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調律師さんが亡くなって一週間、教室のピアノの音色がその死を悼むように音色を変えながら、生徒たちの耳を育てていくさまを、ずーっと眺めていました。事情を知らない人でもわかってしまうほど、澄み切った音色の日があったり、ステージの照明に似たきらめいた音色が、スッといい意味で枯れた夜があったり、そのタイミングが告別式のスケジュールとリンクしているかのような出来事に、それも当然、と思って過ごしました。教室のピアノと過ごしたのは、18年だったそうで、それを20年と括っていた私は、その記憶の誤差2年分だけ、若返った気持ちになったり?していました。そのピアノと一緒にその調律師さんと出会ってからのすべてが、こういう形で良かったことになっていくんだなぁというのは、そのピアノをお世話してくれた同じ歳のかつての営業さんとの小さな女子会で悼みました。初めて私がピアノを指弾したときから、なぜかキューンとして泣きそうになった、と言い続けていたその営業さんと、名前の文字が一緒で、読みだけ違うことが、運命みたいだね!と笑っていたのも、なぜか特に問題なく続いています。(笑)私のピアノを聴くのが好きな彼女の前で、今は星になってしまった調律師さんが好きだった音色でピアノを弾くと、何の疑いもなく、「ああ、ここに生きているんですね。」と。・・・そうでしょうとも。(笑)だから、大変なのよ、は、適度に飲み込んで、もう、迷いなく弾けるようになった音色に、その大変さが薄れていくのも感じていました。彼女も楽器店を去っているけれど、だからこその違う形での出会い直しですけれど、彼女の人脈を辿って、とにかく調律をどうしていくか、の連絡は済ませました。あまりにも高みに繋がってしまったその音色を、まっすぐに継げる自信はない、というところで、とても正直で誠意ある対応をしてくれる調律師さんに、今後をお任せするめどをつけてもらうために、お迎えすることにだけはなりました。大人の事情で、色々と本当に難しい、ステージのピアノの調律とおうちのピアノの調律など、分業をしてもらうよりほかにないのかもしれません。仕方のないことだけれど、あの人は、そんな仕事をしてしまう人だったから、先生は、ちょっと新しい意地悪ばあさんの仮面をつけて、彼の遺した耳と体で、その波に乗っていくだけです。技術者のオッケーが出る、ということは、耳と体が、私の意志とはちょっと違うところにあるって、若いころだったからこそ、わかんなかったんでしょうけれど。・・・今はいろいろわかるようになったので、すり合わせが大変ですけれど、まぁ、私もまだ弾けるっちゃ弾けるわけだし。サンタの、「ね?こっちだったでしょ?」のすさまじいまでの言い訳がすごすぎて、時々やっぱり気絶するけれど、その気絶も采配のうち・・・というくらいの演技ならば、ずーーーーっとやってきとる!(笑)いつまで演じればいいの?という私の問いに対しては、奇妙なニヤニヤ顔のサンタのような、奇妙な真面目顔のサンタのようなヤツが、変な風に闊歩しているような気がするので、まぁいいかと思っています。ピアノの音色を聴いていたかつての営業さんが、「幸せ・・・。」と言いました。(笑)そうだろうか?とは、まだちょっと思うんですけれどね。(笑)たまに録音して自分のピアノを聴いてみると、調律師さんが弾いているような錯覚にも陥るほど、私のピアノのようでありながら、私のピアノではない感じが、その幸せと言う言葉としっくりしなくても、まぁ、今は仕方ないかな、と思ったりしています。
2017年12月17日
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来年の合同発表会の会場予約金の清算をしているところに、いきなりの訃報が飛び込んできてしまいました。年齢が45を過ぎる頃、教室にしろ、発表会にしろ、少しギアチェンジをしたほうがいいけれど、どっちに?なんて、呑気な話が、一気に凍りつくような気持ちになりました。私のピアノと防音室が新品だった時から、一緒に20年、楽器の音作りのすべてを、その調律師さんとしてきたことを思うと、あまりの事の大きさに、頭がストップしてしまいます。教室が場所を変えて少しずつ大きくなってきたときも、私が奏でなければならない音色が、あり得ないほどの技能を要求されてしまった時も、正しく美しい音色を作ってくれる人がそこにいて、彼もまた、彼の人生の中での紆余曲折にめげずに、ただただ、技能の追求と研鑽を繰り返していました。音楽と言うのは難しいもので、点数が出るわけではないから、どうとでも受け取られてしまう。そんな場所で、自分の与えられた役割にあえぐようにして生き延びるときに、彼が作る音色があったから、その音色を確実にいつでも出せる私になっていくことで、どれほど多くの事を実らせてきたか、もうわかりません。20年のうち、最後の数年は、技術者の前で、恥じる必要が全くなくなる安心感というものの中で、ただただ、その人が好きな美しい曲を弾いていれば良くなりました。発表会でのリハーサルも、その人がオッケーと言えばそれで済むということの安心感の中で、時間に余裕があれば、リハーサルでも関係の無い曲を弾いていたりもしました。それを、何度でも聞きたい、と喜んでくれていて、私もまた、たくさんの音楽愛好者の中にあっても、私たちの音色と音楽はこれだと、揺らがずに弾くことができるようになっていました。その二人三脚、その一心同体さ、ピアノという一つの楽器を挟んで、立場の違う二人の耳が一致するような時間は、とてもはかなくあっけなく、去って行ってしまいましたが、私はまだその意味のすべてがわからないくらいにポカンとしています。でも、来年のスケジュールも決まっていて、生徒たちも、そこにいて、彼が遺した音色を継ごうとしているからこそ、まぁそりゃ淡々と、次の調律師さん探しに動き出してみたものの、代わりの人のいるはずのない技能の高さに、ただただ、困ってしまいます。それでも、人は、亡くなる時にこうやって必ず、生きている人同士をまさかの形で結んで去っていく、というところはあって、このピアノを売ってくれた時のやり手の営業さんなどと、改めて連絡を取ったりしています。結婚した彼女が、音楽から離れていても、先生のピアノが聞きたいし、会いたいから、と、駆けつけてくれることの後ろに、彼女がまた音楽に飢えているのもうかがえました。音楽は、どうしても、こうやって、人の心の深いところで、どうにもならない衝動を与えてくるということを、こんなにさみしい形で実感したくはなかったけれど。彼ほどの技能が、途絶えてしまったらもったいない、誰に継いでもらおう、と、思う時、私に遺されたのは、彼が私に植え付けたかのように、同じ音色を愛した耳とか、その音色を出せる体、とか、なんだかおぼつかないものばかりなんですけれど。おぼつかないからこそなのか、私はこの20年、この楽器と共に過ごしたその人を思う時に、やけに美しく思い出してしまいます。ピアノ教師が技術者の前ですべてをさらすのが、いかに情けなく恥ずかしいかも省みず、彼に導かれるままに生きたこの20年を、そんな恥ずかしく情けないものだと思い出したら、その人に悪い気がしてしまいます。だから、思いっきり美化してやろうと思っています。それこそ、サンタに届くほど。(笑)生徒たちに、「この音色はもう戻ってこないのよ。」と話すときに、さすがにグッと来てしまうのですが、私の体が、それを忘れることもないとわかっているからこそ、やけに気丈に振る舞うこともできてしまいます。先日の発表会で、彼が遺した最期の言葉は、「先生の優しい曲で発表会が始まれば、みんなが安心して弾けるのにね。」でしたけれど、その言葉の悲しいほどの深さは、私がちゃんとわかっていればいい、と思うと、なんだか心強い気もします。
2017年12月09日
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