階段をよく登れたものだなあ!ジープのオフロード能力は凄い!」と思いました。そういう意味でも、現在のオフロード車の元祖と言っても良いのではないでしょうか。 終戦後、進駐軍が本国に引き揚げる際に残されたジープは、自衛隊の前身の「警察予備隊」にそのまま供給されました。このジープの優秀性が注目され、それを模倣したオフロード車が世界各国で生産されましたが、自衛隊に供給された三菱製ジープもその一つです。 終戦後、進駐軍が本国に引き揚げる際に残されたジープは、自衛隊の前身の「警察予備隊」にそのまま供給されました。このジープの優秀性が注目され、それを模倣したオフロード車が世界各国で生産されましたが、自衛隊に供給された三菱製ジープもその一つです。 これは、フロントウインドウを前に倒した状態で、当時の戦場写真や映画の戦闘シーンでは、しばしばこの状態で撮影されていることが多いですね。REALISTのジープに対するイメージは、どちらかというとこのスタイルが記憶に残っている場合が多いんです。 雨天の場合は、助手席下に収納された折りたたみ式のテント状屋根を装着できました。スコップや大きな斧(おの)も装備されており、今年訪れた九州最後の秘境の地にある宮崎県の「大崩山」や「傾山」のような、登山口まで普通の車では登山口まで辿り着けず、数km以上も続く未舗装で段差の激しい凸凹状の悪路では、こんなジープがあれば難なく行けるでしょう。 後方から見たシーンですが、ふらりとそのまま目の前の助手席に座ってしまいたくなります。とてもいい眺めです。 フロントウインドウには、ライフル銃らしきものが見えますが、これは、運転手専用の「M1カービン銃」です。こういうのを「常在戦場」と言い、常時油断すること無く、戦闘態勢にあるというのが、通常の一般車両と違うところです。この向きから眺めるのもいいですね。 軽量小型とは言えども、最近のペランペランの薄っぺらな現代車両とは異なり、車体部品の鉄板は厚く強度があり、それなりに頑丈に作られていました。この車を運転したいものです。このジープをリストアして個人的にコレクションして所有している人は日本や世界中にもかなりいるようです。以前、「ラットパトロール」という北アフリカでドイツ軍と戦う英米混成部隊の活躍を描いたアメリカのテレビドラマがありましたが、ここに登場するのも、このジープであり、砂漠を自由に走る運動能力を見れば、その魅力が分かるでしょう。 車体の底部を見たところですが、かなりリアルに再現されています。さすがタミヤ!実物をくまなく採寸実査してプラモデル化しているからです。 エンジンルーム内の様子も実車同様に再現されています。 ★☆ウイルスジープ開発の経緯★☆ この車両が開発された理由は、まだアメリカが参戦する前の1940年5月、ヨーロッパや北アフリカを席巻したナチス・ドイツ軍が、特に電撃戦を得意とする中で、連絡や偵察用車両として効果的に多数使用したキューベルワーゲンの存在がわかり、連合軍を支援していた自動車王国のアメリカ側に同様の軍用小型車の開発研究が連合国側から要求されたからでした。 その要求内容は、まずは、全輪駆動(4×4)でオフロードでの運動性能が良く、火器搭載、トレーラー牽引その他多くの用途に耐えるような頑丈な構造であること、全備重量も900kg程度の軽いものであること、大量生産に適したデザインであることが目標で、全米135の自動車メーカーに大至急試作車製造が要請され、これにわずか49日でバンタム社が試作車を提示したわけですが、小規模メーカーで生産能力に限界があることから、ウイルス、フォード社も加えた3社体制で試作、改良を競った結果、遂に翌1941年11月には基本形が完成、その後、1945年8月までに64万台が生産されるに至ったわけです。その間、連合国側のイギリス、カナダ、オーストラリア、ソ連軍などにも供給されました。 1/35 ミリタリーミニチュアシリーズ No.219 U.S. ジープ・ウイリスMB プラモデル[タミヤ]《取り寄せ※暫定》価格:1206円(税込、送料別) (2018/9/30時点)楽天で購入 ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2018/09/30
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★☆ 『 SURVIVORS,PANZER CREW (KURSK 1943) 』 ★☆ Reproduction ! Survivors, Panzer Crew !~ 戦車戦の真っただ中の生き残りをかける戦い ~ 今回作成したミリタリー・フィギュア・プラスチックモデルは、前回の記事でご紹介した第2次大戦中の独ソ両軍の戦い『クルクスの大戦車戦(1943年)』において戦闘中、被弾炎上する戦車から運よく脱出したドイツ軍戦車兵たちの戦場の真っただ中で生き残るためのサバイバルな戦闘シーンを再現したドラゴン(DRAGON)社の35分の1スケールモデルの自作品です。 戦闘で奮戦むなしく被弾、エンジン部分から出火し黒煙を吐きながら赤く燃え盛る戦車、史上最大の「クルスク大戦車戦」では独ソ両軍のこうした破壊された戦車が大平原のあちらこちらに見えたことでしょう。そして、被弾しても運よく助かった戦車兵たちの運命は、・・・それは生き残りのための決死のサバイバルでした。 アメリカ映画「バルジ大作戦(1965年)」のカットシーン、作品中で若いドイツ戦車兵達がへスラー戦車隊指揮官に対し自らの戦意を示すためドイツ軍歌「パンツァー・リート」を大合唱する世界的に有名なシーンです。★☆『 Panzerlied ! with subtitles Battle of the Bulge 』★☆Box Art(By Dragon)(『 SURVIVORS,PANZER CREW (KURSK 1943) 』)★☆『German Wehrmacht during the Battle of Kursk 』★☆ Box Art(箱絵)と見比べていかがでしょうか?この製品は、なかなか箱絵に忠実な製品だと思いました。プラモデルを作成する者にとって、箱絵のイメージというものは結構重要です。 プラモデルでも、こんな感じでリアルな戦闘場面を再現して写真で観察すると、その動きある表現や顔の表情から戦場の緊迫感や緊張感が伝わってきます。 このシーンを観ると、このドイツ軍4号戦車H型は、エンジン部分のある機関部の側面にソ連軍戦車T34の直撃弾を食らったため、幸いにも乗員5名のうち4名が生存して脱出に成功、戦車はその後、燃料に引火し黒煙を上げながら赤く燃えています。弾薬は全弾を打ちつくし、誘爆のおそれはないようですが、「落ち武者狩り」ならぬソ連軍歩兵部隊の「戦車兵狩り」が迫っているようです。 戦車から外へ出た戦車兵は、鎧(よろい)のない武士の様なもので、この様な事態に備え、自衛のための武器として、各人にワルサーけん銃や手りゅう弾が支給されており、MP40シュマイザーも1丁が備えられていたようです。それ以外の不足分は、倒した敵から調達することが多かったようです。負傷した兵士が左手に持つソ連製のバラライカ(PPSh-41サブマシンガン)は、71発の装弾数があり、手入れが簡単で優秀だったため、東部戦線では多くのドイツ兵がこの銃を再利用していました。左端のMP40シュマイザーを構える戦車兵は32発を装弾できる予備弾装2本を腰のベルトに差しています。・・・負傷して座り込んでいる兵士に、右手で支える兵士は「早く国に帰ろうぜ!・・・友軍陣地まであと少しだ!頑張れ!」と声をかけているようです。 これは、角度を変えて撮影したものですが、戦争映画のシーンをイメージできるようなものに仕上がりました。ここでの緊迫した二人の会話を想定してみると・・・右側のシュタイナー少尉が「おい、クルーガー軍曹!敵の歩兵部隊が迫ってくるぞ!はやくお前たちはここを友軍方向へ逃げろ!俺がしばらく囮(オトリ)になって援護(えんご)する!任せろ!」・・・左側のクルーガー軍曹・・「少尉殿!それは無茶です!私たちと一緒に撤退しましょう!」・・・なんて感じでしょうか? ドイツ軍には、旧日本軍の様な「玉砕」という考え方はなかったようで、優秀なロンメルをはじめとするドイツ軍司令官の多くは、兵士の損耗率を可能な限り少なくする「勇気ある撤退」の方に賭ける場合が多く、そういう部隊を再編成して新たな部隊を作り、次の作戦に投入するという手法が一般的でした。しかし、例外もあり、玉砕とまではいかずとも、ヒトラーの「徹底抗戦で最後まで死守せよ!」という命令で多くの兵士を失った作戦では、『スターリングラードの戦い(1942年)』がありました。 敵部隊の放つ銃弾が周囲の空気を突き破り、ヒュンヒュンと飛んできます。また、あちらでもこちらでも戦車同士が激しく砲口をうならせてズーン!と言う様な轟音(ごうおん)や着弾した爆発音を響かせています。 撮影の向きでいろいろと表情が変わっていくのもとても面白いと感じました。なるほど、映画の撮影シーンでは、カメラワークの重要性が非常に高いということがよく理解できます。 このシーンでは、その表情から・・もう目前に敵が迫る危機感を感じてしまいます。まさに、これがサバイバル! ドイツ軍の戦車兵を中心とする装甲部隊では黒色と銀ボタンを基調とする専用の制服が支給されました。それは、鍛え抜かれたエリートの象徴でした。大規模戦車戦を想定した戦術訓練、戦闘陣形、無線通話による部隊連携訓練、防御隊形、航空機からの目を逃れるための自然の草や木を使用した偽装訓練、偽装迷彩塗装方法、射撃訓練でも停止間、行進間での距離と射撃角度での命中精度のシミュレーション等々・・実際の演習のほか、戦車のハード面の機械工学、無線工学、運動力学、物理学等の分野までの座学も必修でした。ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2011/03/09
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★☆ 襲いかかる敵歩兵部隊の大群を迎え撃つMG42重機関銃チーム ★☆ Reproduction!!GERMAN- MG42- HEAVY- MACHINE- GUN- TEAM~ 指揮官、射手、弾薬手、測距手の的確な連携で敵を殲(せん)滅 ~ 今回作成したミリタリー・フィギュア・プラスチックモデルは、第2次世界大戦中に活躍したドイツ軍の誇るMG42重機関銃部隊の戦闘場面を再現したドラゴン(DRAGON)社の35分の1スケールモデルの製品です。The military figure plastic model made this time is a product of 1/35 scale model of DRAGON company that reproduces the combat scene of the MG42 heavy machine gun force of which a German army active in World War II boasts. 重要な拠点の守備を任された重機関銃チームを想定しました。双眼鏡を片手に指揮官(ハウサー上級軍曹)が指を差しながら大声で射手(ハンス伍長)に向かって指示しています。「ハンス!指示するまで待て!十分ひきつけて撃つのだ!右方向からも中隊規模の歩兵部隊がこちらに向かっている、まず、正面を機銃掃射、それをかたづけて、右手もかたづけよう!」、ハンス伍長は、「了解!精密射撃であっという間にかたづけてしまいますよ!マックス!給弾をよろしくたのむぜ!」、弾薬手(マックス)は、「大丈夫です!まかせてください!」・・測距手も1m測距儀(EmR1m)を持ち、迫る敵の距離を計測しています。・・・まさに戦場での緊迫感あるチームワークです。Box Art (GERMAN MG42 HEAVY MACHINE GUN TEAM) Box Art(箱絵)と見比べていかがでしょうか?この製品は、なかなか箱絵に忠実な製品だと思いました。プラモデルを作成する者にとって、箱絵のイメージというものは結構重要です。Do it compare to Box Art and how?I thought that this product was a product quite faithful to Box Art. The image of Box Art is considerably important for the person who makes the plastic model. ★☆ 『 MG 42 』関連動画 ★☆ The MG42 heavy machine gun team of SS that moves the commander to the head to run in the front (Take a picture in Russia in 1943). 最前線で指揮官を先頭に駆け足で移動するSSのMG42重機関銃チーム(ロシアにて1943年撮影)。通常は、指揮官、射手、弾薬手の3名で構成され、弾薬手の一人が重機関銃用三脚架(ラフェッテ42)を携行しますが、この写真では、MG42機関銃を三脚架に装着したままの状態を4名で移動しています。おそらく、敵が間近に迫り、突発的な戦闘に即応可能としているためでしょう。 この写真の様に、実際でも弾薬手は機銃弾がスムーズに薬室に入る様に手で弾薬を弾薬箱から給弾する必要がありました。左ひじを地面に当てての作業ですが、長時間に及ぶとかなり苦痛になることでしょう。それでも生死をかけた戦闘であれば、そんな悠長なことは言ってられませんね。 左後方から見た状況ですが、重機関銃用三脚架(ラフェッテ42)やMG42重機関銃に装着された望遠照準鏡の状態がよくわかります。 この写真を見て気付かれた方はいるでしょうか?兵士のブーツや靴の底面の状態ですが、ドイツ兵の軍靴の多くは、冬の凍結路等での滑り止め防止用として、スパイクタイヤの様に底面に鉄鋲(びょう)が打たれていました。 後方から見ると、黒色革製の装備用サスペンダー、携帯スコップ、雑納入れ、ガスマスクケース、水筒、飯盒(はんごう)の装着状況がよくわかります。ドイツ軍の飯盒ですが、アルミ製であり旧日本軍の飯盒とほとんど同一の形状です。これは、日本でも民生用の登山やキャンプでも使う"飯盒"をドイツ製品を登山愛好家などが早くから採用して普及していたからだろうかと素朴に感じました。「ストック」とか「ツェルト」、「ハーケン」、「ピッケル」、「アイゼン」、「シュラフ」、「ヒュッテ」など、登山関係の装備品などのほとんどの名称がドイツ語を使用していることからもうなづける事実でしょう。 測距手が手に持つこのステレオ式レンジファインダー(光学測距儀)の「1m測距儀(EmR1m)」は、ドイツ軍でもっとも小型でポピュラーな存在でした。倍率は7.8倍で測距距離は、250mから8,500mまでで、重量はアルミ等で軽量化され4.5kgでした。 こんなプラモデルの重機関銃チームを眺めるだけでも、その個々の役割分担とそれを統帥する指揮官との関係の重要性というものが見えてきます。これは、なにも軍隊に限らず、民間や事業所、行政・司法機関、政治でも同様であり、組織体の中に指揮官に従わない者が存在するとたちまち機能不全となります。それがもたらす結果は、民間企業では、企業間競争に負け会社は倒産、社員は解雇となり、戦闘チームでは、戦場の敗者となり死が迫ります。そのため、軍隊に限らず、あらゆる組織や企業・団体には、必ず階級や役職が存在し、職務命令としてその機能停止を防ぐための付加機能が施されているわけです。 ただし、それ以前に、指揮官自体の劣った資質や指揮能力に欠け、誤った指揮を繰り返し、組織やチーム全体に犠牲を強いる様な信頼性に劣る指揮官ではないことが大前提であることは言うまでもありません。A German MG42 Machine gun squad in a snow-covered field on the East Front. 来襲するソビエト兵を警戒して、冬のロシアの雪原に布陣するMG42重機関銃分隊、初期のMG34で問題となった冬季の作動不良は、MG42ではすべて解決され、-50度の酷寒でもスムーズに作動しました。 上から見ると、弾薬手だけがその表情がわかりますが、このチームの位置関係が3D的によくわかる構図になります。 ドイツ軍の戦場での戦闘指揮官と双眼鏡は切っても切れない関係です。指揮官は部下の信頼を受け、部隊の目となり耳となる存在であり、双眼鏡で敵情を把握し、的確な判断・勇気ある決断と指揮が要求されます。これは、軍隊に限らず、様々な職場でも同様であり、戦場の様な職場の班長なり、係長、課長なりが求められる能力にも似ていますが、戦闘指揮官がそれ以上にシビアなのは、その指揮や判断次第で生死の分かれ目になる場合が多々あるという点です。 この重機関銃用三脚架(ラフェッテ42)は、ドイツ職人が手掛けた優秀な装備品であり、アルミを使い軽量で頑丈、随所に工夫がなされており、写真の様な高姿勢から三脚を伸縮することで、低姿勢や、山岳などの斜面でも自在に調整して重機関銃を固定すること可能であり、より正確で確実な射撃が可能となりました。 一般的な重機関銃チームの構成はこの3人なので、クローズアップした構図で撮影しました。 目の前で、指揮官の腕が動き、まさに射手や弾薬手と一体となったチームを見ているようです。ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2011/01/15
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★☆ 第2次大戦中のドイツ陸軍騎兵(1939~1941年)★☆ Let's enjoy the plastic model !~ GERMANY CALVARYMAN AND HORSE ~ 今回は、前回と前々回でタミヤの1/35ミニタリーミニチュアシリーズ「WEHRMACHT MOUNTED INFANTRY SET (ドイツ将校 乗馬セット)」を使用して作成後にそれぞれご紹介しましたドイツ陸軍騎馬兵と軍馬の2組をコラボして撮影してみました。2組にしてみると1組の場合よりも、そこに何がしかのストーリィーが生まれそうですし、臨場感のような感覚も増してくるように思えます。 スタイルの異なるドイツ陸軍騎馬兵2組と軍馬2組をコラボして撮影すると、ご覧の様に単独でなくチーム(組織)としての迫力を感じることができます。しかし、このシリーズをこれ以上は増やすつもりは今のところはありません。 馬2頭に焦点を当てるつもりでしたが、私のカメラの特性上、奥の馬に焦点が集中してしまい、手前の馬はボケてしまいました。馬の顔の表現もタミヤのシリーズでは写実的な完成度が高いものです。大半の哺乳類が人間の様な白目はなくて、実物の馬でも全体的に大きな黒目であるのが特徴です。顔に血管の筋が見えるのもリアルさを感じる部分です。 古代から人類は、犬を手なずけて狩猟の支援、敵や猛獣の侵入や攻撃から身を守るための警備支援、そして家族同様の仲間としての愛玩(ペット)として飼いましたが、馬についても重い荷物の運搬や、馬車を曳かせたり、狩猟で獲物を追うために、また、戦闘では重い武器や鎧(よろい)を身にまとった人間を乗せて人間の指示どおりに動作させるなど過酷な労役でも文句を言うこともなく、犬と同等若しくはそれ以上に人類に忠実な家畜として有益で頭の良い動物でした。 犬や馬が人類に忠実なのは、何故か?・・・それは、やはり両者の間に深い信頼関係が成立しているからです。また、その信頼というのは、やはりタダでは生まれるはずもなく、家畜と言えどもわが子の様に可愛がる、大切に愛を込めて育てるということがなければ絶対に信頼が生まれないことは当然です。 この写真は、やはり奥の馬や騎馬兵に焦点が集中したために手前が多少ボケています。しかし、REALISTは、この写真がその時の光の状態と撮影のタイミングで一番自然なリアルさを感じるお気に入りの一枚なのです。この背景にロシアの草原などの風景や自然な木立などがあれば、さらにリアルに仕上がるだろうと思います。 この写真も馬の顔に注目してみましたが、やはり奥の馬に集中してしまいました。馬や兵士の顔も向きを変えてみると色々と表情や陰影が違って見えて楽しめます。この兵士の顔立ちも欧米人の特徴がよく出ています。 この写真も戦場写真の一コマの様なシーンを感じることができます。(マックス少尉)・・「ハンス軍曹、どうやらあの奥の穀物倉庫は、敵の通信基地があるようだぞ!」(ハンス軍曹)・・・「はい!そうなんですか、でも、どうして通信基地だとおわかりなのですか?」(マックス少尉)・・「それは、簡単だ!屋根には、穀物倉庫らしからぬ多数のアンテナが林立しているからさ!、砲兵隊に連絡しておこう!座標位置を地図と照合して確認してくれ!」(ハンス軍曹)・・「わかりました!」 この写真も手前の騎馬兵や馬が多少ボケていますが、リアルなシーンを感じる1枚です。 馬の背中の光沢が気にかかる写真ですが、実際の手入れのゆきとどいた実物の馬でも、これほどではなくとも、馬の背油による毛並みの艶(つや)のある光沢を見たことがあります。 ドイツ陸軍騎馬兵も通常の陸軍兵士同様に水筒、雑納袋、ポンチョ(簡易テントにもなる防寒用のカッパの様な防水上着)を丸めたもの、ガスマスクケース、ピストルケース、弾薬ケース・・・などの装備を身につけています。兵士のライフルは、当時の基幹小銃のKar98k軍用ライフルで、7.92mmクルツ弾を使用しました。<10%OFF>1/35 ミリタリーミニチュアシリーズ No.053 ドイツ将校 乗馬セット 【タミヤ: 玩具 ...価格:472円(税込、送料別)ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2010/11/22
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★☆ 第2次大戦中のドイツ陸軍騎兵(1939~1941年)★☆ Let's enjoy the plastic model !~ GERMANY CALVARYMAN AND HORSE ~ 今回は、前回に引き続き、タミヤの1/35ミニタリーミニチュアシリーズ「WEHRMACHT MOUNTED INFANTRY SET (ドイツ将校 乗馬セット)」を使用して、騎兵の乗馬スタイルや馬の毛の色や雰囲気を変えたもう1組のドイツ陸軍騎馬兵と軍馬を作成しました。 第2次大戦の初期にドイツ軍に唯一存在した騎兵部隊の「第1騎兵師団」の偵察部隊の戦闘将校を想定して作成しました。双眼鏡とMP40短機関銃(シュマイザー)は、陸軍戦闘将校に与えられた必須アイテムでした。 馬の写真やYOUTUBEの画像を色々と観察してみると・・・馬の毛の色というのは、黒色、こげ茶色、褐色や薄茶色、灰色、白色、そして単一色からツートンなど色や模様もいろいろなパターンがあることがわかりました。今回は、力強いイメージで赤みがかったこげ茶色を主体にたてがみ、まえがみ、尾は黒色で、足首や顔の眉間の間の一部を白色にしてみました。★☆ 『 Mein Traumpferd 「 私の夢の馬 」 』 ★☆ これは、当時のドイツ騎兵が愛馬を世話している様子の写真ですが、第2次大戦では、日本軍でも中国戦線などでは大量の軍馬を使用して騎兵師団を編成していました。「愛馬行進曲」という曲名を聞いたことがあります。 馬の色や模様を変えるだけで、馬の顔の表情も随分(ずいぶん)と印象が変わって見えます。騎兵の腰の左右に見えるダークイエローの箱の様なものは、戦闘将校に支給されていたMP40短機関銃用の30発入りの弾装が左右3本づつ収納できる革製の弾装ケースです。MP40の弾丸はルガーやワルサーなどのけん銃用の9ミリ口径弾が使用されていました。 馬という動物は、日本でも世界中でも人の活動では、農耕や狩猟、運搬、交通、戦争などに古代から数千年もの長い間にわたり利用されてきた動物でした。山口県でも古い郷土の伝説などでは、沢山の野生の馬が山野を駆けまわっていたという話が残っています。そして、強く足の早い馬を捕えては、朝廷などに献上したという逸話もあります。古代や中世日本の山野を野生の馬が駆けまわっている風景を想像すると何となく歴史のロマンを感じます。★☆ 『 Der schwarze Hengst「 黒い種馬 」 』★☆ 歩兵と騎兵とオートバイ兵が一緒に治まった写真ですが、騎兵は1941年以降は、次第にオートバイ兵や装甲師団兵にと変貌(へんぼう)していきます。 35分の1サイズの高さ6~7cmのプラモデルですが、こうしたアングルで撮影すると、それなりに迫力が出てくるのが魅力です。 このタミヤの馬のリアルさは素晴らしいものです。筋肉の付き具合や馬の自然な立ち姿、顔の表情や少し血管が浮いて見えるような写実的な馬のイメージを表現できるのがこのキットの魅力です。 敵情を視察する騎馬将校・・・戦争でも国家間の外交でもオリンピックなどのスポーツ競技でも受験戦争や企業間競争から就活でも・・・およそその戦略に勝利する上でもっとも重要なことは、情報戦略でいかに競争相手よりも早く最新の有利で正確な情報を収集し、迅速な分析処理に基づき的確に決断し、先見性ある行動で挑戦するかにかかっています。 最近の政治家が面倒なことを先送りする際に連発する「慎重に対応する」という空虚な言葉は、「何もしない」という意味であり、現在の日本社会の停滞感や何もしないで高い給料をただ受け取るだけの国(県)会(市区町村)議員や天下り先にいる高級官僚(公務員)たちをイメージしてしまいます。★☆ 『「German Cavalry (1939)」 ★☆ 当時の実際の動画 ドイツ軍は1940年6月14日、当時ヨーロッパ最強であったフランス軍をわずか6週間で破り、首都パリへ無血入城しました。写真は、パリ市内の凱旋門付近のシャンゼリゼ大通りを大量の軍馬を動員して「勝利の行進」を演出している風景です。 第2次大戦でのドイツ軍・日本軍の初期の勝利でも後期の敗退でも、結局は情報収集力とその分析の差で勝敗が決まりました。両軍に共通した敗退の最大の原因は、無線や電文の暗号を英米連合軍に完全に解読されたために、その重要な作戦や軍事機密情報の多くが筒抜けになったことにありました。 最近のエコや環境問題が注目される世界的な潮流を思うと、最近では電気自動車やハイブリッド車が注目の的ですが、よく考えると「馬」はとてもエコな交通・運搬手段ではないかと思います。一度は乗馬をしてみたいと思いますね。The horse is transportation very effective in energy conservation and the environmental protection and transportation. 馬は、現在では競馬競技などで活躍していますが、その数はわずかです。一方、食肉用の馬肉をREALISTは食べたことがありますが、馬肉用として殺される馬のことを考えると複雑で可哀想にも感じます。<10%OFF>1/35 ミリタリーミニチュアシリーズ No.053 ドイツ将校 乗馬セット 【タミヤ: 玩具 ...価格:472円(税込、送料別)ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2010/11/18
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★☆ 第2次大戦中のドイツ陸軍騎兵(1939~1941年) ★☆ Let's enjoy the plastic model !~ 1/35 MILITARY MINIATURES SERIES No.53 ~ 動物園で馬を観る機会がありました。それは、こげ茶色の色艶(いろつや)が良く光沢のある毛並みやたてがみ、まえがみ・・そして、黒い大きな目に長いまつげ、一見とても気が優しい表情の大きな馬でした。その美しい馬をじっと観ていると・・・無性に馬のプラモデルを作りたくなりました。馬と言ってもREALISTの場合は、単なる馬では物足りないわけで、そこはやはり、ドイツ陸軍に関係する軍馬となるわけです。 今回は、タミヤの1/35ミニタリーミニチュアシリーズの「WEHRMACHT MOUNTED INFANTRY SET (ドイツ将校 乗馬セット)」でドイツ陸軍騎馬兵と軍馬1組を作成しました。 第2次大戦中の世界中の軍隊の中でも比較的に機械化された装備を誇ったドイツ軍でしたが、それでも大戦初期の、主にポーランド戦(1939年)、東部戦線初期(1940年)では多数の馬が偵察用、運搬用に使用されました。第2次大戦開戦当初のドイツ陸軍兵士の制服で特徴的なのは、上衣はフィールドグレイ、ズボンはダークグレイの2色構成でした。 BOX ART (By TAMIYA) 1975年4月から発売された比較的古いキットであり、何よりも注目されるのは、「1/35ミニタリーミニチュアシリーズで初めて馬が登場した記念碑的なキット」と言ってよいでしょう。第2次大戦中初期の軍馬とドイツ陸軍騎兵のリアルな表現を見事に仕上げることができる魅力的なキットです。★☆ 『 German Soldier and his horse 』★☆ 「ドイツ兵と馬」の動画 19世紀までは、ヨーロッパでも戦場の花形だったのが騎兵(きへい)でした。この写真は、ポーランド戦開戦時(1939年)での偵察部隊のようです。偵察任務は、次第に騎兵部隊から装甲車やオートバイ部隊へと鉄の馬の出現により発展解消していきました。 馬の毛並みの色は、実際の馬を観た際の色を思い出しつつ、赤、黄、白、茶を混合して作りました。色の割合の調節で微妙に色が変わるのでなかなか理想の色になりませんでしたが、最後はなんとか一定量の色を作ることができました。 後方の状況です。軍馬は、第2次大戦初期では、騎兵に限らず、歩兵や砲兵などの兵科の区別なく、将校や下士官によって好んで使用されたそうです。自動車が全軍にいきわたらなかった機械化の過渡期段階であったことや、当時のドイツでは乗馬が趣味、スポーツとして好まれていたことにも理由があるそうです。★☆ 『 I Am - Horses 』 ★☆ 「私は・・・馬」の動画 馬は、最近ではなかなか普段は見かける機会がありませんが、人間と馬の関係は歴史的にも古く、世界中で古代からほんの数十年前までの長い間、日本国内でも農業用や運搬用、武士や軍隊までが使用して、いたるところで普通に見かけることができた時代が長く続きました。しかし、最近では、動物園や競馬用、食肉用の馬がわずかに存在しているにすぎません。 馬の装備のクツワ金具、手綱(たずな)、鞍(くら)、アブミ、腹帯などの状態が正確に再現できます。手綱は、付属の0.2mmフラパンを細身に切って再現することになっていますが、使い勝手が悪く、REALISTは、別の市販されていたものを使用しました。 馬に実際には乗ったことはありませんが、一度は乗ってみたいと思います。馬の負担を軽くするために厚手の毛布の上に鞍(くら)を載せています。首付近左右には飯盒(はんごう)と雑納袋があります。 正面からみた状況ですが、馬の顔の表情も自然に近い仕上がりが素晴らしいのが、このキットの馬のモデルの特徴です。 ★☆ 『 last german cavalry 』 ★☆ 「ドイツ兵と馬」当時の実際の動画 写真は、1939年9月1日に第2次大戦の勃発であるポーランド戦でのドイツで唯一存在した騎馬部隊の「第1騎兵師団」の姿であり、同師団は、やがて1941年11月に「第24装甲師団」に改編されたことにより、事実上、騎兵が発展消滅しました。 <10%OFF>1/35 ミリタリーミニチュアシリーズ No.053 ドイツ将校 乗馬セット 【タミヤ: 玩具 ...価格:472円(税込、送料別)ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2010/11/08
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★☆ GERMAN- TANK- ENGINE- MAINTENANCE- CREW- SET ★☆ Let's make the plastic model !~ 1/35 ミニタリーミニチュアシリーズ No.180 ~ 久々にミニタリーフィギュアを組み立てました。戦車や戦闘機、戦闘艦作りも楽しいですが、フィギュア作りはそれ以上に楽しいですね。なぜなら、無機質な戦車や戦闘車両とコラボすることで、色々なシーンを幅広く楽しむことができ、その部分に生き生きした温かみのある雰囲気を醸(かも)し出すこともできるからです。 今回は、タミヤの1/35ミニタリーミニチュアシリーズの「ドイツ戦車兵エンジン整備セット」を作成しました。 完成した整備セットの兵士2体を以前作成したドイツ軍III号戦車L型とコラボしてみました。ツールボックス、工具類、ドラム缶などのアクセサリーも充実していて、いかにも整備しているという雰囲気が出ています。 ★☆『WW2 Deutsche Wehrmacht Wohlan, die Zeit ist gekommen 』★☆BOX ART (By TAMIYA) このセットは、1994年9月から発売されたシリーズです。整備服を着用した戦車兵2体、整備シーンに必要なツールキット、ツールボックス、パイプレンチ、ドライバー、ハンマー、ガスバーナー、オイル缶、バッテリー、ドラム缶、梯子(はしご)等がセットされています。また、タイガー、パンサー戦車用のエンジンも付属していました。 この兵士2体のフィギュアはとてもセンスが良いですね( This soldier 2 body figure is very good sense) 。こうして観ると、整備をするシーンの中で二人が何か会話をしてる様に見えます。 このセットのシーンでは、本来ならエンジンルームを開きエンジンを見ている状況がベストなんですが、それが現状ではできないので、それはそれであくまでもエンジン整備を仮定したシーンと言うことにしておきます。 ここでは、こんな会話があるのかも・・・「それで、どこが悪いかわかるかい?」・・・「そうですねぇ・・・エンジンオイルが漏れているようです。ここを見てください、オイルが吹き出てこの部分にもにじみ出ていますね。」・・・「なーるほど、そういうことだね!」 「オイル漏れはわかるが、・・しかし、どこから漏れているんだい?」・・・「そうですねぇ・・どうも、エンジン部分の接合部のボルトの緩(ゆる)みのある部分からのようです。」・・・「それは、どうして緩むのかな?」・・・「それは、長い間の強い振動で自然とボルトが緩むのでしょう。」・・・「ふーん、自然と緩むわけか・・」 戦車の砲塔の上には、黒い戦車用のバッテリー、手前にはエンジンオイル缶が2缶あります。 手前左がツールキットとその上にハンマーがあり、右にはツールボックス、その開いた部分には、ドライバーやパイプレンチなどの整備用ツールがあります。 手前のドラム缶の上には、整備用の溶接用ガスバーナーとオイル注(さ)しがあります。右の梯子(はしご)は、戦車の修理・整備用の梯子です。 「エンジンにも問題がありますが、バッテリーもかなり劣化しているようですね。先ほど、エンジンスタートをしたところ、なかなかかかりが悪かったので、バッテリーも新品に交換しましょう。」・・・・「そういえば、バッテリーは、ずっと交換していないからなあ。」 「やはり、予想していた箇所のエンジン部分のボルトが緩んでいますね。ガタガタですよ。」・・・「なるほど、戦車もエンジンの点検は決められたとおりに定期的にしないといけないということだな。」 「エンジンオイルは、どのくらい補給したらいいのかわかるかい?」・・・「そうですね、見たところ、6リットル程度減っているので、補給することにします。」・・・「そうか、これで良く持ちこたえてくれたこのエンジンも喜ぶだろう!」 「バッテリーの交換とエンジンオイルの補給も済ませたので、もうこれでバッチリですよ!」・・・「やれやれ、これで愛車も新車の様になった気がするね!」 このフィギュアは、自然でリアルな作業シーンを演出できます。しかも、大げさかもしれませんが、まるで二人で会話しているかのようなこのスタイルは、タミヤのミニタリーミニチュアシリーズの中でも、このセットの2体のフィギュアについては、「リアルな自然の人の姿勢という点」では群を抜いています。 1/35 ミリタリーミニチュアシリーズ ドイツ戦車兵 エンジン整備セット【35180】 タミヤ楽天で購入ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2010/10/31
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★☆ U.S NAVY ”INDEPENDENCE LCS-2” ★☆ 1:700SCALE Modern Sea Power~ 新鋭戦闘艦に観る未来的形状の魅力 ~ 今回は先にご紹介しました自作プラモデルのアメリカ海軍( U.S. NAVY )新鋭沿海域戦闘艦『INDEPENDENCE(インデペンデンス)LCS-2 』について、もう少し細部がわかるように近接撮影をしてみましたので、この戦闘艦の魅力を観ていただきたいと思います。また、実物の船体や装備する武装などの関連動画をYOUTUBEで発見しましたので、合わせて動画を観ることでそのリアルさは一層確かなものとなるはずです。 ★☆ 『 LCS 2 Sea Trials Short version 』 ★☆ 「USS Independence (LCS 2)」の実物の動画 この船体の推進力は、どうも海水をジェット噴射することで40ノットもの高速を実現しているようです。通常の舵(かじ)はなく、船首側と船尾側の船底部に水中翼があり、これを微妙に操作することで舵の働きをするようです。船のコントロールはコンピュータ化され、ジョイスティックで操縦ができる仕組みになっています。 ★☆ 『 57mm PAC 』 ★☆ 装備する「57ミリ砲」の実射シーン 動画を観ればわかるように、船首に装備された57ミリ単装砲は、大砲なのに毎分220発の発射速度があるのには驚きます。 艦橋部分をアップしました。この部分で手こずったのが、窓部分の塗装でした。ミリ単位の小さな窓なので、極細筆で少しづつ塗装しました。塗装面はガラス面の光沢が必要なので、「クリヤーブルー」を使用しました。 ★☆ 『 MH-60S Takes Off from Flight Deck 』★☆ 装備する「MH60R/S汎用ヘリコプター」の発艦模様 この艦艇には標準装備の『MH60R/S汎用ヘリコプター』があり、艦橋からヘリポートを観て発艦中の模様がYOUTUBEにありました。 ★☆ 『MH-60S Lands on Destroyer ★☆ 装備する「MH60R/S汎用ヘリコプター」の着艦模様 これも、アメリカ海軍のデストロイアーという艦艇に着艦中の模様がYOUTUBEにありました。ヘリポートのマーキングは、アメリカ海軍の艦艇ではどれも共通したスタイルなのでしょうか? この写真の船尾左右両端部分に「手すり」が見えますが、この接着作業も少々難がありました。このモデルには金属のエッチングパーツが付属していましたが、わずか0.3~0.4mmの細いパーツで構成された手すり部分は、本当に小さくて軽く息がかかるだけでも吹き飛んでしまいそうなので、慎重に接着&塗装をしました。 この艦艇の特徴が、よくわかる部分です。通常、船は船底がすり鉢状になった鋭利な形状ですが、この艦艇は、船首部分を除き、中央部から船尾にかけて平面状の船底になっています。また、スクリューは存在せず、中央部に大きく4つの噴出口が見えます。 本船は、大型装備などの迅速な搬入が可能となるように、大型の搬入口が船尾に2か所装備されています。 ヘリコプターのマーキングでは、アメリカ軍の国籍マークである「星印」と海軍を示す「NAVY」の白文字のわずか数mmのけし粒の様なデカールを正確な位置に貼り付けるのにも苦労しました。船尾左側の大きな開口部は、無人潜水艇や小型艇を降下させる搬入口のようです。 ヘリポートのマーキングは、正確性が求められ、実際の写真と照合し、失敗は許されない思いでした。 ★☆ 『 CIWS Towed Target 』 ★☆ 装備する『20mm Phalanx(ファランクス)CIWS』の実射の動画 ヘリコプター格納庫搬入口屋上にある白い物体は、海上自衛隊のイージス艦にも装備されている20ミリ機関砲で、センサーとレーダーで飛行物体を自動追尾、瞬間的にその速度や予想進路を計算し、毎分数千発の20ミリ弾丸をガトリング方式で発射、飛行物体は確実に破壊されます。 ★☆ 『 RAM Greatest Hits 』関連動画 ★☆ 装備する『RAM11連装近接防御SAM発射機 』の実射の動画 この艦艇には、上のファランクスと合体した「RAM11連装近接防御SAM発射機」ミサイルも装備されています。最上部の二つの穴はコンパクトにまとめられた煙突です。海上自衛隊艦艇の煙突が巨大で旧式タイプに感じるのに比べ、この艦艇では煙突の存在がほとんど目立たない近未来的スタイルに仕上がっています。 特殊でユニークな船底ですが、3つの双胴船的な構造で水流や波の抵抗を最小限に抑える形状が特徴です。 【当店ポイント2倍】【Joshinは平成20/22年度製品安全対策優良企業 連続受賞・プライバシーマー...価格:4,400円(税込、送料別)ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2010/10/18
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★☆ 現用アメリカ海軍 沿海域戦闘艦 インデペンデンス LCS-2 ★☆ U.S NAVY ”INDEPENDENCE LCS-2”(1:700SCALE Modern Sea Power)~ 高速性、ステルス性、省力化を意識した最新領海警備用戦闘艦 ~ 今回は、REALISTとしては初めての海軍艦艇の作成に挑戦しました。しかも、その艦艇は、2010年1月16日に就役したばかりのアメリカ海軍の最新沿海域戦闘艦です。「沿海域」という言葉にあるように、その任務は主にアメリカの領海を守ることを主任務とした戦闘艦のようです。船名の英語「INDEPENDENCE(インデペンデンス)」は「独立」を意味していますが、まさに独立国としての領海を守るという意味が込められているのでしょうか? この作品は、1/700scale、「U.S.S. INDEPENDENCE LCD-2: 現用アメリカ海軍 沿海域戦闘艦 インデペンデンス LCS-2」(Cyber-hobby.com / DRAGON)です。このモデルには、観賞用の台座が用意されていましたので、台部分をシルバーで支柱部分をゴールドで塗装し、完成したモデルをセッティングしてみました。 Box Art (By Cyber-hobby.com/DRAGON) DRAGON社の"Cyber-hobby.com"製の箱絵(Box Art)です。搭載ヘリコプターとともに領海を警備中の模様が描かれています。DRAGON社は、中国の上海に本社があるプラモデルメーカーですが、この様な最新艦艇のモデルを短期間で製品化できるということは、その情報力収集能力に優れたものがあることを示しています。このメーカーは、ミニタリーモデルのフィギュアでもそのバリエーションの多さやリアルさでは、確かなものがあります。 この写真は、「インデペンデンス LCS-2」が、フロリダ州ポート・エヴァーグレイズに入港中のシーンであり、どうも、タグボートに誘導されているようです。この戦闘艦は、満載排水量2,790トン、全長127.2メートルでありながら、速力40ノットの高速化や、徹底した省力化で乗員数もわずか40名を実現しています。 いかにも精悍(せいかん)なイメージの艦艇です。最近の世界的な戦闘艦デザインの潮流でしょうか?できるだけ構造物の凹凸を避け、レーダーに探知されにくいステルス・シールド構造で建造されているそうです。 艦首にある大砲は、57ミリ単装砲ですが、射程17キロメートルで毎分220発という機関砲並の発射速度があり、しかもコンピュータ化された自動目標照準で100発100中の命中精度です。 観る方向で様々な形に変化して見えます。艦首部分は楔(クサビ)の様に尖(とが)っていますが、艦橋の付近から大きく広がる形状になります。 最近の巡視船や護衛艦、駆逐艦の特徴は、必ず「ヘリコプターを搭載している」ということでしょうか?対潜水艦・対艦攻撃や遠距離の偵察・探知等に効果的な威力を発揮するようです。 ヘリコプター格納庫口付近の屋上に設置されている白い部分は、「RAM11連装近接防御SAM発射機」で20ミリのCWSセンサーとRAMのランチャーを組み合わせたシステムだそうで、射程は9.6キロメートルで主に対空用の兵器です。 ★『 General Dynamics - Independence Littoral Combat Ship 2 』☆ 「USS Independence (LCS 2)」の実物の動画をご覧あれ !! 船尾側からみた実際のインデペンデンスの状況ですが、ヘリコプター格納庫周辺の状況や開閉シャッター部分、ヘリポートの塗装色の状況がよくわかり、これを参考に塗装を施しました。 このモデル作成での難関であったのが、ヘリポートのマーキングでした。細かいデカールを正確な位置にピンセットを使用して貼付する作業は、手間を取りました。 この船体の特徴ある形がわかる写真です。中心の母船と両側に小型の船が一体となった構造になっています。また、船首&船尾部分の船底には、水中翼が装着されています。 この船の推進力は、スクリュータイプではなく、水中ジェットの様なものかもしれません。 船尾右部分や後部の開閉扉(とびら)を開放していますが、この部分は機材や武器などの搬入口となっています。通常は閉めていますが、あえて開放状態としました。 この戦闘艦に積載するヘリコプター等は、資料によりますと、MH60R/S汎用ヘリコプター1機及びUAV(無人偵察機)3機、対機雷無人潜水艇(RMS)1隻だそうです。 【当店ポイント2倍】【Joshinは平成20/22年度製品安全対策優良企業 連続受賞・プライバシーマー...価格:4,400円(税込、送料別)ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2010/10/08
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★☆ リニューアル作品の全身を観る ★☆ Old works ' WWII German machine gunner ' of renewal version (Full length)~ 青年ドイツ兵のリアルな姿をイメージ ~ 今回は、前々回、前回に引き続き『WWII ドイツ機関銃手』シリーズですが、最後の全身像(Full length)です。それでは、第二次世界大戦中のドイツ国防軍兵士機関銃手のリアルな姿を360度方向から観察してお楽しみください。 ほぼ正面からのスタートです。まず、正面から・・・ ★☆『 ♪♪ Helenenmarsch ♪♪ - German Soldiers WW2 』★☆ やや右方向へ・・・ ほぼ右側面を観ます。完全な右側面です。右後方へ向かいます。右後方を観ます。そして、真後ろ方向を観ます。やや、左後方を観ます。左後方を観ます。携帯スコップの左隣の黒く細長いのは短剣ですね。左側面を観ます。左前面を観ます。そして、真正面を観ます。最後まで、ありがとうございました。ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2010/06/01
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★☆ リニューアル作品の上半身を観る ★☆ Old works ' WWII German machine gunner ' of renewal version (Waist up )~ 青年ドイツ兵のリアルな姿をイメージ ~ 前回は、『WWII ドイツ機関銃手』のリニューアル修正作品は、顔(mask)部分をクローズアップしてその違いをご紹介しました。 さて、今回は、さらにマクロティックに上半身部分まで拡大して、ほぼ360度方向に順次観た状況をご紹介します。第二次世界大戦中のドイツ国防軍兵士機関銃手のリアルな姿をお楽しみください。 冬期戦用のオーバーコートを着用しています。しかも、防寒用の顔面だけを露出することができる防寒衣も着用しています。この防寒コートの生地は基本的にはウールだったようですが、終戦近くなると物資不足でレーヨンなども織り交ぜられたそうです。 ドイツ軍のトレードマークの『M1935ヘルメット』ですが、終戦後、皮肉なことにもその高い性能、計算し尽くされた防護のための形状スタイルをコピーしたアメリカ軍のフリッツヘルメットをはじめ、世界中の軍隊のヘルメットにも同様のスタイルが採用されています。 丸い円筒形の容器は、アルミ製の防毒ガスマスクの収納容器です。陸軍兵士に標準装備されました。その容器の下の左側の腰にある角ばった黒いものは、塹壕(ざんごう)を掘るための携帯スコップです。 携帯スコップから腰の右側に順次、カーキ色の雑のう、コップ付きの水筒、機関銃手入れ用具ケースがあります。機関銃の金属光沢は実銃の様に再現できています。銃口は直径3ミリですが、精密ドリルで2ミリの穴をどうにか綺麗に空けることができまし。機関銃は『MG43機関銃』です。1942年に開発され、銃弾は7.92ミリ弾を使用、高い威力と命中精度の高さ、分解整備も簡単で同性能の機関銃では重量はもっとも軽量となり11.5kgを実現しまし この『MG43機関銃』には、銃弾50発が収納された円筒形のマガジンボックスが装着されています。『MG34機関銃』は、その高い性能から、終戦から65年経過した現在でも、その改良型が戦車などの車両用に採用されています。 ヘルメットのマークは、右側に国防軍、武装親衛隊を区別するためのシールド(盾)のマークが描かれ、左側には、国家紋章が描かれました。ヘルメットのシールド(盾)型マークを見ると、中世騎士の盾や十字軍兵士の盾を想起しました。機関銃手の兵士には、副武装としてワルサーP38などのけん銃が支給されました。 最後まで、ありがとうございました。ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2010/05/29
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★☆ 旧作品を筆塗装とマーキング追加でリニューアル修正 ★☆ Old works ' WWII German machine gunner ' of renewal version (mask)~ 筆塗装による加筆で青年ドイツ兵のリアルな表情を追求 ~ 今回は、以前作成した『WWII ドイツ機関銃手(後期型オーバーコート)』を無性に本物に近づけたい、よりリアルなものにしたいという気持ちが起こり、面相筆でイメージに近づけるように加筆しました。その最大の修正部分は、このドイツ兵の顔(mask)の部分です。REALISTのイメージするドイツ青年の顔となるように、目の周囲や瞳の部分、鼻、口元などを少しづつ塗料を塗り重ね、強弱を与えながら表情を変えていきました。 こうしたフィギュアの塗装では、やはり目の部分の描写がそのフィギュアに生命を与える最大のポイントだと思いました。こんな表情のドイツ青年を見かけたことがありました。イメージに近づけるように、目の部分と周囲の皮膚の境界線、目の瞳と白目の部分の配置など微妙な修正を施(ほどこ)しました。旧作品との比較では、ここのトップページにある写真(旧作品)を見ればわかります。顔の表情では、以前よりも若干若くなった感じになりました。また、襟(えり)の階級章、ヘルメットの右に"国防軍"を意味するシールド(盾型)マーク、左には、国章である鷹(たか)のマークを追加しました。上の顔の写真の右後方から見た背面上半身の状況です。この兵士の視線は、はるか先の方向を見ているようです。国にいる家族や妻子、それとも恋人のことでも思いだしているのでしょうか?ヘルメットについても、若干ですが、部分的に修正塗装を施しています。ヘルメットの縁周り、鋲(びょう)打ち部分の再現などです。当初は、武装親衛隊と区別するために、国防軍を示すシールド(盾)マークがヘルメットに描かれていましたが、大戦中期ごろからこうしたマークは描かれなくなりました。左後方から見た背面の状況です。欧米人では、こんなに鼻梁(びりょう)が高い人も珍しくはありません。ドイツの国章は、鷲(ワシ)ですが、現在も変わりなく使われています。。ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2010/05/26
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★☆ 鎌倉武士に引き継がれた兜(かぶと)の美と勇壮さを観る ★☆ Watch beauty of approximately 1000 years ago Samurai helmet and heroic ~ 1000年前の武士はおしゃれだったに違いない! ~ こどもの日の5月5日は『 端午の節句 』、それは、鎌倉時代ころから始まった男の子の成長を祝い健康を祈るため、鎧(よろい)、兜(かぶと)、刀、武者人形などを室内に飾り、庭前に"こいのぼり"を立てることが風習となったもので、鎧兜には「男子の身体を守る」、"こいのぼり"を立てるのは、「男子の立身出世を祈願する」という意味が込められています。 今回は、プラモデルとしては異色の日本の兜を作成しました。これは、戦国武将のスタイルとは大きく異なり、源氏の武士階級が東国に台頭する地盤を築いた平安末期の武将「源 義家(みなもとのよしいえ)」の兜です。この様式は、鎌倉武士(Kamakura Samurai)の典型的スタイルとして引き継がれ、一番の特徴である兜の角(つの)の様な『 鍬形(くわがた)』と呼ばれる部分が「細く長く垂直を向いた」形状であり、その後、義家の子孫の源義経(みなもとのよしつね)の兜にも引き継がれていきます。 左が今回作成したプラモデルの『 名将兜(かぶと)シリーズ”源 義家”長鍬形不動明王の兜(1/4scaleモデル・童友社)』の箱絵(BOXART)、右はその組立説明書 ★☆ 『 源 義家(1039-1106) 』について ★☆ MINAMOTO NO YOSHIIE (1039-1106) 『 源 義家 』は、平安時代末期の武将で、それまでの貴族政治から次第に台頭してきた武士階級は、もともとは朝廷の武官、宮中の警備、貴族の護衛に当たる皇族や貴族の子孫で構成された集団で、次第に地方の国司の指揮下でも盗賊の取締りや税を運ぶ際の護衛部隊としての任務にもつき、次第に『武士 』として身分が認められる存在になったのが始まりでした。平安時代末期の11世紀、武士団を構成した大きな勢力は、いずれも天皇の子孫である「源氏」(清和天皇の子孫)と「平氏」(桓武天皇の子孫)の2大勢力でした。 源 義家は、そんな源氏の代表的な武将で、石清水八幡宮で元服、通称"八幡太郎"と呼ばれ、東北地方の反乱平定の「前九年の役(1051-62年)」で活躍、「後三年の役(1083年)」では、"衣川の戦い"で源氏方の弓の名人の総大将として、敵の安倍貞任軍を破り、東国で源氏が台頭する基礎を築きました。 左が、平安末期から鎌倉時代における武士のスタイルで身長ほどある大弓を手に持ち、太刀を腰に提げ、脛(すね)当、や籠手(こて)、大鎧(おおよろい)で武装した、まさに"源 義家"と思える武士の姿を現したものです。鎌倉時代の武家屋敷には、馬小屋、弓の的場があり、武士たちは、平素、馬の馬上訓練、弓の訓練を怠らず、常に戦時に備えていました。右写真は、今から800年以上前の『赤糸縅鎧(あかいとおどしよろい)』で、武将が武運長久を祈願し神社に奉納・保存されていた実物で当時は、赤染めの絹糸で縅した大鎧が好まれていました。 平安末期から鎌倉時代の特徴である長い鍬形(くわがた)が目立ちますが、武士の中でも指揮官が付けていました。カブトムシではなく、クワガタムシに似ているあのクワガタ(鍬形)ですね。 ★☆元寇! 鎌倉武士とモンゴル軍・漢人・高麗連合軍との戦い! ★☆ In Mongolia, China and Korea allied forces invaded 2 Times history NHK大河ドラマ「北条時宗」より ↓ ↓ ↓ クリック! 博多を襲う最初の蒙古襲来(文永の役・1274年)を再現!★☆ 『 Mongols vs Samurai Part 1 』★☆★☆ 『 Mongols vs Samurai Part 2 』★☆2回目の蒙古襲来(弘安の役・1281年)を再現!★☆ 『 Mongols vs Samurai Part 3 』★☆ 武士の台頭とともに生まれた日本の大鎧や兜の形状は、当時、世界のどの国にも見られない独特なスタイルでした。 兜の鉢(はち)部分や周辺の金属細工などを観ると、当時、既に銅や鉄に金メッキ、銀メッキなどの高い加工技術力を持った彫金師や金物細工の武器製造集団が存在していたことがわかります。 「不動明王の兜」と呼ばれた由縁が、この『 吹返(ふきかえし) 』部分に描かれた"不動明王の像"にあります。 「鍬形」の先端部分の独特な形状。 後方から見た「鉢(はち)」部分の形状。 後頭部から首にかけスカート状の「しころ」と呼ぶ部分の形状がわかります。 赤を基調とした鎌倉武士の大鎧兜集団は、さぞきらびやかで勇壮だったことでしょう。想像しただけでも、まばゆい情景が目に浮かびます。 【半額セール品/プラモデル/名将兜】名将兜 源義家 1/4 【あす楽対応】価格:1,000円(税込、送料別)ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2010/04/29
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★☆ 元寇(蒙古襲来)の国難を救った『神風』の名のある特別攻撃隊 ★☆ "Kamikaze" is a national crisis that saved the Japanese invasion of Chinese intrusion attempts 740 years ago !~ 「日本を救うため」にと特別攻撃隊で散った若者は、14,000名以上 ~Navy Kamikaze total Army casualties, reached more than 14,000 people. 『神風特別攻撃隊(カミカゼ・特攻・KAMIKAZE)』は、終戦1年前の1944年10月21日の初出撃から組織的に開始("kamikaze" is Special Attack Force that was started from the first sortie on October 21, 1944 )され、終戦までに人間魚雷「回天」や沖縄で不沈空母となるため特攻出撃した戦艦「大和」も含めた海軍、陸軍の特別攻撃隊戦死者総数は、14,000名以上にも達しました。 今回は、前回作品の「零式艦上戦闘機(略称:ゼロ戦)52丙型(A6M5c)」のキットモデルに付属していたゼロ戦を見送るシーンに使える整備兵などのフィギュア6体を完成させましたので、その6体を先に作成したゼロ戦52丙型とコラボさせ、当時の『神風特別攻撃隊、最後の出撃シーン』をイメージして再現してみました。(Then "Kamikaze Special Attack Force sortie scene" ,"the Kamikaze Special Attack Force , the last sortie" of the image and I tried to reproduce.) 『神風(KAMIKAZE)』の名の由来("KAMIKAZE" a name derived )は、・・今から740年以上前(鎌倉時代)、フビライの元(現在の中国)とその属国となった高麗(現在の北朝鮮・韓国)の連合軍が、1274年(文永11年・文永の役)、1281年(弘安4年・弘安の役)の2度にわたり軍船6500百隻以上・兵員17万人以上で日本占領・属国化を企てて侵攻・侵略しました!(Two occasions in 1274 and 1281 AD, the Chinese military (元"Yuan" and 高麗"Goryeo"=Mongolia, China, North and South Korea forces today) warship of more than 6,500 ships, more than 170,000 coalition troops invaded Japan, as devoted to the violence.)まず、壱岐・対馬を大軍で上陸、守備の武将ばかりか島の老若男女までことごとく虐殺、その後、九州博多方面にも上陸し、虐殺・破壊・炎上・暴虐の限りを尽くしたという・・まさに「日本国存亡の危機(national crisis) 」となりましたが、幸い鎌倉武士団(Japanese Kamakura Samurai team)の一致団結の必死の防戦とそのトドメを刺したのが・・まさに『神風(カミカゼ)』と呼ばれた突然の暴風嵐が起こり、博多湾一帯に停泊中の蒙古連合軍の軍船が一挙に壊滅、元軍に勝利したという歴史的事実に起源があります。(Could win the war against these two was a big storm"KAMIKAZE" and the activities of the Kamakura warrior team.) ★☆神風特別攻撃隊("KAMIKAZE" Special Attack Force )!★☆ 神風特別攻撃隊(KAMIKAZE)に関する動画(Video)はたくさんありますが、その中でもREALISTが特に厳選したのをここにご紹介します。この動画を観て涙が出る方があるかもしれませんが、どうかご容赦ください。出撃を前に家族にしたためた特攻隊兵士たちの遺書が綴られています。★☆『 神風特攻隊員たちの遺書(Kamikaze member's farewell note) 』★☆「国や愛する家族を守るため!」にと・・高校球児の様な18歳~20歳前半の若き神風特攻隊兵士の最後の別れのシーンより★☆『 特攻へのレクイエム (Requiem for kamikaze)』★☆There is no time any longer. Let's fight. ★☆ 『 もう時間がない。戦おう! 』★☆フィリピン人による神風特攻隊顕彰碑の建設と神風陳列館を訪れた元特攻隊兵士との再会Suicide attack spirit handed down in the Philippines★☆『 フィリピンで語り継がれる特攻精神』★☆ 1944年6月ころから中国国内のアメリカ空軍基地を発進したB29戦略爆撃機の日本本土爆撃が本格化、間もなく アメリカ軍の日本本土各都市への無差別爆撃が始まり(Indiscriminate bombing of American cities in mainland Japan)、軍需工場・軍事基地ばかりか多くの一般市民にまで被害が及んだ結果、これを「日本国存亡の危機(national crisis )」ととらえ、この国難を乗り越える最後の手段として考案され、2度の元寇の危機をも救った「神風(カミカゼ)」の名にちなんで創設したのが、あの「神風特別攻撃隊(特攻・カミカゼ・KAMIKAZE)」でした。(Major storm "Kamikaze"of the invasion won the role, "Kamikaze special attack unit" was established in honor of the name.) 日本の運命を託して、少年の様な若者たちで構成された特別攻撃隊を見送るシーンは、多くの当時の写真や動画記録でも同じように見ることができます。(Kamikaze farewell scene committed the fate of Japan, which consists of a young boy like, as you can see photos and video recording in most of the time.) アメリカ軍を中心とする連合軍(アメリカ・イギリス・オーストラリア・ソ連)との戦いでは、アメリカ軍の長崎、広島への2発の原爆投下により、遂に1945年(昭和20年)8月15日で無条件降伏により終戦を迎えましたが、当時の前線で戦闘中の兵士たちや日本国民の思いはいったいどうだったのでしょうか?アメリカの若者の駐留軍隊に守られ、ただただ平和ボケな時代を生きる今の日本人ではとても想像できないでしょう。 私の想像では・・江戸末期の吉田松陰や坂本竜馬がもっとも恐れたこと・・それは・・"世界の有色人種国家で最後まで白人の支配・植民地化に抵抗した”日本”という国家そのものや”日本民族”という存在自体が消滅すること"が現実となり、他の人種による占領・属国化・植民地化されるという物凄い危機感があったのだと思います。だからこそ・・『特攻(KASMIKAZE)』と言う最後の非常手段を取らざる負えなかったのだと思いました。戦争は、残酷で残念なことですが、・・今では遠い話の様な「国難」や「国家の危機」が目前に迫り、その時代を生き直接体験した人の心境でないとなかなか理解できないでしょう。 終戦により、アメリカ軍に占領・武装解除され、マッカーサー元帥のGHQ(占領軍司令部)による直接統治を経て、新しい西側陣営の民主国家として復興に成功しましたが、もし、アメリカ軍よりも東西冷戦前のソ連軍に占領されていれば、旧ソ連や中国(中共)の国内で行われたように、共産化のための大粛清で数百万以上が虐殺されたでしょうし、ソ連の一部の州か属国となり、現在の北朝鮮同様の軍事共産国家になっていたであろうことが容易に想像できます。多分、アメリカなどの西側陣営に対抗する東側陣営の防壁として最重要視され、今の米軍基地以上のソ連軍の大軍事基地が国内各所に建設されていたでしょう。そのためには、強大な軍隊が必要であり、共産軍としての徴兵制度が復活、公用語はロシア語で現在の中国以上の言論統制が敷かれ、党や政府に歯向かう者は容赦なく捕えられ粛清(処刑)されたでしょう。現に、民主国家になったはずの現ロシア(旧ソ連)でも、反プーチン的国家批判のマスコミやジャーナリスト関係者はことごとく暗殺・殺害されています。・・以上、日本がソ連に軍事占領された場合の歴史的シミュレートでした。ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2010/04/08
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★☆ 零(ゼロ)式艦上戦闘機に搭乗した侍(サムライ) ★☆ ~Samurais who were aboard the Zero-Fighter~ 今回作成した零式艦上戦闘機(略称:ゼロ戦)52丙型(A6M5c)のキットモデルには、パイロット1体と整備兵などのフィギュア6体が付属していましたので、作成した搭乗兵を操縦席に乗せてみました。フィギュア1体だけですが、ゼロ戦に命を吹き込んだ様な迫力や生き生きと見える抜群の効果があるのは不思議でした。 今回は、ゼロ戦で活躍した"大空を駆ける侍(サムライ)"(Through the Sky Samurai)に注目してみました。 こうして見ると、人がようやく納まるコックピットはなんと狭いことでしょうか!ここにスッポリ納まり身動きできない状況下でも、『戦闘機乗りでは戦闘機がまるで自分の体の一部になっているように感じた!』と戦後も生き抜いたゼロ戦エースの一人"坂井三郎(Saburo Sakai)"が、生前のインタビューで証言していました。 戦闘機パイロットの年齢層は若く、最も若いもので18歳前後、平均的に20歳前半が最多であり、一番年齢が高いものでも32歳前後だったそうです。 ★☆ 日本海軍航空隊トップ20エース ★☆ Top 20 Japanese Navy Aces(1937-1945)"西沢広義"(Hiroyoshi Nishizawa)-(86 shooting down Ace)---------------(Class)--------(Ace's name)------(Number of shooting down)---- (参考文献:Reference literature)"Imperial Japanese Navy Aces 1937-45" Henry Sakaida 大戦中の日本の航空隊は海軍と陸軍に分かれていました。零式艦上戦闘機の"ゼロ戦"は、海軍の所属機ですが、その一方で、一式戦闘機の"隼(はやぶさ)"、三式戦闘機の"飛燕(ひえん)"は、陸軍の代表機でした。ここでは、ゼロ戦のエースパイロットに注目しているので、「日本海軍航空兵エース」に限定しました。空のエースたちは、独自の空中戦法や格闘技術を練磨し、他国のエース同様に撃墜マークを愛機にペイントして互いの武功を競い合いました。トップ1(Top1)の"岩本徹三(Tetsuzo Iwamoto)"中尉は、202機の敵機撃墜を誇り、ドイツ空軍の"エーリッヒ・ハルトマン(Erich Alfred "Bubi" Hartmann)"大尉(352機撃墜)には及びませんが、英米軍パイロットと合わせてもトップエース(Top Ace)の位置にありました。上の海軍航空兵の写真は、撃墜王トップ3(Top3)の"西沢広義(Hiroyoshi Nishizawa"中尉です。主にフィリピンのラバウル航空基地を中心にアメリカ・イギリス軍を相手に戦い、ゼロ戦を使いこなして短期間のうちに単独で86機もの敵機を空中格闘戦で撃墜するという天才的戦闘機パイロットでした。しかし、1944年10月26日、戦闘中ではなく、フィリピン国内を輸送機で移動中に攻撃を受け、わずか24歳でその生涯を終えました。合掌!★☆『 エースパイロット(Japanese ZERO-FIGHTER-ACE)』★☆ 中国古代の戦略技術書的な「孫子(そんし)の兵法(へいほう)」を読んだことがありますが、すべての戦略(外交戦略も)では、将棋やチェスでも共通する一種の駆け引きや揺さぶり、敵情視察からの正しい情報分析から導き出される対抗手段・方法・タイミングの結果がその勝敗を決することになります。 ★☆ "ゼロファイター(ゼロ戦)"エースの関連動画発見! ★☆ アメリカで保存中の52甲型が1995.5に竜ケ崎飛行場に里帰り飛行★☆『 零戦 日本の空を飛ぶ(高画質)』★☆★☆『 零戦 vs P-51 1995.5 竜ヶ崎飛行場 』★☆★☆『 【桜ひとひら】ゼロ戦 』★☆ 平和な日本では考えられない・・目前に迫る敵と戦う当時のパイロットたちの心境は、「愛する父母、兄弟、妻子や恋人、故郷や日本を敵の攻撃から守るために自己を犠牲にするのはいとわない」という気持ちからだったそうです。この気持ちは、日本の幕末から続く、周囲のアジア諸国が白人の支配下の植民地となっていく様に日本の将来に強い危機感を感じた江戸末期の志士(サムライ)"吉田松陰や坂本竜馬"の「国難を救う」という共通観念がそのまま延長線上に日本人の意識に定着していたものではないかと思います。・・これは、もっと古い話では、あの蒙古襲来(元寇の役)の際に、それまで互いに争っていた武将や御家人たちが、「いざ、鎌倉!」の号令のもと日本の国難を救う国防のためにと馳せ参じ一致協力して蒙古軍の大軍と戦った鎌倉武士たちの意識にも共通するものではないかと思いました。 空中戦(ドッグファイト)では、後方に追尾された状態が一番危険であり、いかにその優位な位置を先に取るかが最大のポイントでした。 敵戦闘機の背後の追尾位置をキープすれば、命中精度の高いわずか30~40mの至近距離から機銃掃射をしたそうです。そのチャンスを逃せば、逆に敵側にあっという間に形勢逆転され、自分が撃墜されるからです。 戦後も生き残った当時の戦闘機パイロットが当時を振り返って、「空中戦では接近するので、互いに顔や表情まで良く見え、相手の青い目の色まで見えた。」と言う証言を思い出しました。 エースパイロットが乗機することで、ゼロ戦が一層引き締まって見えるのは、REALISTの目の錯覚でしょうか? 当時のパイロットは、飛行服の右腕に大きな日の丸の国旗を装着している例が多いので、リアルに日の丸を描きました。 風防を開放した状態で飛行している写真を見かけたことがあるのですが、この状態はオープンカーの様な感覚なのでしょうか?風防前部があるので空気の流れは直接当たることはないと思いますが、それでもかなりの抵抗があると思います。 戦闘機パイロットと言えども、単なる飛行機乗りではなく、実際の搭乗操縦・パラシュート降下・射爆訓練から、計器類の読みとり・分析・操作・危機管理マニュアルの修習、物理・飛行学、気象・天候学、地勢・地理学、航空力学・航法学、射撃・爆撃管制学などの関連基礎学もマスターしたエリートでした。 ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2010/04/02
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★☆ 日本海軍零式艦上戦闘機52丙型(A6M5c)(1/48) ★☆ "MITSUBISHI -ZERO-FIGHTER (A6M5c-ZEKE)" Reproduce ! ~ 見よ!ゼロ戦ファイターの雄姿! ~ 1940~1943年にかけての零式艦上戦闘機(ゼロ戦)は、11、21、22、32型と次第に進化していきすが、当時、中国の漢口、南寧、台湾の高雄、仏領印(現ベトナム)のハノイ、サイゴンの航空基地に展開していた日本軍機に対抗する中国軍機は、ソ連の新鋭戦闘機を導入して挑みますが、ゼロ戦との空中格闘戦ではまるで歯が立たず早い段階で壊滅しました。やがて、1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃から太平洋戦争突入後も、ゼロ戦は、東南アジアの植民地宗主国であるアメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア軍などを相手に様々な機種の戦闘機と戦いますが、これも向かうところ敵なしの状態であり、あまりの強さに彼らはゼロ戦に強い脅威を感じ『ZERO-FIGHTER(ゼロファイター)』と特別に呼びました。 この作品は、1/48scale、「MITSUBISHI A6M5c ZEROFIGHTER(ZEKE):日本海軍零式艦上戦闘機52丙型(A6M5c)」(TAMIYA)です。 REALISTは、今回、初めて日本軍機を作成しましたが、このゼロ戦に関しては、他国の戦闘機にないバランスのとれた美しさに驚きました。かつての敵だったアメリカ人にこの戦闘機を敬愛する人々が多い理由がよくわかりました。戦後、この戦闘機を飛べる状態で唯一大切に保存しているのが日本人ではなくアメリカ人であることにも戦後日本の置かれた歴史の皮肉を感じました。 ★☆ ZERO-FIGHTERの関連動画発見! ★☆ ゼロ戦(ZERO)! ↓ ↓ ↓ クリック! ★☆ 『 【零戦】Respect ZERO【PV】 』 ★☆★☆ 『 zero, lightning, and hellcat : oh my! 』 ★☆ 終戦1年前の1944年10月21日から始まる「神風特別攻撃隊」以前では、ベテランパイロットが通常の空中戦で戦果を挙げて活躍し、岩本徹三(202機撃墜)、杉田庄一(120機以上同)、西澤広義(86機同)、福本繁夫(72機同)、坂井三郎(60機以上同)などの多くの日本陸海軍航空隊エースが出現、ゼロ戦や隼などで活躍しました。 ゼロ戦のプロペラ軸先端部の円錐形カバーは、「スピナ」と呼ばれるものです。昭和18年7月以降の日本軍戦闘機の特徴となった主翼前縁の中央から胴体付け根までの「レモンイエロー」の塗装は、味方識別のためでした。 「ゼロ戦の強さの謎」を解明するため、アメリカ軍は無傷なゼロ戦の捕獲作戦を開始しますが、遂にアリューシャン付近のアクタン島に被弾、不時着のままのほぼ無傷のゼロ戦21型を発見、獲得に成功、本国に持ち帰り徹底的にゼロ戦の技術を解明分析、この性能を上回るF6Fヘルキャット、P51ムスタングなどを開発します。このため、空中戦でのゼロ戦の優位性が次第に落ちていく中でそれに対抗するために開発に着手、防御面、武装面でも性能を高めたゼロ戦の実用機として1944年10月1日から正式採用されたのが、このゼロ戦52丙型(A6M5c)でした。Box Art (By Tamiya) タミヤの箱絵(Box Art)では、今まさに離陸、車輪を格納する状況が描かれています。このゼロ戦52丙型(A6M5c)は、マーキング表示から「第332海軍航空隊所属機(昭和19年10月・山口県岩国基地)」であり、REALISTはこの所属機の塗装を選択しました。 左は、英語とドイツ語による組立説明書のトップページです。右は、ゼロ戦52丙型の所属部隊別による塗装や微妙な部隊標記・マーキングの種類・位置関係の異なるサンプルが描かれており、どの所属機を選択するかは自由でそれに対応するデカールも用意されているのでバリエーションがあり、これを参考にして塗装や日章旗などを仕上げるわけです。 ★☆ 零式艦上戦闘機52丙型の性能データ ★☆ Specifications of A6M5cエン ジン : 中島栄21型空冷複列星型14気筒出 力 : 第1速1130馬力 、第2速980馬力全 幅 : 11.00m 、全 長 : 9.060m 、全 高 : 3.509m航続距離 : 3360km(巡航時推算値)全備重量 : 3150kg 、自重2155kg最大速度 : 540km/h固定武装 : 20mm機銃X2 、13.2mm機銃X3 機体の塗装では、前面カウリング部分は黒色、機体上面が暗緑色、下面が明灰白色なのですが、胴体中央から尾翼にかけての緩やかで微妙な境界ラインが難しくて、筆塗装では境界部分が不自然になるため、塗装サンプル図を忠実に再現するため、マスキングテープを使用、エアブラシで吹き付け塗装を施しました。 コックピットは、計器類の表示から射撃照準器まで再現されています。コックピット内はメタリックブルーの塗装が指定されていました。ゼロ戦52丙型(A6M5c)では、風防前面が厚さ45mm、後部が55mmの防弾ガラスが追加され、操縦席の後部、側面にも防弾鋼板が新たに追加導入されました。 識別符号の数字が尾翼に記載されています。後部胴体部分に見える表は、「型式、製造番号、所属」が記載表示されており、その右側には、赤いカタカナ文字と矢印で「ココノセル」と縦書きで表記されています。 日章旗は、現自衛隊の申し訳程度の小さなサイズとは異なり、どれも大きく明確に表示され、威風堂々と自信と誇りに満ちた当時の雰囲気が感じ取れます。基本は下面は白色の縁なしで、上面は白色の縁ありでしたが、実際は白の縁取りを機体色で塗りつぶすことが多かったそうです。 左主翼の一番手前に突き出た部分は、「速度計用ピトー管」で、さらに胴体部分に向かって手前から「13mm機銃」、「20mm機銃」の銃身が見えます。前バージョンの「ゼロ戦52甲(A6M5)」では、胴体エンジン部分に「7.7mm機銃」が2挺、主翼部分には「20mm機銃」2挺でしたが、丙型から武装強化され、主翼部分に「13mm機銃」が2挺追加、胴体エンジン部分は、「13mm機銃」1挺に変更されました。 主翼下手前の銀色の爆弾様の物は、アメリカ軍の「B29爆撃機」を要撃するために昭和17年頃開発、実戦で使用された「三式6番27号爆弾」と呼ばれたロケット弾(60kg)です。機体下部中央には、落下式燃料増設タンク(容量300L)があり、アメリカ軍のどの戦闘機をもはるかに上回る驚異的な航続距離が可能でした。 コックピット部分を前方から見た状況です。風防を開放した状況を再現し、前面ガラス越しに射撃照準器の四角いレンズ部分を見ることができます。 後方から見た状況ですが、本土防空のために出撃したゼロ戦との空中格闘戦で後方から追撃したアメリカ軍P51ムスタングのパイロットの目にはこの様なシルエットが映ったのでしょうか? 正面から見た状況です。写真では見にくいのですが、車輪主脚部分に油圧ブレーキのブレーキオイルパイプをエナメル線で再現しました。 ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2010/03/28
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☆ GERMAN 8-WHEELED HEAVY ARMORED CAR AND THE CREW ★ ~ ドイツ人と猫との関係に対する考察 ~ ドイツ兵と犬の関係については、これまでも多くの記事で部隊の神聖なる『マスコット(「守り神」の意味がある)』との関係が濃厚であったことをこれまでの『歴史的考証資料等』などの数回の過去の記事で実際の写真を添付してご紹介しています。しかし、猫(ドイツ語で『KATZ(カッツ)』に関しては、『歴史的考証資料等』の記事「ドイツ兵士と猫のいる風景」の1度のみしか取り上げていません。 そこで、今回は、ドイツ人と猫に関係する考察をドイツ人の好むモーゼル産ワインと絡めてみることにしました。そして、REALISTが過去に可愛がっていた「シロ」と言う名の白猫と8輪装甲車、それにおなじみのドイツ搭乗兵とのコラボで撮影してみました。 今回は、ドイツ搭乗兵がマスコットとして装甲車に乗せて隊員たちで可愛がっている愛猫「シロ」とのツーショットを友人に依頼して撮影した写真という想定です。猫という動物は、うれしい時はしっぽを立てて足のまわりをまとわりつく習性があります。 REALISTの私がブドウ独特の軽い酸味とその透明感や口当たりの良さでお気に入りのドイツブランドのモーゼル(MOSEL)産ワインに・・『ZELLER SCHWARZE KATZ(ツェラー シュヴァルツェ カッツ)・・・意味は「黒猫」』・・という銘柄があります。これは、黒猫の可愛い絵が描かれたラベルのある緑色のガラス瓶にコルクで封印されたもので、コルク栓を抜くと甘酸っぱいほのかなドイツ風の香りがします。このワインは、意外と安くてリーズナブルでスーパーにでも行けば、「800円」程度で売られています。 緑色のワインのガラス瓶の銘柄のある『ZELLER SCHWARZE KATZ(ツェラー シュヴァルツェ カッツ)・・・意味は「黒猫」』のラベル表示とそこに描かれている黒猫の絵です。 こんなドイツモーゼル産の有名なワインが存在することから、「猫(KATZ)」という動物に関してもドイツ人には、愛すべきマスコットであることは間違いないでしょう。こんな愛くるしい・いわゆる「キジネコ」 も我が家の人気者でした。 これも、愛猫と8輪重装甲車、ドイツ搭乗兵のコラボです。こんな、たった1匹の猫が加わっただけでも、そこには新たなストーリーが生まれそうです。 【5%offクーポン(要獲得) 10/11 20:00〜10/15 23:59】 1/35 ミリタリーミニチュアシリーズ No.297 ドイツ8輪重装甲車 Sd.Kfz.232 ”アフリカ軍団” 【タミヤ: 玩具 プラモデル ミリタリー】【TAMIYA】楽天で購入ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2009/09/25
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☆★ ドイツ軍装甲車搭乗兵には、戦車兵搭乗服の着用が認められていた! ★☆ GERMAN 8-WHEELED HEAVY ARMORED CAR AND THE CREW 歴史考証として、第二次世界大戦中のドイツ陸軍では、装甲車の搭乗兵には、特例として、黒ウール製の戦車搭乗用野戦服の着用を戦車兵以外で唯一許可されていたことが判明しました。 なんとも凛々(りり)しい装甲車搭乗兵です。胸に光る鉄十字章が無言で彼の歴戦の功績を語っています。このように、装甲車に搭乗兵一人が加わるだけで、もうそこには一つのリアルな物語が存在するように感じることができます。 愛車の装甲車の正面で並んで撮影に応じる搭乗兵のシーンです。どことなく、搭乗兵の得意満面って感じの雰囲気が漂(ただよ)っています。彼は、この写真を家族あてに送ったようです。 写真は、1942年5月、ロシアのオリヨール鉄道操車場で撮影されたもので、貨車から降ろされたSdkfz232(8輪重装甲偵察車)の搭乗兵が防水シートを除去しているシーンです。装甲車の搭乗兵には、特例として戦車搭乗用野戦服の着用が認められていました。 装甲車の右後方で撮影に応じてくれた搭乗兵のシーンです。彼によると、装甲車の後方よりも前方で撮影したほうが好みだそうです。 撮影では、光の微妙な角度や当たり具合から、搭乗兵の顔の表情や変化を観ることができます。この金髪のアーリア系ゲルマン戦士は、これまでの戦闘経験から偵察任務の重要性というものをとても骨身に浸(し)みて感じているようです。 写真は、どれも1942年冬のSdkfz232重装甲車が東部戦線における敵情偵察任務中のSdkfz232で、左は、搭乗兵及び迷彩服と迷彩ヘルメットカバー姿のオートバイ偵察兵がいずれも双眼鏡で偵察任務中のシーンです。重装甲車にも白色迷彩がほどこされている様子がうかがえます。 装甲車の右斜め前で撮影したシーンです。前線兵士のこの種の写真が多く存在するのは、帰国を待つ家族あてに送られたからでしょうか。 これは、太陽光のまぶしさに顔をしかめているように見える搭乗兵の様子になりました。 【500円offクーポン(要獲得) 10/30 9:59まで】 1/35 ミリタリーミニチュアシリーズ No.297 ドイツ8輪重装甲車 Sd.Kfz.232 ”アフリカ軍団” 【タミヤ: 玩具 プラモデル ミリタリー】【TAMIYA】楽天で購入ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2009/09/18
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★☆ 70年以上前の工学テクノロジーと思えないその先進性 ★☆ GERMAN 8-WHEELED HEAVY ARMORED CAR(1/35) 前回に続き、今回も70年以上前の1937年から生産実用化されていたドイツ軍の8輪駆動重装甲偵察車「Sdkfz232」のご紹介です。ただし、今回は、その車両の先進的な工学テクノロジーがわかるディティールデザインに焦点を当てることにしました。 この車体の装甲板は、厚いところでせいぜい15mmでした。それは、この車両の主目的が『 戦闘 』ではなく、敵の勢力、装備などの情報を隠密裏(おんみつり)に収集するという『 偵察 』であったためです。それにより、道路上では85km/hの高速走行が可能となり、道路のない不整地でも素早く迅速に行動できたわけです。そのため、敵の発砲する弾丸に対する装甲板の被弾経避(ひだんけいひ)が十分に考慮されたものに仕上がっています。それは、随所に工夫が見られる角度を持たせた装甲板の状況を一目見れば納得できます。 ★☆『 SdKfz 232 (8-rad) 』★☆ 写真左は、1944年のイタリア戦線でフレームアンテナのない「Sdkfz231」3台による前線偵察中のシーンで、どの車両も前部フェンダーにスモークディスチャージャー(発煙弾)を装着しています。右の写真も同じくイタリア戦線で上陸したアメリカ・イギリス軍部隊の敵情視察に向かう際に撮影されたもので、シュテルン・アンテナを装備した「Sdkfz232」」の砲塔部分で車長と射撃手が見えます。砲口に砂などの異物混入を防ぐためにカバーを装着しています。 武装の携行弾数は、通常は、20mm機関砲が180発、7.92mm機関銃が1125発でした。それに加え、車内にはMP38サブマシンガン1丁・携行弾数は192発がありました。この20mm機関砲(2cm・Kwk38)は、毎分450発の射撃能力があり、100m先で20mm厚、500m先の14mm厚の垂直装甲板を貫通することができました。 8輪重装甲無線車「Sdkfz232」の主たる任務は、交戦を避けつつ敵の情報収集をすることでした。写真は、敵情を偵察中の「Sdkfz232」が、偶然、優勢な敵部隊と遭遇したことを想定して、発煙弾で煙幕を張り、装甲の厚い車体前面を敵に向けたまま、後部操縦席で急速に後退しつつ追撃してくるあらゆる敵に対応できるように砲塔を旋回させながらその場から離脱するという訓練をしている状況です。 この車両の当時の実写で多く見るれるのが、上の写真の様に砲塔下の装甲板のフックに乗務員の戦闘用ヘルメットを装着している例が多いということです。これは、正確な理由はわかりませんが、「Sdkfz232」の場合、大型無線機類を装備していたため、車内スペースに余裕がないのかもしれません。 当時のドイツ軍車両を見て感心することは、他国に絶対に負けないその車載装備品の充実ぶりです。ツルハシ、斧、スコップ、消火器、ジャッキ類などの車両整備品等々いたせり尽くせりという感じです。追加装備された前部のスペードアーマー(装甲板)についても、単なる垂直な鋼鉄板でなく、くの字型に角度をもたせることによって装甲板の被弾経避(ひだんけいひ)で損傷を最小限にする工夫が施(ほどこ)されています。 砲塔部の乗員搭乗口の状況がよくわかります。戦車に比べ砲塔部が小さく、内部に車長と射撃手の2人が入るには狭いと感じられます。 右の写真は、1943年秋ごろ前線から帰還したところをドイツ国内で撮影されたもので、市民たちが帰還部隊を見守っているところです。この車両はフレームアンテナではなく、シュテルン・アンテナを装備した「Sdkfz232」ですが、スペアタイヤの装着状況やバケツの取り付け状態が、左の自作モデルと偶然に一致していました。 この複雑な形状を見ると、他の国の装甲車や戦闘車両の形状がずいぶんと単純なものに見えてしまいます。これを1台製造するのには、かなりの複雑な製造工程が必要だったことでしょう。しかし、それを他の国なら・・まずまず不可能だとあきらめるであろうことを・・見事やり遂げるのが、まさにドイツの技術水準の高さでしょう。戦車に比べゴムタイヤの装甲車は走行時の騒音が少なく、まさに機動的な偵察任務に最適なものでした。当初の東部戦線における連戦連勝は、優秀な偵察部隊の存在抜きには考えられませんでした。 車体右側面部の状況です。中央部の搭乗口が開口された状況です。搭乗員は、戦闘時や緊急時には素早くここから搭乗するとともに、非常時には脱出口になりました。 上の写真と対比した車体左側面部です。ここにも中央部に乗員の搭乗口がありますが、これは閉じた状態にしています。搭乗口の左側には、金属的な光沢のあるジャッキ、右側に円筒形の消火器、さらにスコップの柄が見えます。 タイヤ2輪づつを大型フェンダーで保護していますが、これを見ると何とも未来的な車両のイメージがします。 30%OFF!!タミヤ 1/35 MM 35297 ドイツ 8輪重装甲車 Sd.Kfz.232 “アフリカ軍団”価格:2,499円(税込、送料別)ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2009/09/07
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☆現代にも生き続ける世界初の高速8輪装甲車Sdkfz232の高度な技術★ GERMAN 8-WHEELED HEAVY ARMORED CAR(1/35) 第2次世界大戦中、ドイツは戦車同様に多くの装甲車を開発、使用しました。その中でも大戦当初から終戦までの間、装甲車の中心となり威力偵察任務や最前線での指揮車両として活躍したのが、「Sdkfz231型」や「Sdkfz232型」の8輪全輪駆動の重装甲車でした。「231型」と「232型」の基本ベースは全く同一ですが、その違いは「232型」が長距離通信無線装置と大型のフレームアンテナを装備し、周囲50km範囲内での強力な無線交信が可能であったことでした。この8輪重装甲車は、1937年から量産に入り、1942年1月までの間、1,235台が製造されました。 前部に張り出したクサビ型のスペードアーマー(装甲板)は、前部の耐弾性能を高めるため、1940年7月22日付けの軍公報で取り付けが指示されたもので、231型、232型全車両に追加装備されたものです。これは、厚さ10mmの鋼鉄装甲板で車体から約50cm離れるようにアングル材と多孔板により装着されました。白いヘルメット状の部隊識別マークは、『ドイツ国防軍「グロースドイッチュランド(GD)」戦車擲弾(てきだん)兵師団』であり、その下の白い車輪の様な戦術マークは、『オートバイ狙撃兵大隊』を現しています。 同師団は1942年に編成され、主に東部戦線で活躍しました。 この装甲車の基本ベースとなる特徴は、武装を回転砲塔部に同軸で20mm機関砲及びMG34(口径7.92mm)機関銃を装備していること、道路上での最高速度は約85km/hで迅速で俊敏な移動が可能であったこと、8輪駆動による路外走行性能は良好で、前後に2つの操縦席があるために狭い道でのUターンは不要で前部でも後部でも全くの同一速度での走行が可能であったこと、さらに8輪ともにハンドルが切れるというユニークなメカニズムで抜群の機動性を発揮することができたということでした。そのため、ヨーロッパ各地、北アフリカ、東部戦線など各地の最前線で多数が使用されました。 写真は、1942年5月、東部戦線の前進基地となったロシアのオリヨールの鉄道操車場にドイツ本国から到着したばかりのGD師団オートバイ狙撃兵大隊第1中隊所属の「Sdkfz232」で、「WH-1021483」の車番が見えます。砲塔には、防水シートがかぶせられています。この写真は途中から切れていますが、実際の写真では、この車両の後方に同形車両が2両が見えました。 REALISTがこの装甲車がお気に入りな理由は、いかにもドイツらしい重厚なデザイン美とドイツの高度な工業技術で最先端のテクノロジーが見事に凝縮、実用化された世界初の高速8輪重装甲車だからです。当時、アメリカ、イギリス、ロシアでもこのタイプは存在していませんが、終戦後は、戦勝国のロシアやアメリカ、イギリス、フランスなど各国でこの技術がコピー採用され、現代戦力の8輪装甲車両として類似車両多数が使用されています。Box Art (By Tamiya)★☆『 SdKfz 232 』★☆ このTAMYAのモデルキットは、1974年3月に発売開始されたもので、発売当初の価格は1,000円でした。その後、定価2,200円に変更されていましたが、最近、生産が中止されたようです。その後、「アフリカ仕様」の新製品として定価3,400円で販売されています。このモデルが注目されたのは、何といってもその独特な重装甲スタイルや8輪ステアリングの複雑な駆動系が丁寧な解説とともに精密にパーツ化され、忠実に再現されている点でした。この箱絵(Box Art)では、大戦初期が設定されていますが、同装甲車は、東部戦線から、西部戦線、北アフリカ戦まで広範囲に、ほぼ終戦時まで活躍しており、部隊マーキングや塗装方法、取り付けパーツ類の変更で前期型と後期型どちらでも全部で7種類の変化が再現できます。REALISTは、このモデルを偶然、1年以上前に福岡市博多天神のトムソーヤで発見、2,200円で購入、その後、発売された新製品の「アフリカ仕様」も3,400円で博多駅前のヨドバシカメラで購入しました。そこで、両者の内容を比較してみましたが、アフリカ仕様のフィギュアの変更と金属製の砲身及びエッチングパーツの追加を除く他のパーツ類の大部分はほぼ同じものでした。 正面から見ると前部のスペードアーマー(装甲板)がかなり大きく見えます。フェンダー左右に突き出た棒状の物は先端部にゴルフボール大の白い球体が付属しており、操縦者が狭い道路などを操縦する際に車両感覚を確認判断するためのもので、後部にも左右1対が装備されていました。この完成モデルには、上の実写車両と同じ「WH-1021483」の車番を採用しました。 ★☆ Sdkfz231/232の性能データ ★☆ 全長5.85m、全幅2.20m、全高2.35m、重量8.3t(231型)・9.1t(232型)、エンジン・ビューシングNAG社製L8・V型8気筒180PS、最高速度85km/h、航続距離300km、変速機・前進6速、後進6速、武装20mm機関砲、7.92mm機関銃、装甲厚15mm、乗員4名 前部フェンダー左右に4発づつのスモークディスチャージャー(発煙弾)を装着しました。これは他のパーツと選択自由でしたが、実際の写真でもこの装備車両をよく見かけたことからこれを選択したものです。偵察中に強力な敵と遭遇した場合、追撃を逃れるため、直ちに後部操縦席で高速で後退しつつ、20mm機関砲などで応戦するシーンで煙幕として発煙弾を使用するためです。 写真は、1941年バルバロッサ作戦時ころのロシアのある都市を索敵中のSdkfz232のシーンです。ヘルメットを装着しており、最前線の緊迫感があります。前部スペードアーマー(装甲板)の中央上部に夜間前方地面を照らすノテックライト、内側に燃料補給用の予備のジェリ缶が装着されています。 車両右側面部を見た状況です。装甲板に包まれた車体の開発は、ドイッチェ・ヴェルケ社のキール工場が担当し、車体の形状は被弾経避が十分に考慮されたドイツ軍独特の直線的で優美なものになり、2輪づつまとめた大型フェンダーで全体を強く引き締めたデザインにまとまっています。搭乗員の出入り口は砲塔部のほか、車体中央部の両側面部にもありました。この写真では、中央部出入り口を開口しています。 車両右後方部を見た状況ですが、ナンバープレート上部に車両間隔灯やスペアタイヤの装着状況がわかり、車両の洗車などの用途に使用されたバケツまでもあります。パーツの選択次第で当時の実写のままリアルに再現することができます。とにかく、このモデルキットは選択自由で様々なパーツが豊富に用意されているのが魅力ですね。 車両左後方部の状況ですが、後部下部分にけん引用ワイヤーロープ、ナンバープレートの上部には制動灯が見えます。 この車両のフレームアンテナの独特な形状がよくわかります。同車両は長距離用の無線通信機のほか、戦車との交信が可能な無線電話機も装備されていました。1937年から生産された「Sdkfz232型」は、無線装甲車としての地位は、次第に後継車両の「Sdkfz233」に引き継がれていきました。 8輪全駆動方式で、しかも8輪すべてにハンドル操作がきき、前部と後部どちらの操縦席でも同一速度を可能にしたメカニカルな動力機構の複雑さは、車体下部の状況を見ればわかります。これを見ても、タミヤ模型の素晴らしいところは、遠路はるばる海外の博物館に保存されている本物の車両を隅々まで採寸・記録し、それを見事にプラモデルとして再現しているこだわりにありますね。 ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~【5%offクーポン(要獲得) 10/11 20:00〜10/15 23:59】 1/35 ミリタリーミニチュアシリーズ No.297 ドイツ8輪重装甲車 Sd.Kfz.232 ”アフリカ軍団” 【タミヤ: 玩具 プラモデル ミリタリー】【TAMIYA】楽天で購入♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2009/09/04
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★☆ PANZER KAMPFWAGEN IV Ausf.D(1/35)★☆ ~ 限られた記憶の戦車兵たち ~ 「シュッツ・ミッツエ」という独特のベレー帽スタイルの戦車帽を着用したドイツ軍戦車兵のスタイルは、ヨーロッパ第2次世界大戦の口火となった1939年9月のポーランド戦から1940年6月のフランス占領までの間だけに存在したスタイルでした。今回は、その極めて限定された期間にのみ存在したドイツ軍戦車兵の「シュッツ・ミッツエ」スタイルというものに着目してIV号戦車D型との構図で撮影しました。 ドイツ軍戦車兵の制服は当初から黒色を基調としていました。それは、戦車兵はエリートとしての誇りの象徴としての意味からも他の兵士と容易に区別する意味からも黒色を好みましたが、その半面、戦車への搭乗や機械的なメンテナンス等での油汚れの頻度も高いために制服の色を黒としたという経緯もあったようです。 1940年5月の対フランス戦当時に撮影されたIV号戦車D型とドイツ戦車兵の雄姿です。 砲塔左側面を見た状況です。当時の写真には、こんな感じで砲塔出入り口から身を乗り出したシーンがとても多いのです。 車体左側面をよく見ると、車上へ上がるための足を架けるフックが見えますが、他の戦車ではあまり見かけない設備です。 この写真も1940年5月のフランス侵攻時に撮影されたIV号戦車B型若しくはC型ですが、外見的にはD型とほとんど変わりないようです。写真の様に車内が狭いせいか、戦闘時を除いて砲手や装填手までもが、砲塔側面の出入り口から身を乗り出しています。 砲塔正面を見た状況です。砲塔よりも戦車兵に焦点を当てて撮影するとこんな感じになります。 前部機銃座付近ある「Y」を逆さまにした白いマークは師団マークです。 車体前部に焦点を当てて撮影しましたが、ジャーマングレイの塗装によりとても重厚な車体のイメージになりますね。 車体右側前部を撮影した状況です。大型の機動輪がよくわかります。 車体左側前部を撮影した状況です。短砲身の砲塔部分がIV号戦車D型の特徴です。 タミヤ 1/35 ミリタリーミニチュアシリーズ No.96 ドイツ IV号戦車D型 プラモデル(C5161)楽天で購入ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2009/08/26
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★☆ 電撃作戦で初陣を飾り活躍したドイツ軍・IV号戦車D型 ★☆ Panzer Kampwagen IV Ausf.D~第2次大戦極初期に活躍した支援中戦車~ ドイツが誇るIV号戦車は、もともとはIII号戦車を支援する目的で開発された中戦車でしたが、その古風な形態であるにもかかわらず、機械的な高い信頼性とメンテナンスの容易さ等から現場の将兵の人気が高く、その先見性のある車体と砲塔の設計・構造に支えられた結果、1937年のA型を皮切りに・・様々な現場からの要望による改善、改良、火力・防御力の増強が施され・・B、C型・・D型、F型、G型、H型と最終型のJ型までが・・1945年5月の終戦に至るまでの間、継続生産され、ドイツ戦車中では最も多数が生産されました。 IV号戦車D型では、他の連合国に先んじて既に各車無線装置が施され、戦車同士の高い機動戦が可能であり、乗員は、戦車長、砲手、装填手、無線手兼機銃手、操縦手の5名で編成されていました。ドイツ軍車両の塗装色は、大戦当初から1943年2月まではその基本色が北アフリカ戦のアフリカ軍団を除きジャーマングレイに統一されていました。それでも、東部戦線における冬季戦などでは現地での白色迷彩塗装などはあったようです。 今回のIV号戦車D型は、1939年10月から1941年5月にかけて、わずか229両が生産されたものですが、第2次世界大戦の口火となったポーランド戦から1940年の西方戦役のフランス戦、オランダ・デンマーク攻略戦、1941年のバルカン戦、北アフリカ戦における雄姿を当時の戦場写真から多数見ることができます。 西方戦役と言えば、対フランス戦ばかりがクローズアップされますが、オランダやデンマーク・ベルギー攻略戦なども含まれており、この写真は、オランダの首都ロッテルダム攻略に向かうIV号戦車D型の雄姿です。 Box Art (By Tamiya)★☆『 Sd.Kfz.161/4号戦車』★☆ このTAMYAのモデルキットは、1977年7月に発売開始されたもので、発売当初の価格は1,000円でした(現在は定価2,500円)。このモデルが注目されたのは、大戦当初の西方電撃戦のイメージに忠実であることであり、付属のフィギュアが、それまで存在しなかった電撃戦当時に着用していた「シュッツ・ミッツエ」という独特のベレー帽スタイルを忠実に再現していることでした。 TAMIYAのBOX ARTを参考に意識して撮影しました。大戦初期のドイツ軍国籍マークは、このモデルの様に白十字でしたが、その目立つマークが災いして標的にされることが多いため、その後は白枠を残して黒塗りが施されるようになったそうです。戦車長が無線ヘッドフォンを装着しており、砲手が砲塔側面の搭乗口から上半身を出しているスタイルですが、こんなシーンが実写でも多いのでとてもリアルな表現に見えます。 ★☆ IV号戦車D型の性能データ ★☆ 設計・デザインはクルップ社により開発されたものであり、重量は20トン、主砲は火力支援用としての短砲身24口径75mm砲1門を回転砲塔に搭載、他に副砲として7.92mm機関銃(MG34)2挺(ちょう)を砲塔及び前部無線操縦席に配置、装甲は車体前面及び砲塔前面が30mm、エンジン出力300馬力のマイバッハ12気筒12000ccで40km/hの最高速度でした。この短砲身は、1941年11月から生産されたF2型から43口径の長砲身型に変貌していきます。日本軍の主力戦車が大戦後期になっても搭載主砲が短砲身50mm砲止まりで非力であったのに比べ、当時としてはとてもハイスペックな性能でした。 左側面部を撮影した状況です。国籍マーキング等の配置については、ポーランド戦に参加した車両を参考にしたものです。IV号戦車の車体は、戦車以外の対空戦車、駆逐戦車、自走砲タイプへの車両にも多くが利用されました。 右斜め前方から撮影した状況です。この位置が、この戦車の火器の配置状況が一番わかるグッドポジションですね。 後部を撮影した状況です。中央部には発煙弾が装備されていました。 この写真の戦車は、IV号戦車D型に酷似していますが、資料によりますと、実際には、ポーランド戦における第1装甲師団第1戦車連隊第4中隊所属のIV号戦車A型だそうです。「シュッツ・ミッツエ」という独特のベレー帽スタイルの戦車帽の形状がよくわかりますね。 右側面部を撮影した状況です。特徴のあるアンテナ部の設置状況がよくわかります。 左斜め後部を撮影した状況です。高い信頼性やメンテナンスの容易さから、この古風な足回りは終戦までほとんど変更されていません。 「シュッツ・ミッツエ」という独特のベレー帽は、詰め物が入った防護ヘルメットを内蔵していたためにとても重量があり、その大きめな形状と戦車の狭い車内の活動面や搭乗出入り口での乗降の際に障害になることが多く、現場戦車兵に不評であったため、フランス戦以降になると直ちに廃止されてしまいます。 1/35 ミリタリーミニチュアシリーズ ドイツ IV号戦車D型 【35096】 タミヤ価格:1880円(税込、送料別) (2020/1/26時点)楽天で購入 ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2009/08/17
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★☆ Pkw.K1キューベルワーゲン82型(アフリカ仕様) (1/35) ★☆ ~ Pkw.K1 Kübelwagen TYPE82 AFRICA-CORPS ~ キューベルワーゲン82型は、既に作成済みのものがありますが、今回は、そのアフリカ仕様バージョンを作成しました。ロンメル軍団を想定した北アフリカ戦では必須の車両だからです。それで、「通常タイプとアフリカ仕様ではどこが違うのか?」ということになりますが、それは、「タイヤが違う!、”バルーンタイヤ”と呼ばれた砂漠用に改良されたタイヤを装備していた」ということです。 Ramcke's Fallschirmjager Brigade. North Africaバルーンタイヤに変わっただけで、随分とイメージが変わって見えます。キューベルワーゲン82型は、主に連絡車として幅広い戦線で使用され、終戦までに各種合わせて約51.000台が生産されましたが、特にロンメル将軍が率いたドイツアフリカ軍団(DAK)の北アフリカ戦線では、冷却水を必要としない空冷エンジンが喜ばれ、操縦性の良さや整備の容易さから多くの将兵に愛用されました。そのため1942年からは、北アフリカ戦線の各部隊の要望により砂漠地帯での走行性を高めるためのコンチネンタル・バルーンタイヤを装備したアフリカ仕様の82型が新たに製造されたわけです。塗装は、エアーブラシを使用して砂漠戦用にダークイエロー一色にしました。まだ、汚すのが嫌なので、工場出荷時のままの新品で、しばらくは、カーショールームの展示室にでも置いているような感じにしておきます。 Box Art (By Tamiya)★☆『 AFRIKA KORPS in color WW2 』★☆ このキットモデルは、タミヤから1999年9月から発売開始されたMMシリーズ(1/35scale)で、比較的新しいものです。通称”アフリカ型”なわけですが、ロシアのぬかるんだ泥道に苦しんだ東部戦線やイタリア戦線でも使われた当時の写真が残っているそうで、場合によっては、北アフリカ戦線を想定した場面以外でも使えそうです。通常型に比べ、タイヤばかりかリブの形状やリアパネルも変更されており、このあたりの細かい違いを見事に再現しているタミヤらしさのあるキットと言えるでしょう。 WH1275658の登録番号の見えるこのアフリカ仕様車両は、泥よけ上と前面に師団旗が掲げられています。運転席ドアには、「第164アフリカ軽師団」を示す白い「マイセンの交差剣」の部隊章が描かれています。助手席に同乗している将官は、1943年1月1日から師団司令官に着任したフライヘア・フォン・リーベンシュタイン少将です。 左側面部の状況を撮影したものです。キューベルワーゲンの独特な雰囲気の形状がよくわかります。このオープンカーが店頭で市販されていたら、すぐにでも買っちゃいそうです。軽量モノコックボディで無駄なものはすべて取り払われた状態で、エンジンも空冷4気筒985ccエンジンです。徹底した軽量化と小型エンジン・・・これこそエコです! 左後方から撮影した状況です。ナンバープレートの上には、制動灯(ストップランプ)があります。後部座席の後には、雨天時や砂嵐の際に使用する幌(ホロ)が折りたたまれています。 後部の状態を撮影しました。菱形の中にRの文字のある部隊章は、ロンメル・アフリカ軍団の一部を構成していた「ラムケ降下猟兵旅団」であることを示しています。このマークは、正面右の泥よけフェンダー部にも描かれていました。こうして見ると、エグゾーストパイプ(排気管)は、デュアルだったのですね。 右後方からの状態です。丸みを帯びたフェンダーライン、と角ばったボディラインの調和が取れたデザインですね。幌(ホロ)の状況がよくわかります。幌の止め紐(ひも)をはずして、手でぐっと引けば、アコーディオンカーテンの様に今でも簡単に開きそうです。 アメリカ軍では第二次世界大戦中にジープが多用されましたが、このTYPE82は、まさにドイツ版ジープと言えるでしょう。頑丈そうで武骨な様でどこか親しみのもてるクラッシックなヨーロピアンスタイルです。 右前部方向を撮影した状況です。エンジンは後部座席の後方にあり、燃料タンクや貨物収納部は前部トランクにあったようです。ウインドウの両端に方向指示器、運転席側にサイドミラー、敵からの発見を極力防ぐためのヘッドライト部分の反射や光の無用な拡散を防ぐためのスリット措置、路面の状況を照らすノテックライトの位置がわかります。この状況が、この車の特徴点を示す場合ではベストショットですかね? ユーモラスな顔の様な正面をそのまま撮影した状況です。アメリカ軍のジープがスペアタイヤを後部に装着しているのに比べ、TYPE82は、フロント部分に装着しています。この部分しかないという結果からこの位置なのでしょうが、進行中に正面から攻撃された場合は、小銃弾程度であれば、ボディから直接の貫通弾ではなく、このタイヤホイール部分による乗員への被弾防止効果も少しはあることでしょう。 写真でもなかなか見ることのできない、この車の底部分の状況を撮影しました。こんな構造になっているのですね。新品なので、まだ車軸部分やマフラー部分も黒い下塗り塗装がピカピカです。やっぱり、生まれたてのおニューがいいです。 右側後方から見た運転席部分の状況です。こんなインパネの配置状況だったのですね。ちょっと、乗り込んで運転したい気分になります。ワイパーもスイッチをONにすれば、電動で動きました。固めのシートなので、腰の悪い方や虚弱体質の方はこの車でのドライブはご遠慮ください。1/35 ドイツ Pkw.K1 キューベルワーゲン82型 (アフリカ仕様)【35238】 タミヤ楽天で購入ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2009/07/18
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★☆ Russian Heavy Tank KV-II " GIGANT "(1/35) ★☆ "GIGANT(怪物)"と呼ばれたソビエト軍重戦車 4mにも及ぶ車高、大口径の152mm榴弾砲搭載の巨大砲塔を特徴とする ”ギガント(GIGANT)”=(怪物)と呼ばれた戦車が、第二次世界大戦初期の旧ソビエト軍が誇る重戦車「KV-II 」です。 ソ連では、1939年にソビエト軍主力中戦車「T-34」の支援戦車としての「KV-I重戦車」とともに「KV-I」の車体を流用し大口径の榴弾砲を搭載、要塞攻撃など動く砲台としての重火力支援を目的とした「KV-II」の開発に着手、「KV-I」に少し遅れて「KV-II」も同年11月には試作車が完成、早くも1940年2月12日には、「対フィンランド侵攻戦(冬戦争)」に実戦投入され、それまでソビエト軍の大軍でも打ち破れなかったフィンランド軍の大要塞「マンネルハイム線」の突破達成(同2月16日)に大きな貢献を果たし初戦を飾った戦車だったのです。Flag of Soviet Republic(ソビエト連邦共和国国旗) TAMIYAの箱絵(Box Art)を参考に撮影しました。砲塔が巨大でとても迫力のある第2次世界大戦初期のソビエト軍重戦車です。 Box Art (By Tamiya) ★☆『 KV-2 near Dubno 』★☆ この製品「KV-II(GIGANT)」は、1975年7月にTAMIYAから発売開始されたMMシリーズ(1/35scale)で、RALISTが2005年のクリスマスの日、博多駅前のヨドバシカメラで発見、購入からずっと倉庫に眠らせていたものです。当時はこのサイズでも価格は1600円程度でしたが、最近、TAMIYAから発売されたMMの1/48シリーズの「KV-II」は、ミニサイズなのに価格は2000円程度と割高です。REALISTとしては、値段の差とは別に、リアルさを追求するのなら1/48では力不足を感じるばかりで、やはり1/35がベストですね。 バルバロッサ作戦(1941年6月22日発動)でソ連領内に侵攻したドイツ軍の手によって捕獲され、ドイツ領内を移送中の”KV-II(GIGANT)”で、沿道でドイツ市民が興味深げに見物しているシーンのひとこまです(1941年7月以降)。対フィンランド戦では華々しい戦果をあげたわけですが、ソ連軍のT-34、KVI、IIなどの新鋭戦車と初めて遭遇したドイツ軍は、大変なショックを受け、主力戦車のIII号、IV号戦車でも歯が立たず、しばらく戦線が膠着状態となりますが、スツーカなどの航空攻撃やフランス戦で戦車攻撃に威力を発揮した88mm対戦車砲によって殲滅(せんめつ)し救われたわけです。 正面から撮影しました。身長2m余りの巨漢のソビエト軍戦車兵イワン・アントノフ少尉でもこの戦車の巨大さにはかないません。まるで、こぶしを握って、「この戦車でフィンランドもドイツも蹴散らしてやる!」と呟(つぶや)いているようです。 巨大な砲塔部分をクローズアップ!砲塔部分や操縦手の出入口の構造がよくわかります。砲塔の装甲は、前面110mm、他の側面75mmでしたが、巨大な鉄の箱という感じです。 砲塔の右側面を前から撮影した状況です。砲塔に上がるための手すりや足掛けを見るととてもリアルで重厚に見えます。砲塔の白文字は、「 キーロフ」とあり、生産された「キーロフ工場」への献辞の為に書かれたようです。 左正面部分を撮影した状況です。重量は52トンにも達しました。そのため、動きが鈍く、速度も遅いという欠点もありました。また、重量のある砲塔のため、斜面や傾斜地で停止した場合に砲塔がうまく回転しないこともあったようです。車体前部の操縦席部分に7.62mm機銃が見えます。 砲塔後部をクローズアップ!使用済み砲弾の薬莢(やっきょう)排出口が頑丈そうな厚い鉄扉で閉じられています。ここにも7.62mm機銃が設置されています。 KVシリーズ特有の足回り、キャタピラー部分、転輪、誘導輪の配置・形状などの状況をクローズアップ!当時のロシアの道路事情は大変悪く、多少の泥付きで汚しました。 車体全体の左側面を撮影した状況です。砲塔が高くやや不格好にも見えますが、これは、大口径の榴弾砲を搭載する際にあえて回転砲塔を採用したために戦闘室を車体と別構造にする必要が生じたためです。やがて、この後継車両として、無砲塔で自走砲タイプの「SU-152駆逐戦車」へと発展していきます。 車体後方から撮影した状況です。ドイツ戦車に比べ、いかにも武骨で飾り気のないシンプルな形状です。 ★☆ KV-II出現当時の歴史的背景について ★☆ ~ ソ連軍の対フィンランド侵攻戦とは? ~ 1939年9月のドイツ軍のポーランド侵入とほぼ同時にソ連軍も侵攻、ポーランドは約4週間で独ソ両国に国土を2分割で占領され、地図上から消滅します。その後、ソ連は、バルト3国を直ちに併合、さらにソ連は、1939年11月、レニングラードに近い旧フィンランド領のカレリア地方を占領しようと侵攻、それに抵抗するフィンランド軍との間で「ソ連・フィンランド戦争(対フィンランド侵攻戦・冬戦争)」が開戦、当初は、厳しい厳寒の地で地形や地理に熟知したフィンランド軍が善戦し、侵攻のソ連軍に甚大な損害を与えますが、小国と大国の差、軍事力の差から堅固な要塞陣地も「KV-II」戦車などの猛攻撃と膨大な人海戦術で遂にソ連軍の手に下ち、そのためフィンランドは、不公正な講和条約を結ばされ国土の10%を奪われます。 このすばやいソ連軍の動きを見ていたドイツ首脳部は、巨大なソ連軍がやがてドイツにも侵攻する作戦がスターリンの指示のもとに着々と立案されていることを察知、やがて極秘裏にそのソ連軍の裏を書く奇襲攻撃作戦である「バルバロッサ作戦」を1941年6月22日に発動しました。 砲塔を左に回転させた状態の左前面の状況を撮影しました。当時のソビエト戦車の塗装は大半がダークグリーンが使用されていましたが、「KV-II」は、やや明るいグリーンが使用されたそうで、そのため指定のフラットグリーンに塗装しました。 4m余りある砲塔の天井部分に立てば、小山の上から見るようで、さぞ見晴らしが良かったことでしょう。イワン・アントノフ少尉も武者震いで雄たけびをあげています。 【中古】プラモデル 1/35 ソビエト・重戦車KV-II ギガント 「ミリタリーミニチュアシリーズ No.63」 ディスプレイモデル [35063]楽天で購入 ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2009/07/03
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★☆ ドイツ陸軍戦車搭乗服2号後期型 (1941年以降) ★☆ The typical Germany Tank Crew image from 1941 ドイツ軍の戦車兵の制服は、時代とともに様々なバリエーションがありましたが、そのなかでももっとも典型的なスタイルが黒い制服上下に身を包んだスマートな戦車搭乗服でしょうか。その黒色地にはシルバー色のアルミ製襟章、肩章のボタンやベルトのバックル、白色の胸元を飾る国家鷲章、赤色の襟章や肩章の縁取りが見事にバランス良く映えています。 今回は、以前作成したこともあるタミヤの「ドイツ戦車兵小休止セット」を他の制服姿のバリエーションを増やす目的で別に購入・ストックしていたものを利用することにしましたが、そのなかのお気に入りの1体を歴史考証的な観点から1941年以降の対ソ連戦時の記録写真に登場する戦車兵の多くが着用していた「ドイツ陸軍戦車搭乗服2号後期型」の実物写真を参考にして筆塗りによる塗装でその黒制服姿を再現してみました。 いかがですか?思わず話しかけたくなりませんか?年齢的には20歳代前半の若くて優秀な下士官(軍曹・曹長)クラスを想定しました。屈託のない笑顔の愛嬌のある顔立ちですね。歯を白く塗装しただけでこれだけの表現ができることがわかりました。頭髪はもちろん金髪でまつ毛も眉毛も金髪というゲルマン戦士なので頭髪だけはゴールドに塗装しました。目の輪郭部や鼻部分には厚めに何度も塗料を塗ることで顔の彫(ほり)の深さを強調してドイツ人特有の雰囲気を醸(かも)し出してみました。ジャケットの上から黒革ベルトで締めた姿は銀色に輝くアルミのバックルでとても締(しま)って見えます。 GERMAN TANK CREW 上の写真と一見同じように見えますが、よく観察して見ると若干足が長く見えます。これは、撮影する際に足元からのアングルで撮影したからです。人物写真を撮影するときに、正面から同じ高さで撮影するのと足元の低い位置から撮影するのとの違いをプラモデルでも試してみたわけですが、やはり、このサイズでも同様の効果があるようです。襟の第2ボタンホールには、赤地に白縁のリボンの略章があることから、彼が戦功による「2級鉄十字章」を授与されていること、左胸にも高い武勲功績を讃える「1級鉄十字章」が、その下にはかなりの実戦経験を示す戦車突撃章を装着していることから、同じ戦車兵同士が対面しても、その胸元を遠くから見ただけで『おぬし、デキルナ!』と彼が歴戦の戦士であることが即わかるわけです。そして、この種の勲章は階級に関係なく実力のある者に授与されるため、階級が上位の上官からも一目おかれ一種の尊敬に近い目で見られることは間違いありません。 この制服は、1941年以降の対ソ連戦時から戦場に登場した「ドイツ陸軍戦車搭乗服2号後期型」の実物の写真です。洗練されたデザイナーによって考案されたその黒制服には、襟章や肩章の縁取りが赤色でシルバー色の襟章(どくろマーク)、肩章ボタン、白色の右側胸部の国家鷲(わし)章が基本であり、ダブルのスーツにも似たスマートなジャケットですが、狭い車内での作業や搭乗、降車の際の障害にならない工夫が随所に施されており、この制服を着用することが戦車兵の誇りであり、名誉であったようです。 ★☆Panzerlied『 パンツァーリート(戦車の歌)』★☆ これは、タミヤのデカールを貼付する際のドイツ軍戦車兵搭乗服の国家鷲章などの各マーキングのための基本的な配置ポイントを図示したものです。これは、塗装の際に参考にしたもので、デカールそのものは使用しませんでした。 これが、タミヤの1/35ミリタリーミニチュアシリーズ「ドイツ戦車兵小休止セット」の作成前の原型です。全部で6体分がありますが、左側の欠落した部分が今回作成のために切り取った手足や頭部、胴体部分のパーツがあった位置です。これを接着完成させ、その後、塗装作業に入り完成させるわけです。 REAL SIZE この写真が、35分の1スケールの実物大のプラモデルのリアルな大きさの塗装完了直後の完成品です。高さは54ミリメートルで、ミリ単位の微細な筆による塗装が要求されます。勲章や階級章などのデカールもありますが、あえて全部筆塗りで完成しました。 正面に向かって右側から撮影した状況です。胸元には、カールツァイス製の高性能の双眼鏡を首から提げています。略帽の上部には、シルバー色の国家鷲章、その下に丸型の白地の中心部に赤色のあるマーク部分やその斜めに縁取りのある赤色ラインが見えます。 背面部を撮影した状況で、腰のベルトにはワルサー用のピストルホルスターを装着しています。 右側側面を撮影した状況です。人の顔は誰しも左右非対称であるように、右からみた状況や左から見た状況を見比べると通常の人間と同様に印象が違いますね。 正面に向かって左側から撮影した状況です。この方向から見ると年齢的に老けて見えるのは何故でしょうか?やはり、彼の場合は、正面から見るのが一番ベストのようです。 ★☆ 塗装で使用したアイテム ★☆ このモデルの塗装に使用した塗料は、タミヤのアクリル塗料で、制服にフラットブラック、革バンドやピストルホルスター、双眼鏡にセミグロスブラック、肌色にフラットフレッシュ、マークの下地にフラットホワイト、アルミ系のシルバー色にフラットアルミ、襟章や肩章の縁取り、2級鉄十字章のリボン部にフラットレッド・・・以上6色でした。また、使用した筆はタミヤの面相筆の(極細)を使用しました。1/35 ミリタリーミニチュアシリーズ No.201 ドイツ戦車兵 小休止セット プラモデル[タミヤ]《取り寄せ※暫定》楽天で購入ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2009/06/26
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★☆ ジェット機史上の第1ページを飾った「Me262」の栄光 ★☆~ 現代の実用ジェット機は「Me262」から始まった ~The Messerschmitt Me 262 Schwalbe (German for Swallow) was the world's first operational turbojet fighter aircraft. 自作の写真は、前回と同じく夜間戦闘型『メッサーシュミットMe262B-1a/U1』で、右側面部をクローズアップしたものです。前部座席にパイロット兼攻撃手、後部座席にレーダー探知・誘導手の2名が搭乗する複座席部分がよくわかります。後部座席の後部に丸い輪のような小さなアンテナ部がイギリス軍爆撃機の発するレーダー波を捕捉する”FuG350「ナクソス」電波探知機の感知アンテナです。 『 LUFTWAFFE Me262 』(YOUTUBE) 写真左は、アメリカで実機を忠実に再現した「Me262」のコクピット部分です。写真右は、Me262の前で整備兵とたたずむフランツ・シャル少尉で、彼は、東部戦線の第54戦闘航空団でソ連機117機を撃墜した栄誉で騎士鉄十字章を授与されたエースパイロットでした。「Me262」のパイロット養成・教育のための「実験隊」から本格的な「Me262」の実戦部隊創設のために、戦闘機隊総監アドルフ・ガランドからMe262ジェット戦闘機部隊のパイロットに推挙され東部戦線から引き抜かれたわけです。1944年9月末、実戦部隊にようやく23機の「Me262」が配備され、隊長であるヴァルター・ノヴォトニー少佐の名を冠して「コマンド・ノヴォトニー」と呼ばれました。1945年4月まで「コマンド・ノヴォトニー」および「JG7」に所属、西部戦線での撃墜17機をすべて「Me262」で記録しました。撃墜した機種の内訳は、P-51×10機・P-47×1機・B-17×2機・B-24×1機・ランカスター×3機というもので、実に17機の内11機が戦闘機であり、「Me262」が対戦闘機の戦いでも強力な存在であったことを窺わせます。10機のP-51の撃墜は数多のドイツ空軍エースの中にあって第3位に当り、シャル少尉の非凡さを示すものですが、「Me262」の高性能がその戦果達成に寄与していたことは間違いないでしょう。P-51ムスタングは、アメリカ軍が日本の「ゼロ戦(零式戦闘機)」を入手して徹底的に研究した結果、その性能をすべて上回るレシプロ(プロペラ)戦闘機として開発されたもので、最高速度700km/h以上を誇り、以後、「ゼロ戦」キラーとして空中戦では負けず知らずであった高性能機でした。 自作の複座『Me262B-1a/U1』の左エンジン部分をクローズアップしました。ユンカース社製のJumo(ユモ)004ターボジェットエンジンは2900馬力の大出力を得ることができました。その基本構造は、65年以上経過した現在のジェットエンジンとほとんど変わりがありません。 ★☆ 世界のジェット機時代到来に貢献した「Me262」★☆ 終戦後のドイツにおいて、ターボジェットエンジンに関わる技術陣は占領軍のソ連軍やアメリカ軍に強制連行され、「Me262」も本国に戦利品として持ち帰り、その技術やノウハウをコピー・徹底研究し尽くしてそれぞれ自国のターボジェットエンジン開発の基本としました。やがて、米ソ冷戦構造時代に突入すると、両国の間でジェット機開発競争が起こりました。いずれにしても、戦闘機ばかりか民生用の旅客機までをも世界中にジェット機が現在のように普及発展したのは、「Me262」のおかげだったわけです。 写真左は、数百機のP51戦闘機が援護随伴するB17爆撃機の大編隊に戦いを挑むため、まさに飛び立とうする戦闘機型の『Me262A-1a』の雄姿です。たとえ、単体としていくら優れていても数十倍の敵との戦いには限界がありました。ベテランパイロットの消耗と新規隊員の訓練不足からパイロット不足となりました。写真右は、戦闘機総監アドルフ・ガランドから最初の「Me262」実戦部隊の隊長に指名されたヴァルター・ノヴォトニー少佐です。彼は、主に東部戦線で総撃墜数258機という天才的エースパイロットで、指揮官としての技量や人格にも秀でており、その功績から宝剣柏葉付き騎士鉄十字章を授与され、わずか23歳で少佐の地位にありました。 自作の複座『Me262B-1a/U1』の左上方から撮影した状況です。ドイツ空軍の国籍マークやハーケンクロイツは、写真のように白地や黒字の十字型で数種類のバリエーションがありました。 写真左は、飛行場をケッテンクラートでけん引移動する「Me262」です。写真右は、アメリカ軍の爆撃機編隊をその防御火器の射程外から攻撃するという発想で5cm対戦車砲を機首先端部に装備した「Me262」の改造型です。 ★☆ 革新的な「Me262」が能力を発揮できなかった理由は何か ★☆ 「Me262」がその能力を発揮できなかった理由は、まず、当初、ヒトラーが「Me262」を戦闘機としてではなく、戦闘爆撃機としての生産しか許さず、実戦部隊としては爆撃機としての使用しか認めなかったことです。重い爆弾を抱えた爆撃機型「Me262」では、その高速性能は生かされず簡単に敵のレシプロ型P-51戦闘機にも追いつかれ撃墜され易く、逆に爆撃降下速度はすぐに900km/h以上の極端な高速となるために爆撃照準が困難で、Ju87スツーカのような精密爆撃ができませんでした。1944年6月6日の英米連合軍のノルマンディー上陸作戦以降、ドイツ本国への昼夜区別なく英米連合軍の猛烈な高高度からの大編隊による爆撃が敢行されるようになると、ようやくヒトラーも戦闘機型の生産を認めたわけですが、爆撃による生産工場の喪失などから生産数は伸びず、燃料や訓練用の複座のMe262が少なく、ジェットパイロットのまともな養成訓練ができす、いきなり単座のMe262に搭乗させて、約8時間の基本訓練だけの新米パイロットで実戦に投入せざる負えない状況にあったことです。それでも、エース級のパイロットたちは「Me262」の特性をすぐに理解し、操縦のコツを早く呑み込み、わずか数機単位で敵の大編隊を相手に大戦果をあげることができました。 自作の複座『Me262B-1a/U1』の右前方から撮影したもので、こうしてみると左前方から見た雰囲気とどこか違う雰囲気があります。 「Me262」のエンジンの整備に余念のない整備兵たちです。若くて優秀な技術陣がいたからこそ、「Me262」の安定した飛行ができました。しかし、東部戦線の崩壊とともに、こうした国内の技術者たちも東部戦線へ引き抜かれ次第に人的不足が生じてきます。 自作の複座『Me262B-1a/U1』の右後方からクローズアップしてみました。これも、下右の実機の写真を意識して撮影したものです。なんとなくリアルさが増します。 写真左は、豹柄に迷彩塗装された1944年末当時の単座の戦闘機型の『Me262A-1a』の実機、写真右は右後方から見た単色塗装風の実機です。 1/72 メッサーシュミット Me262A-1a プラモデル[ドイツレベル]《取り寄せ※暫定》 ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2009/05/13
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★☆ メッサーシュミット『Me262』"シュワルベ " ★☆~ 耳をつんざく金属音、突如出現したプロペラのないドイツ軍機に英米軍大パニック !! ~The Messerschmitt Me 262 Schwalbe (German for Swallow) was the world's first operational turbojet fighter aircraft. Me262が初戦を飾ったのは、まだ実用実験訓練段階で発足した「実験隊」としてパイロットを訓練養成中の1944年8月で、まだ実験機の『Me262A-1a』での高高度飛行中に遭遇したイギリス軍の偵察機型「モスキート」、「P38」及びアメリカ軍の空の要塞「B17」4発重爆撃機の撃墜からでした。命からがら追撃を振り切った「スピットファイア」のパイロットは、「驚異の高速のドイツ機の出現」を報告しました。 自作の写真は、第2次世界大戦末期の1945年2月から終戦の5月までの間、ベルリン防空のために実戦配備され活躍した夜間戦闘型の『メッサーシュミットMe262B-1a/U1』です。 Me262は、「ツバメ」を意味する「Schwalbe(シュワルベ)」と呼ばれ、終戦までに約1400機が完成しましたが、燃料・パイロット不足で実戦投入されたのは少なく、その大半はパイロットのみの単座の戦闘機型の『Me262A-1a』で、他に少数のパイロット+1名の複座練習機型の『Me262B-1a』が約15機製作されましたが、その約10機の機首に「鹿の角(ヒルシュゲヴァイ)」と呼ばれた”FuG218「ネプチューン」レーダー”やイギリス軍爆撃機の発するレーダー波を捕捉する”FuG350「ナクソス」電波探知機”を装備・改修した夜間戦闘型 (night fighter)の『Me262B-1a/U1』があり、前部座席にパイロット兼攻撃手、後部座席にレーダー探知・誘導手の2名が搭乗しました。『 Me 262 Flys Again! 』 『Me262B-1a/U1』の特徴は、『Me262A-1a』にはない「鹿の角(ヒルシュゲヴァイ)」と呼ばれたレーダーアンテナや支柱が機首部分にあること、座席が複座であるため風防部分が長いこと、座席の増加分やレーダー装置積載で、単座の『Me262A-1a』に比べ機内燃料容量が840リットル減少するため、機首下に落下式300リットル増槽(燃料タンク)2個を装備していることです。 ★☆製品について★☆ チェコ共和国(Czech Republic)の「SMER社」の製品で、珍しい機種が目にとまり店頭で購入したものです。取扱組立説明書は、チェコ語・英語・ドイツ語の3ヶ国語のみの記載で、パーツは、それほど多くなく、割と容易に組み立てることができました。下のボックスアート(箱絵)で気になるのが、尾翼の「ハーケンクロイツ」が黒く塗りつぶされていた(「ハーケンクロイツ」はデカールも付属なし)こと、夜間戦闘型機で付属パーツもあるのに、絵では当然あるべきレーダーアンテナや機首下部分の増槽(燃料タンク)2個が描かれていないことでした。 「1/72 Mssserschmitt Me262 B-1a」のボックスアートです。Me262の攻撃でエンジン部から炎を出し燃えるアメリカ軍のB17が描かれています。 写真左は、アメリカで単座の戦闘機型の『Me262A-1a』の実機を採寸して忠実に再現されたレプリカで、エンジンはゼネラル・エレクトリック社のターボエンジンを装備し実際に飛行可能なものです。写真右は、第二次世界大戦直後、ドイツ国内で接収したイギリス軍がアメリカ軍に引き渡した実機の夜間戦闘型 (night fighter)の『Me262B-1a/U1』です。複座型なので、風防部分が左の単座の戦闘機型の『Me262A-1a』よりも大きいことがよくわかります 。 自作の複座式『Me262B-1a/U1』の右側面を撮影したものです。この機体は、機首部分のレーダーアンテナと支柱部分に空気抵抗があり、そのため、単座の戦闘機型の『Me262A-1a』に比べ、最大速度が60km/hも減速しました。それでも、810km/hの最高速度は、他のレシプロ・プロペラ戦闘機の600~700km/hの比ではなく、昼でも夜でも敵戦闘機に勝る全天候型戦闘機でした。尾翼の「ハーケンクロイツ」は、実機写真を参考に自作で作成しました。 ★☆『Me262B-1a/U1』の性能・データ★☆ 全長約11m、全幅12.50m、全高3.84m、ユンカースJumo(ユモ)004ターボジェットエンジン(各2900馬力)2基、ラインメタル・ボルジク社製30ミリMK108機関砲4門(機首先端部分に左右上下各2門)・FuG218「ネプチューン」レーダー・FuG350「ナクソス」電波探知機を搭載、最大速度810km/h(『Me262A-1a』は、870km)、最大航続距離約1,000km 左後方上から機体を見た状況です。機体番号、国籍マークを含む各種デカールは、指定された位置にすべて貼付しました。 ★☆機体塗装について★☆ 機体色は、迷彩塗装、単色塗装と様々なバリエーションがありましたが、昼間戦闘機の『Me262A-1a』は、グリーン系の迷彩塗装が多く、機体の腹部分(下面)はライトブルーで統一されていましたが、夜間戦闘型は、この部分はフラットブラックに塗装され、機体上面は、ブラックとグレイの迷彩塗装やダークグリーン系の単色系で塗装されたようです。夜間、敵機に接近した際、敵からの発見を遅らせるための工夫がされており、REALISTは、ダークグリーンとブラックグリーンの迷彩模様としました。 下右の実機写真のイメージを意識して、ほぼ同一方向から撮影した状況です。ターボジェットエンジンの形状や配置状況、無線アンテナの状況などがよくわかります。 ★☆メッサーシュミット『Me262』の歴史★☆ 大戦前にジェットエンジンの実用化に着手したのは、イギリスとドイツでしたが、先に実用化に成功したのはドイツで、Me262がその世界初の実用ジェット戦闘機となったわけです。それまでのピストンエンジンでプロペラを回転させる方式(レシプロエンジン)では、理論上でもその高速化に限界あることが判明、1933年、ゲッチンゲン大学物理学研究所の助手ハンス・ヨアヒム・オハインがターボジェットエンジンの開発研究を開始、1936年にハインケル航空機社に入社、早くもその翌月から試作作業を始め、1937年9月には、ドイツ初のジェットエンジンが完成しました。ハインケル社は第二次世界大戦の5日前の1939年8月27日に歴史的なジェット機の初飛行に成功しますが、なぜかドイツ航空省はハインケル社を冷遇、エンジン開発をBMW社からユンカース航空機社に変更、機体の設計をメッサーシュミットに担当させた結果、1944年5月22日、Me262に試乗のアドルフ・ガランド少将がその飛行性能を絶賛、次期主力戦闘機としての量産が決定されました。しかし・・その翌月6日、西部では英米連合軍がノルマンディー上陸、そして、東部戦線ではウラル方面から新手のソ連軍大戦車軍団が国境に迫り、Me262のパイロットたちは、飛行場を転々と移動しながらの訓練飛行をするしかありませんでした。 『Me262 at the ILA2006 in Berlin (original sound)』 写真左は、飛行中の『Me262A-1a』、写真右は、左後方から撮影されたいずれも当時の実機写真です。 『Me262B-1a/U1』を後方から見た状況で、風力工学を徹底した美しい左右対称のスマートなデザインです。Me262を後方から追撃したP51ムスタングのアメリカ軍パイロットは、こんなシルエットを目にしたのでしょうか? 1/72 メッサーシュミット Me262A-1a 【04166】 ドイツレベル楽天で購入 ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2009/05/06
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★☆ 65年前にドイツ軍が開発した巡航ミサイル&地対地ミサイル ★☆V-1 (FIESELER Fi103)~ 2万発以上がドーバー海峡を越えイギリス本土に ~ 作品の写真は、65年前にドイツ軍が世界で初めてパルスジェットエンジンを装備して第2次世界大戦に登場した「V-1(FIESELER)フィーゼラ Fi103」です。 1991年の湾岸戦争では、アメリカ軍が戦艦ニュージャージなどから、イラク軍施設やレーダーサイト、要塞などに向けて巡航ミサイルの「トマホーク(Tomahawk) 」を発射使用しました。 この巡航ミサイルも、はるか65年前にすでにドイツ軍が世界で最初に開発に成功した「V-1」の技術や方式を模倣・研究し、それをさらに改良を進め、電子化、高度化させたものでした。 ★☆『 V-1 flying bomb 』★☆V-1に関する貴重な当時の記録動画です。 写真左は、完成品のV-1を専用台車に積載し、発射台のあるカタパルトまで運搬中の様子(1944年頃)、写真右は、発車直後のV-1 ★☆この製品について★☆この製品は、TAMIYAから発売されていたものですが、最初の発売年はわかりません。どちらかというとマニアックであまり興味を持たれる方は少ないレアな製品だろうと思います。しかし、タミヤらしくリアルさに忠実に実物のV-1を再現可能なモデルです。また、付属の運搬用台車についても、リアルに再現されています。 「V-1(FIESELER)フィーゼラ Fi103」のボックスアートです。 この作品は、「1/48 SCALE AIRCRAFT SERIES No.52・V-1(FIESELER Fi103)」(TAMIYA)です。 ★☆「V-1(FIESELER)フィーゼラ Fi103」★☆ REALISTが敢えてこの製品に興味を持ったのは、何といってもその科学技術やテクノロジーの驚くべき進歩の早さでした。1942年に設計・方式が決まり、そのわずか2年後には、パルスジェットエンジンの開発と実用化に成功、自立飛行が可能な慣性飛行システムを応用した無人の地対地ミサイルや巡航ミサイルの元祖であったからです。 ★☆性能・データ★☆ 1942年春からフィーゼラ社(ドイツ)の技術陣がパルスジェットを動力源とする飛行爆弾を設計、その後、自立飛行が可能な慣性航法システムによる制御方式の採用を決定、北海沿岸の小島ペーネミュンデ秘密基地でわずか2年余りで完成します。1944年6月12日の試射から終戦までに2万発以上がイギリス本土に向け発射され、2万5千人以上が死傷しました。全長7.9m、全幅5.3m、発射重量2200kg、弾頭重量850kg、最大速度650km/h 飛行方向はジャイロスコープを利用した装置で制御、高度は気圧高度計で測定、飛行距離は機首先端のプロペラ(写真左)の回転によって計測し、定められた回転数に達するとエンジンが停止、機体が落下する仕組みで、動力源は、機体後部に独立配置した世界初の実用化に成功したパルスジェットエンジン(写真右)を採用しました。 ★☆「V-1」の名前の由来は何か ★☆ 1942年になると、イギリス空軍爆撃機によるドイツ国内への長距離爆撃が始まり、ケルン、ドレスデン、リューベックなどの大都市に対する無差別爆撃が情け容赦なく繰り返され甚大な被害を受けました。そのため、ドイツ軍は、その都市爆撃に対する「報復(Vergertungswaffe)」を担う兵器として(V=報復)「V-1」やその後に開発される弾道ミサイルとなったロケット兵器を「V-2」と名付けました。 ★☆塗装について★☆ 機体色は、この「V-1」巡航ミサイルがドイツ空軍が担当していたため、当時の空軍機(夜間戦闘機は除く)の下半面がライトブルーであったこと、イギリス本土上空に到達したときに上空から敵戦闘機が見た場合に目立たないようにと陸地の草木の色と合うような色に上半面を塗装していることからカーキトラブに塗装しました。 ★☆兵器の発展とその後☆★ ジェットエンジンの開発は、ジェット戦闘機の開発にも進みますが、ロケットエンジンについても、終戦を迎えると、ドイツを占領したアメリカ軍やソビエト軍がその技術開発研究者たちを血眼になって捜索し、ジェットエンジン・ロケットエンジン技術の獲得のためにそれぞれ自国に連行していきます。そして、そのまま米ソ戦後冷戦体制下での兵器開発に利用するとともに、ロケット技術でも米ソ宇宙開発競争になりますが、その中でも特に有名なのが、アメリカのNASAでアポロ計画の中心となったヴェルナー・フォン・ブラウン博士が知られています。 ★☆意外と多くが撃墜された巡航ミサイル☆★ 真偽はわかりませんが、記録によると、「V-1」は、エンジン音が大きく接近が早くわかり、速度も戦闘機並みに遅かったため、イギリス本土では、迎え撃つ戦闘機や対空射撃で3分の2が撃墜されたそうです。 タミヤ 1/48 V-1 (フィーゼラ Fi103)Item No:61052ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2009/02/24
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★☆ キエフ攻略後のある歩兵分隊戦士たちの語り合いのひととき ★☆ ~ 遠い異国の地で兵士たちは何を思い、何を感じ、何を語ったのか ~ プラモデル「1/35 「WEHRMACHT INFANTRY (BARBAROSSA 1941)」(DRAGON社)の4人の戦士に関する作品紹介は今回で最後にします。 今回は、ドイツ軍がバルバロッサ作戦でウクライナのキエフ攻略後のある日、4人の戦士が異国の広告円柱や廃屋の壁にあった広告を見ながら語り合う風景をテーマにしてみました。 既に4人の個々の兵士については記事で架空の人物として紹介していますが、この写真では、左から順に「シュタイナー軍曹」、「ハンス二等兵」、「クルーガー上等兵」、「シュミット上等兵」として、異国の広告を見ながら語り合う風景を想定してみました。 「シュタイナー」・・・ハンス!君はロシア語が少しわかるらしいが、この円柱の上の広告は何なのだ? 「ハンス」・・・はい、軍曹!この広告は「近日公開!」ってありますが、女性が主人公の演劇の広告のようですね! 「アンナ・カレーニナ」って題名ですね!「シュタイナー」・・・ははー、なるほど!なかなか美人だな、この女性!「ハンス」・・・そうですね!「クルーガー」・・・おい、シュミット!この男はいったい誰なんだ?確か、ここに来る前の町の壁にも同じ男の張り紙がたくさん貼ってあったよな!「シュミット」・・・ああ、この男は、ハンスから教えてもらったんだが、「レーニン」って男さ!なんでも1917年の「ロシア革命の父」って呼ばれてるらしい。それまでのロシア皇帝ニコライ2世とその家族や周辺者は彼ら赤軍のポルシェビキに全員銃殺されて、今の共産主義国家のソ連ができあがる基礎を気づいた奴らしいんだとさ。 「クルーガー」・・・へぇー!それじゃ、赤軍の親玉ってわけかい?それにしても奴の肖像画や張り紙が無数にあったが、これじゃ、まるで偶像崇拝にされたキリストのようだなぁー! 「シュミット」・・・確かにソ連人から見れは、彼は神様と同じだろう! これも、民衆向けの赤軍の得意なプロパガンダってわけさ! 「シュタイナー」・・・ハンス!この下の机に座っている眉毛の濃いひげ面の男は誰なんだ? 「ハンス」・・・軍曹!この男がスターリンですよ!赤軍、ソ連の独裁者ですよ!「シュタイナー」・・・そうなのか?この男が「粛清」を連発して同じ仲間のソ連軍の優秀な将校を数万人も処刑したそうだが、いかにも権力を握ったら手放さない男に見えるなあ! 独裁を維持するには、仲間も信用できなくなるのだろう。ポーランドのカチンの森でも赤軍が撤退した後に数千人のポーランド将校の虐殺された死体が発見されたそうだが、それもどうやらこの男の命令で実行されたらしいのだ。(カチンの森事件)「ハンス」・・・えっ!そうなのですか?それは、知りませんでした。 「シュタイナー」・・・シュミット!この男女は結婚式でもやったてことかな?「シュミット」・・・どうやらそうみたいですが、どういう意味なのでしょうか?クルーガー!おまえはどう思う?「クルーガー」・・・この円柱に貼り出すぐらいだから、きっと、この街の有名人に違いないだろう!おれは、そう思うよ。ハンス!おまえはどう思うんだ?「ハンス」・・・ああ!それは、結婚式場のPRですよ!「シュタイナー」・・・なーんだ!そういうことか! 「シュタイナー」・・・この下の広告は、きっとワインだな!故郷を思い出すなあー、ここのワインもなかなか結構イケルぞ! 「シュミット」・・・軍曹!ワインうまそうですね! 「クルーガー」・・・軍曹!その水筒のワインは特別製ですかい?「シュタイナー」・・・そうだな!モーデル産のわがシュタイナー家のワインにはとても及ばないが、それでも、かなり高級の部類だな。偏見に満ちたソムリエのおれの勝手な判定だがな! 「クルーガー」・・・おい、シュミット!この横顔の女はどこかで見かけたことがあるんだが・・誰だっけ?「シュミット」・・・クルーガー!スウェーデンの若い女優でドイツ系の「イングリッド・バーグマン」って知ってるかい? 少し前に『間奏曲』って映画で見たんだが、すっげー美人さ!今でも忘れないぜ、初めて見た時の胸のときめきかなあ、あれは!こんなこと、女房には言えないけどさ!ひっぱたかれるから。「クルーガー」・・・いや知らねぇが、ちぃっ!見たいな!そんな美人なのか!あ~あ!国に帰りたいな!そのバーグマンの映画を見なきゃ!「ハンス」・・・僕も国に早く帰りたいですね! 彼女にずっと会ってないし!「クルーガー」・・・お互い淋しいよな!ハンス、それまで死ぬなよ! 「ハンス」・・・シュミットさん、そのバーグマンについてはよく知ってるんですね! いったい、どうしてですか?「シュミット」・・・おおハンス! 、実は、おれの妻の親戚にスウェーデン人がいてね、それでおれも映画好きなもので、映画の話題でたまたま共通の趣味で共鳴したって言うか、おれとウマの合う男でさあ、最近の女優について話をするうちに紹介してもらったってわけさ!それ以来、ファンになってね!「ハンス」・・・へぇー、そうなんですか!僕も是非、彼女の出演作品を見たいと思いますよ!「シュミット」・・・君も彼女を見たら、きっとゾクゾクすると思うよ!「ハンス」・・・それは、楽しみです! ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2009/01/15
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★☆ 伝統的なドイツ陸軍士官を目指す「シュタイナー軍曹」★☆ ~ ドイツ陸軍(国防軍)歩兵部隊分隊指揮官 ~ 引き続き、前回の「1/35 「WEHRMACHT INFANTRY (BARBAROSSA 1941)」(DRAGON社)の最後の4人目の戦士に焦点を当てた物語風タッチでのご紹介です。 それでは、戦闘部隊の最小単位である分隊(10人編成)の指揮官である分隊長の「シュタイナー軍曹」をご紹介しましょう。「分隊長」や「軍曹」のイメージが、1960年代後半にヒットしたアメリカの戦争ドラマ「コンバット」で活躍した「サンダース軍曹」の印象が抜けきれないREALISTなわけですが、このシュタイナー軍曹もその比類なき卓越した戦闘指揮能力を存分に発揮して見事にこれまでの困難な任務をやり遂げてきたわけです。 「シュタイナー軍曹」・・・ライン川モーゼル地方のワインの産地で有名なリューデスハイム出身で27歳、彼の父親も先の第一次世界大戦(1914~1918)で、数々の作戦に出動し活躍した陸軍兵士であった。また、母も伝統的な軍人一家の環境で育ったためからか、その両親のすすめもあったため、少年時代は「ヒトラーユーゲント」の隊員としてキャンプ、登山、軍事教練、奉仕活動、様々な団体生活等を経験、そのころから既に後輩隊員たちを的確に指揮して人を動かす能力に際立った頭角を現していた。その後、1933年、自ら19歳であえて武装親衛隊(SS)を選ばず、伝統的なドイツ陸軍(国防軍)に志願、その後、順調に24歳で上等兵に昇進、1941年4月、ドイツ軍のギリシャ侵攻となった「バルカン戦」でイギリス軍・ギリシャ軍相手の実戦を初体験、ここではわずか5人の部下を従え、2個小隊の敵部隊を捕虜にした功績で軍曹に昇進した。そして、1か月の特別休暇を与えられた後の訓練終了後、今回のバルバロッサ作戦に歩兵部隊の分隊指揮官として派遣されたわけであった。 シュタイナーには、夢があった。それは、伝統的なドイツ陸軍士官の将校になることであった。なぜなら、自分の栄えある姿を両親に見せたかった、それが自分をこれまで大事に育ててくれた恩返しであり、親孝行だと信じて疑わないからである。それと・・・半年前に結婚し、妊娠中の妻のローザとそのお腹の子のためだとも思っている。 彼の両親のいる実家は、造り酒屋でワインを生産している。幼少のころから自宅にある巨大な酒蔵や蒸留場に出入りしていたため、付近で漂うワインの香りで育った彼は、遠い異国の地で久しぶりに味わうワインの香りはとても格別だった。まるで、久しぶりに懐かしい故郷に帰り、母や父に出会った様な気持ちになれた。 数日前に、歓迎を受けたウクライナ人から家庭料理の提供を受け、そこの娘ハンナの顔を見るとわが妻と容姿がそっくりで驚いた。そして、彼女にほのかに淡い恋をした様な気がした。彼女の自分を見つめる目も好意をもっているように感じた。そして、丁重なお礼とお別れを告げて、その家を出る際に、彼女からこっそりワインをプレゼントされたので、シュタイナーも大事にしていたロザリオ(十字架)を彼女にあげた。そして、ワインはじっくり味わうつもりで自分の水筒に入れた。 当初、10人いた部下も残り3人、まさに地獄のような戦闘が続いた。味方の数倍の兵力を相手に戦闘することがしばしばであったが、シュタイナーの敵情把握と分析、戦闘指揮は見事なもので、歩兵部隊模範指揮教本にある以上の巧みな戦闘方法で敵を撃退、もしくは殲滅している。明日には、補充兵の新兵たちがやってくるであろうが、願わくは、彼らが早くベテラン兵士に育ってほしいと思っている。 130年前にも、このロシアの地でナポレオン軍がモスクワ遠征にやってきたと歴史で学んだが、今この地にいる我々もそれに続く歴史の中にいることを強く感じた。それは、分隊一高学歴のハンス二等兵が専門分野のいろいろ詳しい歴史を語ってくれるからである。 昨夜は、妻の夢を見た。しばらく会っていないので顔を忘れそうになるのではないかと心配になってくる。だから、時折、彼女の写真を入れたロケットを寝る前に見ることが習慣になった。 戦闘で捕虜にしたソ連兵に対する尋問でわかったことだが、ヨシフ・スターリンという赤軍の独裁者は、味方である同じソ連軍将校数万人を「粛清」として処刑したそうだ。信じられない・・・有能な将校やドイツに留学、ドイツの士官学校経験者など、ドイツに関わった将校が気に食わないためで、自分に敵対心を持っているものとして、次々に連行して殺害したそうだ。・・・スターリンという人物はとても恐ろしい人物だと思った。 ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2009/01/09
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★☆ 「陽気なおじさん!」がニックネームの「クルーガー上等兵」 ★☆ ~ ドイツ陸軍(国防軍)歩兵部隊MG34機関銃手 ~ あけましておめでとうございます!・・本年もよろしくお願いします! それでは、引き続き、前回の「1/35 「WEHRMACHT INFANTRY (BARBAROSSA 1941)」(DRAGON社)の3人目の戦士に焦点を当てた物語風タッチでのご紹介です。 その戦士は、分隊の中で最も軍隊経験豊富な「クルーガー上等兵」で、1941年6月22日発動の「バルバロッサ作戦」時より10年前にドイツ陸軍(国防軍)に入隊した最古参の職業軍人です。 「クルーガー上等兵」・・・彼は、ミュンヘン出身の31歳、先の「ハンス二等兵」とは同郷出身であり、しかもMG34機関銃の射撃手と装填手としての強い信頼関係と高い戦闘能力発揮して、これまでの激しい戦闘も生き抜いてきた。出身地のミュンヘンでは、高校を卒業後、2年間ホテルマンとして働き、その後の1年間を大手のビアホールで店員として働いていたが、ある日、彼の心の中で何が起こったのか・・第1次世界大戦の敗戦に続く1929年の世界大恐慌ですっかり疲弊したドイツから、新しい理想のドイツ国家建設を目指すヒトラーの「わが闘争」の世界観に共鳴、21歳でドイツ陸軍(国防軍)に入隊したわけである。 彼は、出身地では幼いころの両親の離婚から長い間、母子家庭の環境で育ったが、人一倍独立心の強いこともあり、18歳で家を出てホテルマンとして修業をしていた。しかし、そのホテルが不況で倒産、仕事仲間の誘いでなんとかビアホールの店員の職に就くことができた次第である。それでも、母思いの彼は母への仕送りは欠かさなかった。ある日彼は、自分の生き方を自問自答しているうちに、何か国家や世の中に貢献できないかと考えた末に読んだ「わが闘争」・・・この論文が彼に衝撃を与え、「新しいドイツ国家建設」の一役を担う軍隊を選択するきっかけになった。 彼には、さらにミュンヘンには27歳の妻と4歳と2歳の二人の娘がいる。3ヶ月前にミュンヘン駅で見送る妻や娘たち、母との最後の別れのときが戦闘の合間の今でも思い出される。 彼の性格は、いつもどんな時でも陽気なことである。それは、分隊の他のメンバーが戦闘後に必ず押し寄せる悲しさや嫌気ですっかり落ち込んでしまうときでも、彼だけはいつも陽気で皆を笑わせて励ます特技をもっていることから、分隊の誰からも「陽気なおじさん!」とニックネームで呼ばれている。その性格は、母親譲りであり、母親に幼少のころからいつも「苦しい時こそ声を出して笑うのよ!そうすれば、自分も周りの人にも幸せを与えることができるの!」・・と教えられてきたからである。 キエフ市内に入り、ウクライナ人から歓迎を受けたことにはとまどいながらも、温かい食事や寝る場所の提供まで受け、そこの青年たち多数から「スターリンの赤軍から父や母を”粛清(しゅくせい)だ”と虐殺された!ドイツ軍に入隊するためにはどうすればいいか?」と質問攻めにあったことから、上司にそのことを告げたところ、「国防軍では難しいが、武装親衛隊(SS)では、外国人であるウクライナ人で編成する部隊を間もなく創設するので隊員を募集するらしい」との返答を受けたが、まだあどけないあの青年たちの表情を思い出すと気が進まず、そのことを教えることはしなかった。 彼は「この戦争が早く終わってほしい」と思っている。先の見えない今後のことがひどく気になり、まだ幼いわが子や妻がどうやって生活しているのだろうかといつも不安に感じているからである。それでも、妻宛ての給与の送金が届いていることが3日前の妻からの手紙でわかり少し安心した。 ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2009/01/01
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★☆ 家庭では良き父・夫であり、古参職業軍人の「シュッミット上等兵」★☆ ~ ライフルの腕前は師団一のドイツ陸軍(国防軍)歩兵部隊狙撃手 ~ 引き続き、前回の「1/35 「WEHRMACHT INFANTRY (BARBAROSSA 1941)」(DRAGON社)の2人目の戦士に焦点を当てた物語風タッチでのご紹介です。 その戦士は、分隊の中で一番年長の「シュミット上等兵」です。彼は、1941年6月22日発動の「バルバロッサ作戦」の6年前の1935年の29歳当時にドイツ陸軍(国防軍)に入隊した古参の職業軍人です。 「シュミット上等兵」・・・彼はケルン出身の36歳、彼の父親は時計店を経営していたが、1929年の世界大恐慌の波に追われ、ドイツでも経済破綻や企業の倒産、札束は紙くず同然となり、失業者であふれていたが、彼の父親も時計店の倒産となりしばらくは家族が流浪の民同然の極貧生活をしていた。シュミットは、その貧しい中でも父の裕福な祖父方のはからいで、青年時代はギムナジウム職業訓練校で機械工の技術を学んでいた。1933年、ドイツ国内ではナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が政権を取り、国内の急速な復興を目指し、様々な社会資本設備やアウトバーン(ドイツ国内高速道路網)の建設を開始、シュミット自身も1年間この建設作業に従事し生活もやや安定していたが、さらなる生活の安定を目差して、1935年にドイツ陸軍(国防軍)入隊したわけである。 彼は、機械工としてルール地方でしばらく働いていたが、26歳で4歳下の看護師の妻と結婚、シュツットガルトに転居し、今では7歳の長女と6歳の長男がいる。家庭では良き夫であり、子煩悩な父親である。今の悩みは、遠いウクライナまでやってきたために、そんな妻や娘たちともう3カ月近くも会えないことである。それでも慰めになるのは、彼の上着の内ポケットに納まった家族の写真と昨日届いたばかりの妻の手紙である。 シュミットは、歩兵師団一のライフル銃の腕前の持ち主として知れ渡っている。先週は、訓練中の射撃優等者として師団長から勲章を授与されたばかりである。彼の愛着があり、頼りになるこの「モーゼルKar98kライフル」との付き合いは、もう6年を迎えることになるが、暇さえあれば銃の整備は怠らない。銃の分解から組み立てまで、彼の腕にかかれば5分を要しない。彼は、キリスト教徒であるが、仮眠をするときは、家族や自分を含めた分隊仲間、そしてこの銃に対する安全と神の加護を祈ることを欠かさない。 生活の安定のためにと職業軍人となり、有事とばれば命令のままに出動することは当然覚悟していたが、まさかドイツからはるか2000キロを超える地に来るとは思わなかったのが本音である。そして、ロシアの地が想像以上に広大であることも実感した。進んでも進んでもはるか地平線まで続く見渡すばかりの平原、山を越えると再び続く平原の繰り返しであり、この先いったいどうなるのだろうと不安がよぎる。 最近、気になることがある。実は、新兵ハンスのことであるが、彼はまだ23歳で若く、独身である。子供もおらず、兵士としての猛訓練にも耐え抜いた実績があるが、所詮は徴兵された新兵であり、「こんな若い兵士がバタバタと倒れるのは、もう見たくない。どうにか生き抜いて欲しい。」と戦闘中にたびたび願っているほどである。こんな感情が起こるのは、自分が子を持つ父親であるためだろうか・・・。 ドイツ軍人としての誇りと名誉もあり、今おかれた祖国ドイツをスターリンのだまし討ちによるソ連の赤軍の奇襲から救うには、先制攻撃しかないことはよく理解してるが、倒しても倒しても何処からともなく消耗品のようにいくらでも繰り出してくるソ連軍の大部隊にはどの兵士たちも辟易となりかなり神経質になりつつあるようだ。 (Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2008/12/29
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★☆ 大学で考古学専攻の研究生だった「ハンス二等兵」 ★☆ ~ ドイツ陸軍(国防軍)歩兵部隊機関銃装填手 ~ 前回の作品「1/35 「WEHRMACHT INFANTRY (BARBAROSSA 1941)」(DRAGON社)の作品はかなりお気に入りなので、REALISTの独断と偏見でしばらくその個々の戦士に焦点を当てて物語風タッチでご紹介しようと思います。 まずは、分隊の中で一番若い「ハンス二等兵」をご紹介しましょう。彼は、一番若く、階級も最下位ですが、学歴は彼が最高位なのです。それは、彼は、職業軍人ではなく、徴兵により兵士に採用された新兵だからでした。 ★☆『 Operation Barbarosa 1941 invasion of soviet union 』★☆ 「ハンス二等兵」・・・彼は、ミュンヘン出身の23歳、1940年にドイツ陸軍(国防軍)兵士に徴兵されるまでは、ハイデルベルク大学でギリシャ・エーゲ文明の考古学専攻の研究生だった。しかし、約1年間の歩兵部隊の様々な猛訓練を受け、以前のひ弱そうな体から筋骨隆々の体に変身、今や誰もが認める一人前の若き戦士となり、1941年6月22日発動の「バルバロッサ作戦」に初出動となったわけである。多くの戦友が倒れる中、どうにか生き抜いてシュタイナー分隊のクルーガー上等兵(MG34機関銃手)とコンビでMG34機関銃の装填手を務めている。ハイデルブルクには、高校時代から交際していた恋人がいる。 ドイツ本国から約2000キロを行軍に次ぐ行軍を続け、やっとウクライナの首都キエフに到達した。小隊の半数は戦死、わがシュタイナー分隊も10人から今では生き残りは遂に4人となった。途中、補給部隊の補給をたっぷり受け、MG34機関銃弾のぎっしり詰まった鋼鉄製の収納箱を左肩から体の前後に2個掛けているが、強靭な体にもその重さがしっかり肩に食い込みつらい。 ウクライナの首都キエフは、遠い国だった。でも、66万5000人のソ連軍を打ち破り、市内に入ると・・・驚いたことにウクライナの市民たちからは歓声と拍手や笑顔で手を振り迎えられたことには、驚くとともにうれしかった。市民たちは、わがドイツ軍を「赤軍や共産主義者、ポルシェビキたちからの解放の戦士たち」として歓迎していたのだった。言葉は理解できないが、町の女性や農民たちから食糧やワインの差し入れを受け、非常に好意的であったので、記念写真を撮り合ったり、ハンスたちも好意を示して配給を受けたウインナーソーセージをお返しに与えた。 ハンスは考古学とは全く無関係な陸軍兵士となり、戸惑いや戦争に疑問をもつことがあるが、今回の作戦は、「今、ソ連をたたかないと、スターリンは独ソ不可侵条約を破ることを命じ、国境に集結しつつあるドイツ軍の数倍の兵力を誇るソ連軍が押し寄せて来るのは時間の問題であり、このままではドイツが滅ぶ」という危機感からの作戦と聞かされており、ハンス個人も家族や恋人、国家のためにも、仕方ないことだと思っている。 ハンスたちの歩兵部隊は、ドイツ本国のザクセンハウゼンを発ち、軍用列車でポーランドのワルシャワまで輸送され、その後、輸送トラックに揺られ、スロヴァキア、ハンガリーを経由して来た。身につけた個人装備品は、雑のう、ガスマスクケース、水筒、短スコップ、飯ごう、短剣、ライフルなどを含めると約20キロ以上となる。 彼は、以前、悲惨な戦闘を繰り返す人類の歴史や研究に没頭していた時期もあったが、今の自分がそんな歴史の中に埋没してしまったことに気づいた。 戦地に出てから、ミュンヘンの両親とハイデルブルクの恋人あてに、ここの最初の写真を同封して、近況や異国での珍しい出来事などを書き手紙を送った。ハンス2等兵の胸のポケットには、先日送られてきたばかりの恋人の写真と両親の写真がいつも納まっている。 戦場では、つい先ほどまで笑顔で笑っていた同僚が目の前で突然、敵の攻撃を受け倒れていくことがしばしば、やらなければこちらがやられるという恐怖感・・・・ソ連軍は無尽蔵に繰り出してくる。倒しても倒しても敵の群れが襲ってくる。いったい、この戦争はいつ終わるのだろう?・・・・ ハンスにとって幸いなのは、よき分隊仲間が心の支えになっていることだろう。まずは、勇猛果敢で尊敬できる頼りがいのある分隊指揮官の分隊長であるシュタイナー軍曹、それから、いつも陽気で笑いの絶えないMG34機関銃手のクルーガー上等兵、また、ライフル銃の腕前なら天下一品で心やさしいシュミット上等兵だ。 (Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2008/12/25
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★☆ バルバロッサ作戦(1941年)でのキエフ攻略と休息 ★☆ ~ WEHRMACHT INFANTRY (BARBAROSSA 1941) ~ 1939年8月23日、ソビエト連邦(以下ソ連)とドイツは「独ソ不可侵条約」を締結しましたが、その際にドイツとソ連は、ポーランドを分割占領することを密約しました。まずは、9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻、その後ソ連も9月17日に侵攻開始、その結果、9月28日には両国はポーランドを完全分割占領し、事実上ポーランドは消滅しました。 この作品は、「1/35 「WEHRMACHT INFANTRY (BARBAROSSA 1941)」(DRAGON社)です。 1941年9月26日、ウクライナの首都キエフをほぼ攻略、ドイツ陸軍のある歩兵分隊の生き残り4人が建物が崩れ落ちた町の一角を敵の残存兵士がいないか巡回しています。 ★☆『 独ソ戦1941バルバロッサ 中央軍集団映像 BRBAROSSA 』★☆・・・それから、しばらく独ソ間には平穏な日々が続きますが、ドイツ首脳部がスターリンの指示によるソ連軍のドイツに対する大規模な先制攻撃計画(ソ連軍258個師団で一挙にドイツ占領中のポーランドを横断、ドイツ本土内に侵攻)に関する情報を入手、それによって、ヒトラーは激怒し、その攻撃の裏をかくためのソ連に対する先制攻撃計画を命じ、急きょ極秘にその計画が策定されました。 先頭兵士はMG34機関銃を肩に、続いてMP40シュマイザーを肩にかけた分隊長の軍曹、さらにモーゼルKar98kライフルを手にした兵士二人、最後尾の1938年型略帽着用の若い2等兵は、MG34の機関銃弾の入った重い弾薬ケース2個を肩にかけています。 作戦名は、「バルバロッサ(BARBAROSSA)」で、それは、1190年、十字軍を率いて聖地エルサレムを異教徒から奪回した神聖ローマ帝国の皇帝フリードリッヒ・バルバロッサから取ったネーミングでした。これは、異教徒であるソ連の赤軍や共産主義者を殲滅(せんめつ)することと同一視したためでした。 「WEHRMACHT INFANTRY (BARBAROSSA 1941)」 Box Art (By DRAGON) 以前作成した広告円柱のあるロシアの町の一角と今回の歩兵のフィギュアをコラボさせました。街の風景にピッタシ溶け込んでいるように思えました。 1941年6月22日午前3時、ドイツは「バルバロッサ作戦」を発動、ドイツ軍は、歩兵師団164個、機甲師団21個、自動車化歩兵師団10個、空軍3000機で独ソ全国境線での一斉攻撃を開始、この1日だけで1200機以上のソ連軍戦闘機・爆撃機が地上で撃破されました。 ここで、束の間の休息をとることにしました。9月の終わりに近いとはいえ、まだまだ暑さが残っており、ヘルメットを脱ぎ、腕まくりをしています。分隊長は暑さのためか水筒の水をグビグビ飲んでいます。あまりの飲みっぷりに部下たちも興味深く見ています。 また、この作戦には、南方にハンガリー・ルーマニアの14個師団、北正面にフィンランド軍13個師団もドイツ軍との共同作戦に加わっていました。 特にドイツ軍の中央軍集団がめざましい成果をあげ、約1週間で白ロシアの首都ミンスクに到達、7月10日までにソ連軍約32万2000人を捕虜、戦車等車両約3000両、火砲1800門を鹵獲(ろかく)、7月16日には、モスクワの関門となるスモレンスクを包囲殲滅、ソ連軍捕虜31万人、戦車等車両3200両、火砲約3200門を鹵獲しています。 あまりの飲みっぷりに、部下たちは「分隊長!よくそんなに飲めますねぇ!」、すると分隊長は、「ああ、これはだな、ここに来る前に世話になったウクライナ人においしいワインを入れてもらってたのさ!」・・・「あらら・・そうなんすか!」 また、その後、ソ連軍の大規模な反撃もありましたが、その攻撃を撃退、8月7日までにソ連軍25個師団を殲滅、10万3000人を捕虜としました。さらに、東部に侵攻したところ、要塞化されたウクライナの首都キエフが立ちふさがり、これを包囲攻撃の結果、9月26日までにほぼ制圧、ソ連軍66万5千人を殲滅または捕虜、火砲3718門、戦車等車両886両を鹵獲しました。この作戦はほぼ当初の目的を達成していますが、9月30日、さらにヒトラーによるモスクワ攻略のための「タイフーン作戦」が発動されました。 部下が「分隊長!大丈夫ですか?そんなに飲むと・・・」、分隊長は、「なに?心配ご無用さ!俺の家はモーゼル地方でワインを生産しているので、子供のころから飲んでいるから、お茶のようなものさ!」 伸びきった補給線から補給物資が次第に滞り、また、10月から秋の長雨による道路の泥沼化で進撃が進まず、さらにそれに続く厳しい冬が迫り、モスクワまであと数十キロと迫っても冬の装備を欠いたドイツ軍にマイナス40度の厳寒に耐える力もなく、極寒用のエンジンオイルの準備不足からすべての車両は動かず止まり、倒しても倒しても繰り出すソ連軍の集団に対する攻撃もできなくなり、あちこちで損耗していくドイツ軍部隊が敗退していきます。これで、「タイフーン作戦は」失敗に終わるわけです。 機関銃の上等兵が、「分隊長!この戦争はいつごろ終わるのでしょうか?」・・分隊長「さあな、俺にもわからない、国に早く帰れたらいいよな!」 ★☆ このモデルの感想とあるこだわり ★☆ > このモデルは、「DRAGON」という中国の香港に拠点をおく世界的に有名なメーカーの輸入品ですが、御覧のとおり、兵士一人一人のバランスや動きのあるスタイル、顔立ちもいかにもドイツ人らしい彫の深いメリハリの利いたものであり、頭髪の表現についても当時の記録映画か歴史的な写真資料を参考にした様なリアルさはピカ一の素晴らしいものでした。 REALISTは、フィギュアのドイツ兵の頭髪の塗装では、どれも一律に金髪を採用していますが、現実にはそうでなくても、それは単なるドイツ人=金髪だとする頑固なこだわりでしかありません。 部下たち・・「あらら・・・・分隊長殿はまだ飲んでるぜ!」 ドラゴンモデル 1/35 スケール WW.II ドイツ国防軍兵士 行軍バルバロッサ 1941【6105】楽天で購入 (Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2008/12/20
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★☆ 服装に観る灼熱のアフリカンスタイル(African Style) ★☆Deutsches Afrikakorps African Style~ 戦場で敵味方泣き唄った「リリー・マルレーン(Lili Marleen)」 ~ 『"Nord-Afrika hei? hier!"..うう・・ここは暑い!(Oh !・・It's very hot !)そして・・日射しのまぶしさも異常だ!わが祖国ドイツとはあまりにも違いすぎる!・・』・・・日中は50度を超すほどの灼熱の世界、1942年末から1943年にかけて、はるかドイツの地からシチリア島経由でチュニジアに本拠を置くロンメル元帥(Erwin Johannes Eugen Rommel)のアフリカ軍団を救援すべく派遣された第501重戦車大隊及び第504重戦車大隊のタイガー I 型の戦車兵にとって、その暑さは想像を超えていたであろうと思います。 当時の記録映画では・・なんと!熱く焼けた戦車の装甲の鉄板の上で卵を割り目玉焼きを焼いていたシーンがありました。しかし、夜ともなると満天の星空が美しく輝き、気温差が40度近くも低温となり寒さで凍えるほどになりました・・・・ ★☆『 Panzer rollen in Afrika vor 』★☆ 灼熱の「チュニジア」その地の歴史をひもとくと・・・地中海をはさんでイタリアの南側に位置する北アフリカ北岸のアルジェリアとリビアにはさまれた国で、古代ローマ時代では「カルタゴ」と呼ばれフェニキア人繁栄の地でもありました。最盛期には名将ハンニバルが軍隊を率いて地中海世界の覇権を巡りローマ軍と激しい争いをしましたが、紀元前146年の第3次ポエニ戦争で滅亡しています。その2000年後、この地が再び戦場となりました。 ★☆ ヨーロッパ仕様と異なるアフリカ仕様の制服 ★☆ ドイツ・アフリカ軍団(ドイツ語Deutsches Afrikakorps, 略称:DAK)の制服は、アフリカ仕様として特別に制式化されていました。歩兵部隊と機甲部隊の服装の明確な違いのあったヨーロッパ仕様と異なり、両者の間にはほとんど大差なく共通であったようです。新品はカーキ色で支給されましたが、アフリカ特有の強い日射しと熱を受けるために、かなり早い段階でダークイエローに褪色してしまいました。アフリカ軍団の制服・帽子・階級章は、ヨーロッパ仕様のものと多少形状・色彩も異なっており、シルバー系の国家徽章、階級章、金属ボタンが多用されています。どんなに暑くても半袖ではないのは、強い日射しで肌を焼かれるのを防ぐためのようです。そういえば・・・私も以前、甘い考えだったのか・・・半袖スタイルで秋の弱い直射日光を浴び海岸で長時間の磯釣りをした結果、翌日になると両腕が火ぶくれとなり火傷のような痛みに苦しんだ経験がありました。 階級章はヨーロッパ仕様と色(一部ピンク色)や形状が異なっています。国家徽章(鷲[わし]とハーケンクロイツ)の色や形状は同一ですが、台座の布張りの色が茶系になっています。(写真左)、歩兵の場合は、通常はベルトを装着していました。メタル系のボタンは通常メタリック系シルバーでしたが、写真は実物で過酷な条件下で使用され古く年月を経ているために輝きを失い、階級章や国家徽章も含めすっかりくすんだように褪色して輝きを失っています。(写真右) ☆★ ネッカチーフを愛用する兵士たち ★☆ 暑さと砂と汗でかなり不快な状況であったと思いますが、兵士の中には砂が入り込むのを防ぐために首の回りに肌触りの良い布製のネッカチーフを首に巻いている姿がありました。 彼は、砂や汗の不快さを和らげるため、肌触りの良いシルクの白色ネッカチーフを首に巻いています。このネッカチーフは、愛する妻や恋人から送られてきたものでしょうか?それとも、フランス時代につきあっていたパリジャン(パリの娘)からのものでしょうか? 写真は、いずれも当時のドイツ・アフリカ軍団兵士であり、ネッカチーフスタイルであったものです。右の兵士は、砂から目を保護するためのゴーグルを帽子にかけています。 昼間の戦車の中はとても暑かっただろうと思います。特に全てのハッチ類を閉じた状態では、エアクリーナーでの空気の入れ換えができたとしても、エンジンの熱と日光による車体そのものの熱で・・まるでサウナ風呂状態ではなかったのかと思います。 ★☆ズボンは半ズボンスタイルか?★☆ 歩兵部隊では半ズボンスタイルも比較的多く見ることができますが、戦車兵や装甲部隊の大半は長ズボンであり、特に戦車兵は日中の熱く焼けた車体の鉄板に触れ火傷する可能性も多いため、長ズボンを着用しました。 タイガーI型の天井の装甲厚は、当初25mmでしたが、航空機からの攻撃に対する脆弱性から、後に45mm厚に変更されました。 ★☆戦場で涙流して唄った曲「リリー・マルレーン(Lili Marleen)」★☆ 彼は戦車長としてコマンダーズハッチからの警戒中で、遙か彼方の砂漠の水平線を目で追いながら、故郷の家族に思いをはせているのでしょうか? ドイツ兵士たちは、戦闘の合間や休戦中に・・・第二次世界大戦直前の1938年に、作曲家ノルベルト・シュルツェ (Norbert Schultze) が曲をつけ、歌手のラレ・アンデルセン (Lale Andersen) が歌った「リリー・マルレーン(Lili Marleen)」・・が戦場向けのドイツラジオ放送から流れるのを戦車の中やテントの中で耳を傾けながら一緒に故郷や家族・恋人を偲び涙を流して唄ったそうです。・・・このドイツラジオ放送を偶然聴いた敵のはずのイギリス兵たちの間でもこの曲が非常に話題となり、大人気となって皆でドイツ兵同様に家族や恋人のことなどを偲びながら口ずさんで唄っていたという克明な記録がありました。その歌詞の内容は・・・こうです・・・↓↓兵舎の前の大きな門のそばに、街燈がぽつんと立っていた♪ 今日もまだ立っているだろう、その場所でまた君と会おう♪ あの街燈の下で、昔のように、リリー・マルレーン♪ 昔のように、リリー・マルレーン♪二人の影は一つになって、ぼくたちが愛し合っていたことは♪ 皆にもすぐにわかった、皆はまた見るだろう♪ 街燈の下に立つぼくたちを、昔のように、リリー・マルレーン♪ 昔のように、リリー・マルレーン♪ ↓↓↓↓歌は年代を感じますが、戦車やテントの中でドイツ兵やイギリス兵が聴きながら合唱するシーンにタイムスリップした気分になれるかも!!↓↓↓↓★☆ 『リリー・マルレーン』★☆(Thanks) !! (ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2008/07/02
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★☆ ドイツ アフリカ軍団のタイガー I 型重戦車(極初期生産型)★☆~ TIGER I, 1943, in Tunisia (very early type) ~ TIGER I(極初期生産型)のイメージを一番捉えたやや斜め正面から観た勇姿です。 ★☆TIGER I に観る魅力ある造形美★☆ TIGER I(タイガー I 型重戦車)のいずれのバリエーションについても、共通する魅力は、その雄々しく力強い中世ヨーロッパの騎士をイメージする様な独特な造形美にあるのではないかと思います。中世ヨーロッパの騎士といえば、全身を包んだ金属の鎧兜(よろいかぶと)の姿が目に浮かぶわけですが、「外見は強そうで迫力があり、敵の攻撃に対する防御力は高いが、その重量のために動作がやや鈍い」というイメージです。 TIGRT I(タイガー I 型重戦車)に運良く搭乗することができた選ばれた戦士たちは、実際に肌で感じたこの戦車の高い攻撃力・防御力や性能をとても誇り高く名誉に感じていたようです。 今回は、TIGRT I(タイガー I 型重戦車)の魅力が少しでもおわかりいただければと、ドイツ アフリカ軍団のタイガー I 型重戦車(極初期生産型)本体の各部に焦点を当てて自作プラモデルを近接撮影したのでご紹介します。 アフリカ軍団の極初期生産型と同時期の車体ですが、戦車兵の制服が黒色でアフリカ仕様ではないため、東部戦線のロシアで撮影されたものだと思われます。車体正面下部には、予備の履帯(キャタピラ)を12個装着しています。ドイツ軍はこのような方法で車体各部や砲塔周囲まで予備履帯を装着し、防御力を一層高める工夫をしていました。この予備履帯1個だけでその重量は50キログラム以上もありました。キャタピラ接地部分の金属光沢については、前回説明したとおりで、泥に埋まった部分を除きご覧のとおりまぶしく輝いています。 ★☆『Tiger Tank 131 Sounding Great In The Mud and Rain. 』★☆ ☆★車体正面を観る★☆ 車体正面の砲塔部分の左側円形の穴は、砲塔同軸機関銃(MG34・7.92mm) で、右側の2個の穴は、双眼式照準望遠鏡TZF9(b)(これで敵戦車を狙い戦車砲で攻撃)、車体正面下部にも前方機関銃(MG34・7.92mm)があり、上部の左右には通信手兼前方機銃手(左)と操縦手(右)用の外部視察用ペリスコープ窓付き円形ハッチ、左端にはボッシュ(Bosch)製前照灯があり、ハンマーやスコップなどの様々な工具も設置されています。100発100中の双眼式照準器TZF9(b)は、優秀なカールツァイス製の光学機器だったのでしょうか? ★☆戦車砲の方向位置に向けて観る★☆ 車体右側面部から前方に向けて観た状況です。砲塔部のハッチ内側の形状がわかり、砲塔右側には3連装の発煙弾発射器、左側にはピストルポートの穴が見えます。ピストルポートは、砲塔を動かさずに砲塔内部から近づく周囲の敵歩兵などに機関銃やピストルで射撃するための銃眼です。これは、後期シリーズになると発煙弾発射器とともに廃止されます。 車体左側面部から前方に向けて観た状況です。 ★☆砲塔部分を観る★☆ 砲塔の上部構造やディティールがよくわかる正面から観た状況です。右側の防弾ガラスの視察用スリットのある初期型コマンダーズ・キューポラ(車長用)や左側の装填手用ハッチの形状や配置状況がよくわかります。 これは、車長用キューポラの形状からして初期生産型であり、1943年ころに正面から撮影されたTIGER I 型重戦車の砲塔部分ですが、88mmKwK36戦車砲(直接照準有効射程4000m、2000mの距離から高速徹甲弾使用の場合、110mmの装甲を貫徹可)の砲身に描かれた白いリングは14本あり、これでこの戦車が敵戦車14両を戦闘で撃破したことを示しています。このような撃破マークの記載は、ドイツ軍に多く見られ、英米連合軍やソビエト軍にはほとんどありません。この戦車兵は迷彩戦闘服を着用しているようであり、東部戦線か西部ヨーロッパ戦線で撮影されたものと思われます。 砲塔上右側の初期型特有のコマンダーズ・キューポラ(車長用)の形状や同ハッチ裏側の構造、左側の装填手用ハッチの形状や配置状況がよくわかります。コマンダーズ・キューポラは、中期型からハッチがスライド式の開閉となり、戦車長の外部視認性を高めるため周囲にペリスコープを内蔵した鋳造製キューポラに変更されていきます。 ★☆車体上部構造に注目して観る☆★ 車体前部側の車体の構造やハッチ、工具などの設置状況がよくわかります。このような車両牽引用ワイヤロープや修理等に必要な工具類をきちんと整備配置し運用しているのは、他の英米やソビエト軍戦車にはあまり見かけることのないドイツ軍の特徴だと思います。通信手兼前部機銃手用のハッチには、外部視察用ペリスコープの四角い形状がよくわかります。 車体後部側のエンジンエアクリーナーの状況、砲塔後部の雑具箱の形状がよくわかります。砲塔上後部の小さな円形状の部分は、砲塔内用のエアクリーナーコンダクター装置です。 ★☆車体下部及び転輪の構造を観る☆★ 車体左前部を観た状況です。幅広のキャタビラ、起動輪や複雑な構造のタイガーやパンサーに共通の複合転輪(互い違いに組み合わされた車輪)のディティールがよくわかります。 起動輪と転輪部分に焦点をあてて見た状況です。このような複雑な転輪の配置構造を持つ戦車は、他の諸国にはありません。重量のある転輪の修理や交換作業はかなりの重労働であり、その上にこの複雑さから手間がかかったようです。 ★☆車体後部の構造に注目して観る☆★ エアフィルターや中央部の3本の横スリットのある排気管カバーの形状がよくわかります。それにしても、これほどのキャタピラの幅広さも他国の戦車には例がありあせん。57t(トン)という車重を支えるために必要なのでしょうが、これ1台で10トン大型ダンプトラック6台分にも匹敵し、大型ダンプがタイガーに衝突したとすれば、タイガーはびくともせず、ダンプは・・・空のビールのアルミ缶を一気に押しつぶした様につぶれてしまうでしょう。 (Thanks) !! ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2008/06/28
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★☆ ドイツ アフリカ軍団のタイガー I 型重戦車 ★☆~ TIGER I, 1943, in Tunisia (very early type) ~ これぞ!ドイツの重戦車! チュニジアの現地人が頑丈そうなキャタピラの金属部分を触ったりして興味深くタイガーI型戦車を見ています。また、左端の少年も物珍しく戦車を眺めています。この戦車は、既に相当な激戦を経験し、敵の砲弾の爆発の衝撃で吹き飛んだのか前照灯を失っています。キャタピラの接地部分に注目すると、走行時の強い摩擦力が生じるため、磨かれた鏡の様な金属光沢でまぶしく輝いています。1942年末から1943年にかけてチュニジアで撮影されたもので、当時、ドイツ・アフリカ軍団の司令官であったロンメル将軍の強い要請を受け、イタリアのシチリア島経由で派遣された第501重戦車大隊のタイガー I 型重戦車の勇姿です。 上の実物写真とほぼ同一方向から撮影してみました。これは、まだ新品同様なので、しっかりと前照灯も装備されています。 ★☆この製品について★☆ この製品は、TAMIYAから1998年5月に発売され、それ以前のタイガー I 型重戦車の初期、中期、後期に加え新たなシリーズ4作目の「極初期生産型のモデル」です。ピストルポートを砲塔の両側面に持ち、またその後部に独特な形状の用具箱、折れ曲がったフロントフェンダーなど極初期型の特徴が再現され、車体後部の放熱スリットのある排気管カバーについては、「アフリカ仕様」であることを示す特徴までも再現されています。 Box Art (By Tamiya)★☆『Tiger Tank 131 』★☆ この作品は、「1/35 TIGRE I,INITIAL PRODUCTION [ドイツ重戦車タイガー I 極初期生産型(アフリカ仕様)]」(TAMIYA)です。 ★☆ドイツ・アフリカ軍団のタイガー I 型★☆ それは、ドイツ・アフリカ軍団司令官ロンメル将軍の強い要請を受け、1942年末から1943年中にかけて増援派遣された第501重戦車大隊及び第504重戦車大隊のタイガー I 型であり、特に第501重戦車大隊の「極初期生産型」は、英米連合軍の前に初めて姿を現した車両でした。 いかにも強そうだと思えるショットです。この戦車を初めて見た英米連合軍は、分厚い装甲と強力な88mm戦車砲を装備した重戦車のあまりの強さに驚き、その姿を見ただけで「タイガーだ!!」と戦意喪失して逃げたというエピソードもあるほどでした。 ★☆性能データ★☆ 1942年7月よりヘンシェル社で生産開始、1944年8月までに1346両が完成、砲塔デザインはポルシェ社で設計された。全長8.45m、全幅3.7m、全高2.93m、戦闘重量57t、武装:88mmKwK36戦車砲(直接照準有効射程4000m、2000mの距離から高速徹甲弾使用の場合、110mmの装甲を貫徹可)、 7.92mm機銃×2、最大速度38km/h、航続距離1440km、乗員5名、マイバッハHL230P45V型12気筒水冷ガソリンエンジン(排気量2万3095cc、700馬力)、装甲厚:車体前面100mm、側面80mm、後面80mm、上面・下面25mm、砲塔部前面100mm、砲防盾100~110mm、側面・後面80mm ドイツアフリカ軍団の制服は、新品はカーキ色でも強い日射しと熱で次第にダークイエローに褪色しました。アフリカ軍団の制服・帽子・階級章は、ヨーロッパ戦線のものと多少形状・色彩が異なっており、シルバー系の国家徽章、階級章、金属ボタンが多用されています。どんなに暑くても半袖ではないのは、強い日射しで肌を焼かれるのを防ぐためです。彼は、砂や汗の不快さを和らげるため、肌触りの良いシルクの白色ネッカチーフを首に巻いています。 ★☆部隊表示★☆ この車両は、第501重戦車大隊第7中隊731号車(1943年・チュニジア)として砲塔の指定位置にデカールを貼付しました。赤色数字の左上部に、部隊標識の黄と黒色縞模様の「忍び寄る虎」のマークがあります。 砲塔には左右に三連装の「発煙弾発射器」が装備され、重そうな牽引用金属製ワイヤロープが横たわっています。戦車長の左胸には1級鉄十字章が見えます。 上左は、チュニジアに陸揚げされた新品車両で、幅の狭い鉄道輸送用のキャタピラを装着しています。写真右は陸揚げ前の状態を後方から撮影されたものです。 ★☆車体の塗装について★☆ 車体色は、砂漠向けのダークイエロー単色での塗装が実際に施されていたのでそれに従いました。車体のサビ等の汚れを極端に強調する方法がリアルだという固定観念は間違っています。それは、長期間、雨ざらしになって放置された廃車同然の戦車、若しくは宿主のいない死んだ戦車だと思います。世界中の軍隊では・・とりわけドイツ兵は几帳面で貴重な武器の手入れは常に怠らず、汚れた状態を放置するなどまず考えられません。不具合があれば治す、サビがあればワイヤブラシで取り除きペイントして綺麗にしたと思うのです。戦車であっても愛車としての掃除や手入れのためのバケツや道具を常時積載していました。 複雑な構造に見えるエンジンエアフィルター装置ですが、砂塵からエンジンを守り、新鮮な空気を送り込むのに必要でした。 ★☆キャタピラ接地面の光沢☆★ キャタピラの接地面ですが、57tという重量で路面との強い摩擦で金属光沢が生じるのがリアルで自然です。それは、実物の資料や写真を観察してもそうであり、うち捨てられ長く放置されたもの、長く倉庫に保存されたものは論外として、実際の戦車を見る機会がなければ、たとえば戦車と同じ構造の大規模な土木現場で毎日活動し動き回るブルドーザのキャタビラ接地面を見れば納得するはずです。 上の実物の写真と比較してもほぼ同一の形状なので、まずまず満足です。 ★☆タイガー I 型の魅力☆★ 第二次世界大戦中の戦車の中でも火力・防御力共に最高度に傑出した戦車であり、ソビエトの「T34戦車」に対抗するために開発されたというパンサー戦車との共通面がある反面、被弾経始のある「ソビエト型」車体のスタイルとは異なり、分厚い垂直装甲で箱形の「ドイツ型」スタイルを貫いた戦車で、美しいフォルムのパンサー戦車とは異質で雄々しい魅力を感じます。英・米・ソ連軍戦車を相手に善戦した戦車戦エースの「ミハエル・ヴィットマン(138両撃破)」、「オットー・カリウス(150両撃破)」、「クルト・クニスペル(168両撃破)」の愛用した戦車がまさにこのタイガー I 型でした。 タイガーやパンサーに共通の複合転輪(互い違いに組み合わされた車輪)が見えますが、この交換作業は、大変面倒で困難だったらしいのですが・・・ チュニジアの第501重戦車大隊所属車両でリラックスした待機状態の写真です。 上の待機中の写真とほぼ同一方向で撮影してみました。エアフィルターや中央部のスリットのある排気管カバーの形状、位置関係もほぼ同一でした。 【タミヤ】 1/35 ミリタリーミニチュアシリーズ No.227 ドイツ重戦車 タイガーI 極初期型(アフリカ仕様) 【玩具:プラモデル:ミリタリー:戦車】【1/35 ミリタリーミニチュアシリーズ】【TAMIYA】楽天で購入(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2008/06/22
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★☆ Bail Out! Russian Tank Crew, Kursk,1943 ★☆~1943年7月12日,ロシア クルスク,『プロホロフカ大戦車戦』~ この作品は、「1/35 Bail Out (奪取せよ)!,Russian Tank Crew(ソビエト戦車兵), Kursk(クルスク),1943」(MB[マスターボックス]社・ウクライナ)です。 エンジン部が燃える戦車、必死に脱出する戦車兵のシーン 今は存在しない当時のソビエト連邦共和国の国旗 ★☆この製品について★☆ この製品は、2008年春に発売されたMB(MASTER BOX)社(生産国ウクライナ)製のプラモデルのフィギュアキットです。このキットは、表題の『Bail Out(脱出せよ)! Russian Tank Crew,Kursk,1943』・・・とあるように、ストーリィ性を持たせたもので、1943年7月12日、ロシアのクルスク地方にあるプロホロフカ大平原で、ドイツ軍とソビエト軍、両軍合わせて1,500両の戦車による史上最大の戦車戦「プロホロフカ大戦車戦」で敵戦車の攻撃で後部機関部を被弾、破壊された戦車から必死の脱出を試みるソビエト戦車兵のシーンを再現したものです。 Box Art (By MASTER BOX)★☆『 クルスクの戦い 』★☆ このキットは、第二次世界大戦当時の標準的なソビエト戦車兵4体で構成されており、独特の布製でクッション重視の黒色戦車帽、黒色革製のツナギ(上着とズボンが一体となったもの)に身を包み、茶色の革製ベルト、黒色のブーツ・・と黒ずくめスタイルが印象的です。無帽の戦車兵が、T34/76戦車の前部操縦席のハッチから仲間の負傷した戦車兵を必死で救出しようとしています。それと同時に無防備な戦車兵を襲おうと接近する敵(ドイツ軍)の歩兵部隊にPPSh-41(サブマシンガン41型)で援護射撃をしている戦車兵、ピストルを片手に戦車の砲塔から今まさに飛び降りようとする戦車兵の姿がその場の緊迫感を一層高めています。 戦車戦で後部機関部に敵弾を受け燃えさかる戦車、運良く助かっても早く脱出しなければ積載の砲弾が誘爆するので早く脱出しなければならないが、戦場では、脱出する無防備な戦車兵を狙って攻撃してくるのだ ★☆伝わる戦車兵の緊迫感★☆ プラモデルなので、当然この4体は、頭部、胴体、手、足、各装備品など細かなプラスチックの断片に過ぎなかったものですが、これを1体づつ接着剤で人の形を作り、指定された塗装を施し次第に完成に近づくと、見事な動きのある戦車兵にみるみる変貌していくのには感動ものでした。そして、T34/76戦車とコラボしてみると、その時の戦車兵たちの緊迫感が伝わってきました。それは・・「被弾して戦車は燃えている、熱と炎で積載の砲弾が誘爆するのは時間の問題、一刻も早く戦車から脱出しなければならない、しかし、戦車の外に出れば敵兵が無防備な自分たちを攻撃してくる」・・という緊迫感です。脱出の様子とそれを援護射撃するシーンで、まるで映画のワンシーンの様です ★☆炎の演出は効果大★☆ 「T34/76戦車は、ガソリンエンジンを採用していたので機関部に被弾すると燃えやすい戦車だった」というあるドイツ戦車兵の記事を読んだことがあり、それを演出するために、燃えさかる炎と煙の表現をタミヤの塗料缶スプレー(ダルレッドとジャーマングレイ2色のみ)で作成し、T34/76戦車の後部機関部付近に配置すると、これが見事でリアルな演出に効果大であることがわかりました。負傷した戦車兵の片腕を肩に乗せ、操縦席から懸命に引き出そうとしています ★☆クルスクでの「ツィタデレ(城砦)作戦」★☆ T34出現による「T34/76ショック」から、これに対抗できる重戦車タイガーI型(ドイツ語読みでは「ティーガー」)、中戦車パンサー(ドイツ語読みでは「パンター」)、重駆逐戦車フェルディナンドやフンメルなどの新兵器が相次いで開発され、いよいよドイツ軍はロシアの東部戦線で一気に優位な情勢に持ち込むためのクルスク突出部に対する夏季攻勢である「ツィタデレ作戦」を1943年5月はじめに予定していました。しかし、ヒトラーの「パンサーやタイガーの一定数量の要求」に間に合わず、結局、7月5日に開始されました。ソビエト軍は、ドイツ軍中枢部に潜入したスパイ(日本でもソビエトのスパイ「ゾルゲ」が有名)から作戦内容を早くから入手し、既にその作戦内容を分析し、進撃路、攻撃目標、兵力、攻撃日時までもが把握済みでした。そのために、クルスク地方の突出部全域(日本の九州全域の面積と同じ)に60万個の地雷原を敷設、鉄条網、機関銃陣地を張り巡らし、兵員133万人、対戦車砲2万門と戦車(T34とKVシリーズ主体)・自走砲(SU-76とSU-152主体)3,300両、航空機2,650機で守られた8個の巨大な要塞を建設して待ちかまえていました。また、その後方にも兵員130万人、戦車・自走砲6,000両、火砲2万5,000門、航空機4,000機を超える予備兵力を待機させていたのです。燃える戦車の前部上方から見た戦車兵のシーンです これに対するドイツ軍は、兵員90万人、戦車・自走砲(タイガーI型141両、パンサー200両・IV号・III号を主体)2,700両、航空機1,800機の体制でした。ドイツ軍は過去に成功した電撃作戦の方式で、まず敵陣地への急降下爆撃とそれに続く重戦車を先頭(これに続く中戦車、軽戦車、装甲兵員車)にした「パンツァーカイル(装甲の楔[クサビ])」と呼ぶ楔形陣形で進撃しています。この作戦では、ドイツ軍の予想に反し、迅速な進撃や予期しなかった巨大な要塞群の出現で突破できず、しかも同時期にアフリカ軍団の降伏とイタリアのシチリア島に英米連合軍が上陸したという情報から、急遽作戦を中止せざるおえず、兵力を撤退させ東部戦線の一部をイタリア方面に配転させました。クルスクにおける戦果のみで言えば、・・ドイツ軍の戦死・戦傷・捕虜 50万人、破壊された戦車500、航空機 200に対して、ソビエト軍は、 戦死・戦傷・捕虜61万人弱、破壊された戦車1,500両、航空機1,000とドイツ軍側に軍配が上がったわけですが、西部方面での英米連合軍の大規模な攻勢からクルクスでの作戦の中止と撤退による東部戦線からの兵力削減とドイツ軍弱体化という結果に至るわけです。 迫り来るドイツ兵から逃れようとPPSh-41サブマシンガンで仲間の脱出の援護射撃をしています ★☆「史上最大の戦車戦」→「プロホロフカ大戦車戦」★☆ 「プロホロフカ大戦車戦」は、その「ツィタデレ作戦」のさなかにドイツ軍・ソビエト軍部隊が移動中に事前に何らの情報もなく突然に接触、衝突して起きた「不期遭遇戦」でした。1943年7月12日の朝、ロシア クルスク地方のプロホロフカ大平原でソビエト側がロトミストロフ中将指揮の第5親衛戦車軍(T-34・SU-76の850両)、ドイツ側がハウザー親衛隊大将指揮のSS第2装甲軍団(タイガーI型新鋭車両100両を含む700両)が偶然にも接触、ここに両軍合わせて1,500両による大戦車戦が行われたわけです。歴史上、これだけの大規模な戦車戦は、まさに「史上最大の戦車戦」と呼ばれるとおりなのです。第2装甲軍団は、SS第一装甲師団「アドルフ・ヒトラー」、SS第二装甲師団「ダス・ライヒ」、SS第3装甲師団「トーテン・コープフ」の3個師団から構成されていました。護身用のピストルを片手に必死の思いで砲塔から飛び降りようとしています SS第3装甲師団のタイガーI型を主力とする300両の戦車に、ソビエト軍戦車800両が攻撃をかけましたが、タイガーI型の88ミリ砲をはじめとする的確なアウトレンジ(敵の射程外からの)射撃により、次々と襲いかかるソビエト軍戦車を破壊、ドイツ軍側の損害がわずか5両だったのに比べ、ソビエト軍は300両も撃破されています。後に戦車戦エースとなったミハエル・ヴイットマン(「ダス・ライヒ」所属少尉)もこの戦いでタイガーI型で頭角を現しており、この戦いを体験したドイツ軍戦車兵の多くは、この時の戦車戦を「戦車の格闘戦というよりも、訓練射撃のようだった」と述べています。それにしても、遙か地平線が見える大平原のあちらこちらに破壊され爆発炎上する戦車、砲塔が吹き飛んだ戦車の残骸、赤い炎と黒煙を吐く戦車が横たわり、その周辺にある死傷兵、油や火薬の臭いがたちこめる状況は、まさに地獄の様な風景であったろうと思います。(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2008/06/15
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★☆RUSSIAN ARMY TANK CREW AT PEACEFUL REST☆★ ~ ソビエト戦車兵たちの平和な小休止 ~今は存在しない当時のソビエト連邦共和国の国旗 ★☆製品について★☆ 今回自作したのは、いずれもTAMIYA製のプラモデルキットです。その一つは、「1/35 RUSSIAN ARMY TANK CREW AT REST(ソビエト戦車兵小休止セット)」(1997年4月発売開始)であり、女性兵士1体及びと男性兵士5体で構成されたソビエト戦車兵のフィギュアキットで、とてもリラックスしたポーズが印象的です。また、他の一つは、「1/35 LIVESTOCK SET(動物セット)」(1984年8月発売開始)で、とてもほのぼのとした癒される動物たちの動きを感じることができるものです。 「ソビエト戦車兵小休止セット」(左)と「LIVESTOCK SET(動物セット)」(右)のボックスアート この作品は、「1/35 RUSSIAN ARMY TANK CREW AT REST(ソビエト戦車兵小休止セット)」(TAMIYA)と「1/35 LIVESTOCK SET(動物セット)」の一部を以前製作したT34/76ソビエト軍戦車とコラボしたものです。ソビエト軍の戦車兵たちが、小休止の合間に、目の前で展開される動物たちの仲の良い平和的な姿を見て感動しているシーンです。ソビエト戦車兵のスタイルは、独特のクッション重視の戦車帽にルパシカ型野戦服や革製のジャケット、ズボンに革製のブーツ姿で構成されるのが一般的でした。 今回、「ソビエト戦車兵小休止セット」と「動物セット」のコラボシーンは、なかなか思わぬ良い結果を生んだ組み合わせだったと思いました。 戦車兵たちのリラックスしたポーズやのどかで癒される動物たちの情景シーンの見事な表現は、世界のTAMIYAの素晴らしさを感じます。 女性兵士の位置を変えてみると・・これもなかなか・・GOOD!何かこれから物語が始まるようです。 ★☆ソビエト軍の女性兵士について★☆ 日本では、女性兵士はおらず、せいぜい野戦病院での看護婦の活躍ぐらいで、他の欧米諸国でも司令部や本国での通信や内勤事務程度の女性兵士がいた程度で、ドイツ軍でも同様な女性兵士がいた他には、国内の防空部隊の一部の高射砲部隊等での活躍がある程度でした。それに比べソビエト軍では、多数の女性兵士や将校が存在しており、女性だけの空軍パイロットや戦車部隊、陸軍部隊がドイツ軍や日本軍と交戦して活躍しました。女性だけで編成された爆撃機部隊や戦闘機部隊も存在していましたが、特に空軍のエースであったリディア・リトヴァクとエカテリーナ・ブダノアの二人のブロンド美人の戦闘機パイロットのドイツ空軍相手の活躍が有名でした。若い男女の戦車兵に焦点を定めると・・後方の戦車兵たちがぼんやりと見えますが、不思議なことに、この二人のささやきをうらやましそうに見ている様にも思えます。 ★☆感想★☆ 今回の成果は、「軍隊と戦車というものものしい対象」と「動物たちという可愛らしい平和的な対象」との一見相容れない者同士であっても、思わぬ良い結果を生み出すことができたということでしょうか。上方からのカメラシーンで全体を捉えたものです。 <10%OFF>1/35 ミリタリーミニチュアシリーズ No.214 ソビエト戦車兵小休止セット 【タミヤ: ...価格:850円(税込、送料別)(Thanks) !!↓(ありがとう)^^)/~~♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2008/06/02
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★☆GERMAN CAPTIVES「ドイツ軍捕虜たち」・1944年 ロシア★☆~ GERMANY SOLDIER WWII ~ ソビエト兵に銃剣を突きつけられて、捕虜となったドイツ兵たちは捕虜収容所までの道のりを歩いて行くのでしょうか? ★☆製品について★☆ この製品は、ウクライナ製(Master Box社)のフィギュアプラモデル(35分の1スケール)です。銃剣付きモシン・ナガンM1891小銃を手に持つソビエト兵士1体と負傷兵2体を含む5体のドイツ軍捕虜で構成されたキットです。戦場でソビエト軍の捕虜となり、憔悴しうなだれた表情のドイツ兵が印象的です。 このプラモデルに関する過去記事をご覧ください! (ここをクリックすれば過去記事にジャンプ!!) 「GERMAN CAPTIVES,1944」のボックスアート この作品は、「1/35 GREMAN CAPTIVES(ドイツ軍捕虜たち),1944」(MB社・ウクライナ)です。 腕の包帯や頭に巻かれた包帯が血に染まって痛々しい感じがします。 一番後ろを歩く兵士は、ソビエト兵の姿を見ています。開戦当初のドイツ兵は兵士から将校までブーツが普及していましたが、大戦後期の1944年ころになると、物資不足から将校や一部の下士官を除き大半の兵士がブーツを装備していません。 ソビエト兵は、カーキ色の制服で大半がブーツを履いていました。ドイツ兵から奪った物を使用する者も多くいたようです。(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2008/05/30
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★☆リアルなドイツアフリカ軍団(DAK)通信兵 ★☆~ GERMANY SOLDIER WWII ~ この作品は、「1/35 SCALE TENT SET(テントセット)」(TAMIYA)です。 通信兵が無線機を操作しながら、ヘッドフォンと左手にマイクを持ち通信中の情景シーンです。ドイツアフリカ軍団兵士通信兵のボックスアートBox Art (By Tamiya)★☆『 WW2 - Capture of Bir Hacheim by Afrika Korps (Jun 1942) 』★☆ ★☆製品について★☆ この製品は、1975年10月に発売開始されたTAMIYA製のプラモデルキットです。テントにドイツアフリカ軍団(DAK)の通信兵1体、無線機と木箱、ジェリカン(ドイツ軍のガソリン容器)各1個で構成された比較的簡単なセットです。このキットの歴史は古いのですが、私には初めての出会いでした。TAMIYAらしく、ドイツ兵の雰囲気や顔立ちもしっかりしていて、リアルにそのシーンを間近で見ているように感じました。 北アフリカでは、気温差が激しくて日中は灼熱でテントの中も暑いのですが、夜は毛布がないと凍(こご)えるくらいに寒かったそうです。 ドイツアフリカ軍団の制服は、新品ではカーキ色だったのですが、砂漠の灼熱のためにすぐに色あせてしまいダークイエローに変化したそうです。 ドイツ兵が部隊員で可愛がっているマスコット犬が遊んで欲しいと忙しく通信中のドイツ兵に近寄り顔を見ています。タミヤ(TAMIYA) 1/35 テントセット (35075)プラモデル楽天で購入(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2008/05/27
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★☆ソビエト軍兵士の突撃シーンです★☆~ SOVIET SOLDIERS WWII ~今回は、先に公開したT34/76に付属のフィギュアなどに焦点を当てます今は存在しない当時のソビエト連邦共和国の国旗★☆ソビエト陸軍士官とPPS-43★☆ 当時のソビエト陸軍兵士の士官の標準の戦闘服は、キルティングされたのカーキ色の制服に黒色のブーツ、肩章は赤色と金色でデザインされていました。戦闘帽としての略帽の前中央部には赤い★マークがありました。フィギュアの塗装で苦心したのは、ロシア人らしい顔立ちや雰囲気にしたかった点でしたが、TAMIYAのフィギュアの顔立ちは実に良くできていて、彫りの深みのあるデザインに作られていたので、フラットフラッシュ(肌色)を重ね塗りして、特にTゾーンを強調するようにファンデーションでお化粧する感じで仕上げました。ギリシャ彫刻のイメージで、特に鼻を高めにして目のくぼみにメリハリがあるように心掛けました。 この出来上がったフィギュアを見ていると・・戦場写真家で有名なロバート・キャパの写真を思い出しました。士官が携帯しているPPS-43(スタレブ・サブマシンガン43型)は、PPS-42短機関銃を改良して重量及び携帯性を重視して1943年に開発された短機関銃で、それまでの72発入りドラム型弾倉から35発入り箱形弾倉に変更されています。口径は7.62mmで有効射程は200mでした。★☆兵士とPTRD-41★☆ キルティングの制服にダークグレイの毛皮の帽子とブーツを着用した兵士は、当時のソビエト軍が大量に使用したPTRD-41(ディグチャレブ対戦者ライフル)を重そうに携帯しています。このPTRD-41は、初速1010m/sで発射される14.5mm弾は有効射程の100mからIII号戦車、IV号戦車の30mm側面装甲を貫通し、また防弾ガラス製の覗き窓も簡単に破壊して乗員を死傷させることができました。このため、ドイツ戦車は開口部を減らし、覗き窓を溶接で埋め、さらにシュルツェンという装甲スカートで対抗するようになりました。★☆DShK-38★☆ DShK-38(ディグチャレブ重機関銃)は、対空用重機関銃ですが、しばしば歩兵隊でも使用されたもので、第二次世界大戦以降もソビエト連邦軍の標準重機関銃として使用され、三脚などに搭載したりGAZ-AAトラックに3挺搭載しての対空任務や、IS-2重戦車やSU-152自走砲、T-40水陸両用軽戦車などに搭載されての歩兵支援などに使用されました。塗装で金属的な光沢を与え、車輪も錆び(サビ)の表現をしてみると、重そうでずっしりとしたリアルさが伝わります。【タミヤ】T34/76チェリアピンスク【1/35ミリタリーミニチュアNO.149】価格:2,336円(税込、送料別)(Thanks) !!↓(ありがとう)^^)/~~ ご訪問していただきDanke!(Thanks) !!(ありがとう)^^)/~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。
2008/05/14
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★☆ ソビエトT34/76戦車 1943年型『チェリヤビンスク』 ★☆RUSSIAN T34/76TANK,"ChTZ"VERSION,1943 PRODUCTION被弾回避性能を高めた丸みを帯びた車体形状がよくわかる。 今は存在しない当時のソビエト連邦共和国の国旗 ★☆製品について★☆ この製品は、1990年10月に発売開始されたTAMIYA製のプラモデルキットで、ドイツ軍の攻撃の届かない安全なウラル山脈を越えたチェリヤビンスク付近に建設された製鋼所等と戦車工場群(タンコゴロード)の一つであったキーロフ工場で1943年に生産されたT34/76ソビエト軍戦車をモデル化したものです。箱絵も背景付きのボックスアートを採用、東部戦線のリアルな臨場感を与えています。 Box Art (By Tamiya)★☆『 Top Ten Tanks- # 1: The T-34 』★☆ この作品は、「1/35 RUSSIAN T34/76 TANK,"ChTZ"VERSION,1943 PRODUCTION (ソビエトT34/76戦車 1943年型『チェリヤビンスク』)」(TAMIYA)です。 このキットには、・・・戦車本体の他にキルティングの防寒服に身を包んだソビエト軍歩兵の士官と兵士のフィギュア2体及びDShK-38(ディグチャレブ重機関銃)、PTRD-41(ディグチャレブ対戦車ライフル41型)、PPS-43(スタレブ・サブマシンガン43型)のモデルが付属していて、このキットだけでもちょっとしたディオラマが作成できます。この製品は、4年前に2,000円で購入、倉庫に眠っていたものですが、久しぶりにその封印を解き作成してみると・・・そのリアルな雰囲気が伝わり感動ものでした。 ソビエト軍独特の戦車帽を被った戦車兵が似合う強そうなスタイルです。この戦車兵は、キットには含まれず、別に作成したTAMIYAの「ソビエト戦車兵小休止セット」の一部を使用しました。 ★☆T34/76戦車について★☆ この戦車は、分厚い装甲、強力な76.2ミリ戦車砲、高い機動力に加え合理的な設計による生産性の高さなどから、第二次世界大戦中の傑作戦車と言われ、1941年6月の独ソ戦開始から、それまで破竹の勢いで進撃していたドイツ軍の前に突如出現、当時のドイツ軍から「怪物」と呼ばれ恐れられた戦車です。その理由は、当時ウクライナやロシアに侵攻したドイツ軍が大量に標準運用した37ミリ対戦車砲では、T34/76戦車の正面装甲を何度命中させても大きな音を立てて砲弾が跳ね返されるだけで破壊することができず、自軍の対戦車砲を「ドア・ノッカー」と自嘲するほどであったことや、ドイツ軍戦車の大半がIII号、IV号戦車でしたが、その戦車ですらなかなかT34/76戦車に歯が立たないほど強力であったことです。 当時の実際の写真でも、ドイツ軍同様に前部装甲に予備キャタピラを装着して増加装甲として耐弾性能を強化する手法をソビエト軍も採用しているのを多く見かけるので、この車両にも装着させました。 この戦車の最大の特徴は、車体や砲塔部分が傾斜や丸びを帯びた被弾経始(砲弾が装甲を貫徹できず、そらす)効果の極めて高い構造を採用した点であり、またそのために戦車砲塔が溶接構造ではなく一体鋳造鋼工法を採用するとともに装甲板の加工についても厚板鋼板から、大型プレス機で打ち抜く「打ち抜き」工法を採用した革新的なものであり、この工法により大量生産が可能となり、ソビエト軍は1943年1年間だけでもT34/76戦車1車種に限定しても1万4,000両を生産しています。この生産数は、タイガーやパンサーの様な複雑な構造で生産数が伸びないドイツの1941~1942年の2年間に生産した戦車、自走砲の全総量に匹敵する数でした。T34シリーズでは、更により強力な85ミリ砲と大型砲塔を装備したT34/85戦車の生産数を加えると終戦までに3万両以上が生産され、終戦後も東ヨーロッパ、中東・アフリカ諸国、中国、北朝鮮(朝鮮戦争)、北ベトナムにも採用、使用され続けました。 最高速度は時速55kmとドイツ軍のIII号・IV号戦車の40kmよりも早い高速性能がありました。 ★☆T34/76がドイツ軍に与えた影響★☆ T34出現によるドイツ軍の「T34/76ショック」は凄まじく、早速、最前線で歯獲したT34/76をドイツ本国に送り、調査・研究の結果を踏まえ、対戦車砲の強化や既存のIII号、IV号戦車の装甲・主砲強化を図る一方で、これに対抗する戦車開発の着手が早くも1941年秋に始まりました。 エンジンはドイツ軍がガソリンエンジンなのに比べ、500馬力のディーゼルエンジンを採用、燃料効率も良く最大航続距離は400kmでした。 特にT34/76の被弾経始を意識して斜面装甲を採用したT34ハンターとして、翌年11月のわずか1年で開発・量産体制が確立された戦車が、ドイツ軍の誇る「パンサー中戦車」なのです。しかし、その一方で、まったくその被弾経始を無視・考慮せずに垂直の重装甲を貫いた(そのために重量が54tにもなった)「タイガー I 型重戦車」も出現しています。 この戦車の右側面部に「二人用ののこぎり」があります。ドイツ軍車両では見かけませんが、森林の多いロシアでは泥でぬかるみの道でスタック・立ち往生した場合の脱出や障害を取り除くための必需品であったのかもしれません。 T34/76戦車の主砲は、76.2ミリ砲であり、当時のドイツ軍のIV号戦車ですら貫徹力の弱い短砲身の75ミリ砲であったため、随時長砲身に変更され、パンサー戦車でも、T34/85戦車の54.6口径85ミリ砲よりも強力な70口径長砲身75ミリ砲が採用されました。 重量がIV号戦車よりも5t 重いのですが、その割には車体の外観が小さく見えます。 ★☆T34/76のデータ★☆ 全長:6.68m、全幅:3.0m、全高2.4m、重量28.5t、エンジン:ディーゼルV型12気筒(500馬力)、最高速度:時速55km、航続距離:400km、武装:76.2mm砲×1、7.62mm機銃×1、最大装甲厚:65mm、乗員4名 ドイツ軍のパンサーやタイガー戦車の複雑怪奇な複合輪構造に比べ、T34/76の車輪構造は単純・シンプルで、転輪などの整備や交換作業が楽で短時間で済みました。 ★☆T34/76の塗装について★☆ ソビエト軍戦車の標準塗装は、ダークグリーン単一色の全面吹き付け塗装がされていました。ドイツ軍の様な迷彩塗装はほとんどなく、冬季に限りダークグリーンの塗装表面に白の塗料や石灰などでカモフラージュされました。したがって、今回も、ダークグリーンで大ざっぱに吹き付け塗装を施し、細部は筆で修正しながら塗装を加えました。車体の塗装では困難はなく、苦心したのは、フィギュアに対する塗装作業の方でした。 砲塔は、表面がゴツゴツした状態で下部も荒削りで波打ち、いかにもロシアの鋳造製砲塔のようです。 ★☆感想★☆ 今回のプラモデルで実感したことは、複雑な細かい部品の多いドイツ戦車に比べて、ソビエト軍戦車は部品が少なく作業工程も簡単でそれほどの時間が必要なかった、ということでした。実物の場合も同じで「ドイツ軍戦車を1台を完成させるのに必要な作業量と工程でソビエト軍戦車を生産すれば10台完成できる!」、という書物の記事の記憶は「まさに正しい!」と、プラモデル作成でもリアルに体感できました。 雪中の林の中にT34/76を停車、司令部要員から進撃命令を受けるソビエト軍戦車兵たち~1944年冬ロシア撮影。★☆次回は・・・★☆ 紹介できなかったこのモデルに付属のソビエト歩兵のフィギュアなどの写真をアップします。(Thanks) !! ↓(ありがとう)^^)/~~ ♪どのページへのリンクもご自由にどうぞ。♪
2008/05/11
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