2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
全6件 (6件中 1-6件目)
1
もうこれは哲学とかの次元でもなくて、とってもプライベートな部分だと考えているから、共感も反発もいっぱいあるんだろうけれど。もちろん俺は死にたい訳でも無いし、自殺や殺人を肯定したい訳でもない。ただ、やっぱり「生きている」という現状の中に居てる限り、こういうのは常に考えていなけりゃならない。これは人間の枷だと。結構キツい言い回しがあるので、気分を害さないように、この話題が嫌いな人は読まないでくださいね。生きることって素晴らしいなんて言うけど、一体どこまでが生きる素晴らしさなんだろう。借金背負って隠者のように生活していても、そこにはきちんと喜怒哀楽があって、充実したものがあるのかどうかとか、寝たきりになって家族全員が看病でクタクタになっていても、その中には生きる価値があるのかとか。様々な状況の中で、生きる素晴らしさを感じる部分って、果たして全て「生きる事」の中にあるのかどうかって。そんな事を考えていると、死を徹底的に忌み嫌う思想が薄れていく。死の中からこそ、生きる価値があるんじゃないかって。自殺なんてまったく認めていないけど、そこにたどり着くまでの間に、一体何があったのだろうかと考えると怖くなる。その怖さの根源は、理解できないところでもあり、理解したくないところだからこそ背筋が凍る感覚になる。そこから逃げるようにして、自殺を忌み嫌う人は「生きる価値」を感じるんじゃないかと。生きる価値は無条件に確定出来るものでは無い。それがまず前提なんじゃないかなって、そう思う。ある地点から脱出すれば、素晴らしい事があるなんて、それはその「ある地点」が理解出来ないから出る言葉なんじゃないかって。どこまで理解出来るのか。極端な話、今ここで大きな地震があって自分の子供が瓦礫に足が挟まって動けなくなった時、次に余震が来たらもう助からないようなそんな混乱した状況の中、当てもなく救助を待つのか。それとも足を切ってでも今助け出すのか。死ぬ事って一概に悪いとも言い切れないというのは、みんな実は薄々気付いている事なんだけど、やっぱりそこを言い切っちゃうのは恐怖なんだよね。その定義というのがものすごくプライベートな部分だから。意識もなく、延命装置で動いている心臓を、あと1ヶ月間、余分に伸ばす事は、本当に正しい事なのかどうか。死にたい程の悲しい出来事を乗り越えて明るい笑顔になることが、美談として語られる事があるが、実は見たくない部分を排除出来るからこそそれを美談として、語られるのではないかって。命は無条件に尊いものだと思考をそこで止めてしまうことで、実はもっとも命を軽く考えているんじゃないかって。それは本能だと思うんだけど、じゃあ本能って突き詰めると、決して美談では語られない部分の方が多いんじゃないか。猫や犬を捨て、保健所で処分される話を聞くと、やはり無意識に可哀想だと思う。ただ、もう一方では狂牛病がどうのって冷静に「食肉」の会話が出来る。このパラドックスって、人間の根底にはやはり「差別心」が脈々と流れている証拠だろう。無知や未知なるものに対しては、やはりプライベートな物差しで測ってしまう。ということは「生きる価値」というものに対して、未知であったり無知であったりしてはいけないのではないかと。将来寝たきりになってでも長生きしたいと思う人なんて居る訳がない。でも、実際にはそういう人も大勢居て、結果人間は長寿の道を歩いている。その流れの中で自分の理解出来る範囲に戻そうと、健康に対して必死になるのだろうとは思う。死に対しての価値というのを突き詰めれば突き詰めるほど、生きる事に対しての価値が見えてくるんじゃないかと思う。人間にとって究極の愚かな行為だけど、死を覚悟し戦場に赴く人たちは生きる価値をとことん味わっているように見える。死ぬことを遠ざける事で、実は生きる価値を失ってしまうんじゃないか。生きる価値を味わいたければ、まず死を隣に置いておかなければならないんじゃないかって。死にゆく人を鞭で打つ訳じゃないけど、自殺をする人に対してかけてあげる言葉は、解らない。としか言えない。
2006.07.29
コメント(2)
突撃してきました、警官に。飲酒運転検問中のお巡りさんに色々質問。まぁ質問内容自体はここで言えるほどの事でも無いんだけど、とにかく気になった点がある。お巡りさんは目が違う事。これは結構な割合の人が知っている事と思うけど、明らかに通常の人とは違う眼光があるんだよね。俺も昔からそれがすごいなぁって思っていた。でも、今でも違うことは違うんだけど、過去にあったその眼光の質が変わってる。あら探しの目がきつい。ドンと座った強い眼光じゃなくって、キョロキョロと落ち着きが無い。基本的に目を合わせない。座っていないというか、昔みたいにドキッとしてしまう眼光はもう無い。代わりに何だかドキドキさせる眼光。その独特の眼光によって、悪いことしてなくてもびびってしまう事には変わりないんだけど、なんだかこの眼光は誇れないよね。飲酒で捕まえた人を相手にするときでも、基本的に相手の目を見ない。何だか解らない紙に何かを必死で書いて、必要以上の会話をあまりしない。「こらっ!」って叱るべきところを、なんだか事務的に処理する。昨日までギンギンギラギラ警察に対して不満やら批判の心があったんだけど、果たしてそんな力感を出せる相手なのかと。なんだかなぁ。
2006.07.28
コメント(1)
10日間の経緯と変化。運動1時間のウォーキングと3度のバッティングセンター摂取した食べ物とうふ、明太子、冷しゃぶ、ほうれん草、サラダ、ゴボウやにんじん等の根野菜ご飯はお代わり無し。1日1杯程度の朝の牛乳。6月30日(開始日)体重 85.0体脂肪 26.0LBM (筋肉量)35.07月9日現在体重 82.5体脂肪 27.3LBM (筋肉量)34.7
2006.07.09
コメント(2)
美学を持っているという事はとりもなおさず美学を学んだ結果だ。美学は学問だ。綺麗、美しい、格好良いという個性的な快感の感性は直感で持てる。決してそれが悪いと言うわけじゃないが。それを自分を律する動機とすれば、それはとても下品だ。自分に対して、恥ずかしい、格好悪い、という苦痛の感性は、それが愚かだと判断しなければ生まれない。学び、判断し、受け入れる。そして自分を律する動機にすること。それが美学だ。美学を持つ事で、世の中にあるどんな価値の物差しを使っても、計ることが出来ない具現化されない価値を感じられる。品がある。どんなに高級で高価でも、美学を持たずにいれば、品性下劣だ。世界一大きなダイヤの指輪が下品に見えるのは、きっとこういう事なんだろう。
2006.07.09
コメント(0)
すごく暴力的な表現になるけど、叱るとき殴れるかどうかで言えば、俺はいつだって殴れる。その位置エネルギーというかそういう精神力って、どれだけ自分を客観視出来るかってところに、危うさがある。そこを判断できなければ、資格がある無しじゃなくて、均衡を保つことが出来ないはずの事だからだ。結局画一した対応なんて皆無で、それが個性だろうと思う。だから、俺が感じた事ってごくごく個人的な事で、決して正しい事ではない。それは、何かの力によって動かされているものではなくて、常に自分から発しているものだという、一種冷静さのような客観的思考ってのが前提だと思う。それは欲求から来るものじゃダメだと思う。何かを満たそうとする事は、どうしたって客観視することが出来ないからだ。それらを踏まえた上で、まだ上があるが、その手前で対応しているという状況は、決してマイナスでは無いと思ってる。自分を管理できないのであれば、誰かを管理することは出来ない。当たり前なんだけど、実は結構難しい。まずは叱って、気持ちがスッとするかどうか。こちらが言うことに従った時に満足しているかどうか。もちろん人間だから、どうしたって自分の行動に対しての成果が気になるし、一定量の満足は感じるだろうけれど、少なくてもそれを意識できないほどの、確固たる自信を持たなければならない。先の事は解らないけれど、気合いだけはいつだって殴れるけれど、だからとって殴ることは無いと思う。すごく残忍な心の吐露だけど、これってものすごく意識していないといけないと思う。
2006.07.08
コメント(0)
そういえば最近気付いたんだけど、俺、ひなたのこと叩いていない。こんなこと公言するのってどうかと思うんだけど、俺は自分で客観的に考えて結構叩く人と思ってたの。周りの友達にもそう宣言してたし(笑)まぁ、この先どうなるのかは解らないけれど。ただ、よく聞く言葉で「言葉で解る」ってあるじゃない。あれは嘘だよ。じゃなくて、空気で解る。だと思う。ほら、小さい頃って、誰かが泣く前って解ったじゃない。あの感じに似てる。どれくらいの真剣さで言葉を発すれば、相手にどれくらい伝わるか。そういうのって目を見たら解るというか、空気で解るじゃない。具現化出来ないから説明しきれないんだけど、「こいつ、真剣に怒ってるな」って言葉のチョイスじゃなくて声の張りとかトーンとかで解るじゃない。あれは本能から来る防衛本能だと思うの。だからいくら小さくて未熟でも、それは確かに存在する。本能から来る危機回避能力ってあると思うんだ。確かに知恵が付かなきゃ判断できない事はある。だけど、親が真剣に教育しているんだって事を判断するというのは、元々動物には備わっている本能だと思う。確かにそれを具現化すれば「言葉で解る」になるんだろうけれど、見えないところを関知する能力が無ければ、そこは使えないものだと思う。破裂させる前のギリギリの緊張感。動けば破裂するんだって子供が理解している状況。自分の限界を知っている人が全力で走ると、速度に乗れば多少気合いって抜くことが出来るじゃない。足が勝手に動いているのを客観視出来るというか。過保護とかネグレストとかの問題って、こういうのが理解出来ないんじゃないかって思う。走る事に自信が無いから全力になれなかったり、全力というのを勘違いして無我夢中になってしまったり。大人だから根拠や論拠をしっかり持てる。絶対の自信を持てるだけの知恵を付ける。もちろん間違っているかも知れない。だけど、ある意味そこは独裁者でいいと思う。利益が自分だけに向いていない限りは。ひなたも順調に育って今、1歳半が過ぎた。真剣な目、怯えてる目、ふざけている目。ちゃんと持ってます。怒るとき、目を見てますか?
2006.07.06
コメント(1)
全6件 (6件中 1-6件目)
1
![]()
![]()
![]()