1
少し前にとりあげた『アンチ・ファンタシーというファンタシー』(黒田誠)に、興味深い指摘が載っていました。 P・S・ビーグルの『最後のユニコーン』には「作品に描かれた主題を嘲笑すると同時に親しみ深いものにする拍子抜けするような事項の羅列というさり気ない仕掛け」(前述書より引用)があるというのです。 何だか難しい表現ですが、つまり、物語を読むと気づくことですが、一角獣を主人公に据えて格調高い中世風のファンタジー世界を構築すると見せかけて、時々、わざと不似合いな現実的・現代的アイテムをまぎれこませているということ、たとえば私が気づいたのは、 「ハガード〔王〕は彼女〔魔女〕に一銭も払わなかった」・・・「彼女は丁重に扱われ、適当な関連役所を教えられたのですが・・・」「そのときでした。魔女がハガードの城と同じように、わたしたちの街にも呪いをかけたのは。」 --ピーター・S・ビーグル『最後のユニコーン』鏡明訳(太字はHANNA) これは強欲な王が城を建てた魔女に報酬を払わなかったので、恐ろしい呪いがかけられたという典型的ファンタジックな設定を説明する場面なのですが、ここになぜか「適当な関連役所」という卑近で実用的すぎる言葉が使われているのです。これでは、呪いの恐ろしさも半減してしまいそう。 黒田氏はこれを「アンチクライマックス」と解説して、このような「漫画的」な描き方が、作品世界を突き放してアイロニカルに読者に見せつける、独特の手法であると説明しています。なるほど。 もちろん、私も『最後のユニコーン』のあちこちに、現代風な事物や表現が挿入されていることに気づいていました。ただ私は、この物語の舞台はじつは現代で、それをわざと古風な舞台に置き換えて語っているのかなと理解して、さほど問題視していませんでした(以前の日記参照)。 今回、アンチクライマックスあるいはアンチファンタシーなる解説を知ったわけですが、それにしてもなぜ私はそういう手法に最初からあまり違和感を覚えなかった、むしろ心地よい親近感を感じる気さえしたのか?と、自問自答してみました。 その結果、この手の「ツッコミ」は関西人的日常で普通だから、そしてコミックスで見慣れているからだと気づきました。コミックスに見られると言っても、黒田氏が使った「漫画的」=コミカルな とはまた別の意味です。 決してギャグ漫画ではないコミックスの、ごくシリアスな場面に、時として挿入される小さな「ツッコミ」--これは本筋とはまた別の、独特の味わいや魅力をもたらします。たとえば、誰もが?知っている『ベルサイユのばら』(作品自体も、作品世界も古典と言えましょう)で、ノワイユ夫人が若いアントワネットを叱る場面; いいですか!? ここはもうオーストリアではございませんのですよ!/それにアントワネットさまはもう自由に遊び回られたころの子どもとはわけがちがうのです!/ベルサイユではとくに礼儀や洗練された作法が重んじられています/それなのに王太子妃ともあろうお方が……! --池田理代子『ベルサイユのばら』 セリフだけ読むとここには冗談の余地は全くないのですが、絵を見ると叱っているノアイユ夫人の顔は滑稽にデフォルメされています。そして上記の正規のセリフ(印刷された活字)とは別に、ノアイユ夫人に向き合って叱られているアントワネットの絵の横に「あっ虫歯がみっつ!」という手書きの「ツッコミ」が記されています。 この「ツッコミ」はアントワネット視点で書かれたものですが、いくら天真爛漫なアントワネットが叱責を馬耳東風と受け流したとはいえ、虫歯を数えるのは時代錯誤な感じ(もっともエリザベス1世は虫歯だったらしいからこの時代も虫歯はあったでしょうけど)。 この虫歯に関するコメントは、現代の若者ならきっと説教している先生の大口に、虫歯を見つけて数えてしまうだろうということで、読者の目に留まるよう、欄外的、というか、落書き的に記されています。息抜き的読者サービスであるとともに、時空を超えてアントワネットに親近感を抱かせ、また、一歩引いた視点からノアイユ夫人とアントワネットのテンションや物の見方がかみあっていないことを示す効果もありますね。 私の好きな川原泉のコミックスなどには、作者自身の視点からのツッコミもよく出現し、場面の冷静な把握やアイロニカルな味を出すのに効果を発揮しています。 この手のツッコミは小説でも時々見受けられますが、書き手がツッコミであからさまにしゃしゃり出ると、コミックスの時とくらべて、筋運びがともするともたついたり、うるさく感じられることもあります。その点、ビーグルの語り口はごくさりげなくて、アイロニカルでありながら嫌みがないところが◎ですね。 ・・・と、あらためて『最後のユニコーン』の良さをかみしめたHANNAでした。良い作品は何度読み返しても、そのたびに味わいが深まります。
April 14, 2016
閲覧総数 340
2
先日の日記で触れました『メアリー・ポピンズのイギリス』という本の中で、私の友人MYちゃんが、映画「メリーポピンズ」の登場人物が話す英語について、解説しています。 私は英語はしゃべれないし、洋画で耳にする程度ですが、それでも、イギリス英語って、アメリカの英語とはひと味ちがっていて好きです。 昔話ですけど、子供のころTVの「セサミストリート」の英語は早口で、やたらrの巻き舌ばかりで、とてもわかりにくいものでした。英語って、異質でむずかしい! と思っていました。少し大きくなってラジオ講座を聴いても、ビリー・ジョエルの歌を聴いても、聞こえるのはやっぱり巻き舌と、日本人には区別しにくいたくさんの母音たち。 ところが、80年代にイギリスのロック・ポップ音楽にどっぷりはまった私は、その歌詞や、ポップスターのインタビューが、それまで知っていた英語とひびきが違っているのに気づきました。 それから、ロンドンに旅行しました。テムズ川の観光船に乗ると、船頭さんの朗々たる名所解説が、とても特徴的な語調でした。まるで口の中に洞窟でもあるようで、そこにこもって長~く反響するように聞こえる母音。rはほとんどなく、わりと単調な発音で、とても聞き取りやすいと思いました。 『メアリー・ポピンズのイギリス』に話を戻しますと、MYちゃんの書いた章には、まずイギリス英語とアメリカ英語の違いがていねいに説明されています。 さらに、イギリス英語の中でも「キングズ(クイーンズ)イングリッシュ」と言われる“標準語”と、「コックニー」というロンドン訛りとが、「メリーポピンズ」では対照的に使われているということ。 特に、映画の舞台となる時代には軽蔑的な意味もこめて使われていた「コックニー」が、キングズイングリッシュを話すバンクス一家にとって、いや、肥大しきった大英帝国そのものにとって、新しい刺激となり、家庭(と社会)の変革のきざしを表しているということ。 そんなことを知って映画や舞台を鑑賞すると、楽しさにも何というか深みがでてきそうで、すばらしいですね。(ただし、キングズ・イングリッシュやコックニーを聞き分けることができればですが・・・) 今、私の手元には映画がないのですが、これの吹き替え版はどうなっているのでしょう。バンクスさんの話すキングズ・イングリッシュとバートの話すコックニーは、日本語でも違いがわかるようなセリフになっているのでしょうか。 一度ぜひ確かめてみたいものです。 さらに、「メリーポピンズ」の英語でもっとも異彩を放つ言葉、「♪スーパーカリフラジリスティック、エクスピオリドーシャス」の魅力についても、書かれています。メアリー・ポピンズが使う呪文みたいなこの言葉、これを言えたらハッピーになれる魔法の早口言葉。 旧態依然とした石頭なバンクスさんには、どんなに説明するよりも議論するよりも、この言葉こそが効きました。仕事をクビになっても、銀行が取りつけ騒ぎでも、大英帝国の栄光が傾いても、この言葉でみんな新たな未来が見える。 そこには言葉の持つ不思議な生命力のようなものが感じられます。 私は、子供の通うY音楽教室の発表会で、よくこの歌の合奏を耳にします。一度聞いたら忘れられない楽しいメロディーに乗せて、しかもだんだんテンポを速めながら、「♪スーパーカリフラジリスティック、エクスピオリドーシャス」と連呼していくと、ほんとにハイな気分になってくるから不思議。 原作にはないそうですが、誰が最初に考え出したんでしょうね、この言葉。
June 11, 2008
閲覧総数 1520
3
最近、『小箱』という小川洋子さんの新作を見かけたのですが(ちゃんと読んだわけではありません、あしからず)、びっくり。このブログで数年前にとりあげたことのある、ロード・ダンセイニの『魔法の国の旅人』と表紙の絵がまったく一緒だったのです! 調べたら、この絵はJ.J.グランヴィルというフランス人の画家の作品(絵本の1ページ?)で「彗星の大旅行」というタイトル。(1844年の作だそうですが、去年から今春にかけて兵庫県立美術館で展覧されたようです。) なるほど、どちらの本とももとは関係の無い絵が、偶然それぞれの表紙に使われているわけですね。とても物語性のある幻想的な絵で、そもそもの絵本はどんなストーリー(ストーリーがあるのかどうか知りませんが)なのか、気になるところ。 それにしても、私としてはもう何十年も、この絵=ダンセイニの『魔法の国の旅人』として見てきたので、小川洋子の本の表紙を見ると、中身を知らないうちからなんだかすごい違和感を覚えてしまいます。 あちこちで見かけるようなもっと有名な画像だったら(たとえばモナ・リザとか)、あるいは、絵自体と何かつながりのある本に使われているのだったら(たとえば幻想的なイラストの解説本とか)、こんなことはないんでしょうけど・・・ 本の表紙って、どうやって決まるのでしょうね。ダンセイニの原書(The Travel Tales of Mr. Joseph Jorkens)はこの表紙ではないようです。とすると「彗星の大旅行」を表紙に選定したのは誰なんでしょう。当時の早川書房の編集者さん? あるいはまさか訳者の荒俣宏?? 『小箱』の表紙は作者の選定でしょうか、あるいは出版社の選定なんでしょうか。選んだ人はダンセイニの本を知っていたのでしょうか? そして、この手の表紙の一致って、結構よくあることなんでしょうか。表紙の使用権というか、そういうのはダブってもよいのかしら。 こんなに気になるからには、そのうち『小箱』も読んでみなければ・・・ と思うHANNAでした。 画像左は私の持っている1980年代のハヤカワ文庫。2003年版(ハヤカワ文庫FT)でも同じ絵が使われています。
October 11, 2019
閲覧総数 670
4
「もののけ姫」は公開当時(1997年)観ていなくて、先日TVで観ました(2度目です)。 問題作などと言われて、解釈や解説や、宮崎駿さん自身のコメントがすでにあり、どうしても色々考えながら観てしまいますね。 女性から見てすばらしいヒロインを生み出すのが得意な宮崎駿さんですが、今回主人公はアシタカなのに、もののけ姫サンやタタラ場の烏帽子御前などやっぱり女性たちが印象的です。 最初に出てきたエミシの村の娘たちや巫女は、古典的な女性像だけれど、舞台が西国になると、サン、烏帽子御前、タタラ場の女性たち、みんな躍動的で力にあふれ、猛々しく戦っています。 乱世を生き抜く彼女らは、奔放で気兼ねなく言いたいことを言い、やりたいことをやって自立していて、一見とてもすがすがしくカッコいい・・・まるで古典的な男性のように。 もちろん、生け贄として捨てられた赤子だったサンや、過去に訳ありの烏帽子御前と女性たちは(ハンセン氏病の人々も含めて)当時の社会からはじかれた者たちで、カッコ良さの裏にはよほどの苦労があったはず。戦わなければ生きられない、でも乱世=時代の変わり目なので、戦えば居場所を作れる、そんな時代。 ただし彼女たちの生き方は、本来女性が持っている、生み育てる、いたわり看取る、などではなく、男性と同じ仕事をし武器をとって戦うというもの。 自然界との関わり方で言えば、中世までの、大地を耕し作物を育て収穫し、有機的な廃棄物をまた土に還すという地母神的なサイクルの生き方ではなく、大地から資源を収奪し武器にして命を奪うだけで還元しない・・・つまり、今風に言うとサステイナブルでない生き方。 その象徴が、烏帽子御前による、自然神シシ神の首の切断でしょう。 文明史的に見ると、こんな生き方が本格的に始まったのが、この物語の舞台となる室町後期の戦国時代。乱世が終わり江戸幕府がいくら鎖国して農業基盤の社会に戻そうとしてもうまくいかず、明治以降の富国強兵から戦争そして高度成長まで、がむしゃらに生き抜こうと頑張るあまり、思えば私たちは直線的(男性的)に大量の収奪と廃棄と破壊を行ってきたわけです。 そんなことを思うと、子どもも老人もおらず家庭的な生活感のないタタラ場(まったくの「職場」ですね)や、死に絶えていく自然神の怒りと無念を背負ったサンの姿は、何だか張り詰めすぎて痛々しい。 そこへ登場する主人公のアシタカは、古典的な男性ヒーローとは反対に、張り詰めた緊張と一直線な暴走を止めようとします。 故郷ではタタリ神を射殺して村を守るなど古典的男性ですが、呪いを受けたあとは、運命を受け入れて探求者となり、不要な殺生をせず、人々やもののけたちの両方を理解して両方の生命を救おうとする立ち位置。 それは、西国の人々とも、もののけとも、タタラ場の女たちともちがう、よそ者だからこそ立てた立ち位置なのでしょう。エミシの老巫女の言葉: 大和の王の力はなく将軍どもの牙も折れ・・・我が一族の血もまたおとろえたこの時に、一族の長となるべき若者が西へ旅立つのはさだめかもしれぬ ーー「もののけ姫」 追放という形で送り出されたエミシ族代表アシタカの、最後の使命。それは、結局は切断されたシシ神の首を返すこと、すなわち、ナウシカ流に言うと「失われた大地との絆を結び」直すことでした。 そこへ行き着くためには、白黒、生死、敵味方、はっきり決着をつけたい男性原理の追求ではなく、両方を受け入れて包みこむ、いわゆる母性的な立場に立つことが必要だったのでしょう。 女性たちとアシタカと、古典的(生物的)な男性女性の生き方が逆転しているようにもとれ、そのジェンダーレスな感じが、今(近代以降の直線的発展の末にやっと「収奪・廃棄の場」以外の目で自然を見始めた現在)の私たちの心に響いてくるのではないでしょうか。 大団円で、シシ神(デイダラボッチ)が山野に破壊をもたらしたあと、森が再生の兆しをみせると同時に、サンとアシタカも再出発、烏帽子御前たちも「やり直そう」と言っています。物語全体を包括するとても大きな意味合いで、破壊やボーダーレスな試行錯誤のあと、ゆっくりとではあるが確かに再生への道を歩む、その生死のサイクルこそが生命だ、と思うと、私たちも未来に希望が持てるかもしれません。
September 20, 2021
閲覧総数 1172
5
このブログでもご紹介したファンタジー『最後のユニコーン』の研究をなさっている、黒田誠さん(和洋女子大准教授)から、先日(といっても2ヶ月ほど前)、コメントをいただきました(!)。 黒田先生によりますと、『最後のユニコーン』は今年、出版から50周年 これを記念して、アニメ『The Last Unicorn』関連の展示会や講演会が行われたそうです(残念ながら関西の私は行けなかったのですが…)。 さらに、「ビーグル、トップクラフト研究推進委員会」が設立され、今後もシンポジウムの開催などが計画されているそうです。 (トップクラフトというのはジブリの前身とされるアニメ制作会社で、『最後のユニコーン』のほかにも、バクシ監督のアニメ『指輪物語』の続き(私は観ていませんが)を作ったりしています。) 講演会の資料をいただいて読んでみますと、『最後のユニコーン』に出てくる悪役「赤い牡牛」(レッド・ブル)に関する考察や、アニメ版にのみ登場するカラスの意味するもの、など、興味深い話題がいっぱいです。 それで、久しぶりに原作を読み返してみました。 主人公ユニコーンに対する敵役「赤い牡牛」は、何度読んでもすごく強烈な印象で、そのくせ最初から最後までつかみどころのないキャラクターです。 これは黒田先生のブログへコメントさせていただいた中にも書いたのですが、ユニコーンが存在感があり、登場当初から細かに描写されて、シュメンドリックたちや読者の愛・憧れを受けていくのと対照的に、 赤い牡牛Red Bull は名のみ明かされ、なかなか登場せず、やっと登場したと思ったら幻像のように不気味に実在感がなく、動作も不可解。あとの城の場面でも長らく気配のみで詳細は不明。それなのに、いや、不明だからこそよけいに読者をふくむみんなの恐怖感をあおるのです。 訳者あとがき(by鏡明)を見ると、作者に物語のインスピレーションを与えたのは、一角獣と牡牛が戦っている絵だそうで、だとすると牡牛にはもっと具体的な描写(存在感)があってもいいのに、と思うのです。 でも、詳細があいまいだったり実在が疑われたりする方が、よりミステリアスで怖い、ということもあります。決まった形のお化けが必ず出てくるつくりもののお化け屋敷より、お化けの噂だけがある荒れ果てた廃屋の何もない空間のほうがよほど怖いということです。 大きさも実在性も出自もあやふやな「赤い牡牛」は、矛盾するいくつかの噂だけだからこそ、いっそう皆の想像力をかきたて、怖いのでしょうね。 ユニコーンの白と、牡牛の赤。そんな対比も、強烈です。しかも、白は白でもユニコーンの白は月夜の雪の白。牡牛の赤は、古い血(静脈血)の赤。どちらも年を経て古く、不変/普遍な感じがします。 もう一つ、いま前半を読んでいて印象的なのが、「黒」を意味する名を持つハーピイ(人面鳥)のセラエノ(ケラエノ)です。ギリシャ神話に出てくる怪物で、牡牛とは別の形で、ユニコーンの対極として登場します。 私の感じるところでは、ユニコーンが月のよう(彼女の描写には月がよく使われています)だとすれば、ハーピイは蝕(日食とか月食とかの「蝕」)の魔物です。日食や月食は、太陽や月を魔物が食べてしまう/覆い隠してしまうから起こる、という神話伝説がよくあります; 日輪を喰い銀輪を屠るもの ーーあしべゆうほ『クリスタル・ドラゴン』 日蝕(エクリプス)が栖(す)から跳びだし、黄金の鞠〔=太陽?〕に躍りかかると前足でそれを捉えた。 ーーロード・ダンセイニ『ペガーナの神々』荒俣宏訳 空を飛ぶもの(鳥)であり、「翼で空を暗くさせ」たり月を隠したりまた出したりしているところからも、また不気味に髪の毛や翼が光っているところ、ユニコーンと対になって「連星」のようにぐるぐる回るところからも、セラエノは天空の闇の精エクリプス(蝕)で、月の精であるユニコーンのライバルだなと思うのです。
April 15, 2018
閲覧総数 889
6
お正月も過ぎましたが、酉年ということでニワトリの出てくるお話を紹介。 今はなきサンリオ文庫の『ダン・カウの書』(ウォルター・ワンジェリンJr.)です。 主人公がションティクリア(=高らかに歌う、つまりコケコッコー)という名の雄鶏で、彼と配下の動物たちが、悪の化身と戦う勧善懲悪なストーリーが、もったいぶったコミカルな調子で進んでいきます。 中世ヨーロッパ文学に狐のルナール(ライネッケ狐)の物語群がありますが、ちくま文庫の「狐物語」を見ると、荘重な叙事詩をまねてユーモラスに語られており、そこに雄鶏シャントクレールやその妻パントが、動物たちの一員として出てきます。 どうも『ダン・カウの書』の主人公ションティクリアと妻パーティロット(または他の雌鶏たち、登場する田園の小動物たち)は、この中世パロディ叙事詩を念頭に描き出されたのではないかと思うのです。 ちなみに「ダン・カウの書」というのもアイルランドの古い神話伝説を集めた書物の名でして、私はむかしこの本と勘違いして雄鶏の物語を買ってしまったのでした。中味がアイルランドとは全然ちがう動物寓話で最初がっかりしましたが、読んでみるとそれなりに面白いものでした。 それなりに、というのは、寓話とは作者が伝えたいことを細部まで意図して物語に仕立てたもので、イソップ寓話とか、ジョージ・オーウェルの『動物農場』のように、表面の物語よりも、それにくるまれた教訓などの方が存在を主張しがちなのです。作者の意図抜きには読めないお話、とでもいいましょうか。 けれど私は物語自体が主体的に展開していくファンタジー(分類の基準に曖昧なところはありますが)が好みなのです。作者が何より物語を好きで語っていくうちに、おのずと主張がにじみ出たり、普遍的な何かが現れ出てきたりする、そういうのが好きです。 この本の作者はルーテル教会の牧師さんだそうで、上から目線で物語る語り口といい、宗教性が強く感じられるストーリーといい、やはり「キリスト教の寓話」なのだと思います。が、私としては物語そのものを楽しく味わうことにしています。 で、半ば滑稽でドン・キホーテ的に描かれる領主ションティクリア氏ですが、オンドリというのはその姿や仕草から、どうもこんなふうに自意識過剰な権威のカタマリに描かれることが多いようです。でも、笑い者にしてばかりでは済みません。彼には悪の番人、そして目覚めた悪との戦いの司令官としての神に与えられた使命があるのです。 物語の後半は悪との決死の戦いが生々しく繰り広げられ、ションティクリアや動物たちの心の中の葛藤なども織り込まれて、目が離せません。ひねくれ者のイタチ、自己憐憫のカタマリの犬など個性豊かなキャラクターたちのそれぞれの心情の変化も、真に迫っています。 そして、滑稽に思えたションティクリアの時を告げる鳴き声(彼の「聖務日課」だそうです)が、皆の心を結びつけ、秩序を保ち、悪をおしかえします。 ちょうど先日、NHKの動物番組「ダーウィンが来た」お正月特集で、「原始時代、野生のニワトリは、闇の終わりと朝の到来を告げる鳴き声ゆえに、人間に価値を見いだされ家畜化された」と解説していましたが、まさにその通り。コケコッコーは闇をはらい光をもたらす呪術的な声なのです。 舟崎克彦『ぽっぺん先生と泥の王子』でぽっぺん先生こと鳥飼の埴輪が抱えていたニワトリは、ときをつくって闇の世界に夜明けをもたらし埴輪たちを目覚めさせます。また、ホープ・マーリーズ『霧のラッド』(主人公はチャンティクリア判事/市長)にも、 Before the cry of Chanticleer, (チャンティクリアの叫びの前に) Gibbers away Endymion Leer (エンディミオン・リアはぶつくさ逃げる)などとあり、訳者は「妖精はオンドリの鳴き声を聞くと逃げ出す」という伝説を紹介しています。 夜明けを告げ、闇や悪や迷妄をはらうコケコッコー。ニワトリって実はファンタジックな生き物だったのです!
January 13, 2017
閲覧総数 309
7
54巻でついに完結。連載20年の大長編ファンタジー『妖精国(アルフヘイム)の騎士』の最終巻が、昨日届きました。 いや~、クライマックス・ラストスパートが何年も続き、かなり息切れしつつ、でも何とか終わりましたね。 ただ、これだけ長い物語の「終わり方」というのはホントに、読者が長年、期待したり予想したりしていますから、なかなかむずかしい。中山星香の物語は、いつも、それまでの盛り上がりに比べると実にあっさりと終わるのですが、今回もそう。最後の大どんでんがえし的なものは、あるにはありますが、驚くほどじゃなくて、いろんな懸案事項がパタパタパタっと片づいて、予想通りの終わり方がハイハイハイッと描かれて。 まあ、くどくどだらだら終わるのも疲れますから、それはそれでいいんですが、いつも思ってしまうのが、最後に来てこんなに大急ぎで終わるのは、もしかして紙幅が足りなかったんじゃない? ってことです。(単行本で少しは加筆しているようですが、それでも圧倒的に足りてないんじゃない?) グラーン王の最期とか、ローゼリイとオディアルの最期の決闘、アーサーとローゼリイの再会、ローラントの戴冠など、そういう山場は、ホントはひとつひとつ、ぶち抜き見開きの画面で見せたかったんじゃないでしょうか? なのに、連載の最終回の枚数に、すべてをつめこめなくて、絵が小さくなってしまったような気がします。 それに、積み残した課題(?)もかなりたくさんあります。 いちばん意外だったのは、ローゼリイVSオディアルが決着をつけずに、水を差された形で終わってしまったこと。宿命の対決ですから、徹底的にやってほしかったですね。 それから、多くの読者が感じたでしょうが、ローラントは誰と結婚するのか?という問題。あっっさり続編へ持ち越されてしまいました。 来年からは後日談が連載されるそうなので、まあ書ききれなかったあれこれのうち、いくらかは消化されるのでしょうが。 次へとつながる終わり方の方が、商業的?には読者をますますひっぱってゆけるのかもしれませんね。 さて、前に53巻を読んで心配した「アーサーは父王を殺せるのか?」の大疑問は、うまく解決されていて、よかった!さすが! という感じです(アーサーは父を殺さずにすみました。グラーン王は土壇場でちがう原因で命を失います)。 そして、人界における悪の親分グラーン王は、権力に倦んだ孤独で気の毒な人として、あの世へ旅立ち、亡くした二人の王妃に迎えられ、ちょっとほろりといたします。でも、星香ワールドの設定によると、死者の魂は地獄の猟犬に追われながら冥府を駆け抜けるんですけど、そしてロリマー王みたいな小心な悪人は猟犬に引き裂かれたりしたんですけど、はたしてグラーン王は猟犬のあぎとを逃れて光の国(ルシリス)に到達したんでしょうか。二人の王妃が導いてくれたのかなあ。気になるところです。
December 18, 2006
閲覧総数 9055
8
「バムケロ」シリーズの中で私の一番のお気に入りです。他の3冊がバムとケロの家やその周辺のできごとなのに対し、『そらのたび』は組み立て飛行機に乗っておじいちゃんちを目ざす、冒険ファンタジーなのです。 げつようびのあさ…パンケーキを たべていたら やまのような こづつみが とどいた おくってくれたのは おじいちゃん ――島田ゆか『バムとケロのそらのたび』 大小さまざまな形の小包みは、飛行機の組み立て部品でした。二人は、土曜日までかかって組み立てます。 絵がとても凝っていて、初めの方のページと、組み立てる場面のページを比べると、どの形の小包みに何が入っていたかわかります。たとえば、三つでっぱりのある箱に入っていたのはプロペラ。三角柱の形の箱に入っていたのは、飛行機のタイヤのストッパー。最後尾の配達人が人差し指の先っちょにのせていた小さな箱は、ただのビックリ箱でした。 組み立てて、ペンキを塗って、こんなふうに飛行機が作れるなんてうそみたーい、と思っていましたが、CRALAさんみたいな模型の達人だったら、きっとできちゃうんでしょうね! 自分で作った飛行機に乗って、おじいちゃんの手紙を手がかりに、いざ冒険旅行へ出発。 すべりだいも すなばも しばらく バイバイ ――『バムとケロのそらのたび』 小さくなってゆく家と庭の絵があります。日常生活よ、さようなら! という感じで、旅に出かけるときのワクワク感が伝わってきます。 それからは、一つ一つ難所を越えていきます。涙の出るたまねぎさんみゃく、むしだらけのりんごやまのほらあな、ふんかするかぼちゃかざん、そして、二人の飛行機は海に至ります。 冒険旅行も後半のヤマ場になって、旅人たちは海を見る…そんな一つのパターンがあるような気がします。ぱあっと開ける海を前に、ついにここまでやって来たか…と感慨を深めるのでしょう。 うみではおおうみへびが出て、いよいよ最後の難所、きゅうけつこうもりのトンネル。ケチャップをまいて切り抜ける! なんてすてきな方法でしょう。 そして、海辺のすてきなおじいちゃんちへ到着。お祝いとご馳走のあと、『ふしぎなひこうきじいさん』の本を読んでもらおうとしたところで…またもや眠ってしまう二人。最後のシーンは『にちようび』とだぶっていて、すごくおさまりがつく感じ。 こんな冒険旅行の本筋を追うほかにも、島田ゆかの絵には注目すべきところがいっぱい。たとえば…・表紙絵の二人の荷物。どれに何が入っているか、わかりますか? かぼちゃ火山でケロちゃんがさしていた傘もあります。おじいちゃんへのプレゼントは青いチェックの包み紙。お弁当のホットドッグが入っているランチボックスもあります。・飛行機の組み立て中をのぞきに来て、ケロちゃんに背中に何やら描いてもらったモグラ。彼が自分で組み立てた赤い飛行機でバムたちの後からおじいちゃんちにやって来たのを知っていますか?・りんごやまのトンネル内の虫に、数字の1から9までの形のものをさがそう!…などなど。 こんな楽しみは、以前ご紹介した『ミッケ!』シリーズとも共通する、1ぺージ1ページをすみずみまで眺めるという、たっぷり時間をかけたぜいたくな絵本の楽しみだと思います。
April 13, 2006
閲覧総数 222
9
最近もっとも気になるコミックス『プリンタニア・ニッポン』の第4巻がさきごろ出ました! 以前にも日記に書いたのですが、"さびしいあたたかさ"を心地よく感じるSFです。癒やし系ペット「プリンタニア」と、希薄で繊細な登場人物たち、そして見え隠れする終末後の世界設定が、絶妙に混じりあってじわじわ来ます。 以下ネタバレ! 第4巻では、この世界の子供たちが教育課程で必ず行う「凪の劇」が紹介されます。それは主人公佐藤46(また書きますけど、砂糖・白、というか佐藤四郎くんですね)を始め「現行人類」の、ルーツを物語るいわば神話でした。 神話というと、たとえばキリスト教等の創世記で、原罪(神に服従せず知恵の木の実を食べた等)と楽園喪失が語られますが、これは人間が人間である以上必然的な運命とも思えます。なんとなれば、禁を破っても本質を見極めたいという知への欲求、それこそが人間の特性で、いろんな神話や伝説に語られてきました。 この物語の「現行人類」も、生みの親であるシステム「大きな猫」に服従せず、猫が設定した安全領域の壁を破って外界に出て行ったのです。 自らの目で確かめたい ーー迷子『プリンタニア・ニッポン』4巻 と言って。(何だかトールキン『シルマリルリオン』でノルドールが神々の国から中つ国へ自主的追放となる話を思いだしてしまいました。) そして最後の旧人類マリアは「大きな猫」の制止をきかず彼らを助けに行って「残兵」に連れ去られ、さらにマリアの専属AI?ハリスもマリアを追っていき、破壊されてしまいます。さらに破れ目から「残兵」が侵入し安全領域は危機に瀕しました。 それでも禁を破った彼らを”悪者”とはとらえず、 進むことが/私達の償いです ーー同1巻 共に在るために/進むことが私達の償いなのです ーー同4巻 真理は我らを/自由にする 知ることで/広がることもあるし省みることもできる ーー同4巻 彼らを最初外に出さなかった「大きな猫」は、人類を守るためにプログラムされたシステムであり、しかもシステムなりの感情?でしょうか、 猫は再び失うことが嫌でした ーー同4巻などと動機が語られ、禁を課した判断も”悪”ではないとされています。さらに、破局のあと、猫は彼らへの理解を深め、外に出ることに同意しました。 残された「現行人類」である佐藤たちは、この壮絶な神話を子供の頃から劇として思考基盤にすりこまれています。だからでしょうか、彼らは私たち(というか、昭和な読者であるHANNA)からすると、非常に繊細で臆病でこわれやすい感じがします(ひょっとすると令和の若者たちはみんなこれぐらい繊細なのかもしれませんね)。だから登場人物全員がいとおしい。きっとプリンタニアたちもそんな気持ちで現行人類に寄り添っているのでしょう。 ”悪者”のいない物語。佐藤たちを脅かす「残兵」も、もとは旧人類が自衛のために?創ったロボット兵器のようで、「彼岸」の奥の幻影では、 お帰りなさい/・・・帰還をお待ちしていました ・・・お守りします ーー3巻などと、自国民にとっては心強い警護ロボであったことがうかがえます。 "悪者"はいなくとも、世界は破壊され、旧人類は失われ、その喪失と後悔を抱えて現行人類は未来を切り開かねばならない。劇のあと、塩野1が危険な外地へ知識を得に行く決意をし、皆は心配しつつそれを止めないのが、象徴的でした。 価値観の多様化の叫ばれる今日この頃に即した、せつなくさびしいけれど、よるべなくはかないけれど、まだまだかたよりや不足があるけれど、一生懸命であたたかい、そんな世界の物語。 そうそう、色々と次に来る種明かし(この物語流にいうと、開示される情報)を想像して楽しむこともできます(以下勝手な予測をふくむ); 1,かなり衝撃の「おまけ」つき。はなから怪しかった永淵さんは、ほんとの永淵さんでないことが判明。過去の壮絶な体験ののち、親友永淵の遺志を継いだのですね。劇の時ひとりでさびしがる永淵さん、ぼろぼろの白衣の上半身を大切にする永淵さん、泣けます! 2,プリンタニアたちが「うえがぐるぐる」してる、危険かどうかは「きてみないとわかんない」と言ってるのは、過去の破壊に際して宇宙空間に逃れた旧人類が帰還しようとしているのでは! 劇中の猫の「旅の友」というのは彼らのことかも!
April 2, 2024
閲覧総数 220
10
暑さで外出も苦行の今日この頃、読書とかTVで映画・アニメ鑑賞とかに最適・・・なんですけど、ちょっと最近ばたばたしてるのと、期待外れが続いてネタに困っているHANNAです。 で、期待外れなあれこれを順に書いてみます; まず、「驚異の動物行動学入門」と銘打ったアシュリー・ウォード『動物のひみつ』。いや、とっても面白かったんです。多種多様の生き物の行動を紹介するだけでなく、それと比べて人間の社会性を考察。でもきっちり科学者の視点で書いてあって。私はもともと「ファーブル昆虫記」に始まってローレンツや河合雅雄などを愛読していたのですが、この分野の最近のめざましい研究成果については、この本で初めて知ることも多かったです。 では何が不満かというと、そう! 面白すぎて足りない…! たとえば冒頭、コウモリが吸血した血を仲間に分ける行動を紹介。仲間が空腹だとどうやって知るのか? それとも空腹な個体が満腹な個体に何かアピールするのか? 具体的にもっと詳しく知りたい、いかにして観察したのか、なども深く知りたいと思うのに、次の生物の話へ進んでしまいます。 たぶんいちいち詳しく書いていたら1冊の本にはおさまらなかったのでしょうね。この本は電車の中で読みましたが、そういうスキマ時間的読書には向いてるかも(タイパがよい、とも言う)
August 7, 2024
閲覧総数 36
11
ようやくシーズン2を全部観ました。前にも増してどの場面も暗いので(物語が暗い展開になってきたからでしょうけど)、目をこらさないと誰が何をしてるやらわかりません。 (→ネタバレあり)シーズン1の私なりの要約は「皆と離れても信じる道をゆく主人公たちが、物語を進め歴史をつくる」でしたが、今回の感想を一言でいうなら、「最期におのが過ちを悟っていい人になる」でしょうか。 もちろんラスボスのサウロンをはじめ、(サルマンらしき?)悪い魔法使いやヌメノールのアルファラゾンなど、次へ続く悪役たちはますますワルの度合いを高めて行ってますが、このシーズンで退場する人々は退場間際に自分の愚かさに気づいて多少なりともいい人になって散っていきます。 こういう結末は、誰を/何を信じて良いのか分からない、裏切りと期待外れ続きのストーリーの中でいっそう輝きを放ち、視聴者の心をつかむ!というわけでしょう。 生き延びる人々の中で相変わらず見所があったのが、ヌメノールの女王ミーリエルとドワーフのディーサです。欲にまみれた男どもが右往左往する時も、まっとうな常識を貫いてゆるぎません。もちろん、女性キャラがみんなそうではなく、時代に翻弄され迷い揺れ動く者もいます。ガラドリエルもそうだし、新たに出てきた避難民のエストリドなんかも。 トールキンだけではありませんが、古典的なファンタジーのキャラクターは、どうしても最初から悪玉は見るからにワルっぽく、善玉は人質でも取られない限りいつも正義を行う、的なところがあります。でもこのシリーズでは、混迷の世にあって選択を誤ったり迷ったりするキャラクターが特徴的ですね。 ケレブリンボールなんか、おのが才能を追求しそのためにサウロンにつけこまれちゃいます。彼は最初から領地の統治や雑事は同胞に任せておけばよかったですね。サウロンことアンナタールの欺しの演技も見事でしたが、それを自力で看破したケレブリンボールさんは、最期まで(呪いの予見をしたりして)、ノルドールらしく立派でした。 ドワーフ王ドゥリン3世は指輪によってモリアの富への執着が高じていきますが、これもいかにもドワーフらしい(「ホビット」のトーリン/ソーリンなんか指輪なしでも強欲にとり憑かれてた)。バルログを掘り出した途端に迷妄から覚めて立ち向かい、もろともに山の深部に埋もれてしまいます。バルログを掘り出すのは第3紀じゃなかった?という原作からのツッコミを入れたくなりましたが、踏みとどまっておきます。バルログは実は「サウロンの悪意によってとっくに目覚めていたかもしれない」という記述が追補編注釈にありますから…きっと、ドゥリン4世以下の面々はバルログのことを後世に戒めておいたのに、性懲りも無くドゥリン6世がまた掘り出した、のでしょうね… そして、突然イケメンになり話の分かる賢さを見せ、最期にいい人の片鱗を見せたのが、アダルさんです。雰囲気が変わったのは、実は俳優さんが変わったからですが、悪役とはいえ微妙な終わり方でした。トールキンならこういうキャラクターはつくらないでしょうね。 ともあれ、原作の第2紀を超圧縮した感じで話が進みますが、まあ二次創作ですから仕方ないでしょう。 そうそう、トム・ボンバディルが出てきて(かなりとってつけたような登場)びっくりしました。俳優さんのお顔はイメージ通りでしたが、いや、なんかストーリーにはめ込むと違和感だらけ。ただし、歌はすばらしかったです。何度も聴いてしまいました。
November 7, 2024
閲覧総数 50
12
先日梅田を歩いていますと百貨店のウインドウがクリスマス仕様になってましたが、今年のテーマはアリスでした。 でもちょっと違和感、原作『ふしぎの国のアリス』は枠物語の枠部分が春のカントリーサイド、ふしぎの国も春~夏の風情なので…続編『鏡の国のアリス』の方が枠部分が冬で、クリスマスには合うのにな、と要らぬツッコミを心の中で入れつつ、しっかり立ち止まって素敵な展示を眺めたのでした。 今や大人にも大人気のアリス、ティム・バートンの映画「アリス・イン・ワンダーランド」が記憶に新しいけど、とにかく多くの作品のモチーフに使われているほか、原作にも評論や研究書が山ほど出ていますよね(高橋康也とか…きちんと読んでませんが)。「ナンセンス(ノンセンス)文学」「シュールリアリズム」「前衛的」などのキイワードも見られます。 でも私にとっては、子供の頃から親しみ過ぎてかえってこのブログで語るのを忘れていた、児童ファンタジーの古典。あえて「児童」と思うのは、主人公アリスがおませな少女そのままの感性・思考・行動で、当時(19世紀後半)彼女の身近にあった事物が登場するワンダーランドを旅するからです。 はるか昔、私がディズニーアニメで最初にアリスを知った時は、脈絡がなくてつまらないと幼心に思いました。ディズニークラシックのアリスは、最初と最後が妙に説明的(アリスが最初から飼い猫ダイナにふしぎの国を語ったり)な一方、ふしぎの国自体はその奇妙さで視聴者を圧倒するのに焦点が置かれているようです。 しかし、岩波少年文庫で原作を読んでみると(画像は現在のもの。私が読んだのは田中俊夫訳で「ふしぎ」がひらがなでした)、ちゃんと筋が通っていると思われたばかりか、アリスの独白部分は自分そっくりだし、物語中で歌われる歌詞も面白く、何度読んでも飽きませんでした。 つまりアリスと似たような年齢だった私は、このお話のすべてをちっとも奇妙だと思わなかったのです。 たとえば冒頭部分、姉の読む本を覗いてアリスは思います、 「絵も会話もない本なんて、いったいなんの役に立つのかしら」――ルイス・キャロル『ふしぎの国のアリス』田中俊夫訳 以下の引用はこの本 当時の私はこの意見に大賛成。常に新しい読み物がほしかった私ですが、本屋さんや大人の本棚の立派な本を手に取ってもたいてい字ばかりで、読もうとしてもわけがわかりません。こんな物を好む大人とはおかしなものだ、と思っていました。ほんとに子供だったのです! ところが、すぐ次にはアリスは、 ヒナギクで花輪をこしらえるのもおもしろいけれど、わざわざ起きていって、花をつむだけのことがあるかしら と考えています。なんだかモノグサな大人の逡巡ですね。こんなふうに、アリスの心は幼い部分とませた部分を行ったり来たりしています。個人差もあるでしょうが、女の子なら幼稚園年長さんぐらいになると時々大人びた考えが芽生えるものです。子供だからいつも幼いわけではないんですね。 さてそこへ白ウサギ登場。穴に入るし白いので飼いウサギかその野生版のアナウサギです。ウサギはいつもせわしく鼻をひくひくさせてるし、野外では臆病ですぐ穴に向かって逃走する、かと思うと立ち止まって座り立ちして耳を立てて様子をうかがったりして、…その仕草が、「懐中時計をとり出して、時間を見て、また…いそいでゆく」のにぴったり来ます。 当時イギリスのカントリーサイドで普通に見かけたウサギが、強迫観念に駆られたように急いでいても、アリスは別におかしいと思わなかったのでしょう。 それから、ウサギ穴の奥で地下へ下降するアリス。このブログで時々取り上げた、階層を突破するエレベーター空間の、原点ですね。アリスの縦穴は楽しくて、壁の棚から「オレンジ・ママレード」と書いた紙のついたつぼをひとつ取ってみたりする。この行動も、子供なら絶対やりそう! あとから本文にも出てくるように、飲食物(特にお菓子や甘い物)にはいつも敏感に反応するんです。でもからっぽだと分かっても(下の誰かに当たるといけないから)放り捨てたりせず棚に戻す、賢く上品なアリス。 ふだんきちんとしつけられ、読書もしている証拠に、彼女は「私をお飲み」と書かれた瓶を見つけたときも、「毒」と書いていないかまず調べています。もちろん何も書いてなくても毒である可能性もありますが、そこまでは頭が回りきらず、結局飲んでしまいます。 賢いのか抜けているのか、大人っぽいのか子供っぽいのか、アリスには(というか少女というものには)こういったアンバランスさが常にあって、そこが私とそっくり! と子供の頃の私は嬉しかったのです。 作者は、気まぐれで小理屈をこね、しかし周りをよく観察し、礼儀や知識を先取りもし、自分にツッコミも入れるという、おませな少女の実態をほんとうによく知っていたに違いありません。 他のキャラクターやその行動も、みんな「mad」(現在ではへんてこりんな、などと訳されているようです)だと言われますが、狂気というより、遊びの中でわりと子どものやりそうな、言いそうなこともあるように思えます。 たとえば、政治的風刺がこめられているとも言われる「ドヤドヤ競走」(caucus race)。子どもたちって、誰かがよく急に「競走!」と言って勝手に走り始めたりしませんか(「となりのトトロ」のお父さんも突然「家まで競走!」と言って走り出す)。他の子も「えー」とか言いながら思いっきり走る。で、適当にゴールしたり、イヤになると「やーめた」と止まったり。だけど結構楽しい。細かいルールはなくとも、一番!とか言いながら、賞品は欲しいから、その場にある物を適当に賞品にする…そういう子どもたちの行動をもっともらしく描写したのがcaucus raceだと私には思えました。 異世界に入って最初は泣いてばかりだったアリスも、自問自答したり自分を叱ったり鼓舞したりするうち、だんだん慣れて大胆になっていきます。自分との対話や独り言は彼女の精神的安定にすごく寄与していて、作者が本文で言うように「一ぷうかわった子ども」ではなく、誰しも覚えがあるのではないでしょうか。 登場人物は全員「mad」なので会話がかみ合わず、読者もアリスも途方にくれたりイライラしたりしますが、これは子どもが初対面の他人、特に大人としゃべる時と似ているように思います。白ウサギがアリスを女中と間違えていきなり命令口調で話しかけたように、見知らぬ大人から(その子にとっては)とんちんかんなことで叱られたり、自分の感じたことを説明しようとしてもその都度、 「というのはどういう意味じゃ?」、 「いや、どうもわからない」、 「そんなことあるもんか」、 「いや、ちっとも」、 「なぜ?」 ――すべて毛虫のセリフと言われてしまう。そのくせ諦めて去ろうとすると、 「おまち! 話して置かねばならないたいせつなことがある。」と呼び止められます。尊大で口うるさい親戚のおじさんみたいです! アリスは辛抱強く相手をして、ようやく体の大きさを変えられるキノコをゲットします。えらい! カエル頭の召使いも、帽子屋と三月ウサギも、アリスから見た使用人や、いつもお茶を飲んでいるのを見かけるお客たちのよう。ところでこの二人が、アリスの立ち去るのもかまわず眠りネズミを急須に押しこんでいる(テニエルの)挿絵が私は大好きです。急須が眠りネズミにぴったりな大きさなのでちょっとやってみたくなります! やんちゃなよその子たちが周りのことそっちのけでやりそうないたずらだ、と思いました。 きりがないのでこの辺で終わりますが、こんなふうに、キャラクターたちはみんなアリス(少女)から見た身の回りの人々のようで、彼女は彼らにうまく対処しつつトランプの国へたどり着きます。おこりんぼの女王なんか、そう、こういう人いますよねーって感じ。最後にアリスはもとの大きさになり、小さなトランプたちに毅然とした態度を取って(もう泣いたりせず、まるで一人前の大人です)、現実世界に帰還します。 最後のところでアリスの姉がうたた寝に、キャラクターたちは皆身の回りの事物であったというような種明かしをしています。ふしぎの国は身の回りのものでできていたのです。そして、後年になって知ったことですが、キャラクターたちにはモデルとなったらしい人物がいて、それはアリスの主治医だったり家庭教師だったりします。 はちゃめちゃな狂気、混沌の世界、と言われることもあるふしぎの国ですが、実はアリス(そして少女一般)から見た身の回りの世界で、逆に言えば、現実の日常世界の中でアリス(そして少女一般)が、強烈に異質な存在なのでしょう。 [思春期の少女たちは]大人たちとは、言葉が通じないと感じることが多い。…お互いに「異種」の存在であると感じる。 ――河合隼雄『猫だましい』(ただしアリスは思春期前ですが) 「神秘的で純で過激で残酷 してまたはかなくも美しい少女の姿をした何か」 ――佐藤史生「楕円軌道ラプソディ」(アリスへのオマージュが出てくる) だからこそ、アリスとふしぎの国はこんなに長い間、多方面に影響を与え続けているのだと思います。
November 26, 2024
閲覧総数 9