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読書案内「BookCoverChallenge」2020・05 17
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100days100bookcovers no66(66日目)兵庫県在日外国人教育研究協議会『高等学校における外国につながる生徒支援ハンドブック~すべての生徒が輝くために~』 「復活」を宣言しながら遅くなりました。 相変わらず世の中は落ち着きませんね。新型コロナ感染者は増え続けているのにワクチン接種はなかなか進みません。 そんな人間世界をせせら笑うかのように、自然は例年より早く動いているようです。桜の開花も種類によって長く楽しませてもらいました。自宅の裏庭にも梅、椿、山桜、牡丹、シャガ、満天星つつじ、芝桜などが順に花を咲かせ、心を慰めてくれています。今は木々の緑が一斉に萌え、目に眩しいです。 さて、ブックカバー・チャレンジは萩尾望都「ポーの一族」、ちばてつや「あしたのジョー」、「アウシュビッツを志願した男」、エーリヒ・ケストナー「飛ぶ教室」と続きました。それらの本を懐かしく、読みたいと思い、その延長の文学から次の作品を探そうと思っていましたが、あまり時間の余裕はありません。そこで、勝手ながら「少年や少女たちの物語」という文脈に無理やりこじつけてこの冊子を紹介させてください。『高等学校における外国につながる生徒支援ハンドブック~すべての生徒が輝くために~』 編 集 / 高等学校における外国人生徒支援ハンドブック作成委員会 発 行 / 兵庫県在日外国人教育研究協議会【兵庫県外教】 印刷・製本 / ミウラ印刷 この3月末に発行したばかりのハンドブックで、まだほぼ世に出ていません。みなさんのお手元にないことをわかっていながらの選択ですみません。しばらく頭を悩ませ、今年に入ってからは編集作業に追われ、この「100days100bookcovers」リレーの1回休みの原因の冊子です。8月から準備、9月から実質スタート、3月末に発行したという突貫工事でした。ひょうごボランタリー基金助成事業(地域づくり活動NPO事業助成)なので、会計年度が厳格なのです。主な贈呈先に送付し、その後助成金の報告作業や関係者への配布などを終えました。予定外の事務所の急な移転のための引っ越し作業などもあり、相変わらず慌ただしい日々を送っていました。そんな中、ふと「あ、このハンドブックも少年少女たちの物語だ!」と、思い至ったのです。 昨日の朝刊(朝日新聞4.13オピニオン&フォーラム)にNPO法人自殺対策支援センターライフリンク代表の清水康之さんのインタビュー記事が掲載されていました。タイトルは、「生きるのをやめたい国」―自殺者が11年ぶりに増加、女性や若者が「生きるのをやめたい」と「生」が脅かされていると。もちろん、コロナが引き金になっているのだけれど、コロナ以前からも勤務していた高校で、生徒たちが学校で生きにくい思いをしていると感じていました。もちろん、多くの生徒は楽しく、充実した学校生活を送っていると思うのですが…。ベルトコンベアーのように学校で勉強していい大学に入って生活の安定が保障される仕事に就いて…という人生だけではないはずなのに、それ以外の選択肢をあまり提示できない日本の教育。会社に入っても心と身体を疲弊させてしまう働き方を改革することができていない。(最近変わってきたのでしょうか?私はまだ楽観的になれないのです。)中・高生の自殺者も、あまりニュースにはならないけれど、身近なところで少なくなかったのです。 ハンドブックに表面的には関係がないような今朝の新聞記事の話題を紹介しましたが、私の中では地続きなのです。多様な、それぞれの個性が生かされず、認められない、そんな窮屈なこの国のままでは希望が持てないという点で。 2019年の文部科学省発表は、大きな衝撃を与えました。「日本語指導等特別な指導を受けている者の割合は外国籍児童生徒で79.3%、日本国籍は74.4%」「『特別の教育課程』による日本語指導を受けている者の割合は同じく外国籍児童生徒59.8%、日本国籍は56.4%」「日本語指導が必要な高校生などの中退・進路状況については、全高校生などと比較すると中途退学率で7.4倍、就職者における非正規就職率で9.3倍、進学も就職もしていない者の率で2.7倍高くなった。また、進学率では全高校生等の6割程度となった」 高校の中退は、その後の就職に大きくかかわります。本人の希望や努力と関係なく、外国につながる生徒たちは、学びを保障されていません。「外国につながる生徒」というのは、外国籍生徒だけでなく、日本国籍で外国にルーツのある生徒も含みます。日本国籍の生徒で日本語が話せない生徒もいます。義務教育でもその支援は大きな課題で、長年様々な取り組みがされてきました。ようやく兵庫県の公立高校に外国人特別枠入試が始まりましたが、外国につながる生徒、特に日本語指導が必要な生徒の支援はスタートしたばかりと言えます。 もちろん、日本で生まれ、日本語の能力に問題がない場合でも、国籍や外見、文化や価値観の違いで学校や社会から疎外されがちです。本名(民族名)や民族性を尊重し、多文化共生社会を築いていくことが、外国につながる生徒だけでなく、すべての生徒、すべての人がだれ一人として取り残されることのない学校や地域をつくることにつながると考えます。このハンドブックには学校で実践できるそんなヒントをまとめました。 本の内容は実践的なもので、各章のタイトルは以下のとおりです。第1章 すべての生徒が輝くために ~一人ひとりの人権が尊重される多文化共生社会の実現に向けて~ 第2章 外国につながる生徒の思いを知ろう第3章 日本語指導が必要な生徒の受け入れ第4章 日本語指導が必要な生徒の学習指導第5章 外国につながる生徒の進路指導 第6章 日本語指導が必要な生徒の高校での学び 第7章 生徒たちの自身の振り返り 〜自分のルーツとルート〜 第8章 多文化共生をめざして 第9章 学校生活におけるその他の留意事項資料編 How toだけの冊子に陥らないように、生徒たちの思いや背景がわかる彼らの作文を紹介したり、コラムを入れたりして、感性に訴え、共感してもらえるよう工夫しました。特に第7章は、ベトナムと韓国のルーツをもつ2人の生徒が、自分たちのルーツとたどって来たルートをインタビューで紹介するストーリーになっています。揺れる思いや誇りを取り戻していく過程が目に浮かぶようです。第7章の最後の箇所を紹介します。執筆者は野崎志帆さん(甲南女子大学教授)です。 名前や見た目で判断せず、学校やクラスには外国にルーツをもつ生徒がいるということを、まず学校現場で生徒に関わる教職員自身が認識する必要がありそうです。多様なルーツをもつ仲間がいることを知らせることは、多文化化しつつある日本で学ぶ全ての生徒にとって大切なことなのではないでしょうか。また、外国にルーツをもつ子どもの側だけに努力と頑張りを求めているだけでいいでしょうか。子どもの成長にストップはかけられません。国籍やルーツがどうあれ、彼らは日本の将来を担う日本社会の一員であるということを理解し、目の前の外国にルーツをもつ子どもに何ができるか、粘り強く考えていきたいものです。 このハンドブック作成の過程で、ことばのこと、相手にわかりやすく伝えるための表現、異なる立場の者どうしが話し合う中で生まれるものなど、気付くことがたくさんありました。高校教員、国語という科目、外国人教育に関わってきた中で、(良しあしは別にして)独りよがりな見方もありました。自分のフィールドから足を踏み出すのは勇気が必要ですし、葛藤も伴うのですが、そんなことを実感する機会になりました。 なんか抽象的で、個人的なことを書き込みました。みなさんがコメントすることも難しいのではないかと思います。ごめんなさい。 最後に表紙と本文中のイラストについて紹介させてください。兵庫県出身の漫画家、ゆととさんが担当してくれました。お父さんが高校教員をされていて、同じく兵庫県在日外国人教育研究協議会のメンバーというご縁です。「うちの娘もイラスト描けますよ」と。趣味の範囲かと思ったら、新進気鋭のプロの漫画家さんでした。 コミック作品(作画担当)として、『恋する男子に星を投げろ!』『樹海村』(KADOKAWA)ほか。ちょうど映画『樹海村』(『犬鳴村』に続く映画)公開前で、そのコミカライズ版の発行に忙しい中、無理難題の注文に応えていただきました。固い印象を与えがちなハンドブックが表紙のレイアウトとゆととさんのイラストで、手に取って開いてみたくなる魅力的なものになったと感謝しています。 では、バトンを次に託します。SODEOKAさん、よろしくお願いします。2021・04・14・N・YAMAMOTO追記2024・04・06 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日目~80日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2022.02.02
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荘魯迅「声に出してよむ漢詩の名作50」(平凡社新書) 磧中作 磧中の作 岑參走馬西来欲到天 馬を走らせて西に来たり 天に到らんと欲す辞家見月両回円 家を辞して月の両回円かなるを見る今夜不知何処宿 今夜 知らず 何れの処んか宿せん平沙莽莽絶人煙 平沙 莽莽 人煙を絶つ西へ西へと馬を走らせ、地の果てを越えて天にまでたどり着きそうだ。家にいとまを告げ旅立って以来、もう二度も月が丸くなるのを見た。今夜はいったい、どこに泊まればいいのだろうか。この茫々たる砂漠を見渡す限り、人家の煙など全く立っていないのだ。 本書の「流沙蒼天いずこに宿らん」と題されて、岑參(しんじん)という、杜甫とかと同時代、盛唐の詩人の詩の紹介の章にあった「磧中作」という詩の本文、書き下し、口語訳です。 本書は「唐代」の詩42首、唐以前は「荊軻」、「項羽」、「陶淵明」の3首、以後が「蘇軾」、「陸游」など5首、計50首の、いずれも超有名な、まあ、高校の教科書などでも取り上げられている漢詩を紹介した、いってしまえばありがちな本です。書名も「声に出してよむ漢詩の名作50」ですから、今のハヤリの本の一冊といっていいかもしれません。 普段は、あんまり近づかない書名ですが、市民図書館で何となく手に取って、なんとなく借りてきました。 で、はまりました。一応、そういうお仕事でしたから、教科書に出てくるような詩については、知っているつもりでいましたが、1首、1首、のんびり読み始めるとやめられなくなりました。 2000年を超える歴史の中で、選りすぐられた「傑作」の迫力とでもいえばいいのでしょうか。著者荘魯迅さんによる解説も、簡にして要、「そうだったのか」と納得させられることも多く、たとえば、「磧中作」の解説はこんな感じでした。 磧とはゴビ砂漠のことをいう。作品は冒頭から、緊迫した雰囲気を漂わせている。馬を走らせてめざすのは西の果て、高仙芝の舞台の駐屯地。軍務に赴くために先を急ぐが、行けども行けども目に映るのは砂漠と蒼天のみ。このまま走れば天上に行きついてしまうのではないか。「欲到天」は、初めて砂漠に身をおいた人間の驚きを如実に語っている。 ここまでの前半は、「辞家」をめぐって展開されたが、起句が家から砂漠に至るまでの距離(空間)の長さを示すのに対し、承句は出発してから二か月も経つ時間の久しさを表す。だが、それは単に時の経過だけではない。中国では、満月は団欒の象徴であり、それを二回も見た詩人の心には、今まさに郷愁が溢れんとしている。 解説文の一部ですが、たとえば「満月」のくだりとかで「あっ、そうかそうか」と納得したりするのでした。まあ、ぼくがものを知らないというに過ぎないかもしれませんが、若い国語の先生とかにはおススメではないでしょうか。 実は、この本の特徴は詩の全文に対して拼音(ピンイン)、中国語の発音記号がほどこされていて、ぼくはできませんが、中国語が読める人には「中国語」で読める工夫があることです。 で、できない人はどうするかというと、平凡社のこの本のサイトを探すと「朗読」を聞くことができるようになっていて、それに合わせて初歩しか知らないぼくのようなものでも、声に出して読んでみるということができるという仕組みなのです。 今どき、ありがちなサービスかもしれませんが、たどたどと、中国語で漢詩を読んでみるのは悪くないですよ。 ちなみに、「磧中作」の結句「平沙莽莽絶人煙」は「平沙萬里人煙絶」が一般かもしれません。
2021.07.11
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山田史生「孔子はこう考えた」(ちくまプリマー新書) 以前、おなじ「ちくまプリーマー新書」の一冊で「受験生のための一夜漬け漢文教室」(ちくまプリマー新書)という参考書(?)を案内したことがありますが、今回のこの本、「孔子はこう考えた」は同じ著者山田史生さんの「論語」入門書といっていいでしょう。 大学入試突破のお手伝いをする現場から離れて3年たってしまいました。その頃は、センター試験とか、そうはいっても、毎年解いていましたが、今では「問題」を見るどころか、いつあったのかすら気付きません。高校の国語の内容も大きく変わると評判になっていますが、実情についてはよく知りません。 で、今頃、なんで「論語」なんか読んでいるのか、というわけですが、そこはやはり昔取った杵柄というか、孔子先生の言葉を借りれば「学びて時に之を習う、亦、説しからずや」。という感じでしょうか。 「これって高校生にいいんじゃないの」と気づいた本は手に取る、まあ、癖のようなものはまだ残っていて、先日、市民図書館の棚で見つけたのがこの本です。 大学入試に即していえば「漢文」は、「古典」という教科の中の一科目ですが、個々の大学の入試で「漢文」を課す大学は、ぼくが、仕事を辞めるころにはもうありませんでした。かろうじて、センター試験の中の「国語」200点のうち50点が「漢文」の問題という所に残っているだけだったと思います。 ところが、公立の高校入試の場合は100点中、20点ほどの割合で、毎年、出題されていたのですが、今はどうなっているのでしょうね。 「漢文」なんて、役に立たない、お得にならない教科なのでしょうか。そのあたりを、ゴチャゴチャ議論するのはやめますが、一つだけ言えば、「論理国語」なんていう教科を新設するくらいなら「漢文」の時間数を増やした方が、目的に対しては「お得」で「役に立つ」と思うのですが、でも、まあ、すくなくとも、2020年現在の「文部大臣」や「総理大臣」といった方々は、「漢文」どころか、漢字そのものの常識も疑わしいわけですから、まあ、世の流れで「漢文」なんて見向きもされないのはしようがありませんね。 まあ、そういうわけで、本書の案内ですが、この本では「自分のことを好きになろう」というテーマを第1章に掲げて、「孔子」について語り始めています。 最近の世相を見ていて、ちょっと面白いなと思ったのは、「論語:公冶長」編にあるこんな文章を取り上げていたところです。本文では、巻末にまとめてありますが、まず、肝試し代わりに白文を引用します。読めますか?顏淵季路侍。子曰、盍各言爾志。子路曰、願車馬衣輕裘與朋友共、敝之而無憾。顏淵曰、願無伐善、無施勞。子路曰、願聞子之志。子曰、老者安之、朋友信之、少者懷之。 マア、読めなくても大丈夫です。この文章に対して、山田先生はこんな前振りをして解説を始めます。 「空気が読めない」という言葉がある。「KY」と略したりするようである。 若者が「お前空気読めよ」といっているのが聞こえてくると、イヤな感じがする。 そういう人なんですね、山田先生は。続けて、書き下し分と、口語訳がついています。 こちらが書き下しです。 顏淵、季路、侍す。子曰く、蓋(なん)ぞおのおの爾(なんじ)の志を言わざる。子路曰く、願わくは車馬衣軽裘、朋友と共にし、之を敝(やぶ)るとも憾(うら)むこと無けん。顔淵曰く、願わくは善に伐(ほこ)ること無く、労を施すこと無けん。子路曰く、願わくは子の志を聞かん。子曰く、老いたる者は之を安んじ、朋友は之を信じ、少(わか)き者は之を懐(なつ)けん。 続けて口語訳 顔淵と子路(季路とも)とが先生のそばにいたときのこと。先生「こうありたいという願いをいってごらん」。子路「乗り物や着物や毛皮を友達と共有したら、たとえ使いつぶされてもイヤな顔をしないようにしたいです」。顔淵「どんなに善いことしても自慢せず、ひとさまに迷惑をかけないようにしたいです」。子路「先生の望みもお聞かせください」。先生「年寄りとはリラックスしておしゃべりし、友だちとはざっくばらんにつきあい、若いひととも気がねなくやりたいね」。 かなり、くだけた調子ですが、問題ないでしょう。さて、ここからが解説です。 子路はもと遊侠の徒だったからガラがわるい。しょっちゅうドジをやらかすんだけど、どこか憎めない。 「おまえの望みをいってみよ」といわれて、「待ってました」とばかり子路はいう。オレの愛車や革ジャンをダチに貸してやって、それがボロボロにされてもはらをたてないような、そんな男になりたいっす。 孔子と顔淵とは困ったような顔をしている。いやはや、子路らしいな、と。お里が知れるといったところである。子路にしてみれば、どうしして困られちゃうのか、さっぱりわからない。子路は、果たして空気が読めない男なのだろうか? それにひきかえ顔淵の答えは、いかにも優等生である。模範的な答えで、もちろん文句のつけようはない。その文句のつけようのないところが、どうしようもなくダメである。自分の答えがつまらないことに(そして孔子も頭の片隅でつまらないとかんじているということに)顔淵は気付いているのだろうか?もし気づいていないとしたら、顔淵もまた空気が読めない男なんじゃないだろうか。 子路にせがまれ、孔子はいう。先輩からは「こいつにまかせておけば安心だ」と信頼してもらえ、同輩からは「かれといっしょならやってみたい」と仲間にしてもらえ、後輩からは「このひとのようになりたい」と慕ってもらえるような、そんな自分でありたいと。 子路は、孔子の望む人間像とは正反対の男である。先輩からは危なっかしがられ、同輩からは煙たがられ、後輩からは軽んぜられるという、どうしようもない問題児である。けれども、そんな子路のことを孔子はこころから信頼している。 と、まあ、山田先生の論は、「KY」という流行語をネタに、秀才顔淵と比較しながら、子路の発言にあらわれた「空気を読まない」、「空気が読めない」ことの正直さを考えることを読者にうながし、「自分のことを好きになろう」というテーマに向かって、「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。」という結論へ進むわけですが、ぼくがおもしろいと思ったのは、別のことで、「そんたく」という最近の流行語にを思い浮かべたことでした。 「忖度」と漢字で書くこの言葉が、はやりはじめた詳しい経緯は知りませんが、ここ十年、高校の教室でハヤッテいた「空気を読む」をいう同調圧力の共有による、ニヤニヤ笑いの「平和意識」が、いよいよ一般社会でもあきらかな汚職の「合法化」用語として出回り始めているのだなと思うのですが、現在の「ものわかりのいい」諸君は、少なくとも、世事は知っている、正義漢子路どころか、「理想」に対して朴訥無双の顔淵からもはるかに遠いところにいることに、思わず気づかされたというおもしろさでした。 落ち着いて考えれば、暗澹とする世相ですが、まあ、「論語」あたりから読んでみるのも面白いのかもという、思いがけない発見の書だったということです。 皆さんも「論語」とかいかがですか?
2021.04.17
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100days100bookcoversno47 (47日目) 水村美苗『日本語が亡びるとき』(筑摩書房) 『ことばの危機』で特に高校における国語教育の問題について考えさせられました。その後『田村隆一詩集』でことばについて改めてその力と危うさにハッとさせられる詩を紹介いただきました。 その時私の中に浮かんだことばは「やさしい日本語」でした。 退職後、気ままに過ごしたいという思いと裏腹に、外国人教育団体の活動とりまとめに足を突っ込んでいます。実質的な時間はそれほどではないのに、あれこれ思案することも多く、プライベートな時間の多くを奪われているように感じてしまうこともあり…。だから「100days100bookcovers」に誘っていただいたことや、ジムで体を動かす時間や、4月から始めた週3日午前中だけの事務のお仕事などは、気持ちの切り替えをするのにとっても有効で、特に本の世界に誘っていただいて、うれしく思っています。ありがとうございます。そして、今の自分のことばもシーン(場)によって違うのかなと思うようになりました。 高校の国語教師をしていた時は古文、漢文、現代文の小説や評論、またそれらの理解のために歴史や文化など、人間活動のすべてが背景にあるので、幅広い教材研究は興味深かったです。旅や遊び、お酒も食事も全部教材研究と言い訳していたくらいです。難解なことば、古典常識語についても面白く、生徒さんたちに知ってほしい、ことばから生まれる概念や感情の世界を広げて欲しいと思ったものです。 現在の生活の中では、今までの文学的(?)なことばの使い方のシーンはずいぶん減りました。事務のお仕事では、法律や経済に基づいたことばで文書を作ったり会計処理したり、慣れない中で脳トレしています。主に南米にルーツをもつこどもたちの学習支援教室では、小学校の漢字書き取りや算数の問題をわかりやすく解説したりしています。(それが難しいんだな~!)そんなさまざまなシーンの中で、冒頭に紹介した「やさしい日本語」も、私のことばの中にしっかり位置付けたいという気持ちがあります。 「やさしい日本語」とは何ぞや?と思われる方が多いと思いますので簡単に説明を…。 「やさしい日本語」の「やさしい」には、「優しい」と「易しい」の2つの意味が込められています。 書く時は、文章をわかりやすく書き、漢字にルビをふるなどの工夫があります。話す時は、ゆっくりわかりやすい言葉で話す、相手の話をゆっくり聞く、丁寧語で話すなどの工夫があります。 1995年1月に起きた阪神・淡路大震災をきっかけに、外国人の情報提供方法の1つとして「やさしい日本語」の取組みが始まりました。外国人だけではなく、子ども、高齢者、障害を持つ人など様々な人にとってもわかりやすい点で、さまざまな人に有効な伝達手段です。(例)「土足厳禁」→ 「く つ を ぬいで ください」 長い間、むしろ漢語(熟語)を使って文章の中にたくさんの情報を込めていた私には、戸惑いがあったのですが、場によって相手によって届けるためにわたしのことばにしたいと思っています。 同時に、退職後ことばの緊張感を無くしていた私にとって、国文のみなさんとのブックリレーは実に楽しく、錆びていた部分に油をさすような感じです。(全然錆を落とせていませんが…。)映画や俳句の世界はまだまだ及ばず、みなさんのコメントを覗いて楽しんでいます。 あ、前置きが長くなりました。結局「やさしい日本語」に関するこれという本に出会えていないので、かわりに私にとって「ことば」について多くの示唆を与えてくれた水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』を挙げます。 身体だけでなく言語の間も移動する人たち――彼女自身がその当事者であるのですが、この本の中ではそんな現実が書かれていました。 〈自分たちの言葉〉、〈外の言葉〉、日本語という〈国語〉、普遍語としての英語など、自分が使う以外の言葉にまだ意識的でなかった発行当時(2008年)でした。本の紹介は割愛しますが、日本語指導が必要な子どもたちと関わる中で、どれだけ「対話」の糸口を見いだせるのか。そしてそれらをどれだけ必要な場所に広めることができるのかが、直面する課題です。 水村美苗のようにやはり異国に住み、そこから精力的に発信しているブレィディみかこの本も最近何冊か読んでいます。パンチが効いていて、面白く読んでいます。歴史の変遷を経て多くの民族、言語が存在する台湾の作家たちも気になっています。 ではSODEOKAさん、いつも心苦しいですが、よろしくお願いします。(N・YAMAMOTO・2020・11・03) 追記2024・03・08 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.02.13
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100days100bookcovers no45(45日目 その3)阿部公彦他『ことばの危機』(集英社新書)その3※「ことばの危機」の紹介の(その3)です。国文学関係(?)の阿部公彦さん、安藤宏さんの御意見が引用されて、いよいよ、哲学の納富信留さんの「きっぱり!」発言の紹介です。DEGUTIさんの本文に戻ります。(その1)(その2)はここをクリックしてください。※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 第三章 ことばのあり方――哲学からの考察(納富信留) 彼(納富信留)は「ことば」の教育の問題は日本の国語科だけの問題ではない。他の国も似たような問題に直面している。例えば、ヨーロッパの高校や高等教育機関で教えられていたラテン語や古典ギリシア語が授業科目から外されて衰退している。西洋文明の基礎となる教養が危機にさらされていると大いに危惧している学者がいる。たぶんこの問題は、連動した一続きのものではないかと言います。 その問題の本質は「ことばをツールだと思っている」というところにあると彼は言います。 一般的には、何かに役立てるために語学を学ぼうとします。日常のコミュニケーションのため、仕事に役立てるため、海外旅行するためなど、言葉を一種のツールと考えて学ぶ。しかし、言葉を単なるツールに過ぎないと思い込むことで大きな間違いが起きているのではないかと。 ツールだったら、どちらのほうが便利か効率がよいかとか用途によるという観点で、良し悪しが判断されることになる。日本語をツールとして考えたら、文学国語か論理国語かどちらがいいのかという訳のわからない選択が生まれてくる。少ない努力で、より効果的に使えるほうがよいという発想になる。そこに落とし穴がある。 ことばをツールとみなす考え方がいきつく先は、ことばそのものを不要としてしまい、人間そのものもツールにすぎない世界 になるのではないかと言います。納富 ツールとして役に立つことばは、持っていた方が良い、身につけるべきだという発想になります。 仕事に就いた時に読解力がなかったらそもそも契約書を読めないでしょう、といった発想です。 そんな発想は、基本的にツールとして、効率という観点だけでことばを取り扱っています。結局、そこで目指されているのは労働力なのです。経済界、産業界が大学で、あるいは高校で教育してくれと求めているのは、一番効率よく、仕事がたくさんできる人材を作ってほしいということに尽きます。 つまり基本的に、ことばは道具扱いされている。それによって、私たち人間も道具扱いされています。納富 ことばがコミュニケーションのツールだと見なされると、できるだけ手間をかけずに、正確に目的を達成できれば、それだけ望ましいことになります。費用対効果としては、学習に費やされる時間や労力と、それがもたらす仕事の量や質との関係が問われるのです。 見慣れない文字や複雑な文法など新たに学ばなくても、小学校から学んできたアルファベットと英語だけ使えれば、世界中で通用すると思われてしまいます。(中略) 英語の教育で「実用的」であることばかりが求められていますが、その背景にはこのような誤解があると、私は考えています。納富 これから自動翻訳機が格段に進歩することを想像して(中略)、自動翻訳機が普及したら、ツールとしての英語は機械に任せればよいので、英語の先生はゼロでもよくなります。つまり、語学の勉強自体が必要なくなってしまうのです。 ですが、その場合には英語を介さなくても各言語間でコミュニケーションがとれるようになるという利点もあります。タガログ語とルーマニア語とか、スワヒリ語と日本語とか、あらゆる言語の間で機械が直接に翻訳作業を行って、私たちの代わりに話してくれるようになるでしょう。 実用的な英語を教えるとか、英語をとにかくしゃべれるようにするとかいう目標は、それだけが自己目的となって、何を語るのかという内容を考えないとしたら、かえって英語教育の自滅を意味します。 少し厳しい言い方ですが、実用性重視という根本的な誤りは、文科省や産業界だけの責任だけではなく、私たちことばに関わる教育関係者の問題だと感じています。 この発想を突き詰めていくと、その果ては、情報だけが欲しい、つまり、ことばという面倒なツールを使わなくても成果だけ確保すれば良いということになりませんか。英語でさえ必要がなくなり、情報ツールだけが使えれば良いという話になるのです。(略) こういった事態は、どこか本末転倒ではないでしょうか。 つまり、ことばがツールだとしたら、今言ったように、基本的には一番単純で効率的なものが良いので、機械が自動的に目的を果たしてくれればそれでよくなる、つまり、ことばそのものが必要なくなってしまうからです。 ここで生じる最大の問題は、ことばを大切にしないことで、おそらく、人権や民主主義や自由といった、私たち人間が長い間ことばを通じて培ってきた価値について、非常に大切な部分が決定的に損なわれる危険があることです。私は、ことばの危機がもたらすのは人文学や人間にとっての危険ではないかと考えています。 そこで、彼はことばをツールではなく「ことばは私自身である」と主張しています。納富 ことばとは、それを使って何かをするための道具ではなく、むしろ私というあり方であり、世界を成立させているのはことばなのだ。納富 一言で言うと、私たちは、ことばとして生きています。例えば、「立派な人間になる」とか「正しい人間、優しい人になる」とか言う場合、この「立派」や「正しい」や「優しい」ということばを通じて私たちは自己形成しているわけです。 ことばを離れて、優しいということの実体がどこかにあるのではありません。むしろ、優しさや人のことを思うこと、さらにはそもそも「人」や「思う」ということそれ自体が、すべてことばで成り立っています。 さらに、「私」というものがそれらのことばと切り離されて、裸で独立に存在しているわけでもありません。私たちはことばで行動して、自身のあり方を作っているのです。つまり、私たち一人一人が「ある」ということそのものが、ことばぬきには成立しないことがわかります。納富 私たちが生きるこの世界も、ことばで成立しています。 私たちが生きることとこの世界そのものの存立が、ことばという根源的な基盤において不可分な仕方で成り立っているのです。哲学では「世界」という表現で、地球上の全地域という地理的な意味ではなく、私たちが生きている全地平を意味します。 私たちが生きていく営みとは、世界をことばで捉え、そのあり方をことばで作り上げていくことです。納富 文化のあり方も、ほとんどことばそのものです。 特に歴史、つまり、長い時間を超えて何かを受け継ぐのはことばを通じた営みであり、古い文献資料はことばで残されています。 一言でいうと、文化や伝統は書き継がれてきたことばです。それを、時間を超えて読み解いていくことで、現代を超える視野が手に入ると信じています。 教育とは、そのようにことばで伝承されてきた文化や伝統を、私たち自身の血肉にしていく営みです。人のあり方そのものがことばなのですから、ことばが人を作ることになるわけです。納富 美というのも、実はことばでできています。美がそのままある、ことばを離れて美という存在があるのではなくて、これを「美しい」とか、「きれいだ」とか、さまざまなニュアンスに満ちたことばで表現することによって、私たちは美という存在に出会っているのです。 つまり、美を創造しているのは言葉です。美しいとは、けっして、多くの人が思っているように心の中の感情に尽きるものではなく、この世界のありかあり方、その根源がことばという形において表出したものだからです。納富 ことばとは何よりも「超越」という哲学の契機です。私たちが生きているこの場を超えるのは、ことばなのです。(中略) 何百年後、何万年後、あるいは時間そのものを超えるような、そんなあり方に思いを馳せるのがことばです。私がもう死んでいるような世界、あるいは私たちが生まれる以前、さらにはビッグバン以前の世界を私たちは考えたり、思い描いたりすることができます。それを可能にしてくれるのがことばです。 これを哲学は「超越」ということばで論じます。何か私たちを超えたものと関わる次元、そこへと開かれること、これは一種の通路のような感じですね。私たちを超えさせるものがことばです。 文学で言えば、それは詩です。詩の韻律というものは、神のことばを伝えるものだと古代人は信じていました。神からのことばに対して、人間からさし向けることばが、祈りです。祈りのことば、そして呼びかけです。 西洋でもそうですが、東洋でも、それぞれの文化において、そういう原初のことばが文学の形態になってきたのです。納富 最後にもう一点、文科省のさまざまな改革で私が気になっているのは、「対話力」という言葉が最近やたらともてはやされ、さまざまな場面で扱われていることです。 キャッチーな言葉を作って流通させるのは見かけの改革の常ですが、何とかしてほしいと思っています。私の研究しているプラトン哲学「ディアゴロス」つまり、対話を基本とするからです。プラトンの著作はすべて対話を基本とするからです。プラトンの著作はすべて対話形式で書かれています。そこには、哲学は対話でこそ遂行されるものだという基本理念があり、哲学はまさに対話だと考えられていました。納富 文科省が推進しようとしているアクティブ・ラーニングとは「主体的・対話的で深い学び」と説明されているようですがここでの「深い」とはどのような意味なのか、さっぱり分かりません。 「対話」という言葉に安易に寄りかからずに、そもそも対話とは何か、対話は一体どのようにすれば成立するものかを、真剣に考えた上でものを言ってほしいです。子どもたちの教育のためにも、責任のある言葉遣いをしてほしいものです。 私はもちろん対話を否定しているわけではありません。対話が途方もなく大切だと思うからこそ、対話とは本当は何なのかをきちんと考えなければならないと言っているのです。 その一方で、今の日本では基本的には対話を拒絶するような場面が多いわけですよね。(中略) 対話ということばに、過剰で誤った期待を安易に押し付けても何の結果も得られません。その意味で、「対話力」などと言って誇大に打ち出している現状に、大きな危惧を抱いています。 納富の言葉を写していると、つい長くなってしまいました。ことばの問題は仕事していていつも悩んでいますが、この悩むこと自体がことばのおかげなんですね。 コロナ騒動で、直接ことばをかわす機会が大きく減っている中で、統治構造の上層にいる少数の人々が自己防衛的になっている。それどころか排他的になって対話が無視されるのを見ていると、「ことばの危機」もかなり末期的状況ですね。『デカメロン』の時代、はペストで死が迫っていても、ことばや対話がまだ祈りにつながったのではないだろうか。 SIMAKUMAさん、本日はずいぶん野暮な話になってすみません。あとよろしくお願いします。(E・DEGUTI・2020・10・25)追記その1・その2はこちらからどうぞ。 追記2024・03・08 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.02.11
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100days100bookcovers no45(45日目 その2)「ことばの危機」(その2) ※DEGUTIさんの紹介の中盤です。「ことばの危機」(集英社新書)の紹介が続いていますが、長いので「つづき」としました。(その2)です。(その1)はここをクリックしてください。 本書の「はじめに(安藤宏/国文学)」からの引用ですが、ここから紹介本文です。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 「ことばの危機」(集英社新書)「はじめに(安藤宏/国文学)」からの引用です安藤「文学」と「論理」を区分する発想の背後には、論理的思考能力は社会に役立つ実用的なトレーニングであり、文学は人間の情緒にかかわる情操教育に関連するものである、という、なにか誤った先入観があるのではないでしょうか。 むしろ、人間の感情、心理にかかわる領域を言葉で対象化していくこと、これを分析していく能力を磨くことこそが、実践的、論理的な思考力の向上、スキルアップにつながるのではないでしょうか。安藤 近年の「読解力」の危機を説く改革論議においては「人文知」を閉域に囲い込もうとする傾向がますます強くなっています。 おそらくその背後には、答えが一義化できないもの、情報として処理しづらい、可視化ししくいものへの無意識の“畏れ”があるからなのではないでしょうか。 理解しがたい他者や価値観との対話を避け、明快に説明のつくもの、ただちに役に立つことが明らかなものを優先していく風潮が蔓延していくのだとしたら、それこそが真に恐ろしい。 コミュニケーションの手立てである言葉は当然、他者への敬意と想像力を含むはずですが、多義的なもの、異質なものへの敬意を失いつつある状況こそが、実は現在の「ことばの危機」にほかなりません。これはAIの進化、SNSの普及などに原因があるのではなく、むしろそれを使いこなしていく人間の知性のあり方や覚悟にかかわる問題なのです。安藤 人類が培ってきた普遍的な財産、つまりいかに巧みに“処理”したとしても残余が残る、言葉が本質的に持っている豊かさ、あるいはそれに思いを馳せる想像力が軽視されることがあってはならないと思うのです。※第一章 「読解力」とは何か:「読めていない」の真相をさぐるからの引用です。阿部「読み」をめぐるこの奥深さは世界の奥深さとも直結しています。「読み」がただ一つの正解を求めるための作業だと勘違いしている人は、世界に対しても同じような態度をとり、世界を一義的にまとめようとしがちです。そうした態度がどうしても必要な局面があることは否定しません。しかし、実際に生きていく上では、「世界はいろんな顔を見せるものだ」ということをいやでも突きつけられることがある。必ずそういう状況が訪れます。それに備えるためには、世界の多義性や意味深さに対する畏怖は大切です。 「そもそも文章というものはそう簡単にはわからないものだ」という覚悟のようなものが必要だが(中略)この心情は「諦め」や「放棄」とは異なります。 むしろ、「そう簡単にはわからないけれど、それをわかろうとするところに喜びや発見がある」ということです。 そうした姿勢を養うためには、読み手におののきを与えるような文章を読ませることがおおいに役に立ちます。国語科目でこれをやらずして、どの科目でやれるでしょう。 わけがわからないけれど、すごく歯ごたえのある文章と、感動的な文章とは地続きです。そうした文章を生徒に提供し、それらと取り組むための入り口を示したい。むろん「文学」にこだわらなくてもいい。(中略) 他者とどう付き合うかは人間の永遠の課題です。「人間というのはわからないものだ」「謎に満ちている」「いったい何するかわかりゃしない」という状況を、言語的な「感動」として体験させる。これこそが国語という科目の芯となるべき理念ではないでょうか。※紹介はここから哲学者の納富信留さんの「哲学からの考察」へと移ります。それは(その3)へ進んでください。また、(その1)はこちらをクリックしてください。 追記2024・03・08 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。
2021.02.11
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100days100bookcovers no45(45日目 その1)阿部公彦他『ことばの危機―大学入試改革・教育政策を問う』(集英社新書) 大変遅くなってすみません。今月買ったばかりの本です。 KOBAYSIさんの紹介の池谷裕二の2冊の『怖いくらい通じるカタカナ英語の法則』・『一気にネイティブ! 魔法の発音 カタカナ英語』とその取り上げ方がとても愉快でしたね。 「カタカナ英語」が通じるか、どなたか試されましたか。それで思い出したことがあります。日本に5年住んでる英国人の知り合いが言っていたことです。日本人女性と結婚していて流暢に日本語を話し、漢字の読み書きも多少できる人でした。「日本語にカタカナいるの?ひらがなと漢字だけで充分。あちこちにカタカナで書かれているものがたくさんあって、読むのが難しいな。ひらがなを最初にマスターして、漢字も日常生活に必要な程度はわかるのに、カタカナで書かれるとわからない。カタカナで書くならひらがなと両方書いてほしい。いっそカタカナなくてもいいのに。」 日本人は外来語はカタカナってすぐに反応するけれど、英国人にとってはカタカナより、もともとのアルファベット表記の方がすぐわかるのに、何を七面倒な ということでしょうね。 もう15年ほど前の話です。そのころ、日本人の奥さんとの間にベビーもできたし、そのまま日本で暮らしてたらカタカナを覚えたかなあ。もし覚えたとしたら、いまはどう考えているのかなあ。私自身は、彼のおかげで日本語を今までとは違った眼で見たりすることを少し理解できたかな。 日本語にカタカナがなかったらどうだったんだろう?カタカナがこの世から消えてしまったら?外国語を取り入れるのは不便にはなるけれど、不便なものを相手にするために、もっと言葉を大事にするという効用もあったのでないかしらと思うこともあります。 「言葉を大事にする」っていえば、いつからか「説明責任」という言葉をよく聞くようになりました。でも今になって思うのは、「説明責任」とは号令ばかりで、全然言葉が大事にされていない風潮がどんどん強くなってきているように感じるのは私だけでしょうか。 おりしも、学術会議から推薦された新会員の6名を首相が任命拒否したというニュースが流れてきました。党員投票もやらず自民党国会議員選挙で党総裁になり、ほぼ自動的に首相になった菅首相という方は官房長官の頃から、頭も切れ意地もあるという評判でしたが、「そのような指摘は当たらない。」とか「全く当たらない。」という言葉で記者会見を済ませてしまう、言葉を大事にされないように見えていました。 今回の任命拒否の件についても記者会見で「総合的・俯瞰的活動を確保する観点から判断したもので、学問の自由とはまったく関係ない、」を繰り返すばかり。その後も任命拒否の理由は全く説明されないまま。世論が「学術会議のあり方の問題」にすりかわっていくように巧妙にしかけているのかと邪推してしまいます。言葉は信じられていないのでしょうか。言葉が信じられない社会の、学校で国語の授業をするとはどういうことなのか混乱しています。 ことばの危機でしょうか?もう聞き飽きたかもしれませんが、そういうタイトルの本を今回は取り上げます。一緒に考えていただければ嬉しいです。『ことばの危機―大学入試改革・教育政策を問う』阿部公彦・沼野充義・納富信留・大西克也・安藤宏 東京大学文学部広報委員会(編)集英社新書 2020年6月22日第1刷発行 この本は2019年10月19日の東京大学ホームカミングデイ文学部企画の「ことばの危機―大学入試改革・教育政策を問うー」というシンポジウムでの講演と討議を基にして編集されています。 このところ、大学入試の新テスト導入での様々な混乱が起きています。英語の民間試験の導入や、数学国語の記述式問題の是非をめぐり世論も高い関心を示し、とりあえず導入が見送られることになりました。今回は受験生の負担や不公平といった現場を軽視してきたことにたいして実施面で世論が反応しました。しかし、これから高等学校の国語という教科が大きく変わることになっています。 現行の「現代文」という科目がなくなり、「論理国語」「文学国語」のどちらかを選択することになります。来春入学する高校生から適用されます。 「現代文」の教材には小説、詩、短歌、俳句、評論、随筆などが含まれていました。しかし、これからは日本語で表現されたものを「論理国語」「文学国語」と分けてどちらかを選ぶのですが、大学入試対策を講じると、多くの学校が「論理国語」を選択することになるかと思います。 今のところ、教科書見本はまだ学校現場には届いていません。現場の国語の先生たちも教科書の中身も見たこともないままカリキュラムを作ることに苦慮しています。2年生以降、『山月記』『こころ』『舞姫』など全くやらないで評論だけやって生徒の興味関心を持たせられるのか?会議の議事録や契約書の読み方を2年間やり続けることに???という状態です。 このような大きな改変について考えていただくための東大文学部関係者による講演録です。 構成です。はじめに (安藤宏/国文学) 第一章 「読解力」とは何か――「読めていない」の真相をさぐる(阿部公彦/英語英米文学) 第二章 言葉の豊かさと複雑さに向き合う――奇跡と不可能性の間で(沼野充義/スラヴ語スラヴ文学) 第三章 ことばのあり方――哲学からの考察(納富信留/哲学) 第四章 古代の言葉に向き合うこと――プレテストの漢文を題材に(大西克也/中国語文化) 第五章 全体討議 日本の子どもの学力が落ちた。読解力が落ちた。数学や英語を学ぶにしても国語が基礎なのに、それがない。私の狭い学校世間やテレビからよく漏れ聞こえてくる声です。世間では通説になっているのでしょうか? この本では、「読解力」問題が世間で注目された2例を挙げています。経済協力開発機構(OECD)の国際学習到達度調査(PISA)での日本人の順位の低下のニュースと、新井紀子著『AI vs.教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社、2018年)が話題になるという現象です。この本は「人工知能はすでにMARCH合格レベル 人間が勝つために必要なこと」と帯に書かれ、教科書も読めない子どもは将来AIに仕事を奪われるのではないかと思わせられました。 この「読解力低下」問題にどう対策を講じるか。その対策として、国語を「論理国語」と「文学国語」と分離することが考えられたというのが、安藤宏や阿部公彦の立場です。 この問題の背景については充分に考えられないまま、“説明のつきやすい”原因探しをして、問題点を発見し、早急な対策を立てようとした結果、充分な根拠のないまま拙速な対策となり、結果的に「人文知」がないがしろにされてしまうのではないかと危惧しています。私はここで「人文知」の持つ「わからなさ」を大事にしたり、「わからなさ」を包摂しつつ生きる「知」の面白さを大事にしろというメッセージがおもしろく思えましたが、あとは引用を上げます。(長くなるのでこの後は「ことばの危機」その2(安藤宏・阿部公彦)・その3(納富信留)に続きます。)追記この記事のその2、その3はリンクを貼りましたので、ここをクリックしてくださいね。 追記2024・03・08 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。
2021.02.10
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100days100bookcovers no44(44日目) 池谷裕二『怖いくらい通じるカタカナ英語の法則』(講談社ブルーバックス) さて困った。 SODEOKAさんが選んだ千野栄一『ビールと古本のプラハ』の記事や皆さんの様々なコメントを見渡しても、どうもうちの書棚にある本との接点が思い浮かばない。と言っていても詮ないので、とりあえず最近読んだ本とのこじつけを試みることにする。 コメント中に出てきたフランツ・カフカがユダヤ人であることとか、SODEOKAさんが最後に書いていた、「惹かれる」ということは「役に立つ」という価値観とは別のものという部分とも関係がありそうだなと思い、半ばそれでいこうかと考え始めていたのだが、何だかすっきりせず、もう一度つらつら記事とコメントを見ていたら、思いついた。 ということで、最初に考えていた「あさって」の方向の本はまた今度にするとして、今回はこれで行こうと思う。思いついた直接の「つながり」は、DEGUTIさんのコメントにある、著者の千野栄一の別の著作『外国語上達法』である。 『怖いくらい通じるカタカナ英語の法則 ネット対応版 ネイティブも認めた画期的発音術 』 池谷裕二 講談社ブルーバックス 何だか軽薄なHOW TO本みたいなタイトルで何だが、これ、少なくともタイトルの印象よりは、ずっとまじめでシリアスな内容をもっている。 ちなみにこのブルーバックス版は2016年に出ているが、もともとは2004年に同じ出版社から出た『一気にネイティブ! 魔法の発音 カタカナ英語』が「親本」で、それをブルーバックス化した2008年の『怖いくらい通じるカタカナ英語の法則』(音声CD付き)を一部改定し、音声をネットで聴けるようにしたもの(今まで一度も音声を聴いていなかったので、今回、特設サイト(最後にリンクを貼っておく)で初めて聴こうとしたのだが、ページにはアクセスできたものの、クリックしてもなぜか反応せず。「保護されていない通信」という「警告」が出る。うちのPCの設定の問題かもしれないが。よくわからない)。私は「親本」も持っているが、2008年版のことは知らず、この新版は「一部改定」と「ネット対応」につられてまた購入してしまった、ということである。 著者は、時折TVでも顔を見かける脳科学者で、東大薬学部教授。著書多数、ということで、私も『海馬 脳は疲れない』(糸井重里との共著)を皮切りに、『進化しすぎた脳』『記憶力を強くする』『受験脳の作り方』『単純な脳 複雑な「私」』等、何冊か読んだ。専門分野の話題が平易な語り口でわかりやすく説明されていて、また取り上げられる話題自体もおもしろい。 そんな脳科学者の著書の中で「異色」のこの本は、概ね2つの部分から構成されている。 まずはこの本の趣旨であり、紙数の大部分を占める、平均的な日本人が英語の発音をいかに「カタカナ英語」で「通じる」ようにするか、について。もう一つは、英語と日本語との違い、脳と言語、バイリンガルの脳等についての、つまり著者の専門分野を含めた考察と知見である。 私の感想を織り交ぜながら、いくらか紹介してみたい。 著者が2002年にアメリカのコロンビア大学に留学したときのエピソードから話は始まる。 留学といっても学生としてではなく研究者としての「留学」で当時、著者は32歳。彼はさっそく壁にぶつかる。言葉の壁である。英語が、高校までの勉強でも苦手科目だったそうで、ならば(本当は学校の成績と英会話能力はさして関係ないと思われるが)渡米前に英会話教室にでも通えばいいと思うが、英語下手がばれるのが恥ずかしくてそれもできなかったということらしい。 ともかくも、そんな著者がいきなりアメリカに行っても、案の定、聞くのも話すのもまるでだめ、つまり何を言っているかがわからないし、こちらの言うことは理解されないということになった。 聞き取りに関しては、私(KOBAYASI)も、大昔の、たった一度のアメリカ体験で同じことを感じた。現地でほぼ最初にまともに聞いた、ニューヨークのホテルのフロントのお姉さんの英語がまるでわからなかったのである。その際は仕事だったので、日本から行った私たちとは別に現地在住のバイリンガルのガイドというかコーディネーターみたいな人がいたから問題はなかったが、一人だとまず立ち往生だろうと思う。さらに彼等って、今はどうかわからないが、当時は英語がわからなそうな相手でも繰り返してはくれるものの、ゆっくり話すということはあまりなかった気がする。まぁたった一度の経験なので当てにはならないが。 話を戻す。 ある日、研究所のメンバーが著者に話しかけてくる。「ハゼゴン」。彼のきょとんとした表情から相手は状況を察して「How - is - it - going?」(元気かい?)とゆっくり単語に区切って言い直してくれた。それに著者は驚く。実際の発音は文字列とは似ても似つかない音になるんだということに気づく。それ以降「ハゼゴン」と話しかける彼に相手はにこやかに返答してくれるようになった。 つまり高校(場合によっては大学)までに習った英語の発音と実際の現地の英語話者(以降は「ネイティブ」とする)が話している英語は全然違うのでないかと思い至る。ちょっと気づくのは遅い気がするが、それは置く。 かくして著者は、脳の研究とは別に新たな「カタカナ英語」を探求し始める。彼はそれからネイティブが話す英語を耳に聞こえるまま素直に聞くようにする。やはり違う。そして様々に考えた結果、3つのことにたどり着く。 1「私」には「カタカナ」英語しかできない。それは「今さら英語特有の発音をネイティブと同じようには身につけようがない」という科学的根拠からくる諦念に基づく。 2 ゆえに「私」の英語の発音ではアメリカでは通じない。 3 しかし現状の「カタカナ英語」をネイティブが使う別の「カタカナ英語」に合わせれば、多くの場合通じるようになる。 1の「科学的根拠」につては説明が必要だろう。 日本人の話す英語は英語圏では「ジャングリッシュ」と呼ばれている。これはたしかに聞いたことがある。そもそも日本人の話すジャングリッシュで話しかけられたネイティブはそれが英語だと思わない。「よく聞いてみると日本語は意外と英語に似ているようだ」と思うとか。この話も笑い話と思っていたが、そうではないのかもしれない。 理由はいくつかある。まずは英語と日本語が相当に異なる言語だからだ。これに関して簡単に触れる。 まず、発音数の差。たとえば有名な「L」と「R」の発音は違うのに、日本語では「ラ」としか言えない。他にも「Bi」「Vi」/「Fu」「Hu」/「U」「Wu」等々、英語では異なるのに日本語では区別ができない子音は多い。母音も日本語は少ない。著者によるとハワイ語に次ぐ少なさだそう。英語は二重母音等含めてその3倍の母音がある。 つまりカタカナ表記できない発音がたくさんある。 次に、無母音声の有無の違い。英語には子音だけで音が作られる場合がある。 例えば「circle」。日本語の発音だと「サ・ア・ク・ル」と4音節になるが、英語では母音は一つで一気に発音される。単語の最後は「ku-lu」と母音を入れるのではなく「kl」と子音だけの発音である。しかし日本語話者には難しい。日本語にそんな発音はないから。 ただ一方で、逆に日本語にはあるが英語にはない発音もある。「撥音」、つまり「ん」がそれである。 英語話者は「こんにちは」ではなく「こにちは」ということが多い。 あるいは「促音」、つまり「っ」や「長音」も彼らはうまく発音できない。 著者のファーストネーム「ゆうじ」は「ゆじ」になってしまう。 さらに日本語の「ラ行」も撥音が難しいらし。たとえば「怒られる」の「られる」のようにラ行が続く場合にはかなりの無理が生じる。 「っ」だけでなく「つ」も発音が難しく、メジャーリーガーだった「松井」は大体「まちゅい」と発音されていた。 そして最後の推測言語と技巧言語の違い。 日本語は発音数が少ないということから同音異義語が非常に多くなる。たとえば、加工 書こう 下降 火口 囲う 河口 仮構 華香・・・といった具合に。 日本語の聞き手は、文脈や場の状況、イントネーション、話者の表情等から同音異義語の多くの選択肢から適切な語を推測しているわけだ。 では英語はどうか。 英語には豊富な発音数がある。その発音の違いによって単語を言い分けることができる。むろん同音異義語もなくはないが日本語に比べると非常に少ない。 英語話者は有声音以外にも舌や鼻や唇を使って無声音を表現する。たとえば「shシュ」「chチッ」「tsツッ」等。 これらの膨大な数の組み合わせで英語は発音される。「発声技巧」の言語なのだ。しかし逆に言えば、発音を間違うとえらいことになる可能性がある。 日本語で「フード」と言えば英語では「hood」しかありえない。「food」と認知されることはほぼない。 著者は以前観光でNYを訪れ、自由の女神を船上から見ようとフェリー乗り場にタクシーで行こうとして「ferry port」とドライバーに告げたら、ドライバーは何の躊躇もなく車を走らせ「heriport」(ヘリコプター発着所)へ連れて行かれたそうだ。それも軍用だったそうだ。観光ガイドブックを手にした著者を軍用ヘリポートへ連れて行くのはどうかしていると日本語話者は考えるが、タクシーのドライバーにとって著者の発音は紛れもなく「heriport」だった。それだけでドライバーの行動は決まる。つまり言語文化が違うということだ。 英語話者に同じ発音で「ヘリポートではなくフェリーポートを意図している」ことへの類推を期待するのは、日本語話者に「LとRを厳密に識別する」ことを期待するほど難しいようなのだ。その代わりと言っては何だが、文法的な誤りに関しては英語話者は比較的寛容とのこと。 日本語話者にとって、発音についてはそうはいかないのは残念だが、一般に、知的水準の高い人ほど、あるいは非英語圏話者に接しているほど発音ミスを修正して聞き取ってくれる傾向があるとのこと。前者については何とも言えないが、後者については常識的に考えてそうだろう。両者の層が重なっているのかもしれない。 つまり、英語会話の水準の多くは発音が上手いか下手かにほぼかかっていると言える。 英語と日本語の差異については以上。 上記の3つのうちの1に挙げた「科学的根拠」に話を戻す。 加えて、脳科学的には年齢的な壁がある。つまり、運動制御系に関する脳の可塑性(能力が変化する性格)は年齢には無関係だが、言語を獲得する可塑性は年齢とともに急激に衰える。一般には言語を覚える能力はおよそ8歳までとされ(「9歳の壁」)、それ以降は新しい言語を覚える能力は急速に低下する。原因は現時点では不明。 たとえば日本語の5つの母音を聞いて育った子供には、脳にこの回路が成立し、9歳以降もほとんど変化することなく留まる。こうなると日本語の3倍もの母音を含む英語に対処するのは非常に難しくなる。 別の例を出すと、たとえば「デズニー」とか「ビルジング」という発音になってしまう方々は「Di」の発音を聞いてこなかったから。そういう意味では小学生低学年から英語を学習する(どうやら今年2020年に3年生から始まるようだが3年生というのは8歳から9歳。ぎりぎりである。でもコロナ禍でも予定どおりなのかどうか)というのは正しいということになる(むろんそれ以外に問題はあるだろうが)。まだある。 第二言語の習得能力は遺伝の影響が強い。70-80%は遺伝で決まっているという調査結果がある。ちなみに母国語獲得力と第二言語習得力は関連性はないと言われる。つまり第二外国語の習得能力は個人差が極めて大きい。 そこで、著者は「開き直る」ことにする。つまり「カタカナ英語」である。もちろんこれまでの概念のそれでは役に立たない。 たとえば「animal」を通常、日本ではどう発音するか。「アニマル」である。ただこの通り発音しても英語圏では通じない。ではネイティブはどう発音しているのか。むろんそれを「カタカナ」で表記するのは無理があるができううる限り近い表記を試みると「エネモウ」(より正確には「エアネモウ」)となる。著者はこのカタカナ英語で通じると言う。別に巻き舌でそれらしく発音する必要はない。あるいは「water」はどうか。「ウォーター」ではなく「ウワラ」(より正確には「ウウアラ」)と言えば難なく通じる。 何となく通じそうという気になりませんか、皆さん。私はそういう気になりました。いや実地に試してはいませんけれど。 ではなぜ私たちは「アニマル」とか「ウォーター」とか発音するのかとなると、それはローマ字表記の弊害ではないかと著者は言う。ヘボン式ローマ字表記自体に問題はないが、それが英語の発音しそのまま当てはまるわけではないのだ。 もちろん「エネモウ」「ウワラ」と発音するのには「法則」がある。著者が協力者とともに考察した「法則」によって英語が通じるようになり新しい単語も正しい発音が可能になる。 ただこれは何も著者の新案特許ではない。あの有名なジョン万次郎の「What time is it now?」を「ホッタ・イモ・イジルナ」と発音するのと同じ発想である。 もともとこの発想は発音の向上をめざした方法だが、この法則を知っているとヒアリングにも効果があるはずだと著者は言う。何となれば発音は耳で聞こえたものをルール化したものだから。 ではその法則を具体例をいくつか紹介する。法則には名前が付けられているが、一つの単語の発音にもその法則以外にも「リエゾン」とか「ラ行変化」とかいろいろと注意事項がある。すべての説明はしていないのでご承知のほどを。「最後のLはウ」の法則circle ☓サークル ○スオコウ miracle ☓ミラクル ○メラコウ「最後のT(D,C)はッ」の法則delicate ☓デリケート ○デレケッ(t) cold ☓コールド ○コーウッ(d)「Iはエ」の法則animal ☓アニマル ○エアネモウ city ☓シティー ○セレ picture ☓ピクチャー ○ペクチョ university ☓ユニバーシティー ○ユネヴオセリ「Tはラ行」の法則bottle ☓ボトル ○バロウ tomato ☓トマト ○トメイロ Italy ☓イタリー ○エラレ「NTのTは消える」の法則gentleman ☓ジェントルマン ○ジェヌウムン interesting ☓インタレスティング ○エナレステン mental ☓メンタル ○メノウ rental ☓レンタル ○レノウ「WはダブルU」の法則water ☓ウォーター ○ウウァラ wool ☓ウール ○ウウーウ world ☓ワールド ○ウウォーウドここからは、まとまったセンテンスになったものをいくつか紹介。are you sure?(まじ?) ☓アーユーシュア? ○オユシュオ?what should i do?(どうしたらいいの?) ☓ホワット シュッド アイ ドゥー? ○ワッシュライドゥ?we had a lot of snow.(たくさん雪が降った) ☓ウイ ハド ア ロット オブ スノー ○ウィアダラーラスノウ (「a lo of」 は 「アラーラ」と発音する)have you been to seattle ?(シアトルに行ったことある?) ☓ハブ ユー ビーン トゥ シアトル? ○ハヴュベナセアロウ?what do you think about it?(どう思う?) ☓ホワット ドゥー ユー シンク アバウト イット? ○ワルユーテンカバウレッ? いかがだろうか。私は最初に読んだときには大げさにいえば「衝撃」を受けた。「コロンブスの卵」的な。ただ著者はこれをそれぞれ70回は繰り返しましょうと言う。私みたいに、単純におもしろがるだけならいいが、まともにトレーニングするのはかなりハードではある。でも一つの「指針」にはなるのではないかと思う。 ちなみに、著者は「効果的な勉強法」についても触れていて、結論は「効果的な勉強法はない」あるいは「効果的な勉強法は実は効果的ではない」としている。つまり「効率的」、言い換えれば「楽な」勉強法は概ね効果が薄いという。地道に労力をかけるしかないという、何というか、「無慈悲な」結論が出ている。ただ経験則的にもそうかもねという風には思う。 その他、「バイリンガル脳」についても、世界の人口の半分はバイリンガルないしマルチリンガルだとか、彼らの脳では2つ(以上)の言語を別々の回路が担当しているらしいとか、彼らが一方の言語を使っている際には、もう一つの言語は働かないように抑制されていることが最近の研究でわかってきたとか、大人になってから外国語を学ぶのは大変だと色々言ってきたが、大人でも学べばそれなりに意外に早く脳に変化が現れるとか、人間はぼぉーっとしている際にも脳内の「言語野」が活動しているとか、入れ子構造の文章である再帰形式は、さるには不可能だとか、様々に興味深い話題にも言及されているが、長くなったので、このあたりで。関心のある方は実際に読んでいただきたい。 改めてこれを読み直して、自分のことを棚に上げて、たとえばテレビに出ている外国人の話す日本語について、この人、日本に何年もいるのに日本語のイントネーションとか発音とか進歩せんな、とか思うのもよくないなと思った。 言語を習得するのはかように大変なのだ。 ただ、福岡伸一がどこかに書いていたが、国際会議を初めとして「ブロークンな」英語が世界共通語になりつつあるという事情や、また、世界中で移民が増加する傾向を考えると、今後は英語自体の性格も変化していく可能性もあると思う。 さらに、これからは自動翻訳の時代だとも言われていて、本書でも、そう遠くない未来に自動翻訳の技術が成熟する可能性について触れられている。 そんな時代に外国語を習得する意味は、当然現代とも異なるはずだ。しかし言語が文化の象徴だとしたら、どんな形にせよ、多言語、つまり多文化と共存し、それらを理解するのが多文化共生時代には必須であるのは確かだろう。 えらく長くなってしまった。本当はもっと短くする予定だったのだが失敗。次回こそ。 では、DEGUTIさん、次をよろしくお願いいたします。(2020・10・14・T・KOBAYASI) 追記2024・03・08 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。
2021.02.09
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山田航・穂村弘「世界中が夕焼け」(新潮社)(その3) やっとのことでたどり着きました。超長期天気予報によれば我が一億年後の誕生日 曇り 「ラインマーカーズ」(2003) 「日本文学盛衰史」の中で、ブルセラショップの店長さんだか何だかで、糊口をしのいでいる「石川啄木」君が読んだ歌ですね。最後の「曇り」だけ一文字空けになっています。 作者の高橋源一郎の自註に、歌人穂村弘の短歌と記されていて、探していました。 この短歌は「ラインマーカーズ」という歌集に入っていると、山田航の引用には記されていますが、穂村弘は1990年の第1歌集「シンジケート」(沖積舎)から始まり、1992年の第2歌集「ドライ ドライ アイス」(沖積舎)、2001年の第3歌集「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」(小学館文庫)と、作品を歌集として発表していて、2003年の「ラインマーカーズ―The Best of Homura Hiroshi」(小学館)は、書名でもわかりますが、そこまでのベスト版ですね。 この「世界中が夕焼け」という本は2012年に出版されています。だからでしょうか、2018年に出版された第4歌集「水中翼船炎上中」(講談社)にもこの歌は載っています。 話しがそれますが、この第4歌集は構成に工夫があって、面白いつくりになっていますが、「若山牧水賞」なのだそうです。 さて、本書の話に戻ります。山田航の、この歌についての「鑑賞」で、ん?となったのは、まとめのところの、この感想でした。 穂村が啄木に自らを託す歌としてこれを選んだのは、「高すぎる自意識とプライド」という点こそが二人をつなぐ接点だと考えたからではないかと思う。一億年後も自分の名は世界に残っているような気がしてならないという素朴な実感もまた共有しているのだろうか。(山田航) で、穂村の自作解説の結びはこうでした。 誕生日の永久欠番、というなんかそういう感覚にちょっと惹かれるところがありますね。死んだあと幽霊として自分のところに出てきたガールフレンドの髪形がなんか中途半端とかね、そういう事に対するあこがれが何かありますね。 その「曇り」とちょっと近い感じなんだけど、人間って髪型がいつもそうなるものじゃないのかな。と。髪型が中途半端な気味が好きだっていうのは、ぼくの感覚ではとてもいい愛の言葉なんだよね。(穂村) どうして、「ガールフレンドの幽霊」の髪形の話になっているのか、よく分かりません、前後にそういう歌が取り上げられているわけでもありません、が、啄木と、そして穂村自身の「自意識」には。直接コメントしていませんね。ちょっと残念だったのですが、ページを繰っていると、別の歌の話で出てきました。メガネドラッグで抱きあえば硝子扉の外はかがやく風の屍 高橋源一郎「日本文学盛衰史」(2001)所収 石川啄木の歌として書下ろし この歌をめぐっての、山田航の解説はこうでした。「シンジケート」の頃の作風をほうふつとさせる一首である。「メガネドラッ/グで抱きあえば」といういささかつまずき気味の句跨りになっており、ここにごこか歪みのある都市風景が託されている。(中略) そして何より大事なのが、これが石川啄木作という設定で書き下ろされた作品であること。 非常に穂村的な作風なのだが、穂村なりに啄木に思いを馳せて作ったと思われる。風の屍に囲まれて硝子扉をはめられたメガネドラッグは、啄木が感じていた時代の閉塞感の比喩なのだろう。 そして、現代の歌人である穂村もまた。啄木と同質の閉塞感にシンパシーを覚えていたのだろう。ひまわりの夏よ 我等の眼よりゴリラ専用目薬溢れルービックキューブが蜂の巣に変わるように親友が情婦に変わる ほかに「日本文学盛衰史」に寄せられた歌にはこのようなものがある。後者は後に「親友が恋人になる」と改められて発表されている。 外に出られない、出ても何も変わらない世界の中で、ひたすら小さな変化と他者との感情の交感を求め続けていた人。それが穂村にとっての啄木像だったのだろうか。(山田) さて、穂村弘がどうこたえるのか。 〈ルービックキューブが蜂の巣に変わるように親友が情婦に変わる〉という歌を、別なところで「親友が恋人になる」に改めて発表したってありますが、これはやっぱり「親友が恋人になる」のほうがいい。そう思って推敲したんでしょう、忘れましたけど。 つまり「ハチの巣」と「情婦」がつき過ぎで、情婦だと蜂の巣のようにまがまがしいってことが普通になっちゃうんだけど、実は恋人のほうがよりまがまがしいんだっていう感覚。親友が恋人になることがより怖いと思い直して推敲したんだろうな。これを読んで思い出しました。 啄木像は意識していません。実際の啄木に合わせてもあまり意味がないような内容でしたから。小説のなかの啄木のほうは多少意識しました。(穂村) 面白いですね、ぼくは、実作者の発言のほうに納得しました。まあ、「親友が恋人になる」のほうが、より禍々しいというあたりは、もう少し詳しく聞きたいところではあるのですが。 こうなると、作中にこれらの短歌を使用した作家の話も聞いてみたのですが、どこかでしゃべっていないかなあ。もし見つかれば、またお知らせします。 ということで、とりあえず「偽・啄木短歌」探索を終えたいと思います。ここまで読んでいただいてありがとうございました。ああ、この本自体は、穂村弘入門にはなかなかでした。 関心のある方、ぜひ、ご一読ください。じゃあ。
2021.01.12
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山田航・穂村弘「世界中が夕焼け」(新潮社)(その2) 「穂村弘の短歌の秘密」と副題された「世界中が夕焼け」(新潮社)を読み継いでいます。前回書きましたが、高橋源一郎の小説「日本文学盛衰史」に引用された短歌について「案内」したくて読んでいるのですが、超長期天気予報によれば我が一億年後の誕生日 曇り という、小説中で石川啄木が詠んだ歌の、ひとつ前のこの歌で、手がとまりました。ゆめのなかの母は若くてわたくしは炬燵のなかの火星探検 「火星探検」(「短歌」2006年1月号) 山田航の鑑賞文の中には、この歌に加えて、下の2首の引用があります。母の顔を囲んだアイスクリークリームらが天使の変わる炎なかで髪の毛をととのえながら歩きだす朱肉のような地面の上を 「母」の死をめぐる、穂村弘による一連の挽歌の中の歌ですね。で、山田航は総括的にこうまとめています。「火星」だけではなく、「炎」や「朱肉」といった赤のイメージを持つ言葉が氾濫する。これは火葬のイメージにつなげているのである。現実感を失ったふわふわした感覚の喩として、「朱肉のような地面」というのは素晴らしいリアリティを持っている。穂村の計算されつくした技巧が冴え、一連の世界全体が確実に炎のイメージへと向かっていく。 幼少時の「わたくし」が炬燵の中の「火星探検」というごっこ遊びに興じられたのは母という偉大なる庇護者の存在があったからだろう。母の存在が「ゆめ」となって焼失した現実のまでふらふらと歩き続ける穂村は、やがて自分が育ってきた昭和という時代を清算するべくねじくれたノスタルジーを追求するようになる。それは失われた自分自身を探し求める旅なのである。(山田) 歌人である山田航の「感性」というのでしょうか、おそらく「炬燵」あたりのからの連想でしょうか、「育ってきた昭和」という捉え方は、ちょっと意表をついていますね。「えッ、そこで昭和?」という感じです。 そのあたりについて穂村弘が応答しています。 昔の炬燵ってなんか出っ張りがあって、網々の、その中が赤くて、みんなが膝をぶつけて、その網がゆがんだりなんかしているようなものでしたね。(中略)で、子供は必ず一度はその炬燵の中にもぐってみたりする。それもそういう昭和的な感じがもちろん強いわけですね。だから、お母さんだ台所で夕餉のしたくをしている時に、僕は炬燵の中で火星探検という体感です。山田さんが書いているとおりです。(穂村) で、山田航の引用の2首の歌についてはこうです。少し長くなりますが、「読む人」と「作る人」のギャップが、ちょっと面白いので引用します。 「母の顔を囲んだアイスクリーム」というのは、これは比喩だと読まれることがあるのですが、実はそのまんまの実景。 うちの母は糖尿病で亡くなったんですけど、甘いものがとっても好きで、もうこれで好きなだけ食べられるよ、というので、お棺の中にアイスクリームを入れたんですよね、本物の。 それが何ていうか印象的で、アイスクリームが燃えるっていう感じに何かこう、ショックみたいなものを覚えたんです。母親と一緒にアイスクリームも燃えるというイメージをそのまま書いたんだけど、わりとそれは読み手には伝わらなかったみたいで、これは何かのメタファーだという読まれ方が多いですね。(穂村) 二つ目の「朱肉のような地面」については山田航の指摘した「色」よりも、どちらかというと「感触」についてこだわったことを、こんなふうに語っています。 母親が死んだ後、地面がふわふわするような現実感のない感じ。社会的には葬式とかやんなきゃいけないから、喪服着て髪を整えてみたいなことがあるわけだけど、歩くと道がなんかふわふわするんですよね。 自分を絶対的に支持する存在って、究極的には母親しかいないって気がしていて。殺人とか犯したりした時に、父親はやっぱり社会的な判断というものが昨日としてあるから、時によっては子供の側に立たないことが十分ありうるわけですよね。 でも母親っていうのは、その社会的判断を超越した絶対性を持っているところがあって、何人人を殺しても「〇〇ちゃんはいい子」みたいなメチャクチャな感じがあって、それは非常にはた迷惑なことなんだけど、一人の人間を支える上においては、幼少期においては絶対必要なエネルギーです。それがないと、大人になってからいざという時、自己肯定感が持ちえないみたいな気がします。(穂村) と、まあ、なるほどというか、そうなんですかというか、作った人にしかわからない実景と、実感について語られていますね。 山田航の持ち出してきた「昭和」は、実作者にとっても「炬燵」でよかったわけですが、穂村弘よりも8年早く「昭和」に生まれた、今や、老人の目からすると、「炬燵」をめぐる「昭和」的説明の卓抜さには舌を巻きながらも、それは穂村弘の「昭和」では?と言いたくなるのですね。 穂村自身が語る「母親」の解釈も、ぼくの目から見るといかにも「現代的」で、昭和後期、に育った子供たちに対する、「平成」的認識の解釈が施されて語られているような気もします。 ぼく自身も50代に母を亡くしました。ちょっと大げさになるかもしれませんが、他に知らないのでいうと、ぼくにとって「母」の死は斎藤茂吉の「死にたまふ母」の連作の感じに納得した事件でした。あっちは、まごう方なき「近代文学」なわけで、自分のなかの「近代」性を、再確認させられた事件だったと言っていいかもしれません。まあ、人それぞれなのでしょうが、微妙なズレのようなものがありそうですね。 穂村弘が現代短歌の歌人である所以が、この辺りにあるような気もしました。 いやはや、いつまでたっても「日本文学盛衰史」の引用歌にたどり着きません。次回こそは、ということで、ここで終ります。(その2)でした。(その1}はこちらをクリックしてください。じゃあ、また。
2021.01.10
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山田航・穂村弘「世界中が夕焼け」(新潮社)(その1) 高橋源一郎の「日本文学盛衰史」(講談社文庫)という作品を読んでいると、作中の石川啄木の短歌というのが出てきますが、実際の啄木の短歌ではありません。偽作ですね。小説の登場人物としての石川啄木の作品として作られた短歌なのですが、作中の作品を「偽作」したのが現代歌人の穂村弘だと、註に書かれているのですが、そうなると興味は移りますよね。 そういうわけで、穂村弘の歌集やエッセイ集を探していて見つけたのがこのがこの本です。 山田航・穂村弘「世界中が夕焼け」(新潮社) 山田航という人は若い歌人らしいのですが、実は、作品も著作も知らないのですが、その山田航という人が、穂村弘の短歌を読んで感想というか、解釈というかを書いて、それを作者である穂村弘が読んだうえで、リアクションしているという構成の本です。 で、50首の、実際は解釈のための引用歌がありますから、もっと多いのですが、章立てとしては50首の短歌が取り上げられています。終バスに二人は眠る紫の〈降りますランプ〉にとりかこまれて (歌集「シンジケート」) 開巻、第1首がこの歌です。山田航の文章は、まず、この歌が相聞歌であることを指摘し、〈降りますランプ〉という造語に対する批評があって、歌を包む「色」についてこんな指摘が加えられています。「紫の」にはおそらくこの万葉集のイメージが書けてある。あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 額田王 なるほど、そういうイメージの広がりで読むのかと感心しながらページを繰ると、穂村弘自身の解説があります。 この歌は「降りますランプ」っていう造語がポイントになっているんですが、山田さんが書いていらっしゃる通り、本当は「止まりますボタン」ますボタンなんですよね、現実のバスでは。本来は不自然な造語なんです。 でも、歌を読む人には、これで瞬間的にわかる。あまり違和感を持たない。作者としては、「止まりますボタン」では字余りになるという音数の問題と、何よりも取り囲まれている光に注目したい、ということで「降りますランプ」という言葉を取り込んでいます。 あとから見直すと、この歌はMとRの音の組み合わせが多くて、「ムル」「ムラ」「リマ」「ラン」「マレ」と五回出てくるとインターネットで指摘されました。 作ったときは作者も無意識なんですが、長く記憶に残る歌には、内容以上にそういう音の側面に理由がある場合が多い、と高野公彦さんがよくおっしゃっています。たぶん読む人は、本当は「止まります」だよ、と意識しないように、MとRの音が多いな、なんて意識しないわけだけれど、意識下で、この響きを感じているらしい。 歌というのは、他の文芸ジャンルに比べて、この意識下で感じている領域に依存度が高いんですね。歌は調べ、っていうくらいですから。 引用が長くなりましたが(改行とゴチックは引用者によるものです)、作者自身の解説ですね。こういう調子で、穂村弘の、現在のところの代表歌でしょうね、50首の歌をめぐって二人のやりとりが交互に載せられています。 実は、1首ずつ取り上げて、プロの歌人が読んだ解釈と鑑賞が率直に述べられている本というのは、ありそうで、そうありません。斎藤茂吉のような人の場合は、後の歌人たちによって1首ずつの解釈と鑑賞が、1冊の本にまとめられたりしていますが、それでも、作者自身の感想や自作の意図が述べられているのがセットになっている本には出会ったことがありません。 この本には、現代短歌という文芸を読むという経験としても、「蒙を啓く」というべき指摘も随所にあります。穂村弘という歌人の作品に興味をお持ちの方にとどまらず、現代短歌を読むことを勉強したいと思っている人にはお薦めかもしれませんね。 自分がそういう仕事だったから思うのかもしれませんが、高校とかで短歌を取り上げて授業とかをしようとか考えている人には、なかなかな本ですね。 長くなりますので、とりあえず、本書の「案内」1回目ということで、2回目は、探していた「日本文学盛衰史」の作中歌について、案内したいと思います。それではまた。
2021.01.09
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《2004年 書物の旅 その21》 渡辺実「大鏡の人々」(中公新書) 受験参考書ではありませんが、平安時代とはどんな時代だったかという事を「大鏡」を解読しながら平安朝古文の素人にも面白く、ホント、実に面白く解説してみせた本が渡辺実「大鏡の人びと」(中公新書)です。 最近はやりの書名をもじっていうなら《大鏡を読む》とでもいうべき本ですね。内容を一言でいうなら「大鏡」に代表される平安朝の男性原理の解説ということになるでしょう。 宮廷女房文学が主流の平安朝文学史にあって、ほとんど、たった一つ男性原理で書かれている作品「大鏡」を取り上げて、「男性原理」を読み取るという視点から論じたところが著者のセンスの冴えたところです。 当然のことながら、百八十歳を越える大宅世継や夏山繁樹などという人を食ったキャラクターや名前の人物を語り手として配置した、この歴史物語が一筋縄で解読されるはずはありません。「伊勢物語」の「みやび」から「源氏物語」の「もののあわれ」に昇華されて行くかに見える、「かそけき」平安朝美意識を陰謀・大胆・憎悪・奇行・高笑いの連打によってあざ笑うかのよう描いているのが「大鏡」というわけです。 たとえば高校の教科書に出てくる「枕草子」-古今の草子を-の一節に村上帝と宣耀殿の女御との美しいエピソードがありますね。まあ、よく読むと案外露骨なお話しなのだけど、「大鏡」にかかれば、好色な帝王と帝王をめぐって渦巻く嫉妬や露骨な権力争いの合間の「みやび」にすぎない話に様変わりすることを「大鏡の人びと」の著者は鮮やかに解説してくれています。 視点を変えれば出来事の意味が変化する面白さですね。枕草子や伊勢物語の作者たちが描きたがる「みやびな世界」を相対化する大鏡のリアリズムと言えばいいのでしょうか。そこに時代の実相を読み込んでゆく渡辺実の筆致は実に痛快、かつ、爽快です。 とまあえらそうに書いているのですが、実はこの先生、「国語構文論」・「平安朝文章史」なる論文で知られる、かなり上等の国語学者なのです。それらの本は、せいぜいページを繰ったことを自慢にする、ぼくごときにはとても「案内」できません。 この本も1987年に出版された古典的名著ですが、今や絶版でしょうね。購入して手にするのが難しいかもしれませんが、図書館の中公新書の棚にはあるでしょう。高校生が読んで損はないと思います。 ちなみに、渡辺さんには「さすが!日本語」(ちくま新書)という副用語を話題にした、一般向けのエッセイもあります。もう八十歳を越えていらっしゃると思うのですが、センスのよさがこちらの本でも古びていない所がさすがです。こっちの本は流行りすたりの激しい今日この頃といえども、さすがに本屋さんの棚にまだあると思いますよ。追記2020・04・09 渡辺さんは2019年の暮れに、亡くなっていらっしゃるようです。岩波書店から出ている「日本語概説」が机の横の本立てにあります。大学生のための教科書ですが、実際には教員をしていたぼく自身にとって、ずーっと教科書だった本です。 20代から、心を引き付けられた人たちが、次々と他界されるのを知るのは、やはり寂しいものです。ボタン押してね!ボタン押してね!日本語概説 (岩波テキストブックス) [ 渡辺実(日本語学) ]
2020.04.09
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《2004年書物の旅》小西甚一「古文研究法」(ちくま学芸文庫) 二十年近く昔のことで、この本がちくま学芸文庫で復刊されるずっと前、こんなことを高校生相手に書いていました。とてもさっこうんの高校生の手におえる参考書とは思えなかったのですが、ハッタリ気分で書いていたら復刊されて驚きました。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 古典の授業をしていて、自分が物を知らない事をつくづく感じています。勉強するべきときに勉強せんとこういうオトナになる、なんて説教をたれる気はありません。しかし、授業中に困っても、まめに調べる気力も最近は失われていて、これは、正直ヤバイのですが、高校生諸君に対しては、せめて参考文献ぐらいは紹介しようという次第です。 そう思いついたのは、なかなか殊勝な態度なのですが、残念ながら受験参考書の類は自分自身が30数年前、必要に30迫られて読んだ、「ある参考書」以来まじめに見たことがないからよく知らないのです。 皆さんが「そんないい加減なことでいいのか!」と怒るのももっともです。しかしね、時々本屋さんが「見本に」といって持ってくる最近の参考書の類はみんな、あの頃読んだ「ある本」の換骨奪胎に見えるのですよ、ぼくには。 「肝」になる文学思想は捨て、外観は似せているが、全体を支える「骨」はありません。やればとりあえず点は取れるようになりますが、古典に対する教養はせいぜい枝葉しか身につきません。クイズに強くなる豆本化しいて、パターンと頻出例を繰り返すだけで味も素っ気もありません。結局、面白いのは、面白くもないゴロ合わせだけという始末です。みんな「当てもん」に強くなるためのテクニックなのですね。 皆さんを試そうと待ち構えている「センター試験」や「模擬テスト」が、要するに「当てもん」なので、そうなるのはよくわかります。世間のパターンもそうなっているようですから、ある意味「合理的」なのでしょうね。でも、それって「バカじゃない?!」ってことじゃないでしょうか。 極論かもしれませんが、センター試験の古典で点を取るのは、実は簡単です。一年生で使った教科書がありますね。あれで、漢文はすらすら書き下せること。だから、読めればいいわけですね。古文はすらすら訳せること。それだけ八割は大丈夫です。あの薄い教科書一冊、本文だけでいいです、すべて暗唱できれば、センターなら満点は確実です。 ウソだとは思うが、一度だけシマクマを信じてやろうという人は、この夏休みがチャンスです。せっかくですから、課題の問題集で試してください。 古文、漢文それぞれ15題ありますね。一日、一題づつ、計二題、ノートに本文を写してください。訳や解説は、適当に読んで、線でも引きながらで結構です。これを二往復してください。 狙いは古典の本文を丸ごと頭に入れることです。二度目に口語訳がつっかえるようならもう一度やってください。その結果10月のマーク模試で、あなたの古典の偏差値は10点アップしています。もとが30点台の方は15点から20点上がります。すると文法で説明したくなります。 でもね、点数が上がって勘違いしてはいけないことがあります。模試の数値は古典文学読解の実力を保証しているわけではないということです。それは忘れないでください。放ったらかしてしまうと、すぐに下がります。 で、話を戻します。読む練習ができて、さあ、ここから必要になる本を参考書と呼ぶのです。ぼくが受験生の時に出会ったある本とは小西甚一という人の「古文研究法」という本ですが、本物の参考書でした。 小西さんのその参考書は「古文とは何か」という大胆な問を設定して受験生に説明しようとしていました。ぼくは読んでいて眠くてしようがなかった記憶があります。アホバカ高校生が「古文とは何か」なんて考えるはずがないわけで、考えたとしても「退屈である」という答えしかなかったはずですから、眠いのも当然でした。しかし、ずっと後になって、この参考書のすごさに納得するのです。 ぼくの場合は大学生になって、この人の「日本文学史」(講談社学術文庫)を読んアレっ?と感じた時でした。 「古文研究法」は受験参考書の面(つら)はしていますが、実は日本古典文学概論だったんです。気付いた結果、この人の「俳句の世界」(講談社学術文庫)とか、その他の著作を探したりしましたが、要するに、お弟子さんにしてしまうん本だったんです。 実をいえば、小西甚一という人は中世文学のエライ学者で、なぜか受験参考書もたくさん書いていますが、例えば「俳句の世界」なんて、素人にもとても面白い本です。受験参考書で。そういう参考書もあるということを忘れないでください。 とか言いながら、この本は手に入らないでしょう。古すぎます。学術文庫の方でも読んでみてください。 いつものように「なんのこっちゃ」という話でした。 ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.03.27
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山口昌伴「水の道具誌」(岩波新書) 勤めていたころの教科書に山崎正和「水の東西」という短いエッセイがありました。今でもあるのでしょうか。 ともかく、「鹿おどし」といういかにも、「侘び」だ、「さび」だと座禅でもくんでいそうな人が感心しそうな装置と、「噴水」というブルボンだのハプスブルグだのいうお菓子屋みたいな名前のフランスやウイーンの王朝文化の象徴みたいな装置を比較して、それぞれの文明を論じたエッセイで、東洋の島国に暮らす人々が流れる水を音で感じて、なおかつ「時間」が絡んでくる、その心のオクにひそむ「???」というふうに展開する文章でした。ぼくは、あんまり好きじゃないんですね、こういうの、今でも。 それを教室で読むのですが、しかし、困ったことがありました。噴水はともかく鹿おどしなんて、生徒さんはもちろんですが、ぼく自身が実際に見たことがあるような、ないような、あやふやな記憶しかありません。あるとしたら京都かどこかのお寺の庭だと思うのですが、それがどこだったか、確かな記憶は、もちろんありません。 ぼくは山の中の村で育ったのですが、近所に「鹿おどし」なんてものがあった記憶は全くありません。だいたい、あの程度の音で野生のシカが逃げるとも思えません。 冬場にでてくるイノシシや鹿の脅しは、実際にバーンと大きな爆発音がする仕掛けだった記憶はありますが、そんなものを取り付けるのはかなり変わった人だったという気がします。今ではサルはもちろんのことクマまで里に降りてきますが、やられ放題です。 話を戻しますが、まあ、こんなふうに、自分でもあやふやな事物についての題材で授業をするような場合、ぼくのようなズボラな人間でも一応商売なのですから、とりあえずネタの仕込みということをするわけです。 で、どこかのお寺に出かけていくような能動的行動力とは、ご存知のとおり(ご存じないか?)無縁なわけですから、当然、手近な方法に頼ることになります。今なら取あえず「ウキペディア」ということでしょか、そういえばユーチューブも重宝かもしれませんね。ぼくの場合は図書館か書店の棚でした。 そうすると、「あった、あった。」となるわけです。この教材の場合は山口昌伴「水の道具誌」(岩波新書)ですね。 目次をひらいてを見ると、「如露」、「鹿おどし」、「水琴窟」、「金魚鉢」、「蓑」、「和傘」、「手拭」、「雑巾」、「砥石」、「束子」、「浮子」、「爪革」、「川戸」、「龍口」、「金盥」、「龍吐水」、「馬尻」。 高校生諸君には読み仮名テストになりそうなラインアップですが、水とかかわる日常生活のさまざまな道具の名前がずらりと並んでいます。読み方もわからないのですから、いったいどんな道具なのか見当がつかないものもあるかもしれません。それは、まぁ本書を読んでいただかないとしようがないですネ。 さっそく「鹿おどし」のページを読んでみます。第1章「水を楽しむ」の中の数ページ。道具の研究者が、現物をじっと観察し、調べ上げた薀蓄が語られています。 鹿おどしをじっと見つめてみる。水がだんだん削ぎ口まで溜まってくる。重心が前に移ってくる。だんだんだんダン!全体が身じろぎしたかに見えて次の瞬間、削ぎ口がサッと下がって水がザッと出てサッとはね上がる勢い余って尻が据え石を叩いてコーン、その瞬間は目にも留まらぬすばやさ、風流とは違うなにかが働いているとしか思えない。 どうです、書き方がいいでしょう。日用品の研究なんて、地道以外のなにものでもない仕事だと思うのですが、この書き方をみて、このおじさん、タダモノじゃないねと思うのはボクだけでしょうか。 なんというか、研究が楽しくて仕方がないという臨場感が伝わってくるでしょう。こういう調子で「馬尻(バケツ)」だとか「束子(たわし)」などという、なにげなさすぎて、まぁ、どうでもいいような道具について、材料、製作法、用途から歴史的変遷まできちんと説明されています。この口調にハマレバ、この上なく面白いのです。 ところで、「鹿おどし」についての薀蓄はどうかというと、こんな感じです。 誰も居ない田や畑の作物を鳥獣の食害から守るには、人がいると見せる案山子のように視覚的な威しもあったが、音を鳴らして威す方が効果的で、雀おどし、鳴子などがあって鹿おどしもその工夫の一つだった。鹿も猿も居ない茶庭に仕掛けるのは、人の心の安逸に流れるのを威す、禅門修業の精神覚醒の装置だった。 鹿おどし、僧都ともいい添水とも書いた。昔、巧妙な智恵や、高度な技術をお坊様の功に帰すことが多かった。弘法大師がその代表格だったが、鹿おどしは玄賓僧都。僧都は僧正に次ぐくらいの身分で、玄賓僧都はまず案山子の発明者とされ、やがて雀おどし、鳴子も玄賓の発明とされて僧都と呼ばれ、鹿おどしもやっぱり玄賓僧都ご発明に帰した。 ぼくにはどこかの禅寺で「カアーツ!」と両手で捧げ持っていて振り下ろす、あれは何というのでしょう。「杓」でいいのでしょうか。ともかくあれを振り下ろしている住職さんの代わりに、「カアーン」と音をさせる道具が「鹿おどし」だったという理由で「僧都」といいますというほうが面白いのですが、そうではないようですね。道具にはそれぞれ縁起というものがあるのです。ナルホド。 日用品の研究といえば、柳宗悦で有名な「民芸運動」という1930年代に始まった、民衆の道具の技芸の素晴らしさ讃えた文化発掘運動があります。当てずっぽうですが、山口昌伴はきっとその流れの人だと思います。自分の足と目で確かめて、今は使われなくなった道具にたいして、実にやさしい。読んでいて気持ちが和む、そんな本でしたね。 この本もそうですが、日用品を話題にしている本というのは、エッセイとか評論もそうですが、小説や古典の授業でも役に立ちます。「ああ、あれか。」という「安心の素」ですね。 古典とかいいながら、なんなんですが、どっちかというと、現代社会論というほうがピッタリの本ですが、デザイン評論家の柏木博さんとか、おススメです。たとえば「日用品の文化誌」(岩波新書)の中では、住宅そのものから、ゼムクリップまでシャープに論じていてうれしくなります。 まあ、出会った本が面白かったりすると、授業のネタ仕込みは迷路へ迷い込んでしまいますから、その辺は要注意というわけですね。(S)ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.02.09
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爆笑問題「シリーズ・爆笑問題のニッポンの教養」(講談社) 「爆笑問題」という漫才のコンビは皆さんご存知でしょう。その二人がNHKテレビで「爆笑問題のニッポンの教養」という番組をつくっていました。見たことのある人もいるかもしれません。 専門性の高い研究に没頭している科学者や門外の人間には、現実のどこにかかわりがあるのか分からないようなテーマの哲学者と直接会って「爆笑問題」の二人がトークする。お笑い番組の体裁をとってはいますが、実際、素人の二人の質問はかなり的確に本質的なポイントに迫っていた番組です。今回「案内」する本書は、その番組の書籍版です。 ところで、番組と本書の制作意図について、「爆笑問題」の太田光君が本書の冒頭でこんなことを言っています。 現実の世界に生きている人間は、奇跡のようなことなど、そう起こるもんじゃないと思っている。しかし、縄文時代に生きていた人間の中で、誰がこの現代の人間の生活を想像しできただろうか。― 中略 ― われわれの住む世界は奇跡の世界だ。そしてこの奇跡を創ったのが、学問である。学問が奇跡を生む。では学問はいつから学問になったのか?それは、学問という言葉が生まれた時からではないか。学問とはもともと生きるための知恵のようなものだったはずである。古代では獲物の捕り方、コミュニケーションの仕方、雨風のよけ方、それらの知恵が学問であったはずだ。つまり生き方である。 この世界は奇跡の集合体だ。そしてその奇跡を創ったのが学問であり、だとすれば大学教授とは、奇跡を追及する人のはずだ。それらの人々が「学問」「教授」ということの限定を突破して、大衆の前に思考を晒した時、「学問」は「生き方」に戻るのではないだろうか。心は、本当に自由である。行こうと思えばどこへだって行ける。飛ぼうとする意志さえあれば、我々の思考に怖いものはない。 どうでしょう。新しく高校や、大学で学び始めた人たちにはうってつけのアジテーションではないでしょうか。 たとえば高校なら、中学校ではただの国語だったのに、「古文」「漢文」というふうに、新しい教科が増えますね。大学ならば、「国語」は「文学」に変わって、授業はもっと細分化されるでしょう。「面白くない」「興味がわかない」という不満を聞いたり、「入試のために」、「卒業単位取得のために」という声を聴くことはありますが、新しい生き方のスキルを学び始めているかもしれないという可能性を想像している、あるいは想像していた人はいるのでしょうか。 文系の大学生が、「興味がわかない」から捨ててしまった「数学」でも、「物理」や「生物」でも、そうだったのではないでしょうか。 一つ一つの、細分化されていく「学問」を勉強し始めることが、縄文人がコミュニケーションの仕方に工夫を凝らし、雨風をしのぐために知恵を絞ることで「生き方」を支えたのと、ある意味で同じ「学問」の入り口に立っていることだと自覚している人がいるでしょうか。まだ、充分若い諸君が、学問や勉強という言葉の意味を、このあたりで一度、考え直してみてはどうでしょうか。 「爆笑問題」のこのシリーズは多種多様な学問の現場を訪ねます。例えば、ここにあげた野矢茂樹さんは「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」 という有名な言葉を残したヴィトゲンシュタインというスイスの論理哲学者研究の第一人者ですし、中沢新一さんは「チベット仏教」から出発し、ちょっとハッタリ臭いですが、「芸術人類学」という新しい考え方で人間や世界をとらえ直そうとしている宗教学者ですが、諸君が大好きな『すぐに役に立つこと』とは程遠い学問に取りつかれているといってもいい人です。 ほかにも日本美術史の辻惟雄、教育社会学の本田由紀、言語学の田中克彦。理系ではロボット工学の石黒浩、分子生物学の福岡伸一、精神医学の斉藤環、エトセトラ、エトセトラ。 諸君にとっては知らない名前かもしれませんが、実はそれぞれの分野の最先端の研究者たちであり、超一流のネームヴァリューなのです。さすがNHKという人選ですが、臆せず、ビビらず、カッコつけず挑んでいく太田君と田中君のトークもなかなか大したものだと思います。 何にも知らないけれど、生きることに関しては真剣そのものなのだという大衆の気迫ともいうべき、彼らの真摯さに面食らいながらも真面目に答えようとする学者の皆さんの素顔にはお笑いを越えた面白さを感じます。「生き方」を探る最先端の学問。まあ、一度手に取ってみてください。(S)2014/01/15※投稿の「シリーズ・爆笑問題のニッポンの教養」(講談社)の画像は蔵書の表紙写真です。ボタン押してね!にほんブログ村【中古】 爆笑問題のニッポンの教養 タイムマシンは宇宙の扉を開く 宇宙物理学 /佐藤勝彦【著】 【中古】 爆笑問題のニッポンの教養 人間は動物である。ただし… 社会心理学 /山岸俊男【著】
2019.09.15
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大村 はま 「優劣のかなたに」(ちくま学芸文庫) 以前、ブログで大村はまについて書いた。その後、知人から「大村はまさんの『優劣のかなたに』という詩がいいですね。」という言葉をいただいた。彼女も長く教職にある人だった。ブログの追記に乗せたが、これだけでも読んでもらえればいい。 『優劣のかなたに』 大村 はま 優か劣か そんなことが 話題になる, そんなすきまのない つきつめた。持てるものを 持たせられたものを 出し切り, 生かし切っている そんな姿こそ。優か劣か, 自分はいわゆるできる子なのか できない子なのか, そんなことを 教師も子どもも しばし忘れている。思うすきまもなく 学びひたり 教えひたっている, そんな世界を 見つめてきた。一心に 学びひたり 教えひたる, それは 優劣のかなた。ほんとうに 持っているものを生かし, 授かっているものに目覚め, 打ち込んで学ぶ。優劣を論じあい 気にしあう世界ではない, 優劣を忘れて 持っているものを出し切っている。 できるできないを 気にしすぎていて, 持っているものが 出し切れていないのではないか。 授かっているものが 生かし切れていないのではないか。成績をつけなければ, 合格者をきめなければ, それはそれだけの世界。 それがのり越えられず, 教師も子どもも 優劣のなかで あえいでいる。学びひたり 教えひたろう 優劣のかなたで。 同僚だった彼女たちの心をどのくらい推し量れていたのか。そんなぼくが言うのも不遜ですが、こんな詩をつぶやきながら仕事をしている教員が、まだ、教室にいることへの期待がぼくにはあります。 自己責任と成果主義、学問の結果はお金に換算され、女性の出産を生産性などという社会の中で、今から勉強する子供たちに、本当に必要なのは、「学びひたり、教えひたる出会い」の中で、生きることと向き合う学校と教員との出会いなのではないでしょうか。2019・04・16にほんブログ村にほんブログ村日本の教師に伝えたいこと (ちくま学芸文庫) [ 大村はま ]【中古】 新編 教室をいきいきと(1) ちくま学芸文庫/大村はま(著者) 【中古】afb【中古】 新編 教室をいきいきと(2) ちくま学芸文庫/大村はま(著者) 【中古】afb
2019.07.04
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竹内敏晴 「ことばが劈かれるとき」「ちくま文庫」 今でもあるのかどうか知りません。昔、使っていた筑摩書房の教科書では、高校一年生の最初の教材に演出家?竹内敏晴のエッセイ「出会うという奇跡」というエッセイが載っていました。 いかにも新入生向けの題がついていて、さて、新入生の何人がこういう題の文章に心を躍らせるのだろうと、今でも考え込んでしまうのですが、しかし、竹内敏晴はちょっと、いいんです。 この人の本と最初に出会ったのは、何時のことだったのだのでしょうね。その当時「思想の科学社」から出ていた「ことばが劈かれるとき」(現在は「ちくま文庫」版)という単行本によってでした。 今、手元に見当たらないので、うろ覚えで書きます。その本は一緒に暮らし始めたチッチキ夫人の棚にありました。薄暗い装丁の陰気な雰囲気の本でした。何気なく手にとり、読み始めて唖然としました。 そこには著者の自伝的な回想と実践が記されてあったのですが、まず、悪性の中耳炎のためにほとんど耳が聞こえなくなった話で始まります。次に、聞こえない耳を持った少年が何も喋れなくなる話へと続いてゆきます。そして、いったんことばを失った少年がことばを回復するプロセスの話が書かれていました。 そこから「ことばを劈く」という、この本の題名になっている「言い方」が生まれるプロセスが記されていたのです。 「劈」という文字は漢和辞典を引くと「劈開(ヘキカイ)」という「切り開く」という意味の熟語とともに、「引き裂く」という意味だと出ています。 どうしても「音」となって出てこないことばを、口であるか喉であるかにナイフを差し込み、そこを切り裂くように放つという経験をこの人はしています。その経験を、まず、伝えようとしてこの文章を書いています。もう、その経験だけで読む価値があるとぼくは思います。 しかし、この本の啞然とした! 眼目はことばを取り戻した彼がことばを喪った人たちを相手に実践する体験の報告にありました。 例えばこんな話があります。彼が主宰する演劇研究所のワークショップの中で役者を志望する人たちが芝居の相手に科白を届ける練習なのですが、数人の相手に背を向けて座ってもらう。その中の一人を科白を投げかける相手と決めて、その人に向かってせりふを言いいます。自分に「ことば」が届いたと感じた人に手を上げてもらいます。そういう実践の話です。 果たして「ことば」は届くのでしょうか。気持ちを込め、はっきりと発声して何とか相手にことばを届けようと繰り返すのですが、見当違いの人が手を上げることはあっても、思う相手にはなかなか届きません。 毎日この練習を繰り返しながら竹内敏晴が演者たちに指示することは「大きな声を出すこと」や「気持ちを込めること」ではなくて「体をほぐすこと」なのです。 これは誰にでも分ることだと思いますが、気持ちを込めようとすればするほど、こわばってしまう身体があります。竹内は演者自身の体をほぐせるだけほぐすのです。そして静かに発声することを指示します。その結果、何と、ことばは届くのです。 相手と決めた人が向こうを向いたまま、すっと手を上げた瞬間の喜びの中には、ほんとうの出会いの感動があると思いませんか。他者と出会うために、大事なことは、自分の体をほぐすことだったのです。 意識や心がことばとともにあることが主張される風潮の現代社会の中で忘れられているのはことばを体の「生の器官」が作り出し発声しているという事なのだということなのでしょう。生の体をのびのびさせる所からことばを考える。ことばを失い、苦しみぬいた彼が到達した地点がそこにあります。 ぼくたちは自分以外の外界に対して多かれ少なかれ身構え、緊張して暮らしています。身体はこわばり、こり固まってしまっているのです。この身体は時代と社会の中で、生活を支えてけなげに立っているといって良いかもしれません。いつの間にか、リラックスして、素直にことばを発する力を失っているのかもしれません。 ところが自分ではその事に気付くことが難しいのです。「私」から「あなた」へ呼びかけたことばが届かない日常も、また当たり前のこととして「世界」を諦めてしまっていないでしょうか。 この本の中で竹内敏晴はそんなふうに問いかけていて、これは信用できるなというのがぼくの評価でした。 あの当時、そんな竹内が「出会い」を奇跡だと書いているのだから、高校生活を始める人たちにとっても、ゆっくり考えてみる価値があると信じて、その日も教室には出かけて行ったはずだったのですが・・・・。 今では懐かしい思い出なのです。それにしても、「寝た子」たちに「言葉」を届けるというのは難しいものですね。(S)初稿2006・04・15改稿2020・6・4追記2019・06・27 教室で声の小さい生徒は必ずいる。ぼく自身は、やたら声が大きくて、周りの人が顔をしかめるタイプなので、「イラッ」とすることがよくあった。バカみたいなことを言って申し訳ないが、この本を読んでから、すこし、腹が立たなくなった。 生徒たちの「声」とか、「ことば」とか、「表情」とか、「しぐさ」とか、そういうことが、教壇に立っている時に気にかかり始めた。そうすると、少し落ち着いてしゃべることができるようになったと、あの当時感じたことを、最近、映画の画面を見ながら思い出すことがある。 お芝居をしている舞台の上の役者の声とか、映像の中の表情とことばとか。会話になっているのかどうか、若い俳優さんが出てくるエンターテインメントなんかで、会話をみていて「えっ?」と思う。そんなシーンが時々ある。追記2020・06・04 「うたのはじまり」というドキュメンタリー映画に、耳の聞こえない父親がお風呂の中で赤ん坊を抱きながら、赤ん坊の言葉に呼応して歌い始めるシーンがありました。「ダイジョーブー♪、ダイジョーブー♪」と歌うそのシーンが「お風呂」のシーンだったことに、なんだかとても納得しました。 裸で湯につかって、抱き合っている親子が、体全体で伝えているものが、やはりあるのでしょうね。追記2022・06・23 老人が二人で暮らす、広くもないアパートでお互いの言葉がよく聞き取れないことが、最近、増えました。そっぽを向いたまま話しかけたり、何か尋ねたりしても、たいてい聞こえないようなので、もう一度向き直って「おい!」と声をかけなおすということになりますが、向こうからも、まあ、同じようなことであるようです。 老化という言葉を思い出しながらも、これといって「~ねばならない」ことが、もう、さほどあるわけでもない暮らしなのに、「こわばった体とこころで暮らしているのかなあ・・・」 と思うことがあります。耳が遠くなる理由は、耳の老化のせいだけじゃあないだろう、そんな気もして、なんとなく柔軟体操のまねごとを始めましたが、「固いのなんのって!」という状態です。いつまで続くかわかりませんが、せめて、立ったままで手が床につくくらいまでは頑張ろうかなと思っています(笑)。ボタン押してネ!にほんブログ村教師のためのからだとことば考 (ちくま学芸文庫) [ 竹内敏晴 ]「からだ」と「ことば」のレッスン (講談社現代新書) [ 竹内敏晴 ]
2019.06.27
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高田瑞穂「新釈現代文」(ちくま学芸文庫) ぼく自身が受験生だった頃、繰返し読んだ現代文の参考書がありました。その参考書がなんと筑摩書房から文庫として復刊されています。高田瑞穂「新釈現代文」(ちくま学芸文庫)です。 人間の理解や知識は、関心と経験を経ることなしには決して育ちません。人間の文化を、その根底において支えているものは、いつの場合でも生活の必要ということなのです。 海を知らない山国に生まれた文明に、船を期待することはもともと無理なことでしょう。もっと身近なことで言えば、例えば我々の身体というものは、我々の最も親しいものです。むしろ我々自体です。われわれの行為とは、つまり我々の身体の様々な運動であります。 しかしそれでいて、我々はその身体を絵にしようとすると、なかなか上手く描けないのが普通です。 ところが、特殊な人々がいて、それを苦もなくやってのけます。それは画家たちです。それがすぐれた画家か否かということは別問題として、とにかく画家である以上は、人間の姿態をそれらしく描き出すことくらい朝飯前のことにちがいありません。 何故か。 画家は常に、描くという意識において人間を見ているからです。 画家にとって描くということは、彼の生活の本質ですが、画家でないわれわれには、そうではないからです。それならわれわれの生活の本質はどこにあるか。 あなた方は現在高校生であるか、高校の卒業生であるかどちらかでしょう。そして大学入試という当面の課題を共有しているわけです。そうすると、あなた方の目下の生活の中心をなすものは、高校卒業程度の学力を体得するということであるはずです。 画家は描くことに生活の意味を認めるが故に、描くことが出来たのでした。それなら、あなた方は、勉学に生活の意味を認めているのですから、学力を高めてゆくことが出来るのは当然のことでなくてはならないはずです。従ってあなた方の、学問的関心は、高校卒業程度という一応のレベルに立って、その範囲において、あらゆる分野に、常に生々と働いていなくてはならぬはずです。そして、受験のための勉強も、つまりは、そういう関心をなるべく広く、深く、生々と保つということの上に考えられなくてはならぬはずです。 そこに私は、一番正しい受験準備の姿があると信じます。もしそうしていれば、すでにあなた方の問題意識は充分の幅と深さを持ち得ているにちがいありません。しかし、私の見聞する所によると、事態は必ずしもそういう風に、うまくいってはいないように思われます。 特に、現代文がわからないという嘆きが、そのことを物語っていると思います。現代文がわからないという場合の多くは、実はあなたがたの問題意識が極めて希薄である場合か、または全然欠如していることの告白であると私は断言いたします。 ここで是非一つ、あなた方一人ひとり、ご自分の心を覗いていただきたいものです。何がありますか。もしそこにあるものが、単に、見たい、聞きたい、食べたい、行きたい等の、総括して自分の感覚を満たそうという願いだけだったとしたら、そういう人に、入試現代文が難解であるのは、当たり前ではありませんか。 そういう人は、無理をして、自分の精神年齢を引き上げなくてはなりません。無理をする事がどうしても必要です。たとえば、仲間が口をそろえて難しいという本があったら、無理をしてそれを読破して、いややさしいと言うのです。批評家などが盛んにほめるが、あんな小説―映画でもよろしい―のどこが面白いのかさっぱり解らないと友達が言ったら、それをよく読み、熱心に見て、いやたしかに面白いと言うのです。 こういう無理は、青春期においては少しもみにくいものでも、恥ずかしいことでもありません。青春時代は、人間的教養を身につけなくてはならない時期です。Cutivationとはもと耕作し、育成することです。 懐かしい文章です。学校の先生の授業には飽き足らない毎日だった少年が、心に刻み込んだ記憶があります。 現代文の入試問題が解けなくて困っている人にはこの参考書は難しすぎるかもしれません。知的な守備範囲を拡げようとしない人には、そもそもこの参考書自体が読みきれないと思うのです。 むしろ、現代文は得意だが、問題集の図式解説のばかばかしさに飽き足りない人や、国語の先生になろうと考えているような人にお薦めです。 今さら、受験参考書を、という気持ちはよくわかりますが、これを読むと読書しなければならないという気持ちになる不思議な参考書でした。書店の棚でちょっと覗いてみてください。(初出2011・07・14)(S)追記 2019・05・18 高校の国語に「論理国語」なる科目が始まるらしい。哲学研究者の内田樹さんが「内田樹の研究室」というブログでこんなふうに書いておられました。 契約書や例規集を読める程度の実践的な国語力を「論理国語」という枠で育成するらしい。でも、模試問題を見る限り、これはある種の国語力を育てるというより、端的に文学を排除するのが主目的で作問されたものだと思いました。「論理国語」を「文学国語」と切り離して教えることが可能だと考えた人たちは、文学とは非論理的なもので、何か審美的な、知的装飾品のように思っているんじゃないですか。だから、そんなもののために貴重な教育資源を割く必要はないと思っている。現にそう公言する人は政治家とビジネスマンには多くいますから。自分たちは子どもの頃から文学に何も関心がなかったけれど、そんなことは出世する上では何も問題がなかった。現に、まったく文学と無縁のままにこのように社会的成功を収めた。だから、文学は学校教育には不要である、と。たぶんそういうふうに自分の「文学抜きの成功体験」に基づいて推論しているんだと思います。政治にもビジネスにも何の役にも立たないものに教育資源を費やすのは、金をドブに捨てているようなものだ、と。そういう知性に対して虚無的な考え方をする人たちが教育政策を起案している。これは現代の反知性主義の深刻な病態だと思います。 文章を読むとか、書くという行為が、すぐれて「論理的」な行為であることを、諄々と解説し、受験問題を解いてゆく「新釈現代文」という受験参考書は、今こそ読まれるべきだと思います。 しかし、現場の若い教員や、教員を目指す学生さんたちの中に、世の風潮通り「すぐに使えるマニュアル的方法論」を手に入れることに汲々としている傾向があることは否定できません。 「そんな面倒くさいことはやっていられません、さっと、わかるように言ってください。」 そうおっしゃて、こんな本には見向きもされないことでしょう。そういう非論理的感受性には、「文学国語」を読むことも不可能だと思いますが、老人の繰り言でしょうか。追記2020・09・09 コロナ後の世界が始まりつつあります。蔓延する伝染病を克服する方法は、どうも、なんの根拠もなしに「こんなものはこわくないのだ。」という妄想にも似た「安心感」を蔓延させることのようです。 スター気取りでテレビに出て来て、やりもしていない対策を、やっているかのように語っていた、インチキ政治家たちは、次々と鳴りを潜め、「自助」とか「自衛」とか、公共の責任を果たす態度のかけらもない言葉を政治スローガンとして流行させ国民を煙にまき始めています。 決定的に失われているのは論理ですね。ムードや空気に酔わせることでインチキを煽ることで正当化するのが全体主義者、ファシストたちの常道でしたが、ムードに酔わないための薬は、地道に「論理」を追う「思考力」以外にはありません。 しかし、何よりも「考える」ためには「他者」、「他者」とともにある「社会」、人と出会う「場」を失ってはならないと思うのですが、自らのことばで語ることができない政治家の姿は「まさに」「他者」を失った現代のシンボルだと思います。しかし、彼が失っているのは「振り返って考える力」、すなわち「反省」ということだということを忘れてはいけないと思います。 一人、一人が考え始めることがポストコロナの社会を変える力を芽生えさせるのではないでしょうか。追記2022・02・09 2年前に「コロナ後の世界」を空想しました。そうはいっても、そろそろ収まるのではないかと考えていたようです。が、コロナの感染の拡大は今年の冬も収まることを知らない様子です。ネット上には恐るべき数値が跋扈していますが、「無検査」とか「みなし」という、いよいよ責任放棄を露わにした言葉も飛び交っています。 60年以上生きのびてきましたが、それでもまだ「初体験」ということに出くわすものだという詠嘆というか、感慨というか、不思議な気持ちにとらわれています。 リスク・ケアを流行り言葉にしてマニュアル社会化した現代社会が、実際のダメージに如何に脆弱であるか。ディストピアというSF小説で語られていたはずの世界が案外身近に現出することに驚いています。 ボタン押してね!ボタン押してね!
2019.05.18
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小山鉄郎「漢字は楽しい」(新潮文庫・共同通信社)山本史也「神さまがくれた漢字たち」(理論社:よりみちパンセ) 白川静という、とんでもない学者さんに、そうとは気づかないで初めて出会ったのは、もちろん本の中で、高橋和巳という中国文学者で作家の「わが解体」という、1970年ごろの、ある傾向の学生の必読書の中でした。 その中に、1960年代の終盤、大学紛争(?)、闘争(?)で騒然たる、立命館大学の校舎の中に、灯の消えない研究室が一つだけあって、「S先生の、その研究室には過激派(?)の学生たちも畏敬の念で接していた。」 という内容の記述がありました。その部屋が白川静研究室だったのです。 1980年代の後半「字統」「字訓」「字通」という、文字通り字書である辞書が、世に問われる15年ほど前のエピソードですが、あれが、この白川静のことだったと気づくのは辞書が評判になって、実際に手に取った2000年を超えてからのことでした。 その白川静さんもなくなって、10年以上の年月が経ちます。 ここのところの元号騒ぎで、この人が生きていたらなんというのか、気になったので、「令」という文字について、「字統」を探してみると、ありました。「令」について許慎(「説文解字」という後漢の字書の著者)は「?(しゅう)」と「卩(せつ)」とから成るものと分析し、その「?(しゅう)」は、「集める」の意味をもち、「卩(せつ)」は、「節」の意味をもち、それで、人を集め、竹の節でこしらえた「竹符」を与えて命令するのである、と述べますが、迂曲にすぎる説です。 「令」は、礼冠をつけて、神の声に聞き入っている人の姿を、「象形」した文字にすぎません。 これを読めば、話題の二文字の漢字の連なりの意味は、まあ、こだわらずに素直にとれば、神さんの声を聞いて仲良くしましょう、くらいの意味になりそうですが、いかがでしょう。 皆様も、一度、「字統」ぐらいをお引きになれば、もっとよくわかりますが。 さて、そろそろ本題ですが、「漢字は楽しい」(新潮文庫)を書いた小山鉄郎さんは「これが日本語」でも案内した方です。 今はどうなのか知りませんが、共同通信の文化部の記者で、村上春樹や吉本隆明に関する著書もある人です。特に吉本には私淑した人らしく、新聞のコラムを本にした「文学はおいしい」(作品社)なんて本は、吉本隆明のお嬢さんで、マンガ家のハルノ宵子さんに挿絵を描いてもらっているだけでなく、吉本の著作からの引用もちょこちょこ目に付くところが面白い本です。 白川静に関していえば、小山さんは、最晩年の弟子ともいうべき人かもしれません。師匠が亡くなった後、小山さんがこういう本を作って、遺髪を継いでいらっしゃる。「はやり便乗の金儲けかよ」、そんなふうに思っていたこともありましたが、じつは、大切なお仕事をなさっていると、今では思います。 もう一人の山本史也という人は、高校の教員をしていた人らしいですが、立命館大学が作った文字文化研究所で教えを受けて、そこでのお仕事として「神さまがくれた漢字たち」(よりみちパンセ・理論社)を書かれたようです。白川静という巨大な存在のエキスとでもいう部分について、10代の少年や少女たち楽しく解説されている本のつくり方には好感を持ちました。 この二冊の本には、最初から読み続けて、結果、読書したという読み方は似合わないかもしれません。気になったら取り出して、気ままに読むのが良いかもしれませんね。トイレとかに常備して、いつの間にか読む、そんな感じがいいと思います。 小学生の子供たちに、「漢字の成り立ち」劇かなんかやってもらって、右手にお椀、左手に呪具かなんか持って、首を抱えて土饅頭の上にのせて、「さあ、いくつ漢字が出てきたでしょう?」 とかやったら、面白いだろうなあ。そういうふうに、漢字を理解していく子供を育てる世の中になればいいのになあ。そういう気持ちが作らせた本だと思います。 みんな機械が覚えてくれてる世の中を生きていく子供たちが、だからこそ、成り立ちの姿くらい、面白がらせてあげないと、かわいそうじゃないか。ぼくはそう思います。 そうそう、大人の人たちでも、たとえば中島敦の「文字禍」とか、円城塔の「文字渦」なんていう小説を読む前に、読んでおくのもいいかもしれません。円城さんが描く意味とはまた違った意味で、漢字は生き物かもしれませんよ。 ともあれ、「白川漢字学」と小学生とか中学生の頃に出会い、「口(さい)」 を知っている高校生が教室に座っているなんて、教員には夢のような話ですね。 漢字嫌いの学生さんも、子供向けにとらわれず手に取ってほしいと思います。ボタン押してね!ボタン押してね!
2019.04.20
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山田史生「受験生のための一夜漬け漢文教室」(ちくまプリマー新書) 教員を目指している人にも、だから当然、受験生にも、漢文が苦手という人が結構たくさんいらっしゃいますね。受験勉強でも、授業の教材でも、本当はね、「漢文」は難しくないんですよ、ということを教えてくれる本を紹介します。 山田史生という弘前大学の教育学部の先生がお書きになった「受験生のための一夜漬け漢文教室」(ちくまプリマー新書)という参考書があります。本屋さんに行っても、受験参考書の棚ではなくて、新書の棚に並んでいるので、なかなか気づかれないようです。 漢文を読むということは、ちょっと変な面倒くさい作業なのですが、それ以前に、漢字嫌いの高校生、大学生諸君にはかなり苦痛な作業であるだろうということはよく見かける光景ですね。 というわけで、とりあえず漢文攻略という目的を持つときにまず最初に「漢字って何よ」というところから入らないとしようがないわけですよね。 詳しく話し出すと、これはこれで大変なのですけれど、要するに日本語の中になぜ、どんなふうに漢字があるのかという素朴なところの説明をすっ飛ばして勉強が始まるのが、今の学校という制度の現実なんですね。 学校で習うことや先生が言うことを上手に口真似できる子どもが優秀だという押し付けで、センセーがただの馬鹿かもしれないってことは明かさないないんです。 漢字一つとっても、なぜそうなのかは考えさせない。それじゃだめですよね。ところがこの本では、例えば「仮定」という構文がありますが、こんなふうに説明しています。 父 まず仮定形からだけど、そのまえに「仮定」という表記がダメなことについて説明しておきたい。娘 え?どういうこと?父 「反」という字形をふくむ字には「板・坂・版・販・飯・叛」などがあって、どれもみな「ハン」という音をもっている。「仮」の正字は「假」で「暇・霞・瑕」などがその仲間で、みな「カ」という音をもっている。この中の「假」だけを仲間はずれにして「仮」と書き、板や坂や飯の仲間にするのは、ひどく不都合なんだ。娘 なるほど。だったら「暇定」と書けばいいんじゃないの?父 そうなんだけど、多勢に無勢っていうか、このさい目をつぶって「仮定」で行こうとおもう。どうか軟弱なパパをゆるしてほしい。娘 一句浮かんだわ。「パパもまたNOといえない日本人」オソマツ。おわかりでしょうか。実はセンセー方の大半もご存じないし、知っていても時間がかかるからすっ飛ばしている。そういう所から入るんですよね、この参考書は。 「漢字から漢文への文化の変遷」が意識されてるこういう「漢文」の参考書は、僕が知る限りあまりありません。 次は「漢文から日本語へ」という移入の扱われ方ですね。「反語」の説明のところにこんな会話があります。父 「以臣弑君、可謂仁乎」これは「臣をもって君を弑す。仁と謂ふべきか」と読む。「仁と謂ふべけんや」と読んでもいい。仁じゃないってことが明らかなのに、あえて疑問のかたちに読むことによって、かえって語気を強めているわけ。 娘 「仁ということができるだろうか、いやできない」って訳すんでしょ?父 わざわざ「~できようか、いやできない」と訳すことはない。だって日本語として不自然だろ?いったいだれがそんな話しかたをするだろうか、ってこれも反語だけれど。娘 でも学校でそう習ったわよ。 父 パパを信じてくれ。「家来でありながら君主を殺すのは仁といえるだろうか」のあとに「いや、いえない」と附け足さないと意味が伝わらないというのは、かなりヘンだよ。家来でありながら君主を殺すのは、たいてい仁とはいえないけど、ひどい暴君だったりすることもあるしさ。だからヘタに「いや、いえない」と附け足すと、「家来でありながら君主を殺すのは、かならず不仁であると」ということになりかねない。娘 そうよね。「~だろうか、いや~でない」という訳し方は捨てることにするわ。 内情を言えば、反語の訳の後ろに「~ない」を付けさせるのはセンセーの採点の都合のためだったりするのです。わかっているかどうか、言うことを聞いているかどうか、確かめたくて仕方がないのがセンセーというものなのですね。 ところが、この本は、漢字の本質から漢文へ。漢文から自然な日本語へ。筆者の考えが一貫していて、信用できる。これなら、苦手な皆さんも読めるんじゃないでしょうか。 これを読んでおもしろければ、次は「白文なんか読めなくても大丈夫。」と喝破する加地伸行さんの「漢文法基礎」(講談社学術文庫)がおすすめ。小川環樹さんの「漢文入門」(岩波全書)にたどり着ければ高校の教科書やセンター試験どころの話ではなくなりますね。(S) 大学受験漢文について、トータルな力の養成にはこっちですね。書き手の実力が半端じゃありません。2018/06/05ボタン押してね!ボタン押してね!
2019.04.18
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大村はま「教えるということ」(ちくま学芸文庫) ぼくたちの世代、要するに昭和の終わりかけに国語の教員になったくらいの人たちにとって、「つづり方教育」の国分一太郎や「山びこ学校」の無着成恭らと並んで「国語の教員像」の理想として、戦前から戦後を通じての実践者として輝いていた人たちですが、高度経済成長の時代が思い出になる中で「これでおしまい」とでもいうように忘れられていった教員の一人が大村はまという人だと思います。 残念ながら、ぼく自身は教員生活を終えて初めてその文章に接するといった具合で、これから教員になろうかという人たちに対してこれはいいよとばかりに推薦する資格はかけらもない。 まあ、そういうわけなのだけれど、毎週出会う大学生の皆さんが、教員になりたいと思っていらっしゃる、どんな本をお読みになればいいだろうというのが最近の僕の選書の基準の一つになっているわけで、それで手に取ったのが、大村はまの「教えるということ」(ちくま学芸文庫)でした。 2002年に99歳で亡くなっているひとだけれど、筑摩書房の学芸文庫の編集部は「教室を生き生きと」とか「日本の教師に伝えたいこと」という彼女が残した文章を、次々と、新たに文庫化しています。 ぼくは「教えるということ」以外はパラパラとしか読んでいませんが、現在の現場、まあ、学校ですが、のことを考えると再刊して読んでほしいと考える編集者や教育学者、教員がいることに「そりゃあそうだろう」と肯くものがあります。 ぼくにしてからが、高校生で教育学部を目指すような人たちのために図書館の書架にそろえて、借りてくれる生徒を、いや、教員も、かも、を、心待ちにしていたのですから。 みなさんはまだしばらくしかお勤めになっていないから、そういうことをお思いにならないでしょう。私は中学校にいてじっと子どもを見ていますと、非常にすぐれたほれぼれするような力を持った子がいます。私はときどき子どもといっしょにいながら、「同じ年だったら、この人に友だちになってもらえるかしら」と思うことがあります。 たぶんなってもらえないと思うのです。彼はあまりに優秀で、非常なひらめきを持っていて、私なんかほんとうにこの人の友だちになれないといったような、してもらえないというような気がしてきて、心から敬意を表してやまないことがあります。 教師はやはり子どもを尊敬することが大切です。さしあたり年齢が小さくて、先に生まれた私が「先生」になりましたが、子どもの方が私より劣っているなんていうことはないのです。劣ってなんかいないので、年齢が小さいだけなのです。子どもたちを大切にするということはそういうことを考えることです。 「教えること」という本に収められている、同じ題の講演の一節です。短い引用ですが、ここに大村はまという、その時代に生涯教員であり続けた女性の「性根」のようなものを、ぼくは感じました。 それは、「おっしゃっていることはよくわかりますが、少し離れたところで聞いていないと、ちょっと暑苦しいんですが」とでもいう感じ。おそらく、語りかたと時代の空気に、その秘密があるのだと思います。 この案内が、ノリノリの気分ではないのは、そこが理由です。しかし、論旨は正しい。ぼくにとっては、長くつとめた仕事について、強制的に反省を促すようなところがあって、面倒くさいのですが、今から、この仕事をやる人は、何年もの経験の中で、きっと「あの人があんなことを言ってたよな」というふうに思いだすに違いない言葉が、これらの本にはあると思います。 「卒業生がいつでも先生、先生と慕ってくれるのが、なによりもうれしい。」とか、「そういうとき、先生ほど楽しい職業はないと思う。」とかいうことばを聞くことがあります。 わたしが受け持った卒業生は、「先生のことを忘れない」と言ったこともないし、また、私も忘れてほしいと思っています。わたしは渡し守のようなものだから、向こう岸へ渡ったら、さっさと歩いて行ってほしいと思います。後ろを向いて「先生、先生」と泣く子は困るのです。 「どうか、自分の道を、先へ向かってどんどん歩いて行ってほしい。私はまたもとの岸へもどって、他のお客さんを乗せて出発しますから」。卒業した生徒が何か自分で言ってこない限りは、私はあとを追いません。 ねっ、ムキになって言いつのっているところが、やっぱり暑苦しいのですが、職業としての教員の肝というか覚悟というかが宣言されていて爽快です。おそらく、多くの卒業生や教え子たちが彼女のことを「忘れられない」と思ったに違いないし、「何か言ってきた」に違いないのですが、仕事を支える梃子を、そこに求めることをきっぱりと拒否する態度は、ちょっとかっこいいと思いませんか。 偶然、教室で出会い、「教える」ということのその場限りの可能性に真摯に向かい合おうとしたに違いない、教員、大村はまの面目躍如というべき言葉だとぼくは思いました。(S) 2018/06/05追記2019・04・16 その後、知人から「大村はまさんの『優劣のかなたに』という詩がいいですね。」という言葉をいただいた。彼女も長く教職にある人だ。 『優劣のかなたに』 大村 はま 優か 劣か そんなことが 話題になる, そんなすきまのない つきつめた。 持てるものを 持たせられたものを 出し切り, 生かし切っている そんな姿こそ。 優か劣か, 自分はいわゆるできる子なのか できない子なのか, そんなことを 教師も子どもも しばし忘れている。 思うすきまもなく 学びひたり 教えひたっている, そんな世界を 見つめてきた。 一心に 学びひたり 教えひたる, それは 優劣のかなた。 ほんとうに 持っているものを生かし, 授かっているものに目覚め, 打ち込んで学ぶ。 優劣を論じあい 気にしあう世界ではない, 優劣を忘れて 持っているものを出し切っている。 できるできないを 気にしすぎていて, 持っているものが 出し切れていないのではないか。 授かっているものが 生かし切れていないのではないか。 成績をつけなければ, 合格者をきめなければ, それはそれだけの世界。 それがのり越えられず, 教師も子どもも 優劣のなかで あえいでいる。 学びひたり 教えひたろう 優劣のかなたで。 同僚だった彼女たちの心をどのくらい推し量れていたのか。そんな僕が言うのも不遜ですが、こんな詩をつぶやきながら仕事をしている教員が、まだ、教室にいることへの期待が僕にはあります。追記2019・11・10 職場での「優劣」をいちばん気に病んでいるのは、教員だったりすることがあります。子供は道具でしかない。職員会議や、校内でデモクラシーをつぶし続けてきた教育行政は、教員同士のいじめの責任をどう取るつもりでしょうね。ポジションごとの権力主義の横行が、教員のいじめ事件の、一つの、大きな原因であることは、明らかだと思うのですが。 教員は意見の言えない「学校」でなにをしてしまうのか、よく考えたがいいと思いますね。意見の言えない教員は、今、意見の言えない子供を育てているのではないでしょうか。 追記2022・05・03 今年も、国語の教員を目指している人たちと出会っています。「役に立つ知識」を、いかにわかりやすく伝達するか、という効率至上主義の教育方法によって10年以上育てられてきた人たちを前にして、すぐには役に立たないし、ひょっとしたら永遠に役に立たないかもしれない、「本を読んで考えこむ」ことや、自分もよく「わからないこと」を教室で生徒に向かって伝えることの大切さとかについて語り掛けるのは、ちょっと勇気がいります。 それでも、ボタンを押したら答えがわかることしか問えなくなっている社会に「なんか、変だな」と感じる教員になってほしいと、わけのわからないことを繰り返し問いかけている日々です。 たとえば、世界のどこかで戦争がはじまったのを見て「戦争放棄」を謳った、世界でたった一つの憲法を変えなければと宣伝するやり方は「なんか、変だな」と思いませんか? 「なんか、変だな」と感じる力は「役に立つ知識」から生まれるわけではなくて、「わからないこと」を考える態度のようなものが育てるんじゃないでしょうか。学生時代に「わからないこと」をたくさん見つけてほしい一心の日々ですが、ボタン世代は「わからないこと」に拘泥するのはお嫌いなようです。トホホ・・・ですね(笑)。ボタン押してね!ボタン押してね!
2019.04.16
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「2004年《書物》の旅 (その9)」中西進「ひらがなでよめばわかる日本語」(新潮文庫)・松岡正剛「白川静」(平凡社新書) 中西進という人は、今となっては昔のことですが、朝日新聞の夕刊紙上で「万葉こども塾」という子ども向けのコラムを連載していた「万葉集」研究の大先生ですね。 一方、人や本の紹介者として驚異の博覧強記男、編集工学の松岡正剛が論じている白川静は漢字研究の大家。一般の人に「常用字解」(平凡社)という「字書」が評判になったのが2004年。 この案内を初めて、高校生に向けて書き始めて、最初に案内した本が「常用字解」でした。もう十数年も昔のことですが、当時、入学したばかりの一年生に《高校の入学祝で、もしも買う人がいて、ずっと大切に使って、読んでくれたらいいなと思う。》と紹介しましたが、その、白川静は既にこの世の人ではありません。 高校や中学校で国語の先生をしようと考えている人には、一度は手にとってもらいたい「字書」です。先ほどから「字書」と書いていることに「あれっ?」と思って出会ってほしい辞書です。 使ってみるとすぐに気づきますが、この字書は不思議なことに難しい漢字はひとつも載っていません。誰でも知っている常用漢字が載っているだけなのです。それはなぜなのか、それが松岡正剛「白川静」のメインテーマだといっていいでしょう。 松岡の「白川静」によれば、漢字本来の姿に如何に迫るか、失われた文字や言葉の起源を如何にたどるか。そう考えた白川静が中国の古代社会を読み取るために重要視したのが「万葉集」だそうです。 「万葉集」には中国でいえば漢字が生まれてきた時代の社会の姿が、中国から見れば辺境の地、列島の社会の姿として残されているはずだと白川さんは考えたというのが松岡正剛の説明です。柳田國男の方言周圏論なんかの考え方と共通しているかもしれません。 漢字を知るために中国のもっとも古い詩集、「詩経」を読み、「詩経」を読むために「万葉集」を読む。そこには中国の古代を、日本の古代を読み解くことによって知ろうとするという、意表をつく学問観があり、その結果、万葉仮名解読が漢字解読をたすけ、漢字理解が万葉理解を深めたというのです。 ここに白川静と中西進をつなぐ鍵になる「万葉集」が浮かび上がってきます。 中西進のこの本は、私たちが当たり前の言葉として使っている、「め」とか「みみ」といった身体にまつわる言葉から、「いわう」「まつる」「あそび」といった言葉を神とともあった古代の人々の暮らしにさかのぼり語っています。 日常の言葉の中に古代の世界が宿っていることを教えてくれる本です。 たとえば「あそび」という言葉について中西はこんなふうにいいます。 平安時代に遊ぶといえば音楽の演奏を意味したことは知っていますね。では、なぜ遊ぶことが音楽を奏することとつながるのでしょう。 楽器とは神降ろしの道具でした、音楽を奏でることは神との出会いの場を作ることだったのです。美しい音楽に心を奪われるトランス状態にあって、はじめて神が降臨し、人に宿ると古代の人は考えたのです。だから「あそ」とは、ウソ、ホントの「うそ」=空虚と同義語であり、狐憑きのようにぼんやりと我を失う状態であり、音楽の中に身も心もとらわれている空っぽの状態こそ「遊び」なのです。 この論理展開は白川静の漢字解読とみごとにシンクロしています。言葉や文字には、それを生みだしてきた人間の暮らしが宿っており、そのかけらのような言葉や文字の中に残されている古代の人間を想像する強靭な空想力が二人に共通しているのです。白川静、中西進。いつか、この二人の世界にあそんでみてください。(S) 2018/11/26追記 2019-04-14 先日新しい元号が発表され、ここで取り上げた中西進が深くかかわっていたニュアンスが広報されています。ぼくは元号を必要だとする国家観に疑問を持っていますが、それとは別の意味で、これは、なにかおかしいと感じたことがあります。 というのは中西進がどこかのカルチャー講座で「令」という字は「美しい」という意味だと論じたとテレビニュースで報じられたからです。 白川静の「字統」によれば、「令」とは装束を整え神の声を聴く形です。ここから「美しい」に意味を変えるためには、どうしても神の声の崇高さを持ってくるしかないのではないでしょうか。漢文訓読では代表的な使役の助字への使用も、そのルートでしょう。 二文字の組み合わせで元号化すると、どうしても熟語として読みたくなりますが、本来、熟語的、つまり漢語的意味がない言葉を固有名詞化する無理と、万葉集中での一例に過ぎない意味を普遍化する無理。 「中西さん、少し無理筋を押していませんか。」それがぼくの感想でしたが、白川静が生きていたらなんというか、少し寂しい中西進の映像でした。 「2004《書物》の旅」その1は金城一紀「GO」。こちらからどうぞ。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑) ボタン押してね!ボタン押してね!
2019.04.14
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金田一春彦「日本語(上・下)」岩波新書・沖森卓也「日本語全史」(ちくま新書) 日本語をずーっと通して、わしづかみしたいという人に、一番スタンダードで、かつ、評価も高い日本語の概説が、金田一春彦の「日本語(上・下)」(岩波新書)でしょう。 多分、一番新しい、素人向け(かな?)の概説が、沖森卓也という人の「日本語全史」(ちくま新書)かな。 金田一春彦は、一時はやったマンガ、「金田一少年の事件簿」のモデルかもしれませんが(少なくとも名前は)、ホントはちがうけど、実はそうかもしれません(笑)。 というのは、彼のお父さんが金田一京助という「アイヌ語」学の創始者で権威、かつ、「明解さん」で有名な三省堂という出版社の国語辞典のドンのような国語学者なのです。 文学史上も有名な人物で、明治の歌人である石川啄木の、盛岡中学以来の友人です。一応、上級生なのですが、親友といっていいと思う人物です。 というのは、金田一京助という人は自らの学生時代から結婚当初まで、盛岡中学を中退し、北海道から東京へと流浪つづける極貧の友人、石川啄木とその一家を支え続けた人なのです。 たとえば、春彦が生まれたばかりの金田一家のタンスの引き出しから京助の妻の晴れ着を持ち出し、質屋で流して金にするというような、まあ、無法なことが許されていたのが石川啄木だったということがどこかに書かれていましたが、それを昔語りに母から繰り返し聞いた少年春彦は、啄木を石川五右衛門の末裔だと思っていたという話が落ちなので、どこまで本当かはわかりませんが、まあ、そういう関係だったことは事実でしょうね。 これは戦後のことですが、探偵小説を書いていた横溝正史が「本陣殺人事件」(だったと思う)で、初めて「金田一耕助」という名の探偵を登場させ、その後、「八つ墓村」、「犬神家の一族」、と活躍させたのですが、これらの作品群は、1970年代の角川文庫の「観てから読むか、読んでから観るか」という、映画とセットにしたキャンペーン企画のドル箱小説でした。ウソか、本当か、1000万部売れたそうです。 まあ、当時、ぼくも、彼のたいていの作品は、文庫で買って読んで、そのうえ、映画も見たのですが、一作の例外もなく、映画より、小説のほうが、怖くて面白かった。 「映画にもなってるやん。」 「うん。エライ流行ってんで。」 と、まあ、そういうことですが、その金田一探偵の名前が、金田一京助の名のもじりだというのは、かなり有名な話です。その後ブームになったマンガの金田一少年は、たしか、小説の金田一耕助の孫だったと思います。それぞれ、本家に許しを得たのかどうか、それは知らないのですが、国語学者一家の金田一家と探偵の血筋の金田一家は縁がないわけではないということです。ホント、どうでもいい話でした。さて、本論に戻りましょう。「日本語(上・下)」ですが、言語学の視点から、世界の中の日本語 の特質から語り始め、発音、語彙、文法、表現法まで語りつくしてある本です。 今では、1000点を超えた、岩波書店の「新赤版」新書が1988年に始まるのですが、ちなみに、そのno1は大江健三郎「新しい文学のために」。no2,no3がこの「日本語〈上・下〉」、記念出版に近い評価だったんでしょうね。「岩波文化」という言葉がありますが、マア、代表的スターだったんでしょうね。 以来、2017年に53刷ですから、「スタンダード」 と、ぼくがいう意味は分かってもらえるのではないでしょうか。ただ、惜しむらくは、少々冗長で、今となっては少し古いと思います。 そこで最新の、と考える人には沖森卓也「日本語全史」(ちくま新書)があります。 こっちは、「全史」と銘打っている通り、日本の古代前期、無文字社会の日本語は相手にしようがないからでしょうが、奈良から平安にかけての日本語から始めて、「文字表記」「音韻」「語彙」「文法」の部立てに従って第六章「近代」まで、画期的変化に伴い、各時代ごとに丁寧に記述されていて、まさに全史 です。 特に、高校の国語程度の古典文法なんかに疑問と興味を持っている人にはお勧めかもしれません。 中でも、まあ、教員はしていた、あるいは、しているけれどという、ぼくのように、国語学が苦手、文法が嫌いという、大雑把で生半可な知識の持ち主には、割合ピタリとはまるかもしれません。いわゆる役に立つタイプの参考書と言っていい本だと思います。 整理が簡潔で、時代的変遷が明快。古典語の係り結びの変遷や、音韻の変化に伴っての詳細な文法の変化もきちんと追いかけられています。 ただ、これも、新書というより辞書に近い分厚さ、430ページを超えますから、読み通すには、結構、根性とヒマがいるかもしれませんね。こんな本を読む、ヒマだからというおじさんとか、子どもの勉強がが気にかかるママとかというのは、ちょっと想像しにくい厚みですね(笑)。 というわけで、まず総論的おススメを案内しましたが、次は、ちょっと面白みもという「案内」をもくろんでおります。まあ、図書館か書店で手に取ってみてください。両方とも、ちょっと大きめの書店にならあるでしょう。(S)追記2022・10・20 あらゆることが「わかりやすい」マニュアル化している現代ですが、20歳前後の、例えば、「国語の教員」を目指している女子大生とお出会いして話をしていると、一応、「知っている」のに、説明できないという「国語」についてのあれこれがたくさんあることに驚きます。 ウキペディアで調べれば「知っている」ことになるようですが、それって「知っている」っていうことなのでしょうか。 新書本を1冊読むのもネットで検索するのも、まあ、「知っている」という状態を作るうえでは大きな差はないのかもしれませんが、ページを繰って「読む」というとき、目の前の分厚さの苦痛は、「わからない」ということを実感させてくれます。読み終えると、読み終えた達成感で、ちょっといい気になります。 でも、「なんか、よくわからん」 頭の中で、もう一人の自分がそういうのです。勉強は、そこから始まるんじゃないでしょうか。「わからない」を体験したことのない人が教室で「わかりやすいマニュアル」を配っているのは、やっぱり変ですね。「読む」ことの苦痛なしに「わかりやすい」にたどり着くのって、やっぱり、ウソだと思うのですが(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑) ボタン押してね!ボタン押してね!
2019.04.11
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小山鉄郎 「これが日本語」 (論創社) 高校一年生の国語の授業のなかで、古典の文章中に「御髪」と出てきて、どう読むのかという、読み仮名の問題がありますね。テストに出して「みぐし」とか「おぐし」とかを正解にするわけですが、出題する当人が、本当はよくわかっていないということがあるものです。 今やだれも使わなくなった大野晋の「岩波古語辞典」(1974年版)には「みぐし」も「おぐし」も出ていますが、手元にある、2008年重版の「全訳古語辞典」(旺文社)には「おぐし」の項目はありません。最近、生徒さんたちがよく使っているデジタル版はこっちですね。 解説は「髪の尊敬語」という内容で、両者に違いはありませんが、岩波版は《「御櫛」の意》という転用の語源を指示しているところはさすがです。最近の辞書には、もちろん、そんな記載はありません。 教員は、出題するときに、まあ、一応辞書を引いて確認します。 「御髪のいと長うこちたきを引きゆひて」とかいう例文では、髪の毛のことで、「東大寺の大仏の御髪落ち」とかだと、頭そのものだけど、読みは「みぐし」だ、というふうに。 じゃあ、ワープロだって「おぐし」でしか出てこない、そっちはどうなんだと気づく先生はまじめな方で、ふつうの方は教科書傍用の指導書とかでお茶を濁して終わりです。 さて、採点してテストを返していると、こんな声が聞こえてきます。「なんで、『みぐし』でも『おぐし』でもいいのに『おかみ』はだめなの?」「ワープロは『おぐし』なのに、辞書は『みぐし』って、どうして?ほんとは、どっちが正解なの?」 結構、突っ込み感にあふれています。もちろん、教員はここでたじろぐわけにいきません。 「そう読んだから!そうは読まないの!」 高校生という人たちは断定しても、たいてい、いや、かえってかな?納得してくれないようですね。「江戸時代くらいから、ことばが大衆化して、『おぐし』が、まあ、口語化して今に至っているから、国語辞典に出てくるの。つまり、『おぐし』は平安時代ごろの古語じゃないということ。」 ほとんど言い逃れのように解説することになりますね。ここで済めば、一安心。「エー、授業を始めますが、予習は大丈夫ですか?」 一気に攻勢に回って、逃げを打とうとすると、敵もさるものです。「そもそも、なんで『御髪』と書いて『みぐし』とか読むわけ?『おかみ』やったら、なんであかんねん?」 こんなふうに、ツッコミが鋭くなってしまったりします。こうなると、本日の予定は丸つぶれということになるのですが、ほっておくわけにもいきません。 これが定期テスト直前で、教員も出題範囲到達にあせっている場合はこうなります。「ちょっと急いでいるので、自分で調べてみなさい。」 伝家の宝刀「自分で調べろ」ですね。ただ、そういう場合には親切ごかして、こんな一言を付け加えます。「あのね、小山鉄郎という人の『これが日本語』っていう本があるんだけどね、論創社っていう本屋さんね、図書館にあるかもね、あれ、一度読んでごらん。」 というわけで、ようやく、今回の案内本の登場というわけです。 長い前フリに付き合っていただいた皆様には、ここでは教員の現場での解答例(その一)を紹介しますね。これが、まあ、オーソドックスだと思います。解答例(その一)「あのね、『み』っていうのは漢字『御』を見てもわかると思うけど敬語ね。ただし、漢文で出てくるこの字は『御者』、馬車の運転手とか、馬に乗っている人のこと。 『くし』は髪の毛を梳かす櫛。使うでしょ。あれ、君らも。直接『髪』といえばいいのに、使用する道具とか、表現したい本体に近接するもので本体を表現するのは比喩の一種。 換喩っていうの、知ってるかな。カタカナだとメトニミーっていうの。赤頭巾ちゃんと白雪姫って、両方、比喩の一種だけど、違うでしょ。わかるかな?赤頭巾ちゃんは『~のような』で説明できないでしょ。こういうのを換喩っていうの。 だからあ、おそらく、もともと『櫛』の字で書いていたけど、実態が髪の毛だから『髪』の字で書くようになったんじゃないでしょうかね。以上ですが、わかった?」 もう少し突っ込んだ話になると、少々面倒ですが、ちょっと歴史が絡みます。解答例(その二)のパターンだとこうです。解答例(その二)『みぐし』って言うけど、『みち・道』とか『みや・宮』とか、漢字一字で書かれるから別物みたいだけど、おんなじ『み』の使いかただと言ったら驚くかな? 『みち』とか『みや』というのは、和語としての原型は『み』プラス『ち』とか、プラス『や』の形で出来ていて『みぐし』の『み』とおなじもの。ほかに『都』とか『岬』、『峰』とかあるわけ。 その『み』というのは霊的な言葉につく接頭語らしくて、たとえば『みち』の『ち』に霊威がこもってるという話から始まるの。 『チ』というのは、漢字でいえば、『巷・コウ』とか『衢・ク』の意味で、四つ辻、交差する、人が行きかうところね。そういう所には『霊力』があると考えて、『み・ち』になったらしいの。 『宮』は高貴な人が住んでいる、神さんとかがね、その『屋根』の下、つまり、建物ね。だから神社は『お宮さん』ね。ついでに言えば、そういう屋敷、宮殿ね、がある土地が『みやこ』。わかりましたか?まあ、テストに出るわけじゃないけど。 ちなみに、解答例(その三)になると、喋ってるノリの結果であって、脈絡も際限もなくなりますが、モノのついでなので書いてしまいましょう。解答例(その三) さっきの字ですけどね、『八衢』と書くと「やちまた」と読むんですがね、『街』という字と同じ。たぶん『八街』という町が、どこかにありますね。 でも、ここでは少し違う話でね。江戸の国学者で、本居宣長って知ってますよね。古典で出てくるでしょ。『玉のおぐし』とか。 彼には男の子がいたんです『春庭』っていう。天才的な人だったんだけど、三十を過ぎたころに、ひどい眼病を患って失明するんです。それでも『詞八衢』(ことばのやちまた)という古語の動詞についての書物を残したわけ。みんな下二段とか言ってるあれね、あれをまとめた人。 それでね、足立巻一という、皆さんはご存じないかもしれないけどね、そこの神戸女子大で先生してたりした人なんですが、『やちまた』っていう春庭の伝記を書いたわけ。 この小説も作家もすごいんです。ぼくがそう思うだけかもしれませんが。朝日文庫に上・下巻であります。でも、まあ、高校生には無理だから、将来、文学部とか行って、国語学とか興味を持ったら探してください。まあ、そんなことも思い出すわけですね。「やちまた」とか、ぺらぺらしゃべっていますけど、わかりましたか? ああ、これは、テストとは、全く関係ありません。じゃあ、今日はこれで終わります。えっ、行かなかったテスト範囲はって?もちろん自分でやりなさい。 もちろん、小山さんの本は、(その二)までの参考書。実は、小学生くらいの子供向けの装丁の、ことばの本なのですが、子供に読ませるには、ちょっと難しいかもしれない。高校生で、やっとかな、ぼくはそう思います。 大人が、トイレで読むのに最適。ちょっと分厚いので、バスに乗るときとかに持っているのは邪魔かもしれないですね。(S)追記2022・05・04 今年であった学生さんに「こんな本あるよ」という紹介をしたくて、古い記事を修繕しました。白川静さんの入門書のつもりでもあるのですが、気づいてくれる人は、はたして、いるのでしょうか。 数年前に紹介したときは「職場の図書館で購入してもらいました!」とかの反応が、国語以外の教員の方からもあったりして、うれしかったのですが、まあ、読んでも読まなくてもいい本ですから、むずかしいですね(笑)。追記2022・10・14 模擬授業とか、面接とか、あれこれおしゃべりしながらお手伝いしていた、教員採用試験にチャレンジしていた学生さんの朗報が届いて、もう一度、高校生や、大学生に本を薦める「読書案内」の原点に帰ろうかなと思いました。学校の教員の目線で本を読むという気持ちから遠ざかって数年経ちましたが、ここのところ、案内したいという意欲も失いつつある自分に焦っていました。もう一度、気を取り直して「さあ、もういっぺん!」始めようと思います。皆様よろしくお願いいたします。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑) ボタン押してね!ボタン押してね!
2019.04.04
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