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クロニクル 米国、北爆を停止1968(昭和43)年10月31日48年も経ったのですね。この日、アメリカのリンドン・B・ジョンソン大統領は、北ヴェトナムに対する爆撃(北爆)を中止する旨、発表しました。米軍機による北爆は、64年8月2日のトンキン湾事件(北ヴェトナムの魚雷艇が米艦船を魚雷で攻撃したとする事件)を受けて、同年8月4日に始めて行なわれ、やがて恒常的に行なわれるようになっていました。トンキン湾事件そのものは、米軍による自作自演だったことが、後に明らかとなりましたが、北爆は構わずに継続されていました。その北爆をやめると宣言したのです。北爆はその後も、73年の米軍のヴェトナムからの撤退まで、 再開と停止を繰り返しました。、
2016.10.31
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クロニクル 文部省学生課設置1928(昭和3)年10月30日88年前のことです。この日、文部省は学生課を設置、各帝国大学や県立高等学校に、学生主事が置かれました。戦前の高等学校は、大学の予科の機能を果たしており、いわゆる一般教育を担っていました。全国8つの帝国大学の総入学定員は、県立高校の卒業生総数よりも多く設定されていましたので、特定大学の特定学科に拘らなければ、県立高校の卒業生は、誰もが確実に帝国大学に入学できたのです。そうした事情から、高校時代は読書と哲学的思索にふけり、「人間いかに生きるべきか」を模索する、思想遍歴の時期だったのです。そうした帝国大学や県立高校に乗り込むことになった主事の主な任務は、学生に対する思想統制にありました。この時期から,次第に思想の取り締まりが厳しくなっていきました。1925(大正14)年に定められた治安維持法が、3年後にして、いよいよ思想統制の牙を剥き始めたのです。ここに大正デモクラシーを謳歌した、自由主義的な空気は次第に失われてゆくことになり、「物言えば唇寒し」の暗い時代が幕を開けたのです。。
2016.10.30
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クロニクル 岡田三越前社長逮捕1982(昭和57)年10月29日 34年前のことです。この日、警視庁は岡田茂三越前社長を、特別背任容疑で逮捕しました。背任罪は、仕事上の立場を利用しうる者が、その任務に背いて、組織に財産上の損害を与えることで成立する犯罪です。特別背任とは、その仕事上の立場が特段に大きく重い場合に成立するのですが、会社の場合、取締役とりわけ代表権のある取締役が対象となるようです。岡田前社長の場合、竹久ミチ女史に対する特別な厚遇による利益の付与が、特別背任罪を構成すると認定されたものでした。ここに老舗百貨店三越を私物化し、食い物にした2人の人物が司法の捌きを受けることになりました。 その後、東京地裁で、懲役3年6カ月の実刑判決を受け控訴、東京高裁でも懲役3年の実刑判決、最高裁に上告しましたが、判決の出る前に、腎不全で死去しました。相棒の竹久女史は2年6カ月の実刑判決が確定、服役しました。
2016.10.29
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クロニクル ハチの一刺し1981(昭和56)年10月28日35年前になります。この日、元首相田中角栄被告に対するロッキード事件丸紅ルートの公判で、検察側証人として東京地裁に出廷した榎本敏夫被告(田中角栄被告の元秘書)の前夫人三恵子さんは、「榎本は五億円の受領を認める発言をしていた」と証言、当事者しか知り得ない受領の内幕を詳細かつ生々しく陳述しました。ここに田中被告の有罪への流れは決定的となりました。三恵子さんの発言は,「ハチの一刺し」という流行語と共に、当時の話題となりました。 被告である夫の不利になることを、委細かまわず法廷で証言する妻の姿に、夫妻の夫婦関係は既に壊れていることが予測できましたが、それにしても惻隠の情がなさすぎると、榎本被告が気の毒になりました。
2016.10.28
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クロニクル 日本軍武漢三鎮を占領1938(昭和13)年10月27日前年1937(昭和12)年の七夕の日の、盧溝橋での日中両軍の衝突によって開始された、日中全面戦争は、その後も日本政府の再三の早期収拾声明にもかかわらず、同年12月13日には南京占領と、いわゆる「南京大虐殺」事件を引き起こしました。そして、この年1月には、近衛首相の「国民政府相手にせず」という、かの有名な声明まで発表され、日中戦争は泥沼化の様相を呈しておりました。こうして4月には、『国家総動員法』が成立、5月には徐州を占領するにいたりました。そして78年前のこの日には、武漢三鎮を完全制圧と、日本軍は長江流域を遡る形で、占領地を拡大していきました。しかし、次第に広い占領地を支配しきれず、長く延びた補給線の維持に汲々とする、苦しい状況に追い込まれていったのでした。なお武漢三鎮とは、 武昌、漢陽、漢口の三つの都市の総称で、鎮とは地域の中心都市を指します。
2016.10.27
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クロニクル 朴韓国大統領暗殺1979(昭和54)年10月26日37年前のことです、この日、朴正煕韓国大統領が、側近の1人だった金KCIA部長の凶弾に倒れました。62歳でした。事件が起きたのは、韓国中央情報部(KCIA)の部長官邸に付設された食堂で催された政府要人の宴席で、午後7時40分頃のことでした。至近距離からの狙撃で、朴大統領は即死でした。金部長は政権末期の朴政権で、自らの地位に対する不安や、政権の腐敗振りへの批判などから凶行に及んだものと推測されています。朴大統領は1961年に軍事クーデタで政権を握り、65年には日本との国交を回復、漢江の奇跡と言われた経済成長の実現を背景に、72年には維新憲法を制定して,永久政権への道を開いたのですが、73年8月の金大中氏拉致事件など、強権的な反対勢力への弾圧などで、次第に国民の離反を招き、この頃は政権末期の様相を強めていました。朴大統領の死去後、韓国の政局はしばらく混迷しますが、年末の軍事クーデタで、全斗煥将軍が実験を掌握、翌80年5月抵抗する光州市で、血の弾圧を強行し、8月に大統領に就任して、再び軍事独裁を樹立、安定に向かいました。
2016.10.26
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クロニクル 池田首相辞意表明1964(昭和39)年10月25日52年前のことです。この年10月10日に始まった東京五輪が24日に閉幕した、まさに翌日の事でした。この日池田勇人首相が、オリンピックの閉幕を待って、入院先の国立癌センター病院で、退陣を表明、後継首相としてライバルだった佐藤栄作氏を、指名したのです。池田首相は、翌65年8月13日、咽頭癌の術後肺炎のため死去。享年65歳でした。1899(明治32)年生まれの池田氏は、19世紀生まれとしては最後の首相となりました。因みに池田後継となった佐藤首相は、1901(明治34)年の生まれでした。
2016.10.25
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クロニクル 国連憲章発効1945(昭和20)年10月24日71年前のこの日、国連憲章が発効し、国際連合が正式に発足しました。国際連合は、第1次世界大戦後に発足した国際連盟が、武力行使権限を持たなかったために、大きな力を発揮し得なかったことを反省して、安全保障理事会に国連軍の編成権限と、武力行使の権限を付与、さらに第2次世界大戦の当初の連合国である米・ソ・英・仏・中(中華民国)の5カ国を、安全保障理事会の常任理事国に指定いていました。この5ヶ国は安保理の議決に拒否権を持ち、5ヶ国中の1ヶ国でもが反対に回ると、例え反対が1票であっても、その決議案は否決されたことになったのです。最近の日本政府は、経済力の強化と、国連分担金の負担額の多さを理由に、ドイツなどと共に、この国連常任理事国に加わることに熱心なようですが、私は、本来公平であるべき国際社会の集まりであるはずの、国際連合において、1票の価値に不公平のある仕組みそのものに問題を感じます。なすべきことは常任理事国への加盟ではなく、常任理事国制度の廃止を提案し、その実現に努力することにあるのではないかと、考えています。
2016.10.24
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クロニクル 第1次オイルショック本格化1973(昭和48)年10月23日43年前になります。この日、石油メジャーのエクソンとシェルの両社が、そろって原油価格の30%値上げを、日本の各社に通告してきました。この年10月6日に始まった第4次中東戦争は、イスラエルへの武器補給をやめない米国とアラブ諸国の対立に発展し、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)は、石油を政治交渉の武器とする戦略を決定しました。その戦略は、原油生産を削減して、イスラエル支持の国々への原油の輸出割当を制限するというものでした。この戦略は見事にヒットしたのですが、スポット買いに走る業者が続出して、原油価格は急上昇を続けました。その結果、買いつけ価格の上昇に悩む石油メジャー各社は、原油価格の上昇分を製品価格に転嫁することを選択したのです。その結果が、この日の日本各社への、値上げ通告でした。それでも、この時の高値は。1バーレル16~18ドル程度でしたから、下がったといっても50ドル近辺の現在から見ると、まだまだ原油価格は安かったのですね。
2016.10.23
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クロニクル 中国文革四人組の逮捕を公表1976(昭和51)年10月22日40年前になります。この日、中国政府は、16日前の10月6日に、文革四人組を逮捕したことを発表しました。文革四人組とは、いずれもプロレタリア文化大革命の過程で、毛沢東主席によって抜擢された、江青、張春橋、姚文元、王洪文の4人を指します。4人は毛沢東主席の死後も、4人による権力掌握を目指して分派闘争を展開、党を混乱させたとして、逮捕・投獄されたのです。裁判の結果、江青と張春橋は死刑を宣告されましたが、後に無期懲役に減刑されました。姚文元は懲役18年、王洪文は無期懲役とされました。その後、江青女史は1991年に獄中で自殺。他の3人はいずれも病死しました。
2016.10.22
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クロニクル 東京専門学校設立1882(明治15)年10月21日134年前のこの日、大隈重信は、都の西北の地に東京専門学校を設立し、政治経済学科、法律学科、英文学科、理学科の4学科を設置しました。入学者80名の小さな学校でした。20年後の1902(明治35)年、同校は早稲田大学と改称しました。この東京専門学校こそ、現在の早稲田大学の前身でした。
2016.10.21
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クロニクル 愛国発~幸福往き1974(昭和49)年10月20日42年前ですが、この年4月に、北海道の国鉄(当事)愛国駅が発売した、幸福駅往き乗車券が、思いがけない大ヒットとなり、この日、累計で300万枚もの売り上げを達成しました。勿論愛国駅を訪れた観光客が、そんなに大きかったわけではなく、手軽なお土産とばかり、10枚、20枚と纏め買いする方が多かったようですが‥‥。時あたかも、第1次オイルショック後の不景気と物価上昇が重なり、国民生活はかなり厳しかった時でしたから、ちょっとした縁起担ぎをした世相に、幸福往きの切符は、まさにピッタリだったのですね。 やがて国鉄は分割民営化され、北海道の路線はJR北海道が引き継ぎましたが、経営の苦しい同社の下で、広尾線は廃線となってしまっています。そしてJR北海道のこんにちは、皆様ご存知のような体たらくとなっています。それでも、愛国駅の駅舎は建て直され、入場券の発売は続けていたようですが、今でも続けているのでしょうか。国鉄マンの誇りは今いずこ。残念ですね。
2016.10.20
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クロニクル 日本政府対独単独不講和宣言に署名1915(大正4)年10月19日これは、101年前、第一次世界大戦(1914年7月~1918年11月)中の出来事です。大戦勃発後、1ヶ月もしない内に、日本は対独参戦を決定し、9月には青島(チンタオ)のドイツ東洋艦隊の根拠地を陥落させて、こう(にかわという文字ですが、ここでは使用できません)州湾一帯を占領、さらに、逃げる東洋艦隊を追って、赤道以北のドイツ領南洋群島をも占領。日本にとっての占領目的を早々と実現していました。日本政府は、元々ヨーロッパ戦線への軍人の派遣を考えておらず、フランス、ロシア、イギリスさらにはベルギーなどからの、陸軍や海軍の派遣要請を、この時点ではすべからく拒否していたのです(1916年に入ってから、航続距離の長い駆逐艦を地中海に派遣します)。ところで、英・仏・露3国は、対独戦が長期戦になりそうな様相を強めていたことから、互いに相手がドイツと単独講和条約を結ぶのではないかと疑心暗義に陥っていたことから、1915年初め、英・仏・露三国は共同で単独不講和を宣言したのです。日本も戦後の国際会議での発言権の確保を考え、ここは列強に恩を売っておく必要があると判断し、三国の単独不講和宣言への参加を決定、この日署名したのです。
2016.10.19
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クロニクル 徴兵年齢17歳に1944(昭和19)年10月18日72年前のことです。この日、陸軍省は兵役法施行規則を改正公布し、17歳以上の男子を兵役の対象とする旨を通知しました。国民には隠していましたが、各地の戦局は益々悪化の度を深めており、43年3月の植民地朝鮮への兵役法の適用(朝鮮人民の日本軍への徴兵の開始)、同年10月の学徒の徴兵猶予の停止と学徒動員、そして勤労動員の通年実施に続く、形振り構わぬ兵士確保の辻褄合わせの一環でした。兵役の上限も45歳までと広げられており、国内男性の人的資源のほとんど全てを、戦争に振り向けようというのですから、国の将来を慮るところのない、無茶苦茶な方針でした。このような国家の将来像を思い描くことも出来ない、目先を取り繕うことさえ出来れば善しとするかのような情けない指導者によって、多くの有為な人材が消耗品のように使い捨てられていった事実と、党利党略に明け暮れる現在の政界とが、ダブって見えてしまうのは、私だけでしょうか?
2016.10.18
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クロニクル 初の近代的水道施設横浜に完成1887(明治20)年10月17日129年前の話になります。新橋汐留の再開発に伴う発掘調査で、江戸時代に木樋による上水施設が存在し、少なくとも江戸城や各大名屋敷に引き込まれていたことは、明らかになっているのですが、ここに記すのは開港場となった横浜の話です。横浜は寒村でしたが、上水施設も排水施設も整備することなく、江戸に最も近い開港場として、外国人居留地が作られ、人口が密集することになりました。そのため、衛生状態は悪く、コレラなどの伝染病がしばしば流行する羽目になりました。ここに衛生状態改善のために、上水施設の建設が計画され、木樋水道の建設が何度か試みられました。しかし、うまくいかず、1885年、イギリスに設計施工を依頼し、資材も全てイギリスから輸入する形で、津久井郡付近の相模川に取水口を設け、鉄管を用いた日本初の近代的な水道施設の建設が、始められたのです。この施設が完成し、129年前のこの日、横浜開港場への給水が始められました。
2016.10.17
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クロニクル 全米にヴェトナム反戦広がる1967(昭和42)年10月16日49年前のこの日、アメリカ全土30の主要都市で、一斉にヴェトナム反戦を訴える反戦デモが行われました。それは、アメリカにおけるヴェトナム反戦週間の幕開けを飾る行進でした。ニューヨーク、ボストン、ロスアンジェルス等々の都市で一斉にデモ行進が行われたのです。それはアメリカ政府には大きな衝撃になりました。 イラク戦争やアフガン戦争では、こうした大きな反戦行動は起きていません。 3/11の衝撃が、米国人の理性を麻痺させたのか。それともヴェトナム戦争が、米国人にとって特別の戦争だったのでしょうか。その双方のような気がしています。
2016.10.16
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クロニクル 田中康夫氏長野県知事に2000(平成12)年10月15日16年前のこの日、作家の田中康夫氏が長野県知事選に勝利し、初当選を飾りました。長野五輪後の不況の中で、県財政の赤字が重くのしかかり、箱物行政に対する県民の不満が爆発した結果でした。この流れに乗った田中氏は脱ダム宣言で、ダム建設の見直しを公約として当選しましたが、地方の土建業界と連なる保守派の多い県議会と対立、やがて議会は田中知事に対する不信任決議を可決して、知事方針の撤回を強引に迫ってきました。このあたりの様子は、まるで政治ごろによる脅しのようにも見えました。田中知事はこの窮境を世論の動向を知るチャンスと捉える逆転の発想で、自ら辞職して、再度知事選に立候補する道を選んで、事実上の田中知事に対する信認投票であるかのように、位置づけることに成功したのです。こうして大差で当選すると、さすがに今度は議会もやたらに反対ばかりするわけには行かず、ダム建設は凍結されました。しかし、時間の経過と共に田中知事の政治手腕には疑問符がつき、氏の中央政界指向など、軸のブレる政治姿勢に、県民の不満は募り、任期満了後の知事選では対立候補に敗れ、知事の椅子は、再び旧勢力の手に戻ることになり、折角凍結されたダム工事も、次々に再開されることになってしまいました。なんだかなぁという感じですが、長野の事情に詳しい皆さんに、知事の功罪や昨今の事情を追加していただけると有難いです。
2016.10.15
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クロニクル 長嶋選手引退1974(昭和49)年10月14日42年前のこの日、ミスター・ジャイアンツとして野球ファンに親しまれた長嶋茂雄選手が、選手生活に幕を閉じ、引退しました。長嶋選手は、1957年秋にジャイアンツに入団。58年の新人としての開幕戦で、国鉄スワローズの金田投手と対戦、4打席4三振と封じられて、プロの洗礼を受けましたが、持ち前の明るさと積極性から、スタンドを沸かせ、一年目から本塁打、打点の2冠を達成。打率も阪神タイガースの田宮選手に続く2位という好成績を収め、新人王に輝きました。2年目からは、3年連続で首位打者に輝くなど、74年の引退までに首位打者6回、打点王5回、本塁打王2回を獲得。華麗な守備とダイナミックな動き、勝負強い打撃、天真爛漫な性格で、プロ野球のファン層を大きく広げる役割を果たしました。引退の日のこの日は、中日ドラゴンズとのダブルヘッダーが組まれていました。生憎の平日でしたが、長嶋選手の最後の勇姿を一目見ようというファンが殺到、超満員となりました。長嶋選手は2試合ともフル出場し、9打数4安打と活躍し、本塁打も放ちました。試合後の引退セレモニーで、「わが巨人軍は、永遠に不滅です。」という名せリフを残しました。
2016.10.14
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クロニクル 財田川事件に再審の道1976(昭和51)年10月13日40年前この日、最高裁は1950(昭和25)年に起き、1957(昭和32)年に死刑判決が確定していた財田川事件の被告、谷口繁義さんの再審請求を受理し、高松地裁に審理のやり直しを命じました。この決定は、最高裁が死刑囚の再審請求に道を開いた最初のケースとして、知られています。財田川事件は、1950年に香川県三豊郡財田村で、闇米ブローカーが就寝中に刺し殺され、現金113,000円(当事30才前後の会社員の月額給与は、なお1万円に遠く達していませんでした)が盗まれた事件です。別件で逮捕されていた谷口さんが犯行を自供したとして、死刑が宣告されたのです。これに対し、自白は強要されたもので、自白の内容と事実との間に相当の疑問がある。自白調書の筆跡にも疑問があること等をあげて、何度かの再審請求が出され、最高裁に特別抗告されていたのですが、40年前のこの日、再審決定の通知となって、ようやく実を結んだのでした。しかし、審理に時間を要し、高松地裁が谷口さんの無罪判決を下し、即時釈放を決定したのは、それから8年後の1984(昭和59)年の3月12日、死刑判決から28年目のことでした。長すぎた裁判の問題と、道が開かれたとはいえ、なお再審請求のハードルが高いものであるなどの点で、現在もなお、問題は残っているように思います。
2016.10.13
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クロニクル 浅沼社会党委員長刺殺1960(昭和35)年10月12日56年前の出来事です。戦後日本で最大の反政府闘争だった、日米安全保障条約改訂反対闘争(通称安保反対闘争‥‥全共闘世代は、よく70年安保と口にするようですが、70年のそれは、10年後からは、1年の猶予で、当事国のどちらかが、更新拒否を通告してこなければ、自動延長となる、自動更新制になっているため、この自動延長阻止を主張した運動で、盛り上がりからいっても、60年の安保闘争に遠く及ばないものでした)が、6月19日に参議院が何も議決しないまま、自然成立(予算と条約案件は、衆院の議決が優先し、参院の審議期間も、他の法案が2ヶ月のところ、1ヶ月に制限されています)したことで、敗北に終わり、学生運動や労働運動に挫折感が漂っていた時期でした。運動に押され、反主流派の協力を取り付けるために、安保条約成立直後に退陣を表明した岸信介首相に代わった、池田隼人首相は「寛容と忍耐」を掲げて低姿勢を貫き、やがて「所得倍増政策」を掲げて、国民の目を政治から経済に移していくことに成功しつつあったのが、60年の10月という時期でした。社会党委員長の浅沼稲次郎氏は、その超人的な行動力から、社会党の機関車と言われ、ヌマさんの愛称で親しまれていた人気の高い政治家でした。この日、国会議事堂に近い、東京の日比谷公会堂で、自民党、社会党、民社党の3党首の立会演説会が開かれました。近づく総選挙の一貫として、東京都の選挙管理委員会などが主催した催しで、テレビで全国中継もされていました。3時ごろに演壇に立った浅沼氏の演説が終わりに近づいた頃、突然抜き身の短刀(後に刃渡り35cmと発表されました)を持った少年が壇上に駆け上がり、身体ごとぶつかるように浅沼氏の胸を刺し、さらにもう一度刺しました。浅沼委員長は、搬送先の日比谷病院で、午後3時40分に死去されました。61歳という早すぎる死でした。この模様は、テレビ中継中でしたから、全国の午後の茶の間にしっかり届けられたので、右翼少年の凶行は、しっかり国民の目に焼き付けられ、左翼に対する厳重な警戒に比較しての、右翼に対する警視庁や警察庁の警備の甘さに、強い批判が巻き起こりました。刃物を持って壇上に上がろうとする挙動不審の少年を阻止できなかったのですから、これは明らかに警備上のミスでした。後日談です。犯人の17才の少年山口二矢(おとや)は、警視庁の取調べ後、練馬の少年鑑別所に送られましたが、そこで、事件の21日後の11月2日に首吊り自殺し、背後関係等の一切は、闇の中に葬り去られました。後味の悪い、残念な事件でした。
2016.10.12
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クロニクル 荒船清十郎運輸相辞任1966(昭和41)年10月11日ちょうど50年前になります。この日、荒船清十郎運輸相が辞任しました。荒船氏は埼玉3区(当事の中選挙区)選出のベテラン議員で、衆議院予算委員会委員長として辣腕を振るい、名委員長として評判でしたが、党人派のべらんめえ議員で、言動に問題があり、大臣にすると舌禍事件を起こしそうだという点がマイナス評価され、ようやく運輸相として初入閣したばかりでした。辞任の理由は、自らの選挙区にある深谷駅に、国鉄のダイヤ改正に当たって、職権を利用して上信越線の急行を停車させようとしたことにありました。深谷駅に近い熊谷駅には急行が停車していましたから、これはかなり無理な注文でした。この事実が新聞にすっぱ抜かれ、大臣の職権乱用が強く批判され、国会対策上、彼の辞任は不可避となったのです。荒船大臣に引導を渡したのは、荒船氏の所属派閥の長だった川島正二郎氏。彼の「やはり野に置けレンゲソウ」は、当事の流行語になりました。その後荒船氏は党の要職を歴任しましたが、二度と大臣の椅子につくことはありませんでした。そして国鉄は、ダイヤ改正で、1日2本だけ、深谷駅に急行を停車させることにし、辞任した荒船氏に塩を送りました。
2016.10.11
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クロニクル 『灯』1号店閉店1977(昭和52)年10月10日昨日からバタバタしていて、更新が遅れています。とりあえず昨日分を… 皆様のブログには、深夜にお邪魔します。ご無礼お許し下さい。さて、10日の日記39年前になります。この日、新宿の歌声喫茶の老舗『灯』1号店が22年の歴史を刻んで幕を閉じました。歌声喫茶のはしりは、1955(昭和30)年に相次いで新宿にオープンした「カチューシャ」と「灯」でした。2つの歌声喫茶の人気の高まりから、学生や労働者の集まる繁華街を中心に、歌声喫茶は続々と誕生、60年代の最盛期には、全国で100店を超えたといわれています。歌声喫茶の人気の背景には、労働運動や学生運動の高まりをのなかで、人々が連帯感を求めて、みんなで一緒に大きな声で反戦歌や労働歌、ロシア民謡などを大きな声で合唱する、歌声喫茶に集った事情がありました。歌声喫茶ではリーダーの音頭とりで、客たちが声を揃えて歌うのですが、こうしたリーダーの中から、「たびだちの歌」の上条恒彦や「青葉城恋歌」のさとう宗幸などが、プロのシンガーとしてデビューしています。1965年頃をピークに、べ平連運動の活発化に反比例する形で、歌声喫茶は退潮に向かい、69年の全共闘運動の敗北と共に、衰退期に入りました。こうして、次第に歌声喫茶の灯は消えていったのですが、21世紀に入って、オールドファンの集う場として、いくつかの店が営業するようになりましたね。
2016.10.10
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クロニクル GHQ新聞の事前検閲を開始1945(昭和20)年10月9日71年前のこの日、GHQは、朝日、毎日、読売等、東京の新聞に対する事前検閲を開始しました。5日前の人権指令にも明らかなように、GHQの対日統治方針は、日本社会の徹底的な民主化を図ることで、日本を再び軍事大国にしないことにありました。この観点から、この段階のGHQは、左翼勢力の統制と並んで、復古調の右翼や旧体制を温存しようとするグループなど、民主化方針に陰で抵抗する勢力の言説を、全てチェックすることにしたのです。 この方針は、新聞、雑誌に留まらず、子ども達の使う教科書にも及び、戦後に義務化された新生中学校の理科や社会科の教科書は、検閲が間にあわないために、1年分の教科書を作成する事が出来ず、1勝毎の分刷として、発行される時期が2年程度続きました。
2016.10.09
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クロニクル ビスマルク登場1862(文久2年)10月8日文久2年は、日本で言うと森鴎外の生まれ年です。そんな154年前のこの日、ドイツ統一の父と謳われたビスマルクが、プロイセン王国の首相に就任しました。当時ドイツは、なお50余の国々に分かれたままで、プロイセンとオーストリアという2国が統一へのヘゲモニーを巡って互いに牽制し合っていました。首相になったビスマルクは、ただちに予算の組み替え案を議会に提出、国防費の大幅アップを画策します。首相の強引なやり方に議員達は、激しい怒りをぶつけました。会議に呼ばれたビスマルクは、その席で有名になった処女演説をぶち上げたのです。「現下の大問題は(というのは、ドイツ統一を指しています)、言論によって解決されるものではなく、プロイセンの鉄(軍需工業)と血(兵士の流す血)によってこそ、達成されるのであります。」と,堂々たる態度で語って、議場を睥睨、反対派の議員たちを黙らせたのです。この演説が後に「鉄血」演説と呼ばれるようになる、彼の処女演説です。
2016.10.08
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クロニクル 中国人民解放軍チベットに侵攻1950(昭和25)年10月7日66年前のことになります。今年が中華人民共和国建国67周年にあたりますから、ほぼ、建国1年後の出来事ということになります。この日、中国人民解放軍がおよそ2万人の規模で、チベットに侵攻しました。当時のチベットはなお中世的な封建体制が支配的で、チベット農民の多くは農奴制度によって土地に縛られており、1部の宗教指導層が領主として、農奴農民を支配していたことが知られています。そのため農民層は、規律と統制が取れ、略奪や暴行を加えない人民解放軍を解放者として受け入れたため、チベット軍の抵抗は散発的なものに留まり、翌51年にはチベットは中国に併合されました。この中国の行動に対し、当時の国際連合は、何一つ具体的な行動をとりませんでした。アメリカはこの年6月に始まった朝鮮戦争に忙殺され、正式な国家でないチベットに関心を示しませんでした。何よりも当時米国の保護を受けて、国連の議席を確保していた台湾政府(自称中華民国)が、中国政府と並んで、チベットを独立国と認めていなかったため、チベットは国連に直接訴えるすべもなく、安保理で審議することさえ、台湾政府の拒否権発動で、不可能となっていたのです。これが、今に続くチベット問題の発端でした。
2016.10.07
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クロニクル 四人組逮捕1976(昭和51)年10月6日ちょうど40年前になるのですね。この日、文化大革命を主導したとされる江青、張春橋、姚文元、王洪文の中国共産党政治局員4人、いわゆる文革4人組が逮捕されました。4人は、後ろ盾だった毛沢東主席が亡くなった後、影響力を失っていましたが、逮捕はプロレタリア文化大革命の終わりを象徴する出来事となりました。
2016.10.06
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クロニクル 東久邇内閣総辞職1945(昭和20)年10月5日71年前になります。この日、8月17日に成立した皇族の東久邇宮稔彦内閣が、GHQの人権指令を実行できないとして、総辞職しました。4日後の9日、幣原喜重郎内閣が成立します。人権指令とは、政治犯の釈放、思想警察の全廃、治安維持法の廃止などとならんで、天皇に関する自由討議を指令したもので、皇族内閣が受け入れ、実行するには荷が重かったのでしょう。
2016.10.05
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クロニクル 人工衛星宇宙へ1957(昭和32)年10月4日59年前、私は中学校の3年生でした。この日、ソ連政府は、スプートニク1号と命名した人工衛星の打ち上げに成功し、衛星が軌道に乗ったことを発表しました。まだ自宅にテレビがなかったので、朝食をとりながら、耳を傾けていた7時のNHKのトップニュースで、この報道が飛び込んできたのです。米ソの宇宙開発競争で、ソ連が米国を1歩リードしたことが明らかになった瞬間でした。ませたタイプの多かった私のクラスメートたちは、米ソ競争はソ連の優位で進むのか、米国が巻き返すのかと、そんな議論に花を咲かせました。
2016.10.04
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クロニクル 東京・大阪の穀物取引所閉鎖1930(昭和5)年10月3日86年前のことです。この日、東京・大阪の清算米取引所(米の先物市場ですね)で、米価が大暴落。両取引所は勿論、全国の米穀市場が休止に追い込まれました。前年10月の米国の株安を端緒とする世界恐慌の影響が、ついに日本にも及んできた結果の一幕でした。追記 このブログ、2006年の10月2日に、産声を上げました。当初は2、3年は続くかなと思っていたのですが、何とまる10年が経過して、1年目に入りました。皆様のおかげです。有難うございました。どうぞ今後もよろしく。
2016.10.03
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クロニクル GHQ第一生命ビルで執務開始1945(昭和20)年10月2日71年前のこの日、GHQは接収した東京、日比谷の第一生命ビルで執務を開始しました。それまで、マッカーサーGHQ総司令官以下のスタッフは、米国大使館に間借していたのです。それゆえ、昭和天皇がマッカッサーを訪問したのは、この米国大使館だったのです。 この建物現在はDNタワー21として、建て替えられたのですが、カッマーサーの執務室だけは、当時のままマッカーサー記念室として保存されています。
2016.10.02
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クロニクル 戦後初の国債上場1966(昭和41)年10月1日ちょうど50年前になります。この日、敗戦後はじめて、国債が東京・大阪両証券取引所に上場されました。戦争中に戦費調達のために乱発された戦時国債は、戦後の悪性インフレで紙くず同然となりました。その反省から、戦後の日本は、歳出を歳入に合わせる緊縮財政をとり、財政収支の赤字を極端に嫌う財政規律を重視した政策運営を続けてきました。しかし、1964年のオリンピック特需が消滅した後の、戦後最大といわれる不況の中で、財界の要望に押された佐藤栄作首相と福田赳夫蔵相は、65年11月、補正予算編成に必要だとして、2,590億円の赤字国債の発行を盛り込んだ補正予算案を,国会に提示しました。この案は翌66年1月19日に国会を通過、諸手続きを経て、同月29日、戦後初の国債が発行されました。最初は僅かでも、一度口にした禁断の実は忘れられず、国債発行額は瞬く間に増え、とりわけ73年秋の第一次石油ショック以降、急増に次ぐ急増を続け、79年に大平首相が、財政再建を掲げて大型間接税の導入を主張し、その10年後の竹下内閣の下で、消費税の導入が決定しても、なおも増え続け、今では1000兆円の大台を軽く超えて、なお膨張を続けています。そして現在は、米国発の世界金融危機の最中に始まった日・米・欧そろっての、超金融緩和際策によって、事実上の中央銀行引き受けに限りなく近い形での、国債の大量発行が際限もなく続けられています。この金融政策に果たして出口はあるのですかね。最後は破綻しかないように思えてならないのですが、皆さんはどうお考えですか?
2016.10.01
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