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関蝉丸神社の境内はそう広くはないけど、石碑だとか色々古そうなものがいくつもある。こちらが拝殿。 拝殿の正面には板絵が飾ってあって、その上には・・・ なんだろう、くちばしが長いけど、カモ?(笑)ちょっと変わってる。たぶん、相当古いんじゃないかな。多少ボケてるけど、拝殿から見る本殿。 拝殿を取り囲んで、回廊が巡らされてる。ちゃんとした神社の形式の知識がないけど、これも一種の玉垣かな?神社は無人で、あまり人も来ないらしく、回廊にはクモの巣がかかったりしてた。境内には、謡曲の解説が。 【謡曲「蝉丸」と関蝉丸神社 幼少から盲目の延喜帝第四皇子蝉丸の宮を帝は侍臣に頼み、僧形にして逢坂山に お捨てになった。此の世で前世の罪業の償いをする事が未来への扶けになると あきらめた宮も、孤独の身の上を琵琶で慰めていた。 一方延喜帝第三皇女逆髪の宮も、前世の業因強く、遠くの果まで歩き回る 狂人となって逢坂山まで来てしまった。美しい琵琶の音に引かれて偶然にも弟の宮 蝉丸と再会し、二人は互いの定めなき運命を宿縁の因果と嘆き合い、姉宮は心を 残しながら別れていく。という今昔物語を出典とした名曲が謡曲「蝉丸」である。 蝉丸宮と関明神祠と合祀のことは定かではないが、冷泉天皇の頃、日本国中の 音曲諸芸道の神と勅し、当神社の免許を受けることとされていたと伝えられる。】 (現地解説板より)謡曲の中では皇子サマって設定になってるけど、実際の蝉丸さんの人物についてはわかっていません。乞食だったなんて説もある。ここへ来たのは、宿から近かったのもあるし、逢坂関のところまでは行く時間的余裕はないけど、ちょっと逢坂山の雰囲気を味わいたかったから。あと、この暑い中同行してくれてる友達は音楽家なので、ちょうどいいかな~と思ったんだよね。けど・・・天気は良かったから、写真は割と明るく写ってるけど、実際は鬱蒼とした木々に囲まれて、境内は暗かった。その暗い日陰に、いかにも古そうな石碑とかがいくつもあって何か明るい雰囲気じゃなかったので、あまり写真は撮ってない。一人だったらちょっと怖かったかもしれないな・・・正直、私の体質にはあんまり合わない場所だった。「それって、ナントカスポットじゃないの~?」とかツッコミ入れないでね。関は色んな人が往来して様々な思いが交錯した場所でもあるし、それでなくてもここは王城鎮護の祭祀とかが行われてきたところだから、そうしたプラスやマイナスのパワーは秘めてたかもしれないな~とか、後から思った。それはともかく、友達の益々の芸の発展を二人で祈念して、境内をつらつら見てから次のスポットへ。途中にあった大津のふたはこんなの。 大津絵の柄。下にあるのは、瀬田の唐橋かな?大津市内にあるふたは、もっと地味な柄のがほとんどだったんだけど、これは琵琶湖の波をモチーフにしたものなんだよ~と、ふたマニアの友達が教えてくれた。・・・が、地味な方の写真がない撮ったかと思ってたんだけど、たぶん地味すぎてやめたんだろーな(笑)。大津駅前の大通りを琵琶湖方面に向かって降りていく途中、道路の真ん中に大きなイチョウの木があった。 【華階寺(けかいじ)のいちょう 二株 このいちょう二株は華階寺旧境内に位置していましたが、大津駅前大通りができるのに 伴って、中央分離帯の緑地として保存されました。南北に並ぶ二株はともに雌木です。 いちょうは、中世代のジュラ紀(約2億4千万年前)から現在にまで遺っている 生きた化石です。 華階寺のいちょうは、同寺の開基(1532年)にあたって植えられたものと伝えられて います。いずれにしても樹齢400年を超えると考えられる巨木です。 大津市街地において稀にみる大樹で湖上・陸上からの景観としても貴重なものです。 昭和50年1月に大津市の指定文化財になりました。 (北樹) 根まわり 3.80m 目通し 3.46m (南樹) 根まわり 3.60m 目通し 3.28m】 (現地解説板より)おお~、戦国時代からあったかもしれないイチョウかあ~。しかし、これも写真がない大きすぎて収まらなかったから、断念したような気がする・・・とにかくホントに暑くて、収まる場所まで移動して撮ろうって根性はなかったし。ここからもう少し歩いたところが、大津別院(場所はこちら)。 ここは、石山合戦で有名な本願寺顕如の長男・教如が慶長5年に創建したお寺。一旦は教如が顕如の跡を継ぐものの、秀吉の横槍が入って教如は引退させられ、三男の准如が跡を継ぐ。天下人となった家康は教如を完全復帰させようかと考えたものの、本願寺の勢力を二分させたままの方が都合が良いとした本多正信の献策をいれて、准如との対立構図は残したままの状態で教如を支援。教如は東本願寺を設立し、現在にまで至る東西本願寺の分裂が始まる。大津別院の創建や再建の際には、大津の有力な豪商たちが上地や金銀を寄進したといわれている。教如と家康とこの大津の米商人たちの親交はかなり深かったらしい。上の写真の本堂と、その奥にある書院は国の重要文化財。本堂は予約すれば拝観できるけど、今回は外から見るだけ~。ここの木鼻も、ゾウ。 象の初来日は応永年間だから(「赤間ヶ関編(47)」をご覧下さい)、創建の時にはすでに日本人は象を経験してるはずだけど、ほとんど想像上の外見になってるな。妙になまめかしいと思うのは、私だけ?(笑)※「大津城Part1」に続きます。 にほんブログ村
2012年05月31日

1日目<'11/7/16(土)ドぴ~かん>ひどい下痢で寝込んでた今年のGW(「2011 健康運」をご覧ください)はガイドブックを見て夏以降の旅のプランを練ってた。その第一弾は、48都道府県で一番好きな(注:2011年7月現在)滋賀!史跡めぐりの時は大概一人が多いけど、今回は京都在住の友達が付き合ってくれる。今回も予定てんこもり(笑)。楽しみだなあ新幹線で京都まで行って、琵琶湖線で大津へ戻る。今回の宿は、大津駅のすぐ近く。しっかし暑いな、今日・・・去年のこの連休は彦根に行ったけど、梅雨明け直後であの時もクソ暑かったよな~。琵琶湖があるからちょっとは涼しいんじゃないかと思ったけど、予想外の暑さに驚いたもんだ。あの時は記念すべき、滋賀デビューだったし。さて、大津の駅で友達と待ち合わせて、駅のすぐ近くの観光案内所でパンフレット類をもらって、荷物を預けに一旦ホテルへ寄ってから行動開始。まずは大津駅の南口から線路沿いに西へ。途中見かけた小さなお寺でまず足が止まった。 幻案寺(場所はこちら)。ここはお目当てじゃない。観光寺院ぽくもない。なら何で足を止めたかというと・・・ ・・・てな様々な建築美に見入ってたワケですよ。 お堂の中も、例によって賽銭用の穴から覗いたと思うけど、とにかく外観ばっかり惚れ惚れと見ていたので、覚えてない(すみません)。お堂の木鼻は、ゾウ。 いんや~、通りすがりの小さなお寺で、しかも外から見るだけでこれだけ見ごたえがあるなんて、古い町はやっぱりすごいなあ~。さっすが、滋賀!!しばし写真を撮りまくった後で、さらに歩いた先に今日最初のスポットがある。 写真じゃ遠近感がイマイチだけど、参道を京阪の線路が横切ってる。犬山の瑞泉寺みたいだ~。この立地上、踏切の名前は となってた。という訳で、関蝉丸神社(下社)にやって来ました(場所はこちら)。 名前でピンと来る方も多いと思うけど、百人一首の これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関の歌で有名な、あの蝉丸さんですよ。ここは下社で、さらに南の方に行くと上社がある。この他に分社があって、これら3つをあわせて「蝉丸神社」とも総称する。上下社をあわせて一社とし、どちらにも蝉丸の霊を祀る。社記によると、創祀は弘仁13年(822)と伝える。嵯峨天皇の時代だ。現在は上社の近くの国道1号線沿いに「逢坂山関址」碑が建っているが、実際の関はもう少し大津寄りにあったと推定されているとの事で、京と近江の国境にあたる交通の要衝でもあった場所柄、古くから国境の神や道祖神(手向の神)、関の守護神などとして崇敬されていた。さらに、王城の疫神として道饗祭(みちあえのまつり)が行われてもいたそうな。道饗祭とは、毎年6月と12月に京の四隅で行われていた疫神祭で、鬼魅(きみ)の京への侵入を防ぐため、四隅の路上で饗応し足止めをしたという。そういった王城にとって重要な場所であったため、それらの神々を集めて上下社がスタートしたものと考えられているという。その後、関明神として崇敬を集めてきたが、いつしか関明神=蝉丸という信仰が広まり、歌人であり琵琶の名手でもあった蝉丸にちなんで、歌舞音曲や諸芸にかかわる人々の信仰が時代が下るごとに篤くなっていったんだと。逢坂山は、百人一首では蝉丸さんの他に 名にしおはば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな (三条右大臣)の歌があるけど、同じ場所を詠んでいても、こちらの逢坂山は「逢う」にかけてる言葉で、恋の歌。とは言っても、どちらの歌も人の出会いと別れの交差する逢坂山を詠んでいるので、この辺りをかつては多くの人が徒歩で行き交い、様々なドラマがあった場所なんだな~とぼんやり想像してみたりする。今はこの山の下をトンネルが走っているので、新幹線で京都で降りるなら、あわただしく下車の準備をして何の感慨もなく通過しちゃうところだけどさ・・・そう考えると、現代はとても便利ではあるけれど、何だかロマンもへったくれもないなあ・・・(笑)にほんブログ村
2012年05月30日

地蔵通りを巣鴨駅方面へ向かう。次のスポットへ行く前に、来る時に目星をつけておいたお店にちょっと寄ってこう・・・と思ってまず入ったのは、帆布の小物を扱ったお店。ここが、かわいいバッグとか手ぬぐいとかたっくさんあって、興奮しながら物色。 勢いにまかせて、ものすごい数の商品を買うところだったけど、巣鴨ならまた来るしな・・・と珍しくちょっと冷静になって、欲しかった物の半分くらいにしておいた(笑)。帆布やさんを出て、今度は斜め前にある健康食品ぽいお店へ。珍しげなものがここにも色々あったけど、とりあえず気になってたコレを買った。 「黒にんにく 熟丸」。なんでも発酵させたからこんな色なんだそうで、このまま食べられる。1粒はかなり大きなにんにくだけど、値段もお高め。味は・・・・「すっげ~、ウマイ!!」とはちょっと言えないかな・・・マズくはないんだけど。店内で座らせてもらって、冷たいざくろジュースで休憩してから、お店を出た・・・ら、さっきの帆布やさんの奥さんが走って来て、また店内に連れ込まれた。何事かと思ったら、おつりを少なく間違えちゃったんだって(笑)。2品くらいだったら私も気付いたかもしれないけど、小さな物を沢山買ったから、全然気付かなかった。わざわざ追いかけてきてお金を返してくれるなんて、良心的だなあ~とか思いながら、お店の外へ。とげぬき地蔵が近くなると、超熟年層をターゲットにしたお店が増えてくる(笑)。お仏壇のお店の店先には、沢山お香が並んでた。お香はいつも通販で買うんだけど、普通の仏事グッズのお店では見かけない位の色んな種類のお香が並んでて、気になるのをひとつひとつくんくん嗅ぎながら、幾つかゲット。いや~、これだけの線香の品揃え、さすが巣鴨だわ~最後は、商店街の出口に近いお店で大福を買う。ここのは、大きくて美味しいんだよね。うちでは巣鴨といえばここの大福がセットになってるから、今頃大福を土産にした私の帰りを、うちで母親が首を長くして待ってるに違いない。さて、買い物終わりっ!次はここ、医王山真性寺(場所はこちら)。 このお寺の正確な開基はわかっていないが、聖武天皇の勅願で行基様が開いたと伝えられている。その後、元和元年(1615)に中興され、徳川吉宗がたびたびこのお寺に立ち寄ったそうな。吉宗の子の家重も狩りの時に休憩所として使い、かつては御成門があったという。地蔵通りが旧中山道だって事は前に書いた通りだけど、ここはその入口にあたる。江戸時代には、京の六地蔵にならって主要六街道の入口に地蔵菩薩様が置かれたという。すなわち、 1番目 品川寺/東海道 2番目 東禅寺/奥州街道 3番目 太宗寺/甲州街道 4番目 真性寺/中山道 5番目 霊巌寺/水戸街道 6番目 永大寺/千葉街道上の写真で、左側に座っておられるのが地蔵菩薩様ね。このお地蔵様の衣や台座には、100文(3,000円位らしい)以上の寄進をした人の名前がびっしり書き込まれていて、その数約12,000人。それ以下の金額の人達は、奉加帳に名前を書いて胎内に納めたというので、いかに多くの人の思いが詰まったお地蔵様であることか。 門も立派。ただ、冠木の上の部分が剣山みたいにトゲトゲになってるのが気になるけど・・・何だろう、あれ?まさか、鳩よけとかって事ないよね?(笑)ここの軒丸瓦はこんなの。 扇・・・だな。下にブラブラしたのが付いてるけど(←紋の正式名称がわからない)。こちらは子安地蔵様。 他にも、境内には芭蕉の句碑とか、いくつも碑があった。真性寺の先からは白山通り(国道17号線)に合流する。巣鴨駅を過ぎてちょっと行ったところに次のお目当てが。 【巣鴨に住んでいた徳川慶喜 徳川幕府15代将軍徳川慶喜【天保8年(1837)~大正2年(1913)】が この巣鴨の地に移り住んだのは明治30年(1897)11月、 慶喜61歳のことであった。 大政奉還後、静岡で長い謹慎生活を送った後のことである。翌年3月には皇居に参内、 明治35年には公爵を授けられるなど復帰への道を歩んだ。 巣鴨邸は、中山道(現白山通り)に面して門があり、庭の奥は故郷水戸に因んだ梅林に なっており、町の人からは「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ親しまれていたという。 慶喜が巣鴨に居住していたのは明治34年12月までの4年間で、その後 小日向第六天町(現文京区小日向1・4丁目付近)に移った。その理由は、 巣鴨邸のすぐ脇を鉄道(目白-田端間の豊島線、現在のJR山手線)が通ることが 決まり、その騒音を嫌ってのこととされている。】 (現地解説板より)かつてのケイキさんの敷地はこんな感じだったらしい(現地解説板より)。 静岡での謹慎は28年。いや、ケイキさんも苦労したよね~。「けいき」ってのは、ただの音読みかと思ったら、この場合は有職(ゆうそく)読みっていうらしいね。なんでも、本人も「けいき様」と呼ばれるのを好んだとか。この碑は平成10年に除幕が行われたそうで、彼が住んでた時から実に100年ぶり。今はこの辺りは大きな商店街になってて屋敷跡は見る影もないけど、長い時を経てこうして広く世に知られるような碑が立つことは、歴史ファンにとっては実に嬉しいことさてと、まだまだ見たい所はあるんだけど、暑い中歩いてきたのでもう疲れちゃった。残りはまた次の機会にして、今回は帰ろうかな~と駅に向かって歩き始めたら、母親から「今どこ」って件名のメールが入った。『おうち忘れたカナリヤは、象牙の船に銀のカイ 月夜の海に浮かべれば、忘れた家を思いだす~』・・・本文、これだけ。何の歌だか知らないけど、帰って来いって意味ね。はいはい、帰りますよ~。墓参りの後、あちこち寄るからねって言っておいたのに・・・まあ、もう16:30回ってるし、心配するのも無理ないか。にほんブログ村
2012年05月28日

延命地蔵尊から地蔵通りへ戻って、さらに北東へ。今度はここ、千川上水公園(場所はこちら)。千川上水は、江戸六上水のひとつ。 【千川上水調節池跡 千川上水は、元禄9年(1696)、小石川白山御殿・湯島聖堂・上野寛永寺・ 浅草寺御殿と、下谷・浅草方面の江戸市民の飲料水を確保するために、 玉川上水を分水した上水です。その後、近隣農村の農業用水としても利用されました。 明治期以降は、紡績・製紙・製粉・伸銅工場などの産業用水として利用され、流域の 地域や人々と密接に関わってきました。 上水は、ここにつくられた溜池(沈殿池)で、砂やごみなどを沈殿させた後、木樋 (もくひ)や竹樋(たけひ)の暗渠となって江戸市中へ給水されました。なお、この 付近を「掘割」と呼んでいますが、これは、慶応元年(1865)に、 幕府が滝野川村に建設した反射炉の水車利用のため、王子方面への分水(玉川分水) を開削する際に堀をつくったことに由来しています。 明治13年(1880)、岩崎弥太郎らが設立した千川水道株式会社によって、 本郷・小石川・下谷・神田方面への給水が再開されると、王子分水との分配堰が 設けられました。明治通りの向かい側(北区滝野川6-9)には、水利関係が刻まれた 「千川上水分配堰」の碑(明治15年建立)が残されています。 一方、公園側には分配堰の落とし口があり、沈殿槽からの水量調節を行っていました。 公園内には、駒込六義園方面への送水に使用していたバルブ(巻揚器)が現在も 残っています。】元禄9年は、徳川綱吉の治世。そもそも上の解説にある4御殿ってのは、 ・小石川白山御殿・・・綱吉の別荘 ・湯島聖堂・・・幕府の学問所 ・上野寛永寺・・・徳川家の菩提寺 ・浅草寺・・・幕府の祈願所でこれらの給水が主な目的とのプレスリリースだったが、実際には六義園へも大量に送水されたというから、綱吉らしくて笑える。六義園はご存知の方も多いと思うけど、綱吉の寵臣・柳沢吉保の下屋敷だからね。この日記の2行目のリンクを見てもらえばわかるように、千川上水公園のすぐ近くにある明治通りの交差点名は、まさしく「掘割」。お江戸の町と上水や関連の史跡をまとめた図が看板に載ってた。 青いラインで示した部分が、千川上水。ここ千川上水公園が、上水の終点だった。練馬区のホームページには、こんな事が書いてある。 【千川上水は元禄9年(1696年)、玉川上水を現在の西東京、武蔵野両市境で 分水したものです。北の石神井川と南の妙正寺川の分水界上をぬって 練馬から板橋を抜け、巣鴨までを開渠(素掘り)とし、それから先を木樋(木管= 土中埋設)で江戸までつないでいます。 設計は水利の第一人者河村瑞賢が行い、施行請負一般に多磨郡仙川村(現調布市 仙川町)出身といわれる徳兵衛(一説に常陸の住人とも)、太兵衛の両名で、 道奉行伊勢平八郎の監督の下に工事に当たりました。このとき、当初予定されていた 幕府費用だけでは間に合わず、480両余を自前で出資したと伝えられています。 こうした功により、のちに両名には千川の姓が与えられ、名字帯刀が許されることと なり、また併せて千川水路取締役を拝命して、上水の管理を任され、水使用料徴収の 権利を得ました。】仮にも公共の工事に、業者がポケットマネーを出すなんて・・・(笑)。幕府がケチったのか?それとも、匠のこだわりで贅沢なものを作っちゃったのか?巣鴨から先は、中山道の下を通る木樋で通され、上にある4御殿(と六義園)の他にも、大名家へも給水されたという。練馬区のホームページでは、次のように締めくくられている。 【その後、千川上水の水は大蔵省や都水道局、あるいは六義園の池水などとして 利用されていましたが、昭和43年(1968年)の都営地下鉄工事で 六義園への水路が中断され、45年には都水道局が取水を中止、さらに46年には 大蔵省が工業用水道に切り替えたため、事実上、千川上水の水利用の歴史に 終止符が打たれました。】綱吉の命で作られたものが、昭和46年まで使われてたんだよ!?ちょっとどころじゃない位、びっくりなんだけど~。日本人の物持ちの良さもさる事ながら、それだけの使用に耐えるものを元禄の時代に作る技術・・・さすが、ポケットマネーをつぎ込んだだけのことはあるまあ、長い歴史の中には、色々あったみたいだけどね。一時は、儒学者・室鳩巣が「江戸に火事が多いのは、上水が地脈を分断したせいだ~」なんて言い出したりして、吉宗の時代に市内への給水が止められたなんて事もあったらしい。上水の役目は、昭和46年をもって終わったけれど、千川上水公園の地下には、六義園への貯水槽が現在でも残っているという。最近では、開渠区間においては清流復活事業による流水がなされており、暗渠部分のある豊島区や練馬区では千川上水の復活を求める声が上がっているそうだが、いずれの区でも実現は困難との回答らしい。復活できればそれに越したことはないけどね、都内の現状を見ると、まあ難しいだろうな~って感じはするよね。で、公園内に残っているバルブがこちら。 2つあった。なんか、カッコいいよね。さて、明治通りまで来たのは、千川上水公園も目的のひとつだけど、もっと大きなお目当てがあったからなのだ。それをゲットするには、ひたすら下を見て歩くしかないので、公園を出て明治通りを池袋方面へ・・・日頃から私のブログを読んで下さっている方なら、もう何を探してるかおわかりでしょう。そう、アレですよ、アレ昨日は雨風ともに強くて、今日も少し雨が残るという予報だったので、日傘はやめて、長い雨傘を持ってきてた。お墓参りしてた頃は少し雨もパラついたけど、お昼頃からはすっかり晴れ上がって、暑い。暑い中をずっと歩いてきたので、もう疲れた・・・けど、せっかくここまで来たので、頑張って歩く。どこにあるかわからないのが、精神的にキツいところだよな~。しかし、ある程度歩くのは致し方ないと覚悟していたものの、真夏の真昼間の炎天下を日傘なしで歩くのはやっぱりこたえる。傘はあれども、雨傘だし。後から考えたら、「アイツ、雨傘なんか差してる~」とか思われたところで、どうせ知らない人ばっかりなんだから、見栄張ってないで雨傘差しておけば良かったんだよね~。で、暑いのを我慢して歩くけど、なかなかお目当ては見つからず。また戻って歩かなきゃならないので、もうほどほどのところで引き返すことにした。仕方ないよな・・・でも、もしかして道の反対側にあるかもしれないから、帰りは道路を渡って帰ろう。ってんで、とぼとぼ下を見ながら来た時と反対側の歩道を歩いてたら、やっと見つけた!! はい、ふたで~す。真ん中の紋章は、千川上水のマークだそうです。まにあの間では割と有名らしいが、数はそう多くないみたい。延命地蔵尊からわざわざここまで足を延ばしてこれを見に来たなんて、なんか私までまにあ~になったみたいでイヤだな・・・とか思いつつ、サカサカと撮影。思いっきり私の影が入っちゃってるけどねだって、まだこの頃は羞恥心がいくらか残ってたので、都内の車通りの激しいところでふたの写真を1人で撮るなんて、もう恥ずかしくって・・・おまけに、暑くてフラフラだったし。で、明治通りでの目的を果たしたので満足して地蔵通りへ戻る。とにかく安堵感でいっぱいだったので、「掘割」の交差点の近くにある千川上水分配の碑を見てくのを忘れた。さらに、後で資料を読み返してたら、この分配碑のすぐそばに千川上水マークのふたもあったらしい。ああ、失敗しちゃったな~。準備が浅いと、こうなるという良い例(実際は、何度も同じようなことを繰り返してるけど)にほんブログ村
2012年05月27日

高岩寺の境内には、「洗い観音」もある。これは、高岩寺の信徒だった屋根屋喜平次さんという人が明暦の大火で奥さんを亡くしてしまい、その供養のために聖観世音菩薩を寄進したもの。この菩薩像に水をかけ、自分の悪いところを洗うと治るという信仰がいつしか生まれ、縁日の日には行列もできるほど。ただ、健康を願う人々があまりに熱心にタワシで観世音菩薩様をゴシゴシ洗ったもんだから、お気の毒に長年の間にすり減ってしまったそうで、現在あるのは平成4年に新しく寄進されたもの。人の思いって、色々あって面白いと思うのは私だけ?さて、次に行こうと高岩寺を出たら、外に托鉢のお坊さんがいた。普段、あまり見かける事はないけど、たまに見ると「お布施しなきゃ!」って思いにかられる。でも、今まで一度もした事がない。だって何か、恥ずかしいんだもん。後ろ髪を引かれつつ、今までは素通りしてた。ので、今回も迷った。やっぱり気恥かしさがあったので、今回も素通りしかけた・・・けど、ここで会ったのも何かの縁だし、これしきの事で恥ずかしがってどうする!!と自分を叱咤して、生まれて初めてお布施をした。お布施をすると、お礼に何かを唱えてくれるでしょ。あれが恥ずかしいんだよね~道行く人はじろじろ見てくし、今回は一人だし・・・「ひゃあ、やっぱり恥ずかしい~・・・」と思ってもじもじしてたら、最後に「よい1日をお過ごしください」って送りだしてくれて、胸のつかえがスッと取れた気がした。恥ずかしかったけど、やっぱり素通りしないでよかった~と満足して、次へ向かう。地蔵通りを道なりに、北東へ。この通りは江戸五街道のひとつ、旧中山道。古くは「中仙道」と書かれたが、正徳6年(1716)から「中山道」に表記が統一された。中山道っつったら、徳川秀忠の関ヶ原遅参が真っ先に思い浮かぶけど(笑)、あの時は宇都宮から出てるから、秀忠は私が今いるこの場所を通って関ヶ原に行った訳じゃないって事だよな。うんうん。参勤交代の際には、約30の大名がこの中山道を利用したそうな。また、徳川家重(9代)、家治(10代)、家茂(14代)の御台所を京から迎えた際にも、中山道を通って来たんだって。家茂の正室は、有名な皇女・和宮様ね。別名「木曽街道」「木曽路」の通り、途中に険しい山道を擁する中山道だけど、意外にも女性に人気がある女街道であったそうな。天竜川・大井川などの足止めを喰らうような大きな急流もないし、桑名からの船旅もないというのがその理由らしい。私が今まで行った中での地蔵通りでの北限は、とげぬき地蔵。だから、こんなに奥まで来たのは初めてだけど、思ってたよりず~っとお店が続いてる。小洒落たお店なんかも結構あるし、こーゆー小さなお店って案外掘り出し物があるから、のぞいて行きたいのをぐっとこらえて中山道を進む。巣鴨駅前付近の道路は拡張されたけど、地蔵通りの旧中山道部分はほぼ昔のままの道幅なんだとか。そういう話を聞くと、両脇に現代のお店が立ち並ぶ商店街もなんだか江戸情緒いっぱいの通りに見えてくるから不思議。ここを歩く時は、妄想力全開にして歩いてね(笑)。途中、都電荒川線を越える。この近くの妙行寺(場所はこちら)には、四谷怪談で有名なお岩様のお墓があるんだとか。そんな事ぜんっぜん知らなかったので、すごくびっくりした。しかしですね、ご存じの通りの怖がりですので、墓マイラーを自称してはいるものの、私には行かれません。なにしろ、「耳なし芳一」と「お岩様」の名は、口にするどころか耳にするだけでも震えがくるほどの2大禁句。芳一さんについては、「赤間ヶ関編」であれこれ書いた通り、平家萌え~で恐怖感を払拭しましたが(笑)、お岩様については相変わらず。なので、近くを通るだけでもびくびくしてましたが、驚いたことに、現在ではお岩様に塔婆を捧げて一生懸命祈れば願いが叶うということで、多くの信者を獲得しているそうな。ので、ここぞというお願いの時は、皆様、ぜひ妙行寺へ・・・そして、怖くて行かれない私の分も、冥福を祈って差し上げてくだされ。荒川線の踏切のすぐ近くには、「庚申塚駅」。庚申塚ってのはあちこちにあるけど、地名にまでなったケースは全国的にも珍しいらしい。元はもう少し巣鴨駅寄りのところにあったが、移転して、現在では駅のすぐ近くに猿太彦大神と合祀されている。現在の庚申塔は、明暦3年(1657)に再興されたものなので、それ以前からあったものという事になる。また、この辺りは旧中山道と旧王子道の交差する場所で、かつては茶屋があったそうな。日本橋と板橋宿の中間点にあたる中山道の立場(たてば)として、旅人の休憩の場でもあったらしい。んで、私が目指すのは、荒川線をまたいだすぐ先(場所は確かこのへん)。 延命地蔵尊。中山道で行き倒れになった人や馬の供養のために建てられたもので、元禄11年(1698)の創建という。これも元は、都電荒川線の南側にあった。それが、王子電車(荒川線の前身)ができる時に線路のすぐ北側に移され、さらに現在地へと移転した。移転の際、延命地蔵の下から、大きな桶に入った人や牛馬の骨が3~4杯も出てきたという。うひゃあ・・・・この時掘り出された骨は、池袋にある重林寺に埋葬されている。余談ですが、この重林寺にあった山門は大久保彦左衛門の屋敷の門だったらしい。大正12年の地震で倒壊したとあるから、関東大震災ってことかな。いやいや、知らないだけで、都内にも史跡がいっぱい。さすがお江戸。ものすごく小さな境内には、この地蔵尊の他にも4つの石塔があり、それぞれにいわれがあるという。↓ランキング参加ちう~。ぽち!にほんブログ村
2012年05月26日

本妙寺から国道17号線をわたって、とげぬき地蔵の近くのお店でお昼。お店の2階から見る景色には、手焼き風のおせんべ屋さんとか、いかにもばあちゃん達の女心をそそるようなお店が並んでる。今日は4の日じゃないから、人出もそう多くはないけど、歩く人を見てると結構若い人もいるなあ~。あと家族連れとか。4の日ってのは、とげぬき地蔵の縁日があるからね。巣鴨は「おばあちゃんの原宿」として有名だけど、4のつく日は特にじいちゃんばあちゃんで埋め尽くされるから、初めて巣鴨に行く人は気をつけてね(笑)。さて、腹ごしらえをしたところで午後の部開始~。まずはとげぬき地蔵から。ここへは墓参りの都度来てた訳じゃない。おばあちゃんが生きてた頃は、おばさん達もみんな一緒にお墓参りしてたから、その頃は来てたと思うけど、最近はそれぞれでお墓参りに来てるからな~。私が一人で代参する時は、商店街の入り口にあるお店で大福を買ってそれで終わりにしてたし。しかし、今回あらためてとげぬき地蔵の事を調べてみたら、ここも戦国の大名家とゆかりのあるお寺だったと初めて知った。通称「とげぬき地蔵」、正式名称は「萬頂山 高岩寺」。慶長元年(1596)神田明神下に開創され、下谷屏風坂下への移転を経て明治に現在の巣鴨に移転。とげぬき地蔵の縁起は、徳川7代将軍家継の治世に小石川に住む田村さんという人の奥さんが、出産後に重い病気にかかったことから始まる。あれこれ手を尽くしても奥さんの病状は一向に良くならず、次第に重くなるばかり。「私の実家は怨霊に祟られているので、女は25歳までしか生きられないんですう・・・」って当の奥さんまで弱気になってきた。田村のダンナは考えた。「寿命なら仕方ないけど、怨霊のせいだというなら神仏に何とかしてもらえるんじゃないか!?」そこでポジティブな田村さんは、日頃から奥さんが熱心に信仰している地蔵尊に、奥さんの回復を一心に祈った。祈ってるうち眠っちゃった田村さんの夢に、黒い衣に青い袈裟を掛けた坊様が現れて言うには、「私の姿を一寸三分に彫って、川に浮かべなさい」。「いやそんな、急に言われても困るッス・・・」と田村さんは夢の中ではやけにネガティブ。しかしそこは慈悲深いお坊様。「やる気あんのか、ワレエ~!!」と叱りつけたりはせず、「じゃあ、印像をあげるから。それで頑張ってね?」とエールをもらったところで目が覚めた。そして枕元には、一片の木のふしのようなものが。よく見ると、木の平らな部分に地蔵菩薩様の御影があった。これは書いたものでも彫ったものでもなく、影のように見えたという。「うぉっしゃ~、やるぞ~!!」と俄然元気になった田村さんは、もらった御影に朱肉をつけて、ぺったんぺったんプリントごっこ屋さんを始めた。一体の印影を作るたびに、宝号を唱えながら。そうしてひたすら印影を作り続けて、出来上がったのはなんと1万枚。これを両国橋に持っていき、一心に祈りながら1万枚すべて川に浮かべた。大仕事を終えて満足した田村さんは、帰ってまた寝た(笑)。その日の真夜中。田村さんだけじゃなく、奥さんの看病にあたってた人も疲れて寝ていた。と、杉戸にどん!と物の当たったような大きな音がして、皆目が覚めた。驚いて周りを見ても、何もない。すると奥さんが呼んだので行ってみると、「夢かもしれないけど、今、ヘンな若い男の人が枕元に立ってたの~。そしたら、青い袈裟を着たお坊さんが来て、「出てけ」と言いながら男を蚊帳の外へ引っ張り出して、お坊さんが錫杖で男の背中を突いたら男は倒れてそのまま消えちゃったの~」って事だった。その後、奥さんは快方に向かい、11月には完治。病が再発することもなかった。「お地蔵様、ありがたや・・・」と感動した田村さんが、山高さんという人のところでこの話をしていた時、居合わせた西順というお坊さんがいたく感心して、ぜひその御影が欲しいというので、持っていた御影を2枚あげた。またあらたに作ったのかな?この西順さんという坊様は、毛利家に出入りしている人だった。田村さんの奥さんの病気から2年後、毛利家のお女中が折れた針を口にくわえていたところ、うっかりその針を飲み込んでしまったからさあ大変。針はのどからお腹へと落ち込んで、女中はひどい苦しみよう。あれこれお札やお守りを試してみたけど、効果なし。ここで西順さんの登場です。田村さんからもらった御影を飲ませたところ、ほどなくして胃の中のものを吐き出した。一緒に出てきた御影を綺麗に洗ってみたらば、飲み込んだ針が御影を貫いていたという。この他にも数々の霊験があったが、田村さんはもらった印像をなぜか大事に隠しておいた。が、高岩寺の本堂が壊れ、修復のために百万人講を始めるなどの資金集めを始めたので、その手助けになればと、和尚さんにこの不思議な体験を話し、田村さん自ら記した霊験記とあわせて印像を高岩寺に奉納したという。そのおふだはのどに骨がささった時とか、痛いところに貼るとよいと言われている。子供の頃から私にとってはなじみ深いおふだ。あんまり使ったためしはないけど。だけど、馴染んでいれば由来も知ってるかとゆーと、全然知らなかった。知ろうとも思ってなかったし。結構、そういう事ってあるでしょ?そんな訳で、今回初めて縁起を調べて、毛利家かよ~!って結構驚いた次第でござる。さて、境内へ。 今日は人はかなり少ない。左の手前のあずまやにある釜からは、もうもうと煙が立ち込めていて、「よくうちのおばあちゃんも一生懸命煙を浴びてたよな~」とか思い出しながら、一人でおばあちゃんと同じように煙をぱたぱた浴びる。今日は露店は4つくらいしか出てないけど、いずれもお守りとか念珠とか扱ってるシブイお店ばかり。ちょっと覗いてみたら、変わったお守りとか沢山あった。腕輪タイプの念珠なんかもある。数珠は墓マイラーの必携品だけど、暑い日だとか疲れてる時なんかは、正直数珠を出すのもめんどくさい時がある。腕輪タイプなら楽だよな・・・とか思ったけど、今使ってるのは三井寺で買ったお気に入りの数珠なので、とりあえず腕輪は見送り。本堂に入ってお参り。史跡めぐりを始めて、古建築にも興味を持つようになったから、ぼんやりお参りしてた頃とは見る目が変わったことが自分でもよくわかった。内部は撮影禁止だったんだっけか・・・?ちゃんとした歴史は知らなかったけど、そこはホレ、馴染みのある寺だという感覚に変わりはないので、普通の史跡めぐりの時のようにバシバシ写真を撮ろうという思いは芽生えず・・・したがって、ロクな境内の写真がありません。すみません今度行ったら、なるべく撮ってくるよ・・・にほんブログ村
2012年05月25日

案内に従ってまず来たのは、本因坊家の墓。 【「本因坊」の由来 囲碁の本因坊家は江戸時代に成立した四家元の一つ(他には井上、安井、林の各家) です。また「本因坊」の名称は、京都・寂光寺の塔頭の一つ本因坊において、日海 (後の算砂)が居住していたことに由来します。 算砂は本因坊家の初代頭領として興隆への道を切り開き、囲碁界最高の名誉である 「名人・本因坊」に叙せられ、また1603年(慶長8)、江戸幕府から初代の 「碁所(ごどころ)」に任ぜられました。 「碁所」とは、江戸城において将軍の御前で対局をする「御城碁」の棋士の手合いを 差配したり、棋士の段位を定めたり、免状の発行権をもつなど、囲碁界最高の地位を 保障された棋士です。 碁所をめぐって四家はしばしば熾烈な争いを展開しましたが、その中で頂点に 立ったのが本因坊家であり、庶民への広まりも含めた碁界の隆盛に貢献しました。 その理由に実子相続を前提とする世襲制ではなく、弟子のなかで優れたものが相続する 実力制だったことが挙げられます。 本妙寺は創立後何度も場所をかえ、1910年(明治43)現在地へ移転しましたが、 その時に墓所の配置はほぼ現在の形となり、四世本因坊道策より二十一世秀哉に 至るまで、本因坊代々の棋士と縁の人々が祀られております。】 (現地解説板より)そして墓石の配置図がこれ。 囲碁は全くわかりませんが、ここに来たのは算砂が戦国時代の人だったから。信長・秀吉・家康と三英傑の御前で対局した経歴を持ち、信長様には「そちはまことの名人なり」と褒められて、これがいわゆる「名人」の言葉の起こりだとも言われている。ま、上の解説にもあるように、ここにあるのは四世以降の墓で、残念ながら算砂の墓はここにはない。算砂の墓は、古巣である京都・寂光寺にあるんだって。それでもほとんどの本因坊の家元の墓はここにあるし、囲碁をやってる人にとっては聖地みたいなもんなのかな~なんてぼんやり考えながらお参り。お次はこちら~。 幕末好きの人にはおなじみ、千葉周作先生のお墓です。千葉先生は剣術、北辰一刀流の創始者。「力の斎藤」「位の桃井」「技の千葉」として、幕末の江戸三大道場と称された。周作先生の玄武館はお玉が池にあり、実用的な剣術で習得のシステムも他と比べてシンプルだったため、絶大な人気を博したと。お玉が池の卒業生が、清河八郎とか山岡鉄舟とか山南敬助。周作先生の弟が定吉さんで、龍馬さんはこちらの門下生ね。定吉さんは桶町に道場を構えたので、桶町千葉とか小千葉と呼ばれる。龍馬さんの婚約者ともいわれる千葉さな子さんは、この定吉先生の娘。ちなみに、龍馬さんより遅れて江戸に来た武市半平太は、桃井に入門している。私がこれまでお墓参りした中では、あまりお花が供えられてるところってなかったけど、ここには真新しい花が一輪・・・この時、写真付きでツイートもしたけど、さすが周作先生、アクセス数もかなりあった。最後はこちら~。 【東京都指定旧跡 遠山景元墓 遠山景元は、江戸時代後期の幕臣で寛政5年(1793)遠山景普(かげみち) の子として生まれた。 文化6年(1809)金四郎と改名し、文政12年(1829)家督を相続、 天保7年(1836)左衛門尉を許され、作事奉行、勘定奉行を経て天保11年 (1840)3月町奉行(北)に任ぜられた。翌年から老中水野忠邦による 天保改革が始まったが、その進行中の天保14年(1843)町奉行を罷免され、 大目付に異動させられた。 弘化2年(1845)町奉行(南)に復帰し、嘉永5年(1852)3月まで 7年間にわたり勤務した。 下情に通じた江戸時代屈指の名奉行といわれ、遠山の金さんとして様々な伝説がある。 江戸歌舞伎三座取りつぶし策を、浅草の外れに移転させて存続させたのも遠山町奉行と いわれている。隠居後は剃髪して帰雲と号し、市井に身をひそめて悠々自適の生活を 送ったが安政2年(1855)2月29日61歳で病死した。 法名帰雲院殿従五位下前金吾校遷日享大居士。明暦の大火(1657)の 火元となったことでも知られる、本郷丸山の徳栄山本妙寺に葬られたが、 本妙寺が明治44年この地に移転した時に改葬された。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)そうです、遠山の金さんですいやでも、金さんて江戸中期頃の人かと思ってた。もう幕末じゃんね~。金さんは皆さま御存じの通り、実に色んな人が演じてる。杉サマもカッコ良かったけど、西郷輝彦の「江戸を斬る」も良かったよな~。松坂慶子とのコンビが写真には写ってないけど、実は金さんの墓の周りは立入禁止だった。震災の影響で、倒壊のおそれがあるからって(2011年7月時点)。こんな所にも、震災の爪あとが・・・さて、これで私のここでのお目当ては終わり。でもね、まだ他にも有名人のお墓はあるんですよ。そもそも、ここ本妙寺の沿革は次のようなもの。 【当山は、山号を徳栄山と称す。これは、徳川家が栄えるようにとの願いで つけられたものである。 ご承知のように徳川家発祥の地は三州岡崎(現在の愛知県岡崎市)である。 岡崎の近郊に法華宗の海雲山長福寺という古刹がある。長福寺の檀徒で徳川家に仕えた 久世広宣、大久保忠勝、大久保康忠、大久保忠俊、阿部忠政等が、元亀2年 (1572)家康公が岡崎から遠州曳馬(現在の浜松市)へ入城に際し、 智存院日慶上人にお願いして同地に創立された寺が、当山である。 天正18年(1590)家康公が関東奉行として江戸入城に際して、当山も久世家、 大久保家等と共に江戸へ移転した。 当初は江戸城清水御門内の礫川町へ移建されたが、城域拡張に伴い飯田町、 牛込御門内、小石川(今の後楽園)へと移動させられている。】 (本妙寺様のホームページより。漢数字は戦国ジジイが変換)久世家を始め、大久保・阿部など幕臣の庇護を受け発展したが、寛政年間に全焼。その後の復興に尽力したのが、久世大和守広之だそうな。この時に小石川から本郷丸山に移転して、そしてその数年後に明暦の大火・・・なので、久世家歴代のお墓があるのだ。ただ、三河武士団についてはほとんど知らないし、久世さんちはちょっと聞いたことがあるな~くらいだったので、今回は墓参りは遠慮させて頂いた。本妙寺のホームページには、本郷5丁目付近には「本妙寺坂」って地名が現在も残ってると書いてある。なら、明暦の大火は、東大の赤門の近くから出火したってことか~?その他に、天野宗歩(江戸後期の将棋棋聖)、森山多吉郎(日本最初の通訳)があり、いずれも史跡となっている。日本最初の通訳って、ジョン万かと思ってた・・・(笑)にほんブログ村
2012年05月23日

うちのお墓があるのは、蓮華寺。寺を出て右手に行くとすぐ、「萬年山 勝林寺」がある(場所はこちら)。ここねえ、時々寄って、入口にあるお地蔵様に水を掛けたりしてたんだよね。しかし、今回調べてるうち、ここにも有名人のお墓があることが判明した。それがこちら。 老中・田沼意次公のお墓です。この周りには、田沼家の他の方々の墓もあります。それから、柳沢・山名・蒔田家の菩提寺でもあるそうな。門の中に足を踏み入れたのは初めてだったけど、墓地には勝手に入っちゃダメと張り紙があり、寺の縁起書を100円だか200円だかで分けてもらえるとも書いてあったので、ちょうどお掃除をしていたお姉さんにお願いをして、小冊子を頂いた。そこには「寺社書上」という史料による歴史と、お寺に伝えられてきた話と2つの歴史に分けて様々な沿革が書かれていた。「寺社書上」による寺の始まりは、元和元年(1615)。湯島天神の前あたりに開創されたという。それが明暦の大火で焼失し、駒込に移転。安永9年(1780)、田沼意次から下屋敷の260坪を寄進するとの申出がなされる。その後、意次は勝林寺の庇護者となり、勝林寺中興の開基とされる。明治40年、本郷通りの拡張のために墓地だけを移転。昭和15年、道路新設のため寺も現在の染井に移転。昭和20年には戦災で建物は全焼、同28年に本堂を再建。西福寺なんかも現代的な建物だったからもしかして・・・と思ったら、やっぱりこの辺も戦災にあったんだね。何月とは書いてないけど、東京大空襲かな。「寺社書上」の沿革は非常に長いので、割愛どころじゃないくらい端折ってますが、お寺に伝えられた歴史の方で、戦国ジジイの目を引いた箇所については、以下に一部転載させて頂きます。 【天正18年(1590)江戸城に家康が入りますと、正林寺は廃されて、 三つ谷と呼ばれた駒込の蓬莱町に移転させられました。その時接収にあたったのが 家康四男の松平忠吉で、義兄の松平康重とともに正林寺の支配を命じられて、 翌天正19年に移転が完了しました。この時山号を萬年山と改めました。 慶長5年(1600)家康は、関ヶ原の合戦で勝利をおさめると戦勝を記念して 側室お梶(太田道灌曾孫康資娘)の名を「お勝の局」と改め、お勝がかつて 「おはち」と呼ばれ縁のあった正林寺を勝林寺としました。 以後、萬年山勝林寺と称されるようになりました。 元和2年(1616)家康が亡くなると、お勝の局は英勝院と号し、春日局とともに 当寺を訪れて家康より拝領の三面大黒天像を寄贈し、改めて春日局に後事を託し、 太田備中守下屋敷に入りました。この時の住職渭川周瀏は、後に春日局の申請を受け、 局の開いた天沢寺の開山となりました。】 (「萬年山 勝林寺」より)う~ん、これが本当なら、何だかすごい歴史だ・・・こんなすごいお寺がうちのお墓の近くにあったなんて、びっくり~。知らないって、ホントに罪だな~ここのお寺の前の道はものすごく細くて、正面からはとてもじゃないけどきちんと撮影はできない。(入口だけは)昔から馴染みのお寺でもあるから、この時は写真を撮ろうとも思わなかったしね。でも新しいカメラを買ったから写せるかもしれないし、今度行った時はチャレンジしてみますね。ささ、それでは次のお墓へ・・・今度は本妙寺(場所はこちら)。いや~、子供の頃から来慣れてると言っても、墓参りが済めばそのままとげぬき地蔵の方へ行っちゃうし、こっちの方へ来たのは初めてだあ~。ここでのお目当ては3つほど。親切にも墓地内に案内が出てるので、それに従って歩いて行ったら、途中にこんなのがあった。 「明暦の大火供養塔(振袖火事)」と標識が立ってる。明暦3年(1657)の大火は、ここまでの解説にも2度ほど登場してますね。1月18日に出火し、3日にわたって江戸の町の大半を焼き尽くした大火災で、江戸の三大大火のトップに挙げられるほどの大規模なものだったそうな。江戸城天守、あれもこの明暦の大火で燃えちゃって、以後再建されなかったという、大変な火事ですよ。死者は3万~10万人。だいぶ幅があるけど、諸説あるそうで・・・なんでこんな大火災になったのかというと、1つのところから出火したものが鎮静化しかかるとまた別のところから火が出るといった具合で、計3ヶ所から出火したそうな。そのうちの最初の火元が、ここ本妙寺といわれている。火事の原因についてもまた諸説あるんだけど、まず第一にお隣さんの罪をかぶったという説。本妙寺のお隣にあった老中・阿部忠秋の屋敷が本当の火元だったが、それがバレると立場上まずかろうって事で、幕府が本妙寺にお願いして、火元ということにしてもらったと。当時は、火元に対しては幕府は厳罰に処していたというのに、火事の後も本妙寺はおとがめなし。だから、アヤシイんじゃないの~って事らしい。2つめが、幕府主催の放火説。火事がおさまってみれば、江戸の町の実に6割が燃えてた。その6割の中には、家康が入府して以来の古くてゴミゴミした住宅密集地がすべて含まれてたという。大火以降、江戸の町の大改造が行われた事については、藤堂家の下屋敷のところで少し書いた通りで、実はそれをスムーズに行うために幕府が犯行に及んだというもの。そして3つめ。別名「振袖火事」といわれる理由がこれにあたる。昔の葬儀では、亡くなった人が生前一番愛用した衣類を棺に掛けたそうで、埋葬の後にはその衣類が古着屋に売られ、墓の穴掘り人夫の浄めの酒代にされたんだそうな。明暦元年1月18日、恋わずらいで亡くなった17才の娘の葬儀が本妙寺で行われた。慣例に従い、棺には娘の愛用の振袖が掛けられ、葬儀の後、振袖は酒代になった。ここまでは普通。ところが、その同じ振袖がその翌年、またその翌年と3年続けて同じ月の同じ日に、同じ年齢の娘の葬儀の棺に掛けられて本妙寺に来た。そこでこれは怪異じゃと寺ではいぶかしんで、亡くなった3人の娘の遺族も参列の上、読経供養をして燃やしたところ、火がついた振袖が強風で舞い上がり、本堂の屋根に燃え移ってしまった・・・という、何ともホラーなお話。この供養塔の前には、確か解説板とかはなかったと思うけど、いずれにしても本妙寺と大火との関係は浅くないようなので、それでここに供養塔を建てたのかもしれないな。にほんブログ村
2012年05月22日

公園内には他にもこんな解説板があった。 【染井よしの(ソメイヨシノ、染井吉野) この公園の周辺は、江戸時代に染井村と呼ばれ、多くの植木屋が軒を並べ、 菊やつつじなど四季折々の花々を楽しめる名所地として有名でした。 「染井よしの」は、オオシマザクラとエドヒガンの品種を改良して つくられたといわれ、幕末期から明治初期に「染井」から全国に広まっていきました。 ここ駒込の地が、「染井よしの」の発祥地であることを、新たに誕生した公園から、 全国に、そして世界に発信していきます。 なお、「染井よしの」桜は、昭和48年「豊島区の木」に、昭和59年 「東京都の花」に指定されています。】 (現地解説板より)ソメイヨシノの起源については諸説あるけど、染井村での品種改良説が有力みたいだね。公園を出て歩く途中にあったふたはこんなのだった。 おお、ソメイヨシノだ~!と感動して、写真付きで「ソメイヨシノ発祥の地だから桜柄なんだね」って素直にツイートしたら、知らない人から「これは東京都の花なので、23区は全部これです」みたいな超クールな指摘を頂いて、ムッときた。知らんがな、そんなの・・・ワシ、まにあじゃないし次に目指したのは、「藤林山 西福寺」(場所はこちら)。 豊島区教育委員会の解説によると、 【新義真言宗に属す。藤林山と号し、西ヶ原無量寺の末寺である。 創建の年代は明らかではないが、駒込に江戸時代から存在した寺である。 本尊は阿弥陀如来であり、これは徳一大師の作といわれている。 この寺は、江戸時代、大名藤堂家の下屋敷に近く、家中の祈願寺となり、 その規模が非常に広大であったといわれているが、明治維新後に縮小された。 境内には、六道すなはち地獄道・飢餓道・畜生道・修羅道・人道・天道について 教えを説くための六体の地蔵が刻まれた六地蔵がある。これは明暦元年(1655)に 造られたものであり、豊島区内では最古のものである。 墓地には徳川将軍家の御用植木師として名高かった伊藤伊兵衛政武 (4代目・宝暦7年=1757没)の墓があり、これは東京都の史跡に 指定されている。政武は樹仙と号し、「増補地錦抄」などを著している。 また、ダダイストで知られた辻潤の墓もある。】とある。この付近にあった看板に、嘉永5年(1852)に作成された古地図の一部が載せてあり、その当時はこんな感じだったらしい。 「藤堂和泉守下屋敷」って書いてある上の通り沿いには沢山木が描いてあって、「植木屋」も描き込まれてる。この通りがたぶん、現在の「染井通り」だと思うんだけどね。西福寺はこの通りからちょっと入ったところにあるけど、藤堂家下屋敷のすぐ近くであることに変わりはないし、巣鴨から駒込一帯にかけて、藤堂家とのゆかりが深いんだな~って今回初めて知った。西福寺の入り口には、こんなのも建っている。 上の解説にもある、伊藤政武さん。この人は吉宗の御用植木師で、彼が書いた「地錦抄」は日本で最初の園芸書なんだとか。あと、なんでかわからないけど、西福寺には仙台藩最後の藩主・伊達慶邦公の墓址記念碑があるらしい。まあ、墓マイラーとはいうものの、私の場合は墓なら何でもいい訳じゃない。伊藤政武さんは知らないし、個人的に伊達さんちは好きじゃないので、境内に入って墓を探すことはしなかった。本来の用事を済ます前にまったりするのもちょっと気がひけたし(笑)。染井通りに戻って、ずっと西へ。今度はご先祖様の待つ、うちのお墓へ。通りをそのまま歩いていけば東京都立染井霊園に突入する。 ここは元々、播州建部家(林田藩かな?)の抱屋敷があった場所で、明治7年に都立の公共墓地になった。普通に自分ちの墓参りとして来てた頃は全然知らなかったけど、著名人も多くここに埋葬されている。例えば、私が知ってる人だけでも 岡倉天心・幣原喜重郎・司馬江漢・高村光雲・高村光太郎・高村智恵子 福岡孝弟・二葉亭四迷・水原秋桜子・若槻禮次郎など。他に芥川龍之介や谷崎潤一郎の墓などもこの近くにある・・・んだけど、実際は霊園に隣接するお寺にあるので、染井霊園に墓があるわけじゃない。それから、岩崎弥太郎も最初は染井霊園に葬られたけど、後で移設されたんだとか。あと、水戸徳川家の墓所でもあったらしいんだよね~。水戸徳川公爵家、府中松平家、徳川斉昭の生母、徳川昭武の生母、側室高橋悦子の墓などがあるそうな。行く前にこれらの事を調べてて結構驚いたので、母親に聞いてみたら、さすがに色んな有名人の墓があることは知っていたらしい。なんだ、知らなかったのは私だけか・・・驚いた事は他にもある。うちのお墓に行くには、霊園の中を抜けていくのでてっきり染井霊園にお墓があるもんだと思っていたら、霊園に隣接するお寺さんの管理するお墓だったらしい。いや、確かにお寺の中へ入っていくけどね、別管理だなんて夢にも思わなかったんだよね~(笑)。まあ、それはさておき、本日のメインであるご先祖様のお墓へ。今日これからの史跡めぐり・墓参りが無事こなせるように祈願をしてから、次なるスポットへ向かう(←すでに明らかに趣旨がズレている)。にほんブログ村
2012年05月21日

プチ巣鴨編<墓参りの後の墓参り> '11/7/30 くもり後晴れうちの母方のお墓は、巣鴨(東京都豊島区)にある。ここ数年、お盆の墓参りは私か姉が代参してるのだが、そういえば途中の学校の辺りに史跡の解説の看板とかあったよな~って急に思い出して、今年は私が行くことにした。と言っても、お盆のすぐ後には旅行が控えていてその頃は忙しいので、ちょっと早めのお墓参り。調べてたら、結構色んなお墓とか史跡とかあるので、1日めいっぱい使う欲張りなプランを立てた去年は確か姉が行ってくれたから、巣鴨に行くのは2年ぶりくらいかな~。久しぶりに降り立った巣鴨駅の構内は(特にトイレが)綺麗になっていて、ちょっとびっくりした。巣鴨っていえば、あの有名なスポットのおかげで乗降客の平均年齢が異様に高いところだから、綺麗になったのはいいんだけど、なんだかしっくり来ない(笑)。巣鴨のお墓には、子供の頃からしょっちゅう来てる。いつもは住宅地の中を抜けていって、地図なんかはいらないんだけど、今回は回り道してから行くので地図を片手にJRの線路沿いを北東へ。まず目指したのは、これ(場所はこちら)。 【旧丹羽家腕木門 旧丹羽家の門は、腕木とよばれる梁で屋根を支える腕木門と呼ばれる形式で、 簡素な構造ですが格式のある門です。 この門の建築年代を明らかにする記録はありませんが、言い伝えによれば、染井通りを はさんで向かい側にあった津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したといわれています。 当初の部材と考えられる親柱には和釘が使用され、風蝕もかなり進んで木目が深く 浮き出ています。また、都内の類例と比較して大名家の裏門として使われても 不思議はない規模と構造といえます。 解体工事の過程で墨書が発見され、弘化4年(1847)、嘉永6年(1853)、 安政6年(1858)の3回修理が行われていたことが判明しました。 少なくとも建築年代は弘化4年以前ということになります。 この門が丹羽家の所有になった年代ははっきりしていませんが、当時は、染井通りに 面して建っており、丹羽邸内に移築した時と、染井通り側にマンションを建てるため 現在地に曳屋(ひきや・建物を解体しないで、そのまま場所を移動させること)した 時の少なくとも2回移動しています。 また昭和10年の主屋の増改築とあわせて門の屋根を、こけら葺き(薄い木片を 重ねて敷きつめた屋根)から瓦葺きに葺き替えたといわれています。 一方、親柱、冠木、袖戸、両開き扉などは杉で当初からの部材と考えられ、板扉に 見られる技法から、建築当時の姿を概ね残しているといえます。 江戸時代の腕木門としては区内で唯一の事例であり、植木の里・駒込の歴史を 物語るシンボル的存在として長年地域の人々に親しまれています。 このように、染井の植木屋として活躍した旧家の遺構である旧丹羽家腕木門は、 豊島区における貴重な文化遺産であることから、平成19年8月3日、豊島区指定 有形文化財になりました。】 (現地解説板より)とゆー事で、藤堂家ゆかりのスポットから今日が始まります。巣鴨駅の北口あたり一帯は、江戸時代、藤堂家の下屋敷があったそうなんですな。下屋敷と抱屋敷をあわせての全体での広さは、約8万坪。え~っと、単純計算で東京ドームの5.7個分くらいってとこかな?江戸時代には、武士や町人が百姓から土地を買うことがあり、これを抱地(かかえち)、またそこに建てたものを抱屋敷(かかえやしき)と言ったんだと。明暦3年(1657)の大火の後、それまでは軍事優先の色合いが濃かった江戸の町は、大幅な都市改造がなされ、災害時の避難先として大名家が下屋敷や抱屋敷を設けることによって拡大したといわれているので、それで藤堂さんちもこんなに広くなっちゃったのかしらね(笑)。巣鴨北駐輪場を作る際には、下屋敷の裏手にあたる約300平方メートルの区画の発掘調査が行われたが、この時にはかなりの遺構や出土品があったらしい。(発掘調査の場所はこのへん)なんでも、遺構では井戸が9基、地下室(むろ)が8基。調査の行われた辺りは、武士だったら下級の者が住んでいたと考えられているらしい。他の出土品の中には、沢山の陶磁器類。多くは肥前・瀬戸・美濃などから運ばれてきたものらしいが、その中に欧州製の磁器が1点。オランダ製のティーカップだと推定されているそうな。いつ頃、どういうルートでここまで来て、誰が使ったんだろう?って考えるだけで、すごく楽しいんだけど しかし、大名家の門にしちゃ、ちょっと地味?とか思っちゃうんだけど、まあ下屋敷のさらに裏門だからね・・・この門がある所は、現在では公園として綺麗に整備されており、色々解説板なども置いてある。 【染井植木の里 豊島区駒込3・6・7丁目付近は、昔、染井村と呼ばれており、江戸時代から 植木の一大生産地として知られていました。嘉永7年(1854)に発行された 「江戸切絵図」に「此辺染井村植木屋多シ」と書かれるなど、植木職人が数多く 住んでいた地域です。 万延元年(1860)に来日したイギリスの植物学者ロバート・フォーチュンは、 この辺りの様子について、「交互に樹々は庭、格好よく刈り込んだ生け垣が つづいている。公園のような景色に来たとき、随行の役人が染井村にやっと着いた、と 報せた。そこの村全体が多くの苗樹園で網羅され、それらを連絡する一直線の道が 1マイル(約1.6キロ)以上も続いている。私は世界のどこへ行っても、こんなに 大規模に、売り物の植物を栽培しているのを見たことがない」と 述べています。 この土地のもとの所有者である丹羽家は、天明年間(1780年代)から 明治後期まで、この染井を代表する植木屋として活躍していました。 代々「茂右衛門(もえもん)」を襲名して、造り菊、石菖、蘭、ツツジなどを 得意とした植木屋です。津藩藤堂家や尾張藩などの大名屋敷にも出入りするなど、 武家にも信用を得ていました。 8代目茂右衛門(明治29年生れ)の代で植木屋をやめましたが、 当地域の旧家として知られています。 敷地内にある門は、江戸時代後期の創建で、豊島区の指定有形文化財となっており、 昭和11年に建てられた蔵は国の登録有形文化財になっています。】 (現地解説板より)その蔵がこれ。 【旧丹羽家住宅蔵 この蔵は、丹羽家に残されていた記録から、昭和11年の建築であることが わかっています。もとは主屋の北側に木造2階建ての蔵が建っていましたが、 8代目茂右衛門が、9代目の結婚の際に主屋の増改築とあわせて、 鉄筋コンクリート造りのこの蔵に建て直しました。 蔵は出入口を東面に設け、増築した6畳間と廊下で主屋とつながっていました。 出入口の観音開きの鉄製扉の内側に家紋(五三桐)が付いています。また扉上部と 両脇の柱に大理石が貼られるなど、装飾に気を使っている点が注目されます。 外壁は、昭和初期の土蔵や店舗などに多く用いられた工法である、モルタル下地に 大理石の砕石粒洗出し仕上げになっています。また外壁の腰巻、水切り、雨押え、 鉢巻などの細部や、窓の庇の銅板葺きなどに職人の丁寧な仕事ぶりがうかがえます。 蔵の内部は、地下に収納庫を設け、床板には檜板を用い、壁はモルタル下地に 漆喰塗りで仕上げています。特に1階の天井や梁化粧面取りなどに当時の左官技術が よく表れており、意匠的にも優れています。 このように、旧丹羽家は、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造でありながらも、 細部には職人の技術や建築主のこだわりが見られます。建築後70年以上が経過して いますが、昭和初期の建築当時の姿を残しています。 これらの点が評価され、平成20年3月7日に国の登録有形文化財建造物に なりました。】 (現地解説板より)懇切丁寧な解説が素晴らしいけど、残念ながら中には入れません。蔵の様式とかは全然わからないけど、壁のあちこちにくっついてるフックは何だろう?何かを掛けたりしたのかな?しかし、植木屋って言っても、相当裕福だったんだろうな。場所的に、藤堂家のお抱えみたいなもんだと思うし。藤堂家の下屋敷は広いので、その庭を手入れするために地元の百姓が出入りし、植木職人になったなんて風にも言われてるようだけど、どうなんだろ?なら、大藩の下屋敷の周囲にはどこも植木屋が多かったのか?今はまだその知識はないけど、機会があれば江戸の大名屋敷についてもぼちぼち勉強していきたいかな・・・にほんブログ村
2012年05月19日

池田忠継と督姫が亡くなったのが、慶長20年(1615)。利隆はその翌年に亡くなっているので、やっぱり毒を盛られてたんじゃない?なんて説もある。忠継は子のないまま若くして亡くなったので、すぐ下の弟・忠雄(ただかつ)が岡山藩主を継いだ。余談ですが、忠継さんは森忠政の娘と婚約してたそうなので、もし長生きして子ができてたら、森可成の孫が岡山藩主になってたかもしれないんだよね~、なんてつい考えちゃう・・・で、姫路藩は、嫡男の光政が家督を継いだ。しかし、7歳の幼少であったため、鳥取藩へ転封。年収は42万石から32万5千石へとダウンした。忠雄さんの方は、岡山藩主になってから岡山城の拡張工事とかをしてるので、岡山城の解説板に何度か顔を出してます。鍵屋の辻の決闘も、この人の時に起こってます。ただし、忠雄さんは河合又五郎の死を見ることはありませんでした。31歳の若さで亡くなったからです。若死にゆえに、この人も毒殺されたなんて噂があります。なんなんだよ、池田家・・・さて、前置きが長すぎたけど、ここからですよ(笑)。忠雄さんの死後は、嫡男の光仲が家督を継ぐ。わずか3歳だったため、「岡山は山陽道の要衝だよ?ちょっと無理でしょ~」って声もあったが、ここでも督姫様の血が威力を発揮。東照大権現様のひ孫を改易することはならず、鳥取に飛ばした光政とチェンジする事になった。岡山藩は31万5千石(←忠雄が相続の際、弟達に分与したため減った)。鳥取藩は32万5千石。寛永9年(1632)、光政は自分の生まれた岡山城に帰ってきた。岡山藩主となってまず、彼はこの寺に手を入れた。国清寺の解説板には、『寺歴は複雑化しているが』とありましたが、その変遷を図にすると大体こんな感じかな。 前の記事の国清寺の解説板にもあるように、国清寺は元々、「法源寺」という名前で光政の父・利隆が創建したお寺でした。それを、池田忠雄が岡山藩主になってから、名を「龍峰寺」と改め、兄の忠継の菩提寺としたそうな。そして忠雄自身もここに葬られた。さて、岡山入りした光政君は、姫路に残っていた祖父・輝政と父・利隆の菩提寺(姫路の国清寺)を、当時は龍峰寺となっていたこの地に持ってきて、国清寺と改称した。あわせて、先代・先々代の藩主であり、自分の叔父でもある忠継・忠雄の墓碑を分離した上、鳥取の光仲に「お前の父ちゃんなんだから、お前のとこで管理しろよな」とばかりに管理を押しつけた。この国清寺内にある忠継・忠雄の龍峰寺部分は清泰院と名を変え、岡山領内にありながら経費は鳥取藩もち、墓守もわざわざ鳥取からやってくるという徹底ぶり。なんでこんな事をするのか?やっぱり、督姫様を嫌ってたんでしょう。督姫様が亡くなったのは、光政がまだ7歳の時。義理の祖母にあたる督姫様と、トラウマになるような直接の関係はなかったかもしれないが、父が色々苦労したことや毒饅頭の噂などは見聞きしたかもしれない。それで、督姫様の血を引く叔父たちを排除して、自分が池田の嫡流であることを示したかったというように言われている。万治2年(1659)、光政君は岡山城内に祖廟を造るんだけど、この時も複雑な感情がちらほらと見え隠れする。祖廟には当然祖父である輝政も祀るけど、その正室として祀っているのは、自分の実の祖母である糸姫。そして、督姫様は祀ってないんだと・・・死してなお続くゴタゴタ・・・ドロドロがお得意の韓流もまっつぁおじゃないですこと?それにこっちは、現実にあったことだし。そんなドロ~リドロドロの池田家の歴史を秘めた、現在の国清寺の境内はいたって静か。例によって、誰もいないし。 境内はやはり風格がある。ただ、こちらも岡山空襲の被害を受け、本堂は昭和40年の再建とのこと。国清寺には輝政の肖像画・位牌・木像があるという事だったが、本堂とかに拝観受付っぽいのはなかったから、一般公開はしてないのかもしれない。「ここで輝政の位牌、見た!!」って訪問記は事前に見つけられなかったから、まあそんなとこだろうとは思ってたさ・・・ 昔は岡山藩の支藩・鴨方藩と生方藩の藩主・家族の墓もあったらしい。ただ、東側は移転したとかって読んだんだけど・・・輝政の位牌は見られなくても、墓とか供養碑とか何かないかな~と思って、少し境内(とゆーか、墓地)を歩いてみる。左側にはところどころ墓が建ってるけど、知らない人ばっかりだしゆっくり見てる時間もないしとりあえず、案内か何かないかな~と思って歩くけど、緑が多い上に人が来ないもんで、小道に入るとすぐクモの巣に引っ掛かる。私はクモが大っ嫌いなので、何度かクモの巣に引っ掛かった時点でもう墓地を歩くのはやめた。イヤなものはイヤなのだ輝政と利隆の遺骸についてもひと悶着あって、また黒光政君が気性の激しいところを見せたりもするんだけど、それについてはまた書く機会があった時に・・・光政君は一本気ってゆーか、潔癖風な感じなのかな~って印象かな・・・今のところ。「イヤなものは、イヤだ!!」って言ってる光政君の姿が目に浮かぶようだ。(誰かさんと同じセリフ言わせてるけど、気にしないで性格的に、ちょっと私と似てる気もするんだよね。)正直言って、輝政は理解に苦しむところがあるんだけど、まああの時代は嫁さんは選べないしね。あの世ではみんな仏様なんだから、督姫様も光政君も、ケンカしないで安らかに眠ってねさあ、そろそろ時間も迫ってきたし、今回はここで打ち止めとしようかな。他にも色々調べておいたスポットはあるんだけど、また次の機会に。中納言駅から路面電車に乗ろうと思って大通りを出たが、今までと何か違う。岡山駅前から岡山城のあたりまでは、道路の真ん中にでーんと乗り場があったんだけど、それがない。どころか、普通のバス停みたいに停車場を示すものも立ってない。この辺のはずなんだけど・・・おっかしいな~と思ってふと見上げたら、電信柱に「中納言駅」って貼ってあるだけだった。うっわ~、なにこの差・・・やがて電車がやって来たが、バスみたいに待ってる人のところへ寄ってきてくれない。広い道路のど真ん中に止まった電車に、道路をまたいで乗り込まなきゃならない。道路を渡る間も車が入ってきそうで、ワタワタしながら電車に乗り込んだ。あああ~、怖かったっ!!岡山駅には早めに着いたけど、土産を買ってるうちに時間がなくなっちゃってNHK内のデジタルミュージアムに寄れなかった。ああ、岡山城の模型、見たかったな・・・・今回は街中では名物を全然食べられなかったので、帰りの駅弁はこれにした。 岡山名物、ばら寿司。これも池田光政君に関係があると言われている。彼が倹約の人だった事は前にも書いたけど、一汁一菜を庶民に課したところ、ご飯に魚や野菜をあれこれ混ぜ込んで「一菜です」とやり返したという。なんか、人間の歴史ィ~!!って感じで、面白いよね。にほんブログ村
2012年05月13日

光珍寺でもらった資料には、こんな事も書いてあった。 【また、歴史好きな女性にも「宇喜多親子は逆境にもへこたれず、生き抜くところが かっこいい」ということで人気があり、今年のバレンタインデーには チョコレートがお供されましたが、創建千二百六十年の歴史で初めての出来事と 存じます。】1260年の歴史で初めての出来事・・・でしょうね~~!!!たぶん、例の2人が初めてやって来た年にご住職が書いた文章なんでしょうけど、大爆笑しちゃったよ。秀家はともかく、なおくんは一般的に悪人のイメージが定着しちゃってるからね~。ところで、戦災で貴重な品々は焼失しちゃったけど、現在の光珍寺は新たな宇喜多一族の位牌の他に、 一. 宇喜多秀家卿木像(元禄十七年 法橋民部作 浮田秀明氏より寄託) 二. 宇喜多秀家卿書状 三. 江戸末期の過去帳「浮田家戒名控え」 (光珍寺の資料より)を所蔵しているそうな。このうち3つ目の過去帳には、能家以降宇喜多一族の戒名と命日が記載されてるんだけど、気になったのは秀家の記述。過去帳には 広修院殿前三位妙相全誉 寛文7年5月4日 ※行年は97才となる。とあるそうだが、流罪となった八丈島では 尊光院殿秀月久福大居士 明歴元年11月20日(行年84歳)と伝えられているそうな。一般的には、八丈島の方の戒名・命日を正式なものとしてるみたいだけどね、光珍寺の資料には、 【岡山でも秀家卿の供養をしていたことは確かなことと存じます。】と文章が続く。まあ、命日は1日しかあり得ないけど、戒名はね・・・それぞれで供養を営んでいたのなら、もはやどちらが正しいとかいう問題じゃなくなってくるよな。山中幸盛なんか、ウィキペディアに5つも戒名書いてあるんだけど(笑)。光珍寺を出て、路面電車に乗って次なるスポットへ・・・大通りには、こんなのがあった。 こん棒だ!!桃ちゃん関連か~。いいよなあ、お茶目で路面電車で旭川を渡って、降りたのは小橋駅。いまいち寺の入り口がわからなかったので、ちょいと手前で降りたのだ。お次はここ、国清寺。(場所はこちら) 【萬歳山国清寺は、釈迦如来を本尊とする臨済宗妙心寺派の禅寺である。この寺は、 慶長14年(1609)池田利隆が建立し、当初は法源寺と号した。その後、池田家の 国替えなどによって寺歴は複雑化しているが、寛永9年(1633)池田光政が 鳥取から移封されると、彼は祖父輝政・父利隆を祀る寺として、国清寺と改称した。】 (現地解説板より)という事で、池田輝政とその子・利隆の菩提寺な訳ですが・・・「岡山城」シリーズで、池田光政を白と黒に分けてたのを覚えてますか?岡山城のところでは、白光政についてしか書かなかったけど、ここでは黒光政が関係する。黒っていっても、池田家のゴタゴタに連動してるだけから、本人が腹黒いとかそーゆー意味じゃないんだけどね。名君・池田光政の非常に人間臭い部分が、この寺と深く関係しておるのです。この件に関する、池田家の主な家系図はこちら。 輝政には他の子供もいますが、とりあえずは上の図を参考にして下さい。輝政の正室は、糸姫。光政の父・利隆はこの2人の間に、長男として生まれた。輝政はまあ有名だけど、簡単に流れを説明すると、秀吉から羽柴姓を与えられ、豊臣家に準ずる扱いを受けてた。豊臣秀次の事件の際には、ほとんどの妻子が殺された中、輝政の妹だった秀次の正室は特別に助命されるなど、それは大切に扱われていた。そんな養子のような立場ともいえる輝政を使って、実力者・徳川家康との縁を深めようとしたのが、秀吉。北条氏直と死別して実家に戻っていた督姫と、輝政との婚儀を仲介する。輝政の正室・糸姫は、産後の体調が悪く実家に戻ったとされているが、どうも利隆を生んでから相当の年数が経ってからの事らしく(笑)、督姫を迎えるために離縁されたみたい。いわゆる武断派に属し、秀吉亡き後の豊臣家と袂を分かった輝政は、西国にいる秀吉子飼いの武将達の牽制役として、姫路城主に据えられた。督姫と、それから家康と気脈を通じている自分の家臣に監視されながら。さて、この督姫様、この方がまたすごいんです。輝政と督姫の仲は良かったとかイマイチだったとか色々言われてるけど、ともかく沢山子供を作りました。こんな風に。 ここでは、男の子だけね。カッコ内は、生まれた順番です。3男の輝高さんは、生年とか詳しい事はわからないけど、恐らく夭折したんでしょう。ともかく、督姫様が嫁入りした時には、輝政にはすでに4人の男子がおりました。継室ではあるけれど、自分の子は5番目以下・・・しかし、我が子は可愛い。そこで、督姫様はとんでもない力技を使いました。どんな?子供の順番を変えちゃったんですよ(笑)。下の図のように。 枠の中が、督姫様の実子。この子たちを、ごっそり上に持ってきた。 この精神的馬鹿力の姫様のおかげで、生年と順番がめちゃめちゃな系図が出来上がりました。ひどくない?ホントは忠継に家督を継がせたかったって話もある。さすがに輝政には却下されたため、兄である徳川秀忠の力を借りようとした。しかし、徳川家では長子相続をモットーとしていたため、これも失敗。慶長8年(1603)、小早川秀秋の死去に伴う改易で空いた岡山藩主(28万石)のポストに、忠継はわずか5歳で着任。督姫様のテコ入れがあったともいわれる。5歳で政務が執れるはずもないので、兄である利隆が執政代行として岡山入りし、実質的な藩主として実務を行った。この期間に、岡山城で光政が誕生。慶長18年(1613)に輝政死去。利隆が家督を継ぎ、やっとこさ姫路城主となる。ただ、この時も姫路領から10万石を忠継に分与させられて、42万石に減ってしまった。忠継の方は10万石アップで、38万石。そんな中で起こったと伝えられているのが、毒饅頭事件。昭和に入ってからの調査では、この事件のウラは取れなかったらしいので、ウソかホントかわからないが、事件の概要はこんなとこ。 忠継を何としても姫路藩主にしたい督姫は、岡山城へ利隆を招いて毒入りの饅頭を 勧めた。 侍女が掌に「どく」と書いて利隆にそっと知らせたため、利隆は食べなかったが、 それに気づいた忠継が饅頭を食べ、さらに督姫が饅頭を奪い取って自分も食べ、 忠継と督姫は亡くなった。饅頭の真相はわからないけど、督姫様が我が子を溺愛していたというのは確からしい。亀姫様といい、督姫様といい、どうも家康の実の娘ってのはアクの強い女性が多いのお・・・にほんブログ村
2012年05月12日

光珍寺所蔵だった、弘法大師作といわれる愛染明王様は現存しませんが、前の記事の仏壇の写真を見てください、右脇にあるのが、明王様の写真です。この明王様については、仏像にありがちな遍歴の話が伝わってます。もとは山城の国白河のさとまる堂にあったが、応仁の頃に美作の安国寺の住職が上洛した折、同伴の童の口を借りて「我はさとまる堂の護法神である~。戦火が仏殿にかかっちゃったので、本尊を泥の中に隠したのじゃ~。汝は速やかに本尊を本国へ移して、清水で洗うべし~。きれいにしてくれて一生懸命祈れば、願いを叶えてやってもよいぞ~。」てなお告げがあったので、その像を探し当てて美作に持ち帰った。その後、今度は宇喜多直家の夢に「我は愛染明王である~。備前こそ我のいるべき場所なのじゃ~。」と明王様ご自身が現れたので、直家は光珍寺の本尊として祀った。寛永の頃には国内でちょっとゴタゴタがあったので因幡の観音堂へ移したが、そこの住職の夢に明王様がまた現れて、「備前へ帰りたいのじゃ・・・・」と何度も何度もおっしゃるので、ご住職自らお送り申し上げたそうな。このエピソードは、「柴岡山露月光珍寺本尊愛染明王略縁起」(正徳元年、弘化二年写)に記されているそうだが、面白いのは、 【今に至て諸願を祈るに、かなへ給はば浄水を以てきよめ奉んとて、 杓の底なきを奉り、其願成就するとき、その底を入て奉る事、 なをこの因縁によれり、これ則大悲の方便、さつたの利物なるもの歟。】とあること。底のないひしゃく!!諏訪大社・赤間ヶ関に続いて、これで私が知ってるのは3つめだ。(知らない方は、「赤間ヶ関編(14)」をご覧ください)意外とポピュラーなグッズなのかしらね。でも光珍寺のは、「願いが叶ったら底を入れてあげる」だから、一種の取引だよな(笑)。愛染明王様をはじめとする、光珍寺所蔵の宇喜多家ゆかりの品々は以下のようなもの。 一. 宇喜多一族の位牌 二. 宇喜多直家公木像 三. 宇喜多直家公護持仏 愛染明王像 四. 宇喜多秀家卿寺領米寄進の折紙(豊臣秀家の黒印) 五. 宇喜多秀家卿「南無阿弥陀仏」名号一筆 (光珍寺の資料より)これらの貴重な品が、先の戦争での空襲により寺とともに焼失。光珍寺の現代風な外観は、戦後再建されたものだからなんですね。ちなみに光珍寺でもらった資料には、かつての本堂の写真も載ってた。 どうです、立派なもんでしょお~!!「岡山城」シリーズでも書いたけど、岡山空襲で岡山城も燃えちゃったしね・・・くそっっさて、前の記事の写真の通り、ここにあるのはお位牌だけです。直家の墓についても、光珍寺でもらった資料にこんな事が書いてありました。 【「宇喜多直家公のお墓はどこにありますか?」というお問い合わせが 多々あります。 先代住職夫妻から、「戦前、光珍寺の庭に桃山時代の五輪塔があり、 昭和初期、当時の住職が認めれば直家公のお墓として指定するという話があったのを、 確証がないので断った」という話を聞きましたが、この石塔は戦災により 行方不明となっております。 しかし、大正三年編纂の「岡山磨屋町誌」、昭和七年編纂の「宇喜多直家墳墓考」、 昭和十一年編纂の「岡山市史」にはこの五輪塔について記載がありません。 直家公のお墓については諸説がありますが、いずれも確証はなく、 わからないというのが真相のようです。(位牌は光珍寺にあります)】墓も戦災か・・・まったくもうそれでは、宇喜多コーナーに所狭しと並べられてるグッズをご紹介。 ↑親切にスタンプ台まで置いてあったので、押させていただきました。 ↑おっと、これは美人だと有名なひでくんのママか~。 ↑すんごい家紋・武将グッズの数々・・・仏壇にも、いくつもミニのぼりが立ってたしね(笑)。 これ・・・は何だろう?「宇喜多直家公像」として有名なのは、確か戦災か何かで焼失したんじゃなかったっけ?あらたに造って、寄贈したのかな?さらに驚いたのは、コレ~!! 主にビジュアル系武将本の数々・・・中には、同人誌みたいのもある。中身を見てはいないけど、おそらくBL(ボーイズラブの略、一昔前で言う「やおい」、もっと昔風に言えば衆道)も含まれてるんじゃないかな・・・なんて柔軟なお寺なんだ!!でも、基本的に光珍寺の姿勢には私は賛成なんだ。歴史を伝えていくためには、知名度ってのはやはり不可欠。ゲームとかグッズとかは、わかりやすく手っ取り早く、かつ身近に名前を知って親しんでいくためのとても有効な手段だし、私はアリだと思ってる。私もミーハーだけど、そういう人達が実際に現地に訪れて墓参りでもすればもちろん直接の供養になるし、現地でお金を使ってってくれれば史跡保存の役にも立つ。とにかく埋もれさせていかないこと、これが大事だし供養になると私は思うんだよね。しっかし、これだけの数の宇喜多グッズをよく集めたな・・・と思ったら、2ちゃんねるでこれに関する記事を見つけた。なんでも、直家の命日にはご住職が一人で細々と法要を続けていたらしいのだが、2008年に宇喜多ファンの女性2人がやってきて、「チョコをお供えしてもいいですか?」と言ったので、ご住職は申し出を快諾。それに感激した2人がネットで報告したため、年々参拝者が増え、全国から関連グッズなどが送られてくるようになったらしい。なるほど、じゃあこのグッズの山は、送られてきたものをご住職が丁寧に仏前に奉納してるって事なのか。「いい供養になる」とご住職もおっしゃっておられるそうだから、やっぱり私と同じ考えの方なんだね。グッズとかゲームとかマンガとかの類には眉をひそめる方もおられるけど、例えば三村氏なんかいい例だと思うんだよね。支城をいくつも持つ備中の覇者なのに、知ってるのはごく一部の歴史ファンだけ・・・でもそんな埋もれている氏族は、歴史の中にごまんといる。なんて悲しいことだろう「知ってどうなる」って考え方もあるけど、知らなきゃ何も始まらないじゃん?おきゃやまから帰って、職場に土産を配った時、この辺りの出身の同僚から「どこ行ったの?」って色々聞かれた。その会話の中で、「池田の殿様が・・・」って普通に言ってたから、やっぱり地元では池田の方が馴染みがあるんだな~って思ったんだよね。統治期間、長いしね。そんな中で、近年の宇喜多氏の再評価の動きが出てきて、観光面では思ってた以上に宇喜多カラーを打ち出してたから、静かに宇喜多家を祀ってきた光珍寺としても、やっぱり嬉しかったんだろうな~って思ったワケですよ・・・にほんブログ村
2012年05月11日

<4日目> '11/9/20(火)くもり2日目、3日目とありがたい事に天気予報は外れて日中は晴れ間も出てた。昨日の夜は雨が降ったけど、今朝は雨は上がった。けど、どんより蒸し暑い。4日目ともなると、さすがに疲れも出てきて、昼の新幹線の時間まで宿でまったりしていたいけど、怠け心にムチ打って、宿に荷物を預けて外へ出た。あまりゆっくりしてる時間もないけど、行けるところまで頑張ろう。駅を通過する時、台風の影響で電車が遅れてるとアナウンスが入ってた。昨日とかも、四国の方では電車が止まってるとか何度も言ってたな~。まずは岡山駅前から路面電車に乗って、1駅。降りたのは、西川緑道公園駅。疲れてたから、なるべく歩きたくなかったんだよ・・・(笑) これが西川用水。今の用水自体は昭和に入ってから、全長16kmに及ぶ農業用水として整えられたものだが、古くから流れていたものらしく、平安時代には灌漑だったと推定されており、江戸時代には水堀の役目を果たしていた。岡山城の堀の中で最も西に位置する二十日堀よりさらに西に位置するため、一般的に紹介される岡山城域よりももう一つ、天然の堀を外側に抱えていたことになる。二十日堀は、小早川秀秋がその名の通り20日で築いたとされる堀。今は埋め立てられて堀はもうないが、現在の柳川筋がこれにあたる。金吾(小早川秀秋)の墓もこの岡山市内にあるんだけど、行くかどうかは、まあ時間によりけりかな。ここから歩いて少ししたところが、今日最初のお目当てで~す。その手前に、こんな民家があった。 向唐破風ふう民家(笑)。面白すきる嫌いじゃないよ、こーゆーの。その先が光珍寺(場所はこちら)。 外観はこんなだけど、ちゃんとしたお寺です。屋上に寺っぽいのが載ってるでしょ?このお寺は、こーゆー↓お寺なんです。 とゆー訳で、朝から墓参りです。あまりここの詳しい訪問記を書いてる人はいなくて、ある人は中にある内線を使って事務局へ行ったとか何とか言っておられた。ので、そのつもりで中へ入ってみたら、入ってすぐのところにこう書いてあった。 あ・・・直接行っていいんだ。たぶん、近年の戦国ブームでここを訪れる人が増えたんだろうな。じゃあ、遠慮なくエレベーターで3階へ。3階で降りると、ホールの真ん中には本堂スペースがあって、その脇に宇喜多コーナーがあった。 畳敷きか・・・山靴を脱がなきゃならんな。近寄ってみると、想像とは少し・・・いえ、だいぶ違った光景が広がっていた。 ちょっとちょっと~!!気になるものが山ほどあるけど、まずは、なおくんのお参りを・・・ こちらが宇喜多直家公のお位牌です。左奥のは、たぶん興家のじゃないかと思うんだけど・・・光珍寺に置いてあった資料には、色々書いてあるんだけど、長すぎて全文は引用できないひとまず、光珍寺の縁起について要訳すると、 『奈良時代・天平年間(749)に創建された備前48ヶ寺の第二寺。 昔は岡山寺といって、現在の岡山城が建つ岡山にあった。その地を柴津岡山と いっていたので岡山寺と名付けた。 寛弘年中(1004~1013)、恵心僧都(えしんそうず。「往生要集」の編者)が この地にやってきた時、しばらく岡山寺に滞在して本佛の首を中に入れ込んだ 弥陀尊と観世音勢至の像を作り、天台宗に改めた。 「吉備津之神宮、藤井久任、柴津国の弥陀堂の前に来たりて、火定に入し」と 「元享釈書」第17巻に記されているのは、当寺のことである。 天正の初め、宇喜多和泉守直家が岡山に城を築くことになったので、岡山寺は 初め古京町のあたりへ、さらに中山下へ移され、直家の父・興家の位牌所となった。 その際、興家の戒名「露月光珍居士」から岡山寺の名を光珍寺に改めた。 直家が小身の頃から、秀家との2代にわたって様々な庇護を受けたが、関ヶ原で 宇喜多家が改易された後、小早川秀秋が入国するにあたって、秀秋は 宇喜多家ゆかりの事などを嫌ったので、元の「岡山寺」に改称したいと 申し出たところ、秀秋から池田光政の代に至るまでは、書状にも「岡山寺」と 書いてくれた。 しかし、「光珍寺」の呼称が人口に膾炙していたため、慶長5年には光珍寺・岡山寺 両方の寺号を名乗るように仰せつけられた。 本堂は昔は大きかったが、230年の間に3度移転し、本来大きな阿弥陀堂を 小さく造るのには不都合があり、元禄年中からは客殿に本尊を置き、本堂に愛染を 置いた。 弥陀三尊は恵心僧都の作、愛染明王は弘法大師の作である。』こんな感じになるのかな~。『』内の2行目からは、寛政年間(1789~1801)に編纂された「吉備温古秘録巻之三十 佛刹四 縁起光珍寺略縁起」からの引用を大ざっぱに訳したものなので、ちょっと違ってるところもあるかもしれませんが 毎日私の長いブログを読んで下さっている方でも、長すぎてもはや誰も覚えてないと思うけど(笑)、上の文中にある藤井久任さんは「撫川城(1)」で一度出演してるんですよ。あちこちで色んな人が顔を出すから、パズルみたいで面白いねにほんブログ村
2012年05月10日

松山城柄のふたを見つけたので、ルンルンして商店街を南西へ。国道180号線に出てから、高梁川にかかる落合橋を渡る。この辺は、あんまり通りやすい道じゃないし、目的地のはっきりした場所もわからないからちょっと不安だった。けど、通り沿いにちゃんと案内が出てたので、無事到着(場所はこちら)。 こちら、山中鹿之助幸盛さんのお墓になりまする。天正6年(1578)7月3日、信長様に見捨てられながらも約3か月上月城で粘っていた尼子勝久が自刃し、上月城落城。尼子家再興という大きな夢を抱えた山陰の麒麟児・山中幸盛は、勝久とともに自刃はせず、60名程度の家臣とともに毛利軍に投降し、身柄を護送された。一説には、尼子の天敵である吉川元春を殺すために、あえて捕縛されたともいう。護送の任にあたったのは、吉川元春の義兄弟でもある天野元明。幸盛の護送団の目的地は、備中松山城。毛利軍が上月城を包囲した際、総大将である毛利輝元は宇喜多軍の裏切りを警戒して松山城にいたといわれている。7月17日、高梁川・阿井の渡しに差し掛かった一行は、まず幸盛の家臣が先に対岸に渡された。残された幸盛に、天野元明の家臣の河村新左衛門と福間彦右衛門が突如襲いかかった。斬りつけた相手を組み伏せようとしたところ、背後からとどめを刺されたという。幸盛の墓はここ以外にもいくつかある。阿井の渡しで討たれた後、首級は備後鞆に送られ、足利義昭と毛利輝元の首実検を受けた。首塚と胴塚はそれぞれ別の場所にあり、墓所は亀井茲矩(これのり)がこれまた別の鳥取に建てた。余談ですが、亀井茲矩の子孫は現在政治家さんとして活動しておられますよ。2人が有名ですが、名字でわかるよね。そのうち、家系的には亜紀子さんの方が亀井茲矩に近いそうですが、血縁関係はないんだとか。現在、この場所は小さな公園になっているが、私が行った時は誰もいなかった。しめしめ、また静かに墓参りができるぞ・・・石段を上がって、より幸盛に近いところでお参りを・・・と思ったら、碑の前にある小さな祠の脇にこんなのがあるのを見つけた。 お・お・お・鬼ころしい~!!しかも、なぜか開封されてるしえええ~と、親切な人が墓前に備えたお供えを、ちょっと不心得な人が頂いちゃったんだと思いたい・・・不心得な酔っ払いが、使用済の空きパックを置いてったんじゃないよねこーゆー場合、幸盛本人がイッキ飲みしたとかゆーホラーな想像は浮かばない。怖がりだけど、この辺は現実主義者。さらに鬼ころしの下にあるモノ・・・ただの和紙かと思ったら、「伊奈波神社」って書いてあるし。お守りとかお札を入れる、小袋だ。お供えものに手を触れるのはためらわれたので、袋の中身は見なかったけど、お札みたいのが透けて見える。(写真でもうっすら見えますよ)死者に捧げるお札って、なんだろう・・・安眠祈願?いや、そんなの見たことないしな・・・そもそも、伊奈波神社って、どこの?伊奈波神社といえば、岐阜のしか思い浮かばないんだけど、まさかね・・・この近くにあるのかな?雑念だらけで墓参りをした後、墓の裏の土手に回り込んだ。 ここが、阿井の渡し。幸盛が殺された場所。写真は、奥が南。当時、どういうルートを辿ってここまで来たのかはわからないが、南の方から来て松山城を目指してたんなら、向こう岸で殺されたことになる。松山城への護送中じゃなくて、備後鞆への護送中に殺害されたって説もあるから、例えば北から来て一旦松山城に入った後、鞆へ向かってたんだとしたら、こちら側で殺されたのかもしれない。武勇に優れた幸盛を、毛利輝元と小早川隆景は恭順させて有効に使おうとしたが、山陰道守将として幸盛と対峙してきた元春ちゃんは、「あんなぁ(※)がおとなしゅう従うはずがなぁで。甘いこと言いんさんなや」(※)あんなの、あんな奴の意と却下して、幸盛の運命が決まったとも言われる。享年34歳。山中幸盛殺害の実行犯と目される福間君は、「赤間ヶ関編(46)」で顔を出したのを覚えてますか?斬った人も斬られた人も、過酷な時代の中をただひたすら生きていた。こーゆー場所では、私はあれこれ考えるより、ただ意識を好きなように遊ばせる。傍から見たら、焦点の定まらないうつろな目をして動かない私は、すんごい怪しい人に見えるに違いない。ま、だいたいこーゆー場所って、ほとんど人いないけど・・・(笑)この阿井の渡しは、高梁川と成羽川との合流地点にある。上の写真には写ってないけど、右側から成羽川が流れてきてる。成羽川をさかのぼると・・・またその話かよ!!っていい加減怒られそうだから、またこの次にしよう・・・しばらく土手に突っ立ってたら、近くにある大きな木からハチが飛んできた。も~っ、前月の山口といい、自然の豊かなところはこれだから・・・!!と半分逆ギレ、半分ヒイヒイ言いながら、幸盛にお別れ。落合橋を渡る手前には、これがあった。 やったあ、松山城柄の別バージョンだあ~ふたとの出会いは、運と根性だからね~。マニア~な方は、わざわざお目当てのふたを探しに遠方まで出かけたりもするらしいけど、私はマニアじゃないし。史跡めぐりの限られたコースの中で、素敵な柄のふたに出会えるかどうかは地道に道路を見続ける忍耐にかかってくる。前の記事に載せた2つの松山城柄のものはすぐ駅前にあったけど、ここにも別柄のがあるとは思ってなかったから、ちょっとラッキーだったな。幸盛サマサマだわ駅に戻る途中で撮った、国道180号線から臥牛山方面の景色。 かつて、ここでいくつもの激しい戦いがあったなんて想像もつかないくらい、美しい風景だった。いや、激しい歴史を知っているからこそ、美しく映るのかもしれない・・・にほんブログ村
2012年05月09日

通り沿いには、神社仏閣がいっぱい。高梁は古くて素敵な町だ。 石垣や土塀もいっぱい。 中にはこんな、フェイクもあるけど(笑)。 地図とにらめっこしながら小道を結構歩き続けて、やっと次のお目当てに到着~。 【東向山 松連寺 真言宗御室派仁和寺の中本寺で、本尊は大日如来である。現在の寺は明暦3年(1657) 市内奥万田より備中松山藩主水谷伊勢守勝隆公により移築されたものである。 武家諸法度で城の新築は禁止され修理も難しい時代に、松山城の砦として築いたことは 城郭づくりそのままの石垣がよく物語っている。 本堂右にある観音堂には秀吉が朝鮮出兵をした文禄の役(1592~1593)の総督、 岡山城主宇喜多秀家の御座船の格天井と船戸がある。ともに県指定重要文化財で ある。】 (現地解説板より) 【松連寺本堂の天井と船戸 文禄元年(1592)豊臣秀吉が第一次朝鮮出兵の際、岡山城主宇喜多秀家を 総督として、安宅型の軍船で渡海するにあたり、この松連寺の宥海法印を釜山浦へ 従軍させて、戦勝を祈らせました。 凱旋の際、宥海の功績を賞し、33体の観音像を彫刻し、観音堂を建立させました。 建立に当り軍船の大将座所の天井と船戸数枚、寺領100石を寄進しました。 格天井と船戸はめずらしい品で、ともに桃山時代の優秀作品です。】 (現地解説板より)なるほどね~、そーゆー事情でここにひでくんゆかりの品があるのか。しかし、残念ながら御座船の天井と船戸は非公開です。それどころか、お寺も一般開放していません。ここに来た人の記録を読むと、中に入って写真を撮ってる人もいるんだけどな・・・近年になって非公開としたのか、あるいは特別公開の日があるのか。いちおう上まで上がってみたけど、門はぴっちり閉まってた。ここも石段の真上に門がある訳ではなく、上がって90°に曲がったさらに上に、入口がある。普通はさ、こうじゃない? (松連寺手前の道源寺) (こちらも松連寺近くの泰立寺)上の2枚の写真は、いずれも通りから撮影したものです。だから、頼久寺とか松連寺がただの普通の寺じゃない位置付けにあったんだろう事は容易に想像がつく。まあ、中には入れないのは残念だけど、この石垣を外から見るだけでも充分ここに来た甲斐がある。 さて、実は「備中松山城」シリーズで一度松連寺の名は出てきています。上の解説板には残念ながら書いてありませんが、このお寺は三村元親が自刃したお寺なのです。とは言っても、この場所でじゃないけどね。移築される前の、松連寺での出来事です。元の場所は、ここからそう離れてはいません。もし松連寺に元親の墓があったら、寺を公開してない関係で、元親の墓参りをすることはできなかった。だから、頼久寺に墓があってよかったな~って思った訳です。これで、高梁川より東で予定していた所はすべて見終えた。今日残るスポットは、あとひとつ。ここからは急いで駅へ向かう。朝、レンタサイクルについて確認した時、案内所自体は16:00くらいだけど少し早めに閉めちゃうという事だったので。どこかお店に入って何か食べたいな~と思ってたけど、時間の関係でちょっと無理。仕方ない、手持ちの食料でガマンしよう・・・備中高梁駅の近くの案内所には、朝と同じ宮川大輔似の兄ちゃんがいた。山を降りてから着替えてるし、私のこと覚えてるかな~と思ったら、「おかえりなさい」って迎えてくれた。ここはレンタサイクルの台数はそう多くはないみたいだけど、幸いまだ残っていた。案内所が閉まった後でも、駐輪場の扉は開けておくのでそこに返しておいてくれればいいですよ~って言ってくれたので、安心した。自転車に乗って商店街を走り出したら、駅のすぐ近くにこんなものを見つけた。 さらにこんなのも。 あった、あったあ~!!ここまで歩く道々、松山城柄のふたを探しながら来たけど、残念ながらなかったから、もうほとんど諦めてたんだよな~。まあ、1枚目のはふたじゃないけど。にほんブログ村
2012年05月08日

中に入ると、お堂の玄関もこれまた美しい。ここの軒丸瓦は、菊。他の意匠にも、菊が多く使われている。 安国寺ってのは、足利尊氏と直義の兄弟が、後醍醐天皇の菩提を弔うために造られたものなんだってね。アニメ「一休さん」を見てた頃は、そんなの知らなかったなあ。(当たり前か。子供だもん)聖武天皇の国分寺ばりに、1国1寺を造るよう指示を出し、新しく作った国もあれば、既存の寺院をあてた国もあるそうな。安国寺建立の進言をしたのは、かの有名な夢窓疎石さん。この人は臨済宗だったため、安国寺を通じて臨済宗を始めとする禅宗の普及にも大きく役立ったという。やり手だなあ。そして室町幕府の衰退とともに、各地の安国寺も同じく衰退していったと。上野頼久さんについては、「備中松山城(3)」でごく簡単に触れてます。頼久さんが松山城に入った頃の永正年間ってのは、大内義興さんの「永正船岡山合戦」の永正だから(←大内さんちを基準に見るヒト)、室町幕府もだらだらとモメにモメてた頃だわな。この頃すでに松山城下の安国寺は荒廃してしまっており、頼久さんは土地を寄進して堂宇などを再建した。これを称えて、寺名を「頼久寺(らいきゅうじ)」と改めたという。さてと、私がここに来たのは、有名人・小堀政一さんのお庭が目当てではございません。せっかくの名勝だから見ても良かったんだけど、拝観するには中へお声がけしなきゃいけないみたいだったから、めんどくさいのもあったし(笑)。庭の事とかも全然わかんないし。そもそも、本当に政一さんが造ったのかもわからないし。て事であっさりスルーして、左へ進む。ここの境内には、面白いものがある。 小ぶたが膝に乗ってるし。 ・・・・虎?なんか、雌ライオンみたいだし(笑)。こんな感じの、「小僧さんと動物」シリーズみたいな石像がいくつもあった。変わってるな~、ここ・・・と思いながら、墓地へ。そうです、墓マイラーですので、お墓参りに来たんです。まずはこちら、上野頼久さんのお墓。 ・・・写真が曲がってるのは、気にしないで下さいね(笑)。暑かったり、疲れてたりするとホント写真がぞんざいになります。いや、これは墓そのものが傾いてるのかな?そして、こちら。 三村親子の墓です。左が家親(元親のパパ)、右が元親。そう、ここへは三村さんに会いに来たんです。なんで頼久寺に墓があるのかはわからないけど、ともかくここにあるおかげで、墓参りができる。このすぐ脇に、元親の子で斬首された勝法師丸の墓もある。誰もいない墓地で、非業の死を遂げた三村三代の墓に向かい、静かに冥福を祈ろう・・・と思って手を合わせて瞑想に入ろうとした途端、墓地のすぐ後ろにあるアパートの部屋からジャーーーーッッッ!!!って思いっきりカーテンを閉める音がして、台無しもう墓しか目に入ってないから、アンタの部屋なんか覗いてないし、そもそも人がいるなんて思わないし!!なにも三村さんちの墓に手を合わせた時に、邪魔しなくったっていいでしょ!!てマジで腹が立ったので、静かな墓参りどころではなくなってしまった。この日はおきゃやま入りして3日目。いちいち書かなかったけど、こんな風に気分を害したことが実は何度かあった。岡山の人は気を悪くするかもしれないけど、正直言って私には岡山人がみんな怖い顔に見えた。顔がいいとか悪いとかの造りの話じゃなくて、なんか怖く見えてしまうこんな風に自分でも訳のわからない感情に襲われる時は、とりあえず前世に原因を求めることにしている(笑)。例えば、日光。山内をうろつく時は、東照宮はせいぜい4~5回に1回の割合くらいでしか立ち寄らないけど、大猷院(徳川家光の墓所)は必ずといっていいほど、行く。なんでこんなに大猷院が好きなのかわからないので、きっと前世で家光の下女とか、あるいは大猷院の工事に携わった人夫とかだったんだろうと勝手に決めて納得してる。同じように、きっと私は桃太郎に討たれた温羅の軍の雑兵とかだったんじゃなかろーか。だからきっと、征服者の子孫である岡山人が怖く見えるんだ。誤解のないように言っておきますが、岡山人に何をされたという訳でもないし、優しい人も顔のいい人もいっぱいいますよ。あくまで個人的な感想です。ちなみに、ツイッターのフォロワーさんは私の大内氏好きをよくご存知だと思いますが、大内さんちについては、まだ前世での説明がついていません。何しろ、大内ひろよん(弘世)が山口に拠点を移してから9代約200年にもわたりますので・・・ちょっと前世説は使えないかな~(笑)。もしかして、少し大内さんの血が混じってる?いやいや、それはないだろうし。まあ、好きなものに理由なんていらないしなさて、三村親子の墓に手は合わせましたが、なんか落ち着かなかった・・・まあ、いいや。今回行かなかった三村氏ゆかりのスポットもまだあるし、その時にまた会いに来よう。頼久寺を出て、さらに南へ。思ったより道が複雑で、やっぱり戦闘用の城下町だな~って思った。途中の民家の壁には、こんな奇妙な貼り紙が・・・ ナニコレ~!!この紙を留めてる画びょうもすでにさびてるから、相当前に貼られたものだよね~。押しピン?なにか飾りの付いた画びょうのことかな?後でわかったんだけど、おきゃやまでは画びょうのことを「押しピン」というそうな。そんなに大事な画鋲だったのかな~?旅はホントに面白い。にほんブログ村
2012年05月07日

※「備中松山城(15)」の続きです。ここからは、お目当てまで歩く。通っていくのは、「石火矢町ふるさと村」。(現在地はこちら) 【高梁市は今から約300年前に、水谷勝宗が小松山に城を築いて以来、明治維新まで 城下町としてこの地方の政治、経済、文化の中心地として栄えてきました。 現在の街並でも石火矢町一帯は城下町の町割りや土べいをめぐらした武家屋敷が 残っています。”ふるさと”を、いつまでも保存し、伝えてゆくために岡山県では ”ふるさと村”として指定しています。】 (現地解説板より) 城下町・高梁はこんな感じだったらしい。 (現地解説板より)武家屋敷ロードに入って少ししたら公衆トイレがあったので、汗くさいTシャツを脱いでここで着替えあまりゆっくりしてる時間もないんだけど、せっかく通り沿いに観光スポットがあるから、ちょっとだけ寄って行こうかな。この通りは、解説の通り石垣やら土塀やら抱えた、古い家が並ぶ。ふいご峠まで運んでくれたタクシーのおじちゃんは、確か現存する武家屋敷に今も普通に住んでる人がいると言ってた。そのうち、一般公開してるのは2ヵ所。まずは、旧折井家。 【(前略)この建物は、今から180年前天保年間に建てられたもので、200石前後の 武士が住んでいたものです。 母屋と長屋門からなり、母屋は書院造り、また中庭の池や庭石、踏み石などは、 ほぼ昔のままでありその庭に面して資料館があります。】 (「武家屋敷 旧折井家」リーフレットより) 玄関を入ると、この人が礼儀正しく迎えてくれる。家族は部屋の中にいたから、下男さんかな? この人は休館の日も休まず、365日ずーっとこうしている。さぞ、肩も腰も痛かろう・・・(笑)そんで、不審者が来たら、上に並べてある槍を手に応戦するんだ。きっと。この人じゃなくて、生きてる受付の人に「どうぞ上がってください」と勧められたけど、何しろがっちり足ごしらえしてるもので、靴を脱ぎ履きするのがめんどくさい・・・て事で、ここでは外から見るだけにした。 ここは桟瓦なんだ・・・やっぱり、本瓦葺ってのは高級なんだな。庭にたたずんで隣との境を眺めてるうち、「昔はご近所さんが皆同僚だもんな~。家柄とかも色々あるし、一軒家って言っても社宅街みたいなもんだし、窮屈だったろうな~」とか生活感にあふれた想像があれこれ湧いてくる。敷地の一角は資料館になってて、さらりと見てから次の旧埴原(はいばら)家へ。 こちらは、 【江戸時代中期から後期にかけて、120石から150石取りで、近習役や番頭役などを 務めた武士の住宅である。(長いので以下略)】 (「武家屋敷 旧埴原家」リーフレットより) だそうな。せっかくだから、こちらには上がらせていただいた。人もほとんど来なかったし、実に静か。かつて人んちだったところをこうして見て回るってのも、何だか変な気分・・・ さて、武家屋敷を見せていただいてから、通りを南へ。まず最初のお目当てが「天柱寺 安国頼久禅寺」(場所はこちら)。 う~ん、美しい・・・この写真は寺の外から撮影したもの。普通はさ、石段を上がった正面に山門があるよね・・・ムニャムニャこちらは観光スポットとしても紹介されている。これがあるから。 【名勝 頼久寺庭園 頼久寺は、臨済宗永源寺派に属し、その草創は明らかではありませんが、足利尊氏の 発案で各地に建てられた安国寺の一つとして再興されました。永正年間(1504~ 1520)に備中松山城主であった上野頼久の庇護によって大いに伽藍が整備され、 頼久の死後、寺号を今の呼び名に改めています。 頼久寺庭園は、小堀遠州(政一)の若いころの作庭として伝えられています。 慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の直後、小堀遠州(政一)の父正次は備中国奉行として 政一(遠州)を伴って松山に赴きました。 天正乱後の城は荒廃しており、頼久寺を仮の居館として政務を執っていたことがあり、 庭園はその時に作庭されたと言われています。しかし遠州が作庭に携わったという 明確な記録が残存しておらず、詳細は不明です。 本庭園は書院東南面の庭園であって、蓬莱式枯山水庭園です。白砂敷の中央に 二つの低い築山状の島を置いて石を組み(鶴島・亀島)、書院左手の山畔に沿って サツキの大刈込が植えられ、大海を表しています。 また二島の間には簡素な地割の池があり、正面遠景の愛宕山を借景にした平庭です。 この庭園の石組及び地割の主要部には江戸時代初期の手法がみられ、保存管理状態は 良好で、全体としてすぐれた意匠を残しています。 平成21年7月には、本堂や書院などが指定地に追加され、頼久寺全体が名勝に 指定されています。】 (現地解説板より)門の内側の意匠はこんな。 う~ん、美しい・・・(←こればっか)にほんブログ村
2012年05月06日

線路より下のところにも、これ、当時のままだよな・・・ってのが結構ある。 ため息をつきながらまったりした後、線路を渡ろうとしたら遮断機が下りて特急やくもが走ってきた。 おお~、御殿内を走るやくも!と思って思わずカメラを向けちゃったんだけど、運転手さんとか車内から見てた乗客は「鉄子だ」って思っただろーな・・・鉄子ちゃうよ、ワシ・・・さて、外から見てるだけでもホントに飽きないけど、まだ次があるから戻ろう写真撮りながら(笑)。 まあ、石垣とかは一部景観を合わせましたってところもあるけど、これだけ立派なのがあれば充分だよな。 さて、これで松山城はおしまい。基本的に、現地で萌え~するのが一番楽しい人間なので、遺構とかなくても全然オッケーなんだけど、あればやっぱり目が楽しい。松山城、案内板とかも含めトータルでとっても良かった。次は大松山を目指すぞ。三村氏を偲びに。もう、「ミムラー」と呼んでいただいて構いませぬ・・・※「吉備路編(4)」へと続きます。↓ランキング参加ちう~。石垣に満足した方は、ぽちをお願いします。にほんブログ村
2012年05月05日

川沿いにずっと下っていくと、県立高梁高校の表示が出る。川を渡って、目に入った光景は・・・ ・・・クラクラしてきた。あ~、もう一度高校生になって、ここの学校に通いたい・・ 【岡山県指定史跡 備中松山城御根小屋跡 御根小屋は備中松山藩の藩主の居館であり、藩の政務を行う役所である。 当藩では城が標高430mにあるため、平時の政庁として御城山の麓に造られた ものである。 北は臥牛山に接し、南は小高下谷川(ここうげだにがわ)を堀に見立て、西は 現JR伯備線で限られたほぼ三角形の地形で、その面積は約34,000平方メートル。 旧制高梁中学校(現在の県立高梁高校)は、その跡地に建てられており、石垣は 御根小屋の原型を今に伝えている。 創建年代は不明であるが、天正3年(1575)の兵乱で焼失した記録があることから、 その歴史は、戦国時代まで遡ることができる。現在の姿は、江戸時代初期に 代官の小堀遠州が再建をはかり、天和3年(1683)当時の藩主水谷勝宗により 完成された。 幕府の資料では、登城には惣門を経て御殿坂を登り、中門を通って御殿に至る。 中門の北側に作事処(現テニスコート)がある。高梁川で運ばれた米などは 川端町で陸揚げされ、御蔵坂を通って米蔵に、武具は一段高い石垣上にある武具蔵 (現運動場)に保管されていたことが記録されている。 備中松山城御根小屋跡は、平成3年4月に岡山県の史跡に指定された。】 (現地解説板より) そして、御根小屋の見取り図。 この図がまた親切で、かつての御根小屋の配置図に、色を変えて現在の配置が書き込まれてて、対比しやすい。きちんとこうやって、現代の登城者にも色々配慮してくれてる市町村って、ホント応援したくなるよね~。この図を見ると、上から3枚目の写真、学校の正門はかつての上中門。入った先には玄関があった。図は左が北に描かれてるので、ここの御殿も玄関は南なんだね。上の解説にもあるように、御根小屋は藩主の居館兼政庁で、往時は「御城」といえば御根小屋を指し、藩士もここへ出仕していた。山上にある城の方は、「御山城」と呼ばれていたそうな。現在では公道を除き、御根小屋はあますところなく高校の敷地になっているので、自由に見て回れないのが難点ではあるけれど、そのおかげでこれだけの石垣や他の遺構が保存されている面もあるので、どちらがいいとは言えないな・・・一番いいのは、やっぱりここへ入学することだ学校の中には入れないけど、公道上にも当時何があったかを示す碑はいくつかある。 作事門は学校正門の左手前にあって、碑の奥はテニスコートになってる。ここからコートに入っていくと、手前に作事東門、奥に武具門と続き武具門を山の方へ進むと山の手前に山城門って書いてあるから、そこから山上の城へ上っていったのかな。現在はネット越しに見るだけ~。あうう・・・ あれれ、石垣の継ぎ目なんか見えるし・・・ てネットの網目にカメラのレンズを突っ込んだりしてあれこれ長居して撮影なんかしてても、幸いこの日はスコート履いた可愛らしいテニス部員なんかはいなかったので、不審者扱いされる事はなかった。まあ、充分怪しい人だったとは思うけど、時折通り過ぎる高校生も私をじろじろ見ていくこともなかった。たぶん、ここまで来るのは城好きくらいだと思うし、来た人は皆同じように怪しげな動作で写真を撮ってくと思うので、学生の方にすでに免疫ができてるんだろうな(笑)。作事門のすぐ西には下中門があり、石段を降りていくとJRの線路が通っている。うわ~、こんなとこに線路通すの、やめてよ・・・線路を渡っても、まだ御根小屋は続く。 線路の坂の下の道路には、こんなものが建つ。 御殿の中の学校、御殿の中のグラウンド、御殿の中の公園、御殿の中の・・・・・・なんともゼイタクな環境だ。にほんブログ村
2012年05月04日

お腹が空いたので、二の丸のベンチに腰かけて軽く食事。どうにか天気もまだもってるしな・・・ってふと周りを見渡すと、何かある。 「雪隠」って書いてある。ほお、せっち~ん!!これ、どーやって使うんだろう・・・排泄にも2種類あるからね~。板を渡して使うのかな?2つあるけど、こんなちっこいので足りるのかな?やっぱり籠城ともなると衛生は非常に大切だから、こんな石組みで立派なものを作るより、ただ小さい穴を掘って速やかに埋めていく方がいいんじゃないのかな~?って、焼きそばパンを食べながら、籠城時の排便についてあれこれ考えておりました(笑)。さて、下山。行きはふいご峠までタクシーで来たけど、下山は歩き。見たいものがあるのだ。行きに確認しておいた登山道を降りていく。途中には、城主様からのねぎらいも・・・ こちらの山道はきちんと整備されていて、そんなに急でもないんだけど、誰も来ない。静かな山道をのんびり歩いてたら、しばらくして足に違和感を感じた。今年前半は、さんざん爪で苦労したので(「つめのはなし」をご覧下さい)あれ以来、足の親指の爪は長めにしてる。今回は山道があるので、気持ち短めに削ってきた。私の山靴は、足首まですっぽり覆うハイカットの靴なので、足首でがっちりホールドして指が靴に当たることもないから、大丈夫だろうと思っていた。ところが、その爪が痛くてたまらない。ペースを落として歩いてみたけど、痛みはどんどん増してきてそのうち折れるんじゃないかと不安になってくるほどだった。斜面に正対するとモロに爪に負担がかかるので、若干体を斜めにしながらゆっくりジグザグに歩いたけど、あまりやるとバランス面で危ない。まさか、この程度の山道でこんなことになるなんて・・・!!こんなんじゃ、今後、もう山道は歩けないかもしれないな・・・と弱気になりながら進んでいくと、お目当てが出てきた。 【播州赤穂藩家老 大石良雄腰掛岩 元禄6年10月、藩主水谷勝美歿して家嗣がなく御家断絶領地を召上げられたので 播州赤穂藩浅野内匠頭長矩に城請取りを仰付けられた。 翌元禄7年2月21日先発隊として大石内蔵助良雄が松山城に到着した。 城請渡しについては水谷家家老鶴見内蔵助と会見して平穏裡に折衝を了へ 元禄8年8月6日(1695)まで1年7ヶ月この城に在番した。 その間大石良雄は城地を調査に登城の際、此の岩に腰を掛けて休息したと 伝えられている。】 (現地解説板より)改易の際の城の受け渡しってのは、結構大変なお役目だったらしくてね。城の明け渡しを不服とする元のお家の藩士達が、籠城するかもしれないし。その大役を無事に果たしたものの、まさか自分も同じ境遇に陥るとは大石君も夢にも思わなかっただろう。ま、私は「忠臣蔵」のところで書いたように、赤穂浪士を称賛する気にはなれませんが、それでもあの一件があったからこそ、こうして名が残ったんだから、皮肉なものだよね。浅野長矩が藩主としての一番大事なこと(耐えること)を果たしていたら、今頃この岩は松山城での見所の一つとはならなかったに違いない。この岩のすぐ先には、看板が建っている。 【下太鼓丸跡 この山頂には、平櫓の基礎石、空井戸の以降などが残っています。水谷勝宗時代より 御根小屋(山麓の御殿)と山城天守との間を太鼓によって緊急に連絡する 中継所の一つでした。 この先には、早春に黄色い4弁花を咲かせるアテツマンサクが生育していて、付近には 小さな華を数多くもつシロ・・・】 で看板の下が折れてて読めない。さて、進もう・・・あ~、足痛い・・・途中、痛くて何度も足を止めながらも歩き続けたら、ようやく下が見えてきた。私には気の遠くなるような長い苦痛の時間だったけど、時間を見ると思ったほどかかってなかったみたいから、普通の人なら、ふいご峠との分かれ道から15分程度で降りられるかもしれない。里に入ると、こんな光景が広がる。 ああ、ここにも石垣が・・・たぶん、ここよりもう少し上のあたりが、「あせび丸」だったんだろうな。備中兵乱の松山城の戦いが最後に動き出した時、小早川隆景がぶん取ったところ。そのまま下ると、川を渡って車道に出る。 川沿いには、こんな橋も。 この欄干、松山城柄だ・・・ウツクシー!!そうだ、松山城柄のふたもあるに違いないから、探さなくっちゃにほんブログ村
2012年05月03日

さて、天守を出て今度は奥へ。まず最初に、本丸東御門。 【木造本瓦葺、棟門、引戸。天守の東脇にあり、本丸の勝手口にあたる。本丸内で 唯一の引戸で、常時、本丸内に人がいなかったことがうかがえる。】 (「備中松山城」リーフレットより)これは平成9年の復元。二の丸と本丸をつなぐ門。脇の石段を上がって、土塀沿いにさらに奥へ。 天守の裏はこんな風になってた。すごいな。 その先が、腕木御門。 【木造本瓦葺、棟門、開き戸。二重櫓の正面脇にあり、本丸の裏門にあたる。 降りていけば、搦手門の前にでる。】 (「備中松山城」リーフレットより)これも復元。この下には水の手御門脇曲輪があり、本丸との通用門だった。その奥が本丸北側のどん詰まりで、二重櫓が建っている。 【二重櫓(国指定重要文化財) 天守同様、天然の巨石を櫓台とした二重二階建の構造です。南北2つの出入口は、 北は後曲輪に、南は天守裏に通じています。】 (「備中松山城」リーフレットより)これは現存の櫓。天守内部には、解体修理の時の解説もあった。 【山上にそびえる備中松山城は、雨や風などといった気象条件が平地の建物と比べて 著しく異なります。そのため、昭和4年に修理された二重櫓も、30年余経過して 傷みが進み、文部省により三の平櫓東土塀とともに解体修理が行われ、同時に 天守も部分修理が行われました。 (二重櫓は)「火の見台兼造林人夫収容小屋」として地元で応急修理されていましたが、 当時文部省から派遣された技師・西條孝之らによる綿密な調査をもとに修理が 行われました。】 (カッコ内は戦国ジジイが追加)解体修理前と修理の様子はこちら(天守内部のパネルから) 上の修理前の写真は、北側の後曲輪からの撮影かな。しかし、人夫収容小屋かあ・・・現在は二重櫓の内部には入れません。それでね・・・これが現存かあ~と、近寄って見た訳ですよ。そしたら、こんなのが・・・ 上の方の写真は、白壁のところを見て下さい。落書き。いっぱいあるの。上の写真のは、「44,4,13」とあるから、たぶん昭和44年だよねえ・・・40年前の落書きですよ。 近年も、海外のどこぞの建物だかに落書きした日本人のことが問題になったけど、どーしてこーゆーの好きな人がいるんでしょうねこの落書きのすぐ近くの土塀には、こんな落し物が・・・ ・・・これは動物のだから、しようがないっか。何のフンだろう・・・イタチ系にしてはちょっと大きい・・・そういえば猿のフンって、どんなだ?とか考えながら写真を撮ってたんだけど、フンから目を離してみると、なんかここの瓦、変じゃね?平瓦がポンと置いただけになってる・・・仮置きかな?二重櫓は通過できないので、来た道を戻って南御門から本丸を退去したんだっけかな。今度は本丸の東側に一段下がった道を北に進む。途中、東御門を外側から見た。 腕木御門も過ぎると、こんな感じになってくる。 この右手に、搦手門跡↓。埋門形式。 それで、真っ直ぐ行った奥が水の手門脇曲輪・・・ なんだけど、見ての通りの修復工事中で、今回はここで打ち止め。ここには九の平櫓があり、一段上がった後曲輪には十の平櫓があった。ちなみに、平成24年4月現在では工事が終了して奥まで通行可能になったと、こないだ読んだ。ので、大松山はまたこの次。にほんブログ村
2012年05月02日

階段にも、解説がついてる。 【この階段には踊場が付き、折れ曲がっている。敵がすぐあがれないように曲げ、 幅も一人しか通れないように狭く階段の勾配も急で、すべて防御に有利に考えられて いる。勾配が急であるため各段の踏板にすべり止めも工夫されている。】上がってまず目に付いたのが、これ。 【御社壇 天和3年(1683)当時の城主水谷左京亮勝宗がこの松山城を修築したその節、 松山藩5万石の守護として三振の宝剣に天照皇太神を始め、水谷氏の守護神 羽黒大権現等十10の神々を勧請し、この御社壇に安置し、事ある毎に盛大な 祭典を行い、安康を祈った。】今は飾り付けもさみしくなっちゃってるけど、なんとなく厳かな雰囲気。でもそれより、私はやっぱりこっちの方に惹かれてしまふ~。 ああ、むき出しの梁が、桁が、小屋束があ~!!もうね、こーゆー骨組見るの、大好きなんです。ちょぼちょぼと城郭建築についても勉強して、簡単な構造なら少しはわかるようになってきたけど、最上部の梁組、特に隅部なんかは複雑で、まだまだわからない事がいっぱい。これがあーなって、こーなって・・・って考えながら見るので、ホントに見てて飽きない。まあ、松山城の内部は当時のままじゃないけどね。雨漏りで部材が腐っちゃって、倒壊寸前だったっていうから。しかしすごいよなあ、この技術。木を組んだだけで建物と重い屋根を支えちゃうんだから。天守の部材は非常に太いので、現在の住宅よりはずっと強度があり、また各階が独立した構造をしているため、耐震性にも優れていたんだと。ただし、心柱を通さない場合ね。「火天の城」みたいな心柱を通すと、心柱が穴だらけになっちゃってかえって強度が落ちるんだって。あ~、このままず~っと木組を眺めていたい・・・とポケーッとしているのは私だけで、皆さんさっさと帰っていく・・・いいけどさ、別に。こんなに素晴らしいものがあるのに、もったいない2階からは本丸の表側全体が見渡せる。 向かって左側が五の平櫓、右側が六の平櫓。奥に見えてる下の段は、二の丸。窓には、解説もついてる。 【武者窓(連子窓) 正方形の角材の角を外側に向けて並べて、外からは内が見えにくく、内からは 広角に敵兵の動きを見ることができる。】1階には、「装束の間」とよばれる小部屋がある。 【籠城時の城主一家の居室床下に石を入れ隙間のないようにし、忍びの者でも 侵入できないように工夫がされている。戦に敗れ、落城の時は城主一家の死に場所 でもある。】ってしんみりするような部屋があるかと思えば、こんなものもある。 【囲炉裏(いろり) 板石造り、長さ一間、幅三尺、籠城時の城主の食事、暖房用に用いられたと 言われている。天守閣の中に切りこみの囲炉裏があるのは全国でも珍しい。 これは戦国時代備中の首都として、この城の激しい争奪戦が幾度も繰り返された 経験から生まれたものである。】いやいやいやいや~、そりゃないっしょ~!天守だって御殿だって、一番の敵は火事じゃないの~?火気厳禁な気がするんだけどな・・・「用いられたといわれている」って言っても、この建物自体は実戦に供されてないしな。よくわからないこの頃、天守へ入ってきた一般の観光客のおばさんが、入ってくるなりデカい声で「しょぼっっ!!」と言いやがった現存天守でしょぼい言われたら、もはやお手上げですわ・・・てゆーか、一般の人が城を知らなさすぎるんだと思う。自分の国の歴史なのに。お城って、きらびやか~なイメージがどうしてもあるんだよね。さらに、天守の外観がその勘違いに拍車をかける。外が綺麗だから、中も同じように綺麗だと思わせちゃうんだろうな~。権威を高めるために、あれこれ意匠を凝らすってのもわかるんだけど、何とも罪作りなものよ・・・しかし、天守が示す権威は何も過去だけの話じゃない。現存でも復元でもあるいは模擬でも、「天守が存在する」という、ただそれだけで、この現代においても城に何の興味も持たない人でも吸い寄せられる魔力を放つ。それが現存天守ともなれば、なおさら。円滑な城跡の維持・管理のために、できれば沢山の人に訪れて欲しいのはヤマヤマだけど、人が多いとしばしばこうした問題発言も耳にするので、現存天守は見たいけど、観光客はウザイというジレンマを払拭できない。あ~、ホントに罪作り・・・さて、1階には色々パネルが置いてあり、興味深い事や写真が載ってる。 【壁の構造 修理時の調査では、天守の南と北側部分に創建時の部材が残されていることが わかりました。その部分をさらに調査したところ、外壁と内壁とが一体となった 構造ではなく、壁内部が空洞であったことが確認されました。 通常、城郭建築では、銃弾等による攻撃が想定されることから、かなり厚く 造られます。中には、砂が充填されたものや、人頭大の礫などが塗りこめられたものも あります。 今回確認された備中松山城天守の壁構造から、実戦を想定していない建物であることが うかがえます。】その修理の際の写真がこちら。 パネルを写したものだから見づらいと思うけど、貫(横に渡した板)の奥は、ホントに空洞になってる。こりゃ~びっくりだわさ~。丸亀城なんか、下の部分が特に厚く造られてたよ。パネルには、比較のために彦根城の壁内部の写真も載ってる。こちらも見づらくて、ごめんなさい。 石がみっちりと埋められてるのが、わかりますか?本丸に入るあたりまでは、これでもかってくらいあれこれ防備に努めてるのに、天守が実戦を想定してない・・・?なんともアンバランスな城だことにほんブログ村
2012年05月01日
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