老師の言葉 0
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ベー・チェチョルさんのリサイタルに行ってきた。時間の都合で半分しか聞けなかったが、心に染みる歌声を聞くことができた。彼は、世界的に評価されて、まさにこれからというときに、甲状腺がんになってしまう。手術を受けた。声帯はを動かす神経も切断してしまったので、ほとんど声が出なくなってしまう。もう、歌手としての復活はあきらめざるを得ない状態だった。しかし、このときに日本の人たちが彼を支えた。京都大学の声帯手術の権威に出会い、手術を受けた。声帯というのは、二本の筋肉が向き合っていて、それが開いたり閉じたりすることで音を出すのだそうだ。上下にも動いて、高低などのコントロールがなされている。左右、上下、それぞれ別々の神経が働いているのだが、甲状腺も手術のときに、両方とも切断した。さらに、横隔膜を動かす神経も切らざるを得なかったので、肺の機能にも支障が出た。声帯を復活する手術では、右の声帯を固定して、左だけを動くようにした。横隔膜は手がつけられない。そんな状態で、ベーさんは厳しいトレーニングに耐えて、声を取り戻したのだ。自分のがんばりばかりではなく、奥さんをはじめ、まわりの人たちの協力もあった。彼は復活した。全盛期の声は出なくなったが、苦しんだ分だけ、彼の歌には深い味わいが生まれた。苦しみやかなしみや悩みは、それをどうとらえるかで、魂を育てていく大事な肥やしになるのだ。若いアジア人の男性が甲状腺がんになる確率は、限りなくゼロに近いそうだ。胃がんでも大腸がんでもなく甲状腺がんにあの時期になったのは、意味があるはずだと、彼は思えるようになったと言う。ありえないことが起こるには大きな意味がある。受け止めて、その上で、どうすればいいか考えれば、必ず道は開けてきて、意味がわかるようになるのだ。人は、かなしみの上に立って生きている。それを自覚することができた瞬間に、喜びの人生が始まるのかもしれない。
2011年04月17日
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明日は、ベー・チェチョルさんのリサイタルに行く。家にこもって原稿を書く日が続いた。震災のこと、原発のことを考えると、気が重くなってしまって、熱が出たりもした。心も体も、ずいぶんとひ弱だなと実感した。そんなときに、一通のメールが来た。以前に取材したベー・チェチョルさんのリサイタルに招待してくださると言うメールだった。まだ、原稿もあるし、どうしようかなと思ったけれども、こういう盛り上がらない気持ちをいつまでも引きずっているわけにはいかない。どこかで断ち切らないと。ベーさんは、天才テノール歌手と言われた。しかし、甲状腺がんになって、声が出なくなってしまう。がんの手術を受け、声を取り戻す手術も受けた。しかし、もとの声は戻らない。生きている意味を失ってしまった。しかし、彼は復活した。以前ほどの声は出ないけれども以前にはなかった深い味わいが、彼の歌に生まれたのだ。病気以前の自分には戻らなかったけれども、彼は、天才的な声で歌う以上に、聴く人を感動させることができるようになった。日本の復興とダブってくる。日本は、これから大変な日々を送ることになるけれども、これまでのように、お金はあるけどね・・・という評価ではなく、世界を感動させる姿を見せなければならないのだ。突然届いた招待状は、ぼくは、神様からのメッセージとして受け止めたいと思う。ありがたいことだ。震災で、ぼくの心もグラグラ揺れたけれども、やっと、新しい自分が機能しそうな雰囲気だ。
2011年04月15日
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1954年3月1日のことだ。大石又七さんは、マグロ漁船に乗っていた。船の名前は、「第五福竜丸」。場所は、マーシャル諸島のビキニ海域。そこで、大石さんたち乗組員は、アメリカの水爆実験に巻き込まれてしまうのだ。急に空が明るくなり、その後の地球が割れると思われるような地鳴り。しばらくして、空から白いものが降ってきた。放射能を含んだサンゴの粉だった。「第五福竜丸」は、焼津に帰りついた。しかし、大量の放射能に被ばくしていた。体調も悪くなっている。乗組員は入院させられた。アメリカは水爆実験を内密にやる予定だった。しかし、福竜丸の被ばくによって、公に知られることになった。日本では、核実験反対運動が起こった。この反対運動を沈めるために、アメリカと日本の政府が弄した策が、原子力の平和利用だったのだと言う。東京へ逃げるように出てきた大石さん。苦労したようだ。死産があったり、娘さんの縁談が壊れたり。自らもがんの手術を受けている。でも、彼はたくましく生きてきた。自分が福竜丸の乗組員だったことを公にし、反核運動を始めたのだ。自分の運命に、正面から向き合ったことから、人生はダイナミックになっていく。放射能は怖いけれども、逃げてばかりもいられない。しっかりと向き合ってこそ、この環境の中でどうやって生きて行くか、道は見えてくるのではないだろうか。こういう体験をした者として、伝えることはいっぱいあるだろう。それを役割と考え、現実を、しっかりと見据えたい。
2011年04月02日
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今日は、朝から、長女と三女を帯津先生のところへ連れて行った。長女の足の裏のほくろが気になっているので、その相談に行ったのと、あと2人とも花粉症がひどいので、ホメオパシーを処方してもらおうと思った。10時に予約を入れてもらっていたが、診てもらったのは12時前だった。いつも、外来のときは昼御飯が2時とか3時らしい。ぼくは、先生のところへよくお邪魔するが、それは、診療が終わった後、食堂で食事とビールをいただくわけで、診察を見るのは、ほとんどないこと。たくさんの患者さんがいる上、ていねいに診察されるので、時間がかかるのは当然だと思った。まず、問診から始まって、脈をとり、舌を診て、首のところを押さえ、胸と背中に聴診器を当てる。そして、ベッドでお腹の具合を触ってチェック。今は、検査の数字だけを見て診察する医師が多いと聞くが、先生は、昔ながらのやり方で診察しておられる。診察室が、温かく感じる。先生に会うだけで元気になりますという人が多いが、よくわかるよ。今日、診察が終わったら、ホメオパシーの処方という仕事が残っている。数がたくさんあって、大変だと思う。ぼくも、この週末は仕事が立て込んでいて、ちょっとくらくらしているが、先生を見ていると、「忙しい」というのが申し訳なくなってくる。
2011年04月01日
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ぼく自身の55年を振り返ってみると、もっとも大きな出来事は、1988年に中国を旅したときだろう。別に目的もなく、ふらっと出かけた中国。上海に魅せられ、そこでいろいろな人との出会いがあり、中国東北地方を旅し、内モンゴルから敦煌やウイグル自治区を回ってきた。そして、帰る1ヶ月ほど前に、上海で人生を変える出あいがあったのだ。真氣光の創設者だった中川雅仁先生と、ホリスティック医学の帯津良一先生だ。この2人と、同じ日に同じ場所で出あっているというのは、なんともドラマチックだ。中川先生は、氣の世界の革命児だった。氣を発する(中継する)ハイゲンキという機械を発明し、だれでも一週間で氣が出せる講座を始めるなど、画期的な発想で、氣を広めてきた。今、氣やヒーリングという世界で活躍している人の中には、中川先生の講座に出た人がけっこういるはずだ。その中川先生がよく言っていた。「有り難うとうのは、難が有ると書く。難があって有り難うなのさ」難があったら、嫌だと思わず、有り難いと思うこと。さんざん言われた。なかなかそんな心境にはなれなかったが、いつも言われていたので、けっこう、心にしみ込んでいるようで、難事があったときのストレスは、意外に少なかったりする。今回は、とてつもない大難だが、だからこそ、有り難さも半端ではないはずだ。それは、今はわからないけれども、何年先か、何十年先か、かならずわかるのだろう。
2011年03月30日
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こういう災害のとき、医師たちが大活躍してくれている。医師不足が言われ、ただでさえもハードな日々なのに、それに輪をかけて忙しい。ただ、医師の方々も、悩んでいると思う。一生懸命にやっても、苦しみを取ってあげられなかったり、亡くなっていく人もいるわけだから。去年、小澤竹俊医師を取材した。彼は、在宅緩和ケアを専門としている。在宅の末期がん患者さんをケアする仕事だ。24時間、365日、休みなく働く。それでいて、患者さんが末期がんだから、結局は看取ることになる。これまで、治すことが医療の役割だと考えられてきたが、そう考えると、彼の仕事は、達成感を得ることができない。小澤医師も、ずっと無力感を感じてきたと言う。そんな中で、彼が気づいたこと。「無力でいい。無力だったら、無力だからこそできることをやろう。《救う》という意識ではなく、少しでも患者さんの《支え》になりたい。患者さんと本気で向き合い、話を聴き、その人の支えを一緒になって育んでいきたい」さらに、支える人こそ、支えを求めているとも言う。今、震災で、被災者に何もしてあげられないと無力感を感じている人が多い。しかし、被災者を支える、あるいは、支える人を支えるという役割もあるのだ。気持ちを向けるだけでもいいと思う。「末期患者には、激励は酷で、善意は悲しい、説法も言葉もいらない。きれいな青空のような瞳をした、すきとおった風のような人が、側にいるだけでいい」(『納棺夫日記』青木新門著より)
2011年03月28日
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FM西東京の録音。今日のゲストは、西東京の鈴木さん。鈴木さんは、17年前に6歳(当時)の娘さんを火事で亡くしている。そのショックも少しずつ和らいてきたころに、うつ病を発症。病院に2ヶ月入院するほどの重度のうつ病で、自ら命を断つところまで追い込まれたこともある。その鈴木さんとぼくとの縁は、「イルカみたいに生きてみよう」という本。病院に置いてあって、何気なく読んだら、少しだけ元気が出てきたと言う。そのあと、気功に励んだりしながら、彼は回復していく。いろいろな人との出会いが、彼を元気づけていった。ぼくがやった文章教室にも顔を出せるようになった。タイマッサージを習い、講師をやるまでになった。そして、今は六本木の高級ホテルで働いている。人と会うのが怖くて外へ出られなかった鈴木さんが、今は、生き生きと接客業に励んでいるのだ。その鈴木さんが、すてきなメッセージを発信してくれた。放送は4月13日12時20分から。FM西東京、おとなの喫茶店。
2011年03月24日
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木村さんのUFO体験。無農薬でのリンゴ栽培にめどがつかないころ、木村さんは、畑の中を走り回る不思議な2つの光に遭遇する。バイクが走るようなスピードで、リンゴの木の間を右に左に、軽やかに移動していたと言うのだ。人間業ではなかった。それからしばらくして、バイクに乗って帰ろうとすると、目の前に、人間とは思えない何者かが立っていた。2人だった。怖くて逃げようとしたが、彼らからは「何もしないから」といった波動が伝わってきた。彼らは、何もせず、すっと姿を消した。さらにその後、木村さんが2Fで寝ていると、サッシの窓が静かに開いた。鍵がかけてあったはずだ。窓の向こうに、2人の人影が見えた。宙に浮いている。「何だろう」と思った瞬間、その人影は、木村さんの横へ来て、木村さんを両側から持ち上げた。木村さんは逃げようともがいたが、彼らの力は半端ではなく、まったく動けなかった。そのまま記憶をなくした木村さんが気づいたのは、狭い部屋の中にあるベンチの上だった。木村さんを含めて、3人が座っていた。実は、ここはUFOの中だったのだ。木村さんは、運転席へ連れて行かれ、元素のことや不思議な金属のことを聞かされる。そして、重くて丸い玉をもらって帰されたのだ。夢だったのか、現実だったのか。ぼくは、「木村さんのリンゴ 奇跡のひみつ」という本に、これから、木村さんの体験が大きな意味がある時代になってくるのではと書いた。もちろん、こんな大災害を想定したものではない。しかし、そろそろ人類も、地球がすべてだという考え方から脱却し、宇宙の中の一部であるという広い視野が必要だろうと思ったからだ。宇宙には、たくさんの生命があり、地球も含めて、つながりをもって生きているはずだ。宇宙の人々も、今回の災害には注目しているに違いない。彼らが、このピンチに手助けをしてくれるのかどうかわからないし、ぼくたちが知らないうちに、手助けをしてくれているのかもしれない。地震があった数日後、三陸で5メートルの引き潮があった。専門家でも理由がわからない現象だった。そんな引き潮があれば、とんでもなく大きな津波がくるはずだったが、何も起こらなかった。海底では何かが起こっていたに違いない。ひょっとしたら・・・と、ぼくは思った。そんな可能性はあるかもしれないが、今は、地球人が力を合わせて乗り切らないと意味がないのだと思う。それを、宇宙の仲間たちは、見えないところでサポートするということかもしれない。でも、それに頼ってしまってはいけないわけで、もっともっと地球人が一体にならないといけないのだ。木村さんが、リンゴがならずに耐えたのが、約10年だった。ぼくたちも、長期戦で復興にのぞむことを覚悟しなければならないだろう。そして、その長期戦の中で、自分は何ができるのか、被災を免れた人は、今、それを考えていく必要があるのかもしれない。 木村さんは、 自分一人で責任を背負い、 理解してくれたのは家族だけだったが、 ぼくたちには、たくさんの仲間がいる。これは大きな宝物だと思う。
2011年03月22日
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青森県の岩木山のふもとに「森のイスキア」という癒しの家がある。佐藤初女さんという方が主催している。もう90歳になるが、元気に日本全国、ときには外国まで行って講演をしている。彼女は、訪ねてきた方を料理でもてなす。彼女の握ってくれたおむすびを食べて元気になった人は数知れず。自殺を思いとどまった人もたくさんいる。彼女の料理への心の込め方はすごいものがある。食材のいのちをいかに生かすか、彼女はそこに神経を集中させるのだ。「おむすびを作るとき、どういうことを考えておられますか?」と聞くと、こんな答えが返ってくる。「お米の一粒一粒が呼吸できるように握ることを考えています」おむすびひとつ握るのに、ここまで考えている人がはたしているだろうかと感動し、この言葉だけで癒されてしまう。縁のあった人、一人ひとりに対しても、お米と同じように、心を配ってくれるのである。初女さんは、幼いころは病弱だった。肺を病んで、くしゃみをしただけで血が口から飛び散るほどの重症だったようだ。こんなに長生きされるとは、家族も本人も思っていなかっただろう。学校も休みがち。医者へ行き、薬を飲んでいたが、彼女はあるとき思ったのだと言う。「薬では治らない」彼女はぴたっと薬をやめた。そして、旬の新鮮なものをおいしく食べるようと思ったと言う。そこから、彼女のいのちの旅は始まったのだ。このとき、どんな気持ちだったか聞いてみると、彼女はこう言う。「我が身試さん」まだ小学生だったのではないだろうか。それでこれだけの覚悟をしたのだ。理屈では割り切れない力が、ぼくたちが生きる上には働いていると思う。運なのかもしれないし、神様や守護霊なのかもしれないし、ご先祖様かもしれないし、よくわからないけど、何かがある。「我が身試さん」というのは、そういう力に自分の身をゆだねるということだろう。そういう覚悟があってから、初女さんは、ひとつの方向に導かれていくのだ。そして、今、人助けのために、そのときにもらったいのちを使っている。今、多くの人が、我が身を試す時期を迎えているのかもしれない。ぼくも、何があってもあわてることなく、我が身を試せるようになりたいと思う。
2011年03月18日
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《「お辛いでしょうがこのまま終わらないで下さい・・・苦しんだ分幸せになって下さい、亡くされた奥さんも、旦那さんも、家族も、皆さんそう望んでおられます」被災者の方に伝えたいことです》先日取材をさせていただいた高山良二さんからメールをいただいた。(月刊PHP5月10日発売号ヒューマンドキュメント掲載予定)高山さんは、10年近く、カンボジアで地雷処理の仕事をしておられる。カンボジアとタイの国境沿いのタサエンという小さな村。この周辺は、1980年代の内戦のときにたくさんの地雷が埋められた。不発弾もたくさん転がっている。地雷を踏んで大けがをする人、亡くなる人はたくさんいる。高山さんは、高校を出るとすぐに自衛隊に入隊した。そして、土木工事や地雷に関する仕事をする部署に配属された。それが、彼の運命を決めた。1992年、PKO活動でカンボジアへ行った。道路を作ったりするのが日本の自衛隊の仕事だった。1年ほどの活動のあと帰国することになるが、「やり残したことがある」という思いをもって、高山さんは帰る。そして、退官したらカンボジアへ行くと、心に決めたのだ。それから10年、退官するや、高山さんはカンボジアへ飛ぶ。55歳の誕生日を迎えてすぐのことだ。カンボジアで、自分の専門である地雷処理の技術を生かしたいと強く思ったのと言う。「カンボジアでは、少年が不発弾で爆死するのを目撃しました。大変なショックでした。また、小さい子どもを連れた若いお母さんのとても素敵な笑顔に感動して、『どうしてそんなににこにこしているのですか?』って聞いたら、戦争がないからという答えが返ってきました。たぶん、彼女は小さいころ、内戦で逃げ惑っていたのだと思います」そんな体験もあって、平和がいかに大切か、高山さんは痛感したのだ。何か役に立ちたかった。しかし、カンボジアへ行ったはいいけれども、挫折ばかりの10年だった。最初の挫折は、自分がやるべきことと決めていた地雷処理の許可がおりなかったため、専門ではない不発弾処理をやるしかなかったことだ。慣れない生活、思うようにならない仕事・・・。高山さんは精神的に不安定になってしまった。急に不安が襲ってくる。そんな状態で、2年以上、カンボジアに滞在し、活動を続けた。どうにもならずに帰国。ここで活動にピリオドが打たれるかもしれない。だけど、ここで辞めるわけにもいかない。国会議員に交渉し、地雷処理をやる許可をもらう道を開いた。1年半後、タエサン村で、高山さんは活動を始めた。村人にも地雷処理活動に参加してもらうシステムを作った。参加することで、村人の地雷への意識も高まるし、報酬も出るので、村人の経済の助けにもなる。非常にいいアイデアだった。ところが、しばらくして大事故が起こる。地雷処理のときに、対戦車地雷が爆発し、7人が亡くなったのだ。高山さんが留守中の出来事だった。責任者の高山さんは、苦しみ、悲しみ、自分を責めた。挫折のたびに、高山さんは自分に言い聞かせてきた。「このまま終わってたまるか!」この言葉で、自分を奮い立たせてきたのだ。今は、村の周辺部の地雷は取り除かれた。学校を作り、井戸を掘り、道路も作った。地雷処理と村の復興・自立がやっと軌道に乗ってきたのだ。しかし、またまた大きな試練が待ち受けていた。昨年暮、奥さんが倒れたのだ。脳腫瘍(良性)だった。かなり大きくなっていて、手術の前に意識がなくなり、危篤状態になる。高山さんの活動を支えてくれた奥さんであり、高山さんがずっとカンボジアに行っている間、ずいぶんとさみしい思いをさせてきたわけだ。高山さんにとっては、大きなダメージだった。しかし、ここでも高山さんは、「このまま終わってたまるか!」と立ち上がる。そして、新しいNPOを立ち上げ、より自由度をもって活動することにした。「地雷処理から始まり、地域の復興と自立もやるようになり、今の私がもっともやりたいのは、平和構築です。平和な社会を作るということは、地雷処理も地域の復興・自立もみんな含みますから。家内も大事にしないといけないので、もっと日本にもいられるような活動ができるよう準備をしています」ぼくは、高山さんの話を聞いて、「このまま終わってたまるか!」という力強い言葉に勇気をもらった。特に、今回の大災害があって、この気持ちを忘れてはいけないと、強烈に思った。今もそうだし、これからもそうだ。これから、高山さんにもぼくにも、ほかの人たちにも、さまざまな試練が訪れることだろう。心が折れそうになることもあるだろう。そのときは、「このまま終わってたまるか!」が元気になれる呪文だ。
2011年03月17日
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