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私が書いたコラムを紹介します。栃木県建築士事務所協会の会報1月号に載せたものです。・・・・・・・・・・ここから・・・・・・・・・・ 近くて遠い親日国「台湾」 広報渉外委員長 中村 清隆知らなかった台湾事情 東日本大震災の時、真っ先に義援金200億円を供出してくれた親日国台湾。 20年ほど前、日光市(旧今市市)の小さな村で、診療所の医者が不在となり全国公募したことがあった。驚いたことに、手をあげた医者は東大医学部出身で東大病院に勤務する青年医師R氏だった。転勤希望の理由は、我が子の教育には東京より自然豊かな田舎が良い、とのことと記憶している。台湾生まれの優秀な台湾人である。 そのころ下野新聞社主催で、すぎなみ政経懇話会があり毎月講師を迎えて講演会が催されていた。(現在は「しもつけ21フォーラム」に集約されている)当時話題になっていたこともあって、R医師が講演者となり、私が台湾に興味を持つきっかけとなったのだ。 講演の内容は、概ね次の通り1.終戦までの50年間、台湾は日本が統治して いた。その期間に日本人の努力により台湾のイ ンフラ、教育が急速に進み、当時の日本と変わ らない生活ができるようになった。2.終戦の昭和20年に蒋介石の軍隊が進出して きて中華民国の統治に変わった。中華民国軍は 文化レベル生活レベルが低く、日本統治では絶 対になかった賄賂社会が始まった。また、38 年もの長きに渡って戒厳令が敷かれ、日本式に 育てられた知識人達が何万人となく粛正され死 んでいった。教育も反日教育で、R氏自身もそ の中で育った。日本語をしゃべっただけで警察 に引っ張られ、暴力を受けたり粛正された。3.しかし、反日教育を信じる台湾人はだれもい ない。台湾人は日本が台湾に残した有形無形の 業績を高く評価し、その日本人そのものが大好 きだ。先生のように慕っている。4.ところが、日本は中国と友好条約を結び、台 湾を一顧だにしない。我々は親から、祖父祖母 から日本の日本人の偉大さを聞いているので反 日教育を信じない。しかし、今後の若い世代が 代々反日教育を受け続けると、日本がきらいに なってくるのではないか心配だ。日本は、台湾 にもっともっと目を向けて欲しい。 私は台湾のことを何も知らない一人だった。そこで台湾のことを少しづつ調べてみた。地図を広げれば、海洋戦略上重要な国であることは誰でも分かる。日本と中国、台湾の3国で領有を主張している尖閣諸島は台湾のすぐ隣にある。また、私の研究分野の二宮尊徳ゆかりの人を見つけたので後述する。台湾の近代史1683年 清国領土となり福建省台湾府となる。1885 年 台湾省となる。 大陸の女性は国外に出ることが許されてなか ったので、大陸に愛想をつかした独身男性が鋤 鍬を持って渡ってきた。漢民族のおじいさんは いても漢民族のおばあさんはいないということ であり、世代を追うごとに漢民族の血は薄まっ ていった。一番近い遺伝子はマレーポリネシア 系。1895年 日清戦争 下関条約により台湾は日本 領となる。1945年 第二次大戦終戦 台湾は中華民国に接 収される。1949年 中華人民共和国建国。中華民国政府が 台北に遷都。戒厳令施行。1951年 サンフランシスコ平和条約締結。1952年 日華平和条約調印1952年 米ニクソン大統領訪中。日華平和条約 破棄、日中平和友好条約締結。1975年 蒋介石死去。1978年 蒋経国、総統就任。(蒋介石の息子)1987年 戒厳令解除。(38年ぶり)1988年 蒋経国死去。本省人初の李登輝総統就任。1996年 李登輝、直接選挙実施、総統に再任。 (台湾民主化の確立)中台危機勃発。2000年 民進党の陳水扁、総統に就任。2012年 国民党の馬英九、総統就任。(8年ぶり 国民党総統奪還。)2016年 民進党の蔡英文、総統就任。(初の女性 総統誕生。)2020年 民進党の蔡英文、総統に再任 日本統治50年間の台湾 台湾人は、清国領土になっていたことがあるが、血も気質も中国人や朝鮮人とは大きく異なるアイデンティティを持つ。戦後なだれ込んできた中国人を外省人、その他を本省人と呼ぶ。38年に及ぶ戒厳令の間、総人口の16%でしかない外省人に政治経済の主要ポストを押さえられていた。 日本領であった50年間に何があったか。日本の地としてインフラ整備に力を入れ、同じ日本人として教育にも力を入れ、就学率は92%に達した。400年オランダの植民地だったインドネシアがわずか3%だったことと比較すると、雲泥の差がある。 いかに日本が台湾の国作りに心血注いだかは、50年の間赴任した19人の台湾総督の顔ぶれで見て取れる。桂太郎、野木希典、児玉源太郎、明石元二郎・・・司馬遼太郎の「坂の上の雲」の登場人物が次々と日露戦争前後に総督に就任している。 1898年、台湾開拓・整備予算として4千万円を獲得している。日本の国家予算が2億2千万円の時代にである。この資金を元に、第四代総督児玉源太郎ー後藤新平総督府民政長官のラインで台湾の近代化整備が急ピッチで進められた。幅の広い道路、南北縦貫鉄道、この産業基盤の上に製糖業をはじめとする産業が育っていった。日本が作った建造物は100年経ってもそのまま残っており、今も使われている。新渡戸稲造殖産局局長(5千円札の肖像になった人、「武士道」の作者)は、台湾に製糖業を殖産にすべく力を注いだ。精糖産業は1960年代まで台湾経済を支え続けた。台湾精糖(株)の初代社長が、日本の精糖の第一人者鈴木藤三郎である。 日本人が台湾に持ち込んだ無形文化財が,台湾で「日本精神」と呼ばれるサムライ精神である。「日本精神」は4つの精神を言う。規律・清潔・正義感・冒険心である。規律は、時間・法・礼節を守ること。清潔は、外面だけでなく内面も美しい生き方をすること。正義感と冒険心は、弱きを助け強きをくじく精神。こうした「日本精神」をかつての日本人は備えていて、それに台湾人は憧れたという。 もともと「日本精神」が伝わる気質が台湾人にはあったのだろう。同じ島国という環境が似ているからか。 戦時中、中国で日本軍と戦っていたのは蒋介石の国民党軍である。戦力が消耗したところを、毛沢東の共産党軍に押され、蒋介石軍は台湾に渡って「中華民国」としたのだ。蒋介石は、台湾で戦力を整えて再び中国に舞い戻って共産党軍と戦おうとしたが、残念ながらその夢は果たせなかった。 終戦になって台湾の日本人は、50年間費やした公共インフラ資産と私有財産を台湾に残し、手荷物だけ持って故郷日本に帰ってきたのだ。 本省人の李登輝総統の時代になって、やっと台湾の民主化が進んだ。軍部独裁の解体、戦後より改選のない万年議員の解散、立法院(国会)の全面改選、総統直接選挙の実施等である。製糖王 鈴木藤三郎 明治の時代、砂糖は高級品で日本は海外の粗悪品まで全て輸入に頼っていた。藤三郎は遠州森町(現静岡県森町)で菓子屋を営む鈴木家に4才の時養子入りした。21才の頃、報徳の教えを知り、その信奉者となった。家業で報徳の「荒地の力を以て荒地を開く」を実践して、計画経営で5年後に売上げを10倍にのばす。発明家で、160もの特許を取っている。1890年(明治23)日本で初めて純白の精製糖の製造に成功する。 1900年(明治33)国策会社である台湾精糖株式会社が設立し、精糖業に精通した藤三郎に白羽の矢が立ち社長に就任。台湾の精糖業殖産はサトウキビの育つ気候と広大な土地とを有する台湾の主力産業になり得る事業と大いに期待されていた。推進役を果たしたのは、井上馨蔵相ー児玉源太郎総督ー後藤新平行政長官ー新渡戸稲造殖産局長ー三井物産ー鈴木籐三郎社長のライン 台湾の砂糖生産高は、1900年3万t、1905年6万t、1940年160万t、台湾の主力産業となった。現在も遺構を見ることができる。鈴木社長は、農民に利益を与え、同時に会社も利益をあげてさとうきび農業を進歩させる「両得農業法」を考え出し、実践した。 実は、今市二宮神社に鈴木藤三郎から歴史に残る贈り物が残されている。1905年(明治38)二宮尊徳翁没後50周年祭の時、尊徳翁の遺著1万巻が戊申戦争の際相馬に避難して残されていることを知り、翌39年1月から41年11月までの3年間、筆生20人を雇い総数9,014巻の原本を報徳全書2500冊に筆写させ、石蔵・鳥居とともに1909年(明治42)報徳二宮神社に奉納した。これにより、二宮尊徳が各地で行った仕法や日記・書簡類が散逸せずに現代に残された。現在、今市報徳二宮神社宝物館2階に保存されている。さらに、昭和になって故佐々井信太郎先生により「二宮尊徳全集」(全36巻)として刊行された。日光市二宮尊徳記念館にその初版本が展示されている。 参考図書「台湾人と日本精神」 蔡焜燦(さいこんさん)「武士道解題」 李登輝「台湾を見ると世界が見える」藤井厳喜+林建良「報徳産業革命の人」報徳社徒鈴木籐三郎の一生 地福進一「台湾論」 小林よしのり「台湾紀行」 司馬遼太郎
2020.04.07
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新型コロナ対策として、安倍総理が本日午後、緊急事態宣言をするとのこと。私が読んでいるメルマガ「台湾の風」に日本統治時代の後藤新平について書かれた投稿があったので紹介したい。私も1月に、『親日国「台湾」の歴史』というコラムを所属する栃木県建築士事務所協会の会報に載せているので、ぐっと親近感が湧いた。・・・・・・・・・ここから・・・・・・・・【産経・正論】台湾のコロナ対策と後藤の遺訓 産経新聞2020年4月6日 井上和彦(ジャーナリスト) 「ありゃ、日本はどうしちゃったんだろう? すぐ脳裏に浮かんだのが後藤新平のことでした」 そう言って日本の感染拡大対策に首を捻(ひね)ったのは、台湾出身の知己の内科医だった。 中国湖北省武漢で発生した新型コロナウイルスが世界的感染拡大の傾向を見せはじめたころ、台湾はいち早く有効な手を打って拡大阻止に努めていた。1月には武漢との団体旅行往来を禁止し、2月6日には中国全土からの来訪を禁止した。予断は許さないが、台湾が上手に感染を制御していることに注目が集まっている。◆公衆衛生の観念普及 その背景には、中国を起源とする重症急性呼吸器症候群(SARS)が2003年に台湾で広がった時の苦い経験があった。 この時、SARSに対処したのは、現在の副総統・陳建仁氏で、当時行政院衛生署長だった。 陳副総統が、本紙のインタビューで当時WHO(世界保健機関)に台湾から病例を報告しても反応がなく、WHOから検体が得られていれば不幸な院内感染は起きなかったと語っている。そのため台湾は独自で未知の感染症と戦わざるを得なかったのだ。そんなSARSとの戦いの陣頭指揮を執った陳建仁氏が蔡英文総統を補佐する副総統なのだから、台湾の今次の新型コロナ禍への対応が迅速かつ的確であったことも頷(うなず)ける。 陳氏の存在は、まさに第4代台湾総督・児玉源太郎を補佐した民政長官・後藤新平を彷彿(ほうふつ)させる。 後藤新平─冒頭の内科医が語るこの偉人は、「台湾近代化の父」として台湾人の尊敬を集め、その功績は今も語り継がれている。 日清戦争後の下関講和条約(1895年)で日本に割譲された当時の台湾は、まだマラリアやチフス、コレラなど様々な疫病が蔓延(まんえん)する瘴癘(しょうれい)の地であった。この疫病を駆逐することが台湾統治の最重要課題の一つだった。 児玉総督の右腕として渡台した後藤新平は、大規模な土地調査を実施し、インフラ整備を行うと共に医療環境改善に注力した。医師でもある後藤は、病院や予防消毒事業団を設立し、公医制度を設け各地に診療所を配置したほか、上下水道を整備して衛生環境を改善した。とりわけ手洗いやうがいの励行、布団を干して叩(たた)くといった公衆衛生観念の普及は効果的だった。こうして次々と疫病が駆逐され、近代化の基礎が築かれていったのである。 現在、台東に帰省中のブヌン族青年に電話で新型コロナウイルスの影響を尋ねたとき後藤新平の話となった。台湾の山地では今でも多くの医療用語が日本語のまま使われていると聞かされた。当時の医療行政が台湾全土に行き渡っていた証左であり、まさしく後藤新平の“遺産”ではないだろうか。◆「人を残す人生」の偉業 このとき私の胸に去来したのは、後藤新平の遺訓「金を残す人生は下、事業を残す人生は中、人を残す人生は上」だった。 1999(平成11)年5月22日、台湾南部の台南市で後藤新平と、新渡戸稲造の業績をたたえる国際シンポジウムが開かれ、私もこれに参加した。ここでは2人が台湾の近代化に尽くした偉業をたたえる声が相次ぎ、感動に胸が震えたことを思い出す。 この時、李登輝総統(当時)の国策顧問を務めた許文龍氏は、会場の台湾人に、日本人の功績によって現在の台湾があることを忘れてはならないと訴えた。 許氏は社員教育で講演した内容の一部を整理した小冊子『台湾の歴史』の中で、こう述べている。≪台湾の基礎は殆(ほとん)ど日本統治時代に建設したもので、我々はその上に追加建設したと言ってもよい。当時の日本人に感謝し、彼らを公平に認識すべきである≫ 事実、台湾人の多くは異口同音に日本統治時代の教育・医療、そしてインフラ整備を称賛する。 今年1月の総統選挙で再選を果たし2期目に入る蔡英文総統を、陳建仁氏に代わって支える副総統は、医師の肩書を持つ頼清徳氏だ。蔡総統は、再び“後藤新平”を右腕に抜擢(ばってき)したわけである。◆台湾の経験に学ぶべき 新型コロナが世界各国に感染拡大するなか台湾が感染制御に一定の成果を上げている。 私には、どうも後藤新平の“教え”が台湾を守っているように思えてならない。日本統治時代の医療インフラを基礎に現在の台湾医療が築かれたからだ。 開南大学で教鞭(きょうべん)をとる台湾人の友人がいう。「台湾は、WHOに頼れないから、独自で感染拡大防止策を考えなければならなかったんです」 結果的にはむしろ、中国への配慮と受け取られかねない姿勢も指摘されるWHOに頼らない方がよかったのかもしれない。 一国への政治的配慮を世界の防疫問題に持ち込んではならない。防疫は世界全体の公衆衛生と人命に関わる問題だからである。 WHOはただちに、新型コロナの感染拡大抑止に成果を上げている台湾を加盟させ、台湾の経験に学ぶべきである。(いのうえ かずひこ)
2020.04.07
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海上自衛隊に引き継がれている、大日本帝国海軍の精神「五省」武士道精神を今に伝えている。一、至誠に悖るなかりしか(誠実さに背いていなかったか) 一、言行に恥ずるなかりしか(言行不一致な点はなかったか) 一、気力に缺くるなかりしか(精神力に欠いた点はなかったか) 一、努力に憾みなかりしか(努力するのに心残りはなかったか) 一、不精に亘るなかりしか(怠けてものぐさになっていなかったか)私が作ったブログです。ヒマな時のぞいて見てください。●屋上防水は何がいい?●困りごと相談窓口●建築設計事務所の所長になるには●日光近郊の日帰り温泉●古民家再生プロジェクト●起業して会社経営を楽しむ●そば通の記録●高気密高断熱住宅●快適二世帯住宅●フラット35は良い住宅ローンか?●我が家の耐震診断
2014.04.05
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ツイッターで、おもしろい記事を見つけましたのでシェアします。実は、私も知らなかったことです。・・・・・・・・ここから・・・・・・・・・・7月26日は、日光の日です。820(弘仁11)年のこの日、空海が日光山を命名しました。元々は「ふたらさん」と言い、「二荒山」の字が当てられていましたが、空海がこれを「にっこうさん」と音読みにし「日光山」の字を当てたとされています。・・・・・・・・・・ここまで・・・・・・・・・・ジェジェジェ今日は、きのうまでと打って変わって真夏の天気。本日は休息日にしたいと思います。私が作ったブログです。ヒマな時のぞいて見てください。●屋上防水は何がいい?●困りごと相談窓口●建築設計事務所の所長になるには●日光近郊の日帰り温泉●古民家再生プロジェクト●起業して会社経営を楽しむ●そば通の記録●高気密高断熱住宅●快適二世帯住宅●フラット35は良い住宅ローンか?●我が家の耐震診断
2013.07.27
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東京商工リサーチの調査で、創業100年超の老舗企業が全国で2万1066社存在すると発表。栃木県では、那須塩原市の板室観光ホテル大黒屋が1551年創業で最古。日光市の、高橋弥次右衛門商店(醤油)が1617年創業、大田原市の、スルガヤ呉服店(織物・衣服販売)が1624年創業。県内企業に占める創業100年を超す企業の割合は1.53%、452社。国内最古は、578年創業で、寺社建築の金剛組(大阪市)で、1431年の歴史を持つ。2番目に古いのは、いけばなで知られる池坊華道会の587年創業。次に、705年創業の西山温泉慶雲間(山梨県)。717年創業の城崎温泉の旅館 古まん(兵庫県)。創業1000年の歴史を持つ企業は8社。創業100年超の企業は、地域別では近畿の4618社が最多、業種別では、卸売業・小売業が9960社で最も多い。創業100年超の企業は、調査対象の約1%。100年以上事業を継承することは、むずかしいということが分かる。私が作ったブログです。ヒマな時のぞいて見てください。●困りごと相談窓口●建築設計事務所の所長になるには●日光近郊の日帰り温泉●古民家再生プロジェクト●起業して会社経営を楽しむ●うつ病を乗り越えろ●老後の年金獲得大作戦●そば通の記録●高気密高断熱住宅●快適二世帯住宅●ラーメン道楽●フラット35は良い住宅ローンか?●アパート経営●我が家の耐震診断
2009.08.20
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きのうは、自治会の滝尾神社例大祭があって、自治会書記の私は例年と同じく1日中心メンバーとして関わった。なおらいにはめずらしく神主さんが出席。なにやらB4 4枚綴りの伊勢神宮のチラシを配る。伊勢神宮の式年遷宮の話。つまるところ、伊勢神宮の20年ごとの遷宮のために、募金を集めたいとのこと。毎年暮れに購入している神様の「大神宮様」1000円のところ、今年は1500円にするとのこと。伊勢神宮が20年ごとに造り替える伝統は知っていたが、具体的に話を聞いたのは初めてだった。ここから式年遷宮について・・・・・・・・伊勢神宮の式年遷宮制度は、約1300年前に天武天皇の発意により始まり、次の持統天皇の690年に第1回が行われた。長い歴史の間には、戦国時代に一時の中断や延期があったものの、これまで61回の遷宮が行われた。平成25年に第62回目の遷宮が行われる。式年遷宮が完了するまでには、8年にわたっておよそ30のおまつりと行事が斎行される。なので、平成17年から式年遷宮のお祭りは始まっている。平成20年は何のお祭りをやったかというと、「鎮地祭」。我々建築用語では「地鎮祭」だ。驚くのは膨大な事業費。総事業費で550億円。 ・・・・どひえ~~~~~~内、募金総額が220億円。(中央財界75億円、地区募金145億円)この地区募金なるものが日本中に地区割される。栃木県が2億6千百万円。内、私が住む上都賀郡が3千百万円。ものすごい金額だ。これを20年にいっぺん日本国中から集めているのだ。1300年もの間、このような集金が日本中で行われていたわけではない。昭和28年も第59回遷宮より民間団体(伊勢神宮式年遷宮奉賛会)で募金協力により行われるようになったが、その前までは国家行事として、国費で賄われてきたのだ。私の住む日光市は、江戸時代は日光市の御神領だった。昔の御神領の地域は、今でも奉納金を毎年納めているのだ。江戸時代は、お金又は農業生産品又は使役で払っていた。組費から一定の金額をまとめて自治会から奉納している。歴史とはすごいもんだ。私が作ったブログです。ヒマな時のぞいて見てください。●健康住宅は健康家族から●古民家再生プロジェクト●起業して会社経営を楽しむ●日光近郊の日帰り温泉●うつ病を乗り越えろ●老後の年金獲得大作戦●そば通の記録●高気密高断熱住宅●快適二世帯住宅●不動産業界●専門職の求人●フラット35は良い住宅ローンか?●アパート経営●我が家の耐震診断
2008.11.24
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きのう今日と気温が低くて寒い。2ヶ月前の気温だそうだ。洞爺湖サミットで、日本のCO2削減目標を発表するそうだが、過剰な数値目標を掲げようとしている。京都議定書の2008~2012で6%削減もままならないのに、2050年後の削減数値目標を60%以上も掲げて大丈夫なのか。京都議定書の時も日本が国際公約には無理があったというではないか。オイルショック以来、日本は省エネの研究をすすめてきた。世界に冠たる省エネ技術を持つ国である。さらに省エネ目標を掲げても限度がある。今読んでいる「逆説の日本史4巻」によると、日本独特の文化で、「言霊信仰」があるという。「言葉」に出しら、それが精神上も現実的にもその方向に向かっていくという「信仰」だそうだ。だから、マイナスイメージの言葉を発しにくい。しかし、戦略的撤退も必要だし、たたいても橋を渡らない慎重さも時には必要だ。なぜ、財界人も反対している出来ない可能性が高そうな国際公約をするのだろうか。日本が会場だからプライドから?40年も先まで生きていないから、後の人がんばれということか?私が作ったブログです。ヒマな時のぞいて見てください。●健康住宅は健康家族から●古民家再生プロジェクト●起業して会社経営を楽しむ●日光近郊の日帰り温泉●うつ病を乗り越えろ●老後の年金獲得大作戦●そば通の記録●高気密高断熱住宅●快適二世帯住宅●不動産業界●専門職の求人●フラット35は良い住宅ローンか?●アパート経営●我が家の耐震診断
2008.05.14
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逆説の日本史3 古代言霊編/平安建都と万葉集の謎夜、寝床で読書して寝るのが習慣になっている。朝早く目が覚めたらまた読書。本の種類は3冊ほど置いてあり、気が向いたものを読む。同時進行で3冊を読んでいることになる。井沢元彦著、「逆説の日本史」シリーズはおもしろい。3巻は「平安建都と万葉集の謎」に迫る。井沢氏が着目したのは、日本人の持つ言霊信仰を基軸にした日本史の解釈だ。これは今までの歴史書にはなかった読み方で、新鮮な説得力がある。井沢氏の歴史書は大変おもしろく、歴史に深く興味をそそられる。今日は5月連休の最終日だ。きのうは上三川町の友人の家にワイフと共に遊びに行き、去年生まれた生後9ヶ月の赤ちゃんを抱かせてもらった。私が作ったブログです。ヒマな時のぞいて見てください。●健康住宅は健康家族から●古民家再生プロジェクト●起業して会社経営を楽しむ●日光近郊の日帰り温泉●うつ病を乗り越えろ●老後の年金獲得大作戦●そば通の記録●高気密高断熱住宅●快適二世帯住宅●不動産業界●専門職の求人●フラット35は良い住宅ローンか?●アパート経営●我が家の耐震診断
2008.05.06
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明日からゴールデンウィークに突入する。といっても、我が家ではたいした行事はないが、それでも気分的にうきうきする。気候も良くなった。先月、私の好きな NHK{その時歴史が動いた」で、古事記についてのなぞに迫った。古事記は、上中下の3巻セットになっている。上:天地のなりたち中:ヤマトタケル、神武天皇、応神天皇等下:推古天皇名古屋博物館に、原本が保管されている。原本といっても、太古の写本だろう。誰が、何のために?が疑問である。指示者は、天武天皇である。目的は・・・文字歴史書を編纂し、各豪族に配ることによって、民族意識を盛り上げ、あるべき秩序をつくる。豪族達の意識を、束ねることが目的ではないのか。天武天皇は、672年に、大友皇子と壬申の乱を戦う。飛鳥に都を造る。681年 律令の制定。元明天皇によって、編纂を推し進められる。編纂担当者は、おおのやすまろと、稗田の阿礼712年 元明天皇に献上された。書き写されたのは、14世紀 南北朝時代明治時代になって、一般に読まれるようになった。古事記をキモを要約すると、秩序を保つのに、廻りの神との調和が絶対必要だったこと。強制するのではなく、迎え入れることによって秩序が成り立っていく。天孫降臨したニニギノミコトを水先案内した猿田彦は、伊勢の地を献上したという。三重県伊勢市に猿田彦神社がある。日本は、やはりその生い立ちから「和をもって尊しとする」精神が根付いていたのだと思う。その精神は、つい数十年前まで日本では尊重されていたのだ。今は・・・・欧米化の中で忘れ去られようとしているのかもしれない。私が作ったブログです。ヒマな時のぞいて見てください。●健康住宅は健康家族から●古民家再生プロジェクト●起業して会社経営を楽しむ●日光近郊の日帰り温泉●うつ病を乗り越えろ●老後の年金獲得大作戦●そば通の記録●高気密高断熱住宅●快適二世帯住宅●不動産業界●専門職の求人●フラット35は良い住宅ローンか?●アパート経営●我が家の耐震診断
2008.05.02
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井沢元彦氏の「逆説の日本史」を読んでいる。尺貫法と太陰暦についての記述・人間が1日に食べる米の量・・・3合・一年では・・・3合×360日(太陰暦の一年)=1080合・1000石=1石・水田1反で取れる米の量=1石・1反=300坪 太閤検地の前は、1反=360坪だった。つまり、人間1人の1日分 の米の取れる広さが1坪ということ。・1石の米の値段=1両(ただし、インフレにより戦国時代以降目安にならない)・戦闘員の目安=1万石(1万人)につき250人 2万5千人を動員できるのは、100万石の大名ということ。・太陰暦では、月の初め 1日は月はでない。・月の3日・・・三日月・月の15日・・・満月(十五夜)・織田信長の殺された本能寺の変は、天正10年6月1日・・・闇夜・以上の理由で、1年の1/12を月という。日本古来の単位は「人間中心」にできている。メートル法では、1メートル=子午線の4千万分の11グラム=1立方センチメートルメートル法は、人間以外の客観的な基準。建築では、特に住宅の現場ではいまだに尺寸で職人と話をする。図面表示はもちろんメートル法。人間中心の尺貫法が容易になくならないわけだ。 私が作ったブログです。ヒマな時のぞいて見てください。●健康住宅は健康家族から●古民家再生プロジェクト●起業して会社経営を楽しむ●日光近郊の日帰り温泉●うつ病を乗り越えろ●老後の年金獲得大作戦●そば通の記録●高気密高断熱住宅●快適二世帯住宅●不動産業界●専門職の求人●フラット35は良い住宅ローンか?●アパート経営●我が家の耐震診断
2008.03.08
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山口県で行われた、中小企業家同友会の青全交の報告集を読んで、あらためて吉田松陰のすごさを知った。■吉田松陰のすごさ・松下村塾で教えた期間が2年ほどの短期間であること。(安政 の大獄で、30才で処刑)・教えた子供達は、近所の下級武士の倅達。後に長州、日本のリーダー になっていく。久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など。■吉田松陰の教育方針・人が持つ1つ、2つの長所を伸ばせば必ず人材になるという、人間 が持つ才能に対する絶対的な信頼の念を持っていた。 ・「志」を持っていた。 自分の心の中から私利私欲を排除して、今自分がここで何をすれば 役に立つか、一生懸命考える・・・これが「志」を立てるということ。 そこに正義があるから、志があるから進む信念。・松蔭自身の強烈な行動で上記のことを示した。■長州出身の、乃木希典陸軍大将の言葉日露戦争勝利の祝賀会でのスピーチ「忘れてはならないのは、敵が大不幸を見たこと。我が戦勝を祝すると同時に、われわれは、敵軍の苦境にあることを忘れてはならない。彼らは立派な国であること認めなくてはならない」他人を認める、敵ですら認める■松蔭の教えを受け継ぐ・正義、志があるからやるという精神。・他人を認める、敵ですら認める。山口県は、明治以降何人も総理大臣を生んでいる。強烈な精神が受け継がれていることを感じる。20才台の時、社員旅行で萩・津和野に行ったことがあるが、山口県の持っている精神までは観光してこなかったのが残念だ。また行って、「山口県の持っている精神」を感じてきたい。私が作ったブログです。ヒマな時のぞいて見てください。●健康住宅は健康家族から●古民家再生プロジェクト●起業して会社経営を楽しむ●日光近郊の日帰り温泉●うつ病を乗り越えろ●老後の年金獲得大作戦●そば通の記録●高気密高断熱住宅●快適二世帯住宅●不動産業界●専門職の求人●フラット35は良い住宅ローンか?●アパート経営●我が家の耐震診断
2008.02.28
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「日本奥地紀行」 著者:イザベラ・バード日光図書館でこの本を見つけた。イギリスのおてんば貴婦人イザベラ・バードが明治11年、東京から北海道まで旅行した旅行記である。彼女は欧米女性としては初めて日光から北へ旅行した人物。時は、大久保利通が暗殺された物騒ぎな時代。イザベラ・バードの旅行記は描写が細かく感じたままを書いているので、当時の様子を想像しやすい。日光はやっぱり有名だったんだ。「日光を見ずして結構というな」と言われていたと記述がある。東京から日光に至って、日光は天国のような別天地である驚きが書かれている。例幣使街道から日光に入るまでで、「私は日本が美しいと思い、今まで通ってきた関東平野が醜い夢にすぎないと感じられた。」とまで書いている。今市日光近辺の風景はかなりよかったようだ。日光には長逗留したようだ。泊まった場所は金谷ホテルの創業者の家。まだそのころはホテルはなかった。神社の雅楽奏者の指揮者と書いてあるが、東照宮出入りなのだろう。ヒマで裕福でりっぱで品の良い家に住んでいて、紹介状持参の外国人を家に宿代わりに留めていたようだ。その家族も家もかなりの日本的品の良さがあふれていたので感嘆している。日光の町はなんでも揃っていて、美術グレードもかなり高い高級な町として紹介している。日光から先は前人未踏の秘境だったそうだ。小百→小佐越→藤原→五十里→横川→田島と行く。小百からは先は、家も住人も裸同然で働いているという。江戸時代が終わったのを知っているか疑問するようなことが書いてある。日光の住人と比べると、貧富の差も生活レベルもかなりの差があったようだ。日光が市町村合併に反対したのも、こうした気位のDNAからかもしれない。この本を読んで感じたこと。日本の田園風景の美しさと、貧富・情報・文化の差が地域によって大きいこと。今とは比べものにならない。新潟に入ると裕福な文明都市になる。これも知らないとはいえちょっと意外。私が作ったブログです。ヒマな時のぞいて見てください。●起業して会社経営を楽しむ●建築士から見たユニバーサルデザイン●古民家再生プロジェクト●健康住宅は健康家族から●犬はかわいい●お父さんの株が上がる住宅リフォーム術●老後の年金獲得大作戦●建築はおもしろい当社のhpも見てね ←ポチッと押してご協力お願いします。元気の源です。
2007.04.21
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下野薬師寺に関する記事は、福田三男著「下野古麻呂と藤原不比等」からの引用です。下野古麻呂とは、大化の改新(645年)のころ下野一の豪族の元に誕生した。中央政権の中で、地方豪族としては最高位の地位に君臨した。国の最高決定機関の「朝政の議」に参議として名を連ねる。本薬師寺建立(680年)と同時期に始まった下野薬師寺建設は、下野古麻呂の手腕が大きかったはず。下野古麻呂は藤原不比等と共に、大宝律令の編纂を担当した。「続日本紀」に「東国の6腹朝臣」つまり、東日本の6大豪族の一つとして下野氏がいた。栃木県の歴史を知る上で、重要な人物だったのである。下野古麻呂の後も、中央政界に生き続け、薬師寺誘致だけでなく下野の国の発展に大きく貢献したものと考えられる。栃木県でのこの時代の遺跡発見は、下野氏の存在抜きには考えられないだろう。有力政治家が中央で活躍するということは、地元の発展に大きく貢献することが歴史的に現れている例だと思う。私が作ったブログです。ヒマな時のぞいて見てください。●起業して会社経営を楽しむ●建築士から見たユニバーサルデザイン●古民家再生プロジェクト●健康住宅は健康家族から●犬はかわいい●お父さんの株が上がる住宅リフォーム術●建築はおもしろい当社のhpも見てね ←ポチッと押してご協力お願いします。元気の源です。
2007.04.07
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那須烏山市鴻野山にある「長者ケ平遺跡」で大発見があった。古代の役所跡がはっきり確認されたとのこと。古代官道沿いに役所跡が発見されたのは全国で初とのこと。遺跡は8世紀前後から11世紀の奈良、平安時代にかけてのもので、政庁とされる大型の掘っ立て柱建物群が正殿としてコの字形に配置、米倉の倉庫群、大溝、道路跡などが確認されたそうだ。時期としては薬師寺全盛のころである。11世紀には薬師寺は勢いは下火になったが。官衞域は南北220メートル、東西350メートル。専門家は「遺跡の価値は第一級」と評価している。栃木県内には古代の東山道に隣接する役所跡が複数発見されていて、全国でもめずらしいという。栃木県内で発見された役所跡は、真岡市の郡衞「堂法田遺跡」、正倉別院「中村遺跡」宇都宮市 「上神主・茂原」こんなに複数発見されるのは、下野国は当時の国の中で重要な拠点だったのではないだろうか。私が作ったブログです。ヒマな時のぞいて見てください。●起業して会社経営を楽しむ●建築士から見たユニバーサルデザイン●古民家再生プロジェクト●健康住宅は健康家族から●犬はかわいい●お父さんの株が上がる住宅リフォーム術●建築はおもしろい当社のhpも見てね ←ポチッと押してご協力お願いします。元気の源です。
2007.04.06
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ここんとこシリーズで歴史ものに走っているが、あと3回分ぐらい書きたいネタがある。まったく趣味に走っている。東照宮のある日光も薬師寺と無縁ではない。廻りになんにもないところで、勝道上人が日光山に登るわけがない。近くに薬師寺という拠点があったからこそ、足を伸ばして日光山に挑戦したのだと考える。735年 勝道上人誕生(芳賀郡高岡現真岡市の下野 国府の役人の家に生まれる)761年 下野薬師寺に戒壇が設けられると、そこで 僧の資格を得て勝道と号した。(5年間修行)766年 大谷川対岸に、輪王寺の起こりとされる四本龍寺 を建立、日光山を開いた。782年 二荒山の頂上を極める784年 中禅寺、二荒山中宮司を創建1210年 源頼朝 鎌倉幕府設立 日光山に帰依、三重の搭を再建 僧坊500坊1590年 豊臣秀吉 小田原北条氏を降す 小田原勢に加勢した日光山はその領地を剥奪1600年 関ヶ原の戦い1613年 天海上人 日光山貫主となる1617年 東照宮創建日光山は、昔から神教とも仏教とも深い関係があったようだ。だから2社1寺が並んで建っている。勝道上人は薬師寺の戒壇で僧になったのだ。そのころには日光山は霊場として名が通っていたのだと思う。薬師寺のころから日光山は栄えていったが、豊臣秀吉の時代は加勢する相手を間違えて乾されまくったようだ。その間20年。徳川家康の時代になって復興することになる。私が作ったブログです。ヒマな時のぞいて見てください。●起業して会社経営を楽しむ●建築士から見たユニバーサルデザイン●古民家再生プロジェクト●健康住宅は健康家族から●犬はかわいい●お父さんの株が上がる住宅リフォーム術●建築はおもしろい当社のhpも見てね ←ポチッと押してご協力お願いします。元気の源です。
2007.04.05
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761年、国が定めた「戒壇」の設置は、地方寺院だった下野薬師寺を一躍全国区の大寺院に引き上げた。下野薬師寺をさらに有名にする事件が起こる。権勢の頂点にあった道鏡が下野薬師寺に流されてきたのである。道鏡は、孝謙天皇の後見役として中央で絶大な権力を握っていた。道鏡は・・・・764年、孝謙天皇の元、大臣禅師に任命される。765年、孝謙天皇は、道鏡の重用に反対する淳仁天 皇を退位させて自ら称徳天皇となる。766年、法王となる。 孝謙天皇は、道鏡を皇位に就けようとする。770年、称徳天皇逝去。 道鏡、謀反の疑いがあるとして下野薬師寺 の別当といて配流される。772年、道鏡死す。国の指示は「庶人として葬れ」 というもの。 龍興寺境内には、道鏡の墓とされる古墳 (道鏡塚)がある。 歴史では、道鏡は「悪者」として学んだ記憶がある。しかし、歴史をよく見るとかなりの人物だったようである。孝謙天皇が皇自身の後に皇位に就けようとした人物なのだ。政権のトップ近くにいた道鏡が下野に流されて、当時下野ではかなりの話題になったはずだ。歴史をひもとくと、特に日本書紀に書かれているのは政権あらそいの歴史に見える。天皇家の皇位継承をめぐって血で血を洗う争いを繰り返してきたように見える。物部氏にしろ蘇我氏にしろ、政権争いに負けたら一族根絶やしにされている。「碁は中国、将棋は日本」というような言葉。碁は取った石は復活しない、中国は争った相手陣営を全て殺す。将棋は駒を取ったら、自陣の駒として復活するので日本的、とは聞いていたが、古代の政権トップの抗争はまさに中国的。命がけだ。今県議選も佳境に入っているが、応援する陣営を間違えたら古代だったら大変なことだったろう。私が作ったブログです。ヒマな時のぞいて見てください。●起業して会社経営を楽しむ●建築士から見たユニバーサルデザイン●古民家再生プロジェクト●健康住宅は健康家族から●犬はかわいい●お父さんの株が上がる住宅リフォーム術●建築はおもしろい当社のhpも見てね ←ポチッと押してご協力お願いします。元気の源です。
2007.04.04
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下野薬師寺1200年前の話です。三戒壇の1つとして国家宗教の中で確固たる地位を築いた下野薬師寺。国家庇護の下発展を続ける。三戒壇とは、下野薬師寺、筑紫観世音寺と東大寺である。『授戒』が大きなキーワード。授戒に必要な十師が揃って授戒の儀式を執り行っていたのは東大寺だけ。下野薬師寺と筑紫観世音寺では5人による略式の受戒儀式が行われていたのである。下野国司からの派遣要求に対して、「講師」は東大寺から派遣されることになった。ここが大切なこと・・・・下野薬師寺が、東大寺末寺化を招くことになった。しかし、当時はまだ下野薬師寺には東国全体から大勢の修行僧が集まり、活況を呈していた。下野薬師寺の存在意義は「受戒」にあった。「受戒」は形式化形骸化していって、9世紀末には得度した者が直ちに受戒が認められるようになった。しかも天台宗を始め、新仏教 の隆盛が追い打ちをかけ、天台教団は822年、延暦寺に独自の戒壇を持つに至っている。下野国が生んだ第3代天台座主円仁も下野薬師寺で修行した形跡はない。岩舟町の大慈寺で修行を積んだあと、比叡山に登って修行している。天台宗や真言宗といった新宗教の普及に対して旧仏教の南都七宗の抵抗もあったが受戒の重要性は薄れていくばかり。 それとともに下野薬師寺は衰退の一途をたどったのである。岩舟町の大慈寺の公智は大物で、天台宗最澄の東国布教に大きく協力。第3代天台座主円仁をはじめ、第4代安慧(あんね)など多くの弟子を育てた。○まとめ、私の感想国家宗教としての「仏教」を取り扱い、布教の最前線として造られた薬師寺だが、「受戒」という伝家の宝刀が民営の新興勢力に押されて形骸化してしまった。それとともに、薬師寺の勢いは下火になっていく。また、三戒壇の一角にありながら、兄寺から「講師」を呼ばなくてはならない。自立していないので、地域の沿った施策もままならなかったことが想像できる。国が施策として力を入れているうちは親方日の丸で繁栄するが、成熟してくると形を変えて別の生き方を模索しなければならないということか。私が作ったブログです。ヒマな時のぞいて見てください。●起業して会社経営を楽しむ●建築士から見たユニバーサルデザイン●古民家再生プロジェクト●健康住宅は健康家族から●犬はかわいい●お父さんの株が上がる住宅リフォーム術●建築はおもしろい当社のhpも見てね ←ポチッと押してご協力お願いします。元気の源です。
2007.04.03
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謎の大寺・薬師寺歴史はくりかえすという。歴史を知らなければ、人間の同じ間違い同じ試行錯誤を繰り返し、発展がそれだけ遅れたり、のっぴきならない事態になったりするだろう。私は歴史から学ぼうというわけでもないが、歴史が好きで興味津々なのです。栃木県の歴史の中で、ひときわ大きな存在が謎の大寺・薬師寺である。時は8世紀初め。律令政治が始まって、仏教を国家宗教として着実に定着させるために律令政府は「戒壇」を設けた。寺院や僧侶が毎年増加するに従って、国家の管理下に置く手段として「戒壇」を取り入れたわけです。しかし、仏教の急速な普及は、「授戒」など正式な手続きを踏まないで僧侶になる「私度僧」といわれる僧侶を生み出した。8世紀の民間私度僧の最大の人物が行基である。行基は668年河内国生まれ。法相宗を日本に伝えた道照に師事し、栃木県の薬師寺で法相教学を学んだ。行基の弟子は千人とも言われ、彼らを引き連れて畿内をはじめ諸国巡りをして、行く先々で橋を架けたり道や堤を作ったりなどの社会事業を行った。各地に布施屋と呼ばれる無料の宿泊施設を設けたり、田を開き道場を建てて民衆を教化した。道場は畿内だけで49カ所もあったという。民衆からは熱い支持を受けていたが、朝廷から見ると勝手なことをしている不埒者ということになる。厳しい弾圧を加えられる。それでも行基人気は衰えなかった。743年に東大寺に大仏が建立されることになると、朝廷は資金集めに行基の力を利用することになる。弾圧の対象だった行基は一転して大僧都に任じられ、宗教上の最高位にたったのである。仏教を国家宗教にするためには、僧尼や寺院を国家の管理下に置かなくてはならない。大化の改新以来国の施策で、すべての寺院に対する経済援助は天皇が行うことにしたり、大宝律令の中で、「僧尼令」で僧尼の罰則規定を事細かに定めている。「僧尼令」に基づいて政府はたびたび取締に乗り出すが、私度僧を一掃することはできなかった。これが1300年も前の話なのである。なんだか現代と変わらないと思いませんか?●起業して会社経営を楽しむ●建築士から見たユニバーサルデザイン●古民家再生プロジェクト●健康住宅は健康家族から●犬はかわいい●お父さんの株が上がる住宅リフォーム術●建築はおもしろい当社のhpも見てね ←ポチッと押してご協力お願いします。元気の源です。
2007.04.02
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ついに300回目の書き込みになった。かき込み率はだいたい50%。おととしの5月から始めている。昨晩10時NHKスペシャルを見る。「大化の改新 隠された真相」私の大好きな古代の話。この発見は衝撃的だ。ついきのうの出来事のように想像力をかき立てる。ちょっとオーバーかな? 645年に起きた古代史最大の事件「大化改新」。以前同じNHKでこのテーマで放送し、ブログに書いたことがある。『日本書紀』によれば、蘇我入鹿は天皇を脅かす権勢で、改革の障害となっていたので中大兄皇子や中臣鎌足のクーデターより殺される、と教科書では習い、前回の放送ではそう言っていた。しかし、事件の舞台となった都・飛鳥(奈良県明日香村)で次々に発掘される遺跡は史実とは異なる。 現在、昨年に引き続き、甘樫丘で蘇我入鹿の邸宅跡が発掘調査されている。これまで発掘された蘇我一族の邸宅跡、飛鳥寺など関係する遺跡を総合すると、自らが盾となって都を要塞化し、都を外敵から守ろうとしていたようである。 その要が、飛鳥の入り口に位置し、都の外を一望できる甘樫丘だ。渡来系ともいわれ、大陸に情報ルートを持っていた入鹿は、巨大帝国・唐が倭国に侵略の矛先を向けていることをいち早く察知、脅威に備え飛鳥の防衛網構築に力を注いだ。その一方で、古代日本の海の玄関であった大阪・難波を整備し、東アジア諸国と協調路線の外交を繰り広げようとした。ここまでのところ、国のためにいいことをしていたように思える。何故入鹿は殺されなければならなかったのか?中央集権的な律令国家を目指して行われたという大化改新の政治改革についても疑問がある。『日本書紀』の音韻・語法から分析する最新の研究などから、その内容の信憑性に疑いが向けられ始めているそうだ。日本書紀は最終編集の時に都合の悪いところを書き換えられているのではないかという疑問。「大化の改新」から18年後の663年。朝鮮半島で倭国の友好国である百済が唐・高句麗連合軍に攻撃されるのを期に援軍を出し、「白村江の戦い」で大敗する。蘇我入鹿がもっとも恐れた唐に刃向かったのである。その後作られた城壁(八釣巻遺跡)が発見されている。瀬戸内、北九州に対唐対策の防波堤を築き始める。そしてそのころから「律令」制度を取り入れている。いったい、それまでの18年間何をやっていたの?政治改革の形跡がないのだ!バブル崩壊後の空白の10年じゃあるまいし。この辺が解明されると、蘇我入鹿は汚名解消になり中大兄皇子や中臣鎌足は不忠の徒となってしまう。710年 平城京へ遷都720年 「日本書紀」完成(持統天皇、天明天皇、藤原不比等)真相は何?????もうひとつのブログも見てね!FC2ブログ『建築はおもしろい』当社のhpも見てね ←ポチッと押してご協力お願いします。元気の源です。
2007.02.03
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東照宮の彫刻から先人の思想を学ぶことは多い。「唐子の遊び」と呼ばれる日光東照宮の陽明門の彫刻は、全部で30体ある。そのうち子供の遊びは20体、残りの10体は花鳥が主題。その中に、「孟母三遷」が正面右端に置かれている。「孟母三遷」とは・・・後の大儒家孟子は、幼い頃父を亡くし、墓のそばに住んでいたが、葬式のまねごとばかりしていたので、孟子の母は、街中に引越した。そうすると、商売のまねごとで遊んだ。母親は、今度は学校のそばに引っ越した。そうすると、礼儀作法を学ぶようになったので安心し、そこに定住した故事に由来する。 (「ウィキペア」より) 「ケンカ」「いじめ」の場面の彫刻もある。正面中央には、「司馬温公の瓶割り」が置かれている。「司馬温公の瓶割り」とは・・・・温公は司馬光といい、北宋の政治家。「資治通鑑」を書いた学者としても知られています。子供の頃、大きな水瓶に落ちた友達を助けるために、石で瓶を割りました。大切な瓶を割ったので叱られることを覚悟していましたが、父親は温公をほめて、改めて命の大切さを教えたと言います。 (「日光の社寺 世界遺産」より)この2つの彫刻の配置が何を意味するのか。人の命が一番大切。勉強よりも何よりも・・・陽明門の彫刻には、当時(江戸時代初期)の教育の基礎が込められているのだ。それは現代の悲惨な事件の数々を目の当たりにすると、江戸時代の寺子屋の教育のありかたを深く学ぶ直す必要があるのかもしれない。もうひとつのブログも見てね!FC2ブログ『建築はおもしろい』当社のhpも見てね ←ポチッと押してご協力お願いします。元気の源です。
2007.01.16
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きょうは事務所の大掃除。カラス拭きから始まって内部の整理。机廻りと本棚の整理が時間がかかる。常日頃の怠慢を反省。で、正月まで持ち越しにする。明日は家の大掃除で、明後日は買い出しで大晦日を迎える。おとといの「北の零年」は良かった。吉永小百合の迫真の演技はすばらしかった。渡辺健は劇中でも私生活でも妻子を捨てる役でとんでもないやつだ。明治初期の北海道開拓団の物語だが、劇中のすごさにくらべれば、我々の仕事の大変さなどは大人と子供の違いぐらいの差があるだろう。私の努力などまだまだだと感じた。二宮尊徳の孫の尊親さんは、明治初期に相馬藩士(福島)と共に北海道豊頃町に移って開拓をした。大変な苦労だったろう。元気が沸々とわいてきた。もうひとつのブログも見てね!FC2ブログ『建築はおもしろい』当社のhpも見てね ←ポチッと押してご協力お願いします。元気の源です。
2006.12.28
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一国のリーダーが、会社の社長が、先を考えて今までの言動・方針を変えていくのは悪いことではない。たくさんの人の命を預かっているのだから当然のこと。何ヶ月か前に、NHK「その時歴史は動いた」で幕末の薩英戦争の歴史を紹介していた。リーダーのあるべき姿をみたようだ。その裏にイギリスとアメリカの覇権争いが見え隠れする。日本は、中国と同じように欧米の植民地化の危険にさらされていたのだ。かいつまんでまとめると・・・・アメリカは、イギリスが日本に戦争を仕掛けようとしていると日本に ちくった。恐るべきはイギリスと。・イギリス全権大使ラザフォード・オールコックは江戸で140人のパレード を実行。欧米で初めて江戸に居を構える。・1840年 アヘン戦争 中国を植民地化に成功。・イギリスがアメリカを追い抜き対日貿易額トップになる。(薩英戦争4年前)・1861年イギリス公使館襲撃事件・1862年生麦事件(島津久光一行が江戸から京都に向かう行列に、イギリス 人4人が馬から下りずにかつ列をみだしたので、切り捨て御免にあった) 損害賠償として、2万5千ポンド(3億円)要求。かつ容疑者を差し出すこと要求。・イギルス艦隊出動。12隻来日 アームストロング砲搭載。 ・薩摩藩は、10カ所の台場に85門の大砲を準備。・1863年7月2日正午 薩英戦争始まる。 イギリス人13人死亡。薩摩軍5人死亡で薩摩の勝ち。・薩摩藩は、イギリスに勝ったにもかかわらず、3億円の損害賠償を払った。 和解し、薩英貿易を始めた。 戦うより、手を結ぶ利をとったのだ。 イギリスの力を利用し、力を蓄え、倒幕の実力を養った。・薩摩藩からイギリスへ優秀な若者を留学させた。・1864年 オールコックは再来日し、日本の文化研究にその後の半生をささげた。 著:「大君の都」 深い愛情と尊敬の念が込められている。いい話だったでしょう?薩摩藩は激動の幕末の中ですばらしい判断をした。これがリーダーの「君子豹変す」だと思う。もうひとつのブログも見てね!FC2ブログ『建築はおもしろい』当社のhpも見てね ←ポチッと押してご協力お願いします。元気の源です。
2006.12.08
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NHK「その時歴史が動いた」の松平定知氏の講演をワイフと一緒に聞いてきた。□主催者:日光商工会議所 名称変更記念経済講演会□場所 :日光東照宮晃陽苑□テーマ:その時歴史が動いた!の現場から□講師 :NHKエクゼクティブアナウンサー 松平定知この番組は、2000年に始まって7年目に入る。視聴率13%を維持する長寿番組だそうだ。私は大のファンで、ワイフの反対を押し切っていつも見ている。先々週二宮尊徳翁をアンコールアワーでやっていたが、尊徳翁の番組は、視聴率断然トップの14.8%だったそうだ。ちなみに2位は、真珠湾攻撃秘話だったそうだ。私のライフワークは尊徳翁の研究だが、これほど注目度が高いとは知らなかった。 ●かいつまんだ内容来年度の放送方針の4本柱1.現代史を多く取り上げる。 現代史は、遺族や当事者が存命で、クレームが多いが、あえてチャレン ジする。2.女性の主人公を取り上げる。 実は歴史的にも女性の力は強かった。3.世界の歴史に踏み込む ガリレオ・ガリレイ等。 伝承されてきた歴史と、歴史事実が違う!驚愕の歴史事実。4.視聴者番組参加型の試みこれまで6年間の大きな3つのコンセプト1.徹底した現場主義2.徹底した専門化主義3.徹底した実証主義一番大切なこと・視聴者の信頼・信用・ウソはダメ プロジェクトXは、フライングがあったため、3月を待たずに去年12月 で急遽放送打ち切りになったそうだ。知らなかった!!大好きだったプロジェクトXが急に終わってしまったので残念だったが、そんなことがあったんだ。ウソや誇張はダメね。当社のhpも見てね ←ポチッと押してご協力お願いします。元気の源です。
2006.03.26
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長崎出島商館の医師シーボルトは、1829年日本地図を海外へ持ちだそうとした罪で国外追放になった。ここまでは誰でも知っている歴史。 しかし、シーボルトが30年後の1859年(安政6年)に、追放解除となって再び来日した事実はあまり知られていない。この本は、再来日時の見聞日記で初めて邦訳されたもの。初来日時は6年間で、再来日時は3年弱。よほど日本が好きだったんだね。再来日時は、鎖国から開国への大激動な幕末日本。日記にも緊迫した雰囲気がただよう。滞在の後半では、幕府の外交顧問として遺欧使節の相談にあずかるなど、外交面での重要な記事がある。一方、自然や生活に関する記事も多い。たとえば、「江戸は本当にカラスの町である」神社森に数千羽生息し、「早朝江戸八百八町に分散し、食物をあさり」今の東京と変わりない。 江戸では、人通りの多い場所に小さな「無人販売」の箱が置かれ、小間物や楊子などが値段つきで売られている。客は好きなものを手に取り、お金を足元の小さな引き出しの中に入れる。シーボルトは驚嘆する。「世界でもっとも人口の多い都市の一つがこうである!この商売は貧しい家族、貧しい人々を支えるために、すべての町人たちとの信頼により成り立っている。」江戸の町にこれだけのモラルがあったんだから、日本人のモラル(倫理観)はかなり高かったんだろう。この点は現代も、江戸の教育を見習うべきだね~。当社のhpも見てね ←ポチッと押してご協力お願いします。元気の源です。
2006.02.11
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きのう夜、pm9:15NHK「その時歴史が動いた」を見た。きのうもワイフが、「私にはチャンネル権がないのね」といやみを言う。私は歴史物が好きで、ワイフはお笑いものが好き。 壬申の乱は、大化の改新を成し遂げた天智天皇の跡目争い・・・天智天皇は奈良から、反対を押し切って平地の少ない滋賀県の大津に遷都した。琵琶湖から日本海へ出やすく、中国方面の貿易が容易であるためだ。大津は有力豪族大友氏の本拠地。天皇の子の名前も大友の皇子である。天智天皇は、子である大友の皇子を後継者に考えていた。しかし・・・・・大化の改新で、兄である天智天皇を助けて尽力した天皇の弟「大海人皇子」の方が人望と実績があり、待望論も強かった。大海人皇子は流れをキャッチし、出家して吉野に隠遁した。しかし、大友の皇子は反逆を恐れ亡き者にしようとする。大海人皇子は、逃げながら勢力を集めた。伊勢神宮を神格扱いして近郷の豪族の賛同を得ることに成功した。そして、関ヶ原で一大決戦に望んだ。関ヶ原の戦いの900年前のこと。世に言う『壬申の乱』だ。天皇の子と天皇の弟の戦い。この戦いで、大友の皇子は自害。大海人皇子は「天武天皇」となった。673年 正式に天皇を名乗ったのは、天武天皇が最初だという。そして、日本の基盤 を創った天皇であった。天皇中心の新しい国家=「日本」漢語の「天皇」の意味・・・・不老不死の象徴大津から奈良に遷都した。伊勢神宮をいままで以上に最上格扱い始めたのも天武天皇であった。その後700年間皇族から祭宮を送り続けた。そして、同じ混乱のないよう天皇の世継ぎは「子」に世襲することに決めた。自害した大友の皇子は、明治時代になってから「弘文天皇」として奉られることになる。天皇家の歴史は、しっかりと検証されている様子がわかる。当社のhpも見てね ←ポチッと押してご協力お願いします。元気の源です。
2006.02.09
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私は歴史もののテレビ番組が好きだ。ワイフはお笑いと細木数子や江原氏のような占いものが好き。その手の番組がなかったので、NHK『その時歴史が動いた』古代の文明開化 を見た。文明開化といえば明治維新。しかし、古代にも血ののにじむ「文明開化」があったのだ。飛鳥時代の実力者、蘇我馬子。飛鳥時代、進んだ文化の朝鮮半島と脅威的な中国の隋に対して対抗するには、大陸に普及する仏教を取り入れ、巨大な寺院を建立して倭の国の文化の高さを諸外国に見せつけなくてはならないと考えた。そうしないと大陸に飲み込まれてしまう恐れがあった。そうした考えを持つ馬子に対し、もう一方の実力者である物部守屋は旧来からある「やおろずの神」(なんにでも、どこにでも神がいるという信仰)と神道信仰を守り抜こうとした。この対立は長年に渡ったが、物部氏を滅亡させ、天皇に仏教布教を認めさせ、飛鳥寺建立に至った。聖徳太子とともに大化の改新を断行したのである。飛鳥寺は日本最古の仏教寺院だ。これにより、飛鳥は倭の国の文化の中心地として栄え、大陸諸外国の訪問を受ける国際都市となった。もちろん文化国家として、随との外交も成立した。それ以来、日本には仏教と神道が同居することになるのだ。滅びた物部守屋の墓は、大阪で日本中の神社の寄進によって今でも厚く奉むられている。蘇我氏は、孫の入鹿の代で暗殺され滅亡する。「盛者必衰の理を表す」蘇我氏の邸宅跡が飛鳥寺の近くで発見されたが、非常に興味深い。歴史的発見だ。いや~歴史はおもしろい!当社のhpも見てね ←ポチッと押してご協力お願いします。元気の源です。
2006.01.21
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