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クロニクル 紅白初の公開放送1953(昭和28)年12月31日今年も大晦日ですね。今年も1年間お世話になりました。厚く御礼申し上げます。有難うございました。さて、昭和28年というと、63年前になりますね。この年2月にNHK東京が、テレビの本放送を始めています。そのため、この年4回目を迎えた紅白歌合戦を、ラジオだけでなくテレビでも放送することになったのです。当時はビデオ録画して後に放送するという技術はありませんから、テレビは全て生放送でした。そこで、どうせならなるべく大勢のお客様に見ていただこうと、大晦日の晩の日劇のホールを借りて、公開放送としたのです。実は、3回までの紅白は、全てお正月の2日に行なわれていたのですが、第4回にして初めて大晦日に行なわれました。それは、日劇のような大ホールは、正月は全て正月公演のために満杯で、入り込む余地がなかったからでした。大晦日は、どこも公演はなく空いています。そこで仕方なく大晦日に実施することになったのが、真相でした。ところが大晦日の実施には、とんでもないプラスがありました。それは第3回までは、正月公演で時間がとれず、出演を辞退していた大物歌手たちが、大晦日なら都合がつくと、出演してくれるようになったのです。淡谷のり子や小畑実が出演するようになったのは、この第4回紅白からでした。思わぬ効果に喜んだNHKは、以後紅白歌合戦を大晦日に固定したのです。大晦日の風物詩が、こうして誕生しました。なお、この日の放送時間は、21時15分~22時45分までの1時間30分でした。さて、1953年は1月2日に、第3回の紅白歌合戦をやっていましたから、1年に2回の紅白があったことになります。過度期の産物ですが、これも1回きりのことでした。
2016.12.31
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クロニクル マーシャル・プラン終了1951(昭和26)年12月30日65年前のことです。マーシャル・プランとは、1947(昭和22)年の6月2日に、アメリカ合衆国国務長官のマーシャルが発表した、ヨーロッパ経済の復興計画を指します。第二次世界大戦終了後の欧州では、東西ドイツや東欧を巡って米ソの対立が目立ち、アメリカは、東西に分割されたドイツの欧米側となる西ドイツの経済復興を急ぎ、ここに西ドイツ地域の再生とイギリス・フランスなどの復興をはかる必要が生じたのです。実行されたマーシャル・プランは、西ドイツの目覚しい経済回復に繋がり、西ドイツ経済の力強い復活が英・仏などの経済に好影響を与えるなど、アメリカの期待以上の成果を生み、65年前のこの日、開始4年半で、終了が宣言されたのです。こうして、開始から4年半余のこの日、マーシャル・プランは所期の目的を達成して、終了することとなったのです、アメリカのヨーロッパへの経済援助は、総額で120億ドルに達したと言われます。ちょうど60年前のことです。
2016.12.30
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クロニクル 孫文臨時大総統に就任1911(明治44)年12月29日105年前になります。この年10月10日、湖北省の省都武昌で中国の革命派が挙兵しました。ここに中国では清朝の打倒を目指した辛亥革命が始まりました。革命派は、翌日11日には、武昌、漢口、漢陽の武漢三鎮を制圧、湖北郡政府を樹立しました。この動きに呼応して。中国革命の動きは燎原の火のごとき勢いで全国に拡大、各地で清朝からの独立宣言が相次ぎました。この時、日本政府は清朝支援の方針を採りましたが、大陸浪人らは革命派を支援し、犬飼毅、頭山満、北一輝らは大陸に渡って活動しました。しかし、彼らもまた、革命派を支援しながら、満州等における日本の利権拡大を狙っていた点では、日本政府と大同小異でした。こうした情勢の中、アメリカ亡命中だった孫文は、12月25日に上海に到着、この日革命政府の臨時大総統に選出されたのです。こうして、準備を整えた革命派は、3日後の1912年1月1日に、中華民国の樹立を宣言するに至ります。しかし、各地で独立を宣言したのは、各地の軍閥配下の軍団で、必ずしも国民革命を支持したわけではなく、北京で力を持つ最大の軍閥袁世凱は、各地の軍閥の支持を受け、孫文らの国民政府擁立派を抑え、1912年3月10日に、北京で孫文に代わる臨時大総統に就任したのです。孫文らの国民革命は、いまだ成就することはなりませんでした。国民革命の夢は、20年代末の蒋介石の北伐を待たねばならなかったのです。
2016.12.29
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クロニクル 東洋拓殖会社設立1908(明治41)年12月28日108年前のことです。1945(昭和20)年の敗戦まで、日本の朝鮮経営の中核のひとつとして、大きなウェートを占め続けた国策会社、東洋拓殖株式会社が、この日関連法の成立を待って設立されました。時に,日本に拠る韓国併合=完全植民地化の2年前のことでした。東洋拓殖は,朝鮮における最大の大土地所有者となり、農業経営を業務の中心にしていったのですが、その土地の多くは、朝鮮農民の無知につけ込み、登記簿に登記されていない土地を次々に奪って、自分のものにしていったことが、今日では良く知られており、朝鮮農民の怨嗟の的となっていた会社でした。その後、支店を通じて、「満蒙」や「南洋」にも業務を拡大したのですが、日本の敗戦により、解体整理されました。 昨日は更新できず、今になって昨日分を更新しました。
2016.12.28
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クロニクル 所得倍増政策閣議決定1960(昭和35)年12月27日56年前のこの日、閣議は、11月1日に経済審議会が答申した「国民所得倍増を目標とする長期経済計画」を了承して、所得倍増政策を来年度予算編成の基本とすることを決定しました。こうして、10年間で国民総生産を倍増させるという、明るい未来を掲げた経済計画がスタートしました。国民総生産が2倍になるだけでは、その間に人口が増加することが見込めますから、これでは1人当たりの国民所得は2倍になりません。そこで政府は10年間の年平均経済成長率を7,2%とし、10年間で国民総生産を2,7倍、人口増を見込んだ国民所得を2,4倍にすることを目標としました。国民の多くは、この政策を10年後には、月給が2倍になるのだと誤解し、熱狂的に支持しました。折から、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、掃除機などの家電製品の揺籃期でしたから、先行きの賃金上昇を見込んだサラリーマン家庭などは、給料の増加を見込んで、月賦販売(現在のローン販売)を利用して、電化製品を一つまた一つと購入し続けました。こうして市場の拡大は好循環を生み、所得倍増政策は、日本の経済力向上に大いに貢献しました。
2016.12.27
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クロニクル 興安丸舞鶴へ1956(昭和31)年12月26日60年前の出来事ですが、この事実に関しては、現在からよりも、日本の敗戦からの年月を数える方が、相応しいように思います。日本のポツダム宣言受諾から、何と11年4ヶ月も経過したこの日、ソ連抑留者を乗せた最後の帰国船興安丸が、舞鶴港へ入港しました。この日の帰国者は1,025名。集団帰国としては、これが最後でした。シベリア抑留者の殆どは、中国東北地方(当時は満州)や内モンゴルで、ソ連軍の捕虜となり、シベリアへ連行されて、強制労働に従事させられていた人たちでした。「今日も暮れ行く 異国の丘に 友よつらかろ せつなかろ 我慢だ待ってろ 嵐がすぎりゃ 帰る日も来る 朝が来る」 と歌った『異国の丘』は、運良く先に帰国できた元兵士達が、なおシベリアの地に抑留されている戦友を偲んで、歌った歌でした。実を言うと、私にとってこの歌は、母方の叔父の思い出に繋がっています。シベリアに抑留され、1950(昭和25)年に帰国できた叔父が、好んで口ずさんでいた歌だったことを、今でも鮮明に覚えています。そして、舞鶴港の岸壁に、その後も立ち続けた岸壁の母の行動が、人々の涙を誘ったのもまた、興安丸の名と共に記憶の襞に焼きついています。
2016.12.26
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クロニクル 「およげたいやきくん」発売1975(昭和50)年12月25日>まいにちまいにち ぼくらはてっぱんの うえでやかれて いやんなっちゃうよ あるあさぼくは みせのおじさんと けんかしてうみに にげこんだのさ <今日で発売から41年も経つんですね。あの頃は30代前半だったのですね、私は…。年末の発売ですから、街にこの音楽が溢れたのは、翌76年のことだったのですが、歌詞結構覚えているものですねぇ。この「およげたいやきくん」、子門真人さんが歌っていますが、最初に歌ったのは彼ではありませんでした。実はこの曲、フジテレビの子供向け番組『ひらけ!ポンキッキ』の番組の中で、生田敬太郎さんが歌った曲でした。ところが生田さんがフジテレビの意向も確かめずに、テイチクと専属契約を結んだために、フジテレビが態度を硬化し、番組に曲が流れてから1ヵ月後、歌い手は子門真人さんに変更されたのです。そしてこの日、レコードが発売されると、翌76年の1月10日時点でプレス枚数150万枚・予約待ち50万枚という空前の売れ行きを示したのです。オリコンのヒットチャートでは、史上初めてシングル盤で初登場1位という記録を作り、さらに11週連続1位という大ヒットになったのです。オリコンの調べでは、2016年3月までに500万枚以上のレコード・CDを売り上げており、日本でのシングル盤の売上記録としては未だに破られていない、最高記録となっています。ただ、この曲を歌った子門さんは、曲がヒットするとは思わず、印税と買い取りのどちらが良いかと問われた時に、「買い取りでお願いします」と答えたため、契約は5万円での買い取りとなり、印税は1円も彼の懐に入らなかったそうです。大ヒット後、この事実が話題となり、さすがに気がひけたのか発売元のキャニオンレコードは、大ヒット特別賞として100万円と白のギター1本を彼に贈っています。
2016.12.25
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クロニクル 新宿クリスマスツリー爆弾事件1971(昭和46)年12月24日45年前の事件です。この日、新宿三丁目の警視庁四谷署追分交番近くで、買い物袋に入った高さ50cmほどのクリスマスツリーが爆発し、警察官2人と通行人7人が重軽傷を負う事件がおきました。クリスマス・ツリーに偽装して、時限爆弾が仕掛けられていたのです。この事件の6日前には、土田警視総監邸でピース缶爆弾が爆発する事件があったばかりでしたから、いよいよ新左翼の爆弾テロが、市井の人々を巻き込んだ無差別テロにまで広がり始めたのかと、世間の注目を集めた事件でした。あの当時は、国内で手製の爆弾の爆発事件が連続していましたが、現在欧州や中東中心に起きている爆弾テロなどに比べると、爆弾の殺傷力に差はありましたが、劣勢に立たされた反政府抵抗勢力がテロに走る構図はそっくりです。
2016.12.24
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クロニクル 有馬記念始まる1956(昭和31)年12月23日60年前の今日になりますから、有馬記念も還暦ですか。この日第1回の中山グランプリのレースが、中山競馬場で開催されました。この中山グランプリが翌年から、レースの生みの親である、当時の日本中央競馬会理事長、有馬頼寧氏の名を冠して、有馬記念と改称されたのです。有馬記念誕生のいきさつは、中山大障害を売り物にしていた当時の中山競馬場が地味で、東京競馬場に比べて売り上げが伸びなかったため、有馬の肝いりで大レースを計画したのです。しかも有馬は、ファンがより親しめるようにと、野球のオールスターゲームにヒントを得て、ファン投票で出走馬を決める方式を採用、話題を集めたのでした。競馬のオールスターレースは、当時の世界の競馬先進国でも類を見ない画期的な選抜方法でした。この構想は当たり、中山大レースは大変な人気となったのですが、翌57年の1月9日に、発案者の有馬が急死したのです。このため、有馬の功績を讃えて、同年12月の第2回大会から、「有馬記念グランプリ」と名を変えたのです。今年の有馬記念、明後日ですね。
2016.12.23
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クロニクル 教育基本法の見直しを…2000(平成12)年12月22日16年前の今日、首相の諮問機関として鳴り物入りで成立した教育改革国民会議は、会議をリードした香山委員の提言をベースに、教育基本法の見直しを森首相に提言しました。この日の会議の結論を受け、小泉、安倍両首相の下でも継続した教育改革国民会議は、文部科学省や中央教育審議会と縄張り争いを繰り広げつつ、いくつもの提言を提出しました。そこでの議論の特徴は、教員の自発性や専門性、そして教育の対象者である学習者(児童や生徒)の個別具体的な状況に照らしての教材や指導案作りの努力(教育プランの開発)を無視した、上からの押し付けにありました。問題の多い、教育基本法の改正は、2007年の参院選前の6月に成立してしまったのですが、実際の教育再生は、個々の教員による学習者の個性に合わせた教案や教材つくりに、即ち個々の教員の熱意とやる気にかかっています。残念ながら、現在の教育改革の議論には、最も大切なこの観点が、すっぽり抜け落ちてしまっています。この点、私は残念でなりません。
2016.12.22
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クロニクル 首都高と東名の接続なる1971(昭和46)年12月21日45年前ですね。この日、首都高速3号渋谷線の渋谷~用賀間が開通しました。これで渋谷線は全線開通となり、首都高速と東名高速とが接続されました。ちょうど30代前半の74年から75年にかけ、組合の役員をやっていた関係で、都心からこの道を通って、当時住んでいたよみうりランド前まで、深夜のご帰還というのが、何度もありましたので、この道は懐かしい道です。深夜でも渋滞が多かったですね。
2016.12.21
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クロニクル 松下村塾開校1857年12月20日(安政4年11月5日)丁度今から159年前のことになります。この日、吉田松陰は、萩で松下村塾を開校しました。ご承知の通り、松陰は長州藩出身の明治維新の英傑たちの師として知られ、松下村塾の門下生には、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、前原一誠、山田彰義らが名を連ねています。ただ実際に松陰が、門下生を指導した期間は、そう長いものではありません。翌1858年、幕府が朝廷の勅許を得ることなく、日米修好通商条約を結んだことに怒り、倒幕と筆頭老中の間部詮勝の暗殺を主張して失敗、捕えられて投獄、その後江戸に護送され、翌1859年10月に、29歳の若さで刑死しているからです。弟子たちと直接触れ合った期間は短かったのですが、その若さと改革への情熱が、弟子たちの琴線に触れたのでしょうね。
2016.12.20
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クロニクル 小学校6年制へ1906(明治39)年12月19日1873(明治6)年に学制が発布された時、小学校は8年制で、下等4年と上等4年とされ、前半の下等4年について、義務制とまではされなかったのですが、全員が通うようにと通達されました。その後中学校や高等女学校が整備されるに連れ、下等の4年間は義務教育とされ、4年の義務教育を終えた後に、さらに2年間を高等科、高等小学校で学ぶ必要があったのです。明治30年代に入ると、高等小学校に進む児童が増えてきます。そこに日露戦争の勝利による教育熱の高まりが加わり、106年前の今日、政府は義務教育年限をを4年間から6年間に改め、義務教育年限を6年間に延長する旨を発表しました。こうして翌1907(明治40)年から、小学校は6年制に改められ、さらに2年間の高等科が設けられていました。これは、義務教育年限を、将来8年間に延長する布石を残すためでした。事実日米開戦直前の1941(昭和16)年夏、義務教育を8年に延長する法令が成立したのです。しかし、12月の日米開戦を受けて、実施は戦争終結後とされ、結局敗戦によってこの案は一度も実施されずに葬られ、変わって、6・3制に基づく9年間の義務教育とすることになり、3年制の新制中学校が1947(昭和22)年にスタートする事になったのです。来年が70周年になりますね。。
2016.12.19
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クロニクル 日本の国連加盟実現1956(昭和31)年12月18日ちょうど60年前のこの日、国連総会は、日本の加盟を全会一致で承認、日本は80番目の国連加盟国となりました。1933(昭和8)年に国際連盟を脱退してから、23年振りの国際社会への復帰でした。日本は1952(昭和27)年にサンフランシスコ講和条約の発効で、占領状態を脱した直後から、国連への加盟を希望していたのですが、ソ連との間に平和条約が締結できず、国交も回復しない状態が続いたために、加盟に必要なソ連の理解が得られず、参加できない状態が続いていました。何故かと言うと、当時の国連では、新たに国連への加盟を希望する国は、総会に先立ち、安全保障理事会の承認を得る必要があったからです。安全保障理事会が、新規加盟について、総会への議案提出権を持っていたからです。そして、周知のように安全保障理事会では、米英仏ソ中(当時は台湾)の5カ国の常任理事国は、拒否権を持っています。それ故、ソ連が賛成に回らない限り、即ち日ソの国交が回復しない限り、日本の国連加盟は実現し得なかったのです。吉田内閣は、日ソの国交回復を急がなかったため、状況は改善しなかったのですが、54(昭和29)年に誕生した鳩山内閣は、日ソの国交回復に政治生命をかけるという、鳩山首相の強い決意で、この年10月に国交を回復、これが決め手となったのです。総会に先立って開かれた安全保障理事会の採決で、この年は、議案に拒否権を持つソ連も賛成に回り、念願だった日本の国連加盟が、ようやく実現したのです。
2016.12.18
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クロニクル 介護保険法公布1997(平成9)年12月17日19年前のこの日、介護保険法が公布されました。ただし、実際に施行されたのは、2年3ヶ月後となる2000(平成12)年4月1日でしたでした。介護保険料の徴収と介護サービスの実施が、この法の柱ですが、実施から16年半経過した今日まで、行政の側は、保険サービスの内容を、何とか赤字にならない範囲に収めようと考えているのではないかと、勘ぐりたくなるくらい、頻繁に要介護者が受けられるサービスの内容を変え、請求書類を変えと、要介護者泣かせの朝令暮改を繰り返しています。この点を改め、使い勝手を良くすること、介護する者の負担を軽くする方向に舵をきることが、すぐにでも解決すべき課題のようですね。
2016.12.17
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クロニクル 田中角栄元首相死す1993(平成5)年12月16日23年経ったのですね。23年前のこの日、元首相にして、ロッキード事件の刑事被告人でもあった田中角栄(通称カクさん)元首相が、死去しました。75歳でした。1972(昭和47)年に、54歳の若さで首相に就任。小学校卒の学歴から、今太閤と囃されて人気も沸騰、日中国交回復に成功するなど、治世の前半は順調でしたが、石油ショックの到来と狂乱インフレに悩まされ、田中金脈を追求されて、74年11月、辞任を余儀なくされました。その2年後の76年2月、ロッキード事件が勃発、7月末に逮捕されました。逮捕された田中元首相は、自分を逮捕させた自民党政治への報復を目指して、数は力とばかり、自派閥の拡大に熱中。50~60人規模だった派閥の適正規模を無視して、100人を超える超大派閥に育てて、キングメーカーとなって、党内に隠然たる力を振るいました。金権体質に染まりきった自民党と日本政治という図式が、ここに出来上がりました。その後、85年に脳梗塞を煩い、政界を引退。一審で有罪判決を受けて、直ちに控訴していたロッキード裁判も、被疑者病気で開店休業状態になりました。そして、この日、8年9ヶ月の闘病を経て、田中元首相は死去。ロッキード裁判は、最終結論を出すことなく、ウヤムヤの終わりを迎えたのでした。
2016.12.16
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クロニクル ウルグアイ=ラウンド合意1993(平成5)年12月15日23年前のこの日、ガット(関税・貿易一般協定)のウルグアイラウンドが、ようやく合意に達し、日本はコメの部分的市場開放に踏み切りました。「コメ市場は開放しない」と言い続けてきた日本政府と農林水産省(当時)は、当初の関税率は200%や300%でも認めると説得され、工業製品の関税率の引き下げで、最も利を得る立場でもあり、拒否し続けるわけにいかないと、ようやく重い腰をあげたのです。それから数年後、高い関税率を維持するなら、最低限度の米輸入を義務付けられる年限に達し、工業用に利用するか、倉庫に積んでおくしかない米を、お金を払って輸入するようになり、今に至っています。倉庫の保管料も嵩むのですが、長期の保管で黴の生えた事故米を、工業用と偽って超安価で買い入れ、それを煎餅などの加工食品会社に横流ししていたあくどい業者が登場、社会問題になったのは、皆さん御存知の通りです。
2016.12.15
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クロニクル 石橋湛山総裁誕生1956(昭和31)年12月14日 60年前のことです。この日行われた自由民主党総裁公選において、石橋湛山氏が第2代総裁に選ばれました。 前年11月15日に、自由党と民主党が保守合同を成し遂げ、鳩山一郎民主党総裁が初代総裁に就任しました。鳩山総裁は日ソ国交回復を花道に辞任することが確実視され、後任には旧自由党総裁にして、当時自民党副総裁の緒方竹虎氏の就任が確実視されていました。ところが緒方氏は、この年1月28日に急性心不全のため、急死されたのです。そのため総裁レースは混沌とした情勢になりました。ここに後継総裁レースは、岸信介、石橋湛山、石井光次郎(シャンソン歌手の石井好子さんは、ご令嬢です)の3氏の争いとなりました。総裁レースは、札束乱れ飛ぶ猛烈な票の奪い合いの中、週刊誌の命名したニッカ(2つの陣営から金をもらう議員)、サントリー(3陣営全てから金を受け取る)の語が流行する中、この日早暁、石橋、石井両派の会合で2,3位連合の密約が結ばれたのです。資金力に勝る岸氏優位の情報の中、両派は激しい2位争いを演じて票を伸ばし、第1回投票で1位となった岸氏の票は、過半数を割り込みました。ここに2位となったた石橋氏との決戦投票が行われ、石橋氏が岸氏に逆転勝利して、第2代自民党総裁に就任したのです。石橋氏は首班指名を受け、内閣をスタートさせましたが、病に倒れて国会での所信表明演説に立つことが出来ず、就任2ヶ月で辞意を表明、札束飛び交う総裁選への世論の批判も強かった事から、岸氏への禅譲を発表したのです。こうして57年2月に岸内閣が誕生する運びとなったのです。
2016.12.14
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クロニクル ドン・キホーテ放火事件2004(平成16)年12月13日12年前のことです。この日の夜間、埼玉県さいたま市内で、量販店「ドン・キホーテ」の2店舗「浦和花月店」と「大宮大和田店」が、続けざまに放火の被害にあいました。2店舗のうち、浦和花月店は全焼し、アルバイトの従業員3人が焼死、顧客ら8名が負傷する惨事となりました。焼死した3人の店員は、一度は店内から脱出したものの、顧客の避難誘導のために再突入して焼死したもので、責任感の強さから犠牲となりました。大宮大和田店の放火は、浦和花月店の約2時間後であったため、警戒中の店員の発見が早く、大事に至らず消し止められました。事件の後日談です。大火に至らなかった大宮大和田店では、警戒中の店員が、2日後の同月15日に、放火しようとしている女性を見つけ、警察に通報しました。捜査を担当した埼玉県警は、通報をもとに操作を続けて、市内に住む40歳代の無職女性を割り出して逮捕、ドン・キホーテをはじめ7件の放火についても容疑を固めて、起訴しました。 起訴された女性は、容疑を否認し続けましたが、さいたま地裁は女性に対し無期懲役の判決を下しました(2007年3月)。 その後、高裁も女性側の上告を棄却し(08年5月)、2008年11月17日には最高裁も上告を棄却、1・2審での無期懲役判決が確定しました。
2016.12.13
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クロニクル 韓国で粛軍クーデタ始まる 1979(昭和54)年12月12日またまた韓国政界が大揺れに揺れていますが、これで何度目でしょうか。隣国ですが、あの国では10年に1回よりも頻度が高いようですね。これも民主主義が成熟に至る過程の学習過程の一つなのでしょうね。逆に言うと、そういう多揺れがあまり見られない日本、まだまだ修行が足りないとも言えそうで、韓国に学ぶべき所も少なくないような気がしなくもありませんね。今日のテーマは、37年前の韓国です。同年10月26日、朴正煕大統領が暗殺された後の政治的混乱の中で、軍内部の派閥争いも激化していきます。そうした中で、いずれも後に軍をバックに大統領職に就くことになる、全斗煥や盧泰愚らを中心としたグループが、この日参謀総長公邸を強襲して軍事叛乱を起こし、やがて軍の実権を握るに至ります。ここに、韓国民主化の芽はいったん摘まれ、軍部独裁がなお続くに至るのですが、そのきっかけを作ったのが、ここに取り上げた粛軍クーデタと呼ばれる出来事でした。
2016.12.12
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クロニクル マーストリヒト条約締結1991(平成3)年12月11日あの日から今日で25年。今はユーロが揺れています。25年前のこの日、欧州共同体(EC)首脳会議は、マーストリヒト条約を締結し、欧州連合(EU)を創設すること、参加国で、99年までに通貨統合を実現することの,2点の合意に達しました。やがて、導入する共通通貨にはユーロの名がつけられ、市民権を得ていくのですが、マーストリヒトの合意が発表された当時にあっては、一定の政治統合までは進むであろうが、共通通貨の導入までは難しいのではないかとの、空気が一般的でした。私もそう思っていた1人です。通貨の発行権は、主権国家にとって手放したくない最重要の権利であり、かつ経済政策の重要な手段です。こんな大事な権利を、大陸国家のフランスやドイツが唯々諾々と手放すはずがない、そう考えたからです。しかし、ドルの1人勝ちは許せない。ドルの1人勝ちを阻止するには、ドルに対抗し得る通貨を創るしかない。それには、まず国家同士が、過去の対立の歴史を超えて、連携を深めるしか道はないとの合意に至り、19世紀のナポレオン戦争以来、いやそれより早くルイ14世の膨張主義から、犬猿の仲だったドイツとフランスが手を組み、独仏連携を中軸に、通貨統合への道が進んだのです。米国の覇権を阻止するためには、ドルよりも強く、信頼される通貨を作成し得るか否かにかかっていると思い定めた、独仏の執念が感じとれる出来事でした。そのユーロが危機に陥り、難しい状態に陥っています。この危機を乗り越えるには、参加国が財政統合への道へ踏み込む必要があります。欧州はそこまで進めるでしょうか。英国が勝手に出ていったことで、やりやすくなった面も確かにありますが、今がまさに正念場であることは確かです。
2016.12.11
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クロニクル 電気釜の登場1955(昭和30)年12月10日それは記念すべき日でした。61年前のこの日、東芝は自動式電気釜を製品化し、大々的に売り出しました。1度電源をONにすれば、後は炊き上がれば自動的にスイッチが切れるので、炊飯中に見張っている必要もなく、あっという間にクチコミで主婦の間に広まり、大ヒット商品になりました。家庭の電化と、主婦労働の軽減化の第1歩は、炊飯器=電気釜によって記し付けられたのです。やがて60年代入る頃には、掃除機、白黒テレビ、二層式洗濯機、そして冷蔵庫と、電化製品のヒット商品が勢揃いするにいたります。 こうした製品群が、主婦労働を軽減し、時間に余裕の出来た主婦たちは、パートタイムの労働力として、不足がちの労働力を下支えし、かつまた消費の刺激剤にもなるなど、二つの面で高度経済成長に、プラスの効果を齎しました。
2016.12.10
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クロニクル 三木内閣発足1974(昭和49)年12月9日42年前のこの日、三木武夫内閣が発足しました。首相の金脈問題で、田中内閣が総辞職した後、次期自民党総裁を巡って、福田・大平の両雄対決の様相が日ごとに強まっていました。ここに三木・中曽根の2人も参加しての総裁戦となれば、金脈批判を浴びた自民党が、再び金権選挙をやっていると、世間の指弾を受けるのは確実でした。そこから総裁公選を回避しようという動きが強まり、総裁選に出馬意欲を持たない椎名副総裁に、後継選びを一任しようという気運が高まりました。4候補もこの案を受け入れたため、椎名氏は12月2日に、「後継総裁に三木武夫君を推す」とした有名な椎名裁定を発表しました。「福田君、大平君のどちらを推しても、しこりが残って将来に禍根を残すし、中曽根君はまだ力不足であるから、ここは残る三木君でいくしかないと考えた。」と、後に椎名氏自身が語っています。しかし、本当にそれだけの理由だったのでしょうか? もっと浦に何かあったのではないか、そんな気が今でもぬぐえずにいます。昭和政治史の謎の一つのような気がしています。
2016.12.09
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クロニクル 14才から刑事罰2000(平成12)年12月8日16年前のことです。この日、刑事罰の対象年齢を、16歳から14歳に引き下げる少年法の改正が施行されました。多発・悪質化・低年齢化する少年犯罪にどう対応するかを議論した結果でした。バブル期以降の日本では、終身雇用の伝統に風穴があき、自信を失った大人たちの姿が目立ち、社会規範の衰えが感じられました。そうしたいきさつが少年達にも現れ、学校や家庭、さらには地域の教育力の衰え、テレビゲームに嵌まり過ぎた思考のデジタル化などが複合的な要因となって、様々な少年犯罪の増加が目立ちました。こうした経過から成立した改正だったのですが、現在までのところ一向に抑止効果を発揮しているようには見えません。問題の根を断ち切る本質の改善を目指さない限り、状況の改善は難しいのですが、安倍内閣の目指す教育改革の方向は、こうした問題の解決に逆行しているようにしか見えないのが、残念です。
2016.12.08
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クロニクル 東京タワー プレオープン 1958(昭和33)年12月7日最近は東京スカイツリー人気の影に隠れがちですが、それでも隠れたファンが多い東京タワー、実は58年前の今日が、東京タワーのプレオープンの日でした。着工は、前年1957年の6月でした。地鎮祭が行われたのが、6月29日、定礎式は同年9月21日に行なわれています。これだけの建物が1年少々の期間で作られたのですから、驚きです。塔頂に80mのアンテナを取り付け、工事が竣工したのは、58年10月14日のことでしたから、地鎮祭から1年3ヵ月半で完成したのですね。その後、最後の点検が行なわれて、58年前の今日プレオープン。完工式が12月23日に行なわれて、この日が正式オープンとなりました。一般公開は翌日のクリスマスイヴ、午前9時からとなりました。粋なクリスマスプレゼントといえそうですね。この年は、4月にジャイアンツから長嶋選手がデビューして、プロ野球人気が沸騰し、11月には皇太子(現天皇)の婚約が発表され、そして12月に東京タワーのオープンと、めでたいことの多い1年でした。60年の池田内閣の登場で本格化する、高度経済成長の助走が始まった時期が、まさにこの頃だったのです。
2016.12.07
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クロニクル 蓄音機の誕生 1877(明治10)年12月6日139年前になります。この日エジソンの製作した第1号の蓄音機が稼動しました。そこでこの日が蓄音機の誕生の日とされています。ただし、かつてブロ友のkopandaさんがブログに書かれたと記憶しますが、厳密に言うとエジソンは蓄音機の発明者ではありません。彼は蓄音機を人気商品に仕立てた普及者の役割を担ったといえるようです。現在では、エジソンの2年前の1875年にフランス人エドワード・レオン・スコットが発明したフォノトグラフが蓄音機およびレコードプレーヤーの前身だったと認められています。しかし惜しいことに、スコットのフォノトグラフは音を紙の上に図形として記録する器械でした。そのため再生機能を持たなかったため、通常の意味での蓄音機ではなかったのです。それでもエジソン以前に録音された音楽が存在したことは否定できません。エジソンが発明したのは、錫箔を巻いた円筒式レコードです。ここに再生可能なレコードが出来、蓄音機とセットで販売されました。このレコードは後に蝋(ろう)管式になり、1889年頃にエミール・ベルリナーにより円盤式レコードへと改良されたのです。円盤式レコードの登場により、蓄音機の販路も拡大しました。日本でいつ頃登場したのかというと、1910年(明治43年)に国産蓄音機ニッポンノホンが発売されたのが最初です。この時は、軍艦マーチなどが収録されたレコードが付属品としてセットになっていたそうです。
2016.12.06
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続・メアリー・セレスト号事件メアリー・セレスト号事件の続編です。今回で終りの積りです。海賊の襲撃説や、海上の竜巻に出会ったのではといった説は、船や積荷が無事なことから、すぐに否定されました。乗組員の反乱によって、ブリッグズ船長は殺され、船長の家族は救命ボートで脱出したのではないかとする説も、否定されています。それは、船長や乗組員を知る人々が、こぞって彼らが皆敬虔なピューリタンであり、夫々が公明正大で誠実な人物だったと証言し、異口同音に船内での暴動の可能性を否定していることが、決め手でした。さらに、仮に乗組員の暴動があったのなら、少なくとも船長派か反船長派のどちらかが船に留まっているはずだ。同士打ちで全滅したのなら、何人かの死体が船内に残っているはずですから…こうして、積荷による事故説が、消去法によって残されました。今世紀に入って、科学史の専門家であるロンドン大学のエイゲル・ウィーザー教授が、化学や建築工学の同僚とチームを組んで、樽から漏出した工業用アルコールが、気化して爆発したのではないかという推測を、模型を使った実験によって、検証されました。作成した船倉の模型は、人間の棺ほどの大きさだったそうです。彼らは、メアリー・セレスト号の船倉の模型を作り、そこに樽に見立てた紙製の箱を並べ、工業用アルコールとしてブタンを用い、やおら船倉を密閉して実験を始めました。船蔵に充満したブタンは、見事に爆発し、船倉の入口の扉を吹き飛ばし、もうもうと煙が立ち込めました。船倉の天井までギッチリと積まれた辰に見立てた「容器」には損傷はなかったといいます。爆発で扉が吹き飛んだとすれば、船内の一部損壊の説明もつきます。船の積荷が工業用アルコールであることを知る船長以下の乗組員は、この爆発と煙に恐怖を感じ、再度の爆発に備えて、一時船を離れ、救命ボートに避難する決断をしたことは、大いにありえます。深刻な事態と認識したでしょうから……。しかし暗い深夜の手作業です。救命ボートのロープがしっかり結べず、ほどけてしまった可能性もありえたでしょう。ウィーザー教授と同僚達の実験は、バイヤー教授の説を補正し、補強したといえるようです。化学に門外漢の神父がまとめましたので、要点を得ないところもあろうかと思いますが、これにてお許しください。
2016.12.06
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クロニクル 最後の将軍第15代慶喜即位1866(慶應2)年12月5日150年前になります。この日、徳川幕府の最後の将軍となる慶喜が第15代将軍として即位しました。時に慶喜は30才でした。この年7月20日、14代将軍家茂が逝去。水戸徳川家の出身で一橋家を継いでいた慶喜が、相続者となり、この日、将軍宣下を受け、ただちに即位したのです。慶喜は、4年前の62年に将軍後見役となり、以後主に京都にあって、公武合体派として活躍、徳川幕府の最後の切り札と目されていた人物でした。就任後、彼はフランス公使ロッシュとの連携を推進、幕府の主導権回復に努めたのですが、時勢の流れはいかんともし難く、翌67年10月には、大政を奉還して将軍職を辞しました。即位から10ヶ月後のことでした。閑話休題 慶喜と言えば、第2帝政下のフランス皇帝、ナポレオン3世から贈られた軍服が気に入り、軍服姿の馬上の慶喜の写真が有名です。実を言うと、1860年代の写真撮影には、なお3分程度の露光時間が必要だったとされていますから、あの写真の撮影は、かなり大変だったろうと思います。
2016.12.05
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メアリー・セレスト号事件4日の日記に記したメアリー・セレスト号事件について、もう少し詳しく記します。144年前の12月4日、メアリー・セレスト号の1週間後に同じニューヨーク港を出発したデイ・グラチア号が、ポルトガル沖を漂流していたメアリー・セレスト号を発見した時、2時間ほど同船を観察した後、遭難信号を発していないけれど、操船できずに漂流しているものとみなして、ボートを下ろして、数名の成員を救助に向わせました。救助隊員は、甲板がびしょぬれであること、船倉が一部浸水状態になっていることに気付きますがその他には何の異常もないのに、船内をいくら探しても、誰1人発見することが出来ないと、船長に報告しました。さらに丹念に調べると、前部のハッチと食糧貯蔵庫の扉が共に開いていること、掛時計は止まっており、羅針盤は破壊されていて、六分儀とクロノメーターはなくなっていました。この状況から、メアリー・セレスト号が遺棄されたものと、彼らは判断しました。さらに調べると、救命ボートが無理やり船から引き剥がされたような痕がいくつか見つかり、11月24日までの記載のある、船長の航海日誌も見つかりました。食糧貯蔵庫には6か月分の食糧と水も残されていましたし、積荷の1700樽の工業用アルコールも、9樽が空になっているほかは、何事もなかったように整然と積み上げられていました。そこで、デイ・グラチア号のモアハウス船長は、近くのジブラルタルまでメアリー・セレスト号を曳航し、海難事故の届出を済ませました。当時は海難事故は珍しくなく、メアリー・セレスト号の不幸も、大きな注目を集めることはありませんでした。海難裁判所は、デイ・グラチア号の船長と乗組員に対し、船体と積荷の評価額の15%を褒賞として与え、残りは船会社と荷主に返還しました。これが当時のいきさつです。メアリー・セレスト号の船内で、24日の深夜から25日にかけて何事かが起り、船長はじめ誰もが以後の航海日誌を記すことが出来ない状況に陥ったことは、歌が卯余地がありません。では何が起きたのでしょうか。最も信憑性の高い説は、内部が空になっていた9樽の工業用アルコールの揮発が原因とする説です。イギリスの歴史家コンラッド・バイヤーは、次のように説明します。これは船長の航海日誌に書かれていた事実ですが、ブリッグス船長は、アルコールという引火性の高い危険物を搬送した経験はなく、船内火災を常に心配していました。バイヤーはそこから、船長はおそらく24日の夜に、アルコールの漏れている臭いに気付き、船倉の扉を開くように命じた。9つの樽からアルコールが漏れ出していたとすると、船倉内部には靄が充満していたはずですから、その靄がアルコールの匂いと共に勢いよく船全体に流れ出ます。アルコールの漏出による火災を心配していたブリッグズ船長は、乗組員と家族に対し、ただちに救命ボートに移ることを命じます。救命ボートに移った一行にとって不幸だったのは、闇の中の作業だったため(アルコールに引火することを恐れたため、灯りを準備して船から脱出することは出来ないのです)、やっとの思いで、救命ボートを船に繋ぎとめました。しかし、別の船の航海日誌から明らかになるのですが、翌日25日のアゾレス諸島周辺は、激しい暴風雨に見舞われています。メアリー・セレスト号は全ての帆を掲げて航行していましたから、かなりの勢いで走ります。そのスピードに何人もの人を乗せた救命ボートがついてゆけるはずはありません。かくして、ロープはちぎれ、救命ボートは親船から引き剥がされてしまい、乗員たちは、一部は波に飲まれ、他は飢えと寒さで体力を使い果たし、衰弱死したと推定されたのです。バイヤーは、この事件について、根拠の乏しい作り話が飛び交うことを憂慮し、分かっている事実に即して、いくつかの仮説を加えて、事実に近い推定を発表したのです。 続く
2016.12.05
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クロニクル そして誰もいなくなった 1872(明治5)年12月4日144年前のことです。米国船籍のメアリー・セレスト号が、無人のままポルトガル沖を漂流しているのが、発見されました。メアリー・セレスト号は、同年11月7日に、ニューヨーク港を出発しました。船には、船長ベンジャミン・ブリッグズと7名の船員、それに船長夫人と娘の計10名が乗っていました。船には工業用アルコールのメタノールが積み込まれ、イタリアのジェノヴァに向う予定になっていました。無人の船内で発見された船長の航海日誌は、11月24日までが記され、この日船がアゾレス諸島の西方100マイルの地点を航行している事が、記されていました。12月4日にメアリー・セレスト号を発見したデイ・グラチア号は、メアリー・セレスト号より7日後にニューヨーク港を出航した船です。7日前に出航した船が、なぜまだこんな所にといぶかった船長が、船員を救援に行かせ、メアリー・セレスト号の船内に、誰もいなくなっていることを発見したのです。船内には、襲われた後があり、羅針盤が壊され、救命ボートは切り離されていましたが、食糧はそのまま、積荷の工業用メタノールは、そのほとんどが残されていました。ですから海賊に襲われたわけではなさそうですが、なにしろ消えてしまった10人の行方がようとして分からないのですから、どうにもなりません。というわけで、メアリー・セレスト号事件は、今日まで海洋航海史上最大の謎とされています。
2016.12.04
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クロニクル PKO協力法衆院を通過1991(平成3)年12月3日25年前のことです。この日、PKO(国連平和維持活動)協力法が、衆議院で可決されました。しかし、2年前の89年の7月に行われた参議院の選挙で、その年4月にスタートした消費税の導入と宇野首相の女性スキャンダルをダブルで批判された自民党は大敗。PKO協力法は、衆院を通過したものの、参院での審議を急いで進めることが出来ず、12月20日に次期国会での継続審議となりました。その後、翌年の通常国会で、ようやく参院の審議が行なわれ、野党の主張を入れた修正を施してようやく可決。ただちに衆院に再送付して、6月15日の衆院本会議で、可決成立という運びと成りました。この段階では、駆けつけ警護など、全く話題にも上らず、護身用の武器の携行にすら、厳しい条件が付けられたのでした。
2016.12.03
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クロニクル ナポレオン三世即位1853(嘉永6)年12月3日163年前です。ペリーの艦隊が浦賀にやってきたのと同じ年ですね。この日、ルイ・ナポレオンがフランス皇帝ナポレオン三世として即位し、フランス第二帝政を樹立しました。ルイ・ナポレオンは、大ナポレオン(フランス皇帝ナポレオン一世)の甥(弟の子)にあたります。1848年の二月革命を受けて、同年12月10日に行われた男子普通選挙での大統領選に圧勝(有効投票の74%強を獲得)し、大統領に就任しましたが、二月革命によって成立したフランス第二共和政憲法は、大統領の再選を認めていませんでした。そのため、長期政権を狙うルイ・ナポレオンは、憲法に再選を可能とする条項を盛り込むことを目指しましたが、議会の3分の2の支持を得ることができずに失敗、クーデターで政権を維持する決意を固め、この日のちょうど1年前、1852年の12月2日にクーデターを決行し、終身大統領の地位に着いたのです。そして、事態の落ち着くのを待って、国民投票を実施し、大多数の国民の支持を得たからという理由付けで、この日皇帝の座についたのです。ここに第二共和政は葬り去られ、第二帝政にとって変わられました。
2016.12.02
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クロニクル 上田~軽井沢間の鉄道開業1898(明治31)年12月1日時代的には、日清戦争と日露戦争の間、2年後の1900年には、義和団事件で中国(当時は清国)に出兵する、そんな時代でした。118年前の今日です。官営鉄道の上田~軽井沢間の延伸工事が完了し、この日営業運転を開始しました。ここに信越本線の直江津~軽井沢間が鉄道で結ばれました。横川~軽井沢間は、既に1893(明治26)年に開通していましたから、高崎~直江津間も繋がったことになります。長野新幹線の開業後、上野からの信越本線は、横川止まりとなり、現在は横川~軽井沢間はバスのみの運行となっており、軽井沢~上田間は、第三セクターの「しなの鉄道」によって、運行されています。
2016.12.01
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