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クロニクル 両国に国技館完成1909(明治42)年5月31日107年前のことです。この日、東京両国の回向院境内に建設中だった、東京大角力(おおずもう)協会の相撲常設館(国技館)が落成しました。1907年の7月に、工事が始められていますから、およそ23ヶ月を要した大工事でした。収容人員は1万3千人でした。回向院の境内で、相撲が行なわれるようになったのは、江戸時代の天明年間(およそ1780年代です)のことで、野天の小屋掛け興行でしたから、雨が降ると休場となり、定員も2千人程度だったとされています。6月2日の落成式には、当時の大角力協会委員長の板垣退助を始め、内務大臣、東京府知事、東京市長以下、1万人余りが出席、国技館は東京の新名所となったのですが、この建物は、14年後の1923(大正12)年9月1日、関東大震災によって、残念ながら全焼してしまい、現在は残っていません。 現在の国技館は、JR両国駅のすぐ目の前ですが、この建物は1985年に完成しました。昭和の名横綱栃錦の春日野親方の時でした。
2016.05.31
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クロニクル ジャンヌ・ダルク刑場に消ゆ1431年5月30日ジャンヌ・ダルクの名はご存知だと思います。英仏100年戦争の帰趨をフランス側優位に転換させた功労者、聖処女ジャンヌ・ダルクとして、その名は有名です。ジャンヌは当時のフランス側の領域の東部国境沿いの寒村に、1412年に生まれた農民の娘でした。夢見がちの性格だったのでしょう、13歳のときに突然「神の啓示を受けたので、国王閣下を助けに行く」と言い出して、周囲を慌てさせたのですが、結局領主のお墨付きを貰って出立。シャルル7世に拝謁して、1軍を委ねられます。1929年17歳の時に、オルレアンの開放に成功して、一躍時の人となりました。しかし、その後戦力を再構築したフランス軍は、神の意志を楯に取るジャンヌを次第に持て余すようになり、30年のコンピエーニュの戦いで負傷したジャンヌはイギリス軍に捉えられ、宗教裁判で死刑を宣告され、31年のこの日、19歳にして異端として処刑されました。13歳の少女が神の啓示を受け、国王を助けるという所に、ジャンヌ神話の特徴があります。ここに、当時のフランス王支配下の地域において、次第に国民意識が芽生えつつあったことが読み取れます。このフランス側における国民意識の覚醒が、100年戦争におけるフランス軍の勝利のポイントでした。
2016.05.30
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クロニクル レーガン・ゴルバチョフ会談始まる1988(昭和63)年5月29日28年前のこの日、モスクワにおいてレーガンとゴルバチョフによる、米ソ首脳会談が幕を開けました。この会談は、前年12月のワシントンでの会談を受けたもので、ゴルバチョフの新思考外交の展開を受け、米ソの全般的な軍縮を進めるための会談でした。会談では、中距離核戦力(略称INF)の全廃条約がまとまり、6月1日には批准書の交換に漕ぎつけました。またこれを機に,両国のミサイルの廃棄も始まり、米ソの雪解けは一挙に前進を見ました。こうした相互の信頼関係の増進が、翌89年12月のマルタ会談(ゴルバチョフ・ブッシュ)による、冷戦の終結宣言に繋がって行きました。
2016.05.29
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クロニクル 日本経団連発足2002(平成14)年5月28日14年前のこの日、財界本部とされた経団連と、財界の労組対策の司令塔とされた日経連とが合併し、日本経団連が発足しました。日経連は1時「戦う日経連」と称されるなど、主として総評系労組との交渉や切り崩しを担当しましたが、労使協調路線を取る連合の成長に伴い役割を終えたと判断、経団連との合併に踏み込んだのでした。初代会長には、日経連会長を務めていたトヨタの奥田碩会長が就任、2代会長は、キャノンの御手洗冨士夫会長が務め、3代目は住友化学の米倉弘昌会長が務め、現在は東レ会長の榊原定征氏が4代目会長を務めていますが、過去の経団連・日経連の会長や奥田。御手洗両会長の、どっしりとした重量感に比べ、3代目からはいかにも軽量の誹りを免れないように思えてなりません。
2016.05.28
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クロニクル 日本海海戦1905(明治38)年5月27日111年前のこの日、日本海軍は探し求めていた敵国ロシアのバルチック艦隊の船影を捉えることに成功します。場所は対馬沖の日本海でした。時に午後1時39分のことだったと記録されています。日本海軍連合艦隊司令官の東郷平八郎が、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」と演説をしたことで知られる、日本海海戦はこうして始まりました。 この時午後1時55分と記されています。 バルチック艦隊は、その名の通りバルト海や北海、北大西洋を主な活動場所とする艦隊でしたが、ロシアの極東艦隊を支援するために、海路はるばるアフリカ南端まで迂回してインド洋を越え、シベリアの港ウラジオストークまで、あと一息のところまでやってきたところでした。対馬沖に現れるまで、約7ヶ月を要した大遠征であり、船員も当然疲れ切っています。従って、この海戦は、ウラジオストーク到着以前に日本の連合艦隊が、バルチック艦隊を発見・捕捉することが出来るか否かに勝敗の鍵があったと言って、言い過ぎではないのです。現在のように高性能レーダーが完備しているわけもなく、せいぜい望遠鏡で視認する程度の監視ですから、仮に日本海を通ったとしても、必ずしも発見出来るとは限らないのです。それが海という世界です。まして、太平洋を迂回するルートもまた残っていたのです。東郷司令官の判断は、乗組員の疲れ、燃料事情などを総合的に判断する時、敵艦隊が太平洋へ迂回するルートを採るとは考え難い。日本海ルート1本に絞るということだったのです。111年前のこの日が、日本晴れだったことも幸いでした。雨天・濃霧といった気象条件であったら、果して見つけることができたかというと、これまた首を捻らざるをえなくなります。午後2時過ぎに、日本軍の砲撃で口火を切った戦闘は、日本海軍の圧勝に終りました。これは勝つべくして勝った一戦でした。発見し、砲撃し、一部の艦を犠牲にして逃げる敵をさらに追って、追撃戦を行い、これを繰り返して敵を殲滅したのです。翌日午前5時過ぎまでの戦闘を逃げ延び、ウラジオストーク港に錨を下ろした敵艦は、バルチック艦隊全38艘中、僅かに3艘に過ぎなかったのですから、まさに圧勝でした。ここに日本軍は、日本海の制海権を確保し続けることが出来ました。もし、戦い敗れて日本海の制海権を失った場合は、満州で戦う陸軍は孤立し、日本優位のうちに講和するというシナリオは画餅に帰していたところだったのです。
2016.05.27
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クロニクル 日本海中部地震 1983(昭和58)年5月26日33年前のこの日、正午過ぎに、秋田沖を震源とするマグニチュード7,7の地震が発生しました。この地震の被害は、遅れて襲ってきた津波の被害によって、大きくなりました。秋田県男鹿半島の加茂海岸に遠足に来て、海岸でお弁当を広げていた小学生12人や、能代港で護岸工事をしていた作業員34人などが、2メートルを超える高波にさらわれ、命を落としました。いずれも津波警報の伝達が遅れたための悲劇でした。死者・行方不明者は秋田・青森・北海道で104名。重軽傷者163名。住宅の全半壊3049戸、流出52戸などの被害があり、道路・鉄道の寸断も各所で起きました。この地震では津波情報の伝達に問題が残り、地震で無線の受話器が外れて情報の伝達が届かなかった所があったこと。気象庁の津波警報の都道府県への伝達から、15分後に津波が襲来したのですが、末端の機関への伝達に20分も要したことから、警報の届いた時には、既に手遅れとなっていたなど、大きな問題があったのです。「日本海側は、津波の被害はない」とする。勝手な思い込みも、遅すぎた伝達の原因を構成する、一つの要素として指摘されました。昨今は、懲りたのか、随分と伝達速度は上がっているようなのですが、失われた命は、返ってきません。
2016.05.26
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クロニクル 食堂車の登場1899(明治32)年5月25日19世紀の末のことです。今日から117年前のことです。この日、当時の山陽鉄道株式会社(現在のJR西日本)が、運行する山陽線(当時は京都~三田尻間を運行)の一等車に、日本で始めての食堂車を連結して運行しました。これが、日本における食堂車の起源です。利用できたのは一等車の乗客だけでしたが、珍しさも手伝って、食堂車を連結した列車の一等車は、常に満席の盛況だったそうです。なお三田尻駅は、現在は防府と名を変えており、山陽線が下関まで延伸されたのは、この2年後の1901年5月27日のことでした。また、山陽鉄道は、鉄道事業に新しい付加価値をつけることに意欲的で、この翌年1900年には、やはり日本初の寝台車を、夜行列車に導入しています。私の学生時代、たいていの急行列車(特急列車ではないですよ)にも食堂車が連結されていましたが、いまでは新幹線でもビュッフェだけになりましたね。食堂車は特別仕立ての列車だけになってしまいました。昨日の日記、すっかり25日と思いこみ、本日25日のことを書いてしまいました。失礼しました。
2016.05.25
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クロニウル 運動会事始1878(明治11)年5月25日皆さんの周囲での運動会はそろそろでしょうか。お子さんやお孫さん、近所の子ども達の幼稚園や小・中・高校等の運動会はお済みになりましたか。自宅2階のPCで、今日のブログを書いていますが、すぐ近くの中学校の運動会が週末の土曜日、元気のよい学年まとまっての練習の声が聞こえています。きょうは、そうした学校運動会の始まりの話です。年配の皆さんは「少年よ大志を抱け(ボーイズ・ビー・アンビシャス!)」の語を遺したクラーク博士と札幌農学校をご存知だと思います。山デジさんやペペさんらのホームグランド、北大の前身です。私も小学6年の国語の教科書で学んだことを覚えています。舞台は、138年前の北海道は札幌です。そうです。運動会の発案者はクラーク博士だったのです。博士の指導によって、本邦最初の運動会が札幌農学校の第1回運動会として開かれたのが、138年前のきょうでした。札幌農学校の運動会は話題を呼び、猛スピードで全国の学校に広まってゆくのですが、その話は機会があれば、あらためてすることにしたいと思います。
2016.05.24
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クロニクル 日本で最初のキスシーン登場1946(昭和21)年5月23日70年前のことです。8/15からまだ1年も経たない時期でしたが、戦争中抑圧されていた歌謡界、演劇界、映画界、そして学界や文壇などは、解き放たれた自由の息吹に、百花繚乱の賑わいを見せ始めていました。「赤いリンゴに唇寄せて…」と並木路子さんの『リンゴの歌』が、街頭に向けたラジオから明るい歌声を響かせ始めた頃でしょうか。この日、佐々木康監督作品『はたちの青春』が封切られました。そうなんです。この作品で大阪志郎さんと幾野道子さんのお2人によって、日本映画で初めてのキスシーンが銀幕に登場したのです。時間にして僅か5秒ほど、現在から見れば、頬をよせてそうみせかけているだけのようにも見える微妙なシーンだったそうですが、当時としてはちょっとしたセンセーショナルを呼び、各地の映画館は大入り満員の盛況となったそうです。上映した映画会社の思惑は、大当たりだったと言えましょう。ところが、あまりの反響に驚いたからなのでしょうか。GHQは、この映画の封切り後、映画でのキスシーンを禁止する旨の通達を出したのです。そのため、日本映画2作目のキスシーンは、今井正監督の『また逢う日まで』(1950年3月)で、岡田英次さんと久我美子さんが演じた、ガラス越しのキスシーンまでお預けになりました。
2016.05.23
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クロニクル 藤村 操 華厳の滝にて自殺1903(明治36)年5月22日113年前のこの日、第一高等学校生の藤村操が、日光華厳の滝にて自殺、16歳10ヶ月の若い命を断ちました。藤村は、滝の巌頭にあるミズナラの木を削って、「巌頭之感」と題した辞世の詞を残していました。 巌 頭 之 感悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。この世は不可解との語を残しての自殺は若者を刺激し、華厳の滝を死場所と定めた若者が増え、華厳の滝はトンダ形で、自殺のメッカとなりました。
2016.05.22
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クロニクル 翼よあれがパリの灯だ1927(昭和2)年5月21日89年前の今日、午後10時24分、米国人飛行士チャールズ・リンドバーグの操縦するスピリット・オブ・セントルイス号が、パリのル・ブールジュ空港に着陸しました。史上初めて大西洋横断飛行に成功した瞬間でした。ライト兄弟の初飛行で知られる飛行機は、第1次世界大戦中に兵器として使われるようになりましたが、航続距離の短かった開戦初期は、敵陣の視察に使われる程度でした。操縦も大変難しく、空中で出会う敵軍機とも、共に手を振って挨拶を交わすほど、飛行機野郎同士の連帯感も強かったようなのですが、大戦の終盤には航続距離も伸びてきていました。戦後、アメリカでは大西洋横断飛行への関心が高まり、最初の成功者に賞金を贈るというスポンサーまで登場していたのですが、これまで成功者は出ていなかったのです。リンドバーグも飛行機に魅せられ、ウィスコンシン大学を中退して、飛行士資格を取り、郵便飛行士の仕事をしながら、準備を進めていたのです。彼は地元セントルイスの有力者に、広く出資をお願いして、ようやくスピリット・オブ・セントルイス号を完成させたのです。こうしてリンドバークはパリ到着の前日20日の午前7時52分、ニュヨーク郊外のルーズヴェルト飛行場を飛び立ちました。それからおよそ38時間30分に及ぶ飛行で、いままさに飛行場いっぱいの10万人に及ぶ見物者が出迎える中、彼はついにパリの地に降り立ったのです。この時リンドバーク25歳。彼はパリまでの所用時間を24時間と想定し、24時間分の燃料を積み込むために、燃料計や無線機まで取り外して貰うなどして、燃料を積込み、睡魔と戦いながら、飛行を続けたのです。大西洋を超え、英仏海峡を通過すると、遥かに大都会パリの夜景が眼に入ります。表題の語は、その時彼が叫んだとされる言葉です。帰国したリンドバークは、パリ以上の大歓迎をうけることになります。ブロードウェイでの凱旋パレードでは、大量の紙吹雪が撒かれました。こうしてリンドバーグはアメリカンドリームの体現者として、繁栄の20年代の英雄の1人に祭り上げられたのです。
2016.05.21
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クロニクル 翼賛政治連盟結成1942(昭和17)年5月20日74年前のことです。この年2月に翼賛政治団体協議会が発足、4月30日の総選挙では、同会の推薦者が、当選者の8割以上を占める大勝利となりました。こうして、軍上層部は、いよいよ軍部独裁の総仕上げにかかりました。この日、翼賛政治団体協議会は、大政翼賛会を改組して翼賛政治連盟に衣替えし、議会では事実上の一党独裁体制を、完結させたのです。私が誕生するおよそ5ヶ月前のことでした。
2016.05.20
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クロニクル 桶狭間の戦い1560(永録3)年5月19日 456年前のこの日、戦国時代史でも有名な史実、戦国の雄織田信長の名を、一躍有名にした桶狭間の戦いが行われました。時間は午後2時からの長くて1時間程度の戦いだったようです。戦国の雄、駿河の今川義元は、この年上洛を志し、5月12日に駿府(現静岡市)を出発、織田方の出城を攻略しながら、この日午後2時頃桶狭間の北方約2kmの田楽狭間で小休止をとりました。太り過ぎの義元は、長時間馬で行くのが苦手だったようで、通常の武将に比べると、小休止する機会はずっと多かったらしいのです。この田楽狭間での小休止が義元の命取りとなります。信長は、彼我の戦力を冷静に分析して篭城戦では満に一つも勝利の道筋を描けないことを悟り、野戦に一縷の可能性ありと、城を後にしたのです。野戦に出た信長は、斥候から田楽狭間での休息の報を聞くと、義元の本営を急襲する旨を決定、ただちに兵を動かします。折りからの雷雨に助けられた織田方は、今川方に知られることなく、本営を急襲することに成功、義元を討ち取ることに成功します。以後、今川氏の勢力は後退するのですが、対する信長は以後の10年を美濃攻めに費やし、美濃攻略にようやく成功した1570年以降、急速に勢力を伸ばして行きます。
2016.05.19
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クロニクル 軍部大臣現役武官制復活1936(昭和11)年5月18日80年前の話です。この日陸・海軍省官制の改正が公布され、陸軍・海軍大臣及び同次官の現役武官制が復活しました。復活の直接的原因は2・26事件にありました。事件後陸軍の主導権を握った統制派は、粛清されて現役を退き、予備役に編入された皇道派勢力が、予備役でも務めることが出きる、大臣や次官として復活する道を封じる狙いで、軍部大臣の現役武官制の復活を求めたのです。 陸・海軍大臣は、大正2(1913)年に憲政擁護運動の成果として、官制の改正を経た上で、予備役の将軍でも就任できることになっていたのです。軍部はこの大正デモクラシー運動の成果を否定し、その廃止を要求してきたのです。皇道派の息の根を止めるためという大義名分をかざしての要求に、内閣も議会もそしてマスコミも、なるほどそれならばと簡単に軍の要求を認めてしまったのです。その結果、陸・海軍大臣は現役の大将・中将から、同次官は現役の中将・少将からと定められました。ここに軍部は自らの意に添わない内閣には、大臣の派遣を拒否することで、その存亡を左右することが出来る権限を手中にしたのです。大臣の派遣拒否というこの作戦は、翌1932年の宇垣一成内閣の流産、及び1940(昭和15)年の米内光政内閣の総辞職という形で効力を発揮し、東条英樹による軍部独裁政権の誕生に繋がりました。
2016.05.18
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クロニクル 参院に緑風会結成1947(昭和22)年5月17日今から69年前に当たるこの年は、5月3日に新憲法が公布されたことで知られますが、公布に先立つ4月20日に第1回参議院議員選挙が行われ、3日後の23日には、衆議院議員の選挙も行われた年でした。このうち参議院については、第1回であったため、定数1杯の250名が当選とされ、上位125名(「全国区50名、地方区75名」)が規定通り6年議員、下位125名が任期が半分の3年議員とされました。この第1回参院選では、参院の政党色は薄く、無所属議員が108名と断然多く、以下社会党47名、自由党39名、民主党29名、国民協同党10名、共産党4名、諸派13名となっていました。そしてこの日、無所属議員の一部47名が、議員集団を結成することで、議会活動上の便を図ろうと、統一会派参議院緑風会を結成したのです。この後も緑風会に加わる議員は、増え続け、最終的に無所属議員のうち92名が参加する、大統一会派に成長してゆきました。 この結果、初代の参議院議長には、緑風会の松平恒雄が選ばれました。その後、参院の政党色が強まるに連れ、緑風会に留まる議員は少なくなり、1965年の参院選には立候補者を立てず、この年を持って解散しました。
2016.05.17
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クロニクル 麻原彰晃逮捕1995(平成7)年5月16日あれから21年も経つのですね。オウム真理教による毒ガス撒布事件です。警視庁はこの日、同年3月の地下鉄サリン事件、および前年6月の松本サリン事件などの指示並びに実行犯として、指名手配中のオウム真理教の教祖、麻原彰晃(本名松本智津夫)を初めとする、幹部・信者15名を、殺人並びに殺人未遂容疑で逮捕しました。潜伏場所は同教団の本拠のある山梨県上九一色村のサティアンの一郭に作られた隠れ部屋でした。彼の死刑は確定していますが、まだ執行されていませんね。
2016.05.16
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クロニクル 育児休業法公布1991(平成3)年5月15日もう25年になります。25年前の14日に成立した育児休業法が、この日公布されました。女性の社会進出をより確実なものにするためには、いわゆる産休のみでなく、少なくとも保育所に子どもを預けられるようになる、生後3ヶ月否4ヶ月ぐらいまでは、後顧の憂いなく子育てに専念出きる環境を確保しなければならない。こうした考え方が、女性問題の後進国日本でも、ようやく受け入れられた結果でした。こうして、産後1年までの期間で(期間は雇主と従業員の交渉)育児休業がとれるようになったのですが、育休期間は無給とされたために、生活上収入が必要な場合には、せっかく法が制定されたというのに、その成果を利用することが出来ないとか、利用出来たとしても極めて短い期間しか活用できないなどの問題点が指摘されたことが、ついこの間のことのように鮮明に記憶に残っています。その後の少子化の急進展が、大企業の態度を劇的に変え、3年間の育休とか、小学校入学までの育休とか、超ロングの育児休業を認める会社が現れたり、社会保険等の天引き分に限って給与を支給したり、休業中の給与として、休業前の2割を保障する社が現れたりと、最近の変化は、目を見張るものがあります。こと、女性の社会進出の促進のためには、少子化も捨てたものじゃないな、というのが私の感想です。最近は父親である男性に対しても、期間は短いですが育休を認める会社も増えてきたようです。ゆっくりですが変化は着実に続いているようですね。それでも、まだまだなすべきことは数多く残っていますね。昨夜のうちでしょうか。皆様のおかげでアクセス数が100万を超えました。この10月でブログ開設10年を迎えますが、10年弱で達成できるとは思いもしませんでした。厚く御礼申し上げます。
2016.05.15
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クロニクル 蛮社の獄始まる1839(天保10)年5月14日この日、蛮社の中心人物、三河田原藩家老の渡辺崋山が、江戸北町奉行所に召還されました。3日後の17日には、小関三英が逮捕を予期して自刃し、18日には一時身を隠していた高野長英が奉行所に自ら出頭しました。これが、[蛮社の獄]の始まりです。事の起こりは、2年前に米国船モリソン号が、遭難民の送還と通商権を求めて、浦賀に強引に入港したことにありました。この事件に危機感を持った老中水野忠邦は、江戸湾防備のため、江川太郎左衛門と鳥居耀蔵の2人に江戸湾巡視を命じました。江川は蘭学に通じた開明派であり、一方鳥居は蘭学嫌いの保守派でした。鳥居は江川が渡辺崋山らの意見も入れて、巡視の復命書を作成したことを聞きつけ、噂や伝聞に基づく程度の根拠の怪しい話を下に、崋山らを老中に告発、江川の失脚を図ろうとしたのです。水野は江川を信頼していたのですが、一応蛮社に属する崋山や長英の家宅捜索を命じたのですが、崋山の著書に幕政を誹謗する箇所が見つかったことから、崋山に田原の自宅での蟄居を命じ、長英はより激しい幕政批判を展開していたとして、永牢となったのでした。当時はなお、保守派の勢いが勝っていたのですが、その後の20年で様相は様変わりすることになります。 現在の日本では、元気な野党が姿を消し、すっかり保守派が跋扈する後ろ向きのご時勢ですがら、さしづめ現代版[蛮社の獄]時代なのかもしれませんね。さてここからどう変わって行くのか…
2016.05.14
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クロニクル トヨタ自動車の経常利益1兆円を突破2002(平成14)年5月13日14年前のことです。この日、トヨタ自動車は、2002年3月期決算を発表しました。事前に予想されていたことではありましたが、発表された2002年3月期の経常利益は、日本企業として始めて、1兆円の大台を超えました。日本の自動車産業は、典型的な後発産業でした。ですから、1960年代の中盤から後半にかけて、資本自由化が課題となった際には、自動車産業が最も外資に飲み込まれる危険の高い産業として意識されていました。潮目の変化は、オイルショックによってガソリン価格が高騰し、米国の中・低所得者を対象に燃費効率の良い日本の小型車が爆発的に売れるようになって、訪れました。90年代には、攻守ところを代え、日米自動車摩擦は、日本の自動車メーカーの自主規制という形で、ようやく解決をみました。以来、現地生産の拡大という形で各メーカーは対応し、さらに利益を伸ばしてきました。そして遂に経常利益が1兆円を突破したのです。2003年4月の大底へ向けて、日本売りともいうべき、株式市場の暴落が続いている最中だっただけに、特に目につく、成果だったと言えましょう。それから僅か5年後の、2007年の経常利益は2兆円を突破しました。米国でトヨタ叩きのあった2010年、東日本大震災とタイの大洪水の影響を受けた2011年など、利益を減らした年もありましたが、昨2015年3月期からは、2兆円台の利益を稼叩きだしています。。
2016.05.13
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1984(昭和59)年5月12日今日で32年になるのですね。32年前の今日、NHKの衛星放送が放送を開始しました。地上波との差別化をどのようにはかるかに、種々苦心しているようにもみえますが、時々衛星放送ならではの番組もあり、私も時々楽しませてもらっています。しかし、受信料は高いですね。地上波とは別にしっかりとられます。
2016.05.12
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クロニクル コンスタンティノポリス ローマ帝国の首都に330年5月11日西暦330年ですから、日本でいうとようやく古墳時代でしょうか。この日、コンスタンティヌス大帝の念願だった、新首都コンスタンティノポリスへの移転が行われ、ローマ帝国の首都はボスフォラス海峡を見下ろす要地に移転したのです。以後オスマン帝国によって、ビザンツ帝国が滅ばされる1453年までの、1120年間ローマ帝国そして東ローマ(ビザンツ)帝国の首都はこの地コンスタンティノープルにありました。現在はトルコ共和国最大の都市で、イスタンブールと名を改めています。私も訪れたことがありますが、落ち着いた言い街ですね。
2016.05.11
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クロニクル フランス大統領に社会党のミッテラン氏1981(昭和56)年5月10日35年前のことです。この日行なわれたフランスの大統領選挙で、フランス社会党のミッテラン氏が当選。第二次世界大戦後のフランス政治において、はじめて左翼出身の大統領が誕生しました。ミッテラン大統領は、アメリカのレーガン大統領や、イギリスのサッチャー首相等新保守主義を掲げる米英の指導者に対して、断乎としてフランスの立場を主張して譲らず、国民の支持を得て、7年後の1988年の大統領選にも勝利し、2期14年に亘って政権を担当、1995年に任期満了で政界を引退するまで、国際政治の場で重きをなしました。引退の翌年、1996年に80才で死去しています。
2016.05.10
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クロニクル 母の日事始1948(昭和23)年5月9日68年前のことになります。この日、東京日比谷の日比谷公会堂で、米国の母の日にちなんで、母親大会が開かれました。この大会を記念する意味も込めて、翌年から5月の第2日曜日を、母の日にすることになりました。今年は昨日でした。母の日といえば、カーネーションですが、これは米国における母の日制定に関係の深かった女性の母が、生前白のカーネーションが好きだったことから、この日に母親に白のカーネーションを贈る習慣が生まれたことを、日本でも踏襲したからのようです。ところで、欧米の母の日は、年に一度は離れて暮らす母親に会いに行こうというニュアンスから生まれたのでした。そこからすると、母の日の持つニュアンスやイメージというものは、ところによって、かなり異なるようですね。そもそもの始まりは、17世紀のイギリスにあります。イギリスでは、年に一度、復活祭の40日ほど前の日曜日を指定して、この日に限って(当然5月ではありません。)、奉公に出ている子供たちが、教会で母親達に会える日として、始まった風習なのです。
2016.05.09
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クロニクル オルレアン解放1429年5月8日587年前になります。日本で言えば、室町幕府6代将軍足利義教がくじ引きに依って将軍位に就いた年です。この日ジャンヌ・ダルクに率いられたフランス軍が、イギリス軍を打ち破り、包囲されていたオルレアンの解放に成功しました。シャルル7世はここからランスへ趣き戴冠式をあげて、正式に王位に就きました。その後1430年のコンピエーニュの戦いで、ジャンヌ・ダルクはイギリス軍の捕虜となり、翌1431年、魔女して処刑されました。英仏百年戦争(1337~1453年)の一齣でした。
2016.05.08
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クロニクル ダービー始まる1780年5月7日1780年というと、日本史では、田沼時代にあたります。アメリカでは独立戦争の最中、フランス革命はまだ始まっていない。そんな時期でした。なにしろ、今日から236年も前のことです。この日イギリスはロンドン郊外のダービー伯爵領、エプソムで最初のダービーレースが開かれました。そうなのです。ダービーはイギリスの1人の名門貴族が自らの所領で始め、今も彼の姓をそのまま冠しているのです。名門ダービー伯爵家の第12代当主、スタンリーは無類の馬好きでした。彼は貴族同士が自分の持ち馬自慢に賭けレース(競馬)をすることが流行っていたことから、自らの所領に、競馬用のコースをしつらえ、サラブレッド4歳馬、牡馬、牝馬混合のレースをダービー杯と称して始めたのです。彼自身、まさか今日まで続く超ビッグレースに育つとは想像もしていなかったでしょう。しかし国王まで観戦に訪れたレースは、貴賓たちの重要な社交の場となり、また馬好きたちの功名心をくすぐり、毎年初夏に繰り返し行われるようになったのです。そうなると、上昇志向のブルジョワたちの関心も集め、何とかダービーレースを観戦できる(当時はダービー伯の招待者のみが入場できたのです)身分になりたいと、それは大変な関心を集めたのです。何しろ、国王以下王族も大挙出席される催しです。イギリス中の貴族が贅を凝らした服装で見物席に陣取るのですから、遠くからでも眺めてみたいと考えるのも、人情として分かります。こうして、ダービーはイギリスの国民的行事に成長してゆきました。このダービー、現在は6月の第1水曜日に行われます。教会に通う日である日曜日に、競馬のレースを行うような不謹慎なことは、イギリスの紳士・淑女は潔しとしないからです。なお、スタンリー・ダービー氏の子孫からは、後に首相になった人物もおります。昨今では、ダービーの行われる日は、ダービーデーとして、諸官庁や一流企業はどこも休業とする粋な計らいが続けられています。この辺が何でも日曜日の日本とは違うところですね。ところで、このレース、2度の世界大戦中だけは、エプソムを避けて、別の場所で行われました(それでも実施され続けたのです)が、現在もなおエプソムで行われ続けています。国王臨席の伝統もなお守られており、王室所有のサラブレッドが出場することもあります。開かれた王室の好例の一つというべきなのでしょうね。日本の皇室も、もう少しオープンで良いように思うのですが…。こちらは、宮内庁の役員たちの石頭がガンなのでしょうね。
2016.05.07
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クロニクル ワープロ事始1982(昭和57)年5月6日この日、富士通が初のワープロ、「マイ・オアシス」を発売しました。価格は75万円でした。今から34年前のことです。今では、専らパソコンを使いますから、ワープロを使う方は少なくなっていますが、70年代の初めに普及した写植印刷も、やがてワープロの利用やパソコンに連動した印刷に押されてゆくなど、印刷革命が物凄い勢いで進みました。この後、ワープロは急速に普及しますが、やがてパソコンにとって替わられ、短い寿命を閉じたと言えましょうか。かくいう私は、遂にワープロをマスターすることなくパソコンと出会い、文字打ちはワードで覚えた出遅れ人間です。
2016.05.06
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クロニクル ストックホルム五輪 派遣選手決定1912(明治45)年5月5日104年前のこの年は、7月30日に明治天皇が崩御され、明治から大正へと切り替わる国内的にも変化の大きな年でした。国際的にも第一次バルカン戦争が行われ、最初の世界戦争へ向けての緊張が高まっていた時期でした。7月20日には、明治天皇が尿毒症で重体と発表され、以後大部分の祭りや催し物が自粛されていますから、ストックホルム五輪が、7月14日で終了していなかったら、初参加だった日本選手の参加も、自粛の対象として、見送られていたかもしれません。そんな時代であり、時期でした。さて、ストックホルムで行われた第5回オリンピックは、世界28ヶ国から3282人の選手・役員が参加して、6月29日に開会式が行われ、その後1週間の間を開けて、7月6日~14日までの9日間の会期で行われました。この大会が日本の五輪初参加の大会でした。さて、五輪の初参加は決めていたのですが、誰を派遣するかについては、この日開かれた大日本体育協会(体協)の総会で決定することになっていたのです。会議の結果、日本代表のIOC委員である、東京高等師範学校(現筑波大学)校長の嘉納治五郎を団長に、陸上短距離の三島弥彦選手とマラソンの金栗四三選手の2名を派遣することになりました。今では大部隊を送り込む日本も、初参加の大会には2名の選手を送っただけだったのですね。選手村でも肩身が狭かったでしょうね。
2016.05.05
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クロニクル 鉄の女登場1979(昭和54)年5月4日37年前ですね。この日イギリスに同国史上最初の女性首相が誕生しました。鉄の女と称された保守党党首マーガレット・サッチャー女史が、この日イギリスの首相に就任したのです。前日3日に行われた英国の総選挙で、保守党が久々に労働党に圧勝した結果でした。当時の英国は英国病をことほぐ、深刻な経済不振に悩まされていたのですが、サッチャー女史は新保守主義の立場から、自助努力と規制緩和を推進し、金融中心のイギリス経済の再建を果たしてゆきます。新保守主義は、1年半後に登場するレーガン大統領のアメリカ。さらにその2年後に誕生する日本の中曽根首相にも受け継がれ、新保守主義のトリオが形成されるのですが、それぞれの役割は微妙に違っていました。90年に退任。2年後には1代貴族に叙せられて上院議員となりましたが、2008年に長女のキャロルさんから、母が重度の認知症を患っていることを公表、2013年4月に脳卒中で亡くなっています。
2016.05.04
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クロニクル 江戸城明け渡し1868(明治元)年5月3日今日は歴史の話です。148年も前になるのですね。この日、徳川幕府は江戸城を新政府軍に明け渡しました。徳川幕府第15代将軍慶喜は、水戸に蟄居することとなり、ここに徳川幕府は崩壊し、明治政府が正式に誕生しました。なお。この日は旧暦では、明治元年4月11日に当たります。江戸城明け渡しに関する物語は数多いのですが、その白眉が西郷ー勝会談にあったことは、間違いないのですが、会談には幕府側から会計責任者の大久保一翁、それに会談の下慣らしをした山岡鉄舟らが、新政府側から村田新八と桐野利秋らが同席していたと、考えられています。 有名な無血開城が決まったのが、この会談ですが、武力解放に拘る新政府軍に圧力をかけ、無血開城を強力に推したのが、イギリス公使パークスであったことは、あまり流布していません。パークスは戦火で江戸が混乱状態になれば、横浜防衛を名目に外国軍が大量に上陸してくるぞ、それに打ち勝つ力が君たちにあるのかと、主戦派と目された桐野らを叱り飛ばしたそうです。
2016.05.03
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クロニクル ソ連軍ベルリン占領1945(昭和20)年5月2日71年前のこの日、ソ連軍はベルリンを占領しました。ヒトラーのドイツが独ソ不可侵条約を破棄して、ソ連侵攻を開始した1941年6月22日から3年10ヶ月余、ソ連軍が反転攻勢に出て、スターリングラードの死闘を制してから、約2年3ヶ月が経過していました。45年に入ると、ソ連軍は1月にポーランドの首都ワルシャワを解放。2月にはハンガリーの首都ブタペストを解放と,進撃の速度を速めており、万策尽きたことを認めたヒトラーは、2日前の4月30日に、愛人エバ・グリーンと共に自殺して果てていました。第二次世界大戦もようやく終わりに近づいた時でしたが、なお自らのメンツに拘る日本軍部は、ドイツ降伏後も勝算の立たない戦闘を継続する愚を、あえて選択し続けると共に、その旨を表明していました。 その結果、国民の犠牲は雪ダルマ式に、膨らんでいったことは、皆さんご存知の通りです。こういう経緯を知る限り、自民党の憲法改正案にある、非常事態規定(首相と内閣に全権限が付与される規定です)を、承認することは、認められないと思うのです。
2016.05.02
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クロニクル 対米自動車輸出の自主規制始まる1981(昭和56)年5月1日35年も前のことになりました。この日日米両政府は、日本製自動車の対米輸出自主規制で合意し、2年以上にわたった日米自動車摩擦は、ここに一応の決着を見ました。この結果、81年度の対米輸出は168万台ということになりました。1960年代中頃に行われた、日本の資本自由化の時期には、「自動車産業はやがてビッグスリーの傘下に入れられるのではないか」という噂が、論壇を含めて、幅ひろく信じられていました。ところが、1973年に秋に勃発した第4次中東戦争で、中東産油国が発したイスラエル支持国には原油を売らないという石油戦略の結果、史上初めて大々的な石油ショックが発生しました。この結果、ガソリンはただ同然に安く買えることを念頭に、ガソリン多消費型の米国車は、あれよあれよという間に、売れ行き不振に陥り、燃費効率の高い、日本製小型車の売れ行きが急によくなったのです。こうして、第1次石油ショック後の世界景気の後退は、日本車を先頭にして回復の歩みに移ったのです。ところが79年にイランイスラム革命が起き、第2次石油ショックが勃発して、不振の米ビッグ3に追い討ちをかけ、ここに日本車の対米輸出の急拡大が槍玉に上がり、長期にわたる交渉の結果、この日の自主規制で合意が成立したのです。これを受けて、日本の自動車メーカーは、自主規制の網をくぐるべく、米国本土での現地生産に乗り出しました。こうして、米国での現地生産に早くからシフトしたトヨタやホンダを中心に、現地化を勧めた日本の自動車メーカーは、リーマンショックを引き金としたビッグスリーの危機に際しても、強く批判されることはなく、日米貿易摩擦も起きず、日米の経済関係は比較的平穏に過ぎています。
2016.05.01
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