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クロニクル トルーマン(米大統領)の爆弾発言1950(昭和25)年11月30日66年前のことです。この日、トルーマン米国大統領は、戦争中の朝鮮半島で原子爆弾を使用する可能性について、「原爆の使用もありうる」と発言しました。当時の朝鮮戦争の戦局は、10月に中国義勇軍が参戦したこともあって、韓国側優勢の状況から再度転換、38度戦を巡る攻防へと移りつつあった矢先のことでした。このトルーマン発言は国際的な波紋を呼びました。「米国の核兵器使用は、核爆発を成功させているソ連の核兵器使用を招き、大変なことになる」と、欧州諸国をはじめ、国際的な批判を浴びたのです。その上米国内でも反対の声が強まり、結局大統領は、使用を断念せざるを得ませんでした。使われなくて良かったです。
2016.11.30
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クロニクル イラクで日本人外交官2名が射殺2003(平成15)年11月29日あれから13年前ですか。あの頃のイラクは、米国が国連を無視して強行した「イラク戦争」の最中でした。米国は、国連の同意を得られないままに、イラク攻撃をはじめ、イギリスや日本などは、そうした米国に協力して、イラクに兵を派遣していました。いかに後方任務と言っても、イラクの人たちにとってみれば、自国を攻撃している米国の仲間であることに替りはありません。そんな状況下のこの日、2名の日本人外交官が、イラク北部のティクリートを車で走行中、後方から迫ってきた車に銃撃され、運転手を含めて射殺されました。当時の小泉内閣は、「テロの可能性が高い」との判断を示し、当時のイラク暫定政府(アメリカの傀儡政府)は、フセイン残党の所業と発表しましたが、珍しいことに実行犯の声明がなかったことから、13年経った現在も真相は藪の中のままです。
2016.11.29
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クロニクル ローハイド放映開始1959(昭和34)年11月28日「ローレン ローレン ローレン…」と言っても、ソフィア・ローレンのことではありません。土曜日の夜10時、テレビ朝日(当時はNET)で流れたフランキー・レインの歌声です。年配の方なら覚えていらっしゃるでしょう。西部の牛追い、カウボーイたちの物語。ローハイドです。テキサスの牧場主から預かった牛を、東部へ運ぶ鉄道の駅まで長い距離を運ぶ、ロングドライヴの話です。隊長のフェイバーさん、ロディ(若い日のクリント・イーストウッドでしたね)にピート、そして料理番のウィッシュボーンじいさん。懐かしいですねぇ。女子学生にはフェイバーさんファンが多かったですが、私はウィッシュボーン爺さんが好きでした。そうなんです。そのローハイド、実は57年前の今日、日本での放映が始まったのです。放映は65年まで続き、全217話が放映されました。日本での番組スポンサーは洋酒の寿屋、現在のサントリーでした。 それにしても、あの白黒の画面、懐かしいですね。「名犬ラッシー」に「ララミー牧場」「ベン・ケーシー」なども良くみた記憶があります。
2016.11.28
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クロニクル 全学連国会に突入1959(昭和34)年11月27日この出来事が、安保改定反対闘争の存在を一躍全国区にし、その後、戦後日本における、最大の反政府運動にまで成長する、最初の契機となった出来事でした。社会党、総評、共産党を中心とする安保改訂阻止国民会議は、4月に結成され、同月15日に第一波の統一行動を行い、以後毎月1回のペースで統一行動を組み、広く国民に改訂安保の問題点をアピールする活動を行ってきました。57年前のこの日は、その第8回の統一行動日でした。そして、この日の行動には当時大変勢いのあった全学連もまた参加することになっていました。安保改訂阻止第8波統一行動は2万人のデモ隊が国会へ請願行動を行ったのですが、デモ隊の先頭を歩いていた全学連のグループは、国会前で集会を開き、そのうちに「国会へ!」の声に押されて、指導部は国会正門から国会の敷地内に突入することを決断したのです。最初から計画していたわけではなく、いわばハプニングで起きた出来事でしたが、その後、逮捕状の出た、唐牛健太朗(彼は北大の学生でした)委員長らが、東大の駒場寮に篭城して、逮捕を拒み(大学の自治の観点から、当時は大学当局が官憲の大学構内への立ち入りを拒否していたのです。この一線が崩れ、大学当局が官憲の構内立ち入りを認めるようになるのは、1968年の学園闘争がきっかけでした)、それをマスコミが報道する中から、安保とは何か、何が問題かが、詳しく報じられるようになり、米軍の戦争に、日本が引きずり込まれる危険性のあることが、次第に広く知られるようになって行きました。 一方でこの日は、当時の皇太子(現在の平成天皇)と正田美智子さんの婚約が発表された日でもありました。学生たちを含め、日本が元気な時代の出来事でした。
2016.11.27
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クロニクル 日本ペンクラブ発足1935(昭和10)年11月26日81年前の出来事です、この日国際ペンクラブの日本センターという位置づけで、日本ペンクラブが発足、設立総会で初代会長に島崎藤村が選ばれました(現在の会長は第16代の浅田次郎氏)。ペンクラブは、文筆業に従事する人々の組織で、言論・出版・表現の自由を守るために活動し、同時に国際間の文化交流の推進を計ること目的に、活動を続けています。 なお、現在の会員数は、会員名簿によると1,758人を数えます。
2016.11.26
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クロニクル 第1回帝国議会召集1890(明治23)年11月25日126年前のこの日は、近代日本にとって、記念すべき日でした。日本における国会は、この日初めて召集され、開会の日を迎えたのです。大日本帝国議会は、制限選挙制に基づき、国民が議員を選出する衆議院と、任命制を基本とし、一部議員が指定された団体から選出される(例えば帝国大学教授から○名というように)貴族院の二院制でした。前年1889(明治22)年2月11日に発布された大日本帝国憲法の規定に基づき、国会の権限は、天皇の諮問機関と位置づけられ、選挙権、被選挙権はかなりの有産者に限定されていましたが、有産者は自分の立場を自覚し、広く全国民的視野に立って、貧しき人々の立場をも代弁し、内閣に対し、民力の備えを強く訴える立場をとり、単なる御用機関に留まらない活躍を見せました。初期の議会には、そういう点で、かなり骨っぽい議員が揃っていたのです。なお、初代衆議院議長には、中島信行氏が就任しました。
2016.11.25
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クロニクル 東京初空襲1944(昭和19)年11月24日72年前のことです。この日、マリアナ基地より飛来した80機の米軍機(B29爆撃機)によって、中島飛行機武蔵野工場が爆撃されました。米軍機による、初めての東京空襲でした。 米軍機による本土爆撃は、同年6月16日の北九州爆撃を皮切りに、11月までに8回行なわれましたが、いずれも中国四川省の成都基地から発したB29爆撃機によるものでした。マリアナ基地からのそして首都東京への爆撃は,この日が初めてでした。B29爆撃機は、高度1万メートルの高高度からの爆撃が可能で、この日以降、名古屋や川崎の航空機工場が次々と爆撃を受けました。 しかし、高高度からの爆撃は正確さを欠き、米軍にとっても成果は不満足なものだったらしく、日本の高射砲の到達高度を見切った翌45年3月以降は、低空での焼夷弾による無差別爆撃に切り替えられました。こうした無差別爆撃は、広島・長崎への原爆投下を待つまでもなく、非軍事的目標や市民に対する故意の攻撃でしたから、既にして明確に当時の国際法に違反する行為でした。
2016.11.24
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クロニクル ウィンドウズ95日本語版発売1995(平成7)年11月23日21年になるのですね。この日、米マイクロソフト社は、自社製品「ウィンドウズ95」の日本語版を発売しました。ここに日本でも、本格的なパソコン時代が到来することになりました。従来使われていたオフコンに比べ、安価な費用で、ワークステーション方式でパソコンを繋いでいく方法は、急速に普及し、小規模事業所などでも、パソコンが使用されるようになりました。また個人用、家庭用としても急速に普及を遂げ、今日のパソコン時代の幕を開きました。同社社長のビル・ゲイツ氏の名が、日本中に知られるようになったのも、この頃のことでした。
2016.11.23
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クロニクル カイロ会談始まる1943(昭和18)年11月22日73年前のこの日、エジプトのカイロで、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ローズヴェルト、イギリス首相チャーチル、中華民国総統蒋介石の3国首脳によるカイロ会談が始まりました。会談の目的は、対日講和方針の摺り合わせでした。この年9月8日には、イタリアが降伏しており、対独、対日戦線でも、連合国の優勢がはっきりしてきた時期でした。すでに10月末には、対独講和方針が米・英・ソ3国外相によって協議されていました。カイロ会談は、27日まで行なわれ、最終日の27日に3首脳は「カイロ宣言」に調印、調印後ただちに、「宣言」の全文が発表されました。カイロ宣言は、日本に対し日清戦争で清国から獲得した、台湾・澎湖島の返還を指示していますが、尖閣諸島については、一言一句も言及していません。即ち、中華民国は蒋介石を含めて、尖閣諸島を中華民国領と認識していなかったことが、ここに示されています。
2016.11.22
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クロニクル カーネル小父さん登場1970(昭和45)年11月21日46年前のことです。この日、名古屋市西区のダイヤモンドシティ・名西ショッピングセンター内に、ケンタンキーフライドチキンの第1号店がオープンしました。運営は三菱商事と米国の本家KFCコーポレーションが、合弁で設立した日本ケンタッキー・フライド・チキンがあたりました。同社は、当時の日本では、まだ馴染みの薄かったフライドチキンそのものと、フライドチキンを販売するケンタッキーの名に親しんでもらおうと考え、カナダで考案されたものの、そのまま放置されていた、創業者カーネル・サンダースの立像を譲り受け、1号店となった名西店の店頭に設置したのです。名西店そのものは、売れ行き不振で半年で操業停止に追い込まれましたが、子ども達にカーネル小父さんと親しまれた、カーネル・サンダースの立像は、ケンタッキーの店舗の増加と共に、日本各地へ広まり、さらには世界各地にも広まって行きました。
2016.11.21
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クロニクル 国連、子どもの権利条約を採択1989(平成元)年11月20日27年前のこの日、第44回国連総会は、「子どもの権利条約」を採択しました。条約は前文及び全54条の本文からなり、18歳未満を子どもと定義としています。本文は、「国際人権規約」が定めた子ども達の基本的人権を、その生存・成長・発達の過程として、特別な保護を必要とする子どもたちを、子どもの視点から詳説したものです。この「子どもの権利条約」は、翌年春には発効したのですが、日本はさらに4年後の94(平成6)年4月22日になって、ようやく批准しました。 なんだか情けない話です。
2016.11.20
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クロニクル 佐藤内閣赤字国債の発行を決意1965(昭和40)年11月19日今の日本では、財政再建が声高に叫ばれています。累積した国債の発行額が半端じゃないからです。何でこんなに溜まったの?とお感じになりませんか。歴代の自民党内閣のせいですね。戦後の悪性インフレで、戦前「お国のために」と国民がせっせとなけなしの預金をはたいて、政府に協力した国債は、事実上紙屑になりました。そんな経験を持つ、51年前の大人たちは、子供たちに対しても、国債だけは買ってはいけないと、自身の経験を踏まえて教え、諭したものでした。私も両親や親族、友人の親たち、そして学校の先生たちから、同じ話を何度も聞かされました。戦後しばらくの内閣は、吉田、鳩山、…岸、池田までの内閣は、赤字国債の発行を是認せずにやってきたのですが、1964年11月、健康不安から退陣した池田内閣の後を継いだ佐藤内閣は、オリンピック後の不況を打破する手段として、公共事業の大幅積み増しを実行するために、遂に赤字国債の発行に踏み切ったのです。51年前の今日、佐藤内閣は赤字国債の発行を閣議決定したのです。それから、14年後の1979年には、大平内閣が財政再建のための付加価値税の導入を提唱し、これが10年後の1989年の消費税の導入に繋がっていくのです。そして9年後の1998年には、橋本内閣の手で、消費税は5%に引き上げられ、さらに安倍内閣の手で8%に引き上げられました。でもおかしいですよね。消費税が導入されたにも関わらず、財政再建が進むどころか、財政は悪化の1歩を辿っています。これ10%にしたら、再建できますかね。政治家や官僚が、良いように勝手に使って、ちっとも財政再建なんて進まないのが、いままでの日本でした。増税なんて認めずに、破産しないように四苦八苦しながら何とかしろよ…と、出来の悪い政治家連中を突き放しておいたほうが良いだろうと、私は考えています。引き上げを認めれば、どうせ無駄に浪費してしまう連中なんですから…
2016.11.19
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クロニクル フォード米大統領来日1974(昭和49)年11月18日42年前のこの日、フォード米大統領が、現職大統領としては、初めて来日、日本の土を踏みました。米国大統領としては、1960年に改訂安保条約の調印を記念して、当時のアイゼンハワー大統領が、初来日を果たす予定が練られていたのですが、日本国内の安保改訂反対闘争の盛りあがりの中で、大統領訪日の露払い役として来日した新聞係秘書のハガチー氏が、羽田空港で立往生してホウホウの態で引き返したいきさつから、日本政府が辞退する形で訪日は中止されました。こうして74年のフォード大統領の来日が、現職のアメリカ大統領としては、初めての来日になったのです。大統領は、翌日の19日に昭和天皇とも会見しました。
2016.11.18
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クロニクル 公明党結党大会開催1964(昭和39)年11月17日もう半世紀を越えたのですね。52年前のこの日、公明党の結党大会が開かれ、原島宏治委員長、北条浩書記長を選任しました。公明党は創価学会を母体として結成された、日本ではじめての宗教政党です。この日の結党大会以前、既に1959年の参議院議員選挙に6名の候補者を立候補させ、全員の当選を果たして、信者票の威力を見せつけ、3年後の1962年の参院選では、公明政治連盟という政治団体を結成して、9名の立候補者全員を当選させました。その結果参議院の議員は計15名を数え、当時の自民・社会両党に続く、参院での第3勢力にのし上がっていたのです。余勢をかって、衆議院への進出を目指し、この日の政党結成となったのです。衆議院への初進出は、黒い霧解散後の1967年1月の総選挙になりましたが、いきなり25名を当選させて、自民、社会、民社の3党に続く、第4党の地位を掴んだのです。 衆院で議席を確保してからでも来年で50年、今では自民党と連立を組んで政権与党、権力の味を知って、自民党から離れられなくなっているようで、益々気になりますね。宗教が政治にかかわることに、私は賛成できません。
2016.11.17
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クロニクル 石油緊急対策要綱決定1973(昭和48)年11月16日43年前になります。この日政府は、石油危機対策として、石油緊急対策要綱を閣議決定しました。第4次中東戦争に端を発した、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)の石油戦略によって、原油の生産が大きく削減されたため、各国は石油不足に陥り、特に工業生産への影響は大きく、消費生活もまた脅かされていました。日本でも、石油製品や石油化学製品の不足が目立ち、洗剤やトイレットペーパーの買い溜め騒動が起き、一種のパニック状態に陥っていました。そのため、政府としても何らかの指針を発表して、危機乗り切りに向けて、国民の協力を得る必要があったのです。こうして発表された緊急対策で、1、マイカーの自粛2、石油及び電力消費の10%削減などが企業や国民に呼びかけられました。ここから、暖房は22度、冷房は28度に設定することや、都市部のネオンサインは、夜10時を持って、電源を落とすことなどがまとめられ、危機脱却まで継続することになりました。フクシマダイイチの原発事故での節電要請よりも厳しいですね。
2016.11.16
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クロニクル シンザン三冠馬となる1964(昭和39)年11月15日64年は東京オリンピックの年、1ヶ月前の10月15日は、五輪の熱戦の最中でした。そんな52年前の今日は日曜日でした。この日、京都競馬場で開かれた第25回菊花賞で、栗田勝騎手が騎乗したシンザンが、1着でゴールインしました。皐月賞、ダービーに続いて、4歳馬のクラシックレース三冠を達成した瞬間でした。追いすがるライバル達をかわして、2着に2馬身半もの差をつけての圧勝でした。三冠達成は、セントライト以来、23年振り,史上2頭目という快挙でした。しかし、シンザンの強さは、その後もさらに勝ち続けたことにあります。翌年は天皇賞と有馬記念を制し、生涯通産成績は19戦15勝、敗れた4回はいずれも2着と、3着以下に敗れ去ったことが1度もなかったのです。そんな脅威的な成績を残して引退しました。まさに幻の名馬と称された所以ですね。
2016.11.15
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クロニクル 浜口首相狙撃さる1930(昭和5)年11月14日86年前のことです。この日、岡山で行なわれる陸軍の大演習を視察する目的で、東京駅9時発の特急「ツバメ」に乗車しようと、東京駅の4番ホームを歩いていた浜口雄幸首相が、右翼団体に所属する男に、拳銃で腹部を撃たれ重症を負いました。首相は秘書官らの手で、貴賓室に運ばれましたが、偶然、新任の広田弘毅駐ソ大使を見送るために、東京駅に来ていた幣原喜重郎外相が見舞いにかけつけると、「これぞ男子の本懐なり」と語りかけたと言われます。この話を幣原外相から聞いたマスコミ各紙が取り上げ、「男子の本懐」は瞬く間に、大流行語になりました。さしづめ今なら、流行語大賞間違いなしだったでしょう。この狙撃事件では、浜口首相は一命を取り留めましたが、その後の回復は思わしくなく、翌年8月26日に死去しています。なお、狙撃現場は現在の東京駅10番ホーム、東海道線の8号車付近です。さて、浜口首相は奇跡的に一命を取りとめましたが、この時の傷がもとで、翌年8月26日に62才で死去します。満州事変が始まる23日前のことでした。
2016.11.14
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クロニクル ヤンバルクイナの発見 1981(昭和56)年11月13日 丁度35年前になります。この日、山階鳥類研究所は、沖縄県本島北部の与那覇岳で発見された新種の鳥を、ヤンバルクイナと命名したことを発表しました。発見から2006年頃までの25年間、ヤンバルクイナの個体数は減少を続けました。発見から4年後の1985年の調査では、約1800羽の生存が確認されたのですが。それから20年後の2005年の調査での推定生息数は、半分以下の717羽にまで減少しました。マングースによる捕食、5-6月の繁殖期の親鳥の交通事故死などがその原因でした。そのため、様々な保護活動が進められるようになり、マングースの駆除などが進められた結果、最近の調査で、個体数は1500羽程度まで回復していることが確認されましたが、まだ安心できる水準とは言えないそうです。世界中で、ここヤンバルの森にしか生育していないことが判明しているのですから、大事にしたいですね。
2016.11.13
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クロニクル 「おしん」最高視聴率を記録1983(昭和58)年11月12日「おしん」は1983年4月4日~84年3月31日まで297回にわたってほうどうされた、NHKの朝の連続テレビ小説です。もうあれから33年も経っているのですね。この伴組の平均視聴率は52.6%、最高視聴率は本日11月12日放送(第186回「戦争編・東京の加代」)の62.9%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)でした。この記録は現在でもビデオリサーチの統計史上、テレビドラマの最高視聴率記録です。またこの作品は、後にスリランカ、インドネシア、台湾、香港、アフガニスタン、シンガポール、エジプト、イランなど世界63ヶ国や地域で放送され、苦難に遭いつつも決してあきらめない主人公・おしんの姿が、日本だけでなく世界各国で人々の共感を呼びました。現在も、「世界で最もヒットした日本のテレビドラマ」となっています。再放送も何度かありましたね。
2016.11.12
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クロニクル 逗子市長選富野氏初当選1984(昭和59)年11月11日32年前になるのですね。当時横須賀基地を拠点とするようになった米海兵隊員用の米軍住宅を、適当なまとまった敷地がないからと、逗子市の池子の森の一部を開発して、米軍住宅を建設する話が持ち上がり、逗子市民や隣接する葉山町民らを中心とする反対運動が盛り上がっておりました。反対派住民は、計画推進の立場を変えない当時の市長のリコール請求を行い、見事に市長のリコールに成功します。そして、この日迎えた出直し市長戦で、住宅建設反対派の富野暉一郎氏が当選。池子住宅建設問題は白紙に戻り、一から再検討されることになりました。しかし、予算の配分で地方自治体の首根っこを押さえている中央政府の力は大きく、逗子市や葉山町は、次第に追い詰められてゆきます。結局、池子の米軍住宅問題は、その後規模を縮小して建設されることになりました。そして最近まで、なし崩しに拡大していたのです。
2016.11.11
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クロニクル 紀元は2600年の祭典1940(昭和15)年11月10日76年前になります。時あたかも日中戦争が政府の度重なる不拡大方針の表明にも関わらず、統帥権の独立を楯にとった軍部の横車が幅を利かせて、拡大の一途を続けていた時期です。この日、皇居前広場を主会場として、政府主催の紀元2600年記念式典が、盛大に催されました。式典は天皇・皇后両陛下を初め、皇族・首相以下の閣僚・軍人・官僚・各国大使から、全国各地の代表者など、5万人が参加したと報じられています。この年、1940年は、『日本書紀』の記す神武天皇の即位日から、丁度2600年目にあたるとされ、年頭から各地で奉祝行事が相次いで行われており、重苦しい戦時下でありながら、奉祝ムードがなかば意図的に、盛り上げられていました。2600年記念式典は、その総仕上げでした。式典当日のこの日から、14日までの5日間、戦時下で禁止されていた神輿・山車・提灯行列などが特別に許され、祭り期間は昼酒も解禁されるなど、お祭り気分が大いに盛り上げられたのです。しかし、祭りの終わった15日には、大政翼賛会の名で、「祝ひ終わった、さあ働こう!」のスローガンが発表され、束の間の息抜きを楽しんだ国民は、終わりの見えない戦争への協力を強いられてゆくことになりました。
2016.11.10
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クロニクル 日中LT貿易開始1962(昭和37)年11月9日54年になるのですね。54年前のこの日、日本側代表高崎達之助氏と、中国側代表廖承志氏の間で、日中相互貿易に関する覚え書きが調印されました。2人のイニシアルをとってLT貿易と略されます。それから10年後の田中首相の訪中による、日中国交回復まで、日中間は近くて遠い国の状態が続くのですが、日中関係の改善をライフワークとする民間、財界、政界関係者らによる、様々な努力が、日中関係を止ぎらせることなく、細々ながら繋ぎ続けました。その中核に位置したのがLT貿易でした。日本側では、高崎氏の外に、政界の長老松村謙三氏、全日空の岡崎嘉平太氏らの名を、忘れることは出来ません。彼等は、現在の日中関係をどのように見ていらっしゃるのでしょうね。機会があれば、伺ってみたい気がしますが、それが出来ないのが残念です。
2016.11.09
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クロニクル 安保理、イラク査察要求決議2002(平成4)年11月8日14年前になります。この日国連安全保障理事会は、イラクの大量破壊兵器査察の完全実施を求める決議を採択しました。イラクは、5日後の13日に、決議受諾を表明、査察は4年振りに再開されました。この査察要求は、核拡散防止条約に添ったものでしたが、既に核兵器を保有する国々は、不問に付して問題としないのですから、査察を要求される国からすると、納得しがたい要求でした。ところで、決議を突きつけられたイラクの対応です。前年2001年9月11日に、米国で起きた同時多発テロ後、米国はアフガニスタン、イラン、イラクなど反米諸国への攻撃姿勢を強め、既にアフガニスタンへの攻撃に踏み切っていました。イラクは、米国の攻撃を避けようと考えたのでしょう。、国連の査察要求を受け入れたのです。しかし米国は、この査察結果に難癖をつけ、安保理の反対を無視して、翌2003年3月20日に、イラク侵攻に踏み切りました。「無理が通れば,道理引っ込む」式の米国のやり方は、国際的な顰蹙を買い、国連の権威は大きく傷つきました。査察で、核兵器などないことを確認した米軍の攻撃に晒されたイラクがどうなったかは、御存知の通りです。そして、米国のイラク攻撃を目の当りにした「北朝鮮」は、イラクの二の舞となることを警戒して、核兵器並びに核兵器の製造の場を、なんとしても守ろうとする姿勢をとり続けるようになりました。「北朝鮮」の核兵器への執着は、米国に攻撃されないためのお守りと考えてのことなのでしょうね。
2016.11.08
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クロニクル 第二次征長命令下る1865(慶応元)年11月7日151年前になります。この日幕府は、諸藩に対し第二次長州征伐のための出兵を命じました。同時に、芸州口、石州口、上関口、下関口、萩口の5方面からの進撃路を示し、従軍32藩の担当部署も発表しました。この時、薩摩藩では、長州征伐反対が藩論の多数派となり、西郷隆盛らの主張通り、幕府の出兵命令を拒絶しました。この行動が1つの呼び水となって、翌年1月の、薩長同盟の密約に繋がって行きます。
2016.11.07
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クロニクル 大原美術館開館1930(昭和5)年11月5日昨夜、日付が代った後に、5日の日記をアップするつもりで、日付は5日に変更したのですが、間違えて6日分の日記をアップしてしまいました。そのため、本日は前日5日の日記をアップさせていただきます。大変申し訳ないのですが、お許しいただければ幸いです。86年前のことです。倉敷市の現在の美観地区に、この日大原美術館が開館しました。倉敷紡績の創業者で、社会問題にも造詣の深かった大原孫三郎氏が、私財を投じて購入した西洋絵画等を展示し、一般に公開するために作りあげた私設の美術館です。作品は、大原氏が支援していた画家の児島虎次郎に依頼して集めたもので、エル・グレコの「受胎告知」、モネの「睡蓮」、マティスの『画家の娘―マティス嬢の肖像』など、超一級の作品が、多数含まれています。こうした施設が、80年以上前に作られていたとは、大原氏の先見性に頭が下がります。開館当初は、その価値が分からなかったのでしょう。入館者ゼロの日も多かったと記録されています。美観地区をそぞろ歩き、大原美術館で好きな絵をジックリ鑑賞し、斜め前の古風で趣のある喫茶室「エル・グレコ」で美味しいコーヒーの香りを楽しむのが、倉敷に立ち寄る時の、私の定番でした。なお、東京飯田橋の大原社会問題研究所も、孫三郎氏が私財を投じて作られたものです。
2016.11.06
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クロニクル GHQ財閥解体を勧告1945(昭和20)年11月6日71年前のこの日、GHQ(連合国日本占領軍司令部)は、持ち株会社の解体に関する覚え書きを日本政府に交付しました。当時の日本で、持ち株会社と言えば、誰もが財閥本社を連想しましたから、この覚え書きは、財閥解体の勧告であることを意味していました。GHQの狙いは、日本経済の民主化と非軍事化にありました。日本の軍需産業の大半は、財閥の支配下にありましたから、日本経済の非軍事化を強力に進めるには、財閥解体が欠かせないと、GHQは判断したのです。結果は吉と出て、農地改革と共に、その後の日本の早期復興と経済的繁栄の基礎となりました。また、財閥解体に、独占禁止法を組み合わせることで、産業界のガリヴァー型企業を分割させることで、日本の経済を根底から民主化できると、考えていたのです。
2016.11.05
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クロニクル 草加次郎事件始まる1962(昭和37)年11月4日草加次郎事件とは、1962年から1963年にかけて起きた爆破、脅迫、狙撃など一連の事件のことを言います。発端は54年前、東京五輪の2年前の今日でした。歌手の島倉千代子(当時24歳)さんの後援会事務所に爆発物が郵送され、封書を開けた事務所員が軽い怪我をしたことに始まります。それから12月12日の浅草浅草寺境内に置かれた爆発物未遂事件まで、計6件の爆弾事件が発生(3件は爆破未遂)しました。これらの爆発物には「草加次郎」という名前が書かれていました。時に爆発物は、石川啄木詩集や、ポケットミステリーのエラリー・クイーンなどの書物に偽装されることもありました。1963年に入ると、5月から7月にかけて、女優の吉永小百合(当時18歳)さん宅に計6回に渡って、「草加次郎」名義で脅迫状が届きました。そして同年7月15日には、上野公園の屋台のおでん屋さんの主人を銃撃する事件が起きました。10日後、上野署におでん屋店主を狙撃したものと同一の弾丸が入った封筒が、「草加次郎」名義で届き、「草加次郎」と同一犯の犯行であることが判明しました。同年9月5日には乗客13名に重軽傷を負わせた営団地下鉄銀座線爆破事件が起きました。翌9月6日には、吉永小百合さん宅に7回目の脅迫状が届き、9月9日または9月10日に100万円を要求すると書かれていました。脅迫状に指定されたやり方で、100万円を用意して犯人を待ち構えたのですが、結局犯人は受け取りに現れませんでした。そしてその後、犯人の動きはピタッと止まってしまいました。警察は捜査員として延べ1万9000人を投入し、容疑者として火薬マニアなど9600人をリストアップし、追跡を続けました。しかも、「草加次郎」は指紋と筆跡まで残していたのですが、犯人を特定するには至りませんでした。1978年9月5日に全ての事件で公訴時効が成立し、事件は迷宮入りしました。迷宮入り事件としては、「3億円事件」・「グリコ・森永事件」と共に衆目の耳目を集めた事件でした。
2016.11.04
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クロニクル 三洋証券倒産1997(平成9)年11月3日19年前のことです。三洋証券は、当時の野村、日興、大和、山一の4大証券は勿論、新日本証券のような準大手証券に比べても小ぶりな、中堅証券の1社でした。その三洋証券の倒産劇が、バブル崩壊のツケに苦しむ、日本の金融危機の深刻さを、一挙に明るみに出し、日本経済を金融恐慌の一歩手前に追い込んだのです。三洋証券が危機的状況にあることを知りながら、大蔵省の肝いりで救済されると信じ込んでいた地方の小さな金融機関(群馬中央信用金庫)が、10月31日金曜日のコール市場(超短期で金融機関同士が資金を融通しあう市場)で、三洋に対し10億円を無担保コール翌日物(3連休になりますので、返済予定は4日になります)として貸し付けたのです。コール市場は、プロ同士が超短期の資金を融通しあう、絶対にデフォルトすることのない、必ず返済されることを前提に、成り立っている市場でした。ですから、大蔵省が三洋証券の倒産を4日の火曜日まで延ばし、このコール市場での借金を返済させてから、会社更生法を申請させていれば、その後の嵐のような連鎖倒産劇は起きずに済んだのです。しかし、影響を軽く見た大蔵省は、コール市場での借金を踏み倒す形での倒産を選んだのです。少額のデフォルトなので、市場はそう気にしないであろうと甘く考えたのでしょう。しかし、これは大甘の観測でした。不渡りはないはずのコール市場での不渡りの発生は市場を凍りつかせました。誰もコール市場に資金を提供しなくなったのです。当時危ないと囁かれる金融機関はかなりの数にのぼったからです。市場で資金が取れなければ、支払い不能で倒産するしかありません。拓銀と山一の倒産は、まさしく三洋証券の倒産が引き起こした連鎖倒産でした。ここに日本の金融危機は、一挙にクライマックスを迎え、翌年の長銀と日債銀の破綻に連なってゆきました。長銀、日債銀の破綻から10年後、米国ではリーマンブラザーズが倒産し、10年前の日本と同じような金融危機が生じました。ただ、日本と米国の経済規模の違い、世界経済に占めるウェートと影響力の違いから、リーマンショックは世界経済を揺さぶり、ユーロ圏の危機に連鎖して、最近まで世界を揺さぶっていたことは、御存知の通りです。
2016.11.03
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クロニクル 水俣病顕在化1959(昭和34)年11月2日57年前のこの日、水俣病に苦しむ不知火海の漁民等、約1500人が、新日本チッソの水俣工場に抗議のために押しかけ、工場内への立ち入りを拒む会社側と対立、怒った漁民達が工場内に乱入して、警官隊と衝突、双方に怪我人が出る騒ぎとなりました。足尾鉱毒事件に続く、広くかつ悲惨な公害病となった水俣病の存在が、世に知られるきっかけとなった出来ごとでした。その後水俣病については、石牟礼道子さんの『苦海浄土』を始めとする,優れた作品群によって全国に紹介され、次第に世の注目を集めるようになってゆきます。静かな内海、不知火海を公害の海に変えたのは、チッソの水俣工場が垂れ流した水銀でしたが、当時ようやく高度成長期にさしかかりつつあった日本経済の腰折れを懸念した政府は、企業を守りたい通産省の立場に配慮して、チッソの工場を擁護する姿勢に終始し、チッソの廃棄水銀との有為な関係の立証責任を漁民側に押し付けるなど、企業よりの姿勢に終始しました。政府の大企業よりの姿勢は、フクシマの事故を受けてなお原発の再起動に熱心だったり、庶民泣かせの円安誘導政策など、現在も露骨に続けられていますね。
2016.11.02
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クロニクル 新千円札発行1963(昭和38)年11月1日新千円札と言っても、現在の野口英世像のものでも、その前の夏目漱石像のものでもありません。日本憲政史上、初代の首相となった伊藤博文の肖像を刷り込んだ2代目の千円札のことです。初代の千円札は、1950(昭和25)年1月7日に発行された、聖徳太子像の千円札でした。13年と10ヶ月使われました。53年前の今日、お目見えした2代目千円札の発行は、前年62年から急増した偽千円札への対応として決定したもので、偽札製造技術の進歩に背中を押される形で、新印刷技術の粋を集めて、簡単には偽札を製造できないように、いくつもの工夫を凝らしたものでした。この千円札は1984(昭和59)年の新札発行で、夏目漱石の新千円札に代わるまで21年間使用され、2004(平成16)年には更新され、丁度20年振りに野口英世の千円札に変えられました。
2016.11.01
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