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最近応援しているサイトが一つあります。Million Pushupsというサイトです。http://www.millionpushups.com/思わず笑っちゃう簡単な企画なんですが、いろいろ考えさせられるし、勇気づけられるし、深い。感動します。サイトの作者は、2000年の正月に、「よし!俺は腕立て伏せを100万回やる!」と家族に宣言して、腕立て伏せを開始しました。それ以来の「腕立て伏せ記録」が載っているサイトです。○2000年1月以来の現在の腕立て伏せの累積回数(ちなみに、約30万回やってます)とか○このペースで行ったらいつ100万回を達成するか(ちなみに、2017年ごろです)とか○毎月何回腕立て伏せをやったか、とかを見ることができます。で、何が考えさせられ、勇気付けられ、深いか。○「腕立て伏せ」は殆どの人がやったことがあるでしょう。でも、「100万回」やったことがある人は殆どいないはずです。そして、多分作者は、「100万回やるためには、毎日○回やらなくては」とか、考えずに勢いで、「よし!100万回だ」と決めたんだと思います。たかが腕立て伏せでも、「勢いから出た目標」と「その目標に向かった地道な努力」があると、面白いことになる。ということですね。○作者の月別の腕立て回数を見ると、最初の1年は、全然回数をこなせてません。でも、2年目・3年目とやっていくうちに、ペースがめちゃめちゃ上がってきます。きっと、最初の1年目が一番つらかったんだろうな、と思います。思ったほど腕立ても出来ない。100万回なんてはるか遠く。最初の決意のころの、新鮮な気持ちが維持できない。きっと作者は、「100万回やろう」なんて宣言してしまった自分を恨み、激しく後悔したはずです。「決意・好奇心」って「お調子者の信用ならない友達」みたいなところがあります。「お調子者」ですから、面白くなくなってきたりつらくなってきたときには、味方になってくれない。で、物事を達成するためには「忍耐力・持続力」という「常に誠実でそばにいるけど、いつも控え目な友達」みたいのが必要なんだと思います。そして、「忍耐力・持続力」が存在感を持ち始めると大きな力を生む・・・みたいなところがあるんだと思います。○何でもよいのでコミットした人って強いですね。ぼくが、飲み会に行ったり、映画を見たり、音楽を聴いたり、本を読んだり(要するに、興味にまかせていろいろなことを少しずつ)している時間を、このサイトの作者は、「腕立て伏せ」に充てているのだと思います。何かにコミットすると、そういう小さい時間の積み重ねが得られるというか。2004年後半は作者も少しサボり気味だったようですが、2005年に復活しました。なのでこれからも、たまに途中経過を見て、「よしぼくもがんばろう」と、思うことにします。ぼくなりの、「腕立て伏せ100万回」とは何か?というのを常に忘れないようにしたいものです。
2005/01/31
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「何だかいろいろなものにアンテナが反応する。最近いろいろと感度がいいなぁ」と思うときと「何だか毎日が淡々と過ぎていく」と思うときがあります。前者が立て続けにおこると、「最近調子がいいなぁ」と思って気分も盛り上がってきます。で、どういうときに「アンテナ」の感度がよいかというと、ぼくの場合「やるべきことをやっている」という場合じゃないかと思います。懸念事項だとか「やらなきゃならないことをやっていない」とか、「自分との約束を守っていない」みたいなときは、そのこと自身が気になって、なかなか外からの刺激に敏感になりません。注意力が削がれているからかもしれませんし、そもそも「これ以上刺激を増やしてどうする」という風に無意識に自己防衛しているのかもしれません。こういうことに気がついてから、「最近いろいろ、とっ散らかっているな」と自分で思ったら、ToDoリストを細かく細かく作っていくという作業をするようになりました。そうやってToDoを作って「これをやらないと精神的に安定しない」という作業を特定するわけです。で、これは企業のリストラのセオリーと同じだなと思いました。日産がそうであったように、企業を再生するときには、まず一度膿みを徹底的に出すことがセオリーとされています。一年で大きな特損を出した方が「回復」を演出しやすいとか、税制面でもあまり不利にならない、とかいろいろなテクニカルな理由はありますが、それは本質的なことではなく根底には上記と同じ思想だと思うのです。「とっ散らかって」いる状態では、将来のことにアンテナが張れないのではないかと。まず、膿みを徹底的に出す。(もちろん、何が膿みで何が膿みでないか、見分けるのも経営者の手腕ですが)で、膿みを徹底的に出して、身軽になった状態で、「で、ぼくは何をしたかったんだっけ?」「ぼくには何ができるんだろう?」と真剣に考え始める。で、考え出すと世の中にいろいろな刺激があることに気がつく。そうやって、V字回復ができるんではないかと思うわけです。そういう意味で、一度で膿みを出し切るのって大事なんではないかと思います。そうしないと、「負け癖」がついてしまって「で、自分は何をしたいの?」というのが考えられなくなってくる。というわけで、ぼくは最近仕事がとっ散らかり気味だったので、一度ここで棚卸が必要です。
2005/01/21
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さて、前回の続きです。(仕事でバタバタしていて前回から少し時間が経ってしまいました。)「社会秩序」についてですね。前々回、ぼくは『日本の司法制度にとっては、社会正義ではなく、社会秩序を守るためのものである』だなぁ、と強く感じた、と書きました。このコメントのニュアンスは、うまく書けないのですが「結局、法律がぼくのような力のない市民を救ってくれる、っていうのは夢物語なのだな」という感じです。「ウルトラマン」って、普通のおじさんが着ぐるみ着ていただけなのね。というか。次の2タイプの上司がいたとして、どちらの部下になりたいか、という問題と同じだと思っています。上司A:常に正論を言う。ぼくが何らかの抗議をして、ぼくが正しいと上司が認めたら、上司が社内的に立場が悪くなってもぼくをかばってくれる上司B:長いものには巻かれろタイプ。ぼくが何らかの抗議をしたら『君の言うことはわかるなぁ。でも、会社ってそういうもんじゃないんだよ。』と、ぼくを励ましつつ丸め込む上の例でいうと、上司Aは「社会正義」、上司Bは「社会秩序」です。どちらも悪いヒトではありません。そして、AタイプかBタイプか、というのは仕事の出来る出来ないとは本質的には関係ありません。スタイルの違いです。(そういう意味では、ぼくは「社会秩序」が「悪い」と言うつもりはありません)しかし、部下として「自分がどうしても納得がいかないことがあったときに、どちらの上司に相談したくなるか」ということで言えば、圧倒的にAタイプです。Bタイプの上司には「きっとこのヒトに相談してもムダだな」と思うでしょう。そして、司法制度も「長いものに巻く」ためのものではなく「納得いかせる」ためのものであるべきであって欲しいな、と思うのです。一般論として、個人対企業で考えた場合、上の例でもそうですが圧倒的に企業側に力があります。個人は「納得いかないけど会社の秩序に反する」問題については、声を上げづらいのです。例えば、社長のセクハラを受けた女のヒトは、その会社の中での「社会秩序」を維持するためには、黙っているしかないのです。その女のヒトが「セクハラけしからん!」と言って立ち上がるためには、何が必要か。「あなたは正しい!」と背中を押してくれるヒトです。で、背中を押してくれるヒトは誰か?もし、司法制度=上司Bだったとしたら、司法制度は絶対に背中を押してくれません。背中を押してくれるのは、市民団体であったりマスコミであったり、個の力が集まってできた「世論」です。司法制度=社会秩序ということであれば、今の世の中でセクハラを訴えられるのは、「セクハラが間違っているから」ではなく、「世論がセクハラを許さないから」ということになります。それは悲しすぎるな。とぼくは思ったわけです。ぼくの損害保険の件でもそうでした。初めて個人で訴訟を起こそうとしている。しかし結構お金がかかるということがわかる。お金をかけて敗訴した場合「お金を盗まれた上に、さらに訴訟費用を失ってしまう」ということになる。そして、一般論として「損害保険では、約款に書いていないことを認めるようになると収拾がつかなくなるので難しいんじゃない?」という『アドバイス』を受けます。ぼくはこう思いました、「よくわからないけど、ぼくの主張って間違ってるのかなぁ?保険でカバーされていると思っていていざというときに、保険金の支払いを受けられなくて、本当に途方に暮れているヒトって世の中にいっぱいいるんじゃないのかな?それを認めてしまうとそもそも保険会社って何のためにあるのかよくわからなくなるぞ?そんなことはないのかな?」こうやって個人的に悶々としているところで、弁護士が「勝てるかどうかはわかりませんが、あなたの主張は間違ってない。いっちょ戦ってみますか」と言ってくれたので、背中を押されたわけです。・・・続きは(続くのかな)次回です。
2005/01/20
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さて、昨日の続きです。ぼくが訴訟の過程で何を考えて何を経験してどう考えたか、みたいなことを昨日の続きとして書こうと思っていました。思っていたのですが、前回の日記にいろいろと興味深いコメントをいただきまして、いろいろと考えることが出てきましたので、もう少し本件に関してぼくが思ったところを付け加えます。コメントをいただいたみなさん、ありがとうございます。前回のレスでは、「ありがとう」の一言もありませんでしたね。失礼しました。まず、ぼくの書き方がまずかったところの補足から。ぼくは、別に「どちらかの主張に軍配を上げるべきである」と思っているわけではないです。前回、ぼくがさかんに「シロクロ」という言葉を使っていたので、そのような誤解を与えてしまったように思います。すみません。個人的には、8.4億円という金額は「妥当ではないか」と思っています。ぼくは、中村氏が数百億円ももらうべきだったと思っていません。「そんなにすごい発明なら、事前に会社と契約するなり、会社をやめて独立するなりするべきではないか?」ということもその通りだと思います。その点#28さんと同じ意見です。で、仮に8.4億円という金額が妥当であったとして、ぼくが納得ができないのは「裁判所はなぜそういう判決を出さずに和解という形に持ち込もうとしたか」ということです。裁判所が8.4億円という金額が正しいと思うのならそういう判決を出すべきであって、「和解」という形でお茶を濁すべきではないと思うのです。「実質的には差が無いのではないか?」という意見もあるかもしれませんが、ぼくはそうは思いません。その判決(Or和解)の後で、似たような訴訟が起こったときの影響が大きく違うのです。これは、ぼくの訴訟での経験から来る感想です。ぼくは、ネットバンクを使った空き巣被害にあいました。そのときに入っていた損害保険の約款には、「通帳や銀行カードを盗まれた場合にはXX円の保険金を支払う」と書いてありました。そこでぼくは、「通帳もネットバンクのアクセスカードも実質的には同じ役割では?」ということを主張したわけです。一方、損害保険側は「約款に『ネットバンクのカード』と明記していないためそれは払えない、という主張でした。裁判所は和解勧告を出しました。「原則としては約款に書いてあるもの意外は保険の対象にならない。でもそれでは『あんまり』なので、中間をとって半分支払うということでどうか」という趣旨でした。ぼくの件が、和解ではなく判決だったらどうなっていたか?「約款にその通り書いていなくても同じ役割を果たすものであれば、対象になる」ということを一度裁判所が認めた、ということが記録として残ります。ですので、今後は似たような状況で困っている人は、裁判を起こして自分の主張がしやすくなるわけです。そうなると、次に似たような状況の訴訟が起こったときに、争いの焦点が「約款に書いてない=保険の対象にならない、というのは妥当な考え方か」というものから、「約款に書いてないものについて、何を保険金の対象として何を対象外とすべきか、という線引きはどういう考え方でなされるべきか」という点に移るわけです。それだけ世の中の法律に対する「解釈」が進むわけです。一方で和解だと、ぼくのケースは「ぼくだけの特別なケース」ということになってしまうわけです。基本的には裁判所は、ぼくの主張(つまり、「約款に書いてある・書いてない」という単純なことで保険を払う・払わないを決めるのは、おかしいのではないか?)を、「無視」した格好になるわけです。意地悪な言い方をすると、裁判所は「『約款に書いていない=保険金を払わない』という主張はさすがにムリがありそうだ。でも、それを世の中に認めてしまったら、似たような訴訟がどんどんでてきて、めんどうなことになる」と、判断をすることを積極的に放棄しているわけです。繰り返しますが、訴訟をしている当事者どうしが和解することを選択し、うやむやにするのであれば、話は分かります。訴訟の当事者は、当事者どうしが満足すればそれでよいからです。しかし、裁判所の役割は「世の中の出来事に法をあてはめて解釈すること」ではないでしょうか?科学者の使命が世の中の真理を明らかにすることであり、経営者の使命が社会的に意義のあるモノ・サービスを事業という形で提供することであれば、裁判所の役割は現実の出来事を法にあてはめて「解釈」することだと思うのです。しかし、その『解釈』を和解という形で放棄しているから、「日本の法制度は腐っている」という中村氏の主張にうなずいてしまうわけです。また長くなりました。「社会秩序」の話は、次回ですね。
2005/01/14
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ついに青色発光ダイオードが和解により決着しました。http://www.nikkei.co.jp/news/past/honbun.cfm?i=AT1D12085%2012012005&g=MH&d=20050112ぼく自身も今裁判を起こしている最中ということもあり、(詳しくは、ぼくのBlogの2004年9月22日~24日の【ネットバンキングの危険と利用方法】を見てください。↓)http://plaza.rakuten.co.jp/tkokon/diary/200409220000/興味深く見てました。青色LEDの件と、ぼくの係争中の件から、一つの強い感想(というか信念)を持ちました。それは、言葉であらわすと以下のようなことになります。『日本の司法制度にとっては、社会正義ではなく、社会秩序を守るためのものである』ということです。これは鴻上尚史のエッセイにあった言葉ですが、社会秩序と社会正義は大きく違います。社会秩序とは現状維持のことです。大過なく、平穏に、無事に、がキーワードです。一方で、社会正義は、多少混乱が生じても、『正しいこと』を貫くことを言います。で、日本の司法制度は圧倒的に、社会秩序が目的である、と。強く強く思いました。今回の判決において中村氏が何故、和解案を飲んだか、裁判所が以下の見解を弁護士に伝えたからです。(正確な引用は手元にないですが、趣旨は外していないと思います)「裁判所がシロクロつけるとすれば、日亜化学側に有利な判決を出さざるを得ない。でも、それは『あんまり』だ。だから、8.4億円で和解してくれ」この主張には重要なポイントが2つ含まれています。■1つ目のポイント:裁判所は、『日亜化学側に有利』でも『それはあんまりだ』というスタンスを取っている。つまり、明確なスタンスをとっていないわけです。「世の中の科学者を敵に回すことになるが、日本の法律では日亜化学側が正義である。中村氏を含めた世界中の科学者よ、あなた方は間違っている」という立場でもなければ「中村氏の算定根拠の方が正しい。それが数百億円という大きな金額になって、企業が一つ潰れてしまう結果になったとしても、中村氏の主張を認めざるを得ない」という立場でもない。どちらの「意見」も、日本の判決には記録として残らないわけです。■2つ目のポイント:『8.4億円という数値に合理的な根拠がない』という点。根拠があるとすれば、「中村氏が、拒否すれば世間の顰蹙を買う」程度に大きく、「企業が支出するには、まぁ少しの痛手にしかならない」程度に小さい、というくらいでしょう。もし、8.4億円という数値に、どこに出しても恥ずかしくない根拠があるんであれば「和解勧告」なんてしないで、そういう判決を出せばよろしいわけです。裁判所の判断基準が、「どうすれば世間で波風が立たないか」ということにある、ということがよくわかります。実はぼくも、同じような理屈で、同じような「和解勧告」を受け入れたばかりです。(この件については、別の機会に詳しく書こうと思います)ぼくの「和解勧告」も、まさに中村氏の和解勧告と同じ理屈のものでした。ぼくが2つの件(青色LEDの件、ぼくの件)で、よく理解できないのは、 「なぜ裁判所がグレーな立場をとるのか」ということです。原告側、被告側の弁護士が、「シロクロつけるのはよして、この辺で和解しときましょうよ」というのなら話はわかります。「裁判所が日亜化学側の有利な判断をする可能性が高い。その場合の損失はあまりにも大きい。ここは一つ、現実的なところで歩み寄りましょうよ。」ということで、弁護士が中村氏を説得したのならわかります。でも、裁判所がそれをすることはないだろう。という具合に考えていたわけです。例えて言うなら、裁判所は審判ではないかと。審判が、「今回のケースはアウトと言ってもセーフと言っても、不利な側の選手やファンが怒るので、じゃんけんで決めてください(あるいは、このプレーはなかったことにしましょう)」と言っているようなものではないかと。・・・・この話、長くなりそうなので、続きは次回にします。
2005/01/13
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「使い捨て」だの「飼い殺し」だの、企業にとっての人材について随分とネガティブな視点で書きましたので、ここらでお口直しに。企業にとっての人材の考え方はこうあるべきだ!というものです。最近あるところで読んだ、あるメーカーのオーナー会長のコメントです。(正確な引用は残念ながら手元にありませんので、要旨だけを書いておきます)「世の中に一人として無能で不要な人など存在しない。人は適切な場を与えられたら、誰もが大きな力を発揮できる。ちょうどジグソーパズルのようなものだ。一片として不要なものはない。全てがぴたりと収まる。だからこそ、我々は一つ一つ形のちがうものを、根気強くはめ込む努力をするのだ。」松下幸之助も「今日の私があるのは、それぞれの人が持つ特長を見出して、生かしていくことに多少長じていたからではないかと思う」と書かれています。ともすると人の欠点ばかりを見てしまう自分への反省の意味も込めて、印象に残る言葉として、Upしておこうと思いました。
2005/01/12
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前回の続きです。「飼い殺し」と「使い捨て」の違いが、その環境で働く人にどういう違いをもたらすか、ということです。「飼い殺し」と「使い捨て」の大きな違いは、極論すると指示の与えられ方だと思います。「飼い殺し型」の指示の与えられ方は、「○○、○○、というルール(制約条件)の中で、△△をやるように。(但し、△△以上のものは求めない)」というものです。作業にもアウトプットにもいろいろな制約が着きます。またアウトプットも△△以外のものでも困るわけです。一方、「使い捨て型」の指示の与えられ方は、「とにかく、△△よりもよいアウトプットを作れ」というものです。基本的には時間以外の制約はない。そして、アウトプットの△△は、コンサル用語で言うところのMinimum Requirement(=最低保証水準:これ以下だと赤点、という水準)です。上記の指示の与えられ方の違いが、仕事のやり方に対して大きな違いを生みます。前者では「既に定まっている正解の答案になるべく少ないミスたどり着く」ことが良いことですし、後者では「とにかく最良のアウトプットを出す。(最良とは何かということも含めて考えた上で)」ことが良いことです。ということは、前者=ブルーカラー的な発想、後者=ホワイトカラー的な発想、ということではないのか?というのが最近考えるようになったことです。ぼくはホワイトカラーとブルーカラーの正確な定義を知っているわけではありませんが、ぼく自身以下のようにとらえています。ブルーカラー:アウトプットや作業内容が定型化されており、ある程度時間をかければ、時間に比例してアウトプットが出る仕事をしている人ホワイトカラー:アウトプットや作業内容が定型化されていないため、時間とアウトプットが比例しない例えば、「皿洗い」はブルーカラーです。当然、皿洗いにも方法論や上手い下手や哲学や皿洗い道があるわけですが、基本的には2倍の時間をかければ2倍の皿が洗えますし、熟練者と業務を覚えたての人で100倍の生産性の差が出ることは滅多に無い。(※ブルーカラーにも「巧みの世界」というのはありますが、ここではちょっと割愛します)「将棋の次の一手を考える」はホワイトカラーです。3秒で「これ」という手が思い浮かぶかもしれませんし、1週間かかっても悩み続けるかもしれない。1時間考えても3時間考えても、解が浮かばない場合、差分の「2時間」には、見かけ上何の価値も生み出されていません。また、羽生名人が2秒で解ける詰め将棋も、私は1ヶ月かけても解けないでしょう。それくらい、出来る人と出来ない人の差が大きい。で、上記の発想の差で仕事を続けるとどうなるか、というと「飼い殺し」の環境に馴れてしまった人は減点しない・正解を聞きに行く、という傾向が強くなります。極論すると「このタスクに満足な解が得られないのは、私のせいではなく、制約条件が多いからだ。」という言い訳が上手になります。で、新しい発想がなかなか出てこなくなる。「使い捨て」の環境に馴れてしまった人は、アウトプット至上主義の傾向が強くなります。極論すると「このアウトプットの欠点があるなら指摘せよ。指摘できないなら、制約条件云々言わずに、この通りやろう」という具合に、現実要件(文化とか、そうは言っても・・・みたいなもの)に敬意を払わなくなります。これも前回同様、どちらが良い・悪いではないですね。また、どちらの環境においても、優秀な人は両者の傾向をバランスよく持った上で、必要に応じて使い分けられる人というのはいます。ただ、一般論として人間は環境に影響されますし、自分はどちらの傾向が強いのか、ということも意識した方がよいですね。ということを、最近考えさられることが、いくつかありました。
2005/01/10
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前のコンサルティング会社の同僚が、金融機関からコンサルティング会社に転職してきた理由をこう表現しました。「ぼくは、飼い殺されるよりは使い捨てられる方がよいと思った」言いえて妙だな、と思います。両者の人材に対する考え方をよく表現していると思います。コンサルティング会社では、とにかく人は「選別」され「消費」されるものです。様々なプロジェクトの過酷な条件に放り込まれて、「こいつは這い上がってこれるだろうか?」という形で、その人がコンサルタントとして「使える」かどうかを見極められます。なぜ様々なプロジェクトに放り込まれても、コンサルタントはがんばり続けるのか、というと、「クライアントファースト(クライアントが常に一番)」及び「我々はプロフェッショナルである」という二つの(使う側からすると)便利なお題目があるからです。一言で言うと、「クライアントが満足するアウトプットが出ていさえすれば、いつどこで何時間仕事をしてもかまいません。それはプロであるあなたの自由裁量です」ということです。その結果、多くの人が仕事を途中で切り上げてアウトプットの質を下げるか、深夜労働・週末労働を『自主的』に行うか、という二者択一を要求されます。前者を選んで十分なアウトプットが出ないと「彼は使えない」ということで×を食らう確率が上がりますし、後者を選ぶと「人生=仕事」みたいになってしまい、ある程度まで行くと多くの人が燃え尽きてしまいます。ということで、他のコンサルタントよりも著しく優秀な人(※「優秀」の定義はいろいろあって難しいですね。正確には「優秀という評価を得ている人」ということですね)以外は、モタない仕組みになっています。こうやって、人は使い捨てられていきます。一方、事業会社では、人はよくも悪くも組織の「構成員」であることが求められます。組織の構成員ですから、擦り減ってしまっては困ります。ですので、基本的には「過重な負荷」がかからないような均衡が働きます。「労働組合」というものもあります。一方で、「構成員」ですので組織の「秩序」「仕組み」「不文律」をはみ出して行動することが非常に難しい。その結果、どんな仕事に対しても「無難に既存の枠組みの中で仕事をする」か、「本質的な解決策を求めて既存の秩序・仕組み・不文律に戦いを挑む」か、という二者択一を要求されます。前者を選ぶと基本的には結果に対して咎められることがありません。但し、前者選び続けていくのは、基本的には「組織の言いなりになる」ということですから、だんだん自分で考えなくなる人が出来上がります。後者を選ぶと「とても大きな摩擦が発生する(=仕事量が著しく増える)し、リスクも大きい。その代わり成功すれば、見返りが来る」ということになります。但し、リスクに比べ見返りが小さいことが多いので、後者を選んだ多くの人は『分が悪い勝負』を挑み、敗れてしまいます。ということで、「分が悪い勝負に挑む」という奇特な人を除けば、「既存の秩序に沿って動いた方が自分としてよい結果が得られる」ということになっていきます。こうやって飼い殺されていきます。ということで、「人材」というものに対する考え方の違いから、コンサルティングファームで働くか事業会社で働くかというのは、悲観的に見ると「使い捨てられるリスク」と「飼い殺されるリスク」のいずれを選ぶか、ということになります。もちろん、どちらが「良い」とか「悪い」ということはありません。ただ、両者の違いをことさら強調して、その部分を「わざと悪く」言うと、上記のようになる、ということです。ということで、この違いの持つ意味合い、については、次回続きを書こうと思います。
2005/01/08
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これも自分向けのメモ。年始めのUpなので、『今年の目標・抱負』をUpすべきかな、と思うのですが、今年はなかなか「うん。そうだ。これでがんばろう」という形が自分の中で決まらないですね。というのも、昨年末に以下のように書きました-----------------去年までは「今年はがんばったか?」という尺度で1年を振り返ってみて反省点やらよかった点やらをおさらいしていました。ところが今年は、「がんばったか?」という質問で振り返るのが正しいのか?、ということも含めておさらいすることになる1年です。-----------------昨年までは「がんばったか?」ということが振り返る観点だったのですから、年初の『今年の抱負』みたいなものも「これをがんばる」「こういう風にがんばる」みたいな目標の立て方だったわけです。で、今年もそれでよいのかな?と。いうことについて自分なりにまだ、整理できていない、ということですね。(答えは、わかっているんです。「『今年は○○をがんばる』という抱負でよいのか」ということの答えは「YesでありNoである」ということです。というか、全ての質問の返事は「YesでありNoである」なんですよね。で、どういう点でYesでどういう点でNoなのか?これを自分なりに整理できなければ、ということですね)当然「今年はこれをがんばる」みたいなものはあります。○仕事:これから担当するプロジェクト(あるテーマでの戦略策定です)を足がかりに“文化革命”が動き始めるように仕掛ける。コンサルで言うところの「本プロジェクトで見られた課題 を次のプロジェクトにつなげる」みたいなことです。当然、プロジェクトが成功は前提条件。○ブログ:続けます。書くに値するネタが続くように、インプットの量も外部からの刺激に対する感受性も重要です。○家族:これは「何かをがんばる」というよりも、心がけ、ですね。時間を確保する、とかそういうことです。○ゴルフ:人とラウンドして恥ずかしくない位には・・・で、最後に以下を付け加えます。○もう少しいろいろ悩んでみる:「悩んでみる」であって「考えてみる」ではないので、特別なアウトプットを期待しているわけではない。どちらかというと、「考える」という作業をあえて放棄してみて自分はどう感じているのか?思っているのか?みたいなことを、大事にしてみる、という感じですかね。書いていてもうまく表現できないのですが、折に触れ日記を見返すことで、この疑問に戻ってみようと思います。
2005/01/07
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