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芳一さんの話は、耳は残念だったけど、まあ命は助かってよかったよかった、ってとこまでしか知らなかったけど、お話によっては後日談があるのを今回知った。和尚さんは自分のうっかりを詫び(当然だよね)、寺総出で平家の供養に努めた。そして芳一さんは、元々の技術に加え、一連の事件が話題になってお仕事が増え、裕福に暮らしたというのがそれ。信じられない!耳なし芳一の話って、ハッピーエンドだったんだ!!(笑)芳一堂には千羽鶴や「全国平家会」の提灯が所狭しと掛かっている。全国平家会ってのは、平家の子孫や平家にゆかりのある個人・団体などで構成される組織で、ここ赤間神宮に事務総局が置かれているんだと。BGMに琵琶の音がべい~んべい~んと流れていてね、「こわい~」ってきゃいきゃい言ってるお姉ちゃんたちがいた。さてと、それではいよいよ「七盛塚」へ。この一角は、平家の方々を祀る場所。自然石に名前を刻んだ板碑が立ち並ぶ。 前列 後列 左少將 平有盛 伊賀平内左衛門 家長 右中將 平清經 上総五郎兵衛 忠光 右中將 平資盛 飛騨三郎左衛門 景經 副將能登守 平教經 飛騨四郎兵衛 景俊 参議修理太夫 平經盛 越中次郎兵衛 盛継 大將中納言 平知盛 丹後守侍従 平忠房 参議中納言 平教盛 従二位尼 平時子ああ、教経様がど真ん中だ~!(笑) 平教経様は、清盛さんの弟の子供。つまり、甥っ子ですな。名前だけ言っても「?」って人が多いかもしれないけど、実は結構知ってたりするんです。壇ノ浦の合戦においてのエピソードは数あれど、中でもチョー有名なのが、「義経の八艘飛び」。実際にそんなことがあったのかは別として、あれは義経が教経様から逃げ回っていたからだと、そんなお話です。屋島でも、舟から義経を弓で狙うけど、弁慶はじめ義経の家臣達が立ちふさがり、義経を討ち取れなかった・・・ちぇっ。というエピソードを持つ、平家の中でも随一の剛のおかた。ただ、「吾妻鏡」なんかでは教経様は一ノ谷で討ち死にして、京で獄門にさらされたという記述があるので、壇ノ浦には参加してない可能性もある。とりあえず平家物語の中では、最期は力自慢の源氏方の兵2人を脇にかかえて入水したと。享年26歳。 (高松・平家物語歴史館) 七盛塚は、板碑に彫られた文字から1600年頃に作られた塚と考えられているそうな。ところで、前列の名前をご覧ください。教経様だけ「盛」の字が入ってないでしょ?「七盛塚」というものの、「盛」の塚は6基しかない・・・七つめは彦島にある「清盛塚」だと一般には言われておるようだけれど、教経様は「国盛」という名の時期もあったので、ちゃんと七盛になると私は思うんだけどねえ?なんにせよ、教経様がここに来たかもわからないし、その他の方々も、皆様遺体は上がっていません。ですので、供養塔ですね。七盛塚の成立については、こんな伝承があります。 【天明年間(1781-1789)のこと、海峡に嵐が続き、九州へ渡る船や 漁船の遭難が続出したので、海上交通を断たれた商人や壇ノ浦の漁師たちは、 生計がたたず大変困っていた。 そんなある夜、漁師たちは荒れ狂う暗い海に、泣き叫ぶ男女の声を聞いたので 闇をすかしてみると、そこには成仏できずに海上をさまよっている たくさんの平家武者と官女の亡霊の姿があった。 漁師たちはこの災難は平家一族の怨念によるたたりであろうと考え、 其れまで供養する人もなく荒れるにまかせていた平家の墓を一カ所に集め、 京都の方に向けて手厚く供養したところ翌日からは 嵐はうそのようにおさまったという。 】 (サンデー下関 1997年11月7日号より) う~ん、怨念ね・・・平家の怨霊話ってのは色々あるけど、女性陣はともかく、武士に限っては、皆様潔い最期を遂げられているので、やっぱり死を意識してただろうし、祟るかなあ・・・とか思っちゃうんだけど。「貴族化した平家はなよなよしてる」みたいなイメージがあるかもしれないけど、平家の皆様だってちゃんと武士ですよ!!だからこそ、一連の源平の戦いの中で、長く語られる数多くのエピソードがあるのだ。とはいっても、実際に平家が祟ったかという事は問題ではなく、「平家の祟りだ」と当時の人々が考えたという事実が重要なんだけどね。なにしろ、古い時代ですからね~。例えば、源平の戦の後にできた「徒然草」にはこんな話がある。 ある検非違使の長官が政務を執っている間に、部下の牛車の牛が 中に入り込んで長官の場所に寝そべってしまった。 皆はそれを見て、 「これは怪奇どすえ!陰陽師に牛を見せて占ってもらわねばなりませぬぞえ!」 って大騒ぎ。 それを聞きつけた長官のお父上が、 「動物なんだから、どこ行ったって不思議はないじゃん! こんな事で、安月給の部下の通勤の足(牛)を取り上げちゃったら可哀想だし~」 とあっけらかんと言って、さっさと畳を取り替えさせた。 ・・・結局その後、何も怪異は起きなかった。(第206段)チョー現代語訳ですけど(笑)こんな時代だから、栄華を誇っていた一門が海に滅んだとなれば、やっぱり人々の恐れも尋常ではなかったでしょうね。ちょっと何か変わった事があれば、「平家の祟りか・・・」と思うのは至極当然のこと。そして私も、後でその思いを実体験することになる平家の怨霊話には、こんなのもある。 地元の漁師たちが壇ノ浦で漁をしていると、曇りの日や夕暮れ時には 平家の亡霊が海中から手を伸ばし、船べりにしがみついてきた。 亡霊達は「ひしゃくをくれ~、ひしゃくをかせ~」と哀れな声で ひしゃくを要求するので、恐ろしさのあまり漁師が柄杓を渡してしまうと、 亡霊はそのひしゃくで海の水を船の中にせっせとそそぎ込み、 船を沈めて漁師を殺してしまった・・・ そのため、漁師達は漁に出るときには必ず底の抜けたひしゃくを持って出かけ、 亡霊にひしゃくを求められた時にはその底のないひしゃくを渡し、生き延びた。 う~ん、もの哀しいお話じゃ・・・底の抜けたひしゃくは、諏訪にある諏訪大社下社(たしか春宮)にも沢山あったけどね。 下の方に、銀色に光る一列があるでしょ。底の抜けたひしゃくは水を通してしまうことから、スコーンと楽に産めるようにとの願いを込めて奉納されたものなのだ。つまり、安産祈願ですな(笑)同じグッズでも、また随分と差があるものだな~と思った。亡霊さんの中で、 「オイ、底が抜けてんぞ!コラ!!」ってツッコミを入れる人はいなかったのか・・・とか、またまたもどかしく思ったりして(笑)にほんブログ村
2012年01月31日

今回の旅での二大萌えスポットのうちの一つは、赤間神宮全域とその前の海な訳だけど、その中でも萌え中の萌え~な一角へと向かう。奥にあるのは、「七盛塚」。平家の方々を祀っている。ああ、ついに来た・・・!でも、塚の手前には「芳一堂」があるので、こちらをまず先に。芳一堂はその名の通り、耳なし芳一を祀るお堂で、昭和32年、地元の有志によって建てられたものだそうです。お堂といっても小さなもので、中には琵琶を抱えた芳一さんの木像があります。耳なし芳一は、小泉八雲の『怪談(Kwaidan)』の冒頭を飾るお話で、古くには「耳切り団一」といったそうです。芳一さんの不思議なお話については、お話によってディテールに差があるようですが、 ・平家の亡霊のために、芳一さんが夜な夜な野外コンサートを行っていたこと ・芳一さんがとり殺されることを心配した和尚さんが、体中にお経を書きつけたこと ・うっかり者の和尚さんが耳にお経を書き忘れたために、芳一さんが亡霊に 耳を持ってかれちゃったこと ・とにかく芳一さんは命拾いをして、皆で平家の供養に努めたことという重要なファクターについては、おおむね共通してるみたいですね。「史跡めぐりの根っこ」にも少し書きましたが、実は私、子供の頃から非常に怖がりでして。怪談なんて、大嫌い。『みみなしほういち』の『みみな・・・』くらいで、耳をふさいで「やめてーーーっ!!」て言うくらい嫌い。怖い。怖かった。それが、まあ年を取って感覚が鈍くなったせいか、今じゃ全然平気になっちったむしろ、今から思うとなんであんなに怖かったんだろう?と思うくらい、昔は怖がってた。しかし、芳一の名前すら聞きたくはなくても、そこはホレ、物好きなガイジン・・・いやいや、小泉八雲氏のおかげで世界的にも有名なお話ですから、ストーリーだけは知ってた。けど、今回の旅にあたって、あらためて芳一さんのこととかいろいろ調べてみて初めて知ったこともあった。それに、今は現実的な視点であれこれ考えちゃうので、結構楽しめたな(笑)私、いつからこんな人間になっちゃったんだろう・・・付き合いの長い友達は、私をして夢見る現実主義者と評するので、年取って図々しくなって、現実主義的側面が増幅されたのかもしれないね。ので、今回の日記でおちゃらけてるように見える表現もあるかもしれないけど、別にふざけてる訳ではありませんので、あしからず。まあ、怖い話についての事なので、あえて怖くないように書いてる部分もありますが。さて、芳一さんに話を戻して。彼は赤間神宮の前身・阿弥陀寺の僧だったという設定もあれば、阿弥陀寺の和尚さんが芳一さんの神業的な琵琶に惚れこんで囲って・・・じゃなくて、寺に住まわせて、ギャラリーがたった一人のミニコンサートを開かせては癒されていたとか、いくつかのパターンがある。で、肝心な夜にはお寺総出で芳一さんに留守番をさせる訳ですが、そんなに心配なら、近所の人に宿直を頼むとかすればいいじゃん・・・とか思っちゃうのは私だけでしょうかねえ(笑)しかも、和尚さんは詰めが甘かった。ただ、亡霊の方もうっかりさんだと思うんだよね~。耳以外の部分は見えてなくても、空中に2~30センチ間隔で耳が見えてたら、見えない部分に本体があるとなんで思わないのか。耳だけ持ち帰ったって芳一さんの琵琶が聴ける訳じゃないんだから、耳を持ってってどうするつもりだったのか。「いないぜチキショー!芳一のやつう~!!」ってパニクって判断力を失ってしまったとしか思えん。な~んて、もどかしい思いが頭の中を駆け巡る訳ですが・・・(どっちの味方だよ、オイ)実のところ、芳一さんが実在の人物だったのかはわかりません。だけど、小泉八雲は、平家の亡霊に呼ばれて琵琶を弾いた場所を七盛塚の前と設定した。そんなこともあってか、現在、七盛塚の前の脇っちょに芳一堂があり、毎年7月15日には芳一堂と七盛塚の前で「芳一まつり(耳なし芳一琵琶供養祭)」が行われ、琵琶の演奏や神事などが行われているそうな。ちょっとここで、琵琶法師と平家物語について・・・ (高松・平家物語歴史館)琵琶には2種類あって、 ・声楽としての琵琶・・・盲僧琵琶、宗教音楽 ・器楽としての琵琶・・・雅楽、芸術音楽に分けられる。このうち、琵琶法師は前者のカテゴリーに属する。一方、平家物語の登場については諸説あるが、「徒然草」には次のように書かれていて、有名なのはこの説。 後鳥羽院の御時、信濃前司行長(中略)が、「平家物語」を作って、 生仏(しょうぶつ)といった盲人に教えて、これを語らせた。(中略) 九郎判官義経のことは、くわしく知っていて、書き載せてある。蒲冠者範頼のことは、 よく知らなかったのか、多くの事柄を書きおとしている。 武士のこと、弓や馬など戦技のことは、生仏が東国の者であって、武士に尋ね聞いて、 行長に書かせた。その生仏の生まれついた東国なまりの発音を、現在の琵琶法師は 学んでいるのである。 (小学館 日本古典文学全集より、第226段)範頼(頼朝の弟)は知らね~ってとこがちょっと笑えるけど、いずれにせよ、鎌倉時代頃には成立していたらしい。平家物語もツールによって ・語り本・・・琵琶法師などにより、口頭で伝承 ・読み本・・・その名の通り、読むものと分けられる。語り系の方が、わかりやすくできてるのかな~って感じがするけど、案外そうでもないらしく、読み本系の方がいろんなエピソードとか盛り込まれてたりするようで、なかなか奥が深い世界・・・この平家物語を琵琶の伴奏にあわせて語る「平曲」が出来上がると、琵琶法師の中でもさらに主として経文を唱える盲僧琵琶と、平家物語を語る平家琵琶とに分かれた。ただ、同じ平家物語を扱っていても、近世以降に成立した薩摩琵琶や筑前琵琶というのは音楽的にはまったく別のもので、平曲とは呼ばないそうな。う~ん、ムツカシイ・・・平家物語は、後世の様々な芸能に取り入れられていることが多く、中でも能はこれに題材を採ったものが多い。『頼政』『実盛』『木曽』『巴』『兼平』『敦盛』『俊寛』『屋島』などなど、実に沢山ある。信長様のお好きな幸若舞の『敦盛』、あれも平家物語からきてるしね。 人生50年~下天のうちをくらぶれば~って、アレね。高松の平家物語歴史館にいる敦盛さんはこんな人(覗き込んでるのは熊谷直実)。 にほんブログ村にほんブログ村
2012年01月30日

今回は引き続き、先帝祭について。ただ、先帝祭とはいっても、裏の、ね。そもそも安徳天皇の御命日は、旧暦で3月24日。それが、明治5年に旧暦から新暦への移行が布告され、歴代天皇の命日もすべて新暦にあらためられた。そこで、安徳天皇については現在の5月2日へと移行された。ところが、下関では様々な行事は昭和20~30年代1ヶ月遅れで行われていたため、政府の布告はそれはそれとして、昭和59年までの先帝祭は慣例通り3月24日から1ヶ月ずらした4月24日に行われていたんだと。戦前には4月24日は学校・会社などすべてが休日になるほど、先帝祭は大切に執り行われてきた。(戦後にはなかなかそうもいかなくなり、だんだんと営業する店なども増えてきた。)そして昭和60年(1985)。壇ノ浦の戦いが1185年だから、この年は没後800年にあたる。大きな節目の年だしね、この時は勅使まで出るということになったが、公式な命日は5月2日だから、勅使は「5月2日でないと行かれないし~」てな話になってしまったんだと。さて、困った。5月の1~3日は亀山八幡宮で五穀祭もあるので、重ならないように4月24日のままにしておいたのに・・・そこで関係各者様で色々話し合った結果、思い切ってお亀さんの八丁踊りとかと一緒にして、大きなお祭りとして盛り上げようじゃないかということになって今の海峡まつりが出来上がったんだと。海峡まつりってのは、源平の船合戦の再現とかもある、一大イベントね。しかし、そうは決まっても、長いこと先帝祭を行ってきた4月24日に全くなにもしないってのも・・・てことで、表千家にお伺いを立ててみたところ、偶然にも家元の年間行事の中で4月24日があいていたので、それからは家元のトップ3が交代(家元は5年に1度)で赤間神宮へ詣でて献茶式を行うことになったんだと。これが先帝祭に先立って行われる、「先帝祭献茶式」の始まり。本当に下関の人々によって、大事に歴史が受け継がれてきたんだなあ~ってのが、この一事だけでもわかるよね。何も知らなくても、その華やかさで楽しめる(本当は楽しむものじゃないけど)祭礼。だけど、その裏にはものすごい歴史が秘められてる。それにしても、800年間・・・現在も、宮中では手厚い供養をしているようで、なんとゆーのか・・・現職の帝で非業の死を遂げた人は、祟峻天皇と安徳天皇しか知らんのだけど、大阪・天王寺に行った時、たまたま祟峻天皇を祀っている堀越神社を見かけたんだよね。 (大阪・堀越神社) 由緒も風格もある神社ではあったんだけど、まあ、はっきり言って、赤間神宮とは規模が違う。祟峻天皇の弑逆されたのが592年、御霊(ごりょう)信仰が明確化されるのが平安頃というから、時代の差ですかねえ・・・「からいたでびゅー」にも少し書いたけど、名だたる怨霊の方々を祀る京都・上御霊神社なんかはさすがに赤間神宮と同じように、現在も引き続き天皇家・宮家の行啓があるようだけどね。けど、安徳天皇と条件的に同じなのは、やっぱり祟峻天皇じゃないのかな~と思っちゃうので、言葉は悪いけど、扱いの差にどうも違和感を感じちゃうんだよな~。いや、そんなに知られてないだけで、堀越神社にも何らかの勅使とかのお渡りはあるんでしょうけど・・・この違和感は他にもあって、それはまた後の日記で・・・さて、拝殿の脇には、なにやら塔が建っている。 【水天供養塔 安徳天皇は御位のまま御入水され、水天皇・水天宮と申し上げます。 吾が国民は天皇の御守護のもと、斯く永らへ安心して瞑黙も出来ます。 同時に亦国民同胞の中に、或は海難に水難にと、幾多の水歿者の方々は 即ち水天皇さまの御膝元に冥りたく、此の石塔の台石下に幾多の小石に 名を留めて納められています。 人は名を留むる事に安心を得るもので、即ち是を水天供養塔と申します。 一、昭和二十年五月三日建立 一、今次大戦中水歿者霊位】(現地解説板より。句読点は戦国ジジイが追加)水天皇、か・・・やっぱり現職のまま、ってところがキーポイントなのかなあ・・・この塔の奥に小さなお宮があって、何気にのぞいてみると、「七盛宮」って書いてある。な・・・七盛って、七盛って、七盛塚の七盛だよね~!!間近に見たいのだけど、拝殿の脇の通路は祈祷してもらう人の入り口までしか行かれないようになっていて、「関係者以外立ち入り禁止」と書いてあるので、お宮の前まで行かれない本殿に立ち入る訳じゃなくて、宮を見るだけだからいいじゃん!とか思うものの、モラリストな私は律儀にギリギリのところから目をこらして見るだけにしておいた(笑)。七盛宮の御祭神は、平家一門。とても小さなお宮で、本殿の脇の少し奥まったところにあるので、立ち寄る人はいなかった。そもそも、そこまで行けないようになってたし。これは摂社だよな・・・摂社というのは、メインの神社の神様と縁の深い神を祀った神社のこと。安徳天皇は平家の血をひいているので、ゆかりどころの話じゃない。しっかし、このお宮、一体いつから祀られてるんだろう・・・七盛宮を採り上げている観光サイトや旅行記などは実に少ないので、このお宮の由来はわからない。『赤間神宮』にすら書いてないし。平家の最後は朝敵みたいな形になっちゃった訳だから、滅亡後しばらくの間は、神としては祀れないような気がするけど・・・まあ、そうは言っても、例えば東照大権現様のようにステータスが上がっての最終形態として神になったわけじゃないでしょうけどね。怨霊鎮め的側面だよね。おそらく。しばしその場にたたずんで、ボケ~と宮を眺める。あ~、真ん前まで行って手を合わせたい・・・そんな風に静かに萌えてる後ろで、通り過ぎていくおばちゃん達が「奥、行った?」「墓でしょ?行った行った~」と賑やかに会話してて、現実に引き戻された。「軽いノリだな~」と思って笑っちゃったけど、そんなもんでいいのさ。墓だとわかっててわざわざ立ち寄ってくれて、手を合わせてくれたのならそれでいい。多くの人が訪れて、歴史を忘れないこと。これが重要なのだ。↓ぽちをお願いしま~す。にほんブログ村にほんブログ村
2012年01月29日

今回は、赤間神宮の大きな祭礼である先帝祭について。先帝祭とは、毎年5月2日の安徳天皇の御命日を皮切りに、3日間にわたって行われるお祭り。見たこともないオマエが何で先帝祭について書くんだ、と言われそうだけど、このお祭りは青森といえばねぶた、岸和田といえばだんじり(笑)・・・みたいに、下関とは切っても切れない関係にあるからですよ!ここにも実にすごい様々な歴史が秘められているのだ。 (高松・平家物語歴史館、安徳天皇入水の段)亀山八幡宮の「大坂屋玉紫の玉垣」にも少し書いたけど、戦をからくも生き延びた平家の女官や女房たちは、港に泊まる旅人に花を売って生計を立てていた。実際には花売りだけで生きていけるとも思えないので、花だけでなく春も売っていたと私は思うけど。しかし、御幼帝の命日には身なりを整え、威儀を正し、供養のために参拝を続けたと。これが今に残る「上臈(じょうろう)参拝」の始まりと伝えられる。この「先帝祭」という名称については、『赤間神宮 下関・源平史跡と文化財』に次のように書いてある。 【通常「先帝祭」と言えば、先きの帝の祭りであるから、 天皇陛下にとっては、昭和天皇の御命日祭のことになるのです。 下関の先帝祭も、勿論その起りは源平船合戦に入水された安徳天皇の御霊を、 後鳥羽天皇が先帝追福のために祭られたことに始まっているのですが、 都を遠く離れた下関の地では史上空前の大法会でありましたから、 市民にとって「先帝祭」は一大行事となり、それ以来、 御歴代の天皇が代わられても、一向にお構いなく 毎年「先帝祭」としての祭礼が続けられ、ついに歳時記にも記載される 固有名詞となって現在に至っているのです。】ああ、言われてみればそうだよね~。「先帝」は現職一人につき一人しかいないはずなんだ。「先帝祭」と初めから固有名詞として聞いちゃうから、何の疑問も抱かないけど・・・この『赤間神宮 下関・源平史跡と文化財』(以下『赤間神宮』)は、安徳天皇没後・・・壇ノ浦の合戦から800年の記念にまとめられた冊子で、上記の他にもかなり興味深い様々な事が書かれているので、本文を引用した箇所の他にも、ブログの中で多々参考にさせて頂いていることをここで申し添えておきます。で、上臈参拝については次のように続く。 【現在では、いわゆる遊女の時代の名残を留めているため、 全体は過去の遊郭における太夫道中の姿にならって、 先頭から稚児・警固・官女・禿・上臈の順に列立参進しているのですが、 この列立からもお判りのように、官女がまん中に来ていること、 しかもそのすぐ前に警固という役が前行していることは、 官女のすぐ後ろの禿(かむろ)が本来は後衛の警固役であったことをあらわし、 前に二人、後ろに二人を配し、その真ん中に位置して参進する、 この姿が古風なのです。】つまりは、この官女が主役なんだと。まあ、由来を考えればこれも当然のことなんだけどね。でもやっぱり、きらびやかで独特の外八文字道中なんかやっちゃう上臈に見物客の目はいっちゃうみたいだけどね。この上臈は、かつては稲荷町(現・赤間町)、後には豊前田・新地の郭の女性がこれを引き継ぎ、現在では舞踊協会の方々がその役にあたっているとのこと。拍手の両手を帯の前で止めて打ちこまない作法を初めとして、結髪や衣裳など、「先帝祭」全体が下関の無形文化財に指定されている、と。上臈参拝は、祭の期間は高いところに陸橋(天橋と呼ばれる)が設けられてそこを官女たちが進むんだけど、赤間神宮の前身・阿弥陀寺の古い絵図にもこの道は描かれていて、当時は仮設じゃなく常設だったみたい。だから相当古くから行われているという事がわかるのだけれど、長い歴史の中にはやはり衰退していた時期もあって、そんな時、玉紫さんのいた大坂屋の主人が店をあげて下関の活性化のために祭礼を応援して、今のようなスタイルになったものと『赤間神宮』の中では推測している。そして参拝の中心である官女、 【明治維新のあと各宮中行事が復興された時、 装束のうちの一具である「裳(も)」は、先帝祭の官女のそれを参考にし 復元したと言われております。】と『赤間神宮』に書いてあって、これには驚いたね~。宮中で廃れていたものが、遠い下関の地に残っていて、それをまた宮中で吸収した・・・逆輸入じゃん!(笑)※こちら(関門TVさんのサイト)から参拝の様子が映像で見られます。 全部で約23分と少々長いですが、官女と上臈の所作の違いや美しさをお楽しみ下さい。 最後に座布団をそそくさと撤収する場面が笑えたさて、話は変わって安徳天皇の御遺骸を引き上げたという中島四郎太夫政則。政則の子とその家来5人は平家再興を願い、小門王城山(おどおおじょうざん)に隠れていたものの、その希望も消え、ついには海賊となって彦島の竹ノ子島を襲い、ここを占領。その時に上陸した場所は今も「六人武者の江良」と呼び、この島は鬼ヶ島とも言われた。付近を荒らし回った六人武者の海賊に対し、豊前から兵150人、船63隻が討伐のため福浦の江良に上陸(今も「六十三隻江良」という地名が残る)。150人対6人。しかし、たった6人が兵を蹴散らし、撃退(笑)・・・はしたものの、平家の残党であることがバレてしまったため、家来はそれぞれ遠い地へ散ってゆき、政則の子だけがその地に残り漁師となって血統を残したという家系らしい。ただの漁師なわけじゃないんだね。この戦いを由来とする地名は他にもあって、「鶴の江良」「仁蔵の江良」は六人武者に殺された鶴五郎・仁蔵の死んだ場所、さらにその二人の首を埋めて供養した場所が「田の首」だと言われておるそうな。 で、その中島さんちは安徳天皇の御尊骸を引き上げたという功により、先帝祭では官女の参拝に先立って、中島家一家が大紋に威儀を正して天橋を渡り、参拝を行うならわしが現在も続けられている。また、本宮から御旅所(遺骸が一旦安置された場所)まで神輿(鳳輦)が渡る御神幸祭では、中島家がこの御旅所に待機して、鳳輦が到着すると神饌を恭しく供する役を担っているのだと。ほえ~にほんブログ村にほんブログ村
2012年01月28日

ここの狛犬はちょっと変わってて、これもかわいらしい。 たてがみ全開!ってあんまり見たことがないような・・・(笑)それに、大抵の狛犬は「あ」と「うん」になってるけど、ここのはどちらも「あ~」と口を開けている。と思ったら、こんな解説が。 【この獅子一対は、中国大連の花崗岩を現地彫上げ、 大連神社全国氏子有志の手によって運び、平成七年十月一日 赤間神宮大前に奉納されたものです。 神前に向かって右側の玉を手にする方が父獅子、 左側の子獅子を押えている方が母獅子で、口中の玉は石彫の過程で仕上げており、 あとで入れたものではありません。 頭から台座まで見事な出来映えの獅子であると申せましょう。】 (現地解説板より)おお!狛犬じゃないんだ!それに、大抵は片方だけが玉を持ってるんだけど、ここのは両方とも足元に何かあると思ったら、片方は子供か~。口の中を覗きこんでみると、小さな玉が確かにある。大連神社ってのは、敷地のはずれにある神社でね・・・それは後述。さて、参拝。後から来た善男善女が参拝する前で、本殿をじろじろ覗きこんで長居するワタシ(笑)拝殿の奥は結構広くて、格の高さを感じさせた。社務所を覗くと、面白いお守りがいくつかあった。「高血圧のお守り」とか「糖尿病のお守り」とか、やけにピンポイントな効能を持つお守りが各種並んでいて、両親用に糖尿病のと足腰のお守りを買い求める。「ガン封じ」とか「ボケ封じ」ってのは割とあるけど、糖尿は珍しいよな~。自分用に「脳のお守り」を買おうか悩むが、とりあえずやめとく。あと、「鬼に金棒」お守りなんてのもあったな。拝殿の前には、「八咫鏡 奉鎮の碑」がある。 【維時昭和33年4月7日、赤間神宮に畏くも天皇皇后両陛下行幸啓 御参拝の事あり。是より恰かも100日目の7月13日、 岡山県英田郡作東町土居新町居住の元国鉄美作河井駅長たりし春名義雄氏は、 予ねて郷土史研究家として知られ、地元妹尾家文書系図等調査中、 三種神器の一つ八咫鏡の埋蔵文化財の存在を知るに及ぶや、 正規の手続を経て土地の伝説たりしを現実に発掘するに至る。 春名義雄氏は此年9月13日安徳天皇御尾入水の地、 下関市壇の浦に鎮座する赤間神宮大前に奉還を誓いしに、 地元住民の一部より八咫の鏡所有権確認請求訴訟を提起される等 紆余曲折すること20有年、即ち昭和53年、其の一切を竟り 来る昭和60年5月、安徳天皇800年先帝祭を迎うるに当り 斯くも生涯を賭したる春名氏の至極一貫の精神を永代顕彰せんとして、 謹みて其由来を明らかにするものなり 昭和59年12月吉日 赤間神宮宮司 水野久直 記】 (石碑より。句読点は戦国ジジイが追加、漢数字は変換)壇ノ浦の合戦も終盤、妹尾太郎兼康の次男・宗衡時忠は、部下に名刀 烏丸太刀と八咫の鏡を託した。その部下は烏丸で源氏の手の者を打ち倒し、自分の郷里の備中・妹尾へと落ち延びた。昭和33年、岡山県の郷土研究者・春名氏は、岡山県土居地区の天皇谷(昔ここに天皇社があった)に伝わる古文献からその伝承を知り、天皇社跡からなんと欠けた鏡の一部を発見。春名氏は、赤間神宮に八咫鏡を奉納したいと申し出、昭和34年赤間神宮から現地におもむき、春名氏と妹尾太郎兼康の子孫の方、また地元の代表者との話し合いにより、この鏡が赤間神宮に奉還されることが決まった、というすごいお話。石碑の裏にも確かわかりやすい文章が刻まれていたのですが、事情により文章を掲載できませぬ。赤間神宮を訪れ、訪問記を公開する人は多けれど、奉鎮の碑まで紹介する人はごくごくわずか・・・さらに石碑の裏まで見る人なんて、本当にいないってのが、今回のことでよくわかりました(泣)見るところでは、それこそ舐めまわすように見る私にとっては、何ともさびしい限り・・・結構、人が見もしないようなところに、すごい歴史が隠されてたりするんだけどね。それを見つけ出すのが、史跡めぐりの醍醐味♪いやいや、そんなことより八咫鏡ですよ。現在、八咫鏡は伊勢に、天叢雲剣は熱田神宮に、そして八尺瓊勾玉は皇居の御所にあるとされておりますが・・・三種の神器については、もともとレプリカだったとか色んなことが言われていて訳わからんので、ここでは追求はせず(笑)。ともかく、土地では長い間、本当に長い間八咫鏡だと言われてきたものが、最近になって赤間神宮に戻された。すごいよね~。ホントにすごいよね~。もちろん、これも鎮魂の一環でありましょう。にほんブログ村にほんブログ村
2012年01月27日

さて、赤間神宮といえば水天門。 【惟時昭和32年11月7日、大洋漁業副社長中部利三郎氏は卆先 多額の御寄進に加へて曰く、即ち関門海底国道隧道の完成と 下関市制70周年大博覧会開催の秋、吾国未曾有の御由緒と 関門の此の風光明媚とに鑑み、水天門の建立こそ 今日より急務なるはなしと、此処に昭憲皇太后より賜はりし御歌の 今も猶袖こそぬるれわたつ海の龍のみやこのみゆきおもへば に因みて龍宮造となし御造営し奉れは昭和32年4月7日、畏くも昭和天皇 香淳皇后両陛下此の神門の御通初め御参拝を賜はり、赤間神宮並に安徳天皇 阿弥陀寺陵に詣でてと題し給いて みなそこにしつみたまひし遠つ祖をかなしとそ思ふ書見るたひに の御製一首をも下し賜ひし空前の行幸啓に輝く水天門是なり】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)昭和50年には、赤間神宮創立100周年を記念して高松宮ご夫妻が臨席なさったそうですが、こちらは昭和天皇皇后両陛下ですよ・・・しかも、お通り初めね。このお歌のどちらにも、800年もの歳月を全く感じさせないと思うのは、私だけでしょうか?もちろん、鎮魂の歌だし、普段以上に心を寄せるような心情が必要なんでしょうけど、それにしても、なんとも不思議な感覚。まるで、一体自分がいつの世に生きているのかわからなくなるような。龍宮城をイメージさせるこの門は、有名な平時子さんのセリフに由来するものだと思っていたんだけど、赤間神宮の宮司さんの説明を聞いた方の話によると、平家物語の巻末に書いてある、建礼門院(平徳子/清盛さんの娘)が見た夢のエピソードに基づくものだそうな。夢の中で、自分の子である安徳天皇が、二位尼と楽しそうに遊んでいた。あまりに美しい光景だったので、「そこはどこですか?」とたずねると、「ここは龍宮城といって、清らかなところです。」と二位尼が答えたところで夢から覚めた。戦後に着任された宮司さんが、この夢に出てきた龍宮城を地上に再現し、安徳天皇の霊をお慰めしようと思い立ち、今のデザインになったんだとか。美しくも、哀しいお話だなあ~。ちょっと上の解説板とは違ってるけどね。戦前の赤間神宮の写真では、全体像とかわからないんだけど、このお話によると、全く違う建物だったんでしょうね。水天門の内側はこんな。 ちなみに、赤間神宮の前を海上自衛隊の船が通るときは、士官の方たちは赤間神宮に向かって敬礼して通るそうな。 これを歴史のロマンと言わずして、何としよう・・・海のロマンというべきかな?水天門の手前には、こんなデカい絵馬があった。 水天門の上部はこんな。 【水天門掲額の記 神門楼上に関門海峡を見はるかし 黒漆地に金波輝く水天門の御額は 寛仁親王殿下の御染筆をたまわり 平成17年5月3日御祭神と仰ぐ 安徳天皇820年大祭に際して 宮様お成りのもの思召を以て 御自ら序幕を頂いたものであります】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)平成17年・・・つい最近じゃん。いつの世もそうだった訳ではないでしょうけど、ともかく800年を経てなお、天皇家・宮家をあげて鎮魂と顕彰に努めておられるということですな。それでは門をくぐり、拝殿へ。 拝殿の手前には、安産・交通安全・社業発展などのありがたい御利益が掲げられてるんだけど、その中にこんなのもあった。 う~ん、さすが海沿いの町・・・豊満て・・・豊満て・・・ちょっと、いやだいぶ笑える。にほんブログ村にほんブログ村
2012年01月26日

亀山八幡宮を後にして、赤間神宮へと急ぐ。今日のメインはこれからなのに、見るところがありすぎて亀山八幡宮でゆっくりしちゃったからな~。もう、歴史のありすぎるところはこれだから・・・お目当てが見えてきたところで、春帆楼にさしかかる。ここも一般的な観光スポットだけど、今回私は寄る予定ではない。ので通り過ぎようとしてから、写真だけ撮るつもりだったのを思い出して入っていった。なんの写真か?春帆楼の手前には日清講和記念館があります。春帆楼というのは、日清戦争の講和会議が開かれたところなんですね~。「下関条約」って、教科書で習うよね。その会議で使用された調度品や資料を展示しているのが、日清講和記念館。下関条約に調印したのは、総理大臣・伊藤博文と外相・陸奥宗光。陸奥陽之介(宗光)は「カミソリ大臣」なんてあだ名もあるけど、若い頃は龍馬さんにかわいがられてた人なんですよ。てことで陸奥君には親近感があるので、記念館の外にある、これを撮りに来たのだ。 左が伊藤君、右が陸奥君。夫婦みたいに仲良く並んでて、なんか笑えた龍馬ファンの姉にも、写メを送ってと。何気に記念館を見上げたら、ここの軒丸瓦はこんなのだった。 写真じゃちょっと見づらいかな・・・「日清講和ナントカ」ってあるんだよね。記念館とつながる「李鴻章通り」って道があるのを確認してから、先に赤間神宮へと向かう。後でこの道を通る予定なのだ。記念館のすぐお隣が赤間神宮。本日のメインでござる。 ここの写真はあちこちのガイドブックにも載ってるけど、やはり実物は美しい。赤間神宮は、赤間の海に亡くなられた安徳天皇を祀る神社です。壇ノ浦の合戦の終盤、祖母である二位の尼(平時子/清盛さんの妻)に抱かれ、入水したという場面は有名ですね。 【今を去る800年の昔、源平最後の合戦に安徳天皇は御歳僅か八才をもって 平家一門と共に壇之浦に崩じ給ふや、赤間関紅石山麓阿弥陀寺境内に奉葬し、 建久二年、朝廷は長門国に勅して御陵上に御影堂を建立せしめ給い、 建礼門院御乳母の女、少将の局をして奉侍の上、勅願寺として永く 天皇の御冥福を祈らしめ給う、朝廷の尊崇きわめて篤く文人墨客の参拝 亦枚挙にいとまなし。 明治維新に至るや阿弥陀寺を廃し、御影堂を改めて天皇社と称せられ、 明治8年10月7日勅命をもって官幣中社に列し、地名に依り社号を赤間宮と定め給い、 社殿を造営せしめらる。 昭和15年8月1日天皇陛下には勅使を差し遣わされ 官幣大社に御列格宮号を改めて赤間神宮と宣下あらせられ、 社殿又改造し輪奐の美整いしが、惜しむべし大東亜大戦の空襲を被り、 神殿以下悉く焼失加ふるに未曾有の敗戦に依り、復興造営は困難を極めしも、 本殿祝詞殿以下御復興に邁進、苦節苦難20年にして完工、 昭和40年4月御祭神780年大祭を迎え関門の風光に和する社殿の壮麗は 昔日に倍し実に陸の龍宮と称えらるるに至れり】 (「赤間神宮略記」より。漢数字は戦国ジジイが変換)時子さんが本当に「波の下にも都がございます」と言ったかはわからないけど、安徳天皇の御遺骸は小門(おど)の瀬戸で漁師の網にかかって引き上げられている。※小戸の瀬戸じゃなく御裳川(みもすそ川)で上がったとか、そもそも他所へ逃げおおせたとか色んな説がありますが、ひとまずは観光サイトなどで最も多く語られる説で話を進めます。まずは一旦安置された場所が御旅所(おたびしょ)。そこから紅石山にある阿弥陀寺というお寺に埋葬された。 阿弥陀寺の創建は貞観元年(859)、大安寺の行教和尚が浄土宗のお寺を開いたものといわれている。同時に、鎮守社として豊前の宇佐八幡宮から神霊を勧請して、鎮守八幡宮もあわせて建てられた。亀山八幡宮と同じく、相当古いお寺だね。後鳥羽天皇の勅願により、1191年阿弥陀寺に「御影堂」を建立。阿弥陀寺には、平家の都であった福原(現・神戸市兵庫区)から、安徳帝の十一面観音像、建礼門院の持仏の弥陀三尊、清盛の持仏の弥陀三尊、重盛の持仏の釈迦像などを奉還して、本尊として祀ったと伝えられている。赤間神宮所蔵の、「紙本墨書赤間神宮文書」にはこの古い時代の阿弥陀寺全図の絵があるんだけど、レイアウトが今とは全く違う。戦災で焼失する前の境内は、写真を見る限りではおおむね現在と同じようだけど、これとも全く違う。絵図の当時は、 【今の御陵も維新を迎えるまでの天皇殿は、西海に没せられた幼帝の御心情を 配慮して東向きに、都を望ませ給う位置に建てられていたこと、 この安徳天皇尊像を囲んで平家一門の画像と、源平船合戦図の描かれた天皇殿を 中心にして、東側に本堂(阿弥陀堂)、西側に方丈(庫裡)があり(後略)】 (「赤間神宮」より)となってる。まあ、そもそも当時は寺だしね。神社と寺で配置が違うのは当然のことでしょうね。ちなみに、江戸時代までは安徳天皇は仏式で祀られていたそうですよ。この阿弥陀寺については、1301年、類焼を防ぐ目的で付近の民家に立ち退きを命じる文書が残されていて(「紙本墨書赤間神宮文書」)、当時の町と寺の賑わいがうかがわれる。それが神仏分離で阿弥陀寺は廃され、多くの安徳天皇陵の伝承地の中から正式に阿弥陀寺陵として治定され、おおむね現在のスタイルが出来上がった。長州藩はご存じの通り、維新の際にはかなり過激でしたのでね、神仏分離令が出た際には、相当、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたみたいだと去年の夏に山口市に行った時に知ったんだけど、この折に阿弥陀寺がどのような過程をたどったのかまでは調べられなかった。まあ、結果的に寺は廃絶となっちゃったんだけどね。時の住持は、還俗したそうですよ。阿弥陀寺が建っていた場所には、現在は春帆楼がある。にほんブログ村にほんブログ村
2012年01月25日

よ~し、これでホントに終わりだ。丸墓山だけ見る予定だったのに、結果的に全ての古墳を巡ってしまった(笑)。前玉神社の鳥居の先に見える道路を見て、もしかしたら、最初の看板からこの車道をずっと下ってくれば、ホントに3分で着けたのか!?と思って道路の先を覗いてみるけど、カーブしていて先が見えない。違っていて今さら迷っても困るので、結局元来た道を戻ることにする。手持ちの地図は、ちょうどこの辺は切れちゃってるんだよね・・・古墳の間をうねうね抜けてようやく入口に辿りつくと、ここには「埼玉県名発祥の地」の碑が。 【埼玉県名の由来 明治四年十一月十四日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設置するとの 太政官布告が出された。これが埼玉県の誕生である。 以後、幾度かの変遷を経て、明治九年八月に現在の埼玉県の区域が定まった。 「埼玉」が県の名称とされたのは、当初の県の管轄区域の中で、 最も広いのが、埼玉郡であったことによる。 埼玉郡は、律令による国郡制度が発足した当初から設置された郡と見られ、 当初は前玉(さきたま)郡という表示も行われ、正倉院文書神亀三年(726)の 山背国戸籍帳には「武蔵国前玉郡」の表記が見える。 また、延喜式神名帳にも埼玉郡の項に「前玉神社二座」とある。 ここ行田市埼玉(さきたま)の地は、巨大古墳群の所在地であり、 また「前玉神社」の鎮座する場所でもある。おそらく埼玉郡の中心地であったと 考えられるので、ここに碑を建て、県名発祥の記念とする。】 (埼玉県 解説板より)郡の中心?へえ~、行田がねえ・・・まあでも、この古墳たち、確かに相当立派なように見えるもんな~。さてと、これから行田市駅まで1時間くらい歩くだろうから、この碑の近くにあるあずまやで休憩。高源寺で丹波の墓参りをしていた時に、同僚からカラオケのお誘いメールが入ってきてたので、返事ついでに丹波の墓の写真を送ってやった。ヨシ、帰ろう・・・と思って立ち上がったら、左足にさっきまでなかった痛みが。やべ、今頃来たか・・・私、子供の頃から足首のジョイントが悪くてね。何もないところで急に接続が悪くなってガクンとコケることもあるし、捻挫・骨折の多発箇所なのだ~。そういう部位だから、高源寺の近くでひねった時、最初から痛みが続いたらすぐその時点で行動を中止するつもりだった。でもすぐ痛みはひいたので、ここまで来ちゃったわけだけど・・・うう、どうしよう、こんなとこで・・・バスの時刻表を見るけど、1時間以上待つので仕方なく歩き始める。途中、車に乗ったおじさんが何か話しかけてきたけど、何言ってるのかわからなかったので適当にごまかして過ぎる。歩くうち、だんだん痛みも出てきたけど仕方ない。ふと、さっきのおじさんは「北鴻巣まで?」って聞いてたのかと突然思い当たる。おじさん、ごめんね。親切に言ってくれたのに。ただ、おじさんには悪いけど、仮に聞きとれたところで、知らない場所で知らない男性の車になんて乗れないし。しっかし、惜しいことしたかな~。こんなとこ地味に歩いてる観光客なんて誰もいないし。タクシーも通らないぜ・・・で、真っ直ぐ駅に向かえば良かったのに、何を思ったか、どうせ通りついでだからと来る時に見落とした城門跡を見ていくことにした。通りついでって言っても、実際にはちょっと回り道なんだけど・・・でも郷土博物館のビデオでは、街道筋を少し入ると門の碑があるって言ってたんだもん。え~と、今昔地図を見ると来た道をそのまま戻って、本丸児童公園を左に入れば沼橋門、沼橋門に背を向けて東に少し進んで旧街道を駅方面に進んでいったところが大手門・・・ふむふむ。児童公園を曲がるとすぐにそれらしき箇所に着くのだけど、碑もないし地形が残っているわけでもない。地図ではここは虎口っぽいんだけどな・・・。(※忍城今昔地図をあらためて見ていて、入る道を一本間違えたことに 2年近く経ってから気が付きました(笑)。正しいところには、もしかしたら 石碑くらいあるのかもしれません。 2012/1/22追記)今度は大手門を目指す。旧街道とおぼしき道は細くて、ここも往時の面影はない。スーパーを過ぎて多分この辺・・・と思ったら、あった! 大手門の先は桝形城門とあるけど、ちょっと見ただけではわからない。丁寧に見れば少しはわかるのかもしれないけど、この頃にはかなり足も痛くなってきていたのでこれで本当に終了とする。帰りの車中ではどんどん痛みが増し、電車の乗り換えのたびに歩く速度が遅くなる。最後に最寄り駅にある東武ストアで買い物をした際、カートを歩行器代わりにして歩いたけど、もう全然左足をつくことができなかった。どうにか家に着いたけど、痛みのためにしばらく涙が止まらない(←マジな涙)。あ~、古墳の丘でタクシー呼べば良かった~。でもまさかここまで痛みが出るとは思いもしなかったんだもん。連休で当然病院は休みだし、痛みがひどいのは受傷後に酷使したからで、今までの経験からひとまず骨折はしてないだろうと判断し、連休中は固定してひたすら安静に努める。どうせ救急に行ったって、期待するほどのちゃんとした処置はしてもらえないんだし。東武の優待券があと1回分残っていて、どこか日帰りで行こうとは思っているけど、とにもかくにも7月の彦根までには完治させないと・・・。頑張れ、ワタシ。↓あなたのポチでランクが上がる・・・かもしれません。にほんブログ村にほんブログ村
2012年01月24日

来る時、道の反対側にいくつか店があるように思ったので、道路を渡って駅方面へ歩き出す・・・が、すぐに現れた看板に目が行ってしまった。『埼玉県名発祥の地、前玉(さきたま)神社』・・・150m、徒歩3分?う~ん、3分ならいいか・・・。と来た道を戻り、まだ見てない古墳群へ向かう。この埼玉古墳群は、真ん中を車道が通っているので二つに分断されている。丸墓山古墳があるのは東のエリアで、埼玉神社は西のエリアを抜けて一番奥にあるってことらしい。なんでも古墳の上に鎮座まします神社だそうで、またてくてく・・・西側エリアの古墳群で最初に出てくるのが瓦塚古墳。 【全長73mの前方後円墳です。他の前方後円墳と同じく周囲には長方形の堀が 二重に巡り、墳丘のくびれ部には造出しと呼ばれる張出しがあります。 また、造出し正面の外堀には、通路と見られるブリッジ上の掘り残しがあります。 整備に先立つ発掘調査の結果から、その周辺の中堤には、琴を弾く男子、 踊る男女、武人などの人物埴輪、盾形埴輪、家型埴輪など多様の埴輪が 立て並べられていたと推定されています。 墳丘内部は未調査であるため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など 詳しいことはまだ分かっていません。古墳の造られた時期は、出土した遺物から 6世紀前半から中頃と推定されています。】 (埼玉県教育委員会 解説板より)へ~え、琴を弾く男子なんて、ちょっと変わってる・・・さて、移築された民家と薬草園を過ぎ、現れたのは鉄砲山古墳。ええ~、ここも違うの~?まだ奥なんですか~?とっくに3分経過してますけど~!不動産やさんのウソつき~!この古墳沿いの道は狭くて、先が年寄りがいて前が詰まっていたので、別のルートから古墳沿いにさらに奥へと進む。奥の山古墳・中の山古墳と次々古墳が出てくるけど、お目当てが見つからない~。中の山古墳を過ぎるとなんと道路に出てしまった。うっそ、ないじゃん!!すでに3分どころではないと思いつつも、もう少しだとここまで歩いてきたのにそりゃないっしょ~(泣)。でも見つからないものは仕方がない。中の山古墳沿いに敷地に戻って、出口へ向かってとぼとぼ歩き始めたら、途中の林の中から中年の夫婦が出てきた。「わかりづらい・・・」とか話しながら歩いていったので、もしや??と思ってその林の中へ入ってみると、小さな神社が。でも前玉神社はこれじゃない。さらに進むと・・・あっ、あった!!こんなとこに!!ホントわかりづらいよ~。念のため、神社の入口まで行って確認したらちゃんと前玉神社って書いてある。やっと見つけた~。 【浅間塚(せんげんづか)古墳 浅間塚古墳は、埼玉古墳群の南東部に位置する墳径約50m、高さ8.7mの円墳です。 古墳の墳頂に前玉神社、中腹に名前の由来となった浅間神社がまつられています。 前玉神社は平安時代の「延喜式神名帳」にその名が見られ、古くから 埼玉郡の総社として信仰を集めていました。 浅間塚古墳については、比較的最近まで古墳であるのか、 後世に気付かれた塚であるのか、議論が分かれていましたが、 平成9・10年に行われた発掘調査で幅10mに及ぶ周溝が巡ることが確認され、 古墳であることがほぼ明らかになりました。 埴輪が樹てられていなかった可能性が高いこと、 古墳の南西部の絵馬堂付近に石室の石材と思われる角閃石安山岩が見られることから、 埼玉古墳群の築造が終わりを迎える7世紀前半頃に築かれた古墳と 推測されています。 埼玉古墳群の終わりを考える上で、重要な古墳であると思われます。】 (埼玉県教育委員会 解説板より)さっそくお参りしようと石段を登り始める。すぐ上にあるのが、浅間神社。浅間神社を左手に回りこんだところにはさらに急な石段があり、これを登ると前玉神社の拝殿が。 小さいけど、古式ゆかしい神社だった。この神社は浅間塚古墳の頂上に建っている。よくこんなとこに造ったよな・・・。にほんブログ村にほんブログ村
2012年01月23日

このイベント小屋越しにも大きな古墳が見えるけど、とりあえず正面奥に見える古墳に行ってみるか。 近くまで行くと階段がついてるのが見えたので、これか!?と思ったが違った。これは稲荷山古墳だと。 【全長120mの前方後円墳です。周囲には長方形の堀が中堤(ちゅうてい)をはさんで 二重に巡り、墳丘くびれ部と中堤には造出し(つくりだし)と呼ばれる 張出しがあります。古墳が造られた時期は、5世紀後半ころと考えられ、 埼玉(さきたま)古墳群の中で最初に作られた古墳です。 前方部は、1937年に土取り工事で失われましたが、2004年に復元されました。 1968年の発掘調査では、後円部から二つの埋葬施設が発見されました。 そのうち礫槨(れきかく)はよく残っており、多くの副葬品が出土しました。 その一つである鉄剣からは、1978年に115文字の銘文が見いだされ、 他の副葬品とともに1981年に国宝に指定されています。】 (埼玉県教育委員会 解説板より)古墳の下部は黄色い花がびっしり咲いていて美しい。 じゃあ、イベント小屋の奥に見えたあれが丸墓山だな。せっかくなので、稲荷山古墳に登って丸墓山を眺める。 忍城攻めの当時、これは古墳だとわかっていたのかな~。三成様の陣ってことで、丸墓山しか話題に上らんけど、他の武将ももしかしたらこの稲荷山に陣を置いてたかもしれないよな~。少なくとも水攻めが始まった頃には、だれかがこの古墳に上ったに違いない。ってぼんやり萌えたあとに古墳を降りる。私が登ったのは後方部分。そのまま前方部にも行けたみたいだけど、ここでのお目当ては丸墓山だし。そしてようやく目的地へ。ちょうど二つある階段の真ん中らへんの地点に出てしまったので、どちらを上がるにしてもかなり歩きそう・・・とりあえず裏手の階段へと回り込む。こちらには池もあり、ウシガエルみたいな鳴き声が聞こえる。そして古墳近くには八重桜がこぼれ落ちそうなほど満開で、一番いい気候の最高の休日。 もう丸墓山は目の前だし。あ~幸せ・・・ 【直径105mあり円墳では日本最大です。 墳丘は埼玉古墳群の中で一番高く、約19mあります。 墳丘に使われた土の量は二子山古墳より多かったという試算もあります。 出土した埴輪から、6世紀前半ころに築かれたと推定されています。 埋葬施設の内容は、現在のところ確認されていません。 南側から古墳にいたる道は、1590年に石田三成が忍城を水攻めにした時に 築いた堤防の跡といわれている「石田堤」です。 水攻めの際には、古墳の頂上に陣が張られました。】 (埼玉県教育委員会 解説板より)いよいよ登る・・・が結構この木段、キツイ。ゼエゼエしながら登りつめると、そこは何もない空間。陣跡の碑くらいあるかと思った。どれ、忍城は見えるかな?と北東に目を凝らすと・・・見えた! (↑写真では忍城は見えないだろうけど、雰囲気をお楽しみください)小さくだけど、確かに見える。水攻めの当時はまだ三階の櫓はないけど、昔の人だし、視界を遮るものはなかっただろうからもっと良く見えただろう。・・・しかし、遠い。堤の全長28kmといってもピンとこないけど、実際ここに立ってみると相当な規模だってことがよくわかる。けど、「のぼうの城」のハイライトでは、ここから長親の顔が判別できるくらいまでに船が接近したような設定だけど、同時に本丸に籠る城兵からもその様子が見えた感じに描かれている・・・でも、さすがにこの距離じゃ無理じゃね?と思ってしまった。けど、小説の世界に浸ればここは三成や吉継、長親、丹波、甲斐姫らのそれぞれの思いが交錯する、最も緊迫した場面。一体何人の戦国ファンが三成気分でここから忍城を眺めただろう。関係ないけど、うちのトイレに貼ってあるカレンダーが、3・4月はたぶん棟方志功の「御雛祭御祝福」という絵で、このお内裏様がなんだか田踊りをする長親に見えて仕方がなくってね。この絵が外される前に忍城に行きたいと、カレンダーを見るたび思っていて、今日ようやく叶った・・・ああ、満足。そういえば、「のぼうの城」ではこの丸墓山に謙信公も来られたってあったよなあ。謙信公も幾度となく忍城を攻めたけど、軍神でも落とせなかったと。一般の観光客がワイワイしながら上がってきてうるさいので、萌えるのもほどほどにして、今度は表側から下りる。堤根に残るという石田堤はまた次の機会に譲り、これで今日のミッションは終了とすることにした。結構時間も早いし、最後にもう一度丸墓山を一周して帰ろうかな。しかし、さすがに日本最大というだけあって、回るだけでも結構かかる。でも頭の中は萌えているので苦にはならないけど・・・(笑)。丸墓山の頂上に立つと結構高度感はあるけど、下から見るとそれほどでもない。上まで上がらなくっても、下から声を張り上げてのご注進でも十分いけるよな。頂上の収容人員はそう多くはないし。とか考えてたらスタート地点に戻ったので、石田堤と言われている道を通って出口へ向かう。 にほんブログ村にほんブログ村
2012年01月22日

ゼリーフライで人心地ついたところで行動再開。大体の高源寺の位置はわかってても、ちゃんと行けるかな~と思っていたら、県道に行き当たった。えっと、この辺りのハズ・・・と思ってぐるっと見回したら、交差点のすぐ近くだった。ああ、良かった~。 誰もいない境内に足を踏み入れ、さて丹波の墓はいずこ・・・と思ったら、すぐ入口にあった。 『当山開基正木丹波守利英公之碑』の大きな碑があり、隣にお墓が。史跡めぐりを始めてから今まで、墓の撮影は控えていたが、ここで初撮影。この辺りの地名は「佐間」。「のぼうの城」では三成様の忍城攻めで戦いの場となった5つの口のうち、最も激戦地となった自分の持ち場である佐間口の跡地に高源寺を開いたとあるので、丹波と佐間口の戦いで亡くなった兵のために手を合わせる。「のぼうの城」の主役は一応タイトルロールである成田長親だけど、それだって丹波がいてこそだし、むしろ丹波が主役といっても過言ではない位の存在感だからね~。まだ映画のキャストは決まってないみたいだけど、誰が丹波の役をやるのか気になるところです。(注:2010年5月に書いた記事です。 この時点ではまだ配役は決まってませんでした。 今は、TVで佐藤浩一を見かけるたび、頭の中で勝手に漆黒の甲冑を着せて 映画の公開を心待ちにしております。)すぐ近くにお地蔵様がいらしたので、拝観料としてお賽銭。高源寺を出てもう一度辺りを見回す。静かで、最大の激戦地の面影はどこにもない(あっても怖いけど)。先程の交差点に戻り、そのまま南下。さてここから次のスポット・丸墓山古墳までどの位かかるかな~。行田市にはいくつかのポイントでレンタサイクルがあるのは調べていたけど、郷土博物館には何かそれっぽいのはなかったし、あれこれ想像しながら見て回るにはやはり歩くのが一番ってことで、もうレンタサイクルは探さなかった。まあ、借りれば石田堤までも楽に行けたでしょうけど。でも、歩くのは全然苦にならない。今日はホントに近来稀にみる体調の良さだし。で、佐間の交差点を過ぎ、この道でいいんだよな~と一生懸命地図を見ながら歩いていたら、歩道の端っこがいつの間にか縁石状に高くなっていて、気付かずに乗り上げてしまい、あっと思ったら左足を軽くひねってしまった。やっべ~!と思ったけど、幸い痛みはすぐに引いて歩くこともできたのでそのまま続行。県道をひたすら無心に歩く。朝、あんなに涼しかったのがウソのように暑い。コートの下、半袖にして正解。ただし思いっきり焼けそうだけど。そして何だか前方の空が開けてきたと思ったら、まず目に入ったのは『ようこそ彩の国 さきたま古墳群 めざせ世界遺産!』の大きな看板だった。 う~ん、世界遺産かあ・・・。今回は丸墓山しか目に入ってなかったので、古墳群については全然調べてなかったけど、思ったより幾つもあるみたいだしね。これだけ集まってるのも全国にそうないでしょうから、それもいいかもね。とか考えてたら入口に到着。駐車場は広くて、かなりの台数が停まっている。へえ~、人気なんだ。入口の案内図を見ると、もう少し先の道を曲がればその正面にあるみたいだったのでそのまま歩く。ここかな~?と思って入ったところは二子山古墳だった(笑)。 【全長138mの前方後円墳です。 かつての「武蔵国」(埼玉県、東京都、神奈川県の一部にあたる)で最大の古墳です。 周囲には、長方形の堀が中堤をはさんで二重に巡り、墳丘くびれ部と中堤には 造出(つくりだし)と呼ばれる張出しがあります。現在遊歩道になっている 高まりが中堤にあたります。内堀は、今は水堀になっていますが、 古墳が築造された当時は水はなかったと考えられています。 本格的は発掘調査はされていないため、埋葬施設の形や大きさ、 副葬品の内容など詳しいことはまだわかっていません。 出土した埴輪の形から、古墳の造られた時期は、6世紀初め頃と推定されています。】 (現地解説板より)う~ん、わかっていないのか・・・そんなで世界遺産は無理じゃね?と思っちゃうんだけど・・・しかし最初に見る古墳とあって大きさにびっくり。前方後円墳なんて、そういえば今まで見たことあったかなあ?まあ、地上からでは古墳の形なんて全然わからんのだけど。ここには写真の通り堀が巡らせてあって、堀沿いに奥へ進む。歩いていくと前方右手にまた古墳が。これが将軍山古墳だな。ここは明治に発掘調査がなされ、豪華な副葬品が出土しているとのこと。また後円部南側には副葬品の復元模型が置かれた横穴式石室や、古墳の断面が見学できる展示室があるとのことだが、今回は古墳を見に来たのではなく、あくまで三成様の陣の見学ですので通過させていただいて・・・どうやら入る道を一本間違えたらしい。とりあえず奥に進めばあるだろ・・・と方向を修正しつつ進むと広場に何かある。弥生式住居か何かの復元かと思って近寄ってみたら、なんとイベント用に用意されたものだった。 【産屋炎上 この古代住居は五月四日さきたま火祭のメインイベントとして 灼熱の炎に包まれ燃え上がります。 古事記によれば「ニニギの命」と結婚した「コノハナサクヤ姫」が 婚姻の夜身籠ったのを疑われ、その疑いを晴らす為、 自らこの産屋に入り「神の御子であるならば、たとえ火の中でも 無事に生まれるでありましょう」とこの住居に火を放ち、 燃えさかる炎の中で「海幸彦」「山幸彦」の二柱の神々をお産みになったとあります。 「産屋炎上」はこの故事に由来します。 さきたま火祭では悲しくも激しい愛を貫いた「コノハナサクヤ姫」が 皆様を神々の世界へ、そして遥かなる古代のロマンへと誘います。 この古代住居はさきたま火祭祭事担当地区の皆さんの手により作られました。】 (現地解説板より)ギリシャ神話なんかもそうだけど、神話の世界って結構エグイよね・・・。いやはや。にほんブログ村にほんブログ村
2012年01月20日

宮地嶽神社のお隣にあるのが、熊鷹稲荷神社。 熊鷹稲荷神社は、ここだけでなく門司にもあって、今回の旅で何度も見かけた。 【御鎮座の年代は不明ですが、京都の伏見稲荷大社に鎮まります 熊鷹社から勧請されたと伝えられています。 また、“人助け稲荷”とも称され多くの方々に崇敬されています。 現社殿は昭和天皇御即位50年を奉祝し、崇敬者の募財により建立されました。 ※お稲荷さんは商売繁盛の神さまというイメージが強いですが、 五穀豊穣を祈る農業の神、又病気平癒などの神さまとしても広く信仰されています。】 (亀山八幡宮HPより)病気平癒ねえ~。それは知らなかったな・・・お宮の中はこんな。 宮地嶽神社と同じ、両脇の水色のお飾りが気になる・・・なんていうんだっけ、こーゆーの・・・お宮の脇には、もっと気になるものが。 うう、何だろう、これ・・・お狐様には見えないし・・・カッパ?ここは小高いところにあるので、お宮の脇の石段はお稲荷さんらしく朱の鳥居が立ち並ぶ。この光景も、この旅では結構見かけた。 これで境内めぐりはおしまい。今度は正面の石段を降りて、大鳥居の向かって右側へ。 【床屋発祥之地 由来 鎌倉時代の中期(1264~73)、亀山天皇に仕えていた京都御所の武士 従五位ノ下北小路蔵人之頭藤原基晴は、宝刀の紛失事件の責任をとって職を辞し、 三男采女之亮政之<うねめのすけまさゆき>を連れて宝刀探索のため、 当時蒙古襲来で風雲急を告げていた長門国下関に下った。 基晴親子は、当時下関で髪結をしていた新羅人からその技術を学び、 往来の武士を客とした髪結所を開いた。 店の床の間には亀山天皇と藤原家の先祖を祭る祭壇があったので、 下関の人々はいつとはなしに「床の間のある店」転じて「床場」、 さらに「床屋」という屋号で呼ぶようになった。 「床屋」という言葉は下関が発祥地となりその後全国に広まっていった。 藤原基晴は弘安元年(1278)に没し市内の専念寺に葬られた。 采女之亮は床屋を続けながら宝刀の探索を続けそのうち豪商の協力により 遂に宝刀を探し出して天皇に奉還した。 その後鎌倉に移り住み幕府から京都風の髪を結う髪結職として重用され、 屋敷も賜り代々その職を受け継いだ。 時は流れて元亀三年(1572)十七代目の籐七郎の時、 武田信玄との戦いで敗退中の徳川家康を助けた功績により江戸開府後、 江戸八百八町の髪結職の営業権を与えられ、また橋見守役や火事の時は 奉行所の重要書類搬出などの役目も仰せつかった。 特に二代将軍徳川秀忠が「四民髪ヲ結ウハ勝手ノコト身ヲ綺麗ニスルハ長寿ノ元ナリ」 というお触れ書を出してから庶民はこぞって髪を結うようになり、 男髪結職と女髪結職が急に増え、日本独特の髪型が流行し始めた。 江戸時代の風俗文化は髪結職により創り出されたとも言われている。 歌舞伎役者の髪型や衣装また浮世絵に見られる美人画の髪型や衣装は、 当時の女髪結職の芸術性の豊さを物語るものである。 床屋の開祖、藤原采女之亮政之の功績を称え、かけがえのない史実を後世に伝えるため ここに記念碑を建立した。 平成七年七月一七日】 (現地解説板より。<>内は戦国ジジイが追加。)橋見守役?え~っと、確か江戸時代って、橋と床屋は切り離せないくらいの関係じゃなかったっけ?監視とか情報収集とか色んな役目を担ってたんだよね。床屋がそういった役割をあてられたのは、人が多く集まる場所であり、かつ人の行き来のある橋の近くに床屋が多くあったかららしいけど、中でも床屋発祥となった藤原さんちに名誉なお役が回ったのかもしれないね。父の基晴は宮中で宝物の管理を任されていて、亀山天皇に預けられていた「九王丸」なる宝刀を失くしてしまったらしい。「紛失」だなんて、カタナなんてデカいもの、自然になくなるわけがないでしょう?という疑問がわくのは私だけではないと思いますが・・・ともかく宝刀をたずねて三千里~(笑)の旅に出ることになった基晴親子。解説版ではいきなり三男・政之の登場となってるけど、政之の兄ちゃんたちも「オヤジ元気で留守がいい♪」とばかりに気楽に遊んでた訳じゃないんですよ。長男は反物商人、二男は染物師となって引き続き京で宝刀を探したらしいです。一家総出で父の名誉挽回のためにね。大変だったね。そんで当事者の父は下関へ向かうわけですが、なんで下関かというと、蒙古襲来に備えて幕府が多くの武士を集めていたから。武士が集まるということは刀も集まる。その中に、宝刀もあるかも・・・って目論見だったみたい。まあ、結果的には見つかった事になってるけど、床屋で日銭を稼がなきゃならない程度の年月はかかったわけだから、なんにしても大変だったでしょう。しかも、政之の床屋の評判は良かったらしいから、そうなってくると、探索が本業で床屋が内職なのか、あるいはその逆なのかもはやわからなくなってくるんじゃ・・・とか想像して、ちょっとおかしくなってみたり。ところで政之さん、苦労した甲斐あって、現在ではなんと神様になってます。京都・嵐山は「御髪神社」(みかみじんじゃ)。しかも、主祭神。ま、神社名がコレですし、床屋さんのパイオニア・政之さんの神社ですからすでにお察しのことと思いますが、こちらは日本で唯一の「頭と髪の神社」と言われておるそうです。理容関係者はもちろん、毛にお悩みの方々も多く参拝されるとか。私もこの旅でこの碑の事を知るまで、御髪神社のことは知らなかったんだ~。うちのオヤジは薄毛だし、私はオヤジに似てる部分が多いから、ハゲ予備軍のようなもので(笑)、「お悩みの方々」の一人と言ってもいいかもしれない。ので、次に魔界(京都)に行く時は、予定に組み込んでみようかなあ~。10月に行った時、ちょうど嵐山に近いスポットをいくつか保留にしてきてるしなあ・・・にほんブログ村にほんブログ村
2012年01月20日

お亀明神の向かいには「力石」がある。 【力石は、「ちからだめし」「ちからくらべ」をするために使われたといわれ、 なでると力がつくと信じられています。 当宮には二つあり、一つは勧進相撲の記念石で、文政10年(1827)に 奉納されました。】(亀山八幡宮HPより)力はあるに越したことはないので、なでなで。二つの力石の間にも、亀がおる(笑)。さて、玉紫の玉垣からここまでが、拝殿に向かって左のエリア。今度は右のエリアへ。ここでの残るお目当ては、あとひとつ。入ってすぐの手前にあるのが、恵比寿神社。小さな恵比寿さまが沢山並んでて、かわいらしい。 戦前までは宮の石段下に浜恵比須社(漁業・魚市場関係者が崇敬)が、中之町札の辻(現、引接寺下付近)に市恵比須社(商人が崇敬)がお祀りされていた。島根県の美保神社と出雲大社からご勧請されたと伝えられるもので、両社とも商売人の崇敬が篤かったが、戦災でいずれも焼失。昭和62年に恵比寿様のご神徳を仰ぎ戴くために、この二社をあわせここに再建されたものと。恵比寿神社の向かいにあるのが、「太閤蘇鉄」。 【文禄の役(室町時代・1592年)に豊臣秀吉が参拝の記念に植えた蘇鉄。 数年後、秀吉が再び参拝した時に能を奉納。 これが亀山能の始まりであります。 大東亜戦争の戦禍に遭いましたが、新芽が蘇生して故事を伝えています。】 (亀山八幡宮HPより)ここまででいくつか「戦禍に遭い」という解説がでてきたので、少し下関の空襲について。関門海峡を挟み戦略的な要衝の地である下関は、いくつかの拠点に砲台を備えた、西日本最大の要塞地帯だった。要塞司令部・関門海峡を防衛する航空戦闘隊・下関海軍防備隊が配置されており、また三菱重工下関造船所三井製錬・軍需工場・下関発電所・関門トンネルなどの戦略的重要施設があった。下関への初空襲は昭和19年6月。B29とB24の20数機が飛来した。昭和20年6月29日にはB29の大編隊が壇ノ浦上空に飛来。壇ノ浦から赤間街までの地域に焼夷弾を投下、市内東部地区は焼け野原となる。7月2日には彦島・新地を除く旧市内中心部が焼き尽くされた。2度の空襲で投下された焼夷弾は実に420トン。中国地方では広島に次ぐ大きな被害を出した。(ちなみに、1945年3月10日の東京大空襲では1783トンもの爆弾が投下された。いかに東京大空襲がすさまじい攻撃だったか、これだけでもわかろうというもの)下関の空襲の大きな特徴は、多くの非戦闘員が殺傷され市民生活は壊滅的な打撃を受けたが、おかしなことに軍事的要衝・軍需工場地帯は攻撃の対象から外され無傷のまま残された事である、と。大した反撃もできないであろう軍需施設よりは、心理的ダメージを与えられる一般市民への攻撃を選んだのだろうか・・・具体的な被害などは「総務省 一般戦災ホームページ」に詳しいので、関心のある方は上記のリンクからどうぞ。この一般戦災ホームページには、ちょうど亀山八幡宮・唐戸のあたりの空襲後の写真が載ってるけど、ホントに見る影もない。確か、大内義隆の自筆の書状もこの時に焼失したとどこかで読んだなあ。赤間神宮の所蔵だったかなあ・・・くそっ。しかし、そんな中から、お亀イチョウも太閤ソテツも再び芽を出し、下関の街は見事に復興を遂げたのだ・・・今や下関は、県都山口市をしのいで人口・経済面で県下一の規模を誇る。太閤蘇鉄の周りには、筆塚とか針塚だったかな?石碑が色々ある。奥にはなにやらぺかぺかしたお宮があるので、行ってみる。まずは「宮地嶽神社」。大きくはないけど、内部はこんなで古式ゆかしいお宮。 なんだか、両サイドにあるお飾りが気になる・・・こーゆーの、見たことない。参拝のしかたが書いてあって、ちょっと変わってる。 【先づ浅く礼をします 次に深い礼を二回します(二拝) 次に二回手を打ちます(二拍手) 次に深い礼を一回します(一拝) 次に浅く礼をします】出雲大社などを除く大抵の作法は、二拝二拍手一拝だけど、ここでは前後に浅く礼をするのが作法。これは亀山八幡宮の拝殿も同じ。出雲大社や宇佐神宮は特別で、四拍手なんだよね。あと、京都のどっかにも四拍手のところがあったんだけど・・・忘れちゃった(笑)井沢元彦氏の「逆説の日本史」で四拍手の由来について読んだ時は、面白くて感動したなあ。でも、あれには間違いもあるし、多くの反論もあるみたいだけど。ああ、また脱線・・・にほんブログ村にほんブログ村
2012年01月19日

ふくの像の奥の砂場には、亀がいる。 他にも、地面に亀がごろごろしだしたので、「あ、もしかして・・・」と思って周りを見回すと、あった。「お亀明神」が。 【お亀さん頌徳の記 境内は島であった。今を去る5百年の昔、馬関(下関の古称)開発のため わが身を滅して功あるならと、人柱となり海底に消えたお亀さんは下関の街づくりの 功労者であった。 時の人はお亀さんの功績を称え記念に銀杏の木を植えた。 木は年齢を重ねて名木となりお亀銀杏と称えられた。 木は昭和の戦禍にかかったが、お亀さんの遺志を継承するかのように、 焼跡から新芽を出し年々生長して母の木の面影をしのばせている。 実はお亀ぎんなんといい、不思議にも無数の斑点があり、 お亀さんの顔のあばたが現れたものといい伝えられている。 お亀さんの功績により開作された広い埋め立て地を八丁浜といい、 毎年五月一日から三日間、五穀祭に八丁浜(ハッチャハマ)エラヤッチャとはやし 「ぼんち可愛いや寝んねしな」と唄い、シャギリ・山車を出し、 下関の街は八丁浜を重ねるごとに大きくなった。 八丁浜エラヤッチャはお亀さん頌徳の賦である。 平成元年氏子崇敬者の篤い御奉賛により、亀山八幡宮御鎮座 千百三十年記念事業として境内を整備し、お亀明神社を再建し 池を整え玉垣をめぐらす。 ここに亀山八幡宮亀笑会創立三十周年にあたり、頌徳の記を更新し お亀さんの功績を永く称える。平成五年十一月三日】(現地解説版より)元々島だったこのあたりを、毛利が埋め立てようと工事を始めた。ところが急な流れは多大な工費と人の命を犠牲にするのみで、なかなか進まなかった。そこで遊女であったお亀さんが人柱に立ち、以後は順調に工事が進んだというお話。明治期に天然痘が流行した折には、お亀ぎんなんが疫病除けのお守りとして多くの人に求められたそうな。ちなみに、このぎんなん、拝殿の横で売ってた。 とにかくこーゆーものに興味津々なので、ひとまず買おうと思ったが、写真の通り一つのサイズしかないので、残っているこのサイズのが(小)なのか(大)なのかわからない。すぐ近くに聞けるような人もいなかったし。たぶん、余程アバタやできものにお困りの方でない限り、200円と500円のものが並んでたら、200円のを買う人のが多いとは思うけどね~。普通に考えて。まあ、500円入れておけば間違いはないんだけど、なんかそれもしっくり来ないしな~(↑お賽銭はケチらないけど、こーゆーとこはシビア)てことで、今回はぎんなんは買いませんでした(笑)。五穀祭の事も解説版に書いてあるけど、「エラヤッチャ」とはお亀さんは偉い奴だという意味だそうです。江戸時代には、藩は派手な歌舞音曲や酒宴などは禁じていたけど、八丁浜の期間中だけは各所に「賑わい勝手」の高札が立てられ、どんなに騒いでも咎められることはなかったんだって。実際に人柱が行われたかどうかはわからないけど、400年を経てなお、こうして語り継がれるってすごい事だな~と思って、解説版の全文を引用したわけです。上の解説版が更新されたのなんて、平成に入ってからだしね。この平成の世で、何百年も前の一人の女性のことをまるでつい昨日のことのように称えてるって何なんだ・・・って、解説を読みながら、時空を超えるような不思議な感覚に襲われてしまいました。まあ、ベースになる話はあったんでしょうけどね。お亀さんの、それもおそらくは悲劇が。それではお亀様にお参りをば。お亀明神の手前にある手水場はこんなの。亀の口から水が出てるのは、初めて見たね~(笑) 鳥居をくぐり、お亀明神の祠の前にあるのが「亀の池」。 【亀山八幡宮の境内地は江戸時代初めまで島でした。 島は丸く、陸や海から眺めると亀の形に見え、夏になり日照りが続くと 境内は亀甲模様の亀裂があらわれました。 そういうこともあって亀山島と称していました。 亀は水中でも陸上でも生きることが出来ることから、 あの世(神の世)とこの世(現世)を行き来できる動物として神聖視され、 神社には古くから亀が大切に飼われており、戦前には大変大きな池で鶴もいました。】 (亀山八幡宮HPより)あの世とこの世ねえ~。それは初めて聞いたな・・・関係ないけど、うちは一時期亀がいたことがあってね。だから、親近感があるんだよね。こちらは生きてる亀です。 お亀様を祀っているのはこちら。 にほんブログ村にほんブログ村
2012年01月18日

狛犬のすぐ近くには「亀山砲台跡」がある。 【江戸末期、開国を迫る諸外国への危機感が高まり、 長州藩は全国にさきがけ外敵防禦策をとり、長州藩主毛利元周公は 亀山八幡宮を始め、市内各地に砲台を築き攘夷戦に備えた。 文久三年(1863)五月十一日午前二時久坂玄瑞の指揮により アメリカ商船攻撃合図の砲弾が亀山砲台から発射され米仏蘭三国相手に 六回にわたる馬関攘夷戦の火ぶたがきられた。 同年六月一日、藩主は亀山八幡宮に夷敵降伏を祈願した。 敵弾は楼門をかすめただけで社殿守兵とも損傷なく、 時の人はこれ神威なりと矢よけ八幡宮と称えた。 翌年八月の四ヶ国連合艦隊襲来により攘夷戦は幕を閉じ、 開国、尊王攘夷を経て、明治維新へと急速に時が流れた。 亀山砲台はまさに近代日本の幕開けを告げる第一弾を発射したのであった。】 (現地解説版より)元周?敬親じゃないの?と思ったら、長州藩主じゃなくて長府藩主と書くべきところだわ。これ。石碑の前に上の写真の石があって、「もしかして、これ、砲台が置いてあった石?あるいは、そのレプリカの類!?」とか思って写真を撮ったんだけど、幕末ファンのサイトを見ても、そんな解説をしてくれている人は1人もいないので、実際のところこれが何であるかはわからなかったのであります。砲台跡から見た赤間ヶ関はこんな。 宮自体は大きな被害はなくっても、連合艦隊の攻撃は結構なもので、敵の上陸も許したらしいけどね。後の戦いでは、高台にある砲台のため、砲口を下に向けなければならず、砲身に込めた弾丸がころげ出るなんてこともあったらしい。そのため、ちょっと役に立たなくなっちゃって、前田・壇ノ浦の砲台が中心になっていったと。そうはいっても、「矢よけ八幡宮」あるいは「弾よけ八幡宮」として先の戦争では出征する兵士さんのお参りも多くあったとのこと。今の境内はそう広い面積ではないけど、長い社歴の中で、どれだけの人の想いが詰まった場所であることか。ところで、この宮からの風景は、古くから文人墨客にも愛され、「鎮西第一勝の地」「西海第一関」なんて讃えられているそうな。戦国ファンにはおなじみの連歌師・飯尾宗祇もここで句を詠んでいる。 「秋遠し亀の上なる峯の松」さて、亀山砲台跡の碑のお隣は「お亀茶屋」跡。 【伊藤博文公夫妻史跡 「お亀茶屋」跡 幕末のころ北前舟の寄港地として海陸物産が集散し西の浪華として栄えていた 下関の街を、明治維新の志士たちが繁く往来していました。 慶応元年(1865)の初夏、刺客に追われた伊藤博文公が亀山八幡宮の境内で、 茶屋のお茶子だった木田梅子に助けられたのが二人の出会いで、 その一年後に夫婦になりました。 伊藤公は明治新政府を樹立し、初代内閣総理大臣として日本の近代化と発展に 身命をなげうち、明治四十二年(1909)、凶弾に倒れました。 明治の元勲と称えられる伊藤公と、公を支えた梅子夫人が結ばれたゆかりの場所です。 ”国のため光をそへてゆきましし 君とし思へど悲しかりけり” 夫人は大正十三年(1924)に七十七才で亡くなりました。】 (現地解説版より)・・・解説だけ読んでると、お札にも描かれた人だし、偉人のラブロマンスの地みたいだけどね・・・(笑)公人としては大変立派な方ですが、私人としてはかなりの女好きだったようで、梅子と出会った時の伊藤俊輔(博文)はすでに妻帯者。入江九一の妹と結婚しておったのじゃ。入江九一さんは、禁門の変において、久坂玄瑞らと自刃した人。幕末ファンには説明なんかいらないけど、幕末を全然知らない人にはせいぜい久坂玄瑞(←教科書に出てくる)あたりがギリギリラインかと思うので、この辺の説明は難しいな(笑)。ともかく、最初はいわゆる不倫であった訳ですが、すったもんだの末結局前の妻と別れて梅子さんと結婚したのです。結婚後も、素人さん・玄人さんとりまぜて女性問題は色々あったらしく、それでも梅子さんは夫を立てまくったみたいです。梅子さん、すごい!夫を取り巻く女性達にもあれこれ気を遣ってあげたのに、逆にそれで陰口をたたかれちゃったり。現代の女性にはまんず無理でしょうね~(笑)。ええ、もちろん私も無理ですね。さて、ロマンスの解説版の奥には「ふぐの像」。 ここ下関は、ふく刺しを絶賛した伊藤博文のおかげで全国に先駆けてふくの食用禁止が解禁となった地。 昭和9年に関門ふく交友会の人々が境内表参道東側に「波のりふくの像」を建立したのが始まり。しかし昭和19年、先の戦争での金属供出により台座のみとなってしまったそうな。平成元年、有志によりふく銅像再建推進委員会が結成され、46年ぶりに再建(総経費2,000万円!!)。除幕式は、平成2年9月29日(フクフクの日)に行われ、以後毎年9月29日にはふく漁解禁にあわせて、ふくの像の前でシーズン中の航海安全・豊漁・商売繁盛を祈願するふく祭りが関係者一同により執り行われています、とな。いやいや、2,000万円ねえ~この像の台座は高く作られているので、下の国道からも拝める。像の下の石垣には、『世界一のふくの像』とデカい横断幕が張られている。確かにこんなサイズのお茶目なフクなんて、誰も作らないよな~(笑)。悲しい過去を持ってるなんて思えないほど、癒し系の姿。にほんブログ村
2012年01月17日

参拝を済ませてから社務所へ。まずは娘さん達の首輪に着ける、フクのストラップヘッド。あと、フクの絵馬。これは友達に送るのだ。 ここの売り場には、ひからびた平家蟹が飾られていた。売り物じゃないけど。平家蟹ってのは、甲羅が人の怒った顔のようにも見えるカニのこと。分布は広いんだけど、瀬戸内海や九州の沿岸に多く、壇ノ浦に滅びた平家になぞらえてこの名前が付いた。この模様については、人の顔に似れば似るほど人が食べることを敬遠するので、進化の過程でこの模様を選択したのではないかという説があり、外国の天文学者も、そうだとすれば壇ノ浦に近いところほどより人の顔に似るんじゃないの~?なんて仮説を立てたりしてて、面白い。ただ、これらの説については甲類学者が、外国にいる平家蟹も同じ模様なんだし、そもそも食用の蟹じゃないんだから関係ないっしょ~ってあっさり否定しているらしいけど(笑)。唐戸には水族館もあって、当初は平家蟹を見に行くつもりだったけど、とりあえず諦めた経緯がある。でも、ここで見られて良かった♪その他、「大福梅」なるものがあった。 干した梅が納豆みたいにワラにくるまれている。入り口にポスターがあったので、気になってたんだ~。 【大福梅とは正月の縁起物です。 塩漬けにした梅の実をカラカラに干した後、新穀の藁に包み神前にお供えし、 年末から年頭にかけて頒布されます。 元日にさ湯やお茶にひたして飲めば、その年を健康に過ごせるとして 多くの参拝者にもとめられています。 大福梅は、平安時代の村上天皇の御代、疫病が広がった時に梅茶をふるまって 退散させた故事にちなんでおり、「王が服する」の「王服」が 「大福」に転じたといわれています。】 (亀山八幡宮のポスターより)う~ん、ここでも疫病が元か・・・京都の「からいた」もそうだったよね。村上天皇の故事にちなんで、ここの大福梅がいつから作られていたのかまではわからないけど、ポスターにある大福梅の作り方の写真を見ると、巫女さんが手作業で作っているみたい。知らないところで、今も歴史が現代に息づいているんだなと感じる瞬間。これらを買い求め、いざ境内散策へ。一段下がったところには手水社があり、その脇にある玉垣、これが「大坂屋玉紫の玉垣」。 下関の稲荷町(現在の赤間町)は、有名な遊郭。9軒あった遊郭の中で大坂屋は最も大きく、そこで一番の売れっ妓だったのが玉紫さん。その玉紫さんが寄進したといわれるのが、ここの玉垣。玉垣(たまがき)ってのは、たいていの神社にはある柵のこと。ウィキペディアには、 【神社神道が確立され、社や拝殿や本殿が建立され敷地(自然との境界)が 明確になるにつれ、曖昧であった常世と現世の境界でもある神域が はっきりと区別されるようになり、神籬と磐座・磐境が結びつき、 石造の垣根などに代わり、現在の神社にみられる玉垣に変わっていった】と解説されている。この玉垣には、「大坂屋玉紫文化九壬申九月吉日」(文化九壬申=1812年)と刻まれている。よくよく見ると、玉紫さんだけじゃなく、他の大坂屋の遊女さんの名前が刻まれてる石もあるんだけどね。下関の遊郭は他とは異なり、特別の格式を持ち、気位も高かったそうな。芸に秀で教養もあり、しとやかで衣装は古式。遊女は「女郎」と呼ばれ、客の上座に座り、足袋を着けていた。よそでは、足袋を履くことは許されていなかったんだって。平家滅亡後も生き延びた女官たちは、春を売って生計を立てていたとも言われているので、その血を引くかもしれない女性たちにふさわしいエピソードだな。玉紫の玉垣の先には、一対の狛犬。そもそも狛犬ってのは、獅子と高麗犬が混同されてつくられた架空の動物で、インドの信仰から発生し、中国経由で日本に渡来。神仏習合にともない神社内にも置かれるようになったといわれ、魔除け・守護・装飾としての役割を担っているものなんだって。で、ここの狛犬は子持ちなのだ。 上は、子供を胸に抱え背に乗せてる。下は、子供が背中にへばりついてる。首の後ろに平べったい顔が出てるのが、わかりますかね?私も神社へ行くと、狛犬は比較的見る方だけど、子持ちの狛犬はたぶん見たことがないので珍しいと思ってた。ただ、この後、別の神社で子持ちの狛犬を見たので、実際どの程度珍しいものなのかは、ちと不明。にほんブログ村にほんブログ村
2012年01月16日

さて、まずは下関名物、フクを頂こう。こちらでは、「フグ」と濁らず「フク」という。この唐戸付近は下関の観光スポットが多い上に、カモンワーフは海沿いにあり大きな商業施設とあって、普通の観光客が多い。思ったより小さなショップがごちゃごちゃと入ってるみたいだけど、のんびり見ているヒマはないので、とにかく食い物屋を探す。幸い、入ってすぐのところにお手頃価格のセットメニューのあるお店があったので、ここでフク初体験。刺身と唐揚げとご飯、味噌汁すべてがフク。あと濃厚なフクの豆腐みたいのもあったな~。さて、お味は・・・と思ったら、正直、期待したほど美味しくもない。湯引きも付いてるけど、淡泊のひとこと。刺身よりは、唐揚げとか火を通すものの方が美味しいと思った。でも、今回の土産はフクにしようと思ってるので、とにかく自分で食べてみないと選べないしね~。しかし、毒にあたる危険を冒してまで食べるほどのものじゃないんじゃ・・・とか思ったけどね。さて、お腹もいっぱいになったところで行動開始じゃ。今日の予定はとりあえず3つか4つで、普通の人ならかなり時間が余るだろうけど、私はちょっと普通の人じゃないので(笑)、焦ってもこなせるかどうか・・・しかも、今日はかなりな萌えスポットを含んでいる。気に入ったとこでは半端なく時間を使うので、なるべく急いで、頑張らないと。カモンワーフから国道に出ると、すぐ眼の前に亀山八幡宮。 御祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・仁徳天皇。平安時代(859)に宇佐八幡宮から勧請された。ここの大鳥居は、御影石製の鳥居としては日本最大の鳥居なんですと。こんなに大きいのに、左右の柱はつなぎ目がないという事なので私も探してみたけど、つなぎ目は見られなかった。まあ、他のところでも鳥居の継ぎ目なんて探したことはないけど(笑)。大鳥居の向かって左側には、山陽道の碑がある。 明治11年建立。山陽道の歴史は古く、807年の改正がどーのという話なので、8世紀にはすでに山陽道は存在していたらしい。時代時代で様々な変遷を経ているので、一口に山陽道といっても色々あるのだが、いずれにせよ下関が本州の西の果てであることに変わりはなく、したがっていつの時代もこの地が本州陸路の終点であり、また九州への海の玄関口であった。亀山八幡宮の麓には関所(船番所)が置かれていた。交通の要衝にあった上ノ関、中ノ関、下ノ関の3つの関は「周防灘三関」と呼ばれ、現在の下関市の名称はここから来ているんだと。ちなみに、神社のあたりは古くは島で、この島の形が亀に似ていたから「亀山八幡宮」、あるいは、宇佐の八幡様がお祀りされている山が亀山だったから「亀山八幡宮」になったともいわれているらしい。普通の人は石段を上がって参拝して、つらっと見ておしま~い!ってとこだけど、実は色んなモノがあって結構見ごたえがあるのですよ。(↑早速長居した人)では石段を登って、まずは本殿へごあいさつ。亀山八幡宮の別名は、「関の氏神さま」「亀山さま」。 平安時代に宇佐神宮から京の石清水八幡宮に勧請される途中、ここの島に泊まった八幡様がいたくこの地をお気に召したとのご神託があり、お供の勅使が時の国主に命じ仮殿を造営させてお祀りしたのが始まりと伝えられている。時代が下り、室町時代は遣明船が太刀を奉納し、航海安全を祈願したりした。戦国時代には神社も荒廃してしまったものの、永正3年(1506)、なんと大内義興は交易相手の朝鮮国に「うちの八幡様直すから、ちょっとカンパしてくんない?」とばかりに寄進を要請、めでたく社殿や楼門の修築が叶ったのであります。義興の子・義隆も550石を寄進。てことで、あまり一般には知られてないかもしれないけど、さりげなく大内ゆかりのスポットでもあるんですね~大内氏に代わってこの地を治めた毛利家も、寄進したり能舞台を建立したりしている。江戸も末期には、藩主は攘夷を祈願、慶応3年(1867)に国難は去ったとして剣馬を寄進したとある。創建も古いし、時の為政者から庇護を受けるなんてなかなか格の高い神社かな~って思ったら、元禄期には「長門国三社」といわれてたんだって。やっぱりね。にほんブログ村にほんブログ村
2012年01月15日

山口宇部空港からバスで下関へ。下関の手前は、城下町長府。坂本龍馬の警護をした三吉慎蔵君は長府藩士だったから、この辺にも出没したのかな~なんて思いつつ、通過。三吉君は、寺田屋の時には龍馬さんを助けた人なんですよ。その時の功績で、藩主・毛利敬親から刀を下賜され、20石加増もされている。長府は大内家最後の当主・義長の最期の地でもあり、他にも大内のゆかりはあるんだけど、今回のテーマは(いちおう)壇ノ浦なので、次の機会に…さて、壇ノ浦が近くなるとまず現れるのは、「平家の一杯水」。(クリックするとMapfanにリンクします)傷ついて海に落ち、命がけで岸に辿り着いた平家の武将が、この場所でわずかな湧水を見つけ、口にした。夢中になって二口目を飲んだところ、真水が海水に変わってたという、何とも不思議なお話。この話の続きはどこを見ても書かれていないので、だからなに?ってよく意味がわからなかったんだけど、赤間神宮で買った冊子にはこんな風に書かれていた。 『一杯だけ飲んで南無阿弥陀仏の世界に入る者にとっては おいしい真水であるが、息吹き返してもう一杯という者にとっては ただの海水となっていたというこの伝説の筋、 ちょうどなぎさに清水が湧き出るという珍しい事象と、 おそらくこの岸辺に傷つきあるいは息たえた多くの武将が流れついたのを 見たであろう体験という二つの要因を、「末期の水」の思想が 巧みに結びつけたものであろうと考えられる。』 (「赤間神宮 下関・源平史跡と文化財」より。以下「赤間神宮」)ああ、なるほどね・・・でも、必死になって逃げてきた人に対して、その言い方はちょっと冷たくない?生き延びようとして何が悪いんだ?とか思っちゃうんだけど、ここで殺された平家方への鎮魂のために生まれた話かもしれないというのには、すんなり納得がいった。ここも当初は立ち寄る予定だったけど、時間の関係でカット。でも、国道9号線のすぐ脇なので、バスの中からも見えた。もう降りるバス停が迫っているので、写真は撮らなかったけど。そして唐戸バス停で降りる。今回の宿は唐戸の桟橋の目の前なので、荷物を預け、付近の地図なんかをもらって行動開始。っつっても昼時なので、まずはちゃちゃっと腹ごしらえ~。ショップや飲食店が沢山入る複合施設、カモンワーフの手前にまず第一のスポット、ザビエル上陸記念碑がある。 1549年、ザビエルは鹿児島に上陸。薩摩では島津貴久に謁見し、布教の許可を得ている。その後、平戸・博多を経由し、ここ下関にて本州の地を踏んだ。豊後では、大友宗麟にも会ってるわな。この碑は、ザビエルさんの来日450年を記念して建立されたものらしい。そして、こんなものもある。 解説らしい解説もないので、「なんじゃ、こりゃ!?」と思って眺めていたら、後ろを通った観光客の兄ちゃんが「ここにザビエルの城があったのかな?」なんて言いながら通り過ぎていった。いや、城なんてないから~!この後ザビエルさんは山口へ向かい、大内さんちの義隆君に会うんだよ。後で調べたら、この石はザビエルさんの生まれたスペイン・ザビエル城の石なんだってさ。ちなみに、神田・山口・鹿児島の教会にはザビエルさんの遺骨が安置されている。また、大分トラピスト修道院には右腕の皮膚があって、常時展示されているんだと。うひょ~!彼の死後、ゴアで3日間遺骸が公開された時、一人の女性がなんと足の指を噛み切って持ち逃げしたなんて、スプラッタな話なんかもあるらしい。腕やら耳やら骨やら、体の一部は世界中に分散してるらしく、守護聖人といえば聞こえはいいけど、聖人さんも大変だよな~(笑)。話がそれちゃった。ザビエル記念碑の隣には、「堂崎の渡し場跡」の碑がある。 【山陽道はここで終わり、関門海峡を渡って九州へと続いていました。 いつのころからか堂崎の渡し場と呼ばれた公式の船着場がこの地にあって 江戸時代には旅人の往来手形を改める津口の船番所も置かれていました。 ここは日本で初めてキリスト教と西洋文化を伝えた宣教師 フランシスコ・ザビエルや、長崎で殉教した二十六聖人、 幕末の思想家吉田松陰や志士高杉晋作ら多くの有名無名の人々が この渡し場の石段を踏みしめて、歴史の一ページを書き加えていったのです。 碑の前面に堂崎の渡し場の石を活用しました。】(碑文より)龍馬さんも、この堂崎の渡しから乗り降りしたのかもしれないね。にほんブログ村にほんブログ村
2012年01月14日

今回の旅ログの最初は、現地からケータイで入れてます。行く前の経緯から書き出さないと、自分でも忘れちゃうし(笑)。2012年最初の旅は、元々愛知県岡崎市に行く予定でした。去年は遠出が多かったし、今年はいくつかあるプランのストックの中から、近場にしようと思って。一方、壇ノ浦は去年の山口行きの際、当初は計画に入っていたものの、山口市をじっくり攻めるプランに変更したので結局行かれず。今年・来年は大河効果で賑わうかもしれないので、壇ノ浦に行かれるのは再来年くらいになっちゃうかと思ってましたが…(←人ごみキライ)岡崎のプランを練ってる最中、何気にヒコーキを調べたら、まだ早割でお得に行ける事がわかって、大河が始まったばかりならまだ混まないカモ…オフシーズンだし~と思い、急遽岡崎から変更。赤間ヶ関(関門海峡の古名)を挟んで、平家関連のスポットを回ることにしました。今までも平家関連のスポットを回ろうと思いつつ、最終的に戦国の旅に塗り替わってしまう私にしては珍しく、9割くらい平家の旅のプランが出来上がり喜んだものの…大体、私の予定の作り方は、メジャーな資料から大まかなコースを作り、具体的に細かいことを調べる中で最終的に予定を組んでくというもの。だから、決まるまでいつも二転三転する。で、今回も年末年始に集中して作業してたら段々戦国色が出てきて、最後の最後ですごいものの存在(戦国関連)を知ってしまったので、結局平家のスポットをいくつか削って予定を組んだ(笑)。交通の要衝だから、時代時代で実に色んな歴史を持つ場所なんだもん…しょうがないじゃん…平家は好きだけど、やっぱり私のホームは戦国時代だから、平家の民になりきれない自分を痛感した次第です。にほんブログ村にほんブログ村
2012年01月09日
下関なう。平家ゆかりの地で大河の初日を迎えるのを楽しみにしてたのに、ツッコミどころが多すぎて疲れた…続いて始まった、中尊寺金色堂のドキュメンタリー。 てことで、中尊寺の思い出を。東北の温泉をあちこち回った時のこと。一ノ関の宿を引き払って車に荷物を積み込んでたら、耳元に響いた重低音。「ハチだあ~!ハチ!!」わたくし、生まれてこのかた、ハチに刺されたことはございません。刺された経験がないからこそ、ハチが怖くてたまりません。痛いのも嫌いだし、2回目以降は運が悪かったら死んじゃうんだよ!!10人に1人がアナフィラキシーショックを起こすなんて、すごい確率じゃない?てな訳で、重低音の羽音には非常に敏感なのです。で、辺りを見回すと、ハチらしきデカイ虫が2~3匹わんわん群がってきたのが見えた。続いて脳天に激痛。「やられた!しかも、頭!!」急いで荷物を乗せて、自分も乗るために、車の周りをぐるぐる走り回った。ハチを振りきろうと思って(笑)。でもしつこくついてきやがってまるで「ちびくろサンボ」。で、何とか車に乗ったものの、精神的ショックは大きかった。でも興奮してハチ毒が早く回ると困るので、安静にしつつ…だって頭だったし。そして向かったのが中尊寺。いっぺん行ってみたかったんだよね~。金色堂のラストにしてハイライト、黄金の須弥壇。ここで大勢の人と一緒にガイドを聞いてたら、足の甲に激痛。あまりの痛さに足を見ると、またハチ!!足の甲にへばりついてる。つっかけが飛んでくほど足を振って、振り払う。「こんなに人がいるのに、何で私だけえ~!!」帰ってから足に変な斑点みたいのができたので、ホントにハチだったのか?と思って調べたら、アブだったことがわかった。アブも初めての経験。ハチは刺すけど、アブは刺すんじゃなくて、歯で皮膚を噛みきるんだってね。それで染み出た血を舐める恐ろしい虫だとそこで初めて知った。噛みきるんじゃ、痛いハズだわ~。幸い、その後身体に異変は起きませんでしたけどね。忘れられない、苦いおもひで…………
2012年01月07日
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