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バロック音楽について良く感じる事だが、特にバッハのアーティキュレーションで強く感じる事が多い。譜面を読んだ最初から語りかけてくれる部分もある。、、、が、一向にこっちを向いてくれない。そっぽを向かれてしまっているようなフレーズがある。そんなとき、とにかく歌い込んでみる。ひたすら歌い込んでみる、、、。でも、、、、肉体や根性の問題だけではすまされない事がある。が、「へっ?」とまるでだまし絵が見えたときの様に見える瞬間がある。そうなると、それまで踏ん張っていた力も半分で済んでしまったりする。その「へっ?」と紐解かれ「な~んだ。」を求め、「あ~でもない。こ~でもない。」と悩む。試行錯誤を繰り返す。そして「あ~。そうか!」を見つけて喜び、そこから見えてしまった次の彼方が目に飛び込み、愕然とする、、。紐解けても、自分の技術が足りない事を思い知らされるときも多い。「あ~、自分って!」という事の繰り返し。でも、「あ~でもない。こ~でもない。」これを結構楽しんでいるのかも、、。「あ~、自分って!」は、嫌だけど、、。課題が見えた、という事は目標が出来た、という事なのだ。自分と音楽の距離は事実あるのだし、、、。ありがたい。どんな音楽でも同じだろうが、自分にとって、やっぱり、格別なものなのかもしれない。
June 28, 2007
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この一週間、合唱グループや個人レッスン、発声教室で行った発声に関してのメモです。ちょっと読めばどんな方にもわかる、、、とはなっていません。すみません。自分のソロの本番、アンサンブルでの様々な課題、、、歌う事と教える事の両立、、、そういった課題や問題を山ほど抱え、しばらくの間消化不良でありました。が、「声門閉鎖」というモチーフにたどり着き、しばらくその事を突っ込んでみましたが、、実は、これが、周りのいくつもの結構、重大な事も含め紐解くポイントになっていました。まずは、私自身と生徒さん達にとってのメモとしての日記です。では、、、"Mixed Voice"「息が良く混ざった声」ウォームアップに効果的。プレーンな声として扱う事も可能かと考えられる。この"Mixed Voice"から様々な「色づけ」「アレンジが可能」声門閉鎖を回避し、腰から上部の呼吸に必要な背中側の筋肉、横隔膜などを呼吸の運動と同期して運動させ柔軟性を与える。軟口蓋、咽喉など声帯を後方上部へ引き上げる「響き」の為の筋肉も柔軟性を与える。こうした声をプレーンな声として扱うと、声帯のならし方(合わせ方)は跡づけ出来る。声門閉鎖も無いので、必要な箇所に発音の一つとして声門閉鎖を加える事が出来る。また、この"Mixed Voice"をベースとし、下記の様に低声部、高声部とアレンジを加えて行く。低声部(バス、アルト、カウンターテナーにも有効)体重の乗っている体の最下部から頭の最上部までの体背面の筋肉を連携させ一つの低音楽器のフォルムを作る。音が上に移動するときは順次、跳躍にかかわらず背中の正中線にそって支えのポジションを前もって上部に移動させる。音が下に移動するとき、特に跳躍音程の場合は前もって背筋の下部を広げ、背面を頭頂部まで延ばし受け止める。高声部(ソプラノ、テノール)声帯の引き上げ筋の必要最小限の部分だけ使う。上顎の中で空気を混ぜるイメージ。その空気のイメージは下あごには落とさない。小さな針、爪楊枝のイメージ。低声部程の支える力は不要。支えに対しての意識も低声部から比較すれば無いくらいに感じる。但し、音楽様式によってこの支えに対しての認識は変える必要がある。上記の様に低声部、高声部とで違った発声を行うのは合唱のハーモニー作りには必要不可欠。但し、ソリストとして旋律を歌う場合は低声部、高声部の発声を使い分け応用すると一つのフレーズが繋がりやすい。またポリフォニーの合唱曲の主題などの旋律的部分にも有効。特に低声部の歌手には低声部、高声部の発声を使い分け応用する方法は有効。
June 22, 2007
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「声門閉鎖」で過ごした今日一日といっても声門を閉鎖したまま一日過ごした訳ではありません、、先日のブログのレスをhataoさんから頂き、漸く今日辺りから日本語から出て少し考え始めました。英語では"Glottal Stop"「声門閉鎖」といより「声門停止」という訳になりますね。ドイツ語では”Glottisverschlusslaut”または”glottaler Verschlusslaut”これからみればドイツ語が「声門閉鎖」という日本語の語源なのでは、、という気がして来ます。こうやって見てみると面白い事に気がつきました。明らかにドイツ語は「閉鎖」の動きをする、、、英語は(米語よりもブリティッシュの方が頻繁に行いますが、)閉鎖とまではいかない、Stopの方が合っている様に感じます。いかがでしょう?実際に自分で実験もしてみましたが、何よりも今日指導した合唱団で「声門閉鎖」とは一言も言わずに試してみました。但し予め”mixed voice”という言葉とその声に意識を向けてもらい、”mixed voice”を中心にウォームアップを行い、背筋や頸椎の状態や軟口蓋によって”mixed voice”を生み出すその息の流れを確保する方向で声を整え、頭では意識しないように支えを感じてもらいました。そして最後にニュアンス表現の手段の一部ということで、子音と同列の「発音」の一部として「声門閉鎖」をやって見せて、「これを<ここ>でして下さい。」とやってみたところ、他の場所の無駄な「声門閉鎖」が無くなりました。やはり、「教える」という行為の為には考察は必要だな、、、と痛感しました。演奏は、まぁ言ってみれば、本人がちゃんと出来ればそれ以上は必要無いのです。皆さん、これまで無駄な時間をすみませんでした、、。僕がもっと早くからちゃんと勉強していれば、、、、(泣)(という気持ちにもなりましたが、、。)今日のはドイツ語でしたので、頭の中で”verschluss”の"schlossen"というイメージでやってみました、、。ロジカルな整理はともかくも「何をどうやるか」は上手く理解して頂けた様に思います。(いつも同じ方法で上手く行くとは限りませんが、、、)あと、こんなCDを僕自身持っていた事を朝のアンサンブルのレッスンで思い出し、生徒さん達と聴きました。ほぼ七、八年ぶりに聴きましたが面白かったです。ただ、これを今の時代に作れば、、という欲が出てしまう事は仕方ないかもしれませんが、実に素晴らしい仕事を残して頂いた、、と制作スタッフの方々には感謝、感謝です。世界一周ことばの旅~地球上80言語カタログ
June 19, 2007
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「声帯を使った音節のarticulation」という表し方はやはりやめた方が良いかもしれません。改め「声門閉鎖による音節の区切り」とします。「声門閉鎖」は医師から見ればおかしな表現かもしれません、が、声を出す直前には閉鎖状態を作るわけですから、これまでの「声帯を使った」という状態を「声門閉鎖」と表すことにします。(業界が違えば同じ単語であっても別の意味を持つ例はいくつかあるようですし、、。)また、「articulation」という語も「アーティキュレーション」という日本語で認知された言葉との区別のために「区切り」と、とりあえずはしてみます。「音節」と対にならなければ意味をなさないのが難点ですが、、。今後の展開を考えればこの方が良いかもしれません、、。(でも、、既に、「区切り」では無くて何か適当な単語があるのかな、、という不安が、、、)後、ここまで色々書いてきて、少しダイジェストで書くつもりだったのが、、ちょっとでも書けば、補足が無ければ誤解を招く事も多く見えて来ますし、と、なってくると、、書いていない事があまりにも多いなぁ、、というのが、今の実感です。例えば、前々回のサンプルも今後「英語の場合」「ドイツ語の場合」と追加したいと思っています。つまり、英語やドイツ語などの場合、声門閉鎖が全く無い訳では無いのです。しかし、日本語の様にほぼ音節単位で頻繁に声門閉鎖がなされることはありません。しかし、声紋閉鎖が少ない発音、発声が頭骨内に声を響かせるための筋肉を発達させる事も間違いありません。また、こうやって書く事によって、自分自身の今の技術の見直しをする事にもなっています。歌唱例などもアップしましたが、言ってる事とやってる事が食い違っていて、「恥ずかしっ」という部分もあります。とにかく、日々、試行錯誤し、たたき台なのか結論なのか、、書いて出してみなければ判りませんが、このブログを使って、出しては叩き、出しては叩き、、、して行きたい。そう考えています。読んでいただいた方、すみませんが、適当にあしらいながらおつきあい頂ければ幸いです。
June 18, 2007
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「声帯を使った音節のarticulation」本当にこ言葉を用いて良いのだろうか?僕の不勉強なためであるのだが、まだ良くわからない。(どなたか、ご教示いただければ、、、。)以前、「声門閉鎖」という言い方で今僕が「声帯を使った音節のarticulation」と表している事を呼ぶ方法を聞いた事がある。それに、フースラーの名著「うたうこと」("Singen")にもアンザッツの項目で「声門閉鎖」という記述がある。が、この事を耳鼻科の医師に確認した所「声門を閉鎖すれば声は出ないので正しく無い。」そう言われた事がある。言われてみれば、確かにその通りだ。では、なんと呼べば良いのか、、その医師からアドバイスをもらった様に記憶するが、何と言われたか覚えていない、、。多分一般的には伝えにくい言葉であったように思う。だから、僕の中でせっかく頂いたそのアドバイスを却下した記憶だけは残っている。日本語を母語とする者ならば、誰しもがやっていることなのに、、しかもこんなにも身近に日常的でありながら未だに現役で生きて活躍している日本の伝統文化の一つなのに。「これ」を表す言葉がない、、。「声帯を使った音節のarticulation」をもう開き直って「これ」と呼ぶならば、、日本語と同じ様に「これ」を使い、使い方が日本語に最も近い言語が隣国の言語、韓国語です。同じ隣国の言語であるにもかかわらず、中国語は結構いくつもの音節を「これ」を使わずに話します。どうぞ実際に確かめてみて下さい。「これ」を自身の耳で認識出来れば、結構簡単に外国語の「これ」も聞き取れます。世界の言語の「これ」を確かめて行けば面白いかもしれない、、。僕には「それ」をする金も時間もないが、、。
June 17, 2007
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いつの日か、、といいながら翌日書きました。前回の文章だとわかりにくかったと思います。「声帯を使った音節のarticulation」って???今回は文章よりも実践で、、宮沢賢治の有名な詩「雨ニモマケズ」の冒頭を朗読し比較してみましたので、どんなものか、、、すっごい変な事、、、かもしれませんが、、。まあ、聴いてみて下さい。朗読は私です。声帯を音節のarticulationに使わない場合は子音が音節を区切っていると聞こえますが、逆に息は一つの流れで繋がります。声帯を音節のarticulationに使う場合は声を響かせる筋肉をあまり使わなくても良いのですが、声帯を音節のarticulationに使わない場合だと声を鼻腔や副鼻腔に響かせるための様々な筋肉(声を響かせる筋肉)が使われる事になります。結果的に声を発する側の声帯の合わせ方がそれぞれ変化し、その声を聞く受け手に取っての「~の様な感じの声」という印象に繋がって行きます。()括弧内は、僕がこれまでの経験から得た注釈を私見ではありますがひとこと書いてみました。<声帯を使った音節のarticulationを>例1.用いない場合です。大きな音量の声で読みました。(オペラや歌曲を欧米語の原語で歌うPAを用いないアコースティックな歌の場合はこの方法が好ましい。)例2.用いない場合です。普通の会話程度の音量の声で読みました。(欧米のフォークソングや伝承歌他、オンマイクの歌はこれくらいの方が好ましい。)例3.用いた場合です。大きな音量の声で読みました。(演劇、ミュージカル、日本語のオペラなどはこれくらいが好ましい。)例4.用いた場合です。普通の会話程度の音量の声で読みました。(オンマイクでの日本語の歌や台詞、朗読向き。今は正にぴったりこのシチュエーション。)例5.用いた場合です。大きな音量の声で、しかも声帯をことさら強く使い読みました。(日本の古典的な様式を備えた演劇などの場合に好ましい。)例6.用いた場合です。普通の会話程度の音量の声で、しかも声帯を強く使い読みました。(あまり上手く読めなかったので改良版を録音する予定。昭和以前の古い時代の話し方。)例7.用いた場合です。普通の会話程度の音量の声で早口で一気に読みました。(習慣的に日常会話に好ましいとされている範疇。)例8.用いない場合です。普通の会話程度の音量の声で早口で一気に読みました。(外国語のネイティブ、特に欧米語圏の人が日本語を話すときに見られる傾向がここに含まれる。)おまけ.用いた場合です。普通の会話程度の音量の声で関西イントネーションで読みました。次回はもっとシンプルに、、。いつの日か、、。
June 16, 2007
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ヨーロッパ語は音節のarticulationは子音の発音で行う。(この場合のヨーロッパ語とは僕が歌で知る限りの、イタリア語、スペイン語、ドイツ語、英語、フランス語のこと、、)日本語は音節のarticulationは子音でも当然行うが主に声帯で行う。この事が日本語とヨーロッパ語の声の文化の決定的ともいえる違いであると言える。ヨーロッパ語でも母音で音節が区切られる場合は声帯でarticulationすることもある。が、日本語の音節のarticulationは子音があるにもかかわらず声帯でarticulationしている。また、ヨーロッパ語でも子音があってもたまに声帯による音節のarticulationを耳にするときがあるが、日本語のそれとは全く比べ物にならない。ヨーロッパ語では音節は子音のarticulationが主体となっている。これらのことは喋り声のみならず歌唱技術もこの延長線上にある。メリスマの歌唱法も同じ事がいえる。メリスマは歌詞の中の一つの音節の母音だけを延ばし、それを多くの音を用いて歌い上げる。日本の伝統的歌唱法の場合だと、メリスマのそれぞれの音を一音ずつ声帯でarticulationする。これは決して古典的な歌唱法という訳では無い。今のはやりのJ-POPの歌をどれでも良いので良く聴けばその「声帯による音節のarticulation」が聴き取れる。ただし全てがそうなのではないが、、つまり、「音節のarticulation」に限って云えば欧米化された「子音だけのarticulation」を多用する日本人歌手も居る。しかし、日本語という文化に由来する伝統的歌唱法が過去のものでないという事実は歌唱技術に注意して聴けばどこででも確認する事が出来る。もちろん、謡、日本民謡、歌舞伎、浄瑠璃、、、演歌、、言うまでも無い、、。「声帯による音節のarticulation」が重要な歌唱技術になっている。日本歌曲や日本語上演のオペラなどの西洋クラシック音楽の場合、日常の日本語による会話で用いられる「声帯による音節のarticulation」は行われない事になっている。つまり、西洋語式の子音での音節のarticulationを用い、その上で如何に日本語を明瞭に伝えるべきか、、に明治の時代から今に至るまでずっと腐心し続けている。僕の歌による音源ですが、その「声帯による音節のarticulation」を使わない歌、と使った歌です。使わない歌例1、例2使う歌例1、例2「声帯による音節のarticulation」どれだけ見た目が欧米化になろうとも、日本語を母語としてその文化の中で育った人なら必ずみんなやっています。そうする事で日本文化の社会がなりたっている、といっても過言では無いと思います。日本語を母語としてその文化の中で育った人なら必ずみんな日本の伝統的歌唱法の素質を持っている、、というよりも、、日本の伝統的歌唱法の基礎訓練の一部を常日頃からしている。そういう事になります。また、いつの日か続きを書きたいと思います。
June 15, 2007
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「タリス・スコラーズ」と「ラ・ヴェネシアーナ」6月3日は川西でTHE TALLIS SCHOLARS「タリス・スコラーズ」6月11日には堂島のフェニックスホールでLA VENEXIANA「ラ・ヴェネシアーナ」二つの声楽アンサンブルを聴いた。ありきたりの事だが、生で聴くのとCDやDVDなどのメディアで聴くのとはまるで情報量が違う。メディアは確かに事実の記録ではあるが、ヴァーチャルでしかない。さて、このふたつのグループを近い時期に比較して聴けてとてもおもしろかった。まず、タリス・スコラーズはいつもバスが大きな音量で歌い全体を支える。sopranoは真っ直ぐでいて柔らかな声。内声も透明で真っ直ぐ柔らかな声。今回はバスをRobert Macdonald(大柄な男で、まるで"Highland laddie"ってこんな感じ?!)が歌っていた。彼はひと際大きな声であった。近代のイタリアオペラを歌っても決して遜色無いだろうと思う。バスやテナーはエモーションが高まり音量を増すとき、ヴィヴラートがかかる。しかし、それは音楽を損ねる訳では無く、計算内でありディレクターの意図する所だと思う。一方のラ・ヴェネシアーナはタリス・スコラーズの様にルネサンスでは無くバロックのプログラムなので、ハープを一本、通奏低音につけている。そして、タリス・スコラーズとのバランスは男女正反対。ラ・ヴェネシアーナの男声はカウンターテナー、テナー、バス全て端正な声。音量もあまり大きくは無い。イタリア人のステレオイメージとはかけ離れていてとても丁寧にハーモニーを作っている。二人のsopranoの女声もアンサンブルの力は確実なものを持っている、、、、が、その一人Emanuel Galliは音楽が高まるとすっごいヴィヴラートがかかる。タリス・スコラーズのsopranoとは全然違う。全くの別物。が、それが良い。「いつもヴィヴラートがかかる。」のでは無く、表現の一手段として使っている。Roberta Mameliは息の良く混ざった真っ直ぐな声、だがスコラーズのsopranoよりも肉厚な感じ、でもヴィヴラートはかなり少なく透明感や清涼感はある。Roberta Mameliの"Lamento della ninfa"にはヤラレてしまった、、。むちゃくちゃ色っぽい!!。カークビーの歌うninfaともまるで違う!!(でも、この艶のある歌い方、日本人に向いてないんじゃ?という思いもある。このまんま真似したらいやらしくなってしまうかも、、。)男三人のコーラスが何か下男ぽくて良い。ラ・ヴェネシアーナのお姫様方、、旋律はとにかく歌う!!でも、ポリフォニーはきっちりと決めてくれる!!かっこいい!!とにかくふたつのグループ、まるで違う。バランスや音楽の組み立てに固定されたセオリーだけがあるのでは無く、それぞれに方法があるという事を見せてもらった。しかし、一方で多声音楽を歌うときにやらなければならない事も、ふたつを聴き比べる事でよりはっきりと見える様に思った。タリス・スコラーズやラ・ヴェネシアーナ、どちらか一方のバランスや音楽の構築の方法を絶対視しコピーだけを到達目標にする事はとても愚かな事なんだな、とも思える。が、しかし、ヨーロッパの、ルネサンスの、バロックの、イングランドの、ヴェネチアの、、、等々、、、様式感を無視した音楽の表現などは決してあり得ないという事も改めて実感出来た。
June 13, 2007
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先日、学文女声合唱団で「米節」を練習した。ユニゾンで、単旋律ではあったが、実に感動ものであった。中高年のメンバーが多く、しかも若いときから特別にトレーニングを積んできた人たちというわけでもないこの合唱団。もちろん日本民謡だけを勉強してきた人たちや、プロの民謡歌手や民謡の名人とは比べ物にならないだろう。でも、日本民謡だとツボを押さえるのが早い。彼女たちがラテン語でグレゴリオ聖歌やパレストリーナを歌ったときとは全く比べ物にならない。アルシス、テシス、イクトゥスなんて、知らなくても、教わらなくても、判ってなくても米節だとそれらと同じ様な事を体で感じ、それらと同じ様な事を理解し表現する事が出来る。日本語ではあっても西洋音楽指向の合唱組曲を歌っているときの様に、どこか「振った(ぶった)」所も無く「米節」だと自然体で歌えている。よりも明るく楽しいのに「深い」、、そう感じる。「はっ。」「どっこい。」「はぁ~どうしたどうした。」こうした間の手もそれが正調かどうか、は知らないが、皆で同じ事を感じ合わせることが出来る。歌唱技術的には確かに下手かもしれない。が、律動、アーテキュレーション、ディクション、、、米節を歌うとき、全てが美しい。「ハマっている」これを「血」という人もいるが、、決して血ではない筈だ。人種、民族の問題でもない。目には見えないけれどこれこそが正に人が生きてきた文化、そしてMother tongueなのだ。でも、決して全ての日本人が一様に持っている。などとは思わない。そんな筈も無い。今度のミスユニバースの森理世さんが、学文女声合唱団の人たちの様に同じ文化をどれくらい持っているかどうか?きっとミスユニバースは彼女たちと全く同じものは持っていないと思う。「日本の音楽感性」今言わんとするものをもし、こう呼ぶならば、これは、世代、時代、背景によって変化して行くだろうし、正統と呼ばれる伝統はどんどん希薄になって行くのかもしれない。でも、日本語で生きて行く私たちとその文化が続く限り決して消えはしないものだと思う。今日(6月11日)イタリアの声楽アンサンブルLA VENEXIANAを聴いたが、彼らの歌を聴いて、日本文化の中で生まれ育ち生きる私たちと西洋音楽とのつきあい方にも光がある様に感じた、、。続きはどこかで、、。
June 11, 2007
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