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新日本経済新聞より転載FROM 東田剛-------------------------------------------------------------麻生太郎財務大臣が、4月19日にCSIS(米戦略国際問題研究所)で、耳を疑うようなショッキングな講演を行いました。これは、Ustreamで視聴することができますが、文字起こししたブログもありますので、まずは読んでみてください。http://www.ustream.tv/recorded/31681043http://daisukeblog.com/?p=2089 この講演のどこが酷いか、分かりましたか? TPPをマンセーしている?そんなの、今さら驚くことではないでしょう。 消費税? 確かに、消費税についての発言は、ちょっと意外でした。「今後、税制抜本改革法に基づき、経済環境を整備し、予定通り消費税率を引き上げる決意です。」 もちろん、税制抜本改革法には景気弾力条項(附則18条)があり、「今後、税制抜本改革法に基づき、経済環境を整備し」と述べているので、経済環境が整備されなければ、消費税は上げないと読むこともできます。 でも、「経済環境の整備に失敗しましたので、予定通りにできませんでした」なんて、普通は言えません。おそらく、年内に補正予算でも打って誤魔化しつつ、あとは何とでも理由をつけて、消費税を上げるつもりなのでしょう。 ま、附則18条も「聖域なき関税撤廃を前提とする限り」と同じようなもので、「また、その手ですか」というだけの話ですな。 もっと驚いたのは、Ustreamの48分あたりからの発言。麻生大臣は、水道を民営化するとか発言しています。 同席しているジャパン・ハンドラー君も、ちょっとびっくりしてます。 でも、こんな話は、正直、どうでもいいんです。 どうしても許せないのは、この発言。 これは、最悪です。「日銀の黒田東彦新総裁は、実に大規模で迅速に、まさに「衝撃と畏怖(shock and awe)」を実行しました。」 まだ、分かりませんか? 「衝撃と畏怖」というのは、2003年のイラク攻撃の作戦名なのですよ。 アメリカは、イラクが大量破壊兵器をもっていると因縁をつけ、国連安保理の決議を経ずに武力攻撃を行いました。 無辜の民が多数犠牲になりましたが、結局、イラクからは大量破壊兵器が見つからず、中東を大混乱に陥れただけに終わり、オバマ政権はイラクから撤退しました。 当時の日本は、このイラク攻撃を支持しました。 しかし、イラク攻撃は、国連安保理の決議を経ていない武力行使ですから、国際法違反の「侵略」です。 最近、集団的自衛権だの、憲法改正だのといった議論がありますが、日本は、十年前に、現行憲法はもちろん、憲法改正しても認めないであろう「侵略」にあっさり賛成していたのです。 このときも、日米関係が理由でした。 日本というのは、日米関係のためなら、侵略への加担もOKだという国なのです。ならば、TPPごとき、日米同盟のためなら安いもんだということです。 私が、TPPにむかつくのは、それが国益を損なうからだけではありません。 TPP推進論の背景にある国家観が、このように腐りきっているからです。 その腐臭(これは「ふしゅう」でOK)が、麻生大臣の「衝撃と畏怖」発言から漂ってくる。 「こいつはくせえッー!ゲロ以下のにおいがプンプンするぜッーーーーッ!!」 しかも、この発言は、麻生大臣が後生大事にしている日米関係をも傷つけるものです。 なぜなら、イラク攻撃は、アメリカにとっても、触れてもらいたくない汚点だからです。 「衝撃と畏怖」は禁句なのです。 それなのに、麻生大臣は、ボストンの爆破事件でテロの記憶がよみがえっているアメリカで、何という配慮のない発言を・・・。 外交とは国家と国家のつきあい。ですから、国家観が腐っていると、外交にも失敗するのです。 この講演で麻生大臣は、正しいことも言ってはいますが、そんなことは、もうどうだっていい。 国家観が腐っていることが分かってしまった以上、何の慰めにもなりません。 もっとも、株価の上昇に浮かれる日本人たちは、そんなこと気にもしないんでしょうけど。 麻生大臣、靖国に参拝したそうですが、いったい、どの面下げて英霊の前に行ったんだよ。行くなよ。PS 先週に引き続き、今週もジョジョに嫌気がさしてきた方は、本当の「保守」について学んでみましょう。 http://amzn.to/11cGwHAPPS 『反官反民』は、イラク攻撃批判から始まっています。 http://amzn.to/13QXP5I*****転載終わり麻生大臣のスピーチライターは、一体誰だい? 分かってやってんのやら、分からずにshock and aweを入れているのか。ちょっと、アベノミクスの空景気の驕りを押さえてほしい。ちょっと、身の絞りを、引き締めて、やらなきゃー、脇が甘すぎだよ。TPPで一体、日本は、何の得にもなりませんよ。そのうち、あそう大臣は、米国圏の人たちから、やっぱり、”Ass hole”(けつの穴:どあほう)って、笑われないように、しないと...
2013/04/24
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新経済新聞より転載*******●非対称な交渉 前編http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-11512926911.html●非対称な交渉 後編http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-11513591485.html●続・非対称な交渉-日米構造協議 再!-http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-11514772781.htmlアメリカというか、アメリカの外交担当者たちは本当に凄いというか、したたかというか・・・・。TPP交渉にかこつけ、「並行協議」という名目で、いつの間にかアメリカから日本への「構造改革要求」、すなわち日米構造協議が再び始まろうとしています。元々、日米構造協議とは、日米の貿易不均衡(アメリカの対日貿易赤字)の是正を目的とし、1989年に始まったものです。プラザ合意以降の円高を受けてさえ、アメリカの対日貿易赤字は膨らみ続け、その理由を「日本市場の閉鎖性」と決めつけ、アメリカは日本の「非関税障壁」撤廃を求め始めたのです。非関税障壁とはアメリカ側の言い分で、実際には単に日本の商慣習、文化、伝統、流通など、各種経済構造が「独特である」という話に過ぎません。例えば、自動車のメーカーごとの販売ディーラー網です。新車を販売する際に、各メーカーが個別の販売ネットワークを構築していること。これが「外国車に対する非関税障壁だ」と、アメリカ側は主張しています。とはいえ、別に日本型ディーラー網は、日系自動車会社のみが整備しているわけではありません。ドイツのBMWは、1981年にBMWジャパンを設立し、90年代にはメルセデス・ベンツやフォルクスワーゲンも日本法人を設立することで、日本市場における販売体制を整えて行きました。すなわち、外国企業であっても「その気になれば」日系自動車会社同様の販売ディーラー網を日本国内で構築することは可能なのです。別に、日本政府は「販売ディーラー網は日系企業に限定する」などと「規制」をかけているわけではありません。2012年度の日本の輸入車比率は7.5%でしたが、内、フォルクスワーゲン、BMW、そしてメルセデス・ベンツの三社で75%を占めています。事実上、日本において「外国車≒ドイツ車」になっているわけです。その気になれば、アメリカのビッグスリー(GM、フォード、クライスラー)にしても、日本市場において販売ディーラー網を整備し、日本の消費者のニーズを満たす商品開発、サービス提供を行うことで、ドイツ車並みにシェアを高めることはできるはずです。逆に言えば、現在のビッグスリーの「ガソリンがぶ飲み」の大型車中心のラインナップでは、日本市場で販売を拡大することは不可能です。そもそも、ビッグスリーは右ハンドル車を作っていません。左側通行の日本市場において、左ハンドル車のシェアが高まる日は永遠に訪れないでしょう。ビッグスリーは「企業の本分」として、日本市場のニーズを満たす自動車を開発し、販売網を整備するべきなのです。とはいえ、それが面倒くさい(おカネもかかる)ため、「日本市場でアメリカ産自動車が売れないのは、日本の市場が閉鎖的だからだ。独特の販売ディーラー網や軽自動車への税制優遇がいけないのだ。しかも、日本は政策的に為替安に誘導し(注:していません)、アメリカ車を締め出している」と、言いがかりをつけ、アメリカの自動車企業⇒アメリカ政府⇒日本政府、というルートで、日本国内の「構造改革」を求めるわけです。ビッグスリーが商品開発やマーケティングの努力を放棄し、「政府」を動かし、市場のルールを変更することで市場シェアを拡大しようとする限り、彼らの競争力が戻ることはないでしょう。というよりも、そもそも「政府を動かし、市場ルールを変えさせる」ことに手を染め始めたからこそ、ビッグスリーの凋落が止まらなくなってしまったわけです。「企業の都合で、政府が市場ルールを変える」アメリカのやり方こそが、企業の進化を止めてしまったのです。いずれにせよ、今後のTPP交渉やアメリカとの並行協議において、日本国民は政府に対し、「一体いつからTPPは日米構造協議にすり替わってしまったんだ!そもそも、なぜアメリカ企業の我儘を聞き、日本が文化や伝統、慣習に根差した経済構造、社会構造を変えなければならないんだ」と、「正論」をぶつけていかなければならないと考えます。
2013/04/23
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転載記事 http://www.facebook.com/pages/Takeo-Hiranuma-Supporters-%E5%B9%B3%E6%B2%BC%E8%B5%B3%E5%A4%AB%E6%B0%8F%E3%82%92%E3%82%B5%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%99%E3%82%8B%E4%BC%9A/285925569795 これが本当の強制連行! 北朝鮮の娘を強制連行し、韓国軍の従軍慰安婦とした上 洗濯や料理までさせていた。 朝鮮戦争の慰安所 韓国の陸軍本部が56年に編さんした公文書 『後方戦史(人事編)』に「固定式慰安所-特殊慰安隊」 の記述がある。 設置目的として 「異性に対するあこがれから引き起こされる 生理作用による性格の変化等により、 抑うつ症及びその他支障を来す事を予防するため」 とあり、4カ所、89人の慰安婦が52年だけで 20万4560回の慰安を行った、 と記す特殊慰安隊実績統計表が付されている。 2002年2月23日立命館大学(京都市北区)で開かれた 「東アジアの平和と人権」国際シンポジウム日本大会 (朝日新聞社後援)で証言された。 韓国軍慰安婦について日本で公になったのは初めて。 発表した韓国・慶南大客員教授の 金貴玉(キム・ギオク)さん(40)=社会学=による調査で 米兵の慰安所利用実態も明らかにした。 軍関係者の証言の中には、軍の補給品は第1から第4まで しかないのに、「第5種補給品」の受領指令があり、 一個中隊に「昼間8時間の制限で6人の慰安婦があてがわれた」 とする内容のものもある。 (中略) 韓国軍が 1951年頃から 1954年まで '特殊慰安隊'という名前で、固定式あるいは 移動式慰安婦制度を取り入れて運用したのは 否認することができない歴史的事実である。 軍医公式記録には “休戦によってこのような施設の設置目的が 解消されるに至って、公娼廃止の潮流に順命して 檀紀 4287年 3月これを一斉に閉鎖した”とある。 ここで重要なのは、戦後米軍に下された連合軍指令は 1947年 11月11日、 米軍政庁が公布した公娼廃止領(法律第7号)の発效した 時点は 1948年 2月からである。 明確な記録はないが、慰安所設置時点は 1951年に推定される。 したがって米軍・韓国軍は公娼廃止領にもかかわらず 1951年から 1954年まで約3年間不法で公娼を設置・運営した 犯法行為をほしいままにしたのである。それがなぜ不問に付され、朝鮮戦争後、 アメリカ軍相手の売春を強制されていた女性達が 謝罪と補償を求めているのだが、 彼女達は自発的な売春婦であるとして 一切の謝罪・補償をおこなっていない。 アメリカ軍相手の売春を韓国政府やアメリカ人により 強制されていた女性達は韓国政府による 日本に対する絶え間ない賠償要求は、 明らかに韓国自身の歴史に対する欺瞞であると訴えている。
2013/04/21
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転載記事********「もしお前たちがここで死ぬようなことがあっても、俺たちが必ずその骨を拾って、日本にいる家族に届けてやるからな」■1.米軍の「すべての兵士を故郷に帰す」約束 安倍晋三首相は4月14日、大東亜戦争の激戦地・硫黄島(東京都小笠原村)を訪れ、戦死した日本兵の遺骨収容作業の現場を視察した。記者団に「官邸がリーダーシップをとり遺骨帰還事業を着実に進めたい」と述べ、政府による帰還作業の加速を表明した。 硫黄島での戦没者約2万2千人のうち、まだ半数の遺骨が収容されずにいる。この実情をアメリカ政府の遺骨収容と比べると対照的だ。米軍は硫黄島で約5千人の死者を出したが、そのうちのただ一人だけまだ遺骨が見つかっていないので、2007(平成19)年に多人数の調査隊を派遣した。 米軍は「すべての兵士を故郷に帰す」という約束を果たすために、戦死・行方不明になった兵士の捜索や遺体回収を行う専門組織を持っている。そこでは約4百人の専門スタッフが年間50億円の予算を使って活動している。 戦没者の遺骨が故郷に帰るときは、「ナショナル・ヒーロー」として盛大な歓迎セレモニーが行われ、地元メディアが大々的に報道する事が慣わしになっている。[a] 国のために戦死した兵士が、母国から見捨てられるとしたら、誰が自分の国を守るために命を掛けるだろうか。そしてそのような国家不信が広がったら、国のために尽くそうとする気風は失われ、国家は自分勝手な人間たちの集合となってしまう。それは国家自滅の道である。 しかるに我が国は、いまだに海外での戦没者だけでも115万余柱の遺骨を野ざらしにしている。経済的繁栄を追い求めて、国家のために戦死した英霊の遺骨の収容をなおざりにしてきた所に、我が国の戦後思潮の異常さが現れている。 そうした戦後の思潮を真っ向から否定して、ニューギニアで戦友の遺骨収容に25年もかけた人がいる。本稿では、その人の生き方を辿ることで、遺骨収容の問題を考えてみたい。■2.ハペル氏の驚き オーストラリアのジャーナリスト、チャールズ・ハペル氏が、ニューギニア島東南端の半島を南北に横切るココダ街道を歩いている時、日本語の文字が刻まれた石碑に出くわした。 現地人のポーターが説明してくれた。「これを建てた人はですね。元日本兵で、戦争が終わってから仲間の遺骨を探しにニューギニアに戻ってきたんですよ。この国に20年以上住んでいました。」 この話を聞いて、「文字通り、よろめいた」とハペル氏は記している。その人物は戦時中、所属する小隊が全滅して、ただ一人の生存者となり、その後も激戦地を転々として、何度も死線をさまよいながらも、不思議と生き抜いた。 そして戦後40年を経て、繁栄を謳歌していた日本に家族と財産を残して単身ニューギニアに戻り、かつて戦友たちと交わした「死んだら必ず遺骨を拾いに来る」との「約束」を果たすために、25年間も遺骨を収容し続けてきた、というのである。 この時、ハペル氏は、その凄まじい人生を本にまとめようと決心した。その後、2年がかりの詳細な調査と、本人へのインタビューの結果、一冊の本がまとまった。『ココダの約束』[1]である。こうした機縁で、その人、西村幸吉氏の人生の記録が残された。■3.小隊56名中、戦死55名 西村が独力で建てた石碑は、最大の激戦地の一つ、エフォギ村にある。激戦は昭和17(1942)年9月8日に起こった。西村が属する総兵力1万の日本軍は、ニューギニアの英植民地の中心都市であるポートモレスビーを目指していた。劣勢のオーストラリア軍は退却しつつ、要所で日本軍を迎え撃つ戦法をとっていた。 日本軍が上陸した北部海岸から南岸のポートモレスビーに行く道程の三分の二の距離にエフォギ村はあった。日本軍の志気は高く、皆がポートモレスビーを必ず占領するのだ、という決意にあふれていた。 エフォギ村で、西村の小隊は、待ち構えるオーストラリア軍の背後から奇襲攻撃した。敵も死に物狂いの反撃を見せた。機関銃の銃弾がシャワーのように降り注ぐ。西村の塹壕の左側では久保一等兵が肩と腰を撃たれ、助けを求めて、うめいていた。 その久保を助けようと西村が塹壕を出た所で、一人のオーストラリア兵が突進してきて、短機関銃の銃撃を浴びせかけた。弾丸が3発、彼の肩を貫いたが、走り去ろうとする敵兵を捕まえて、格闘の末、銃剣で倒した。 その敵兵は、体は大きいが、あどけない顔つきで10代の若者に見えた。「どうして俺は、何の恨みもないこんな子供と戦っているのだ?」という思いが一瞬、よぎった。 その間にも、塹壕から身を乗り出した西村をかばおうと、親友の板原がとっさに立ち上がり、敵陣に向けて発砲した。しかし、逆に腰を打ち抜かれ、一瞬にして死んだ。 こんな激戦が朝から晩まで続き、結局、上陸した際には56名いた西村の小隊は、負傷した彼を除く全員が戦死した。この戦いで、オーストラリア軍も148名もの死者を出した。■4.「この約束は必ず守る」 日本軍はポートモレスビーまであと一日の地点まで進攻したが、総兵力1万の半数を失い、補給もつきた状況では、さらにポートモレスビーに構築された敵陣地を攻略できる可能性はなかった。 9月25日に撤退命令が出された。これほどの犠牲を出して、ここまで来て、むざむざと、もと来た道を戻るのか、と将兵たちは無念に思った。 その頃、西村はまだ右肩と腕は動かせなかったが、歩けるほどには回復し、他の小隊に加わっていた。歩けない傷病兵たちは担架で運ばれたが、それは疲労困憊した戦友にさらなる重荷を負わせることであった。「どうか、ここに置いていってくれ。死なせてくれ」と彼らは懇願した。 饑餓やマラリアと闘い、オーストラリア軍の追撃をかわしながら、日本軍は撤退を続けた。招集された頃に、73キロだった西村の体重は30キロに落ち込んでいた。 最後には自力で歩けない兵士は置いていく、という決定が下された。西村は残される兵士らに向かって、少しでも希望を残そうと、「自分たちはこれから敵陣に潜入して食料を分捕ってくるのだ」と説明した。そして、こう約束した。__________ もしお前たちがここで死ぬようなことがあっても、俺たちが必ずその骨を拾って、日本にいる家族に届けてやるからな。[1,p106] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 西村は、戦場に取り残される戦友たちの光景を目に焼き付けながら、「必ずこの約束は守る」と自らに誓った。 残留組の約2百人の負傷兵たちは、残された機関銃で10日間も戦い続けた。そして最後に全員、戦死または自決した。彼らが敵を引きつけている間に、撤退組は無事に脱出できたのである。■5.37年後、再び、ニューギニアに立つ 西村が再びニーギニアの地に立ったのは、それから37年後、1979(昭和54)年のことだった。かつてのカーキ色の戦闘服と小銃にかわって、Tシャツにショベルといういでたちだった。 ニューギニアを撤退してから、西村は台湾へ向かう輸送船が敵潜水艦に撃沈されて波間を漂ったり、ビルマ戦線では160人の中隊が入れ替わりの補充者も含めて365人も戦死したりという中で、負傷や重病に冒されながらも、その度に不思議な偶然で生き残れた。西村の約束を待つ英霊たちが彼を護っていたのかもしれない。 敗戦後、帰国した西村は機械工作の会社を興して成功した。いつか戦友の骨を拾いに行く、という条件で結婚し、4人の子供も得た。 しかし、その間にも、戦友の遺族を訪ねると、戦死した息子が帰ってきたように大喜びしてくれて、遺族の思いに触れた。西村自身も長男を交通事故で亡くし、子を失った親の悲しみを味わった。そんな中で、経済復興にうつつを抜かし、戦没者のことを忘れたかのような政府と国民の姿勢に、日増しに苛立ちが募っていった。 昭和54(1979)年のある晩、59歳になっていた西村は妻と子供たちを集め、「これからニューギニアに渡って、何年かかるかわからないが、戦友の遺骨を拾う」と話した。妻と二人の息子は反対したが、西村は「遺骨収容は結婚の条件だったはずだ。今となって嫌だというなら、離縁する」と言った。 それでも彼らは「そんな馬鹿げた計画のために」と納得しないので、結局、西村は会社とほとんどの財産を渡して、縁を切った。娘の幸子だけが父を理解して家に残った。 西村は生活を切り詰め、軍人恩給とわずかな土地を売った代金だけで旅費を工面し、戦友たちの待つニューギニアにやってきたのだった。
2013/04/21
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転載記事の続き******■6.「私はニューギニアで弟を亡くしております」 西村は現地で車両整備工場と自動車学校を設立し、若者たちを育てながら、彼らの協力も得て、遺骨収容を進めた。かつての戦場は深いジャングルに戻っていたので、記憶を頼りに位置を確認し、道を開き、草を刈り、地雷探知機で金属片を探して、反応があると手で土を掘り起こす。そういう作業を20年以上も続けた。 多くの遺骨は身元が分からなかったため、西村の小屋で大切に保管し、帰国の都度、遺灰にして持ち帰っては、部隊の出身地である高知県の護国神社などに収めた。金属の認識票など、身元の分かるものが見つかると、遺族の許に送り届けた。 ある海岸では、4つの金歯のある頭蓋骨を収容した。こんな特徴のある遺骨なら遺族が見つかるかも知れない。戦史によれば、その海岸では広島県福山市の出身者が大部分を占める歩兵第41連隊が最後の戦いをした場所だった。 西村は遺骨と共に帰国し、連隊の戦友会から、その海岸で戦死した70名の名簿と遺族の住所を入手した。それから車で2ヶ月近く遺族を一軒一軒訪れて、心当たりはないか聞いて回った。遺族の中には、西村にすがって、行方不明のままの身内の遺骨を捜し出してほしい、と懇願する人々もあった。 68番目の家を訪れた時、年長の男性が出てきて、「私はニューギニアで弟を亡くしております。弟には金歯が4つ、あります」と語った。胸にせりあがる気持ちを抑えつつ、西村は急いで車の中から頭蓋骨を持ち出した。 男性はその頭蓋骨を受けとり、両手で抱きしめるようにかかえた。そして長い間、じっと見つめていた。長くしまいこんでいた弟の記憶を呼び覚ましているようだった。やがて男性の目に涙が溢れ、喘(あえ)ぐようなすすり泣きと、哀しいうめき声が漏れてきた。■7.「忠実なる英霊のために」 このココダ街道とその周辺で、オーストラリア軍と米軍は3095人の戦死者を出した。それらの英霊のために、かつての激戦地にオーストラリア政府はいくつもの記念碑を建てている。またポートモレスビーの近くにはボマナ国立墓地がある。自国のために戦って散った兵士を決して忘れはしない、というオーストラリア国民の決意が窺える。 一方、日本側は1万3千人も犠牲となったにもかかわらず、日本政府の建てた記念碑は、わずかしかなかった。戦後まもなく建てられた記念碑は、日本政府が維持費を出さないので、地主は西村に援助を頼んできた。 西村は維持費と土地税のために、私費で毎年1万円を出すことを同意した。他にも日本政府が管理費を出さない記念碑が5つあり、荒れ果てた状態にある。西村はやるべき事をやらない日本政府の姿勢に憤りを感じた。 自分の戦友たちが次々と倒れたエフォギ村の激戦地で、西村は独力で高さ1.7メートルの記念碑を建てた。戦友たちは、故郷から何千キロも離れたこの場所で、名前さえ忘れ去られようとしている。どう考えてもおかしい。 西村は戦友たちの故郷の高知県から40センチほどの丸い薄茶色の美しい石を持ってきて、台座の上に据えた。そして、敵味方、現地人の別なく、すべての戦没者を称えるために、「忠実なる英霊のために」とだけ刻んだ。これがチャールズ・ハペル氏を「よろめかせた」石碑である。■8.果たされた約束、果たされてない約束 2005(平成17)年、85歳の西村は、病に倒れた。厳しい熱帯の気候の中で、25年間も遺骨収容という重労働を続けていたので、さしもの頑健な体にも限界が来ていた。 1週間の入院で2度の輸血をして小康を得た西村は、帰国して、娘の幸子との暮らしを始めた。相変わらず、戦没者を忘れ去っている現代日本の思潮には強く反発しながらも、自分としては、戦友たちとの約束を精一杯果たした、という心の穏やかさを得ていた。 西村は見事に約束を果たしたが、日本の国民と政府は、戦没者たちとの約束を見捨てたままである。 安倍首相は硫黄島で、遺骨の前で土下座をして、手を合わせた。国を護るために自らの命を捧げた将兵に対し、首相が国民を代表して手を合わたことは、戦没者に背を向けてきた「戦後レジーム」からの脱却の一歩である。 我が国が「すべての兵士を故郷に帰す」という決意を取り戻した時、再び、国民の中に国家のために尽くそうという気風が甦り、国全体の元気も回復するであろう。(文責:伊勢雅臣)■リンク■a. JOG(661 アルピニスト野口健が聞いた声 洞窟の中の夥しい戦没者の遺骨が、野口さんに語りかけた。http://bit.ly/11fRhsCb. JOG(153) 海ゆかば~慰霊が開く思いやりの心 慰霊とは、死者のなした自己犠牲という最高の思いやりを生者が受け止め、継承する儀式である。http://bit.ly/Z9sfOs■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。1. チャールズ・ハペル『ココダの約束 遺骨収容に生涯をかけた男』★★、 武田ランダムハウスジャパン 、H21http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4270005181/japanontheg01-22/
2013/04/21
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このふざけた画面にしているブログに、このようなすばらしい話を、載せることは、無礼にあたるかもしれませんが、ひとりでも多くの人に知っていただきたいお話なので、保存のために載せておきます。転載記事********* 日本人全員に読んでもらいたい。「私は日本人になって天皇陛下にお仕えしたい」(ウエスト博士) 『日本人よ誇りを持とう』より昭和51年に発行された難波江通泰氏の著書『天皇陛下にお仕へしたい ウエスト博士の思ひ出』という著書があります。この中の対談でウエスト博士は「日本の繁栄はすばらしい。無限の...可能性を持っている」と言うと難波江氏は「あなたの考えでは、日本の繁栄の根本的な原因は何であるとお思いですか?」「それは、日本に天皇陛下が居られるからです」「・・・・・」ウエスト博士は続けてこう言いました。「私は日本人になりたい」「どうしてですか?」「それは天皇陛下が居られるからです。天皇陛下が居られる国だから、私は日本へ来たのです。もし日本に天皇陛下が居られないならば、それはドイツやソ連やイギリスやメキシコやアメリカなど、世界のすべての国と同じであって、そんな国ならどこへ行っても同じことです。イギリスやオランダなどにも国王や女王が居られるけれども、それらは日本の皇室や天皇陛下とは違う。天皇陛下が居られるのは日本だけだ。絶海の孤島の漁師でもいい。山間僻地の貧しい百姓でもいい、私は日本人になって天皇陛下にお仕えしたい」・・・・ジョージ・ランボーン・ウエスト博士は1929年、米国テキサス州サン・アントニオに生まれ、テキサス大学で法律と歴史を専攻して法学博士の学位を得て、メールランド大学など数校で教授を歴任し、ダラス市で弁護士をしていました。少年時代にラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の手紙を図書館で見てから日本に憧れており、ウエスト博士の夫人もラフカディオ・ハーンと同じく日本人女性でした。ウエスト博士は昭和44年から日本マネージメント協会の顧問として来日してから、たびたび日本で講演を行ってきました。博士の講演は「日本が真珠湾攻撃を行ったのはアメリカが仕掛けた罠にはめられた」と述べ、東京裁判の不当性を衝き、米製占領憲法を強制したことを糾弾しておりました。この講演内容については昭和55年『憲法改悪の強要』(嵯峨野書院)を出版しました。ウエスト博士が昭和57年に来日した時、元国会議員の会合で講演しこのようにお話ししました。「日本に何回来ても憲法改正の声が起こっており、その運動も続けられている。少しは改正されたのかと思って今度の来日でも聞いてみたが、全然改められていない。日本人は基本の魂を取り戻さなければならない」そして、「私はかねてから一度やりたいと思っていた夢を、ここでかなえさせて貰いたい」博士はこのように前置きして、自ら音頭をとって、「天皇陛下万歳」を三唱しました。並みいる日本の元国会議員たちは度肝を抜かれましたが、こぞって呼応したといいます。平成6年3月、ウエスト博士は千代子夫人と来日しました。東京に着くと明治神宮、昭和天皇武蔵野陵、東郷神社、乃木神社に参拝しました。同年6月26日には靖国神社に参拝しました。その日、ウエスト博士が靖国神社の遊就館で講演会を行う日でした。講演会の事前の有志との打ち合わせで、博士はこう聞いてきました。「今上天皇は靖国神社に参拝されたことがあるか?」これはこの時ちょうど、両陛下は訪米中で、アーリントン墓地とハワイのパンチボール(国立太平洋記念墓地)に参拝しておられました。続けて博士はこのように言いました。「靖国神社に参拝されずに、アメリカのアーリントン墓地に参られるとは、何事であるか」この場にいた通訳の足羽雄郎氏は、「日本は天皇の専制国家ではない。君民共治の国だから、首相が参拝して、国民すべてがそれを望むような雰囲気が作られないと参拝はされないのだ」と言おうとしたら、傍にいた名越二荒之助氏がこう言いました。「アメリカが訳のわからない憲法を押し付けたからだ」すると博士は、「あれは憲法の名に値しない。いやしくも日本人が憲法というなら聖徳太子の十七条の憲法と明治天皇の帝国憲法しかないはずだ。現在の日本国憲法はマッカーサーの押し付けたアメリカ製だから日本人は英語でコンスティテューションと呼ぶべきだ」名越氏は、「日本では昭和天皇も今上天皇もアーリントン墓地に参拝して花輪を捧げておられる。今度クリントン大統領が来日したら靖国神社に参拝するよう厳しく言いつけてもらいたい」「それは駄目だ。クリントンはベトナム戦争の時、徴兵を忌避した反戦主義者だ。そんな男が参拝したら英霊の冒瀆になる」これを聞いた足羽氏は、「日本の政治家の中には靖国神社には気の毒な戦争犠牲者が祀られている。私はその人たちを慰霊するために参拝する、と公言する人がある。こんな心根で参ったのでは英霊の冒瀆になるのではないか」とこう思ったという。その後、遊就館での博士の講演会の締めくくりはこうでありました。「アメリカの占領政策でジョン・デューイの教育哲学が日本に持ち込まれたことが教育の荒廃をもたらした。個性尊重と称して子供を甘やかし、学校も親も道徳教育への自信を喪失した。それは日米ともに同じである。教育再建のためにはアメリカは開拓者精神に帰り、日本は教育勅語を復活させねばならない。日本人は喪った魂を取り戻すべきである。そのために陛下の万歳を三唱をしよう」ウエスト博士は頬を紅潮させながら音頭をとったそうです。
2013/04/21
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転載記事****◆恵隆之介『沖縄が中国になる日』を読み解く※要旨・我が国は今や、危機の真っ只中にいる。その中で沖縄の地政学的価値は一層高まってきている。・米国政府は沖縄県尖閣諸島海域の情勢を、「同島はすでに中国公船の包囲下にある」と分析しており、わが国以上に事態を深刻に受け止めている。・私が本書を執筆した動機がある。昨年暮れ、私は那覇市内で1960年(昭和35年)に台湾から沖縄に移住してきた台湾出身者に会った。昭和30年代といえば、台湾は戒厳令下にあった。国共内戦に敗れて台湾に逃れてきた国民党軍が、住民を徹底的に弾圧していたのである。2・28事件である。「2・28事件」とは、1947年2月28日、台湾住民が中国国民党の支配に抵抗したため、報復として約2万8000人以上が殺害され、遺体までも抹消された事件である。その台湾出身者は、沖縄に移住して10年ほど経った昭和45年頃、沖縄の住民が米軍基地ゲート前で、「基地撤去!」のピケを貼っているのを見て、改めて「平和な島に来た」と安堵したという。「台湾でこういうことをしたら国民党軍に一晩で粛清されてました」というのだ。・中国共産党の最高責任者である習近平総書記は、共産党幹部中、最も沖縄に関心を寄せている人物だ。彼は、沖縄と歴史的に関係の深い福建省に、1985年以来17年間勤務していた。この間、たびたび沖縄を訪れており、沖縄県の現状と県民性を知り尽くしている。・沖縄県内には『琉球新報』と『沖縄タイムズ』の2紙が存在し、2紙の合計県内シェア97%を誇っている。主な収入源は企業広告と死亡広告である。・アメリカ海兵隊は自己完結性が世界の軍隊中で最も高く、即応性に優れている。しかも米海兵隊は第二次世界大戦後、朝鮮、ベトナム、イラク、アフガンと地上戦を経験したノウハウ(戦訓)を蓄積しており、戦闘力は中国人民解放軍や陸上自衛隊とは比較にならない。・現在、沖縄には第3海兵遠征軍が駐留している。兵力1万9000人、隷下に第3海兵師団がおり、海兵航空団(普天間海兵隊航空基地)、第3海兵兵站群が活動している。沖縄に配備された新型垂直上昇機オスプレイは、その戦力の基軸となるのである。・沖縄有事プランの策定を急げ。沖縄有事に備えよ。県民保護対策の法整備を急げ。・ヒューマン・インテリジェンスの整備を急げ。現在、有人離島地域は、公安および自衛隊調査隊の配置は皆無である。また本島地域においても、関係者の人数は公安と自衛隊を合計しても、わずか30人前後に過ぎない。今後は中国語の語学能力をもった要員を、離島地域を中心に配置し、ヒューマンインテリジェンス収集能力を整備すべきである。・私は本書を恩師である第3代防衛大学校校長・猪木正道先生の霊前に捧げたい。先生は我々が学生であった時代、今日の日本を的確に予知され、「諸君は、軍人スペシャリストを目指すのではなく、国家存亡の危機に際しては、国家を背負って立つようなジェネラリストを目指せ」と絶えず叱咤激励してくださった。・先生の学生指導は、第40代海軍兵学校校長・井上成美海軍大将のモットー、「海軍兵学校教育は卒業してすぐ役立つような丁稚教育に非ず、将来、大木に育つポテンシャルを育成することにある」という将校教育を踏襲しておられたのである。この結果、我々は使命感に燃えて学習に精励することができた。※コメント恵氏は、沖縄出身の海上自衛隊・元幹部。琉球銀行勤務を経て、さまざまな執筆講演活動をしている。沖縄にも少数ながら色々な意見があることを再認識した。★恵隆之介『沖縄が中国になる日』の詳細、amazon購入はこちら↓http://goo.gl/nPbBD
2013/04/19
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祖国遙か-1────────「祖国遙か」というお話を書きたいと思います。昭和21年6月20日、長春で自決した22名の日本人看護婦たちは、遺書に、「たとえ生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の地に止まり、日本が再びこの地に帰ってくる時、ご案内をいたします」としたためました。その思いを、命を絶ってまで満州の地を愛したその思いを、私達はけっして忘れてはならないと思う。以下は実話です。======掘喜身子さんは、幼い頃から病人を看護することが好きだったそうです。彼女は、女学校を出ると、昭和11(1936)年、満州に渡りました。そこで満州赤十字看護婦養成所に入所し、甲種看護婦三年の過程を修めて、郷里の樺太・知取(シリトリ)に帰り、樺太庁立病院の看護婦になりました。昭和14(1939)年の春、彼女は医者である堀正次さんと結婚しました。結婚して1年目の春、堀喜身子さんに、召集令状がきました。看護婦として従軍せよ、という令状です。彼女は、令状を受けた一週間後には、単身で任地の香港第一救護所に出発しました。まもなく、彼女は任地が上海に移り、ついで満州国牡丹江から、さらにソ連との国境に近い虎林の野戦病院に48名の同僚とともに異動となりました。彼女が出征して6か月目のことです。その虎林の野戦病院には、医師である夫の正次も令状を受けてやってきました。ふたりはそこで医師と看護婦の夫婦として、毎日前線から送られてくる傷病兵の治療をして過ごしながら、同時に長男静夫(しずお)、長女槇子(まきこ)の二人の子にも恵まれまています。昭和20(1945)年8月8日、ソ連が日ソ不可侵条約を破って、突然満州に攻め込んできました。戦況は激しいものでした。爆撃の危険から、虎林の野戦病院では、患者全員を長春に移すことに決定しました。けれど患者のうち70余名は、伝染病の重患なので一緒に連れて行くことができません。野戦病院では、軍医中尉であった夫の堀正次と、他に2名の軍医、それと5名の兵隊さんを残して、ある程度元気な者のみ、長春に向かわせることにしました。喜身子さんは、夫からもらった将校用の水筒を肩に、長春に向かいました。二人は、これが今生の別れとなりました。・・・・・・虎林を出発した病院の医師、看護婦、患者たちの一行は、牡丹江を過ぎ、ハルピンを通過して、一週間目の8月15日に、ようやく長春にはいりました。そこで終戦の玉音放送を聞きました。そして日をおかず、長春はソ連軍に占領されました。長春がソ連軍に占領された後、掘喜身子さんは、将校夫人や子供たちと一緒に、女ばかり76名で合宿所に入れられました。そこでは身上調査を受けました。調査の結果、掘喜身子さん以下虎林の野戦病院から来た看護婦34名は、長春第八病院に勤務せよとの命令を受けました。月給はひとり200円です。彼女たち34名の看護婦は、その給料をみんなでまるごと出し合い、一緒に収容されている将校家族を養う費用にしました。けれど、物価はあがる一方です。生活は日に日に苦しくなりました。堀喜美子さんも、次第に体がガリガリに痩せ細って行ったそうです。昭和21(1946)年春のことです。第八病院の婦長をしていた堀喜身子さんのもとに、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所から、一通の命令書が来ました。内容は、 看護婦の応援を要請。 期間は一か月 月給300円というものでした。生活が苦しい中、月給300円は魅力です。それに、いくらソ連軍とはいえ、世界各国で公認されている赤十字を背負う看護婦に間違った扱いなどすることはないだろうと思われました。しかも、「ソ連陸軍が発令した公文書」としての「命令書」です。婦長をしていた堀喜美子さんは、一抹の不安はあったけれど、引率者である平尾勉軍医と相談して、看護婦の中でも、もっともしっかり者だった大島花枝、やはりしっかり者の細川たか子、大塚てる、の3名の看護婦を選びました。出発の日、堀喜美子さんは、三人に、「決して無理はしないように」と言い聞かせました。このとき、大島花江看護婦は、元気いっぱいの笑顔で、「心配はいりません。敗戦国であろうと、世界の赤十字を背負う看護婦として、堂々と働いてきます!」と答えています。「大島さん、細井さんと大塚さんのこともお願いね」と気遣う婦長に、細井、大塚両名も、「あら、大塚さんばっかり。私たちはいつまでたっても一人前じゃないようだわ」「ほんとうに、失礼しちゃうわね」と明るく冗談を言い合い、みんなで明るく笑いあっていました。堀喜美子さんは、出発する3名に、きちんと制服(看護婦の白衣の他に軍看護婦としての制服があった)を着せました。そして、制服の右腕に、しっかりと「赤十字の腕章」を付けさせました。誰がどこからどうみても、赤十字の看護婦であることがひとめでわかるようにしたのです。こうして三名の看護婦は、元気に一か月の別れを告げて出かけて行きました。ソ連陸軍病院第二赤軍救護所に到着した三人は、それぞれ離れた場所に別々に部屋を与えられました。部屋は個室で、ベットまで付いていたそうです。大部屋暮らしだった大島看護婦たちにとって、個室はまさに夢のような環境でした。やがて一か月が経過しようとしたとき、同じ病院から、また3名の追加の命令書がきました。堀喜美子婦長は、荒川静子、三戸はるみ、沢田八重の3名を、第二回の後続として、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所に送りだしました。もうまもなく、最初の三名が交代して帰ってくる。誰もがそう思いました。ところが、最初の3人が帰ってきません。やがてさらに一か月が経過しました。すると、また3名の追加の命令が、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所からもたらされたのです。堀婦長は、心配になりました。引率者の平尾軍医に、命令を断るよう談判しました。一か月という約束で看護婦を送っているのです。最初の3名が行ってから、もう3か月も経過しています。2回目の看護婦が行ってからも、2か月です。その間、誰も帰してもらっていません。向こうが約束を反故にしているのです。普通なら、そんな約束も守れないようなところに、大切な部下を送ることなんてできません。しかも6名とも、行ったきり音信不通です。おかしいのではないですか?けれど相手はソ連軍です。命令に背けば、医師や看護婦だけでなく、患者たちまで全員が殺されてしまう危険があります。病院としては、命令に背くことはできない。みんなで相談しあい、やむなく井出きみ子、澤本かなえ、後藤よし子の3名を送り出しました。けれど、仏の顔も三度までといいます。4度目の命令がきたら、こんどこそ絶対に拒否してやろう。先に行った者たちが心配でたまらない堀婦長がそう思っている矢先、一か月後、誰ひとり帰らないまま、4度目の命令が来ました。今度もまた、3名の看護婦を出せ、というものです。なんという厚顔無恥!残る看護婦は、婦長の堀喜美子の他、22名です。その中から、4度目の3名を選出しなければならない。堀婦長の心の中には、暗澹とした不安がひろがっています。その日の夜、堀婦長は、次に向かう3名を呼びました。明後日出発すること、先に行った看護婦たちに手紙で状況を報告するように話してもらいたい旨を、3名に伝えました。その日の夜のことです。すっかり夜も更けたころ、病院のドアをたたく音がしました。こんな時間に何事だろう・・・・堀婦長が玄関の戸を開けました。小さく明けた戸口から、髪を振り乱し、全身血まみれになった人影が、「婦長・・・」とつぶやき、ドサリと倒れこんできました。見れば、その人影は、なんと最初に出発した大島花枝看護婦です。たいへんな重体です。もはや意識さえ朦朧(もうろう)としています。大島看護婦は、全身11か所に盲貫銃創と貫通銃創を追っていました。裸足の足は血だらけでした。全身に、鉄条網を越えたときにできたと思われる無数の引き裂き傷がありました。脈拍にも結滞があります。着ている服もボロボロです。「なにがあったのか」堀婦長は、とっさに「そうだ。こうまでしてここに来なければならなかったのには、理由があるに違いない。その理由を聞かなければ」と思い立ったそうです。そして、「花江さん!、大島さん! 目を開けて!」と、大声で大島看護婦を揺り動かしました。重体の患者です。ふつうなら、揺り動かすなんてことはしません。他の看護婦が「婦長! そんなことをしたら花江さんが!」と悲鳴をあげました。けれど堀婦長は毅然として言いました。「あなたたちは黙って! 花江さんは助からない。 花江さんの死を無駄にしてはいけない!」大島看護婦が目を覚ましました。そして語ったのです。「婦長。私たちはソ連軍の病院に看護婦として頼まれて行った筈ですのに、あちらでは看護婦の仕事をさせられているのではありません。行ったその日から、ソ連軍将校の慰みものにされてしまいました。半日たらずで私たちは半狂乱になってしまいました。約束が違う!と泣いても叫んでも、ぶっても蹴っても、野獣のような相手に通じません。泣き疲れて寝入り、新しい相手にまた犯されて暴れ、その繰り返しが来る日も来る日も続いたのです。食事をした覚えもなく、何日目だったか、空腹に目を覚まし、枕元に置かれていたパンにかじりつき、そこではじめて事の重大さに気が付き・・それからひとりで泣きました。涙があとからあとから続き、自分の犯された体を見ては、また悔しくて泣きました。たったひとりの部屋で、母の名を呼び、どうせ届かないと知りながら、助けを求めて叫び続けました。そしてどんなにしても、どうにもならないことがわかってきたのです。やがておぼろげながら、一緒に来た二人も同じようにされていることもわかりました。ほとんど毎晩のように三人か四人の赤毛の大男にもてあそばれながら、身の不運に泣きました。逃げようとは何度も思い、しかもその都度手ひどい仕打ちにあい、どうにもならないことがわかりました。記憶が次第に薄れ、時の経過も定かではなくなった頃、赤毛の鬼たちの言動で、第八病院の看護婦の同僚たちが次々と送られてきていることを知って、無性に腹が立ち、同時に我にかえりました。これは大変なことになる。なんとかしなければ、みんなが赤鬼の生贄になる。そんなことを許してはならない。そうだ、たとえ殺されても、絶対に逃げ帰って婦長さんにひとこと知らせてあげなければ・・・赤鬼に汚された体にも、命にもいまさら何の未練もありませんでした。私は、二重三重の歩哨の目を逃れ、最後お鉄条網の下を、鉄の針で服が破れ、肉が引き裂かれる痛みを感じながら潜り抜けて、逃げました。後ろでソ連兵の叫び声と銃の音を聞きながら、無我夢中で逃げてきました。婦長さん。もう、ひとを送ってはなりません・・・・」
2013/04/19
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転載 続き***祖国遙か-2────────そこまで話して大島花江看護婦は、こときれました。なんという強靭な意志の持ち主なのでしょう。蜂の巣のようにされながら、この事実を伝えようとする一心だけで、まさに使命感だけで、彼女はここまで逃げてきたのです。病室内に、「はなえさん・・・」「大島さん・・・」という看護婦たちの涙の声がこだましました。こうして昭和21(1946)年6月19日午後10時15分、大島花江看護婦は、堀婦長の腕の中で息をひきとりました。大島看護婦の行動は、どんなに勇敢な軍人にも負けない、鬼神も避ける命をかけた行動です。大島看護婦の頬は、婦長や同僚の仲間たちの涙で濡れました。あまりにも突然の彼女の死を、みんなが悼みました。翌日の日曜日の午後、遺体は、満州のしきたりにならって、土葬で手厚く葬りました。そして彼女の髪の毛と爪を、お骨代わりに箱に納め、彼女にとってはなつかしい三階の看護婦室に安置してあげました。花を添え、水をあげ、その日の夜、一同で午前0時ごろまで思い出話に花をさかせました。すべて、懐かしくて楽しかった内地の話ばかりだったそうです。・・・・・翌朝のことです。堀婦長が、出勤時刻の9時少し前に病院の看護婦室に行くと、そこに病院の事務局長の張(チャン)さんがいました。張さんは、日本の陸軍士官学校を卒業した人です。張さんは、ひどく怒っていました。看護婦たちが、だれも出勤していないからです。こんなことは前代未聞です。「変ですね~」と最初、気楽に答えた堀婦長は、その瞬間、はっと気が付きました。無我夢中で3階の看護婦たちの宿所に走りました。いつもなら、若い女性たちばかりでさわがしい宿所です。それが、今朝は、シーンと静まり返っています。もの音一つしない。堀婦長の胸に、ズシリと重たいものがのしかかりました。宿所の戸を開けました。お線香の匂いがただよっていました。内側の障子は閉まっています。なにが起こっているの?おそるおそる障子を開けました。部屋の中央に、小さなテーブルがありました。その小さなテーブルの上には、大島看護婦の遺品と花とお線香、そして白い封筒が置かれていました。そして、その周囲に・・・きれいに並んだ、22名の看護婦たちの遺体が横たわっていました。机の上の白い封筒は、彼女たちの遺書でした。【遺書】二十二名の私たちが、自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ婦長にもさぞかしご迷惑のことと、深くお詫びを申し上げます。私たちは、敗れたとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死を選びます。たとえ生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の地に止まり、日本が再びこの地に帰ってくる時、ご案内をいたします。その意味からも、私どものなきがらは、土葬にして、この満州の土にしてください。遺書の終わりには、22名の名前が、それぞれの手で記されていました。遺体は、制服制帽の正装姿です。顔には薄化粧がほどこされていました。両ひざはしっかりと結ばれ、一糸乱れぬ姿だったそうです。その中で、たったひとり、井上つるみの姿だけは乱れていました。26歳で最年長だった彼女は、おそらく全員の遺志をまとめ、衣服姿勢を確かめ、全員の死を見届けた上で、最後に青酸カリを飲んだと推定できました。畳を爪でひっかいた跡にも、顔の表情にも、それは明らかでした。・・・・・・現場に、通訳を連れたソ連軍の二人の将校と二人の医師がやってきて、現場検証が行われました。堀婦長は逮捕されてもいい覚悟で、国際的にも認められている赤十字の看護婦に行った非人道的行為を非難しました。事のてんまつを訴えました。最後は、泣き崩れ、言葉にさえなりませんでした。ソ連の将校たちは無言のままでしたが、事態の重大さは、わかったようでした。この22名の集団自決による抗議に、ソ連軍当局も衝撃を受けたらしく、翌日、■ソ連の命令として伝えられることで納得のいかないことがあれば、24時間以内にゲーペーウー(ソ連の秘密警察)に必ず問い合わせすること。■日本の女性とソ連兵が、ジープあるいはその他の車に同乗してはならない。というお触れが、日本人の宿舎にもまわってきました。22名は、死ぬ前に全員、身辺をきれいに整理整頓していました。ちなみに、彼女たちが「土葬にしてほしい」と遺言したのは、婦長や引率の平尾軍医などにお金がないことを気遣ってのことです。「それではあまりに22名の看護婦たちがかわいそうだ。火葬にしたうえで分骨し、故郷の両親に届けれあげれるようにしようじゃないですか」と、張氏が、当時ひとり千円もする火葬代を出してくれました。日本が負けて立場は変わっても、陸士出身の張さんの温情は変わらなかったのです。張さんは「せめてこれまで朝夕親しく一緒に働いた人たちへの、これがささやかな供養ですから」と述べてくれました。こうして22名の骨壺がならび、初七日、四十九日の法要もお経を唱えて手厚く執り行われました。・・・・・その四十九日のことです。張さんが、亡くなられた看護婦さんたちに、せめてお饅頭でも作ってあげたら?と饅頭を作る材料費を出してくれました。堀婦長は、張春のミナカイという市場に出かけました。ミナカイは当時、東京でいえば銀座のような、張春一番の繁華街でした。(といっても、闇市のようなバラックです)堀婦長は、そのミナカイで、ふとしたことから、噂話を耳にしたのです。長春第八病院に向かった9名の看護婦のうち、亡くなった大島花江を除く8人が生きている、というのです。場所は、張春市内にあるミナカイデパート跡で、その地下のダンスホールに、ソ連陸軍病院第二救護所に送られた8名が生きてダンサーをしている、というのです。堀婦長は、矢も楯もたまらず、その足でダンスホールに駈けました。ダンスホールは、中は十畳ほどの広場になっていて、客はソ連人です。働いているのはソ連人と中国人で、ダンサーは日本人、朝鮮人、中国人でした。入口から中に入ろうとすると、ソ連人がそこにいて、入室を拒みました。けれどどうしても彼女たちが気がかりで会いたいと思う堀婦長の迫力に圧倒されたのでしょう。その入り口にいたソ連人は、隅にある小さな部屋で待っていろ、といいました。部屋にひとり待っていると、ガチャリと音がして、扉が開きました。そして肌もあらわな派手なパーティドレスを着た女性たちが部屋に入ってきました。「ふ、婦長・・・」「婦長さん!!」「みんな・・・」堀婦長にも、彼女たちにも言葉はありませんでした。互いと会うことができた。それだけで涙があふれました。しばらくして落ち着くと、堀婦長は言いました。「大島さんがね・・・」「知っています。同僚たち22名が集団自決したことも聞いています。」「だったら、こんなところにいないで、早く帰ってきなさい!!」「・・・・」「あなた達の気持ちは、痛いほどわかるわ。だけど帰ってきてくれなかったら、救いようがないじゃないの」8名の看護婦たちは、その婦長の言葉に、うつむいて黙ってしまいました。堀婦長は思いました。自分の言葉が、あまりに一方的だったのではないかと。けれど、彼女たちからすれば、そんな単純なものではなかったのです。眉を細く引き、口紅を赤くし、ひとりひとりの顔は、以前の看護婦に違いありません。けれど8人とも、まるで生気が感じられません。それどころか、目をそらして堀婦長の目から逃れようとさえします。堀婦長は心を鬼にして言いました。「どうして黙っているの?どうして返事をしないの?そう、あなた達は、そういうことが好きでやっているのね」そう突き放したとき、ひとりが答えました。「婦長さん、そんなにあたしたちのことを思っていてくださるのなら、お話します。私たちは、ソ連軍の病院に行ったその日から、毎晩7、8人のソ連の将校に犯されたのです。そして気づいてみたら、梅毒にかかっていたのです。私たちも看護婦です。いまではそれが、だいぶ悪くなっているのがわかるのです。もう、私たちはダメなのです。もう、みなさんのところに帰っても仕方がないのです。仮に、幸運に恵まれて日本に帰れる日が来たとしても、こんな体では日本の土は踏めません。この性病がどれほど恐ろしいものか、十二分に知っています。だから、私たちは、梅毒をうつしたソ連人に、逆にうつして復讐をしているのです。今はもう、歩くのにも痛みを感じるようになりました。ですからひとりでも多くのソ連人に移してやるつもりで頑張っている・・・」もう何も受け付けない。もう何を言っても、彼女たちには通じない。彼女たちを覆っているのは、完全な孤独と排他と虚無だけです。彼女たちのその言葉を聞いたとき、堀婦長は流れる涙で、何も言えなくなってしまいました。自分の人選です。責任は自分にある。彼女たちが負った傷の深さ、過酷さを思えば、彼女たちが選択したことに否定や肯定をするどころか、何の助言さえもしてあげれない。ただただ、自分の無力さに悔し涙が止まらないまま、この日、さいごは、気まずい雰囲気のまま部屋を後にしたのでした。けれど、堀婦長は思いました。このままでは済まされない!なんとしても彼女たちを助け出すんだ!
2013/04/19
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転載続き****祖国遙か-3────────堀婦長は、その日の夜、ひっそりと静まり返って誰もいなくなった薬剤室に入り、梅毒の薬を持ち出しました。そして翌日、ふたたびダンスホールへと向かいます。通されたのは、昨日の部屋です。女ばかり9人が、そこに集まりました。婦長は、せいいっぱい元気よく明るく彼女たちに声をかけました。「みんな!今日はお薬を持ってきてあげたわ。みんなの分、たくさん持ってきたから!あなたたちは、まだ若いのよ。復讐する気持ちはわかるけれど、それでは際限がないじゃない!それよりも、この薬を飲んで、一日も早く体を治してちょうだい。そしてね、気持ちを立て直して、生きることを目標に努力しようよ!」「婦長さんのお心はありがたいと思います。だけど婦長さん。そのお薬は、日本人が作ったものです。そんな貴重なものは、私たちには使えません。私たちのことは、もういいんです。本当に、もういいんです・・・・」「そんなことを言ってはダメ!お願いだからあきらめないで!お薬、ここに置いていくわ。それじゃ、帰るわね・・・」薬を置いて帰ろうとしかけた堀婦長に、ひとりが立ち上がりました。「ふ、婦長さん。そんなに私たちの気持ちがわからないなら、わかるようにしてあげます。」彼女の中のひとりが、そう言ってスカートをたくしあげ、自分の性器を露出したのです。梅毒は、性器全体に水泡ができます。そしてそこがただれて膿が出ます。さらに尿道口にも膿が出て、排尿困難、歩行困難が起こり、性器が腐る病気です。広げた足の間には、典型的な梅毒の症状がありました。あまりにむごい、末期の姿です。もはや手遅れかもしれない。けれど、病気は弱気になったら負けです。堀婦長は、きっぱりと彼女たちに言いました。「この程度なら、時間はかかるけど、必ず治ります!根気よ! 薬は十分あるのだから、あなた達も、絶対に良くなるんだという強い気持ちで治療するのっ! いいわね!」「治らない、治りっこないなんて、勝手な思い込みはやめなさい!もう商売なんかしてはダメよ。良くなるのよ!毎日お互いに声をかけあって、手抜きをしないで治療するの。いいわね!」こうして彼女たちは、わずかでも「治る」という希望を持ちました。そして治療を受けると約束してくれたのです。薬の調達は容易ではありませんでした。ただでさえ、日本人の医師や看護婦に扱える量は少ないのです。それでも堀婦長は、彼女たちを助けたい一心でした。薬をすこしずつ確保し、貯めた薬が一定量になる都度、彼女たちのもとに、お饅頭と一緒に、通いました。お饅頭と、堀婦長の誠意、そして日、一日と軽くなる体に、彼女たちの目にも少しずつ光が宿りはじめました。このような彼女たちとの関わり合いは、帰国命令の出る昭和23年まで続いたそうです。そしてまる2年越しの交流の中で、堀婦長は、彼女たちがひどい仕打ちを受ける以前よりも、彼女たちにたいしてより深い愛情を持つようになったといいます。「一緒に日本に帰ろうね」その言葉を、彼女たちにどれほどかけたでしょう。けれど、敗戦の混乱が続く日本に帰ったとしても、楽な生活など待っているはずはありません。それでもみんなと仲良く、苦労をわかちあい、助け合って生きていくんだ。みんな、私が面倒みてあげるんだ。堀婦長は、そう固く決意をしていました。・・・・・昭和23(1948)年9月、張さんが病院にバタバタと駆け込んできます。長春にいる在留邦人に、帰国命令が出た、というのです。その日の午後7時に、一週間分の食料を持参で南新京駅に集合することになっている、というのです。あまりにも急な話です。時間がない。あの娘たちに知らせなければ。堀婦長は、二人の子供たちに、とにかく準備をするようにと言い残し、自分の身支度も忘れて、彼女たちのもとに走りました。「みんな一緒に日本に帰れるんだ」走りながら堀婦長の目には涙が浮かびました。ダンスホールに着きました。堀婦長は、彼女たちに面会を求めました。そして、「午後7時に南新京駅に集まるように」と話しました。わーい、帰国命令だぁ、良かったぁ~!!彼女たちは、満面の笑顔で答えてくれました。ほんとうにうれしそうでした。「きっと来てくれるわね?」「婦長さん、ありがとうございます。7時までには準備して、必ず参ります」「必ずよ! 準備をして、必ず来てるのよ」婦長もうれしくてたまりません。「みんな一緒に帰れるんだ」こだわりはあることでしょう。ないはずなんてありません。けれど、自分がなんとか彼女たちを立ち直らせてみせる。絶対に立ち直らせてみせる!帰宅した堀婦長は、子供たちと自分の身支度を整えると、心配でたまらずに、集合時間の2時間も前に南新京駅に行き、彼女たちを待ちました。まさか・・・とは思いました。けれど、彼女たちは「時間までには行きます」と約束してくれたのです。その言葉を信じよう。きっと来てくれる。貨車が到着しました。長春にいた日本人たちが、続々と貨車に乗り込み始めました。堀婦長は、それでも彼女たちを待ちました。もう出発の時間です。来ないかもしれない。。。。そう思った時です。「婦長さ~ん!!」と明るい声がしました。どこにいたのか、意外と近くに、ワンピースにもんぺ姿の細井、荒川、後藤の三人の姿が見えました。とっても嬉しそうな顔をしています。「こっちよ~~、早く~~!」「あとの娘たちは?」「大丈夫です。あとから来ます。それより、これ、食糧のたしにしてください。」「ええっ!こんなにたくさん?! こんなことしたらあなた達が困るじゃないの」「いいんですよ、婦長さん。私たちの分は、あとからくる娘たちが持ってきます。だから、これ、みなさんで。それからこれ、ほんの少しですけれど、何かに使ってください。」「何なの?」「アハハ、あとでですよぉ~。じゃあ、あたしたち、澤本さんたちを探してきますね」「わかったわ。でも、もうあまり時間がないと思うから、早くしてね。急ぐのよ」「はいっ!」そのとき、振り向いた彼女たち3人の笑顔を、堀婦長は生涯、決して忘れない。忘れようがないです。三人とも、とても明るい、ほんとうに何事もなかったかのような、明るくてさわやかな笑顔だったのです。堀婦長が、彼女たちが戻ると安心して、貨車に乗る順番の列に並んだ時です。バン、バンと2発の銃声がしました。そしてすこし遅れて、バンと、3発目の銃声が響きました。列車への乗車を待っている日本人たちが、騒ぎ始めました。「おいっ!自殺だ」「若い女3人みたいだ」「!」三人とも即死でした。後藤さんと荒川さんの体を覆うようにして、倒れていた細井さんの右手にピストルが握られていました。申し合わせてのことでしょう。細井たか子が先に二人を射殺し、最後に自分のこめかみを撃ったことがわかりました。頭部からは、まだ血が、流れています。わかる。わかるわ。あなたたち、こうするほかなかったのね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。はやく気が付いてあげれなくて。もう、なにもかも忘れて、楽になってね。今度生まれてくる時にはね、絶対に、絶対に、もっともっとずっと強い運を持って生まれてくるのよ・・・・・「お母さん、お母さん!」子供たちの叫ぶ声に我にかえり、堀婦長は汽車に乗りました。結局、澤本かなえ、澤田八重子、井出きみ子の三人は、姿を見せませんでした。このほかに二人、どこにいるのか行方知れずに終わりました。ひとりは、ソ連将校が連れ帰ったという噂でした。引き揚げ列車は南下し、それぞれの悲劇と過酷な過去から、まるで逃れるように、祖国日本へ向け鉄路を南へ向けて走りました。・・・・・・こうして堀喜身子婦長が、長男静夫(5歳)と、長女槇子(3歳)を連れて、九州の諫早(いさはや)で日本の土を踏んだのは、昭和23年11月のことでした。親子三人を待っていた日本の戦後社会は、想像を絶する混乱の社会でした。戦争に負けた。それだけのことで、人心が変わってしまったのです。それまでの日本は、まさに家族国家でした。人々が地域ぐるみ、家族ぐるみで助け合い、支えあって生きることがあたりまえの社会でした。それが、終戦によって180度変わってしまったのです。人の情けがなくなりました。人情が消えました。支えあうという考えが、人々からなくなっていました。堀喜身子さんは、ソ連に抑留されている夫正次氏の故郷である、山口県徳山市に向かいました。戦前の社会では、いまでもそうした風潮は残っているけれど、いったん嫁に入ったら、夫の家の家族です。自分の生家に帰ろうとは思わない。戦前は、それがあたりまえでした。ところが親子して夫の実家に到着すると、夫の母(お姑さん)が「引揚者は家には入れられない」といいます。敷居の中にさえ、入れてくれませんでした。当時、いろいろな噂話があったのです。引揚者の女性は、穢れているとか、です。堀喜身子さんは、その意味では看護婦であって引揚げに際して不埒な真似に遭うことはありませんでした。けれど世間体がある。何があったかなんてわかりゃあしないと、姑は納得してくれません。はるばる徳山まで来て、子供の前で自尊心をズタズタに引き裂かれ、泊まるところもなく、とほうにくれたお堀喜身子さんは、二人の子供の手をひいて堀家の菩提寺を訪ねました。ご住職に事情を話すと、わかりましたと言って、一夜の宿と、命に代えてもと持ち帰った23名の看護婦のご遺骨を、菩提寺の墓所で預かっていただけました。親子は、ようやく肩の荷を少しだけ卸したのです。翌日、親子は、堀喜身子さんの母親が住む、北海道の帯広に向かいました。帯広では、幸い看護婦として市内の病院に就職することができました。けれど終戦直後というのは未曽有の食糧難の時代です。勤務の制約などもあり、給料も少なく、生活費をぎりぎりに切りつめても、末っ子の槇子を養うことができません。涙ながらに因果を含め、堀喜身子さんはたいせつな娘を、親戚の家に預かってもらうことにしました。そんな苦しい生活を送りながらも、堀喜身子さんの脳裏を片時も離れないもの。それは、命を捨ててまで事態を知らせに来てくれた大島花江看護婦と、井上つるみ以下自決した22名の仲間たちのご遺骨です。年長者26歳、年少者はまだ21歳の女性たちです。
2013/04/19
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続き転載******祖国遙か-4────────年が明け、昭和24年の6月19日の命日がやってきました。その日、堀喜身子さんのもとに、彼女たちがやってきたといいます。そしてこう言ったのです。「婦長さん、紫の数珠をくださいな」紫の数珠というのは、終戦の年の冬の初めにあったできごとに端を発します。その日、張春の第八病院に、モンゴル系の女性が担ぎ込まれてきました。妊婦でした。難産でした。助産婦の資格をもつ堀婦長が軍医とともに診察しました。すでに重体です。もはや妊婦の生命は難しい状態です。あとはせめて赤ちゃんの命だけは、という状態でした。その日のうちに嬰児はなんとか取り上げました。けれど出産で、妊婦は瀕死の状態です。そこから二日三晩にわたって、婦長と看護婦たちみんなで献身的な看護をしました。「なんとかして命だけは助けてほしい」と何度も哀願するご家族たちが、「ここまでやってくれるのか」と感激して涙を流すほどの真剣な看護でした。そしてようやく、妊婦は一命をとりとめたのです。一部始終を見ていた妊婦の身内の中に、モンゴルで高僧と言われた老僧がいました。この老僧が、妊婦の生命をつなぎとめた神業のような看護を、驚異の眼で評価してくれたのです。そして老僧は、生涯肌身離さず持ち続けるつもりでいたという紫の数珠を、お礼にと堀婦長に差し出してくれました。その紫の数珠は、紫水晶でできていて、2連で長さ30cmほどのものです。見た目もとても美しいが、それだけではなく、一個一個の珠に内部が覗けるように細工がしてあります。そこから透かしてみると、ひとつひとつに仏像が刻まれている。その日から、そのお数珠は看護婦たちの憧れの的になったそうです。やまとなでしことはいえ、若い娘たちです。美しい宝珠に興味津々だったのは、想像に難くありません。婦長は何度も彼女たちにせがまれ、何度も見せてあげていました。ある日、婦長はみんなに、「いっそのこと、数珠の紐を切って、みんなで分けようか?」と提案したことがあります。このひとことで看護婦たちは大騒ぎになりました。彼女たちが亡くなったとき、婦長は彼女たちに誓いました。「私の命に代えても、みんなの遺骨を日本に連れて帰るね。日本に帰ったら必ず地蔵菩薩を造って、みんなをお祀りする。その地蔵菩薩の手に、この紫の数珠をきっとかけてあげるね・・・・」けれど、まだ地蔵菩薩はありません。彼女たちの遺骨は菩提寺とはいえ、無縁仏にちかい形で置かれたままです。婦長はなんども心の中でみんなにお詫びしました。「ごめんね。いまの私にはどうすることもできないわ。でもね、きっと、必ず、お地蔵さんを造ってお祀りする。だから、もう少し待っていてくださいね・・・」どうすることもできない境遇の中で、そのことを思う都度、婦長の眼からは涙があふれてとまらなかったといいます。帯広で生活するようになってしばらくしたとき、徳山の夫の生家から、夫正次戦死の公報があったとの知らせが届きました。こうなると、北海道にいる堀喜身子さんにとっても、遠く山口県の徳山市とのご縁も遠くなってしまいます。けれど、死んだ仲間たちの遺骨は、徳山にあります。なんとかしなければ。そう思う堀婦長の心に、23名のご遺骨のことが、ずっと重い負担となり続けます。なにもしないでいるわけにはいきません。堀喜身子さんは、あちこち手立てを講じて、元の上官であった平尾軍医とようやく手紙で連絡をとりあいました。そして二人で地蔵菩薩の建立費を積み立てようと決めました。そして堀婦長から平尾元軍医にあて、毎月送金することにしました。たとえ少額でも、たとえ一回に少しのことしかできなくても、こうして積み立てていれば、いつか必ず地蔵菩薩を建てられるに違いない。そうと決まると、月給は少しでも高いにこしたことはありません。堀喜身子さんは、給料の良い職場を求めて、静岡県の清水市にある病院に転職しました。・・・・・・この頃、戦後の何もない時代、庶民の唯一の娯楽といえばラジオくらいしかありませんでした。なかでも、謡曲や浪花節は人気が高く、この時代に、広沢虎造や春日井梅鶯などが庶民の人気をさらっていました。この春日井梅鶯の愛弟子に、将来を嘱望された「若梅鶯」と呼ばれる浪曲家がいました。その若梅鶯が熱海で公演をしたとき、旅館のお帳場でお茶を頂いていると、旅館の社長さんが週刊誌を手にしてくるなりこう言ったのだそうです。「いやあ、すごいものですねえ、満州の長春で、ソ連軍の横暴に抗議して、22人もの看護婦が集団自決したんだそうですよ。終戦の翌年のことだけどね・・・」若梅鶯は、旅館の社長さんからその週刊誌をひったくると、むさぼるようにしてその記事を読みました。読みながら、若梅鶯は、全身に鳥肌がたったそうです。「こんな酷いことがあったのか・・・」実は、若梅鶯こと松岡寛さんは、敗戦時に樺太と関わりを持っていました。その樺太で、ソ連軍がやった殺戮や略奪、暴行、強かんの実態をつぶさに見ていました。ですから、長春の看護婦たちの話も他人事には思えなかったのです。松岡さんは、一座の者を使って、堀婦長の追跡調査をしました。するとなんと熱海からほど近い清水に、堀婦長がいることがわかったのです。その日のうちに松岡さんは、清水に向かいました。そして堀喜身子さんの勤務する病院に行き、面談を申し込みました。そして、地蔵菩薩の建立に資金的な協力をしたいと申し出たのです。けれど堀元婦長は、あっさりと断りました。ただお金があればいいというものではない、そんな思いが婦長の心にあったのかもしれません。けれど松岡氏も真剣でした。「ならば、自分は浪曲家です。この語り継ぐべきこの悲話を、大切に伝えて行きたい。ぜひそうさせてください」松岡さんの真摯な態度に、堀喜身子さんの心は動きました。実は、終戦から復員にかけての混乱の中で、亡くなられた看護婦たちの身元がわからなくなっていたのです。浪曲家である松岡氏が、その物語を全国で公演してまわれば、もしかすると彼女たちの身元がわかるかもしれない。堀婦長は、当時の様子を松岡氏に語って聞かせました。松岡さんは、誠実でまじめな人です。彼は堀元婦長から聞いた話を「満州従軍看護婦集団自決物語」の浪曲に仕立てました。そしてこの物語を語るために、世話になった師匠に事情を話して、春日井若梅鶯の芸名を返上し、師匠の一座までも離れ、無冠の松岡寛一座を開きました。彼は、白衣の天使たちの悲話の語り部として、後半の人生を生き抜く決意をしたのです。いくら人気の一番弟子とはいっても、独立すれば会社の看板のなくなったサラリーマンのようなものです。なんのツブシも聞きません。中央のラジオのゴールデンタイムの人気浪曲家だった若梅鶯は、名前も変えて、まるまる一から地方巡業でのスタートをきることになりました。終戦の悲話が、直体験として日本中に数多くあった時代です。白衣の天使の集団自決の浪曲が売れないはずがありません。松岡師匠の公演は、またたくまに全国でひっぱりだこになりました。その松岡師匠は、浪曲の中で、必ず「皆様の中で心当たりの方はいらっしゃいませんか?」と問いかけました。そして3年余りの公演によって、実に23名中19名の身元が判明したのです。そして19名のご遺骨は、ようやくご両親のもとに帰ることができました。一方、松岡師匠がこうして巡業をしながら看護婦たちの身元を尋ねて回っていたころ、堀元婦長は、自身の給料の中から、実家にいる子供たちと、元上司の軍医のもとへの少なからぬ積立金の送金を続けていました。その金額もある程度のものになったと思われたので、そろそろお地蔵さんの建立を、と思って元上司に電話をかけました。すると、元上司は「それなら、前にもお話した群馬県邑楽郡大泉村に建てましたよ」というのです。群馬県大泉村というのは、看護婦たちが満州へ向かう前に、厳しい訓練を受けたところで、彼女たちにとっての出会いとゆかりの場です。そこにお地蔵さんが建った。ほんとうなら、これほどうれしいことはありません。ちょうど、彼女たちが亡くなってから7周忌でもある年でした。堀元婦長は、松岡師匠にもこの話を伝えました。松岡師匠はたいへんに喜んでくれて、それなら私が見に行ってみましょう、とおっしゃてくれました。師匠はさっそく群馬県大泉村の役場をたずねました。地番を探しに行ってみたところ、そこはあたり一面、草ぼうぼうの原っぱでした。何もありません。役場にとって返して聞いてみたけれど、地蔵なんて話は聞いたこともないといいます。
2013/04/19
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転載記事の続き*****祖国遙か-5────────帰ってきて堀喜身子さんにその話をすると、どうしたことだろう、ということになって、元上司に問い合わせをしました。すると、実はよんどころない事情で、遣いこんでしまったという。思い当たることはあるのです。その上司の奥さんが、結核で入院されていたのです。間が抜けていたといえばそれまでだけれど、汗水流して貯めた貴重な地蔵尊建立基金は、こうして霧散してしまいました。同じ年のことです。埼玉県大宮市に、山下奉文将軍の元副官で、陸軍大尉だった吉田亀治さんという方がおいでになりました。吉田亀治さんは、自己所有の広大な土地に、公園墓地「青葉園」を昭和27年11月に開園しました。そしてそこに、沖縄戦の司令官牛島中将の墓を設け、さらに園内に青葉神社を建立し、鶴岡八幡宮の白井宮司の司祭によって、鎮座式も行いました。その青葉園が開園して間もない頃、地元の大宮市(現・さいたま市大宮区)で松岡寛師匠の浪曲の公演がありました。演目は、もちろん「満州白衣天使集団自決」です。この公演の際、吉田亀治さんは、松岡師匠から直接、堀元婦長が存命で、いまも看護婦たちの身元を探していること、命日になると、亡くなった看護婦たちが寄ってきて、お地蔵さんの建立をせがむことなどの話を聴きました。すると吉田亀治さんは、松岡師匠を介して堀元婦長に面会し、地蔵尊の建立を快く引き受けてくださったのです。埼玉県大宮市は、命を捨てて危険を知らせに来てくれて亡くなった大島花枝看護婦の出身地です。なにやらすくなからぬ因縁さえ感じる。資金面では、すべて吉田氏が引き受けてくれることになりました。そうして大宮市の青葉園のほぼ中央に、彼女たちの慰霊のための「青葉慈蔵尊」が建立されました。青葉慈蔵尊http://blog-imgs-31-origin.fc2.com/n/e/z/nezu621/201102232236513f2.jpg地蔵尊の墓碑には、亡くなられた看護婦たちと婦長の名前が刻まれています。(五十音順)荒川さつき 池本公代 石川貞子 井出きみ子 稲川よしみ 井上つるみ 大島花枝 大塚てる 柿沼昌子 川端しづ 五戸久 坂口千代子 相良みさえ 滝口一子 澤田一子 澤本かなえ 三戸はるみ 柴田ちよ 杉まり子 杉永はる 田村馨 垂水よし子 中村三好 服部きよ 林千代 林律子 古内喜美子 細川たか子 森本千代 山崎とき子 吉川芳子 渡辺静子看護婦長 堀喜身子~~~~~~~~~~~~~以上のお話は、日本航空教育財団の人間教育誌「サーマル」平成18年4月号に掲載された「祖国遙か」をもとに書かせていただいたものです。大島花枝看護婦のことについては、以前、「満洲国開拓団の殉難」http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-730.htmlという記事でも書かせていただいていますで、そちらもご参照いただけると良いかと思います。またこの記事そのものは、昨年2月に三回にわけて当ブログに掲載させていただいたものを、今回、少し文章等を手直ししてお届けさせていただきました。前回のアップのときもそうなのですが、今回も、心が死んだような状態になっていた8名の看護婦たちが、堀婦長の献身的な努力で、徐々に生気を取り戻した。そして、やっと、ようやく日本に帰れるとなったその日、晴れやかな笑顔で駅前に現れた3人は、残りの者を迎えに行くといって、覚悟の自殺をしてしまう。ちょうどこのくだりを書いているとき、ボロボロに泣けてしまいました。戦後の混乱、敗戦のショック、食べる物さえなく、餓死者まで数多く出した戦後の混乱期の中で、家族国家の住人だった日本人は、生きるのに精いっぱいの状態になりました。そこへGHQが思想統制、言論統制を行い、日本人の精神構造の破壊工作という追い打ちをかけました。その呪縛はいまでも続いています。けれど、そういう過酷な時代にあっても、日本人としての心を失わず、必死に生きた堀喜身子さんのような方や、彼女をささえて献身的に努力してくださった松岡師匠のような方、そして自らの家の土地を進んで墓所にご寄進なされた吉田亀治元陸軍大尉のような方もおいでになりました。そしてそういう方々のおかげで、いまなお、私達は大島花枝さん以下32名の看護婦さんたちのことを、忘れずに今に伝えることができています。いま、日本国家を解体しようとする人たちが政界その他に数多くいます。けれど現実に国家が解体した実例が満州国です。そこにいた人々がどんな目に遭ったか。国というものが、いかに大切なものかも、本稿を経由してお感じいただけたら幸いに思います。【後日談】夫と死に別れた堀元婦長は、その後お二人の子を連れ、寡婦としてがんばっていましたが、松岡師匠の温厚さと誠実さにふれ、後年、お二人はご結婚され、堀喜身子は、松岡喜身子となられたそうです。お地蔵さんが建立された青葉園は、いまもさいたま市にあり、その中央には青葉慈蔵尊がご安置され、いつもどなたか(お身内の方でしょうか)によって綺麗なお花が添えられています。この物語を最初に当ブログでご紹介したとき、この話はつくり話だ、嘘だ等々と中傷する方やサイトがありました。けれど私は思うのです。なるほど私はその場にいたわけではないし、当事者でもない。ですから事実の有無は私にもわからない。けれど、その物語はつむがれ、そこに大きなお地蔵さんが建立されている。その日本人の真心は、忘れてはならない日本の心として、絶対に後世に伝えていかなければならないと思うのです。浪曲になった話だから、嘘だ、そういう決めつけではなく、そこから何を学ぶかが大切なのではないでしょうか。※本稿は、日本航空教育財団の人間教育誌「サーマル」平成18年4月号に掲載された「祖国遙か」をもとに書かせていただきました。
2013/04/19
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新日本経済新聞よりの転載*****FROM 東田剛--------------------------------------------------------------●月刊三橋4月号のテーマは「TPP徹底解説」。⇒ http://www.keieikagakupub.com/sp/CPK_38NEWS_C_1980/index.phpこれほどの「不平等条約」を突きつけられても、「TPP加入はマスト」と言えるのか。--------------------------------------------------------------TPPの事前協議の日米合意について、USTR(米国通商代表部)による報告が凄まじいです。<全文仮訳>http://www.yamabiko2000.com/modules/wordpress/index.php?p=330まず、米国の自動車関税の撤廃延期を巡る合意は、米韓FTA以上に米国に有利だとしています。日本は、韓国よりも譲歩しちゃったんですね。また、日本は簡単な審査で外国車の販売を認める台数を年間5000台に増やすことになりました。「自動車の数値目標は受け入れない」という、安倍総理が守ると約束した自民党の6条件の一つが、もう破られました。では、自動車で米国に譲歩した代わりに、日本は何を得たのでしょう。農業の保護でしょうか。違いますね。日本が得たものは、TPP交渉参加です。つまり、本交渉でもっと米国に獲られるために、自動車で譲歩したというわけです。農業などを守りたければ、本交渉で頑張るしかありません。しかし、USTRは、日本側が、現在の交渉参加国がすでに交渉した基準を受け入れると言明したとも報告しています。交渉の余地は、ほとんどないのです。しかも、それだけでは許してもらえませんでした。なんと、TPPとは別に、日米間で非関税障壁を協議する場が新たに設けられることとなったのです。その非関税障壁とは、保険分野、投資のルール、知的財産権、政府調達、競争政策、宅配便、食品の安全基準、自動車の規制・諸基準やエコカー支援や流通などです。仮に日本がTPP交渉不参加となった、あるいは交渉で日本の主張を通せたという奇跡が起きても、米国は、別途、タイマンで日本に圧力をかけることができるのです。これはエグ過ぎますね。以前、米国は日本に「イエス」しか期待していないという話をご紹介しましたが、事前協議でも、日本側は、「イエス!オーゥ、イエス!」と洋物AVみたいに絶叫し続けたんでしょう。http://toyokeizai.net/articles/-/12903?page=5もっと恥ずかしい話もあります。麻生大臣は、かんぽ生命のがん保険など新規業務を当面、認可しないと表明しました。しかし、この措置は、日本側が一方的に通告してきた話だとUSTRは報告しております。つまり、協議とは無関係という扱いなので、日本側に見返りとして得るものはありません。ただで米国にサービスしたのです。USTRは報告書で「米国政府が一連の協議を成功裏に完結した」と宣言し、日本のTPP参加は「競争力のあるアメリカで生産された製品とサービスに対する日本市場のさらなる開放を意味する。そのことは同時にアメリカ国内の雇用を支えるのだ」と凱歌をあげています。三橋貴明さんは、4月13日のブログで、この交渉力の弱さについて、安倍総理は国民に何らかの「説明」をする必要があると述べました。でも、安倍総理は、すでに説明済みです。「TPP交渉参加に向けた米国との事前協議が本日、合意に至りました。厳しい交渉でしたが、日本の国益をしっかり守ることができたと思います。TPP交渉参加は国家百年の計。TPPは、経済的メリットに加えて、自由や民主主義、法の支配といった、普遍的価値を共有する国々とのルール作りは安全保障上も大きな意義があります。日本の国益を実現するための本当の勝負はこれから。最強の体制の下、一日も早くTPP交渉に参加し、TPP交渉を主導していきたいと思います。」(官邸Face Bookより)TPP交渉を主導していきたいだと?「猿(モンキー)が人間と交渉できるかーッ!おまえはこのUSTRにとってのモンキーなんだよシンゾォォォォーーッ!!」(USTR Face Bookより)PSTPP参加は、日本をいかなる悪夢に突き落とすのか?「月刊三橋」4月号は、「TPP徹底解説」。配信は5/10の23:59まで。http://www.keieikagakupub.com/sp/CPK_38NEWS_C_1980/index.phpPPS読んでいて、ジョジョに嫌気がさしてきた方は、気分を変えて、この本を味わってみましょう。http://amzn.to/11cGwHAPPPSこれは面白くて、分かりやすくて、ためになった!http://amzn.to/12DUZxhPPPPSどうして、日本政府はこんなに譲歩したのか。その秘密は、この本の中にあります。http://amzn.to/UPCohv
2013/04/17
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