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イラク人質事件で、普段の主張と逆の主張、つまり、・個人主義者 → 国が責任を持って・自己決定権否定論者 → 自己責任という不思議な構図が、見て取れるわけなんですが、これについて、次のような指摘を受けました。「本音を隠して、建前の議論をしているから、そうなる」ヴォランティアをやっちゃうような人やプロ市民なんかを擁護したい、そういう人達は、擁護をするのに便利な「国の責任」を『建前』として利用する。ヴォランティアをやっちゃうような人やプロ市民なんかを快く思わない、そういう人達は、叩くのに「自己責任」という『建前』を利用している。つまり、人質にされたのがプライヴェートで勝手に視察中の石原慎太郎だったら、彼らの論拠は逆になっていた。まぁ、そうでしょうね。実際に、2chのニュース議論板にて、面白い設問がありました。・有本さんも自己責任で自腹帰国になるのか?有本さんは、まぁ、亡くなっているという北朝鮮の公式発表になっていたと思いますが、もし、有本さんが日本に帰って来られることになった場合、帰国費用はどうなるのか?というのも、有本さんは、自分の意思で北朝鮮に行っているからだ。もっとも、よど号犯妻に騙されたということなのだが、それにしても、退避勧告の出ているイラクに甘い判断で入国するのと、国交すらない北朝鮮に騙されて入国するのと、どれほどの違いがあるのか?と問われれば、客観的には、有本さんだけを擁護するのは難しいだろう。にもかかわらず、「拉致被害者と今回の人質を一緒にするな」という反論?が並んでいた。もちろん、このような反論をする人達は、朝日新聞が「北朝鮮は楽園」と書いているのに騙され、北朝鮮に行った、いわゆる日本人妻達に、同じことを言うはずがないわけで、よど号犯妻も朝日新聞も、似たようなもので、何処に区別をつけるのだろうか?
2004年06月30日
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で、ようやく今更ながらのイラク人質事件について、です。私は、ある「左派」の討論サイトに久しぶりに議論をしに行きました。最初に書いた主張を要約すると以下の通りです。自己責任論が言われているが、自己責任論に組みしない。何故なら「自己責任論」というからには、その前に「自己決定権」があるはずである。「無限責任」を考えると「自己決定権」は認められず、それ故に「自己責任論」もない。「自己責任論」を認めれば、逆に、責任さえ取りさえすれば、何をやっても自由、ということになりかねない。(無限責任は、本来は責任を取れないものです)しかし、人質家族の行動は醜悪であり、叩かれるべきである。何故ならば、人質及び人質家族の行動は、日本の「世間」、即ち「世間知」に反した行動であり、かかる行動を見逃せば、かの行動が許容されていることになり、日本という「世間」を守りたい人間が、人質家族を叩くのは、「世間」を守る戦いである。人質3名やその家族及び支援者に対する、世間の「ちょっと違う」という嗅覚の鋭さによる、社会的に健全な異質排除装置の働きとみています。以上のように、明白に・自己責任論には反対・被害者及び被害者叩きには賛成という、極めてわかりやすい主張をしました。にもかかわらず、摩訶不思議な現象が起きたのです。「右派」からは、被害者家族の主張が如何に不当であるかを訴えられ、「左派」からは、自己責任論を問うのはオカシイと訴えられました。なんで?「私は自己責任論は否定していますよ」と説明してもなお、理解が得られないのです。最後には、紛らわしいことを書くなと注意を受けました。ワケワカラン。彼らの頭の中は二分法なんですね。1. 自己責任論否定=被害者家族擁護2. 被害者家族批判=自己責任論肯定このどっちかしかありえないと思い込んでいる。その結果、どういう現象が生まれているか?普段は自己決定権を否定している「右派」が、自己責任論=自己決定権を肯定し、普段は国家の枠組みを否定している「左派」が、個人ではなく国家が後始末すべし、という、普段の主張との逆転が起こっている。まぁ、この「右派」と「左派」の二分法も大まかなのですが、少なくとも、この枠組みから外れて議論している人間は、ほとんど見ませんでした。(自己責任論を認めながら、無限責任を分けて考える作業をしている大学院生はいましたが)まぁ、イラク人質事件に関しては、「自己責任論」を述べている人間は、裏に意図がない限り、莫迦だと言えるでしょう。しかし、莫迦は仕方がないんですよ。信じられないのは、事実を捏造する人達です。「自己責任論は、メディアや政府がミスリードして沸きあがった」大嘘です。事件直後からありました。浅田彰も、こんな明白なデマを書くようになってしまいましたか。感慨深かったです。
2004年06月29日
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討論においては、撤退戦すらままならぬ玉砕で散華した「左派」ですが、彼らには諸刃の剣ながらバックボーンがあった。「人権」「自由」「平等」かれらの理論の背景には、これらの理念を見せる振りができた。それに対する「右派」は、それぞれ「保守派」といいながら、一体全体、何を保守しているのかが、全く見えない。未だに見えない。「資本主義経済活動下においての自由」を主張し、社会主義下や共産主義下での「不自由さ」を糾弾するだけで、主張する側の「右派」の「自由」も、別の意味での「不自由」であり、飽くまでも、「左派」の「自由」へのカウンターでしかなかった。「保守派」が保守しているものは「伝統」など、言っているほうも具体的には何なのか良くわかっていないのが現状で、あがってくる具体的な「伝統」のほとんどは、国旗や国家や天皇制など、近代になってから、明治時代に発生した百年そこそこの薄い「伝統」でしかなかった。アメリカという若輩国家よりも歴史の浅い代物を「伝統」と保守するのだそうだ。私は「右派」に対して何度か、何を保守するのか、論戦を挑んだのだが、どうも「右派」は、「左派」を攻撃することのみを好み、結局は、「右派」とは、実は「左派」のネガとしてでないと存在し得ないという、実は弱い存在なのではないかと、そう思わされる状況であった。まぁ「ネット右派」に限った話ではあるのだが。
2004年06月28日
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世の中には不思議な世界というのがあるものです。社会的地位があったりする人間が、専門化の知識を動員した挙句に、相手を否定し罵倒し合うという世界。そしてその中には、社会の最下層の、知識もない暇人も混ざっている。それが「ネット議論」という世界です。私は、歴史・政治・社会系の討論サイトに出入りしておりました。主に参加していたのは通称「日本茶」および「歴真」というサイトでした。前者は今もあります。http://www.nc4.gr.jp/ この辺の話題については、後日、詳しく書きたいと思うのですが、簡単にさわりだけ。歴史・政治・社会というのは、思想信条というアイデンティティにかかわる話になるので、「反論を受ける=人格の否定」と勘違いをして受け取る人間が多いのです。普通に考えれば、事実関係や論理などは、訂正や修正など起こって当然であり、大きい場合などは、転向という事態も考えられる以上、討論において認識が変わることは、簡単に起こるはず、なんですよ。しかし、ROMという観客がいるからか、実生活に支障を及ぼすほど本気で怒り、自己の人格が否定されたと、ネット上とはいえ、縁を切る。一つの事に意見が合わないだけで、口も利かなくなるという異常な事態が、実は大して高くもないかわりに、決して低くはない知性の大人によって行われる。「議論」を「試合」として認識できない人間が、討論サイトに参加していいのか?というネットリテラシー?の問題は、小学生がネットに参加してよいのか?という問題と同様に、討論サイトで議論されるべきだろう。ともあれ、私が参加していた時代の歴史・政治・社会系の討論サイトでは、「左派」と「右派」が、相手のことを阿呆だの莫迦だのと罵るという生産的な娯楽が果てしなく行われておりました。「左派」というのは曖昧な概念で、進歩派、人権派、戦前暗黒史観、非武装平和主義、護憲、戦後民主主義、そういったものの総称です。「右派」というのも曖昧な概念で、保守派、尊王派、大東亜肯定論、現実主義、国益主義、そして、自由主義史観の人達です。勿論それぞれ一枚岩であるはずはないのですが、便宜上二つに分けます。「左派」というのは、現在の社民党や共産党のように、かなりの絶滅危惧種です。まぁ、民主党に一部生き残っているので、決して少なくはありませんが、討論サイトでは、圧倒的に少数派であり、弱者でした。かといって、「右派」が強者かというと、伝説の男・アドルフなんばなど少数を除けば、実はそれほどの強者ではないけれども、「左派」よりは若干強者であり、なんといっても多数派でした。見かけ上は「右派」の圧勝だったわけです。しかし、現実はどうなのか?現実と言っても、政治権力ではありません。思想討論上の勝敗、です。実は私は、「右派」には大きな落とし穴があると、ずっと思っていました。そして、事実、何度も揺さぶりをかけたこともあります。
2004年06月27日
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加害者が特別だった、という説明が一番簡単なので、そう流れてしまいがちです。ネヴァダのサイトの「ピンクの熊が小動物か何かを襲っている」gif画像を見て、犯罪心理学の大家は「自画像」と言っていたらしいんですが、ピンクの熊が襲っているのは小動物ではなく「飼い主」であって、もちろん小学六年生のオリジナルではなく、森チャックの『グルーミー』でした。まぁ、グルーミーを選ぶ行為が「自画像」と言い張れないこともないのでしょうが、その「自画像」のキーホルダーやヌイグルミを持っている人は、私の周りには、私を含めて大勢いますが、残念ながら誰もカッターで首を切ったことがなし、おそらく、当の森チャック本人も、カッターで首は切ったことがないでしょう。カボチャ頭のアバターを、心理を隠すなどの精神分析も行われていましたが、アバターガチャガチャで、ランダムで当たったと本人が言っていたという証言がありました。この証言が事実かどうかわかりませんが、ネヴァダが異常なだけだという最も簡単な犯人探しは、簡単であるが故に、多くの「犯人」を生み出しかねず、(グルーミー好きやカボチャ頭アバターなど、それこそ犯罪心理学者より大勢いる)そのくせして、簡単に空振ってしまう。同じ境遇であっても、やらない子はいる反面、ネヴァダの境遇が違っていたら、やらなかったというのも、容易に想像が付く。本人の資質のみを考えたら、マイノリティリポートになってしまう。本人の資質は変えられないわけですが、環境は、周り、特に家族の努力で、何とか抵抗が可能であると思われる。つまるところ、こんな地道な処方箋しか存在していないように思える。地道な処方箋を実行するのは面倒くさいからこそ、安易な犯人探しをやりたくなるのかもしれない。
2004年06月26日
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3. 学校について その2 校長は、カッターの刃が出ていないという情報は伏せ、よりネヴァダに風向きが強くなるように会見をした。 本を横から覗かれただけで、(刃が出ていないとはいえ)カッターを振り上げるのは、明らかにやり過ぎなので、ネヴァダを擁護する気はないけれども、この少年にとっては、この校長の会見は裏切り以外の何物でもない。ネヴァダは異常であるのだが、その上で言わせて貰えば、この校長は、ネヴァダの異常性に全ての責任を押し付け、子供(少年も含む)を盾にして保身を謀ろうとしているようにしか見えない。 少年がこの件を言わなかったのは、この少年の落ち度では断じてなく、子供の助けを求める声すら、普段は聞く耳を持たずに放置していた村里担任にあるのは間違いない。 このクラスには、女ボスと呼ばれる女子児童がいて、その親もかなりのDQNな親らしく、五年生時の女性担任が、クラスをよく改革しようと努力したが、力及ばず挫折した大きな原因の一つというのが、この女ボスとその母親らしい。 この女ボスも、ネヴァダと同じバスケット部で、ネヴァダは、女ボスに排除されてバスケット部を辞めたという側面もあるとの事だ。 家族、学校、地域、全てで子供を育てる。 育った子供が不当な殺人を犯した場合、DNAに還元する話は、研究者の仮説以外は、厳に慎まれるべきだろう。 かといって、環境が影響を与えていることは確実で否定できないにしても、安易な犯人探しはすべきではないわけだが、ただ、これらのどれか一つでも悪い方向に向かわなければ、事件は起きなかった可能性が充分にあるので、いつ起きるかわからない事件のために、それぞれのコミューンで、それぞれにマシにする努力が必要となる。 担任や校長の職務放棄という職業倫理。コーチの配慮の無さ。そしてなにより、事件を起こした加害者を前に、ただただ泣く事しかできなかった母親。まぁ、婿養子の父親の姿は良く見えないわけなんだが。 とりあえず、4・ ネットとバトロワについて は、テーマとして、かなりデカくて深いので、後日に改めて考察したいです。今までのようなメモ用の殴り書きで纏まる話ではないので。
2004年06月25日
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3. 学校について その1 またも、ネットに登場した地元民の証言になって恐縮だが、校長も担任も、かなりのハズレだったらしい。 この手の事件が起きるとき、通常であれば、メディアで学校叩きや先生叩きがおこるものなのに、今回は担任が早々にPTSDという理由で退場して行ったこともあり、初期においてはメディアではほとんど叩かれなかった。 出崎校長は、学校内で問題が起こっても放っておき、苦情があると「学校だけでは解決できないんだから仕方がない」と逆ギレする人とのことで、まぁ、校長のいうことも尤もなのだが、応急処置すらせずに、姥捨て山といわれる大久保小学校に飛ばされた、という。 担任は、率先して、特定の生徒を口撃することで、その他の生徒から笑いを取って人気者と勘違いする幼稚な先生だったというのが、地元では有名な話だったらしい。授業参観の父兄の前でも、そのスタンスは変えずに、特定の生徒の人格を否定するような行動をとっていたというのだから、一貫したものである。 少なくとも、地元の反応としては「あの先生がPTSD? 逃げたな」という評価であり、校長が、あの担任に話をさせるわけにはいかないと保身のために逃がしたのではないか? という穿った見方もあったそうだ。 校長や担任叩きに関しては、他のケースでは、学校を叩いていれば良いってもんでもないだろう、と思ってしまうのだが、この件に関しては、校長と担任に不快に思う出来事があった。 ネヴァダが以前、男子児童に向かってカッターナイフを振り上げたことがあった。事件の約1週間前、ネヴァダが読んでいた本を少年がのぞき込んだところ、嫌がってカッターナイフを振り上げたという。読んでいた本は「世界の中心で愛を叫ぶ」だったとかいう話もある。 この件に関して校長は、この少年が報告しなかったので、事実を把握できていなかった、というように答えているらしいのだが、あまつさえ、報告しなかった少年に批判的ですらあるのだが…… この少年は、クラスでイジメにあっていたらしい。ネヴァダではなく、他の少年からなのだが、イジメられ出血することもあったらしい。イジメで出血し、担任のところに行くも「六年生なんだから自分で解決しろ」と取り合ってもらえなかった。 ネヴァダがカッターを振り上げた件について、少年は「ネヴァダはカッターを振り上げたが、カッターの刃は出ていなかったから、怖くなかった。いつものイジメの方が酷かったのでわざわざ報告はしなかった。自分が本を覗いたから悪いのだし、これでネヴァダが起こられるのは可哀想だから言わなかった」と言っているとの話だ。
2004年06月24日
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2. バスケット倶楽部について その2 ネヴァダが去年の年末にバスケットを辞めてから、ネヴァダは助っ人としてバスケットチームに呼ばれている。そこで「試合に負けたから体育館周りを百周」というペナルティを言われ、ネヴァダは走りにいったところ、誰もいなかった、という疎外感を感じる出来事があった。 それは、ネヴァダにだけ「そのペナルティはやらなくていい」という連絡が行かなかったために、ネヴァダが一人だけ、ペナルティに行ったとのことだ。 何故にネヴァダにだけ連絡が行かなかったか? ということだが、助っ人であったために連絡簿に載っていないという説と、母親が他の保護者に敬遠されているために連絡が行かなかったという説があり、私には真相は不明であるが、バスケットのコーチの、驚くべき証言があった。 チームメンバーの都合でネヴァダに助っ人を頼んだが、別段、チームにとってネヴァダは必要な選手というわけではない。しかし、助っ人を頼まれたネヴァダは自分が必要とされていると思い込み、そこの温度差があった。 なんだかなぁ。 必要な戦力だとは思っていないが、試合のために、チームの頭数をそろえる目的で、大泣きしながら脱腸の思いで退部の意思を伝えた子を、自分の都合で安易に呼び戻す声をかける無神経さ。 もう一度バスケットをやらせてあげるために声をかけたわけではないのは明らかだ。「試合に負けたから体育館周りを百周」というペナルティともども、阿呆かと思う。
2004年06月23日
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2. バスケット倶楽部について その1 ネヴァダはバスケット好きな少女で、バスケットの倶楽部に所属していた。そのバスケット部を辞めてから、素行や態度が悪くなったという。わかり易過ぎる話なので、そのまま信じていいのかどうか不明ながら、そういう証言がいくつかあるらしい。事実、バスケットをしているときのウェブの日記と、辞めてからの日記では色合いが異なる。まぁ、影響を受けやすい年頃の子が、その間に影響を受ける本や映画を見ただけかもしれないけど。 ネヴァダがバスケット部を辞めた理由は、成績が落ちてきたので勉強するために母親から辞めるように言われた、というのが原因らしい。ただし、本当の理由は別にあるという。父親が軽い障害があり仕事も開店休業中であるため、母親が働いて生計を立てている。送り迎えなど親に負担がかかる地域のスポーツクラブは、母親にとっても負担が大きかった、という点と、母親の性格上、周りの母親と反りが合わなかった、という理由があったようだ。 とまれ、ネヴァダは好きなバスケットを辞める際に、大いに泣きながら、辞めなくてはならないというのを言いにいったらしい。 ネヴァダは、もともと五人しかいないレギュラーのうちの、またまた一人しかなれない司令塔のポジションのレギュラーをやっていたらしい。母親が、お金がないからという理由で、バスケットシューズを買ってあげなかったという話だが、バスケットシューズを無しでレギュラーを取るというのは、並大抵のことではないらしい。
2004年06月22日
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1. 被害者とその父親について その4 おそらく性格が良いであろう被害者である娘さんは、独り善がりな価値観であんな写真を出し、娘を利用した語り掛け口調のポエムを発表するのを許すかもしれない。 だが、その五日後、再び毎日新聞佐世保支局長は食傷気味といわれる手記を発表した。その中で、毎日新聞佐世保支局長は「ニュースや記事で怜美の名前や写真が出ると、事件のことを突きつけられるような感覚になります」「勝手なことなのですが、『もう名前や写真を出さなくてもニュースや記事として成り立つのでは』と思ってしまいます」と書いている。 本当に勝手な話だ。 私は鬼子母神の話を聞いて、鬼子母神に同情や支援をしたくなるようなおめでたい感性は持ち合わせていない。 毎日新聞佐世保支局長は、自分の事件でショックを受けるのも結構だが、これまで自分が加担してきた、自分と同じ被害に遭って来た人たちに対し、どのような慙愧の念と改悛をもっているのだろうか? 残念ながら、メディアの人間としての毎日新聞佐世保支局長も、娘さんと同時に死んでしまったといえるだろう。今後、どうやって食べていくのか、本気で心配になってしまう。
2004年06月21日
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1. 被害者とその父親について その3 被害者であるお手洗いさんは、きっといい子だったんだろうなと思わせるエピソードがある一方、何故に最初の瞬間風速で、加害者贔屓の空気が一部で吹いてしまったかを考えると、復讐賛美が大きいと思うが、加害者が可愛いというだけではなく逆に、最初に出されたお手洗いさんの写真が、ちょっと引いた、というのもあるように思う。 「ニッ」という顔で、歯茎を出して両手でピース。 おそらく日本中の家庭で「他に写真なかったのかよ!」と突っ込んだに違いない。毎日新聞の佐世保支局長である被害者の父親があの写真を提出したのであろう、という極めて常識的な推論と共に、何故にあの写真を選んだのであろうか? という疑問は、徐々に心の中でひっそりと身を潜めていたのであるが…… 毎日新聞佐世保支局長である被害者の父親が手記を発表した。しかし、それは何故か、被害者である娘に呼びかけるという不可思議な内容であった。幸運にして「お父さん、娘さんはもう亡くなってしまっていないんですよ」と教える輩はいなかったが、殺された娘に語りかける内容の手記を、メディアに向けて発表した。キモい。 ある特定人物に対する語り掛けを、その本人ではなく第三者に発表することを前提にした文章で書くということが、もうそれだけで信用に足らない人間であると断定できる。第三者に見せることを前提にしながら、ある特定の人に語りかけるのは、必ずどちらかに無礼な行為だ。というのも、第三者を証人に利用するためか、あるいは、語りかけられている特定の人間をダミーとして利用するか、であるからだ。 もちろん、読み手への効果を考えて、敢えて語り掛け口調を利用するというのは、それは文章の書き手の技術であるが、自分の娘が殺されたという手記において、読み手への効果を考えて、殺された娘へ語りかけるなど、常軌を逸したやりすぎであるし、娘の死に対する重大な冒涜であり非礼である。時と場合を考えるべきだろう。そう、ポエムを書いている状況ではないのだ。 あの被害者の父親の書いたポエムで感動している人が、意外に少なからずいて、驚いたわけだが、それと同時に、毎日新聞佐世保支局長のキモい自意識が感じ取れてしまって、非常に気分が悪かった。 そう、最初の疑問が氷解したのだ。 おそらく、ついうっかりポエムを発表できてしまう毎日新聞佐世保支局長は、「ニッ」という顔で歯茎を出して両手でピースの写真を、娘らしい一番生き生きとした表情の写真と思い、独り善がりな善意であの写真を使った、というのが、もう私の中の事実として確定してしまった。 独り善がりな感情であんな写真を出し、娘を利用した語り掛け口調のポエムを発表する、履き違えた独り善がりを見せられると、被害者である娘さんが不憫でならない。
2004年06月20日
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1. 被害者とその父親について その2 週刊誌やネットに登場する自称地元民の話によると、被害者のお手洗いさんは、非常に素朴な大人しい感じの印象を受ける。まぁ、殺されなきゃならないようなタイプの子ではないようだ。 真偽不確かなチャットの内容についても、まぁ、他人のIDで荒らすようなことがあれば追求を受けるのは当然で、友達だから庇ったが、庇いきれなくなったから一緒に怒るというのは、普通にある話で、何も落ち度があるわけでもない。私も以前に、騙りをやって無反省な人間を庇っている人を見た。もしあの人が、庇い切れなくなったからと掌を返したとしたら、殺されていたのかもしれないなぁ、命拾いしたね、なんて思ってしまうわけだが。 前にも書いたように、まぁ、お手洗いさんは、決して可愛いというほどの容貌ではなかったけれども、お手洗いさんが書いたという「私はジャガイモがあれば生きていけるよ」という表現を聞くと、可愛くないなら可愛くないなりの、それなりの幸せを手にすることが出来た子であろうな、と想像する。天然ののほほんな性格を自覚し、自分のキャラを受け入れ、世の中で受け入れていかねばならない身の程を幼くして自分の役割と受け入れられる子が、小市民の幸せになれないはずがない、と断言できそうな性格の良さが滲み出ている。 ネヴァダよりも、生身でもネットでも、友達が多かったというのは十分に理解できる話だ。 お手洗いさんは、ネヴァダと同じく、バスケットの倶楽部に入っていたそうだが、ネヴァダよりも先に辞めている。辞めた理由は、父子家庭故の家事手伝いということらしく、ここでも「きっといい子なんだろうなぁ」と思わせる。 被害者に、死人に口無しで、ネヴァダをイジメていたという風評を立てられるには、可哀想過ぎるように思う。
2004年06月19日
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1. 被害者とその父親について 被害者と加害者の関係についてだが、一学年一クラスしかない学校の同級生ということであり、必然的にクラスメイトということになる。まぁ、いわゆる仲の良い友達であり、ネットのウェブページや交換ノートなどの交流を行い、例のネヴァダ集合写真でも隣同士で写っている。ネヴァダ本人は、捕まってから「特別に仲が良いというわけではない」というような発言をしているが、そのあたりは割り引いて考える余地がありそう。 動機に関しては、お手洗いさんがネヴァダをいじめていたという、ことにしたい人がネットには沢山居るようだが、どうもそんな感じではなさそう。初期の報道で「ネットに嫌な書き込みをされた。止めてくれといったが止めてもらえなかった」という、加害者側からの一方的な言い分が、ネット上での理想として語られている「いじめられっ子は、自殺するぐらいなら、いじめっ子に復讐すべき」という意見に合致していたからだろう。ところが、よく聞いてみると、その「嫌な書き込み」にしても、ぶりっ子と言われた、髪型が似合わないだのなんのと、全くもって大した話ではなく、どう考えたところで殺害に到るような話ではない。こんな程度で殺されていたら、いくつあっても命が足りない。また、明白な事実を遠慮したところで意味はないので書くと、容姿に関しては、明らかに加害者のほうが被害者より遥かに優れているわけで、容姿を悪く言われていたと仮定しても「鏡みなよ」で済む話だ。 で、本当の殺害動機は何かというと、これはソースを保存している人間が確認できていないので、事実であるかどうかの認定は出来ていないのだが、前日のチャットが原因ではないかという話がある。そのチャットの内容というのが、ネヴァダが他の人のIDを使いチャットを荒らしていたがバレて、チャット参加者がネヴァダをキツく批判していた。お手洗いさんが、ネヴァダの肩を持つように庇っていたが、ネヴァダの態度に他の参加者の批判は容赦がなく、お手洗いさんは庇いきれなくなり「私が間違っていた」と発言し、怒った参加者と別のチャットルームに移動した。残されたネヴァダは夜中までそのチャットルームにいて、「続きは明日学校で話そ」と書いて落ちたらしい。 というのが、ネット上で言われている。先程も書いたように、肯定するソースもないが、まことしやかに書かれていても、否定されてもいないようだ。
2004年06月18日
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長崎佐世保の事件、いわゆるネヴァダ事件であるが、何故に佐世保がネヴァダなのか?という部分はおいといて、この事件について、なんとなく書き綴ってみる。1. 被害者とその父親について2. バスケット倶楽部について(母親とコーチ)3. 学校について(担任と校長)4. ネットとバトロワについてという、まぁ、加害者に影響を与えたであろう、事柄について書いていく。ただし、加害者に影響を与えようが、それが直接犯罪に結びつくわけでもないし、結局のところは、マスメディアで、大学教授などが金を貰ったからには、止むを得なく、それらしく理由付けをせねばならなくて、恥を承知でこじつけている精神分析やら児童心理などを、酔狂にも金も貰えないのに書くというわけで、早い話が相当におめでたい。だが、「少女がネットに書いた文章は、他人の目を気にする文章であり、自己顕示欲求の云々」などの、アンタこそ、そのメディアで発表している言説に他人の目を意識したほうがいいのではないか、と思われる阿呆な分析が大手を振っているので、許されるであろう。そもそも、何らかのキーワードと犯罪を安易に結び付けてしまうやり方の精神分析は、非常に怖い。例えば、ネヴァダが書いた絵を見て「大きな目は自己顕示欲求の云々」とか詩の文章から分析などしているわけなんだけれども、考えてみればわかることで、小学六年生が、全てをオリジナルで生み出しているはずがなく、いくつかある何らかの定型の中から、自分の好きなものを選んでいるだけに過ぎない。となれば、ネヴァダと同じセンスを持つ少年少女、文章については、かなりマセてたとは思うが、ネヴァダのような少女漫画のような絵を描いている子は、ゴマンといるわけで、ネヴァダ本人は置くとしても、定型の少女漫画絵を描いたが故に「自己顕示欲が強い」だの何だのと言われて、殺人者予備軍のように分析されたのでは、たまったものではない。少なくとも、そこから殺人に結びつけるのは明らかに無理があり、同様な嗜好やセンスを持つ少年少女たちに対して迷惑であり、害悪でもある。因みに、この事件テレビでは、お手洗さんは「首を切られて死亡した事件」といわれている。「殺す」とか「殺害」という表現は、控えられているようだ。<続く>
2004年06月17日
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