Sleeping Sheep

Sleeping Sheep

2005.07.10
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声を大にして言いたい。








必要だーッッ!!!(>口<;)うぉー!









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最近、自分の中で出てきた答えである。


この世に、必要でないものは、現れ出でてこないのだ。
そうさ、きっとそうに違いない。

必要性があるために、現れる。
必要性がなくならなければ、存在は続き、
必要性が失われた時には、無くなる。

そうして歴史は作られてきた。そうさ、そうだろう?


それは過去の歴史の中に置き留められてきた。
物に限らず 者に限らず。

物 物 モノ もの。


いろいろある。

家族体系もその一つ。(だと私は考える)



最近、といっても、いつからの最近なのかはわからないが
拡大家族が減ってきた、という。

まあ、中学時代にならったときには、「サザエさん家(ち)」という例で習った。

核家族は「いくらちゃん家(ち)」と習った。



我が家は、サザエさんちタイプである。






最近 切に思う。





最近の我が家の現状には、苦悩する日々である。

「年寄りを敬え」

核家族の世界に有効な言葉だ。


我が家では

とくに私には










耄碌した年寄りが、 居る。





あんな未来を見せ付けられては、「歳を取る」ということに希望が持てない。
むしろ絶望・・ というか、厭きれ、である。




なにが老後だ 未来だ 将来だ。

やってられるか。




ああ、だから 皆 若者は都会へ行くのだ。


スピードを 行動力を 求められる世代。
我先へと、早急なる変化を進化を変革を、求められる時代。

でなければ、堕ちるだけの 生活。





目の前には、耄碌した、年寄り。





何を求められようと、何を期待されようと、
そして
それに対してどう返そうと、

未来が
いずれ己に降りかかるであろう未来が、
目の前に
いる。

ある。





あぁぁぁぁああああああああッッ!!!

やっていられない。





これでは、
早くして死に至っても構わない
という思考を持っても、仕方がない


と思うんだ。
思っちゃいけないか?
ダメなのか?

何があっても 生 というものは、尊重されなければならないのか?












核家族ならば、
我が家が核家族で、年寄りとは遠くかけ離れた生活をしていたなら

・・・ こんな、世間的にはマイナスの思考に陥らなくても

良かったのかもしれないのに。







でも、


それも 仕方がない。


これも
現実だ。













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Last updated  2005.07.10 21:42:32
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