■ はじめに私が細々とやっているホームページ「S'sWine」(http://www.asahi-net.or.jp/~mh4k-sri)が今年で10年目を迎えた。飲んだワインのデータを99年から記録しはじめて、ある程度まとまったところで公開したのが2000年の2月のことだから、10周年というより、ようやく10年目に入った、という言い方の方が正しいだろう。日々の更新については、最近はもっぱらブログにシフトしていて、本家のサイトは半ばアーカイブと化しているが、そのブログ版ともども、この10年間、コンスタントにそれなりの数の方にアクセスいただいてきたのはありがたいことだし、私自身、単に飲んだワインの感想を書き連ねるだけのホームページ(最近は金魚や子育てネタばかりという話もあるが…)を、よくもまあ10年間も続けてきたものだと、自分を褒めるよりはむしろ自分に呆れる気持ちだったりする。
もっとも、この10年間、常にフル・スロットルでワインと向き合ってきたかといえば、そうでもなく、時期によってかなり濃淡があった。おそらく一番濃密なワインライフを過ごしたのは、サイトを開設した2000年を挟んだ前後5年ぐらいのことだと思うが、その一方で、ワインとの関わりが薄くなった時期についても、そうならざるをえない事情がありつつ、なんとか途切れることなく続けてきたという意味で、思い出深いものがある。
そんなこんなで、本号と次号の2回にわたって、ホームページ開設前後からの10年を中心に、私のワイン履歴についてふりかえってみたい。読者の中には、私などよりもずっとワイン暦が長かったり、はるかに多くの銘柄を経験されている諸兄も多くおられるはずだ。そんな方々からすれば、「若輩者が何をえらそうに」と思われるかもしれないが、まあこのコラムも、「ワインの保存」時代から数えて、二十数回。たまにはこういうネタにもおつきあいいただければ幸いである。
■ ワインに凝り始めた頃
私がワインを趣味として意識しだしたのは、90年代の半ばのことである。きっかけは、独身時代のヨーロッパ旅行だった。当時絵画やクラシック音楽に傾倒していた私は、年に一度、欧州を旅行するのを楽しみにしていたのが、そうこうするうち、現地で飲むワインの美味しさに魅せられて、知らず知らずのうちにこの世界に足を踏み込んでいた。意外と思われるかもしれないが、最初の頃は、旅行先とリンクして、もっぱらイタリアワインを愛飲していた。といっても、まだ生産者や銘柄、畑などに深くのめりこむほどではなく、DOCGやDOC銘柄、それにスーパータスカンなどを入門書片手に手当たりしだい飲むというスタイルだった。
その後、当誌創刊号のコラム「ワインの保存」にも書いた「バッカスの思し召し事件」、すなわち、6年間居間の茶箪笥に置き去りになっていたオーストラリア土産のケープメンテルのシャルドネを飲んで、その熟成状態に目から鱗が落ちたという、私にとってターニングポイントとなった事件があって、それ以来、ワインという飲み物に対する興味がグンと昂じることになった。常温で6年も置いておいたワインが酢にならずにトロトロに熟成していたというのは、今考えても、奇跡のような出来事だったと思えてならない。
もうひとつ、このころは、仕事上のストレスが非常に大きかったということも、私をワインにのめりこませる要因になった。休日も昼夜構わず電話がかかってきて、突然出社しなければならなくなる、なんていうこともしばしばだったため、精神衛生上、無理やりにでもオンオフを切り替える必要があったのだ。
といっても昼間からワインをあおっていたということではなくて、自宅でワインの本を片手に、格付けシャトーの名前を覚えたり、地図をみながら畑の位置を確認したりしていると、不思議なほど仕事のことを忘れられたのだ。今にして思えば、なにやら屈折したストレス解消方法だったが、精神的に追い詰められる一歩手前のような状況で、私を救ってくれたのもまたワインだったわけだ。
■ワインエキスパートの取得とサイトの開設
そうこうするうち、生来の凝り性が災い?して、もっと系統的にワインを「勉強」したいと思うようになってきた。知識に関しては、本を読んだりして独学でもある程度なんとかなるが、テイスティングに関して、直接講師に指導してもらいたいという気持ちが強かったのだ。当時、ちょうど世の中はワインブーム華やかなりし頃で、ワインスクールはどこも混んでいた。会社帰りに通おうと思ったら、「アカデミー・デュ・ヴァン」などは空きがなくて申し込めなかったのを覚えている。
それで通い始めたのが、職場とは逆方向になるが比較的通いやすかった「自由が丘ワインスクール」だった。通い始めた当時は、資格を取得しようという気持ちまではなかったのだが、このスクール、受験指導で有名なだけあって、周りの受講生に資格の取得をめざしている方々が多く、私もいつのまにか周囲に感化されて認定試験を受験しようという気になっていた。資格の取得のための勉強は、長らく受験勉強などというものから遠ざかっていた身にはキツいものだったが、反面よい刺激になったし、錆付いた脳ミソの活性化にも役立ったと思う。
そんなわけで、98~99年頃の私のワインライフは、ワインスクールと受験勉強が中心だった。スクールの懇切丁寧な指導のおかげで、ワインエキスパートの資格については無事取得することができたのだが、その過程で痛感したのが、ネット上の情報の少なさだった。そもそもワインエキスパートの資格は96年に始まったばかりの資格であり、ネットで検索しても、受験記や経験談などは皆無に近かった。おそらく、翌年受験する人たちも情報の少なさに悩まされるだろう、だったら自分が微力ながら、と思ったのが、ホームページを立ち上げようと思ったきっかけである。ただ、それだけでは、あまりにニッチすぎるので、飲んだワインの感想やコラムのコーナーを作ったわけだが、今ではこちらがメインになっていることは言うまでもない。また、これも今から思えば笑い話のようだが、ワインサイトの数が限られていた当時、ネット上に飲んだワインのコメントを載せるというのは、かなり勇気のいる行為だった。その筋の偉い方から、おまえの表現はおかしいとか、若輩者が何をえらそうにとか、クレームが来るのではないかと真剣に心配したものだ。
■ セラーの購入
話の順序が前後してしまったが、スクールに通い始めるよりも前に、個人的には結婚という出来事があった。結婚祝いにずいぶんとワインをいただいたが(ちなみに前述のとおり、この頃はイタリアワイン好きで通っていたので、もらったワインも93サシカイアとか、90アニアとか、92ラ・ポーヤなど、イタリアものばかりだった)、当時は狭い賃貸マンション生活だったため、なかなかセラーを買えず、いただいたワインたちをずいぶん痛めてしまった。熱劣化したお祝いのワインを開けて嘆いている私をみて、カミサンがセラーの購入を許可してくれたのは、結婚後1年たってからのことだった。
ワインを楽しむために、セラーが必ずしも必須アイテムだとは思っていないが、セラーの購入が私のワインライフに与えたインパクトは、想像以上のものがあった。購入を決めたのは、これ以上手持ちの良いワインを劣化させたくないという守備的な気持ちからだったが、いざセラーを購入してみると、ワインを「集める」「手元で育てる(熟成させる)」という楽しみが加わったからだ。もっとも、これがきっかけで一時期ワインの購入に歯止めがきかなくなったのも事実であるが。
■ ワイン会デビュー
90年代の半ばから後半にかけての時期は、今のようにネットショップがあったわけでもなく、愛好家のブログがあったわけでもなかったから、私がワインについての情報を入手していた先は、もっぱら入門書や専門書、それに隆盛を誇っていた「ニフティサーブ」のFSAKEワインフォーラムだった。その一方で、ワインが一大ブームとなり、各誌でワインが特集されたりして、一般人が入手できるワインの情報が飛躍的に増えた時期でもあった。特に、何回かに亘ったブルータス誌の特集は読み応えがあるものだった。マット・クレイマーの「ワインがわかる」、ステファン・タンザーの「International Wine Cellar」、堀賢一さんの「ワインの自由」、山田健氏の「今日からちょっとワイン通」、岡元麻里恵さんの「ワイン・テイスティングを楽しく」などは、当時装丁がボロボロになるまで読んだ。「田崎真也のワインライフ」は、は休刊になって久しいが、当時アンダーラインを引きながら読んだり、テイスティングコメントのページを切り抜いてスクラップしたりしていた。
ニフティに関しては、ROM専(読むだけのメンバー)だったが、フォーラムの過去ログを保存して、何度も繰り返し熟読した。ログを読んでいつも羨ましく思っていたのは、豪華絢爛なものありアカデミックなものありと、さまざまな形で開催されているワイン会の報告だった。私自身はといえば、エノテカが主催するテイスティングイベントや東急本店の試飲コーナーには通っていたが、こうした愛好家同士のワイン会にはとんと縁がなかった。
ワイン会に顔を出すようになったのは、ホームページを始めて、同じようなワインサイトを運営する方たちと知り合いになってからのことだ。しかし、こちらもワインの購入と同じく、一度参加しだすと、歯止めがきかなくなってしまった。おそらく2000年から2001年ごろは、ワイン会の予定のない週末はほとんどなかったと思うし、土日連チャンなんていうこともザラだった。さまざまなワイン会に参加する中で、当誌のテイスターでもある山路さんや伊部さん、藍原さんなどと面識ができた。
まだこの頃は、熱心に飲んだワインのメモをとって、即日HPにアップすることを心がけていたので、ワイン会でメモをとるのが私のトレードマークになっていた。(ちなみに今はワイン会でメモをとることは、ほとんど皆無といってよいほどなくなってしまった。)
また、山路さんの紹介で、横浜のワインショップ「平野弥」さんの勉強会に参加するようになったのもこの頃だった。ワイン会といえば、私のサイトによく登場する*F師匠の「Burgandy Night」(http://red.ap.teacup.com/burgundy/)は、ブルゴーニュを垂直で飲むことができる稀有なワイン会で、ここで幾度となくすばらしいブル古酒を堪能させていただいたことが、それまで比較的全方位外交だった私のワインの嗜好をブルゴーニュ中心にシフトさせるきっかけになった。
■RWG誌との出会い
そんな中、当誌編集長の徳丸さんからこの雑誌のお話をいただいたのは、2001年の5月頃のことだった。最初の打ち合わせの内容はたしか、
「2001年12月頃を目安にワイン雑誌を発刊しようと思っている。」
「消費者目線で我々にとって美味しいワインはどれなのかを探る雑誌である。」
「ついては、一緒にテイスティングに参加し、レビューを書いている人を探している。」
「内訳は、ソムリエ等の飲食業従事者、ワインショップの方、それにHPなどで情報発信しているアマチュアの人たちをそれぞれ1/3ずつで計10人程度と考えている。」
「ここ(吉祥寺)で毎回テイスティングをするつもりなので、吉祥寺まで通える人、というのがひとつの条件となる。」
企画書を見せられて(このときは誌名すら仮のままだった)雑誌のコンセプトについての説明を受けたあと、ついては私にも参加してもらえないか、 というような話だった。
私としては、仕事やプライベートの関係上、そうそう毎回参加はできないと最初及び腰だったのだが、できる範囲で参加してくれれば構わないということだったし、会場も我が家から近いので、そうであれば、 趣旨に賛同とかコンセプトがとかいう以前に、タダでいろいろなワインをテイスティングできるという願ってもない申し出をを断る理由はなにもなかった。
この時は、のちのち思い知ることになる、自分のテイスティング能力や経験の不足とか、レビュー文を書く苦しみについてはまったく気にしていなかったのだから、無謀なものであった(笑)。ちなみに、発刊スケジュールは、その後、たびたび延期になり、結局創刊号が発売されたのは当初の計画から9ヶ月遅れの2003年8月末のことだった。
そんなわけで、いつのまにかこの雑誌のお手伝いをすることになったのだが、当時は、実のところ、雑誌といっても手作り感覚の吉祥寺発同人誌ぐらいにしか思っていなかった。
というか、創刊号が出る直前まで私はそう思い込んでいたので、創刊号の江口さんのすばらしい表紙を見せられたときには、「え?こんなちゃん とした体裁の雑誌だったの??」と驚いたものだ。
■ レヴュワーとしての葛藤
RWG誌のテイスティングは、系統的網羅的にテイスティングするという意味で、それまでの自分の経験値やテイスティング能力を飛躍的に高めてくれるきっかけとなったはずだが、反面、長く継続するのにはいくつかの困難を伴った。
最初に訪れたのは、日常のワインライフとの葛藤だった。
時間的な制約から、それまでのように毎週末ワイン会に繰り出すということがなくなっただけでなく、ワイン会などに出向くと必ず注がれる興味本位な視線とか半ば挑戦的な態度などに、うんざりしてきたのだ。そもそも、私は上記のようないきさつでアマチュア愛好家の1サンプルとして雑誌のお手伝いをなっただけで、今も昔も、決して世のワインマニアの頂点に君臨するような知識経験技能を持ち合わせているわけではない。しかし、雑誌の創刊当初はその辺を誤解する御仁が少なからずいて、「おまえのような若輩にワインの飲み頃が予想できるのか?」とか「どういう根拠で今飲んだ点数とポテンシャルの点数をつけているんだ?」などというやりとりに嫌気がさして、だんだんとワイン会などの場から遠ざかることになってしまった。
次にやってきたのが、(予想されたことだが)本業の仕事との葛藤である。平日行われるテイスティングについては、仕事が終わったあと、吉祥寺まで行って、毎回テイステイングを行うわけだが、仕事が忙しい時期にさしかかってしまうと、物理的に参加することが難しくなる。たまに体が空いたとしても、疲れ果ててしまい、だんだんと毎回出席するモチベーションを保ち続けられなくなってきていた。また、テイスティングに出席すればしただけレビューの担当が増えるのも、大きな負担になった。私の場合、レビューに加えてコラムも書いていたから、そのしわ寄せは結局、自分のホームページの更新に行くことになってしまい、自分のサイトのコラムの更新頻度は激減してしまった。
■ 家庭との両立に苦闘する日々
02年に第一子、03年末に第二子が誕生したことは、我が家にとって何にも代えがたい慶事だったが、ワインとの関わりに限って言えば、テイスティングだけでなく、私のワインライフ全般が、これによって一時、「壊滅的な」打撃を受けた。
世に二人子供がいる家庭はいくらでもあるのに、なにを大げさにといわれそうだが、我が家の場合、夫婦ともども比較的高齢だったこと、子供たちが年子だったことに加えて、この時期、義母が癌に犯され、闘病生活と重なったことも大きかった。
そんなわけで、まず、物理的にテイスティングやワイン会に出席することがまったくといってよいほどできなくなってしまった。
仕事が早く終わっても、子供の入浴や寝かしつけの手伝いがあって、夕食の時にあまりワインを飲めなくなった。
さらに、金銭的家計的な余裕がなくなった。考えてみれば当然のことである。ワインを飲み始めたころは、独身、その後もDINKSだったのが、一気に扶養家族3人になったのだから。
もうひとつ、私のようなネットを機軸にした愛好家にとって痛かったことは、ネットを巡回する時間、すなわちよそのサイトやBBSをのぞく時間が全然なくなってしまったことだった。かろうじて自分のサイトの更新をするのが精一杯。すっかり顔を出さなくなって、親交のとだえてしまったサイトやBBSもこの時期多かった。このように、金もなく、ワインを飲む時間もなく、ネットを覗いている暇もないという状況だったので、自然とワインを買うことも少なくなった。もっともそれは、子供の生まれ年のワインが出始める04年の半ばごろまでのごくわずかな期間にすぎなかったが…。
【過去記事】川島なお美さんの訃報に接し… 2022年04月13日
私のワイン履歴その2(RWGコラム拾遺集) 2021年07月17日
ワインとの向き合いその後(RWGコラム拾遺… 2021年07月15日 コメント(2)
PR
Comments
Category
Keyword Search
Calendar