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昨年末にケストナーの傑作『飛ぶ教室』について書きましたけど、ネット検索していたら、これに影響された少女漫画とか結構あるんですね(“ギムナジウムもの”――読んだことはあんまりないんですけど)。 私は、長野まゆみなんかもこの本に影響を受けた一人じゃないかしらと思います。『天体議会 プラネット・ブルー』は彼女の初期作品の典型ですが、少年たちが建物の高い危険なところを渡って歩く遊びをしたり、塔のてっぺんから飛び降りたりする場面で、ふっと『飛ぶ教室』を思い出させます。 といっても、『天体議会』に出てくる男子校には寄宿舎はないし、先生も登場せず、舞台となるのも港町で、雰囲気は全然ちがいます。ただ、学校生活を送る少年たちの秋から冬への日常や行事がノスタルジーをこめて描かれているところは、時代や設定はちがいますが、少し共通する感じがします。 長野まゆみ作品(と、どれも似かよっているのでまとめてしまいますが)のテーマの一つは、家族のあり方、です。 『飛ぶ教室』でも、父親にだまされ捨てられたヨーニーと、両親に愛されているが貧しいマルチンとが仲の良い同級生として出てき、少年たちにとって家や両親とはどういうものかを考えさせられます。家族環境が違うがゆえに、マルチンは自分の悲しみをヨーニーに説明することができません。家族について世の中について、二人の考えはそれぞれです。 『天体議会』では、近未来の家族設定について説明されています。 ・・・実の母以外の呼称であるタミー、またはバービィという通称を口にする生徒は多い。どちらも実の母に代わってその子供を産んだ人のことだ。タミーは生まれた子供と血の繋がりのある型、バービィはまったくない型である。 ――長野まゆみ『天体議会』 主人公の銅貨(いつものことながら長野まゆみの使う名前は面白い)の家も、父母と兄の四人家族が全員、血の繋がりがない家庭で、母は留守がち、父は単身赴任で、結局家にいるのは義理の兄弟だけという、かなりヘンな設定になっています。 家族のような他人のような人間関係。家族としては限りなく希薄だけれど、でも友だちとは違う種類の関係。 クールな兄に翻弄されて親友の水蓮とぎくしゃくしてしまう銅貨のことを、兄は当の水蓮に、 「ほうっておけよ、友人よりも兄の云うことを真に受けるような奴は」 ――『天体議会』などと言っています。友人関係は濃いようでいて希薄。そのせいか、わりあい簡単に仲直りします。 『天体議会』に出てくる家族や友人の、そんな微妙な人間関係を、『飛ぶ教室』の近未来版、などと思って読んでみるのも一興かも知れません。
January 3, 2007
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ほぼ全編寒くて、ペールトーンで幻想的な異世界を描くアニメ「大雪海のカイナ」。この季節に見ると(よけい寒さを感じるけど)いいんじゃない? と思います。 2023年にTV版を観て、続編映画はアマプラで先日観ました。 最初からアニメで創られたお話らしく、コミック版は登場人物の表情が乏しい感じであんまり良くなかった。アニメは主人公カイナとヒロインのリリハが、単純に私好みの顔というか表情というか(昭和的ともいう?)。 舞台・背景の方も、凝った設定のSFコミックスを描く弐瓶勉が原作なのでじっくり見たかったのですが、映画部分(後半)はコミカライズされてない。 で、その背景世界の第一印象は、ナウシカ&ラピュタ的世界です。文明衰退後の厳しい自然の中で、過去の遺物や言い伝えを頼りに生き抜く話なので、どうしてもそう見えちゃう。もちろん細部は異なり、極寒で昼でも薄明。泡みたいな白い小球でできたいちめんの「雪海」、そこに立つ世界樹的な巨木「軌道樹」、上空を覆う「天膜」、舞台設定はこの三つだけ。このうち巨木は、中山星香『フィアリーブルーの伝説』とか、オールディズ『地球の長い午後』とかにこういった設定があったなあと思い出します。人間が小さくて無力で、巨木や巨大昆虫が圧倒的迫力で、みたいな。 TV版では、初めて天膜に来るリリハ、初めて雪海に行くカイナ、途中旅する巨木の幹、というふうに、三つの舞台設定が紹介される感じで、ビジュアルも凝っていて楽しかったです。昆虫や海洋生物(「大雪馬」というのが超キュート)などにも、独特の雰囲気があります。 クライマックスには旧世界の怪物ロボット(ラピュタのロボットとか巨神兵みたいな)を操る悪者相手の戦争沙汰があり、これも普通に面白いです。ただ、この世界の成り立ちや危機(水源である軌道樹が枯れていく)に多くの謎を秘めたままTV版が終わったので、続編の映画版に期待しました。 ところが、映画版でも登場人物たちのストーリーは分かりやすくまとまっていたのですが、肝心の世界設定が説明不足というか、だいぶ力わざな感じで、うーん、いろいろと疑問が湧いてしまいました(以下ネタバレ含む)。 まず、伝説の「賢者」が水源すなわち命の糧として軌道樹を創ったのだから、大事にすべきだ、というのが主人公たちの信条。これに対して独裁者ビョウザンは、「賢者の記録を読んだら軌道樹を切り倒せとあった」と言って怪物ロボットを使って軌道樹の親玉「大軌道樹」の破壊を試みる。 この時点で思ったのが、ヒロインのリリハを始め多くが過去の文明を賢者って崇めてるけど、過去文明はなにか過ちを犯して滅んじゃって、あげくにこんな極寒の環境になったり水が涸れたりしてんじゃないの? ということ(冒頭にそんな解説があった)。賢者を盲信していいのかなあ。 もう一人のヒロイン亡国の女戦士アメロテは、現在の状況から、軌道樹を無くするのが正しいかもしれない、と言っています。けれど現在の世界しか知らない登場人物たちが、その世界の文字通り根幹である軌道樹を破壊することは、心情的にも無理でしょう。無理を通すには、ビョウザンのようにパラノイア的カリスマ性で皆を強引に引っ張るしかないのかも。ただしビョウザンは選民主義の妄想狂で、ムスカみたいで、いつ「人がゴミのようだ」と笑っても不自然でない感じだったけど。 このように考えると、このお話自体が、記録や歴史の継承・その正しい読み解きの大切さを説いているのかな?という気もしてきます。 ともあれ、主人公カイナは幸い文字が読めたので(一般人は文盲なのです!)、滅びた文明装置の記録・制御室へ入り、装置を読解することができました。この場所が弐瓶勉の真骨頂だろうと思ったのですが、いやまず、そこへ入るのに暗証キーがあるけど暗証番号がすぐ横の壁に手書きで書いてある、っていうのがダサすぎです。 なぜ書いてあったのか、たとえば部屋を閉ざした過去の人々が、きっと衰退した子孫たちは文字も読めなくなってるだろうと予測して壁に書きなぐっておいたのでしょうか? そのいきさつが分からないと、この場面はつまんないですよね、謎解きの一つもなく暗証番号が分かってしまうなんて。 部屋の中は、とってもハイセンスな情報装置が独特の雰囲気を醸し出していてステキ。なんですけど、あっという間に映像が流れていくので、映画を観る方も静止画面にして、東亜工業(弐瓶勉のトレードマーク的な)の文字を読み取らねば、この世界全体の設定である、惑星改造、地球化計画などはわかりがたいのです。 その後のいくつかの場面でも、細部の文字を読み取って、私にもようやく分かってきたのは、賢者=惑星改造者ではないかもしれない、ということ。実は天膜・軌道樹・雪海などは、惑星改造者がテラフォーミングを自動設定して創った人工環境なので(ああナウシカ世界だなあ)、そのままいけば時至れば自動的に軌道樹は切り離されて一大変動が起こり豊かな土地や水や光が惑星に満ちるはずだったのでしょう(それにしてももう少しゆるやかな変動にしないといろいろ悪影響がありそうですね。最後の場面、軌道樹を衛星軌道に打ち上げちゃったりして、宇宙に破片がいっぱいでしたけど)。 ところがこの自動的な計画に途中で故障が起こったらしく、支障、修復などの文字が見えます。修復はされたものの、その後は自動装置のタイムテーブルがうまく進まなくなったようで、次の命令待ち(と書いてあります)の状態だったよう。 そこで、キノコのような精霊「ヒカリ」の登場です。賢者の使いだというんですが、この精霊が人の心を読んで、思いやりのある人物2人にある言葉を言わせることで、惑星化計画の最後の一大変動へのゴーサインとする、と設定し直したようなのです。 TV版の頃から出てきたこの精霊、SF的設定にあまりそぐわない気がしてましたが、たぶん最初の計画が破綻したあと修復した人(それが「賢者」かな)の、AIかなんかだと理解すると、SF的に落ち着きますね。清い心の持ち主にしか見えないなどと、仕組みが今ひとつ理解不能ですが…、ファンタジーならいいんですが、この話は設定がSFだと思うので、なにか理屈が欲しい感じ。 結局、カイナとリリハは2人で声を合わせて精霊に惑星化計画完了、と言うことで、世界を救い、新たな世を導きます。うーん、「バルス」ですねこの場面。肝心なところでラピュタを思い出させちゃうって、やはりもう一ひねり足りないのではないかしら。 などと、あれこれツッコミつつ、これは「シドニアの騎士」または「人形の国」なんかと時系列でつながるのかなあ、とちょっと空想が広がります(よく知らないけど!)。
February 19, 2025
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今年も細く長くヘビさんのように続けようと思います! いつもの私の年賀状絵は良いのがないので省略で、左は娘の一発描きミドリニシキヘビ(グリーンパイソン)です。若い世代の娘・息子はもう年賀状を出さないのですが、急に思い立って古い絵の具で描いておりました。 ヘビというと苦手な人も多いと思いますが、娘も私も大丈夫、むしろ好きな部類です。若い頃オーストラリアの動物園で大きなボアを首に巻いてみましたが、全然ぬるぬるしていません! ひんやりと心地よく、かっちりと固く、ずっしりと重みがあっていい感じ。だのに同行した友人2人は逃げました。 娘もオーストラリアで同様の体験をしたそうです。最近は日本の動物園やカフェ等でも首巻き体験をできる所があるようですね。 さて年初には干支の動物の出てくる本を取り上げることの多いこのブログですが、ヘビが主人公の物語ってなかなかないようです。でもヘビの出てくる本は素敵なのがいくつかありますので、ご紹介;・キプリング『ジャングル・ブック』 私のお友達になりたい一推し爬虫類、うわばみのカーが出てきます! ディズニー版のカーは顔はユーモラスなのに催眠術で相手かまわず食べようとするだけの?キャラクターのようですが、原作のカーは、大きさといい威厳といい知恵といい、圧倒的迫力。主人公モーグリの大切な協力者で助言者です。(右画像は表紙にカーの載っているものを選んでみました)・舟崎克彦『ぽっぺん先生の動物事典』 ヘビの章には、エデンの園でイブを誘惑するヘビの話が面白おかしく語られるほか、ほのぼの絵本『へびのクリクター』(トミー・ウンゲラー)も紹介されています。・ロフティング『ドリトル先生のサーカス』 動物の言葉を話す先生は、サーカスの劣悪な飼育環境を改善するなかで、クロロホルムでぐったりさせたヘビを扱うへび使い女の芸当をやめさせます。そればかりか、ヘビたちは新しい芸当をするのです。私はこれを読んで、ヘビのダンスの挿絵を見て、ほんとに感動しました。 ヘビたちは、オルゴールの音楽にあわせ、たいへんふう変わりな、優美なダンスをしました。それは、スクエア・ダンスとあや取り遊びの、あいのこのようなものでした。 [中略]ヘビの余興は、ヘビの優美なところを見せるように、考えられてありました。なぜなら、ドリトル先生の考えによると、ヘビは世界じゅうでいちばん優美な動物だからです。 ――ロフティング『ドリトル先生のサーカス』井伏鱒二訳・ディズニークラシックのアニメ「ロビンフッド」 ロビンフッドがキツネなど動物化されていますが、中でもずる賢いヘビのヒース(サー・ヒス)の言動は抱腹絶倒の面白さ。透明な風船に頭をつっこみ、尾の先をプロペラのように回して空を飛んだりしますが、ロビンの相棒リトル・ジョンにつかまって酒樽に突っ込まれ、酔っ払いします。悪役プリンス・ジョンに八つ当たりされ、体をむやみに結ばれてしまい「ほどいてみろ!」なんて言われたりして、哀れに可笑しい。(左画像はディズニーWikiより)・マリオン・ジマー・ブラッドリー『ファイアーブランド』シリーズ トロイ戦争を予言者カッサンドラを主人公にして描いたフェミニズム作家の長編ですが、ヘビを神聖な生き物として飼い慣らす、神殿の女性たちが印象的。カッサンドラも手ほどきを受けて、寝床に生きたヘビを入れたり起きているときも腰にヘビを巻いたりしています。想像するだにぞっとする人も多いでしょうが、私はなかなか興味深かったです。
January 2, 2025
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最近の大阪の気温は最低19度~最高27度でして、ちょうど心地よい夏または初秋という感じです。まだ咲き続けるアサガオの花びらを食べているイモムシ、派手な黒と赤の毛をふりたててコンクリートの上をはっているケムシなどが出現し、娘が「飼う」と言ってケースに入れました。 何の幼虫か調べたら、イモムシはどうやらヨトウムシ、派手ケムシはいつだったかサナギから羽化をこのブログでもご紹介したことのあるツマグロヒョウモンのようです。 ヨトウムシ(夜盗虫)はその名のとおり、明るいとすぐ物陰に隠れてしまうのですが、ヒョウモンの方は悠々と体を伸ばしているので、写真に撮りました。ちぎって入れてやったスミレの葉を元気に食べて、大きなフンをしております (下に写っている葉っぱはヨトウムシ用のアサガオです。) そのうちサナギになって、また羽化が見られたらいいな~と思います。ヨトウムシの方は、ヨトウガになるんでしょうけど、うーむ、ネットで見た成虫の写真はあまり(全然)美しくないです。 今日は近所の服部緑地あたりへ行きましたら、まだヒガンバナが咲いていました。でもキンモクセイもようやく香り始めていますから、遅ればせながらどうやら秋が来たんですね。
October 11, 2010
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今日は小学校の図書ボランティアの会合に出ました。来月の図書の時間(4年生)に読む本を選ぶのです。 メンバーのある人が、大好きな『100万回生きたねこ』(佐野洋子)をぜひ読みたい、ということで、その場でまずメンバーの前で読んでみました。 以前の日記でもとりあげましたが、この物語の前半は、主人公のねこが100万回死んで100万回生き返るという話です。何度生まれ変わっても、ねこは飼い主が大嫌いで、死ぬのなんかへっちゃら、というのです。 ここで、いくつか問題点が出ました。・リアルな死ぬ(殺される)場面が何度も出てきて、子どもの前で読むのに抵抗がある。真似をしてねこを殺そうとしたりしないだろうか。・親戚など身近な人の死を体験した子どもや、ねこを飼っている子どもには、ショックが強いのではないか。 それから、・死んでも平気、何度でもリセット、というと、人生がまるでゲームのように安易で、命が軽んじられている誤解を招く。 なるほど、そうですね。この物語が世に出た頃(1977年)には、ゲームなどのバーチャルな世界はまだほとんどなくて、子どもたちにも「死んだらリセット」なんて発想はなかったのだと思います。だから100万回生き返るねこって、すごくインパクトがあった。でも、今ではキャラクターが死んだり負けたり失敗したら、リセットボタンでまた始めよう、というのがゲームの世界では当たり前。100万回生きたねこなんて、珍しくもないのかも。 いや、だからこそ、物語の後半に意味があるのだ、と、大人は言いたいところです。誰のものでもない自立したのらねことなり、人生の伴侶を得、家族を愛して生ききった時、ねこは自分で死んで、二度と生き返りませんでした。 100万回リセットしても、他人に飼われるような人生はほんとの人生じゃない。自分で自分の人生を生きて、自分を愛し他人を愛してこそ、ホンモノの人生なのです。 でも、そこのところが、4年生にどこまで伝わるでしょうか・・・。 「生と死」や「人生」についてどう感じ考えるかは、個人差がありすぎて、大勢の前で読み聞かせるのは、ちょっと無理なんじゃないか、という結論でした。 それより我が子と向き合って、子どもの受けとめ方をみながら、個人的に読み聞かせる方が、よいのではないか。・・・なるほど。 メンバーの中にも、この本(の後半)が好きという人もいれば、どうもこの本(の前半)はいただけない、という人もいました。うーむ、問題作なのですね。
June 21, 2006
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朝一番で「ロード・オブ・ザ・リング ローハンの戦い」字幕版を観てきました。貸し切りとまではいかないけど数人しかお客がいないのはちょっと寂しい。 神山健治が監督というので数年前から期待していたのです。その期待がちょっと大きすぎたのか…とてもキレイで真面目な古典的?アニメーションでしたが、すばらしさに息を呑む、というほどでもなかったような。 まずアニメ自体ですけど、背景の雪峰とかすばらしいんです。最近の技術進歩でしょうね、ほぼ実写な美しさ。人物や馬もリアルを追求していて、顔立ちも体型も動きも、不自然な誇張や簡略化、デフォルメなどがなくほぼ実写。つまりそう、もう実写でいいじゃん、という感じなんです。 それなのに、どうしても実写に比べて、鎧兜の細かい装飾とか質感とか、馬の筋肉の動きとか、野戦や吹雪の凍てつきぐあい(例えば眉毛に雪がついて凍るとか、濡れて汚れるとか、きっとあるでしょう)は、のっぺりしちゃうんですね。エンディングで出ていたスケッチの方が味がある。かといって3Dの(私にとってはいまだに慣れない妙な)立体感もない。 あとからパンフレットを読んだら、原案ではアニメに向かないほどキャラクターの「線」が多かった絵を実写のプロデューサーたちからの要請で「最小限に…減らした」のだそうです。いや、間を取ったあげくちょっと中途半端になってません??? これがディズニーだったら、いくら実写版が次々出ていても、ディズニー独特の顔やデフォルメやリズム感などがあって、ディズニーファンは嬉しい。ジブリだったら平面手書きでも、ああジブリらしくていいなあ、となる。 ところがこの作品は、ヒロインのヘラ、槌手王ヘルムをはじめ外見が一般的すぎて、いや伝説だから典型的でいいのかもしれませんが、何というか個性がない。誰からも批判を受けないように、原作や実写映画の評判を落とさないように、気を遣ってキャラクターをデザインしましたね?って言いたくなります。 特にヘラは、せっかくのオリキャラのヒロインなんですから、一目見たら忘れられないような印象的な外観にすれば良かったのに。別に奇をてらうとかお色気むんむんとかにせよ、というのではなく、何というかもっとオーラを出して欲しかったかも。 ストーリーも、原作を大きくふくらませたのですから、思い切ってもっともっと掘り下げたり、オリジナルな展開も入れたらよかったのにと思います。原作リスペクトは大変結構ですが、角笛城に援軍の到着する場面は「二つの塔」とほぼおんなじです。百年以上も前の話なんだから、同じように坂を駆け下るのではなく、もっと何かこう…工夫があってもよかったのでは。 だって、朝陽を背に援軍を率いてくるなら、物わかりの良い忠義者という以外に特徴のないヒロインの従兄弟くんよりも、そりゃあガンダルフの方が感動的に決まってます。いくら従兄弟くんがヘルム王の兜をかぶっていてもね。 そのヘルム王も、たった数行の原作の方が鬼気迫っています; …白い装束に身を固め、単身城を出ると、まるで雪トロルのようにのっしのっしと敵の野営地に乗り込み、素手でたくさんの人間を殺した。かれが身に寸鉄を帯びなければ、どんな武器もかれを刺すことはできぬと信じられていた。…[中略]…かれは食物が見つからない時には人間を食べたといわれている。 ――トールキン『指輪物語』追補篇 瀬田貞二訳 アニメのヘルムは、気がふれて怪物化するかな?と思ったら、なんだか心温まる父娘のホームドラマ風になってました。いや、「最強のヘルム王、実は不器用でいい父」でも良いのですが、もっともっと野性的な騎馬民族の英雄だったと私は思いたいのでした。 これもパンフレットによると、「ロード・オブ・ザ・リング」の終わった後、実写版でこれ以上つくるのはさすがに無理で、じゃあアニメでは?という話になった、ですって! 実写を目指してつくるからこうなっちゃったんですね。私はアニメという表現形態が好きなので思うんですが、せっかくアニメにするのだから、アニメにしかできない表現や効果をどーんと出してほしかったですね。最近は実写でも夢のようなキャラや場面がつくれてしまうので、難しいですが、だからこそ実写のドキュメントみたいにたんたんと見せるプラス、もうひと味ほしかった。 たとえばウルフの最期。リアルにあっさりしてました。国の最後の守り手である盾の乙女が、盾を使ってウルフを圧死させる、というアイデアはすごくいいと思いましたが、ここはクライマックスですから、もっとひきのばしてアップにして、首がちょん切れるくらいやっちゃっても…って、スプラッタは嫌いなんですけど、ふと、平家物語の巴御前が敵を「鞍の前輪に押しつけて、ちっとも動かさず、首ねぢ切って捨ててんげり」という壮絶な戦いを思い出したのです。この時代のローハンの内乱は、平家物語ぐらいの迫力があってもいいのじゃないかしら。 などなど、原作への思い入れというか妄想というか、そういうのが脳内に渦巻きながら観たものですから、すごく辛口の感想になってしまいました。 いや、普通に面白かったし、各方面へのリスペクトと努力のあとを感じる作品でした。象(ムキマル)がどうやってゴンドールを突破してローハンに現れたのか知らないけど。ダメなウルフの描写がいちばん良かった気もするし、ね。
January 5, 2025
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やっぱり寝不足になってしまいました。荻原規子の小説は、読み出したらやめられません! 孤独な笛吹きの若者と、天女のごとき舞姫。捕らえられた少年・源頼朝。まだ若き後白河法皇。そしてカラスの鳥彦王。登場人物が出そろったあたりで、結末がだいたい予想されるんですが、それでもやめられない。 第一に、一見地味な主人公・草十郎の、魅力的な設定。 生まれ:板東武者の父と、遊芸人の母。 境遇:平治の乱で源義平に従い敗北。生きる道をなくす。 才能:野山で笛を吹いては生き物を呼び寄せ、戦いでは音律を読んで相手を倒す、誰にも知られぬ音楽の天才。鳥彦王とも会話できる。 性格:天涯孤独、まじめで朴訥、自分の才能に気づいていない。 彼が独り野山で笛を吹く場面は、さほどきっちり語られているわけではありませんが、とても印象的です。ギリシア神話のオルフェウスみたい(この世から失われた愛する女性を取り戻そうとするあたりも、ちょっと似ています)。 そして、思い出したのが、三十年ほど前のNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」で草刈雅雄の演じた(この時がデビュー)、超かっこいい漂泊の笛吹き、鹿島玄明。時代はちょっとずれるけど、板東だし、笛吹きだし、何となく近寄りがたい雰囲気は、まさに草十郎。 対するヒロインは、これまた天才的舞姫、糸世。天女のような清らかさなのに、中味はわりと普通の、活発でおしゃべりで多感な女の子。荻原規子おなじみの、というか、昨今のファンタジーに共通する、元気なヒロインです。 時代が平安末期までくだったせいか、これまでの勾玉三部作に比べて、自然や神々との交感や、能力者・人外の者たちの援助は少ない(鳥彦王はいるけど)のが、個人的にはさびしいです(代わりに人間、たとえば幸徳などがここぞという時は援けてくれるのですが、人間なのでちょっとご都合主義っぽい)。 が、糸世と草十郎の舞と笛が合わさる場面、天から花が降ったり、金色の光の糸が見えたり、そのこの世ならぬ異空間の描写は、人間くさい歴史物の中でいっそう輝きを放って、すばらしいと思いました。 二人の恋も純粋で一途ですてきなのですが、彼らが源頼朝や後白河法皇の運命を変え、ひいては歴史を動かした、という筋立てが、「その時、歴史が動いた」(NHK番組)みたいで、見事です。
October 26, 2005
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森川久美の最新刊(といっても昨年末に出ていて、私が作者のサイトを見てそれに気づいたのが最近だというだけ)『ざくろの木の下で』(1巻)を読みました。 お得意のヨーロッパ歴史物。主人公は流れ者の傭兵と錬金術師、舞台は(1巻では)「北の海に面した港町」「自由都市」とありますから、ハンザ同盟都市をモデルにした架空の?町、時代は16世紀ぐらいでしょうか。 お得意の“故郷を追われた男”“なまぐさ坊主”“開き直った美女”なんかが出てきて、そういうキャラクターはみんな最初ナゾめいていて、やがてだんだん正体が分かってくるにつれ、読者をぎゅーっと惹きつけていきます。 最近のこの作者の傾向なのかかなりコメディータッチ。もう少し前に出た『危険な席』もそうでした。むかしのあの、若いからこそこんなに悩むのか、みたいな圧倒的な暗さから、年とともに脱皮して、気楽になったという感じ。 読者としても楽しんで読めます。コメディーしているキャラたちもみんな可愛いし。 ただ、 むかし『南京路に花吹雪』や「ヴァレンチノ・シリーズ」あるいは現代モノ『ウエスト・エンド物語』なんかで私を魅了したあるものが足りない!と思うのでした。 先月のブログに確か書いたのですが、それはつまり、“都市”そのものです。カッコいいヒーローたちが喧嘩や陰謀に走り回る舞台となる、とてもリアルな幻想都市としてのヴェネチアや上海、ロンドン。 光より影、つまりほとんどベタで塗られた背景に、「手書き」というタッチでこれでもかーこれでもかーと細かく描き込まれた、古い石造りの建物、建物、建物。路地、運河の霧、うっそうと茂る庭園の木立、そんな重た~い風景が、私にとっての森川久美なのでした。 『危険な席』や『ざくろの木の下で』は、コメディーもアクションもキャラクターのカッコよさも◎なのに、背景が足りないのです。いくつかはシブい背景や風景があるのですが、架空の都市であるせいか、どうも重みが足りない。その都市の歴史にしみついた独特の重みが・・・ これも作者が特定の都市にこだわり続けた時代から「脱皮」したのかなあ、とも思うのですが、私はやはり森川久美の描く異国の町が好きです。 『ざくろの木の下で』の主人公たちは旅に出た模様なので、もしかするといい味の出た町に行き着くかもしれません。とりあえず続巻に期待。
April 15, 2008
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リチャード三世は、確か「ナルニア国ものがたり」のルーシーが「バラ戦争よりややこしいわ」と言っていた、そのWars of the Roses(15世紀)の白バラ側(ヨーク家)の王様。シェイクスピアの劇が有名ですが、私は森川久美の「天の戴冠」の方が先でした。 この話のリチャードは、キラキラした金髪の兄たちから一歩下がったところにひっそりと立つ、ナイーブな黒髪の「弟」です。無口で内向的で感情表現がヘタ、しかし(そのぶん)戦には強いという、複雑な性格。カリスマ的な魅力を持つ兄の「影」として、兄に対する愛憎いりまじった感情を自分でもてあましています。 そして、兄王が病死すると後継争いのごたごたの末、自分が王になりますが、やがて赤バラ側(ランカスター家)の巻き返しにあって、ボズワースで戦死します。戦いで死んだ王様というのは、イギリスではほとんどいないそうです。 最後の戦闘におもむく時の彼のセリフ、 もぐらは・・・(中略)・・・土を掘ることをやめるわけにはいかない/ 掘り続け…土はもぐらを埋め続ける/ ・・・〔王冠など〕すてておけ!/ そんなものに心を動かされたことはない!! ――森川久美傑作集『青色廃園』より「天の戴冠」というくだりが印象に残った私は、これには原典があるに違いないと思い、シェイクスピアの『リチャード三世』を買い求めました。 ところが、びっくりするほど違うんですね、こちらのリチャードは。まず口絵にある舞台俳優(ロバート・ヘルプマン)さんの、ものすごい目ヂカラに衝撃を受けてしまいます(左画像)。シェイクスピアのリチャードは生まれながらの大悪党、実の母からも呪われる、一見、悪魔の化身みたいな人物なのです。 しかし解説によると、このリチャードも一筋縄ではいかない複雑な性格を持っているようで、「冗談や皮肉を弄ぶ明るい意識家」とか、「おのれの才能に自信があればこそ」自分のさえない容姿を「皮肉たっぷり、上機嫌に、誇張して」語るのだと評されています。 観客(=読者)は、ただのひねくれ者ではなくて、自覚して自ら悪役を演じきっているリチャード、それを演じる俳優さん、という二重構造を楽しめるのでした。 ちなみにこちらのリチャードの、最後の戦闘あたりのセリフは、 馬をくれ! 馬を! 代りにこの国をやるぞ、馬をくれ! ――シェイクスピア『リチャード三世』福田恆存訳です。モグラは出てきません。一説によると、愛馬ウォールが倒されたため、リチャードは落馬して、なおも戦い続けますがついに殺されたのだそうです。 そして、余談ですが有名なマザー・グース「ハンプティ・ダンプティ」は、塀(ウォール)から落ちてつぶれてしまったハンプティ(=ズングリムックリ)が実はリチャード三世のことだという説もあるようです。 ともあれ、最後の戦いで(そして実はそれまでもずっと)リチャードが、王位に執着していたのではなく、彼自身には彼なりの別の人生観があった、というのは二つの物語の共通点といえるようです。 ただの悪役、ただのアンチ・ヒーローではない、奥の深い二つのリチャード三世像。彼を扱った作品を他にも読んでみたいという気にさせられます。 ジョセフィン・テイの『時の娘』を読もうと思うのですが、なぜか近所の図書館にはないので未読です・・・
May 10, 2012
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この夏『零崎曲識の人間人間』につづき、娘が借りてきた「人間シリーズ」をおおかた読んで、とくに『零崎人識の人間関係(戯言遣いとの関係)』読後に思ったんですが、とかくナゾの多い主人公「いーたん(いーちゃんと言うより私はこちらが好き)=戯言遣い」は、物語世界での作者西尾維新さん本人ですね、きっと。本名も、NISIOISINに1~2文字加えたものじゃないかしら。ほら、一般人の俊希(としき)が殺人鬼になると人識(ひとしき)という名になったように・・・ って、「戯言シリーズ」本編未読で、西尾維新の他の作品群もまるで知らないのに、断言的な書き方をしてしまいました。でも、読んでいて直感的にそう感じましたから、そう感じさせる要素があるということですよね。 いや、ここまで書いて、まるでハズレだったら笑って終わりますけど。 ていうか、私が知らないだけで、いーたん=作者説なんてのは、この作家の愛読者の人たちには定説?の一つなのかもしれませんが。以下ネタバレ少々。 この物語はタイトルに「戯言遣いとの関係」とあるのに、ストーリー本筋には二人の関係がまったく出てきません。殺人鬼人識が起こした「京都連続殺人事件」のあらましが語られるだけです。いーたんは、警察の事情聴取でちらりと登場しますが、死人のように無反応・無感動で、その無のオーラが常識人の刑事をびっくりさせます。つまり、彼は常識外ってこと。 住んでいる骨董アパートも、一種空間がゆがんだエアポケット的場所に思えます。 このシリーズ世界は、前にも書いたように、すべてを仕組み操ろうとする立場の人物が居て、その代表が西東天(どうもこの姓は私に、俳人の西東三鬼を思い起こさせます)ですが、この人は因果の外にあって物語世界を壊そうとして壊せず、世界終焉のキーパーソンをいーたんである、としています。 人外魔境な登場人物が次々出てくる中で、いーたんは一見ごく地味な一般常識人(自分の興味が向かない世界への無反応も無感動も、世の若者の常とも言えるでしょう)なのに、なぜ物語世界構造のキーパーソンなのか・・・なぜ彼の存在や言動が周囲の調子を狂わせるのか・・・それはやっぱり実は彼が作者だからなんじゃない? いーたんの本名がわざと明かされないのも、◎のついた服を着ているのも、作者の「実は私ですよ」というマーキングじゃないかと私は思ったりします。 ところで、この本に戻りますと、各章のとびら部分に、一見無関係に見える友人の日常的対話があります。何も書いていないけどどうやらこれは人識といーたんの会話。別のところで鏡像関係と言われているように、二人の対照的?な性格が出ているセリフが続きます。でも見方によっては、いーたんとの対話形式を借りた、人識のキャラ設定メモともいえそう。なぜって、他の本や本文で時々作者がキャラにツッコミを入れている、そのスタンスと、いーたんのセリフのスタンスが、私には同じに思えるのです。 ついでに、誰でも気づくことを念のため書いておきますと、作者の名前は維新さんで、いがつくからいーたんとも言える。いーたんは関西人で鹿鳴館大学に在籍(のちに中退)、作者はたぶん関西人で立命館大学在学中にデビュー(のちに中退)。 シリーズ本編では語り手の「ぼく」(一人称)だから、ふつうに考えて作家の分身。 この話では、殺人事件に接点がないのに、犯人から聞いた形で事件の動機解明のカギを哀川潤に話した。結果、彼女はウラワザ的に--まるで推理小説の作者に謎解きしてもらったみたいに--事件を解決することができた。 物語末尾にはタイトル「戯言遣いとの関係」の答えとして「無関係」と記されています。鏡像であり友人なのに「無関係」なのは、作者がこのシリーズでかなり中心的に描き込んでいるため作者自身の分身とも言える零崎人識の、鏡像は、つまり作者だから。 創造者と被創造者という近いのに触れあわない関係(無関係)。それを作中に持ち込んでできあがったのが、いーたんという特殊なキャラクターなのかな、などと。
October 4, 2016
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暑さで外出も苦行の今日この頃、読書とかTVで映画・アニメ鑑賞とかに最適・・・なんですけど、ちょっと最近ばたばたしてるのと、期待外れが続いてネタに困っているHANNAです。 で、期待外れなあれこれを順に書いてみます; まず、「驚異の動物行動学入門」と銘打ったアシュリー・ウォード『動物のひみつ』。いや、とっても面白かったんです。多種多様の生き物の行動を紹介するだけでなく、それと比べて人間の社会性を考察。でもきっちり科学者の視点で書いてあって。私はもともと「ファーブル昆虫記」に始まってローレンツや河合雅雄などを愛読していたのですが、この分野の最近のめざましい研究成果については、この本で初めて知ることも多かったです。 では何が不満かというと、そう! 面白すぎて足りない…! たとえば冒頭、コウモリが吸血した血を仲間に分ける行動を紹介。仲間が空腹だとどうやって知るのか? それとも空腹な個体が満腹な個体に何かアピールするのか? 具体的にもっと詳しく知りたい、いかにして観察したのか、なども深く知りたいと思うのに、次の生物の話へ進んでしまいます。 たぶんいちいち詳しく書いていたら1冊の本にはおさまらなかったのでしょうね。この本は電車の中で読みましたが、そういうスキマ時間的読書には向いてるかも(タイパがよい、とも言う)
August 7, 2024
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有名作家の有名作品なのになぜ? 本っ当に期待外れだったのが、『かがみの孤城』。アニメを観たのですが、ファンタジー的にお粗末すぎでは? 原作は違うのかと少し調べてみたのですが、やっぱり読む気になれませんでした。 ツッコミどころ満載なのですが、(以下ネタバレ)たとえば、なぜミオはオオカミの面をかぶって「赤ずきん」に言及し皆を威圧するような言葉遣いをするのでしょう。きっと定刻をすぎると皆を食い殺しに来るというオオカミとの関連性があるのね、もしかしてミオ=オオカミで、リオンの妹のやさしいミオと、恐ろしいオオカミとの二面性があって、それが物語のカギになるのか? と期待したら、そんなのなかった。 そもそも定刻を超えて居残ると食われるというのが、なぜ「七匹の子ヤギ」なのか? 七匹の子ヤギはそういう話ではないけど、深いところで何かつながりがあるのか? と期待していたら、なかった… 皆が通ってくる鏡にはどんな意味があるのか? 自分の映像の中に入るわけだから、やはり自分自身の真の姿を見つめ直すとかそういう意味が…と期待したけど、別に鏡ならではの特性とかなかったし。 タイムラグのある異世界ものはありふれているのに、みなが全然気づかないのも不自然(パラレルワールドと言うあたりで、服装や言動からすぐ分かると思うのですが)。私なら鏡をくぐり抜けたら、ドールハウスのお人形の服装になっちゃう、という設定にするだろうな…とか。 原作は連載しながら創っていったらしいのですが、なんか圧倒的に練りたりない感じがするのはひょっとしてそのせいなんでしょうか。 あと、登場人物の中で腹立たしかったのが、こころの親友もえちゃんです。絶対に見捨ててはいけないところで、こころを見捨てましたね! いじめグループが怖かったのなら、帰宅してからこころに電話するとか手紙出すとか、いくらでもフォローできたはずなのに、それもしませんでした。最低です。こういうことはタイミングが大事なので、最後に手紙出したり和解していますが遅すぎますね。もえちゃんはそこんとこ、全然わからないまま去って行きますね。 もえちゃんにも精神的葛藤があってなかなかこころを助けられなかったのなら、そこをもっと描いてほしかったです。もえちゃんこそ、いちばん反省して乗り越えて、友人を見捨てず助けられるよう、変わるべき人物だと思うのですが! (もし、私の推測に反して原作はもっと完成度が高いのなら、読まないでけなしてごめんなさい。)
August 8, 2024
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期待外れ第3弾。異色で面白いとの評判を聞いていたので意気ごんで見た(ついでに原作も少し無料で読んでみた)『ダンジョン飯』(九井諒子)です。 つきぬけた変人の主人公ライオスを始めキャラクターは多彩、迷宮の描写や設定が細かくマニアック、迷宮深く潜るにつれて深まる謎と邪悪な気配、そして毎回の迷宮魔物料理。魅力がいっぱいの物語です。なんですけど・・・なぜか私は物足りなさを感じてしまいました。 原因の一つは私的なことで、もともと料理が好きでないので、はやりの飯テロ的作品としてはあまり楽しめない。料理シーンやレシピ解説が出てきたら飛ばして読んでしまうタイプ。食材ゲットと食べるシーンは楽しいけど。 でも『空挺ドラゴンズ』の龍は幻獣でもおいしそうなのに、ダンジョン飯の魔物料理は正直あまり感動しない、なぜでしょう。『空挺ドラゴンズ』の龍は幻獣だけど魔物じゃないから、かな… 『ダンジョン飯』の魔物は、魔物のわりにすごく現実の日常食材に似すぎていて、料理嫌いの私はセンシが丁寧に調理しているのを見て、あーめんどくさそう、とうんざりしてしまう。歩き茸をタテに切るか横に切るかも、なーんだ、ふつうの茸をおんなじじゃん、と思ってしまう。普通の茸と同じ断面の様子なら、なんで足が動いて歩くのか? 筋肉や神経は? いや魔物だから魔力で歩いてるというなら、魔力らしい神秘的な雰囲気が漂うとか(独特の香りはするそうだが)。神秘的であってもなくても、魔力で歩く茸を普通の茸なみに調理して食べるのは、マルシルじゃないけどやばすぎる気がします、いくらおいしくてもね。おいしさに負けて食べ続けたら魔物化しそう(しない、と言ってるけど)。 そういうふうに、設定がわりと理詰めなので、私はかえってつっこみたくなっちゃうのかも。 たとえばゴーレムの畑。センシが農業していて、生態系とか自給自足とかSDGsな感じですけど、説得力があるからこそ次々疑問がわきます。チルチャックも言ってましたが、光合成の光をどこから得ているのか? 迷宮自体の光源が謎ですが、これも魔法の光なのか、見たところ迷宮は真っ暗闇ではなくほのかに明るいですね。でも普通に光合成するキャベツやにんじんを育てるには暗すぎると思うのに、これも魔法のキャベツやにんじんなんでしょうか? あとゴーレム立ってたら、畑になってる背中から常に光が射さないと育たないだろうし、重力の問題もあります。野菜の芽はみんなゴーレムの頭の方へ伸び、根っこは足の方へ伸びてしまうのでは? それともゴーレムはずっと腹ばいで寝て暮らすのかなあ? 給水の時は普通に立ってたけど。 もし、迷宮内は魔力に満ちていて地上の自然法則とは違い、不思議や不思議ゴーレムの体から魔法の野菜が生えるのです、というだけの説明だったら、私はその方が、「おおさすが迷宮、すごいな!」と感動すると思うのですが・・・。 最後に、迷宮では死んでも蘇生可能なルールがあるのですが、それにしても妹がドラゴンの中で消化されたり、再生したけど魔物になったという危機に、脳天気すぎる主人公たちがちょっと引っかかります。もちろん毎回悲愴感漂っていたら物語としては面白くないかもしれないけど、なんかゲームをやってるような軽さが(ギャグやユーモアとは別の、絵空事みたいな軽さが)あるような気がします。 もっとも深い階層へ進むにつれてシリアス度は増していってるので、アニメ第三期は少し期待かな。いや、もっと気負わずゲームをやってるように楽しんで読め/観ればいいのかもしれませんが。
August 21, 2024
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ようやくシーズン2を全部観ました。前にも増してどの場面も暗いので(物語が暗い展開になってきたからでしょうけど)、目をこらさないと誰が何をしてるやらわかりません。 (→ネタバレあり)シーズン1の私なりの要約は「皆と離れても信じる道をゆく主人公たちが、物語を進め歴史をつくる」でしたが、今回の感想を一言でいうなら、「最期におのが過ちを悟っていい人になる」でしょうか。 もちろんラスボスのサウロンをはじめ、(サルマンらしき?)悪い魔法使いやヌメノールのアルファラゾンなど、次へ続く悪役たちはますますワルの度合いを高めて行ってますが、このシーズンで退場する人々は退場間際に自分の愚かさに気づいて多少なりともいい人になって散っていきます。 こういう結末は、誰を/何を信じて良いのか分からない、裏切りと期待外れ続きのストーリーの中でいっそう輝きを放ち、視聴者の心をつかむ!というわけでしょう。 生き延びる人々の中で相変わらず見所があったのが、ヌメノールの女王ミーリエルとドワーフのディーサです。欲にまみれた男どもが右往左往する時も、まっとうな常識を貫いてゆるぎません。もちろん、女性キャラがみんなそうではなく、時代に翻弄され迷い揺れ動く者もいます。ガラドリエルもそうだし、新たに出てきた避難民のエストリドなんかも。 トールキンだけではありませんが、古典的なファンタジーのキャラクターは、どうしても最初から悪玉は見るからにワルっぽく、善玉は人質でも取られない限りいつも正義を行う、的なところがあります。でもこのシリーズでは、混迷の世にあって選択を誤ったり迷ったりするキャラクターが特徴的ですね。 ケレブリンボールなんか、おのが才能を追求しそのためにサウロンにつけこまれちゃいます。彼は最初から領地の統治や雑事は同胞に任せておけばよかったですね。サウロンことアンナタールの欺しの演技も見事でしたが、それを自力で看破したケレブリンボールさんは、最期まで(呪いの予見をしたりして)、ノルドールらしく立派でした。 ドワーフ王ドゥリン3世は指輪によってモリアの富への執着が高じていきますが、これもいかにもドワーフらしい(「ホビット」のトーリン/ソーリンなんか指輪なしでも強欲にとり憑かれてた)。バルログを掘り出した途端に迷妄から覚めて立ち向かい、もろともに山の深部に埋もれてしまいます。バルログを掘り出すのは第3紀じゃなかった?という原作からのツッコミを入れたくなりましたが、踏みとどまっておきます。バルログは実は「サウロンの悪意によってとっくに目覚めていたかもしれない」という記述が追補編注釈にありますから…きっと、ドゥリン4世以下の面々はバルログのことを後世に戒めておいたのに、性懲りも無くドゥリン6世がまた掘り出した、のでしょうね… そして、突然イケメンになり話の分かる賢さを見せ、最期にいい人の片鱗を見せたのが、アダルさんです。雰囲気が変わったのは、実は俳優さんが変わったからですが、悪役とはいえ微妙な終わり方でした。トールキンならこういうキャラクターはつくらないでしょうね。 ともあれ、原作の第2紀を超圧縮した感じで話が進みますが、まあ二次創作ですから仕方ないでしょう。 そうそう、トム・ボンバディルが出てきて(かなりとってつけたような登場)びっくりしました。俳優さんのお顔はイメージ通りでしたが、いや、なんかストーリーにはめ込むと違和感だらけ。ただし、歌はすばらしかったです。何度も聴いてしまいました。
November 7, 2024
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昨日、リマスター版上映に行ってきました! 動物好き、英国好きの方必見のアナログ・アニメーションの秀作「ウォーターシップ・ダウンのうさぎだち」(1978年)です(画像は昔の原作カバー)。 以前ブログで熱く語りましたが、私は昔この映画を観て原作を読み、すっかりとりこになりました。 今回、驚いたのがキャッチコピー;「残酷な現実描く」。解説にも、「多くの子どもたちにトラウマを与えたショッキングな描写」。 えっ、そこに注目なんですか!? びっくりです。ウサギがぬいぐるみや絵で可愛くデフォルメされるからって、実際の生き物がか弱いもふもふなだけでないのは当たり前じゃないですか。最近の子どもたちは野生動物のドキュメントとか見ないのかな(「ダーウィンが来た!」とか)。 「ピーター・ラビット」と比べてピーターは可愛いけど…と書いてあるのも見かけました。いえいえ、ピーターのお父さんがマクレガーさんに肉のパイにされたという事実を忘れています! 前回の「アリス」にも書きましたが、イギリスの田園ではウサギが普通にいて、農家の人は普通にウサギを鉄砲や罠で捕え、食べたり皮をはいだりしていたのでしょう。農家の犬や猫、そして他の肉食獣がウサギを殺すのも当たり前、それでも生き続けるウサギの暮らしがタフなサバイバルの連続なのは当然です。どれだけタフかは、以前ご紹介した『うさぎは正義』(井口病院)の第1話をご覧ください! ウサギどうしもメルヘンな構図ばかりではありません。小学校で放し飼いのウサギ小屋に入り浸っていた私は、オスウサギが傷だらけになって戦ったり、弱いウサギが隅に追いやられて痩せ細ったり、食いつかれて後足の骨がくだけたりするのを目の当たりにしました。 というわけで、リアルなウサギとリアルなファンタジーに酔いしれた私はその後、大学の文化祭の映画研自主上映で2度目にこの映画を観ました(この頃からカルト的人気だったのでしょうか)。輸入ビデオも買いました。声優さんやイギリス英語の語りが格調高くてすばらしいです。 今回3度目ということで、緻密なアナログ絵で描かれた景色や、幽玄的なファイバーの幻視世界、それらとリンクしているウサギの神話世界の(アボリジニの芸術のような)描き方をしっかりと堪能しました。 以前より分厚くなったパンフレットも購入。トラウマうんぬんの他にも、ファンタジーとしての解説、そして原作は作者リチャード・アダムスが実際に娘たちに語った物語だったことなどが書いてあり、読み応えがありました。やはり英国ファンタジーは子供への贈り物なのですね(プーさんやドリトル先生と同じように)。 そうそう、アート・ガーファンクルの歌う主題歌も幽玄で素敵ですし、音楽、特にカモメのキハールのテーマが大好きでして、これはむかし黎紅堂で借りたサウンドトラック・レコードをテープにダビングし、すり切れるまで聴いたあげく、勝手に歌詞をつけてひそかに歌うまでになりました; ♪空を越え とおく旅をして いつも想うはふるさとのことよ 波音のひびく浜辺 仲間たちの陽気な声 空を越え はるか旅をして いつも恋するなつかしい波のうたよ 初夏の風は ほら ささやいているよ こころときめかす 見知らぬ世界へ 朝陽ののぼりそめた丘へ 翼はばたいて 静かに眠る まきばの木 こずえをかすめて (以下省略。ちなみにキハールという名は波音のこと、と原作にあります) キハールは映画でほんとにいい味出してますね。そして原作ではビッグウィッグの大ファンなHANNAです。ビッグウィッグ(大きなかつら)はヘンテコな名に思えますが、英国では昔裁判官がかぶったかつらを思い起こさせるので、結構威厳のある名ではないかと私は思っています。
December 3, 2024
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注意! 虫ネタです。 ようやく少し涼しくなって、夏の間ジャングルのようになった庭の木を刈り込もうとしたところ、ヒイラギに大きな青虫というかイモムシが何匹もついていました。キレイな緑色に細い毛をまばらに生やし、すごいスピードで這い回り、棘のある葉をむしゃむしゃと食べています。 ヒイラギの葉を食べる虫なんているのかしら、けれどそういえば数年前からヒイラギの葉に時々いかにも食べられたような痕がありましたっけ。 スマホで調べたら、どうやらシマケンモンという蛾の幼虫のようでした。「縞剣紋」と書きます、キレイでスピーディーなイモムシにしてはいかめしい名前。と思ったら、縞模様や剣の模様のあるのは、成虫の蛾で、それはそれはいかめしい、木の幹みたいな保護色の(はっきりいって超地味な)羽を持っているのでした。 シマトネリコの木(こちらの名前は縞ではなく「島」とねりこ)にもつくそうですが、我が家のシマトネリコの幼木は無事でした。南方産のものが、温暖化で北進し、今では西日本で普通に見られるそうです。といっても、成虫の方はそのへんにとまっていても気づかないほど保護色です(成虫を知りたい方は検索してください)。
October 12, 2025
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ようやく猛暑が去って、でもまだ夏のような日々です。 アサガオの根方に、ちょっと割れてみすぼらしいけど、3~4センチほどの白いキノコが生えていました。昨日はなかったのに、一夜にして生えたようです。 長梅雨につづいて猛暑のあいだ、ほったらかしだった庭は、いよいよ荒れ放題。もともと病気がちだったバラは全滅。夏の初めにむやみに咲き誇ったエニシダも、どうしたわけか突然枯れ始めました。 伸び続ける朝顔にはバッタがたかって、やわらかい花を食べてしまいます。 少しキレイにしたいのですが、どこから手を着けてよいやら・・・蚊もいっぱい出るし。
September 18, 2010
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なつかしいサンリオ文庫の表紙(竹宮恵子)を掲げてみました。ハヤカワになってからの表紙は萩尾望都ですから、SF漫画家の大御所二人の表紙絵があるわけで、さすがアーシュラ・ル=グインのSF処女作です! どちらの表紙にもあるように、地球とは異なる惑星で、翼のある猫のような大型獣「風馬」(ハヤカワでは「風虎」)を駆って旅をする人々が出てきて、もうそれだけでファンタジック(ちなみに原書ペイパーバックの表紙に描かれている風馬はおどろおどろしいです)。 ル=グイン独自のハイニッシュ・ユニバースという宇宙史を舞台にしています。私が初めて読んだハイニッシュ・ユニバースもの『闇の左手』では、宇宙連盟からの使者も、惑星「冬」の住民側も、政争や領土争いのなか、理解不足、誤解、反発、焦燥、後悔など、精神的葛藤が続きます。もちろんそれだけに、それらを乗りこえて使者ゲンリー・アイと現地人エストラーベンが理解し合うクライマックスは感動モノなのですが、全体的に、異種間の相互理解の難しさを思い知らされる感じです。 それに比べて、処女作である『ロカノンの世界』は、重苦しい状況のなかでも、連盟からの使者ロカノンと、惑星の住民たちとが、協力し思いやり、努力しあって仲間として行動していくストーリーなので、明るく安心して読み進めます。作者の若々しい理想主義、かもしれませんね。 「…穴熊なんて呼んじゃいけないな」ロカノンは良心的に言った。…民族学者としてこういう言葉には抵抗すべき立場だったのだ。 ――ル=グイン『ロカノンの世界』青木由紀子訳 言葉だけでなく、ロカノンはその惑星特有の色んな種族に出会うたびに、できるだけ先入観や偏見のないような考え方・振る舞いをしようと努力し実践していきます。いためつけられても、「ご親切にあずかりたい」と言い、「わたしは平和のうちに来り、平和のうちに去る者だ」と眼力のみで戦い、つねに冷静に、相手はどんな人々でどんな感じ方・考え方を持っているかを考えて対処しようとします。同僚を皆殺しにされ唯一の生存者として連盟に危機を告げねばならない身の上なのに、自暴自棄にもならず諦めず、実にあっぱれです。作者自身の父(高名な文化人類学者)に少し似ているのかもしれない、などと思います。 この作品が書かれた1960年代はもちろん、現在でも、アメリカでも世界でも、不理解と差別が悲劇をうみ続けていることを思うと、ロカノンの態度はすばらしく、全力で応援したくなります。 また、実際に全面的に彼を応援する現地の青年貴族モギエンの、なんとカッコイイこと。見た目の描写はもとより、立ち居振る舞いが騎士道的というかサムライ精神というか、ほれぼれします。自分と敵に厳しく、部下と友には寛大で、死の予兆を感じても騒がず恐れず自分の生き方を貫いていきます! また、光の妖精的な種族や、対する闇の小人的な種族でさえ、それぞれの信条と生き方に従って、礼節を守り堂々と多種族と相対していきます。 伝説や神話、伝承詩などをちりばめて、ロカノンは次々に現地人の仲間を失いつつも、旅を続けます。目的地に近い南大陸の未踏の地をゆくにつれ、旅はどんどんファンタジー色を強め、クエスト的になり、(ネタバレ→)ついに彼は隠者のような種族の導きによって「心話」つまりテレパシーを会得します。 それまでこつこつと研究や努力を重ねて異種族を理解しようとしてきたロカノンが、このときを境に、一足飛びにテレパシーで他人の心の声を聴くことができてしまう。敵地にしのびこむ切り札としてとっても便利なのですが、便利さを上回る情報過多が彼を襲います。インターネットやSNSにさらされた現代人にも似て、彼のメンタルは他人の心のつぶやきに翻弄され、初めてズタズタにやられてしまうのです。 テレパシーなどなしに相互理解を築いてきた仲間を次々失い、敵の大量の心の声にうちのめされる、これがロカノンのクエストの成功の代償でした。 そう思うと物語の結末は、明るく達成感に満ちたハッピーエンドではありません。『指輪物語』の結末においてクエストを達成したフロドが、メンタル的に癒やされない傷を負って現世から去って行くように、ロカノンも達成後長くは生きられず、連盟からの救助船が来る前にその地で没したことが語られます。異郷に捧げた彼の人生の重みを感じるとき、単なる冒険活劇ではないこの物語の深さに感動します。
February 24, 2024
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先日梅田を歩いていますと百貨店のウインドウがクリスマス仕様になってましたが、今年のテーマはアリスでした。 でもちょっと違和感、原作『ふしぎの国のアリス』は枠物語の枠部分が春のカントリーサイド、ふしぎの国も春~夏の風情なので…続編『鏡の国のアリス』の方が枠部分が冬で、クリスマスには合うのにな、と要らぬツッコミを心の中で入れつつ、しっかり立ち止まって素敵な展示を眺めたのでした。 今や大人にも大人気のアリス、ティム・バートンの映画「アリス・イン・ワンダーランド」が記憶に新しいけど、とにかく多くの作品のモチーフに使われているほか、原作にも評論や研究書が山ほど出ていますよね(高橋康也とか…きちんと読んでませんが)。「ナンセンス(ノンセンス)文学」「シュールリアリズム」「前衛的」などのキイワードも見られます。 でも私にとっては、子供の頃から親しみ過ぎてかえってこのブログで語るのを忘れていた、児童ファンタジーの古典。あえて「児童」と思うのは、主人公アリスがおませな少女そのままの感性・思考・行動で、当時(19世紀後半)彼女の身近にあった事物が登場するワンダーランドを旅するからです。 はるか昔、私がディズニーアニメで最初にアリスを知った時は、脈絡がなくてつまらないと幼心に思いました。ディズニークラシックのアリスは、最初と最後が妙に説明的(アリスが最初から飼い猫ダイナにふしぎの国を語ったり)な一方、ふしぎの国自体はその奇妙さで視聴者を圧倒するのに焦点が置かれているようです。 しかし、岩波少年文庫で原作を読んでみると(画像は現在のもの。私が読んだのは田中俊夫訳で「ふしぎ」がひらがなでした)、ちゃんと筋が通っていると思われたばかりか、アリスの独白部分は自分そっくりだし、物語中で歌われる歌詞も面白く、何度読んでも飽きませんでした。 つまりアリスと似たような年齢だった私は、このお話のすべてをちっとも奇妙だと思わなかったのです。 たとえば冒頭部分、姉の読む本を覗いてアリスは思います、 「絵も会話もない本なんて、いったいなんの役に立つのかしら」――ルイス・キャロル『ふしぎの国のアリス』田中俊夫訳 以下の引用はこの本 当時の私はこの意見に大賛成。常に新しい読み物がほしかった私ですが、本屋さんや大人の本棚の立派な本を手に取ってもたいてい字ばかりで、読もうとしてもわけがわかりません。こんな物を好む大人とはおかしなものだ、と思っていました。ほんとに子供だったのです! ところが、すぐ次にはアリスは、 ヒナギクで花輪をこしらえるのもおもしろいけれど、わざわざ起きていって、花をつむだけのことがあるかしら と考えています。なんだかモノグサな大人の逡巡ですね。こんなふうに、アリスの心は幼い部分とませた部分を行ったり来たりしています。個人差もあるでしょうが、女の子なら幼稚園年長さんぐらいになると時々大人びた考えが芽生えるものです。子供だからいつも幼いわけではないんですね。 さてそこへ白ウサギ登場。穴に入るし白いので飼いウサギかその野生版のアナウサギです。ウサギはいつもせわしく鼻をひくひくさせてるし、野外では臆病ですぐ穴に向かって逃走する、かと思うと立ち止まって座り立ちして耳を立てて様子をうかがったりして、…その仕草が、「懐中時計をとり出して、時間を見て、また…いそいでゆく」のにぴったり来ます。 当時イギリスのカントリーサイドで普通に見かけたウサギが、強迫観念に駆られたように急いでいても、アリスは別におかしいと思わなかったのでしょう。 それから、ウサギ穴の奥で地下へ下降するアリス。このブログで時々取り上げた、階層を突破するエレベーター空間の、原点ですね。アリスの縦穴は楽しくて、壁の棚から「オレンジ・ママレード」と書いた紙のついたつぼをひとつ取ってみたりする。この行動も、子供なら絶対やりそう! あとから本文にも出てくるように、飲食物(特にお菓子や甘い物)にはいつも敏感に反応するんです。でもからっぽだと分かっても(下の誰かに当たるといけないから)放り捨てたりせず棚に戻す、賢く上品なアリス。 ふだんきちんとしつけられ、読書もしている証拠に、彼女は「私をお飲み」と書かれた瓶を見つけたときも、「毒」と書いていないかまず調べています。もちろん何も書いてなくても毒である可能性もありますが、そこまでは頭が回りきらず、結局飲んでしまいます。 賢いのか抜けているのか、大人っぽいのか子供っぽいのか、アリスには(というか少女というものには)こういったアンバランスさが常にあって、そこが私とそっくり! と子供の頃の私は嬉しかったのです。 作者は、気まぐれで小理屈をこね、しかし周りをよく観察し、礼儀や知識を先取りもし、自分にツッコミも入れるという、おませな少女の実態をほんとうによく知っていたに違いありません。 他のキャラクターやその行動も、みんな「mad」(現在ではへんてこりんな、などと訳されているようです)だと言われますが、狂気というより、遊びの中でわりと子どものやりそうな、言いそうなこともあるように思えます。 たとえば、政治的風刺がこめられているとも言われる「ドヤドヤ競走」(caucus race)。子どもたちって、誰かがよく急に「競走!」と言って勝手に走り始めたりしませんか(「となりのトトロ」のお父さんも突然「家まで競走!」と言って走り出す)。他の子も「えー」とか言いながら思いっきり走る。で、適当にゴールしたり、イヤになると「やーめた」と止まったり。だけど結構楽しい。細かいルールはなくとも、一番!とか言いながら、賞品は欲しいから、その場にある物を適当に賞品にする…そういう子どもたちの行動をもっともらしく描写したのがcaucus raceだと私には思えました。 異世界に入って最初は泣いてばかりだったアリスも、自問自答したり自分を叱ったり鼓舞したりするうち、だんだん慣れて大胆になっていきます。自分との対話や独り言は彼女の精神的安定にすごく寄与していて、作者が本文で言うように「一ぷうかわった子ども」ではなく、誰しも覚えがあるのではないでしょうか。 登場人物は全員「mad」なので会話がかみ合わず、読者もアリスも途方にくれたりイライラしたりしますが、これは子どもが初対面の他人、特に大人としゃべる時と似ているように思います。白ウサギがアリスを女中と間違えていきなり命令口調で話しかけたように、見知らぬ大人から(その子にとっては)とんちんかんなことで叱られたり、自分の感じたことを説明しようとしてもその都度、 「というのはどういう意味じゃ?」、 「いや、どうもわからない」、 「そんなことあるもんか」、 「いや、ちっとも」、 「なぜ?」 ――すべて毛虫のセリフと言われてしまう。そのくせ諦めて去ろうとすると、 「おまち! 話して置かねばならないたいせつなことがある。」と呼び止められます。尊大で口うるさい親戚のおじさんみたいです! アリスは辛抱強く相手をして、ようやく体の大きさを変えられるキノコをゲットします。えらい! カエル頭の召使いも、帽子屋と三月ウサギも、アリスから見た使用人や、いつもお茶を飲んでいるのを見かけるお客たちのよう。ところでこの二人が、アリスの立ち去るのもかまわず眠りネズミを急須に押しこんでいる(テニエルの)挿絵が私は大好きです。急須が眠りネズミにぴったりな大きさなのでちょっとやってみたくなります! やんちゃなよその子たちが周りのことそっちのけでやりそうないたずらだ、と思いました。 きりがないのでこの辺で終わりますが、こんなふうに、キャラクターたちはみんなアリス(少女)から見た身の回りの人々のようで、彼女は彼らにうまく対処しつつトランプの国へたどり着きます。おこりんぼの女王なんか、そう、こういう人いますよねーって感じ。最後にアリスはもとの大きさになり、小さなトランプたちに毅然とした態度を取って(もう泣いたりせず、まるで一人前の大人です)、現実世界に帰還します。 最後のところでアリスの姉がうたた寝に、キャラクターたちは皆身の回りの事物であったというような種明かしをしています。ふしぎの国は身の回りのものでできていたのです。そして、後年になって知ったことですが、キャラクターたちにはモデルとなったらしい人物がいて、それはアリスの主治医だったり家庭教師だったりします。 はちゃめちゃな狂気、混沌の世界、と言われることもあるふしぎの国ですが、実はアリス(そして少女一般)から見た身の回りの世界で、逆に言えば、現実の日常世界の中でアリス(そして少女一般)が、強烈に異質な存在なのでしょう。 [思春期の少女たちは]大人たちとは、言葉が通じないと感じることが多い。…お互いに「異種」の存在であると感じる。 ――河合隼雄『猫だましい』(ただしアリスは思春期前ですが) 「神秘的で純で過激で残酷 してまたはかなくも美しい少女の姿をした何か」 ――佐藤史生「楕円軌道ラプソディ」(アリスへのオマージュが出てくる) だからこそ、アリスとふしぎの国はこんなに長い間、多方面に影響を与え続けているのだと思います。
November 26, 2024
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先だって『ふしぎの国のアリス』をとりあげた日記で、クリスマスには『鏡の国』の方が合う、と書きましたので今日は『鏡の国のアリス』です。 ところでWikipediaに、アリスが鏡の国を体験したのは「ガイ・フォークス・ナイト」の前日とあります。これはアリスが冒頭で、 「あしたは何か知ってて?」 「男の子たちが、かがり火にする木の枝を集めるのを見ていたの」 「あしたはかがり火を見に行きましょうね」 ――ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』岡田忠軒訳 古い角川文庫、以下引用はこの本(画像は岩波少年文庫)。と言っているからでしょう。この日は確かにかがり火を焚くそうですけど、11月5日です。地球温暖化前とはいえ、英国オックスフォードで雪が降るでしょうか。なぜって木の枝集めは寒さと大雪のため途中でやめになり、窓いちめんに雪がキスするように当たる音がしているのです。 これはやはり冬至とかクリスマス、または大晦日あたりの情景ではないでしょうか。アリスは暖炉の側の大きな椅子でぬくぬくと丸まり、子猫は毛糸玉で遊ぶ…真冬の楽しみですね。 ともあれ、アリスはマントルピースの上の鏡を抜けて異世界へ入ります。 どういう構造の世界だか不明の「ふしぎの国」に比べて、今回はアリスがチェスの歩(ポーン)になって1目ずつ(最初は2目ですが)進み、8の目に到達して女王になる、とっても分かりやすい舞台設定。 といっても、初めて読んだ時チェスのルールを知らなかった私は、なぜ女王はいつも高速で走っていて、王様は居眠りしているのか、とか、ふしぎに思うことがたくさんありました。大人になってチェスを少し覚えましたが、それはひとえに『鏡の国』を理解したいがため。また、英語の原書にはちゃんとアリスの棋譜が記してあり、これでかなり謎が解けました。騎士たちがちょっと前進しては落馬するのもね。 『ふしぎの国』より成長している感じのアリスは、相変わらず妙な言動の登場人物たちに対し、ある時はおびえ、ある時は憤慨し、ある時は笑いをこらえながらも、辛抱強く礼儀正しく、誠意を持って対応していきます。 たとえば、トイードルダムとトイードルディーに対して、最初丁寧に敬語を使って道を尋ねています。ところが二人は学校生徒そっくりなので、アリスの態度は次第に弟妹の遊びにつきあい、けんかをなだめるお姉さんのようになっていきます; アリスは他方の感情を傷つけてはいけないと思いましたので、どちらか一人と先に握手する気にもなれませんでした。…[中略]…一度に両方の手を握りました。すると、たちまち三人は輪になって、ぐるぐる回って踊りだしたのです。 「おれはまっさおかね?」[トイードルダムのせりふ] 「そうね――青いわ――少しはね」とアリスはやさしく答えました。 「それならきょうは戦わないほうがいいわ」とアリスは、仲直りのちょうといい機会と思って、いいました。 「ただ、がらがらのためだけにね!」とアリスはいいましたが、そんなつまらないことのために戦うなんて、少しは恥ずかしいと思ってもらいたいと考えたのです。 こんなふうにアリスは、相手に合わせて対応を変化させてもいるのです。賢い! また、笑いをこらえる場面は前作より多くなっているようです。たとえば、傲岸不遜なハンプティ・ダンプティとのかみあわない会話で、彼女は褒めたり、へりくだったり、話題を変えたり、うまく機嫌を取っていますが、数学が得意でないらしいとわかった時、怒らないで笑いそうになっています; アリスは手帳を取り出しながら、つい微笑しないではいられませんでした。そして、彼に代わって、計算をやりました。365-1=364[筆算] アリス、余裕ですね。そして、返事ももらえず立ち去った時も、 「わたしの会った、好ましく思われない人のうちで――」と、冷静に、少し気取って感想を述べようとしています。 次の章で一角獣に「化け物」と言われた時も、アリスは笑いを押さえて、あなたも化け物、と言い返しています。その後、何度も「化け物」呼ばわりされてすっかり慣れた、とあります。アリス、見習いたいほどメンタル強めです。 こうして順調に進み、アリスは女王になります。 むかし私は、女王になったあとどんなことをするのかととても期待しました。ところが、突然の混乱であっという間に(と私には思えました)夢が覚め、物語は終わってしまいます。まさにうたた寝の夢のようにはかない感じ。…ですがこれも当然、チェスなのでアリスが勝ってゲームが終わってしまうのです。 この物語も前作と同様、品があって賢いアリスと同じ目線で、周りの人々の見かけや言動がこんなキャラクターに見えるんだな、と思えて自然に読み進められます。アリス自身は大人っぽくなったせいか、前作ほど破天荒な言動をしないのがちょっと寂しいかも。
December 25, 2024
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昨秋のある日、スーパーのレジ横で売られていた雑誌に、目が吸い寄せられました。「ドリトル先生航海記」ロフティングと大書してあるのです。生物学者の福岡伸一教授が自身の原点としてドリトル先生へのリスペクトを吐露している本(というかNHKの講座番組)でした。 「フェアネスとは何か/人間も動物も植物も――決して「命を分けない」誠実さ」という副題がついていました。 おお、これこそ私の幼い頃から敬愛するドリトル先生への、真っ当な評価というもの! 私が常々感じていたことズバリそのもの! と、興奮のあまりその日は買いそびれ、ようやく入手して読んだ時はNHKEテレ「100分de名著」の該当する放送はとっくに終わっていました。 でもいいんです、テキストを読めば…、ドリトル先生に憧れて生物学者になった人、本当に居るんですねえ。そして、物語の舞台を訪ねて英国の港町ブリストルで川岸に座った人、居るんですねえ(実は、もう一人のドリトル先生愛あふれる先達、こちらは文学者の南條竹則が聖地探訪を試みたくだりが『ドリトル先生の世界』という解説書にあり、この本に福岡伸一の名前もちゃんとあります)。 というのも、私は幼い頃、トミー・スタビンズのようにドリトル先生と出会ってハクブツ学者になれればと本気で願っていたのです。そのうちイギリスの地図でパドルビーや物語に出てくる地名を探すようになりました。ロンドン旅行に行った時には、雀のチープサイドの住処「聖ポール寺院のエドモンド聖者さま(の左耳)」を見に行ったものです(見えなかったけど)。 このNHK講座では先生の職業「博物学者」(naturalist)について、博物学者の著者ならではの解説が随所にあります; 自然のかそけき声に耳を傾け、目を凝らし、そこに無上の喜びを感じて…[中略]…探求しているのは人間にとっての有用性ではなく、自然そのものの素晴らしさ。 自然や生命を「分解」したり「分析」したりはしません。彼は自然をありのまま、全体として捉えようとする。 [動物蒐集家のように]死を網羅するのではなく、生の物語に耳を傾ける本当の生物学者 ロゴス[論理]とピュシス[自然]のあいだを行ったり来たりしながら、生命の豊かさにリスペクトを示し… ――NHK100分de名著「ロフティング ドリトル先生航海記」福岡伸一 私はこんなにも的確に理解はしていませんでした――さすが理系、ロゴスも極めた語り口です。 私が高校で進路を考えたとき、博物学を学べる所というのが見つかりませんので、生物学を勉強しようとしましたら、もれなく数学や物理化学もついてきて、数字の苦手な私は入り口で挫折してしまいました。 この講座にはその他にも、「自然(ピュシス)は隠れることを好む」という(ヘクラレイトスの)博物学的名言が、ドリトル先生にも当てはまる、というくだりなど、はっとさせられる指摘もありました。ドリトル先生の存在自体がピュシスなのですね(もはやうっとり)。 私の方は大学になり卒論にドリトル先生シリーズを書きたいと言ったところ、担当教官に一蹴された悲しい記憶があります。差別表現があり評価されていない、とのこと。私としてはそのあたりや、ドリトル先生(=ロフティング)の社会改革的思想について、学びたかったのですが、初心者は手を出さぬがよい、という感じでした。ちょうど「ちびくろサンボ」が差別表現で絶版になったりした頃でした。 それ以来、腰が引けてしまってひそかに「立場や価値観が違う相手ともわかり合える人」ドリトル先生を賞賛する(HPへリンクします)にとどまっていた私です。ところが、最近になって、この講座のようにドリトル先生シリーズを評価する声が結構あるのに気づきました。時代の変化に嬉しい気持ちです。この講座テキストはほんとに簡潔で分かりやすいですが、もっとたっぷり重箱の隅までドリトル先生愛を共感したい気持ちにさせられました。
January 26, 2025
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ラトビア発、動物だけがリアルに冒険するセリフのないアニメ、話題作「Flow」を観てきました。リアルな動物アニメ推しな私の、好みにぴったりな作品。 日本のアニメとはタッチが違っていて、油絵のような、木彫のような立体感のある(3Dではない)キャラクターの動物たち。ネコの体温や息づかいがが感じられそうな、あたたかみのある「絵」です。 仕草もリアルにネコで、金色の瞳の変化は表情豊かで。他の動物たちもそれぞれ無表情な中に表情がある。いいですねえ。 背景の緻密でリアルな大自然の映像美――特に、水。水面に映る姿や景色はもちろん、流されるネコの水面すれすれの視点、溺れかけた水中、押し寄せる高潮、雨、嵐など、迫力満点です。 大洪水が、小さなネコの視点で描かれるのですが、ネコは人間のように常に辺りを水平に見わたしたりしませんよね。視点も低いし。だからたとえば、静かに増してくる水は知らないうちに急に足場を奪ってゆきます(ネコですから、初めは濡れるのがほんとに嫌そうです)。 また、疾走してくる大きなシカの群れは、まず音として気づき、至近距離になってから突然視界になだれ入ってくる。高いところへとジャンプして逃げてゆく時も、着地すべき次の高みだけが見えていて、そして予測なしにてっぺんにゆきつくと、いきなり360度の広がりで途方もなく下の広い水面が開けたりする。 前半はネコ目線で水の恐ろしさを味わって、ひゃ~殺人鬼に追われるより怖いかも! とおびえました。 おまけに人間はどこへ行ったのか、寝床には起きたまま毛布が寄せてあるのに、書きかけの絵もそのままに消えうせて、町は水没して、ボートは無人で漂っていて、黙示録というか大破局の気配がして、かなり怖いです。 で、様々ないきさつでボートに乗り合わせた珍妙な取り合わせの小動物たちが、廃墟の町なんかを冒険していくのですが、だんだんに観ている私は、人類滅亡の心配を忘れて、ネコたちのサバイバルにのみ集中して行きました。そう、主人公のネコにすごく入りこむのです。最初は、ネコ好きな芸術家のモデルだったらしい飼いネコの立場で恐れおののいていたのが、だんだんと、本能に従い、動物なりの理解と生存意欲とで旅してゆく、野性味あふれるネコになって行くのです、私も。 そしてネコの周りじゅうにあふれる水。大群で泳ぐ小魚たち(宮崎駿の「崖の上のポニョ」に出てきた、あふれた海を思いだします)や、大波を起こす巨大な古代魚(パンフレットにはクジラとありましたが、ただのクジラではない感じ)の、なんとパワフルで豊かなこと。 さらに、ハリケーンに巻きこまれて空の高みへ吸い上げられていく水(水上トルネードというやつでしょうか)、その上昇気流に乗って空を舞うネコ。旅の道連れの凜としたヘビクイワシは、天高く昇って行ってしまう。 パンフレットの解説にもありましたが、水平方向だけでなく上にも下にも水界があり、上昇したり下降したり、そのたびに景色が変わり世界が変わります。鉛直方向の移動は、以前にも取りあげましたが、既存の階層を一気に突破することで、そのダイナミズムが恐ろしくも爽快、未知との遭遇です。 そんな大世界のただ中で、たくましくなったネコと仲間たちの生きる旅はまだまだ続きそう。 観終わったあと、思わずネコのやっていたように、四つ足でのびをしてしまいたくなる、野性のパワーをもらえそうな作品でした。
March 19, 2025
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冬鳥が北へ帰る季節。「Nils! Come on Nils! Come on up!」という(ちょっと素っ頓狂な)声とともに、タケカワユキヒデ作のオープニング、 ♪Oh come on up, Nils 旅に出かけよう/準備なんか いらない 春をさがしに 空を行けば/はじめて見るものばかり [以下略]が、耳によみがえります。『ニルスのふしぎな旅』、アニメ(1979年)自体はあまり観ていなかったのですが、それというのも主人公ニルスがとても幼い外見・口調で、お子様番組だからとチャンネルを変えられてしまうのが常(昭和のテレビ事情ですね)だったのです。 で、原作(岩波文庫版、主人公はニールスという表記)を読んで判明したのは、ニルスは14歳、いわば中2の反抗期なのです(左の偕成社版の表紙絵は年相応だと思います)。体も大きいので、いつも猫のしっぽを引っぱるというと猫にとってはひどいイジメでしょうし、飼い牛の耳にハチを入れるなどは、とんでもない悪行です。 きっと彼は、農家の日常生活におさまりきらない、ティーンエイジャーのエネルギーを、もてあましていたのでしょうね。 こういう状態は、父母がしたように「お説教を読ませる」では解決しません。やはり、(現代風にいうと)何かハードな部活にうちこんで集団で合宿などするとよいかも…、と、教育者である作者はちゃんとわかっています。かくして、ニルスは小人にされたうえ、野生のガンの群れとともに旅に出るというハードかつわくわくな“合宿”に出かけることになります。 最初は家に帰りたがったニルスですが、すぐ新生活に慣れ、旅を楽しむようになります。今まで友人も父母も好きになれなかった、というくだりもあってちょっと驚きますが、彼が自分を他人や家族と切り離し、自立しようとしている証拠なのでしょう。 この本は、地理の副読本にと書かれた物語だけあって、ニルスとガンたちの旅程を示したスウェーデンの地図がついているし、構成も考え抜かれた感じです。 旅が始まるとまずは、ニルスが空から俯瞰した南スウェーデンの広々した田園風景がすばらしいです。ニルスも感動のあまり笑っています。日頃のストレスを解消する笑いかもしれません。 それから、彼の放りこまれた野生の小動物たちの世界をリアルに描きます。たとえば、ガンは敵から身を守るため湖の浮氷の上で寝る、それでも夜中には接岸箇所からキツネが襲ってくる、などです。 ニルスはキツネのしっぽを引っ張ってガンを救いますが、おお、猫へのイジメの技がこんなところで役立っています。 第4章グリミンゲ城では、黒ネズミ族と灰色ネズミ族の戦いが出てきます。私は最初読んだときハッとなったのですが、斉藤惇夫『グリックの冒険』で語られる、東京の町の覇権をかけたクマネズミとトブネズミの戦い、あれは、グリミンゲ城のエピソードが下敷きなのでは。灰色ネズミ(ドブネズミ)が外国からの“移民”で、強い生命力で勢力を広げたいきさつが書かれているところも、似ています。『ニルス』の方は黒ネズミ(クマネズミ)視点で語られているのに対し、『グリック』はドブネズミ側から描かれているなど、対比してみるのも面白いです。 また、第6章に出てきた、ガンたちの呼び声「きみはどこだい? ぼくはここだよ!」にも、初読当時の私はうれしがりました。このシンプルな“翻訳”を、動物行動学者のローレンツが「著者セルマ・ラーゲルレーフ女史は、ガンのこの気分感情声の意味を天才的なひらめきでみごとにいいあてた」と書いている(『ソロモンの指環』)のを、私は先に読んでいたからです。 第7章や第12章、第15章では訪れる地方の地理的特色を物語風に紹介したり、第9章や第14章では地方の伝説が一夜の夢、的に語られます。 特に第14章は、海に沈んだ町ヴィネタの物語。バルト海南岸にあったという伝説の中世都市で、今では同名のゲームにもなっているようです。私がこの話が好きなのは、フランスやコーンウォールの、イースの伝説と似通っているからです。 このほか、訪ねた土地に暮らす人とニルスとの交流が描かれる章もあり、ニルスの人間観、人生観が深まっていくのが分かります。いや、ほんとうに内容の豊かな本です! きっと教育者としての経験のほか、多くの知識や入念な調査を土台にしているのだろうと思います。 こんな調子で、岩波文庫は上下巻合わせるとかなり分厚いにもかかわらず、もとの本の前半だけで終わってしまっています。ガンたちの目指すラプランドへはたどり着かないままなのです。ちなみに、ガンの群れのリーダーは「ケブネカイセのアッカ」と呼ばれますが、ケブネカイセはラプランドの高峰だそうです。 ラプランドといえば中世魔女伝説の故郷。どのように描かれているか、いつか完訳版を読んでみたいものです(偕成社などから出ているようです)。
April 2, 2025
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宮崎駿「君たちはどう生きるか」(観てないんですが)の下敷きになった物語、そして作者がアイルランド人!というので、読んでみました、ジョン・コナリー作『失われたものたちの本』。 異世界に行って主人公が成長する王道ファンタジーですが、全編暗めで生々しく残虐なシーンも多いです。最近はやりのダークやホラー、私はかなり苦手なんですが、(以前にも書いたとおり)成長期には”死”や血みどろのイメージがつきものなので、ここは耐えて読み進みます。 主人公デイヴィッドは12歳で、このブログでは何度も注目してきたプレ思春期。この時期には孤独に陥ったり死の恐怖を味わったり、また鮮烈な生の喜びや友情を知ったりします。大人になるためのイニシエーションですね。 けれど舞台は第二次大戦の空襲下のロンドン、母は病死し父は再婚、継母に子供ができ、家は引っ越す――という試練ずくめの状況で、孤立無援のデイヴィッドは、失神したり本の囁きを聴いたりするようになります。 やがて彼の見る夢や幻、そして自室にも、「ねじくれ男」が侵入してきます。 マザー・グースに「There was a crooked man」(ねじくれ男)というのがありますが、私は外見がくねくねの滑稽な男を歌ったものと思っていました。ところがこの物語に出てくるねじくれ男は、心がねじくれて嘘つきで、子供をさらう、恐ろしいキャラクターです。「トリックスター」とも呼ばれますが本来のそれより邪悪なタイプ。それもそのはず、(→ネタバレ)じつは彼こそがラスボスなのです。 デイヴィッドは、亡き母の声を聞いてさまよい出た庭に爆撃機が墜落してきた拍子に、異界へトリップします。そこはおとぎ話の景色や登場人物が、奇妙で醜悪にねじくれて登場してくる世界でした。狼と交わった赤ずきんから生まれた人狼、肥満した暴君のような白雪姫と共産主義かぶれの小人たち、魔女である眠り姫の住む殺人的な茨の城などなど。 河合隼雄によると、もともとのおとぎ話に残虐な要素がある(たとえば、赤ずきんと祖母は狼に食われておしまい)のは、 …人生における戦慄をあらためて体験せしめる。 …子どもが成人になるためのイニシエーション(通過儀礼)において…[中略]畏怖と恐怖の感情を持って体験した死と再生のプロセスは、彼らの「実存条件の根本的変革」をもたらすのである。――河合隼雄『昔話の深層』 ということだそうです。この物語ではその戦慄や恐怖をおとぎ話以上にリアルに描き、デイヴィッドや読者の前に突きつけてきます。リアルすぎて悪夢のようです; 竈のあまりの熱さに老婆の体に付いた脂肪が溶け、娘が吐き気を覚えるほどの悪臭を放った。老婆は皮膚から肉が剥がれても、肉から骨が剥がれても暴れ続け… ――ジョン・コナリー『失われたものたちの本』より、「ヘンゼルとグレーテル」の異聞と思われる話 あるいは、動物がかわいらしく擬人化されて服を着、言葉を話す絵本や童話がよくありますが、この物語では代わりに、派手な衣装を着たおぞましくリアルな人狼や、残酷な女狩人によってスプラッタの末つなぎ合わされた人頭獣身の生き物などが登場します。 特に人狼はとっても不快で恐ろしいです。私はふとスティーブン・キング&ピーター・ストラウプの『タリスマン』に出てくる凶悪な狼人間エルロイを思い出しました。この本も12歳の主人公ジャックが重病の母を救うために体験する冒険譚ですが、不快感や苦痛が真に迫りすぎて読むのがつらい感じでした。 『失われたものたちの本』でも、デイヴィッドのほかに、彼が読んだ古い童話本の所有者だったジョナサン少年も、欄外にダークな別バージョンを書きこんだり、赤ずきんの狼の挿絵を塗りつぶしたりしています。じつは、彼の恐れた悪夢の狼が、異世界に人狼となって出現したのでした。 特に男の子の(と私は感じますが)プレ思春期の不安定な心の中では、幼年時代にキレイにデフォルメされて親しんだあれこれが、本来の暴力的で赤裸々な姿を現してきて、混乱や恐怖や嫌悪をひきおこすのでしょう。 この物語には性的な描写もけっこうあって、デイヴィッドは生理的に嫌悪したりします。こういう描写は子どもの読者に対してどうなんだろう?とも思えますが、作者はあえて、例えば父母が寝室で何をしているか悟った時の、12歳の子どもの心理をリアルに描いているのでしょう。 そうして、恐怖と苦痛と血みどろの死に満ちた道のりを、泣いたり吐いたりしながらたどるうちに、少年は少しずつ成長し自立していきます。そして精神的にある一線を越えた時、彼は少年ではなく大人になるのです; デイヴィッドの怒りが恐怖を飲み込み、逃げだしたい気持ちを吹き飛ばしました。その瞬間、彼は少年から男に代わり、大人へと続く道が本当に始まったのでした。――同前書 少年が大人になる時、それはたとえば映画「太陽の帝国」(スピルバーグ)のジム少年(日本軍占領下の上海で両親とはぐれサバイバル体験をする)や、「銀河鉄道999」(松本零士)のラストで「♪地平線に/消える瞳には/いつしかまぶしい/男の光」と歌われた鉄郎なんかも、そうでした。 ともあれ、壮絶な苦難を経て、デイヴィッドは体も精神も強くなるだけでなく、異世界のことわりを理解し納得して、敵に打ち勝ちます。苦難はあまりに大きく人生の悲しみを知って痛手は負いますが、そのぶん人生を理解して思いやりのある大人になるのです。 うん、納得のいく大団円・後日譚まできっちり説明してくれて、ほっと読み終えることができました。スプラッタに耐えたご褒美を、私ももらった感じです。
September 28, 2024
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久しぶりに会った学生時代のお友達に、ランチに連れて行ってもらいました。 先日届いた新刊本をもらってもらおうと、持っていきました。 そしたら、私が本を差し出す先手をうって、こ~んなすばらしいお花をくださるではありませんか! 嬉し、はずかし。 Mちゃん、ホントにありがとう! さっそく家に飾ってみました。(台に敷いてある布がやたら目立っていますが、たまたま目立つ犬柄のアイリッシュ・ティータオルでした) 散らかり放題なリビングも、一気にイメージ・アップ! 明日は家庭訪問で、子供たちの先生が来られます。 ナイス・タイミング!
May 26, 2008
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本屋さんの児童書コーナーに行くとよく、なぜか気になってしかたない本があります。私を呼んでいる本、どうしても欲しくなってしまう本。この『ふしぎな虫たちの国』も、小学生のころそんなふうにして中味もあまり確かめず、ねだって買ってもらいました。 13歳の少女マリスが、別世界に入りこみ、虫や小動物と力を合わせて恐ろしい「けもの」に立ち向かい、至高の存在である「あの人たちの国」に至ったあと、現実に還ってくるというファンタジー。 こう書いてしまうと、ファンタジーにはよくあるパターンです。けれどこの物語は、別世界を徹底してマリスの視点からのみ描いていて、しかも前半では世界の構成や探求の目標などがまったく説明されません。読者はマリスと一緒に、この先何があるかさっぱりわからないまま、てさぐり状態で冒険の旅を続けてゆきます。 はじめ、マリスは不思議な石を見つけます。この石がとても魅力的。 石は、クルミくらいの大きさで、ふしぎなことに、指先でさわってみると、ビロードみたいにやわらかなの。よく見ようと思って持ち上げると、それがまた、びっくりするほど重くて、落っことしそうになりました。あたしはすっかりこの石に夢中になってしまったの。色は青みがかったこい緑色だけど、外がわだけじゃなく、中もその色なの。すっかり透明とまではいかなくて、花粉みたいな色の筋がうずを巻いたようになっていて、中のほうでなにか動いているような感じなの。 ――シーラ・ムーン『ふしぎな虫たちの国』山本俊子訳 こんなふうに、物語全部は、13歳のマリスの“語り”のような文体で訳されています。原書は知りませんが、訳者さんが少女の心をうまく表現する、それでいて現代風にくずれすぎてもいない、ちょうどいい日本語を使っていると感じます。まるで、質のいい少女漫画の独白のセリフのよう… カブトムシやイモムシなどと一緒に旅をすることになったマリスは、初めは石、のちには未来を見せる「マンティッドの鏡」を持つ者として、寄せ集めの旅の仲間(『指輪物語』や『冒険者たち』と同様です)に加わりますが、指導者になるでもなく、料理や力仕事やいろんな役割を、おっかなびっくり果たしていきます。 と思ったらいきなり「けもの」が襲ってきて仲間がさらわれ、マリスたちは救出に向かいます。けものの領域に入りこんでの救出劇も、全体の状況はなくて、マリスが見聞きし感じたものだけを語っていくので、ほんとに先が見えず、ハラハラドキドキ、もう途中で本を置くことはできません! それから、けものの捕虜だった男の子ジェットサムが登場します。野性味あふれた、でもまだ子どもっぽい彼に対し、マリスも恋愛感情とか乙女心とかは全然なく、「仲間」として接していきます。この関係も、私は好きなんです。 登場人物の年齢がもうちょっと上がると、どうしても男女の間柄に恋愛的要素が入ってきて、純粋な友情とか仲間関係じゃなくなってしまいます(それはそれでおもしろいと思えるようになったのは、私の場合、すっかり大人になってからでした)。 旅の仲間はチョウたちの国「オパールの谷」でようやく探求や使命の説明を受け、谷の宝物オパールを魔法のアイテムとして託されます。そしてキャンプを作って、いよいよ「けもの」と対決。といっても、欧米のファンタジーとしては珍しいことに、「けもの」を滅ぼそうとするのではなく、つかまえて「あの人たち」のもとへ連れ帰る(「けもの」は昔「あの人たち」から造反したのです)、というのが目標。 そこで「けもの」をおびき出して落とし穴に落とすことになるのですが、やはり最後には戦いがあります。ジェットサムは心も体もヒートアップしますが、女の子であるマリスには、体力的にもかなり苦しい場面となり、それゆえここでも全体の状況がつかめず、修羅場をさまよいます。このあたりも、いわゆる勧善懲悪の大活劇、とは趣を異にしていて興味深いです。 そして、戦いが終わり、犠牲者をとむらいます。死のおそろしさ、生命の重み、みたいなものをはしょらずそのままマリスが語っています。 …あたしの心には、失ってしまったものへの悲しみ、これまであったものがどうして今はないのだろうというあのおそろしい疑問がおそいかかって来たの。 ――『ふしぎな虫たちの国』 そして、自分がやりすぎたためか、と自責の念におしつぶされそうになるジェットサムの姿が。彼の心が救われるまで、マリスは彼を見守り続けます。 この辺りで、物語はだいたい終わりかな、と思うと、そうではありません。一行は死者と負傷者を連れて、洞窟や不可思議な景色の中を「あの人たちの山」へと登ってゆきます。マリス自身の心の奥を迷いながらたどるようなこの最後の旅のあと、神域のような「あの人たちの国」に着き、「けもの」の浄化を見届けて…ここで前触れなく霧の中をすべり落ちて、現実に戻ります。 マリスは何事もなかったかのように帰宅します。 一度、ふりかえってうしろを見てみました。…浜の向こう、ずっと遠くに、体の細い人が、向こうに歩いて行くのが見えるの。ジェットサムかしら? そうかもしれないわ。あたしは手を上げかけましたが…でもあたしは手をふらず、その遠くの人が、光る砂浜の上を見えなくなるまで、じっと見送り、その人を待っているもののところへ行かせてあげたの。 ――『ふしぎな虫たちの国』 冒険を終えた後の余韻と感傷。そして、いつもの町や家族の光景が、多くの体験をしたマリスの目にはなつかしくもみずみずしく映っているようです。これもまた、ファンタジーの効用のひとつ。 以上、思い入れもこめて長々と書いてしまいました。かなりマイナーな本ですが、荒俣宏が『別世界通信』のおすすめ本の一つに挙げています。その他には、この本を読んだ人を私は知りません。 作者はアメリカの精神科医・心理学者だそうです。あとになって私が河合隼雄の心理学にハマったのも、こんなところに原点があったのかも。
April 11, 2006
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ジョン・コナリー作『失われたものたちの本』は私の苦手な血みどろダークだったのに、なぜか懲りずに続編『失われたものたちの国』(タイトル似すぎ!)も読んでしまいました。相変わらず物理的に痛くてグロい場面が多いのですが、読者はぐんぐん引っぱられていく感じ…書き手の力量が半端ないのでしょうね。 今回は舞台が現代に設定され、主人公もシングルマザーのセレス(32歳)。彼女は最愛の娘を突然失う(正確には失ってはいませんが、小学生の娘は交通事故で昏睡状態に陥っています)という精神的危機にあり、母を失った前作の主人公デイヴィッドと少し共通点があります。そして彼女も異界へトリップし木こりに助けられます。 ただその後の展開は前作よりかなり複雑になっています(以下ネタバレあり)。善玉と悪玉の単純な対決ではなく、敵が複数で利害関係がややこしく、それも「絶対悪」とは言い切れないキャラクターばかりなのです。例えば、ペール・レディ・デスというラスボスが出てきますが、自然の摂理にのっとった死神ですから、「悪」というのとはちょっと違います。 再登場の「ねじくれ男」も、そう、前作でデイヴィッドに滅ぼされてますので、魂というか残滓だけの存在ですが、最終盤に全ての物語=人生の書物をおさめた図書館を披露するあたり、あれ、何だか前作とはちょっと違う立ち位置のようにも思えます。 ところで、どうも私の悪癖で、すべてをトールキンの『指輪物語』と比べてしまうのですが、ねじくれ男が亡霊となってなお悪を企むところ、なんだかサウロンを思い出しました。そしてドライアド(樹木の精霊)の最後の一人カーリオは、境遇はエントを思わせますが、主人公セレスを襲い、つけ回したり、彼女と奇妙な絆でつながり、最後に自爆テロ的にねじくれ男を滅ぼす所はゴクリ(ゴラム)を思い出させるのでした。 ちなみにカーリオも一人称の代わりに「我々はカーリオだ」と言うので、最初これもゴクリ的だなと思いました。読み進むと、意味合いがだいぶ違うのが分かります;カーリオは個人というより種族全員の記憶を意識していて、最後の一人である彼には孤独とともに、種族全体の滅亡の痛苦が重く宿っているので、複数形なのです。悪役とはいえなかなか複雑で印象的なキャラクターです。 さらにフェイという種族が出てきます。いわゆる妖精で、可愛い系ではなく、美しいが恐ろしい、異形で異質の自然霊たち。人間と敵対していますが、彼らには彼らなりの生き方と価値観があり、何より環境破壊を行う人間が許せない。 その人間側の悪玉は冷徹な権力主義者ボルヴェインですが、彼は贅沢をするでなく権力に酔うでもなく、誰も信じず、妻子を殺した人狼を憎むばかりで、何のために独裁者を目指しているのか?と言いたくなるような、むなしい人物に思えました。 こうしてみると、複雑な利害・敵対・だまし合い関係はどうも現実世界の縮図のようでもあります。滅びゆく自然、むなしい権力闘争、消えゆく古い叡智。そんな混乱の中で、主人公セレスは自分の道を追求していかねばなりません。 作者は親という立場を経験したあとこの続編を書いたそうですが、なるほどジェンダーの問題や子どもを思う親の一途な心が繰り返し出てきます。セレスの旅の目的は(現実世界に帰るというほかに)、さらわれた(他人の)赤ちゃんを奪還することなのです。 しかし西欧でなくニッポンのおばさんである私には、作者ちょっと頑張りすぎな感じもしました。前作は素直に自分の少年時代のあれこれを描いていたのが、今回は主人公を若い現代のシングル・マザーにしたので、その主人公セレスは過敏なほど男性社会を憎み、ことあるごとに男性というものに反発し失望しながら探索行を続けるのが特徴的になっています。 そして、なぜだか私には分かりませんでしたが、異界では彼女は思春期の肉体に戻っていて精神は大人のまま、という設定です。 「…二倍も歳を取ってからまた十六歳になるなんて嫌でたまらないのよ。思春期なんて、一回だけでもううんざり」…[中略]男の子に――そして女の子にも――気に入られるために可愛くて、スリムでいなくてはいけないプレッシャーもそうですし、世界に自分の居場所を確保していたいだけなのに、どうしても逃れられないあのストレス… …まるで自分の身体組織が混乱して自分に反乱を起こし、己の肉体に言うことを聞かせることもできなくなってしまったようなあの感じ。[中略]ホラー小説に夢中になったのも不思議ではありません。残忍であればあるほどのめりこんだのです。 ―――ジョン・コナリー『失われたものたちの国』田内志文訳 と、すごい鬱屈を吐露するセレスですが、どれも私自身の思春期の思い出には当てはまらないのです。他人に気に入られたい、自分の居場所を確保したい、などは思春期に限らずだと思うし、身体変化に翻弄されるというなら、思春期のあとも妊娠、出産(セレスはまだですが、更年期も!)など女性は男性に比べて大きな変化を続けるのです。 おまけにこの鬱屈は物語が進み状況がそれどころではなくなるにつれて、いつの間にか語られなくなりそれっきりな感じです。どこに落とし所があるのか、何のためにセレスは16歳に戻ったのか、それで何を得たのか、私にはよく分かりませんでした。 ともあれ、古くからの女性の叡智や自然との共存意識が滅びていくさまを悲しみ憤りつつ、物語は緊迫して進み、セレスは生への活力と愛情を取り戻して帰還します。物語を語り、人生をつむぎ、最後に奇蹟が…訪れたようです。
January 13, 2025
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先日の日記で触れました『メアリー・ポピンズのイギリス』という本の中で、私の友人MYちゃんが、映画「メリーポピンズ」の登場人物が話す英語について、解説しています。 私は英語はしゃべれないし、洋画で耳にする程度ですが、それでも、イギリス英語って、アメリカの英語とはひと味ちがっていて好きです。 昔話ですけど、子供のころTVの「セサミストリート」の英語は早口で、やたらrの巻き舌ばかりで、とてもわかりにくいものでした。英語って、異質でむずかしい! と思っていました。少し大きくなってラジオ講座を聴いても、ビリー・ジョエルの歌を聴いても、聞こえるのはやっぱり巻き舌と、日本人には区別しにくいたくさんの母音たち。 ところが、80年代にイギリスのロック・ポップ音楽にどっぷりはまった私は、その歌詞や、ポップスターのインタビューが、それまで知っていた英語とひびきが違っているのに気づきました。 それから、ロンドンに旅行しました。テムズ川の観光船に乗ると、船頭さんの朗々たる名所解説が、とても特徴的な語調でした。まるで口の中に洞窟でもあるようで、そこにこもって長~く反響するように聞こえる母音。rはほとんどなく、わりと単調な発音で、とても聞き取りやすいと思いました。 『メアリー・ポピンズのイギリス』に話を戻しますと、MYちゃんの書いた章には、まずイギリス英語とアメリカ英語の違いがていねいに説明されています。 さらに、イギリス英語の中でも「キングズ(クイーンズ)イングリッシュ」と言われる“標準語”と、「コックニー」というロンドン訛りとが、「メリーポピンズ」では対照的に使われているということ。 特に、映画の舞台となる時代には軽蔑的な意味もこめて使われていた「コックニー」が、キングズイングリッシュを話すバンクス一家にとって、いや、肥大しきった大英帝国そのものにとって、新しい刺激となり、家庭(と社会)の変革のきざしを表しているということ。 そんなことを知って映画や舞台を鑑賞すると、楽しさにも何というか深みがでてきそうで、すばらしいですね。(ただし、キングズ・イングリッシュやコックニーを聞き分けることができればですが・・・) 今、私の手元には映画がないのですが、これの吹き替え版はどうなっているのでしょう。バンクスさんの話すキングズ・イングリッシュとバートの話すコックニーは、日本語でも違いがわかるようなセリフになっているのでしょうか。 一度ぜひ確かめてみたいものです。 さらに、「メリーポピンズ」の英語でもっとも異彩を放つ言葉、「♪スーパーカリフラジリスティック、エクスピオリドーシャス」の魅力についても、書かれています。メアリー・ポピンズが使う呪文みたいなこの言葉、これを言えたらハッピーになれる魔法の早口言葉。 旧態依然とした石頭なバンクスさんには、どんなに説明するよりも議論するよりも、この言葉こそが効きました。仕事をクビになっても、銀行が取りつけ騒ぎでも、大英帝国の栄光が傾いても、この言葉でみんな新たな未来が見える。 そこには言葉の持つ不思議な生命力のようなものが感じられます。 私は、子供の通うY音楽教室の発表会で、よくこの歌の合奏を耳にします。一度聞いたら忘れられない楽しいメロディーに乗せて、しかもだんだんテンポを速めながら、「♪スーパーカリフラジリスティック、エクスピオリドーシャス」と連呼していくと、ほんとにハイな気分になってくるから不思議。 原作にはないそうですが、誰が最初に考え出したんでしょうね、この言葉。
June 11, 2008
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私はコミックスは絵から入るタチで、内容以前に絵の第一印象で好き嫌いをしてしまうんですが、佐藤史生とも、『夢みる惑星』の画集の表紙(銀髪の神官イリス)に一目惚れしたのが出会いでした。 が、それとは別ルートでこの『ワン・ゼロ』に出会って、なんというかすごーく衝撃を受けました。以前とりあげたあのSFの名作『百億の昼と千億の夜』(光瀬龍)の解説で、中島梓(=栗本薫)が「(この本を)読んで、私はSFの哲学に目ざめた。」と書いていますが、私も真似をして言うなら、『ワン・ゼロ』で私はSFの哲学に行きついた、という感じ。 それは1985年のこと(何て昔でしょう)。すでにトールキン・マニアだった私は、トールキンに関する特集が載っていた「幻想文学」(今は亡き季刊誌)を買いましたが、その巻頭にある“耽奇漫画館”というページで、小鬼のような顔でニヤリと笑うビローチャナと出会ったのでした。まさかその妖気漂う魔性の顔を描いたのが、うるわしいイリスを描いたのと同じ作者だとは思えませんでした。 で、とにかく『ワン・ゼロ』を読んだら一気にはまってしまったんですが、それというのも、私を惹きつけた面妖なビローチャナが、インド神話のアスラ(魔族)の王で、つまり『百億』に出てくる「あしゅらおう」と同一人物(神物というべきか)だったからなんですね。 少し前に『百億』を読んで、「おおっ」とうなって、岩波文庫のインド神話『リグ・ヴェータ』なんかを酔ったように読んでいた私には、『ワン・ゼロ』のアスラ王ビローチャナはトドメの一撃でした。 『百億』では絶対者(=神、ミロク)と永劫にわたって戦うのが「あしゅらおう」を筆頭に、幾度も生まれ変わる「プラトンのおりおなえ」「シッタータ(=釈迦国の太子)」ですが、『ワン・ゼロ』では、絶対者(者というよりその力=全宇宙に偏在する神通力)と戦い続けてきた「ビローチャナ」とディーバ(魔)族の生き残り3人が、近未来(1999年)に生まれ変わります。 そして、絶対者の力の代行者として『百億』に「ナザレのイエス」が登場するのに対し、『ワン・ゼロ』では一人の美少女が「覚醒した者」として女神のように人々を導こうとします。 佐藤史生もSFな漫画家ですから、『百億』を知らないはずはありません。とすると、ひょっとして『ワン・ゼロ』は佐藤版『百億』なのかなあ、などと思えてきます。 どちらも、欧米型ファンタジーでは善なるものであることの多い“絶対者=神”を、人類をコントロールしようとする恐るべき力として描き、主人公たちはそれに抗う側(阿修羅とは、帝釈天(インドラ)に刃向かう魔族)です。 そして、その戦いの主人公たちは、『百億』ではプラトンやシッダルタ、イエスなど哲学史上の偉人であるのに対し、『ワン・ゼロ』では、一見ごく普通の十代の若者たちと、彼らが神木の根本から掘り起こした幼児の姿のビローチャナなのでした。 『ワン・ゼロ』ではその永劫の戦いの図式に、ジョーカーというべき少年都祈雄(トキオ)と、自ら思考するコンピュータ「マニアック」が加わります。そして、読み進むにつれ二元対立的な戦いからだんだんもつれて錯綜してゆき、そのごちゃまぜ具合が何とも現在現実そのままな混沌で、『百億』のような透明でもがく余地もない未来像とはちがい、可能性(再現性)を残した未来へつなげて終息します。 次回へつづく。
January 31, 2007
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臨床心理学者の河合隼雄氏が今日、亡くなったとニュースで知りました。 このブログをはじめ、HPにも書き散らしている私のプチ書評のほとんどは、彼のユング派心理学をヌキにしては成り立ちません~! というほど、私がハマった人であります。 実は、この人の兄である霊長類学者の河合雅雄氏の本の方を、先に読みました。小さいころから動物が大好きだったので、動物生態学(おサルの社会とか、ウサギの社会とか)の本、そして『少年動物誌』で彼の子供時代を読んだ私は、心酔するあまり、小学6年生の時、丹波・篠山にある彼の生家をさがしに行ったこともあります(両親を説得してね)。 その『少年動物誌』に出てくる河合雅雄氏の幼い弟が、ハヤオくん、つまり河合隼雄氏だったのでした。 その後ファンタジー愛好者となって『指輪物語』で卒論を書こうと思った時、河合隼雄氏の『ユング心理学入門』を読みました。それから、『ファンタジーを読む』『昔話と日本人の心』『神話と日本人の心』『〈うさぎ穴〉からの発信』『昔話の深層』『物語とふしぎ』『影の現象学』などなど、ファンタジーや昔話にかかわる著作は、どれもこわいほど面白く読みました。 まだ読み切れていないほど著作の多い人でしたが、それにしても、もうそんな著作がこれ以上増えないのだと思うと、残念でたまりません。
July 19, 2007
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伊丹で開催されている「誕生50周年記念・ぐりとぐら展」を観てきました。 中川李枝子さんの作品では、私は『いやいやえん』が幼い頃から持っていて好きですが、もちろん有名な『ぐりとぐら』も、小学校で読み聞かせをしたりしてお馴染みです。この展覧会では、私の生まれるより前の、貴重な初版本を見ることができました。 『バムとケロ』シリーズの原画展でも思ったのですが、原画は決して大きくないです。絵本の原寸大に近い。そこに、タンポポの葉っぱのぎざぎざや、家の中のあれこれが細かく書きこんであります。絵本ですから子供の目線。子供の目って、すみっこに落ちているゴミとか、そういう細かい物がよく見えるのでしょうね。 でも、余白もいっぱいあるのです。バムケロのような鮮やかな背景ではなくて、かなりの部分が白い。そのバランスが、なつかしい感じ。そして、卵とか毛糸玉、かぼちゃ、うみぼうずさんなどの巨大さが映えます。 展示場には卵や毛糸玉の大きな模型もつくってありましたが、見に来た子供はもちろん、大人もいつもと違うサイズの視点を体験するのに、良いですね。 私は『ぐりとぐらのおおそうじ』など最近の作品は知らなくて、展覧会で初めて見て読んだ(絵本を読めるコーナーもある)のですが、およそどの作品にも、仲間とごちそう、これがおきまりですね。子供にとって、とくに昭和の時代の子供にとって、みんなで輪になって(テーブルやちゃぶ台を囲んで)ごちそうを食べることは、定番のたいせつな大団円なのでしょう。 一緒にいた私の母は、『おおそうじ』に出てくる、小さな弟(か、妹)の手を引いたうさぎの姿が気に入ったと言ってポストカードを探しましたが、残念ながらその場面は葉書になっていませんでした。遊ぶときもちいさい兄弟の面倒を見ている子供、これも昭和の古い世代の子供の姿ですね。母は4人兄弟の末っ子ですから、手を引かれた小さな子うさぎの姿を気に留めたのかもしれません。 そうした小さい子も参加してのおやつタイム。みんなおいしいものを食べて、仲良し、仲良し、まんぞく、まんぞく。この充足感が子供にはとっても大事ですね。 ところで、私はやっぱりファンタジー&海洋冒険ロマンが好きなものですから、『ぐりとぐらのかいすいよく』で、手紙の入っていたあきびん(古いイタリアの葡萄酒の入っていた藁に包まれたびんです)のコルク栓を、ぐらが巻き貝でツンツンしている絵柄のポストカードを買いました。
May 8, 2015
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先日ミス・ビアンカ・シリーズをとりあげましたが、ネズミが主人公の冒険アニメで主題歌がすばらしいといえば、スピルバーグの作った「アメリカ物語」(監督はドン・ブルース)を思い出します。全体のノリはディズニーアニメに似ていますが、もっとマニアックに映像美を追求しているようで、背景は緻密、動きはなめらか。 タイトル画面での原題は「AN AMERICAN TALE」。なぜか日本語版のパンフレットやビデオの表紙には「AN AMERICAN STORY」となってるのが不思議なんですけど。 スピルバーグがロシア系移民だった自分の祖父の名をつけたという、子ネズミのファイベルが主人公。コサック・ネコの襲撃で家を焼かれたファイベル一家が、移民船に乗りこんでアメリカをめざします。船から落ちて家族とはぐれ、やっとたどりついたニューヨークで悪者にだまされ、いろいろと苦労を重ねながらも、明るく希望を持って生き抜いて最後に家族と再会を果たす。そんな、“文部省特選”的なストーリー。アニメでネズミだからこそ、気恥ずかしくなくこんなストーリーが楽しめるのでしょう。 けれども、きっと、いわゆるアメリカ人はみんな、アメリカがまだ夢と希望の国であったころの、前向きで明るい楽天性を根っこの所で持っていて、だからこそこの物語に感動するのでしょう。 移民船のせまく暗い船底で、ロシア、イタリア、イギリスなど各国のまずしい移民ネズミたちがお国なまりで今までの苦労を嘆きながら、最後に 「だけど、アメリカにはネコがいない! だから私たちは海を渡るんだ」と大合唱をする場面。(実はアメリカにネコがいないというのはまったくのデマでしたが。) また、ネコ対策を話し合う集会でネズミたちが叫ぶ、 「アメリカには自由がある! わたしたちは自由を求めてアメリカに来た! ネコからの自由を!」というスローガン。 そして、最後のシーンではるかにかすむ西の地平線を眺めるファイベルたちに、 「あっちも、ずーっと向こうまでアメリカだ。きっと行けるさ、いつか!」と力強くくり返すハトのアンリ(彼はフランスなまりでしゃべる)。 こんないくつかの場面で、とても単純明快なアメリカ魂みたいなのが、けっこう感動的なんですね。 そして、忘れられない主題歌「Somewhere Out There」は、リンダ・ロンシュタットとジェームズ・イングラムのデュエットももちろんよいけれど、作中でファイベル役と姉のタニア役の二人の子役が、子どもっぽい高いほそい声で一生懸命歌うのが、背景の美しい月夜の映像とともに、心にしみます。 続編に「ファイベル西へゆく」があり、これも楽しいです。第3作もあったらしい(マンハッタンで宝探し。日本では未公開)。
May 20, 2006
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弁解から始めますと、近頃パソコンが不調です。とっても反応が「重く」なってしまって・・・もしかして買い換え時? 買ってからまだ(もう)7,8年なんですけど・・・ で、ムーミンの話題は、だいぶ前“春の旅立ち”にからめた日記をいくつか書いた、その続きのつもりでした(季節がずれちゃいましたが)。 ムーミンの一党で“旅”をするひとといえば、やはりスナフキン。短編集『ムーミン谷の仲間たち』の最初のお話「春のしらべ」は、孤独なさすらいびとスナフキンの本質にせまる?お話です。 スナフキンはさすらいの詩人で作曲家でもありますが、彼が新しい「春のしらべ」を作るまでのあれこれ――せっかく歌の着想がわいたのに、偶然出会ったちいさな「はい虫」のおしゃべりや何やかやに気持ちを乱され、旅の足取りまで乱されて、でも結局はちゃんと、歌はできる――、それは、芸術家の“産みの苦しみ”の実例をわかりやすく語っていると思われます。 スナフキンが歌を作るには世間一般のしがらみから離れて、自由に、独りでいなければなりません。もともと彼は“独り”をそれはそれは愛しているのですが、でも、だからといって、誰とも全くつきあわないわけではないのです。ゆきずりのはい虫の悩みや願いも聞いてやるし、旅に出ても必ずムーミン谷には戻ってきて、ムーミントロールの「親友」であり続けるスナフキンは、“独り”と“友情”との微妙なバランスをどのようにとっているのか。 これは、芸術家でなくても、人間関係や社会的立場にしばられる(あるいはそこに適応しにくい)現代人にとって、興味深い問題だと思います。 スナフキンが、ムーミン谷には仲間として居られるのは、 ムーミンたちはおたがいに、人のことは心配しないことにしているのです。こうすれば、だれだって良心が発達するし、ありったけの自由がえられますからね。――ヤンソン『ムーミン谷の仲間たち』山室静訳という、ムーミンたちのおおらかな気質のおかげでしょう。 だからと言って、気配りをしないわけではありません。「世界でいちばんさいごのりゅう」では、竜がスナフキンだけになついたことにしょげ返るムーミントロールの気持ちを、スナフキンはちゃんと察知して、そっと竜を遠くへやり、なにげなくふるまいながらムーミンを元気づけます。 けれど、自分のことしか頭にない、自分の気持ちで精一杯なはい虫に対しては、邪魔されたスナフキンはイライラして“切れそう”になります。でも、やっぱり見捨ててはおけない。“独り”と“友情”の葛藤。こういう気持ちって、あるなあ、と思います。 大丈夫。自分の気持ちに素直であり続けることで、最後に「春のしらべ」の霊感はちゃんとスナフキンのもとへやってきます; ――第一部はあこがれ、第二部と第三部は春のかなしみ、それから、そうです、たったひとりでいることの、大きな大きなよころびでした。――『ムーミン谷の仲間たち』 はい虫につきあってやり、彼に名前をつけてやり、彼のために戻ってきてやったことで、スナフキンの孤独の喜びはいっそう増し、音楽はいっそう豊かになったのだろうと思います。
June 7, 2009
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昨今の集団的自衛権うんぬんのニュースを見ていたら、“世界で唯一、戦わない軍隊”のお話を思い出しました。 自衛隊ではありません。それは架空の国オネアミスの、王立宇宙軍。軍隊とはいうけれど、初の有人宇宙飛行の実現をめざす組織で、NASAとか現在のJAXAとかに近い(ずっと小規模で貧乏ですが)。主人公シロツグ・ラーダットは無為徒食の青年から一念発起、初の宇宙飛行士となります。 バブルでモラトリアムで無気力で、冷戦と核の恐怖を未来に描きつつ、科学技術がまだレトロなバラ色だった昭和の終わり、1987年のアニメ映画です。 20代の制作スタッフが職人技で細部にこだわったというパラレル・ワールドには、現実と似て非なる、ノスタルジックな風景が描きこまれています。見慣れない文字、無国籍な人名、でもどこかとてもニッポン。 森本レオのやさしい声で、自分も世界も軽く茶化してしまうシロツグの不真面目な穏やかさとか、そもそも宇宙へのチャレンジという華々しいできごとを担う組織が“戦わない軍隊”だったなんていう発想そのものが、戦わない自衛隊のいるニッポンならではだと思うのです。 シロツグは空を飛ぶという夢を持ち、パイロットになりたかったけれど、成績が悪くて空軍に入れなかったと自己紹介しています。あとで、空軍の飛行機で訓練飛行をしたとき、その夢はかなったとも言えるでしょう。地上の喧噪を離れた空は広く美しく、宮崎アニメにもよくありますが、飛ぶことの爽快さがよく分かります(私自身は高所恐怖なのであまり飛びたくないけれど)。 しかし、空軍のパイロットたちは、穀潰しで何の役にも立たない「宇宙軍」のシロツグたちをあからさまに軽蔑し、「撃ち落としてやる」みたいな発言をします。今や、こんな俗っぽい連中が撃ち合う空は、もうあこがれの聖域ではなくなっているようです。 かわって、宇宙が聖域として描かれています。技術も予算もなく宇宙服の実験では死者まで出してしまう、名ばかりの「宇宙軍」。しかし、そんな実態を知らないヒロインのリイクニが、「戦わない兵隊さん」や「けがれた下界から離れ星の世界をめざすこと」をすばらしいと褒めるのを聞いて、シロツグは俄然目覚め、初のアストロノートを志願するのでした。 リイクニは街角で「神の裁きの日は近づいています」とビラを配る宗教少女ですが、押しつけがましさは感じられません。彼女の語る宗教は、黙示録的ですが、何か行動を強いるものではないようです。「聖典」とされる書物に記されているのも、現実の特定の宗教ではなく人類共通の古代の神話(火がもたらされたことによる原罪、みたいな)を思わせます。 そして、それには何の興味もない様子だったシロツグが、やがて悩んだとき、つらいときに、ふとその聖典をひもとくのです。やがて、ついに宇宙という聖域へ飛び出したとき、その感動は地上への祈りとなって彼の口をついて出ます。宇宙へ行くことは、つねに人をしばる重力をいわば「解脱」して、この世を外から眺める視点を得ることであり、その視野拡大の体験は超越的で、宗教的な何かと通じるものがあるのでしょうね。 で、ふと振り返ると、最初の場面、宇宙服実験の事故の犠牲となった同僚の墓前でシロツグたちが歌う、なんだか滑稽な「宇宙軍軍歌」の歌詞には「裁きの時は近づかん」とあり、実は宇宙軍はリイクニの説いていた黙示録と同じ予言をしているのでした。 こんなふうに、宗教という日本人にはちょっときわどく難しいモノを扱いつつ、このお話は日常俗世の次元を超えた宇宙的視野を描きます。おもしろさと同時に、こういう感動をも提示してくれる作品って、いまあるのかしら。 戦わず、宇宙的思索の獲得を目指す軍隊、王立宇宙軍。パラレル・ワールドでこその存在なのかもしれませんが、憲法9条を持つニッポンが誇るお話だと思うのです。
July 5, 2014
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先日の続きで、ギリシャ神話関連の本の話をもっと。 CRALAさんにコメントをいただいて思い出したのが、私が小さい頃愛読していた、『星座と伝説』(偕成社ジュニア博物館10、小尾信弥)。表紙には、ワシに変身したゼウス神に連れ去られる美少年ガニメデの絵で、美術にうとい私もうっとり。1970年の本ですが、天体写真はもちろん、図も詳しいし、ギリシャ神話を題材にした絵画のカラー写真がいっぱい載っていて、ロマンを誘います。 それから、『ギリシア神話 テーバイ物語』は、「呪われたハルモニアーの頸飾り」という副題の示すとおり、美しいが不幸をもたらす首飾りがテーバイ王家にまつわるいろんな登場人物の手に渡っては新たな物語が展開する、というスタイルで一つの都市の歴史が語られていきます。 地図と系図はこの手の物語には必須といってもいいですが、この本には、発掘された陶器に描かれたギリシャ時代の絵が、たくさん収録されているのがグッドです。『星座と伝説』がルネッサンス絵画のアートな気分にさせてくれるのに対し、こちらは博物館でホンモノを見る時の静かな感動、みたいなのを味わえます。 最後に、ファンタジー(コミックス)です。西洋文化の根幹ともいうべきギリシャの神々をこんなふうに描いちゃっていいのかー、でもゲームのキャラなんかにデフォルメしちゃうのとは違って、わりと真面目なファンタジーだぞー! と思うのが、安彦良和の『アリオン』です。(画像は4巻) 初代ガンダムに入れ込んでいた私は、安彦氏がギリシャ神話を描く!というだけでもう大興奮でして、映画も(あんまりいい出来じゃなかったと思いますが)3回ぐらい観た覚えがあります。 何がいちばんすごいと言って、『アリオン』に出てくる大神ゼウスの、貧相で情けない最悪な容姿と性格。オリンポスの主神がこんなダメ男でいいのか!とびっくりするのですが、この徹底的に醜悪なゼウスが、なんだか人間くさい妙な味があって、忘れがたいです; ゼウスは/おびえきって/…いた/彼がその時/私に見せたものは…/死を恐怖する/みにくいまでに赤裸々な姿だった/彼を生きながらえさせたのは/たぶんこの強烈な死への恐怖なのだと/一刹那私は/…思った ――安彦良和『アリオン』 こんなゼウスやら、オッサンくさ~いポセイドン、見かけはいいけどゼウスよりもっと陰険な悪者アポロン、権勢欲とお色気の同居したアテナ、などの中で翻弄される主人公アリオンに、同情しながら読み進むと、最後には(どたばたとご都合主義な所もあるけれど)この人間より人間くさい神々は、天上へ去って、ほんとうに神様になり、あとには人間たちの新しい世が始まる、という大団円となってキッチリ終わります。 さすが安彦さん、押さえるところはきっちり押さえているなあ、という感じ。 でも間違っても『アリオン』で初めてギリシャ神話を知るというパターンだけはおすすめできませんが!
October 16, 2007
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「バムケロ」シリーズの中で私の一番のお気に入りです。他の3冊がバムとケロの家やその周辺のできごとなのに対し、『そらのたび』は組み立て飛行機に乗っておじいちゃんちを目ざす、冒険ファンタジーなのです。 げつようびのあさ…パンケーキを たべていたら やまのような こづつみが とどいた おくってくれたのは おじいちゃん ――島田ゆか『バムとケロのそらのたび』 大小さまざまな形の小包みは、飛行機の組み立て部品でした。二人は、土曜日までかかって組み立てます。 絵がとても凝っていて、初めの方のページと、組み立てる場面のページを比べると、どの形の小包みに何が入っていたかわかります。たとえば、三つでっぱりのある箱に入っていたのはプロペラ。三角柱の形の箱に入っていたのは、飛行機のタイヤのストッパー。最後尾の配達人が人差し指の先っちょにのせていた小さな箱は、ただのビックリ箱でした。 組み立てて、ペンキを塗って、こんなふうに飛行機が作れるなんてうそみたーい、と思っていましたが、CRALAさんみたいな模型の達人だったら、きっとできちゃうんでしょうね! 自分で作った飛行機に乗って、おじいちゃんの手紙を手がかりに、いざ冒険旅行へ出発。 すべりだいも すなばも しばらく バイバイ ――『バムとケロのそらのたび』 小さくなってゆく家と庭の絵があります。日常生活よ、さようなら! という感じで、旅に出かけるときのワクワク感が伝わってきます。 それからは、一つ一つ難所を越えていきます。涙の出るたまねぎさんみゃく、むしだらけのりんごやまのほらあな、ふんかするかぼちゃかざん、そして、二人の飛行機は海に至ります。 冒険旅行も後半のヤマ場になって、旅人たちは海を見る…そんな一つのパターンがあるような気がします。ぱあっと開ける海を前に、ついにここまでやって来たか…と感慨を深めるのでしょう。 うみではおおうみへびが出て、いよいよ最後の難所、きゅうけつこうもりのトンネル。ケチャップをまいて切り抜ける! なんてすてきな方法でしょう。 そして、海辺のすてきなおじいちゃんちへ到着。お祝いとご馳走のあと、『ふしぎなひこうきじいさん』の本を読んでもらおうとしたところで…またもや眠ってしまう二人。最後のシーンは『にちようび』とだぶっていて、すごくおさまりがつく感じ。 こんな冒険旅行の本筋を追うほかにも、島田ゆかの絵には注目すべきところがいっぱい。たとえば…・表紙絵の二人の荷物。どれに何が入っているか、わかりますか? かぼちゃ火山でケロちゃんがさしていた傘もあります。おじいちゃんへのプレゼントは青いチェックの包み紙。お弁当のホットドッグが入っているランチボックスもあります。・飛行機の組み立て中をのぞきに来て、ケロちゃんに背中に何やら描いてもらったモグラ。彼が自分で組み立てた赤い飛行機でバムたちの後からおじいちゃんちにやって来たのを知っていますか?・りんごやまのトンネル内の虫に、数字の1から9までの形のものをさがそう!…などなど。 こんな楽しみは、以前ご紹介した『ミッケ!』シリーズとも共通する、1ぺージ1ページをすみずみまで眺めるという、たっぷり時間をかけたぜいたくな絵本の楽しみだと思います。
April 13, 2006
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古代オリエントの伝説の英雄、ギルガメシュの物語。先月、文の里の古書店、居留守文庫で入手したちくま文庫『ギルガメシュ叙事詩』は、その全文(といっても、残っていて解読された部分)と解説、発掘や解読の歴史、くさび形文字の読み取り例まで載っている、盛りだくさんでお得な一冊です。 さらに、伝説に出てくる怪獣「天の牛」と星座の関係とか、ギルガメシュにも言い寄るオリエントの愛の女神イシュタルの冥界下りの伝説も収録。読者の好奇心をたっぷりと満たしてくれます。 ところで、本に埋もれたい方にはおすすめの、居留守文庫さんには、拙著『海鳴りの石』『天までひびけ! ぼくの太鼓』を委託しています! ギルガメシュの物語は、旧約聖書よりもギリシャ神話よりも古い、世界最古の英雄譚として有名で、美しい大型絵本(ルドミラ・ゼーマン『ギルガメシュ王物語』シリーズ)があるほか、私は私市保彦『幻想物語の文法-『ギルガメシュ』から『ゲド戦記』へ-』で、あらすじを知っていました。 ようやくその原本を読むことができて嬉しいです。 ギルガメシュは、もともとシュメール人の伝説の王だったそうですが、アッシリアだのバビロニアだの、古代オリエントを制した人々がこれを受け継ぎ、さらに西洋に伝えられるに及んで、さまざまなバージョンが作られたのです。しかもどれもこれも、破損していたり部分的に失われていたりします。 それらを照らし合わせて全体を復元しようという試みが、いかに大変で、しかし謎解きのわくわく感を刺激するものだったかは、復元された原文を見ると、わかります; ギルガメシュ〔 夜になると〔 彼が近づいて来ると 〔エンキドゥ〕は通りに立ちはだかった ギルガメシュが通るのを防ぐため 〔 〕の力によって --矢島文夫訳『ギルガメシュ叙事詩』第二の書板 などという調子です。〔 〕に言葉が補われていればまだ良し、抜けていたり、?がついていた り、「以下一七行欠」などとあったり。 それでも、半神半人の英雄の生涯がいきいきと見えてきます。 若いときのギルガメシュは不良青年のような乱暴者で、「父親に息子を残さぬ」「母親に娘を残さぬ」という暴君ぶり。ところが、野人エンキドゥと決闘をして引き分けると、彼と友達になったようで、一緒に杉(レバノン杉)の森に遠征して番人の獣フンババを倒します。 これによって、彼は一人前の英雄へと成長します。 するとすかさず、愛の女神イシュタルが英雄ギルガメシュに求愛しますが、彼は今までの女神の不誠実さを指摘してはねつけます。彼はもうすっかりクールな大人なのです。 イシュタルは逆ギレして「天の牛」を送りこみますが、ギルガメシュとエンキドゥのコンビは牛を倒し、人々はますます彼らをたたえます。 ところが、フンババや天の牛を殺したせいで神罰がくだり、エンキドゥは病で死にます。相棒の死に悲嘆にくれるギルガメシュは、不死の秘密を得ようと旅に出ます。探索行のすえ、大洪水を生き延びた老人(聖書のノアにあたる人)に教えられて、海底から不死の草を取ってくることに成功。 しかし、草を持って故国へ帰る途中、水浴びをしている隙に、蛇がこの草を食べてしまいます! かくして、ギルガメシュ(と人間)は不死にはなれませんでした。 そこでギルガメシュは坐って泣いた --第十一の書板 生者必滅の悲しみ。「坐って泣いた」は、この時代の叙事詩の定型表現のようですが、なかなか心に響く表現です。 と、こんなふうに、12枚の書板に人生とか人間の宿命とかが凝縮されているのが見事です(12枚めの書板は本編とは別バージョンのエンキドゥの死のいきさつだそうです)。 ところで、ちょうど「フェイト」というゲームをやっている娘が、キャラクターの一人、「ギルガメッシュ」を教えてくれました。赤と金色の優男で、もちろん出土した彫刻にある長いくるくるしたひげのおじさんとは大違い。 けれど、最初に書いたように、伝わっている伝説自体が、もとのシュメールの話を他の民族や後の人々が彼らなりに脚色したもの。ほんとうのギルガメシュ(実在したらしいですが)とは異なるところもあるでしょう。 そう思うと、現代こんな形で伝えられるギルガメシュもあっていいのかもしれないとも思います。フェイトのアーチャー「ギルガメッシュ」は、傲岸不遜な俺様ですが、やっぱり「エルキドゥ」と親友で、死に別れるとき悲嘆にくれるんだそうです。 他にも、ギルガメシュやメソポタミアの神々、幻獣は、多くのゲームに出てくるようです。その絢爛豪華なこと、夢解きが好きな古代人も夢にも思わなかったことでしょうね・・・
May 9, 2018
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難解だから理系、と決めつけてはいけないんですが、一度はちゃんと読まなきゃと長年思っていたボルヘスの『伝奇集』、1度ではわけがわからず、続けて2度読んでみました(個人的に、同じ本を続けて2度読み返すことはとても稀)。 ボルヘスが選んだ「バベルの図書館」という幻想文学選集がありまして(日本では国書刊行会から出版)、その1冊ロード・ダンセイニの短編集『ヤン川の舟唄』を持っているので、以前から選集の名の由来であるボルヘスの有名な短編「バベルの図書館」を読みたかったのです。 この話では、蜂の巣状に無限に広がる図書館に、すべての事象についてのすべての本が無限に?あり、そこで暮らす主人公が、この無限図書館=世界・宇宙のさまざまな解説や解釈について紹介しています。つまり、じつは図書館自体の話ではなく、我々ニンゲンが図書館=世界・宇宙をどう解釈するか、についての話。 哲学的というより、何だか人(読者)を食った感じがするのは、蜂の巣1つ(1部屋)の壁に書棚5つ、書棚1つに本33冊、本1冊に410ページ、ページ1つに40行、行1つに活字80…という、数字の苦手な私には無意味にしか見えない記述です。世界は無意味なモノの無限の集合体で、ニンゲンは意味を見いだそうとむなしく右往左往しているだけ、と、突き放された感じ。 作者が、自分で語る物語を自分で冷酷に突き放す感じは、他の短編でもそう。 架空世界の百科事典についての「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」でも、架空世界の設定資料集みたいな部分をファンタジー気分で読んでいると、“ほらね、この百科事典を作り、現実の世に出し、それについて調べる者が現れることで、現実が少しずつ変容していくでしょ。もうトレーンを知らなかった世界とは違う世界になったでしょ!”という、うすら怖い(でもよく考えると無意味にも思える)オチがついてきます。 物語を包みこむ、世界の枠組みに込められた、もう一つのより大きな物語が、そこにはあるのです。 この構造が『伝奇集』すべての短編にあるようですが、あるものは仕掛けがちゃち、というか俗物的でそれほど怖くない(し、面白くない)ように思えます。ミステリ仕立ての「死とコンパス」「刀の傷」「八岐の園」は、よくある話っぽい。ただし、これは以後の作家がボルヘスの影響をすごく受けているせいかもしれません(それこそ、ボルヘスを知らなかった世界とは違う世界になったわけだ!)。 異国情緒の楽しめる「アル・ムターシムを求めて」や、「円環の廃墟」(ミヒャエル・エンデっぽい。というか、エンデもボルヘスの影響を受けているのかしら? またはボルヘスと同じことに着目しているのかしら? ーーなどと思わせるところが、ボルヘスの真の狙いかも)は、結構わかったし、楽しめました。 宗教問答的な「ユダについての三つの解釈」「フェニックス宗」は、宗教心の薄い典型的日本人の私には、ヘリクツみたいに思えました。「『ドン・キホーテ』著者、ピエール・メナール」も、宗教じゃないけど、同類? あとは、数学が苦手だと頭がごちゃごちゃしてしまう「バビロニアのくじ」、これも結局、人生そのものの人を食ったたとえ話のようです。なんか元も子もないなあ、と思わせられちゃう。 とにかくさらりと読んだ表面とは別の、もっと大きな仕掛けが背後にあって、実はこういうことだったんだよと、言わせたいけど、その「実は」が何だか感動を呼ぶというより、むなしさを呼ぶ感じ。読者はボルヘスというお釈迦様の手のひらで踊らされていたっていうか。 唯一、南米的叙情があふれる「南部」が、素直に気に入りましたが(ガウチョ・パンツのもとになった南米のカウボーイ「ガウチョ」がいい味出しています)、なんとこの話も、古き良き南部だましいが描かれる後半は、都会にいる主人公が死ぬ間際の夢だった、という解説がありまして、エーッそういう解釈もありかもしれないけど、何かだまされた気分だなあ、と思ってしまって、再読しても伏線とか特に気づかなかったです。 どうも、理系脳でない私が鈍感すぎる方面に展開されている話らしい、ということが、分かったような、分からないような。
May 23, 2020
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昨年(2023年)の超話題作。次々と続編も出ているので、とりあえず第1巻電子版を入手しました。『はてしない物語』風の表紙だし、本当はハードカバーが欲しいところですが、最近本棚にゆとりがないので・・・ 前半は普通に、後半の怒濤の展開は怒濤の速さで読んでしまいました。異世界、歴史物、そして繊細な自己形成やロマンスの魅力がぎゅっと詰まった青春小説でもあります。 荻原規子の勾玉シリーズ以来かなあ、どんどんまっすぐ読み進めるこの充足感! 前半はおもに異世界の紹介という感じ。巻頭の2枚の地図が示すように、大きな異世界の枠組み(中世の西欧風)の中に、その世界から見ても異世界と思われるユニークな小国レーエンデ(山に囲まれ湖があって法皇の傭兵で…スイスみたい、と最初私は思いました)があるため、読者は段階を踏んで二重に奥まった異界へと誘われます。 最初は風物の描写や説明が多くなりがちですから、読者はちょっとぎくしゃくしながらついていきますが、これは初めて見る世界、会う人々に目を見はりぎくしゃくする、初々しい主人公ユリアも同じで、だんだんになじんできます。 地名が出てくるたびに地図を繰ったりしながら、この異世界になじんでいく感じが、ファンタジー好きにとっては、まずは快感です。 レーエンデ国は内陸にありますが満月の夜に時として幻の海が出現し、幻の魚が泳ぎます。ほかの部分に魔法や超常体験がなく、かっちりと理にかなった手ざわりの異世界なので、この神秘がきわだって印象的。 ・・・それは絹の光沢を帯びていた。手触りさえ感じられそうなほど濃厚で滑らかだった。銀色の薄衣がうねり、たゆたい、渦を描く。大蛇のように地を這い、身悶え、鎌首をもたげる。(中略)まるで滔々と流れる大河、飛沫き逆巻く急流のよう・・・ ―― 多崎礼『レーエンデ国物語』 いい感じですねえ。森に現れる銀色の霧が次第に大河、急流、海に感じられ、古代魚が泳ぐ。そう思ってふり返ると、ふだんから時々銀の泡が飛んだり、梢のざわめきが潮騒に聞こえたりしていましたっけ。 スイスみたい、と思ったもう一つのわけは、トゲのある大きな古代魚が、スイス・アルプスで発掘される化石の魚や魚竜を思い起こさせたから。アルプス山脈は大昔、海(“幻の海”テティス海)だったので水生生物の化石が出るそうですが、レーエンデも太古には海だったのかも、それをいうなら陸地ができる前はどこだって海だった、その太古の海が時空を超えてよみがえるのが「幻の海」という現象なのかもしれません。 それからまた、別の見方をしますと、幻にせよ水というのは(ユングなどによれば)無意識の象徴です。理知的な自意識の日常世界に突如として押し寄せて、根源的で感性的で理屈に合わない圧倒的なエネルギーで、世界や意識に変化をもたらし再生を促します。 私的には以前から、たとえば、宮崎駿「崖の上のポニョ」で大きな月のもとあふれた海の圧倒的な存在感(古代魚も泳いでました)や、上橋菜穂子「守り人シリーズ」の水界ナユグの幻想的な描写、水の精霊の卵を宿した皇子などに、異界としての水の再生のエネルギーを感じました。また、あしべゆうほ『クリスタル・ドラゴン』にも、不意にやってきた「幻の波」に乗って常若の国の世界樹のもとへ行く話がありましたっけ。 レーエンデの「幻の海」も、現実世界(といっても外枠の異世界です)や意識界が停滞したとき、それを補うようにパワーアップする無意識・ファンタジー界なんでしょう。やがて世界と主人公たちを変化・再編成へと導く――これぞファンタジーの底力そのものですね! 意識界の停滞について。魅力的な登場人物たちは、それぞれが未来に対して「詰んで」います。政略結婚から逃げてきたものの自分の生きる道が見えない主人公ユリア。生まれと業病(幻の海の刻印ともいえる銀呪病)のために若くして人生の終点が見えているトリスタン。視力を損なってもはや英雄として戦場に立てないヘクトル。「幻の海」はその行きづまりを別次元で打開するきっかけとなっているように思えます。 ユリアが、無意識界の中心・再生する自己の象徴ともいうべき赤子を宿したあと、現実世界でも状況がどんどん変わり進んでいきます。後半のたたみかけるような簡潔で怒濤の展開に、加速をつけて回り始めた運命の歯車の変転パワーを感じ、一気に結末まで駆け抜ける爽快感がありました。 もちろん、読者としては幻の海や赤子の正体など、さらなる説明が欲しいし、後日譚も簡潔すぎて色々知りたいことがいっぱい。 あと、冒頭にくり返された「革命」という言葉が、どうも宙にういたままの気がするんですが(終章まで読んでも、「内戦」とか「独立戦争」はあるけど、ユリアの生涯に起こった出来事はどれも「革命」じゃないですよね)、ユリアは「革命の始原者」とあるから、解明は続巻に引き継がれているのかしら。 早く続きを読まなくちゃ、のHANNAでした。
January 8, 2024
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↑震災後1ヶ月の風景、実家(芦屋市三条町)のルーフテラスより。 テレビやネットで震災30年の報道を見て、私も当時の写真を久しぶりに出してみたので、覚え書きです; 私は5~10歳を神戸市東灘区、10~15歳を西宮市、15歳から結婚までを芦屋市で過ごしました。阪神大震災(と地元で当時言いました淡路の方ごめんなさい)が起こったのは結婚後1年余り、私は大阪府T市に居て明け方飛び起きました。T市でも被害が出ましたが、うちは無事でした。 テレビで最初、「奈良で仏像が壊れました」「京都の文化財のお寺でも少し被害が…」と言うばかりなので、特に心配しませんでした。 何時間後か、テレビにヘリコプターからの、阪神高速倒壊の映像が映りました。「ぼんち」という文字が付近のビルに見えます。見慣れた広告。「え。うちの実家はこの真北の山腹だよ」 その時まだ神戸からは何の情報も入っていなかったのです。「便りが無いのは良い便り」ということわざとは真逆の状況です。今でも、各地の災害の報道を見るたびにこのことを思い出します。情報がまだ来ない所に、もっとひどい災害が発生しているかもしれない、ということ。 携帯はまだなく、電話は通じませんでした。公衆電話ならかかるかも、と昼じゅう近所の公衆電話あちこちから、かけまくりました。今思うと愚かで、迷惑なことでした。反省その1。 午後になって両親の安否を確かめずにはおられず、夫とタクシーに乗りこみ実家を目指しました。柱がヒビ割れた高速道路の下を進み、どっと逃げ出す人々の車の流れに逆らい、段差ができて大渋滞の甲武橋をガッタンと渡り、ガスの匂いのする関学周辺を抜け、きな臭い地帯を迂回して芦屋市に入りました。危険なドライブを敢行してくれたタクシードライバーさんに感謝ですが、ほんとに無謀で迷惑でした。反省その2。 カーラジオから戦慄する状況の報道が絶え間なく流れていました。暗くなり、赤い月が昇りました。↑実家近くの駐車場。 高台にある実家のマンションは無事でした。停電なのでドアをドンドン叩き、出てきた両親に一緒に避難をと勧めましたが、両親はすっかりハイになっていて、家に残ると言いました。前日のお風呂の水が貯めてあってトイレも流せるし食料もあると言うのです。眼下で、街の数カ所から火と煙があがっていました。 私は持ってきた一万円札数枚を渡しただけで、またタクシーで引き返しました。そう、被災した両親に何を持って行けばよいのか見当がつかなかったのです。お金なんか何の役にも立たないことに後から気づきました。反省その3。 実家では4日後に電気が復旧し、両親は「戦中戦後はこんなだった」と奇妙なほど元気に給水車に通い、電気鍋で料理をしておりました。1か月経たない2月15日に私は実家付近や東灘区の母校である小学校(校舎は壊れるも、運動場が避難所になっていた)の写真を撮りました。 ←実家付近の断層上の道路。 →三条町と西山町の境あたり ↓左右ともJR芦屋駅北側付近。左写真のビルは1階がつぶれ手前に傾いている。 災害時の行動はほんとうに難しいものです。 すべての被災者の方々に平穏が訪れますように。日本でも世界でも、追悼すべき災害や戦乱がたくさんあります。↑震災後1ヶ月、ブルーシートの街
January 17, 2025
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