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ネットで殺人依頼って、一体どういう神経してるんだろ。またそれに受け答えする人間も居るって…遊び半分にしても本気にしても、常軌を逸してる。ま、しかし警備がしっかりしてる限りは、そういう異常者が仮想段階で排除される事はあながちネットをやたらと批判するものでも無いかなと思う。ま、それ以前に昨日の論理から言えば、出来てしまう事は悪じゃなく、する人間の問題なんですよね。こういう問題があると必ずネットを批判する人を見ます。その理論を聞くたびにその人が犯罪予備軍の可能性すら感じますよ。出来てしまうと、してしまう可能性がある事を肯定してるんですから。ところで。車を運転していると、たまにマナー知らずと出会う事がある。故意にせよ不慮にせよ、なかなか許容のバランスが難しい。よく運転する人は解ると思うのですが、自分がマナー知らずの被害者になるのではなく、その状況を客観視する機会も結構あります。今日、指示器も付けず強引に割り込みしてきた車に対して、車間距離を詰めたりクラクションを鳴らしたりと強固な姿勢の車が前に居ました。気持ちはとてもよくわかります。分かりますがその行為によって交通の流れが悪くなってしまうほどの姿勢だったんです。絶対に許さないと強固な姿勢で運転すると、いつかそれが原因で他の通行に支障が出る。確かにマナー知らずの運転を許してしまうと、それが通用すると勘違いさせる事にも繋がるし、第一被害を受けた身としては気分も悪くなる。この辺りはホントに状況によって諦めないといけない部分というのはあります。うるさい!と叫ぶ正論の崩壊というか。アンビバレッジ。まぁ流動性のある規律そのものがマナーだから、それをわきまえて行動しなけりゃね。じゃなきゃ、気持ちが解るだけに不本意なんですが、それはエゴになってしまいます。ま、状況判断がきちんと出来る人ならば、そのエゴはある程度許容してくれるとは思いますけどね。許せない性格という一点で繋がっていると思うからこその指摘です。まさか自分もその部類に足をかけているなんて、多分きっと、本意じゃないはず。車繋がりでもう一つ。俺、前々から少々引っ掛かってるんだけど、飲酒運転、そこまで飲酒が悪いのか?それは悪いか。いや、ね。飲酒運転で事故を起こす奴は飲酒してなくてもきっと事故を起こすと思うのよ。酔っぱらって判断能力が低下する人間が、飲酒して運転するという事は、飲酒を軽く考えてる訳じゃなくて、運転を軽く考えてるように思うんです。飲酒しながら料理して手を切ったからといって、誰もそいつが酒を軽く考えてるなんて思わないでしょ?なんか全て酒のせいにして、そいつの運転技術や運転適正の無さをカバーしてるような気がして仕方がない。根本的に俺の本音は交通違反で取り締まられるのは運が悪いと思ってます。少なくても現状の交通ルールはそういうスタイルです。いくら綺麗事言おうが、円滑な運転をする以上、必ずどこかで違反してしまいます。厳密に言えば速度計に視線を送るだけでも違反になるんですから。つまり、結局ルールよりも運転には適正というものが必要なんです。違反云々関係無く、鉄の固まりを動かす以上、安全運転という事は成し得ないんですから。適正があれば節度が理解出来るはずなんです。逆に言えば適正の無い人は規則をいくら守ろうが危険なんです。あくまでも運転におけるルールは、他の法よりも厳格な理由は、適正を持たない人の危険性を少しでも減らす為に存在しています。運転の適正。つまり自身の運転技術がどの程度なのかを理解し、マナーをわきまえ、危険予測を立てる事。何よりも想像力の無い人は、運転の適正はありません。他人に迷惑をかける前に、悲惨な出来事が起こる前に、すぐ降りて下さい。車は刃物と同じで、自己責任の固まりですから。想像力さえあれば、酔いながら運転することで、それはもう壮絶な暗い未来が見えるはずです。制御出来ないほどの速度も、出せと言われても、出る車でも、出せません。
2006.01.31
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制度は悪くない。これ、前提でしょ。隙間に付け込んで悪どい事をする人間が悪いんですよ。また、それに対して新たに規制を強化するのが対策であり、それを後追いと呼ばれる事自体が本末転倒ですよ。規制が多くなるという事は、それだけ程度が低くなっているという事なんですよ。目くじら立てて制度の不備を責める事は、とりも直さず、我々は程度が低いんですと叫ぶのと同義です。公園の芝生入るなの看板を見るたびに悲しくなります。突き詰めると社会主義の世界がお望みなんでしょうか。程度の低いずる賢い悪人のせいで制度を改めなきゃならないなんて、迷惑だ。そう思うのが当然ではないでしょうか。制度の不備を責める事で、その論理の根底には必ず許容が存在するんですよ。問題よりも先に規制が存在する事の矛盾というのには、気付かないんでしょうかね。結局、国や政府って非難や責任を擦り付けるには持ってこいなんですよね。はけ口。あくまでも俺たちの代表である限り、天につばを吐いているんですよ。ま、それも結局自分は関係ないと変に客観的になれるから、そこまで深く考えられないんでしょうけど。仮に、建築検査を行政で行う為には、国民一人につき1万円いただきますと言うと、手のひら返したようにきちんと責任のある人物を責める事が出来ると思うんですけどね。もしくは行政が無駄使いを無くせばとか、論点をずらす人が出てくるのかな。安心してアメリカ産牛肉を食べたいと言う人には、国産牛肉と同じ価格で提供します。と言って、果たしてどれほどの人間が買いに来るでしょうか。
2006.01.30
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俺は、幽霊や霊魂などの存在を否定も肯定もしません。あるなら愉快。無いなら納得。その程度のものです。これは、あまり建設的に論議しようのない、ごくプライベートな部分だと、位置付けしているからです。しかもそういう位置にあるものは宗教論争を筆頭に、例外なく論争そのものが無意味で、しかもヒートアップしがちですから。
2006.01.29
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両親は俺が小学2年の時に離婚しました。親父の酒とギャンブルと暴力という、ごく一般的な理由によるものです。いや、後で解ってきますが、別にこれは糾弾するつもりの文章じゃ無いんですよ。両親とは現在うまくやってます。親父と母親の漫才のような会話をしている機会もたくさんあります。面白い親父ですし、変わった母親です。愛すべき人といった感じですかね。いやね、親父は寿司屋のため夜中まで帰ってこない。兄は5つ歳が離れているので、俺が小学5年の時にはもう、高校生。バイトに明け暮れていました。つまり夜、俺一人になる事が多かった。ものすごく恐がりな子供だったんですよ。その当時に道理もなにも無い心霊現象とやらに、かなり怯えていた記憶があります。でも、怯えたところで助けなんて何もない。だから自然に思考回路を働かせているんですよね。その当時に得た思考というのが未だに生きています。もし仮に幽霊というのが存在していたならば、何か理由があるはず。まさか生きている人を驚かすだけが存在理由なら、とんでもなく可哀想だと思いません?反対の立場になったとき、きっととても寂しいし空しい。そして、もしもそれだけじゃなく、何か理由があるとすれば、無差別に俺に何かしてくるだろうか。仮に悔恨の念があったとしても、俺には何もしないだろう。だって反対の立場になってみれば、関係のない人に八つ当たりしたところで、晴れる訳じゃあないでしょう。むしろ無駄な事をしたという悔恨の念が増える。ということは、もし何かあった場合、俺に関係する事だということだ。つまり俺が直接的に何かした事で、その人が幽霊になったということか。だったら仕方がないかも知れない。反対の立場ならそんな記憶も無く平然と生活していたら俺だって怒る。これだと怖いと感じる事も無く、仕方がないと納得出来る。すると、そんな存在があったとしても、怖くないんだと気付いたんです。むしろ、自身に当てはめてみると、死を迎えてもその後何かあるとすれば、結構愉快じゃないかと考えてしまう。変に今の俺に対して何かするんじゃないかとか、実態のないゆえの恐怖とかを考える必要なんて、実はどこにも無いんだよね。現実に当てはめてみると、テレビと同じなんですよ。ブラウン管の向こうの世界。多分驚いたり怯えたりしていても、幽霊はそんなこっちの心情関係なく、したいことをしているんだと思うよ。そんな存在があったとすれば愉快だし、無ければ無いで、論理的で現実的だ。ちなみに俺には霊感と呼ばれるものは一切無い。
2006.01.29
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このマンションに移り住んで6年以上。朝夜関係無く一回も欠かさずに、出会う人全てに挨拶をしてます。無視されようと、めんどくさそうに対応されようとも。今年に入り、ようやく変化がありました。出会う人の方から挨拶されるようになりました。無視される事も無くなりました。やはり姿勢が大事ですね。もう一つ。エレベーター内にて、自転車の乗り入れに出会う事が無くなりました。途中で出会っても「お先にどうぞ」との声が聞こえるようになりました。放置自転車は相変わらずの量ですが、以前の乱雑さは無くなり、整列されてます。張り紙の成果はあったようです。やはり分かっていないのじゃなく、みんな分かっているんですね。許されると人間は堕落するものです。そこで一つ、最近の不思議な風潮を警告したいのですが。公園で生活しているホームレスの主張は、前提がもう不法なんじゃないの?なのに公園を住所に認定させるのはどういう理屈なのか。是非とも知りたいところ。俺個人の意見ですが、テントの強制退去だって、例え夜中であろうがなんであろうが、自由にいくらでもして下さい。毎日してくれてもいいくらいです。そもそももう警告なんて要らないですよ。確信犯だし現行犯でしょう。じゃなきゃ、公共という概念が失われますよ。このままこんな風潮が続くなら、大阪の一等地の公園を占拠してみようかしら。いつか財産として認められるかも知れない。確かにホームレスは可哀想だ。俺にだって人情はある。けれど、だからといって不法を許容していいんですか。確かにホームレスだって権利はある。権利はあるが、濫用は出来ないはずだ。公共の福祉を反してはならないはずだ。社会の裏側の存在であるものを、表に出して問題視するのは正解だと思うが、それを認め、許容する必要は絶対に無いと、俺は思う。売春だって、本来はお互い合意をしている以上、心情としては間違いが無いはずだが、だからといって認め、許容する必要は無い。信号無視だって、何の危険性も無い状況なら、心情としては間違いは無い。だからといって認め、許容する必要は無い。駐車禁止だって、少々の時間なら仕方がないと思う。だからといって認め、許容する必要は無い。
2006.01.27
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またまたぁ、冗談でしょう。民主党のから騒ぎ批判にマスコミが乗っかるのは分からなくも無いが、あまりにも乗っちゃったもんだから自民謝っちゃった。…ペンは強いなあ。その責任が認められるなら、マスコミなんて存在出来ないじゃないか。言うまでもなくもちろん民主党も。しかしこれはそれだけマスコミって影響が大きいって事の裏返しなんだよね。そういや俺の周りではもうライブドア関係の報道はうんざりだという声しか聞こえない。まぁ冷静に考えれば当たり前の話だよね。一般的な生活の中で、買収や子会社の裏工作手順なんて、まったく必要のない情報なんだし。これってやはり煽る目的で、報道してるって事じゃないの?世間が興味あるから報道してるんじゃなくて、報道して世間に興味を持たせようという事じゃない?こりゃ本末転倒だよ。独裁某国の悪しき部分と変わらないね。よその国を批判してる場合じゃないよ、ホント。現にもう堀江は犯罪者扱いだものね。事実はまだ容疑をかけられただけなんだよ。いやぁ、しかし投資家だとかデイトレーダーだとか、もっともらしい肩書き作っても、所詮はバクチ打ちなんだって事を散々ここで言ってたけど、ここまで露骨にそうですと言わんばかしの行動する様を見てると、正直泣きたくなる。ライブドア株が2桁になったら買いだ、なんて汚い事この上ない考え方だもの。許しちゃダメだよ、こんな汚いの。葬式で赤飯食べるのと同じじゃないか。本人はどっぷり浸かっちゃってるから気付かないんだろうね。
2006.01.26
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う~ん。報道加熱による公平性の欠如だとかワイドショー化だとか相も変わらず顔を隠してる気持ちの悪い証言の羅列だとか、まぁ言いたい事は山ほどあるんだけど、過去に言った事の繰り返しになるから、ここにある気持ちは変わらないけど、あえて今特別に言える事が無い。正義にたかるのも一つの仕事、なんだなぁ。変な世の中です、ホント。報道は必要だけど、何かの手垢がついたものは要らない。それはそうと民主党、道義的責任だなんて一体誰に対しての、なんだい?所詮若者の新しい何たらというのはこんなもんなんだって事なのか。改革だ創作だなんだって言っても、チーズかマヨネーズか玉子入れておきゃ満足するのが若者なんだから。とにかく何でも批判して叩く事が野党という概念なら、まさに今の民主党は超保守的じゃないか。野党に馴染んでる場合じゃないだろう。そりゃ頑張れと自民から余裕を持って励まされるわ。堀江に関しては昔からそんなに興味が無かったから、逮捕に関しては何にも思わなかったなぁ。建設設計偽造を押し退けるほどみんな興味あるの?株は博打なんだからこんな事もあって不思議じゃないと思うんだけどね。まぁあくまでも容疑者なんだから、外野がともかく言う必要も無いしさ。変にワイドショーにかじりついていると、知性を疑われますよ。
2006.01.24
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それはそうと、関係者って結局誰なんだ。いつもいつも声を変えた、首のない人間が報道に出てきやがって。最近ではどんな事件でも一人は出てくる。あれに出てる奴って、どんな犯罪者よりも程度が低いと、俺は思う。テレビ局の社員にでもなって、ああゆう奴らを面と向かって指さして笑ってやりたい。あぁ。精神的に疲れてる時は、最近の報道は身体に悪い。ところで。会話の文頭にえ~、あの~、と入るのは、癖というよりも言葉を選んでいる状態。しっかりと自分の考えを述べる人には、無縁の癖。記者会見を見てるとき、そういう部分を気にしてます。そういえば、国相手に色々不備を指摘するため、損害賠償を求め訴訟を起こすニュースをよく目にします。俺は内容によっては、もう凄く原告側に共感し、国が勝訴したりなんかすると「不当判決」と憤りすら覚える事もあります。でもね、共感は99%を占めても、100%にならない。だってあれ、国を責めても解決の手だては税金でしょ、結局。国が敗訴になっても痛むのは国庫。それがなんだか釈然としないのと同時に、原告が勝訴したと喜んでいるのを見て、結局痛むのは国民なんだという事実が、その姿のどこにも存在していないのが、どうも釈然としないのも事実。なぜ損害賠償なんだろうって思うんです、最近。今日、車の運転中、さだまさしの「償い」を繰り返し聴いてました。あれはいいですよ、自然と安全運転になります。精神的に弱い人にはお勧め出来ませんが。「償い」は運転中に限らず、国民全員が聴けばいいなと思う曲です。償いに関するリンクです。下の方に歌詞もあります。
2006.01.20
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なぜ今なのか。裏を見る人は言います。もっと裏を見る人も、やはり同じ事を言います。でも、言う相手が変わります。まだ、捜査段階。そんなに時間をかけて、今、第三者が色々考える必要なんて、どこにもないんですよ。勘ぐってお金を得る人たちの、推測論争なんて、知る必要はどこにも無いんです。好奇心は時に悪意になります。今、関心を持つ必要なんて、どこにもありません。まだ、捜査段階なんですから。あなたが捜査出来る事は、何一つありません。また、断罪する事も出来るはずがありません。あなたの中にある一つの固定観念は、「誰か」の意図です。いつか責任ある立場から、真実が伝えられます。結果を待ちましょうね。第三者はそれからしか判断出来ないはずです。最近、ちょっと怒ってしまいました。簡単に事実だけを言うと、俺の中学の親友と、高校の親友が恋愛をし、喧嘩別れをし、俺に迷惑がかかってしまった事です。まぁ、恋愛は自由なんだから、その出来事はどうでもいいんだけど、それに対して何の報告も無かった事に対して、少し怒ってました。何にしても、ちょっと一言欲しかったという程度の怒りですが。言い合いが嫌いです。話し合いが好きです。揉め事の大半は話し合いが不可能になるから起こります。相手の言うことに対して、反論するのは話し合いです。自分の言い分を返す事は、言い合いに繋がります。問題を1つずつ消化していかないと、必ず揉めます、こじれます。つまり相手の言うことを理解することが、話し合いの原点であり、解決の糸口です。
2006.01.18
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ブログ大賞なんてのに応募してみました。お暇なら投票して下さいませ。こちらついでにみんなも応募しちゃえ♪
2006.01.16
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俺、この日記で散々毒吐いてるから、普段からこんなんなのかと勘違いされてしまいますが、普段は滅多な事では怒りません。これ、定期的に報告しておかないと、こいつ普段からこんなんだと、毎日疲れるだろうな、とかこんなやつとは付き合いにくそうだ、と簡単に思い込まれてしまいます(笑)ただし、人としてふみ行うべき道を誤る人は許せません。怒ります。
2006.01.16
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右翼とか左翼とか言わないで。本当にただただ着想した事だから。俺は振れないでおきたいから。ず~っと前から何となく釈然としなかったんだけど。戦争中に日本万歳やお国のためにと特攻で亡くなった方々を始め、戦争によって被害を受けた人たちや、その行為自体を、称えたり感謝したり感動したりするという感情が、どうにもしっくりと来ないんです。いや、まさに命を賭けて何かを信じ抜くという点で、すごい事だという畏怖はあり、忘れてはいけない悲惨さという点において、心に刻み込まれる事は解るんですが、そこにあるのは悲しみ以外俺には何もありません。お国のためにと命を惜しまない事が英雄であったのは、戦争中のあの時代特有の価値観であり、戦争を否定する事は、とりもなおさずその価値観をも否定する事になると思ってます。つまりその価値観を持つ事によって、間違った選択も正しいと思う思想に繋がるからです。もっと言えば戦争の根底にあるのはそういう思想です。日本は現在平和ですが、世界では戦争は現実に存在しています。平和な日本で、その現実を客観的に見る事が出来る立場にある俺たちは、自爆テロの恐ろしさというものを客観的な感情で理解出来ているはずなんです。もちろん出来事自体もそうですが、それが出来る思想という点においてでもです。聖戦という単語の矛盾点というのも理解出来ているはずなんです。その根底にある思想というのが、思想矯正そのものだから。確かに結果的に日本の現在の平和の礎となった犠牲者の方々、という考え方も理解できるのですが、その当時、行き過ぎた愛国心を皆が持ち、それによって悲惨な現実があったことは事実であり、その当時の目標はあくまでも現在の結果とはまったく反対だった事も事実なんですよ。俺は戦争被害者を英雄と感じられない。あくまでも悲惨な状況の中に居た悲惨な被害者だと思うから。また、その被害者達を英雄扱いすること、感動する事自体、その当時の価値観そのものだと、思いませんか?この感情を解りやすく説明しようと色々考えていたら、いきなり変な方向の答えが俺の中に出てきたの。ちょっと聞いてください。戦争はダメな事だというのを前提として。例えるなら。地下鉄サリン事件。オウムという組織が起こしたテロであり、標的は一般市民という、日本で起きた事とは思えないような、恐ろしい事件として俺の記憶に焼き付いてます。あの、テロの実行犯はその時それが正義だと、そう信じ込まされていて、きっと良い行いだと信じて疑わなかったんでしょう。もちろん組織自体もそういう価値観を持ち、実行犯は英雄だと言われていた時期もあったと思います。そして現在、もしもまだオウムという団体の中で、実行犯が英雄だと言われ、称え続けられていたら、俺たちの心情はどうでしょう。何かが違うと思いませんか。そういう例えを考えていたら、いきなりふっと気づいたんです。他国が靖国参拝を非難する感情って、これなんじゃないかと。正直に言って、俺は今まで戦犯者であれ戦争被害者であることを信じています。これは今でも変わらない感情です。だから、誰であれきちんとまつられてしかるべきだし、そこへ誰であれ、参拝することは自由であり、戦争被害者に対して心に抱いた感情を表に出す行為は、あくまでも個人的な問題であり、首相の参拝は個人的な事だと思うし、仮に影響を考えても自国内の問題であると思い、他国がとやかく言う事を快く思っていませんでした。うるさい、ほっとけよと、声に出した事すらあります。でもさっき例えを考えているとき、正直、もしも今、オウムの指導者である麻原の後継者が、サリン実行犯をまつり、祈りを捧げる行為を、テレビで流したりすればどうなるのでしょうか。俺は直接あの事件によって被害があった訳でも無い。けれど怖いと思うし、やめて欲しいと思う。確かに、実行犯であろうとも、思想を矯正されているという点で、被害者の一人であり、もしもあの事件で命を失っているとしたら、まつられて当たり前だとは思う。思うけど、怖いと思うのも事実かなと。ちょっと、思考の方向が変わりました。
2006.01.13
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例年通り、全国各地で福を授かるという行事が行われましたね。もし。福というのを授ける地位というのが存在していたとして、そこに君臨する者が居たとして、仮にそういうところに俺が立てたとすれば、我が我がと強引に授かろうと強行する人たちを尻目に、静かにお祈りをしている人にこそ、そっと授ける。少なくてもそういう精神が根底にあるのが、教え、なのではないでしょうか。まあ、お祭り騒ぎに水を差したい訳では無いけどね。
2006.01.10
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小さな頃から、俺は独り占めという事が嫌いだった。誰かが欲しがっていたら、駄菓子でも何でも確実に分け合っていた。格好をつけている訳でも何でもなくて、自分だけが良い思いをしている状況を、心から嫌っていた。何か誰か一人だけしか貰えない状況になると、俺は確実におりていた。それは引っ込み思案なんかではなくて、率先しておりた。誰かが得られないという悲しみを味わっているというのを、得た自分から見るのが耐えられなかったからだ。それはどれだけ真剣に欲していたものでも、喜んで諦められるくらいに。子供の頃、たまに誰かが言い出して始まる、「仲間はずれみーつけた」という、仲間の中の一人だけ違うところを指摘する遊びを、心の底から嫌っていた。いくら全員が笑って楽しんでいたとしても、俺だけが楽しめなかった。笑顔にもなれなかった。根本的にどんな事でも共有というのが、とても好きだ。格好良くは無い。そのせいのデメリットはある。相手は要らないものでも、半分強要してしまう状況が、多々ある。それは相手の本来の気持ちを思うゆえの行動では無く、あくまでも俺の中にある共有の精神による行動だからだ。その感情は現在も確実に息づいていて、どんな些細なメールでも、基本的には友達全員に送っている。こりゃ迷惑かな、なんて思いながらも。食卓に自分だけにしか無い食材があると、確実に「一口食べてみて」と、周りに勧めている。嘘がとても下手だ。ついてもすぐに見破られる。本当に解らないように嘘をつくことも、それなりに知能があるんだから可能だし、本当に喋っちゃいけない事は、いくらこんな俺でも誰にも見破られる事は無い。さすがにその辺りは解っている。あくまでも自分の事に関する事なら、という事ね。なぜかと問われると「嘘をついている俺」というのを、心のどこかで共有したいという心理が働いて、無意識のうちに何かどこかに痕跡を残してしまい、すぐに見破られるんだと思う。その点をよしはすごく理解している。だから嘘をついても本当の事を言ってなどとその場で問いつめたりはしない。ほとぼりが冷めた頃、「あの時嘘ついていたね」と、きちんと「嘘をついている俺」を守り、そして共有してくれている。俺が一口食べてと勧めると、本当に嫌いな食材では無い限り、たとえお腹いっぱいでも黙って一口食べてくれる。どれだけうっとうしい細かな話でも、真剣に聞いてくれる。記憶に残してくれている。あぁ、こいつよく解ってるなぁ、と思う。いきなりとんでもなく小さな事を言い出したのは、このことは俺を明確に表しているなと思ったからだ。このことは根本的な俺の全てにつながる精神だと思う。多分大袈裟でも何でもなく、このことを理解してくれているから、よしと一緒になったんだろうな、なんて思っているんだ、最近。
2006.01.09
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所定場所以外のマンション周りや玄関付近、共同通路に自転車を停めている方へ。知り合いや友人をこのマンションへ呼んだ事はありますか?その知人は間違い無く、このマンションの景観の汚さを見て、この人は程度の低いところに住んでいるな。という印象を持っていますよ。持っていなければ、その人の程度が解るというものです。そもそもあなたは客観的に見て、この状況が綺麗だと感じてますか?確かに、構造上面倒な場所に、所定置き場があるのは解りますが、だからといって安易に、利己的になっていいとは言えませんよね。自分さえ良ければいいという考えは、下劣な犯罪者と同じ考えですよ。しかも常識外れな放置自転車の種類を見てみると、小さな子どもを乗せるタイプの自転車が、多数存在している事に、恐怖すら覚えます。子どもの事を少しでも考えられるのなら、親として大人として常識的な行動をするべきではありませんか。子どもに植え付けた親の非常識な行動の記憶は、今後あなたが100万歩以上歩こうが、無くす事は出来ません。反論する前に自分の行為の愚かさに、気付いてみてはいかがでしょうか。常識を知る人は皆、あなたを憐れみの目で見てますよ。いきなりで申し訳ありません。さきほど、我がマンションの玄関掲示板に貼ってきた、張り紙の内容です。はい、タチの悪い、口うるさい親父の行動です。解ってます。でもね、情けない事に、もうそれはホントすごい状況なんです。とにかくこの辺りの近所のどこを見回しても、ここまでひどいのはこのマンションだけというくらいに。生きてきた中で一番ひどい状況と言えるくらいです。12階建ての綺麗なマンション。世帯数はかなりのものです。冗談抜きにして所定外にとめられている自転車の数はゆうに200台を超えている。毎朝、出勤時にエレベータに平気で自転車を乗せる人が多数。日に日に多くなってます。この間は原付を乗せてる人がいましたよ、しかもエンジンかけっぱなしで。さすがに注意をしたのですが、こちらを睨み、まるでこちらが悪者扱い。まぁ注意する前から、こんな暴挙が出来るのだから、相当な時間を費やして論破しなきゃ理解しないだろうとは、思ってましたが。連鎖というのは恐ろしいもので、このチラシに書いた通りに、最近では、子供が平然と自転車を所定外の場所に置いていきます。もちろんエレベータにも平然と乗せます。子供には未来があると、変な逆差別をする前に、まず自分が本当に当然の事をしていればいいだけなんです。こういう根本的な欠落部分を一つでも埋める努力をする事ですよ。なぜダメなのかとか、どういう道理で禁止されているのかという、どうでもいい説明なんてする必要も無いんですよ。子供は解ってますから。その概念を乗り越えられる事があれば、子供に限らず人間なら誰しもダメな事をします。最近の子供の未発達な部分のほとんどは、知らないからしているんではなく、出来るからしているんです。全ての商品ご自由にどうぞと書かれたスーパーでは、誰だってご自由に持って行くでしょう。そこで相手に対して気を遣いお金を置いていくのは、良心・善行であり、道徳を超える行為です。大人の行いが子供に影響がどうのこうのという馬鹿げた理論なんてのも、まったく必要の無い事です。親の背中が無くても、立派な大人は大勢います。あくまでも結果的に見てみれば、という論理を全面に押し出すのは本末転倒というものです。自分の中で道徳を考えて、まず自分が人として生きる事を成立させる事が、ひいては他者にも繋がる可能性があるというだけの事。子供に限った事じゃない。また、その結果のためだけに、道徳がある訳じゃない。大人であろうが子供であろうが、そこに差は無く、道徳を考え、守るべき事は守る。人として生きていく上で当然の事です。大人だから正邪を判断するという考えは捨ててください。子供だから大人に習うという考えは捨ててください。とにかくまず自分が道徳を考えていれば、結果は後からついてきます。だからこういうのは影響ではなく、あくまでも連鎖なんです。8人乗りのエレベータなので、自転車を入れようと思えば、対角線じゃなきゃ入らないの。でも、ドアが開いている時間内にその状態にするのは、そんな簡単にはいかないんでしょうね、自動でドアが閉まるたびに、ちょうどスタンド部分が引っかかるんでしょう。その高さの部分の壁やドアが傷だらけ。もうね、限界だったんですよ。現実の社会では、折り合いをつけて生きていく事だけが正解だと、いつまでも甘えていてはダメだって。みんなは怒ったり反抗する事は幼い事だって言って、甘えているだけです。「大人になる」と世間で言われていることは、とりもなおさず、全て「妥協する事」なんですよ。俺は怒れる老人になりたいと思いますよ。
2006.01.08
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今まで出会って見知り、気軽に会話が出来るようになった人たちを、思い出してみると、俺はかなり恵まれています。確かに同性に告白された事や、異性に二の句を継げないほどの振られ方をしたこともあります。が、全てにおいて何かしらの影響を与えてくれていて、ひとつも悪い方向に流れませんでした。もちろん裏切られたり、騙された事もありますが、それも起こるタイミングがばっちりで、あの状況じゃなければ人生の方向性が、変わっていたなと実感できるほどです。おかげで一つの勉強だと思う事が出来ました。俺は特別前向きな考え方をしているという訳ではありません。タイミングが悪ければ、徹底的に後ろ向きになることもあります。実際、個人的な問題に関しては、睡眠が取れなくなるほど、後ろ向きな考え方をすることもあります。でも、対人関係ではそこまで深く傷つく事がありませんでした。この先、どうなるのかは解りませんが、少なくても今まではかなり恵まれています。基本的には俺は人を選りすぐる事はしませんが、相手に合わせてしまうタイプです。俺が生理的に受け付けない人というのは、道理を通さない人や、一言を惜しむ人。選りすぐっている訳では無いのですが、勝手に相手から去って行ってしまいます。相手にそういう欠如があると、俺は無意識に必要以上な道理を通したり、クドく一言声かけをしてしまうようです。どうやら俺が相手を受け付けないなと意識する前に、俺は相手に受け入れてもらえなくなるようです。そもそも俺には人を嫌うという概念がありません。好きではないという事はありますが、だからといって嫌いという意味じゃない。そりゃ周りを気にせず手前勝手な行動をする人を見ると、ものすごく腹が立つし、ひどいのになると軽蔑すらするんだけど、その人の事を嫌いという訳じゃない。選んだ思想や、残った思想がそういう行動をさせるだけで、色々知れば誰でも簡単に、気遣いや道理を通すことは、出来ると思ってますから。だから人間関係において俺から去るということがまず無いんです。選んでいた訳じゃなく、俺を選んでくれた人たちが、全て俺にとって恵まれていたと考えるだけで、とても幸せな気持ちになれます。さて、ついにやってしまいました。取り締まりをしているお巡りさんとの接触。今まで何度も着想しては、押しとどめていたんですが、どう考えても、交差点付近に停車している違反者監視中のパトカーが原因で、数珠繋ぎになってる道路に入ってしまい、その着想を押しとどめる事が不可能に。自車をパトカーの前に停めて、お巡りさんの目をしっかり見つめ、窓をノックしました。まぁ俺の会話の内容をまとめてみると、パトカーであれ、渋滞を生むような停車の仕方はダメだという事。交差点付近は駐車禁止だというのが違反だという原点は、視界や運転に支障があり、危険だからという事では無いのかという事。取り締まりを一点に絞り、他は無視するという事の矛盾点。取り締まる内容がUターン禁止だったので、右折信号がある交差点内でのUターン禁止の意味を教授してくれという事。対応させられたお巡りさん曰く、勤務中、業務遂行中のパトカーは駐禁を免れるんだと主張。取り締まり内容を拡散することは、取り逃がすおそれがあり、人手も多くなると主張。Uターンに関しては、直進車が止まり歩行者が横断する事があり、その歩行者を巻き込まないよう未然に禁止していると主張。それに対し、パトカーだからといっても、他と同じ大きさの車であり、邪魔になることには変わりなく、罰則が無かろうが、その規則の根底から考えると、違反じゃなければ、交通の阻害をしても構わないという考え方はおかしい。確かに緊急性のある業務というのは職業柄、存在するのは理解しているし、内容によっては協力は惜しまない。だが、緊急性の感じられないUターン禁止違反者を監視中の今、邪魔になっていることを容認する事は出来ない。そもそも駐禁と略すなよと。駐車禁止くらいは同時に取り締まる事も可能だし、信号無視なんてのは、同時に取り締まれるはずだ。あなたが取り逃がすという言葉を使っている道理は、取り締まりを一点に絞った上での事であり、俺の言う、他も取り締まれるという道理で言えば、すでに取り逃がしまくっているんだということが言いたいのだ。Uターンに関しては、信号がその未然に防ぐという役割を果たしているはずで、信号無視をする歩行者達を取り締まる必要性のほうが高く感じる。少なくてもこの交差点は右折信号があり、直進車との事故は考えにくいし、それほど混雑している道路では無いのだから、次の信号で停車している車も少なく、この交差点内まで車が溢れる事もない。少なくても今、ここから見える範囲内で、事故の危険性が一番高い要因はこのパトカー自体だ。それに対しお巡りさんは、邪魔にならない場所に移動しますと一言残し、パトカーを発進させた。・・・まあ、その時はかなり憤ったのだけど、後から冷静に考えると、移動するという以外は、すべて制度に関する事であり、それ以上の対処は一介のお巡りさんでは無理だね。去年は色々内向的に不満を溜めていたが、今年の俺は動く。少なくても1ヶ月以内にまた、お巡りさんと接触してみようと考えている内容が、あります。もちろん、今回のように相手の勤務内容をきちんと踏まえた上で、俺が感じる矛盾点の解決が重要だと判断してから、行動を起こしますよ。矛盾点に振り回されるんではなく、振り回してやる。
2006.01.07
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年の瀬の夜中にガラの悪い男からの電話。いきなり母親を起こせと怒鳴る。時間を見れば2時過ぎ。冷静に対処していると相手は親戚と名乗りだした。なんだ、これ。一種の詐欺行為なのかとも思ったが、やたら知っている名前も飛び出してくる。こりゃ本物の親戚だ。相手の常識の無さをいちいち説明し、延々と繰り返される罵倒を駆逐していった。どうも50代男性のようだ。最後はそっちへ行くという脅し文句と共に回線が切れた。来てくれるのならこちらも話がしやすい。まあもちろんその後来るはずも無かったが。次の日の朝、母親に話を聞くと、亡くなった親戚と母親が、生前果たせなかった口約束をしていた事が発覚し、それが元で亡くなった親戚の家族と口論になったとの事。まあ詳細は語るほどの事ではないが、どうも電話で罵倒してきた者は直接関係のない親戚だということ。まるで小学生のいざこざみたいな些細な事で、こんな解決の仕方(正しくは問題の提起だが)を選択するなんて、人生の先輩として尊敬できる姿とは雲泥の差。こんな事に巻き込まれたのも、生前親しくしていた人の、墓参りを疎かにしていた罰だと警告し、母親をお墓へ連れて行った。きちんと関係のある親戚の家にも行った。関係のない人物が勝手に問題を大きくしていた模様。お節介というかなんというか。まあ、物心ついて初めて会う親戚の人にも、新年の挨拶も出来たし、結果オーライでした。あの電話口の人に会ってみたいと思う心境は、びっくりするほど沸いてこない。不思議なものです。明らかに成長する努力を怠った人とは、少々距離を置いてしまいます。それはそうと、意識調査や統計調査って、そろそろやめませんかね。500人程度に聞いてみたり、選択問題だらけだったり。無駄なものなのに、こねくり回していかにも正しいかのごとく解説している記事にはもううんざりです。だいたいそんな出来レースの回答を、知りたいと思う人なんて居てるんですか?あんなのを元に真剣に話し合うなんて、俺なら笑いが止まらなくて無理だよ。なんだよ、家計を今後1年引き締めるのが58%で、今後1年以内に買いたいのはプラズマテレビ26%って。こんな無駄な事を聞いてる暇があるのかね。日本の未来は明るいよ、ホント。プーの人間が増えたがどうのなんてのも、いちいち本人に意識調査して、雇用が厳しすぎる、行きたい業種が見あたらない、だから雇用問題を考えようだなんて、真剣に言ってるんだからなさけない。そんなのを支えるからいけないんだ。無視すりゃ自然に食えなくなって、変なこだわりなんか捨てて、どこか探して働くって。変にワッと集中して関心を持つ人が多すぎるんだよね。ほっとけば自然に駆逐されていくものを、なんだかブームみたいにやたらと話題にしちゃうんだね。その割に最後まで関心を持っている人間なんてやたらと少ない。だから少しでも関心を集めたいから、少数でも関係なく調査をして、話題を供給しつつ、大多数の人がこう思っているなんて煽って、関心を持つ人の意識を持って行きたい方向に導くんだね。子供が被害を受ける事件が多かった昨年~なんて言い始めるのも、裏に意図が感じられるんだよね。子供は地球の未来なんだからと、変に意識しているのも、実はこういう情報の操作が原因なんだよね。具体的に考えれば、そういう意識を持った人は、もっと現実的に動いているはずなんだよ。登下校時に道に立って子供の安全を確保しているとか、近所の要注意人物を把握しているとか。体罰や虐待なんてのも、これだけ正論の意識が蔓延しているなら、もっと発覚するはずなんだよ。意識だけがあまりにも立派すぎて、結局その正論を持つ事だけで満足してしまって、具体的には何もしなくなってる証拠だよ。それこそが本当の悪意なんて事を、想像にもしていないんだ。だから平気で毎日のように怒鳴り声が聞こえていたなんて、殺人事件のあった近所の人の平然と話す声が聞こえてくるんだよ。結果論でただ闇雲に正論を理解している事の大半は、こういう報道の操作の結果なんだよ。具体的な対処の方法も持たない空虚な意識。そんな意識じゃ、すぐ興味も消えるって。もう今や人を襲う熊も凶暴な猿も地球上から消えたのと同じ状態でしょ。木を守れ、水を守れ、資源を守れ!だなんて興味を煽れる事件が無くなれば、一定の周期で出てくる。でもいつも結局具体的な対処は生活の中の些細な事だけ。もっと根本的な改善策なんていくらでもあるじゃないか。割り箸を使うなとかレジ袋を使うなとか、そんな細かな事言うよりも、すべて引っくるめて贅沢するなの一言で済むよ。本来なら子供の痛ましい事件だなんて特別視する必要なんて無いんだよ。大人も子供も老人も男も女も、等しく事件に巻き込まれたら痛ましいんだから。そういや最近経済関係が話題だね。経済効果だとか株式だとか、そういう単語をよく耳にするようになった。株なんてどれだけきれい事言おうが、結局博打なんだよ。投資だなんて言葉を使ってるだけでさ。よく出てくるファンドの人たちの顔つきなんて、みんなどう見たってバクチ打ちの顔だよ。目が変に据わっちゃってさ。儲けた損したなんて露骨に欲望丸出しで言い合って、恥ずかしくないのかね。結局痛い目を見ている人間は一切表に出てこないものね。パチンコで借金まみれになってる悲惨な人が居てるのを、皆は知ってるのにね。株でも同じような人は居るんだよ。でも、それは裏側なんだよね。表では、経済を意識している立派な人。表面をいくら綺麗にしても、裏とのギャップがひどくなるだけなんだよ。株は経済の指標にされてるから、変に株をしてるだけで偉そうだしさ。経済学を不純に利用してるだけだよ。欲望丸出しなのに、経済がどうのと講釈しているのなんて、冷静な目で見れば、かなり滑稽な事だよ。結局立派な講釈言おうが、儲けさえあれば、滑稽な姿でもなんでも見せますといった感じで、変なCMも甘んじて受けてるじゃないか。所詮、そういう事なんだよ。経済効果ってのも、言葉の定義をきちんとして欲しいよね。阪神が優勝した経済効果はいくらでしたってさ、絶対に毎年どこかが優勝するんだから、きちんと平均取って、その差を指標にして欲しいよ。ウォームビズの経済効果だって、石油じゃんじゃん焚いて、電気バカバカ使って、出る経済効果をきちんと引いてから出して欲しいよ。なんか統計にしても変に数字に弱いよね。これだけありましたって、大きな数字であればあるほど、なんだか大きな事なんだって簡単に納得するんだものね。そういう意味では、最近開示開示と言われてるから、そのせいで「隠す」事がうまくなったものね。前々から言ってるけど、拉致問題の新たな事実という報道が、いつもいつもテンポ良く出てくるけど、言い方変えればタイミング良く隠していた事を出すものね。別に批判する訳じゃないけど、全部もっと早くに言えそうな事ばかりだものね。結局こちらから動いて得られる情報なんて、ほとんど無いんだよね。全て与えられる情報だけで、全て開示されたと納得してる。言わないことは隠す事とは違うからと言い逃れが出来る、トンチが効いた「隠す」行為なんだよ。開示だけを先走っても、結局「隠す事の選択」が増えるだけなんだから。政治家でも何かの代表者でも、問題が起これば、後から後からどんどん新たな問題が発覚するのも、こういったところがあるからなんだよね。変に裏表がはっきりとしてるんだよね。また、それがどんどん簡略化しちゃってる。性の解放なんてのも、変なところで引き締めて、他ではじゃんじゃん解放しちゃってるでしょ。思想と現実との差が開き切っちゃってるんだよね。差別はダメだなんて叫んでいるのに、高校、大学では明確な差を全面に押し出してる。高利貸しのCMも、裏表がはっきりしてる。あれだけ露骨に表を綺麗に繕うのは、逆にすごいと唸ってしまうよ。変なリストバンドをして、ファーストフードでバンバン食べ残しを廃棄してるんじゃ、話にならないって。本来の開示は裏も全て明確に見せてから、悪しき事を駆逐して、初めて開示出来るんだよ。子供に悪影響がどうのなんて言って、隠す事で、結局それが良いのか悪いのか説明出来ない。性の問題でも、変に隠しちゃって、結果的に本来の悪しきことを容認しちゃってるんだよ。性をお金の対象にしちゃいけないなんて言っておいて、ビデオにして売っちゃえばOKなんて、どういう線引きなのか、誰も説明出来ないって。正論を一つ言うたびに、自分の意識じゃないから、全てがそういうギャップと戦わなきゃならない。いきなり答えだけをもらっているんだからね。だから簡単にそのギャップを埋めるために、自身への疑問を持たない事が出来るんだよ。まずはその疑問と戦って、勝ってから、初めてそれに似合う正論を持てるんだよ。順番がまったく反対なんだよね。だから自発的に具体的な行動も思いつかない。間の式が存在しないんだよね。エコとか環境保全なんて言って、誰かに言われた対処をしているようじゃダメだ。真剣にその正論を身に付けるには、まずはそれに似合う行動を起こしてからじゃないと。大きすぎる正論は、結局ギャップが生まれるだけなんだから。暖房の設定温度を変えるだけでは、何の変化も生まれないんだよ。些細な事から始まる事もあるだなんて、そんなのあまりにも些細すぎるって。車を1m動かすだけで、そんな些細な努力は消えちゃうって。少なくてもそんな式でエコなんて答えには、どうしたってたどり着かないんだって。結局頂いた正論なんて実は空虚なものだって事が、解らないんだよね。医療費がどうの年金がどうのって言う前に、簡単に病院へ行くなって。病院へ行く事で、どれだけの負担がどこにあるか、そういう事をどれだけ考えているんだろう。それを深く考えたら医療費負担が上がる事なんて、反発しようも無い事に、どうして誰も気づかない。今年はもっともっと深く考えて、正論を一つでも多く言える一年になればいいなと、思ってます。
2006.01.05
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あけましておめでとうございます。15日までは松の内、誰と会おうとも、多少遅くても新年の挨拶は欠かしません。正月休みは結局ずっと動いてました。年末恒例の親父の寿司屋のお手伝い。なぜか毎年年末行事として鯖寿司を売ります。節分の巻きずしのような感覚で。こぢんまりとしたお店なのに、毎年200本程度売れます。家族総出で手伝うのが我が家の慣わしです。大変だけど、毎年正月は健康的に目覚められます。紅白はちらっとだけ見たけど、なんだか、正月気分が吹っ飛ぶ感じでしたね。まぁ毎年見ないからかもだけど。元日からは親戚巡り。初詣は橿原神宮へ行ってきました。実のところ、2年ぶりくらいの遠出です。遠出といっても奈良なんですが、ひなたがおなかの中に居てるときに淡路島に行って以来の、大阪脱出。ひなたも1歳を超え、少々の遠出に耐えられるようになったので、今年からはじゃんじゃん表に出ようと思います。マリオカートDSを自分のお年玉として買いました。もう左手の親指第一関節の皮が薄くなってます。ファミコン世代はやはり単純な構成のゲームにはまってしまいますね。ひなたにジャングルジムを買いました。どうせならとすべり台とブランコも付いている方が豪華だと思い、ちょっと奮発しました。しかし、いざ組み立ててみると、部屋いっぱい。こりゃ少々失敗です。でも楽しそうに遊んでいるので結果オーライです。今日はやっとのんびりと過ごす休日。マリオカートを飽きるまでやりたいと思います。
2006.01.05
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