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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) このたびの記事はイスラエルの夫婦とサルトルの続きになります。イスラエルによる「パレスチナガザ地区占領の不当性を訴え民族の共存をめざす困難な取り組み」を進めるにあたって、なぜこの夫婦が「サルトル思想」を有効だと考えたのか。私は前記事でそれに触れましたが、「ガザ地区の占領を正当化するまっとうな人々」の論理を内側から理解するのに役立つだけではなく、私たち自身の中にあるかもしれない「恐ろしいもの」を自覚する機会にもなりうると考えています。以下、〇十年前に書いた卒業論文の一部を転載するとともに『実存と暴力』を援用することで、サルトルが執筆した『聖ジュネ』のごく概要を紹介します。〔内容紹介〕1952年になってサルトルは『聖ジュネ』を発表した。この著作によってわれわれは、それまで人間の主体性という一面を強調してきたサルトルが、人間の対象性(対象としての人間の姿〔=対他存在〕、人間の行動がとる客観的な意味)に対する認識を深化させていったことを知ることができる。『聖ジュネ』というのは、『花のノートルダム』や『泥棒日記』の作者であるジャン=ジュネの作品と生涯を、サルトル独自の「実存的精神分析」という方法を用いて、徹底的に解明したものである。だが、本稿ではとてもその詳しい内容にまで立ち入る余裕はない。ここでは『聖ジュネ』の最終章「ジュネ善用のための祈り」を中心に見ていくことにしよう。彼はそこで、人間は「自己にとっての主体であると同時に、他者にとっての客体(対象物)である」という事実を強調する。言い換えるならば、人間は何らかの目的を目指して行動する主体であると同時に、他者によって対象化され意味づけられる客体である、という事実を強調するのである。そして、主体としての私は、特に「羞恥」といった意識によって、他者によってまなざされ客体化した私の姿(=対他存在)を感じる。たとえば職業上の失敗や粗忽な失策、過ちややりそこないの際に私たちは羞恥、孤独という意識のさなかで他者によってまなざされた自己の客体制(対他存在)を感じるのである。「突然他人たちが私たちを見ており、私たちは対象物(客体)になり変わっている。私たちは自分が見つめられているのを感じ、自分が赤くなりまた青くなるのを感じる」そして、このように他者によって見られた対象(客体)としての私と、主体としての私との間には、常にいくばくかの分離が存在する。特に、わたしは主観的には善意でありながら、人々の目から見れば客観的には悪人である、という場合などがそうである。「孤独の体験」とは、このような「主観と客観との分離」によって生じる体験なのである。サルトルは言っている。「人間は過失を犯し、しかも同時に身に道理を持つときこそ孤独である。」「諸君は自分がもはや、すべての人々の目に、罪深い対象物(客体)に過ぎないものとなりはて、しかも一方、諸君の良心〔意識〕がどう考えてみても自己肯定をやめないことを身に味わい知るならば、孤独となるだろう。自らが主観的には純粋な善意によって行動しながら、同時に客観的には「有罪」である場合、人間はいかなる態度をとるべきなのであろうか。サルトルは、ジャン・ジュネとブハーリン(注)との二人がとった態度について述べている。(注:ロシアの政治家、トロツキストであるとしてスターリンの命令で銃殺された。)ジャン・ジュネは捨て子であった。彼は、ある農家に引き取られて、農村特有の保守的世界観(土地を持つ農民の嫡出子として存在することが善であり、この善なる存在だけが正当な権利を持って財を所有できる、という世界観)を素直に受け入れて育つ。だが、捨て子であるジュネは、誰の嫡出子でもないし、何一つ所有していない。ジュネは、このような不快な現実を子どもらしい仕方で解決しようとする。誰の嫡出子でもない彼は自分が神の嫡出子であると信じることによって自らを根拠づけ、何も所有していない彼は、家のものを盗んで所有することによって自らをその所有者たらしめた。要するに彼は、「神の嫡出子として正当な権利を持って財を所有する子どもを演じたのである。当時彼には自分が罪を犯しているという意識は全くなかった。ところがある日のこと、「財布の中の手がつかまえられた。誰かが部屋に入ってきて彼を眺めているのだ。(・・・)ひとつの声が公然と宣告する〈お前は泥棒だ〉と。ジュネは仰天して「そんな意図はないのだ」、と陳弁に努めるが彼には反駁できない巧弁によって圧倒される。彼は盗みを働いた。だから彼は泥棒である。捨て子であるジュネは、人々によって、本質的に泥棒である存在として意味づけられてしまう。従順で天涯孤独なジュネは、その意味づけを拒否することはできない。さらに、農村の人々はジュネを本質的な泥棒・悪人として農村社会から排除しようとする。彼らはジュネを悪人として追放することによって自分たちが善人であることを確認するのである。それはまさにジュネにとって絶望的な状況であった。しかし、「彼の峻厳にして荒涼たる魂は、恥辱を受けてもそれを超えて生きる意志と、打ち勝つ信念とを持っている。」そして「彼は生きることを選びすべての人に向かっていった。僕は泥棒になるぞ、と」。こうしてジュネは泥棒として、悪人として生きることを決意する。そして、これ以降彼は、泥棒として、悪人として生き抜くために、あらゆる状況に抗して様々な努力を試みるのである。以上が、自らの「客体性」に対してジュネの取った態度である。彼は、他者によって意味づけられた自己の客体性(=泥棒)を引き受け、泥棒として生き抜くことを決意する。この決意こそが、あの絶望的な状況において自らの自由(主体性)を回復するためにジュネの取りえた唯一の道なのである。さて、それではジュネを本質的な泥棒・悪人として農村社会から排除した人々(「真っ当な人々」)についてどのように考えるべきなのだろうか。サルトルはこう書いている。「平和のために社会は賢明にも職業的な悪人を創造したと私は思い切って言おう。善人が自分の自由を前にしていだいた恐怖から出たものである悪は根源的には投影でありカタルシスである。従って悪は常に客体だ、」と。つまり人間は自分を善人へと構成するためには、骨の髄まで悪の塊である「対象=悪」を自分の外側に投影的・投射的に産み落とさねばならない。なぜなら全ての諸悪がそこから由来するような「悪」という純粋存在が自分の外側に存在してこそ、われわれは自分をそのような「悪という他者」とは別の存在であるがゆえに、完璧に善人である存在、完全に正当である存在として自らを構成できるからだ。それは自分を是が非でも善人と思いたがっている我々にとって欠かすことのできない自己浄化の儀式なのだ。そして我々はこの悪を作り出すためには、我が「内なる悪の欲動」をあげてその上に投射し、そうすることで自分から遠ざけるための、いわば悪の依代(よりしろ)を必要とする。〔紹介は以上〕 記事冒頭で私は「ガザ地区の占領を正当化するまっとうな人々」の論理を内側から理解するのに役立つだけではなく、私たち自身の中にあるかもしれない「恐ろしいもの」を自覚する機会にもなりうると述べました。いかがでしょうか。例えば国際関係において、太平洋戦争時の「鬼畜米英」を持ちだすまでもなく、対立関係にある「敵国」の悪を一方的に強調することで、自らを正当化する場面が私たちのうちになかったでしょうか。 例えば、日韓関係や日中関係がこじれた場面をいくつか振り返ってみると、韓国語・あるいは中国語で発信された情報をきちんと検証するという過程を踏まないで「あいつらが悪いに決まっている」と最初から決めつけ「国家としての日本の対応を正当化する」ことがほとんどだったように感じます。しかも、「敵対する」国を一方的に悪者にし、「愚かだといってバカにする」記事が売れるので、報道機関もまともな検証をさぼっているのではないか。 日韓の軋轢をめぐる報道について 「処理水」放出に関する国際的な問題 「レーダー照射問題」に際して韓国の報道機関の記者たちが「日本ではこのように報道されている。韓国政府の主張と食い違っているが、実際はどうなのだ」と自国政府を追及していたのとは対照的です。「双方の主張が食い違っている」という一点が客観的な事実だったとすれば、「実際はどうなのかを検証・確認」するのが報道機関の役割(それを求めていくことが読者や視聴者の役割)と考えるのですが、いかがでしょう。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など(
2023.12.31
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 11月25日、立教大学で開催された『竹内芳郎 その思想と時代』合評会シンポジウムにおける登壇者の一人‐清眞人の著書に『実存と暴力』があります。第一章「サルトルは誰によって読まれたか」の冒頭でガザ地区に関連する著書が紹介されますので、その部分を要約・抜粋します。『サルトルと悪』‐闘争のためのガイドライン‐。著者は「ガザ地区でイスラエル人とパレスチナ人の共生の道を探り出すべくイスラエル政府の占領政策に反対し、パレスチナ人の人権擁護のために活動している夫婦のイスラエル知識人」である。その序文の一節にこうある。自分たちがサルトルの考察に取り組んだ主要な理由は、イスラエルと中東における自由と正義と平和を求める我々の限界の多い仕事において、また世界の他の多くの地域で悪が立ちあらわれる様を読み解く上で、我々はサルトルの著作が悪と戦うためのガイダンス(その常なる一源泉)であることを見出してきたからだ。 ここで著者たち(イスラエル人夫婦)が取り上げた悪についての注釈・定義が必要・・・。Q 悪をいかに定義するのか?もしそう問われるなら、サルトルは悪とはどんなものであれ、「個人の自由を意図的に破壊する試みのことだ」と言うだろう。この目標を達成するためには抑圧、搾取、奴隷化、あるいは殺害が必要となる。この定義のうちには、悪の成功者は彼がその自由を軽視し、尊重しない個人を客体(モノ)にするということが含まれている。著者たち(イスラエル知識人夫婦)の中では、この意味での悪との闘争が問題となっている。そしてサルトルの思想はこのような闘争のガイドラインを提供するというのだ。すなわち、この他者の自由を破壊する悪の暴力は、その自分の悪行をまさに善の遂行・実現のための正当なる行為として、他者の前にも自分の前にも描き出さねばならないということ。したがって、悪の暴力の立ち現われというのは、常に自己欺瞞とからくり仕掛けに満ちた動きを伴っている。彼らの本の比類ない特色はサルトルの著作のうち、従来は文学的ジャンルに配置され、取り扱われてきている『聖ジュネ』や『家のバカ息子』を、「悪に対する闘争のための特別なガイダンスを提供する書物」として、彼らの取り組む切実な「平和と人権のための闘争」とからむ実践的関心から徹底的に読み解こうとする点にある。 したがって、この書物には、彼ら自身の政治的実践とサルトルの洞察との突き合わせが随所にあらわれる。この点でそれはいわゆるアカデミックな哲学書と趣を異にしている。例を示そう。彼らは1989年から1990年にかけて。テルアビブの66人の教授に対して、パレスチナ人のインティファーダ(蜂起)に対して四つの質問を設定し、アンケート調査を行う。彼らはこう書いている。これらの質問に答えることに同意したのは、わずか41名のユダヤ人教授であった。我々を驚かせたのは、教授たちの80%以上が一貫して行っているのは、サルトルが「真っ当な人々」(自らをまっとうな人間と見なす人々:補)と呼んだ人間のそれにとどまっているということであった。イスラエルの粗野な政策の支持者も、非難者も共に本質的な点では団結していた。すなわち、イスラエル社会はもろもちろん小さな錯誤や解決を要するいくつかの実践的諸問題があるにせよ「善のおおもと」であり、他方パレスチナ人は「反乱をする叛徒」だという点で。つまり真っ当な人々として、彼らは「イスラエルが正義であるという一般的な合意」から離れようとはしなかったのである。彼らは占領地域に存在している抑圧や搾取の状況に対して、いかなる個人的な責任もとることを拒否した。 サルトルならば、こう言ったであろう。「彼らは存在の煩わされることなき充足に自分たちの身を任せることでリラックスすることを選んだのであろう」と。ヴィーゼルは、パレスチナ人のインティファーダに関する彼の声明や文書の中で、「イスラエルの政策によってパレスチナ人に加えられた恐るべき苦難」については一度も語らなかった。彼の根拠は常にこうである。ユダヤ人が過去において被ってきた受難(それは死のホロコーストを含む)をふまえれば、何人もイスラエルによる「自己防衛の行動」を非難する権利を持たない。ユダヤ人を裁く権利を持ついかなる人間の法廷もありえない。ヴィーゼルは手元で起きている事柄に対しては不能になることを選ぶのだ。すなわち、「自由のためのパレスチナ人の闘争」に関しては。このような問題、理解を導く悪との闘争のガイダンス、それこそ著者たち(イスラエルの知識人夫婦)がサルトルから引き出すものだ。 要約・紹介は以上です。イスラエル内部でガザ地区への暴力を容認せず「平和的共存」をめざすイスラエル人夫婦がサルトル思想に深く学ぼうとしていることについて個人的な関心は大きいのですが、そうでなくても『実存と暴力』をあらためて読み直すことには意義があると感じました。サルトルの『聖ジュネ』や『家のばか息子』についても、関心のある方は是非ご一読を、と考えています。※そうはいっても、例えば『聖ジュネ』の内容についてごく概略でも紹介すべきだろうと考えました。註としてPDFファイルへリンクを張るか、次回の記事で紹介することにします。(12.25付記)にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など(
2023.12.24
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版)Q「グローバル難民フォーラム」とは?4年に一度開催される国際会合(難民支援の取り組みを共有する場)。政府機関、国際金融機関、民間企業、人道機関、開発機関、難民当事者、市民社会の代表が世界中から集まる。Q 開催の実績は?2019年に第1回が開催され、2023年12月13日から15日、第2回がスイス・ジュネーブで開催された。 第1回では、長期的支援に向けた770以上の「宣言」が提出され、雇用、子どもの就学、政策の変更、第三国定住などの解決策、インフラ、受け入れ国・地域に対する支援など、多岐にわたる分野におよんだ。 〔第2回の開催直前に報道された「時論公論」難民危機にどう対処するか 日本の役割は〕(上記番組を要約すると以下のような内容だった) ウクライナ戦争、ガザ地区へのイスラエル侵攻、気候変動や干ばつを背景とする内戦などによる難民が世界で益々増加しているなか、開かれるこの度の「難民フォーラム」。 日本の市民社会や企業からも約20件の支援策が表明される見通し。もっとも早く名乗りを上げた愛知県の高校はICTを活用して国内外の学校と対話し、難民問題の解決に向けた取り組みを学びながら、さまざまな支援活動に参加する計画。ウクライナやシリアなどの学生を受け入れてきた一般財団法人パスウェイズジャパンと国際基督教大学財団は、国内16の大学と九つの日本語学校の協力を得て、これまでの62人に加え新たに116人を受け入れる。 日本は他の先進国と比べ、難民の受け入れ数が極端に少なく、難民に閉鎖的だと批判されてきた。Q 前回の「グローバル難民フォーラム」以降の変化は?これまで二桁にとどまっていた難民認定者数は去年初めて200人を超え、避難先の国から別の国に難民を移す第三国定住制度による難民の受け入れも101世帯276人になった。三年前からは単身者も含めアジア各国に滞在する難民に対象を拡大。 とは言え、「日本は難民にとってはまだ狭き門」であることに変わりはない。Q 日本に難民として来ることができたとしても、発生している問題は?A 生計を立てるのが容易でなく、難民支援者の間ではウクライナ以外の人たちにもっと目を向けてほしいといった声が聞かれる。例)タリバン支配後のアフガニスタンからはおよそ800人が日本に避難し、そのうち日本大使館で働いていた現地職員と家族147人が去年難民認定され、今年はジャイカの職員と家族114人が認定された。しかし、認定された後も多くの人たちが困窮を訴えている。アフガニスタンからの逃れてきた難民の7割近くが大学院または大学卒で、現地では大学の副学部長や医師、大学教員などを勤めていたが、日本では6割がアルバイトや派遣の仕事。正規雇用されている人は1割にとどまる。2割が失業中。子ども4、5人抱えながらも半数以上の世帯が月収15万円以下。30代の元大使館職員は妻と子ども4人を抱え、昼間日本語学校で学んだ後、夜の7時から翌朝5時まで弁当を作る工場で働いているが、それでも毎月10万円以上の赤字だという。また日本の大学院で学んだ留学生の中には日本の将来に希望が持てず、ドイツやカナダ、イギリスなどに移り住む人も少なくない。高学歴でも思うような仕事に就けず、苦しい生活を余儀なくされている実態。 Q その最大の障害は? A 言葉の壁。難民の定住支援プログラムで、日本語の習得に572時間あてられているが、仕事に就くにはとても足りず、難民の多くはもっと日本語を学ぶ機会を与えてほしいと訴える。日本語が出来ないため安定した仕事に就けず、子どももアルバイトに追われる。勉強の時間が取れないという貧困と低学歴の負の連鎖が続いている。日本が難民を受け入れるには、国と自治体、地域社会の連携の強化が不可欠。また、省庁間の調整も充分ではない。難民たちが支援に頼り切るのではなく、自立し、責任ある社会の一員となるのは日本の利益でもある。そのためには、「迫害から逃れ、保護を求めている人たち」を誰一人取り残さず分け隔てなく、きめ細かな支援を社会全体で提供することが、今後ますます重要になってくる。 〔comment〕 報道からは、「人権後進国日本」の実態がわずかながらも変化しつつある様子が浮かび上がります。ウシュマさんの死亡の背景にある実態への強い批判、(難民認定の現状や、認定されない個人の処遇への批判)が報道特集なども含めて明確になされてきたこと、また、戦争や内戦から逃れてきた人たちへの処遇が「ウクライナと別の地域で差がありすぎることに対する批判」が背景にあると思われます。 しかしながら、「狭き門」の日本において「運よく」難民認定されたとしても、その後の大きな問題が解決されないままにきている、ということにも目を向けるべきことが番組を通してよく理解できました。「グローバル難民フォーラム」を機にそのような問題に目を向けること、地道ながら「持論公論」のような報道・発信に注目することはやはり大切であると考えます。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.12.16
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