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またブログを最後に更新してから、だいぶ時間が経ってしまいました。決してブログに飽きたわけでも、書くネタがないわけでもないので、結果的には全く更新できていないのは、単に『怠惰である』ことに起因しています。申し訳ありません…。ということで、「これはいかん」思い、「どんなことがあってもこの時間はブログを書く・ブログのネタを整理するぞ!」と決意し、そんな時間を確保して書く。その習慣が少しだけ回り始めたんです。(そのことも、実際にブログのアウトプットが出始めた後で書こうと思ったネタでした)その矢先、ぼくの身の回りに大きな環境変化がありました(正確には、これから大きな変化があります。です)。身近な方々にはすでにお話しているのですが、ぼくの知り合いで「私は聞いてないぞ」という方はご連絡をください。こっそり教えます。(あ、ちなみにグッドニュースだと思います)そんな関係で、しばらくブログはお休みしようかと思います。環境変化に慣れるまでは、「ブログ」という形に文章をまとめる時間が取れないだろうというのがその理由です。(環境が変わると、ブログに書きたくなるネタは確実に増えると思うのですが。そしてぼく自身もそれを期待しているのですが)このブログは、■文章上は、一応ぼくという個人が特定できるような要素は書かない■ぼくのことを知らない人が読んでもそれなりに興味を引くかもしれない要素を盛り込む■「あ、そういうことあるかもしれないね」というある程度汎用的なメッセージを盛り込むという文章を(出来ているかどうかは別にして)目指しています。その姿勢は崩さずにいたいので、その余力が出来るまでは、「もっと個人的な」文章を書くことに専念し、ブログのように「不特定多数」の目に触れることを前提とした文章はお休みします。例えば、、●今の会社(A社)で、Bという仕事をしていて、その中で失敗をしてしまった。その失敗を通じて何かを学んだ。⇒これをこのまま書くと、「ぼく」という個人が特定されてしまう非常に「個人的な」文章です。これを、ブログにするために、○Aという会社名を特定できないように、ぼやかす。○Bという仕事における失敗を、より汎用的な記述にする。(私の職業・仕事内容を知らない人にも、どんな失敗なのかわかるような記述にする)○失敗を通じて学んだことを、「ぼく個人にとっての教訓」+「一般的に気をつけるべきこと」の2つの要素から考察・解釈し直してみる○その上で、ある程度汎用性のあるメッセージがあるか、ぼくを知らない人が見て「面白い」と感じる要素が少しでもあるか、チェックする。○面白くない、メッセージが無いということになれば、ネタをボツにするか、文章を書き直す。○「まあ、このくらいなら出してもいいかな」と自分が許せるレベルになるまでそれを続ける。ということを、これまでやってきました。⇒これが、個人的な文章をブログにするための「手間」です。今後、しらばらくは、● の文章(=「個人的な文章」を自分のために書くという作業に集中し、○ の「手間」に時間を割く量を減らそうと思います。「しばらく」がどの程度の期間をさすのかはわかりません。すみませんが、そんな状況です。とはいえ、今月いっぱいは、「在庫処分」ということで、今まで途中まで書き溜めたものをUpしたりしようと思いますし、環境変化後も、気が向いたらブログを書くかもしれません。フタをあけてみたら、更新頻度はかわらないじゃないか。ということもあるかもしれません。(特に、これだけ更新頻度が少ないと、ありえてしまいます・・・)というわけで、これまで読んでくださった皆さん、どうもありがとうございました。しばらくして、もう少しリッチな内容でカムバックしたいと思いますので、ゆるりとお待ちいただけるとありがたいです。ありがとうございました。。。。またよろしくお願いします。。。
2007/06/04
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前回の続きです…。歴史人口学の本を読んで、現在の少子化問題について感じたこと。ということで、過去の人口増加時期の条件と比べると、■現在は、「次世代(子供・孫の世代)に幸福を引き継ぐ力」が圧倒的に足りない■現在は、子供を産む・育てる ということに対する、家族・コミュニティーの役割分担が、確立していない(もしくは、現在の生産システムに合致していない)ということで、前回は「次世代(子供・孫の世代)に幸福を引き継ぐ力」が圧倒的に足りないということについて書きました。今回は、■子供を産む・育てる ということに対する、家族・コミュニティーの役割分担が現在の生産システムに合致していないということについて。江戸時代の家族・コミュニティーの役割分担と比べた現代の変化で、一番すばらしいことは、「女性(特に母親)」に「出産・育児以外のことに、時間を使うという選択肢が出来た」ということだと思います。しかし、一方で「出産・育児」を社会の中で誰が引き受けるのか、ということが不明確なまま、女性の選択肢が増えたので、「女性の社会進出」が「社会全体で見て、出産・育児の役割を引き受ける人の不足」を起こし、それが少子化の原因の一つとなっていると思います。つまり、選択肢が増えたといっても、現実的には「生産システム(=社会)において、貢献する」ということと「たくさんの子供を出産し、育てる」ということを両立することが相変わらず極めて難しい、ということがあります。なので、「仕事をしながら、子供を3人・4人産む」ということが「女性にとっての選択肢の一つ」ではなく、「周囲に迷惑をかけて自分が好きなことをするわがまま」である、という意識が、周囲にとっても本人にとっても強く残ってしまいます。で、これも前回と同様「解決策」というよりも「こうならなければ解決しない」という要素を挙げると、●企業側で、女性の出産・育児を支援するシステムの充実(これは重要ですが、いろいろなところで議論されていることなので、詳細は割愛します)●親以外の、「子供を育てる」役割・機能の充実(「自分が時間を使えない場合の代替案(例えば、保育園やベビーシッターなど)」の整備、ということで、これも前回書いた内容の繰り返しになりますので割愛します)●「社会で一人前になる年齢」を早める現在の社会で「最前線で価値を生み出す(=仕事をする)」ために、一人の人が一人前になるまでの時間が長すぎるのではないか?と感じます。 例えば、大学を出て、就職して、仕事を覚えるのに5年かかれば、それだけで「社会で一人前」になるには、27歳とか28歳になります。ここから家庭を持ち、子供を産み…となると、ここから3人、4人と子供を産むことは、現実的なオプションとはなりづらいでしょう。(医学的にも、28歳から3人・4人の子供を授かるというのはまだまだ難しいようです)膨大な教育投資を受けて20代後半に「一人前」になる、という以外の「幸せ」のロールモデルが必要だし、今後出てくるのではないかと思います。 (例えば、インターンなどの形で、社会に触れる年齢を早めるとか、 社会人教育の選択肢を増やし「教育を受ける」ことと「社会で生産する」ことの行き来の自由度が増すとか、ということが今後進むでしょうし、進まなければならないと思います)…書き出すと随分と、書きたい内容が増えて、その割には中途半端なまとめになってしまいました。最後に一つ、感じたことを。人口が増加している時代には、『勝ち組・負け組』という概念はなかったんだろうな、と思いました。『勝ち組・負け組』という言葉は、そもそも「限られたパイを、人間同士が取り合う」という発想が根底にある気がします。当然「パイを取りっぱぐれた人」は、幸せになれないし、自分の子供がパイを取れるかどうかわからない、となったら「子供を産もう・増やそう」という発想にならないのは当然です。「勝ち組・負け組」と言っているうちは、少子化問題は解決しないでしょう。アルビン・トフラーの「第4の波」とか、前の総理の「IT革命」でもないですが、「工業化」の次の生産システムが、「あ、こんな形で社会と関わっていければ、自分もちゃんと社会に価値を提供できるし、自分の子供にも幸せを引き継げるな(子供も間違えなく幸せになれるな)」というところまで来ないと、人口増加を期待するのは難しいのだな、と感じました。そういう「自分の子供に引き継ぐことが可能な生産システム」が出来れば、「それに合致した教育システム(膨大にお金と時間をかけずに社会に出られるような)」もできるでしょうし、「それに応じた子育ての考え方(限られた子供に膨大な時間・お金をかけて育てなくても子供が幸せになれるような、社会的機能が整備されるとか)」となっていくでしょうし、そうなると、家族・コミュニティーの中で「子供を産む・育てる」ことの新しい役割分担も固まってるのかな、と感じました。でも今の「第4の波」「IT革命」にそのような力があるのか、というと残念ながらそうは感じません。もう一ひねり、生産革命があるんでしょうね。それがどんなものか、想像もつきませんが。。。
2007/05/16
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前回までの続きです。書いているうちに、「あれも・これも」となって、当初思っていたよりも随分と大掛かりになりましたが、ようやく本題に入れる感じです。歴史人口学の本を読んで、現在の少子化問題について感じたこと。前回・前々回に書いた内容の繰り返しになるのですが、過去の人口増加時期の条件と比べると、■現在は、「次世代(子供・孫の世代)に幸福を引き継ぐ力」が圧倒的に足りない■現在は、子供を産む・育てる ということに対する、家族・コミュニティーの役割分担が、確立していない(もしくは、現在の生産システムに合致していない)ということで、これでは人口が増やせと言う方がムリがある、という気がします。だからといって、江戸時代のシステム・役割分担(母親は子供を産んで育てるのが役割。子供はどんどん分家していく…)を踏襲すべき、という話ではもちろんなくて、現在の世の中で最適なシステム・バランス・役割分担は何か、ということを考える必要がありそうです。■「次世代(子供・孫の世代)に幸福を引き継ぐ力」の不足について:人口が増加していた時期に比べ、現在は「生まれてくる子供は、自分と同じくらい・もしくはそれ以上幸せになれるか?」という質問に対して、「はい」と答える余地が圧倒的に少ないように思います。ましてや、「子供が3人でも5人でも、その質問には『はい』と答えられる」と言える人は、極めて少数派ではないかと。しかし「じゃぁ、仮に子供が5人出来たら、子供は餓死してしまうか?」という質問には、殆どの人が「そうはならない」と答えると思います。つまり、「食べさせることのできる子供の数」よりも「自信を持って幸せに出来る子供の数」が圧倒的に少ない。なぜか?一つの理由として、やはり経済的な要因は無視できないでしょう。「子供を一人幸せにするために必要なお金」と「子供のために使えるお金」との間のバランスが、「子供がたくさんいても、彼らを幸せにできる」という思いにブレーキをかけているのではないかと。例えば、-「子供に幸せを引き継ぐ(=子供に自分と同じ・それ以上の幸せを体験させる)」には、「子供に食べさせる」以外、教育・娯楽等に莫大なお金がかかります。「自分が教育にお金をかけてもらった、という自覚の強い人ほど、自分の子供の教育にお金をかける」という調査結果があったように思います(うろ覚えですが)が、それが正しいとすれば「子供の頃おかねをかけてもらって幸せを実感する人」ほど「子供に幸せを引き継ぐために、お金が必要」ということになります。つまり「親世代に幸せにしてもらった」人ほど「子供の幸せのために必要なお金が増える」ともいえそうで、これでは、「3人でも5人でも子供が産まれても、彼(女)らは幸せになるだろう」と言う具合に、幸福を引き継ぐことはできません。-社会全体で見ると子供以外にも「扶養」コストが大きい江戸時代には「夫婦は、子育て完了とほぼ同時に、人生を全うした」ので、社会全体で見ると「お年寄り」を扶養するコストが殆どかかりませんでした。ところが、今は日本人の平均寿命で言えば、子育てが終わってから30年近く(乱暴に言えば、子供が生まれてから、成人するまでの時間よりも長い期間)生きることができます。その期間、、社会全体で見ると彼らを「扶養」する必要があります。(「働けるうちに、老後に備えて貯金する」というのも、今の自分が将来の自分を扶養する、ということで話としては同じです)その分、社会全体で考えると「子供にかけられるお金」は減ってしまいますので、「親が幸せに出来る子供の数」も必然的に減ってしまいます。(※言うまでもないことですが、お年寄りは尊敬すべきですし、尊敬していますし、お年寄りを社会が「扶養」することが悪いことだ、というつもりは全くありません。むしろここで言いたいのは、そういう環境(少子化問題に対しては「逆風」です)に対応しなければ、問題は解決しないのではないか?ということです。)もう一つの理由としては、経済的な成功は、子供を幸せにするたけの十分条件ではない、ということ、つまり、「社会的に多くのものを生産しても(=お金をたくさん稼いでも)、子供に幸福を引き継ぐことができない」ということがあると思います。お金持ちほど幸せを引き継げるなら、収入の多い人ほどこだくさんということになりますが、(たぶん)統計的にはそういう事実は無いと思いますので、「お金を稼いでも、それは子供を幸せにする能力とは関係が無い(弱い)」ということを、多くの人が実感として持っているということだと思います。では、子供に幸せを引き継ぐために必要なものは何か?というと、例えば愛情をかけるとか、子供と過ごす時間を作るとか、「お金以外のもの(特に時間)」が必要です。これは、親が社会でものを生産する能力(=お金を稼ぐ能力)とは、無関係ですから(むしろ逆相関かもしれません)、おのずと「親が子供のために使える時間」によって、「親が幸せに出来る子供の数」にも制限がかかってしまいます。つまり、親の「時間」が「幸せを子供に引き継ぐ」ためのボトルネックになってしまう、ということになります。上記の「解決策」というと難しいですが、「こうならなければ解決しない」ということをいくつか挙げるとすれば、●「親が莫大な教育投資をしなければ、子供は幸せになれない」という状況(もしくは、そういう社会の共通認識)は、徐々に解消されていかなければなりません。働きながら教育を受ける(自分で自分に教育投資ができる)ことの自由度が増したり、 子供の頃に良い学校に行く⇒社会人になる際に良い会社に就職する⇒幸せ、という「親による就業前の莫大な教育投資」が割りに合わなくなってくる、という環境変化が進めば、 代わりの「幸せロールモデル」が出てくるのではないかと思います。そうなると「お金をかけなければ子供を幸せにできないかもしれない」という状況は多少は緩和するのではないかと、思います。●お年寄りが「扶養される」立場から「扶養する」立場にならなければなりません定年退職・育児完了後、数十年生きられる、ということは「まだまだ現役でがんばることが出来る」ということを意味します。社会で生産する(=働いて金を稼ぐ)ことをしてきた人が60歳で定年を迎える、扶養される立場になるのは、あまりにも早すぎます。専業主婦など「お金を稼ぐ」以外の方法で社会に貢献してきた人(主婦など)は、子育て(孫育て)によって、社会に対して価値を与えることができるでしょう。まだまだ元気な彼らが「扶養される」立場というのは、明らかに不自然で、この状況も緩和されるのではないでしょうか。(現に、多くの元気なお年寄りは、「社会に貢献したい」と考えているように思います。●子供を幸せにするための役割分担が進み「お金以外のボトルネック」が解消されなければなりません確かに「親の愛情は重要」ですし「親の時間は有限」です。しかし、子供が幸せになるために「親が時間をかけることが望ましい」ものと「親が時間をかけなければならない」の区分は、今後相当自由になってくると思います。(「赤ちゃんには直接授乳しなければならない」のか「赤ちゃんには直接授乳する事がのぞましい」のか、という違いです)本当に親にしか出来ないもの(例:出産とか>これすらも、医学的には母親限定ではなくなりつつありますが…)以外は、役割分担が進み、「自分が時間を使えない場合の代替案(例えば、保育園やベビーシッターなど)」の整備が進むと思います。また、これらの代替案の活用しても子供の幸せが犠牲にならない、という理解・意識が進めば、「代替案」を活用することに対する、両親の罪悪感が軽減されるため、「親が子供にかけられる時間」にレバレッジがかけられるようになり、親の時間の不足が、子供を増やすことのブレーキにならなくなっていくのではないでしょうか。…続きます。
2007/05/15
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引き続き。前回は、「次の世代に現世代の幸福をより多く引き継げるような社会では、人口が増加する」ということ。それから、「人類にとって生産のシステムが変わるごとに、人間社会全体の生産性が飛躍的に向上し、『社会が支えられる人間の数』が増えて、人口増加につながる」ということを書きました。今回は、もう一つの発見(ぼく自身にとっての)について。一言でまとめると、「生産のシステムとともに、その生産システムに合致した家族・コミュニティーのスタイル」が非常に重要である」ということです。歴史人口学の資料では、江戸時代の家族・コミュニティーの構成について、かなり詳しいことがわかっています。ちょっとした推定をすることで、かなり詳しい統計データをとることができます。それを見て感じるのは、「当時の家族・コミュニティーのスタイルは、当時の医療・経済の状況に非常によくマッチしていた」ということです。基本的には、父親・母親・子供・老人の『役割』が当時の生産システムとマッチし、人口増加に寄与していたということです。現代の家族・コミュニティーのスタイルと随分違うなぁ、というのが以下の統計を見てわかります。 江戸時代 大正時代 現代 18世紀 1920年 1990年(1)出産期間 19.7 14.5 4.0(2)子供扶養期間 31.6 27.0 22.3(3)脱扶養期間 1.5 10.5 32.7(4)全期間 36.2 40.0 56.7ちなみに、(1):結婚から、末子出生までの期間(2):長子出生から、末子成人までの期間(3):末子成人から、夫(または妻)死亡までの期間(4):結婚から、夫(または妻)死亡までの期間です。上記統計から見て、■女性は、結婚してから20年間にわたり、子供を産み続けていた。(1.出産期間が20年と長い)■子供の年齢差が非常に大きく、早くに生まれたこどもは、「子育て」を相当程度手伝ったのではないか。■江戸時代の夫婦に「老人」の時代が殆どなく、子供を育て終えたところで人生の終焉を迎えていた(3.脱扶養期間がわずか1.5年)子供を産んでから次の子供を産むまでの期間を仮に3年とすれば、女性一人当り6~7名の子供を産む計算になります。当時の医療状況・死亡率を考えると、5歳まで生きられるのが10人中7人以下、15歳まで生きられるのが10人中5人ですので、6名子供が生まれても、そのうち成人するのが約3名。結婚しない人や「間引き」される子供の数も計算にいれると、こでも人口増加にはギリギリのラインだったようです。ということもあり、人口増加を支える様々な風習があったようで、例えば地方では結婚率が非常に高く「生涯独身」の人は非常に少なかったようです。(奴隷や丁稚など、「経済的・社会的に家庭を持つことの出来ない人」は殆どいなかったようです)また、離婚・再婚も日常的にあったようで、三行半というのも、形としては夫がつきつけるわけだが、妻側が、次の結婚をするために夫に三行半を要求するということも多かったとのこと。前の夫・妻との間に子供がいても、新しい夫・妻との間に再婚後こだわりなく(見える)子供を産むということが当たり前だったようです。おそらく、これも、社会全体の出産数を維持するためには重要な風習であったように思います。(少なくとも当時の世の中では、「キリスト教的道徳観」よりも、このような風習の方が自然であったのだと思います)また、経済的には扶養を終えた「老人」を扶養するケースが稀であったこと、地方では分家によって、家族が独立しても「食い扶持」がちゃんとあった家族が多かったこと、などから、経済的な要因が人口増加の制約条件にならなかったことも、大きな理由かと思います。これが、いかに微妙なバランスの上で人口維持に寄与していたかということを示すのが、江戸時代の都市部の人口の推移です。地方から都市(江戸・大阪)に出た人は、晩婚化が進み(といっても地方と比べて数年違いですが)、独身率も上がり(これもわずかな差です)、疫病などによる死亡率も高い結果、都市は、常に人口が維持できていなかったようです。地方から都市への継続的な人口の流入がなければ、都市の人口は減っていたそうです。まとめると、■女性は、とにかく子供を産み続けることが求められたということ(また、それを促進するように離婚・再婚が柔軟であったり、「結婚できない」身分の人が殆どいないこと)■それでも当時の医療状況では、子供の半数は成人を迎えられなかったということ■しかし、成人男性・女性の婚姻・出産をとめる(主に経済的な)制約条件は、限定的であったこと (分家も可能であったこと、老人を扶養するケースが稀であったこと)がうまくバランスをとって、人口を増やしていたのだということがわかります。というわけで、歴史人口学の本からの発見のまとめは、以上です。次回、「現在の少子化に対する示唆」を自分なりにまとめてみようと思います。(某大臣の発言のようになりそうですが…、言葉を選んで書いてみます)
2007/05/14
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前回の続きです。日本の人口増加期に見られる特徴を書いていこうと思います。結論を一言で言うと、「次の世代に現世代の幸福をより多く引き継げるような社会では、人口が増加する」ということではないか、と考えました。以下、その根拠です。日本は歴史上4度、人口増加期を経験しているようです。4度とは、1.縄文時代前期~中期、(人口:26万人)2.弥生時代~平安時代、 (人口:700万人)3.室町後期~江戸時代前期、 (人口:3250万人)4.明治~現在 (人口:12000万人)で、今は明治時代以降の人口増加が鈍化して、ついには止まって人口が減少し始めた時期です。それぞれの時代を見ると、基本的には「人類にとって生産のシステムが変わるごとに、人間社会全体の生産性が飛躍的に向上し、『社会が支えられる人間の数』が増えて、人口増加につながる」ということがわかります。○縄文時代は、狩猟による食料確保の方法が進化し、高度化して人口が増えますが、気候の影響を大きく受けたため、気候の寒冷化とともに人口が停滞し、やがて減少したようです。○弥生時代以降は、水稲農耕により、食料が比較的安定的に確保できるようになりました。しかし、開墾があるていど一巡し可耕地が減少するとともに、気候変動が起こり、人口が停滞したようです。○室町時代以降、経済社会が確立し、再び人口を支える力が上がっていきます。経済社会の発展とともに、食糧確保の生産性も上がったということががありました。また経済社会が発展することで「自分が食べられる分以上作っても仕方ない」状態が「作れば作っただけ恩恵を受ける」ことになった、という要素もあったのではないかと思います(これはぼくの推測です)。しかし、「生物の力」をエネルギー源とした経済社会だったので、やがて「人間・生物の生産性」がボトルネックとなり、人口が停滞する。○最後に、工業化が起こり、「生物のエネルギー」だけでなく「鉱物・地下資源エネルギー」を使えるようになることで、人類の生産性が飛躍的に高まります。そのことで、さらに「社会がさえられる人口」が増えて人口増加につながります。しかし、そのシステムも行き詰まりを見せつつあるのが今現在の世の中、ということになります。上記に共通するのは、「人口を支える力」を得ることによってはじめて、人口が増えるということですね。しかし、一方で「人口を支える力」というのは「メシを食える人数」ということを必ずしも意味しないということです。(現在にあてはめればわかりますが「食うだけ」を考えれば、多くの家庭は4~5人の子供は支えられるでしょう。でも、子供を増やそうというインセンティブが働かない)江戸時代でも、人口が停滞していた時期でも「家庭の生活水準は、落ちるどころかむしろ高まっていたようです。ということは、むしろ、重要なのは「メシが食えるか」ではなく、「今の幸福レベルを、次の世代に引き継げるか?」ということだと思います。例えば、開墾する土地が周りにたくさんあれば、子供をたくさん産んで、彼・彼女らが分家して開墾することで次世代に「幸せを引き継ぐ」ことができます。しかし、開墾が一巡してしまうと、「たくさん子供を産めば産むほど、一人当たりの食い分が減ってしまい、次の世代は今の世代に比べて相対的に不幸になってしまう」ということになり、人口が増えない、ということではないかと思います。現代でみると、(これは、ぼくが歴史人口学の本を読むきっかけとなったセミナーでも言っていたことですが)「IT革命」(って死語ですが)は、本当の意味での人類にとっての革命的な出来事なのか?というと、少なくとも「人口を支える力」を増やすと言う意味でそうなっているわけではないですね。世の中の多くの人が「この仕組みを次の世代に引き継ぐことで、子供が4人も5人もいても、彼・彼女たちに自分と同じ/それ以上の幸福を引き継ぐことができる」という具合には感じないと思いますので。そういう意味で、人類にとって本当に革命的な出来事なのか?というと、そこまでは行かないのではないか、と思います。ということで、人間の社会全体で「次の世代に引き継げる幸福の総量」を拡大しているか?していないか、ということが人口増加に大きな要因になっている、というのが本を読んだ感想です。で、次は「幸福を引き継げるか」とともに重要な「人口を維持・拡大するためのライフスタイルがあるか」ということについて書いてみようと思います。
2007/05/13
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前回の続き。歴史人口学を読んで、意外な「へぇ」がいくつかありました。トリビア・雑学みたいな話ですが、ぼくの持っていた直感と違う発見も多かったです。特に面白かった発見は、以下。○貧乏人の子だくさんは、統計的には誤り。むしろ、貧乏人のほうが(主に経済的な理由から)人口調整が働く。現在、発展途上国が人口爆発に悩む姿を見ると、むしろ「貧乏人の子だくさん」は正しいようにも感じますが、少なくとも同じ時代の同じ場所の中で見ると(例:江戸時代の日本だけを取り出すと)統計的には、貧乏人の子だくさんではないようです。むしろ現在の途上国の人口爆発の方が「特殊」なようです。途上国の人口爆発の大きな要因は、「多産多死」を前提とした途上国の家族・仕事の持ち方・ライフスタイルが維持されたまま、突然医療・社会インフラが整備されたため、「多産」が改善されず「少死」になったため。そのため「亡くなる」ことが前提の人が生きられるようになって、今は人口が爆発していますが、早晩それでは生活がもたなくなる。で、歴史人口学的に言えば、数世代をまたぐ間に調整が働き、自然に「少死」を前提とした家族・仕事・ライフスタイルに改善することを余儀なくされ「多産」も改善されるはず(少なくとも過去の人類の歴史はその繰り返しであった)とのことです。事実、国連が発表する「2100年の世界人口予想」は、予想をするたびに下方修正されているようです。(もちろん、今の人口爆発のペースは、「数世代をまたぐ」なんて悠長なことを言っていられないほど緊急性の高い問題ですから、「人口爆発」が大きな問題ではない、と言うつもりは全くありませんが)○人口増加の抑止になるのは、「食えなくなるから」ではない。むしろ「今の生活水準を維持できなくなるから」江戸時代後期には、実は人口は増えていませんでした。ではその頃、人びとの生活水準が下がったか?というとNoでむしろ個別個別の家庭で見た、生活水準は維持・向上していたようです。つまり「本当に飢え死にしてしまう」から、人口増加が抑制されるのではなく、「このまま子供を産み続けると、家族・コミュニティー全体で、一人当たり『取り分』が減ってしまう」ということが実感されるから、人口が抑制される、というのが実態に近いようです。現在の少子化の原因に通じるものがあるように感じました。○江戸時代までの日本で子供を「間引いた」のは、「殺人」ではなく現在の「避妊」の感覚に近い江戸時代までは、生まれた子供のうち7歳まで生きられるのは、わずか50%とのことです。つまり「基本的に子供は死ぬかもしれないもの」という前提があります。(そう考えると七五三の意味もわかる気がします)ですので、「7歳までは神様」という考え方をとり、子供を「人間ではなく、人間になる一歩手前の状態」と考えていたようです。で、現実的に避妊・堕胎の方法が殆ど存在しなかったこともあり、7歳までの子供を「調整」することは、「人を殺す」こととは、全く別のものと考えられていたようです。現在であれば、どうしても子供を持つ事が許されないカップルが子供を堕ろすように、(もっと極端に言えば、子供を持てない・持ちたくない人が性欲を抑えるのではなく、避妊するように)子供を間引くということが行われていたようです。このように、その時々の医療状況・人の寿命・結婚年齢・平均出産人数の変化に応じて、実に柔軟に「風習」や「命に対する考え方」が変化し、それが結果として人口をバランスさせていた、ということがわかります。人の知恵は偉大だなぁと思いますし、今の生活スタイル・医療水準を前提とした「道徳」でもって、昔の習慣を「野蛮」とか「人権を無視した」と言うことの無意味さを感じます。次回は、過去の人口増加期と、人口停滞期の特徴などについて書いてみようと思います。
2007/05/10
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最近、あるセミナーに参加したことがきっかけで、歴史人口学に興味を持ち、2冊ほど本を読みました。歴史人口学とは、Googleで出てきた定義を引用すると、”前近代と近代の公式データを使用して、ある文化圏に生きた人々の人口学的行動を、権力をふくむ文化規範を考慮にいれて、解明する科学の一分野”…要するに、過去の歴史的な人口の推移を追うことで、人びとの行動(主に家族形成・出産に関する行動)を解明していく、という学問です。歴史人口学の本を読んで初めて知ったことですが、人類の人口って、一貫して増え続けているわけではなく、爆発的に増える時期と、長期的に停滞(もしくは減少)する時期を繰り返している、ということです。なので、過去の「人口が増えた時期」について考察すると「人口が増えるにはどういう要素が必要なのか」がわかるし、「人口が停滞している時期」について考察すると「人口が増えないのはどういう状況で起こることか」ということがわかります。人類の人口は、実に様々な要因で増えたり減ったりしてるんだなぁ、ということがわかって興味深いです。「天敵がいないと増える」とか「疫病が流行ると減る」という単純なものでなく、家族形態・子供に対する考え方・食料確保の方法等、いろいろな要素がからみあって、人口を増やしたり、減らしたりしてます。これも、本を読んで初めて知ったことですが、日本はいろいろな点で、歴史人口学に合致した条件が揃っていて、研究対象として優れているようです。具体的には、○過去数千年にわたり、移民による人口の流入・流出が無視できるくらい小さい。これは、非常に特異な例だそうで、人口の流入・流出が無いということは、「出生率・生存率」の変化と、人口の変化が直結するということです。人びとが子供を産まなくなったら人口が減る。人びとが死ななくなったら人口が増える。ということです。○江戸時代には、世帯レベルでの人の出産・死亡などを追跡できる記録がかなり多く残っている。江戸時代には、幕府はキリスト教を禁止しており、全国民が仏教徒であることを村・町ごとに証明させた文書が作成されていました。これを宗門改帳といい、この資料から各村・町の、各家族の名前・家族構成・年齢などを個人個人のレベルで定期的に記載していた記録があります。乱暴に言えば、現在の戸籍とほぼ近い記録が、江戸時代に存在するということです。それに基づいて、その地域での人口が増えたのか・減ったのかということや、家族構成の変化や、結婚する年齢・志望する年齢など、かなり詳細な分析が出来るようです。これは、欧米でもなかなか無いとのこと。というわけで、「移民という外部からの流入・流出が少ない」「データとして細かく分析できる材料が豊富である」という恵まれた環境にある、と。面白い発見はいろいろあったので、それと現在の少子化問題をからめた考察や、トリビア的に面白かった発見を次回以降記載します。
2007/05/09
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何となく眺めていたページに出ていた、印象に残る言葉。"Some men see things as they are and say 'Why?' I dream things that never were and say, 'Why not?'"(ある人たちは、世の中をありのままに見て 『なぜそうなんだ?(なぜそんなにひどいんだ?)』 と嘆く。 私は、まだ起こっていないことを夢見て 『なぜそうならない?』 と言う)It is like the George Bernard Shaw quote that became Bobby Kennedy's:(ジョージ・バーナード・ショーの言葉であり、ロバート・ケネディの言葉だそうです。)現状の不満を嘆くのではなく、ありたい未来を描き、その未来を信じよ、 という言葉だと思います。(英語には、このようにうまく言葉を対比させて深い意味を出す名言がすごく多いですね。)この言葉を見て思ったんですが、全ての不満って「現在」を見た結果なんですね。一方で、「希望」とか「ゴール」とか「夢」は、「将来」を見ています。そして希望や夢を語る人にとっての「現在」とは、「不満をあげつらう対象」ではなく、「将来をよりよくするための種まきの機会」ということになります。自分自身、「あ、今ネガティブになって、現状に対する不満をあげつらっているな」と感じたときには、「で、どうするのか?」と自問するようにしてます。そうすることで、「できることから始める」ということにフォーカスできます。あるいは、なかなか打開策が見つからない場合でも、「コントロールできないことには悩まないようにしよう」という切り替えが早く出来るようになります。アップルコンピュータ から マクドナルド へ (”マック”から”マック”へ) に転職をした原田泳幸氏も、同じような趣旨で以下のようなことを言っています。「課題」や「問題点」という言葉はビジネスで使うべきでない。それらは全て、「Opportunity(機会)」&「Challenge(挑戦)」という言葉に置き換えるべきだ。これも、「現在形」を「未来形」に置き換える表現ですね。ということで、とてもよい言葉だったので、ご紹介でした。
2007/04/02
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ポールオースターの『ナショナルストーリープロジェクト』を前回紹介しましたが、その続きです。その中の一つのエピソードとそれについて感じたことについて。いろいろと議論を尽くして(あるいは、世の中にある議論を読んだり聞いたりして)、情報を「理論的に」咀嚼することでわかったつもりになって、自分なりにその時点での結論を出すのだが、その後もっと生々しい体験(リアルな体験・皮膚感覚に訴える体験)をしたり聞いたりすることで、その結論が大きく揺さぶられることって、ありませんか?まさにそのような話があったので、一つご紹介です。「臓器提供について、どうお考えですか?(自分自身、どうするつもりですか?)」と聞かれて、多くの人は自分なりの結論を持っているのではないかと思います。(実際に結論を「意思表明する」かどうか(例:ドナーカードを持つとか、遺書を書くとか)は、別として)ぼく自身も自分なりに「今この瞬間に決めなければならないとしたら、こういう結論だな」というものは持っていました。(ここで、「私の結論はこれです」とは申し上げませんが。)で、以下の話を読みました。「ハリスバーグ」という話です。-----------------------------------------書き手の父親が、脳の動脈瘤破裂で、病院に運ばれます。医者からは父親の意識が戻ることは無いといわれますが、父親は書き手の呼びかけに対して目を開けます。医師がやってきて、父親に質問をします。(意識が正常かどうかを確認するためです)「年齢はいくつか?」「今年は何年か?」「現在の大統領は誰か?」などなど…父親は、全ての質問に正しく答えますが、最後の「ここはどこですか?」という質問に対してだけは、とんちんかんな答えをします。父親は「ハリスバーグ」と答えますそして数日後、父親は亡くなります。話し手は、父親が臓器提供を希望していたことを死後に知ります。そして、しばらくして、臓器ドナープログラムから手紙が来ます。「○○さんの心臓は、三人の子供の父親である53歳の男性に移植されました。男性が住んでいるのは、ペンシルバニア州ハリスバーグ…」-----------------------------------------…ぼくはこの話を読んで、背筋がゾクっとしました。その感覚が何なのか、うまく説明ができません。「恐怖」ではないと思うのですが。。。この話自体、いろいろな解釈が出来そうですが、一番感じたのは「臓器提供」に対する結論は「頭で理解したつもりになった結論だったな」ということです。そのことを自分なりに強く感じました。
2007/03/28
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ポールオースターの『ナショナルストーリープロジェクト』を読んでいるのですが、これがすごくいいです。ポールオースターは、アメリカのラジオ番組で、視聴者のストーリーを毎週一つ読み上げる、という企画をやっていたようです。視聴者のストーリーの条件は一つだけ、「事実である(=実際に起こったことである)」ということ。この本は、そのラジオ番組のストーリーの中から、ポールオースターが選んだ180個が集められています。一つ一つのストーリーは、原則として一般人の書いたものです。従って、ストーリーもこなれていないし、文章も読みやすいわけではありません。人物関係を理解するのに苦労するような話も出てきます。が、(ラジオで紹介できる程度なので)1ストーリーあたり1~3ページと短い。そして、1つ1つのストーリーが力を持っています。読み手(ぼく)の眠っていた感情を呼び起こします。それは、懐かしさだったり驚きだったり申し訳なさだったり。そういう具合に、力をもつ、短いストーリー(そしてそれが実際に起こったことである、というのが重要です)を次から次へと読んでいくわけです。一つの話を読む。昔してしまった取り返しのつかない悪いことを悔いる話。自分のそういう話を思い出す。次の話にいく。次の話を読む。唖然とするような偶然によって、自分がなくしてしまった落し物と再開する話。自分にもそういうなくしてしまったもの、あったかなぁ、と思い出す。次の話に行く。…そんな具合に。不思議なんですが、それらの物語を読むことで、ぼく自身の感情(多くの場合、しばらく忘れていた感情)を想起するんですが、それと同時に、見ず知らずのその人の物語を読むことで、ぼく自身が少し善い行いをしたような気分になることです。まるで、この本がなければこのような形で語られることなく葬り去られていたかもしれない物語を読むことで、その物語を解放してあげるのを手伝っているような気分になるのです。この状況設定は、何かに似ているなと感じました。■物語そのものの完成度は高いとはいえない■しかし、1つ1つの物語は大きな力をもっている■1つまた1つと、お互いに関連性の無い物語を次々と読んでいく■物語を読むことで、その物語に対して善いことをしたような気分になる村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』に出てくる「世界の終わり」の主人公(夢読み)にすごく似ているように思います。そんなわけで、ポールオースターが好きな人はもちろん、『世界の終わり…』好きな人にも、この本はとってもオススメです。いろいろな感情を久しぶりに揺さぶって見るためにも面白いと思いますし、こういう話に触発されて、「そういえば、ぼくにもこんな話が…」なんて、最近していない自分の話を棚卸するのにもよいと思います。そういえば、こういう神妙な辛気臭い飲み会って、最近やっていないなぁ。久々にちょっとやってみようかなと思いました。
2007/03/27
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前回の続きです。1つの方法は、「ポイント=現金」と割り切って「現金として」使う。というものでしょう。これであれば、下記のサイトが便利です。ポイ探「このカードのポイントを、このカードに移管したい」というのを入力すると、どういう経路で、どのような換算率で出来るか、というのを瞬時に出してくれるサイトです。スグレモノです。例えば「アメックスのポイントを現金に限りなく近くしたい」と思うと、アメックス⇒ANA⇒⇒Edyで、アメックスのポイント1ポイントは、Edyのキャッシュ1円に変えられます。「Edyあまり使わないしなぁ。Suicaとかに出来ないかなぁ」というとアメックス⇒ANA⇒みずほ銀行⇒ビックカメラ⇒Suicaとすれば、同じく1ポイント1円で変えられるようです。しかし、ANAやらみずほやら、新しいカードをたくさん作って、ポイント移管に172日かかる、ということです。まぁそこまではやらないですね。あるいは、アメックス⇒ANAでマイレージにして使うこともできます。が、旅行するのはたいてい年末年始とかGWとかなので、マイレージが使えなかったりする。。…とまぁ、いろいろな方法はあるようですが、これだけの手間をかけて現金(やマイル)にするくらいなら、いっそのこと現金で返してくれればいいのに。と思います。Edyとかになると、限りなく現金なわけですから。Edyに「換金」できても「得した」とは思いますが何か味気ないですね。「アメックスブランドに対する帰属意識」が強まらないように思います。むしろ、航空会社がマイレージをためるとPrestigeにアップグレードしてくれて、普通の人は使えないラウンジを使える。みたいな方が「ありがたみ」を感じます。「ヘビーユーザーを大事にしてくれている」という気持ちになります。アメックスも「面倒くさくなくて、特別感のあるポイントの使い方」を提案してほしいな、と思います。例えば、「ポイント限定のDM(電子メールで)」だと、思わずポイント使っちゃうかもしれない。「山形県の農家 斉藤さんが作ったさくらんぼ、今なら5000ポイントにてお送りします。この特典は50000ポイント以上お持ちのお客様だけにお送りするものです。現金・カード決済でのご注文はお受けできません。ご注文は、下記のURLをクリック!」みたいなものであれば、普通に買えば2500円のさくらんぼでも、5000ポイント出すかもしれない。「面倒でない(URLをクリックするだけ)」「特典っぽい(ポイントを持っている人だけの限定なので)」ということで。ほうっておけば使わないポイントを「使いやすく」することのメリットがアメックスにあるのか?という疑問は残りますが、これだけポイントの流動性(換金容易性)が高まってくると、「ポイントをメリットに変えやすくする」ということをしなければ、差別化にならないんじゃないかな、と思います。というわけで、アメックスポイントの使い道について、悩みは続きます。
2007/03/21
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ぼくはもともと面倒くさがりで、こだわりが薄い(悪い意味で)なので、ポイントカードにあまり執着しない方なのですが、気がついたらずいぶんとポイントカードが増殖してました。(「ポイントカードいかがですか?」と聞かれると気が弱くて断れないのでつい、「じゃぁお願いします」って答えてしまいます。「『じゃぁ』って何だ?『じゃぁ』って」 てな感じですが)今、財布の中を数えてみたら11種類のポイントカードが出てきました。財布以外にも、アマゾンやらケイタイやら楽天やら地味にポイントがたまっているものもあわせると結構いろいろなポイントが貯まってそうです。しかし、ポイントカード、何とかならないかなぁ、と思います。もともとポイントカードは、サービス提供側(お店だったりカード会社だったり)が、ヘビーユーザーに対して「ありがとうございます」という気持ちを「特典」という形で表して、顧客を囲い込もう、というのが趣旨だと思いますが、いろいろな意味で「特典を受けるありがたみ」よりも「わずらわしさ」が先に来てしまいます。■やばい、ポイントカードが財布の中でどこか行ってしまった。レジの順番が来ちゃう…とか■やばい、ポイントが今月いっぱいで切れてしまう。使わなきゃとか■うーん、ポイント使いたいんだけど、使い道がないなぁとか■めんどくさいからポイントカード出さなかっただけなのに、また「ポイントカードおつくりしますか?」と聞かれてしまうとかとか、サービス提供側の「いつもご利用ありがとうございます」というメッセージなのか、「特典をやってるんだから、多少の面倒はがまんしなさい。それがイヤなら結構ですから!」というメッセージなのか、たまにわからなくなってしまいます。今一番、頭を悩ませているのは、アメックスのポイントです。前職時代の経費精算に使っていたカードなので、その当時のポイントも含めると現在6万ポイントほどあります。だいたい6万円相当のもの・特典と交換できるわけです。100円1ポイントなので、累積で600万円ほどカードを使っていることになります。(既に交換したポイントもあるので、全部累積するともっと大きな金額になりますが…)で、アメックスのポイント交換のカタログを見ても、これはほしい!と思うものがありません。。そもそも、Webのカタログでほしいものを探すのって、結構面倒くさいです。もともとアメックスを使う人って、「多少余分にお金を払うことで手間や煩わしさから開放されるのであれば、間違えなくそちらを選ぶ」という嗜好の人が多いように思いますので、(そして、アメックスはそういうライフスタイルの人をターゲットにしているように思いますので)カタログからせっせと商品を探していると「こういうのって、アメックスっぽくないな」なんて思ったりしました。あるいは、ポイントと交換可能な商品やら特典をみて「すげ~、さすがアメックスだ!」とか「アメックスの特典とあっては、何にしてもハズレはないに違いない」とか、思いなさい、ということなのでしょうか。そこまで高飛車だったら、逆にあっぱれですが、そういう意図もないようだ。じゃぁ、ポイントをどうすればよいのか?ということで悩みは続きます。(続きは次回。大して引っ張るネタでもありませんが…)
2007/03/20
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前回の、視覚障害者のホーム転落の続きです。自分自身でも驚いたのですが、視覚障害者の方がホームから転落して、非常停止ベルを探して走り回っているときに、以前行ったイベントの記憶が戻ってきました。Dialogue in the dark という、「視覚障害者の世界を体験する」というイベントです。(詳細は、以前のブログに書きました。公式ページはこちら)そのときに感じた感覚(白杖の感覚、白杖から周りの世界を推測する感覚、音の方向からものごとの距離を推測することの難しさ、などなど)実際に体験して得た記憶というのは、鮮明に蘇るものですね。(もっとも、今回はその体験が結果的には全く活きなかったわけですが)ちなみにそのイベントで経験して、なるほどな、と思ったことは、●人が向いている方向がわからない、ということ。例えば、左斜め前2メートルに人がいる、というのはわかるんですが、その人がどっち向いているかがわからない。●その結果、視覚障害者を遠隔で案内することは非常に困難。例えば、「案内者が右斜め後ろにいる」ということはわかるのだが、その案内者がどちらを向いているかわからない。従って、「そこを曲がってください」と言われても、その案内者が指す「そこ」がどこなのかわからない。●だから、彼にもののありかを教えようとすると、手を引いて導いていくしかない。実際に目の見えない方に、「あなたに向かって話しかけているんですよ」ということを示すのって、難しいんですね。ちなみに、視覚障害者の人を案内するときの方法は、ここに詳しいです。○ 基本は…1サポートする人が、視覚障害者の白杖を持つ手の反対側(交通量など道路の危険度や本人の希望により白杖を持つ手側の場合もあります)に立つ。*白杖は、視覚障害者にとって身体の一部です。杖を持ったり、引っ張ったりしないでください。2肘の少し上を握ってもらう。3視覚障害者の足元・頭上・二人分の幅に気を配り、半歩前を歩く。(肘を握ってもらった相手の腕が直角になっていれば自然に半歩先を歩くことになります)*背の高さによっては、肩に手をかける方法を希望する人もいますので、聞いてみてください。*握られた腕は、自分の身体から離したり、前後に振らないように自然に下におろしてください。身体から離すと相手との間隔が広くなってしまいます。4歩く速度は、相手に合わせる。(速すぎると腕が引っ張られ、遅すぎるとかかとを踏まれてしまいます。)5段差や傾斜など路面の状況が変わるときは、事前に声をかける。だそうです。
2007/03/14
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運が悪ければ、ぼくの目の前で人が電車に轢かれるところでした。先々週の土曜日に新宿駅のホームで山手線の電車を待ちながら、本を読んでいました。同じホームを、視覚障害者が一人歩いていました。根拠は無いのですが、「何かが変だな」と感じました。明らかにその方の動きが、他の人の動きに溶け込んでいない。たまに道で見かける「ありえないくらい運転が下手な人の車」と同じように、その方は(視覚障害者であるということを割り引いても)周りとは異質な動きをしていました。「何か変だな」という感じを何となく頭にとどめたまま、本を読むでもなくその視覚障害者を眺めるでもなく、ぼーっと電車を待っていると、その視覚障害者は、ホームの端を白杖で確認した後、ホームの外に向かって一歩踏み出し、転落してしまいました。階段とホームの端を勘違いしたのだと思います。ちょうど山手線の列車が入ってくる寸前で、あと1分転落するのが遅ければ、目の前で大きな事故になっていたかもしれません。転落の瞬間を見たぼくは、とっさに駅の非常停止ボタンを探していました。幸い、駅員や周囲の人の対応が早く(一人ホームから飛び降りた勇敢な青年がいました。拍手!)大事には到らず、まもなく山手線の運転も再開しました。いろいろな考えが頭を去来しました。■山手線の電車から見る、新宿駅のホームは殺意を持っているように見えるということ普段見慣れている光景もこのような事故の後では、「よくこれで事故が起こらないな」と関心してしまうほどでした。あれだけの密集した空間に、柵も何もなく、人々がものすごい勢いでぶつかりながら歩いている。山手線のホームを全く知らない人(例えば外国の人)に、「何に似ているか?」説明しようと思っても、たとえられるものが見つかりませんでした。海底でひそかに気配を殺して獲物を狙っている巨大な深海魚? そんな不気味な殺意を感じました。■「何か変だな」という予感は正しい(ことが多い)、ということ。ぼぉっと眺めていたときの「何か変だな」と感じたのですが、「何が変なのか」が説明できない。それでも「予感・感覚は正しい」ということですね。その予感に沿って、すぐに行動を起こしていれば、もしかしたら転落は防げたかもしれません。この瞬間にとっさの行動が出ずに、運悪く大きな事故が起こったら、後味の悪さをずっと引きずらなければならないところでした。日常生活や仕事でも「何か変だな」と思うときは、事故が起こる確率が高いですね。(結果的に何も起こらないとしても、それは「ラッキーだっただけ」と考えた方がよさそうです)「言語化できない予感」に従って行動を起こすことも重要です。仕事においても特に、前職のコンサル時代は「言語化できてはじめて相手にされる」というような仕事だったので、ともすると「言語化できないもの」を軽視していた点がありました。メーカーに転職して「言語化できること」と「仕事ができること」が必ずしも一致しない世界にきて、「言語化できないけど、何か変だと思うんだよね」という感覚(現場の感覚といってもいいかもしれません)をうまく察知して、言語化する、ということも自分の重要な役割だと思うようになりました。■(こういう形で抽象的に一般化したくはないのですが)社会のインフラは、障害者に対する配慮が殆どなされていない。地下鉄で、ホームドアを設置するなど、少しずつ変わっては来ていると思いますが、(ぼくが子供の頃はもっとひどかったと思いますので)障害者にとって暮らしやすいインフラが十分に整備されているとはいいがたいように感じました。 なんだか、報道ステーション辺りが、世界を比較する特集を組んで「ドイツではこんなに…」「フランスでは…」「スウェーデンでは…」「それに対して日本は…」みたいな特集を組みそうな感じがします。(実際のところ日本のインフラ整備が遅れているのか、はわかりませんが。)
2007/03/13
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昼休みなどに(昼休み以外にも??)最近、アメリカのYahooのスポーツニュースを巡回してます。たまたま、立て続けに日本人を特集した記事を3つ見つけました。試合結果の記事とかではなく、ライターが書く解説記事で個人として取り上げられることも、しょっちゅうあることではないのですが、園中で日本人の記事が3つも!ということで、嬉しくなったので、簡単な(本当に簡単な)要約とともに載せておきます。※興味のある方は、原文も是非!特に城島の記事は、おもしろかったです。Johjima's little secret(城島の小さな秘密)城島は誰にも見せない、小さな黒い手帳を持っている。そこには、投手に関するあらゆる情報が記載されている。「メジャーリーグにも彼ほど準備をする捕手はいない」と昨年のマリナーズの抑え投手プッツの談話が紹介されている。手帳にメモをする習慣は、ダイエー時代の監督のアドバイスから始まった。その監督とは、あの王監督である。プッツが試合で投げ後は必ず毎日、プッツと反省会をする。どんなカウントでどんな球を投げる傾向があるか、どのバッターにどのような球を投げるか、その配球を選んだ理由は何かただ、メジャーリーグでは投手が主役なので、コミュニケーションにおいて、城島により大きな負担がかかる。城島は、黒い手帳をもう一つ持っている。バッターとして相手ピッチャーについて記録しているものだ。そのため、1年目からキャッチャーとしては新人記録となるヒット数を放った。城島は手帳を開き、おもむろに中身を見せてくれるかと思ったら・・・見せてくれたのは、妻と子供の写真だった。「見せられるのはこれだけ」だと。Seven things you need to know about Dice-K(大輔について知っておくべき7つのこと)1.高め直球を投げるのが好き : 審判との相性次第では苦戦の原因になるかもしれない2.圧倒的な球種を持つ : 全ての球種が、メジャーリーグの水準でも平均以上3.カンザスシティーでデビューするだろう : 第3戦、アウェーが初登板だろう4.馬車馬のように働く : 100球という球数制限は必要ないだろう。ただし、中四日で投げるのは新しい挑戦(日本では中五日)5.野茂のような投球フォーム : 野茂ほどひねらないが。6.イチローを押さえられる : イチローvs松坂は、日本では37打数8安打7.間違えなく見て楽しい選手になる : ヤンキースファンでなければAnd so, Matsuzaka mania begins(というわけで、松坂マニアのはじまり)(ボストンカレッジでの初登板の様子が書かれています)初球にいきなり二塁打を打たれてしまったこと。25球中19球がストライクだったこと。しかし本人は「メジャーリーグのストライクゾーンを試したかったが、審判が大学リーグの審判なので今日は余り参考にならない」と答えたこと。などなど。城島の記事のように、「分析として面白い」記事って、日本のスポーツ新聞では殆ど目にしないですね。日本のスポーツ新聞の記事は(=Yahooジャパンの記事も)、選手のゴシップ的なネタ(○○監督と××選手の確執・・・)か、無条件な賞賛か「ファンを代表して」ボロクソにヤジを飛ばすか、エッセイ的な情緒的な記事か、ということが大半な気がします。一番近いのは、「ナンバー」のような雑誌の類(ただ、ナンバーの方が一つ一つの記事がもっと重たく、かつ情緒的に振れていることが多い気がします。)、あるいは、NHKスペシャルでスポーツを取り上げるとき(受信料払うようになってから、NHKの番組を褒めてばかりな気が・・・)でしょうか。それにしてもYahooアメリカやESPN等のアメリカのメディアに比べると絶対的に目に触れる機会が少ない気がします。なぜでしょうか?日本にはあまりスポーツをネタにうんちくをたれる文化が無いからでしょうか?選手としての実力はあったが、野球を深く理解しているか疑問な「解説者」が幅を利かせているからでしょうか?(そういえば、サッカーの「戦評」は、分析的な記事が多いですね。特に日本代表戦は。ということは、野球固有の現象なのでしょうか・・・)理由はわからないですが、「余りにも野次馬的・ワイドショー的な」記事でもなく、「余りにも『人間ドラマ』に傾注しすぎた」記事でもなく、株式のアナリストが、株式を評価するような、客観的な記事がもう少しあったら、面白いなぁと思います。野球でもサッカーでも相撲でもよいので。
2007/03/07
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一流と二流、続き。「グレート・ギャツビー」等で有名な作家スコット・フィッツジェラルドの有名な言葉に「一流の知性と言えるかどうかは、二つの相反する考え方を同時に受け入れながら、それぞれの機能を発揮させる能力があるかどうかで判断される。」というのがありますね。原文:The test of a first-rate intelligence is the ability to hold two opposed ideas in the mind at the same time, and still retain the ability to function.最近、ぼく自身の勤務先でオーナーの経営哲学を直に聞く機会がちょくちょくあるのですが、(これは本当にありがたい経験です)、オーナーの「リーダー像」「企業経営に求める姿」も、同様のメッセージを含んでいるように感じます。一言で言うと、「理想的な状況を実現するまで妥協しない」ということです。ぼくのように凡庸な人は、できれば実現したい状態「A」を実現するために、できれば実現したい状態「B」を犠牲にする、ということをすぐにしてしまいます。例えば、○「品質を上げる」と「コストも下げる」ことが犠牲になる○「顧客満足を上げる」と「利益を上げる」ことが犠牲になる○「製品をカスタマイズする」と「製品のコスト競争力」が犠牲になる○「楽しく働くことを大事にする」と「成果を出す」ことが犠牲になる。。同様に、-顧客満足と従業員満足-カネを稼ぐ事と人間としての徳を高める事-仕事のスピードを上げることと仕事の質を高めること等。 しかし、オーナー曰く、「品質を上げる」ために「コストが上がる」ということは、「品質」という問題を「コスト」という別の問題に形を変えただけであって、根本的な解決になっていない。単にAという問題からBという問題に「しわ寄せ」が行っただけである。と。「品質を上げ」ながら「コストも下がる(少なくとも上がらない)」という解決策を探すことこそが、経営にとって(リーダーにとって)求められる姿勢であると。確かに、経営において「一見、相対立する概念をマネージする」という場面は非常に多いですね。これを、「対立軸」で捉えるのか、「両立可能なもの」として捉えるのか、ということで、解決策の幅が大きく違ってきそうです。コスト 品質←--------------------→という対立軸ではなく、 ↑コスト | | | | 品質←--------+-----------→ | | | | | ↓の関係にあるのではないか?つまり、「品質」と「コスト」が両立する施策が必ずあるのではないか?という具合に問題を捉え、上記の図でいうところの「左上の解」をどれだけ粘り強く探す事ができるか?ここで、安易に妥協せず、「根本的な解決を図ると、一見相反する二つのことが達成できる」ということができるかどうか?この姿勢を保つ事ができれば、困難な状況は、「知恵をだすチャンス」であり「成長・飛躍の機会」であり「歓迎すべきチャレンジである」というのがオーナーの言葉です。一代で小さな町工場を一部上場企業/グローバルナンバーワン企業に育て上げた方のコメントだけに、説得力があります。確かに、これまでぼくが仕事をしている相手でも、良い仕事をする人ほど、仕事に対する要求水準が厳しいですね。相手「こんな仕事じゃダメだ」ぼく「じゃぁ、どうすればよいのか?」相手「それは、お前が考えることだ」ぼく「そんな無茶な…」…相手は、理想的な解を自分で持っているわけではないのですが、「ひょっとしたら理想的な解が存在しないのではないか?」という疑念は絶対に持たない。だからこそ、自分には代替案が無いのに、ぼくの「二流の提案」を「まぁ、他に無いからね…」と受ける事が絶対に無い。また、ぼくが「出来ないものは出来ません」と開き直りでもしようものなら、他の人に頼むなり、自分自身で取り組むなりして、実際に「できる」ことを証明してしまう。逆に「典型的な『仕事では役に立たない秀才』は、「Aをとれば、Bが犠牲になるでしょう」ということを説明することだけに長けている人、と言えるかもしれません。出来ない理由を言う天才、みたいな。オーナー曰く、優秀な経営者かどうかの一つのポイントは「高い問題意識を持っているかどうか」であり、「必ず理想的な解がある、という信念をどれだけ強く持っているかどうか」だそうです。肝に銘じておきたい、言葉です。
2007/03/05
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前職の同僚が語っていた言葉で、印象に残っているもの。社会人のアメフトで日本一になったチームの人。そのチームの伝説的な選手(レシーバー:走ってパスを取るポジションです)の人が語った言葉。「一流の選手と二流の選手の違いは、100回パスが来たときに、100回ともにキャッチできる選手が一流。数十回しかキャッチできない選手が二流だ。」とのこと。つまり、二流の選手でも「たまたま良い結果が出る」ことがある。しかし、「良い結果が出ることを期待してよい」のが一流の選手である。ということだと思います。当然、「常に一定水準以上のパフォーマンス」を維持するためには、技術も必要だし、メンタルな強さも必要でしょう。パフォーマンスが、外部環境(雨とか強風とかパスが悪かったとか)や自分の精神状態(やる気とか)や調子の波に影響されているうちは「二流の選手である」ということもできそうです。この言葉を聞いてから、「何か言い訳をするときは、その言い訳が『何年に一度の言い訳か』というのを自分に問いかける」ようにしています。(するように努力しています、が正しいですが・・・)「○○さえなければ、△△出来たのに」 といいたくなったときに、さて、「○○さえなければ」は、何年に一度、唱えることになるか?ということですね。それが、5年に一度のように滅多に起こらないことであれば、(例えば、身内に一大事があったり、大病を患ったり…)ある程度自分自身のパフォーマンスやコミットメントの低下を容認しても良いかなと思いますが、しょっちゅう起こるようなこと(例えば、上司の指示が悪い、時間が足りない、体調が悪い、寝不足である)ことを言い訳にしているうちは、「心の中では言い訳をしているが、自分は本当はこの程度の人間なのであって、『○○さえなければ』という言い訳を年中している、見苦しい人間なのである」ということを言い聞かせるようにしてます。そうやって自分を奮い立たせてみても、うまく行かないことも多々あるわけですが。。。
2007/03/03
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また、話は前後して恐縮なのですが、任天堂の岩田社長と糸井重里氏とのインタビューが面白い!という話を少し前に書きましたが、マック(マッキントッシュのアップル社)からマック(マクドナルド)へ転職した、原田泳幸氏のインタビューを読んでいて、原田社長も同じような取組みをやっている、ということがわかりました。岩田氏の場合は、社員や管理職を一人ずつ読んで個別に面談を行う。原田氏の場合は、自由参加で10名程度のグループでワークショップを行う。という取組みです。原田氏のワークショップは、毎週3時間。毎回10名が参加します。ワークショップへの参加者は、有志の申し込み制です。ですので、立候補した人は、平社員でも管理職でも誰でもワークショップに参加をできるわけです。強制でも、当番制でもないところがポイントのようです。ワークショップの中は、基本的にフリーディスカッションだそうです。で、ワークショップの中で、仕事に関する問題提起が出たりすると、「あなたはそういう提案、疑問を、日々どうやって解決してる?」と。そうすると「会社の方針がよく分からない」と言う。「では、あなたはその時にどのように対応した?」と返す。そうすることで、教育する、という面も一つあるようです。ただ、ワークショップの最大の目的は、若い人の活性化、であり、経営の(原田社長の)情熱を若い社員に直接伝えていく会にしている、ということのようです。10名で、役職関係なく、というのがポイントのようで、「“One to Many”では絶対にこれほどいい議論はできません。」ということで、10名程度が密度の濃い議論をする限界であると。また、役職・組織に関係ないというのは、「会社の方針を伝える時に、日々の業務に関しては、組織で動かないといけません。ところが、意識革命とか組織文化を変えていこうとする時は、組織でコミュニケーションしても変わりません。」ということで、通常の組織の指揮命令系統ではないところでないと、有効に機能しない、ということのようです。これは、過去の自分の失敗経験からもその通りだな、と思います。(組織の指揮命令系統は、「ある程度決まったことを効率的に落とす」ためには有効な形態なのですね)このような面談を通じて、岩田社長も原田社長も、■若手社員の教育をし(物事の考え方や、仕事に対する取り組み方を、目の前で解いて見せ)■悩みを受け止め(原田社長は「受け止め」ではなく、投げ返すような雰囲気かもしれませんが)■自分の情熱・思いを直接伝えていく、ということを■通常の組織の指揮命令系統を離れて■忙しい経営者の時間の合間をぬって縫って、定期的に行っている、という点ですばらしいと思います。いずれもケースも非常に大事だな、と思うのは、「話をする前に比べて、話をした後のほうが、社員の精神状態がよくなっているんだろうな」ということが、伝わってくるという点。それは例えば、不安に思っていたことが「実はたいした事が無い」ということを認識できたり、不満に対して「次に取るべきアクション」が明確になったり、不満を共有できて「みんな同じことを考えているのだ」ということで安心したりトップの想いをじかに聞いて「もっと前向きにならなきゃ」と思ったり、ということではないかと思います。原田氏のインタビューにも、ワークショップに参加した人が伝道師になって価値観を伝えていったり、ワークショップ自体をススメたり、ということで、ワークショップの輪が広がっている、と語っています。自分の経験に照らし合わせても、これまでの自分の上司でも「この人、リーダーシップあるな」と感じた人は、例外なく「話をする前よりも、話をした後の方が、ぼくの精神状態がよくなっている」ということが起こっていたな、と思います。確かに。さて、自分はそれに値する話を出来ているか?過去に出来ていたか?と自問すると。。。恥ずかしくなります。。「自分と話をした人が、話をする前よりも話をした後の方が、よりよい精神状態になれること」目指す価値がありそうです。
2007/03/02
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前回の内容(ハゲタカ)に引き続き回想モードで。当時、「一応外資系」のコンサルファームに、一応在籍していたいた人間からみて、外資ファンドのエリート(大森南朋)の描き方は、どうだったのか?について補足。外資系に勤める日本人という意味では、大森南朋が演じた鷲津の描き方は、少し極端かな?と思います。あそこまでの割り切りをもっていた日本人は、どちらかといえば少数派ではなかったかと思います。物語の中の鷲津は、・金を増やすことしか考えていない・アマチュアの日本を安く買い叩こう・結局は資本主義で、弱いものは淘汰されていくのだという考え方で一貫していますし、その信条をはばかることなく周囲の人間に言って歩いてます。(笑えない笑い話で、世の中に3つのキケンな原理主義があって、キリ○ト原理主義と、イス○ム原理主義と、資本原理主義だ、というのがありますが、その資本原理主義の典型みたいな感じですね)ところが、実際に外資系の日本法人に勤務する日本人は、「日本の金融機関に一度勤めた」⇒「海外勤務・MBAなどを経験」⇒「転職」という経歴の人が多いですので、「外資の方法論・器を使って」「日本人の手で」日本を立て直していかなければ、という考え方・使命感の人が多かったように思います。「日本を壊す」という発想・言葉はあまり聞かなかったです。そして、方法論そのものが非常にドライなために、方法論の正しさは認めつつも、「この方法論が正しいのです」と大上段に振りかざすことで生じるアレルギーの大きさもよく承知してますから、「ドライな方法論を」「ウェットな文脈に乗せて」使う、ということに相当神経を注いでいたように思います。で、なんだかんだ行っても、日本での顧客接点は、優秀な日本人が勤めるのが一番ですので、ある程度の業績を上げていれば、本国からごちゃごちゃ言われないで、大きな自由度をもって事業展開ができる、ということで、「日本人なんだけど、本国を見ながら仕事をしている」(=本国に魂を売っている)というわけでもない。ということで、鷲津のように屈折しつつも、日本を「上からの目線」で見ている外資系勤務者ってそんなに多くはなかったのではないかと思います。いたとしても、そんなに活躍できなかったはずです。もちろん、私がいたのは「コンサル会社」であり、鷲津がいるのは「投資ファンド」ですので、微妙に人種は異なるのかもしれません。ただ、コンサル会社と投資銀行、あるいは投資ファンドの間では、人材の行き来が活発で、「全く別の人種」という感覚は持っていなかったですね。ちなみに、現在の勤務先のメーカーにも、実に多くのファンドが売り込みに来ます。(内容は、さておき・・・彼らもいろいろと提案するネタは持っていますので。)彼らが口をそろえて、第一声で言うのは、「我々は、ハゲタカではありません」「我々は、アクティビストではありません」ということですね。そもそも、大森南朋的な事業のやり方をして成功したファンドの人が実際に(一人も)いなかったのではないか?という疑問は少し残りました。
2007/02/28
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先々週から始まった、土曜日のドラマ「ハゲタカ」が面白い。1998年から2000年頃の日本が舞台になっていて、外資系の「ハゲタカ」と呼ばれる投資ファンドと、大量の不良債権を抱える日本の都市銀行が、経営が行き詰まりった老舗旅館や、おもちゃメーカーを舞台にお互いを出し抜き、論理をぶつけ合い、駆け引きを繰り広げ・・・という話です。邦銀のエリート(柴田恭兵)や役員(中尾彬)、外資ファンドのエリート(大森南朋)やスタッフの外人(名前不明・・・)、がハマり役で「あ、たしかにこんな銀行員(あるいはファンドの人)いそうだね」という雰囲気が出ています。老舗旅館の息子(松田龍平)や、おもちゃメーカーの社長(冨士眞奈美)もいい味を出しています。その結果、ということなのかわかりませんが、一番ひきこまれるのは、ドラマ全体が、98年~00年当時の日本の雰囲気をとてもうまく描き出している点です。当時の日本の雰囲気とは…・グローバルスタンダードの「スキル」をもつ外資系が唱える新しい、「ルール」が俄然説得力を持ち始める。でも、彼らが日本で完全な主役になりそうな予感も無い。(彼ら自身が、日本において「主役」になるつもりがあるのかさえ、定かではない)・しかし、日本経済が「痛んでいる」というのは、どうやら間違えなさそう。しかも、相当痛んでそうだ、ということも何となくわかる。しかし正直どこまで痛んでいるのか、皆目検討がつかない。もしかしたら、箱の中のリンゴは全部腐ってしまっているのかもしれない。・少なくともいままでの「ルール」が変わることだけは間違えなさそう。しかし、新しいルールでは、日本の中小企業は、それこそ全滅してしまうのではないか?そもそも、プレーヤーが全滅してしまうようなルールって、日本という国にとってよいルールなのか? それともこれも「グローバルスタンダード」という名のもとに、受け入れなければならないルールなのか。…そんな不安感があったように思います。「いったいぜんたい、どこまで落ちていくのか?そして、落ちた先には何が待っているのか?」みたいな不安です。「そういえば、こんな時代、あったよねぇ」と、いいながら、奥さんと見ています。で、はたと気がついたのですが…自分が社会人になった後のことについて、「そんな時代もあったなぁ」と振り返るのは、ぼくにとって初めての経験です。年をとったなぁ、と実感します。「そんな時代もあったなぁ」なんて、完全な「昔回想モード」ですからね・・・・。若い人のやることではない。もちろん今までも、個人的な出来事を回想するというのはありましたし、(こんなプロジェクトやったなぁ。とか、この人にはよく怒られたなぁとか。こんな人いたなぁ、とか。)自分が社会人になる前の出来事について、自分より年上の人が回想するのを見る機会もありました、(「バブルはよかった」らしい、学生だったからよく知らないけど。とか)のですが。。自分が「回想する側」に回った初めての経験、ということで。。もうとっくに「若手」なんていわれなくなりましたしね。というわけで、(最初の話に戻ると)「ハゲタカ」いいです!
2007/02/27
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またまた、最近読んだ本から。先日の結婚記念日の話を書いたときに紹介した本「ビジネスマンに贈る最後の言葉」の・時の流れは緩めることも、速めることもできない。まわりの環境にしても全てを変えるのは無理である。だが情熱は自分でどうにでもなる。何にどれだけの情熱を傾けるか、まわりからの働きかけに対してどれだけの情熱で応えるか、すべて自分で決められるのだ。という言葉が、何となく頭にひっかかっていて、別の本を見つけたので、思わず手にとり、次の瞬間クリックしてAmazonで注文してました。「成功と幸せのための4つのエネルギー管理術」という本です。4つのエネルギーとは、・身体・情動・頭脳・精神の4つです。というわりに、この「4つ」は、あまり印象に残りません。本としては、どちらかというと「フレームワーク負け」している感じがしました。が、上記の「4つ」とは別に、非常に印象に残った記述がいくつかありましたので、ここに書いておこうと思います。●「習慣の重力」は、とてつもなく重たい。習慣の重力(という言葉が、本書に出てくるわけではないですが、ぼく自身が本を読みながら頭に浮かんだ言葉です)は、大きい。人間の行動の95%は、無意識の過去の習慣や、突きつけられた要求や不安への反応として行っていて、「意識的に」選んでいる行動は、わずか5%しかない、という研究結果があるようです。だから、「明日から変わろう」と思っても、結局95%の行動は、変わらずじまいなため、もとの自分に戻ってしまうということです。そんな中で、パフォーマンスを高めようと思ったり、新しい試みにチャレンジしようと思ったときには「意識的に習慣化するプロセス」を組み入れることが重要である。ということ。トップテニスプレーヤーの大半は、ポイントが入ってから次のポイントが始まるまでの15~20秒の間に、気持ちを切り替え、集中力を高めるための「習慣」があるようです。こういう「自分の感情を高めるルーチン」を持つ事がパフォーマンスを高めるカギである。というのが、著者の主張です。そういえば、イチローの動作も習慣のかたまりですね。ネクストバッターズサークルにいる時点から(あるいはその前から?)の一連の動きは全て決まっているそうです。一つずつ「良い習慣」を積上げていくことで、パフォーマンスの絶対量や安定性を向上させていくべき、という主張です。なるほど。●自制心には総量がある。人間の「意志」は有限である、という記述です。簡単に言うと、「ガマンすることに、エネルギーを使うと、ほかの事にエネルギーが回らなくなる」ということです。本書ではこんな実験結果が出ています。お腹がすいた人に、チョコチップクッキーを見せる。片方のグループには「食べて良い」という。もう片方のグループには「チョコチップクッキー」は見せるだけで与えず、代わりに「ラディッシュ(カブ)を食べるように」といってカブを食べさせる。その後で両方のグループに忍耐力を試すテストを行う。結果どうなったか、「チョコチップクッキー」を食べてはいけない、といわれたグループは、実際にチョコチップクッキーを食べないでがまんできました。(まぁ、オトナですから、当たり前ですね。。。)しかし、その後、忍耐力を測定するテストでは、チョコチップクッキーを「食べて良い」とされたグループに対して、がまんさせられたグループは、「明らかに忍耐力が低い」という実験結果が出たそうです。つまり、「チョコチップクッキーをがまんする」ということに忍耐力を使ってしまうと、その分忍耐力の総量は減ってしまうということですね。つまり、自制心・忍耐力を頼りに何かをやろうと思っても、大抵はうまくいかない、というメッセージだと思います。(もちろん、長期的に見れば、ガマンを覚えることで「ガマンの許容量が増える」みたいな効果はあると思いますが(筋トレの超回復と同じ理屈で)しかし、短期的に見れば「何かをガマンしながらものごとに取り組む」ことの成功率は、「没頭してものごとに取り組む」場合の成功率とは、雲泥の差がありそうです)昨年、一昨年と、比較的業務に余裕のあった時期に取り組んだことで、うまく習慣化できたもの(例:メールの処理方法、タスク管理の方法)と、そうでないもの(例:あげ切れないほどたくさん・・・)がありました。何かに取り組む場合に、この「習慣化のプロセス」についてもう少し考える余地がありそうです。いくつか試みを試してみて、うまくいったら、再びブログに登場させます。
2007/02/26
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1月にグロービスで新しい講座を担当したので、その準備やら反省やらでバタバタしており、またまた更新があいてしまいました。さて、半年前に、「上半期読書総括」ということで2006年の1月~6月に読んだ本の中のベストを書きました。昨年後半はいろいろとバタバタしたのですが読書だけは何とか続けることが出来て、最終的に06年には101冊の本を読みました。下半期についても、上半期と同様に特に印象に残った本を5冊、挙げます。時間も経ってしまったので、簡単に。■武士道:新渡戸稲造これについては、「日本人の倫理」で書いた通りですね。■夜と霧:ヴィクトール・フランクル この本も「名著なので絶対に読むように」ということを複数のところで読んだり聞いたりしていたのですが、ようやく手に取る事が出来ました。ドイツの強制収容所に収容された、心理学者の記述です。ですが、「収容所ではこれほど残忍なことが行われた」ということを生々しく語る本ではなく、極限状態における人間の対処の仕方を観察し、考察した本です。極限状態において自分を見失わない人間と、人間性を失ってしまう人間に分かれるということ、そのような状況で自分を見失わないために必要なこと。印象的だったのは、「クリスマスの直後には、死亡者が増える」という記述。絶望的な状況に陥ると、非現実的な「夢」を見ることで、現状から目をそらす人がいる(「クリスマスになれば、きっと開放されて、家に帰れる」)。彼らは、その夢が実現されないとわかると、より絶望が深くなり、生きる気力を失っていくそうです。(だから、クリスマスの直後は、亡くなる人が多いとのこと)一方で、絶望的な状況においても、現実を見据えながらも、生きることへの執念・信念を失わない人もいる。それが、人間性を維持するために重要である。というような本でした。残りの3冊は、■物語力でヒトを動かせ :平野日出樹最近では、「MBA的」「科学的」「左脳的」スキルから、主流が、物語、のような「非MBA的」「芸術的」「右脳的」スキルに移っている、という人もいますね。人を動かす物語を語る、というのはロジカルである、ということとはまた違う要素が必要になってきますね。早速、グロービスの講義に取り入れてみたのですが、効果は上々でした。■イノベーションの達人!:トム・ケリーイノベーションを起こす上で必要な、10種類の人間(10種類の人間の要素)を紹介した本です。何よりも、カラフルで楽しい事例が満載なのが、読んでいて楽しくなります。■社員がワクワクして仕事をする仕組み:東川鷹年今まで買った本の中で、一番高い本でした(1万5千円)。「コストパフォーマンス」で見ると皆さんにオススメできるかどうかはわかりませんが、自分なりには「お金を出しただけのことはあった」かな、と思っています。これについては、機会を見てきちんと書いてみようと思います。今年も読書は続けて行きたいと思います。
2007/02/25
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前回イトイ新聞の話を書きましたが、今回もその続きを。糸井重里のインタビューはスバラシイ、ということを前回書きました。今回も、糸井重里の別のインタビューの紹介です。任天堂の岩田聡社長とのインタビューです。このインタビューがまた、スバラシイ。「こういう経営者のもとで働きたいなぁ」と強く思わせる言葉が満載です。岩田社長は、40代で任天堂の社長になり、話題になりました。当時は(任天堂も勢いがなかったこともあり)ぼく自身、それほど注目していませんでした。「ゲーム業界だから、年を取った人だとつらい、ということかな?」とか「消去法で選ばれたのかな?」とか、その程度の注目しかせず、いつのまにか記憶の片隅においやられてしまったニュースでした。しかし、最近の任天堂の好調ぶりを見ると、岩田社長の影響は大きいのだろうな、と強く感じます。岩田社長のインタビューや、任天堂の決算説明会の動画を見ると、社員が活き活きと働いているのだろうな。というのが伝わってきます。岩田社長は、もともとスーパー開発者だったそうです。イトイ新聞のインタビューを見ると、それに加えて「人のポジティブなエネルギーを引き出す」天才なのだ、ということを強く感じます。岩田社長は、前職のHAL研究所の時代から、半年に一度、社員との面談を行っているそうです。「面談」という生易しいものではなく、HAL研究所時代は、全社員とそれぞえ1対1で(30分~3時間)、任天堂に移ってからは管理職全員と面談をしているとのこと。このインタビューには、「経営者や上司が、社員のホンネを聞き出し、社員のコミットメントを得るためのツボ」が満載です。■そもそも、面談の意義について「自分がかわったら、それをちゃんとわかってくれるボスの下で働きたい」「最初に全員に話を聞いてみて『面談してはじめてわかったこと』がものすごく多かった。人は逆さにして振らないとこんなにもモノを言えないのかとあらためて思いました。」「面談の中で、わたしはすごいたくさんしゃべります。いろんな角度から質問をします。逆に質問攻めにしないと、ほんとうに考えていることがききだせなかったりするから」■そこには、岩田社長のコミュニケーションに対する一貫したこだわり(哲学)があるようです。「理解・共感」という言葉がインタビュー中に何度も出てきます。「『この人が自分のメッセージを理解したり共感したりしないのは、自分がベストな伝え方をしていないからだ』と思うようにした」「(相手が)間違っていることがわかったら、その人が受け取って、理解して、共感できるように伝えないと意味がないわけで…」「相手との間に理解と共感がないなら、面談をやる意味なんてないですもん」「成功を体験した集団を、現状否定して改革すべきではないと思います。その人たちは、善意でそれをずっとやってきて、しかもそれで成功してきている人たちなんですから。現状否定では、理解や共感は得られないんです。」■任天堂の停滞状態を開放する時のメッセージは、一貫して以下のようなものであったのではないか、と思います。「成功を体験した集団を、現状否定して改革すべきではないと思います。その人たちは、善意でそれをずっとやってきて、しかもそれで成功してきている人たちなんですから。現状否定では、理解や共感は得られないんです。」「わたしももしも昔の時代にいたら、いま任天堂がやっているのと同じ方法をとったと思うよ。でも環境が変わったでしょう?周囲が変わったでしょう?ぼくらが変わらなかったらどうなる?ゆっくり死ぬ道を選ぶ?それともたくさんの人が未来にぼくらの作ったものを喜んでくれるようになるような道を選ぶ?」コンサルタントから、事業会社に転職して改めて気がついたことのひとつに、上記の「現状否定からは共感は得られない」ということです。コンサルタントの典型的なアプローチは、「課題を見つける」→「原因を明らかにする」→「原因を取り除く打ち手を提案する」ということなのですが、そもそも「課題を見つける」というのは「現状を否定する」ということになりやすい。(もともと、これは「医学」のアプローチ(つまり「病人を治す」アプローチ)である、と読んだことがあります。だから、現状否定から入るのは当然なわけですね。)転職してみて、「ぼく自信は、『現状を否定せずに課題を見つける』ための言葉を、殆ど持ち合わせていないのだな」ということを強く認識しました。イトイ新聞のこのインタビューを読み、そんな当時の記憶がよみがえり、それ以来、折に触れこのインタビューを読み返しています。で、『現状を否定せずに、共感を得ながら課題を伝える』ための言葉がリッチになったか・・・・といわれると、「まだまだこれから」ですが・・・「社員から、どうして適切なタイミングで情報が上がってこないのだろうか?」なんて言っている経営者がいたら、まずこのインタビューを読んでもらいたいな、と思います。というわけで、このインタビューの存在を教えてくれた、グロービスの生徒さんに感謝。そして、今回のブログはそのまま、別のグロービスの生徒さんへのオススメになります。
2007/01/26
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海馬~脳は疲れないを読みました。糸井重里と池谷氏の対談です。なぜこの二人の対談が実現したのかよくわからないが、とても興味深い対談でした。糸井重里のインタビュアーとしての力量はすごい。自分の体験の引き出しから、球を投げ返す。そこに、池谷氏が解釈を加える。そのやり取りを通じて、脳みその構造がわかってくる。理想的なインタビューです。このやりとりを見ていると、「糸井重里と話をすると楽しいだろうな」というのが伝わってきます。2つの反省と今年の目標で書いた「面白い球出し」という言葉は、イトイ新聞を読んでいて何となく頭に浮かんだ言葉です。そんなわけで、最近イトイ新聞にはまっています。イトイ新聞に出てくるインタビューは、面白い!さて、本の中身ですが、どこかで聞いた話が多いですが、こんな内容です。■脳の本質は、ものとものを結びつけて新しい情報をつくっていくこと。だそうです。「頭のよい」人とは、「ものとものを結びつける」能力に長けた人。確かに、コミュニケーションもアイデアも「違うものどうしを結びつける」という作業ですね。■人間の脳は2%程度しか活用されていない。だそうです。人の頭のよさなんて似たり寄ったり、ということではないかと。■脳の細胞は(一部の例外を除いて)どんどん死んで行き、細胞の数は減る一方だが、脳の寿命は人間の寿命より遙かに長い。だから、脳細胞が減ることは心配しなくてもよい。だそうです。なるほど。■脳(に限らず、人間の機能の多くは)、今ある機能が10だとして、これを15に増やそうとする場合、10増やして5減らすという行動を取る。(10+10-5=15)5減らすというのは、いわば人体が持つ「ストッパー」である。この「ストッパー」を外すということをすることで能力を飛躍的に伸ばせる。この「ストッパー」については、思い当たるフシがあります。すごい人って、意識的にか無意識的にか「ストッパーを外してもっと行ってしまう」ということが出来る人だなぁと思います。ぼくは、なかなかストッパーを外せない性格ですね。■脳の中で唯一、大きくなる器官が海馬だそうです。海馬は脳の中で情報を選別する機能を担っています。刺激的な環境に身をおくと、海馬は大きくなり、退屈な環境に身をおくと海馬はダメになる。だそうです。■その海馬を破壊されると、(ネズミの実験では)ネズミにものすごいストレスがかかる。海馬には「新しい環境はストレスではないんだよ」と伝える役割を持つ。のだそうです。なるほど。刺激のある環境とストレスの大きい環境って、紙一重のところがありますね。それを「刺激」と見るか「ストレス」と見るかは、海馬がその環境を処理できるキャパシティーがあるかどうか、に依存しそうです。ということは、鍛えられる人はますますストレスに強くなるし、その逆もまた然り、ということですね。■睡眠をとっている間に、脳は記憶の編集作業を行っている。その編集作業の断片が「夢」である。睡眠をとらないと、無理やり編集を始めてしまう(つまり幻覚を見る)。睡眠をとらないと、海馬は情報を整理できない。前の日に考えていたことを途中で中断しても、寝ている間に考えが進むって確かにありますよね。どこかで読んだのですが、「仕事を切り上げるときは、キリの良いところで終わりにするのではなく、途中で終えた方がよい。ある仕事がキリの良いところまで終わったとしたら、別の新しい仕事に少しだけ着手し、作業中の状態で切り上げた方がよい」のだそうです。寝ていたり、他の作業をしているときも、脳は考え続けるので、再開したときにすんなり作業に入れるそうです。自分の実感に合います。■やる気というのは後付で出てくる。行動する前にやる気が出なくても、行動を開始してしまえばやる気が後から出てくる。たしかに。こんな感じです。人間の性格や頭のよさは先天的なものか、後天的なものか?という答えの無い問いがありますが、この問いの「後天的な部分」については、この本に書いているような内容なのだろうな、と感じました。ぼく自身は、社会人になって10年以上経ってしまったが、社会人なり立ての自分が今の自分を見たら、少し驚くだろうな、と感じるほどこの10年で自分自身が変化をした実感があります。その変化の中で、成長した部分があったとすれば、コンサルという仕事をやっていく中で、頭が真っ白になって何も言葉が出てこない体験や、「いつもと違う脳みその使い方をしている」という実感を得ながら何とかアウトプットを仕上げなくてはならない体験や、をしながらそれこそ今まで使ったこともなかった脳みその場所を使い続けてきたことによる部分が大きいんではないかと思いました。
2007/01/15
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前回の続きです。「2つの反省」について。自分の話をなぜ「面白くないなぁ」と感じてしまったか?ということについて。「続きは次回」なんてもったいぶっておきながら、なんのひねりも無いのですが、「話が面白くない」理由は、「面白い話のネタのインプットを得るための努力を怠った」ということ「今あるネタを面白い話として仕上げるための努力を怠った」ということの自覚があるから、ということです。(いかにもコンサルが思いつきそうな分類ですが、その通りのことを感じたのでそのまま書いてます。)■なぜ、「面白い話のネタのインプット」が無かったと感じたか?忘年会で、元同僚の話を聞きながら感じたことは、「面白い話のネタ」というのは、楽しい人がいる、ハプニングが起こる、笑いが絶えない、日々刺激が多いという状況で生まれるわけでは必ずしも無い、ということです。(もちろん、こういう状況はこういう状況で、楽しいでしょうが。ここで言う「面白い話のネタ」とは違う内容です)このような周囲の環境によって自動的に面白い話のネタが作られるのではなく、「その環境が自分にとってどんな意味があるか?」ということの方が重要なんだな、と思いました。で、面白いネタを生む環境とは、「これまでの自分には予測不能な状況」でありながら、「自分で何とかしなければならない状況」だと感じました。「予測不能だが自分自身で何とかしなければならない状況」だと、結果が予測できない、これまでうまく行っていた自分の仕事のやり方が通用するのかどうかわからない、でも結果は出さなければならない。こういう状況に身をおくことで、自分で自分自身にかけているリミッター(制御)を外さざるを得なくなり、今までならとらなかったような行動を取らざるを得なくなったり、今まで気に留めなかったようなことが気になったりするのではないかと。で、それが「面白い話のネタ」になるのではないかと。そんなことを感じました。自分はどうだったか、と振り返ると、この1年は頭が真っ白になる経験も無かったですし、予測不能な環境は殆ど無かったのではないか?脳の発達を見る実験でネズミを刺激の無い環境と刺激に満ちた環境において、脳の発達度合いを比較する実験がありますが、ぼくは「刺激の無い環境」に近かったのではないか?そんな反省です。■なぜ、「面白い話として仕上げるための努力」が無かったと感じたか?「面白いネタのインプットが足りない」と感じながらも、大きく環境を変えてみようかな(=転職しようかな)という気持ちにはなりません。一つには、「今の環境でやるだけのことはやった」という実感が無いからでもありますが、もう一つには「今の環境でも、面白い話のネタはいろいろと転がっている」と感じているからです。ただ、「面白い話のネタ」は、拾い上げて、検分して、何を面白いと感じたのかを整理して、その面白さがさらに引き立ち、面白さが増すように話を広げていく必要があります。話を広げる、というのは「面白いネタに積極的に関与して(=行動して)話を進展させる」ということもありますし、「面白いネタに関する自分の理解を深め、話の完成度を上げる」ということでもあります。今勤めている会社の社史(=今の戦略をとるに至った経緯)を元同僚に説明したところ、ものすごく関心されたことがあります。その元同僚は、コンサルを退職し近々自ら経営に携わる立場になる人ですが、「経営コンサルのような経営理論を学んでいない社員をどのように引っ張っていくか」という観点で、ぼくのした話が大きなヒントになったようです。ぼく自身も「ぼくも入社してから今までの間のどこかのタイミングで同じことに関心をして、同じような印象を持ったな」ということを思い出しました。面白いネタが無いのではなく、見過ごしているだけだと。これまたどこで読んだのか覚えていないのですが、「優秀なクリエイターとそうでないクリエイターとの違いは『面白い解・美しい解・クリエイティブな解は絶対に存在する』という強い信念があるかどうか」だそうです。ぼく自身のことを振り返ると「自分の生活の中から、面白いネタを見つけ出す」執念が足りてなかったなぁ、と反省します。ということで、目の前のタスクを処理することに一生懸命になってしまい、「面白いネタを新しく仕入れる」ことも「今あるネタから、面白さを見出していく」ことも、ついつい後回しにしていたのではないか?というのが昨年の反省です。というわけで、この2つ、今年の課題とします。途中でちょくちょく見返してみます。
2007/01/06
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あけましておめでとうございます。昨年も皆様に本当にお世話になりました。本年もどうぞよろしくお願いします。しばらくブログの更新をサボってしまいましたが再開します。(見返してみると昨年も全く同じ出だしでした。。年末になると怠惰になるのか燃え尽きるのか、ただただ飲みすぎなだけなのか、とにかく毎年同じことを繰り返しています。)今年の抱負につながる、昨年末から今年年明けにかけて、気になったこと。昨年末に、前職の元同僚の何人かと忘年会ということで続けざまに会いました。延べ10名以上の元同僚(大半が既に転職しています)との近況報告、ということになったのですが、毎回帰り道に「あ、自分はちょっと負けてるかもしれないな」という気持ちが少しばかりありました。誰の発言か、例によって覚えていないのですが、「ちょっと負けてるな、と感じたときは、相当負けていると思った方がよい」ので、要するに「今、自分は相当負けてるぞ」と感じた年末でした。何に対して自分が「負けているぞ」と思ったか、というと、年収・ポジション・仕事の楽しさを他の人と比較してのことではありません。やせ我慢でも強がりでもなく、年収・ポジション・仕事の楽しさは、私の年齢(30代前半)では、いずれにしても「似たり寄ったり」で、「本当の差はここから先につく」と思っていますので、誰が勝った誰が負けたというのは全く気になりませんでした。むしろ「負けてるかもしれないな」と思ったのは「本当の差はここから先につく」という部分のための種まきで「ちょっと出遅れたのではないか?」という感情を持った点です。忘年会ということで、酒を飲みながら近況報告をする。そすうると、『話をするなかで、自分には人に語るに値する話のレパートリーが増えているか?』をイヤでも意識させられます。この点で、「これはまずいのではないか」と感じてしまう飲み会が続きました。飲み会そのものは、■人の話に対して『それは面白いね』と受け止めた上で、自分なりの意見や反応を返すということは出来ています。(これは、以前と同じように、同じレベルで出来ているつもりです)ですんで、会そのものをつまらなくすることは無かったと思うのですが、一方で、■ぼく自身は、こんな体験をしてこんなことを思って、こんなところが変わったということについて、自分は面白い球出しが出来ていたか?というと、出来てなかったなぁ、と思います。何よりも自分自身で、自分の話を聞きながら「面白くないなぁ。」と思いながら語っていたなと。そんな話を聞かされるほうも迷惑だったんではないか?と思います。このように「ちょっとまずいかもしれないぞ」と思い、反省した点が2つあります。それが同時に今年の目標ということになります。これについては、次回。
2007/01/05
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前回ご紹介したセミナーで、もう一つ興味深いデータがありました。■一般的な「顧客満足度」を高めることは企業の業績を高めるには貢献しない。■「顧客満足」には「理性的満足」と「感情的満足」があり、後者の満足でなければ、意味がない。というものです。具体的には、こういうことです。「あなたは、○○というサービス(あるいは○○という会社、○○という製品)に満足していますか」という質問に「5:大変満足している」と答えた人と、「3:どちらともいえない」と答えた人では、解約率やら一人当たりの購入金額やら購買頻度やら、という企業業績に直結するデータに殆ど有意な差が見られない。ところが、「5:大変満足している」という顧客を「理性的に満足」している顧客と「感情的に満足」している顧客に分けると、「感情的に満足」している顧客は、解約率やら一人当たりの購入金額やら購買頻度が他の顧客に比べてダントツに高い、ということです。興味深いことに、この傾向は、産業財であろうが消費財であろうが、モノであろうがサービスであろうが変わらないそうです。顧客を「機能面の優位性」で満足させても(つまり理性的に満足させても)、その人はやはり「機能面で有意なほかのサービス」に簡単に乗り換えてしまう。(「私は○○という製品が他社製品よりも安いので『5:大変満足しています』と、回答します」という顧客は、△△というもっと安い製品が出れば、それほどのこだわり無く、△△という製品に乗り換えてしまう、ということでしょう。)ところが、「感情的に満足」している顧客を浮気させることは非常に難しい、ということです。「感情的に満足」している顧客かどうかは、どうすればわかるか?「○○の製品を、知人に紹介したくなる」「○○のロゴのついたシャツを着てもよい」等、いろいろな聞き方があるようですが、そのセミナーの会社によれば、極め付けの質問は、「○○の製品が無い生活は考えられない」という質問にYesと答えてもらえるかどうか、だそうです。確かに、月に30回スターバックスに通う人は、「スターバックスの無い生活は考えられない」ですね。強いブランド=熱狂的な支持者のいるブランド、ということがいえるのかもしれません。上記調査結果のような傾向が、業種に関係なく見られるというのは興味深いですね。産業財だろうが消費財だろうが、メーカーだろうが金融だろうがその他サービス業だろうが・・。ということは、(前回の話とかぶりますが)「自分自身」を製品・サービスに見立てても同じようなことが言えるということかと思います。「感情的に満足」させるような仕事をする。そもそも仕事の「顧客」を意識する。「顧客」の「感情」にフォーカスする。そうするといろいろと仕事上の改善のヒントがいろいろ出てくるのでしょうね。
2006/12/09
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少し前に参加したセミナーで聞いて、とても印象に残った言葉です。その言葉とは、■顧客にとっては「感情」こそが「真実」であるリッツ・カールトンホテルのCEO、サイモン・クーパー氏の言葉だそうです。リッツ・カールトンは、徹底した顧客志向で知られているホテルですね。サービスについて様々な”伝説”がありますね。(具体的なエピソードが思い出せず、ネットでもすぐに見つけることが出来ませんでした。代わりに、本を紹介しておきます。)上記の言葉は、このリッツ・カールトンのサービスの魂を一言で表現したものだと思います。要するに、顧客が『快適なサービス・応対が受けられなかった』と感じたら、その顧客にとっては、『快適なサービス・応対が受けられなかった』という以外の真実は無いということですね。サービスを提供する側にとっては、「ちゃんとしたサービスをすることを心がけている」とか「これこれこういうサービスをした」とか「マニュアルどおりの対応をした」とか「99%の顧客が、このサービスで、満足する」とか、ということが「真実」かもしれないが、そんなことは顧客にとっては何の意味も無い。ということになります。徹底的な顧客志向、という点でも非常に印象深い言葉ですが、もう一つ印象的なのは最後は「感情」を最上位に持ってきている点です。「他社よりも早いサービス」とか「他社よりも多い種類のサービス」とか、という「頭で理解する」指標ではなく、「感情」こそが最も大切にすべきことである、という。この点は、自分も仕事をしていて多くの場合忘れてしまいがちなポイントだな、と反省しました。(自分のやっていることが「正しい」「正しくない」という点で仕事を検証することがあっても、この仕事が、仕事の受益者を「嬉しく」するか「幸せに」するか「感動」させるか、という検証はほとんどしてこなかったなぁ、と・・・・)そんなことに気がつかせてくれる言葉でした。
2006/12/07
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昨日は自分の結婚記念日でした。夫婦揃って、全く忙しい11月だったので、お互いに「はたと、結婚記念日が今日であることに気がついた」という感じでした。仕事もとりあえずはひと段落したということで、早めに会社を出て、家路につく。妻は、本日夜遅くなるというので、せめて花でも買おうかと考える。で、帰りの電車の中で、「ビジネスマンに贈る最後の言葉」という、末期ガンになった経営者が、死を迎えるまでの本を読んだ。今日、この本を今日読もうと決めていたわけではなく、たまたま「未読本」の中から一冊ピックアップしてカバンに入れた一冊。末期ガンの経営者ということは、「未来のために」「今やるべきこと」を「とにかくめまぐるしく」仕事をこなしていくという生活から、「未来のことは考えず」「今を精一杯味わい、楽しみ」「穏やかに」その日を迎える、という生活に突如として変わることを余儀なくされたということだ。筆者はその変化を受け入れ、これまでの生活で味わったものと別の種類の充実を味わう。例えば、こんな言葉が出てくる。・時の流れは緩めることも、速めることもできない。まわりの環境にしても全てを変えるのは無理である。だが情熱は自分でどうにでもなる。何にどれだけの情熱を傾けるか、まわりからの働きかけに対してどれだけの情熱で応えるか、すべて自分で決められるのだ。このような発想をよりどころにすれば、何が大切かを見極め、そこに意識を集中できるだろう。・あなたも自分のスケジュール帳を眺めてほしい。これから先、極上の日々を迎えられそうだろうか?それともそのような機会はどこかに隠れていて、見つけ出す方法を探る必要があるのだろうか?三十日分の極上の時間を作り出そうとしたら、できるだろうか?どれだけかかるだろうか?・極上のひとときは、一瞬、一時間、あるいは昼下がりの贈り物である。時間の長さはまったく問題ではない。大切なのは、極上のひとときを受け入れ、楽しもうとする気持ちがあるかどうかである。読みながら自分の母を思い出す。母は亡くなるまでの最後の時間に、何を思っていたのだろうか?とても心配性で、寂しがりで、いつも人の心配ばかりしていて、家族のことを何よりも気にかけていた母も、最後の3ヶ月は不思議なほど穏やかだった。母は肺に水がたまり、日々呼吸が苦しくなっていく恐怖と戦っていたはずだが、息苦しさを訴えることはあっても、取り乱すことが全く無かった(少なくともぼくの前では)。この本の著者のように、おだやかに「今を楽しむ」ということができていた、ということだろうか。「ビジネスマンに贈る最後の言葉」の著者は、余命3ヶ月となった段階で、これまでの人生をともに過ごした人々に、順番に別れを告げていく。最初は、「知り合い」次に「仕事仲間」「親友」「親族」「娘」で最後に「妻」。読みながら、母との「別れ」について思い出す。母の無くなるちょうど一週間前に、家族みんなで、近くの公園に花見に出かけたことを思い出す。(その時も母は、みんなは寒くないか、何か着なくても大丈夫かと、家族の心配をしていた。)満開の桜を見ながら、家族みんなで交代で車椅子を押しながら、公園を回った。ぼくが最後に母の車椅子から手を離し、父親(だったと思う)に渡したときの手の感触をよく覚えている。そのときに、母と最後の別れをしたのだと思う。自分に人生のカウントダウンが始まったときに、母と同じように、あるいは「ビジネスマンに贈る最後の言葉」の著者のように、穏やかに日々をすごすことが出来るのだろうか?取り乱すことなく、その日を迎えることができるのだろうか?そんなことを思いながら、家の近くの花屋で結婚記念の花を買い、帰宅した。11月は、亡くなった母の誕生日があり、自分の結婚記念日であり、両親の結婚記念日であり、妹の結婚記念日にもなった。そんな11月を実に慌しく過ごしてしまったので、今週はのんびりしようかなと、考える。そんな結婚記念日の帰り道でした。
2006/11/28
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昔どこかで聞いて、とても気に入っている言葉です。「ダイヤモンドの鑑定士の訓練は、偽物と本物を見分けるのではなく、ひたすら本物のダイヤモンドを見続けること」だそうです。本物のダイヤモンドを見続けていると、「本物でないダイヤモンド」は、すぐにわかるそうです。つまり、偽物と本物の違い、に注目するのではなく、とにかく本物を深く深く理解する、ということで、結果として偽物を見分けられる、ということです。(これが実際のところ本当なのかどうなのか、知らないのですが・・)ビジネスの世界でもホンモノ体験、って非常に重要だな、と最近とみに痛感します。どんな仕事にも「ホンモノの仕事」と「ニセモノの仕事(=妥協の産物のような仕事・魂のこもっていない仕事)」があります。ホンモノの仕事とは、例のお宝鑑定番組の鑑定士の言うところの「いい仕事」というヤツです。で、「ホンモノの仕事」がどういうものかわからない人に、「これはホンモノの仕事ではない」と、100万回言っても、そのことを理解させることがとても難しい。また、同じ仕事を見ても、「この仕事は、ニセモノの仕事だよね。この仕事を認めてはいけないね」という人もいれば「いや、この仕事はすばらしい」と言う人もいる。人物評価においても、「彼はホンモノだ。」という人もいれば、「彼は信用できない。」という人もいる。でも、企業は、組織として、こういう「ホンモノ価値観」を共有しなければならない。こういう価値観が共有されていると、話は非常に早いし、話もまとまります。特に「これはダメな仕事だよね」「我々の企業として、これは容認できない水準の仕事・成果だよね」という水準感・危機感を共有できると「じゃぁどうすればよいのか?」という議論に入ることができます。。逆にこの価値観が共有されていない組織は、「悪貨は良貨を駆逐する」ということが起こってしまいます。なぜなら、「これはホンモノではない」「ホンモノである」ということは、議論して認識をあわせることが非常に困難だからかです。その結果、「この仕事の何が問題なのか?」という”居直り”に対抗できないわけです。この場合たちが悪いのは、「何が問題なのか?」と言っている本人は、”居直り”だとは感じていなくて、「本当に問題がない」と思っていることです。ホンモノ体験が大事、ということで「会社のお金で一流のレストランに行き、ホンモノのサービスを体験することを研修にしている」企業もあるそうですが、この気持ちはすごくよくわかります。さて、自分自身は今の会社で、『ホンモノ鑑定眼』をどうやって共有していくか。結局は、一つでも多くのホンモノの仕事に触れること、ですね。そのためには、自分自身も『ホンモノの仕事』をアウトプットし続けなければならない。そもそも、自分の仕事が本当に「ホンモノの仕事」か?と問い直してみると、恥ずかしい・・・・ということも非常に多い。。まずはそこから、ですね。そんなことを感じています。
2006/11/24
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だいぶ日にちがあいてしまいましたが、続きです。「愛国心教育」というと、胡散臭いものを感じるということを前回書きましたが、それでも「従来の科目(国語とか算数とか理科とか・・ではない教育が必要である」という点については強く賛成します。少し前(だいぶ前・・・)に書いた「武士道の感想」のところでも書きましたが、「お金を稼ぐ・食っていく」ための教育と「倫理観を作る」ための教育は両方ともに必要である、と思うからです。従来の科目(国語・算数など・・)は、多くの人にとっては、「お金を稼ぐ・食っていく」ために身につけるものとして位置づけられます。ですので、これらの科目が「出来る」人は、「優秀な人」である可能性は高いかもしれませんが、「立派な人」である可能性を保証するものではありません。(もちろん、「国語・算数」といった科目でさえも、暗記型の詰め込み式では、「優秀さ」が保証されないという議論はできますが、それはここでは割愛)「優秀さ」の尺度としての、学校の成績については、「数値化」が避けられません。いくら、「ゆとり教育」などといってオブラートに包んでみても、企業も大学も官公庁も「優秀な」人を取りたい。学生も「優秀である」ということを証明したい。従って、お互いに「優秀さ」を数値化するニーズがあるわけです。「品質を上げるためには、数値化して管理しなければならない」というのはトヨタの思想です。それを「人間の優秀さ」にも適用する、というのは自然な流れです。なので「学校成績の『優秀さ』は、世の中でも求められる『優秀さ』とは違うので、教育カリキュラムはおかしい」という議論はあっても、「そもそも人間の『優秀さ』を測定するという行為そのものがおかしい」という議論には、多くの人は賛成しないのではないかと思います。でも「優秀な人間」≠「立派な人間」だから、「立派な人間」としての教育も必要だよね。というのが、「倫理観を作る」ための教育だと思います。そうしないと、ホリエモンみたいな人間が「成功者」ということになってしまう。というところまでは、「愛国心教育」の問題についても賛成します。では、「愛国心」ではないとすれば、「倫理観」を教育するために日本人には何を教えればよいのか?これはものすごく悩ましいですね。欧米人のように、宗教が「家族の道徳教育」の重要な要素になっている、ということはありませんし、それに変わる「家族の倫理教育」ってなかなか思いつかないですし。。その中でも「なるほど」と思ったのは、「カリスマコンサルタント」の神田昌典氏が取り組んでいる「死生観教育」です。生徒と老人のふれあいの場を作る。戦争経験者の体験を聞く。彼らが、どういう気持ちで当時の日本を生きていたか。どんな日本になってほしいと思って生き延びてきたか、ということを聞くことができる。それから、高齢者との触れ合い方は、今後否応なしに身に着けなければらないものになっていく。戦争体験が日本人の価値観に及ぼす影響はとても大きいと思いますし、日本は世界最速のスピードで高齢化社会に突入する。そんな中で、一つの「倫理観を形成する柱」にはなると思います。ちょっとこれだけでは、「宗教」と同等の倫理観にはならないですが。。。(中途半端なオチですみません。。)
2006/11/21
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今回は、愛国心教育の問題について。愛国心教育の問題について、多くの人がある種の「胡散臭さ」を感じているのではないか、と思います。少なくともぼくは、非常に胡散臭いものを感じていて、自分の子供が出来たとして、自分の子供が「愛国心教育」を受けることに、諸手をあげて賛成するか?と言われると、「うーん、モゴモゴ・・・」と言葉を濁してしまうと思います。その胡散臭さをなぜ感じるのか?うまく説明できませんが、ぼく自身の小学校時代の体験が下敷きになっていると思います。ぼく自身は、5歳から10歳まで、アメリカに住んでいました。アメリカでは、月曜日から金曜日までは現地の学校に通い、土曜日に日本人補習校に通っていました。というわけで、小学校時代に、アメリカの現地校での、「愛国心教育」(らしきもの)について。アメリカの小学校では、毎日、朝礼があり、朝礼で「星条旗への誓い」を全員唱えるというのがありました。ちなみに、「星条旗への誓い」の文章は、以下。歌ではなく(メロディーはありません)、文章です。これを全員が起立して、星条旗を見ながら(人によっては胸に手をあてながら)ぶつぶつと唱えるわけです。-------------------------------Pledge to the Flag「星条旗への誓い」I pledge allegiance to the flag of the United States of America and to the Republic for which is stands, one ntion under God, indivisible, with liberty and justice for all.(アメリカ合衆国国旗とそれがあらわす共和国、神のもと1つの国家として、不可分であり、すべての人に自由と正義を与える国に忠誠を誓います。)-------------------------------考えてみれば、アメリカ国籍ではない人が、クラスの1/3程度いましたから、みんなでこれをぶつぶつ唱えることに何の問題もなかったのか?と問われると自信が無いのですが、おぼろげな記憶ではみんな結構素直にやっていたと思います。ぼく自身も、これに対して「やらされ感」「何らかの思想を押し付けられている感」というのは全く無く、割りに素直に、特に疑問も持たずにやっていました。それはなぜか?まぁもちろん、子供だったのでそんなに深刻に考えなかったというのもあったんだと思いますが、この「儀式」(あるいは、アメリカ国旗・アメリカという国に忠誠を誓うこと)が、非常に緩いものであった、ということが一番大きいと思います。星条旗に誓うときの基本的なスタンスは、人種もいろいろ、宗教もいろいろ、個人個人の信念もいろいろ、みんな自由である。というんがアメリカの良いところである。ただ、そんないろいろな人を束ねる上での最低限のルールとして、「いろいろな人がいて成り立ている国」なりの共通認識は持ちましょうね。それが星条旗への誓いであり、この国に対する忠誠ですよ。というものでした。つまり、「基本、個人個人はバラバラですが」「基本、自由ですが」という前提が付いた上で、「自由を認める上で最低限の共通事項」としての、星条旗への誓いがあったことが理由だと思います。(子供心にそういう意識があった、というのは、おそらく学校でそういうことを教わったんでしょうね。この辺は記憶が曖昧です)つまり、道徳・倫理・信念の大部分については、個人(及びその家族)の自由にゆだねられており、学校教育は基本的にその部分に関知しないというスタンスがあったように思います。もちろん、星条旗にちゃんと忠誠を誓ったかどうかが、成績につけられる、なんてことは全くなかった。では、同じことが日の丸でできるのか?難しいな、と思ってしまいます。まず一つには、「星条旗への誓い」が、『基本自由だが、最低限これだけは守って』というスタンスであるのに対し、「日の丸」が求める日本人がかなり「全人格的」ものを要求するような雰囲気を感じてしまう点です。「ここまでは自由・ここからは共通の了解事項です」という線引きが非常に難しいと思います。これは、アメリカと違って日本は単一民族であることから、避けられないことではないかと思います。また、「日本人であること」を理由に国家が国民を間違えた方向に導いた過去がある、というトラウマがあります。国家に忠誠心を持たない人を「非国民」と称して多くの日本人が不幸に陥れられた、という歴史を実体験として知っている人は少ないですが、それでも何となく「愛国心」という言葉に胡散臭さを感じるくらいの「刷り込み」は受けているように思います。で、最後の理由は、「日本人であること」のコンセプトって何?ということが、共有されていないことだと思います。数十年前までは、「資源も無くて、国土の狭い日本が成功するには、とにかく身を粉にしてせっせと働くしかない」という共通了解事項があったように思います(実際にその時期に社会に出ていたわけではないので、本当のところはわかりませんが)。なのでそういう、「せっせと働く人」を量産する教育も社会の要請にマッチしていたし、「せっせと働く人」を量産する教育システムに乗っていけばある程度の成功が保証される、という暗黙の了解事項があったんだと思います。ところが、今はせっせと働いても「勝ち組と負け組み」がいるし、いつの間にか「実力主義=自分の身は自分で守れ」という価値観が強くなっているし、「日本人として、どんな価値観を選択すべきか」(=「何をすれば、国として・個人として成功するか」「国として何を世界に発信するか」)が、非常にファジーなわけです。格差社会の中で、自分がどう生き延びるのか?と言うことの方が切実で身近な課題である、と言う人が多いのではないか?なので、「愛国心」と言う言葉がもたらすメリットが不明であるのに、トラウマだけがある。そして「わかった。愛国心を持ちます」と言った瞬間、何を了解したことになるのかがわからない。ということが、何となく感じる胡散臭さの正体ではないか。そんなことを感じました。続きはまた。
2006/11/10
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今回は、履修漏れ問題について。本件についてもいろいろと考えるべき点は多いのだと思いますが、私が一番気になっているのは、「高校3年生に補講を受けさせる」という対応策についてです。今回の場合「高三生に補講を受けさせる」というのは、考えられる対応策の中でも最低の対応ではないか、と思います。自分が高三生だったとしたら、補講を受けなければならない理由を全く納得できないにではないかと思います。高三生が、受験前の11月という微妙な時期に、受験前の貴重な時間を費やして、受験には全く使わない科目に数十時間奪われてしまうことで受験準備の計画が全く狂ってしまいます。しかも、「そもそも卒業できるのか?」という、「受験どころではない」心配事を抱えることになってしまいます。しかも、生徒には何の責任もありません。この時期の高三生にこの出来事は、精神的に「ちょっときつすぎる」と思います。また、現時点で統一の対応策が決まっていないということは、「未履修科目に対する対応」をまじめにすればするほど、受験では不利に働くという、「正直者がバカを見る」結果になってしまう点も、結局生徒にしわ寄せが行ってしまう結果になってしまい、生徒の立場からすると到底納得できません。では、現在の高三生に、今からあわてて強制的に補講をさせることで、何が得られるか?というと、実は何も得られないと思います。「必修科目を履修していない生徒を卒業させるわけにはいかない」という大義名分を守るための取り繕いだとしたら、全く意味が無いと思います。なぜなら、履修問題は、「たまたま今年発覚したが、以前からあったことがほぼ間違えない話」だと考えられるからです。ということは、「今年の高三生に無理やり必要な科目を履修させる」ということをしたとしても、それ以前の生徒では「必修科目を履修せずに卒業」している人が世の中に大勢いるわけで、「必修科目を履修していない生徒を卒業させない」という原則はとっくに崩れているわけです。「既に卒業した人は必修科目を履修していなかったとしても、卒業証書を渡してしまっているので、卒業を認めるより仕方がない」ということであれば、「今年の高三生についても、必修科目の履修の有無についての確認が遅れてしまい、対応する時間が取れないため、卒業を認めるより仕方ない」という理屈も成り立ちそうです。「必修科目を履修しなければ、社会にとって有害な人間が輩出されるか?」というと、過去の卒業生がそうであるように、全くそのようなことはありません。「必修科目を履修することで、現在の高三生の人格や知識が豊かになるか?」というと、慌てて取り繕って、間に合わせのように数だけ行う授業に得られるものがあるとはとても思えません。そもそも、今から慌てて授業をやっても、カリキュラムすら満足に用意できずに見切り発車で行っているはずで、そんな授業が生徒のためになるはずがありません。また、現在の高三生への場当たり的な対応に追われれば追われるほど、現在の高二・高一の生徒への対応が後手に回ります。来年の4月から、履修問題を完全に解決して、万全のカリキュラムを組んで、授業の出来る講師を確保して・・・、ということをやるだけでも相当な準備が必要なはずです。今から準備に取り掛かっても間に合うかどうか?というくらいあわただしくなるのではないでしょうか?ということを考えると、「高三生に補修を受けさせる」という対応は、得るものが何も無く、混乱だけが大きい対策ではないかと思います。今の高校三年生は、これまでの卒業生と同じ扱いにして(つまり、見なかったことにして)、その次の代(高二・高一)に対するクラスの対応(カリキュラム作り・教師の確保など)・再発防止策(履修漏れの有無をどうやってチェックするか、再度同じ問題が起こった場合の罰則・責任分担をどうするか等)を考えることを最優先にすべきではないかと思います。
2006/11/05
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引き続き、教育関連の問題について。今回は、いじめによる中高生の自殺者が、1999年から2006年まで一人もいない、という統計を見て感じたこと。これについては、「おっと、この問題はどの企業にも起こりうるな。自分が勤めている会社で、同じ問題が起こっても全く不思議はないな。」と思いました。これも、「なぜ0件という報告がずっと容認されてきたか?」ということを考えると、構造的なおかしさがあると思います。(もちろん、だからといって文部科学省を擁護するつもりはありませんが)この統計がこのようになってしまう理由は「この統計を重要だと思っている人」「この統計をの数値を減らしたい人」「この統計を集計する人」が、全て同一組織である、ということだと思います。どの学校も、どの教育機関も、「いじめによる自殺」を非常に重要な問題としてとらえており、「いじめによる自殺」を「あってはならないこと」と強く思っているはずです。毎年成人の自殺者が3万人近くいるのに、それを誰も「自分のこと」として考えないのと比較するとずいぶんと「いじめによる自殺」については重要な問題だと思っているわけです。重要な問題だと思っているから、この数値を可能な限り減らしたい、という強い欲求が働きます。逆に、自殺者を出してしまう学校(なり市なり県)は、「教育体制に問題がある」と見られると考えるのも当然のことです。ですので、「自殺者をなるべく減らそう」と考え、それを「目標」にすること自体は、間違ったことではないと思います。問題は「いじめによる自殺かどうか」の定義を自分でいかようにでも操作できてしまうことだと思います。「いじめによる自殺者を実際に減らす」ということと「いじめによる自殺者を定義するルールを自分で変えてしまう(=成績表を自分で書き換えてしまう)」ということでは、自分でルールを設定できる人であれば、当然後者の方がはるかに容易です。『明日からダイエット』と同じ理屈ですね。(いや、ダイエットという目標を自分に課したが、今日はカウントしないことにしよう。)そうすると、100人いれば、その中に一人くらい、本質的な問題(=いじめによる自殺を実際に減らす)に取り組まずに、安きに流れる(=成績表そのものを変えてしまう)人がいてもおかしくないでしょう。で、一人がそうやって「抜け駆け」すれば、他の人もやらなければ自分の成績が不利になってしまいます。そうやって集団で成績表の書き換えを行うようになります。これは、「目標を達成したい」と思う組織のある意味自然な行動かと思います。(もちろん、だからといって文部科学省を擁護するつもりはありません。)この事態を避けるためには、「成績表をつける人」と「成績を上げようと努力する人」を分ける必要があります。考えてみれば当たり前のことなんですけどね。自殺の原因を文部科学省ではなく、死亡統計をつけている機関(厚生労働省?警察庁?)が集計するべきなのだと思います。例えば、交通事故による死者数を自動車会社が集計していたらどうなるか?タバコが原因と考えられるガンの死亡者数をタバコ会社が集計していたらどうなるか?トヨタやホンダやJTのように、消費者に支持され、株式市場でもまれている企業でも、「正しい統計」を出す可能性は低いのではないでしょうか?例えば、「三菱自動車」が「三菱自動車による交通事故の死者数は0人です。」という統計を発表し、「だから三菱自動車は安全ですよ」宣伝をしたら、果たしてトヨタは「トヨタによる死亡者数は3000人です」という統計を発表できるでしょうか?やはり「トヨタも0件です」という統計を発表して、後付の理屈を一生懸命考えるのではないか?と思います。やはり、警察庁のようにある程度の客観性を担保できる組織が発表する統計だから、妥当性のある統計が出ているのではないかと思います。こういう、「成績を評価される人が、成績表自体を書き換えることが出来る」という状況は、結構一般の企業内にも多く存在するのではないかと思います。例えば、営業マンを「訪問件数でノルマ評価をする」という目標を設定し、厳しい厳しいノルマ管理をした場合、訪問件数の集計を完全に営業マン任せにしてしまうと、ノルマを達成できずに苦しんでいる営業マンは、訪問件数の虚偽申告をする強い強い誘惑にかられるでしょう。この辺りの組織目標・個人目標管理のしっかりしている企業は、「統計を集計する人」と「その統計によって評価される人」を相当厳密に分けているように思います。考えてみれば、企業の決算報告で、監査法人の承認が必要なのも同じ理由で、監査法人がいなければ、全ての企業が勝手な理屈で決算をいじくりまわしてしまい、決算書が何ら信憑性のないものになってしまいますね。ちなみに「いじめ」の件については、”自殺統計「いじめ」追加 警察庁見直し”という動きがあるようですね。(個人的な感想としては、はじめから警察庁が統計を管理すればよかったじゃん、と思いますが。。)上記とは別のぼくの雑感としては、本件については、マスコミに「0件はおかしいでしょう」という以上の踏み込んだ分析をしてほしかったなぁと思います。「中学生・高校生の悩みの大部分は、家庭に関すること・友人に関すること・異性に関することなんだから、いじめによる自殺件数はXX件と推定される」とか、「●●の推定によると、××県のいじめによる自殺者数は全国平均の2倍である」とか、「全国でも●●県の●●市は、自殺者が異常に多い」とか、何らかの『仮説』を文部科学省にぶつけてほしかったと思います。(ニュース報道が面白くない理由として、マスコミは人の『説明責任』を追求するときには非常にしつこいのに、マスコミ自身が『説明責任』を追うような分析や対抗意見を戦わせる、ということが非常に少ないことがあるように思います。今回のテーマとは関係ありませんが)ちなみに、人口10万人当たりの自殺率の地理的分布状況を見ると、北高南低の傾向があるそうです。国際比較での自殺率(10万人あたりの自殺者人数)ランキングは、1.リトアニア:44.72.ロシア:38.73.ベラルーシ:33.24.ウクライナ:29.6…10.日本:24.1…46.米国:10.4…70.ブラジル:4.1…90.ジャマイカ:0.3各国の統計の基準が異なる可能性はありますが、何となく直感に合います。何となく死にたいな、と思っているときにジャマイカに行くのと、ロシアに行くのでは大きな違いがありますもんね。自分に子供が出来て、子供の「生きるエネルギー」が何となく弱くなってるなと感じたら、とりあえずハワイに連れて行く。・・・・という単純な話ではないですが、冬の日本海には連れて行ってはいけないんでしょうね。
2006/11/03
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最近、教育関連の問題が、立て続けにニュースになっていますね。○履修問題 しかり○”愛国心”問題 しかり○いじめによる自殺問題 しかり教育問題は「何が正しくて何が正しくないのか」を論じるのが非常に難しいのですが、(ある意味宗教について議論するのに非常に近く、個々人の価値観に影響する部分が極めて大きいと思いますので)それぞれの問題について自分なりに感じたことをまとめておく必要があろうということでまとめてみます。現在取り組んでいる仕事との関わりで、あるいは最近まで書いていた武士道との関わりで、書くことになると思います。したがって、目線は、「こういうことも考えなくてはならないのでは?」ということになると思います。『教育問題の本質をえぐる』みたいなことを期待される方は肩透かしを食うと思います(予めお詫びしておきます)まず、”いじめによる自殺問題”について。北海道や岐阜ので、校長がいじめを認めたとか認めてないとか、ということがニュースになっています。で、基本的なマスコミの論調は、「この期に及んで自己保身に走る校長はけしからん!遺族がかわいそうではないか!」ということになっています。確かに、校長がテレビを見る限りでは「誠意のある対応をしている」ようにも見えませんし、「じゃぁ、今の言葉をそのまま亡くなった少女にいえますか?」と聞かれたら、たぶん「ごめんなさい」ということになるでしょう。どう考えても人として見本になるような対応ではないですし、一言で言うと見苦しい。そういう見苦しさも手伝って、マスコミの論調は、『人が亡くなっているのに自己保身に一生懸命なのは、教育に携わる人間として許せない』という具合に、校長一人を悪者にしているようなところがあるように感じます。マスコミは全般的に、教師・国家公務員・国家資格を必要とする職業(医師・弁護士など)に対して非常に厳しいものがあって(当たり前のことで、そのことは否定するつもりは全くありませんが)、こういう『他の模範となるべき職業の人』が、人としておかしいことをすると、その特定の個人を責めて終わってしまうようなところがあるような気がします。確かに「校長のやっていることは、人として許せない。ましてや教育に携わる人間のやるべきことではない」という主張はその通りなのですが、校長も教師である前に人間なわけで、『教育に携わる人間が、揃いも揃って皆さんああいう見苦しい対応になる』ということには、構造的な理由があるんではないかと思います。構造的な理由とはつまり、『普通の人間(ぼく自身も含め)が不幸にして校長と同じ立場に立たされたら、やはり同じような対応をしてしまう可能性がかなり高いのではないか』という要素があるのではないか、ということです。今回の校長の対応を見ていて感じるのは、「校長って、校『長』でありながら、まったく『長』じゃないんだな。」ということです。一般企業で言えば「課長」と同じ構造を抱えているんだな、ということです。つまり、●立場的にはある一定の数の部下を預かる●しかし、業務の内容や方針は、自分の上司の上司の・・・(企業で言えば経営陣・社長)が決める●しかも、自分自身はその上司に査定をされて将来が決まる●人の性として、上司に気に入られたいという構造は、一般事業会社の課長と全く同じです。今回の一連の出来事を企業におきかえるとこういうことだと思います。●ある人が、ある企業の製品を使って亡くなってしまった。●その人が亡くなった原因が、製品に欠陥があったためなのか、そうではなくて純粋な事故なのか微妙である。●遺族は憤慨しており、「この会社けしからん」と思っており、「欠陥製品のせいだ!責任者出せ!」と言っている。●その製品を販売した営業マンの上司である営業3課のA課長が、マスコミや遺族への対応をしている。さて、ぼく自身が、営業3課のA課長だったとして、誠意ある対応が出来るか?という問題だと思います。おそらく、ぼく自身の頭の中では、以下のような思いが去来するのではないかと思います。■自分自身が、欠陥製品であることを認めることは、会社全体が欠陥製品を認めるということである。■この瞬間(仮にそれが正しい判断であったとしても)自分が引き金を引いて、会社が欠陥商品があることを認めることになる。■上司がどう考えているのかは知らない。(知らないが少なくとも、「欠陥製品でなければいいなぁ」という願望は持っていることはわかる)■ホンネでは、亡くなった方や遺族に申し訳ないと思う部分は少なからずある。■でも一方のホンネでは、欠陥製品を作ったのは開発部門であり製造部門であり、営業ではないと感じている。さて、この状況を全て踏まえて、「ごめんなさい、私が悪かったです」「これは当社の問題です」と言えるだろうか?言うべきなんでしょうが、相当勇気がいるな、と思うわけです。(もちろん、だからと言って、「言わなくてもよい」と思っているわけではありません。)今回のケースが企業の場合よりも、さらに性質が悪いのは、「企業の社長に相当する人間がいない/いるのだろうが、誰なんだかわからない」ということです。上記の営業3課のA課長は、実際には「これは会社の問題なので社長対応してください」と言えます。しかもかなり正当な主張として言えるでしょうし、そういう対応をしてもマスコミはそれほどA課長を責めないでしょう。責めの矛先を社長に向けるだけです。しかし、校長にはそれが言えない。校長先生の「上司」が誰なのかわからない。最終的な責任の所在が極めてグレーで曖昧である。そこに一番の構造的な問題があるんではないかと思います。■社長は、全て自分で決められる、その代わり責任は自分で取る。■一方、校長は課長くらいの権限しかない。誰が社長なのか、曖昧模糊といてよくわからない。このことが、「この校長許せない」と思う一方で、「この校長も『小物』なんだな。この校長を責めても何も出てこないんだな」という、ニュースを見たときの虚しさにつながっているのではないかと思いました。いったん曖昧になった責任は曖昧のままにしておいた方が当事者にとっては都合が良いので、この状態は当分続くのでしょうね・・・。こういう状況を見ると、自分の子供が出来たら、ムリしてでも子供を私立に入れたいな、と考えてしまいますね。。
2006/11/01
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ばたばたしてしまい、ずいぶんと更新が途絶えてしまいました。いったん更新が途絶えると、久々にUpするトピックが難しいです。重たいトピックをUpすると、「久々のUpが何だか重たいトピックだ。何だか悩んでいるのか?」なんていう心配を呼び起こしそうだし、久々のトピックがあまりにも軽いトピックだと、「あ、このブログはこのままフェードアウトするかな?」なんていう心配を呼び起こしそうだ。ということで、無為に更新をしない日々が過ぎていく。(こういうのを自意識過剰と言うわけですが。。。)これではいかん、ということで最近改めて気がついたことを。ちょっとしたものの言い方で、同じことを言ってもずいぶんと聞き手の受け止め方が変わります。そういう、ちょっとしたものの言い方で、ずいぶんと損をしている人、得をしている人っているんだろうなぁ。と思います。例えば、仕事で打ち合わせのアポを入れるときに、「○○日でいかがですか?」と聞かれた場合、「う、あの会議とこの会議をやりくりすれば・・・」なんていうことを頭の中で考えていると、「ハイ、調整可能です」なんて答えてしまう。が、「調整可能です」という言葉には、「本当はその日はイヤだけど、その日にしてやってもいいぜ」というニュアンスがどうしても含まれてしまう。こんなときは、普通に「○○日でお願いします」とか「大丈夫です。○○日でよろしくお願いします」と答えるべきでしょう。最悪わからない場合も、「大丈夫かと思いますが、念のため関係者の予定を確認してすぐに折り返しお返事します」等と言うべきでしょう。こんな具合に、「ものの言い方を瞬時に相手目線・相手の立場に立って切り替える」という訓練は、普段意識している人としていない人で、ちょっとしたところで差が出てしまうのではないかと思います。似たような話で、こんなことがありました。トヨタで、業務の改善案を募集するときに、「業務の改善案を提案してください」といっても、殆ど提案が集まらなかったといいます。ところが、「こうすれば、あなたの仕事がラクになります。という案を提案してください」というと、裁ききれないほどの業務の改善案が出てきたということです。これも「ものの言い方をちょっと相手目線にする」ことで結果が大きく変わる一つの例だと思います。そういえば、大学の頃、減らず口だった友人に、誕生日プレゼントということで、ちょっとしたものの言い方という本をプレゼントしました。ウケを狙ったのですが、マジ切れしていたような・・・記憶があります。古い本ですが、(まだ絶版にはなっていないようですね)良い本だったと記憶しているので、久々に開いてみようかと思ったら、さすがに手元にありません。文庫が出ているようですし、再度手にとってみようかと思います。
2006/10/24
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前回まで、新渡戸稲造の「武士道」について書いていたのですが、その続きです。「キリスト教」や「武士道」にあって、現在の日本にない「世界観」のようなものが一つあるような気がします。一言で言うと、「自分はこの世の中に生かされている」「意味があって自分は生を受けた」という世界観です。世の中には自分よりも大きな存在が自分が生まれる以前からあり、その「自分より大きな存在」との関係性で自分の人生を解釈する、という考え方です。「自分より大きな存在」とは、キリスト教で言えば「神」でしょうし、武士道でいえば、自分の家柄・名誉・武士道を極めることみたいなことが渾然となったものです。「自分は、その『自分より大きな存在』によって、たまたまこの世に生を受けた存在である」だから、「自分が生を受けた理由を追求し、それを極めることが自分の役割である」という考え方です。英語のCalling(天職)もこの考え方でしょうし、名誉を守るために切腹を行う武士もまさにこの思想で生きていると思います。翻ってぼくらの世代、およびそれより若い世代の世界観は、一言で言うと「ドラクエ的世界観」ではないか。と思います。ドラクエの世界は、「ロールプレイングゲーム」と銘打ってますが、基本的には「自分だけのために世の中が存在する」世界です。世界が都合よく自分のために用意されている。(なぜ武器屋と道具屋と宿屋が都合よく一つずつその町にあるのか?とか)その用意された世界を、用意されたのルールにのっとって、いかに効率的に(あるいは効果的に)エンディング(ゴール)を目指すか?というゲームです。そのシナリオ上の進み具合を「敵をどれだけ倒したか(=経験値をどれだけ稼いだか)」や「シナリオのどの段階まで進んだか」ということで表します。「点を稼ぐ」「自分にとっては未知だが、既に用意されてるシナリオを自分にとって既知のものにしていく」という作業は、要するに、主人公が「いかに多くをGetできたか」という発想です。より多くのものをGetできたらそれだけGoodということになります。そこには、「価値観の葛藤」とか「ここは(ギブ&テイクで)ギブする場面だが、気に入らない」とか「自分に与えられた『役割』は何か」みたいなことで悩む余地があまりないわけです。あるいは、世界と(他者と)の相互作用も無いですね。自分が世の中に対して影響を与えるとか、世の中から影響を受けるとか、そういう発想にならない。で、コンサル時代も含め多くの就職活動中の学生や、転職希望の若手の話を聞くと、この「ドラクエ的世界観」の発想の域を出ない人が本当に多いと思います。「自分はコンサルで知識や知識をつけて(=経験値をためてレベルアップして)、ゆくゆくは起業したい」とか「IPOして金持ちになりたい」そして、「事業会社とコンサルでは、どちらが起業するのにいいですか?」という発想になる。自分は世の中に対してどういう貢献をしたいのか?とか、自分の生きがいは何なのか?とか、自分にとって(お金より)重要な価値観は何なのか?とか、何に自分のプライドを感じるのか?という話があまりでてこない。倫理、とか、高貴さが出てくる幕が無い。「なぜ起業したいの?」「お金持ちになって、そのお金をどう使うの?」と聞くと、答えられない人が多い。ドラクエで「なぜ『ロトの剣』を探さないといけないの?」とか「なぜレベル上げしないといけないの?」という質問をされたかのような感覚なのだと思います。じゃぁ「ドラクエ」に変わる世界観・価値観に当たるものは何か?というと、実際的に機能するものとしては、なかなか無いなぁ・・・。と思います。一番近いのは、社会人になったときの、新人教育、ですかね?それも会社によって濃淡がありそうです。自分に子供ができたとして、子供にどういう世界観のもとに、価値教育・倫理教育が出来るのかな?と考えてみると、何も浮かばないですね。。難しい問題だなぁ、と思います。
2006/09/14
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武士道の続きですね。(本日の内容は、書いてみて日本史の教養が少しでもある人には当たり前の内容の気がしました。ぼくにとっては断片的な知識の整理にもなりましたし、「なるほど」というのは多かったのですが。)『士農工商が分かれていても、それほどの「階級闘争」が起こらずに済んだのはなぜか。士農工商の中で、「商」が一番下に来て、「士」と「商」が分離していたのはなぜか。というあたりのヒントになりそうなことも書いてありました。』の続きですね。これについては、武士道が「名誉」を何よりも重んじており、「名誉」を「富を得る」ことようりもはるかに大事なものと、考えていたため、ということになろうかと思います。「武士道」の本の中に、『武士道は非経済的である。それは貧困を誇る。』あるいは、『武士の徳たる名誉心は、利益を得て汚名を被るよりむしろ損失を選ぶ』あるいは『金銭なく価格なくしてのみなされうる仕事があることを、武士道は信じた』といった言葉が出てきますその結果、モンテスキュー指摘した「貴族を商業より遠ざくることは権力者への富の集積を予防するものとして、賞賛されるべき社会政策」が実現したのだと思います。重要なのは、「名誉」が「富の集積」を伴わずに、維持された、ということだと思います。「富」や「権力」よりも「名誉」を重んじる思想は強く、武士の特権であり名誉の象徴である刀についてすら、その濫用は不名誉なこととされました。『場合を心得ずに刀を用いたものは、卑怯者・大法螺吹きと蔑まれた』そうです。刀を持つという「権力」よりも、刀をうまくつかう「技」よりも、適切な場面で刀を使う「倫理」を重んじた、ということですね。このように、「金銭よりも大事な守るべきもの(=道徳・倫理規範)」を持っていて、それを厳格に守っていたから、武士が「支配階級」ではなく、一つの役割としてうまく機能していたのだと思います。つまり、武士は「支配階級」ではなく、「道徳・倫理を受け持つ」階級という位置づけが機能していたのではないかと。(ちょうど農民が「食い扶持を作る」役割を担う階級であったように)それぞれの受け持つ範囲が違ったので、階級闘争が起こらなかったのではなかったのではないかと。その中で、商業は、「自由な状態(=最も倫理・道徳から遠い状態)」の職業だったために、富が集まっても最も蔑まれた、ということですね。自由である=狡猾さ・駆け引き等が是とされる、と考えられていたようです。と、武士についての倫理・体系について読んでみて感じたのは、「今の日本をどう考えればよいか?」ということです。現在は「商業の時代」といえるかもしれません。武士なる身分もなくなっています。騎士道も武士道も実態として機能しなくなっています武士道の終焉とともに、日本人の「道徳観」「倫理観」も失ってしまったのではないか?と、思わず考えてしまいます。新渡戸氏が指摘するように、「ヨーロッパの騎士道は、封建制度から乳離れしたときに、キリスト教の養うところとなって寿命を延ばした」が「日本においてはこれを養育する大宗教が無い」ということになります。つまり、騎士道はキリスト教に引き継がれたのに、武士道は何にも引き継がれなかった。ということですね。現在の日本に、「武士道」に変わる、道徳観、倫理教育の体系があるのか?もともとの武士道の興り・騎士道の興りは、人間の社会が、弱肉強食で武力の強い人々が弱い人々を支配する世界に対して、「それでは獣と変わらないではないか。人間としての高貴さはどこにあるのか」ということで、力を持つものこそが、従うべき規律・道徳観があるのではないか。ということが発端だろうと考えられます。武力を持ったものが偉いのではなく、武力を持ちながらそれを濫用しない、高貴な精神を持つ、ことが尊敬を集める。という考え方ですね。(ノブレス・オブリージュの考え方ですね。)で、現在の社会を見ると、「武力による弱肉強食」が、「商売による弱肉強食」に変わっただけで、基本的な「人間の高貴さ」については、「武士道」が有効に機能していた時代に比べて、かえって退行しているのではないか。とも言えます。武力が強いものが弱いものを従えて、弱いものの生きる尊厳を奪う。という行為と、ビジネスで成功したものが、ビジネスで成功しなかったもの(もしくはチャンスを与えられないもの)を従えて、彼らの生きる尊厳をうばう。という行為に、本質的になんら変わりはないのではないかと。(ホリエモンが、あれだけ露出度が高くても、殆ど尊敬を集めなかったのは、かれの価値観に「高貴さ」が全く感じられなかったからではないかと思っています)結果的に、新渡戸氏の著作が出てから約100年を経て、冒頭のラヴレー氏の「日本には宗教教育は無いのか。宗教教育が無いとすれば、どうやって道徳教育するのか」という問いに対して、今の日本は再び答えを持ち合わせなくなってしまったのではないか。。そんなことを感じました。
2006/09/05
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今年後半に読んだ本については、年末か年明けにまた、まとめて総括をすることにしますが (案の定、グロービスが始まってから読書ペースがガタ落ちです。仕方無いですが。)最近読んで、特に考えさせられた本を紹介しようかと思います。ご紹介といいつつ、誰もが知っている作品だと思いますが、「武士道」新渡戸稲造です。5千円札の顔になったときも、「ラスト・サムライ」が流行ったときも、それ以前も、恥ずかしながら「武士道」を手に取ることがなかったので、今回初めて読みました。(ちなみにきっかけは、続けざまに全く別の2人の知人「武士道」の話が出た+読んでいた本にも出てきた、ということです。こういう偶然・きっかけがあると、ぼく自身は「これは、『武士道を読め』ということだな」と勝手に解釈してしまうようです)で、読んでみたのですが、これは実に良い。ビジネスに携わる全ての日本人にオススメです。(ちょっと飛躍した感想ですが)日本人の「道徳観」「倫理観」を再度確認し、日本人であることに少し誇りを持てる本だと思います。(少なくともぼく自身はそう感じました)そもそもこの本が書かれたきっかけが奮ってます。新渡戸氏が、外国人(ベルギーの法学の大家、ド・ラヴレー氏)と話をしていて宗教の話になったことをきっかけにしています。ラヴレー氏に、「日本には宗教教育は無いのか」と聞かれ「無い」と答えると、「では、どうやって道徳教育をしているのか」(どうやって『倫理』を教えるのか、と言い換えてもよいかもしれないですね)と聞かれた。(日本に道徳教育が無いとすれば、日本は野蛮国ではないか、という考えがその質問の根底にあるわけですが)その疑問に対して、日本では特定の宗教教育は無いが、日本には武士道というものがあり、それが道徳教育の根幹をなしている。ということを答えるために書かれたものです。驚くべきは、原著は英語で書かれたものである、という点です。新渡戸氏が英語で書いたものを日本語訳したものが岩波文庫等から出ているわけです。書かれている内容は、■武士道が大事にする価値観・道徳観はどのようなものか。■それが、欧米のキリスト教に基づく道徳観と、どの点で同じで、どの点で異なっているのか。■欧米人には、一見奇異に見える日本人の行為(切腹、仇討ち、公の場で自らの家族を卑下すること、へりくだること、贈り物をするときに「つまらないものです」と言うこと)にどのような意味があるのかということを明快に、キリスト教の教えなどと比較しながらといていきます。本書に書かれている内容を一言で言うと、■武士道は、道徳観という点で欧米にとってのキリスト教と同じような役割を果たしている。欧米人にとって一見奇異に見える日本人の振る舞いについても、実はキリスト教等の欧米の道徳観と同じような思想が、日本独特の形で現れているに過ぎないケースが殆どである。ということになろうかと思います。例えば、(これは言い古された例かもしれませんが、『武士道』に出てくる事例なので)贈り物をするときに、欧米的には、「これはすばらしい贈り物です」ということを言いながら贈る。「これは善い贈物です。善いものでなければ、私はあえてこれを君に贈りません。善き物以外の物を君に贈るのは侮辱ですから」」という考え方です。武士道では、「つまらない贈り物です」と言いながら贈る。「君は善い方です、いかなる善き物も君にはふさわしくありません。君の足下にいかなる物を置いても、私の好意の記(しるし)として以外にはそれを受取りたまわないでしょう。この品物をば物自身の価値の故にでなく、記として受取ってください。最善の贈物でも、それをば君にふさわしきほどに善いと呼ぶことは、君の価値に対する侮辱であります」という考え方です。相手を立てる、ということでは両者全く同じなのですが、相手の立て方がまったく逆なわけです。そんな感じで、「このくらいのことは、日本人として当然知っていて、外国人に対して説明できてしかるべきだね」という考え方がたくさん出てきます。もう一つ。士農工商が分かれていても、それほどの「階級闘争」が起こらずに済んだのはなぜか。士農工商の中で、「商」が一番下に来て、「士」と「商」が分離していたのはなぜか。というあたりのヒントになりそうなことも書いてありました。これについては次回、書こうと思います。
2006/09/03
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「自分は、何にどのくらい時間を使っているのか?」ということを、ちょうど1年前に測定してみたのですが、そのときやってみた結果、かなりいろいろと発見がありましたので、定期的に続けています。現在でもだいたい半年に一度、3週間にわたって、24時間、何時から何時まで何をしていたか、ということを記録しています。(初めて行ったときのことは、こことここに記載してます。2度目は、今年2月に行ったのですが、集計結果をブログにUpする前にパソコンが飛んでしまったので詳細わからずじまい・・・)というわけで、7月下旬から8月上旬にかけて3週間、また自分の時間の使い方の中身を計測してみました。で、記録して集計してみた結果ですが、時間の使い方については、一年前に比べて多少マシになった部分(仕事に慣れたことによるものが大きい)と、大して変わらない部分(集中力とか自分の調子をマネージするのが下手である)がありましたので、ここに書きとめておきます。集計結果を簡単にまとめると:■平日は、会社にいる時間が、約11時間/日 (これは昨年の測定結果と変わらず)そのうち、■「価値を出している」と自分で認識できる時間は、約5時間です。昨年は約3.5時間でしたので、「価値を出す時間」の確保には昨年よりは成功しているかなと、いうところですが、それでも、会社にいる時間のうち、半分以上は「価値を出していない≒ムダにしている」ということになります。昨年よりも「価値を出している」時間が増えた理由は、自分の集中力が増した、というよりは、「無駄な会議・話に奪われる時間が減った」ということになろうかと思います。入社してだいぶ時間もたちましたので、その辺の見極めもが上手になったことと、社内での認知度が多少なりとも向上したことによって、仕切りの自由度が増したのが原因です。■一方で、「価値を出す」ことなく消えてしまっている時間が 約6時間/日ある。ということになりますが、その内訳は、・ムダな会議 :0.5時間・ムダではないが自らが価値を出していない会議:0.5時間・昼休みなどの休憩 :1時間・仕事上の雑用 :1時間・ただ悩んでるだけの時間:0.5時間・集中できてない時間:2.5時間そんな感じでした。気になるのが、「ただ悩んでるだけの時間:0.5時間」と「集中できていない時間:2.5時間」ですね。「はっ、気がついたら30分たってるけど、全く仕事に関係ないこと考えてた」とか「はっ、ついついYahooのニュースをはしごしていたら40分たっちゃった」とか相変わらずそんなことにずいぶんと時間を使ってるのだなぁ。ということに愕然とします。人間が一日に集中できる時間は、限られているでしょうから、「そういうことをしてはいけない」と自分にムチを打ってみてもそんなに効果は期待できないですね。コンサル時代の方が、一日当たりに求められるアウトプットの量は多かったですが、そんなコンサル時代も、「ただ悩んでるだけの時間」「集中できてない時間」は同じくらい(場合によってはそれ以上)あったように思います。その分を労働時間を延長して(=睡眠時間や食事の時間を削って)アウトプットを出していたのではないかと。なので、「もっとがんばる」みたいな精神論だけでは不十分で、仕事のやり方や外部環境の設定を工夫する必要がありそうです。例えば、ちょっとした工夫で「ずるずると意味の無い時間をすごす」ことを回避できないか、とかですね。「気がつくと過ぎ去ってしまった30分」にハッとして我に返ると、(なぜ、30分経ってしまったとわかるかというと、例えば 『17:45~18:15 ○○会議の資料作成』と記録をしてみて、気がついたら18:45になっていたりするからです)30分休憩しようと思ったわけでもなんでもなく、ただ「仕事がひと段落ついたので、ふとYahooニュースを見てしまった」ことが原因だったりします。「特に見たいわけでもないのに、ついクリックしてしまう」(特に食べたいわけでもないのに、口寂しさからついお菓子を口に運んでしまう、みたいな)という動作を抑止するだけで、インターネットに消えていく時間はずいぶん減るように思います。あるいは、15分くらいで強制的にインターネットエクスプローラーが終了するとか、いうことがあったりすると「我に返る」時間が早くなるかもしれません。ちょっと対策を自分なりに考えてみる必要があるな、と考えているところです。もう一つは、「体調が悪い/仕事の調子が悪い時に、ムリをしない」ということもあるのかなぁ、と思います。「この仕事は、今日のうちにここまで進めておくと、あとがラクだ。でも今日は体調が悪くて眠い(あるいは調子が出ない)」とか「本当はAの仕事の方が興味があり、やりたいのだが、先に手をつける『べき』なのはBの仕事の方だ」というときに、・調子の乗らない仕事を思い切ってやめて見る。とか、・(やるべき方の仕事ではなく)本当にやりたい方の仕事に没頭してみる、ということも重要だったりするのではないかと思います。結果的に、「今日のうちに仕事を進めておくとラク」とわかっていても、ついつい体調が悪かったりして、だらだらと時間をすごしてしまえば、仕事は進まないまま時間だけが過ぎていくし、「Aの仕事を気にしながら、『やるべきだ』という理由だけでBの仕事に向かう」ということをしても、「結局Aの仕事(やりたい方の仕事)のアイデアが出てきたりいろいろ気になったりして、Bの仕事には集中できなかった」みたいな形で、時間を無駄にすることも非常に多いので。「今日はこれ以上この仕事に時間を使っても意味のある結果は出ないだろう」とか「今の自分の体調や精神状態ではいい仕事は出来ないだろう」という見極めも重要ですね。株式投資の「損切り」みたいなものですが、自分の体と相談することがもっと上手になると、時間の使い方も改善しますね。いずれにせよ、時間測定はいろいろな意味で自分を知るよい機会になります。毎日、自分が何をやったかを逐一記述している間にもいろいろな発見がありますし、あとで集計してみても発見が多いです。最大の発見は、「自分がどんなことにどの程度時間を使っているか、ということは、実は驚くほど把握できていない」ということ。これは多分、ぼくだけではないと思います。その証拠に昨日、何時から何時まで、何をしていたか、一つずつ思い出してみるとよいと思います。殆ど何も思い出せないと思います。 (「職場では一日机に座っていた」ということは思い出せても、「何時から何時まで」(30分単位)「○○宛てにメールを書いていた」とか「○○の資料の推敲をしていた」とか、そんなレベルまでは殆ど思い出せないと思います。)そんなわけで時間測定、「生産性を上げたい」と思ってる方全員にオススメです。もしご興味あれば、ぼくが集計に使ったExcelシートお見せしますし。:ものすごく簡単なつくりです。(あ、中身のデータは見せないですが・・)次回は、仕事上の資料作成のアウトプットの生産性を、もう少しきちんと測定できる方法を考えようと思います。「このパワーポイントスライドを作るのに、結局何時間かかったのか」「この3週間で、結局仕事で何を成し遂げたのか」ということがもう少し定量的にわかるような形を考えようかなと。
2006/08/30
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夏休みをとっていて、すっかり更新が滞ってしまいました。まとめを書かなくては、です。------------------------------------社員のモチベーションを高めるために、従来型の「アメとムチ」に変わる仕組みとしてどのようなものが考えられるか。前回の「支えられ」「課題を与えられ」「理解され」「才能が許す限り大きな成功に導かれ」のそれぞれで、従業員のモチベーションを高めることに成功している企業が何をやっているか、私の知っている事例をまとめてみました。■支えられ = 従業員が「支えられている」という安心感・信頼感を与える仕組みです。大きく分けると、成功している企業は2つのことをしているように思います。一つは「支える」ということを管理職の役割として明示し、それを管理職の評価項目とする、ということです。例えば、コンサルファームのマッキンゼーでは、「部下を育てる」ということをマネジャーの明確な役割として求めており、これが出来ない人は昇進が出来ない。どんなに分析の切れ味がすごくても、顧客受けが良くても、プロジェクトの段取りが上手でも、部下を育てられず部下から支持されないマネジャーは昇進できない、という原則があり、その原則を厳しく貫いています。もう一つは、「この価値観・行動様式を守る限り、会社として従業員を全面的にサポートします」ということを明示するということ。リクルートやGE等、「カルチャーの強い」企業は、どこでもこの仕組みを入れているように思います。「価値観・行動様式」については、当たり前ですが、「我々はこういう価値観・行動様式を奨励します」ということを従業員に押し付けるだけではダメで、経営陣から一般社員まで全員が基本動作として実行できていないといけない。例えばリクルートでは、営業マンは契約を取れた時と通常の時では、外回りから戻ってきたときに、入る入り口が違うそうです。で、契約が取れたときに入る入り口にはクス球があって、それを割って戻ってくる。社内にいる人は、全員その契約を取れた営業マンを祝うそうです。(もしかしたらリクルート全社ではなく、特定の部署だけの話かもしれませんが)そんなことを、組織のトップから一般社員までもが大真面目にやるので、「元気」「エネルギーレベルを高める」「積極的」「挑戦する」というような価値観を浸透させられているのではないかと思います。上記2つの方法に共通するのは、「従業員=評価される側」「管理職・上司=評価する側」という対立の構図にならないように注力しているという点です。この構図を作らないことに成功している企業は、従業員に「支えられ」という感覚が根付いているように思います。■課題を与えられ = 課題(=目標)を与える「課題」というからには、課題が達成できたかどうかを図る「成果指標」がやはり必要です。しかも、個人のレベルで「自分でがんばれば何とかできる」と思える指標でなければならない (例:全社の営業利益、なんて目標ではダメ)。事業会社に転職して意外だったのは、「課題を与られている」組織や個人が思いのほか少ないことです。大半の人・組織が「昨日までやっていた作業を、今日も失敗無く繰り返す」ことがその組織・人の役割になってしまっています。それではモチベーションが上がりようもないですね。しかし、「成果主義」でうまく行っている例が極めて稀なことからもわかるように、単に指標を与えて、それで評価するということだけではダメなのでしょう。運用の工夫が必要なようです。これも2つの工夫がありそうです。一つ目は、「成果指標」を「個人の成果指標」とせず「チームで共通の成果指標を持つ」ということです。チームの成果指標+個人の行動評価、という形で評価する方法です。これによって、チームで実績を上げるための協力関係を構築できるとともに、上司=評価する側、部下=評価される側という対立の構図を回避する工夫です。(チームの評価が直接部下に影響するので、管理職は大変になりますが)この方法で成功しているのは、ニューコア(米国の製鉄会社)などです。もう一つは、成果とプロセスを組み合わせた上で、成果よりもプロセスや行動規範の評価を重視するという方法。GEは、GEバリューをどれだけ守ったか、をどの程度の業績を上げたか、よりも重視する、というのは有名な例です。■理解され = フィードバックの納得性を上げるフィードバックの頻度と質を上げるということになりますが、これについてはよい事例が見当たりませんでした。ただ単に部下へのフィードバックの頻度を上げても、尊敬できない上司からのフィードバックの頻度が増えても迷惑なだけですから、基本的には「尊敬できる上司」をたくさん作るしかない。で、これに成功している企業は、「部下に尊敬されない上司」を排除していく仕組みがうまく出来ているように思います。上記のマッキンゼーの例のように。ただ、鶏が先か卵が先か、みたいな議論になってしまいますので、いまいち説得力がありませんね。。。あとは、「従業員がモノ申せる仕組み」を作ることも重要かもしれません。よくあるフリーエージェント制のように部下が手を上げられる仕組みを作り、「手を上げる」ことが従業員自身のリスク・ペナルティにならないように整備するということですね。これもソニーやGEやリクルートが腐心しているように思います。「従業員がモノ申す仕組み」として、組織としてのモチベーションの高さを調査してチェックする方法もあります。例えば、あるコンサルファームでは、国別に従業員の満足度を調査し、従業員のロイヤリティの高さを国際間比較・時系列比較することで、問題のある拠点については従業員満足度の改善をトップの最優先課題として取り上げているということをやっているようです。それ以外に「理解され」に意外に重要なのが、ノミニュケーションではないかと。組織の規律の強い会社ほど、実は飲み会でのコミュニケーションの密度が濃いのではないか、という気がします。(検証したわけではないので、事実かわかりませんが)、■才能が許す限り大きな成功に導かれ = 「成功」の感覚を共有これについても、適切な事例が思い浮かびませんでしたが、「成功」の感覚を組織で共有できていることが重要かなと思います。これも2つあって、1つ目は「会社・組織として成功している」(勝ち馬に乗っている)という風に従業員が感じられること、2つ目は「この会社で成功している人」というロールモデルが明確なこと、です。これも、鶏が先か卵が先か、みたいなもので、どうすれば実現できるのか難しいところですが。。まとめると、●「上司=査定する人・評価する人」「部下=査定される人・評価される人」という構図を可能な限り減らし、部下と上司の協力関係・チームとしての協力関係の構築する工夫をする、●「この行動様式・価値観に従え」という、誰にでもわかる基準を作り、浸透させる●従業員にモノを申す機会を折に触れ与える。そんなところですかね。これ全部やろうとすると、管理職・経営陣がものすごく大変になる(要求されることがものすごく増える)のですが、人の上に立つ人はこのくらい要求されて当然なのかもしれませんね。-------------------------------------------とまぁ、現在持っている知識・問題意識で書いてみましたが、テーマ選定に失敗しました。。テーマが広すぎて、その割りに自分の手持ちのネタが少なすぎました。。。特に、実体験に基づく語りが出来ないのが致命的でした。しかし、本件については今の会社で継続的に取り組んでいかなければならないテーマですので、また経験・知識の引き出しが増えた段階で、(あるいは、「より焦点・論点を絞り込んだ」問題意識が出てきた段階で)またチャレンジしてみようかと思います。
2006/08/28
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モチベーションの話の続きです。前回二回は、基本的には「アメとムチは本質的なモチベーションの向上策としては機能しないのではないか?」ということを書いてきました。で、「だったらどうすればよいのか?」書いてみました、がまた終わりませんでした。。。以下、書いている途中ですが、なかなか一般論以上のことはなかなか言えなかったですね。このテーマについては、自分自身のテーマとして、しばらく考えてみる必要がありそうです。-------------------------------------------------部下・社員のモチベーションを発揮するためにどうすればよいか?ということについて、一番しっくりいく表現は、以前紹介したマーカス・バキンガムの『最高のリーダー、マネジャーがいつも考えているたったひとつのこと 』に出てきました。『部下は、支えられ、課題を与えられ、理解され、才能が許す限り大きな成功へ導かれると感じて、初めて全力を尽くしたいと思うものだ。』という言葉です。自分が前職でモチベーションが非常に高かった時の状況を思い返してみても、この項目に当てはめることが出来るようです。具体的には、■支えられ = 基本的には上司やチームメンバーが何かあったときに相談できる関係であったように思います。「こんなことを相談したら怒られるのではないか」とか「悪い評価をもらうのではないか」といった心配をあまりすることなく、プロジェクトの課題に取り組めたように思います。■課題を与えられ = プロジェクトそのものが、多くの場合挑戦的で、知的欲求を満足するものでした。中には「定型パッケージ」のようなプロジェクトもありましたが、多くの場合『楽しい』課題のある立場で仕事をさせてもらったと思います。■理解され = 仕事ぶりについては、まず顧客の反応を見ることで仕事が役に立っているかどうか、明確に(如実に)わかりました。これが「いい仕事」をしたときに「理解される」部分でした。一方、不本意な場合でもプロジェクトが終わった時点で、フィードバックをもらいながら、反省会をする中で、自分が何に苦しんでいたのか、吐き出す場面があった、ということはあったと思います。■才能が許す限り大きな成功に導かれ = 成功を感じる機会として、顧客の反応をダイレクトに見る機会以外に、意外と有効だったのは新卒の採用担当をやっていたことだと思います。就職活動をしている学生に対して、自分の仕事振りを語ることで(学生は感化されやすいというのもありますので)「学生時代に比べたら、ずいぶんと成長できたし、いろいろな経験ができてるなぁ」ということを実感する機会がありました。そんな具合に、支えられ・課題を与えられ・理解され・才能が許す限り大きな成功に導かれる、ということが実感できる環境にいたと思います。(その後いろいろあって、必ずしもずっと万全だったわけではありませんが)いずれにせよ、「アメ」もなかったですし(もちろん、他業種よりも多めに給料がいただける、ということはそれはそれで重要な要素ではありますが、「もっとがんばったら、いくらボーナスをやる」みたいなことはなかったですし、あったとしても全くモチベーションにはならなかったですね。人より早く昇進するというモチベーションもありませんでした。「ムチ」も、会社としてはパフォーマンスがあがらない人には居づらい雰囲気があったと思いますが、ぼく個人としては新卒の一期生という恵まれた環境にいたこともあり、「ムチ」を意識することは殆どありませんでした。こうして考えてみると、「自分が大事にされている(あるいは、居場所がある)」ということの方が、アメやらムチやらよりも、はるかに重要だったのではないかと思ったりします。以前紹介した、「組織開発ハンドブック」にも同様のことが書いてあって、現在のように、仕事が定義しづらくなってきて、仕事の「始まり」「終わり」あるいは「成果」を測定しづらい環境では、「自己効力感」(=目の前の出来事に対する自分の効力が信じられる状態)が重要である、とありました。(心理学者のバンデューラ氏が提唱した概念だそうです)では、上記のような「支えられ・課題を与えられ・理解され・才能の許す限り大きな成功に導かれる」ために企業として、どんな仕掛けが考えられるか、ということも書く必要がありますが(というかこれが本題ですが)これは次回にします。
2006/08/17
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モチベーションのハナシを書きかけているのですが、最後のオチがなかなか決まらずに時間だけが過ぎて行きそうですので、ここで一つ違う話題をUpします。(あ、モチベーションは最後まで書き上げるつもりです。必ず。)今回は違う話。前職の時にも感じたことですし、今の会社に来てもよく感じることなのですが、「自分がパシリ(=誰かの部下)だったときに抱えていた問題は、自分が上司(=部下を持つ立場)になっても、相変わらず自分の問題であり続ける」ということです。別の言い方をすれば、「今の自分の不満とか、面白くないこととか、うまく行かないこととか、自分が認識する課題とかは、昇進したり権限が増えたりすることによって解決することは殆ど無い」ということです。身近な例で言うと、「上司はみんなアホだ。経営はみんなアホだ」という人は、多分部下を預かる立場になっても、「部下はどいつもこいつも使えない」ということになるに違いないし、「上司との距離感をうめて上司を自分の味方につけることが苦手」という人は、多分部下を預かる立場になっても、「部下との距離感」に苦労するのではないかと思います。「俺なんか権限が無いから、どうせ何をやっても変わらない」という人は、権限をもらっても「こんな景気じゃ、どうせ何をやっても変わらない」という理由で、せっかくの権限を行使せずに言い訳ばっかりしているだろうなと思います。ぼく自身のことで言えば、「その場を丸く収める」ことを重要視してしまい、ついつい自分の意見を言うのを躊躇して、後になってガマンの限界が来たところで、爆発する、ということが多い。これは、上司にとっても部下にとっても「ダメなものはダメと、先に言ってくれれば対処のしようもあったのに」ということになります。「本心では何を考えているかわからない」とか、「人当たりはソフトなのに、人を見る目は辛らつ(つまり腹黒い)」という評価にもつながります。。あとは、自分自身について続けると、自分から何でも積極的に働きかけるというよりは、「変化の兆しがあるまでガマンして待つ」というスタイルはも、権限や裁量が増えても変わらないですね。以前は、積極的に動かないことを上司や先輩に咎められると、「ぼくが言っても・・・ペイペイだし」みたいなことがやらない理由の根底にあったように思いますが、多少会社内でのポジションがあがっても、行動様式は同じです。言い訳の根底にあるものは基本的には同じです。変わったことといえば、「言い訳をしないように」ということを意識的に自分に言い聞かせている点くらいでしょうか。考えてみれば当たり前の話で、上司だろうが部下だろうが日本人だろうが外人だろうが、コンサルタントだろうが製造業だろうが、社内だろうが社外だろうが「優秀な人」の比率も「イヤな奴」の比率も「ろくでもない奴」の比率も「まともな奴」の比率も「能力よりが評価されずに不当に身分の低い奴」の比率も「能力が無いのに分不相応に出世してる奴」の比率も殆ど変わらないように思います。(もちろん、コンサルと事業会社では「優秀」「まとも」等の定義が少し違ったりはしますが)であれば、昇進しようと権限が増えようと、本質的に自分をとりまく環境は変化しないわけですから、昇進・権限や環境の変化そのものが、問題を解決しないというのは当たり前ですね。逆に言えば、(ある瞬間に大きな自己変革を起こす、少数の例外を除けば)いい仕事をする人間というのは、どんな環境でもいい仕事をするし、不平を言う人間は、どんな環境でも不平を言うということだと思います。「自分自身は、いつも相似形の問題にぶちあたってばかりで、何も進歩してないではないか」ということのないように、たまに自分のやっていること、やってきたことを見返してみる必要がありますね。
2006/08/11
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前回からだいぶ時間が経ってしまいました。前回は、「アメとムチ」で本当に自分や他人のモチベーションを高めることは出来ないのではないか、ということを書きました。『組織開発ハンドブック』にも同様のことが書かれています。自分が普段考えていたこととも似ているので、書き留めておこうと思います。この本によると、「アメとムチ」がモチベーションの向上につながらない最大の理由は、これが長続きしないことである、とあります。アメは使えば使うほど効果が薄れますし、ムチも使えば使うほどムチとしての効力が減ってしまうし、使う量にも限度があります。例えば、代表的な「ムチ」の例として、成果の出ない人にペナルティを課したり、昇進を遅らせたりすることがありますが、この「ムチ」が有効に作用するのは全社員中でもほんの一握りの人ではないかと思います。ペナルティや昇進の遅れが「ムチ」として作用するためには、本人に前向きなモチベーションがあり、できれば会社に評価されたいという気持ちが強く、がんばれば評価されるだろうという確信がある場合だと思いますが、この3つの条件がそろっている社員がわずかしかいない。「ムチ」の対象となる社員の殆どは、既に「ダメ」という烙印を押されていたり、もとからやる気が無かったり、プライドが高くても「どうせ会社は自分のことを認めてくれない」という被害者意識があったりします。そういう社員に、追加で「ムチ」を打っても、さらに不信感や不満を増すことはあっても、「ムチを打たれないようにがんばろう」という気持ちになるケースは殆ど無いのではないかと思います。で、結局こういう「ムチ」の対象となる社員は、「ダメな状態」から「普通の状態」に戻るのではなく、「決定的にダメな状態」と「ダメな状態」の境界線を見極めて、最低限の努力で「決定的にダメな状態」を回避するモチベーションしか働かないのではないかと。一方「アメ」の代表的な例としては、昇給だとか、表彰だとか、早めの昇進だとか、ストックオプションだとかがありますが、実際に「金は多ければ多いほど良い」「昇進は早ければ早いほど良い」と考える社員はそれほど多くないのではないかと感じます。もちろん、一般論として、昇進や昇給やボーナスは良ければ良いに越したことはないわけですが、例えばそのために徹夜で仕事をするか、とか、上司の罵詈雑言に我慢できるか、とか、明らかに理不尽な仕事を嬉々としてやるか、とか、普通の人から見れば『このくらいで十分だろう』と思える仕事でもこだわり抜いて更なる高みを目指すとか、そういうことの原動力になる人は非常に少ないと思います。上記の本では、ハーツバーグの衛生要因理論というのが紹介されています。衛生要因とは、「不満足要因が満たされていない場合は不満となるが、十分だからといって満足にはつながらないもの」と定義されています。例えば、「レストランが汚い」というのはそれだけで不満要因になりますが、レストランがきれいになったからといって、それだけでは満足には結びつかない」みたいなものです。で、昇給や昇進やボーナスは、多くの社員にとってこの「衛生要因」ではないかと。ボーナスにしても給与にしても職場での地位にしても、最低限のものが無ければ満足には結びつかないが、それ以上のものになると効果がだんだん小さくなってしまう、ということではないかと。一方で「桁違いのアメ」があれば話は違うのではないか?という議論もあるかもしれません。例えばストックオプションみたいなものですね。しかし、ストックオプションもいろいろと問題があって「自分では殆ど全くコントロールできない『株価』という指数に依存する」「万が一全てがうまく行って、大きなキャピタルゲインを得ると、瞬間的に金持ちになってしまうので、それ以降はストックオプションがインセンティブとして働かなくなる」など、『インセンティブ』というよりも『宝くじ的ラッキーボーナス』の色彩が強いように思います。そんなわけで、「アメとムチ」でモチベーションを高めるということは、なかなか難しいのではないか、と最近考えるようになりました。じゃぁ、どうすればよいのか。ということについて、(書ければ)次回。
2006/08/08
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仕事の関係で、自分のモチベーション・従業員のモチベーションについて考える機会が増えました。現時点で、感じていること・最近読んだ本の情報など、とりあえずまとめておこうと思いました。自分に、あるいは(自分が経営者だとして)社員のモチベーションを向上させる方法として、最も典型的なのは「アメとムチ」です。心理学的には、人間はいい思い(これを「強化子」と言います)をしたときには、それを繰り返そうとし、嫌な思い(これを「弱子」と言います)をしたときにはこれを避けようとする。ということが知られてます。アメとムチは、基本的にこの「強化子」「弱子」の原理を応用したものです。つまり、「この課題をクリアするとご褒美」(強化子)、「この課題がクリアできなければ、叱る・ご褒美取り上げ」(弱子)という、ことを繰り返すことによって、自分・従業員の行動を誘導する、ということです。最近のぼくの疑問は「これで本当にモチベーションをコントロールすることが出来るのか」「どうもそうではないのではないか」ということです。つまり、「強化子」と「弱子」を駆使することで、自分や他人に「やりたくないこと」をさせることは出来ないのではないか?あるいは、「強化子」「弱子」を駆使することで、「やりたくないこと」が「やりたいこと」に変わったりすることはなかなか無いのではないか?というのが最近の思っていることです。「会社のレポート(資料)をここまで書き上げたら、休憩してコーヒーを飲みに行こう」とか、「今週一週間酒を我慢したら、『自分へのご褒美』に散財しよう」みたいなことが、自分で「アメとムチ」を使う場合のよくある方法です。「やりたくないこと」や「つらいこと」を我慢する・やり遂げる。その代わり、別の「ご褒美」を用意する。ということになる。しかし、「本質的にやりたくないこと」を我慢することを続けていると、内部には鬱憤がたまるので(例えば上の例で言えば、お酒は一週間は我慢できても、一ヶ月は我慢できない)同じアメとムチが長期的に使い続けることが出来ない。そして、何よりも「我慢してやっている」という状態を「嬉々としてやる」状態に変えることがなかなか出来ません。(例えば上の例で言えば、会社のレポート(資料)を書き上げるのに、ご褒美が必要な場合、『ものすごく魂のこもったレポート』に仕上がる可能性は限りなく低いですね)最近のモチベーション研究でも、同じようなことがいわれているようです。・・続きは次回
2006/07/26
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ネットサーフィンしていて見つけたのですが、Fortune誌の7月24日版の記事“Sorry Jack"(ごめんよ、ジャック)が話題になっているようです。Jackとはもちろん、あのジャック・ウェルチのことで、この記事の要旨を一言で言うと、「ジャック・ウェルチの唱えてきた経営コンセプトはもはや古くて、今日の優秀な経営者は、ジャック・ウェルチの唱えたものとは異なる新しい経営コンセプトに基づいて経営している」ということになります。「そういわれればまぁ、そうかなぁ」とも思いますが、だからといってジャックウェルチの顔に「×」をつけてしまうあたりが、アメリカ的というか演出好きだなぁ、と思いますね。そこまでやらんでも、という感じで。で、肝心の記事の中身ですが、ジャック・ウェルチの経営コンセプトで有名なものを7つ取り上げて、それらを否定して、新しい7つのコンセプトを打ち出しています。簡単に解説すると、以下です。(以下、 ×=ウェルチの経営コンセプト、 ○=今日の優秀な経営者の経営コンセプト です)1.×「大きいことは良いことだ(大きい犬が、道の主である)⇒○「敏捷であることが最も望ましい。大きいことは、弊害になることもある」Dellは、アウトソースや機能の外出しによって『業界の巨人』を出し抜いた。2.×「マーケットでは、1番か2番であれ。」⇒○「ニッチを見つけ、新しい価値を提供せよ」スターバックスCEO:「スターバックスは、コーヒー業界で1番になろうなんて思ったことは一度も無かった」3.×「株主のルール」⇒○「顧客が神様だ」ジェネンテックは、自らの企業の社会的な意義を明示するために、毎日『自社の薬を使っているガン患者の人数』を張り出している。4.×「リーン(筋肉質)であれ、扱いにくく(Mean)であれ」⇒○「外(世の中)を見よ、 中(社内)ではなく」シックス・シグマは、現状の改善に目が言ってしまい、全く新しい発想や革新的なアプローチがおろそかになる傾向がある。5.×「社員を評価せよ。Aクラス社員を重宝せよ」⇒○「情熱的な社員を採用せよ」企業のミッションを理解し・情熱を持つ社員がいないと、企業の舵取りをしようと思っても社員がついてこない。みんなが価値観を共有していない状態では、規模のメリットは逆にデメリットになってしまう」ゼロックスCEO6.×「カリスマのあるCEOを雇うこと」⇒○「勇気のあるCEOを雇うこと」勇気のあるCEOでなければ、現在の株式市場の短期志向と、企業のあるべき姿を両立するプレッシャーに耐えられない。7.×「私の意思の強さを尊敬せよ」⇒○「私の魂・精神・気構えを尊敬せよ」長期的利益・繁栄を犠牲にして、短期的利益を追求しないように、企業として・経営者としての魂・精神・気構えが求められる。とまぁ、こんな内容です。率直な感想としては、「上記記事の、○、×については、二者択一の問題ではなく、両立させるべきものである。」ということではないかと思います。そして、上記の「○」とされた「新しい経営コンセプト」の多くは、ジャック・ウェルチ時代のGEにおいても実践され、両立していた部分ではないかと感じました。実際、上記の"Sorry Jack"の記事の最後に、ジャック・ウェルチ自身の反論が出てまして、似たようなことを主張していました。それから、もう一つ思うのは「経営コンセプト」って、「どっちが正しくてどっちが間違っている」、というものでもないし、「今の流行はこれで、これはもう流行遅れ」というものでもないのではないかと。そうではなくて、「これ」と決めた経営コンセプトを愚直に徹底的に一貫性を持って追求して、その道を究めれば、どれも正解になりうるんではないかと。ぼく自身はそんな風に感じました。なので、ジャックの経営コンセプトが時代遅れなのではなく、どの時代にもいろいろな経営コンセプトがあり、そのどれもが正解になりうる、というのが正しい理解のしかたではないかと。(まぁ、そう解釈してしまうと、雑誌記事としては面白くもなんともないですが。)ちなみに、ジャック・ウェルチ時代のGEについての評価としては、トム・ピータースのブログ上のコメントが的を得ているように思いました。(って、この記事は トム・ピータースのブログで発見したものでした)つまり、・今回の○、×は、二者択一でなく両立するものである。 (これは私も同じ感想を持ちました)・GEの本当のすごさは、「Execution Animal」(実行の鬼である)ということである。奴らは、「やる」といったことは、絶対にどんなことがあってもやり遂げる。これこそが、GEの偉大さであり、強さである。その通りですね。(ちなみに、トム・ピータースによれば、このFortune記事が「新しい経営コンセプト」として取り上げているものの多くは、トム・ピータースの著作「エクセレント・カンパニー」で、20年以上前に取り上げたものである。ということで、ブログ上で狂喜しておりました。)
2006/07/19
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「ストレスフリーの仕事術」に出てきた言葉です。人は誰しも「夢想家の自分」と「実務家の自分」を持っている。夢想家とは、「あれやりたい、これやりたい、こうなりたい、ああなりたい」という「やりたい・なりたい」ことを考える人ですね。一方、実務家とは、「これをしなくては、あれをしなくては」という「やるべき・やらなくてはならない」ことを考える人です。で、人は誰しも「夢想家」の部分と「実務家」の部分の両方を持っているが、このバランスが非常にであると。(そして、このバランスをうまく保っている人は多くない、ということでもあろうかと、読んでいて感じました。)夢想家が強すぎると、「あれやりたい、これやりたい」ということはいろいろ考えるのだが、行動が伴わないので結果が出ない。で、「夢想」したものが一向に実現しないので、フラストレーションがたまる。一方、実務家が強すぎると、「あれをやらなければ、これをやらなければ」とやるべきことは着々と片付けるのだが、大事なことよりも目の前の雑事に忙殺されてしまい、「自分はこれでいいんだろうか?」というフラストレーションがたまる。「夢想家」と「実務家」とどちらが強いか、人によって違うでしょうが、ぼくの場合は圧倒的に「実務家」が強い。だから、「夢想家」の自分が何か言い出すと「実務家」の自分が「それはできない」とか「そんなこと考える前にこれやらなくては」という「いちゃもん」をつけ始めます。これはよくない。で、前述の「ストレスフリー・・・・」によると大事なのは「両方必要」であるということ。そして、「両方を同時に追い求めるのではなく、夢想家を徹底的に追い求める時間と、実務家を徹底的に追い求める時間を交互に作る」ということ、のようです。「夢想家」が一所懸命、「やりたいこと」のアイデア出しをしているときには、「実務家」に黙ってもらう。逆もまた然りですね。(ぼくの場合は「実務家」が出動しているときに「夢想家」がジャマをすることが殆どないので、気をつけるのはもっぱら前者ですが)で、「実務家に黙ってもらう」ためには、どうすればよいか?ということですが、僕の場合は、「黙ってもらう」のではなく、「先に実務家に語りたいだけ語らせてしまう」というアプローチの方が有効のようです。たとえば、ToDoリストを作るときもそうですが、「つめを切る」とか「郵便を出す」みたいな、「やらなくてはならないこと」の方がまず最初に圧倒的に気になってしまいます。(実務家領域ですね)これを「黙れ」とやっても、気になるものは気になるので、無理があるわけです。であれば、いっそのこと「気になるToDoを全て洗いざらい出してしまえ」と、長いリストを作る。そうすると「実務家」の自分は多少息切れしますので、そこで「で、なにをしたいんだっけ?」ということで、ようやく「夢想家」の自分が語り始める、という具合です。ぼくの場合、仕事でも「実務家」要素が強くて、仕事・プロジェクトの範囲(スコープ)が決まり、あとは着々とこなすだけ、となった瞬間から、俄然力が発揮されてきて、やるべきことが明確にイメージできてくるし、実施上のリスクなんかも事前にイメージできる。しかし逆に「好きにやっていいよ」と言われると不安になってしまい、かえって何もできなくなってしまう。この場合も、上記と同じアプローチで「自由にやる」まえに「やるべきと考えること・実務上不安なこと」を書き出しておくと、ある程度安心して「自由なスコープ」の中で泳げるような気がします。もう一つ発見したのは、日常生活や仕事が「とっちらかった状態」だと、いいアイデアは出ないということです。(少なくともぼくの場合は)「とっちらかった状態」とはつまり、「実務家の自分が気になる『やるべきこと』がたくさんありすぎる状態」ですから、そこで「さぁ新しいアイデアを」と言っても夢想家の言葉は完全にかき消されてしまう。そういう意味では、前職では少し忙しすぎて、とっちらかり状態が長すぎたかなぁと反省しています。あるいは、「とっちらかった状態」になっても「夢想家の自分」のアイデアを引き出す工夫をもう少ししてもよかったかなぁ、と思います。
2006/07/13
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前回の続きです。残り3冊のご紹介。■藤巻健史の5年後にお金持ちになる資産運用入門:藤巻健史■もっと深く、もっと楽しく:中部銀次郎上記2冊の本に共通するのは、世の中にある「テクニック論」を「意味が無い・やりすぎ」とバッサリと切り捨てている点です。前者は、株の銘柄を見て「この株は上がるか下がるか」ということを一所懸命分析しようとしている人に対して、それよりは、マクロな経済の動きを読んで、その動きに合わせて資産運用をするほうがはるかに重要である。と説きます。「A社の株とB社の株のどちらがもうかるか」とか「今買うべきか、来週まで様子を見るべきか」みたいなことを考えても大して儲けることはできない、と。むしろ、経済の大きな流れ(例:日本はこれから、デフレに向かうのか、インフレが起こるのか、円は強くなるのか弱くなるのか、など)を読んで、その流れによって恩恵を受ける銘柄を買う方がはるかに儲かる、ということです。多くの投資家・アナリストの見方があまりにも近視眼的である、ということにも警告を発しています。ともすると、株式銘柄選定のテクニック論に溺れがちなぼくにとっては、とても新鮮な考え方でした。少なくとも、自分なりのシナリオを持った上で、そのシナリオに即した投資をすべきだなぁ、と。(5月の日経平均下落で、ダメージを受けたときに読んだために、余計に印象に残ったのかもしれません。確かに、相場全体が下げているときは、どの銘柄を持っていても、大きなダメージを受けるものです)後者の本は、伝説のアマチュアゴルファーによる著作です。名前から勝手に、昭和初期の人だと決めつけていたのですが、ついこの間(2001年ですが)に亡くなった、最近の方でした。しかも、一介のサラリーマンだったんですね。びっくりです。中部氏の「ゴルフ論」は実に含蓄があります。「ゴルフ」という言葉を、「仕事」に置き換えても「人生」に置き換えても、中部氏の主張は力を持つと思います。中部氏の理論を一言で言うと「シンプルに」ということです。二言で言うと、「シンプルに、シンプルに。」ですね。-とにかくアマチュアゴルファーの多くは、できもしないのに技術論を語りすぎる。体格の数だけ正しいフォームがあるのにとか-難しいクラブを使う、ドライバーで遠くに飛ばす、という『見栄』にこだわりすぎる。ゴルフは『あがってなんぼ』だし『ミスをするのが避けられない』競技であって、したがって『いかに自分のミスを計算してそれに先回りして対応するか』という競技なのにというような考え方です。(すみません、例によって上記は正確な引用ではありません。)仕事でも大事な考え方だなぁ、と感じ入りました。もっとも、文中に”スコアメイク”ということばを使う以上は、どんなに悪くともラウンド130ストロークぐらいではプレーできるゴルファーを前提としている(それ以上のストロークを要する人を、ゴルファーとは呼ばない。ゴルフにハンディキャップが40までしかないことを考えてほしい)という表現が出てきます。その基準で言うと、ぼくは「ゴルファー以前」であり、この本が少なくともぼくのゴルフに役に立つのは、当面先の話になりそうですが。。。で、最後の一冊は、■ザ・ファシリテーター:森時彦これは、「ファシリタティブ・リーダー」つまり、周囲の人の意見を引き出しながら、意見をまとめていきながら、リーダーシップを発揮し、結果を残していくという方法論・リーダー像を小説・ケース仕立てで紹介した本です。ジャック・ウェルチ的、エネルギー出まくりの、「とにかうオレについてこい」的、「ジャマするやつはことごとく蹴散らしてやる」的、ダメなやつはバッサリ的、でない、リーダーシップ像もあるし、方法論もある、ということを紹介したものです。ぼく自身は、ジャック・ウェルチ的なリーダーシップのガラではないと思うし、ジャック・ウェルチのことを『確かにすごい人だし尊敬もするけど、ああはなりたくないし、ああいう上司も欲しくない』と思ってしまうので(笑)、「そうだな、こういうリーダー像を目標にすればよいのだな」ということが学べた点が大変よかったです。この本は、発売直後に本屋で見かけたのですが、そのときに見た装丁が、「ザ・ゴール」シリーズに似ていたので、「う、海外の売れた企画を日本人著者で真似た二番煎じだ。」と毛嫌いをしてしまい、実際に読むのが遅れたのが悔やまれます。。。というわけで、50冊強読んで、紹介したい本が5冊、というのはぼくとしては悪くないかなぁ。と感じました。今年の後半も、こんな感じでぼくの視野を広げてくれるような本に出合えることを祈ります。
2006/07/10
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以前紹介した、Checkpad.jpを使うことが習慣化してから、「思いついたもののリスト化」がだいぶ継続するようになりました。それまでは、いろいろなものの「リスト化」を試みてもだいたい途中で終わってしまっていました。。。今年に入ってから「今年読んだ本」をリスト化しています。6月30日現在、2006年の読了本は 54冊ですね。中には「きょうの猫村さん」みたいな、「それ1冊にカウントするか?」みたいなのも入っていますが、社会人になってから一番、数多くの本を読んだ半年であったのは間違えなさそうです。やはり通勤時間が長いというのもありますが、だいぶ読むスピードも速くなりました。このペースで行けば、「年間100冊」ということになるかな?とも思いますが、数を目標にしたとたん、「すぐに読める薄い本」に偏りそうなので、(あと、後半はグロービスも再開するので読むペースが落ちそうというのもあり)特に目標は定めません。ということで、上半期で特に印象に残った本を5冊簡単なメモ書きを残しておこうと思います。まずは、2冊■奇跡の経営:リカルド・セムラー■最高のリーダー、マネジャーがいつも考えているたったひとつのこと:マーカス・バッキンガム上記の2つは、ぼくのチーム運営に関する認識を大きく変えるきっかけになった本です。特に後者の、『最高のリーダー、マネジャーがいつも考えているたったひとつのこと』は、上半期に読んだ本の中で、一番の本でした。上半期で読んだ本の中で一冊選ぶとしたら、迷い無くこの本です。上記2つの本に共通する考え方は、「人間は、自分の好きなこと・強いこと・向いていることをやっているときに、一番集中力・実力を発揮する」及び、「人間を、ある特定の『型』に押し込めてしまうと、多くの場合その人の良さを消してしまう」ということです。別の言い方をすれば、「悪いところを直しても、『普通』に戻るだけで、『最高』には絶対にならない」ということです。非力な二塁手に、いくら筋トレさせても、ホームランを40本打つようには絶対にならない。それよりは、バントをしたり流し打ちをしたりファウルで粘ったり、いやらしい選手になることを目指したほうがよい、ということですね。言葉にすると「そりゃそうだ。それは当然だ。別に驚きは何も無い」ということになるのですが、一方で一方で自分の仕事ぶりを振り返ってみると、いかに「弱いところを普通に戻す」「人(特に他人)を、ある特定の『型』に押し込めようとする」「問題を修正することに、時間をかける」チーム運営をしていたか、ということに愕然としました。例えば、「出来の悪い人の『穴埋め』と、優秀な人の能力を『開放する』ことのどちらに時間を使っているか」「他の人に仕事振りについてフィードバックするときに、『伸ばすべきところ』と『克服すべき欠点』のどちらのフィードバックに時間を使っているか」「ルールを守ることと、個人の自由度を拡大することを天秤にかけたときに、迷わず『ルール』を選択していないか」などなど、反省するところが多々ありました。。。そもそも、多くの企業で用いられている、業績評価・社員の能力評価 の仕組みの多くが、「悪いところを直す」というところに注力しており、「強みを開放・拡大する」という視点が弱いのではないか?と感じました。 (今でも、大企業の殆どは『減点主義』ですし。)上記2冊は、そんな点で、自分の認識を改めるきっかけになった2冊でした。残りの3冊については、次回ご紹介ということで。
2006/07/09
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前回の続きです。(あ、ちなみに前回、余りにも図が見にくかったので、ちょっと図を変えてみました。あまり根本的な解決になってませんが。。。)《Step2 受信トレイにあるメールを全て、受信トレイ以外へ移動させる(受信トレイから無くす)》ここでの基本的な考え方は、以下の1文に集約されます。■各メールを、それぞれ「次にどんなアクションを取るべきか」によって、全てフォルダに収めていく。このルールをきっちり守ることが、ものすごく重要であり、ものすごく効果を生みます。そして、これをきっちり守ることで、「受信トレイ」に一通もメールが残らないはずです。以下が、メールの分類方法です。●「メールのタイプ」 ⇒ "分類先フォルダ"●「二度と見ないメール・ジャンクメール等」 ⇒ "ゴミ箱"●「返信の必要なメール」 ⇒ "@REPLY"●「自分が何かアクションをとらないといけないメール」 ⇒ "@ACTION"●「誰かのアクションを待っているメール」 ⇒ "@WAITING"●「特定の日に必要になるメール」 ⇒ "@CALENDAR"●「いつかやりたいな、いつか読み返したいな、というメール」 ⇒ "@SOMEDAY / MAYBE"●「上記以外のメール」 ⇒ "@TO STORAGE"以下、それぞれ具体的に解説しています。●「二度と見ないメール・ジャンクメール等」 ⇒ "ゴミ箱" (二度と見ないメールはきちんとゴミ箱に捨てましょう)●「返信の必要なメール」 ⇒ "@REPLY" (その名の通り、返信の必要なメールです。最初はとりあえず、「あ、返信しなきゃ」と思っても、いきなり返信せずに、まずは"@REPLY"のフォルダに入れましょう。これ、結構大事です)●「自分が何かアクションをとらないといけないメール」 ⇒ "@ACTION" (例えば、「○○やっておいて下さい」とお願いされたメールとか、本が紹介されていて「この本を買わなくては」と思ったメールとか、「この件について○○に連絡しておかなければ」みたいなメールがここに入ります。また、メルマガ等、「あとでじっくり読もう」みたいなメールも、自分が「読む」というアクションをとらなくてはならないメールですから、ここに入ります。基本的には、「すぐに」あるいは「近い将来」何らかのアクションをする必要がある、または意思があるメールが全てここに入ります。●「誰かのアクションを待っているメール」 ⇒ "@WAITING" (例えば、こちらからメールを打って相手の返信待ち、とかAmazonで本を注文した注文確認メールとか、 「○月○日までに回答します」みたいな回答待ちメールとか、そういうものをここに入れます。 将来場合によって問い合わせたり督促したりする可能性のあるメール、ということですね)●「特定の日にちに必要になるメール」 ⇒ "@CALENDAR" (例えば、飲み会の場所や連絡先が書いてあるメールなどですね。特定の日にちに必要になる情報が載っているメールです)●「いつかやりたいな、いつか読み返したいな、というメール」 ⇒ "@SOMEDAY / MAYBE" (例えば、「このレストラン、いつか行って見たい」とか「いつかこの国に旅行したい」とか、「いつかこの本を全て読破するぞ」とか、「いつかこの人と飲みに行こう」とか、近い将来でなく、いつやるという日付が決まらないけど、「そのうちやりたいこと」に関連するものが全てここに入ります。)●「上記以外のメール」 ⇒ "@TO STORAGE" (上記以外のメールとはつまり、「削除したくはないが、何もアクションを必要としないメール」ということになります。これは、「書庫行き」ということで、書庫行きフォルダにいきます。)上記の分類で、「全てのメールが」どこかの上記6つのフォルダ、またはゴミ箱に移動したはずです。従って受信トレイは、空になったはずです。上記のルールは、「受信して一度でも読んだメール全てに」適用されます。(←これ、大事)つまり、受信トレイは「未読メールしか無い」か、「何もない」か、であって、それ以外の状態は基本的にあってはいけない、ということです。すると、こんな風になる。かなりスッキリ「んー、ここまで出てるのに~」という人の名前を思い出す瞬間のような、便秘が解消されたような、そんな爽快感を味わうことができます。《Step3 具体的にアクションを取る》《Step3-a メールに返信する》上記の分類を正しく行っていれば、「返信の必要なメール」は、全て "@REPLY"のフォルダに入っています。ですので、このフォルダを開いて、各々のメールに対して片っ端から返信していきます。返信の終わったメールは、以下のルールでフォルダを移動します。●「相手からの返信が必要なメール」⇒ "@WAITING" (自分は返信したメールに対して、相手に返信してもらいたい場合は、@REPLY⇒@WAITINGとメールを移動させます。●「特にこれ以上やりとりを必要としないメール」⇒ "TO STORAGE" (本件、これ以上アクションを必要としないわけですから、"@TO STORAGE"に移動です。 もしくはもう必要ないと思えば削除でもかまいません)《Step3-b アクションを起こす》上記の分類を正しく行っていれば、「アクションの必要なメール」は、全て "@ACTION"のフォルダに入っています。ですので、このフォルダを開いて、各メールに付随するアクションを出来るものからやっていきます。アクションの完了したものについては、上記のルールに従って、 "@WAITING" や "@TO STORAGE" や ゴミ箱に移動させます。《Step3-c 相手待ちのメールをチェックする》相手待ちのメール "@WAITNG" は定期的にチェックして、こちらから再びアクションを起こす必要のあるもの(締め切りを過ぎているものの催促とか、途中で確認したいものとか、こちらから再び状況報告する必要のあるもの)については、アクションを起こします。逆に、相手からのアクションを待つ必要の無くなったもの (例:Amazonの本が届いた)ものは、上記ルールに従って、 "@TO STORAGE" や"@REPLY" や ゴミ箱 等にメールを移動します。《Step3-d 特定の日にちに必要となる情報をチェック》特定の日にちに必要な "@CALENDAR" は定期的にチェックして、必要な日にちにすぐに見られるようにします。メール以外に信頼できて習慣化している手帳等があれば、地図情報などはプリントアウトして、手帳に挟んでしまえば、メールの役割は終わりますので、"@TO STORAGE" や ゴミ箱 等にメールを移動します。《Step3-e 「いつかやりたい」ことをチェック》これはたまにで良いですが "@SOMEDAY/MAYBE" のメールは定期的に読み返し、「今すぐやりたい」と思うものが無いか、「もうやりたくなくなった」というものが無いか、ということを確認します。用済みになったものは、"@TO STORAGE" や ゴミ箱 等にメールを移動します。《Step3-f 「書庫行き」メールをちゃんと「書庫」にやる》上記をしばらく続けていると、"@TO STORAGE"フォルダにメールがたまっていきます。 これらのメールについては、本当は保存フォルダにきちんと収めたいですね。ですので、"@TO STORAGE"フォルダがある程度いっぱいになった段階で、このメールを一つずつ、"@STORAGE"の下のフォルダに移動させていきます。このときに、これまで自動仕訳ウィザードを使っていた人は、自動仕訳ウィザードを実行すると、作業がだいぶラクになります。自動仕訳ウィザードの項目をクリックするのではなく、「今すぐ実行」のボタンを押すと、"@TO STORAGE"フォルダにあるメールだけが、うまい具合に仕訳ルールに従って、格納したいフォルダに入っていきます。《Step4 その他》このメール処理の方法の唯一の欠点は、■受信メールをトリガーに全てのアクションを起こしている。という点です。(メール処理法だから当たり前なんですが)そのため、それ以外のトリガーでメールを打たなくてはならないケースなどは、この処理方法をいくら守っても、やはり忘れてしまいます。例えば、Aさん「○○さんに、お礼のメール打っておいて」ぼく 「わかった。」という場合は、結構な確率で忘れます。(きっかけが、受信メールではなく、Aさんの言葉なので。)こういう場合にどうしているか。「すぐに○○さんに、お礼のメールを打つ」というのがベストなんですが、そのための時間が取れないときは、とりあえず「自分宛にReminderメールを打つ」ということをしています。あとは、少し先にRemindしたいもの、あるいは定期的にRemindしたいもの、についてはOutlookの「指定日時以降に送信」のオプションを使ってメールを送ったりしています。まぁ、これはその他のTipsということで。いずれにせよ、騙されたと思って、やってみることをオススメします。「あ、メールしなきゃ。。。」みたいな、メールに関する「気の重さ」が、半減しますので。
2006/07/06
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