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知人のサイトに↓が紹介されていました。http://coaching-m.co.jp/payforward.htmちょっと、前振りが大げさで、構えてしまう気がしますが、(「結末については誰にも教えないで下さい」という前振りがあったので、途中でオチがわかってしまった「シックスセンス」のように)じんわりときました。自分は母親にちゃんと感謝の気持ちを伝えることができただろうか。父親にきちんと伝えられているだろうか。そんなことを思いました。
2006/01/22
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以前読んだ本で、将棋の羽生善治氏が、集中力について語っていたのですが、「一気に深い集中力には到達できない。水に潜るときにはゆっくりと、水圧に体を慣らしながら潜るように、集中力もだんだんと深めていかなければならない。そのステップを省略すると、深い集中の域に達することはできない。」とのだそうです。(例によって正確な引用ではありません。すみませんが。)また、「これ以上集中すると『もう元には戻れなくなってしまうのでは』とゾッとするような恐怖に襲われることもある」そうです。羽生がものすごく集中しているときの顔は「羽生にらみ」として恐れられているそうです。これだけ集中して、これだけ考え続けるので、プロの棋士は、一局対極をすると、体重が2~3キロ減るそうです。ずっと一箇所に座っているだけなのにそれだけ体重が減るということは、脳でものすごいエネルギーを使っているのでしょうね。全く別の心理学の調査では、「人間は意味のあることを考えるためには、8分間継続してそのことに取り組む必要がある」そうです。(これも正確な引用が手元にありません・・・。8分間という数字は覚えているのですが・・)要するに、「集中するには、じっとそのことを考える」ことが必要、ということのようですね。自分自身の仕事を振り返ると、最近「あぁ、集中して考えたな」と思うことが、非常に少ないな、と思います。メールソフトを開いて、インターネットのブラウザを立ち上げてしまうと、「ついつい」見てしまいますね。メールもニュースも、こちらの都合に関係なく不定期でやってきますから、こうやって「つなぎっぱなし状態」だと、集中度が少し高まっては中断されては・・・というのが続くわけです。もちろん『メールが来てもすぐに見ない』と決めればいいだけですが・・・。そこは意思が弱くてできないですね。。。集中して考えたい時は、PCの電源を落として、一人で会議室にしばらくこもる、ということが必要ですね。昔は、よくやっていました。そういえば、今の会社に転職してから、一番「よくできた」「密度が濃い」と思ったアウトプットは新幹線の中で骨格を作ったアウトプットでした。東京から広島までの道中、パソコンを持っていかなかったので、ずっと、紙とペンで格闘し続けたら、次々にブレークスルーがありました。新幹線の「適度に快適な空間がある」「景色が良くて閉塞感がない」「でもむやみに立ち歩けない」という環境が、集中力を生むようです。知人にも「新幹線の中が一番仕事がはかどる」という人は、何人かいます。毎日新幹線に乗るわけにもいきませんので、「PCを立ち上げない時間帯」を作る「会議室に(PCを持ち込まずに)一人でこもる」ということを、今まで以上に意識的にやっていかなければな。と思っています。ただ、本当に集中力を必要とする考え事が溜まってきたら、目的地なしで日帰りで新幹線に乗ろうかなぁ、とわりと真剣に考えてみたりしてます。※ちなみに、上記の羽生氏の本は、「決断力」羽生 善治 (著)です。
2006/01/20
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前回ご紹介した、『一歩先のシゴト力』から、もう一つ印象に残る言葉を引用します。エド・ハリスという、「アポロ13」「トルーマンショー」等に出演している俳優へのインタビューです。若手の俳優の卵たちがエド・ハリスに質問するというコーナーで、ある人がこう聞いたそうです。「売れなかった頃、売れる自分になるまで、どうやって自分を奮い立たせてがんばれたのか」それに対するエド・ハリスの答え『君の質問の答えになっていないかもしれないけど、芝居をやめてしまうヤツは、やめても生きていけるんだ』エド・ハリスの上記コメントでは、「食っていけなく」ても「生きていける」、逆に芝居以外の仕事で「食っていける」としても、それは「生きていない」状態である、ということを表しているのだと思います。モチベーションとか情熱というのは、テクニックで上げていくものではなく「そこに明確に存在するもの」なんだ、ということを、エド・ハリスは言っているのではないか、と理解しました。そして、「モチベーションの焦点(フォーカス)がブレないようにする」ための、テクニックだとか作法だとか、というものは存在するのでしょうけれども、根本的にモチベーションの無いものに対してモチベーションを持つ、ことは難しいということだと思います。自分自身も含め多くの人は、「ニセのモチベーション」にだまされることがあると思います。この「ニセモチベーション」のたちが悪いのは、「自分自身も」だましてしまうことだと思います。見栄だとか、義務感だとか、規範意識、みたいなものが「ニセのモチベーション」を発生させる源だと思いますが、この「ニセモチベーション」を峻別することが、逆に「本当のモチベーション」を大事にし、より強くする方法ではないでしょうか。「ニセ・モチベーション」峻別の一つの方法として、上記のエド・ハリスのコメントがとっても刺さりました。「これ、何かの理由でやめなくてはならなくなったときに、やめられるか?」と自問してみると、いろいろわかるのではないかと。そんなことを考えました。
2006/01/15
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昨日、転職活動のときにお世話になった、キャリアコンサルタントの方が独立された、ということで、飲みに行きました。最近の求人動向・人材紹介ビジネスについて・独立後の目標、などいろいろなことを語っていただいて、とても刺激を受けました。(「自分がやったら返ってくる。やらなかったら、それも返ってくる。それが本当に如実に表れるのが、独立だな、と思いました。」なるほどなるほど。)昨日の本題とはそれるのですが、今の自分にとても「刺さった」言葉がありましたので、本日はその話です。「コンサル出身者が転職活動の時にもったいないなぁ、と思うことがある。面接の時に、まるで評論家のように『○○は、こうである』とか、『○○なのは、○○だから』のという具合に、一歩引いたスタンスで語る人がいること。むしろ『自分はこうありたい』という思いを語った方がよいのに。」ということでした。身につまされますね。最近読んだ本、『一歩先のシゴト力』にも、同じようなことでハッとする言葉がありました。-自分が楽しいと感じることに人を巻き込む力がとても大事-自信を持って「あなたは知らないだろうけど、これは本当にすばらしい世界だ」(と語れるものを持っているかどうか)-それは説得・テクニックなどではない。ここでは信念がものをいう。コンサルタントをやっていると「クライアントの悩みを共有する」ということが重要になるので、ともすると「クライアントになりきりすぎてしまう」というようなことがあります。これが行き過ぎると「自分がそう思っている」のか、「クライアントがそう思っていることが単に自分に乗りうつっただけ」なのかがわからなくなってくることがあります。要するに相手のことを考えるあまり「自分」がなくなっていってしまうのです。ところが、コンサルタントであろうが、自分の会社であろうが、(人生一般にそうだと思いますが)自分の価値は何か、ということを問うと「自分がいたからこそ起こったポジティブな何かがあるか?」というところに行き着くと思います。で、「自分がいたからこそ起こった何か」は、「相手になりきりすぎ」たり「自分の考えなのかそう思いたいだけなのかわからな」かったりすると、絶対に起こせません。優秀なコンサルタントもそうで、「相手の悩みを理解」しつつ、「自分の意見を言える人」なんですね。自分に他人を巻き込めるだけの、「自分の信念」があるのかないのか。こんな視点が必要だなぁ、と(反省を込めて)思いました。
2006/01/13
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「価値」の話の続きです。ぼくがまだ社会人二年目くらいのころ(つまり、だいぶ前)、勤めていたコンサルティング会社の日本人副社長の一人(Mさんと呼びます)と話をしたときの質問です。Mさんが、別の副社長(米国人)と話していたときに「心臓と腎臓、どっちが価値があるか?」という話になったそうです。で、Mさんが「そんなん、どっちが価値がある、という問題じゃないだろう。どっちも大事なんだから」というと、米国人副社長は、「いや、心臓の方が価値がある」と。「心臓は1つしかないが、腎臓は二つあり、一つなくなっても大丈夫。」などの理由から「病院では、心臓の方が(価格が)高い」とのこと。(詳細は、うろ覚えです。『価格が高い』というのは、病院が臓器を購入するときの価格か、患者が病院から提供を受けるときの価格か、献体で臓器を提供する場合に遺族が受け取る金額か、そもそも全く別の概念か、例によって思い出せません。。すみませんが。。)Mさんは、「そんなものにまで値段をつけたり、価値の大小を論じたりするのか」とえらく驚いた、という話でした。当時、『欧米的』なものの考え方と、『日本的』なものの考え方の違いが端的に現れているなぁ、という印象が強く残っていて、なぜか今でも覚えているエピソードです。『欧米的』『日本的』と「国・地域、もしくは人種」で考え方を分けるのが、正しい方法だとは思いませんが(『日本的』な考え方の欧米人・欧米企業、『欧米的』な考え方の日本人・日本企業もたくさんいる・あるので、『欧米』『日本』がラベルとして正しくない気がするので)便宜的に『欧米的』『日本的』と呼ぶとすると、『欧米的』=とにかく、お金に換算できるものはどんどんお金に換算しよう。で、換算できない・換算が難しいものについては、出来ないものとして、困ったときにまた考えよう。という発想で、『日本的』=基本的には、多くの物事はお金に換算することが難しい(もしくは、適切でない)。だから、何らかの前提をおいてお金に換算できたとしてもそれ以上のものではないという発想ではないかと思います。だから、Mさんの発想では「心臓の方が腎臓よりも高い、イコール、心臓の方が腎臓よりも価値がある、ということを、そもそも考えとして思いつかない」ということなのではないかと。例えば、ライブドアVsフジも、村上ファンドの一連の案件も、「お金に換算できる・できない」ということに関する「買いたい側」と「買われる側」の考え方のズレが根底にあるのではないかと思います。買う側の前提は、「株式市場という形で会社の価値は、お金に換算されている。その価値で会社を買って何が悪い」ということになるでしょうし、買われる側の前提は、「その『価値』とは、『カネを産むマシーンとしての企業』の価値であって、本当の企業の価値(例えば、そこで働く従業員の幸せ・誇りみたいなもの)を無視している。そこを理解・評価しない人に会社を買ってほしくない」ということになるでしょう。それ以前に、心臓・腎臓の件のMさんのように「そもそも、『企業の価値分のカネを出すから、オレも経営に混ぜろ』という発想自体なかった」ということかもしれません。結果的にM&Aの大半が失敗に終わっているということは、買った側が『企業の本当の価値』を理解せずに(あるいは、理解できたとしてもそれを再現できずに)、その価値を毀損してしまっている、ということですね。「心臓の方が腎臓よりも高いから、価値がある」という思想にはすくい切れていないものがある、ということではないかな、と思います。前回の『ブログの価値』に話を戻すと、この「価値」はブログの何をお金に換算しているのか?ということがよくわからなくなります。例えば、百式(100shiki.com)には$40万の価値がついてますが、広告媒体としての価値ということでなければ、この『価値』でこのブログを売買することは、基本的には不可能なわけですから。(そもそも、持ち主が売るということも考えづらいですが)なんだか、オチがつきませんでしたが。
2006/01/09
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あなたのブログはいくらの価値があるのか?ということを測定してくれるサイトがあるようです。その名も、How Much Is My Blog Worth?http://www.business-opportunities.biz/projects/how-much-is-your-blog-worth/そのまんまの名前ですね。ちなみに、ワタクシのブログは$0.00でありました。全然ダメダメですね。どういう方法で算出しているのか?ということで、試しによく見に行くPassion for the Future (http://ringolab.com/note/daiya/)ウケる日記(http://www.mizunokeiya.com/)百式(http://www.100shiki.com)Yahoo! Japan(http://www.yahoo.co.jp (これはブログではありませんが・・))をそれぞれ調べてみると、Passion for the Future : $100,488.12ウケる日記 : $0.00百式 : $445,986.60Yahoo! : $0.00でした。Yahoo!が$0.00ということは、単純にアクセス数だけで見ているわけではないみたいですね。何らかの算定式があるんでしょうけれども。ところで、(上記算定式が「論理的に正しい」として)上記「価値」は各ブログの何の「価値」を測定しているのか?ということは、考え始めると難しいですね。昨年のライブドアやら村上ファンドやらの騒動も、結局は「価値」に対する考え方(「価値」の価値観とでも言えばよいのか)が全然異なる者どうしが、株式市場という同じ土俵で白黒つけなければならなかったことが、問題を複雑にした一番の原因ではないかとも思います。この話の続きは次回書こうと思います。「心臓と腎臓、どちらが価値があるか?」という話しです。
2006/01/08
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さて、昨日の続き(というか、昨日書こうと思って実現できなかったこと)です。休みのうちにまとまった時間がある時しかできない作業に着手しよう、ということで古い携帯のメールをPCに落としていました。今使っている携帯の2つ前に使っていた携帯ということで、メールのデータ移行ができないため(市販のPC用のデータ管理ソフトも対応しているものが見つけられなかった)、メールの文章を一つずつ見ながら、PCにポチポチ打ち込んでいきました。いつまでも放置して、データが消えてしまったりしたら復元する手立てがありませんので。メールの時期としては、2003年の暮れから2004年の3月くらいまでのものが中心です。ちょうど、ぼくの母が亡くなるまでの最後の半年というところです。そんなわけで、かなりグッとくるメールが多く、年明け早々、PC画面に向かってボロボロ涙を流しながらの作業になりました。メールの一通一通をの文章を一つ一つ、テキストで打ち込むと、すぐそこに母親がいるような気持ちがしてきます。電話機の向こう側で母親がメールの返事を待っているような錯覚を覚えてしまいます。そんなメールの中で特に印象が強く感情を揺さぶるのは、苦しい状況の中でちょっとした楽しいことが会ったときのメールです。母親のためにちょっとしたサプライズを演出したり、ぼくの人生の中でも結婚を決めたり、そういう小さな「喜び」「笑い」を思い出すようなメールを見ると、もうダメですね。この時期は、母の病気が少しずつ悪くなっていき、最悪の事態が迫っているということで暗い靄がぼくの周りを覆っていた時期です。ただ、不思議なのはこんな具合に圧倒的に「つらい時間」の方が長かった時期なのですが、「つらい記憶」というのは漠然としたかたまりでしか存在していない、ということです。一方で、こういう辛い時期に、局面局面で、喜んで・笑って・楽しかったことは、その瞬間のことを本当に鮮明に思い出します。でまぁ、正月早々神妙な気持ちになりまして、いろいろ考えました。○どんなにつらくても楽しくても、記憶は「思い切り喜んで・笑って・楽しんだ」具体的なエピソードを残していくのだ、ということ。「漠然と毎日つらい」「漠然と毎日楽しい」という記憶は漠然としたかたまりでしか残らないが、楽しいおかしいエピソードは、自分の記憶に刻み込まれるということ。○「どんなときにも笑う理由は存在する」「楽しいことは見つけられる」ということ。その笑い・楽しみが、つらい状況を根本的に解決するものでなくても、とても貴重であるということ。2つ目のポイントは、私が少し前に紹介した『生きる上での16の指針』というものにもありますね。There's always a reason to smile. ということで。なんだか、「ライフ・イズ・ビューティフル」の主人公みたいですな。というわけで、今年は「どんなときにも笑う理由は存在する」「楽しいことは見つけられる」ということを忘れずに、ゆるりとがんばっていきますかね。そんなことを考えました。
2006/01/05
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昨年末、すっかりずぼらをしてしまい完全に書きぐせが抜けてしまいました。(なんだか、ブログの更新頻度と生活の忙しさって、無関係ですね。。。年末は決してブログが更新できないほど忙しかったわけではないし、書くことがなかったわけでもないのですが。)とりあえず、年明けを契機に再開と思って本日Upする予定にしていましたが、昨日から本日にかけて着手した別の作業に、思いのほか時間を使ってしまい(それから、その作業の結果、少し精神的に「ブログどころではなくなった」というのもありまして)ブログの更新は明日にしようと思います。本日はとりあえず決意表明だけ、と。明日は、昨日から本日にかけて着手した作業について書くことになると思います。
2006/01/04
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