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転載記事********登下校時に校舎に向かって一礼、食事前、清掃前は正座して黙想。生徒たちは自分を見つめながら育っていく。■1.学力・体力日本一の福井県 全国学力テスト、体力テストの両方で、福井県がトップクラスにつけている。学力テスト(文部科学省が行っている「全国学力・学習状況テスト」)では平成19年から3年連続で、中学の部(3年生)では1位、小学の部(6年生)は秋田県に次いで2位である。 また全国体力テスト(「全国体力・運動能力・運動習慣調査」)でも、平成22(2010)年には小学生(5年生)、中学生(2年生)の男女とも1位となった。 学力、体力ともに全国最下位近くに低迷した大阪府の橋下徹知事は、こう嘆いた。__________ 大阪は学力が低かった。体育も低かったら何が残るのか。ふつうは勉強ができなかったら、体育ができる。どっちかなのに。どうすんねん。[1,p26] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「どうすんねん」の問いに答えるために、福井県がどのように学力も体力も伸ばしているのかを探ってみよう。■2.校舎に向かって深々とお辞儀をする中学生たち 福井の子育てはどこが違うのか、いくつかの学校を訪問し、多くの教育関係者や母親たちのインタビューで探った労作が[1]である。 その口絵の写真からして、驚かされる。まず校門の前で、校舎に向かって深々とお辞儀をする中学生たち。キャプションにはこうある。__________ 登下校の際は、校門で学校に向かって一礼します。自転車に乗っている子も下りて、礼。約30年続く伝統です。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 給食を前にして、合掌する子供たち。__________ ある中学校では「無言給食」を実施しています。食事中はひと言もしゃべらず食べることに専念。一体どんな力を養っているのでしょうか? ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ お盆に載せられた給食の写真では:__________ 地元産業の越前漆器を食器として使い、地域で育てられた野菜が献立にたくさん並ぶ。学校給食にも子どもの心を育むヒミツがありました。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 廊下で、ぞうきんを前に正座して、黙想する子供たち。__________ 休み時間はにぎやかなのに、掃除の音楽が流れた途端、廊下に正座して目をつくります。静と動の切り替えがとても上手です。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 福井県には曹洞宗大本山の永平寺があるが、まさにこれは禅寺での修行風景を思わせる。ここには伝統に根ざした人作りの世界がありそうだ。■3.校門での一礼の始まり すべての伝統と同様、福井県のこうした教育も、多くの人々の長年にわたる努力の積み重ねの結果である。 たとえば、校門での一礼の伝統を始めたのは、30年ほど前に永平寺町の上志比(かみしひ)中学校に校長として赴任してきた川鰭(かわばた)定幸さんだ。定年後、浄土真宗で得度し、80歳を超える今も、矍鑠(かくしゃく)として、福井市の超勝寺(ちょうしょうじ)で布教使をされている。川鰭さんは当時をこう回想する。__________ 当時、全国の公立中学校では暴力事件、"校内暴力"が多発していました。・・・上志比中学校も学ランに剃りこみという格好の生徒たちが、窓ガラスを割るなどの校舎破壊を繰り返していた。そこに赴任したんです。[1,p48] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ そこで、河鰭さんは入学式の第一声で、子供たちにこう呼びかけた。「明日から、登下校のときは校門の前で礼をしたらどうだろうか」と。 河鰭さんは幼少の頃に両親と死に別れたことから、浄土真宗に触れる機会が多かった。浄土真宗の宗祖・親鸞上人の教えは「自己発見」。「礼」の教えを通して生徒たちに自己を見つめなおしてもらおうと思った、という。■4.「自分が自分に出会う礼」 河鰭さんが考えた「礼」とは、他者への挨拶や敬意の表現だけではなかった。 毎朝、学校に着いたら校門の前で身なりを正し、息を整える。そして心を落ち着けたら校舎に向かってゆっくりと頭を下げ、ゆっくりと上げる。一日の始まりに自分自身に対して礼をすることで、自分の中にある普段とは違う、もうひとりの自分を見出してほしい、という思いだった。 しかし、「校門の礼」は、すぐには受け入れられなかった。__________ 生徒は実行してくれないし、先生からは「生徒の行動を規制する」と反発もありました。・・・僕は、入学式の翌日から毎朝校門に立ち、登校してくる生徒一人ひとりに礼をし、挨拶をしました。そして、校門の横には、「礼」という大きな文字の下に、「自分が自分に出会う礼である」と書いた自作の看板を立てました。[1,p51] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ たった一人でのスタートだったが、校門で礼をする生徒が少しずつ増えていった。2、3ヶ月すると、こんな作文を書く生徒が出てきた。__________ 校門の前に立って頭を下げると、今までやってきたことがまずかった、しっかりしなくてはいけない、と思う自分に気づきました。[1,p51] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄■5.「自己を見つめる爽快さ」「校門での礼」が軌道に乗り始めた頃、河鰭校長はさらに給食と掃除の時間の改革に着手した。 給食の時間は、生徒たちはお喋りばかりで、食べ残しが多かった。そこで午前中の授業が終わると、全校生徒をランチルームの前の廊下で正座させ、当番の配膳が終わるまで待たせた。食事の時は、終始無言で食べるようにさせた。すると食べ残しがなくなった。 掃除も同様に、まず正座で黙想してから、無言で各持ち場を雑巾で磨かせた。すると生徒たちは懸命に掃除をするようになった。これらは食事も清掃も「行」であるという禅の教えを参考に取り入れたものだ。__________ 給食の前に正座をさせたのは気持ちを落ち着かせるというよりは、お腹が減るという生物としての体の感覚に訴えたんです。しばらく待つからこそ給食がおいしく感じられ、おいしく感じられるからこそ食べることに集中でき、集中できるから食べ残しがなくなっていくんです。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 食べ終わると、生徒と先生は箸を置き、「この命を無駄にすることなく、日々の勤めに励むことを誓います」と声を合わせる。「この命」とは、自分が今食べた魚や肉や野菜、穀物だ。それらの命をいただいて、我々は生きている。 掃除も無言でやることで、自分の作業に集中できる。校門で礼をし、食事前に正座で黙想をし、無言で掃除をする。その過程で、子供たちは「自己を見つめる爽快さ」を体で味わったのだ、と河鰭校長はいう。 河鰭校長が赴任して3年目くらいから、不思議なことに、生徒たちの成績が上がり始めた。 その後も長く「礼の教育」が続いているのは、子供たちが体でいいなと感じているからだという。■6.「給食に越前塗りの漆器を使ってもらいたい」 鯖江市豊(ゆたか)小学校の給食の時間、机の上に並ぶのは、黒く艶々と輝く地元の越前漆器のお椀やお盆だ。 越前漆器組合から給食に越前塗りの漆器を使ってもらいたいと提案があったのは、15年前。しかし、乗り越えなければならない壁がいくつもあった。まず漆はぬるま湯でやさしく洗わなければならないが、学校では衛生管理のために熱風消毒が必要だ。値段も高い。 それを聞いた越前塗りの職人さんたちは、熱風消毒可能な給食用漆器を開発し、値段も導入可能な価格に抑えた。それを受けて、市の教育委員会が予算を出し、平成12(2000)年に導入された。栄養教諭の塚田明美先生は言う。[1,p74]__________ お椀の木をくりぬく職人さんがいる、塗りをする職人さんがいる。いろんな人が手をかけて一つのお椀を作っている。全国でもこんな漆の食器を使って給食を食べている子どもたちはいないんだよ、と伝えているので大切に扱ってくれますね。予算や保管場所の関係でひと学年分しか漆器の食器はないため、学年ごとに交代で使うのですが、順番が回ってくると子どもたちも「きた、きた」と反応がいいんですよ。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「和食に合って、いつもよりごはんがおいしく感じる」「越前漆器で食べると味が違うような気がする」と子どもたちの評判は上々だ。
2013/08/28
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上からの続き******転載記事■7.「孫においしいものを食べさせたいというおばあちゃん心」 給食の途中、放送が入る。「今日のエンドウ豆はサルビア会の上田さんが作ってくれました」「サルビア会」とは、地場産の野菜を学校給食に供給している会だ。毎日、給食のメニューに合わせて、33名のサルビア会の会員たちが、その日の朝にそれぞれの畑で収穫した野菜を届ける。 たとえば、ある日のメニューは「エンドウ豆ご飯」に、「かきたま汁」、地物のトビウオと県産野菜で作った「まる福あげ」、きゅうりとキャベツの「即席漬け」、トマト。これら13品目のうち、えんどう豆、トマト、きゅうりがサルビア会から提供されている。 サルビア会の会長・上田八重子さんは経緯をこう説明している。__________ 2,3年前、栄養教諭の塚田先生から地場産の野菜を学校給食に使いたいと提案がありました。私たちも安心安全な旬の食材を子どもたちに食べさせたいという思いがあり、気持ちが一致したんです。[1,p76] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄__________ 毎日、同じ野菜を何キロも用意するのは大変。それでも、形、大きさは不揃いでいいと言ってくれるので助かっています。孫においしいものを食べさせたいというおばあちゃん心で、作るのに熱が入りますね。[1,p77] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 栄養教諭の塚田先生は、教育面の効果を語っている。[1,p77]__________ この野菜は、子どもたちが登下校で通る畑で作られているんです。自分が住む地域で、どんなものが作られているのかを給食を通して知ることができます。また、野菜の旬はいつなのかがわかり、旬のものはおいしいということも実感できますよね。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄■8.「お陰様」から「しっかりしなくては」 地元の職人たちが丹精を込めて作った重厚な漆の食器で、近隣農家が毎朝届けてくれる地場産の野菜を味わう。こうした周囲の大人たちの愛情にふれながら、生徒たちは毎日の給食をいただく。 また食事の後で「この命を無駄にすることなく」と唱えれば、自ずから、自分たちが「生きとし生けるもの」すべてのおかげで生きていることに気がつく。 登下校時には、校舎に向かって礼をする。静かに頭を下げれば、先生や友だちや校舎を思い浮かべながら、「今日も一日、よろしくお願いします」とか「今日もお世話になりました」という思いがこみ上げてくるだろう。 人間は一人で勝手に生きているのではない。両親や家庭、先生方、地元の人々、ひいては近くの田畑や山川などの「お陰で」生かされている、という事実に気がつくはずだ。そこから、自分も「しっかりしなくて」と思う。学力も体力も、こうした思いの上に築かれるものである。 次号では、この思いの上で、福井県の生徒たちが、どのように学力、体力を伸ばしているのか、その実際の有様を見てみたい。(文責:伊勢雅臣)
2013/08/28
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転載記事****** 教育再生 第4部 人格を磨けば学力は伸びる (2) 学力・体力日本一 ~ 福井県の子育てに学ぶ(下) 自制心を身につけさせる家庭の躾が、学力・体力日本一の基盤。■1.塾関係者に与えたショック 平成19(2007)年に始まった「全国学力テスト」で、福井県と秋田県が3年も続けてトップクラスを維持した事に、大手進学塾の栄光ゼミナール広報室室長、横田保美(やすみ)さんは、こう驚きを語った。[1,p80]__________ ・・・一番ショックだったのは、福井県、秋田県が上位を占めたということです。東京では、小学生の5人に1人以上が受験をして中学校を選ぶ時代。塾に通うのは当たり前になっています。だから、東京をはじめとする関東圏がトップクラスに入ると思っていた。それなのに、通塾率の低い福井と秋田が上位を独占。そういう意味では大きく期待を裏切られた結果でした。 受験だとか知識を身につけさせる教育が先進的だと思っていたけれど、実は見落としていたことがいっぱいあったのでは・・・と思い知らされました。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 塾に通う率の低い福井県と秋田県が学力トップでは、塾関係者は立場がない。塾で「見落としていたこと」とは、何なのだろう。■2.福井県は宿題が日本一多い 学力テストと同時に、生徒の学習状況や先生の指導に関してもアンケート調査が行われ、興味深い事実が判明した。宿題を出している率で見ると、福井県は小学校の国語、算数、中学校の国語、算数と、すべての科目で全国1位だった。西川福井県知事は、こう語っている。[1,p89]__________ 福井は、言い過ぎかもしれないが宿題が日本一多い。先生が宿題を出し、家庭では親御さんがしっかりみている。地道な流れが根っこにある。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 福井県では子供の勉強を塾に任せるのではなく、先生が宿題を出し、親がそれを子供にしっかりやらせている。 小中学生だけでなく、大学進学状況でも福井県は全国のトップレベルにいる。高校卒業生の5人の1人が国公立大学に合格しており、さらに高校卒業者数に占める東大合格者の率では全国7位。関西圏のそれも大都市圏から離れた県としては、立派な成績だ。 しかし、宿題だけで、ほんとうに全国トップレベルの学力を達成しているのだろうか?■3.「部活して家に帰って、予習と宿題をするのが精いっぱい」 その実態を、福井県立武生高校出身の東大生たちが、座談会でこう語り合っている。[1,p125]__________渡辺さん 大学に進学して驚いたんだけど、有名私立校出身の子とか予備校に通っていた東大生の話によると、合格するために毎日10時間くらい勉強していたんだって。自分はそんなに勉強時間は長くなかったなあって。久野くん 1、2年の頃は、毎日2時間くらいじゃなかった? 3年の秋頃までは受験のための勉強はしていなかった気がする。石原くん・・・基本的に、学校の予習と宿題以外はやったことがなかったな。塾にも通わなかったし、周りにも塾に行っている子は少なくて、成績が上位の子ほど行ってなかった気がする。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 授業は生徒が予習している、という前提で進められるので、英語、古文、漢文は、語彙を調べて訳していかないと、授業について行けないそうだ。 予習と宿題と、すなわち家庭での自己学習が中心で、それらを2時間ほどすることで、これらの生徒は東大に合格したという。塾で詰め込み教育をされるのとは、まったく違う。■4.家事する母親の傍らで宿題 福井県では、小学校、中学校の時から、宿題を重視している。小中学生の親144人に対するアンケート調査があるが、それによると、平日に宿題をする時間が30分以上という回答が、8割近くを占めている。 興味深いのは、「宿題を習慣づけるために、心がけていることはありますか?」という設問に対して、多かった回答は:- 宿題が終わるまで遊びに行かせない 27人- 宿題が終わったかどうかチェックする 21人- 目の届く範囲で宿題をさせる 19人 と、子供にきちんと宿題をさせることに、親が積極的に関与している様子が窺われる。 宿題をする場所についても、リビングルームが64%と、目の届く範囲で宿題をさせている家庭が多い。ただし、親がつきっきりで見ているというのではなく、そばで家事をしたりしながら、それとなく、様子を見守っているようだ。 小学校の国語での宿題の定番は「音読」。国語の教科書を親の前で読み、声の大きさ、感情の込め方などを親が採点する。お母さんが、夕飯を作ったり、洗濯物をたたみながら、BGMがわりに子供の音読を聞く。 お母さんが外で働いている場合は、福井県では3世代住居が珍しくないので、お祖母さんが代わりに聞いてくれるケースが多い。 こうして小学生の頃から、学校が宿題を毎日出し、それを親が家できちんとさせる、という形で、自分で勉強する、という習慣をつけさせている。******下に続く
2013/08/28
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上からの続き 転載記事 *******■5.「やることをやってから遊ぶ」習慣づけ 小学生に宿題をどう習慣づけるかに関して、お母さんたちの座談会では、次のような発言が出ている。__________水野さん 小さな頃から「やることをやってから遊ぶ」ということを習慣づけしてきました。「宿題をあとまわしにしたら自分が困るよ」と言って。だから帰宅したらすぐに宿題をして、それから着替えて遊びに行くというパターンになっている。大久保さん うちも宿題をしてから遊ばせるようにしていますね。宿題は最低限のやるべきことなので。・・・山下さん うちの子は何度か宿題をさぼって、たまりにたまった分を終わらせるために、夜なかなか寝られないことがあった。それからは、「宿題ってあとまわしにすると眠くなっちゃうよね。だから絶対に先にするんだ」って言っている。失敗をしているから、自分でやるようになった。そうすると友達も一緒に宿題をするようになって、うちに来る子はみんな宿題している。学習塾みたい。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 遊びに行きたい欲求を自分で抑えて、まずは勉強に向かう。その過程で、自制心が養われていく。■6.部活と勉強の両立 こうした過程で、福井県の子供たちは時間をムダにせずに勉強をする習慣を身につけていく。前述の東大生たちは、4人とも受験期になっても部活を続けていた。毎日、7限授業が終わったあと、4時過ぎから、6時か7時まで部活をする。それから帰宅し、夕飯を食べ、休憩をとり、ようやく予習や宿題にかかる。__________紺谷さん 私も部活をやっていたし、通学に1時間かかったから、勉強時間は家が近い人よりも絶対少ないと自覚していた。だから、通学時の電車とか休み時間にも勉強をして、ロスをなくそうとしていたな。・・・渡辺さん 今、思ったんだけど、小学生のとき、クラスのほとんどがスポーツ少年団に参加していて、放課後は毎日のように練習に行っていたんだよね。それでもみんな宿題はちゃんとやってきていて、小さな頃から運動をしながら、限られた時間の中で宿題をする習慣があったからこそ、部活と勉強を両立できる力が身についていたのかもしれない。[1,p141] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ こうしてスポーツ少年団や部活をしながらも、予習や宿題をきちんとやっていることが、学力と体力の両面で日本一になった秘訣だろう。■7.「なんで1日早くやらないんだろう」 このように自制心をつけて東大に入学した学生から見ると、他の東大生の行き当たりばったりが目につく。[1,p139]__________紺谷さん そういえば、提出前になって課題を見せてほしいと言う子がいて驚いた。東大生にもこういう子はいるんだなあって。出された課題は、自分でやらないと意味がないのに。渡辺さん 午後5時が締め切りのレポートなのに、お昼休みに「今からやらなくちゃ」って言っている子がいた。自分は、課題が出たら先にやってしまうから「明日はレポート提出だから徹夜だ」とか聞くと、なんで1日早くやらないんだろうって思ってしまう。先にやっておけば、生活のペースも崩れなくて楽なのにーって。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 塾で詰め込み勉強をさせられ東大に入っても、自制心は身についていない。そういう生徒が、塾という外的制約がなくなった途端に、レポートを写したり、徹夜でやったりするようになるのだろう。これでは、大学の勉強も身につかないし、社会に出てからも、役立つ人間になるのは難しい。■8.「稚心を去る」 福井と言えば、幕末の志士・橋本左内の出身地である。福井藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、面会した西郷隆盛をして「一世の偉人なり」と言わしめた人物である。 わずか26歳にして「安政の大獄」で刑死したが、15歳の時に記した『啓発録』は、自らの生き方の戒めを5箇条にまとめたものだ。その第一条が「稚心(ちしん)を去る」である。__________稚心とは、をさな(幼な)心と云ふ事にて、俗にいふわらびしき(子どもっぽい)ことなり ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ たとえば、勉強を放り出して遊びたがったり、むやみにお菓子を欲しがったり、母親に甘えたりすることである。レポートを出さなければならない、と分かっているのに、締め切り間際まで先送りし、挙げ句の果ては友人に写させてくれ、と頼むのも「稚心」である。「遊びは宿題を終えてから」という習慣づけは、この「稚心を去る」に通じている。■9.「士気」ある人を育てる 左内は稚心の項を、こう締めくくっている。__________稚心を除かぬ時は、士気振はぬものにて、いつまでも腰抜士になり候ものにて候、故に余稚心を去るを以て士の道に入る始と存候なり(稚心を除かない時は、士気が振はないので、いつまでも腰抜武士になってしまう。それゆえに私は「稚心を去る」をもって、武士の道に入る始めと考えている) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「士気」とは、現代で言えば、世のため人のために尽くすひとかどの人物になろう、という志と言えよう。「稚心」を去って、はじめて「士気」が振ふ。自立した大人として、世のため人のためを志すことができる。 前号では校門の一礼や清掃・給食前の正座・黙想は、自分を見つめる機会になるとして、1人の生徒の感想を紹介した。__________ 校門の前に立って頭を下げると、今までやってきたことがまずかった、しっかりしなくてはいけない、と思う自分に気づきました。[1,p51] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 一礼や正座黙想で自分の行動を見つめることで、自身の内に潜む「稚心」に気がつく。これらも「稚心を去る」ための手段だったのだ。 こうして「稚心」を去った生徒が、毎日2時間も勉強すれば、「稚心」を持ったまま10時間も詰め込み勉強をさせられた生徒以上の学力を持てることを福井県の実績は示している。同時に部活を続けることで、日本一の体力も養っている。 こうした教育を受けて、子供たちが士気を振るい、自分の人生を主体的に歩んでいけるようになれば、その幸福は計り知れない。 同時に、こういう士気ある国民がどれだけいるかで、国家の栄枯盛衰も決まるだろう。(文責:伊勢雅臣)
2013/08/28
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★麻生さんの名言(誰も知らない)全世界のRPE読者の皆さま、こんにちは!北野です。(●私の眠りを妨げるのは誰だ!?詳細は【編集後記】で! )麻生副総理といえば、最近「ナチス発言」で注目されることが多かったです。あれは、ナチスを「肯定していたのか?」、それとも真逆で、「否定していたのか?」。大論争になりました。今日はその話ではありません。「ナチスの手口発言」のちょっと前に、麻生さんは、すばらしい言葉を語っておられます。なんでしょうか?▼憲法改正は、たんなる「手段」麻生さんの名言を。↓<護憲と叫んでいれば平和が来ると思っているのは大間違いだし改憲出来ても世の中全て円満にと全然違う改憲はたんなる手段だ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~目的は国家の安全と安寧と国土、我々の生命と財産の保全、国家~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~の誇り~~~~~~~狂騒、狂乱の中で決めて欲しくない落ち着いて我々を取り巻く環境はなんなのかこの状況を良く見て下さいという世論の上に憲法改正は成し遂げるべきだそうしないと間違ったものになりかねない>↑これを読んで「名言だ!」と思わない人も多いかもしれません。説明します。麻生さんは、「改憲はたんなる手段だ」とおっしゃっています。目的は、「国家の安全と安寧と国土、我々の生命と財産の保全、国家の誇り」だと。▼手段、目標、目的の関係年収300万円の人が、紙に「3年後、年収を1000万円にする!」とかきました。これは、「目標」を設定したのです。で、「なんのために年収を1000万円にするの?」これが「目的」になります。たとえば、「家を買うため」「自動車を買うため」「子供がよい教育をうけれるように」などなどいろいろあるでしょう。これは「年収1000万円」の「目的」ですが、より高次の「目標」にもなりえます。(たとえば、「5年後に家を買う」と書けば、目標である)結局、目的をつきつめていけば、「家族が幸せになるために」ということになるでしょう。じゃあ、「手段」ってなんだ?これは、「どうやってやるの?」ということ。常識的に考えて、年収300万円のサラリーマンの給料が、3年後1000万円になることはありません。ですから、「手段」を考えなければならない。・株?・FX?・不動産投資?・インターネットビジネス?これらが手段です。こうやって見ると、一番上位にあるべきは、「目的」。目的を達成するために設定するのが「目標」。「目的」と「目標」達成するための方法が「手段」となります。▼「改憲」「護憲」を「神聖視」することなかれところが、結構えらい人でも、この「目的」「目標」「手段」の関係を理解していないことがある。で、これらの関係が逆転してしまうことがあるのです。それを認識したうえで、もう一度麻生副総理の発言を読み返してみましょう。<護憲と叫んでいれば平和が来ると思っているのは大間違いだし改憲出来ても世の中全て円満にと全然違う改憲はたんなる手段だ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~目的は国家の安全と安寧と国土、我々の生命と財産の保全、国家~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~の誇り~~~~~~~狂騒、狂乱の中で決めて欲しくない落ち着いて我々を取り巻く環境はなんなのかこの状況を良く見て下さいという世論の上に憲法改正は成し遂げるべきだそうしないと間違ったものになりかねない>麻生さん、目的は国家の安全と安寧と国土、我々の生命と財産の保全、国家の誇り~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~であり、その手段が憲法改正だ~~~~~~~~~~~~~といっています。目的と手段の関係を完璧に理解されていることがわかるでしょう。補足というか、<護憲と叫んでいれば平和が来ると思っているのは大間違いだし改憲出来ても世の中全て円満にと全然違う>ともおっしゃっている。「今の憲法を守れば、平和がつづくわけじゃない」「憲法かえたら、すべてうまくいくわけじゃない」と。なぜなら、「憲法改正(あるいは改正しない)は、たんなる『手段』なのだから」。このように麻生さんは、見事に関係性を説明しておられますが、この世はどうでしょうか?護憲派は、「平和憲法があれば、平和が永遠につづく」という宗教を信じている。(実は、日本が戦後平和だったのは、日米安保のおかげなのだが・・・・。)改憲派は、「何がなんでも憲法を改正すれば、日本はよくなる」という宗教を信じている。どっちも勘違いしてるってことです。麻生さんのおっしゃるとおり、「改憲」も「護憲」もただの「手段」なのですから、まず大前提は、日本国憲法は、【アメリカ製憲法】である。そんなものを神聖視する必要はありません。じゃあ改憲なのか?改憲して、日本が「より安全になる」(目的)のなら、かえればいい。改憲して、日本が「より危険になる」のなら、かえなければいい。そういう話なんです。目的(国民の安全)を犠牲にして、手段(改憲、護憲)を神聖視するなんてバカげています。で、私は結局どう思っているのか?これは以前書きました。興味がある方はこちらをご一読ください。↓http://archive.mag2.com/0000012950/20130807111655000.html★憲法改正と集団的自衛権行使容認は、何が違うの?どっちがいいの?▼指導者の勘違いは、国を滅ぼす指導者の「目的」は、いつでも、国民の安全を守ること日本経済を繁栄させることなどであるべきです。下に続く
2013/08/28
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上からの続き転載記事********ところが、「目的」「目標」「手段」の順番がごちゃまぜになることで、「国を滅ぼす」指導者もいます。たとえば、1932年に建国された「満州国」。日本がこの国を建てた「目的」はなんだったのでしょうか?安全保障面では、ソ連の南下政策を阻止すること。経済面では、満州国建設により、「世界恐慌の影響を克服できる」と考えられていた。「満州国建国」を画策していた当時、・目的、「日本の安全を守ること」(特にソ連から) 「世界恐慌を克服すること」・目標、手段 「満州国を建国する」だった。ところが、「満州国建国」は一筋縄ではいきませんでした。自国領と考えている場所に、新たな国がつくられるので、中国は反対。満州国は、「対ソ連」なのだから、ソ連も反対。同じ場所の権益を狙うアメリカもイギリスも反対。要は、後に「戦勝国」になる国々が満州国に反対したのです。この時点で、日本は「修正」を加えるべきでした。どういうことでしょうか?「満州国」は、「日本の安全を守り、経済を発展させるため」(目的)の「手段」でした。しかし、世界が反対している状況で「満州国」を建国しても、「日本の安全を守る、経済を繁栄させる」という「目的」は果たせないんじゃないか?と考えてみるべきだったのです。ところが、日本の指導者は、「満州は日本の生命線!」と叫び、「手段」を「目的」の上位に据え、神聖視し、「世界が反対しても満州国建国は譲れない!」と、破滅への道を驀進していったのです。結果、国際連盟で、満州国建国に反対は42カ国。賛成はわずか日本一国。国際社会で孤立した日本は、ぶち切れて、国際連盟を脱退します。(1933年3月)日本が戦争に負けたのは、「ゼロ戦が捕獲されて、その秘密がばれたから」じゃないですよ。当時の指導者がおろかだったからです。私は自虐史観を全然もっていません。日本を守るために満州で戦死した祖父に感謝し、誇りに思っています。しかし、だからといって当時の指導者が「優秀だった」とはいえません。民間企業だって、赤字になれば経営者の責任が問われます。そうであるのなら、国民の命をあずかる一国の指導者たちが、戦争で負けるようなおろかな決断をくだしつづけ、責任を逃れることはできません。皆さん、東電の一般社員に「原発事故の責任がある」とはあまり考えないでしょう?でも、東電の当時の経営陣が「無実だ」と考える人も、あまりいないはずです。当時の日本も同じこと。普通の兵士は、家族と国を守るために、勇ましく戦い、死んでいった。彼らに責任はない。しかし、指導者の責任は、どう考えてもあるのです。そして、大きな失敗の一つは、「手段」を「目的」よりも重要視してしまったことなのです。▼「迷信」に注意しよう私たちは、いろいろな「迷信」を信じています。一般国民が「迷信」を信じていても、あまり問題ではありません。しかし、国の指導者が「迷信」を信じはじめたら、要注意です。どんな?たとえば、・憲法改正すれば、日本はすべてうまくいく・平和憲法を守れば、日本の平和は永遠につづく・核武装すれば、すべてうまくいく・TPPに参加すれば、日本の繁栄間違いなし・消費税をあげれば財政再建は成し遂げられるなどなど。私たちは、「指導者が変な迷信を信じちゃいないか?」と厳しく監視しつづけることが必要です。でないと、また戦争になって、また敗戦ってことになりかねません。
2013/08/28
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転載記事****** 教育再生 第3部 「ゆとり教育」が奪う「生きる力」 (1) 学力崩壊が階級社会を招く「結果の平等」思想は、貧しい家庭の子どもたちの自己実現の機会を奪い、愚民として平等化することである。■1.Machine says so.■ 教育社会学専攻の藤田英典・東京大学教授が、ペンシルバニア大学の客員教授として、フィラデルフィアに滞在していた1983-4年頃の事である。ある日、インド人の同僚と昼食にハンバーガー・ショップに行った。ベーコン・チーズ・バーガーとスモール・サラダ・バーとコーヒーを注文すると、女の子がレジに注文を打ち込み、1ドル39セントだと言う。 教授はびっくりして、「ベーコン・チーズ・バーガーが1ドル59セントでしょ。それにスモール・サラダ・バーとコーヒーだよ。それで1ドル39セントなの? 税込みで3ドル9セントじゃないの?」と言うと、女の子は、レジをもう一度、打ち直し、再び「1ドル39セント」だと言う。もう一度繰り返して言っても、「機械がそう言っている。 Machine says so.」としか、答えない。 そうこうしている内に、教授の後ろには、5、6人の行列ができてしまった。店のマスターが出てきて、教授から事情を聞き、自分でレジに打ち込むと、やはり同じ答えが返ってくる。マスターはレジに鍵をかけて、女の子には他の機械を使うように言い、カウンターの隅で紙の上に計算を始めた。一の位から順々に計算していくので、もどかしい位に時間がかかったが、ようやく教授の暗算通り3ドル9セントという数字に達した。 一緒に店に入ったインド人の同僚は、もうハンバーガーを半分ほど食べ終えていた。彼は「インドでもこういう事はない。アメリカの学校は、3R's(読み、reading、書き、writing、算数、arithmetic、の基礎学力)の教育をいいかげんにしているからだ」と言った。[1,p60]■2.教育再建による『強いアメリカ』の復活■ このような光景が、何年かしたら、日本でも広まるかもしれない。アメリカで80年代に問題となった学力崩壊現象が、今や日本でも起きつつあるからだ。その後、アメリカではこの反省から学力重視の教育改革が進められているが、現代の日本では、その失敗を参考にすることもなく「ゆとり」教育が進められている。現代日本の学力崩壊を考える前に、まずアメリカでの前例を概観しておこう。 アメリカでは60年代以降、特に高校で「暴力学園」化が問題となり、押しつけ的で画一的な公立学校のあり方に原因があるとされた。70年代には「学校の人間化」がスローガンとされ、カリキュラムを選択制にして、自動車の整備や、各種ボランティア活動などを単位として認める高校が増えた。 その結果、冒頭のエピソードに見られたように青少年の基礎的学力の低下が顕著となり、1983年、レーガン政権のもとで、レポート「危機に立つ国家、Nationat Risk」が刊行された。その中では、次のような問題提起がなされている。・ 17歳人口の約13%は、機能的識字能力(社会的自立に必要な読み書き能力)に欠けており、その割合はマイノリティ(黒人その他の少数民族)では40%にも達している。・ 大学入試委員会の進学適性テスト(SAT)の平均得点は、1963年から1980年まで一貫して低下している。・ 全国の公立4年生大学における治療コース(十分な基礎学力のない学生に対する補習コース)の割合は、75年から80 年にかけて、72%増加している。 この時に見習うべきモデルとされたのが、日本の教育であった。当時、日本の中高生の学力は世界最高水準にあり、それに基づく高い技術力と労働者の質が、日本の経済的繁栄をもたらしていると見なされた。 報告書は「教育再建による『強いアメリカ』の復活」をスローガンとし、全米各州で高校の卒業水準が引き上げられた。さらに学校選択の幅が広げられ、学校間の競争が促進された。 教育再建による「強いアメリカの復活」は、レーガン政権以降も、ブッシュ政権の「教育サミット」、クリントン政権の「2000年の目標・アメリカ教育法」として、引き継がれている。■3.算数のできない大学生■ こうして見ると、現在の日本の学級崩壊や不登校の激増は、アメリカの「暴力学園」現象に相当し、「ゆとり」教育が、「教育の人間化」のスローガンと符合していることが分かる。そして「危機に立つ国家」が指摘したのと同様の広範な学力崩壊現象が、近年、日本で急速に進んでいる。 たとえば、早稲田・慶応など全国トップ・レベルの私大の文科系学生に次のような小中学校の問題を解かせた所、15%の学生が計算できなかった。[2] 3x[5+(4-1)x2]-5x(6-4/2)=? 中2で習う連立一次方程式では、正答率77%、中3の2次方程式に至っては、正答率8%という有様であった。[2,p14] 駿台教育研究所などが実施した実態調査では、物理の授業についていけない工学部生や、基本的な数式が分からない経済学部生など、学生の学力低下について学内で問題視している学校が約7割にものぼることが明らかにされた。3割の大学・短大で高校レベルの補習授業を実施している。[3] 学習指導要領では、昭和52年の改訂で教科内容を3割減らし、さらに小中学校では平成14年、高校では15年から始まる新教育課程では、学校完全週五日制および総合学習(生徒の自主的研究)の導入により、従来型の教科の学習時間はさらに3割削減される。合計で、教科内容は半減となる。 この新課程を受けた最初の生徒が大学生となる2006年には、大学の教育・研究水準が大ピンチにおちいると、大学関係者は痛く心配し「2006年問題」なる造語さえ生まれている。■4.学力も勉強時間も国際水準以下■ かつては世界一だった国際ランキングも急速に落ちている。小学4年生の国際学力比較では、数学が16位、理科は23位である。シンガポールが両方とも1位で、かつての日本の地位を奪っている。アメリカは数学10位、理科4位と、完全に日本を抜いた。[4] これも当然で、まず授業時間自体が少ない。中学1年の数学は、日本の99時間対して、アメリカは146時間。さらに、塾も含めた校外学習時間の平均は2.3時間で、世界平均の3時間にも及ばず、調査参加39カ国中、下から9番目であった。十数年前に、学力世界一だった頃は、勉強時間も世界一であった。授業時間も、勉強時間も減ったので、成績も落ちたという、ごく当然の結果となっている。[2,p60、5]■5.全員100点でないとおかしい■ このような「ゆとり教育」の中心的推進人物である文部省大臣官房政策課長・寺脇研氏の考えを、その発言から探ってみよう。寺脇氏は、大学関係者から問題視されている今回の学習指導要領改訂の狙いを次のように説明する。__________ 2002年からの学習指導要領では、分からないで出る子は一人もいないようにする。中学卒業時点で全員百点でないとおかしいんです。[6] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ また広島県の教育長時代には、高校の定員を希望者総数よりも多くして、次のように自慢している。__________ 高校で学習したいという権利を行使したい人は、たとえ入学試験の点数がゼロ点でも入れます。[6] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ すなわち、中学卒業時点では誰でもが100点をとれるように学習レベルを落とし、高校に入りたい生徒はゼロ点でも入れるようにする、というのである。ここには、中学生として、高校生として持つべき学力とは何か、という問いかけはどこにもない。全員満点卒業、希望者全員進学という「絶対平等」実現のために、学習課程のレベルを落とし、とめどなく「ゆとり」を増やすのみである。
2013/08/28
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↑からの記事の続き*********■6.あらゆる差別をなくす■__________ いじめをなくすには、ひと言で言うと世の中のあらゆる差別をなくしていくことが必要です。差別を根絶するなど簡単にできることではありませんが、限りなくそこに近づいていくことが教育のテーマだと思っています。[6] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄と氏は言う。これは徒競走の順位付けが差別を生み出すとして、足の速い子も遅い子も、全員手をつないで一緒にゴールインさせる日教組の平等教育とそっくりだ。氏の見方では、成績表も、入学試験も、そして学力差を生むような教科内容自体が、差別を生み出す源なのである。 実際に寺脇氏は職業教育課長だった平成4年、偏差値教育反対の立場から、中学の業者テスト追放の旗振り役を務め「ミスター偏差値」の異名を持つ。■7.アルバイターの子はアルバイター■ 「学力崩壊による国力低下」は、深刻な問題であるが、ここでは問わないことにする。米国での失敗と反省の歴史を事実に即して調べ、そして近年の日本の大学関係者の悲鳴を聞けば、現在の「ゆとり教育」が誤った方向を向いていることは、議論の余地がないからだ。 ここで問題にしたいのは、寺脇研氏流の平等主義である。冒頭のハンバーガーショップのアルバイターを例に考えよう。舞台を寺脇氏が教育長をしていた広島県に移してみる。この女の子が結婚して、子どもを生む。アルバイターの貧しい収入では、とても私立などにやれないので、この子は公立高校にいくしかない。 昔なら東大に何十人も送り込む公立高があったので、貧しくとも努力して勉強すれば、奨学金を受けて望む大学に行くことができた。しかし、現在では寺脇教育長時代の「ゆとり教育」政策などによって、広島の公立高校全体でも、東大進学2名、京大3名という状態である(平成11年度)。 この子がいかに秀才で努力家でも、裕福な家庭に生まれて小学校から塾に行き、私立の中高一貫教育を受けた子どもたちとの間には、超えようのないハンディキャップが存在する。 結局、富める家庭の子どもは、恵まれた私立校から一流大学に行って、ますます高収入の地位に進み、貧しい家庭の子どもは、学力もなく、アルバイターのような単純労働にしかつけずに、ますます貧しくなる。このような階級の固定化、不平等を我々はよしとすべきなのか?■8.アメリカのような階級差別社会を目指すのか?■ アメリカの教育改革は、学校間の競争を前提としているので、貧富の差が教育格差を生み、それがまた収入格差を拡大するという階級差別が、顕著になってきている。 アメリカの最上位1%の家庭は、平均90億円の資産を持ち、全国民の資産の40.1%を保有している。逆に下位20%の家庭の純資産は、平均マイナス80万円強(すなわち借金)、次の20%はたかだか104万円、合計しても、40%の人口で国民全体の0.5%の資産しか持っていない。 さらに悲惨なのは、83年から95年の間に、上位1%の家庭の資産は17.4%増加しているのに対し、次の4%はかろうじて0.5%の増加、残りの95%はすべて資産が減少していることだ。貧弱な学力しかない一般大衆は、アルバイターなどの単純労働にしかつけず、貧しいために学力もつけられない、という悪循環にはまっている。[7] 寺脇氏は、「ゆとり教育」では学力が低下して困る、という意見に対して、__________ そんな身勝手な言い分なんか、放っておきましょう。つめこみ式の勉強をしなければ合格できないような、高偏差値の大学を受けようという生徒など全体の一割にも満たないのです。そのごく一部の生徒のために、他の大多数の子どもを犠牲にしてかまわないと言ってはばからない大人なんて、身勝手としか言いようがありません。[6] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ と言うが、氏の平等思想は、アメリカのように1割の高学力・富裕階級が、9割の低学力・貧困階級を支配する階級差別社会をもたらすのである。 明治以降の日本の公教育のすぐれた点は、どんなに貧しい家庭に生まれても、本人の才覚と努力で、優れた、しかも学費の安い公立校に入ることによって、立身出世の道が開かれていたことだ。また一方では学歴はなくとも、仕事に励んで腕の良い職人にでもなれば、親方として尊敬され、それなりの収入を得られる道もあった。このような「機会の平等」こそが、わが国の社会的理想であり、また活力の源泉でもあった。 寺脇氏流の「結果の平等」思想は、貧しい家庭の子どもたちの自己実現の機会を奪い、愚民として平等化することである。それは国家の活力を奪うだけではなく、国民の平等という理想をもねじまげるものだ。我々は本当にそのような階級差別社会を望んでいるのであろか?
2013/08/28
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転載記事******* (9)学校の先生が国を救う(下)~ 志の継承 日教組に対して不屈の戦いを続ける校長の姿に、その志を継ぐ先生が現れた。■1.「教職員を信じられない」■ 入学式では、ようやく壇上での国旗掲揚はできたが、国歌斉唱はできなかった。教員が何を言おうと、校長が国歌斉唱を強行しようとすれば、できないことはない。しかし、それでは子ども達の教育につながらない。なぜなら、入学式や卒業式に至るまでに、子供たちに国旗・国歌の意義を指導をするのは教員の役割であり、彼らがその気になって指導しなければ何にもならないからである。 教員たちを説得しようと、今まで数十頁もの資料を作り、何十回となく議論の場を持ったが、この結果である。「この人たちと議論しても何の進展もない。彼らは何の反論もできないのに、反対している」 教職員を信じられない、という気持ちが湧いてきた。 国旗・国歌に反対する教員たちの論理は、幼稚なものだった。ある女性教員は「国旗・国歌は戦争に繋がる」と言って、抗議をしてきた。校長が「戦争をイヤだという気持ちは私も人一倍持っています。私の兄は海軍の予科練に入り、僅か17歳で戦死していますから」と言って、いつも肌身離さず持っている軍服姿の亡兄の写真を出して見せると、彼女は信じられないことを言った。「先生のお兄さんも侵略者だった」 卒業式の反省のためのアンケート調査のまとめでは、「『日の丸』が視野に入って、目障りだった」との表現があった。自国の国旗を「目障り」と思うこと自体が問題だが、百歩譲って、そう思うことは内心の自由としても、学校運営の公の文書にこんなことを書いて恥じない姿勢に、校長は「呆れ」を通り越して、怒りがこみあげてきた。■2.国旗掲揚の通知は「教育への不当介入」■ 8月13日、国旗・国歌法が制定され、同日、施行された。「日の丸・君が代を国旗・国歌として認めない」という日教組の論法に対して、今までは慣習法としていたのを、成文法として明確化したものである。 9月に入って新学期が始まると、一止校長は職員会議で国旗・国歌法が成立したことを説明し、「これまで通り学習指導要領の規定に基づいて入学式や卒業式などに国旗を掲揚し国歌を斉唱するよう指導する」と方針を説明した。 11月12日に、天皇皇后両陛下御在位10年の記念式典を行うことが閣議決定され、祝意を表すために、各校でも国旗掲揚するよう教育長名で通達があった。これに対して、組合教員たちは、早速、反対の動きを始めた。 職員会議では、教育長が国旗掲揚を通知してくるとは、「教育への不当介入ではないか」との反発の声が上がった。「教育の自由」は教師側にあり、国がそれについてとやかく言うことは「不当介入」だ、というのが、彼らの論法なのである。一止校長はこう反論した。__________ 法治国家である日本の政府が、与えられた当然の職務権限に基づいて閣議決定をし、天皇皇后両陛下御在位10年の記念式典を行う。このことがどうして教育への不当介入になるのか。子どもたちが揚げられた国旗を見て「どうして揚がっているのか」と尋ねたら、その理由をそのまま説明すればいい。国旗のことを子どもたちに教える良い機会だ。[1,p162] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 一止校長がこう論理的に説明しても、彼らのヒステリックな反発は変わらなかった。その後も、何度もこうした不毛の問答が繰り返された。■3.「これが公立学校の実際の姿なのです」■ 式典当日の11月13日、午前6時30分に一止校長は教頭とともに屋上の国旗掲揚台に国旗をとりつけ、教頭をその場に残して、校長室に戻った。 午前8時23分、組合教師たちが群れをなして国旗掲揚を阻止しようと、校長室に押しかけてきた。校長は、以前から明言した通り、「会いたくありません。話し合う必要はありません」と断り、校長室のドアを中から施錠した。ドアの外で分会長たちが大声で叫んだ。校長はそれには応えずに、携帯電話で教頭に国旗掲揚を指示した。8時半、屋上の掲揚台に日の丸が揚がった。 屋上に通ずる階段登り口付近に数名の組合教員が座り込んでいたので、教頭は9時過ぎまで屋上から降りてこられなかった。 午後2時頃、分会長が「抗議声明」を持ってきたが、校長が会わないので、教頭に手渡し、「日の丸は誰が揚げたのか」と抗議した。 午後5時15分、屋上に通じる階段登り口に組合教員たちが再び、座り込んで、国旗降納の邪魔をした。5時34分、分会長ら3名がやってきて、校長室のドアの外から「5時15分を過ぎている。日の丸を降ろさないのか」などと叫んだ。 この日のことを一止校長はこう語っている。__________ 祝賀の日に国旗を掲揚するというごく普通のことをするのに、これほどの大騒ぎをしなければならない学校の現実を、世間の人はどう思われるでしょうか、実に嘆かわしいことですが、これが公立学校の実際の姿なのです。[1,p167] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 騒ぎはこの日だけで納まらなかった。分会ニュースを洪水のように流して、校長への悪罵の限りを投げつけた。■4.ついに職員会議が変わり始めた■ 11月下旬、卒業式委員会が卒業式の実施案を職員会議に提案したが、相変わらず、国歌斉唱も国旗掲揚も入ってなかった。聞く耳を持たない組合教員たちに対して、一止校長は昨年と同様の事を一から説明しなければならなかった。 年が明けて、1月26日の職員会議で、一止校長は改めて、国歌斉唱と国旗掲揚を入れるように指示したが、組合教員たちは壊れたレコードのように昨年と同じ反対論を述べるだけだった。しかし、その中で友田という教諭が次のような意見をして、校長を驚かせた。__________ 反対する人は「障害児には必要ない」などと言うが、そのような理由で反対しているのではないでしょう。日の丸・君が代そのものに反対してるのではないか。これまで子どもたちに国旗・国歌を教えてこなかったことは問題だと思う。校長が実施したいとしていることを教員が「反対だ」といって実行しないことができるのか。そのことを議論すべきではないか。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ しかし、この友田教諭の意見は無視されて、議論はまた「反対だ」に戻ってしまった。議論が堂々巡りする中で、今度は吉井教諭が発言した。__________ 学校でいくら教えなくても、社会に出れば国旗・国歌がある。なのに学校で子どもたちに教えないのはおかしい。憲法の下における日の丸について、教えるのは当然だし、そのような環境であってほしい。日本人として恥ずかしい思いをしないで日の丸を掲げることができるような社会にしていかなければならない。私たちも努力をしていかなければならないと思う。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ この意見も、「君が代は国民主権の日本国憲法に反するものであり、障害者等の社会的弱者を大切にする考えとは相容れない」などという反論に、打ち消されてしまった。 それでも、これまでの職員会議で反対論しか出なかったことに比べれば、画期的なことだった。一止校長は、今まで百回近い議論をしてきた効果が僅かながら現れてきた、と思った。
2013/08/28
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上の記事の続き 転載記事*******■5.「今朝校長が言われたことを録音させて下さい」■ 3月3日、卒業式委員会委員会の二人の女性教員、島田教諭と松下教諭が、式次第に国歌斉唱の入っていないしおりを印刷していたことが分かった。 一止校長は二人を呼びつけて、勝手な内容で印刷したしおりを提出しなさい、と命じたが、彼らは聞かなかった。「それは学校の公費で購入した用紙に印刷したものであり、あなたの私物ではありません。すぐに持ってきてください」とまで言ったが、無言の抵抗を続ける。 そのうちに二人は「授業がありますから」と言って、校長室を出て行った。しかし、午後3時半頃、ラジカセを持って、校長室にやってきた。「今朝校長が言われたことを録音させて下さい」と言う。「何のための録音ですか」と聞くと、__________島田 職員会議の決定に基づいて行動しているので、私としては困るのです。教頭 自分たちのしていることがおかしいことに気がつきませんか。同じ学校の中の校長と職員との関係において、校長の言ったことを何故録音しなければならないのですか。島田 それでは、明日の職員会議で、今朝校長が言われたことと同じことを皆の前で言ってください。お願いします。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 島田教諭がこんな態度をとっている理由として、2つのケースが考えられる。一つは完全に日教組にマインド・コントロールされているケース。もう一つは「おかしい」と分かっていても、こう言わなければ、他の組合教員から今度は自分が突き上げられる、という恐怖心からのケース。いずれも共産国家、独裁国家で、特定のイデオロギーを国民に強制するための常套手段である。■6.小森教諭の意見■ この年度の卒業式では、一止校長が組合教員たちの抵抗を押し切って、国歌斉唱に漕ぎ着けたが、起立したのは校長や教頭、事務長らのみで、生徒と教員は全員起立しなかった。 次の年度も同じような押し問答が繰り返された。しかし、職員会議で日教組の国旗・国歌反対に異議を唱える教員が少しづつ増えていった。たとえば、その一人、小森教諭は次のような意見を述べた。__________ 学習指導要領で指導することが決められていることを、教育公務員である自分たちが「必要ない」などと言うことはできないのではないか。個人の考えと異なっていても、職務なのだから行うべきだ。(憲法が保障する思想・信条の自由を守るために君が代に反対するという意見に対し)憲法を守るということは、憲法全体を守るということだと思う。憲法第一条は象徴天皇について規定しており、「君が代」の「君」がたとえ天皇を指しているとしても、一向に構わないではないか。 日の丸・君が代を過去の戦争に結びつけるだけの論法はおかしいではないか。旗や歌が戦争をしたのではない。戦争の原因は他にある。経済問題が根底にあったし、外国の列強がしのぎを削っていた時代のことでもあった。50年以上も前の戦争に結びつけて、そこから少しも抜け出せないような議論はやはりおかしい。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 一止校長の毅然たる戦いに目を開かれ、日教組によるマインド・コントロールや恐怖支配から抜け出した教諭が現れてきたのである。■7.多くの校長が日教組との戦いに倒れていった■ 3年目の卒業式では、国歌斉唱の際、保護者のほとんどが起立した。こうした保護者の姿勢は、一止校長への大きなバックアップとなったはずだ。教員も20名ほどが起立して、斉唱に加わった。明らかに教員の間で、意識の変化が起きていた。 一止校長は、この後、他校への転任の辞令を受けた。転勤先の高校でも、同様の経験をまた初めから繰り返した。その2年後、一止校長は心臓と肺と胃、そして目の病に冒されて、定年を一年残して退職せざるをえなくなった。医師の説明では、ストレスが原因とのことだった。日教組との戦いに心身をすり減らしていたのである。 一止校長は「自分はまだ良い方だ」と言う。同期の女性校長は、定年を迎える最後の年、入学式前日の職員会議の最中に脳卒中で倒れ、再起不能に陥った。3歳若いある校長は、癌に倒れ、卒業式で式辞を述べた2日後に57歳の若さで世を去った。広島では3人の校長が自殺したが[b]、それは氷山の一角に過ぎず、このように多くの校長が日教組との戦いに倒れていったのである。■8.学校の先生が国を救う■ 一止校長が転勤してから数ヶ月後、小森教諭から手紙が届いた。職員会議で組合教員たちに自ら反論を始めた一人である。その手紙には、こう書かれていた。__________ 三年間いろいろご指導ありがとうございました。先生の終始一貫したご方針や圧力に屈しない毅然たる態度、明快で論理的な説明に、私は圧倒されました。日本教育界に流れる誤った風潮、一部の傲慢、欺瞞にも歯止めが掛かるように思いました。先生をよき手本にさせていただいて、真似ることから始めようと思っていますが、なかなかそこまでの信念がない自分です。しかし頑張りたいと思います。[1,p312] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 一止校長は病に倒れたが、その志は継承されたのである。 現在の我が国の混迷は、自分の利益よりも国家公共のために尽くそうとする気概と見識を持つ人材が不足している所から来ている、と考えられる。国旗・国歌に反対し、自分の自由と人権だけを要求していればよいとする戦後教育に毒された子ども達が育った結果である。一止校長の著書のタイトルである「学校の先生が国を滅ぼす」とはこの事だ。 しかし、同時に一止校長や小森教諭のように、誤った教育を正そうという志をもった先生も少なくない。「国家百年の計は人作りにあり」。そのような志を持って次世代国民を育てる先生方が国を救うのである。 我々も、保護者として地域住民として、国を救うために我が身を省みずに戦っている先生方を応援しなければならない。(文責:伊勢雅臣)
2013/08/28
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転載記事*************★世界を変えた日本全世界のRPE読者の皆さま、こんにちは!北野です。(●なぜ私は日本が好きなのか?詳細は【編集後記】で!)今日は、「終戦記念日」です。「自虐史観」に染まった人たちにとっては、「ああ、日本が侵略戦争をしたせいで、コテンパンにやられた。反省しなくては・・・・」という日。しかし、今回は、別の視点から歴史を見てみましょう。▼植民地にならなかった日本皆さんご存知のように、1853年、ペリーが来航しました。そして、幕府は1854年、アメリカの圧力に屈し、開国を決めます。私たちが知っておかねばいけないこと。当時、世界のほとんどの国々は、欧米列強の植民地だった。世界一広大な植民地をつくったのはイギリス。そんな国が、「日本は軍国主義で、アジア諸国を侵略して迷惑をかけた」などといっているのです。「自分はどうなんだ!?」ってことですね。なにはともあれ、幕末。日本も、イギリスかフランスの植民地になる可能性が高かった。しかし、なりませんでした。アジアで植民地にならなかったのは、日本とタイだけだそうです。では、なぜ日本は独立を守れたのでしょうか?まず、外的、客観的要因がありました。日本を強制的に開国させたのはアメリカですが、同国では1861年、国を二分する「南北戦争」が起こりました。日本にかまっている余裕がない。ロシアは1854~56年、フランス・イギリス・オスマン帝国とのクリミア戦争で敗北。さらに、ポーランドの反乱や、農奴解放問題で悩まされていた。日本にかまっている暇はない。ドイツ・イタリアは、当時分裂しており、統一運動が熱心に展開されていた。フランス皇帝ナポレオン3世は、ドイツの統一を目指すプロシアと対立を深めていました。イギリスは、清における太平天国の乱、インドのセポイの反乱で忙殺されていた。要するに、欧米列強はことごとく事情があって、日本の植民地化を進められる状況になかったのです。国内の要因もありました。それは、日本人の質が高かったこと。(日本は当時、識字率が世界一高い、教育超大国だった。)例えば、以下の文をみてください。 <修行中心得大意一、片時も忠孝を忘れず、修行第一の事。一、諸道具に心移り銀銭を費やさざる事。一、色情にうつり、国家の大事を忘れ心得違ひあるまじき事。 右三ヶ條胸中に染め修行をつみ目出度帰国専一に候。以上 丑ノ三月吉日 老父> これは、19歳の坂本龍馬が、江戸に剣術修行に出る際、父直足がしたためた訓戒書です。 「片時も忠孝を忘れず…」の、「忠」は国家や主君、「孝」は親に尽くすことをいいます。「常に忠孝を忘れず、修行に励みなさい」といっている。「色情にうつり、国家の大事を忘れ心得違ひあるまじき…」。「女にうつつを抜かして、国家のことを忘れるな」と戒めています。どうでしょう。現代の親で、田舎から東京に出る子どもに、「国家の大事を忘れるな」と訓戒する人がいるでしょうか?せいぜい「しっかり勉学に励め! そうすれば、いい会社に入れるぞ」くらいでしょう。直足の「修行中心得」を読んで、「これだから龍馬は偉人になれた」と思うでしょう。しかし、龍馬は江戸から遠く離れた田舎の侍です。彼の生まれ育った土佐藩には上士と下士の区別があり、下士は激しい差別を受けていた。龍馬は下士の出身。こんなド田舎の下級武士ですら、さらりと「国家の大事を忘れるな」と訓戒する。龍馬家に限らず、それほど「忠孝の情」「武士道」は一般的だったと考えるのが自然ではないでしょうか?こういう心意気が、「尊王攘夷運動」「倒幕運動」、ひいては「維新の原動力」となったといっても過言ではないでしょう。もう一人例を。これも江戸から遠く離れた長州生まれの吉田松陰。松陰は1854年、弟子の金子重之助と共に、黒船に密航を試みました。そして、「アメリカに連れていって欲しい」と懇願したのです。もちろん拒否されましたが。この事件について「ペリー日本遠征記」の著者フランシス・L・ホークスは、こう記しています。<この事件は、厳しい国法を犯し、知識をふやすために生命まで賭そうとした二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すものとして、興味深いことであった。日本人は確かに探究好きな国民で、道徳的・知的能力を増大させる機会は、これを進んで迎えたものである。この不幸な二人の行動は、同国人に特有のものだと信じられる。また、日本人の激しい好奇心をこれほどよく示すものは他にはあり得ない。>(国際派日本人養成講座 H10.05.23http://www.mag2.com/m/0000000699.html )密航に失敗した松陰は、故郷の長州で松下村塾を開きます。こんな田舎の塾から、明治維新の英雄たちが続出することになりました。例をあげれば、木戸孝允(参議・内務卿・文部卿)、高杉晋作(奇兵隊総督)、山縣有朋(元帥・陸軍大将・日露戦争時の参謀総長)、伊藤博文(首相)、品川弥二郎(内務大臣)、野村和作(内務大臣)等々。松陰は1859年、井伊直弼による安政の大獄で死刑にされています。享年わずか30歳。新生日本を見ることはできませんでした。彼は死の間際、辞世の歌をよんでいます。身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂死に臨んで、なおも祖国を守ろうとする「気概」に満ちた歌です。松陰の生命は尽きました。しかし、その壮絶な生涯と辞世の歌は志士たちの魂をつきうごかし、維新の原動力になったのです。▼日ロ戦争の勝利と歴史の転換点植民地化を逃れた日本は、すごい勢いで近代化を成し遂げていきます。そして、他国との軋轢も出てきました。1894年には日清戦争が起こり、日本は勝利。アジアの超大国・清を打ち負かした日本は、世界に知られることになりました。1904年2月、日露戦争勃発。世界的軍事大国ロシアとの戦いにむかう私たちのご先祖様たちは、何を思ったのでしょうか?ロシアの皇帝・政治家をはじめ、日本が勝利すると考える人は、ほとんどいなかったのです。しかし、日本軍は203高地の戦い・奉天大会戦・バルチック艦隊を撃破した日本海戦等、歴史に残る激戦を勝ち抜き、この戦争に勝利します。1905年10月、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋により、ポーツマス条約締結。日本は、遼東半島の租借権、南満州鉄道を譲り受け、樺太半島の南半分を獲得します。有色人種ではじめて白人の大国に勝った日本。日本の勝利で人類は「自由」「平等」に大きく前進しました。日ロ戦争における日本の勝利は、世界でどのように受け取られたのでしょうか?私が毎回楽しみにし、「全日本国民に読ませたい」と常々願っているメルマガ「国際派日本人養成講座」(JOG)(http://www.mag2.com/m/0000000699.html )平成9年10月18日号から転載させていただきます。(太文字筆者)【転載ここから】 日露戦争の真実は、ロシアの南下をくい止めて、当時の帝国主義時代に、日本が国家の安全と独立を保った、という点にあるが、そればかりではない。当時の国際社会で、この日露戦争がどのように受け止められたか、を以下に見てみよう。・中国の国父孫文どうしてもアジアは、ヨーロッパに抵抗できず、ヨーロッパの圧迫からぬけだすことができず、永久にヨーロッパの奴隷にならなければならないと考えたのです。(中略)ところが、日本人がロシア人に勝ったのです。ヨーロッパに対してアジア民族が勝利したのは最近数百年の間にこれがはじめてでした。この戦争の影響がすぐ全アジアにつたわりますとアジアの全民族は、大きな驚きと喜びを感じ、とても大きな希望を抱いたのであります。[4]・インド・初代首相ジャワハルラル・ネルー日本の戦捷(せんしょう)は私の熱狂を沸き立たせ、新しいニュースを見るため毎日、新聞を待ち焦がれた。(中略)五月の末に近い頃、私たちはロンドンに着いた。途中、ドーヴァーからの汽車の中で対馬沖で日本の大勝利の記事を読み耽りながら、私はとても上機嫌であった。[5]・フィンランド大統領パーシキピ 私の学生時代、日本がロシアの艦隊を攻撃したという最初のニュースが到着した時、友人が私の部屋に飛ぴ込んできた。彼はすばらしいニュースを持ってきたのだ。彼は身ぶり手ぶりをもってロシア艦隊がどのように攻撃されたかを熱狂的に話して聞かせた。フィンランド国民は満足し、また胸をときめかして、戦のなりゆきを追い、そして多くのことを期待した。[6]・トルコ昭和四十四年に、山口康助氏(現・帝京大学教授)がトルコの古都ブルサに泊った時、ある古老が片言の日本語を混えて、「ジャポン! ニチロ、アラガート(日本の人たちよ! 日露戦争に勝ってくれて有難う)」と、呼びかけてきました。続いて古老は、日本が日露戦争に勝った時、トルコ人は狂喜して、息子や孫に「トーゴー」「ノギ」の名前をつけ、イスタンブールの街には、「東郷通り」「乃木通り」ができた事など、語ったそうであります。[7]・ポーランド大戦後、私(加瀬俊一氏)がヨーロッパの大使をしていた時に、東ヨーロッパの状態を見たいと思い、ポーランドを自動車で視察したことがあります。(中略)それで、道を尋ねるためにある教会に立ち寄ったんです。年輩の上品な神父が出て来てね、日本人だと言うと、「ああ、いらっしゃい。日本の車があちこち走っているって聞いてました」、そういって喜んでお茶を出してくれたんです。そうしたら傍らに、小さい男の子が来てね。それで私は、「君の名前はなんていうの」って聞くと、「ノギ」って言うの。「えっ。ノギ?」。すると神父さんが言うんです。「ノギというのは乃木大将のノギですよ。ノギとかトーゴーとかこの辺はたくさんいましてね。ノギ集まれ、トーゴー集まれっていったらこの教会からはみだしますよ。」「トーゴー」はもちろん東郷平八郎に因んでのことです。ポーランドはロシアの悪政に反抗して、独立闘争に多くの血を流した歴史をもっているんです。そのロシアを打ち倒した英雄に因んで名前をつけるわけです。なるほどと思いました。[8]・アメリカの黒人日露戦争当時、黒人新聞各紙は、西洋帝国主義の重圧に苦しむ日本人を「アジアの黒人」と呼び、白人に挑む東郷艦隊を声援したり、一部の黒人社会では驚くことに、日本ブームが起きて、日本の茶器や着物も流行。さらには、黒人野球チームの中から、「ジャップ」(当時、この言葉は日系人に対する侮蔑語ではなかった)を自称するチームも出ていたという。[9]日露戦争は非白人が本格的な近代戦で白人をうち負かし、世界中の抑圧されていた人々の希望に火を灯した。20世紀は、世界の諸民族が自由と独立を勝ち取った世紀として、世界史に記述される。日露戦争での日本の勝利は、まさにその夜明けを告げる鶏鳴であったのである。【引用ここまで】↓ 下の日記に続く
2013/08/28
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↑ ↑ の日記からの続き (転載記事)******▼そして、世界から植民地は消えた1929年10月24日、ニューヨーク市場で株価が大暴落したのをきっかけに、世界恐慌へ突入。これに対し、広大な植民地をもつイギリス、フランスはブロック経済体制をつくります。アメリカは、ニューディール政策で危機を乗り越えようとしました。一方、植民地をあまり持たない日本、ドイツ、イタリアなどは、世界市場からしめだされ、より深刻な危機に陥っていきます。苦境の中で、ドイツではヒトラーが、イタリアではムッソリーニが権力を握り、ファシズム体制を構築していきます。一方、日本は米英仏を見習い「円ブロック」を形成すべく、中国大陸への進出を加速させていきました。1932年3月、満州国建国。中国はこれに反発し、国際連盟に提訴。国連は日本の行動を「侵略」とし満州国を承認しなかったため、日本は連盟を脱退。国際社会から孤立する中で、日本は似た立場のドイツやイタリアに接近していきます。こうして日中関係は悪化しつづけ、1937年7月、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争がはじまりました。日本の行動は、中国利権を狙うアメリカを怒らせます。1939年、アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告。クズ鉄・航空機燃料の対日輸出を制限し、日本経済に打撃を与えました。また、アメリカ・イギリスは、日本と戦う蒋介石の中国国民党に物資を送り支援していました。日本は1940年9月、このルートを遮断すべく、フランス領インドシナに進駐。また同月、日独伊三国軍事同盟を締結します。これによって、アメリカは日本を完全に敵国と見なすようになり、イギリス・中国・オランダと共に、資産凍結、対日石油禁輸などの経済封鎖で日本を追い詰めます。(いわゆるABCD包囲網)日本はアメリカと、全面戦争回避のための日米交渉をつづけていきました。しかし、同年11月26日、アメリカ国務長官コーデル・ハルから、「中国大陸からの完全撤退」を要求する「ハル・ノート」が渡されると、日本はこれを「最後通牒」と受け取りました。12月8日、日本は真珠湾を攻撃。太平洋戦争がはじまります。日本は、アメリカ・イギリス・ソ連・中国の大国連合と4年の月日を戦いぬき、1945年8月15日に降伏しました。この一連の流れについて、日本ではさまざまな解釈がなされています。私はここで、二つの点に言及しておきましょう。まず、第二次世界大戦は、「善の民主主義国家」(アメリカ・イギリス・ソ連等)対「悪の全体主義国家」(日本・ドイツ・イタリア等)の戦いだったというのが一般的見方です。これは大ウソ。まず、民主主義国家群に、なんでスターリンの全体主義国家ソ連が入ってるのですか?さらに、インディアンを虐殺し、黒人を奴隷にしてこき使い、日本に原爆を落として20万人を大虐殺したアメリカに、「悪の日本」なんていわれる筋合いはありません。イギリスだって同じこと。世界一広大な植民地をもっていたこの国に、日本の植民地支配を非難する道徳的根拠などないのです。もう一つ、「自由・平等」という観点で見てみましょう。絶対勝てない戦争に突入した無謀な国・日本は、世界が「より自由に」「より平等に」なるために、何か貢献したのでしょうか?強調しておかなければならないのは、アジアは第二次世界大戦勃発時、ほとんどイギリス・オランダ・フランス・アメリカの植民地だったということです。日本が参戦しなければ、アジアのほとんどの地域は、いまだに欧米の植民地だったかもしれません。しかし、太平洋戦争の序盤戦、日本は破竹の勢いで欧米のアジア植民地を攻撃していった。非白人国が、白人の宗主国を打倒している。これを目撃したアジアの人々は、白人への劣等感を克服し、後に独立を達成する大きな力になった。こんな風に、台湾の李登輝元総統、マレーシアのマハティール元首相、インドネシアのスカルノ元大統領などが語っています。 「日本が欧米の植民地支配を終わらせる原動力になった」とアジアの指導者たちは認識しているのです。私たちはこれまで、アメリカGHQの洗脳と、中国・韓国の反発により、「日本がすべて悪い」と思いこんできました。しかし、別の見方があることも知っておく必要があります。経営学者ドラッカーは、その著書「新しい現実」の中で、第二次大戦とその後の世界について、「自虐史観」に染まった私たちが驚愕するような事を書いています。<しかし、結局のところ最後に勝ったのは日本だった。日本が採った道、つまり自らの主権の下に近代化、すなわち西洋化を図るという道が、結局西洋を打ち負かした。日本は西洋を取り込むことによって、西洋の支配を免れた。軍事的には日本は第二次大戦において歴史上最も決定的な敗北を喫した。自ら植民地大国たらんとする政治的な野望は達せられなかった。しかし、その後の推移では、政治的に敗北したのは西洋だった。日本は西洋をアジアから追い出し、西洋の植民地勢力の権威を失墜することに成功した。その結果、西洋はアジア、次いでアフリカの西洋化された非西洋世界に対する支配権を放棄せざるをえなくなった。第二次大戦後、世界中の非西洋諸国が一八六八年の明治維新において日本がつくりあげたモデルを範として再出発した。いずれも自らの支配の下に西洋化を進めた。まさに、これこそ反植民地主義が意味したものだった。>(41~42P)どうですか?偉大な経営学者ドラッカーが、「世界から植民地が消えたのは日本のおかげだ」と断言しているのです。▼今、私たちは「歴史」を創っているどうですか?歴史には、いろいろな事実があります。しかし、同じ事実を、「日本が全部悪い」とみることもできるし、「日本は人類がよくなるのに貢献してきた」とみることもできます。私がご紹介したのは、「日本は、白人の世界支配を終わらせ、人類の自由と平等に大きな貢献をした」という見方です。そして、今に生きる私たちが自覚しなければならないこと。それは、「歴史は今もつづいている」ということ。「私たち自身が歴史を創っている」ということ。日本では今、「歴史見直し」がブームになっています。私が今回書いた内容も、いってみれば「歴史の見直し」でしょう。もちろん、歴史を見直して、ご先祖様を解放することは大切です。しかし、さらに大事なのは、「よりよい未来」を作ること。日本のために命を捨ててくださったご先祖様たちが、「がんばってるな!日本はいい国、世界で尊敬される国になっているな。俺が命を捨てたかいがあったぞ!」と誇りに思ってもらえる、国を創ることです。終戦記念日の今日。私たちは、日本を守るために戦ってくださったご先祖様に心から感謝します。そして誓います。私たちも、日本を守ることを。そして、よりよい世界を創ることを。
2013/08/28
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