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眠りの浅瀬にかかるたびに、まだ夜道を歩いていた。それをまた端から眺めている。 古井由吉 の短編集 「ゆらぐ玉の緒」(新潮社) の中の、最初の作品 「後の花」 の末尾です。ここまで、読み進めてきて作家の脳裏に現れた、いや、現れなかった人影を思い浮かべながら、作中に語られていた和歌のくだりに意識は戻ってゆきます。
昔深い縁のあった人らしい影がやってくる。背を丸め、うつむきこみ、小刻みに足を送って近づき、息をひそめて見まもる目の前へ通りかかると、はるか行く手へ顔を上げて、何を見たのか、ほんのりと若返った笑みを浮かべてうなずき、それきり背も若やいで、しなやかな足で遠ざかり、また微笑むように背が照ったかと思うと掻き消された。
その時になり、人の行くのを目で追っていたその背後から、もうひとり、こちらを見ていた者のある気がしてふりむけば、木の下に人影が立つかと見えて、そのあたりだけが花でも散るように白んで、夜が明けかかり、何もかも知っていたなと目を瞠ったが、姿は現われなかった。
和歌をめぐる、この一節は、三月から、四月へと移り変わる季節の日常の、夢、うつつの中で、浮かび上がる焼け野原になった町の記憶がたどられた、つい、そのあとの出来事です。 今年の花も終わりを迎えた、四月の末に 藤原良経 の風雅集で目にとめた、この歌が、一月ほどたった五月の夜更けに思い出される。
それがいまさら、息とともに吐かれるようにあがってきてもどうにもならない。見ぬ世まで思い残さぬ眺めとは、後世のことは思い及ばぬところなので、今生の涯までもというぐらいにとるとしても、そんなはるばるした眺めは、今の世に生きる人間にはとうてい恵まれるものではない。末期に近く見れば、もう思い残すこともないとは、自身を慰めるために、あるいは残される者たちの心をいくらかでもやすくするためにも、口にするかもしれない。心底から出たの出ないの、そんな分別を超えて、死に行く者たちに共通の言葉の一つとも考えられる。しかしこの歌は末期の、切り詰まった境にはない。かりに死に至る病のひそむ観であり、世の無常をその一身に受けとめてていたとしても、歌のかぎり、のびやか自足のうちにあり、恍惚に包まれている。
しかも、見ぬ世まで思い残さぬ眺めが、そこからというよりもほとんど同時に、そのままに昔に霞む。その昔も後の世にひとしくはるか彼方へ、過去の記憶も通り越して、さらに前の世まで及ぶ。昔に霞むとは、ほのぼのと明けてくるように、今生では見えぬ前世までが見えかかるということか。思い澄ました諦念の前句を、後句が恍惚へ、蘇生の恍惚へ、花咲かせた。後の世まで渡る諦念と、前の世まで渡る恍惚とが、永遠の今を束の間現前させた。
追記2020・10・21
古井由吉
が、この次の年の「春の終わり」を迎えられなかったことを思っています。「言葉」で錯綜する意識のほつれを、執拗に解きほぐしていく「文章」が、新しく書き加えられことはもうありません。
なくなって、半年がたちますが、喪失感は深まるばかりです。
追記2022・03・25
友人から 「古井由吉のどの作品がお好きですか。」
と尋ねられて、そういえば 案内
を書いたことがあったと探し出した記事です。なにを書いているのかわかりませんね。感想を書くとそうなる 古井由吉
が、ぼくは今でも好きです。
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