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「……制服?」「ほれ、マラソン大会の日――あんた制服、誰かに隠されたんじゃろ? あれ、ミホらぁじゃと思うわ。着替える時、なんじゃ笑いながらコソコソやりょーたもん」「え、それほんとっ?」 あたしは一瞬頬の痛みを忘れ、平野さんに訊き返した。「大方ミホが言い出したんじゃろ。つるんどる子らぁ結構言いなりじゃけぇな。ま、でも無傷ですぐ見つかってえかったなぁ。ほれ、ようあるじゃろハサミでジョキジョキって、ドラマやこーで。どうやらミホもそこまでの根性はねかったようじゃな。はは」 無傷……。 踏みつけられてトイレのゴミ箱に捨てられてたんだけど――ってことは言わないでおこう。なんだか情けないし。ってかミホめ! よくもそんなくだらないことをッ! 今度はあたしが拳をぷるぷる震わせていると、平野さんはチラリとこちらに視線をよこしフッと小さく笑った。「あんた、もっとツンケンしとるんか思よーたけど意外に話しやすいけぇ、いらんことばーいっぺえしゃべってしもうたわ。痛ぁてそれどころじゃねぇのになぁ、ごめんごめん。――真弓先生、すみませーん」 カラリと保健室の扉を開け、平野さんはあたしの腕をとり中に引き入れる。「はいはい――あらっ、高槻さん? なに、また怪我しちゃったの?」「はいぃ、バレーボールが顔面に……」「せーがまた、念のこもってそーな強烈なスパイクで」 平野さんが横から付け加える。「あらら……。ちょっとここ座って」「スミマセン、度々……」 丸椅子に腰掛け頬から手を離すと、先生はじっと右目を覗き込んできた。「充血……してないか。目の方は大丈夫みたいね、よかったわ。でも、ほっぺが真っ赤――ちょっと待ってて」 衝立の向こうでザクザクと氷をすくうような音がして暫くすると、真弓先生は小龍包のような形をした手のひらサイズの青い袋を軽く振りながらこちらへと戻ってきた。「はい、真弓特製スペシャルブレンド氷のう。絶妙な柔らかさと冷え具合でしょ?」 蓋の付いたへんてこな形の氷のうを興味深く受け取り、ジンジン痺れて熱をもった頬にゆっくり押し当てる。「わ、気持ちい~……」「でしょー、ふふ。でもちょっと青く残っちゃうかもねぇ。取り敢えず暫くはそれで冷やして――あら、足も擦りむいてる。んー、あの絆創膏がよさそうね」「あっ、たいしたことないんで、これで――」 あたしはポケットをゴソゴソ探り、今井さんからもらったド派手なピンクの絆創膏を取り出した。「? あっちの方が早く治るのに?」 先生がきょとんとした顔を向ける。「クラスの子がくれて、せっかくなんで……」「あんた、律儀な性格じゃなぁ」肩を竦める平野さんに、「だって……ちょっと嬉しかったんだもん」 あたしは少し照れながらぼそりと返した。「ふっ、わかったわ。じゃあ、取り敢えず水で洗ってから軟膏でも塗って――」 先生にてきぱきと擦り傷の処置をしてもらい、ペタリとピンクの絆創膏を貼りつける。「なんかギャルっぽい。ふふ」 たかが絆創膏一枚――でもそれは、ようやくクラスの一員として認めてもらえたかのような……そんな小さな喜びとちょっとした安堵感をあたしにもたらしてくれたのだった。「このままもう暫く冷やしてた方がいいわねぇ。平野さん、授業に戻って先生にそう伝えてくれる?」「あ、はい」「……平野さん、ありがとう。怒ってくれたの、嬉しかった」 痛む頬を押さえ、なんとか笑顔を作る。「や、うちゃーミホのやり方が――」 平野さんはそう言い掛けてふと口をつぐむと、あたしから視線を逸らし、もごもごと続けた。「うち、バレー以外のこたぁどーでもええっちゅーか……、じゃけど、ちぃーとばー目ぇ向けりゃー見えてくるもんがあるんじゃな……」 平野さん……「ほ、ほんじゃうち戻るけぇ、お大事にっ」 そのまま目を合わせることなく、平野さんはバタバタと慌ただしく保健室を出て行ってしまった。「――着々と誤解が解けていってるようね」 真弓先生がくすりと柔らかい笑みを向ける。「です……かね」 あたしは視線を落とし、右膝で派手に存在を主張している絆創膏を軽く指でなぞった。 目を向ければ見えてくるものがある―― あたしこそ、一方的な思い込みに捉われすぎていたのかもしれない。 頬に感じる氷のうの冷たさとは裏腹に、心はほんのりと温かくて……腹立たしいこの頬の痛みも、なんだか悪くないような気がしてくるのだった。 photo by little5am
2017.05.05
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え? と振り返ったと同時に、バシンッ……!! 顔面に激しい衝撃を受け、あたしは弾かれたように床に倒れ込んだ。「……ッつ」「たっ、高槻さんっ……」「ちょっ、あんた大丈夫っ?」 いッッ、たぁ~……な、なに、ボール? いてて……「目ぇ当たったんっ? ちょー見してんっ」「だ、大丈夫……うん、はは……」 むくりと上半身を起こし、覗き込む平野さんにひきつりながらも笑顔で返す。視界が滲んでるのは涙のせいだ。うぅ~、右頬がジリジリと焼けるように痛い……「高槻さんごめんっ、うちがいらんこと言うたけぇっ……」「や、遠藤さんのせいじゃ――、つつ……」「ちょー、ミホ! この子後ろ向いとったのにワザと狙うたじゃろ!」 キッとミホを振り返り、平野さんは語気を荒げる。「なんなら人聞きのわりぃ。たまたまじゃ」 ミ、ミホかっ……くそ~、狙ったな!? と、「紗波っ!?」「おいおいおい、どねんしょんならA組!」 異変を感じた結実、そしてB組コートの審判をしていた赤松先生が慌ててこちらに駆け寄ってきた。「高槻さんの顔にボール当たって――」「なん、そりゃおえん! どれ見してみぃ。――あぁ、あこーなってしもうとるがぁ、でーじょーぶか目の方は」「で、でーじょーぶです……」 いや、なに方言うつってんだあたし。「どねーしょーたんじゃ、んん?」「コケた遠藤さん起こそうとしょーた高槻さんに、杉本さんのスパイクが――」 非難じみた平野さんの視線を辿り、赤松先生が訝しげにミホを振り返る。「え、そんなうち……ただボール打ち返しただけでわざと当てたんじゃ――、赤松せんせぇ、うちのこと疑うんですかぁ? くすん」 な、なにカワイ子ぶってんだかっ。「コホン。ま、まぁ、あれじゃ。練習じゃいうても点が絡みゃー熱ぅなるんはしゃーねかろーで、のぅ。えぇっと、A組の保健係は、と――」「……うちですけど。保健室連れて行きます」 あっさり丸め込まれた赤松先生を不甲斐無く思ったのか、平野さんがぶすっと不機嫌に答える。「お、おぅ。ほんじゃあ頼まぁ平野、早う連れてって顔冷やしたってくれ」「や、あの、ひとりで行けるんで――」 立ち上がろうとするあたしの腕を平野さんが掴む。「遠慮せんでもええがぁ。うち、そーいう係じゃけぇ」「平野さん……」「あ、紗波、足も擦りむいとる」 結実に言われ視線を落とすと、右膝からうっすら血が滲み出ていて――どうやらスライディングした時に擦りむいてしまったらしい。と、「そねん気張らんでもええのに。……ほれ」 ヒョウ柄の派手なピンクの絆創膏がすっと目の前に差し出され―― え、今井さん……? 意外な思いで彼女を見つめ返す。「貼っとかれぇ、そこ」 つっけんどんな口振りながらも、派手なその目元には僅かに親しみのようなものさえ滲んでいる。「あ、ありがと……」 あたしは少し戸惑いながら、ツヤツヤとマニキュアが光る指先からそれを受け取った。「行こ、高槻さん」「あ、うん」「よう冷やさにゃーおえんで、紗波」「高槻さん……」 心配げな表情を見せる結実と遠藤さんに軽く笑い返し、平野さんに連れられ体育館を後にする。「――あんた、大丈夫?」「まぁ、なんとか……。いっそ誰かわからないくらい顔が腫れてくれたら、逆に過ごしやすかったりするかもね。ふっ……いてて」 冗談交じりに言ったら、ちょっと複雑な顔で返された。「あんたの存在って、あんたにそねんつもりのーても知らず知らずのうちみんなんこと刺激してしもうとるんじゃわ、きっと」「はぁ、刺激……」「うちゃー中高一貫じゃけぇ代わり映えせんじゃろ? そけぇ都会からの転校生じゃ。あんた見た目もええしなぁ。ま、そーゆーことで男子も浮かれ気味じゃし? 女子らぁからしたらいろいろ面白うねぇとこへあの柊哉まで――あんたんことえろー気に掛けとるがぁ?」「え、や、それは……」 口ごもるあたしを特に気に留める風もなく平野さんは続ける。「今朝もあんた、B組の井上に声掛けられとるとこ柊哉割って入りょーたじゃろ」「井上……あぁ、朝の――、見てたんだ」「うん、たまたま。ってか、プッ……なんじゃあれ井上、テンパってひょんなげな顔して。大胆に人前で告るぐれぇなら、いっそんことバシッと男らしゅうキメりゃあええのに」「え? コク――、えぇっ?」「いや、アイツにそねーな男気ねぇわなぁ。あぁあれじゃ、放課後にでも告ろう思うて段取りつけようとしょーたんじゃわ」 え、マジ……で? いやいや、何かほんとに用があったのかも――って、何の用があったんだって話だけど……。「じゃーけど見とったんがミホとかじゃのーてえかったなぁ。ミホの柊哉狙いは周知の事実じゃけぇな。ふっ、副委員長選ぶ時のあの必死さいうたら……前もってどんだけ根回ししょーたか。最後にゃもう、半分脅し入っとったけぇな。ほんま上辺にコロッと騙されとる男子らぁも憐れっちゅーか……」 平野さんは呆れたように肩を竦めた。 なんか、本人が言ってた話と違う気が……。ま、どっちがほんとかは考えるまでもないけど。「まぁうちも? 柊哉のこたぁ、でぇれイケとるたぁ思うんじゃ。けど、うちゃー今バレーに青春の全てを捧げとるけぇなぁ。あっ、そうじゃ、あんたも一緒にバレーやらん? なかなか根性あって筋もよさそうじゃし」「えっ、や……スポ根ってタイプじゃないんで、あたし。遠慮しときます……」 頬を押さえ、へらりと苦笑いで返す。「なんじゃもったいねぇ、ええもん持ってそうじゃのに。はぁーあ、うちももちぃーと背ぇありゃーなぁ。こればっかはどねんしょーも――っちゅーか! 途中で部活投げ出したミホにだきゃー言われたぁねぇんじゃけどっ」 ミホの言葉がよみがえったのか、平野さんはぷるぷると拳を震わせる。「あの子、上級生よりゃー自分のがうめーのに今更球拾いじゃ基礎練習じゃバカらしい言うて……ま、練習きちぃーて辞めたんもあるんじゃろうけど。今じゃほれ、あの調子でうめーこと猫かぶって男子バレー部でチヤホヤされながらマネージャーやりょーるわ。あの子、他人より優位に立っとかんと気ぃ済まんのんよ。じゃけぇ、うちがレギュラーなったんも気に食わんのんじゃ。うちじゃて耐えに耐えてやっとこさなれたっちゅーのに――」 平野さんは日頃の鬱憤を吐き出すかのように言い募った。 成程、二人のどことなく剣呑な雰囲気はそういうことだったのか。そういえば朝練で忙しいとかなんとか――男子バレー部のマネージャーで、ってことね。ふ~ん……「せーじゃけぇ、ミホはあんたんことも鬱陶しゅーて仕方ねぇんじゃろ。そういや、あんたの制服じゃって――」 photo by little5am
2017.05.04
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――ボムッ…… コートに響いたサーブの音にあたしは意識を集中させる。 こっち来たっ……絶対受けてやるっ! 右寄りに飛んできたボールを遠藤さんの手前でサーブカットする。ボワンと高く上がったボール――ああ誰か繋いで! と、大谷さんが前に進み出て――ポンッ……よし上がった! 平野さん行けッ……――バシッ! ダムッ…… ブロックを抜け、相手コートに鋭く突き刺さるスパイクボール――や、やった! 得意気な笑みを浮かべる平野さんから大谷さんに視線を移す。「大谷さん、トス上手~!」 あたしは思わず彼女に声を掛けた。「えっ、あ、あぁ……ただのまぐれじゃけぇ」 そう言いながらも、その表情はどこか嬉しそうだ。「高槻さんのレシーブも上手じゃった」「ほんと? 遠藤さん」「いやいや、上手いんはあの角度からスパイク打ち込んだうちじゃろ」 横から平野さんが割って入る。――うむ、確かに。身長のせいかネットギリギリだったけど、素人っぽくないこなれた動き――と、その上から目線……「平野さんって、バレーしてるの?」「あぁ、うち? うん、部活やっとる。あの子、ミホも――今ぁ辞めてしもうたけど元バレー部じゃけぇ、油断しょーたらおえんで」「へぇ……」 そうか。それでミホもあんな自信たっぷりなんだ。「ちょー、あんたらぁ一点取ったぐれぇーでなん盛り上がっとるんっ。ほんまじゃったら時間オーバーで反則じゃけぇな、はよぉサーブして!」 苛立った声で先を促すミホに、ボールを手にしていた今井さんが、んっ、とあたしにそれを投げてよこす。 あ、そっか。ローテーションで、次はあたしがサーブ打たなきゃいけないんだ――ボールを手に後方へと向かう。隣のコートから聞こえてくる賑やかな歓声に視線を向けると、ひと括りにした髪を揺らし、相手コートにスパイクを決める結実の姿が目に入った。 おっ、やるな結実。あたしも頑張らなきゃ! バレーは腕が痛くなるからあまり好きじゃないけど、あたしだって別に運チってワケじゃないんだからねっ。でも、ここは手堅くアンダーハンドで――――バムッ……よし、綺麗に入った! すぐに新ポジションで相手の攻撃に備える。レシーブ、トスと相手コートで順調に上がるボール。そこへミホが高くジャンプして―― 来るっ……――バシッ……ダンッ! 力強く放たれたスパイクが、平野さんの必死のブロックも虚しく遠藤さんの足元に鋭く突き刺さる。……は、速っ。「もちぃーと背ぇありゃーなぁ。エッコ」 勝ち誇ったような笑みを浮かべるミホに平野さんが悔しげな顔を向ける。軽く火花を散らす二人――何か確執でもあるのか? サーブ権を得、時計回りに一つポジションをずらすAチーム。センターに移動したミホが自分を指しながら周りに声を掛けている。どうやら自分にボールを回せと言っているらしい。 相手側から再び打ち込まれるサーブ。力不足かワザとなのか、ネットギリギリに落ちたボールを平野さんがカットする。ライトの山本さんがなんとかトスを上げるも、平野さんの体勢は整わず……緩く返してしまったボールを、Aチーム側はそつなくミホの元へと送り出す。――ダムッ……「きゃっ……」 ミホの強烈なスパイクを腰に受け、思わず声を上げる遠藤さん。「遠藤さん、大丈夫っ?」「う、うん……」 ミホめ~、遠藤さんがレシーブ苦手なのをいいことに彼女ばっか狙って……!「ちゃんと構えにゃおえまーが、遠藤さん」「ごめん……なさい……」 またしてもあっけなくブロックを抜かれた平野さんは、それ以上強く言えずイライラと前に向き直る。 サーブ権を取り返せないまま似たような攻撃に翻弄されるBチーム。さっきからやたらと標的にされている遠藤さんも、なんとかレシーブしようと腰は落とすものの恐怖心から上手くいかず――と思っていたら、そのうちのひとつが彼女の肩に当たり、奇跡的にいい角度であたしの前に跳ね上がった。 トスで回す!? いや―― 踏み出した勢いのまま床を蹴り、腕を振り上げる。――バシッ……、ダンッ…… 咄嗟のバックアタックがAチームの不意を突き、敵側コートに跳ね返る。「やった……!」 あたしたちは思わず顔を見合わせ笑顔を弾けさせた。「高槻さん、すげぇっ」「なかなかやりよるなぁ、あんた」「いや、すごいのは遠藤さんだよ。あの卓越したレシーブ。はは」「あ、あれ、レシーブちゃうけぇ……」 困った表情で肩を擦る遠藤さんに、皆プッと吹き出す。あれあれ? なんだかあたしたち……連帯感っていうの? なんかいい感じじゃない? と、「ちょー、今のんは反則じゃろ! アタックライン踏んどったけぇ」 せっかくの和やかムードをぶち壊すようにミホの怒声が響いた。 えぇっ? 踏んでないでしょ!?「跳ぶときゃー、踏んどらんかったじゃろっ」 平野さんもすかさず言い返す。「審判! 踏んどったなぁっ?」「えっ? えぇっと……」「じゃろ!?」「う……、うん」 審判役の女子が気圧されたように頷くと、ミホはしたり顔で言い放った。「じゃ、うちらが1ポイントゲットっちゅーことで」「はぁっ? ちょっと待ちなさいよっ」 今のはこっちのポイントだろ~っ!――ボムッ…… 反論する隙も与えず強引に続行される試合――納得のいかないまま、こっち寄りに飛んできたボールを鼻息荒くサーブカットする。それを平野さんが左前方にトス――「今井さんっ!」「えぇっ?」 平野さんの気迫のこもった声を受け、今井さんは回されたボールを取り敢えず相手方に打ち返す。敵ブロックを越え、高くボワンと返ったボールは、再びミホのスパイクへと繋げられ、ブロックを試みた平野さんの指先に当たってコート外へ―― はっ、このままじゃ……くっ、落とすかぁ~~っ! ボムッ――スライディングして片手でレシーブ! 微かに起こるどよめき――「ナイスファイッ!」 平野さんが声を上げ、前衛ライトの山本さんがなんとか繋いだボールを相手コートへと打ち返す。レシーブ、トス――またミホか!? 来るっ……バシッ! ……ボムッ。「や……、やった……!」 遠藤さん、レシーブできた! 山本さんがトスするのを見届け、遠藤さんに笑顔を向ける。と、彼女はぐらりとバランスを崩し―― どたっ。「わ、遠藤さんっ」「や……やっと受けれた……」「うん、やったね!」 尻もちをついたまま軽く放心している遠藤さんにクスッと笑みを零し手を差し伸べる。「大丈夫? 立てる?」「う、うん、ごめ……、あッ、危な――!」 photo by little5am
2017.04.29
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――ピーッ……!「はい、みんな集まれーっ」 館内にホイッスルの音が鳴り響き、スパイクだのレシーブだのの練習で痛くなった手首を擦りながら先生の元に歩み寄る。「ちぃーとマラソン大会挟んでしもうたが、まぁみんな基本はできとるみてぇーじゃの。おし! ほいたら今日は試しにAB別れてクラス対抗で試合でも――」「赤松せんせぇ」 話を遮るように手を挙げたのはミホだった。「ん? なんじゃ、杉本」「あのー、うちらまだ試合に慣れとらんけぇ、先にクラスで練習試合したらダメですかぁ? せーからのんがクラス対抗も盛り上がるんじゃねんかなって」 なにミホ、えらく熱心な。「ほじゃのぅ……んー、じゃあクラス対抗はこん次っちゅうことで、今日は別々でやってみるか、コートも2面あるしのぅ。ルールは多少変えても構わんけぇ」 ということで、ミホの提案通りクラス別々で試合をすることになり、あたしたちは指示されたコートの横へと集まった。「18人おるけぇ、リベロなしの3チームに別れよ。じゃあ、こことこーで――」 いつの間にやら主導権を握ったミホが、有無を言わさずA組女子を3つのチームに振り分ける。あたしと遠藤さんは同じチームになった。 にしても改めて意識して見ると、ミホってなんていうかこう、クラスの女王様的な――副委員長だからかもしれないけど、どことなくみんな彼女の意見に流されている節がある。ま、そう気付いたところで、ミホに関係なくあたしは女子に嫌われてるんだろうけど。「試合じゃけど、1セットマッチで先に15ポイント取った方が勝ちいうことにせん?」「ミホ詳しいけぇ、任せるわぁ」「そ? じゃ、まずぁAチームとBチームの対戦っちゅーことで。Aチームがうちら、Bチームが――あんたらぁな」 端の方でぼんやり話を聞いていたあたしを振り返り、ミホがビシッと指を突き付ける。目が合うとミホはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。 ……なぜにあたしをダイレクトに指差す。「ほんじゃ、サーブ権はジャンケンで。――エッコ」 ミホに指名され、こちら側にいた小柄な女子がどことなく不機嫌そうな顔つきで前に進み出る。〈……高槻さん、試合やこーどうしょ。うち、ボールもまともに受けれんのに……〉〈大丈夫大丈夫。みんなも慣れてないんだし〉 隣で不安げな表情を見せる遠藤さんの肩をポンと叩き、ちらりとチームの顔ぶれを確認する。 遠藤さんと同じく不安そうにしている色白のぽっちゃりした子に、なんだか覇気のないひょろりと背の高い子、それと――「なんなん、ひとんことジロジロ見て」「や、なんでも……」 しまった。ついまじまじと…… グロスでテカテカ光る唇をつんと尖らす女子に、あたしはへらりと愛想笑いで返す。 シャンプー? それとも香水? ほんのりスパイシーな甘い香りがする。クラスに一人、なんか派手な子がいるなーとは思ってたけど……こうして近くで見ると、明るい茶髪につけまつげに小さいけどピアスまで――校則大丈夫なのかっ?「はぁ、試合やこぉマジてぇぎぃわー。せっかく昨日爪塗り直したとこじゃのに、ちっ。――あぁ、あんた、うちんことアテにせんとってな」「は、はぁ……」――プッ、Bチーム終わっとるな。ミホナイス。クスクス…… ナイスって……このチーム分け、ワザとか!? そうこうするうちに、ジャンケンに負けたらしい小柄な女子がボールを持たずに戻ってきた。「役割は特に決めんとローテーションで回ってきたとこそれぞれ頑張るっちゅーことんなったけぇ。取り敢えず最初のコートポジションはうちが決めさせてもらうわ。じゃあ――」「平野さん、うち後ろでええわぁ。ふあぁ~……」「ちょ、今井さんっ」 欠伸をしながら後衛に向かう、やる気の微塵も感じられないギャル系女子。彼女のマイペースぶりはいつものことなのか、小柄女子は溜息交じりに肩を竦めこちらに向き直る。「んじゃ山本さん、背高いけぇフロントセンターで。せーで、そん後ろが大谷さん」 言われるがまま、背の高い女子はふらりとネット前に、ぽっちゃりした女子は自信なさげな様子でバックセンターに立つ。残るポジションはフロント両サイドとバックライト。「ほんじゃあんた――高槻さん、フロント向こう側入って、うちレフト入るけぇ。遠藤さんは後ろな」 ほっと僅かに表情を緩める遠藤さん。――点を取ってサーブ権を得たチームは、その都度時計回りに一つずつポジションが移動する。ってことは、相手チーム始まりの試合の場合、最初にバックライトの位置だとサーブの順番は一番最後に回ってくるということで……サーブ苦手だって言ってたもんね。あたしは遠藤さんに小さく笑いかけ、指示されたフロントライトへと足を向けた。 位置につき顔を上げると、すぐ目の前――敵意剥き出しでこちらを睨みつけるミホとネット越しに視線がぶつかった。先程の屈辱を思い出し、あたしも負けじと睨み返す。 審判役のCチームの一人が試合開始の合図を出すと、ボムッ……Aチームサーバーがアンダーハンドで打ったボールが大きく弧を描くようにこちら側に飛んできた。 お、受けやすそうなボール! 頑張れ後衛!――ボンッ、ボン、ボン……コロコロ…… へ? しーーん……。「ちょ、ちょー今井さん! なんボーッと見とるん!?」 小柄女子――平野さんが声を張り上げる。「はぁッ、うち? 今のんは大谷さん寄りじゃったじゃろ」「えぇっ、う、うちっ……?」「どっち寄りとかじゃのーてっ、もっと積極的に動いてくれにゃあおえまーが、二人とも!」――プッ、クスクスクス…… 失笑の中、再び繰り出される敵方サーブ。大谷さんがつんのめりながらも片手で辛うじて受けたボールは変な角度でこっちに飛んできて、あたしも構える余裕なく咄嗟に片手で打ち上げる。 は、しまったっ…… トスが決まらず、ふわりとネットを越えてしまったボールに敵前衛がすかさずジャンプする。山本さんが慌てて手を伸ばすも間に合わず、ボールはあっけなくこちらコートへと打ち込まれてしまった。「ちゃんとブロックしてぇな、山本さんっ」「あぁ~ごめん。でもうち、背ぇ高ぇいうても別にジャンプ力あるわけでもねぇし……」――ププッ、クスクスクス……「あ~もっ……後ろ、大谷さんも! すぐフォロー!」「ご、ごめん……」 平野さんの剣幕に大谷さんは益々委縮する。 そんなにきつく言わなくても……たかが授業の一環の練習試合に、なにピリピリしてるんだか。「大谷さんごめんね。せっかくのレシーブ、あたしが上手くトスできなかったから……」「え……」 きょとんとあたしを見返す大谷さん――の横で、平野さんがフンッと鼻を鳴らす。「ほんまじゃ、あんたがちゃんと回してくれんけぇ」 ……ムカ。 ネットの向こうでは、ミホがクックッと肩を揺らし笑っている。 むぅ~~っ、たかが――なんて言ってる場合じゃない! 見てなさいよ、次こそはっ! photo by little5am
2017.04.22
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3時間目の体育はB組女子と合同でバレーボールをやるらしい。 ということで、あたしは遠藤さんと肩を並べ体育館へと向かっていた。廊下から見る空は、分厚い雲に覆われながらも今のところなんとか降らずにもっている。「……委員長の念力、効いてるな」「え?」 体操着袋を胸に抱えた遠藤さんが、きょとんとあたしを見つめ返す。「や、なんでも、はは。――にしてもバレーボールかぁ。あれってさー、次の日すっごく手首痛くならない? あ~ぁ、先週だったら見学できてたのに。ちぇっ」「ふふ……うちもほんま苦手。ボールこっち飛んでったらどうしょー思うもん。サーブもよう入れんし……。でも、風邪すっかりようなってえかったね」 以前とは明らかに違う柔らかい表情を見せる遠藤さん。そんな彼女の変化を嬉しく思いながら、「うん、ありがと」あたしもにこりと微笑み返す。 そのうち女子更衣室に辿り着き――漏れ聞こえる甲高い笑い声に一瞬怯みつつ、気持ちを奮い立たせドアノブに手を掛ける。途端、静まり返る室内、そしていつもに増して突き刺さる冷ややかな視線――ま、2クラス分の女子がいるんだし、そりゃそうだよね……って、納得する自分もどうかと思うけど。でも、こういうのにはもう負けないんだ。「遠藤さん、奥行こっ」「う、うん……」 緊張した面持ちの遠藤さんに明るく声を掛け、先を促す。と、「嫌われもん同士で仲のええこと……」 どこからかぼそりと嫌味な声が――それに合わせ、室内にクスクスと嘲笑の波が広がる。 なんとか眉をひそめる程度に感情を抑え、着替えをする女子の合間を縫って進んでいると、短いスカートから肌も露わに伸びた脚が不意にあたしたちの行く手を遮った。 ハッとその脚の主に目を向ける。ミホだった。その横には、こちらに目もくれず淡々と着替えを続けるカズエの姿もある。「ちょっと、なんなの」 ミホはこちらに向き直ると、手を腰に居丈高に言い放った。「奥ぁ空いとらんけぇ。そうじゃ、いっそんこと廊下で着替えりゃえんじゃねん? ふふ、あんたにたぶらかされとる男子らぁも鼻の下伸ばして喜びょーるわ」「た、たぶらかすって――」「あ、おえん。今日は男子、武道場で柔道じゃ言よーたっけ。あ~ぁ、せっかくじゃのに残念ななぁ」――クスクス…… あまりに呆れた物言いに二の句が継げずにいると、「紗波、こっち」奥の方から声が上がった。視線を移すと、女子の間に険しい顔つきでこちらを手招く結実の姿が見え―― 結実が助け船を出したことに意表を突かれたのか隙を見せるミホの横をするりと抜け、遠藤さんの手を引き奥へと進む。「ここ使い、紗波」「ありがと、結実……」「空いとるん、ひとつだけじゃけど」 気遣うような表情を見せていた結実がチラリと冷たく遠藤さんを一瞥する。「? あぁ、うん大丈夫、一緒に使うから――で、いいよね? 遠藤さん」「……うん」 遠藤さんはか細い声で答える。と、「結実、あんたいつからそっち側なったん」 女子の間を抜け、ミホが苛立った様子でこっちに近づいてきた。一呼吸置き、結実がキッと顔を上げる。「そっち側もなんも――あんた、ようもそねんやっちもねぇことばー言えるわな。男子の前だけ可愛コぶってから、この二重人格」「なっ……!」「あんたらもじゃ。みんなして陰でヒソヒソ、みっともねぇー思わんの?」 いきり立つミホの横で、女子数人がバツが悪そうに目を伏せる。「結実、あんたも最初一緒んなって言よーたがぁ!? うちらにエラそう言えるん!?」「そりゃ……、まだ、この子んことよう知らんかったけぇ……」 怯む結実に、ミホは容赦のない口調で言い返す。「で? 自分は他とはちゃうって? ふっ、なん急にええ子ぶって。そーゆーのん偽善者っちゅーんじゃ」「ハァッ?」「そーやって油断しょーたら、あんたの亘もどーなるかわからんでなぁ。この子と仲ええみてぇじゃし? ふっ」「なっ……なんよんなら、あんたっ」「ちょっと、どういう――」 さすがに聞き捨てならない言葉にあたしも思わず口を開きかける。と、不意に、「高槻さん、そんなんちゃうけぇ……!」 感情を爆発させたような声が、鋭く室内に響き渡った。「え、遠藤さん……?」――え、今の声……さやえんどう? 微かなざわめきに包まれる更衣室――一斉に向けられた視線にたじろぎつつ、遠藤さんは必死に続ける。「たっ……高槻さんは、転校してきたばーで大変じゃのに――じゃのに、うちのこといっつも気に掛けてくれとって――、そこにおらんみてぇに、空気みてぇに思われとったうちのことを、いっつも――、そ、そねーなこと今までねかった……」 遠藤さんは伏せていた顔をグイッと上げると、顔を真っ赤にして一気に言い放った。「う、うちゃーどねん言われようが構わんっ、じゃけど高槻さんのこたぁ悪ぅ言わんといて……!」「遠藤さ……」 マラソン大会では、カズエに対し少し感情的になる彼女を見たけど……でも、こんなに大勢の前で―― 驚きとともに胸に熱いものが込み上げる。みんなもそんな彼女を見るのは初めてなのか、面食らったようにぽかんとしている。「ふ、ふんっ。なんなら! えれー強気んなって――」 ミホが体面を保とうと慌てて口を開いたその時、――こらぁーっ、とーにチャイム鳴っとろーがっ! いつまで着替えとるんじゃあ! 扉の外から体育教師の怒鳴り声が聞こえてきた。「マジっ?」「おえんっ、赤松キレとるっ」 ロッカーの扉を勢いよく閉め、皆バタバタと慌ただしく更衣室を飛び出していく。ミホも露骨にフンッと顔を反らし、あたしたちの前を去っていった。「結実――」 体操服に首を通しながら、横に立つ結実に声を掛ける。「さっきはほんとにありがとう……でも――」 嫌われているあたしのことをあんな風に庇って、結実は大丈夫なんだろうか――それが気掛かりだった。何を言おうとしているのかを察したらしい結実は、あたしの肩にぽんと手を乗せると、「まさか、うちにあれを放っとけって? そんなん女が廃るじゃろ。うちが我慢できんわ」 ニカッと歯を見せて笑った。「結実……」「なぁ結実、うちらもはよ行こっ」 なにやら見覚えのある子が結実を急かす。確か――そう、女子トイレで結実のことを弁護していたあの子だ。「じゃ、先行っとくけぇ。紗波も急いでな」 その子の他に二人、友人らしき女子生徒とともに結実は更衣室を出ていく。あたしは少しホッとしながらそれを見送ると遠藤さんに向き直り、スカートのホックに手を掛けている彼女にガバッと抱きついた。「遠藤さんもありがとっ」「わっ……た、高槻さ……」 あの遠藤さんが……みんなの前で、あんなに必死にあたしのことを―― 再び熱いものが込み上げ、あたしは慌てて瞼を瞬かせる。身体を離すと、ずり落ちた眼鏡もそのままに、顔を真っ赤にしてあたしを見つめ返す遠藤さんがいた。「ごめんごめん、つい嬉しくて……」 黒縁眼鏡をそっと指で直し、ふふっと照れ笑いで返す。「っと着替え、急がなきゃ!」「う、うんっ。あ、高槻さん体操服、前後ろ逆……」「え、ウソ! 時間ないのにっ」「……ぷっ」「もーやだぁ、……ぷふっ」 大笑いしそうになるのを堪えながら急いで着替えを済ませ、あたしたちは更衣室を飛び出した。 photo by little5am
2017.04.15
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ちくわのハチマキに黒ゴマの目、トースターで焼いたマカロニを口元に挿し込んで――ハイ、くるんと足を巻いたお茶目なタコさんウインナーのできあがり、と。それをサニーレタスのベッドにのせて――「可愛いっ。紗波ちゃん、ほんと上手~!」 こういう定番おかずも入れとかないとね。「お友達のお母さん、早く病気が治るといいわねぇ。確かにコンビニばかりじゃ味気ないもんね。でもその女の子も、紗波ちゃんみたいにお料理が上手だったら自分でぱぱっと作れちゃうのに……」「ハハ……」 お弁当を作ってあげてる相手は料理が苦手な女友達なんかじゃなくて、ほんとは委員長なんだけど――若干後ろめたく思いながら取り敢えず笑ってごまかす。 だって委員長にああ豪語した手前、作っていかないワケにはいかないし? で、変に思われない言い訳考えてたら、なんかそういうことに……「紗波ちゃん、ほんとは男の子に作ってあげてるんだったりして。きゃっ」 ぎくり。「そ、そんな、違いますよ」 いや、違わないけど……っていうか! あたしはただ、委員長をぎゃふんと言わせたいだけであって、決してそういう意味合いのものではっ……「ふふっ。でも、昨日いろいろ買い込んでると思ったらこういうことだったのねぇ。っと、紗波ちゃん、私もタコさんウインナー作ってみたんだけど……くすん、焦げちゃった」「っ……!?」 まるで、不時着炎上したUFOから回収された宇宙人……。「ま、まぁでも、これはこれで香ばしそうっていうか、ハハ……。ところであのー、なんか大きめの包むものありましたっけ?」「えーと……、ちょっと待ってね。見てくる」「はい、すみません」 と、その隙にこの丸焦げ宇宙人二体はパパのお弁当箱に……ぐいぐいっ、と。「はい、コレ。わー、紗波ちゃんのお陰でかつてない豪華なお弁当に! お友達も圭一郎さんもびっくりするでしょうねっ」「ですかね~。ハハ……」 ふ~、お弁当作るのってこんなに大変だったっけ? でも、これできっと疑いも晴れるはず! ふんっと鼻息荒くお弁当包みを締め上げる。 見てなさいよ、委員長ぉ~~! 今にも雨が降り出しそうな、どんよりと曇った灰色の空―― せっかく作ったお弁当、無駄になっちゃうかも……怪しげな空を気に掛けつつ、学校へと続く坂道を自転車を押しながら上がる。 そうだ、もう梅雨入っちゃったし……雨で屋上に行けない日も多くなるよね――そう思うとなんだか寂しい気もする。どうやら屋上ランチは、穏やかとは言い難い学校生活を送っているあたしにとって、いつの間にやら唯一ホッとできる癒しの時間となってしまったらしい。そんなことに改めて気付かされながら自転車置き場に自転車を停め、荷物を手に高等部校舎へと向かう。と、「あのっ……た、高槻さんっ」 玄関口で不意に誰かに呼び止められ、あたしは訝しく後ろを振り返った。 あ。たまに廊下で見かける、確か隣のクラスの――あたしに何の用? が、相手の男子は声を掛けておきながら目も合わせずに、なにやらもじもじと言いあぐねている。「? なに?」 はっ。スカートがめくれてるとかっ? 慌てて後ろをチェックしていると、ようやく男子が口を開いた。「か、風邪……ようなったんじゃな。マスク外れとる……」「へ? あ、風邪――、はぁ、お陰さまで……」 別にこの男子に何をしてもらったワケでもないけど、心配してくれてたみたいなので取り敢えず頭を下げておく。「――――」「? えぇ、っと……、じゃぁ……」 首を傾げつつ踵を返そうとするあたしを、「ちょ、ちょー待ってっ……」 またも男子は慌てて呼び止める。 なんなの?? 登校してきた生徒の視線が痛いんですけどっ。「あの、あたしに何か……」 眉を寄せるあたしに、男子は大きく息を吸い込み……「きょっ、今日のほーか――」「うぃっす、高槻っ!」 と、いきなり目の前に委員長の顔が――「なっ……び、びっくりするじゃん、もぅっ」「こねんとこでなんしょーる。おめぇ、今朝来たらソッコー職員室来るよう、村田に言われとったじゃろーが」「え? そうだったっけ?」 はて。全く覚えがないんだが。「ほうじゃ、なん忘れとる。ほれ行くぞっ」「ちょっ……、あ、ごめんねっ。そういうことなんで、あたしちょっと――」「あっ、高槻さ――」 委員長に腕を引っ張られ、慌ただしくその場を離れる。「急いだ急いだ」「ま、待って靴がっ……」 何をそんなに――ってか、みんな見てるっていうのにっ。「ちょ、待ってってば!」 2階まで無理やり階段を上らされたところで息が切れ、あたしは堪らず腕を振り払った。「はぁ、はぁ……、ね、ちょっと、ほんと記憶にないんだけど、あたし――」「あ、そうじゃ。すぐ来るよう言われとったんは俺じゃった」 委員長がとぼけた声でポンと手を打つ。「は、はぁ~っ!?」 息も乱さずしれっと言い放つ委員長に、あたしは呆れた声を上げた。 な、なんなの一体っ? しかも、こんな無駄に目立つことしてっ。「まぁまぁ、ちぃと勘違いしただけじゃ。――おっ? せーって、ひょっとして……」 と、委員長が見下ろしているのは、あたしが手にしている二人分のお弁当が入ったナイロン製のトートバッグ。「あ、コ、コレは――」 きょろきょろ辺りを見回し、小声で返す。〈そうよ、作ってきたわよっ。疑いを晴らすためにねっ〉〈マジか!? ……っしゃ!〉 なに、そのガッツポーズ……。料理の腕、疑ってるんじゃなかったっけっ?「ま、お昼まで天気がもったらの話だけど」「ふむ。んじゃ俺の念力で。ふぬぅ~……」 と、今度はにんにんポーズで念力を飛ばす委員長。「よし。これで大丈夫じゃろ」「……効くのソレ」「フッ。ほいじゃ俺ぁ、こっちじゃけぇ」 職員室の方を親指で指し、委員長は軽やかに踵を返す。〈あー、やっとまともな昼メシにありつける。楽しみじゃのぉ……〉 は? 今なんて?「ちょ、ちょっとっ……」 え、もしや最初からそういう――じゃあなにあたし、委員長にまんまと乗せられたってワケっ? 5時半起きで気合い入れてお弁当作ったあたしって……。な、なんなのもう、信じらんないっ! でも、さっきの――、一体なに言おうとしてたんだろう? 中途半端なまま残してきた男子生徒の顔をふと思い浮かべ、首を傾げる。「ま、いっか。……にしても委員長め」 お弁当の入ったトートバッグを一睨みし、あたしはブツブツぼやきながら教室へと向かった。 photo by little5am
2017.04.08
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翌朝―― レースカーテンから漏れる日射しの眩しさに目が覚めたあたしは、「うっ……」 部屋に充満する鼻を突く匂いに、ベッドから飛び降りるようにして窓際へと駆け寄った。 格子窓と網戸を急いで開け、「ぷっは!」顔を出して大きく息をつく。 そうだ、昨日―― サイドテーブルに置かれたトレイに目を向ける。 長谷部のおばあちゃんが届けてくれたタマネギ――教えてもらった通り、半分に切って横に置いて寝てみたけど……くんくんっ……うぅ、自分がタマネギ臭い……。でも、アレ? あんなにしつこかった咳が……止まってる? そういえば、夜中に咳き込むようなこともなく…… 久し振りにぐっすり熟睡できたからか身体がすごく軽い。市販の咳止めもあんまり効果なかったのに、侮りがたし民間療法! あたしは咳から解放された嬉しさに、射し込む日射しの中大きく伸びをした。「うっ、くさ……」 咳が治まったのはいいとして、この部屋の匂いなんとかしないと――他の格子窓も急いで開けていく。と、不意に、「紗波ちゃーんっ、おはよーっ」 外から大きく声を掛けられ―― 窓の下を覗くと、こんな朝早くからどこへ行くのか、鞄を肩に掛けた彩香さんが元気いっぱいあたしに手を振り立っていた。「あ、おはようございますぅ……」 乱れた髪を手櫛で整えながら、へらりと返す。「よく眠れた? 熟睡してるみたいだったから起こさなかったの。朝ご飯、一応用意したんだけど、すっかり冷めちゃって……、食べるの無理しないでね」「へ……」 そういえば、いつもより随分と日が高いような? トレイの後ろの目覚まし時計に目を遣ると――「えッ、10時回ってるし……!」 12時間も寝てしまった……。土曜とはいえ、どんだけ熟睡。「えぇっ、と……どこかにお出かけですか?」「うんっ。ほら昨日、車の話してたでしょ?」 あぁ……と、昨夜夕食時の会話をぼんやり思い返す。 えーと、何だっけ。教習所の講習が終わったことを知ったパパが、車はどんなのがいい? って彩香さんに訊いてて……、じゃあ彩香さん、教習所帰りにいつも目にしてた中古車センターの車がいいって――黄色の軽自動車だっけ? その車に一目惚れしたとかなんとか……でも、新車じゃないからってパパ、反対してたよね? と、遅れてパパが庭にやってきた。「なんだ、ここにいたの。――あ、おはよう紗波! よく寝てたなぁ。風邪もいい加減抜けたんじゃないか?」「おはようパパ。うん、もうすっかり」「そうかー、よかった」 ホッとしたように表情を緩めるパパ。「――昨日言ってた車、見に行くの?」「ああ、取り敢えず見るだけ見てみようかってことになってさ。ふぅ」 肩を竦め溜息交じりに答えるパパに、彩香さんは軽く口を尖らせる。「だって、もったいないもの新車なんて。慣れないうちは絶対どこか擦っちゃうに決まってるし……。それにね、前を通るたびあの黄色の軽ちゃん、『僕のこと買って~』って、寂しそうにこっちを見つめてくるんだもの」「僕――、男っ!? あ、いや、コホン……。でもひょっとしたら、とんでもない事故車かもしれないよ? 少しでも怪しかったら諦めてもらうからね。わかった?」「はぁ~い!」 手を腰に当て、諭すような口調で言うパパに、彩香さんは元気よく挙手で応える。 なんか……先生と生徒? 彩香さん、髪を切ったから余計に仕草が――下手したらあたしの方が年上に見えそうな……。「――ということで、ちょっと行ってくるよ紗波。お昼過ぎには帰れるんじゃないかな」「急がなくていいよ。ゆっくりしてきて……」「何か美味しいもの買ってくるね、紗波ちゃん!」「いってらっしゃい、気をつけて――」 小さく手を振り返し、窓枠にもたれるようにして二人を見送る。 昨日に引き続き、梅雨とは思えない真っ青な空の下、手入れの行き届いた庭で咲き乱れる初夏の花々――冴えた青色が美しいデルフィニウムに淡い紫色のカンパニュラ、カラフルに咲き誇るルピナスの周りにはマーガレットやポピーが可愛らしく風に揺れている。 唯一梅雨を感じさせるのは、庭の外れにこんもりと繁る、青く色付き始めた大きな紫陽花――その陰に、仲睦まじく微笑み合う二人の姿が消える。――『ねぇ、知ってる圭ちゃん。スターチスの花言葉……』―― ママ―― パパってもう、ママのこと忘れちゃったのかな…… 二人のいなくなった庭から、木々の向こうに広がる青く輝く海へと視線を移す。 この世のあらゆるものは、全て移ろいゆく。人の心も何もかも…… でも、あたしは、あたしだけは――「ずっと変わらないからね、ママ……」 photo by little5am
2017.04.01
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「紗波ちゃんお帰り! 出かけてたのね」「わっ……ケホッ、コホコホッ」 夕闇の迫る中帰宅したあたしは、出迎えた彩香さんの突然の変わりように思わず咳き込んだ。「だ、大丈夫? 紗波ちゃんっ」「ちょっとびっくりして……ケホッ、どうしたんですか、随分とまた思い切りましたね」 腰近くまであった栗色の長い髪はバッサリと顎の辺りで切られ、細く白い首筋が露わになっている。「あ、コレね、急に思い立って――、ちょっと切りすぎちゃったかも。あは」「や……すごく似合ってますよ」「わ、ホント? よかったー」 すっきりした首元を撫でながら、彩香さんは気恥ずかしそうに微笑む。 ふんわりと動きのあるショートボブ――実年齢よりぐっと幼くなった感は否めないけど、意外に明るく快活な彼女の内面とマッチしたのか、その髪型は実際、彩香さんにとてもよく似合っているように思えた。「これからは動きやすい髪形でアクティブにいこうかなって。今日ね、教習所の講習やっと終わったの」「え、そうなんですかっ? ケホッ……おめでとうございます」「ふふ、ありがと。実は他の人より時間掛かっちゃったんだけど……圭一郎さんには内緒ねっ。っと、夕食の準備まだ途中だった。用意できるまでちょっと待っててね」「あ、あたしも手伝います。コホンッ」「でも、まだ咳が出てるし休んでた方が……」「外、ウロウロするくらいもう元気なんで。マスクして手伝います」「ほんとに大丈夫? ん~じゃあ、ちょっとお願いしちゃおうかなぁ。えっと今日はね、鶏もも肉を買ってきたんだけど――」 彩香さんと二人、並んでキッチンに向かいながらふと思いつく。 そうだ、あたしも昨日レシピノート書き終えて……あれ、今日渡そう。ちょっとしたお祝いになるかも…… 彩香さんと一緒に夕食を作り終えたあたしは、パパが帰る前に――と部屋に行き、ここ数日コツコツと書き溜めてきた一冊のレシピノートを手に居間へと引き返した。「あの……」 ポテトサラダを取り分けている彩香さんに、ノートを後ろ手に小さく声を掛ける。「ん? なに、紗波ちゃん」 やっぱり押しつけがましいかな……お祝いどころか、彩香さん気分悪くするかも――「? どうしたの?」 首を傾げる彩香さんに、「あの、コレ――、参考になればと思って……コホッ」 あたしは一瞬躊躇った後、おずおずとレシピノートを差し出した。「ん、なぁに? ……わっ、すごい!」 手にしたノートをめくり、彩香さんが声を上げる。「えっ、紗波ちゃんが全部書いたのっ? こんなにたくさん――! わぁ、絵の説明が付いててほんとわかりやす~い! これ、私にっ?」「えと、余計なお世話かなとも思ったんですけど……あの、あたしの作る料理って、殆どママのレシピノートからの受け売りで――だから、ママの味なんです。コホッ。彩香さんからしたら、あまりいい気はしな――」 言い終わらないうちに彩香さんに抱きつかれ、あたしは目を丸くして固まった。「ありがと、紗波ちゃんっ。これだけ書くの大変だったでしょ? 大事に使わせてもらうね! わー、紗波ちゃんからすごいお祝いもらっちゃった。嬉し~っ」「……コホッ」 美容院の、シャンプーの匂い…… 頬に当たる毛先と彩香さんの柔らかな感触に、なんだか胸の中までモソモソこそばゆくなる。「あの、強制じゃないんでほんと、参考程度に――」 彩香さんはあたしから身体を離すと、にこりと柔らかく微笑んだ。「私も……七海さんから教わりたいもの」 彩香さん…… と、――ブーーッ…… 玄関のブザーが大きく鳴り響き――「わっ、圭一郎さんっ?」 びくっと小さく飛び上がり、彩香さんはあたふた玄関へと向かう。もう夕食の用意はできてるんだから何も慌てることはないはずだけど、しきりに髪に手をやっているところを見ると、そういうことではないらしい。「お、お帰りなさいっ……」「ただい――わっ、髪切ったのっ?」「う、うん。ちょっと短すぎた、かな?」 暫しぼうっと見とれていたパパはハッと我に返り、もごもごと返す。「や……、似合ってる、すっごく……うん」「ほんとっ? はぁ~、よかったぁ。こういうの好みじゃなかったらどうしようって……」「や、長いのも勿論よかったんだけど――、その髪型、なんていうかその……君らしくてすごくいいよ」 土間の灯りに照らされた、未だ馴染むことのできないその表情と優しい声色に、あたしの心はまたもモヤモヤと乱され――そんな自分につくづく嫌気が差しながら、彩香さんの後ろからぼそりと声を掛ける。「お帰りパパ……。ケホ」「あっ……うん、ただいま!」 ……あたしがいることに今気付いたでしょ。「風邪どう? 学校きつくなかった?」「大丈夫だよ。全然……」「な、なんか全然大丈夫なようには……」「コレしてるから、そう見えるだけだよ。コホンッ」 あたしはくいっと鼻までマスクを引き上げた。 マスクって便利。表情気にしなくていいし。「ふぅ、紗波はまだご機嫌ナナメか……」 心の内を見透かしたような口振りに、どきっとパパを見返す。パパは靴を脱いでスリッパに履き替えると、ぽんぽんと労わるようにあたしの頭を軽く叩いた。「体調が戻りきってない証拠だな。咳も出てるし――まだまだ無理は禁物だぞ、紗波」「…………」 ……わかってるようで、わかってない。やっぱりパパは鈍感だ。「あっ、圭一郎さん今日はね、チキンカレー作ったのっ」 沈黙をどう捉えたのか、彩香さんが明るい声で割って入る。「紗波ちゃんに手伝わせちゃって申し訳なかったんだけど、お陰ですっごく美味しくできたの! ね、早くみんなで頂きましょ?」「あー、なんかいい匂いがしてると思った。急いで着替えてくるよ。――ん? なに大事そうにノート抱えてるの?」「あ、これは……ふふ、後でね」「?」「紗波ちゃん、もうスープ冷めちゃってるかな」「温め直した方がいいですね。コホッ」 きょとんとしているパパを残し、彩香さんとキッチンに引き返す。 あのノート、ちょっと今はパパに見られたくないかも…… まるで反抗期が遅れてやってきたみたいに尖る気持ち――そんな自分を持て余しながら、あたしはコンソメスープの入った鍋を火にかけた。 photo by little5am
2017.03.25
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学校に置いたままにしていた自転車での帰宅途中、彩香さんから帰りが遅くなると携帯で連絡を受けたあたしは、帰宅後、部屋で課題をこなしながら頃合いを見計らい、再び自転車で家を飛び出した。 くねくねと坂を下り、海の煌めきを右頬に受けながら海岸道路沿いのサイクリングロードを東に進む。そのうち赤いポストが目に入り――あたしは一旦足を地面に下ろし、深く息をついてから再びペダルを踏み込んだ。いつものように小屋の陰に自転車を停め、潮騒の聴こえる草深い小道を進む。――紗波…… 一瞬、笑顔で振り返る波琉が頭に浮かび、「……いないってば。ケホ……」 あたしはそう自分に言い聞かせ、少し緊張しながら浜に足を踏み出した。 赤みを帯びた黄金色の夕日が辺り一面をオレンジ色に染め上げ、薄くたなびく雲を、静かに打ち寄せる波を、金色に煌めかせている。 数日振りに来た浜は、想像した以上の美しさであたしを出迎えた。でも、やはりそこに波琉の姿はなく―― 波琉と座った岩の上に力なく腰を下ろし、オレンジ色の世界に身を浸す。 あたしは夕日に赤く染まる手を金色の空にかざし、それより一回り大きい、すらりと繊細な波琉の美しい手を思い浮かべた。 ピアノが似合いそう――思わずそう言ってしまった時の、あの波琉の顔……「ふふっ……」――ザザー……ザー…… 小さな思い出し笑いは、すぐさま潮騒にのみ込まれていく。「…………」 ここには音が溢れていると波琉は言っていた。 波の音、風の音、光の音―― 波琉にはどんな風に聴こえていたの? 少しでも波琉を近くに感じたくて一心に耳を澄ます。でも、そんなあたしに聴こえるのは、地球が寝息を立ててるみたいな、ひたすら穏やかに反復される波の音だけ……――君を見てると……音の雫が零れ落ちてくるみたいに、胸の奥が音で溢れていっぱいになるんだ…… 瞳を揺らしながら、波琉はあたしにそう言って―― でも、もう、波琉は来ない。 波琉とはもう、会えないんだ…… どれだけ波音を聴き続けても、どんなに海が美しく輝いても―― 思えば波琉とは数える程しか会っていないというのに、その喪失感は想像していた以上に大きく――そんな自分に戸惑いながらも、あたしはつい、頭の中で悪あがきを繰り返してしまう。 そうだ。日本を発つとはっきり聞いたわけじゃない。まだここにいるのなら、気が変わってまたこの浜に来ることも…… 波琉が消えた岩陰にちらりと目を向ける。――さよなら……紗波……「…………」 期待したら余計に辛くなる? でも、あんな別れ方――――ザザー……ザー……ザザー…… いつもはあたしを癒してくれる波音も、今はただ、切なく胸に響くだけだった。 photo by little5am
2017.03.18
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遠藤さんと思わぬ闖入者を迎え、取り敢えず休み時間がなくなるということで四人輪になり昼食をとる。「この学校にこんな見晴らしのいい場所があったんですね~」 ニコニコ辺りを見回しながら、まるで重箱のような豪華なお弁当を突《つつ》く桜太に、「遠藤はともかく、なんでおめぇまで……」 委員長は不満たらたらイチゴ牛乳をズビズビと吸い上げる。「まぁまぁ、大勢で食べた方が楽しくて美味しいじゃない? ねっ、遠藤さん。ケホッ」「え、あ……う、うん……」 委員長との屋上ランチ――の経緯を知ってもなお、気兼ねしているのか遠藤さんの様子はどこか落ち着かない。「っつか、桜太。ここ上がってくるとこ誰にも見られんかったじゃろーな」「あっ、はい! 僕、紗波先輩探してて……で、あの細い廊下に入っていく先輩を見掛けたもんですから後を追って――、大丈夫です! 周りには誰もいませんでしたっ。それにしてもあの鏡、超不気味ですよね~。ほんと腰抜かしちゃいましたよ、僕」「ぶっ。そういや今朝、こっち来るって言ってたもんね、桜太。何度もごめんね。これだって、こんなにキレイにアイロンかけてくれて――コホコホッ」 顔を反らし咳をするあたしに、桜太が心配げに声を掛ける。「大丈夫ですか、紗波先輩……あっ、そだ、滋養強壮効果た~っぷりの僕のこの烏骨鶏の玉子焼き、食べますぅ?」「なっ、烏骨鶏の玉子焼きっ? ケホッ」 一個五百円とも言われているあの超高級烏骨鶏の卵を、玉子焼き――それも、学生の弁当如きに入れるとは……! 桜太ももしや、隠れセレブ……「なんじゃ、その贅沢な弁当はっ。っつか、なんで毎回毎回弁当持ちまわっとんじゃ、おめぇ」「お昼はお気に入りの場所でって決めてるんです、僕。今日もそこに行くつもりで――」「え、どこどこ? コホンッ」 興味深く身を乗り出す。「えっとですね~、校舎裏のぉ園芸部がひっそりヘチマ育ててる畑の裏の倉庫裏の――」 どんだけ裏……。「林の奥に沢でもあるんでしょうかね? どこからともなく涼やかなせせらぎが……」 しかも蚊が多そう……。「癒されますよ~、紗波先輩もどうです?」「ま、また今度ね。はは」「でも……誰かと食べるのって、やっぱりいいもんですね。なんかいつもより美味しい気がします。ふふ」 桜太…… 青空にのほほんと響くレゲエミュージック――視線を巡らせば、この平和で穏やかなひと時を共に分かち合う仲間がいて……「ほんと美味しい。ねっ」 あたしは遠藤さんにニカッと笑いかけた。「う、うん……」 遠慮がちに、でも僅かに口元をほころばせ遠藤さんが応える。と、委員長は飲み終えたイチゴ牛乳をビニール袋にポイッと放り込み、「はぁー、しゃーねぇのぅ……」 溜息交じりに口を開いた。「次上がってくるときゃー、くれぐれも他人に見つからんよーに。特に桜太! 1年が3階やこーうろちょろしょーたら目立つけぇ、その辺よーう気ぃつけぇよ」「えっ? 僕、またここに来てもいいんですかっ」「ま、鍵開けて出入りできるようにしたモンの特権で今は極秘裏に使わせてもろうとるけど、別に誰の場所っちゅーもんでもねーしの。っつーことで、のぅ? 遠藤」 不意に委員長に微笑みかけられ、遠藤さんはぽっと頬を染める。なかなか罪作りな悩殺スマイルだ。「しかしまぁ、小せぇくせに無駄に豪華な弁当食うとるの、桜太」「そういう先輩は、そんなガタイでパンだけですかぁ?」 岡山弁が苦手なはずの桜太だけど、一度委員長と一緒に帰って多少馴染んだのか意外にさらりと切り返す。「ケホッ、そういえば委員長ってさ、お医者さんの息子なのにお昼ごはん、いつもコンビニ――」 そこまで言って、あたしはハッと口を噤んだ。そうだ、委員長の――ほんとのお母さんじゃないんだ。いろいろ事情があるのかもしれないのに、あたしってば……「えっ、中沢先輩のお父さんって、お医者さんなんですかーっ」 桜太が驚きの声を上げる。「あぁ、まぁ」「へえぇ、すごいですねーっ! ――で、なんでいつもコンビニなんですか?」「ご、ごめん、委員長……」「いや――」 委員長はポリ……と頭を掻き、ぼそりと続けた。「親父……去年の暮れに再婚してのぅ」 少し驚いた顔で委員長を見つめる桜太と遠藤さん。「で、新しゅう母親と弟ができたっちゅーわけなんじゃけぇど――、こっからは高槻にも言うとらなんだが、実ぁ今一緒に住んどらんのんじゃ。その……弟、身体悪うて入院することになってしもうて――毎日付き添うんえれぇけぇ、母親、空いとる看護婦寮の部屋ちぃーとま仮住まいしとるんじゃ。親父は大学病院と掛け持ちでそこの医者もやっとるけぇ、多少融通利いての」「そう、なんだ……」 新しく家族になったばかりで微妙な時期なのに……委員長の家、そんな大変な状況だったんだ…… 流れる沈黙――レゲエの浮かれたリズムが、今度は場違いに響き渡る。「弟さん……長くなりそうなの? 入院……」「んー、ちぃと難しい病気じゃけぇのぅ」 あたしたちは益々言葉を失った。「すみません……。なんか僕、軽々しく……」 どこか悲しげな様子でうつむく桜太――そういえばこの間、身体が弱くて休学したクラスメイトのこと寂しそうに話してたもんね。なんか重なっちゃったのかも……「っちゅーことで、ま、コンビニいうても、親父と二人暮らしも長いけぇ慣れたもんじゃし? はは。や、なんじゃあ暗ぁなってしもうて、すまんすまん」 沈んだ空気を振り払うように、委員長は明るく口調を変える。「おっ、桜太、その串刺さっとるやつ、なんじゃ?」「へっ? あ、えと、チキンとパプリカのピンチョス、バジルソースがけ――ですが……」「ピ、ピンチョ……バジル?」「あっ、よかったらどうぞ?」「マジかっ? お、サンキュ。むぐむぐ……うっめ、なんじゃこりゃ! いっつもこねん小洒落たもん食うとるんか、桜太!」「母が料理が趣味なもんで、ハイ」 へぇ、そうなんだ。なんかちょっと親近感。「贅沢なこっちゃのぉ。――ん? 高槻の、なんじゃそれ、ハンバーグか?」 委員長がなにやら物色するような目つきで、今度はあたしのお弁当を覗き込む。「ハン……い、いや、これは……」 ハッシュドポテト――が焦げたやつですが、なにか……。「うまそうじゃな~」 え、なんか……あげないといけない流れ?「や、風邪うつるといけないし、ね? はは……。コホンッ」 と、暗に拒否るも、「ちと失礼」 委員長は全く意に介さず、空いたピックをハッシュドポテトにぶすりと突き刺す。「ぎゃっ、なに勝手にっ……」「まぁまぁ。もぐも……、返す」「ちょっ、かじったやつ戻さないでよーっ」「おめぇ、料理得意とか言うとらなんだか?」「い、いや、これは彩香さんが……、ケホッ」「玉子焼きやこー、よ~う焦がしとるしのぉ」「や、だからね、あたしが作ってるんじゃなくて……」「ふ~ん。なら、いっそんこと自分でうめぇの作りゃーええがぁ? ま、ほんまに料理ができるんじゃったら、じゃけど。フッ」 なっ……だってそんな、一生懸命作ってくれてる彩香さんに悪いじゃんっ。ってか、あたしが嘘ついてるとでも!? くぅ~、料理歴7年をナメてもらっちゃー困るっての!「いいわ、わかった。じゃあ、この次はあたしが作ったお弁当持ってくるから食べてみてよ。美味っしいんだから。ケホッ」 途端、ニヤリと笑みを浮かべる委員長。な、なんなの、感じ悪い~っ。「――中沢先輩と紗波先輩って、なんだかんだ言って仲いいですよねぇ。もぐもぐ」「はぁ~っ!? コホケホッ」 いやいやいや、今、売られたケンカ買ってるとこっていうかっ? 言うだけ言ってのんびりお箸を動かしている桜太から遠藤さんに視線を移すと、苦笑いのような微妙な笑顔を返され――「ほらもう、遠藤さんが誤解するでしょっ。変なこと言うなら追い出すからね、桜太っ。ケホッ」「え~、見たまま言っただけな――」「なにっ?」「い、いえ、なんでも……あっ、遠藤先輩、それ美味しそうですねっ」「えっ……」 急に桜太に話を振られ、遠藤さんが口におかずを入れかけたまま固まる。「ほんと美味しそ~、磯辺揚げ?」「あ、これ……うん。ちくわに海苔巻いて――中にチーズ入っとるん」 と、向かいから遠藤さんのお弁当を覗き込んでいた委員長は、「あと2つ入っとるのぉ。一個もーらいっ」 またもピックでそれを突き刺し、ポイッと口の中へ放り込んだ。「あ……」「もぐ――、うめっ! 桜太のも小洒落とってええけど、やっぱこーゆーんも外せんのぉ。遠藤が作ったんか?」「えっ、ああ、あの、こりゃあ母が……うちじゃのうて……あっ、でも、料理全く作れんとかそぉゆーワケじゃ……」 顔を赤くしてしどろもどろになる遠藤さんを見て、あたしはキッと委員長を睨みつける。「ちょっと、いきなり他人《ひと》のお弁当に手を出すのやめなさいよっ。もう、はしたないんだからっ。ケホケホッ」「はは、すまんすまん。つい、うまそうじゃったけぇ」「あ、べ、別にうちは……」 そこで再び桜太がのほほんと口を挟む。「遠藤先輩って、なんか可愛いですよねー」「えッ、かっ……う、うちが?」 目をぱちくりさせ、遠藤さんは真っ赤な顔で桜太を振り返る。「僕、岡山《こっち》の女の子ってなんだか怖くて苦手だったんですけど、遠藤先輩ならなんか大丈夫そうな気がします~。これからよろしくお願いしますねっ。ふふ」「はぁ……こ、こちらこそ……」 この二人、意外にいい組み合わせかも? あたしはクスッと口元を緩める。 このところ張り詰めた日々を過ごしていたあたしに、思わぬ平和な昼下り――ふと振り仰いだ空は、雨に塵が洗われどこまでも澄んで青く…… あたしは今日の夕映えの美しさを想像し、そして波琉を想った。 波琉――、今、何してる? 波琉は……笑えてる?「高槻? どねーした?」「あ、うん……、いいお天気だなぁと思って」「ほんと、梅雨の最中《さなか》とは思えませんよね~」「じゃな。――お。ボブ・マーリーじゃ」 レゲエミュージックが響き渡る澄み切った青空を、あたしたちは暫く無言で見上げたのだった。 photo by little5am
2017.03.11
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「今日の日替わりランチなんじゃろか」「ちぃとこっち、机くっつけて」「今日こそイチゴプリンゲットするんじゃけぇ!」 4時間目終了のチャイムとともに賑やかなざわめきに包まれる教室――あたしはゆっくりと教科書を片付け、お弁当の入った手提げ袋に手を伸ばした。「あれ、柊哉おらん」 少し離れたところで小野がきょろきょろと辺りを見回している。「なんじゃ、今日は一緒に食わんのんか? どけぇ行った、あいつぁ」 委員長、屋上行った? ――と、小野と目が合いそうになり慌てて視線を逸らす。 小野ぐらいには言ってもいいような気もするけど……でも、誰にも言うなって言われてるし…… もやもやと後ろめたい気持ちで席を立ちかけふと隣を見ると、ひとりゴソゴソ昼食の準備に取り掛かる遠藤さんが―― 遠藤さん、今日もひとり…… 彼女はいつからこんな風なんだろう。ひとりでお弁当食べたって、美味しくなんかないよね…… 屋上……誘っちゃおうか? でも――――ええか、こん場所ぁ一切他言無用じゃ。 よみがえる委員長の言葉。……むぅ~。 まぁ? 誘ったところで迷惑かもしれないし? そうだよ、余計なお世話かも……うん。 あたしは手提げ袋を手に足を踏み出した。 でも……ほんとに余計なお世話?――高槻さんがうちのこと気に掛けてくれとるんが……心強うて嬉しかったんよ…… マラソン大会の日、保健室で遠藤さんがそう言っていたのを思い出す。 いや―― 遠藤さんは、ずっとひとりで心細くて……「…………」 あたしは再び椅子に座り直し、束の間思案した。 彼女はもう、大切な友達だ。 その友達がこんな風に孤独な時間を過ごしているというのに、どうして見て見ぬ振りなどできようか――委員長だって、きっとわかってくれるはず! ひとり頷き、遠藤さんに明るく声を掛ける。「ね、遠藤さん。お昼一緒に食べない?」「え……」 お弁当包みを解く手を止め、遠藤さんはきょとんとあたしを見つめ返した。「いいとこあるんだ。コホンッ」「こ、ここ……ほんまに上がるん?」「うん。ほら、遠藤さん入って。ケホッ」 立ち入り禁止を告げるベニヤ板がぶら下がるチェーンを軽く持ち上げる。「で、でも、この上って……」「大丈夫だって。あ、ほら早くっ……誰か来ちゃう」 こちらの方へやってくる誰かの足音が聞こえた気がして、あたしは慌てて遠藤さんにチェーンをくぐらせた。落ち着かなげに辺りをきょろきょろ見回す彼女の手を引き、屋上へと階段を上っていく。と、上りきったところで、ヒッ……と小さな悲鳴を上げ、遠藤さんはひしっとあたしにしがみついてきた。「ほ、ほんまに鏡が……どうしょ、映ってしもうた……」 彼女もまた例に漏れず、あの妙ちくりんな噂を信じているらしい。「プッ。ジュリエットがどーのこーの? それって、み~んな作り話だから」「え……そ、そうなん? って高槻さん、なんで知っとるん?」「ふふ。コホンッ」「でも、鍵開いとらんのんじゃ……」「それがね、開いてるのよっ、と!」――キキィッ…… 錆びついた鉄の扉を勢いよく開ける。「わぁ……!」 青空の下広がる音ヶ瀬の街並みと瀬戸の海、そして爽やかに吹き付ける海風に、遠藤さんは今の今まで怖がっていたことも忘れたように感嘆の声を漏らした。「ほら、この開放感! いろんなことがどうでもよくなっちゃわない? ケホッ」「屋上、こねん見晴らしえかったんじゃ……」 風になびく三つ編みを押さえ、遠藤さんは眼下に広がる景色に見入っている。その頬はほんのり赤く、眼鏡の奥の瞳はキラキラと輝いて――誰憚ることなく生き生きとした表情を見せる遠藤さんに、あたしは軽く驚きを覚え、そして頬を緩めた。 思い切って声を掛けてみてよかった……「こっち――」にこりと笑みを浮かべ、遠藤さんの手を引っ張る。 ……問題は委員長なのよねぇ。でも、遠藤さんなら絶対、他の子にベラベラ話したりなんかしないと思うし――とはいえ約束を破ったことに変わりはないので、委員長の反応を気に掛けながら壁伝いに歩く。「いるかな、委員長……」「えっ?」 あたしは角からひょいと顔を出し、様子を窺った。「いたいた」「おっ、来たか高槻。お先」 コンビニのビニール袋を脇に置き、委員長は相変わらずジャムパンらしきものを頬張っている。「体調どねーな? よう咳しょーるけど」「あー、えっと……ちょっと待ってね。コホンッ」「あぁ? なんじゃ?」 へらりと笑顔を返し、後ろにいる遠藤さんに向き直る。あたしは親指を立て角の向こうを指し示した。〈ハハ、委員長。驚いた? ちょっとした成り行きでね、なんか一緒にお昼とるようになっちゃって――行こっ。ケホケホッ〉〈や、でも、あの……〉 手首を掴んで引っ張るも、なかなか来ようとしない遠藤さんに、あたしはハッと顔を上げる。〈な、なんか変な誤解してない? 違うからねっ。ほらぁこっち! コホッ〉〈で、でも、うち……〉 と、すぐそばで委員長の声が――「おめぇ、さっきからなんひとりでブツブツ言よーる――、あ」 校内放送のとぼけたレゲエミュージックが流れる中、三人の視線が気まずく交差する。「ア、アハ……えーと、遠藤さん。コホンッ」「見りゃーわかる」 あ、あれ、やっぱ怒ってる? でも遠藤さんだよ? 口堅いよ?「あああ、あのっ……う、うち、やっぱり教室に――」「え、ちょっ……」「ちょい待て。遠藤」 くるりと踵を返したところを委員長にむんずと腕を掴まれ、遠藤さんは「ひゃっ……」と変な声を上げる。「こいつがせーでええ言よんじゃし」「でっ、でも……」「ん、なに? ん?」 なにやら不可解なアイコンタクトを交わす二人を交互に見遣る。 と、――うぎゃーっっ…… 突然、悲鳴らしきものが辺りに響き渡り――「なんじゃ今の……結構近ぁねかったか?」「だ、誰か上がって来たとかっ?」 遠藤さんをその場に待たせ、委員長と二人そろそろと扉のある方へと回り込む。そして委員長がドアノブに手を掛けようとしたその時、――キィッ……! 不意に鉄の扉が開き、中から男子生徒が一人勢いよく転がり出てきた。「うおっ……、あ、おめぇ」「桜太っ?」「はーっ、はーっ……さ、紗波せんぱ~い……ぐすっ」 photo by little5am ※フルタイムの仕事を始めたので少し更新が遅れています…゛゜・゛゛(ノ>ー<)ノ
2017.03.04
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「あ、高槻さん……」 休み時間トイレに立ったあたしは、廊下で立ち話をしていた男子生徒に声を掛けられ足を止めた。「――なに?」 お互いを肘で突《つつ》き合い、なかなか用件を言わない男子三人組に怪訝な表情を向ける。やがてその中の一人が、思い切ったように口を開いた。「その……柊哉と付きおーとるいうて、ほんまなんかのぉ?」「へ? 委員長……」 一瞬きょとんとして、「え、あたしっ!? ケホケホッ……いやいや、付き合ってないしっ」 咳き込みながら慌てて否定する。「え? 付きおーとらんの?」「付き合ってないわよっ、一体誰がそんなデタラメ――」「なんじゃあ~」 男子たちは目を見合わせ、どこか気の抜けた声を漏らした。「柊哉訊いてもはっきりせんけぇ、てっきりほんまなんか思うて、のぅ?」 えぇっ? ちゃんと否定してよ委員長ーっ。「ごめん、あたしちょっとお手洗いに……」「あっ、すまんすまん。風邪お大事にぃ~」 ニコニコと見送られ、そそくさとその場を立ち去る。 委員長、なんでまたそんな誤解を招くようなことをっ……?? にしても、付き合ってるだなんて――教室では必要以上に話さないようにしてるし、成り行きでちょっと一緒にお昼食べてるだけなのに。でも、それすら誰も知らないことなのにそんな噂が立ってるのよね。これは益々バレるワケには…… 思わぬ波紋を広げているらしい、マラソン大会での出来事―― お昼休みを通してあたしたちが親しくなったことを知らないみんなからしたら、それも仕方のないことなのかもしれない。いっそ委員長、あたしのこと友達宣言してくれたらいいのに――って、逆にややこしくなるか…… と、女子トイレの入り口を曲がったところで、――ごつんっ。 中から出てきた女子生徒と、思いっきり頭同士をぶつけてしまった。「つ……」「……ッたぁ」 痛むおでこを押さえ、相手に視線を戻す。「あ……」「なん、またあんた――」 同じくおでこを押さえ険しい目であたしを睨みつけているのは、同じクラスの杉本ミホだった。 あー、ヤなのにぶつかっちゃった。――とはいえ、ぼーっとしてたあたしに落ち度があるので、「ごめん、大丈夫?」即座に詫びる。「大丈夫ちゃうわっ。いっつもどこ見とんなら、ったく」「ごめ……、コホコホッ」「ちょ、うつさんとってよ風邪! 授業中もコンコンケホケホ、マジ迷惑なんよ」「…………。コホッ……」 黙ってたら結構可愛い系なのに、言うことキツ……。「あんた、そーやって男子の気ぃ引こー思うとるんじゃろ。辛いけど頑張ってますぅ~みてぇな?」「は?」 思ってもないことを言われ、ぽかんとミホを見返す。「そーゆーんに男子てすーぐ騙されよるんよなぁ。ほんま計算高いっちゅーか。フッ」 ……ちょっと待て。黙って聞いてりゃ、なんなのこの子。「あのね、そんなくだらないこと考えてる暇なんてないからあたし。あぁ、よかったら風邪うつして差し上げますけど? そんなに羨ましく思うんならねっ。ケホケホッ」「は、はぁっ!? ちょーあんた、いっつも柊哉が助けてくれるからっちゅーて調子乗るんも大概にせられぇよ! 委員長じゃけ転校生気に掛けとるだけじゃのに、この勘違い女っ」「……いつも?」 少し引っ掛かってぼそりと返すと、ミホは一瞬ハッとしたような素振りを見せ、「どいて、そこ」 邪魔だと言わんばかり、あたしにぶつかるようにして去っていった。「な、なんなのアレ……ってか、勘違い女って。ケホケホッ……っつ」 思い出したように痛む額を、あたしは前髪がくしゃくしゃになるのも構わず荒々しく擦った。 photo by little5am
2017.02.25
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「おっ、来た来た。高槻、なんじゃ久し振りじゃのー」 突然頭上で明るい声が響き――ハッと振り仰ぐと、3階の通路から身を乗り出すようにニコニコとこちらを見下ろしていたのは小野だった。「あれ、おはよ? コホコホッ……なに、どしたの?」「結実から今日来とるいうて聞いたもんじゃけぇ」 ひょっとして……あたしが教室入りにくいと思って待っててくれてた?「咳、えらそうじゃのぉ。せっかく可愛ぇ顔拝める思うとったのにマスクで台無しじゃが」「また、そんなこと……ケホッ」 と呆れつつも、敢えて軽いノリで元気付けようとしてくれている小野なりの気遣いを感じ、マスクの下頬を緩める。階段を上りきると、小野はあたしの顔を覗き込みニカッと笑った。「どげぇなしょぼくれた顔で来るんじゃろ思うて心配しょーたけど、さすが高槻。だてに一匹狼気取っとらんのぅ」「誰が一匹狼よ。コホッ」「まぁまぁ。これからは群れで行動すりゃええっちゅうこっちゃ。ハハ」「群れ……」 ひとりじゃないと励ましているのか……前にも思ったけど、小野って軽そうに見えて結構なんていうか――委員長も、小野はわざと茶化した態度を取ってるだけだって言ってたもんね。結実が小野を好きな理由も、案外その辺りに……「小野……」「あぁ?」「……ありがとね」 あたしは少しマスクをずらし、にこりと微笑んだ。「…………、うッ、胸が――!」「えっ、ちょっとなに、大丈夫っ?」「ブッセツマカハンニャハラミタ……邪念退散~っ……!」 と、なにやら般若心経らしきものを唱え身悶えし始める小野。「な、なんなの……ケホッ」 小野、やっぱり変なヤツ……。「――っと、そうじゃあれ、黒田。よ~うガン飛ばしといたけぇ安心せぇ。澄ました顔しとったけど内心縮み上がっとるはずじゃ。もういらんことやこぉしてこんじゃろ。フフ」「あー……ありがと、はは……。コホン」 また変な誤解されてなきゃいいけど……。 得意げな笑みを向ける小野にへらりと返しつつ、教室に足を踏み入れる。途端、あからさまにトーンダウンする教室のざわめき――でも小野は意にも介さず、「小野亘、任務完了」 おちゃらけた態度でトランシーバーに向かって話す振りをする。「誰に報告……」「じゃあ後は遠藤に任せた。なんじゃ高槻に渡す言うて、休んどる間の分いろいろノート書きょーたぞ」「遠藤さんが? コホッ……」「は、しもうた。ちょっとしたサプライズじゃったのに、つい口が……。ま、今のは聞かんかったっちゅーことで」 おどけた笑みを浮かべ小野は背を向ける。 みんな、あたしのこと気に掛けてくれてるんだ……あたしはひとりじゃない―― 改めてそう思うと、ヒソヒソ交わされる囁き声も不思議と気にはならず――あたしはぐいっと顔を上げ、絡みつく視線を断ち切るようにスタスタと自分の席へと向かった。「遠藤さん、おはよっ。……コホッ」 ルーズリーフに黙々と文字を綴っていた遠藤さんがハッと顔を上げる。「高槻さん……」 黒縁眼鏡の奥、大きく見開かれた瞳が一瞬ふわりと柔らぎ、続いて気遣うような心配げなものに変わる。こうして意識して見ると、彼女の中でいろんな感情が揺れ動いているのがわかる。そう……遠藤さんはただ、感情を前面に出すのが苦手なだけなんだ。そんな遠藤さんを、これからはもっと理解してあげられたら……「思わぬ二日も休んじゃったよ。ケホッ」 肩を竦めてクスリと笑い、椅子に腰を下ろす。「咳が……まだ辛そうじゃね、大丈夫? 足じゃって、まだ痛いんじゃ……」「大丈夫大丈夫。まぁ、咳のしすぎで腹筋はちょっと痛いけど。はは……あ、うつさないよう、しっかりマスクしてるからね。足もね、普通に歩く分にはもう全然平気なの。コホッ」 それでもまだ心配そうな表情を浮かべている遠藤さんに明るく問い返す。「それって期末の試験勉強? 遠藤さんって、ほんと頑張り屋さんだよねー」「あ、えっと……」 遠藤さんは少し頬を染め、でもちょっと嬉しそうに自分の鞄をゴソゴソし始めた。「あの……高槻さんが休んどる間の授業、うちなりにまとめてみたんじゃけど――よかったらコレ……」 あ、小野が言ってた――って、え、これ全部っ? おずおずと差し出されたルーズリーフの束を目を丸くして受け取る。 これって、ノート一冊分くらいあるんじゃ……小野から聞いててもびっくりだ。「いいの、ほんとに? ……わ、すごっ。こんなに詳しく! コホコホッ」「うち、こんくらいしかできんで……高槻さんには迷惑掛けてしもうたけぇ……」 もじもじとうつむく遠藤さんがなんだか可愛くて、あたしはふっと目を細める。「なんにも迷惑なんか掛けられてないよ。嬉しい、ほんとにありがとっ。ケホッ……でも、これだけ書くの大変だったでしょ? なんかごめんね」「ううん、うちも復習んなったし……あ、今書きょーるんは現文で――、ちぃと待ってね。もう終わりそうなけぇ」「うんっ。ふふ」 隣の席の子と何気なく会話し、微笑み合う―― 前の学校で当たり前にしていたことが、今はこんなにも嬉しくて……――なんあれ、急に仲ええ思わん?――ってか、遠藤さん笑うん初めて見たかもしれん。マジびっくり…… あたしたちの間に漂うほのぼのムードを意外に思ったのか、近くの女子がこちらを見てはヒソヒソと囁き合っている。 そうかあたし、遠藤さんを笑顔にすることができてるんだ。そう気付かせてくれた棘のある囁き声にさえ、思わず感謝したくなる。 と、「ほれ朝学じゃ、待たせたのー」 委員長がプリントの束を持って教室に入ってきた。「そげぇなもん待っとらんて」「ふぁ~、ねみ~」 ツッコミとブーイングの中、委員長が列の人数を確認しながら最前列の生徒にプリントを配っていく。 あたしに気付き、おっ……と、軽く驚きの表情を浮かべる委員長。あたしは目立たぬよう胸元で小さく手を挙げる。委員長は僅かに目を細め、あたしもふふっと微笑み返す。 と、こちらをじっと見つめる遠藤さんと目が合い――「ん?」「や、えと……、現文できたけぇ……」「あっ、ありがと~。コホンッ」 笑顔でそれを受け取りつつ―― なんだろ遠藤さん、なんか物言いたげな…… でも、あまりに懇切丁寧に書かれた現文のルーズリーフに、ふと浮かんだ疑問は突き詰められることなく、そのまま頭の隅へと追いやられてしまったのだった。 photo by little5am
2017.02.14
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保健室から? な、なに? なんの呪文?〈じゃあ、もうちょっと難易度上げるわね。でーてーたでーこんてーてーてー。ハイ!〉〈で、でーてーたでーこんてーてーてー!〉 ???〈そうそう~。上手いじゃない、君〉〈あの~マユミ先生、これはどういった意味の……〉 あれ、なんか聞き覚えのある声――桜太?〈出しておいた大根を炊いておいてちょうだい。っていう意味よ〉 なんだ? 岡山弁の練習か?〈あの、それ……あんまり学生生活に関係なくないですか……。もうちょっとこう――〉〈じゃあ、こーここーてーてー。ハイ!〉〈あっ、えと、こーここーてーてー! これはどういう……〉〈タクアン買っておいてね〉〈いや僕、タクアンはあんまり……って、そんなことたぶん一生言わないですからっ。も~マユミ先生、もっと使用頻度高そうなのお願いしますよぉ~〉 桜太……先生に遊ばれてる……。――カララ……「おはようございますぅ……お借りしてたジャージ返しに来ましたぁ。コホンッ」「あっ、紗波先輩っ」「あら、高槻さん」 桜太に小さく手を振り中に入る。「なに、二人とも知り合い?」「あ、はい。ケホケホッ……」「あらら咳が……中沢君から風邪で休んでるって聞いてはいたけど、やっぱり引いちゃったのねぇ。でもまだ辛そう……大丈夫なの? 足は?」「あー、咳が残ってるだけでそんなには……ケホッ、足も頂いた絆創膏すごくよくて、もうだいぶいいんです。いろいろありがとうございました」「あらそう、よかったわ。若いとさすが傷の治りも早いわねー、ふふ。でも――」 先生はメッと軽く睨む。「無理しすぎないようにね。どうも高槻さんはその傾向があるみたいだから」「はい、スミマセン……コホン。ところでなに桜太、どこか悪いの?」「いえ、僕は至って健康ですがっ。あ、そだ紗波先輩、なんかこの間、男の人に背負われてましたよねっ。ひょっとして紗波先輩のお父さんですかっ?」「え、あー、うん」 やっぱり。あの声は桜太だったか。「どうりでなんだか雰囲気似てると――さすが紗波先輩、お父さんもイケメンですねーっ」「はは。似てるかな……コホコホ」「紗波先輩、早退したっきり学校休んでるから心配してたんですぅ。借りてたナフキン返しに2回ほど教室に行ったんですけど、その都度中沢先輩と、えと――小野先輩にすげなく追い返され……」「え、そなの? ケホッ……、そんなの預けといてくれればよかったのに」「って、中沢先輩にむしり取られそうになったんですけど死守しましたっ。だってせっかく紗波先輩と話せるチャンスを……それに、ちゃんとお礼も言いたかったし。あ、今持ってないんで後で返しに行きますね! ふふっ」「あー、うん。はは」 桜太にシッポがあったら、絶対今ブンブン振ってるよね……。「まぁまぁ、えらく懐いてること」 隣で先生もくすくす笑う。「あの、この間聞こえてました? 体育倉庫の――実は、この桜太と閉じ込められてたんです。コホッ」「あらっ、そうなの?」「え、マユミ先生ご存じで? 全くひどい話ですよねっ! でも僕が悪いんです……標準語が恋しいあまり、あんなところに紗波先輩を呼び出してしまった僕が……うっうっ」「いや、桜太なんにも悪くないし。ケホッ」 でも、体育倉庫はカズエじゃないんだよね……一体誰なんだ犯人はっ。「でも、こんなことが続くようならどうにかしないとねぇ。――この間の話では誰の仕業か大体の見当はついてるみたいだったけど?」「はい……まぁ、全部じゃないですけど……コホ」「えっ、犯人わかってるんですかっ? 画びょうとかほんと悪質ですよねっ。ん~、許せません! そんなの僕がこてんぱんに――」「あら、小森谷君。君、岡山弁怖いんじゃなかったっけ?」 拳をぷるぷる震わせている桜太の肩に、先生がポンと手をのせる。「なんかねぇこの子、岡山弁恐怖症を克服したいらしくて。ほら、高槻さんが連れてこられる前に追い出した男の子って、この小森谷君なんだけど、それ以来暇さえあればここに来るようになっちゃって。岡山弁習得したいなら岡山《こっち》の人に教えてもらえばいいのにねー」 やはり、それも桜太……。「僕、岡山弁を理解しつつ標準語で話してるマユミ先生に教わりたいんですっ。本場の人はなんだか怖くて……」「本場……。っていうか桜太、コホッ……先生のことまで名前で呼んでるの?」「あ、違うのよ。私、マユミケイコっていうの」 クスッと笑みを零し、先生は白衣の胸ポケットに付けた名札をつんつん指差す。「真弓《マユミ》、慶子《ケイコ》……あっ、そうなんですねー」「ねねっ、なんかここ、岡山じゃないみたいですねっ。あっ、そだ!」 桜太が興奮気味に声を上げる。「たまにほら、僕たちこうして標準語で語り合いましょうよ! 普段抑圧されてる分、少数派にも憩いの場って必要だと思うんですよねっ。ねっ? 『関東弁友の会』本日発足ということでどうでしょうかっ」「関東弁友の会……」 なんじゃそりゃ。「こっちの人たちって僕たちみたいな話し方、そう呼ぶでしょ? それに『標準語友の会』より『関東弁友の会』の方がより深い繋がりを感じるというか――で、それを支えに僕たち、このアウェイ感を乗り切るんです! う~ん、我ながらなんてグッドアイデア……!」 桜太、ネーミングセンス……。「ねぇ、小森谷君。別に無理に周りに合わせようとしなくてもいいんじゃない? そんなものに振り回されず、ありのままの自分を貫けばいいのよ。ほら、高槻さんごらんなさい。君より後に転校してきたのに堂々としてるでしょ?」 堂々……そう? や、単に言葉の違いを気に掛ける余裕がなかっただけっていうか…… 勢いを削がれた桜太がしょんぼりと口を開く。「そうですよね……そんなだから僕、なめられるんですよね。あぁ、僕ってなんてちっちゃい人間なんだろう。僕も紗波先輩みたいに強くならなくちゃ……。よし! 今度また女子が無理やりスカート穿かせようとしてきたら、次こそはビシッと拒否してみせますっ」「……穿かされちゃったんだ、スカート」「ふっ。まぁ、関東弁云々はさておき……胸のモヤモヤ吐き出したくなったらいつでもいらっしゃい。話し相手ぐらいにはなれるから」 年齢不詳、クールビューティという言葉がぴったりな真弓先生の意外に柔らかな笑顔に見送られ、あたしたちは保健室を後にする。「でも紗波先輩、犯人のことどうするんですか? ここはやっぱり、担任の先生にでも相談してみた方が――」 担任の先生、ねぇ……。休んでる間に村田先生から電話はあったけど、どうしても相談する気になれなかったのよね。なんか余計にこじれそうで。まぁ、横に彩香さんがいたからっていうのもあるけど……「うーん……まぁ、もう少し様子見るよ。ケホッ」 カズエはもうこれ以上、何もしてこないはず――なんの関心も持たれないよりいいなんて、そんなの強がりに決まってるし……「なんだか心配ですぅ。僕、ほんと頼りなくて……紗波先輩ごめんなさい」「あたしなら大丈夫! コホンッ。だから桜太もクラスの女子に負けてちゃダメよ。あ、もうこんな時間……、ゆっくりしすぎちゃった。じゃあまたね、桜太!」 自分自身に活を入れるつもりでしょんぼりうな垂れている桜太の背中をパンッと叩き、くるりと踵を返す。「あっ、紗波先輩、また後で――風邪お大事にっ……」 桜太に手を振り返し、あたしは僅かに緊張を滲ませ教室へと向かった。油断するとすぐさま萎えそうになる気力をなんとか奮い立たせ、くるくると階段を上る。と、「おっ、来た来た。高槻、なんじゃ久し振りじゃのー」 突然頭上で明るい声が響き――ハッと振り仰ぐと、3階の通路から身を乗り出すようにニコニコとこちらを見下ろしていたのは小野だった。 photo by little5am
2017.02.10
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「わ、紗波っ……」 結実に支えられつつ、何事かと顔を上げる。「あぁ、ごめーん。ここ狭いけぇ肩当たってしもうたわぁ」 見覚えのある顔――確かうちのクラスの女子だ。「ちょぉ! なんしょんならあんた、今のわざとじゃろ!」「フン、ちぃーと当たっただけじゃが」 女子生徒は悪びれる風もなくスタスタと坂道を上がっていく。「なんあれ、感じわっる!」 憤る結実から、ふと周囲に目を向けると――なんかいつにも増して、あたしを見る女子の視線がキツイような…… 同じく辺りを見回していた結実が、顎に手を当てぽつりと呟く。「あれ……完全、裏目に出とるな」「? なに?」「亘から聞いたんじゃけど――、マラソン大会の次の日、柊哉、紗波んことクラスで言うたらしいんじゃ」「委員長が? コホッ」「陰でコソコソ嫌がらせするんは卑怯じゃ、いうて結構きつぅ。柊哉が紗波おんぶして帰ってきたいうて騒いどった女子らぁからしたら、益々おもろーねかったじゃろーなぁ」 委員長、嫌がらせのこと注意してくれたんだ……クラス委員長だもんね。でも、かえって状況を悪化させることに……うぅ。「自分と境遇が似てるから、あたしのこと気に掛けてくれてるだけなのに、委員長……」「境遇? あぁ、転校してった日職員室で――、柊哉んとこも去年じゃったか父親再婚した言よーたもんなぁ」「コホッ、やっぱ聞こえてたか……。そうだあの時さ、結実あたしのこと、前の学校でなんか問題起こして――とかなんとか言ってたでしょ」 ふとそんなことを思い出し、軽く愚痴ってみる。「えー? ちょー待って、せーってうちちゃうしっ。そりゃ、横におった子ぉで――」「え、結実じゃなかったの? ケホッ」 揺れる三つ編みが印象に残ってて、てっきり結実だと……「なんだ、違ったんだぁ。そっか……」「なん? ほんならうち、いらん恨み買われとったん? あぁ、せーで最初あねーツンケンしょーたんか」「いや、それは結実がすごい剣幕でつっかかってくるから――」 少しマスクをずらして不服げに横を向くと、結実も同じように口を尖らせていて……お互いプッと吹き出す。結実は少し照れくさそうに続けた。「紗波、追試で落ち込んどる亘に、彼女のために勉強頑張れって言うてくれたじゃろ。うち、紗波に結構きちぃーこと言うたのに……」「ん? あー……」「そん時うち、この子んことちぃーと思い違いしとるんじゃねんかなって……」「ふっ、どう勘違いされてたんだか」「まっ、お互いさまっちゅーことで」 あたしたちは再び小さく笑い合った。「ところで、その追試とやらはどうなったの? コホンッ」「あぁ、紗波休んどる間にあってなぁ。本人はできたぁ言よーたけど、どうじゃろ。どーせなら追試やこー受けんでええよう最初っから頑張りゃーええのに、なぁ」 結実は肩を竦めて笑うと、少し間を置き、「――例の、嫌がらせのことじゃけど……」 言いにくそうにぼそりと切り出した。「あれ……やっぱ、カズエじゃった。でも、体育倉庫と制服のこたー知らん言うて……」「そっ、か……」 画びょうも矢印の向き変えたのも、やっぱりカズエだったんだ…… カズエの仕業――でも、カズエだけじゃない。どちらもわかったところでいい気はしない。他にも嫌がらせを受けていることを知ったカズエはきっと、いい気味だと陰で笑っていることだろう。想像するとそれも腹立たしく思えた。「カズエ、マラソンの表彰の後で柊哉に呼び止められたらしいわ。なんも言われんかったけど目がすげぇ怒っとって、あぁ、バレたんじゃなって――でも、あねん見つめおうたの初めてじゃ、なんの関心も持たれんよりゃーええかもとか言よーて、あの子……」「…………」 苛立つ胸の内に複雑な思いが過る。 委員長と転校生、家庭が似たような状況にある――ということで、あたしはいろいろと委員長に気に掛けてもらっている。委員長があたしと一緒に昼食をとるようになったのも、たぶんそういう理由からで――で、親しくなってマラソン大会でのことに繋がって……。でも、ただそれだけだとしても、一方では胸を痛めている人間もいるのだ。それは今、あたしの心を苦しめているものと同じ―― 嫉妬に取り憑かれて、嘆いたり苦しんだり――再び波琉の言葉が頭の中によみがえる。 カズエも、どうしようもない心の闇に突き動かされて、ああいう行動を取ってしまったのだろうか……と、理解しようとしたところで大変な目にあわされたのだ。腹が立つことに変わりはないけど……「カズエんこと責めたら、あの子に『ええ子ぶって』って言われてしもうた。そりゃまぁうちじゃって最初は紗波にきつぅ当たっとったわけじゃし……って思うたら、なんじゃぁそっから強ぉ言えんようなってしもうて――、カズエに謝らせよう思よーたのに、ごめん紗波……」「ううん、怒ってくれただけで十分。ありがと、結実……ケホッ、あたしの方こそなんか嫌な思いさせちゃって、ごめんね」 あたしたちは、まだまだ未熟で―― もう少し大人になったら、そしたら今よりは器用に感情をコントロールできるようになってるのかな……「……紗波?」 黙り込むあたしを結実が心配げに覗き込む。気を取り直し、ふふっと目を細めると結実はほっとしたような表情を見せ、ふと思いついたように小さな声で訊いてきた。「こねんこと訊くんもあれじゃけど……ほんまんとこ、あんたらぁどねーなん?」「? どねーなんとは? コホンッ」「や、なんぼ委員長じゃいうても雨ん中……なぁ? 柊哉、えれぇ紗波んこと気ぃ掛けとるがー? 転校してってそねん経っとらんのに、えろー打ち解けとるっちゅーか……」「そ、それはほら、あたし転校生だし委員長責任感強いし……ケホッ、先生から頼まれたのもあって、そういうのほっとけない性分なんだよ、きっと」 お昼休みはほぼ一緒に過ごしてるんだから、それなりに友情みたいな? そういうものが芽生えて当然で――でも、そんなことみんな知らないし、知られたら変に誤解されそうだし、委員長からは誰にも言うなって言われてるし、屋上で食べられなくなっちゃうかもだし……「責任感ねぇ。――にしても、なぁーんかこれまでの柊哉と違う気するんよなぁ」 結実はどうもしっくりこないようで首を傾げている。坂道を上りきる頃には益々女子の視線も痛く、あたしはふと、こんな自分と肩を並べて歩いている結実のことが心配になり、「保健室で借りてたジャージ返さなきゃ。ちょっと先行くね」「あ、うん――」 きょとんとする結実を残し、足早に高等部校舎へと向かった。 カズエ以外にもあたしを鬱陶しく思っている人間はいる――上靴を逆さに振ってから履き替える。「ケホッ、ケホッ……」――あの子来とる……――咳出るんじゃったら、もちぃーと休んどりゃあええのに…… 言ってることは同じでも、結実とは意味合いが違う。悪意の滲む視線と囁き声を振り払うように、さっさとその場を後にする。 でも、足……ほんとによくなってる。先生にお礼言わなきゃ――と、保健室の扉に手を伸ばしかけて、〈――でーこんてーてーてー!〉 不意に耳に飛び込んできた意味不明の言葉に、あたしはびくっと手を引っ込めた。 photo by little5am
2017.02.09
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「あっ、結実、おは――ケホッコホッ」「あーあー、風邪じゃいうて聞いとったけど、まだえらそうじゃなぁ。無理せんともちぃーと休んどりゃええのに、大丈夫なん?」「ケホッ……だって、あんまり休むのもなんか癪に障るし」「あねーなことあったけぇ心配しとったけど……結構打たれ強いんじゃな」 結実はクスッと笑みを浮かべると、あたしの後ろにちらりと目を向けた。「あ、えっと、近所のおじいちゃん。見かねて送ってくれたの。ケホッ」「んん? しゃなみちゃんの友達かのぉ? こりゃーはじめまして、おはよぉさん」「あ、どうもはじめま――えっ、ちょー待ってゲッタン!? なん、こねんよーけ! や~ん、ぼっけぇ可愛ぇっ」 へ。「おぉ? なんじゃあ嬢ちゃん、ゲッタン好きなんか~」 興味津々、かぶりつくように車内を覗き込む結実に、おじいちゃんが満面の笑みを向ける。「はいっ。うちらの間で今、ぼっけぇブームじゃけぇ!」 え。マジで……。「ほほぉう! こりゃ頑張った甲斐があったっちゅーもんじゃ。そうじゃ、嬢ちゃんにけーやらぁ」 おじいちゃんはダッシュボードの物入れからなにやら細長い袋を2つ取り出すと、あたしたちの前にそれを差し出した。「まだ発売めーの『ゲッ子』ちゃん根付じゃあ。ゲッタンの彼女なんじゃ。可愛かろ~」「うっそ! ゲッタンに彼女!? きゃ~睫毛巻いとるぅ~」 これかゲッ子。益々不気味……って、なんか知らないけどもらっちゃったし。「っていうか、おじいちゃん一体何者っ?」「んん、わしか? ん~、わしゃ~ちぃーとでもこん音ヶ瀬の良さぁ、みんなに知ってもらいとーてのぉ」 きょとんとする結実に横から補足する。「あ、おじいちゃんね、ケホッ……駅でゲッタンの着ぐるみ着て、お客さんにストラップとか配ってるの。だからいろんなゲッタングッズを――」「ええッ、あれ、おじいちゃん!? 声聞いたら幸福が訪れるいうて――じゃけど、どねんしても聞けんいうてみんなが躍起んなっとる、あの無言の……! ほんまにっ?」 おじいちゃんにそんな効果が? どんな都市伝説……。「せーでかいなぁ、最近若ぇのんが、ようよぞぉかしてきょーる思うた。ほうじゃ、ゲッタンは魚じゃけぇ喋らん。その辺は徹底しとるんじゃ、わし」「ん~、おじいちゃん渋っ。そうじゃ、サインしてもろうてええじゃろか」 サ、サインて。「ゲッタンのかぁ? ゲッタンは魚じゃけぇサインやこぉ――」「じいちゃんのんじゃあ。せーがレアでええんじゃて!」「なんじゃあ、わしみてーなもんのんもろうてどねーすんならぁ」 と、照れつつもまんざらでもない様子で結実からノートとサインペンを受け取り、おじいちゃんは真剣な表情でペン先を動かす。 はせべ……もきち?「わしゃ~長谷部《はせべ》茂吉《しげきち》いうんじゃあ。嬢ちゃんは、なんいうんかのぉ?」 これ、と結実が表紙の名前を見せる。「ほぅほぅ、え~柏木結実さん江――と。星マークやこ描いとこーかのぉ。ほい、でけた」「きゃー、ありがとおじいちゃんっ」 あの、星マークが六芒星で不気味なんですけど……。「や~、こん歳でサインやこぉねだられる思わなんだわ。まるで有名人みてぇじゃがぁ、ふぉふぉっ。ほいたらわし行くけぇ――しゃなみちゃん、またいつでも乗してったるけぇ、遠慮せんと言われぇよ」「う、うん……ははは。コホッ」「ほいじゃあの~」「おじいちゃんありがとう。ケホッ……運転、気を付けてね」「せわーねぇ、せわーねぇ。ふぉっふぉっ」――ドルッ、ドドド……キュキュッ、ブォーッッ……!「ヒュー、やるなぁ茂吉じいちゃん! 見事なハンドルさばきじゃがー」「いや、実際乗ってみて。ケホッ、ほんと生きた心地しないから」「ふっ、そうなん? や~でも、マジびっくり。ゲッタンの中にあのじいちゃんが……」「っていうかゲッタン、そんなに人気あったんだ……」「なん、可愛ぇ思わん? ちょい不気味なとこがええんよ。キモカワじゃキモカワ」 いや、キモいけど可愛くは……。 握らされたゲッ子ストラップを眺めつつ――ふと、ごく自然な感じで結実と肩を並べ歩いていることに気付き、なんだか少し嬉しくなる。友達同士、楽しそうに坂道を上がっていくみんなのこと、ちょっと羨ましいなって思ってたんだよね…… そういえば、さっきまであんなに鬱々としてたのに結構気持ちが元気になってる。これっておじいちゃんのお陰? 意外に豪快な運転で気が晴れた? 侮りがたし都市伝説……。「そうじゃ紗波、足どねーな?」「あ、うん。保健室の先生がくれた絆創膏貼ってたら、なんか治りが早くて……ケホッ、もうだいぶいいの」「そっかー、まぁせーだけでもえかった」 結実の笑顔につられるように、あたしもマスクの下でにっこりと微笑み返す。と、――ドンッ…… 不意に後ろから誰かにぶつかられ、あたしはふらりと前のめりによろめいた。 photo by little5am
2017.02.05
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「ありゃ、しゃなみちゃんどねーしたぁマスクやこぉしてぇ、風邪引いてしもうたんか?」 ぼんやりバス停まで歩いていると、長谷部のおばあちゃんが畑の中から声を掛けてきた。「あ、おばあちゃんおはよう……ケホッ、ケホッ」「おぅおぅ、えれーこずっきょーて、そげぇな風でがっこー行けるんか? ――よいしょこら」 おばあちゃんが畑から上がってきたので、顎にずらしていたマスクを鼻まで引き上げる。「もう二日も休んじゃって……ケホッ」「ありゃありゃ、そりゃあえらかったのぅ……。そうじゃ、あとで引っこ抜いたばーのタマネギ届けとくけぇ、そりょー半分切ってのぅ、ようさり枕ん横置いて寝てみられぇ。じき咳も止まるじゃろうて」「切ったタマネギを枕元に? コホッ」「ほうじゃ。よーう効くけぇ騙されたぁ思うてやってみられ。ほんでも弱り目に祟り目じゃなぁ。せわーねぇんか? あれからばーちゃんも気になっとってのぅ」 そうだ、この間おばあちゃんの前でぼろぼろ泣いちゃったんだ、波琉のことで。うわ、なんか急に恥ずかしくなってきた……。「こ、この間はなんか驚かせちゃってごめんね、おばあちゃん。ケホッ……でも、もう大丈夫だから」「ん~……あんまり無理せられなぁよぉ?」 顔を覗き込んでくるおばあちゃんに、にこりと返す。と、――ブロロッ…… エンジン音を響かせ、坂道を下りてくる一台の軽トラが――「お、じぃさんじゃ。けーから駅ん方行くんじゃな。そうじゃ――」 おばあちゃんがなにやらポンと手を打つ。 やがて軽トラはつんのめるようにキュッと真横で停まり、全開にした窓からおじいちゃんが愛嬌たっぷりの笑顔を覗かせた。「やぁ~しゃなみちゃん、おはよぉさん。ようやっとええ天気んなったのぉ~」「おはようございま……ケホッ」「なんじゃあ、風邪引いとるんかぁ?」「そうなんじゃじぃさん。こじぃてえらそうじゃけぇ、しゃなみちゃんがっこーまで送っちゃってくれんじゃろーか」 えっ。「なん、そりゃおえん。乗られぇ乗られぇ。確か音ヶ瀬いうとったのぉ」「ケホ、ケホッ……いやあの、もうバスも来るし、大丈夫ですからっ……」 パパのだって断ったのに――あたしは慌てて手を振った。「音ヶ瀬いうたら、バスじゃて駅ん方回って遠回りじゃろ。遠慮せんでもええがぁ。ほれ、乗られぇ」「でもおじいちゃん、駅に用事が――」「あぁ、ゲッタンか? ありゃーボランティアみてぇなもんじゃけぇ、べつんせかーでもええんじゃ。ほれ、早う乗られぇ」「じゃーじゃー。わけーもんがそねん遠慮するこたーねぇで」「でも……え、あ、ちょっ……」 おばあちゃんに背中を押され、半強制的に助手席に座らせられる。――バタンッ。「ほんじゃあじぃさん、任せたけぇなぁ。よ~うきゅーつけて事故ぉ起こさんようにのぅ」「なにゅー言よんなら、ばぁさん! 運転歴50有余年、オート三輪のじでーから磨き上げたこん腕じゃあ、なぁーんもしんぺぇするこたーねぇが。こん辺りゃー、まぁ言うたらわしん庭みてぇなもんじゃけぇ、目ぇつぶっとっても運転できらぁ。ふぉっふぉっ」 え、やめて……こわい。「言よーるのぉじぃさん! こねぇだ坂下の駐在さんに、ええ加減免許証ぉ返せぇ言わりょーたが、どーしてどーして、あと10年はイケそーじゃが。ひゃひゃひゃ」 …………。「ったりめぇじゃがぁ。なんぼ、おきゃあま夢カードが魅力的じゃあ言うても、まだまだ世話んなるわけにゃーいけんのんじゃけぇ」「ケホッ……おかやま夢カード?」「おん。歳ぃとって免許証ぉけーしたら、そんカードもらえるんじゃわ。せー見せりゃあ店ん商品や乗りもんの運賃割り引いてもれぇてのぅ。バスやこぉなんと! ……半額で乗れるんじゃ」 最後の耳打ちが意味不明だけど……へぇ、そんなサービスがあるんだ。「じゃーけど! やたらめったら年寄《とっしょ》りあつけぇされるバスぁ、わしゃ~あんまし好かん。シルバーシートやこぉ座りたーねぇし、席ぃ譲られるんもノーサンキュウなんじゃ。まぁ、世の中にゃーこぉいうジジィもおるっちゅーことでのっ」 って、親指立てて笑顔でキメられても、前歯が一本抜けてて……「ほんじゃあ行くでのぉ。よ~うシートベルト締めとかれぇよぉ」「はいぃ、お願いします……ケホッ」 おばあちゃんに見送られ、軽トラはうねる坂道をキレのあるコーナリングで無駄なくスピーディーに下っていく。 早っ。ま、まぁ坂道だし? お年寄りのものとは思えない豪快なハンドルさばきにおののきつつ、バックミラーからぶら下がる何かにふと目を向ける。――ゲッタンストラップ? あ、駅でもらったやつだ。と、改めて車内を見回せば、あちらこちらにゲッタングッズが。ダッシュボードに貼られたゲッタンステッカー、その上にはゲッタンぬいぐるみ。そして、窓に貼り付くゲッタン吸盤マスコット――ひっ、今座ってる座布団もゲッタン柄! こんなにシリーズ展開して大丈夫なのか、ゲッタン……。「すごいですねぇ、ゲッタン……」「いっぺぇあるじゃろ~、ふぉふぉっ。試作品じゃあいうての、よ~もらうんじゃわ。気に入ったんありゃー、どれでも持ってかれぇ」「あー、はは……ケホッコホッ」 ……いらないかも。「そうそう、最近ゲッタンに彼女がでけてのぉ、『ゲッコ』ちゃん言うんじゃけぇど――」 ゲッコ……ゲッ子?「睫毛がくるんとしとって色っぺー顔しとるんじゃわ、けーが。ふぉっふぉっ。……ありゃ? どけぇとらげぇてしもーたかの、確かこん中に……」「ちょっ、おじいちゃん前、前!」「んん? おぉ、おえんおえん」――キュキュキュッ……! 車体を左に傾け勢いよく海岸道路へと飛び出す軽トラ――遠心力で窓に張り付くあたしの目の前に海が迫る。 ひー、ワイルドすぎるっ。「どうじゃ、うめーもんじゃろぉ。ちぃーときま寝とりゃー、じきがっこー着くけぇの。ふぉっふぉっ」 起きたらあの世、とか困るんですけどっ。「あの、余裕あるんで、ケホッ……ゆ、ゆっくりでお願いします!」 そんなこんなで、手に汗握りつつもなんとか無事に学校の坂下に辿り着き――「ふ~……あ、おじいちゃんこの辺で――」 安堵の溜息とともにシートベルトを外す。「ここでええんか? 上まで行くけぇ、もちぃーと乗っとりゃあええのに」「や、ここで十分です、ハイ。コホンッ」「無理しなさんなよぉ」「うん、ケホッ……ありがとう、おじいちゃん。じゃあ気を付け――」「あれ、紗波っ?」 ドアを開けたところで不意に名前を呼ばれハッと顔を上げると、こちらを覗き込むように立っていたのは結実だった。 photo by little5am
2017.02.03
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「ケホッ、ケホケホッ……」 ベッドの上で咳き込みながら、格子に区切られた灰色の雨空を虚ろに見上げる。どうやら中国地方は本格的に梅雨入りしたらしい。 ベッド横のサイドテーブルに置かれた目覚まし時計は午前9時を回っている。本来なら1時間目の授業を受けているところだけど……続けざまに現れた風邪の症状とひどい筋肉痛、そして床を踏みしめるたび痛む爪先にとても学校に行くどころではなく、あたしは自室で布団に包まり、虚ろな時間を過ごしていた。 昨日――パパに背負われて家に辿り着くと、学校からの留守電を聞いた彩香さんが(父親が迎えに来た、というもうひとつの留守電に気付かず)慌ててタクシーを呼ぼうとしているところだった。「紗波ちゃんごめんねっ、あたしったら呑気に買い物なんかしててっ……圭一郎さんもお仕事中なのに――」「いや、タクシーなんて大変だし、こっちに連絡が来てよかったよ」「教習所、あともう少しで終わりそうなんだけど……ほんと、役立たずでごめんなさい」 パパに迷惑を掛けたのはあたしなのに、まるで自分が悪いみたいに彩香さんはしょんぼりうな垂れる。家を留守にし連絡に気付くのが遅れた彩香さんに、逆に感謝したいくらいなのに――だって、あの時みたいに今度はパパと彩香さんが同時にあたしを迎えに来てたら…… 大事な思い出を、同じようなシチュエーションで上書きされたくはない。でも、そんな風に考えてしまう自分に嫌悪感を抱かずにいられないのも事実だった。 あたしはいつ、このどうしようもない負の感情から抜け出すことができるんだろう…… 弱り切った身体でベッドに横たわっていると、どうしても思考が暗い方へと傾いてしまう。 堪らなく、波琉に会いたいと思った。 波琉の声を聞きたい。波琉の笑顔を見たい。でも…… 格子窓を叩く雨―― 止んでも波琉に会えないのなら、いっそずっと降り続いてほしい。だって、雨のせいにできるから…… はぁ、学校行きたくないな…… あたしはクローゼットの取っ手に引っ掛けた、クリーニングのビニール袋が掛かったままの制服を溜息交じりに見つめた。 新品同様にピシッと綺麗になったセーラー服――でも、誰かに踏みつけられ、トイレのゴミ箱に捨てられていたという記憶まで綺麗に消え去ってしまったわけじゃない。まだ咳も残ってるし、もう一日休んじゃいたいとこだけど……「負けてたまるかっ。ケホッ……」 気合を入れてベッドから起き上がり、制服を手に取る。ズルズル休んでいては、それこそ相手の思う壷だ。何事もなかったかのように平然と、堂々としていないと―― 制服に腕を通しながら、写真のママに「おはよう」と声を掛ける。あたしは窓辺に近づき、格子窓を開け放した。 マラソン大会の日から三日間降り続いた雨はようやく上がり、眼下に広がる海は朝日を浴びキラキラと銀色に輝いている。 咳のしすぎで腹筋が痛い。 それでも両手を広げ大きく深呼吸すると、体の中にじわじわと力が満ちてくるような気がした。 雨が降り続けばいいと思っていたけど、やっぱり太陽の力は偉大だ。「ケホ、ケホッ……」「紗波ちゃん大丈夫? もう一日休んだ方がいいんじゃない?」「いえ、二日も休んでしまいましたから」 マスクを顎にずらし、ホットミルクを口にする。あぁ、熱いミルクが喉に気持ちいい。「見た目ほど辛くはないんですよ。咳がちょっと残ってるだけで。コホッ」「んー、でも……」 彩香さんは眉をひそめる。と、「おはよう――あ、紗波、もう学校行って大丈夫なのか?」 ネクタイを結びながら、パパが食卓にやってきた。「おはよう……、うん、いつまでも休んでるわけにいかないし。ケホ、ケホッ……」 ホットミルクの入ったカップをテーブルにコトリと置き、こんがり焼き色のついたバタートーストに手を伸ばす。「まだ咳が出てるじゃないか。もう一日休んだらどうなんだ?」「大丈夫だよ。とっくに熱も下がってるし」「でも、治りかけで無理すると――」「大丈夫だってば。ケホッ」「んー……あ、じゃあ学校まで送るよ。足だってまだ痛い――」「もう、大丈夫だって言ってるじゃんっ……」 はっ。ちょっとキツイ言い方に――彩香さんもパパのコーヒーカップを手にしたまま、少し驚いた顔でこちらを見ている。「なんだ紗波、ピリピリして……。身体きついんだったら、なにも無理して学校行くことないのに……」 しょぼんと小声で返すパパ。――パパなんて……ちょっと困ればいいんだ。 心の中――微かに響く声に戸惑いながら、あたしは無言でトーストにかじりつく。 前にもこんな風にパパに対して意地悪な気持ちになったことがあった。そう、初めて彩香さんと会った日だ。 いや、ほんとは最初から――彩香さんの存在を知ったあの日から、あたしは心のどこかでずっとパパのことを許せずに――「ケホッ……」「……あんまり無理しちゃダメだぞ」「……うん」 食卓に気まずい空気が流れる。『なにをおいても、パパの幸せが一番』――いい子ぶってた自分を心の中で嘲笑する。 こんな中途半端なことになるくらいなら、初めからやめておけばよかったんだ。物わかりのいい娘の振りなんか…… 風邪で味覚が鈍り、こんがり香ばしそうなバタートーストももそもそと味気ない。 あたしは喉のつかえをホットミルクでごくりと一気に流し込んだ。 photo by little5am
2017.02.01
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「だ、大丈夫か、紗波っ」「パ、パパ……、声大き……」 あら、イケメン……先生が小さく呟く。「高槻さんのお父さま? こんなに早くいらっしゃるとは……お仕事中のところ、お呼び立てして申し訳ありません」 ワイシャツの上に社名の入った作業着――どうやら連絡を受け、すぐに仕事場を飛び出してきたらしい。傘を手にしているものの差さずに来たのか髪と肩が濡れている。 先生の言葉にハッと我に返ったパパは、「あっ、すみません、高槻紗波の父親です。こちらこそ、紗波がいろいろご迷惑お掛けしてしまって――」 慌てて先生に頭を下げた。「と、ところであの、マラソン中に倒れたって……」「ええ、雨の中道に迷って体力を消耗してしまったようですね。さっき熱を測ったら8度2分だったんですが、まだ少し上がるかもしれません」「紗波……」「それと靴擦れもひどくて……今日は相当身体の方堪えていると思いますので、お家でゆっくりさせてあげてくださいね。熱が上がり切ったら、首回りや腋の下を保冷剤なんかで冷やしてあげるといいですよ」 眉を寄せ真摯に頷くと、パパは軽くあたしを睨んだ。「あれほど無理しないように言ったのに――、今朝もなんだか顔色悪かったし、始まる前から具合悪かったんだろ、紗波」「ごめん……なさい……」 あたしはしおしおと小声で謝った。「あ、あの……うちのせいで高槻さん、ひどうなってしもうたんです。調子悪いうちのこと助けようとして……」「えっと、君は……」「遠藤沙夜さん……同じクラスの、友達……」 恥ずかしそうに頭を下げる遠藤さんに、事情がのみ込めないながらもパパは労わるような視線を向ける。「遠藤さんのせいじゃないの……あたしが道に迷っただけで……、それから、クラス委員長の中沢君――雨の中、自転車であたしのこと探して……学校まで連れて帰ってきてくれたの」「そうか、君が紗波を……」「はじめまして、中沢柊哉とい――」「ありがとうっ!」「っ……!?」 パパのいきなりの抱擁に、委員長が目を丸くして固まる。「ちょ……パパっ……」「あっ、つい――、これはすまなかった、えっと……中沢君。ハハ」 パパは照れながら、呆然としている委員長の肩をぽんぽんと叩くと、「じゃあ紗波、帰ろうか」 あたしをゆっくり抱え起こし、後ろ向きにスッと腰を落とした。 えっ……まさか、またおんぶ?「い、いいよ、歩くし……」 もう目立つのは懲り懲りだ。「なに言ってるんだ。熱も高いし足だって――ほら早く」「…………」 頑なに拒み続ける気力も体力も残っていないあたしは、渋々ながらパパの背中に負ぶさった。またコレ……恥ずかしいよー。「よいしょっと。――じゃあ、私たちはこれで……ご迷惑お掛けしてすみませんでした」 先生から荷物を受け取り、あたしを背にパパは深々と頭を下げる。「いえ――、あ、制服なんですけど、ちょっと汚れてるところが……軽く洗ってはみたんですけど、なかなか落ちなくて。できればクリーニングに出してあげてくださいね」「クリーニング……あ、はい。わかりました」「なんだかバタバタしちゃったわね。お家でゆっくり養生してね、高槻さん。お大事に」「はい……ありがとうございます」「またな、高槻」「高槻さん、今日はありがとう……大変な目にあわせてしもうて、ほんまにごめんね……」「ううん、あたしの方こそ――、心配してくれてありがとう、遠藤さん。委員長も……ほんとにありがとう。じゃあ、またね……」 パパの肩越しに挨拶を交わし、みんなに見送られながら保健室を後にする。 タイミング悪く玄関へと続く廊下は、閉会式に向かう生徒たちでごった返していて――しかも流れに逆らって進んでいるから目立つ目立つ。うぅ、もうイヤ……。 横を通り過ぎる生徒のあからさまな好奇の視線と囁き声に、あたしはさっきと同様、今度はパパの背中に隠れるように身を縮こまらせた。――高槻さんじゃろ、あれ……――さっき柊哉に背負われとった思うたら、今度は違うイケメンに……!――父親? ちょ、若くねぇ……!?――あ、紗波先輩っ…… ……ん? なんか今、桜太の声がしたような……? でも顔を上げ、確認する勇気もなく―― ようやくその雑踏から抜け出すことはできたものの、校舎の外は相変わらずの雨――降りようとするあたしを遮り、パパは必死に傘を差し校門脇に停めてある車へと向かう。ゆっくり背中から降ろしてもらい、あたしは後部座席に乗り込んだ。「ごめんね、パパ……仕事だって忙しいのに……」 「いいんだよ、こんな時ぐらい。普段サービス残業してるんだから。ほら、横になって」 パパは助手席のシートに引っ掛けていたスーツの上着を手に取ると、「寒いだろ」寝転がったあたしの上にふわっと被せた。「ありがと……」 ぽんぽんと上着の上から優しく叩き、パパは運転席に乗り込む。緩やかに滑り出す車に、雨にけぶる校舎がゆっくりと後方に流れ去る。「家の方に連絡したら留守だったって――そういえば彼女、買い物に出かけるって言ってたもんな。で、パパのとこに連絡がきたんだけど、紗波がマラソン中に倒れたなんて言うもんだから、もうほんと焦ったよ……。でも、どうして道に迷ったりなんかしたんだ?」「あ、うん……慣れない道でよくわからなくて……、でも倒れたっていっても、足が痛くてちょっと休んでただけなんだよ」 委員長が来てくれなかったら、最悪、救急車のお世話になってたかもしれないけど――嫌がらせのことを含め、正直に言ったところでパパに無駄に心配を掛けてしまうだけなので、あたしは適当にそうごまかした。「んー……まぁ、とにかく見つけてもらえてほんとによかった。今度はしっかり休まなきゃダメだぞ」「はぁい……」 寒気は少し治まったものの目は熱っぽく潤み、頭は益々ぼんやりとして身体に力が入らない。あたしは雨の伝う車窓に虚ろな視線を向けた。 彩香さんが家にいて連絡を受けてたら、彩香さんがあたしのこと迎えに来たのかな、タクシーとかで……。 そういえば昔――、パパとママが同時に学校の保健室に迎えに来たことがあったなぁ…… 滲む景色を眺めながら、ぼんやりと思い返す。 確か……小学2年生ぐらいだったかな。あたしは元気少女だったから、めったに身体なんか壊さなかったんだけど、その日はワケあってすごくお腹が痛くなっちゃって……。学校からの留守電を聞いたママと、直接連絡を受けたパパが慌ててあたしを迎えに来て、保健室でバッタリ鉢合わせ――二人は少しバツが悪そうにしてたけど、でも、あたしはすごく嬉しかったんだ。 そうだ、あの日もこんな雨降りだった。 学校裏の駐車場まで今日みたいにパパにおんぶしてもらって、ママがあたしたちに傘を差し掛けて――『ちょっと圭ちゃん、この子ったらお友達の牛乳3本も飲んだんだって!』『えっ、まさかお腹痛いのってソレ?』『も~、そりゃ痛くなっちゃうわよ~。虫垂炎だったらって慌ててらした先生にほんと申し訳ないわ。こら紗波、なんで言わないの!』『だって……お友達の給食食べるの手伝ったってわかったら、おトイレの掃除しなきゃいけないんだもん……。でも、エリちゃんもミチルちゃんも牛乳すっごく苦手だし、でも、さな牛乳大好きだし……。そしたらね、ハヤトくんが僕のも飲んでって……』『自分のも入れて4本……呆れた……』『さな、もうお腹痛いのイヤ。だから助けてあげるの、一日ひとりだけにする……』『っていうか、もう手伝わないのっ。ほんとにこの子ったら……ぶふっ』『困った子だ、紗波は! あははっ』 大笑いしてるとこに先生が通り掛かって、気まずく会釈しながら――傘の下で三人、肩を揺らして笑い合ったっけ…… あんなに明るく早退していく親子、いないよね。ふふっ……あたしは熱で潤んだ目を細めた。「ん? 今、笑った?」 ハンドルを左に切りながらパパが訊ねる。「ちょっとね……思い出し笑い。ふふ……」「んー? なんだぁ?」「ねぇ、パパ……あと二十日程で、ママのお誕生日だね……」「ああ……そうだなぁ」 パパは感慨深そうに頷いた。 そうだよ、パパ……あれからもう、10年経つんだよ…… パパから贈られた花束を抱え、幸せに満ちた表情で夜の電車に揺られていたママの姿が、切なさを伴って瞼の裏に浮かぶ。「パパ、そのことなんだけど――、ママのお誕生日のケーキだなんて、彩香さん複雑な気分になっちゃうよね……。だから今年はそれっぽくないケーキ買ってきてさ、彩香さんにわからないように、あたしたちの心の中だけでママのお祝いしようよ……」「んー……」 パパは少し間を置くと、「紗波ごめん……パパ、ちょっと今年は――」 困ったようにそう返した。てっきり同意してくれるものと思っていたあたしは驚いて訊き返す。「え、……ダメ、なの?」「いや、えっと……あっ、そう、その日はたぶん、仕事で遅くなると思うから――」「仕事……休みじゃないの? 23日って――」 ママの誕生日、6月23日は確か日曜日だったはず……虚ろな頭で考える。「あー……ほんとは休みなんだけど、本社の人が泊まりで視察に来るんだ。これからのこと話し合ったり、いろいろややこしくてさ。ほら、普段は現場の方、忙しいだろ? だから敢えて休みの日に……うん」「そう、なんだ……」 言い訳めいた物言いになんとなく納得しきれないまま、ぼそりと返す。 仕事で遅くなるなんて、ほんとはそんなの全部嘘で――彩香さんと結婚したから、だからパパ、もうそういうのは止めにしたいって、そう思ってるんじゃ…… リビングに飾って、パパと二人しょっちゅう手を合わせてた、笑顔の三人が映る遊園地のスナップ写真――写真の中のママは、一人澄まし顔で写っているものよりもずっと自然体でママらしさに溢れてて……毎年ママの誕生日には、あたしたちお気に入りのその写真をテーブルに置いて、まるでそこにママがいるみたいに小さなバースデーケーキでお祝いしてた。でも状況が変わった今、その写真はあたしの部屋にひっそりと――あたしだけが想いを込めて眺め、あたしだけが毎日話し掛けて…… パパの心の中から、ママが……消えようとしている―― 彩香さんのせい? それとも、パパがそう望んでいるの? ママのこと……もう、どうでもよくなっちゃったの? 彩香さんにそっと口づけを落とす、愛おしさに満ちたパパの眼差しが脳裏によみがえる。 車内に響く雨音、滲んだ景色――絶え間なく降りしきる雨はあたしの心の中までも濡らし、熱で潤んだ瞳から一筋の涙を誘発させた。「あのさ……紗波の部屋に――」「パパ、あたしちょっと疲れちゃった……着くまで寝てていい?」「あっ、うん、そうだな。ごめんごめん」 上着を頭まで引き被り、あたしは静かに涙を流した。 photo by little5am
2017.01.31
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「あら、制服あったのね!」 カーテンの向こう、先生が弾かれたように声を上げる。「えっと、小野君と柏木さん……だったかしら? ありがとう、助かったわ」 二人とも……あたしの制服、見つけてくれたんだ……「ん、どうしたの? 入っていいのよ?」 ……? と、妙な間を置いて、ようやく結実の小さな声が聞こえてきた。「ゴミ箱に……」「え?」「制服――、女子トイレのゴミ箱に……踏まれたような跡も付いとって……」「……ちょっと貸してくれる?」 トイレのゴミ箱……踏まれた跡…… 委員長と遠藤さんが複雑な表情を浮かべ、言葉なくあたしを見下ろす。と、カーテンがそろりと引き開けられ、「どねーな、高槻――」「紗波……」 小野と結実が気まずそうに顔を覗かせた。「二人とも……ごめんね……」「もう驚ぇたわ、紗波。あんた迷子になっとるっちゅーて……」「ほんま、よう柊哉が見つけたこっちゃ。――じゃけど、なんでコース外れてしもうたんじゃ?」「誰かが橋の手前の矢印、わざと向き変えたんじゃ」 委員長が苛立ちの混じった声で答える。「えっ、誰がそげーな――」「高槻探して通ったときゃー、もう指示板のーなっとったんじゃけど――、最後に橋の前通ったんは、たぶん黒田じゃろういうて……」 委員長の視線を辿り遠藤さんに目を向けた結実は、「カズエ?」 語気を強めて訊き返した。 不意に向けられた強い眼差しにたじろぎつつ、遠藤さんは必死に言葉を返す。「と、友達の黒田さんのこと疑うて、ええ気せんじゃろうけど……じゃけど、最後に走っていったんは黒田さんじゃったし……」 それに――と、遠藤さんは更に身を縮こまらせ付け加えた。「高槻さんが画びょうの怪我がひどうなって右足びっこ引いとるの見て、まだ治っとらんの? って、なんか面白がっとるみてぇな……」「え、カズエ……紗波が画びょうで怪我したこと――」 ……え? 結実が意外な反応を返したので、あたしは怪訝に思いぼそりと訊ねた。「……結実が言ったんじゃないの? 結実から聞いたって本人が……」「うち、カズエになんも言うとらん……」 え、じゃあ……どうして画びょうのこと知ってたの? それって――「実は……」結実が躊躇いがちに口を開く。「カズエも先週、教室の後ろにプリント貼りょーた時、画びょうで指刺して――、せーが、血ぃも拭かんとじーっと刺したとこ見とってなぁ……。だからいうてあれなんじゃけど、紗波の画びょうの話聞いた時、うち、ふとそんこと思い出して……」「はぁーん、成程な……そん時悪巧み思いついたっちゅーワケか。フン、誰も言うとらんのに知っとったんじゃ、こりゃもう間違いねぇじゃろ。んじゃ、画びょうも矢印も制服も、みぃーんな黒田の仕業――そーゆーことか」 いつもへらへらしている小野が、珍しく真顔で憤る。「ほんなら昨日の体育倉庫も――」 は、そうだ昨日……「あぁ……ごめん、いろいろあってうっかりお礼言うの忘れて――、昨日はほんとにありがとう……結実が気付いてくれなかったら、面倒なことになってた……」「うちも後から聞いてびっくりしたわ。迷うたけど柊哉にメール入れてほんまよかった。でもまさかそねーな目におーとるたぁ……」「あ、あの……昨日、何が?」 おずおずと訊ねる遠藤さんに委員長が口を開く。「昨日の放課後、高槻、誰かに体育倉庫閉じ込められたんじゃ」「えっ……」「下駄箱に手紙入れて、高槻んこと体育館裏に呼び出した1年坊主と一緒にな。そいつは無関係じゃったんじゃけど――、どうやら手紙のことを知った犯人が、その1年男子と高槻二人っきりで閉じ込めて問題大きゅうしょーとしたらしい」「そねーなことが――、黒田さんがやったんじゃろうか……全部、黒田さんが――」 眉をひそめる遠藤さんに、結実が首を捻る。「でも、制服はカズエとちゃう思う。カズエ、マラソン戻ってからずっと教室おったし……」「じゃあ、他にも――誰じゃ、うちのクラスんヤツか?」 苛立ちを見せる小野に、みんな難しい顔つきで黙り込む。 ……どんだけ嫌われてるんだ、あたし…… ヨレヨレの自分が更に情けなく思えてきて、あたしは居た堪れず掛け布団を鼻まで引き上げた。と、「なんだか大変そうね……」 先生が気遣わしげにカーテンの端から顔を覗かせ――「いろいろ気になるでしょうけど、今は高槻さん休ませてあげましょ。あと、水原先生に制服あったこと知らせてあげなきゃいけないんじゃないの? 今頃必死で探してるわよ?」「はっ、そうじゃった」 結実と小野が揃って声を上げる。「うち、カズエんこと問いただしてみるわ。なんぼなんでも、やってええことと悪いことがあるけぇ。もし、カズエのやったことなんじゃとしたら――紗波、えらい目合わせてしもうてほんまにごめん……友達として謝る。もう、友達いう目で見れんようなるかもしれんけど……」「結実……」 その口調は強いながらもどこか悲しげで――あたしは複雑な思いで結実を見上げた。「ほんなら紗波、うちらぁ行くけど……今日はよ~う休んで、早う元気んなられぇよ」「おぅ、わしらぁついとるけぇ心配せんでええぞ! あぁ柊哉、表彰遅れんなよ」「面倒じゃけ、代わりにもろうてきてくれ」「ばっ、楽しみにしとる女子らぁに睨まれるわ。じゃあの高槻」「二人とも、ほんとにありがとう……」 ベッドの上からしんみりと二人を見送るあたしに、先生がふと思いついたように訊ねる。「ひょっとして、最近千葉から転校してきたって――あなた?」「あ、はい……」「あら、どうりで言葉が……。新しい土地に馴染むのって大変よね。私も住み慣れた東京から岡山《こっち》に来た当初は、ほんと戸惑ったもの」「先生、東京から……」「そうよー。向こうの言葉って、どうも気取って聞こえるらしいのよね。そんなつもりないのにねぇ。あなたも転校生ならではの洗礼受けてるみたいだけど、その辺りが原因かしら?」 はは……苦笑いで返す。「でも、もう信頼し合える仲間に出会えたみたいね」 委員長と遠藤さんをちらりと見た後、先生はあたしに視線を落とし微笑んだ。 見上げた先には、気恥ずかしそうにあたしを見下ろす二つの眼差し――でも、細められた目元が先生の言葉を肯定している。――仲間…… あたしはしみじみとその言葉を噛み締めた。 あたし、失ってばかりだと思ってた。でも、得たものだってちゃんとあったんだ……「さっ、あなたたち、もうお昼休み終わっちゃうけど――遠藤さん、どう? 身体の方は」「あ、はい……薬が効いてだいぶ楽になったんで、このまま体育館行きます」「そう、よかったわ」 そうだ、昼食……「委員長、ごめんね……あたしのせいでお昼食べ損ねちゃって……」「気にすんな。閉会式で今日は学校終わりなんじゃけぇ。それより早うようなれよ」 委員長…… と、――ガラッ……!「さ、紗波っっ……」 突然、保健室内に切迫した声が響き――ハッとした次の瞬間にはカーテンが荒々しく引き開けられ、パパが血走った目であたしを見下ろしていたのだった。 photo by little5am
2017.01.27
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「遠藤さん……、ごめんね……あたし、すぐ呼んでくるって言ったのに……」「そねーなことっ……高槻さんこそ足怪我しとるのに、こねん雨ん中――」 遠藤さん、体操服濡れてない――よかった。雨が降る前に気付いてもらえたんだ……「高槻さんおらんって聞いて、どーしょー思うて、うち……」「遠藤さん……」 あたしたちは込み上げる思いに、束の間言葉なく見つめ合った。「さぁさぁ、早くレインコート脱いで――あら、あなた唇の色が悪いわ」「先生、こいつ熱が――」 先生があたしの額に手を当て、次いで手を握り締める。「冷え切ってる……寒気がするでしょ? 熱、まだ上がりそうね。すぐに着替えた方がいいけど――」「高槻の制服は今、水原先生が取りに行ってくれとるけぇ」「そう、じゃあもう届くわね。――君は?」「俺は何か借りてぇーんじゃけど……」「ジャージでいいかしら? あぁ、あなたはこれで熱測っててくれる?」 白衣のポケットから取り出した体温計をあたしに手渡し、先生はくるりと踵を返す。「ついさっきまで見るからにか弱そうな1年男子が一人いたんだけど、死にそうだの足がちぎれそうだのほんっと大袈裟で……の割にたいしたことないから湿布だけ貼って追い返したの。――と、はいコレ。タオルもね。ってことで今はあなたたちしかいないから、どこででも好きに着替えてちょうだい」「じゃ、ちぃと奥借ります」 ぺこりと頭を下げ、委員長は着替えを手にカーテンの掛かる奥のベッドへと向かう。 か弱そうな1年男子……。桜太か? それにしても、きびきびと動きにそつがない先生だ。言葉も――岡山《ここ》の人じゃないのかな……「えっと、あなたは――足、怪我してるって言ってたわね。今のうちに診ておきましょうか。ちょっとここに座ってくれる?」 肩に掛けてくれた厚手のバスタオルで髪を拭いながら丸椅子に腰掛ける。「土足ですみません……」「いいのよ、緊急事態なんだから。右足? ちょっと失礼」 先生があたしの右足を軽く持ち上げ、靴を脱がそうと手を掛ける。「つっ……」「あら、これだけで痛いの? よいしょっと――まぁ、あなた靴下が……」 横に立つ遠藤さんがハッと息をのむ。 白いソックスの爪先部分が滲み出た血で真っ赤に染まっていた。「――靴擦れ?」「高槻さん、画びょうで指、怪我して――」「画びょう? ちょっと靴下ごめんね」「いたた……」「わ、痛そう……水ぶくれができて潰れちゃってるわ。画びょう踏んづけちゃったの? いつの話? 錆びてなかった?」「先週の木曜辺りに……光ってたから、新しいものだと……。結構血が出たんで消毒して――治りかけてたんですけど、今朝うっかり絆創膏貼るの忘れちゃって……」 先生がこくこくと頷く。「ある程度出血があった方がいいのよ。悪いものも一緒に流れ出るから。んー、斜めに刺さったみたいねぇ、奥までぶっすりじゃなくて……うん、あなたの年齢ならまだワクチンも効いてるだろうし、破傷風の心配はないわね。きっと、治りかけのところ無理して靴擦れしちゃったのね」 と、――ピピッ。 体温計の電子音が鳴り、引き抜いて見ると38・2℃の表示が……「あらら、8度2分……水原先生まだかしら? ジャージに着替えた方がいいかも――、取り敢えず先に手当て済ませちゃうわね」 小さなハサミを持ち、あたしの右足首を掴む。 え、なに……コワイ……「細菌が繁殖するといけないから、破れた水ほう膜切っちゃわないと。神経通ってないから大丈夫よ。向こう向いてなさい」 ひー。「高槻……おめぇ、画びょうんとこが……」 着替えを終え戻ってきた委員長と目が合い、苦笑いで返す。「――と、はい終わったわよ。じゃ、ちょっとこっち、歩ける? 私に掴まって」 あたしを保健室前の手洗い場に連れて行くと、先生はあたしの右足を持ち上げ、滲んだ血を丁寧に水で洗い流した。「いッ、いたたッ……」「痛いよねー、我慢我慢! そのかわり消毒液は付けないから……こうやってね、傷口を綺麗に洗って――傷の治りが早くなる、いい絆創膏があるの。んー……こんなもんでいっか。じゃ、戻りましょ」 あうぅ……ズキズキする…… 委員長と遠藤さんが心配そうに見守る中、再び丸椅子に腰掛ける。「これね、絆創膏。一日一回、傷口をよく洗ってから貼り替えてね」 あたしの手に数枚絆創膏を持たせると、先生は一枚封を切り、肌色半透明の変わった形の絆創膏を取り出して、ジンジン痺れたように痛む親指にくるりとそれを貼り付けた。痛みが幾らかマシになったような気がして、あたしはふぅ~っと一息つく。「釘とか画びょうとか……小さな刺し傷でも、場合によってはほんと大変なことになるのよ。よく注意して歩かないと――」「先生、こいつ……靴に画びょう入れられたんじゃ」「え――」 と、ガラッと勢いよく扉が開き―― 振り返ると、水原先生が制服と鞄を手に、肩で大きく息をしながら立っていた。「あ……すみません、あたしの制服……」「ハァ、遅うなって、しもうて……フゥ」「あらあら大丈夫? 水原先生。じゃあ、その制服こちらに――、どうしました?」「せーがあの……高槻さんの制服、見当たらんで……これは遠藤さんの――」 え、あたしの制服――なんで? 机の上に畳んで置いてたのに……「ちょーどそばにおった小野君と柏木さんが一緒に探すのてごーして――あ、手伝うてくれたんじゃけど見つからんで……」 小野と結実が…… でも、あたしの制服、どこいっちゃったんだろう……「取り敢えずこれに着替えなさい」 虚ろな頭で考えを巡らすあたしに、先生がジャージを差し出す。「高槻さん、うちに掴まって」 あたしは遠藤さんの手に掴まり、奥のベッドの方へひょこひょこと右足を浮かせて移動した。「うちはこっちで……ここ、カーテン閉めるね」「うん。ありがとう、遠藤さん……」 のろのろと雨に濡れた体操服を脱ぎ、渡された長袖ジャージに着替える。「――着替え、終わった?」「あ、はい……」 カーテンを力なく開け外に出ようとすると、白衣の腕があたしを押し止めた。「そのままベッドで寝てなさい。脱いだの、こっちに貸してくれる?」「すみません……」 濡れて重くなった体操服を先生に渡し、ベッドに横たわる。途端、重く沈み込む身体――じわりと全身を覆う耐え難い疲労感に、いかに自分が体力の限界を超え動き回っていたかを、あたしは改めて思い知らされたのだった。「高槻さん、鞄ここ置いとくけぇね」 水原先生がそろりとカーテンを開け、鞄をベッドの脇に置く。「お家のひと連絡入れといたけぇ、じき来てじゃろーからそれまでゆっくり寝とられぇ」「え……」 彩香さんに連絡いったんだろうか……「先生、もういっぺん制服探してくるけぇ。帰るまでに間にあやーええんじゃけど……」「じゃったら、俺も一緒に――」 委員長がカーテンの端から顔を覗かせる。「中沢君、3位じゃったじゃろ。昼休みが終わりゃー体育館で閉会式あるのに表彰遅れたらおえまぁ? じゃ高槻さん、よう休んどって」「すみません、水原先生……」 ぽんぽんと掛け布団を叩き、先生はくるりと踵を返す。入れ替わるように委員長と遠藤さんがカーテンの内側に入ってきた。「高槻さん、大丈夫? 無理させてしもうて、ほんまにごめんね……」「ううん……結局、なんの役にも立てなかったし……無駄に心配掛けただけで……」「そねーなこと――、うち、嬉しかった……高槻さんがうちのこと気に掛けてくれとるんが――うちの為に一生懸命になってくれとるんが、心強うて嬉しかったんよ。ありがとう、高槻さん……」「遠藤さん……」 思いを伝えようと、真っ直ぐに向けられた瞳――いつもどこか他人行儀な感じで、おどおどと視線を逸らしていた彼女が…… 黒縁眼鏡の奥の気持ちのこもった一途な眼差しに、あたしの胸はじんわりと熱くなった。「――遠藤」 不意に名前を呼ばれ驚いたのか、遠藤さんがびくっと委員長を振り返る。「高槻の前、走ってったやつ……覚えとるか?」 あたしは委員長に虚ろな視線を向けた。「矢印、橋のほう向けられとったんじゃ」「えっ?」 遠藤さんが小さく驚きの声を漏らす。 あたしはぼんやりと委員長の言葉を頭の中で繰り返した。 向けられとった――って……え、じゃあ、誰かが故意に矢印の向きを―― あたしの前――「……黒田さんじゃ」「黒田?」 委員長が遠藤さんに訊き返したその時、再びガラリと扉の開く音が聞こえた。 photo by little5am
2017.01.25
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「車道出るけぇ、しっかり掴まっとかれ」 委員長はあたしの腕を取ると、再びぐいっと自分の方に引き寄せた。「…………」 ヤバい。絶対、ヤバいってコレ……。 サイクリングロードを抜け出た自転車は、やがて住宅街に差し掛かり――傘を差し歩道を歩くおばさんが、横を通り過ぎるあたしたちを好奇の眼差しで追う。風をはらんで半分脱げかかったフードを、あたしは慌てて目深に引き被った。 そのうち学校の坂下に辿り着き、お礼を言って自転車から降りようとすると、「もちぃーと乗っとれ」 委員長はあたしを遮り、半立ちこぎで雨水の伝う坂道を上り始めた。でも、さすがに半ば辺りでふらふらと蛇行し始め、――キッ……「ハァッ、ハァッ……おえん、ここまでじゃ」 委員長はブレーキを握り締め、濡れた路面に足を付いた。 幸い、応援に駆け付けた保護者で賑わっていた坂道も既にその姿はなく、降りしきる雨に生徒の姿も見当たらない。これならなんとか目立たず戻れそうだ。「委員長、ありがと……ほんとに助かっ――、つっ……」 足を地面に下ろした瞬間爪先に走った激痛に、あたしは身を屈めた。「高槻っ?」 自転車をその場に停め、委員長が慌ててあたしを覗き込む。「足、捻ったんか? そういや遠藤、おめぇの足がどうのって――」「ん、ちょっと無理したから……でも、大丈――、っ……」「ちょっ、大丈夫ちゃうじゃろっ?」 足を休ませたせいで、痛みの感覚が戻ってきたんだ……「高槻、おめぇ顔色が――」委員長があたしの額に手を当てる。「おい、熱あるぞ!?」 そういえばさっきから目の前がクラクラと――寒気も治まらないし……「早《はよ》う保健室行って着替えんと――」「う、ん……、ッ……」「ちょ、おいっ」 よろけるあたしの腕を委員長が掴む。 ズキンズキンと脈打つように痛む右足――頭がなんだかぼーっとして左足にも力が入らなくて……と、不意に委員長はくるりと背を向け、その場にしゃがんだ。「――ほれ」「へ……?」 ぼんやりと間の抜けた声で返す。「ほれ、って」 え、まさか……負ぶされ、ってこと? 躊躇するあたしに「ほれ、早う!」委員長が険しい顔を向ける。その背中には、絞れる程に雨水を含んだシャツがべったりと張り付いていて―― 委員長こそ早く着替えないと…… あたしは意を決して委員長の背中に負ぶさり、そろりとその肩に腕を回した。「背中、びしょじゃけど我慢な。恥ずかしぃんじゃったらカッパで顔隠しとかれ」「う、うん……」「ちぃと急ぐぞ」 あたしを背負い、委員長は力強い足取りで雨の坂道を駆け上がる。 あぁ、せめて背負われているのがあたしだと気付かれませんように――っていうか、この状態……うぅ、すぐ目の前に委員長の首筋が……ハーフパンツから出た生脚に委員長の手が……、レインコート越しとはいえ、なんか密着度がハンパないんですけど…… 委員長の背に揺られながら、ぼやけた頭でぐるぐる思考を巡らせていると、「中沢君っ……高槻さんっ……」 あたしたちの名を呼ぶ声が、雨音に混じり微かに聞こえてきた。虚ろに視線を上げると、坂道を駆け下りてくる赤い傘を差した人影が見え―― あ、あの若い女の先生……いつも明るく応対してくれた……「高槻さん見つかったんじゃね! 車で探してくれとる先生らぁから見つからんいう連絡しか入らんけぇ、もー心配しとったんよぉ。ああ、えかったぁ!」 あたしたちの元にやってきた先生がこちらに歩調を合わせながら、あたしたちに傘を差し掛ける。「高槻さん大丈夫? 遠藤さんが、高槻さんのことえれー心配しょーて――」「すみません……ご迷惑お掛けして……」「水原先生、こいつ雨ん中倒れとって――足、痛めたらしゅーて、あと熱もあるんじゃ。こんまま保健室行くけぇ、高槻の制服、取ってきちゃってくれんじゃろか」「えっ、そりゃ大変じゃ。高槻さん、今日どこで着替えたん?」「今日は自分のクラスで……2Aです。机の上に畳んで……」「ん、2Aじゃね! 中沢くんも服、ずぶ濡れじゃけど――」「あぁ、俺ぁ保健室でなんぞ借りるけぇ」 校舎の方から、雨音に紛れ洋楽が聴こえてくる。もうお昼休みなんだ…… やがてあたしたちは、高等部校舎の玄関口に辿り着き、「急いで着替え取ってくるけぇ、先行って手当てしてもらいよーてね」 先生は携帯で連絡を取りながら慌ただしく踵を返した。「あー、靴……えーわ、こんまま行っちゃろ」 あたしを背負ったまま委員長は玄関ホールに土足で入り、生徒で賑わう廊下を保健室へと突き進む。途端、打ち寄せる波のように膨れ上がるざわめき――あたしはレインコートのフードを更に引き被り、委員長の背に隠れるように身体を縮こまらせた。――なぁあれ、高槻さんじゃねんっ? ――女子らぁ騒ぎょーたの、ほんまじゃったんじゃ……――いやーっ、あねんくっついてっ…… ヤバい、めちゃバレてるし……。「大丈夫か、高槻。じき保健室じゃけぇ」「はいぃ~……」 な、なんか余計、眩暈が……――ガラッ……!「すいません! こいつ診《み》たってほしいんじゃけど」「あらあら――」 白衣を着た年齢不詳な感じの美人の先生が、すっとこちらに歩み寄る。「足、降りれるか」「ん……、ごめんね、委員長……つつっ」 と、――シャッ…… 奥のベッドのカーテンが引き開けられ、「高槻さんっ……!?」 中から遠藤さんが血相を変えて飛び出してきた。 photo by little5am
2017.01.24
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どれくらいうずくまっていたのか―― 朦朧とした意識の中、――キキーッ、ガシャンッ…… 激しく単調な雨音を蹴散らすように、不意に鋭い音が響き渡り――「高槻っ……!?」 委員、長……?「大丈夫か、高槻っ」 うそ……ほんとに…… 駆け寄ってきた委員長が、道に倒れ込んだあたしを慌てて抱き起こす。「おい、高槻っ」「ハァ……来て、くれたんだ……」「高槻……」 委員長は目を伏せ深く息を吐くと、再び険しくあたしを覗き込んだ。「なんでこねーなとこおるんじゃ、おめぇ」「……えんど、さん……見なかった?」「ひとんこと心配しとる場合じゃ――」「遠藤さん、に、待っててって……言ったの」「バンでけぇーってきたとこ会うた。今頃ぁ保健室運ばれとるはずじゃ」「そう、なんだ……ハァ、よかった……」 あたしはほっと胸を撫で下ろした。「遠藤が高槻見当たらんゆーて騒ぎょーて、せーで俺……じゃけどなんでこねーな方――、橋の手前の矢印、見んかったんか?」「橋の……、見たよ……ちゃんと……」「じゃあ、なんで橋渡ったんじゃ」 委員長は何を言っているんだろう…… なんだか頭が回らずぼんやりと答える。「だって、矢印の通りに……それで橋を渡って……」「あぁ? 矢印通りって――」 委員長は眉を寄せ、束の間思案する素振りを見せると、ハッと我に返ったように視線を落とし、「おえん、風邪引く。立てるか」 あたしの腕を掴んで自分の肩に回させ、あたしをゆっくりと立ち上がらせた。と、足に力が入らずガクンとくずおれそうになり、委員長に素早く抱きとめられる。「ハァ……ごめ……」「いや……、ちょ、こっち――歩けるか」「ん……」 ふらつく身体を委員長に支えてもらい、横倒しになっている自転車へと歩み寄る。倒れた衝撃でカゴから飛び出したらしい何かを手に取ると、委員長はそれをバサッと広げ、あたしの肩に掛けた。 レインコート……「男もんじゃけど……自転車ごとサトシから借りてった」 そう言ってあたしの頭にフードを被せ、スナップボタンをプチプチ留めていく。 なんかあたし、子供みたいだ……ブカブカのレインコートも…… ふと全てが滑稽に感じられ、こんな状況にも拘らず思わず吹き出しそうになりながら力なく視線を上げると、目の前には遮るものなく雨に晒され続ける委員長がいて――「――――、あたしだけ……悪いよ……」「俺ぁ丈夫じゃけぇ、気にせんでええ」 既に着替えを済ませた制服姿の委員長はすっかり濡れそぼり、髪からはポタポタと絶え間なく雨の雫が伝い落ちている。――こんな雨の中、ずっと探してくれてたんだ…… レインコートにバチバチと打ち付ける雨音を聞いているうち、ただ安堵感で満たされていた胸の内に申し訳なさと感謝の気持ちが込み上げてきて、瞼がじわりと熱く滲んだ。「……ありがと、委員長……」 委員長は無言でレインコートのフードをくいっと手前に引っ張り目深に被らせると、倒れた自転車を起こし、「サトシん自転車、ママチャリでえかった」 少しおどけた顔で後ろの荷台をぽんぽんと叩いた。 乗って――自転車にまたがり後ろを指差す。「う、うん……」 あたしは横向きにそろりと腰掛けた。「雨で滑りやすいけぇ、ようしっかり掴まっとけぇよ」 委員長が男子用のレインコートにすっぽり覆われたあたしの腕を掴み、自分の腰に回す。「…………」 初めは気恥ずかしさから遠慮がちに腕を回していたあたしだけど、委員長の力強いこぎっぷりと曲がりくねる道に荷台から何度か落ちそうになり、結局はその背中にしがみつくことになったのだった。 似たような道をなんの躊躇いもなく突き進んでいく委員長。極限状態の中走った、終わらない悪夢のような道がいとも簡単に前から後ろへと流れ去っていくのを、あたしは不思議な思いでぼんやりと眺めた。「よく間違わないよねぇ……」「あぁ? 道か? おぅ、車ん屋根にクロスバイク括りつけて、夏によう親父とサイクリングに来たけぇの。蝉の声がまたすげぇんじゃわ、これが」「へぇー、そうだったんだ……」 成程、詳しいわけだ。それにしても――委員長にはいつも助けてもらってばかりだ、あたし……「尻、痛くねぇーか」 委員長が振り返り訊ねる。 尻……。そういえば自転車が弾むたびアルミパイプが強く当たって、決して座り心地がいいとは言えないけど……「――文句は言いません」 殊勝な言い方がおかしかったのか、委員長の背中が小刻みに揺れる。「委員長……マラソン、何位だったの?」「あー、俺? 3位」「3位……」 去年が5位で、今年は3位――すごい……。 委員長って何気にオールマイティーだよね。また委員長ファン、増えるんだろうなぁ。 と、そこでふと考える。 こんな状態で戻ったら、ヤバいんじゃ? 委員長とこんな密着して…… しがみつくように回していた腕をそろりと緩める。――が、すぐさま、「車道出るけぇ、しっかり掴まっとかれ」 委員長はあたしの腕を取ると、再びぐいっと自分の方に引き寄せた。 photo by little5am
2017.01.22
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地面を踏み込む度、右足にビリッとした刺すような痛みが走る。でも今は、そんなこと構ってられない――というか、一度でも痛みに捉われてしまうと、もう一歩も進めなくなってしまいそうな気がする。 あたしは歯を食いしばり、ただ中間地点まで辿り着くことだけを考えひたすら足を前に出し続けた。やがて道が二手に別れている所に差し掛かり――「ハァッ、ハァッ……、こっちか……」 学校が臨時に設置したと思われる方向指示板の矢印が指し示す通り、小さな橋の架かる道を奥へと突き進む。「ハァッ……ハァッ……」 苦しい……でもきっと、あともう少し―― ひとり救助を待つ遠藤さんを思い浮かべ、挫けそうな気持ちを奮い立たせ走る。と、暫く行ったところで目の前にまた二手に別れた道が――「ハァッ……ハァッ……、どっち……?」 辺りを見回しても今度は指示板などどこにも見当たらず――、あたしは暫し逡巡した後、やや道幅の広い左側の道を選択し、そちらの方へと足を向けた。 こっちで合ってる? なんで何の表示もないんだろう……でも、山を回り込むコースなら、そろそろ左側に進路を向けてもいいはず――「ハァッ……ハァッ、フーッ……」 あぁ……中間地点、まだなの……バンは…… 右足はもはや痺れたように感覚がなく、朦朧とした頭に響く乱れた荒い息遣いが体力の限界を告げている。――と、「ハァッ、ハァッ……嘘、でしょ……」 走ってきた道が数十メートル先で行き止まりになっていることに気付き――あたしは肩で大きく息をしながら愕然とその場に立ち尽くした。噴き出した汗が顎先からポタポタと滴り落ちる。 こっちじゃなかった……来た道、また戻らなきゃいけないの? 一気に気力が萎え、へなへなとその場にへたり込む。「ハァーッ、フゥッ……も、無理……」 苦しいよ……波琉…… 虚ろな意識の中頭に浮かんだのは、波琉の優しい笑顔だった。でも次の瞬間、――さよなら、紗波…… 頭の中の波琉はくるりと背を向け、次第にぼんやりとその輪郭を失い――「――――、ハァ、ハァ……」 強くならないと、あたし……遠藤さんも待ってる。 間違えたとしたら、さっきの分かれ道だ。 滲む涙もそのままに、ふらりと立ち上がり踵を返す。カーブを描く道は、生い茂る木立に遮られその先は見えない。一体、どのくらいの距離を無駄に走ってきたのか――体力はもう、1ミリの余裕も残されていないというのに…… どうして指示板、置いてくれなかったの――学校側の配慮のなさと選択を誤った自分に苛立ちながら、ふらつく足取りで来た道を引き返す。と、先程の分岐点まで一本道を戻っているはずのあたしの目の前に、不意に脇道が現れ――「ハァーッ……フゥーッ……」 こんなとこに道あったっけ……いや、これは脇道なんかじゃなくて――あたしが来た道は……こっち? 目の前に延びる2本の道――横を通った時、なぜ気が付かなかったのか……呆然としつつも、あまりに疲れ切った自分をもはや責める気にもなれず―― 生ぬるい風が、生い茂る木々をざわざわと揺らす。日射しの欠片もない曇天では方角を知ることさえできない。 どうしよう……どっちに行けば―― あたしは途方に暮れ空を見上げた。その頬にぽつりぽつりと冷たい感覚が走る。雨? と思ったのも束の間、それはあっという間に本格的なそれへと変わってしまった。――ザーッ…… 既に飽和状態に達していた灰色の空から情け容赦なく降り注ぐ雨――あたしは取り敢えず、右側の道の脇で一際大きく枝葉を伸ばしている木の下へと身を寄せた。「遠藤さん……」 彼女はどうなったんだろう―― 救護班が彼女に気付かず引き上げてしまったら……この雨の中、まだあの場所であたしを信じて待ち続けていたとしたら――――ザーッ…… 「早く知らせないと――」 おぼろげな記憶を必死に思い出しながらきょろきょろと辺りを見回す。あたしはふと、自分が雨宿りしている木を見上げた。 こんなに大きな木、目にしてれば覚えてるはず――走ってきたのはきっと左側の道だ。 降りしきる雨の中、あたしは再びサイクリングロードへと飛び出した。闇雲に走るのは危険だ。後ろを何度も振り返り、記憶にある景色と照らし合わせながら前に進む。――ザーッ…… でも、こんなにカーブきつかった? ほんとにこっち? 横から合流する道にも気付かないくらい疲れ切ってて……あの大きな木だって、ただ見落としてただけなんじゃないの? 一度浮かんだ疑念は足を鈍らせ、迷った末、結局来た道を引き返す。「フゥッ……ハァッ……ハァッ……」 汗をかいた身体が急激に冷やされ、ゾクゾクと寒気がする。足の感覚は既に失われ、前に進めているのが不思議なくらいだ。いや、前進しているのか後退しているのか、それすらももうわからない。分岐点までヨロヨロと戻り、先程の大きな木を横目に渾身の力を振り絞って先に進む。「ハァーッ……ハァーッ……」 そしてようやく現れた問題の分かれ道―― よかった……こっちの道を行けばきっと中間地点に辿り着ける――ふらりと足を踏み入れハッと立ち止まる。 砂利、道……? 違う、この道……だって、アスファルトだった――「……ハァ……ハァ……」 ここは、どこ…… 入りかけた道からよろめくように後ずさる。 あたしは……どこにいるの……――ザーーッ…… 強まる雨足に不気味にざわめく木立、右も左も似たような鬱蒼と薄暗く延びる道―― 世間から隔絶された――異次元にひとり取り残されたようなどこか現実味のない景色が、覚めない悪夢のようにあたしを追い詰める。「ハァ……ハァ……も、やだ……」 雨とは違う生暖かいものが頬を伝い落ちてゆく。精根尽き果てたあたしはついに歩くことさえできなくなり、雨が激しく打ち付けるアスファルトの上にふらふらと倒れ込んだ。「ハァ……ハァ……ハァ……」 さむ……い……――ザーーッ…… 約束、したのに……ごめん、遠藤さ…… photo by little5am
2017.01.20
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苦痛を堪えのっそり振り返ると、そこには青ざめた顔でお腹を押さえ、こちらに負けず劣らずひどく辛そうに走る遠藤さんの姿があった。「遠藤、さん……ハァ、ハァ……」「ハァ、ハァ……あ、足、痛いん? ハァ……大丈夫?」「遠藤さんこそ……ハァ、ハァ、すごく辛そう、だけど……」 どちらがより辛いのかはともかく、取り敢えず二人とも切迫した状況にあることだけは確かだった。「ハァ、ハァ、遠藤さん、顔色が――具合、悪いんじゃ……」 覗き込むように尋ねると、遠藤さんは黒縁眼鏡を持ち上げ、手の甲で汗を拭いながら悔しさの滲む声で言った。「去年、完走、できんかったけぇ……今年は、思よーたのに、ハァ、ハァ……今朝、はじ……始まって、しもうて……」「始まって……、あ、アレ……?」「ハァ、ハァ、うん……、うち、いっつも、生理痛きつぅて……」 よりによってこんな日に――あたしは彼女に同情の眼差しを向けた。「無理しちゃ、だめだよ……ハァ、ハァ」「ハァ……高槻、さんは……足、どねんしたん? ハァ……」「これは……ハァ、ハァ……」 くだらなすぎて一瞬躊躇ったものの、愚痴りたい気持ちを抑えられず口を開く。「誰かに靴、画びょう入れられて……傷口治りかけてたのに、走ってるうち、ハァ、ひどくなっちゃって……」「ハァ、ハァ……だ、誰がそねーな――、つっ……」 と、不意に彼女は顔をしかめて身を屈め――「だ、大丈夫っ? ハァ、ハァ、もう走るの、やめた方が――」 遠藤さんは唇を噛み締め、ぶるぶると駄々っ子のように首を横に振った。「でも……ハァ、顔色が、すごく悪いよ……」「今年は、ハァ、ハァ……ぜってぇ、完走するんじゃって……決めたけぇ、ハァ……」「遠藤、さん……」 いつもどこか自信なさげにおどおどしてる遠藤さん―― 控えめで自己主張が苦手で……でも彼女のこと、少し勘違いしていたのかもしれない。本来の彼女は芯の強い、思いのほか逞しい女の子なのかも……「――そねん必死にならぁーでも、ええんじゃねん?」 突然の声に、ハッと後ろを振り返る。「ハァ、ハァ、棄権すりゃーええがん。ふっ……」 微かな笑みを浮かべ、どこかまだ余裕のある様子で声を掛けてきたのはカズエだった。「こん先、中間地点にゃあ、救護班とバンが待機しとる……ハァ、どーせ毎年、何人かズルしょーるんじゃ。うちも今年ぁ、そこでやめるけぇ……ハァ、遠藤さんも、去年みてぇに、やめりゃあええがぁ。ふふっ」「ハァ……う、うち、去年は足挫いて、ハァ、ハァ……ズルしたんと、ちゃうけぇ……」 そう思われるのが嫌で、今年こそ完走したいと思ったのだろう――遠藤さんは、去年の棄権をまるでわざとズルしたかのように言うカズエに、彼女にしては珍しく僅かに怒りの滲んだ声で言い返した。「フン、えらそうじゃけぇ、アドバイスしただけじゃが。ハァ、ハァ、別に走れるんじゃったら、走りゃーええけど」 興味なさそうに肩を竦め、カズエはあたしの足元にチラリと視線を落とす。「足、まだ治っとらんの? ハァ、ハァ……あんたも、棄権した方がよさそーななぁ」 一見心配するような口振り――でも微かに細められた目元に、どこか面白がっているようなニュアンスが感じられ、 「いい気味だと、思ってんでしょ……ハァ、ハァ」 あたしは思ったままをカズエに返した。 カズエの顔に肯定とも取れる笑みが束の間浮かび、すぅっと消え失せる。「――ずりぃわ、あんた……」 代わりに表れた、暗く冷たい眼差し――――ずるい? どこか含みのある言い方に眉を寄せるあたしの横で、遠藤さんが再び声を荒げる。「高槻、さんはっ……ハァッ、足、怪我しとるのに、頑張りょんじゃ、ハァッ……ずりぃんは、くっ、黒田さんの方じゃろっ……」 遠藤さん…… あたしは意外な思いで彼女を見つめた。「そーじゃのーて――フン、まぁえーわ、ハァ、ハァ……うち、はよぉ休みたいけぇ、先行くわ。あんたらぁ、べっとこみてぇじゃけど、ま、せいぜい頑張られぇ」 カズエは憎まれ口を叩くとピッチを上げ、ぐんぐんあたしたちから遠ざかっていった。「ハァ、ハァ……なにあれ、全然完走、できそうじゃん、ねぇ? あれ……?」 ふと隣に気配がないことに気が付き、後ろを振り返る。「え、遠藤さんっ……!?」 後方でうずくまる遠藤さんに驚いたあたしは、右足を庇いながら慌てて彼女の元へと駆け寄った。「ハァッ、ハァッ……だ、大丈夫!?」「ハァーッ……ハァーッ……うぅ……」 青ざめた顔から玉のような汗が滴り落ちている。完走しようとする本人の強い意志とは裏腹に、遠藤さんの身体はどう見ても限界にきているように思えた。「もう、無理だよ、遠藤さん……ハァッ、ハァッ」「っ……、ハァッ、ハァッ……」 長い三つ編みが、痛そうに背中を丸める彼女の肩からアスファルトの上に滑り落ちる。 あたしは困り果て、きょろきょろと辺りを見回した。が、前にも後ろにも誰の気配もなく――カズエが言っていた『べっとこ』というのは、どうやら一番最後、という意味らしい。でもそれなら、不測の事態が起こった場合の連絡係として最後尾に付けているはずの先生の姿があってもいいはずなんだけど――「た、高槻、さん……悪いけぇ、先、行って……ハァッ、ハァッ……うち、遅れて、行くけぇ……」「動かない方が、いいよ、ハァ……先生、後ろにいるはずなんだけど、どうしたのかな」「ハァッ……調子悪そうな子が……後ろ走りょーたけぇ……ハァッ……その子に、付いとんかも、しれん……」「えぇ……」 どうしよう……先生、いつこっちに来てくれるんだろう。時間掛かるかも――「ちぃと、治まったら……ゆっくり行くけぇ……ハァッ、ハァッ、うち、気にせんと、ハァッ……それに足、早いこと、手当てしてもろうた方が……、うぅ……」「ちょっ……大丈夫っ?」 ダメだ――こんな調子悪いのに、中間地点まで行けるわけがない。「バン、停まってるって、言ってたよね……遠藤さんあたし、急いで救護班呼んでくるから、ここで動かないで待ってて――、ふーっ」「……た、高槻さん――」 呼吸を整え、意を決して立ち上がる。「――すぐだから、ね」 戸惑う遠藤さんから視線を前方に移し、あたしは気合いを込め足を踏み出した。 photo by little5am
2017.01.18
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「あ~、今から8キロやこー考えただけで倒れそーなわ。あとちぃーとで雨降りそうなんじゃけどなぁ」「じゃけど、ここまで来りゃあ多少雨降ろうが中止にゃーなるまぁ。はー梅雨入りしたとかどーとか、暫く天気ハッキリせんけぇ延期できなんだ言よーたし、今日で強引に終わらす気じゃ」「ってか、女子のスタート前倒しで男子のゴール見れんて、なんそれ。は~、やっちもねぇ」 前に立つ女子二人がぶつぶつとぼやくのを、聞くともなくぼんやりと聞く。 灰色の雲がどんより重く垂れ込めた空の下、男子は半時間程前にスタートを切っていて、校門前は次のピストル音を待つ高等部全女子生徒と応援に駆け付けた保護者で賑やかにざわめいていた。 あぁ、眠気が……頭が重くて身体も怠いし…… パパに今朝、無理をしないよう念を押されたけど――なんか最後まで走りきれるか自分でも自信なくなってきた……「――なぁなぁ、中沢君、今年何位じゃと思う?」「あー、確か去年は5位じゃったわな、柊哉。じゃけぇ、今年ぁもっと上狙えるんじゃねん?」 気付けば委員長のことが話題に上っていて、眠気覚ましとばかり耳を傾ける。「柊哉って文武両道じゃもんなぁ。あねんモテよるのに、いーっこも彼女作らんのがこれまたストイックな感じでええんよな~」 「ほんまな~。もういっそ彼女やこー作らんといてほしー思うけど……。じゃけど、こねーだ転校してった子ぉとなんじゃ仲ようなっとるって、聞いた?」 は……まさか、屋上ランチがバレ――「あー、あれじゃろ? 学校案内したぎょーたとか、授業中、先生に怒らりょーるとこ庇うたとか――委員長じゃからじゃねん? ほれ、柊哉って面倒見ええとこあるし」 あ、そっち……。でも確かに委員長って、そんなところあるよね。「まぁ別に陰で二人っきり、どーのこーのしょーるワケでもねぇしな」 どきっ。「ふっ、そねーなことにでもなりゃー、うちらの柊哉をたぶらかした罪で血祭りじゃわ、その転校生」 …………。「じゃけどほれ、あれがあるじゃろ。暗黙の掟」「あー……、誰が言い出したんかしらんけど、みんな律儀に守ってお互い目ぇ光らせとるもんなぁ。はぁ~あ、柊哉のハート射止めよるんは一体誰なんじゃろーなぁ」――暗黙の掟? と、ふと後ろを振り返った片方の女子が、あたしの存在に気付き――〈お、おえん、後ろおった……〉〈わ、うちらなにゅー言よーたっけ……〉 たぶらかすとか血祭り、とか……。〈……ちょ、あっち行かん?〉 〈じゃ、じゃな……〉 二人コソコソとカニ歩きで横に移動していく。 …………。 委員長ファンって、ほんと多いんだ……あたしって、何気にすごく大それたことしてるのかも? でも、一緒にお昼食べてるとちょっと楽しいっていうか、いないとなんか寂しいっていうか――そんな理由だけで委員長と一緒にいるのって、マズイのかな……。 と、モヤモヤ考えているところに女子のスタートを告げるメガホンの声が響き、あたしは気を取り直し、そちらの方に意識を向けた。――パンッ……! 曇り空に乾いた発砲音が響き渡る。 どっと沸き立つ声援の中、一斉に動き出す人波に押し流される形で、あたしは重い一歩を踏み出した。 地面を駆けるたくさんの足音、弾む息遣い――沿道からの声援を受け、ひたすら前へ前へと突き進む女子生徒の長い列―― 「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ……」 ヤバい、なんかフラフラする……まだ始まったばかりなのにどうしよう…… 持久戦を考慮して、出された朝食はなんとか食べきったけど、やっぱり昨晩一睡もできなかったのが堪えたか…… 思うように動かない身体には、沿道からの励ましもただのプレッシャーでしかなく――まだ走り始めて間もないというのに早くも体力の限界を覚えたあたしは、見る間にその順位を落としていったのだった。「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ……」 あぁ、また抜かれた……なんかもう、どうでもいいかも…… 追い抜かれるごとに気力さえも奪われていく。 序盤でこれって――ゴールに辿り着く頃にはどんなみっともない姿になっていることやら……。やっぱり彩香さんの応援、断って正解だったかも―― 声援の飛び交う住宅街を抜けると待っていたのは、鬱蒼と生い茂る木々に囲まれた、やや道幅の狭いサイクリングロードだった。 小高い山々の間を縫うようにして作られたこの道を、ぐるりと迂回しながら折り返すことなく走り抜ける――それが何十年と受け継がれてきた音ヶ瀬伝統のマラソンコースだと、開始前、校長先生が言っていた。が、晴れの日ならいざ知らず、今にも雨が降り出しそうな空の下、その道はどこか閉塞的で薄暗く―― 応援する者の途絶えた閉ざされた空間が、走者を更なる孤独な戦いへと追い込んでいく。「ハァッ、ハァッ、ハァッ……」 足がもつれそう……なんで、昨日少しでも寝ておかなかったんだろう。まぁ、寝ようと思っても寝られなかったんだけど…… 続く緩やかな傾斜が、なけなしの体力を容赦なく奪っていく。――さよなら、紗波…… ふとよみがえる、最後の言葉―― ……波琉のせいだ。波琉の、バカ…… 汗か涙か区別のつかないものを手の甲で拭い、あたしはふらつく足をひたすら前に出し続けた。 目の前に迫る急カーブ――その林の陰に女子生徒たちは次々と姿を消していく。前のめりに走る姿はどれも苦しそうで、でも、各々がその辛さと戦っていて――あたしは気を取り直し、地面を強く蹴った。と、先程から微かに痺れた感覚のあった爪先に、ビリッとした激痛が走り――「痛ッ……」 顔をしかめ、つんのめるように立ち止まる。「つ……、ハァッ、ハァッ……」 画びょうでケガしたとこ、今朝うっかり絆創膏貼るの忘れて――、でも治りかけてたのに…… きっと、無理をしたせいで傷口が悪化したんだ…… 呆然と立ち尽くすあたしを、後ろを走っていた女子たちが怪訝な表情で振り返りながら追い抜いていく。 数人に抜かれたところで、あたしは再び気力を奮い立たせ、よろよろと渾身の一歩を踏み出した。が、地面を踏み込む度走る、刺すような痛み――「ハァッ、ハァッ……」 足に……力が……――最後まで走るのは無理かも…… 右足を庇い、半ば倒れ込みそうになりながらフラフラと前に進む。その間にも、どんどん後ろの生徒に追い越され―― なにもこんなに頑張る必要ないんじゃ…… パパだって無理しないよう言ってたし…… 痛くて、苦しくて、何もかもが嫌になって――もういっそ走るのを止めてしまおうかと思ったその時、「――た、高槻さ……ハァ、ハァ……」 背後から、か細く苦し気な声が聞こえてきた。 苦痛を堪えのっそり振り返るとそこには、青ざめた顔でお腹を押さえ、こちらに負けず劣らずひどく辛そうに走る遠藤さんの姿があった。 photo by little5am
2017.01.16
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「お、このインゲンのゴマ和え、柔らかくて美味しいなぁ」「インゲンマメね、教習所から帰ってきたら玄関先に置いてあったの。長谷部さんとこのおばあちゃんが持ってきて下さったみたい。――あ、ねぇ圭一郎さん、こっちのも食べてみて、肉じゃが! 味付け、紗波ちゃんに教わったの。どうかな?」「どれどれ……ん? これ紗波の味付け? ちょっといつもと違うような……あっ、でもすごく美味しいよ、うん。あー、やっぱりみんなでごはん食べるのっていいなぁ。いつもこれくらいの時間に帰れるといいんだけど」「ほんと、残業続きで圭一郎さんが身体壊さないか心配だわ」「まぁ、プロジェクトが本格的に動き出して間がないから仕方ないんだけどね。もう少ししたら落ち着いてくると――ん? どうした紗波、さっきからずっと黙り込んで……お箸だって全然動いてないし」「えっ? あ……」 いけない、また波琉のこと考えてた……こんなとこでうっかり泣いてしまったら困るのに……「何かあった?」 パパが心配げな眼差しを向ける。「え、別に何もないよ?」 あたしは無理やり笑顔を絞り出し、目の前の肉じゃがを頬張った。「――そういえば週末も、なーんか元気なかったよなぁ?」「そんなこと……特に何も変わらないけど?」 喉につかえて飲み込めないジャガイモを、ゴクリとお味噌汁で流し込む。「紗波ちゃん、帰ってきてから特に様子が――、肉じゃが、お砂糖とお塩間違えそうになったり、みりんじゃなくてお酢入れようとしたり……」「え、紗波が? おいおい、ほんとに大丈夫なのか?」「ちょっと、ボーッとしてて。はは……」「紗波ちゃん、体調悪いんじゃ……あっ、そうだ、紗波ちゃんの学校って明日マラソン大会あるんでしょ? 教習所で仲良くなった人から聞いたんだけど、女の子は8キロ走るって――、大丈夫っ?」「えっ、そうなんだ。うーん、8キロか……そりゃきついなぁ。体調悪いんなら見学したほうがいいんじゃないか、紗波」 パパと彩香さんが同じような顔をして心配そうにあたしを窺う。「――大丈夫だよ。全然どこも悪くないし」「ほんとに?」「うん」「あっ、ねぇ紗波ちゃん、音ヶ瀬学園のマラソン大会って、この辺りじゃすごく有名なんだってね。その方のお子さんも音ヶ瀬の生徒さんらしくて、明日応援に行くって――私も明日教習所ないから応援しに行ってもいいかな?」 えっ、彩香さんが?「いや、そんな……応援だなんて」 あたしは苦笑いしながら手を振った。「あ~、パパも見に行きたいなぁ! でも仕事休むわけにもいかないし、う~ん……じゃあ紗波の応援、君に託そうかな」「うん、任せて圭一郎さんっ」 えっ。「いやいやそんな、お見せする程のもんじゃ――ほんと、恥ずかしいんで……」「あっ、でもね、毎年結構な人が応援に来るみたいよ? 目立たないから大丈夫よー、紗波ちゃん。ふふ」「や、でも、バスに乗ってわざわざ……」「ううん、そんなの全然! 明日は駅前までお買い物に出るつもりだったし、紗波ちゃんがいつも乗ってるのだったら乗り換えせずに学校まで行けちゃうし。――そういえば、男の子は12キロも走るんだってね~」「へぇ、12キロ! それもなかなか見応えありそうだなー。12キロっていうと、うーん……1時間くらいかな?」「えっ、それぐらいで走れちゃうの? すごーい! でも1時間も走り続けるのって疲れるでしょうねぇ。8キロだとどれくらい掛かるのかしら? 男の子と女の子でも違うわよね。んー……」 いいって言ってるのに、二人してそんなに盛り上がって――もやもやとした感情が胸の内に湧き上がる。「あの、ほんといいですから。あたし、足もそんな速くないと思うし」「いや、マラソンは速さだけが全てじゃないよ。たとえ時間が掛かったとしても、最後まで走り抜くことに意義があるんだ。うんうん」「そうよ、紗波ちゃ――」――カチャンッ、ガガッ…… 気付けばあたしは、弾かれたように席を立っていて――目の前の小皿に叩き付けるようにして置いたお箸が、からりと音を立てテーブルの上に転がる。「――さ、紗波?」「紗波ちゃん……」「あ……あたし、今日なんだか食欲なくて……やっぱり、ちょっと疲れてるのかも――、だから、明日もたぶんダラダラとしか走れないと思うし、応援に来てもらっても無駄足になっちゃうっていうか……せっかくなのにごめんなさい」「紗波ちゃん、私、あの――」「すみません。部屋で少し休んできますね」「紗波――」 何か言い掛けた二人にくるりと背を向け居間を出る。あたしは足早に部屋へと向かった。 胸が変な風にどきどきしている。 ガラスランプの仄かな灯りに照らされた階段を駆け上がり、あたしは部屋の灯りもつけずベッドに突っ伏した。「――――」 さっき一瞬、感情のままに声を荒げてしまいそうになった…… 胸の奥底へ押し沈めていたものが出口を求め暴れている。気を抜こうものなら、いとも簡単に噴き出してしまいそうだった。 月のない漆黒の暗闇がじわりと格子窓から滲み出し、あたしの全てを覆い尽くしていく。 どうしてこんなに胸が苦しいの……「……波琉の、バカ……」 いろいろな思いが過り、虚ろに眠れぬ夜を過ごしたあたしは、とうとう一睡もできないまま夜明けを迎え―― あぁ、身体が怠い…… 制服を手に、ふらつく足で浴室へと向かい、重く纏わりついているものを洗い流すかのように熱いシャワーを浴びる。 髪を拭いながら廊下へ出ると、「おはよう、紗波ちゃん……」 早く起きたらしい彩香さんが、居間の入口からおずおずと顔を覗かせた。「あ……、おはようございます」「あの、昨日は強引に……ごめんね」「あ、いえ……、あたしの方こそ、あのまま寝ちゃって……なんか、すみません」 ほんとは――様子を窺いにそろそろと階段を上がってくる彩香さんの足音も聞いたし、小さくノックして部屋に入ってきたパパが、ずれた掛け布団をそっと肩まで上げてくれたのも知ってる。「ほんと疲れてたのねぇ、紗波ちゃん……。今日、大丈夫?」「まぁ、はい、よく寝たんで……」「よかった、ふふっ。じゃあ私、元気の出るお弁当と朝ごはん作るね。今日はちゃんと食べて体力つけておかないとね!」「すみません……あ、洗面どうぞ。あたし、部屋で髪乾かしてくるんで――」 あたしはぺこりと頭を下げ、踵を返した。 パパも彩香さんも、いつもあたしのことを気に掛け心配してくれている。マラソンの応援も純粋に励ましたい気持ちから申し出てくれたんだろう。でも……頭ではわかっていても、気持ちが、心が、どうしてもそれについてきてくれなくて―― そう、悪いのはあたしなんだ。想いが通じ合っている二人を温かい目で見てあげることができない、心の狭いあたしが悪いんだ。 そして、その原因は――嫉妬……――嫉妬に取り憑かれて、嘆いたり苦しんだり……そんな自分から目を逸らしたいのに、それも許されなくて―― 波琉の言葉がよみがえる。 波琉は自分を、なぜだか嫉妬の塊だと言った。そんな自分を嫌いになってもいいと…… 部屋に戻り、窓辺に近付いて格子窓を開ける。目の前に広がるのは、まるであたしの心を映し出したかのような暗く沈んだグレーのグラデーション。「でも、波琉……あたしもそう……、あたしもこんな自分が嫌だよ……」 鈍色の海に向かい、ぽつりと零す。 波琉ならきっと、このもどかしい思い、辛さ――わかってくれるよね…… でも、もう波琉の言葉を訊くことはできない。 photo by little5am
2017.01.13
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一体何が起こったのか―― 波琉…… なんだか元気がなくて心配したけど、初めは普通に話してた。笑顔もあった。 ヤキモチ、嫉妬――波琉の言葉が頭の中でぐるぐる回る。 もう来られないって……出発の時が来てしまったの? でもどうして、来ないって言い直したの? なんで嫌いになってもいいなんて言うの? 何の気なしにした委員長の話のせい? でも、あたしにも嫉妬してるって…… そして―― 最後のあれは――なに……? 頭の中、ぐるぐるぐるぐる。 わからない……わからないよ。波琉にはもう、会えないの……? 胸が……痛い――「――しゃなみちゃん? ほれ、そねーひょろどーとったら危ねぇで?」 気が付くと無意識のうちにもう家の近くまで帰ってきていて、長谷部のおばあちゃんが鍬を抱え、畑の中からきょとんとあたしを見上げていた。「あ……こ、こんにち――」「どねーしたんじゃあ、すばろーしぃ顔してぇ……ん? 泣きょーるんかっ?」 ハッと顔に手を遣る。いつの間に涙が……「えれーこっちゃ、どねんした?」 持っていた鍬をぽいっと放り投げ、おばあちゃんが畑から上がってくる。「な、なんでも――」「なんもねーこたーあるまぁ? なんじゃ、がっこーでつれーことでもあったんか? ん?」「アハ……、っ、うっ……」 笑おうとしたけど無理だった。「ありゃありゃ、べっぴんさんがでーなしじゃがぁ! ほれ自転車停めて、ほーべた拭かれぇ」 おばあちゃんが首に掛けていたタオルであたしの顔を拭う。背中を優しく撫でられ、あたしは暫くの間ぽろぽろと涙を零した。「――どーじゃ、ちぃーたぁ落ちつぃーたか」「ひっく……、ごめ……おばあちゃん……」「なぁーんも気にするこたーねぇで。人間生きとりゃあ泣きてぇ日もあらぁ。そげぇなときゃー気ぃ済むまで泣きゃーええんじゃ」 涙を指で拭い、おばあちゃんに小さく照れ笑いする。行き場なく膨れ上がっていた感情が泣くことで胸の内から流れ出し、気持ちに少し余裕ができたような気がした。「おばあちゃん、ずずっ……あの、このことは誰にも――」「ん。おなご同士の秘密じゃな。しゃーけど、なんもかんもひとりでばー抱え込みょーるとくたぶれてしまうでなぁ。抱えきれんときゃー、でーかに話してみられぇよ? ばぁーちゃんでよけりゃーなんぼーでも聞くけぇ、のぅ」「あり、がと……ずずっ」 あたしには、おばあちゃんの記憶というものがない。パパもママも、早くにお母さん亡くしたから……ママなんか両親揃って―― でも、あたしにおばあちゃんがいたら、こんな感じだったのかな…… おばあちゃんの言葉は少しわかりにくかったけど、心配してくれている気持ちは十分伝わってきて、あたしは再び目を潤ませた。「おっ、そうじゃそうじゃ、こねぇだはタケノコぎょーさんありがとなぁ」 心配げな口調を明るく改め、おばあちゃんは元気付けるようにあたしの背中をポンと叩く。「ばぁーちゃんも昼間ぁサンドマメ持ってったんじゃが、でーもおらんみてぇじゃったけぇ、でがけんとこ置いてきたんじゃわ。やらこーてうめーでぇ、また食べてみられぇ」「うん……ありがとう、おばあちゃん。じゃあ、あたし……」「へーえぇ、元気出されぇよぉ」 おばあちゃんに見送られ、自転車を押しながらトボトボ坂道を上る。 ついさっきまで近くにあった、波琉の微笑み、声、眼差し……そして、苦しい程の―― ……さよなら、紗波…… 波琉の残していったものが一足ごとによみがえり、胸の痛みがぶり返す。湿ったスポンジを握り締めた時のようにじわりと涙が溢れ、あたしは厚い雲に覆われた空を振り仰いだ。 もうすぐ梅雨が始まる―― あたしはまた、大事なものを失った。 photo by little5am
2017.01.11
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「僕でも少しは役に立つことあるんだ……」 照れくさいのか、いつになくひねくれた感じの物言いで波琉はそう呟いた。「そんなのっ、波琉がいなくなっちゃったらどうしようって……波琉に数日会えないだけでも、あたし――」 遠からず訪れるであろう別れを想像し、あたしは胸元のタイをきゅっと握り締める。「…………」 はっ。あたし今、すごく変な言い方――「いっ、今のはその、変な意味じゃなくて……」 再び黙り込んでしまった波琉に慌てて言い訳しようとするも、波琉はどこを見るともなく長い睫毛を伏せ物思いに耽っていて……「波……琉?」 何を考え込んでいるのか不安に思いながら、おずおずと声を掛ける。 今日の波琉、なんだか少し様子が――まだ体調が戻りきってないからかな……「波琉、疲れたんじゃない? そろそろ――」「紗波がまた、辛い思いをすることになったらどうしよう……」「えっ? あ、あー……」 なんだ、学校のこと心配して――拍子抜けしつつも、ほっと胸を撫で下ろす。「ふふっ。女子高生の考える嫌がらせなんかたかが知れてる、平気だよ。委員長とも、なるべく人前では親しくしないようにするし――」「……委員長のせいで嫌がらせ受けてるの?」 はっ。そこまでは言ってなかったっけ……。「や……、っていうワケじゃないけどホラ、転校生って何かと目を付けられやすいっていうか……だから人気者の委員長とは、あんまり気軽に話さない方がいいかなー、なんて……」 ふいっとあたしから視線を逸らす波琉。「そうか、委員長と仲がいいから……。人前では、って――他では親しくするんだ」「えっ、や、そういうワケじゃ――」 若干責めるような口振りに気圧され、なんとなく言いよどんでいると、「……ごめん、ちょっとヤキモチ」 波琉はぼそっとそう呟いて、抱え込んだ膝の間に顔を隠してしまった。 ヤキモチ…… 胸の辺りがなんだかモソモソくすぐったい。「えっ、と……なんかね、委員長とはちょっとした成り行きで、たまにお昼ごはん一緒に食べるようになって――ランチ仲間っていうの? はは……」「――二人きりで?」「いや、ま、他にも何人か……うん」 あれ。あたし今、微妙に嘘ついてる…… あまり経験したことのない感情に戸惑っていると、徐に顔を上げた波琉はフッとどこか自嘲的な笑みを浮かべ、ごめん――再び小さく謝った。 薄い雲に覆われた空――くすんだ島影の上で、夕日がぼんやりと輪郭のない光を放っている。帰らなきゃ……と思いつつ、海面すれすれを飛ぶ一羽の海鳥を眺めていると、波琉が独り言のようにぽつりと零した。「世の中から嫉妬っていう感情がなくなったら、人はもっと楽に生きられるんだろうね……」 嫉妬―― な、なに? さっきから波琉、そんなことばっかり…… どぎまぎしながら波琉を振り返る。でもその表情は、あまりに暗く深刻で―― 戸惑うあたしに波琉は続ける。「――嫉妬に取り憑かれて、嘆いたり苦しんだり……そんな自分から目を逸らしたいのに、それも許されなくて……」 「波琉……?」 波琉は一体、何のことを言っているんだろう? 何が波琉に、そんなことを言わせているの? 重い空気を纏う波琉に不安感を募らせていると、虚ろに海を眺めていた波琉はその暗い瞳をあたしに向け、静かに言った。「本当の僕を君は知らない。醜い――、嫉妬の塊みたいな僕を……」「嫉妬の、塊……」「そうだよ。羨ましくて妬ましくて……みんなに嫉妬してる。紗波にも……」「え――」 あたしにも……って、どういうこと? 一体どうしちゃったの、波琉――「僕は紗波に元気をあげられるような、そんな人間じゃない。むしろ……」「波――」「こんな僕のことなんか、紗波……き、嫌いになってもいいよ」 ……!?「な、なんで急に、そんなこと言うのっ……?」 わけのわからぬまま、不安に胸をざわめかせ波琉を凝視する。「――僕、もうここへは来られないかも……いや、もう来ない」「えっ……」 あたしは目を見開いた。「紗波も……来ない方がいい」「は、波琉――」 身体からスーッと血の気が引いていくような感覚―― なんで? どうして? あたし、何か気に障るようなこと…… 入り乱れる感情に喉が塞がれ言葉が出てこない。「――急にこんなこと言ってごめん、明日のマラソン頑張って……、じゃあ、僕はこれで――」 言うが早いか立ち上がり、一刻も早くこの場から立ち去りたいと言わんばかり踵を返す波琉の腕を、「待ってっ……」あたしは咄嗟に掴んで引き止める。「――――」 うつむきがちに振り返った波琉は、その手を解こうとして――不意に手首を掴んであたしを引き寄せ、胸に強く抱き締めた。「っ……!?」 驚きのあまり思考がフリーズする。 は、波琉、なに…… ドクドクと高鳴る鼓動――波琉の、あたしの、わからないくらい近い……息が、胸が……苦しい…… 波琉が――背中に回された波琉の腕が、まるでその存在を刻み付けるかのようにあたしを強く締め付ける。 首筋に感じる波琉の息遣い―― 頭の中がカァッと熱くなって、引いた血の気が一気に逆流するような感覚に、あたしは軽い眩暈を覚えた。「ごめん……さよなら、紗波……」 波琉が耳元で囁く。 それは、どこか感情を押し殺したような低く静かな声で―― 視線を落としたまま引き剥がすようにあたしから身体を離すと、波琉はくるりと背を向け、そのまま一度も振り返ることなくあたしから遠ざかっていってしまった。「――――」 波琉の消えた岩陰を呆然と見つめる。 崖の上――白い建物を取り囲む木々が、荒い波音とともにざわざわと不穏な気配を漂わせ揺れていた。 photo by little5am
2017.01.10
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金土日と三日連続ガッカリしたので、半ば諦めモードで小道に分け入る。が、予想はいい意味で裏切られ――「え、ウソいた……波琉ぅーっ!」 目に飛び込んできたその後ろ姿に、あたしは弾かれたように浜へと飛び出す。「紗波……はは、大きな声」「波琉っ、なに、忙しかったの?」 あたしは波琉の横にストンッと勢いよく腰を下ろした。「――ちょっと……体調崩してて」「えっ、風邪とか?」「ん……でも、もう大丈夫」「……ほんとに?」「うん」 波琉はどこか儚げにこりと微笑んだ。 なんだかまだ辛そう……こんなに蒸しっと暑いのに長袖シャツなんか羽織っちゃって――ちゃんと治ってないんじゃ? ひょっとしたら、あたしの為に無理して来てくれたのかも……「だめよ、無理しちゃ……」 眉をひそめるあたしに波琉が笑顔を向ける。「紗波に会ったら元気になれるから……、夏服、可愛いね。すごく似合ってる」「え、そ……かな? はは、ありがと……」 今日はこの浜、夕映えに染まってないのに……顔が赤くなったら目立つじゃないか。「じゃ、じゃあさ、ちょっとだけ話したら帰ろうね。あたし明日マラソン大会なんだー。8キロも走らなきゃいけないの。もぉーうんざり」「わ、大変だ」「ま、男子なんか12キロだけどね」「音高のマラソン大会って、この辺りじゃ結構有名なんだよ。沿道で応援する人もたくさんいてさ」「えっ、そうなの?」「うん。……僕も走ってみたいな。12キロ完走するって、どんな気分なんだろう」「えー、波琉走りたいの? きっと最後の方は、もう嫌だ~二度と走りたくね~ってなってると思うわよ?」「ふふ……でも、ある意味贅沢なことだよね。すごい達成感得られそうだし」「そんな達成感いらない。うぅ……」 嘆くあたしを見て波琉がクスクス笑う。 波琉ってほんと色が白い。纏う空気も儚げで、なんだか消え入りそうな程――今日はこんな天気だから余計にそう見えるのかな。 波琉と笑顔を交わしながらも、沸き起こる漠然とした不安に気分が落ち着かなくなる。「――学校はどう? 楽しい?」「えっ、あー……まぁ、ね。最初は言葉の違いとかいろいろ戸惑うことも多かったけど、それもだいぶ慣れてきたっていうか……」「そっか」 波琉はにこりと微笑むと、ふと思いついた風に訊ねた。「ところで、あの……委員長だっけ? 彼は……どう?」「ん、委員長? どうって?」「あ、いや……なんかほら、ピアノ頑張ってるって――学校の話、それぐらいしか聞いたことがないから……」「あー、そういえば……ふふっ、ほんとひどかったけど少しは上達したのかな。今度訊いてみよ。あ、でも委員長ってね、ピアノはそんなだけど成績は学年でトップだし、それにすっごくモテるのよ」「……だろうね」「え?」「あっ、委員長だし……そうなのかなって」 よくわからないけど――と小さく肩を竦める波琉に、首を傾げつつ笑い返す。「なんか委員長のお父さんもね、うちと一緒で再婚したんだって。去年って言ってたかな。お母さんと弟が一度にできたって」「……へぇ」「兄弟ができるってどんな感じなんだろう……なんかちょっと複雑そうよね。委員長はすごく前向きなこと言ってたけど……。あ、状況が似てるっていえば音高《うち》の1年生にね、この春東京から引っ越してきた桜太っていう男の子がいるんだけど――」「え、オウタ……」「うん。あたし、さっきまでその子と体育倉庫に閉じ込められてたの。もぉ大変だった~」「えっ? ちょっと待って、閉じ込められてたって、なんでオウ……その男子と――」 波琉がきょとんとした表情で訊ねる。「あ、ごめん、えっとね……実はあたし、一部の女子にあまりよく思われてなくて――」 あたしは事の経緯を、深刻になりすぎないようワザと面白おかしく波琉に話した。「――もう笑っちゃうでしょ? 委員長が来てくれなかったら今もまだ閉じ込められたままだよ、きっと」「笑えないよ……。ひどいことするな、ほんとに」 波琉が珍しく険しい表情を見せる。 波琉がそんな風に腹を立ててくれてるのがなんだか嬉しくて、画びょうの件もうっかり口から出そうになったけど、体調が優れない波琉にこんな話ばかり聞かせるのも――と思い、それは言わずにおいた。「でも紗波って……委員長と仲いいんだね」「いや、仲がいいっていうか……」「…………」 あれ。なんか波琉、黙り込んじゃった。「波琉?」「僕……紗波に何かあっても、その委員長みたいに助けてあげられない。……無力だ」「そんなこと――」 あたしは目を丸くした。 だって、無力どころか――波琉の存在が、どれほど今のあたしを支えてくれているか…… その思いを伝えたくて、あたしは必死に言葉を探す。「あたし、波琉にすごく助けられてるよ? 波琉と出会えて、どんなに心強く思ったか……だってさ、波琉に会うと自分でも不思議なくらい、なんか元気になれちゃうんだもん」「紗波……」 抜けるように白い波琉の頬にほんのり赤みが差す。「僕でも少しは役に立つことあるんだ……」 照れくさいのか、いつになくひねくれた感じの物言いで波琉はそう呟いた。 photo by little5am
2017.01.08
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吹奏楽部の練習する音がどこからか漏れ聴こえる人気《ひとけ》のない敷地内を三人並んで歩く。「なんで言わんのんじゃ。そねーな目ぇおーとるゆーて」「だって……」 どういう理由であたしたちにあんなことをしたのか知らないけど、場合によっては委員長が絡むと逆効果っていうか……あたしはもごもごと口ごもる。「――足、もう怪我の方はええんか?」「うん、ま、なんとか……」「くっそ誰じゃ、卑怯な――じゃけど、俺のせぇかもしれんのんじゃな……」 「えっ、あなたのせいなんですかっ?」 桜太が横から口を挟む。「いや、委員長のせいってワケじゃ……」 と言いつつも、女子トイレで絡まれた記憶がよみがえり微妙な笑みを返すと、委員長は慌てて付け加えた。「あぁ、別に俺ぁ自惚れとるんとちゃうけぇの? 結実がそうメールに書いとったけぇ」 何の話かと首を傾げる桜太に、あたしはこそっと耳打ちする。〈今回のことはともかく……委員長ってモテるの。ちょっとでも親しくしようものなら、女子に睨まれちゃって大変なんだから〉〈あー、確かにモテそうですねっ。ん? ということは――〉「お二人はその……お付き合いされてるんですか?」「ばっ、違っ……」「ただのランチ仲間よっ」「おめぇ、ただのって……」「なによ?」「まーええけど……。じゃーけど結実からメールあったときゃー、なんじゃ思うた」 委員長が助けに(?)来てくれたのは、実は結実の機転のお陰なのだ。帰る道すがら、呼び出しはひょっとしたら罠なんじゃないか――と気になり始めた結実は、委員会で学校に残っていた委員長にメールして……で、たまたま呼び出し場所を知っていた委員長が体育館裏に来てみたら、体育倉庫の扉に不自然に鍵が挿さったままになっていたらしく――「こっそり持ち出した鍵、返したりなんじゃしょーたら人目に付くけぇ、そんまま放っとったんじゃろうけど……鍵挿さっとらんかったら気付かんとこじゃったわ」 あの体育倉庫は普段使われていないらしく、委員長が体育館にある体育教官室に鍵を返しにいったらバスケ部の顧問の先生に変な顔をされたらしいけど――でもまぁとにかく、委員長が気付いてくれてよかった……。だって、いくら待ってたって運動部の部員なんて来るワケなかったんだもんね。「ああ、でも誰よ全く! きっと、あたしと桜太を二人っきりで閉じ込めて、事を大きくしようとしたんだわっ」 桜太から聞いた3年生男女の停学騒ぎを思い出し、あたしは憤った。「直前に聞こえてったっちゅー声――まぁ、そいつらにハメられたんじゃろーな。ほんま、くだらんこと考えてから……。ところでおめぇ、えーと、オータ……」「あっ、小森谷桜太ですっ。はいコレ手帳。以後お見知りおきをっ」「よ、用意がええの。あー、小森谷桜太――なん、おめぇ1年か」「はいっ」「フン、中坊上がりが2年呼び出すたー、ええ度胸しとるのぅ。どねーな用があったんじゃ」「はっ、す、すみませ……ぼ、僕、えぇっとその……」 委員長のいつになくドスの利いた声に、しどろもどろになる桜太。まるでオオカミに追い詰められた子ウサギ……「ちょっとっ、ただでさえ怖い岡山弁が――もっとソフトに! ほら、怯えてるでしょっ」「なん庇うとる」「だってあたし、このコの友達第1号だもん。このコね、春に東京から引っ越してきたの。だから状況が似てるあたしと少し話したかっただけなのよ。言葉の違う土地で暮らすのってほんと心細いんだから。ねぇ桜太」「ですよねっ、紗波先輩」「チッ。なんが『ですよねっ』じゃ。短時間で、えろー親しゅうなってから……ちょい、桜太」「は、はいっ」 委員長が桜太の肩にガッと腕を回し、なにやらこそこそ呟く。〈えッ、神に誓ってそんなことはっ……〉 神に誓って? 何の話してるんだ……。 そんなこんなで玄関前の階段下に辿り着き――あたしは二人を振り返り、謝罪した。「二人ともいろいろごめんね。なんか巻き込んじゃって……」「や、俺のせぇじゃし――」「いえっ、楽しかったですからっ」 二人同時に口を開く。「って、おい! 元はと言やーコイツが高槻にあねーな手紙書くけぇ……」 あっけらかんと明るく返す桜太をキッと睨みつけ、委員長が不服そうにぼやく。「まぁまぁ。――委員長ほんと助かった、ありがとね。結実にもお礼言っとかなきゃ」「じゃけど、いつん間ぁに結実とそねん仲良うなったんじゃ? 亘《アイツ》がいらんちょっかいばー出すけぇ、向こうはおめぇのことええよう思うとらんかったじゃろ」「んー……物事は、どう転ぶかわからないってことよ。ふふ」「何のことかよくわかんないですけど……僕も今日そう思いました! あんな手紙出しちゃったせいでってちょっと後悔したけど、お陰で紗波先輩と友達になることができたしっ」「おめぇはいちいち口挟まんでええんじゃ。ったく、鬱陶しいやっちゃな」「ふっ、まぁいいじゃん。じゃあ、あたし自転車だから。えっと、桜太は?」「僕、バスです! 家、音ヶ瀬駅から15分程歩いたところにあるマンションで――」「げ、途中まで一緒か。しゃーねぇ、行くぞ桜太」「え……せ、先輩と帰るんですか……」 桜太がおどおどと上目遣いに委員長を見上げる。なんだかんだ言って面倒見よさそう、委員長……。「なんじゃ不満か? じゃーけどおめぇ、駅から15分も歩くんじゃったら、自転車のんがビュッと来れて都合ええじゃろーが」「僕、坂道とか自転車で上るのって苦手なんですぅ~。体力ないんで……」「ぷっ、なんじゃそりゃ。ま、えーわ。――ほんならの高槻。明日に備えてよう休まれぇよ」「え? あっ、そうだマラソン……!」 明日8キロ走らなきゃいけないんだった! いろいろありすぎて、すっかり忘れてたけど…… ガクリと肩を落とすあたしの横で、桜太もウジウジ泣き言を漏らす。「うっうっ、僕、12キロなんて無理ですぅ~。死んじゃいますぅ~」「男じゃろ、根性入れて頑張られぇ!」「うぅ、はい~……。あっ、じゃあ紗波先輩、僕これで……あの、またいろいろお話させてくださいねっ」 ぷ。桜太ってなんか可愛い。「バイバイ。またね、桜太」 身長差約15センチの凸凹コンビ――委員長に背中に活を入れられ、桜太がよろめく様を笑って見送る。「5時過ぎか……」 あたしはちらりと時計に目を遣り、自転車置き場へと足を向けた。 明日のことを考えると早く帰った方がいいのはわかってるんだけど――でも、今日こそ波琉に会えるかもしれないし…… そんな自分に呆れながらも、ついペダルを踏む足に力が入る。 半袖から出た腕に湿度の高い潮風がまとわりつく。昼間は青く晴れ渡っていた空もいつしか薄い雲に覆われ、海にいつもの輝きはなく、波音も穏やかとは言い難い。 梅雨が近いのだろうか―― 梅雨に入っちゃったら、波琉に会えない日も多くなるよね…… そんなことを寂しく考えながら浜へと自転車を走らせる。やがて見えてきた赤いポストに、あたしは速度を落とし呼吸を整えた。 photo by little5am
2017.01.07
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「ハメられたのよ。あたしたち……」「え?」「いや、正確にはあたしが――あなたは巻き添え食ったの」「巻き添え……」 ぽかんとしている桜太に、あたしは一部の女子に目の敵にされていることや嫌がらせを受けている事実をざっと掻い摘んで話した。「先輩もそんなご苦労を……うっ」「たぶん、あたしの上靴に何かしようとして、あんたの手紙に気付いたんだわ。上手く利用されたのよ」「ぼ、僕のせいですね……」 桜太がしゅんとうな垂れる。「桜太は何も悪くないわ。それより巻き込んじゃって……ごめんね」「紗波先輩……。う~っ、なんとかしてここから出ましょう、先輩!」「そ、そうねっ!」 あたしたちは深く頷き合い、脱出方法を模索した。取り敢えず二人して大声で助けを呼びながら、力の限り扉を叩く。「ハァ~、ダメだぁ。体育館にいる生徒にまでとても届かないわ。誰か通りかかったらいいんだけど――」「あ、先輩! あの窓、出られるんじゃ――」 桜太の指差す方を見ると天井近くに横長の小窓が……でも、縦幅が結構狭い。 「う~ん、通れるかな……」 あたしたちはお互いを見比べた。桜太は小柄とはいえ、そこはやはり男子――あたしの方がスレンダーということもあって(引っ掛かりそうなグラマラスバディーでもないし?)窓枠くぐりにはあたしが挑戦することになった。「紗波先輩、大丈夫ですかーっ」 跳び箱八段によじ登り、窓枠に手を掛け鍵を開ける。なんとか顔を出してはみたものの――せ、せまっ……いや、無理でしょコレ。それに、例え出られたとしても、このままじゃ頭から真っ逆さま……ううむ、足からならどうだ?「せせ、先輩っ……パ、パンツ見えそうです!」「ぎゃ、見ないでよっ。あいたっ……」 窓枠に思いっきり後頭部を打ち付けたあたしは、涙目になりながら頭を引き抜いた。「もぉー、無理ぃ~。いたたた」「だ、大丈夫ですか、頭……」「ダメだぁ。出られそうにないや」 はぁ、なんでこんな目に……泣きたい。泣いてるけど。「あ、そうだ! 携帯!」 ポンッと手を打ち跳び箱から飛び降りる。 でも、どこに掛ければいいんだ? そうだ、学校――「ね、さっきの生徒手帳貸してっ。学校の電話番号載ってるでしょ」「あぁっ、ですね! ――ハイッ」「うん、それそれ。えーと、086……」 ……いや、ちょっと待て。「――紗波先輩?」「……この状況、どう学校に説明するの?」「え、状況……」「こんなところで二人っきり、何してたんだって訊かれたら……」「それはその……ありのまま、ですね――」「信じてもらえると思う?」「そ、そういえば転校してきてすぐの頃、3年生の男女が視聴覚準備室で、その……えっと……コホンッ。ん、んで、それが学校にバレて停学だのなんだのと大騒ぎに……」「…………。と、取り敢えずさっ、学校への救助要請は超最終手段ということで、はは……。桜太、誰か助けてくれそうな友達は?」「えっ、僕ですか……す、すみません、そういう友達は……、紗波先輩は?」「……あたしも、誰の番号も知らない」 ひゅるるるる~~ 冬でもないのに寒い、心が……。「あーもう、なんか面倒くさくなってきた。っと、そうだ。部活が終わる頃になったらどこかの部員が道具片付けに来るんじゃない? その時、隙をついて飛び出せば――」「ああっ、ですね!」 桜太がポンと手を打つ。「あっ、でも……うっかり顔見られるとまずくないですか? 紗波先輩なんか、結構顔知られてますよ」「えっ、マジで? あー、それじゃあ……」 あたしは手提げ袋からお弁当箱を取り出し、包みを解いて三角に折り、頭に被ってみせた。「ホラ、こうやって顔隠せば――これ大きいから桜太使って。ちょっとタケノコご飯臭いけどガマンね。あたしはこれよりちょっと小さいハンカチあるから、それで」「成程~、これなら顔バレませんねっ」「ついでにこのカゴに入ってるボール全部ぶちまけてさ、向こうを混乱させて――」「わ、ソレ完璧ですね! じゃあ僕が向こう側から野球のボールぶちまけるんで、先輩はこっち側からテニスボールをお願いします!」 桜太がやけに生き生きと声を弾ませ答える。「オッケ。……っていうか君、随分楽しそうね」「あ、すみませんっ、こんな非常事態にっ。でもなんか、こうやって普通に会話するのほんと久し振りで――」「あー、まぁ……ね。あなたもいろいろ寂しかったのよね。うんうん」 あたしたちはしんみりと頷き合った。「実は音高《ここ》に変わってきた時、ひとりだけ標準語を話すクラスメイトがいて――仲良くなりかけてたんですけど、休学しちゃって……」「休学? え、どうしたの?」「元々身体が少し弱かったみたいで――体育の授業はずっと見学してたし、いつもお母さんに送り迎えしてもらってて……。でも休学だから、また会えるかなーって思ってるんですけど……」「そっか……。早く元気になるといいね、そのクラスメイト君……」 寂しそうに語る桜太になんだかこちらまで悲しくなり、あたしはぽつりと返す。「でもね桜太、言葉は違っても結構気持ちって通じ合えるもんよ? あたしも最初はすっごく壁感じてたけど、なんか最近そう思うようになったの」「そうですか……。はぁー、僕、こっちで友達できるかな……」「できるわよ、ちょっと心を開けば……。そうだ、取り敢えずあたしが友達第1号になってあげる。どう、少しは心強いでしょ? ふふ」「紗波先輩……」 と、――ガチャ、ガチャガチャッ……「……!!」 突然、鍵が開けられるような音が響き、あたしたちはハッと身を固くして顔を見合わせた。〈せせ、先輩っ……〉〈早く顔隠してっ……ほら、スタンバイ!〉 頬っ被りした布を鼻の下で結び、それぞれボールの入ったカゴに駆け寄る。――ガチャリ、ガラガラ……〈せーのっ……おりゃっ〉 ガッシャーンッ、ゴロゴロゴロッ――「わっ! な、なんじゃっっ」〈逃げるのよ!〉〈ハイ先輩っ!〉 ところが、「ちょー待てぇっ!!」――ガシッ。 あたしは呆気なく捕らえられ―― し、しまった! 運動部の反射神経、侮ってた!「あ、あのっ、これには事情がっ……」「あぁ? ……高槻?」 ん、この声は――「委員ちょ……な、なんでここに……」「なんじゃ、そのコソ泥みてぇな格好……」 お互いポカンと見つめ合う。「わ~~っ、先輩をはなせ~~っ」 ポカスカポカスカ。「なっ、いてて! わっ、ここにもコソ泥がっ……っちゅーか、おめぇら一体――いてっ、ええかげんにせーって!」「桜太、ストップストップ! この人うちのクラス委員長! 大丈夫だからっ」「へ……」 桜太がポカスカポーズで固まる。 辺り一面に転がるボール、そして謎の頬っ被り二人組……。「えーと、どこから説明しましょうかね……アハ」「事情は後で聴くけぇ、取り敢えずボールどねーかせられ。ったく、こげん散らかしてからっ」「はいぃ~……」 あたしと桜太は返す言葉もなく、黙々と球拾いに励んだのだった。 photo by little5am
2017.01.04
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少しだけでもお話できれば、か…… 正直ちょっと気が重いな。かといって、このまま放っておくのもなんだかモヤモヤするし…… 何かの罠だったりして――と、疑いつつも殊勝な文面を思い出し、取り敢えず行くことに決める。 靴箱の扉を開け、取り出したローファーを軽く上下にフリフリ……よし、画びょうは入ってないな。向こうもくだらないことはもう止めにしたのかも。 少しホッとしていると、「えーと、紗波……」 背後から躊躇いがちに声を掛けられた。「あ……結実」 振り返ったあたしも、少しはにかみながらその名前を口にする。まだお互い名前で呼び合うことに慣れてないから、なんとなく気恥ずかしい。「その後どう? なんも変わりねぇ?」「あーうん、大丈夫。今んとこ」「そう、えかった。ふふ」 と、「結実ぃ~、今日は一緒ん帰ろぉゆーたろーがぁ」 甘えたような声が聞こえ、結実の肩越しに向こうを見遣ると、小野が口を尖らせこっちにやってくるところだった。「え、そうじゃったっけ? 柊哉は?」「今日は委員会じゃ、明日んことでの。――お、高槻。最近よう二人でおるのぅ」「えッ!? あ、あぁ……」 びっくりした。一瞬、委員長とのこと言ってるのかと思った。「ぷっ、なんじゃあ、ハトが豆鉄砲食らったような顔してから。いやしかし、ええこっちゃ!」 小野はあたしと結実の鞄をさっと取り上げ下に置くと、にこりと笑いながらあたしたちの手を取り握手をさせ、空いているもう片方の手を今度はそれぞれ自分の手と繋いだ。靴箱を前に、今にもマイムマイムを踊りださんばかりの変な輪ができあがる。 ……なに。「こうやっての、どんどんどんどん友達の輪ぁ広げてくんじゃ。うんうん」「――って、ただ紗波と手ぇ繋ぎたかっただけじゃろッ」 呆気にとられていた結実が手を振り払い、小野の首を絞めに掛かる。「いででっ、ギブギブ!」 ……可奈のおじさんとおばさん、元気かな。 夫婦漫才を繰り広げつつ進む二人に続き、あたしも玄関を出る。と、階段を下りきったところで小野がぼそりと呟いた。「わしも寂しーんじゃ。最近、柊哉付き合いわりぃけぇ。昼もどけぇ行きょーるんやら、すーぐおらんようなるし……」 ぎくり。「じゃ、じゃああたし、ちょっとこっちの方に用事が……」「――そねーな方に何の用が? 紗波、自転車じゃろ? まだ帰らんの?」 結実が訝しげに訊ねる。 「えっと……」 靴箱の手紙のことを、あたしは結実にだけこっそり耳打ちした。「えッ、せーって告……な~んじゃあ~」 結実がにやりと含み笑いをする。「そこ、女子! なにゅーヒソヒソやりょーるっ」「ええんじゃ、帰るで亘! ほんなら紗波、青春の1ページ――楽しいひと時を。ぐふ」「はは……。バイバイ」 あたし、そんな浮かれてないんだけど……。「ほんならの高槻! チュッ(投げキッス)」「最後のんは余分じゃッ!」 …………。 ぎゃーぎゃーとじゃれ合いながら去っていく小野と結実。その後ろ姿を暫し笑って見送り、あたしはくるりと踵を返す。 それにしても誰があんな手紙よこしたんだろう? 同士、というのも気に掛かる。 体育館では種々部活動が行われているらしく、館内からはホイッスルの高い音やボールが跳ね返る音、部員たちの掛け声などが賑々しく聞こえてくる。活気溢れる体育館の脇を抜け、あたしは体育倉庫のある裏側へと回り込んだ。 ひょっとしたら、あたしのことをよく思ってない女子たちがずらりと待ち構えてたりして――警戒しながら角からこっそり向こうの様子を窺う。が、そこに立っていたのは意外にも、小柄な可愛らしい感じの男子生徒だった。――あれ……マジですか。 拍子抜けしつつも、念のため暫し相手を観察する。 男子生徒は緊張しているのかそわそわと落ち着かなげな様子で、腕時計を見たり足元の土を爪先でつんつんしたりしている。全く何の裏もなさそうだ。……っていうか、ウサ耳付けたら超似合いそうなんですけど。 警戒するのがなんだかバカらしくなってきたあたしは、覗き見ていた場所から一歩踏み出し、そのままスタスタと距離を詰め男子生徒の前に立った。うつむいていた男子がハッと顔を上げる。「あっ……た、高槻先輩っ」 先輩――、1年か。 「こんにちは。手紙読んで来たんだけど……」「は、初めましてこんにちはっ……ぼっ、僕あの、1年D組のコモリヤオウタっていいますっ」 男子生徒は頬を赤らめ、テンパり気味に早口で名乗った。「え? コモ……」「あ、えと、ちょっと待っ……あれっ、どこ入れたっけ手帳――」 1年男子がズボンのポケットやら鞄やら、あちこち慌ただしく探る。別にちゃんと名前知らなくてもいいんだけど……。「あったっ……コレッ」 ラブレター読んでください! みたいな感じで両手で勢いよく生徒手帳を突き出され、あたしは若干引きながらそれを受け取った。――1年D組 小森谷桜太…… 桜太《オウタ》、か……なんか可愛い名前。桜はちょっと苦手だけど……「わ、わかった、はいコレ。時に小森谷君、君はあたしと何の話を――」「あっはい、あのですねっ、えとっ……日々の些細な出来事を語り合ったりだとか他愛もない日常会話等、先輩と交わしたく……!」「…………」 また変なキャラ出てきた……。 っていうか! このシチュエーションって、告白されるとかそっち系でしょ普通! なぜに見ず知らずの高1男子と老年期の茶飲み友達のような間柄に……!? この子の目的は一体――「あのっ、何でもいいんです! 取り敢えず僕と標準語で喋って頂ければっ。お、お願いしますぅ~……えぐっ」 なな、なんなの。「あの、僕、東京の中学校を卒業してすぐ、親の転勤でこっちに引っ越してきて……」「えっ、あなたも?」 あたしは瞬時に親しみを覚え、興味深く身を乗り出した。「あっ、呼び捨てでいいです、桜太でっ。あの~、僕も親しみを込めて『紗波先輩』って呼ばせて頂いても……」「それはいいけど……、へぇ、そっか東京から――あたしもね、父親の転勤で千葉から引っ越してきたのよ」「ハイ、知ってますっ」 成程、それで『同士』か。ふむふむ。「紗波先輩は1年の間でも有名で――千葉から来た美少女が転校初日に、馴れ馴れしく言い寄るクラスの男子を一刀両断、半殺しにしたって」 ……どんな尾ひれ。クラスの男子って小野のことか?「岡山県民に怖気づくことなく堂々としてて尚且つ綺麗で……紗波先輩は僕の憧れです~関東人の誇りです~。僕なんか、こっちの言葉もう怖くて怖くて……。女子とかVシネマみたいな口調で、僕に無理やりスカート穿かせようとしてくるし。ぐす……」 ……どんな状態。っていうかごめん、女子の抑えられない気持ちわかるかも……。 しかしこの子も、他県からの転入生ならでは――言葉の違いに戸惑う苦悩の日々を送ってるのね。あたしも波琉が標準語ですごくホッとしたもんねぇ。 あたしは目の前の男子――小森谷桜太の突拍子もない申し出に、さもありなんと深く頷いた。「なんか楽しいですね、こうやって話してるとっ。あ~、関東弁が身体中に染み渡りますぅ。二ヶ月間、耐え忍んできた甲斐がありました!」 そんな風呂上がりのビールのように言われても。「……プッ、変なの」 あたしは思わず吹き出した。と、そこへ、――ボンッ、ボン……コロコロコロ…… なにやら派手な色目のボールが一個転がってきて……――どけぇ投げよんなら、もぉ~!――ごめーん、ちょー取ってくるけぇ! ハッと桜太と目を見合わせる。「ヤバっ、こっち来るっ」「どど、どうしましょうっ」 別に見られて困ることなんか何もしてないけど、告白真っ最中みたいな誤解を招きかねないこのシチュエーション、他人に見られるのはちょっと小っ恥ずかしい。慌てた様子で小刻みに地面を踏み鳴らしていた桜太は、「ああ先輩っ、そこ開いてます!」 あたしの腕をむんずと掴むと、扉が開きっ放しになっていたすぐそばの体育倉庫へとあたしを引っ張り込んだ。薄暗く埃っぽい倉庫の奥、跳び箱の陰に二人で身を潜める。〈ちょっと、あんまくっつかないでよっ〉〈わわっ、す、すみませんっ……〉〈――シッ、来た〉 地面を踏みしめる足音が微かに聞こえる。息を殺すこと数十秒――〈……もう行ったのかな?〉 桜太と顔を見合わせたその時、――ガシャン! 大きな音を立てて扉が閉まり、「……!!」あたしたちは同時に慌てて立ち上がった。 ま、まずい。鍵でも掛けられたりしたら最悪だ。 こんな倉庫で一体何をしていたのか――と、さっきよりかなりマズイ状態だが、そんなことを言っている場合ではない。あたしはダッと入口に駆け寄り扉に手を掛けた。――ガチャリ。「え、嘘っ……鍵閉まったっ」「えぇーっ、せ、先輩どうしようっ……」 ドンドンッ!「ちょっと! 開けて! 中にいるの!」「出してくださいぃ~っ」「ちょっとーっっ!」 ドンドンドンッ!――しーーーーん…… え、なんで? ……ワザ、と? あたしたち、ワザと閉じ込められたの?「さ、紗波先輩、これは一体全体どういうことでしょうかっ……」「――――」 なぜ、体育倉庫の扉が不自然に開きっ放しになっていたのか―― あたしはハッと顔を上げた。 photo by little5am
2017.01.02
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月曜―― 青く晴れ渡った空の下、夏服に身を包んだ生徒たちがそれぞれ談笑しながら、心なしか軽やかに坂道を上っていく。でもあたしは、そんな衣替えの解放感とは裏腹などんより気鬱な朝を迎えていた。 パパのいる土日は浜に行かないようにしていたけど、どうしても波琉に会いたくて――適当な理由を付けて行ってみたけど、結局どちらも波琉に会うことはできなかった。 溜息をつきながら靴箱の扉をぱかりと力なく開ける。画びょうチェックしてからでないと履けないのがこれまた悲しい。――と、画びょうではなく、名刺ぐらいの大きさの水色の紙がはらりと足元に舞い落ちた。 ん? なに? ……メッセージカード? 拾おうと屈みかけたところで、すっと誰かの手が伸びる。「あ、委員長――、おはよ」「うぃっす。ん、これ……」 拾い上げたそれ――なみなみに型抜きされた水色のカード――をあたしに渡しかけ、委員長が軽く固まる。「? なに?」「見えてしもうた。すまん」 少しつっけんどんな口調でぐいっとそれを押し付けると、委員長はくるりと背を向け行ってしまった。 ? なんなのよ、もう。 口を尖らせ、無理やりのように持たされたカードに目を落とす。『突然のご無礼、お許し下さい。少しだけでもお話できればと思い……今日の放課後、体育館裏でお待ちしています。来て下さると嬉しいです。同士より』 わわ。なんだこれ。 同士? どういうこと? 靴箱に手紙、体育館裏に呼び出しだなんて、なんか定番というか……普通ならドキドキと甘い気分にでもなるんだろうけど―― 疑心暗鬼状態にある今のあたしにはなんとなく不気味に感じられ、到底そんな浮かれた気分にはなれないのだった。 今日は委員長、来ないのかな? 屋上に来てかれこれ20分程経つけど、未だに現れないということは今日はよそで食べることにしたか――まぁ、友達とのコミュニケーショも大事だもんね。でも、いなきゃいないで結構寂しいもんだな…… タケノコご飯の入ったお弁当をつついていると、否応なく一昨日の出来事が脳裏によみがえる。ひとりきりの味気ない昼食が益々喉につかえ、あたしはフォークを置き深く溜息をついた。「――プッ。やっぱ、ひとりじゃと寂しーってか?」 ひょっこり委員長が顔を出す。「! ちょっ、なにこっそり覗いて――趣味悪いな」「な、なんじゃその言い草……ひとがせっかく――」「せっかくなによ」「…………」 委員長は不服そうに口を尖らせ、隣にどっかりとあぐらをかくようにして座ると、「――ん」 コンビニのものとは別の小さなビニール袋を、あたしの目の前にすっと差し出した。「……ん?」「んっ!」 ぐいっとそれを押し付ける。「なによ、コレ」「そりゃー、音ヶ瀬学園オリジナルイチゴプリンじゃ」「イチゴ……プリン?」「ただのイチゴプリンたぁワケちゃうぞ? 中等部高等部ともに一日限定10個、門外不出の特殊製法で作られたレアなイチゴプリンじゃけぇ。その幻のイチゴプリンを手に入れんがため、我が校では毎日昼んなると血で血を洗う死闘が繰り広げられとる」 ほれ――と、委員長がどこか誇らしげに手の甲の擦り傷を見せる。 プ、プリンごときになんか怖い……。「っつか、情けねぇことに争奪戦の最中に女子にぶっ飛ばされてのぅ。で、お詫びにいうて譲ってくれたもんなんじゃけど、はは。まぁ、食べてみられ」「え、いいよそんな、イチゴフェチの委員長を差し置いて――、気にせずどうぞ。委員長が頑張ったんだし」「イチゴフェチ……まぁ、否定はせんが。ええんじゃ、俺ぁ食うたことあるけぇ。――おめぇ今日、なんじゃずっと元気なかったじゃろ。せぇ食うたら一発ででぇれぇ元気んなるけぇ、ほれ遠慮せんと」 委員長……気にしてくれてたの?「ほんとにいいの? なんか申し訳ないけど……じゃあ、ありがたく……」 ビニール袋の中に手をそっと差し入れる。英字がプリントされたプラカップに入った可愛いピンク色のプリン、その上にはホイップがふわっとのっている。「わ、美味しそ~」 あたしは膝の上のお弁当を脇に片付け、付属のスプーンを手に取りプラカップの蓋をぱかっと外した。イチゴのフルーティーな香りとホイップの甘い匂いがふわんと鼻腔をくすぐる。「いい匂~い。ホイップふわふわ……んっ、なにこれ! すっごく美味しいんだけど!」「じゃろ? ふふん」 委員長は得意げに鼻を鳴らす。 プリンっていうよりババロア? イチゴの果肉が入った程よい酸味の柔らかなプリン生地とコクのあるほんわり甘いホイップクリーム――その風味と食感のバランスが素晴らしく絶妙で、口に入れるたび、つい『ん~っ』と唸ってしまう。 う~む。確かにこれは、誰しも一発で元気になる――というより幸せな気分になる、なかなかのミラクルスイーツだ。やるな、イチゴプリンめ。 でも、そんな気持ちになるのはイチゴプリンの力だけじゃなくて、委員長のさりげない優しさだったり…… これって――委員長とあたしって、もう友達っていってもいい関係だよね。「……ありがとね」 小さくお礼を言うと、委員長は少し照れたように軽く頷き返し、コンビニの袋からガサゴソとイチゴ牛乳を取り出した。 青い空に校内放送の洋楽バラードが穏やかに響き渡る。辺りに漂う甘いイチゴの香り、口の中で優しくとろけるイチゴプリン―― あたしはなんとなく胸の内をさらけ出したいような無防備な気分になり、気付けばつい、こんなことを口走っていた。「……委員長ってさ、キスしたことある?」「ブーーッ……!」 委員長が豪快にイチゴ牛乳を噴き出す。「な、なんじゃ藪から棒にっ……ゴホッ、ゲホッ」 顔を真っ赤にしてうろたえる委員長に、あたしもハッと我に返り顔を赤らめる。「ごっ、ごめ……変なこと訊いて――」「いや……コホッ」「…………」「…………」 き、気まずい……。 委員長は咳払いしつつコンビニの袋からお弁当を取り出すと、両サイドのテープを剥がし、割り箸を歯で割りながらぱかりと蓋を開けた。ご飯の上にどんとのせられた鮭の匂いとイチゴの甘い香りが奇妙に混ざり合い、場の空気が更に落ち着かないものへと変わる。「イチゴ牛乳にゃー鮭やこ合わんの……」「……で、でしょうね」「…………、小5の時じゃった……」「え?」「そ、その……ハ、ハツキス? ちゅーんかの、コホン……」「ハツ……あぁ、初キ――えッ!? しょ、小5っ!? 小5で初キスぅ~っ!?」「わぁーっ、そ、そねんでけぇ声でっ……」「ってか、早っ!!」 う、うぬぬ。さすがモテるだけあって……いやしかし、小5はいくらなんでも早すぎだろうっ。「な、なんじゃ、その卑しいもんでも見るような目つきゃー。言うとくが無理やりじゃけぇなっ。十《とお》も離れた従妹の姉ちゃんに不意打ち食ろうていきなり奪われたんじゃ。うっ、幼気《いたいけ》な少年じゃったに……」「……ふ、ふ~ん。で、それを皮切りに?」「バッ……せーだけじゃっ」「え、それ……だけ?」「お、おぅ。わりぃか」「……ぷっ」「なっ、なん笑よーるっ。そーいうおめぇはどうなんじゃ」「エッ……どど、どうって……」 急に話の矛先をこちらに向けられ、形勢逆転もごもごと口ごもる。 去年の暮れ一ヶ月程、辛うじて付き合った経験があるとはいえ、その橋本君とは手すら繋いだこともなく、正直、交際経験はほぼ皆無と言って等しい。が、委員長のことを笑った手前、それを知られるのもなんだか……「ぷ。なん動揺しょーる。さては――」「去年付き合ってたしっ。橋本君っていう学校でも指折り、超人気男子とっ……て、もう別れたけど……」「ほ、ほおぉー……」 経験値的に負けたと思ったのか、委員長がどこか面白くなさそうな顔つきで返す。 ちょっと後ろめたい気もするけど、まぁ、あながち嘘じゃないし?「じゃあ、そいつと――」「え?」「い、いや――、でも、なんで急にそねん小っ恥ずかしいこと訊くんじゃ?」「えっ……と、それは……」 あたしは再び答えに窮した。こっちこそ、なんでうっかりあんなことを口走ってしまったのか――恐るべしイチゴプリン……。「今日、悶々としょーたんとなんじゃ関係あるんか?」「も、悶々て――」 ヤバい。これじゃあたし、そんなことばっか考えてるエロい妄想女子高生みたいじゃないか。 あたしはひと言心の中でパパに謝り、意を決して委員長に向き直った。「あのー、委員長はさ、その……お、お父さんのキスシーンとかって見たことあ――」「ブッフォッ……!」 委員長が今度は勢いよくご飯粒を撒き散らす。「ゴホッ、ケホケホッ……まっ、またなにゅー突拍子もねぇっ……わあぁやめれっ、想像してしもうたがぁっ」「ご、ごめん……」「……見たんかおめぇ、その、親父さんの――」 コクリ。「うっわ、きちぃなそりゃ。そねーなもんうっかり見てしもうた日にゃー、俺じゃて二~三日立ち直れんかも……」「いや、委員長が想像するところの衝撃とあたしが受けた衝撃とは、ちょっと――や、かなり意味合いが違う気が……」 委員長の反応は至極当然だ。息子と娘とでは違って当たり前というか――いや、違うと思うあたしがおかしいのか……「あー、えっとね、例えば委員長に小さな頃から二人っきり、ずーっと仲良くしてきたお母さんがいたとして、そのお母さんが自分の知らないところでそういう――」 あたしはそこまで言ってハッと言葉を飲み込んだ。今、めちゃくちゃ禁句なことを言ってしまったような……「そりゃ、違う意味できつそうじゃな……」「ご、ごめん、あたしったら――、なんかその、いろいろ考えちゃって……父親の相手に嫉妬みたいなもの感じてる自分っておかしいのかな、とか……」「嫉妬、か……」 委員長は深く考えるような顔つきで、ゆっくりと言葉を探すように言った。「確かにありゃー、なんか特別なもんっちゅー感じするけぇーな。あれじゃ、その……基本、好きんなった相手にしかせんことじゃろ。じゃけぇ、想いがこもっとるっちゅーか……。おめぇが親父さんに思い入れある分、他人に向けられた愛情見てジェラシー感じるんは仕方のねーことなんじゃねぇんかの。ちぃーとも変なことありゃーせんが」 委員長……「そ、そうかな。おかしくないかな……」「と、俺ぁそう思うがの。コホンッ……あー柄にもねー、でれぇ恥じーがー」 委員長がパタパタと両手で顔をあおぐ。「しかしそーか。高槻の親父さんは、娘もヤキモキするぐれぇイケメンっちゅーワケなんじゃな。相手も若ぇしの」「そうだよ、まだ28歳――って、そこも聞こえてたか」「すまん……っつか、デリカシーのねぇ村田を責めてくれ。じゃけど、おめぇもいろいろやーこしそーじゃのぅ」「うん……なんか最近、いろいろ目まぐるしくて。周りはなにやら不穏だし……」「不穏?」「あ、ううんっ、はは」 うっかり零してしまった言葉を笑顔でごまかす。 嫌がらせを受けていることは黙っていよう。今日は何もされてなかったし、変に気を遣わせてしまうのもあれだし……「? あぁそうじゃ、おめぇ行くんかアレ……」「え?」「や……、おっと、はーこねーな時間じゃ。早う食わにゃ」 慌ただしく鮭弁当を頬張る委員長をふふっと横目で見ながら、あたしはパクリとイチゴプリンを口に含んだ。「ん~、美味しっ」 photo by little5am
2016.12.28
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植え込みに手を伸ばし、茶色く萎びているシャクナゲの花殻を黙々と房ごと摘んでいく。 シャクナゲは枯れたままにしておくと種ができて新しい枝が伸びるのが遅れ、翌年綺麗な花が咲かないらしい。家主さんに特別頼まれたわけではないけど、最近ガーデニングに興味を持ち始めた彩香さんがネットでそんな情報を見つけ、あたしたちは朝からシャクナゲの花殻摘みに追われていた。 しかし思った以上に辛いこの作業…… 痛む腰に手を当て、空を仰ぐように身体を大きく後ろ側へと反らす。「いたた……おっと」 落ちそうになった帽子を押さえ、青い空に大きな溜息をひとつ吐き出す。でもすぐに、その溜息がうんざりして出たものじゃないことにあたしは気付く。――波琉どうしたんだろう……いや、忙しいんだもん、来られない日もあるよね。 昨日は何となく沈んだ気持ちで学校を後にしたから尚更、波琉に会えなかったことが堪えたのかもしれない。 波琉に会うと心が落ち着くのはなぜだろう。 静けさの漂う凪いだ海のような……波琉の持つ、独特な空気感のせいだろうか。 そうしてフラットになった気持ちで波琉の柔らかな微笑みを見ていると、いつの間にやら心の中はほんわり幸せな気分で満たされて……「――紗波、疲れただろ」 ぼんやり手を止めていたあたしを、パパの声が現実に引き戻す。「あ、パパ……」「そんなに根詰めなくていいんだよ。取り敢えず一休みしてジュースでも飲んでおいで」「あー、うん。この列あともう少しだから、ここ終わったらそうする」 パパはふっと笑ってあたしの隣に立った。「じゃあ、高いところパパが手伝うよ」「ほんと? わーい、やった」 あたしは声を弾ませた。 パパと一緒に何かするのって、なんだかすごく久し振りな気がする…… クルージングプロジェクトの主要メンバーであるパパは日々仕事に追われ、ここのところ帰宅時間も遅い。ただでさえ一緒にいられる時間が少ないというのに、彩香さんの手前、前みたいに気軽にくっついていられないし、パパの身の回りの世話は主に彩香さんがやってるし……「紗波どうした? そんなに口尖らせて」「えっ……」 しまった。日頃の不満がつい顔に……。「や……け、結構疲れるよね、この作業って。はは。眺める分にはすっごく綺麗でいいけど、何事も陰の努力って必要なんだね。ふぅ」「全く。しかしあれだな、あんなに艶《あで》やかに咲き誇っていたシャクナゲがこうも無残な姿に……花も人も万事諸行無常だな。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとしだ」「平家物語ですか……」「でも紗波は、まだまだこれから――蕾が開いたところって感じかな。この先いろんな経験をしてどんどん綺麗になって……って、もう十分美人だけどね」「も~、なに? 照れくさいなぁ。ふふ」「一方、パパはいうと……んー、差し詰めこの辺りか?」 と、パパが指差すのは、既にがくから外れ、落ちる寸前のところで長いめしべの先に辛うじて引っ掛かっている萎れかけたシャクナゲの花……。「あははっ。パパってそんなギリギリの状態なワケ? 違うよ、パパは……まだこっち!」 あたしは迷いながらも摘まずにおいた、枯れた房の中で唯一鮮やかな色を留めていた一輪のシャクナゲを指差した。「え、パパってまだそんなイケてるのか?」「そうだよー。だから彩香さんみたいな若くて綺麗なひとがお嫁に来てくれたんじゃない」「彼女、渋専《しぶせん》とか……」「ぶふっ」 暦は6月に入り日射しは益々強く、地面には二人の濃い影が落ちている。鼻先を掠める潮の香りもまた一段と濃くなり、迫りくる夏を肌に感じながら、束の間あたしたちは最近のコミュニケーション不足を補うかのように他愛もない話を楽しんだ。「――紗波、学校はどう? もう友達はできた?」 手だけは黙々と作業をこなしながらパパが訊ねる。「え……あー、うん」「おっ、そうか。よかったー」 ほっとした笑みを向けるパパに、にこりと返しつつ…… 友達、ねぇ――あたしは内心首を傾げる。 委員長とは昼休みのこともあってなんだかんだ話す機会多いけど、友達……か? 結実とはまだ少ししか話したことないし……小野は……遠藤さんは……、な、なんか気分が落ち込んできた……。 い、いいもん、波琉がいるしっ。でも―― 波琉って友達? 友達だけど、そんな軽い感じじゃなくて……じゃあ、親友? う~ん、近い気もするけど…… どれもなんだかしっくりこず、またまた首を傾げる。 なんていうんだろう、この感じ……会うとウキウキするのは可奈と一緒なのに、それだけじゃないっていうか……「――って、気になってたんだ」 パパが何か言ったのを聞き逃し、あたしはハッと顔を上げる。「ごめん、聞いてなかった。なんて?」「いや可奈ちゃんとさ、無理やり引き離しちゃっただろ? ひどいことしちゃったよなーって、ずっと気になってて……」「あぁ……可奈とはね、夜によく話してるの。だから大丈夫だよ、ふふ。顔見れないのはちょっと寂しいけどね」「そっか……。千葉《あっち》と岡山《こっち》じゃ言葉も違うしいろいろ心配してたけど……取り敢えず、友達できたって聞いてパパ安心したよ。まぁ、紗波は向こうでも友達いっぱいいたもんな」 首に掛けたタオルで額の汗を拭い、パパはにこりと微笑む。「さ、ここはこのぐらいにして――暑いだろ、ちょっと休憩しておいで。パパはあっち放りっぱなしだからちょっと戻るよ」「あ、うん。ありがとパパ。ちょっと休んだら反対側やっていくね」「まぁ、紗波は適当で。パパが後でこっちの方もやっておくから」「じゃあ、また一緒にしよ?」「ふっ、わかった。あ、出てくる時、帽子忘れちゃダメだぞ」「は~い」 あたしは手にしていたゴミ袋を石畳の脇に置き、家の方へと踵を返した。ひんやりとした土間を抜け、帽子を脱いで家に上がる。「暑ぅ……」 冷蔵庫からオレンジジュースを取り出すと、あたしはそれを溢れんばかりなみなみとコップに注ぎ、ぐび~っと一気に飲み干した。「あ~、生き返る~」 喉の渇きを存分に潤し、ソファにぼすっと腰を下ろす。「ふぅ……今、何時?」 壁に掛かった時計の針は間もなく11時を指そうとしている。日射しも強いはずだ。 リビングテーブルに置いてある新聞をざっと流し読みし、15分程経ったところで腰を上げる。「さぁ、もうひと踏ん張りするか」 あたしは再び帽子を被り、玄関へと向かった。そこでふと、鯉にエサをやり忘れていることに気付き――土間の隅に置いた、鯉のエサが入っている袋に手を伸ばす。「あれ、エサが落ちてる……誰かもうあげたのかな? それとも昨日あたしが零しちゃった?」 うーん、どうしよう。まだエサをもらってないんだったら可哀相だし…… 庭に出て、きょろきょろ二人を探して歩く。と、――圭一郎さん、こっちにもいっぱい! なにやら竹が群生している方で、彩香さんが興奮気味に声を上げているのが聞こえてきた。――わ! ほんとだ、あるある。 ……? 声のする方へ足を向ける。 物置の陰からこっそり覗くと、目の前の竹林に入ってすぐのところで、軍手をはめたパパと彩香さんが膝下ぐらいまで伸びた細いタケノコを根元からポキリと折って回っているのが見えた。「モウソウダケと違ってマダケは採るのが簡単でいいなー。子供の頃、よくおじいちゃんと採りに行ったよ。懐かしいな」「そうなんだ、ふふっ。でも、こんなにいっぱいどうしよう……」「収穫して時間が経つほど苦くなるからね。米糠か米のとぎ汁なんかで灰汁《あく》抜きして水に浸けておけば、たまに水を入れ替えるだけで結構日持ちするよ」「灰汁抜き……。紗波ちゃん詳しいかしら……」「はは。でも、さすがにこれはちょっと多いかな。長谷部さんとこにでもお裾分けする?」「あっ、そうね。いつも頂いてばかり――きゃっ」「おっとっ……」 彩香さんが何かにつまづき前のめりになったところを、パパがすんでのところで支える。 抱えていたタケノコが、ボトボトッと鈍い音を立て二人の足元に散らばった。「わー、全部落ちちゃった……」「君ってほんとに――ぷはっ」 こっそり覗き見ていたあたしもついプッと吹き出す。 二人のそんな様子を見て笑うことができている自分にちょっとした進歩を感じながら、明るく声を掛けようとしたその瞬間――不自然に上体を傾けたパパに、あたしはハッと言葉を飲み込んだ。 微笑みの中に愛おしさを滲ませ、ゆっくりと彩香さんに顔を近づける。頬に掛かる髪を優しく指で払いながら、まるで壊れ物に触れるかのように……パパはそっと、彩香さんに口づけた。 ドクンッ…… 二人から視線を引き剥がし、呆然と物置に背を預ける。 無意識に息を止めてしまっていたのか胸が苦しい。が、呼吸を再開してもドクドクと早鐘打つ心臓に胸苦しさは消えず、あたしはふらりとその場を離れた。 パパが――あたしのパパが、なんだか違うひとに見えた……あんなに優しい顔で、あんなにも切なく愛おしそうに―― この胸の痛みは……嫉妬……? あたしの知らないパパの一面を目の当たりにした驚きと気恥ずかしさ、プライベートを見てしまった罪悪感、見なければよかったという後悔――そして、自分でもよくわからない嫉妬のような感情に、あたしは激しく動揺していた。――ふ、夫婦なんだもん、当たり前よね……寝室だって一緒なんだし。ほらママだって昔、出勤するパパにチュッてしてたじゃない…… 自分を納得させようとすればする程、愛おしそうに彩香さんを見つめるパパの眼差しが、優しく切なげな表情が、胸の痛みを伴って脳裏によみがえる。 自分なりに折り合いをつけながら、やっとのことでバランスを保っていたものが、ぐらりと揺らぐ感覚―― 気付けば池の縁に立っていて、あたしは被っていた帽子を力なくずるりと取り去り、くたりとその場に座り込んだ。あたしに気付いた鯉がゆらゆらとこちらに近づき、エサをもらおうと水面近くでパクパク口を開ける。その波紋で水面に映るあたしの顔は醜く歪んだ。――こんなことで、振り出しに戻るわけにはいかないんだ…… 手にしている帽子をぎゅっと握り締める。 チャプチャプと無邪気にエサを催促する音だけが、虚しく耳に響いた。 photo by little5am
2016.12.22
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「あッ……」 あたしに気付いたユミが、慌てて靴箱の扉を閉める。 え……そこって、あたしの――「……なに、してるの?」「え、えっと……」 生徒たちの喧騒が押し寄せつつある放課後の玄関で、あたしとユミは暫し見つめ合い固まった。「こ、これはじゃな、なんかしょーとしょーたんじゃのうて、えっと、なんかされとらんか確認しょーただけで――」 …………、えーと……。「あぁ、なぁんだ」 表情を緩め、ユミの前に立つ。「え、信じてくれるん? 自分で言うんもあれじゃけど、うち、でれ怪しくね?」「一瞬びっくりしたけど……でも、こういうことしないってもうわかってるから。それより心配してくれて、ありがとね」「あんた……」「高槻紗波」「え?」「あたしの名前だよ」「知っとる! ふっ、亘《ワタル》からどんだけその名前聞かされた思よんな。っちゅーか、ここ書かれとるし」 ユミがあたしの靴箱の扉を指差す。「あー、だね。はは。えーと、そっちは……」「あぁ、うちは柏木ユミ。ユミは、実を結ぶ――結実《けつじつ》って書いて『結実《ユミ》』じゃ」「実を結ぶ……へぇ」 結実《ユミ》――なかなかいい名前だ。 と、急に照れくさくなったのか結実は自身の長い髪を手に取り、毛先をくるくると意味無く指に絡め始めた。そのあどけない仕草に思わず笑みが零れる。「あのー、嫌じゃなければ、だけど……下の名前で呼んでもいい?」 気付けばあたしは、そう口にしていた。「別に構わんけど――、じゃあ、うちもそうする」「あ、でも友達とか……あたしのことあんまりよく思ってないよね。やっぱマズイかな」「そねーなこたー、うちが判断するけぇ」 潔い物言いは、なんとなく可奈や可奈のおばさんを思い起こさせ、あたしは益々結実に親しみを覚えたのだった。ひょっとしたら、結実とは意外に気が合ったりなんかして……「そうそう靴なんじゃけど、なんも入っとらんみてぇじゃわ」「あ、ほんと?」 あたしは扉を開け、ローファーを手に取り軽く逆さに振ってみた。結実の言う通り転がり出るものは何もない。「まぁ、一回やられたらこっちだって警戒するし、そうそう同じこと向こうだってしないよね。はは」 と、「結実――」 不意に背後からのっぺりとした声が聞こえ―― ハッと驚いたように、結実はあたしの後ろに視線を移す。「あー、カズエ……」 わ、あのなんか情念深そうな――あたし、この子苦手かも……。 あたしと話しているところを見られて気まずいのか、結実も少し複雑な表情をしている。 カズエという女子生徒はあたしを冷たく一瞥すると、口元に薄い笑みを浮かべ結実に視線を戻した。「えろー急いで教室飛び出して行きょーる思うたら……こねーなとこでなにゅーしょーるん?」「あ、あぁ、そうじゃ。今日はちぃと急ぐんじゃった」「え、そうなの? ごめん、引き止めちゃって」「いや――、バス乗り遅れたらおえんけぇ、うち行くわ。じゃっ」 結実が慌ただしく踵を返す。 急いでるのに嫌がらせのこと気に掛けてくれたんだ。もっとちゃんとお礼言えばよかった…… 申し訳なく思いながら結実の背中を見送っていると、カズエがすっとあたしに近寄り耳元で囁いた。「あんた取り入るん、ほんまうめぇよなぁ」「……っ?」「結実から聞いたんじゃけど――」 ちらりとあたしの足元に視線を落とす。「大変じゃなぁ、お大事に」 心にもない言葉と不気味な薄笑いを残し、カズエは軽い足取りであたしの前から去っていった。 嫌がらせで怪我したこと、いい気味だと思って喜んでるんだ…… ぎりりと奥歯を噛み締める。 でも―― そんな風に思う人間が、この学校に一体どれくらいいるんだろう…… 自分を取り巻く不穏な気配に、あたしはどうにも落ち着かない気持ちになるのだった。 photo by little5am
2016.12.20
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落し蓋をしたら、そのまま強火で5分程度加熱……煮崩れするのでひっくり返さない――と。 よし、カレイの煮付けはこんなもんでいいか。 ふぅ、彩香さんに渡すレシピノートもだいぶメニューが増えてきたなー。そろそろパパの大好きなママ直伝のハンバーグレシピ、書いてみるのもいいかも―― 調理過程を頭に思い浮かべながら、黙々とペンを走らせる。 ママのレシピノートで覚えたんだから直伝って言ってもいいよね。ソースとかは多少、あたしなりのアレンジ加えてるけど…… たかがハンバーグされどハンバーグ。ちょっとした工夫とこだわりが、その味を左右する。 牛:豚=6:4 挽き肉にバターを少し加えて先によく練って――刻んだタマネギは弱火じゃなく中火で炒めてから冷蔵庫で冷やすのよね。で、パン粉は生のパンを牛乳に浸して……「はや花嫁修行かね、高槻君」 ハッとして視線を上げると、そこにはレシピノートを覗き込む能面のような村田先生の顔が…… し、しまった……。ちょっと書き足すつもりが、つい――「うちの古典の授業は、そんなに退屈かな」 縁なし眼鏡がキラリと光る。「ス……スミマセン」 あ~、あたしったら、なんでよりによって村田先生の授業で…… クスクスとどこからともなく女子の笑い声が聞こえてくる。いい気味だと思っているのだろう。「君が優秀なのはわかっているが、そんなに我が校の授業を甘く見ていると――」「先生」 だらだら続きそうな話を遮るように、不意に声が上がる。 「ん、あー……中沢君か。なんだね」――委員長?「そこ、『言うかいなくぞこぼれ破れたり』――、『ぞ』が入っとるけぇ、文末は連体の『たる』になるんと違いますか」「あぁ本当だ、係り結びだな。これは失礼、初歩的なミスを」 仕方なく小言を切り上げ黒板へと向かう先生に、教室内が微かにざわつく。――今のって、庇うた?――あの二人って…… 庇ってくれたのならそれはそれでありがたいけど、またいらぬ誤解が……。 にしても、ちょっとしたことでもこれなのに、屋上で一緒にお昼食べてるなんてことがバレたら……こわ。 ふと遠藤さんと目が合い、はは……と意味なく笑い返す。遠藤さんは一瞬、何か物言いたげな表情を見せたかと思うと、ハッとしたように慌ててあたしから視線を逸らした。 ……? 「『生まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ』――作者の心情が実によく表された歌だが、じゃあ、この歌の意味を……そうだな、あまり古典に関心がなさそうな高槻君――の横の遠藤君、答えなさい」 と、遠回しになんてイヤミな……。「はい……、ここで生まれたあの子も帰らないのに、我が家に小松が生えているのを見ると子供が思い出されて悲しい……です」「うむ。小松というのは、これからぐんぐん伸びていく生命力に溢れた若木だ。だからこそ亡くなった娘と比べ、より一層悲しみが増すというわけだな。――はい、座ってよろしい」 そうだ、土佐日記って――ユーモアを交えながらも、亡くなった愛娘への想いが根底に流れたちょっと切なさ漂う話だったっけ。 身内を失うこと程辛いものはない。今も昔もそれは変わりなく…… よそ事を考えていた自分を少し反省しつつ、あたしは古典の教科書に目を落とした。「せーって、いっつもなにゅーしょーるんじゃ?」 休み時間に書いたハンバーグのレシピに赤ペンでアドバイスを書き込んでいると、委員長がイチゴプリンをもごもごしながら覗き込むように訊いてきた。「あぁ、これ? レシピノート書いてるんだけど……あともう少しでできあがりそうなの」「レシピノート? さっき書きょーたやつってせーか? ようも村田ん時に……」「あたしもミスったなーって。はは。あー、あれ……庇ってくれてありがとね」「別に……黒板の間違いに気ぃついたけぇ言うただけじゃが」 首をのけ反らせ、カップをトントンと叩いて残りのイチゴプリンを口の中へ落とす。照れくさいのか素っ気ない態度を取る委員長に、あたしはふっと目を細めた。変な誤解を招くようなことはなるべく避けたいと思いながらも、今日もこうして一緒に昼休みを過ごしている――ついつい裏腹な行動をとってしまっているあたしだった。「じゃけど、そげぇなもん書いてどねんするつもりなんじゃ? っちゅーかおめぇ、その料理全部作れるんか?」「家事歴7年ですから」 得意気にフフンと鼻を鳴らす。 なんのリアクションもないので怪訝な表情を向けると、委員長は少し躊躇いがちに訊いてきた。「おめぇの親父さん……って、再婚したんか? ちぃーと聞こえてきたんじゃけど、あん時……」 あぁ、転校してきた日に職員室で――「うん……パパ、転勤と同時に再婚したの。だからほんと、つい最近」「そーか……。家事歴7年て――」「あたしが9歳の時……ママ、事故で亡くなって――」「え……」「道路に飛び出したあたしをバイクから守ろうとして、それで――、あたしのせいなの」 委員長が言葉を失くし黙り込む。重い沈黙が流れ、あたしは口調を変えて続けた。「で、その時から家事始めて……だから料理にはちょっと自信あるんだ。ふふ。でも、パパのお嫁さんがちょーっと料理が苦手なひとでさ。たまにアドバイスすると結構喜んでくれたりするから、知ってる料理、ノートに書いて渡そうかなって。お節介かなーとは思ったんだけど……」「……そうじゃったんか」「あー、ごめん。なんか暗い話……」「いや――、実ぁな、うちも去年、親父再婚したんじゃ」「えっ、そうなの?」「母親と弟が、いっぺんにできた」 突然のカミングアウトに驚きつつ…… なんとなく委員長があたしのことを気に掛けてくれてるようなのはそのせいか――と、あたしはようやく納得したのだった。 でも、連れ子同士の再婚だなんて……あたしなんかより、よほど委員長の方が大変ではないか。「なんか複雑、だね……。あたしなんて、一人増えただけでもこんなにうろたえてるのに……」「そりゃー他人がいきなり身内になるんじゃし……。じゃけど、考えようによりゃー家族っちゅう仲間が増えるんじゃけ、わりぃことばーでもねかろー? 俺ぁ握手した時からほんもんの家族んなったぁ思うとる」 握手――、仲間…… 何か胸に引っ掛かりを感じながら…… でも、そうか……あの時委員長、自分と境遇が似てるあたしを励ますつもりで握手を――「ごめん、あの時あたし……」「んぁ?」きょとんとした顔を向ける委員長。「いや……、でも、どうしたらそんなポジティブでいられるの……」 自分の度量の狭さを痛感し、ぼそりと呟く。一呼吸置き、委員長はやたらサバサバとした口調で言った。「せーでねぇと、やっとられんけぇのぅ。実の母親、俺と親父残してどっか別ん男んとこ行ってしもうたし」「えっ……」「お陰でどうも女んことが信じきれんっちゅーか……ま、親父っちゅう信頼できる身内がひとりでもおったんが、せめてもの救いじゃな。完全な人間不信に陥らずに済んだ」 そう言って委員長は肩を竦め、自嘲気味に笑った。――誰しも大なり小なり、やーこしーもん抱えとるゆーこっちゃ…… 昨日の委員長の言葉がふとよみがえる。「委員、長……」 自分の不注意から母親を失うことになってしまった子供と、母親の裏切りにより、その存在を失った子供―― どちらが不幸なのか。 はっきりとわかるのは、そこに形容し難い痛みと悲しみがあるということ―― 胸が塞がり言葉にならず、あたしはただ黙って委員長を見つめることしかできなかった。「俺、なんでこねーなことおめぇに話しょーるんじゃろ。あんま他人やこーゆーたことねぇのに……。親父の再婚っちゅーことで状況が似とるからじゃろーか」 いつになく気弱な笑みを浮かべ、委員長はあたしを見つめ返す。「つれぇこと思い出させてしもーて、すまんかったの」「ううん……、ママのこと、思い出さない日はないし……」 一瞬キュッと眉を寄せたかと思うと委員長はあたしの頭に手を置き、くしゃくしゃと無造作に髪を掻き回した。「ははは。鳥の巣完成」「ちょっ、なに――」「なかなかイケとるがー」「もーっ! ……ぷっ、やめてよ。ははっ」 悲しみの先には、きっと笑顔の明日が待っている―― そう自分を奮い立たせながら、みんな必死に前を向いて歩いているのかもしれない。 photo by little5am
2016.12.17
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――コンッ…… 上靴から転がり出た画びょうが簀子に跳ね返り、小さく不気味な音を立てる。「……そうは同じ手に乗るか」 この学校に通い始めて5日目になる週終わりの金曜――気を緩めることも許されず、あたしは重々しい朝を迎えていた。 昨日あたしが帰るのを待って上靴に入れたか、今朝早めに来て入れたか……どっちにしろご苦労なことだ。誰だか知らないけど、いつまでこんなことを続けるつもりなんだろう。「――うちとちゃうけぇな」 突然の声にハッと後ろを振り返ると、そこに立っていたのはユミだった。不機嫌そうに眉を寄せ、床に転がる画びょうを見下ろしている。「いつからなん、それ」 ユミはつっけんどんな口調で訊いてきた。「え、あぁ……これで2回目。昨日は靴に入っててヒドイ目にあっちゃった」 あたしは肩を竦め、痛みの残る右足を軽く持ち上げた。「嘘、ケガしたん? 今時こねんベタなことするヤツおるんじゃな、やっちもねー」「やっちもねー?」「フン、くだらん、ゆーことじゃ」 ユミは呆れたようにそう言うと、自分の靴箱を開け、取り出した上靴をパンッと簀子の上に投げるように置いた。 あれ、ひょっとして怒ってくれてる? それとも実はユミが犯人で、それをごまかす為にわざと怒ってる振りを―― いや、ユミは……最初こそ印象が悪かったけど、そんな小芝居を打つタイプじゃなくて、もっとこう、何に対してもストレートというか……「――あんたも、いらん反感買うて苦労しょーるんじゃな」 そう言いながら脱いだ靴を棚に入れると、ユミはスチール製の扉をパシンと閉じあたしを振り返った。「こねーだのこたー謝るわ……、女子トイレの……」「あぁ……、まぁ、別にいいけど……」 照れくさそうに口ごもるユミに、こちらももごもごと返す。「じゃけど誰がそねーな――っちゅーても、あんたんことええよう思うとらんの、よーけいそうじゃしなぁ」「……この5日間でそれは身に沁みて、ハイ」「ま、まぁあれじゃ、あんたが男子受けよさそうなけぇ女子らぁも焦りょーるんじゃろ。入ったんが柊哉のA組っちゅーのがまた――」 ユミはふと言葉を切ると、顎に手を当て視線を宙に泳がせた。と、「うおっ、なんたる麗しい光景……! 二人ともどねーした!? やっと親しゅうなったんかっ?」 背後から騒々しい声が――「あんたぁイチイチ声がでけぇんじゃ、亘」 朝からハイテンションな小野に、ユミが呆れた声で返す。「なんも照れるこたぁねぇがぁユミ。『仲良きことは美しき哉《かな》』っちゅーて、かの武者小路実篤さんもそう言うとろーが」「さん、て……。そねーな知識もええけど、ちゃんと勉強しょーるんじゃろーな、あんた。じき追試じゃろ」「『勉強勉強勉強のみよく奇蹟を生む、かく思いつつ我は勉強する也』。はぁ~、青春たー時に残酷じゃのぅ……」「せーも実篤さんか? あんたバカじゃねーんじゃけぇ、テストの方ももちぃーと頑張られぇよ。はぁ」 ぷ。やっぱり夫婦漫才だ。この二人を見てると、なんだか可奈んちのおじさんとおばさんを思い出す。 なんとなく微笑ましくその様子を眺めていると、小野がふとあたしを振り返り優しげに目を細めた。「えかったの」 ドキ…… ちょ、ちょっと待って……今、小野が一瞬カッコよく見えたんだけど?? なんの錯覚かと思わず目を擦る。 ひょっとして小野、あたしがユミと気まずかったの(小野のせいだけど)気に掛けてくれてたの? エリート家族に囲まれて、茶化すことで自分を保っている小野――居場所のない辛さを身をもって知っているだけに、これまでのちょっかいも、転校したてのあたしを心配してのことだったのかもしれない。「なんじゃあ高槻、わしの顔じろじろ見てから……あっ、さてはわしに惚れてしもうたな?」「は?」「あんたぁまた! ちばけたことばー言よーらんと、ほれ行くでっ」「いででっ、耳ちぎれるけぇっ……ちょ、ちょー待って、なんか踏んだ」 小野が上靴の裏を見る。「うおっ、画びょう刺さっとるがー! 誰じゃ、こげな危ねーもんほっぽっとるヤツぁっ」 あ。うっかり拾うの忘れてた……。「刺さったぁゆーても上靴じゃが。なぁ?」 ユミが呆れた顔であたしを振り返り、プハッと吹き出す。これまでとは違うどこか友好的な態度に一瞬戸惑いながらも、小野の間の抜けた様子にあたしもアハハと笑い声を上げる。 災い転じて福と為す――か。まさか嫌がらせが、こんな状況を作ってくれるなんて…… と、多少は重苦しい気分が晴れたところでふと殺気のようなものを感じ――「……?」「どねーした、高槻?」「あ、ううん。なんでも……」 まぁ、いつものことか。 あたしは肩を竦め、ふふっと二人に笑い返した。 photo by little5am
2016.12.15
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お父さんとの思い出を語る波琉は、どこか寂しげで――そういうことだったんだ…… 重い沈黙に波音だけが穏やかに響き渡る。 7年前――あたしたちは同じように、深い悲しみの中をさまよっていた…… 父親を思慕する理由と波琉の心の痛みがあまりにも容易に理解でき、あたしの胸は切なく震え、視界はぼやりと涙で滲んだ。「ごめん……お母さんのこと思い出させちゃったね」「――あの頃あたし、自分だけが世界のどん底にいるって思ってた。波琉も同じだったのね……」 あの頃波琉に出会っていたら、お互いの悲しみを少しでも軽くできていただろうか……それとも余計に辛くなって――「紗波……、そうだ、紗波のお父さんってどんなひと?」 沈んだ空気を変えるべく、波琉が明るい口調で訊ねる。波琉の気遣いを感じ、あたしも滲んだ涙を指で拭い明るく返した。「パパ? んー、そうねぇ……あたしのパパは、なんかおっとりしてるっていうか……ちょっとドジなところもあったり? でもね、歳の割には若く見えるし背も高くて結構モテるの。困ったことに」「イケメンパパだ」「ははっ。――ね、波琉、港瀬山のクルージングプロジェクト、って知ってる?」「クルージング……あっ、うん。なんか港の向こうの造船所で、すごく大きな豪華客船が造られるみたいだね。部屋のひとが言って――」「……部屋のひと?」「あ、いや――、そのプロジェクトがどうしたの?」「うん、あたしたちがこっちに引っ越してきたのってね、パパがそのプロジェクトに参加することになったからなの。パパ、船舶設計士なんだ」「えっ、ほんとにっ? ケホッ……」 波琉は軽くむせながら、珍しく興奮した様子で訊き返した。「なんかね、日本籍の船でいうと国内で2番目に大きな豪華客船らしくて――、基本的には音ヶ瀬港発着で瀬戸内海を周航するらしいんだけど、いずれ日本各地を回ったり世界一周クルーズに出たりなんかもするんだって」「世界一周? わぁ、すごいね!」 波琉がキラキラと目を輝かせる。「僕、船で世界一周するのが小さい頃からの夢なんだ。どこまでも果てしなく続く海原を、ゆっくり航海しながら世界中旅して回るなんて……考えただけでワクワクするよね」 いつも落ち着いていてどこか達観したようなところのある波琉が、そんな風に目を輝かせて話すのが珍しいのと同時に嬉しくて、「そうだ、船ができたら一緒に乗せてもらおうよ波琉! 世界一周とか無理だけど、瀬戸内海のクルージングなら、パパの娘ってことでいろいろ優待とかあるかもっ」 あたしはつい、咄嗟の思いつきを口にしてしまったのだった。キラキラ輝いていた波琉の瞳がふと悲しげに曇る。「あっ、そうだった……波琉ってもうすぐ留学するんだよね。あ~、あたしったら……」 頭をぺしぺし叩くあたしにクスリと笑みを零し、波琉は少し寂しげに呟く。「紗波のお父さんが設計した船、乗ってみたかったな……」「ごめんね、波琉……。でも波琉って、いつまで日本にいられるの?」「あ、うん……まだはっきりとは――」「じゃあ、すぐにってわけじゃなくて、まだ暫くは会っていられるんだね」 あたしは少しほっとして波琉に微笑んだ。「――紗波といたいから、なるべく長くここにいるようにする」「……あ、あは」 は、波琉って結構、照れるようなこと平気で言っちゃうよね……。 顔の赤さが目立たない時間帯でよかったと密かに胸を撫で下ろす。「そ、そうだ。訊いてなかったけど、波琉、どこの国に留学するの?」「んー……」 波琉はあたしから目を逸らすと、遠く金色に輝く沖の方へと目を向けた。「――音に溢れてる国」「えー? なぁにそれ、なぞなぞみたい。んー、音に溢れた……音楽の都? ウィーン……オーストリア?」「いずれここを離れる時が来たら……それまでは秘密」「秘密……」 軽く拒絶されたような気がして少し胸が痛む。 波琉って、なんていうかこう――ミステリアスというか捉えどころがないというか…… そのどこか現実感のない様は、美しく儚げな容姿と相まって、わけもなくあたしを不安にさせるのだった。 言いようのない漠然とした不安を紛らわすようにあたしは視線をさまよわせる。辺りは一面オレンジ色に染まり、島影に沈みゆく夕日が、静かに打ち寄せる波の上に金色の光の筋を落としている。 胸が締め付けられるようなこんな気持ちになるのは、目の前に広がる切なくて美しいこの叙情的な風景のせいもあるかもしれない。「綺麗……」「――だね。ここにも音が溢れてる……」「波の音?」「波の音や風の音……それから、光の音――」 光の……音?「紗波にも……」 波琉は沖からあたしに視線を移すと、瞳を揺らしながらゆっくりと言葉を探すように言った。「どうしてかな、君を見てると……音の雫が零れ落ちてくるみたいに、胸の奥が音で溢れていっぱいになるんだ……」 トクンと胸が波打ち、柔らかな羽毛で撫でられたようなくすぐったさが全身を駆け巡る。 音の雫が零れ落ちる―― なんて綺麗な表現なんだろう……あたしは波琉の中で、どんな音を響かせてるの? 潮騒と夕日のオレンジ色が、優しくあたしたちを包み込む。このまま時が止まってほしいと願わずにはいられないほどの絶対的な幸福感を伴って―― 誰の心にもきっと、忘れられない情景がある。 いつでも鮮明に思い出せる、いつまでも色褪せない記憶が…… 今この瞬間も、きっとそうなんだ。 この美しく儚い金色の時刻《とき》を、あたしは生涯忘れることはないだろう。 胸の奥の宝箱にそっと仕舞い込んで、永遠に―― photo by little5am
2016.12.13
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ちょっと本屋さんに―― 辺りが夕映えに染まり始める頃、あたしは彩香さんにそう嘘をついて家を出た。 嘘をつくのは後ろめたいけど、波琉のことをどう説明していいかわからないし、変に誤解されるのも嫌だし…… それにしても、波琉は一体いつまで日本にいるんだろう? 休学して準備に取り掛かってるくらいなんだから、きっとそう長くはいられないよね…… 寂しいな、会えなくなったら―― ペダルを踏み込む足がジクリと痛む。 波琉に出会ったあの日、あたしは岡山《ここ》に来て初めて、心の底から笑顔になることができた。 あの浜に行けば波琉に会える…… 孤独な心に、胸の痛みに、静かに寄り添ってくれる優しい目をした波琉に―― それが今のあたしにとって、どれほど心強いことか。 でも―― そんな風にこの時刻を待ち遠しく思っているのは、あたしだけだったりするのかな…… そもそも今日だって、会えるかどうかなんてわからないんだ。きちんと約束してるわけじゃないんだし…… 傷口から毒がまわるように、悲観的な考えが身体の中に流れ込んでくる。嫌な目にあったから少し気弱になってるのかもしれない。 だから浜辺に波琉の後ろ姿を見つけた時、意外な思いであたしは何度も目を瞬かせたのだった。 波琉があたしを待っている…… たとえそれが何の意図もなくただ海を眺めているだけだとしても、あたしはその光景にひどく救われた気がした。不思議なことに、足の痛みが幾分マシになったような気さえする。 あたしは少し悪戯心を起こして、岩の上で膝を抱えて座っている波琉の後ろにこっそり回り込んだ。 驚かそうと背中を押しかけ、波琉が何か口ずさんでいることに気付き手を下ろす。――英語? 何の歌? 潮騒に紛れてしまいそうな微かなその歌声に、あたしは一心に耳を澄ます。 あれ? なんだろう、このメロディー……どこかで聴いたことがあるような…… 初めてこの浜に来た時――そう、どこからともなくピアノの音色が聴こえてきた、あの時感じた不思議な感覚がふとよみがえる。 オレンジ色の夕日を浴びて金色に輝く海、静かに打ち寄せる波音に波琉の澄んだ声は穏やかに切なく、不安定に揺らいでいた心を優しく包み込んでいく。 と、不意に歌声が止み、代わりに、「――わっ」 波琉の慌てた声が辺りに響いた。「い、いつからそこにいたの……」 夕日に赤く染められた波琉が気恥ずかしそうに訊ねる。あたふたしたその様子にくすっと笑いながら、あたしはすとんと波琉の横に腰を下ろした。「盗み聞きしてごめんね。波琉の美声にうっとり聞き惚れちゃって」「美声って……」「ふふっ、ほんとよ? でも、なんだろ……知らない曲なのに、なんとなく聴き覚えがあるような……うーん」 腕を組み首を傾げるあたしに、波琉がくすりと笑みを向ける。「――ビリー・ジョエルって知ってる?」「え? ビリー……あ、なんか聞いたことあるかも」「ビリー・ジョエルの『This Night』っていう曲で、父さんが好きでよく歌ってたんだ」「そうなんだー、きっと有名な曲なのね。どこかで流れてるの聴いたのかも」「それって、たぶん――」 波琉は何か言い掛けて、ふと口をつぐんだ。「ん?」 「あ、いや……、もう随分前のことになるけど、一度父さんと河川敷の花火大会を見に行ったことがあって――」「花火大会……?」「うん。父さんに肩車してもらうと、手が届きそうなくらい近くに花火が見えて――まだ小さかった僕は、初めて見る大きな花火にすっかりはしゃぎ疲れてしまって、帰り道、父さんにおんぶしてもらったんだ。川沿いのサイクリングロードをゆっくりゆっくり……、空を見上げるとね、青白く輝く大きな満月が、地面にはっきり影が映るくらいに僕たちを明るく照らしていて、なんだか気分よさそうに父さん、この曲口ずさんでた。もちろん歌詞なんて全然わからなかったけど、メロディーだけはすごく耳に残ってて――、大きな背中に揺られてる安心感とか、澄んだ月の光や川を渡る風の匂いまで……この曲を思い浮かべると、その夜のことが今でも鮮明によみがえるんだ」 波琉はどこか遠い目をして言葉を切った。「波琉は、お父さんのことが大好きなんだね……」 大事そうにお父さんとの思い出を語る波琉――波琉の、父親を思い慕う気持ちにあたしは深く共感し、しんみり呟いた。「世界はどこまでも無限に広がっていて、毎日キラキラ楽しくて……あの頃の僕は、物事に限りがあることなんて考えもしなかった」――限り? どこか含みを持たせた言い方に、あたしは首を傾げる。「ごめん、変な話……」「ううん。でも、あの……波琉って、今はあんまり楽しくないの?」「んー……」 少し困惑した表情を見せる波琉。「でも、紗波といると楽しい」「えっ……」 長い睫毛を震わせながら見つめられ、あたしはあたふたと言葉を探した。「えぇっと……あ、お父さんとは今でもそんなカンジなの? なんかいいよねっ、そういうのって。ふふ」 波琉は少し間をおいて、躊躇いがちに口を開いた。「父さん――、僕の父さんも、7年前に亡くなったんだ。病気で……」「え……」 驚いて波琉を強く見つめ返す。 亡くなった……7年前…… 複雑な思いが込み上げ、あたしは束の間言葉を失った。 photo by little5am
2016.12.12
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教室の窓から眺める昼下がりの空は、朝と変わりなくカラリと青く澄んでいて―― これなら今日は綺麗な夕焼けが期待できそうだ。 ようやく迎えた放課後に人一倍解放感を覚えながら、あたしは足取り軽く教室を後にする。 そして、靴箱から取り出したローファーに片足を入れた瞬間、「痛ッ……」 爪先に鋭い痛みが走り、あたしはビクッと足を引き抜いた。――いッた……、な、なに……!? じわりと膨張する痛みに顔をしかめ、頭を混乱させながら靴を持ち上げる。と、何かキラリと光るものが中から転がり落ち、コンッ……と足元の簀子にワンバウンドしてコンクリートの床上でくるくると小さく回った。 拾い上げたその指先で禍々しく小さな光を放つもの――「画びょう……」 だ、誰よ、こんなの入れたの……! キッと険しく辺りを見回すあたしに、近くを通りがかった生徒が怪訝な表情を向ける。 あたしは怒りをグッと飲み込み、もう片方の靴も逆さに振ってみた。 コンッ……飛び出た画びょうが簀子に跳ね返り、その隙間に姿を消す。 ひどい……――あははっ…… 何気ない生徒同士の談笑が悪意に満ちた響きで耳にこだまし、あたしは堪らず靴を突っ掛けるようにして履き、玄関を飛び出した。階段を下りたところで画びょうを手にしたままでいることに気付き、腹立ち紛れに遠く植え込みに投げ入れる。「――――」――こんなことくらい、どうってこと…… 痛みを無視してスタスタ自転車置き場に向かい、ガチャリと自転車の鍵を開ける。――靴に画びょうって、定番すぎて逆に笑えるし…… そう強がりながらも、頭の中では思いつく限りの女子生徒の顔が浮かんでは消え―― 女子トイレで突っ掛かってきたあの子たちの誰かだろうか……いや、顔も知らない誰かかも…… 結構深く刺してしまったのかズキンズキンと脈打つように疼く爪先に、今度はふつふつ怒りが込み上げてくる。「ムカつくったら……」 鞄をカゴに放り込み、あたしは痛む右足で自転車のスタンドを荒々しく蹴り上げた。「あれ……、留守?」 痺れるような爪先の痛みに顔をしかめつつ、再度玄関のブザーを押し鳴らす。 いつもならすぐに彩香さんが顔を覗かせるのに、今日は全くその気配がない。 鞄のどこかに入れたままにしている、いつもは使わない家の鍵をゴソゴソ探していると、「紗波ちゃーんっ……ごめんね、遅くなっちゃって~」 彩香さんがぱんぱんに膨れた買い物袋を両手にぶら下げ、よろよろと植え込みの陰から姿を現した。 爪先に走る痛みを押し隠し、「――大丈夫ですか」そばに駆け寄り荷物を持つ。「あ、ありがと、はぁ~。今日からね、教習所通い始めたの。ペーパードライバー講習」「あー、言ってましたね……」「で、帰りにちょっとお買い物してたら遅くなっちゃって。えーと、鍵鍵――」 ガラガラと開けられた格子戸から、彩香さんに続いて土間に入る。「紗波ちゃんありがと。荷物そこに置いておいてね」「あ、はい。……ところであのー、消毒液とかって、うちにありましたっけ」 荷物を玄関に下ろし振り返って訊ねると、「えっ、紗波ちゃん、どこかケガしたの?」 彩香さんは驚いて訊き返した。「いえ、たいしたことないんです。その、ちょっと棘が……もう抜けてるんですけど」「えぇ、大丈夫? ちょっと待ってね。救急箱どこに置いてたっけ……」 彩香さんはパタパタとスリッパを鳴らし、居間の方へと駆けて行った。 坂道が堪えたのか、さっきよりも痛みがひどくなっている。「これでいいかな」 戻ってきた彩香さんが消毒液と軟膏、そして絆創膏を差し出す。「どこに刺さっちゃったの? ちゃんと抜けてる?」「あ、大丈夫です。ほんと、たいしたことないんで。はは……」 心配する彩香さんに平静を装い別棟へと向かう。足を庇いながら階段を上がりようやく自分の部屋に辿り着いたあたしは、鞄を放り投げ勢いよくベッドの端に腰かけた。痛む右足を持ち上げ、紺色のハイソックスをそろりと脱ぐ。「っつ……」 親指の皮膚をえぐるように刺したのか表皮が痛々しく盛り上がり、滲み出た血が爪先を赤く染めている。白い靴下じゃなかったのがせめてもの救いだ。「破傷風にでもなったらどうしてくれんのよ……ったく、いたた……」 血を拭いながら消毒液を何度も吹き付ける。軟膏を塗り絆創膏を貼るとやっと人心地付き、あたしはベッドにごろんと横になった。「はぁー、こんなことされるなんて……、キツ……」 深刻になりすぎるのも相手の思う壷だと気持ちを切り替えようとはするものの、誰かに憎まれているという事実をこうも突き付けられては、やはり心穏やかではいられない。 あたしは掛け布団をがばっと被り、隙間から窓の外に目を向けた。 ぽかりと浮かぶ雲は白く、空はまだ青い。「早くオレンジ色になって……」 photo by little5am
2016.12.10
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昼休み―― お弁当の入った手提げ袋とレシピノート、筆記用具を持って席を立つ。 ひとり寂しくお弁当を広げる遠藤さんを横目で気にしながら、あたしは皆に気付かれないようこっそり屋上へと上がった。 扉を開け、思いっきり伸びをする。 んん~~っ……はぁ~、生き返るわ~。 風はあるものの日射しは結構きついので、陰のある方に回り込む。「――って、いるし!」「お先。もごもご……」 先に来ていた委員長がパンを頬張りながら手を上げる。「…………。ランチ仲間とかいないワケ?」「ねみーけぇ、どこぞで寝てくる言うて来た」「…………」 今更離れて座るのもおかしいので、仕方なく委員長の横に腰を下ろす。「バレんかったじゃろーな」「その辺は抜かりないわよ。そっちこそ」「ったりめーじゃが。そねーなヘマぁせん」 って、これじゃまるで逢引き……「とっ、友達は大事にしなさいよ、アンタ」「そねー細けーこたぁ気にせんヤツらじゃけぇなんも心配いらん。亘《ワタル》もユミと食う言うて、ようおらんようなるしの」「えっ、あんたたち仲良かったの?」「亘たぁ幼稚園からのなげー付き合いじゃけぇ。ま、腐れ縁ゆーやっちゃな」「へぇぇ~、そうなんだ」 委員長と小野が――ちょっと意外……。「ねぇ、小野ってなんであーなの? なーんかヘラヘラしてて軽いっていうかさ……」「ああ……ありゃー、あいつなりの処世術っちゅーか――」 委員長は食べ終わったパンの袋をぐしゃっと丸めコンビニのビニール袋に突っ込むと、ぼんやり前を向いて続けた。「亘にゃー、よーできる兄ちゃんが二人もおってのぅ。一番上は司法試験合格して弁護士の卵じゃし、二番目も一流私大の法学部に通うとる。そもそも父親からして立派な事務所構えた名うての弁護士様じゃけぇな。母親は母親で何かの団体の代表やっとる才女じゃし」「すご……それ、ほんとなの?」 小野の家がそんな超インテリエリート一家だったなんて――あの小野が、まさかのお坊ちゃん?「あいつもあいつなりに期待に応えよう思うてよう頑張りょーたんじゃけど、まぁ、イチイチ上と比べられりゃーそりゃ辛ぇわな。ほんなら最初っから期待されん方がマシじゃあ言うて、段々あねーな茶化した態度取るようなってしもうて……。あの家で暮らしていくにゃーそうせんとおれんかったんじゃろ、あいつも」「そうなんだ……」 あんな、どこまでもお気楽そうな小野が……「ま、誰しも大なり小なり、なんじゃあやーこしーもん抱えとるゆーこっちゃ。まぁ、今となっちゃーどっちが本性かっちゅーぐれぇ生き生きして見えるけどのぅ、ふっ……。あぁほれ高槻、はよぉ食われぇ。時間のーなるぞ」「あ、うん……」 しんみりしているところを委員長に促され、取り敢えずお弁当の蓋を開ける。ジャーマンポテトのベーコンとブラックペッパーの香りが、ふわんと辺りに漂った。「でも、友達が学年一位っていうのもまた辛いところよね……。すごいじゃない、さすが委員長やってるだけあって頭いいのね」 は。普通に褒めるつもりが、なんかちょっと嫌味な言い方になってしまった。でも委員長は気に留める風もなく、早くも食後のデザートか、イチゴヨーグルトを口に運びながら間延びした声で答えた。「まぁ俺ぁ誰と比べられるワケでもねぇしのぉ。その辺は気楽っちゅーか、ただなりてぇもん目指して頑張っとるだけじゃし」「なりたいもの?」「親父のようになりてぇんじゃ。親父のこと尊敬しとるけぇ」「お父さんって、何してる人なの?」「医者」「えっ、お父さんお医者さんなのっ?」 うわ、ここにも隠れセレブがっ。さすが私立高校……。「こん学校は本格的な文理分けが3年からじゃけ、そっち方面目指すにゃーちぃーと不利なんじゃけどのぅ、まぁ親父もここ出て医者んなったし」「すごいのねぇ。もう進路とかちゃんと決めてるんだ。あたしなんてまだ何も……」 将来どうなりたいとか、真剣に突き詰めて考えたことなんてないかも……ただ目の前のことを消化していくだけで精一杯で―― ブラックペッパーがピリリと舌を刺す。「俺じゃて去年までは漠然とそう思よーただけじゃった。じゃけど……」 ……だけど? プラスプーンをくわえたままぼんやり宙を見つめる委員長に怪訝な顔を向ける。と、「それ、うまそうじゃの」 不意に腕を掴まれ、フォークに突き刺していたポテトを委員長にパクリと奪われてしまった。「むぐ……ちぃと焦げとるのぅ」「ちょちょ、ちょっと! なにすんのよっ」「パンばー飽きたけぇ」「なら、お弁当作ってもらいなさいよっ。信じらんないっ、もーっっ」 膝に広げたお弁当包みでフォークをゴシゴシ拭う。「せ、せーって、でれぇ傷付くんじゃけど……」「知らないわよ、そんなのっ」「そねー怒らんでも……なんじゃあ、ひとりで寂しかろー思うて来ちゃったのに」「は? 別に頼んでないしっ」「はぁ~しゃーねぇのぉ。ヨーグルトやるけぇ落ち着かれぇ」「って食べかけじゃん! んなのいるかーっ」 くわっと口を開きフォークを振り上げる。 っていうか、なんであたしこんなとこで密かに委員長と戯れてるんだ? なんかイマイチ解せないこの状況……。「はーみててしもうたがー」 名残惜しそうにカップの底をさらっている委員長を横目で見ながら、あたしは湯がき足りない硬いブロッコリーにぶすりとフォークを突き立てた。 photo by little5am
2016.12.08
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カラリと澄んだ青い空と、朝日に輝く瀬戸の海―― 気乗りしない登校をなんとか爽やかな景色で紛らわしながら、あたしは西の方角へと自転車を走らせる。 はぁ~あ、今日もまたなに言われるんだか…… 朝の空気の清々しさとは真逆のどんより憂鬱な気分で校舎に入ると、階段を上がる手前の通路に何か貼り出されていて、その前になにやらガヤガヤと人だかりができていた。「シュウヤ、やっぱ頭ええの~」「何気にさやえんどうも常連じゃねん?」 何事かと背伸びして見てみると、どうやらそれは中間テストの順位表らしく――――一、中沢柊哉〈2―A〉 これって委員長のことだよね? シュウヤってこんな字書くんだ……っていうか! 一位って!? へえぇ頭いいんだー、アイツ…… 選択科目を除く総合点数、上位20名の名前が書かれたその順位表には、――四、遠藤沙夜〈2―A〉 と、遠藤さんの名前も載っている。 ふと横を向くと、少し離れたところから順位表を見上げている遠藤さんの姿が目に入った。微かに頬を上気させたその顔は、どこか誇らしげに見えなくもない。 確か2年生は三百人近くいたはず。そりゃ四位でも十分すごいよね……。あとでちょっと声を掛けてみよう、うん。 と、順位表を見上げる生徒たちの足元に、どことなく雑に貼り付けられた紙が一枚――神々しい上位順位表とは対照的に、なにやらどんより負のオーラを放っている。「中間テスト追試者……」 うわ残酷。セットで貼り出すなんて……ん?――小野亘〈2―A〉日本史B、古、英Ⅱ 小野? ワタルってこんな字だったんだ。にしても、3つも赤点って――「紗波ちゃ~ん……」「わっ……い、いたの」 背中丸めて屈んでるから、影薄くてわかんなかった……。「こん学校ひでーと思わん? 見せしめにこげーなもん貼ってから……」「いや、それはあんたが勉強しないから」「はぁ~~」 小野が大きく溜息をつく。廊下にのの字なんか書いたりして、全くいつもの覇気がない。 あたしは見るに見兼ね、隣に屈んで励ましの言葉を掛けた。「まぁさ、追試頑張って期末で取り戻せばいいじゃん。あんたの彼女もあんたのこと、やればできる男だって言ってたわよ? 留年とかなったら彼女どうすんの。ほらっ、信頼してくれてる彼女のためにも頑張んなきゃー、ね?」「さ、紗波ちゃん……今日はなんじゃあ優しいのぉ」「名前で呼ぶのはやめてね」 ユミに聞かれたら、またなに言われるか。「――そねん落ち込むんじゃったら、最初っから頑張りゃーええがん」 って、後ろいたし! あたしは慌てて立ち上がった。「あ、別に仲良くしてないから」 いらぬ誤解を受けたくないので一応断っておく。でも意外にもユミは、「まー、こねーな赤点男とどうこうなろうやこー、普通は思やぁせんよなぁ」 いつになくあっさりと引き下がった。 あれ。ちょっと拍子抜け。「追試落として留年やこーなったらマジで別れるけぇーな、亘《ワタル》」「えぇッ」「ウジウジしょーる暇あったら英単語のひとつでも覚えられぇ。付きおーたるけぇ」「いでででっ……」 小野がズルズルとユミに引きずられて行く。 キツイ物言いも相手を思ってのこと――って、そんなこと小野だってわかってるよね。 昔は勉強がよくできたらしい小野。どうして突然やる気がなくなってしまったのだろう? まぁ、誰にだってそんな時はあるだろうし、特に理由なんてないのかもしれないけど。「高槻さん、おはよ」「あ、おはよー……はは」 教室の入り口にいた男子に笑顔で迎えられ、取り敢えず愛想笑いで返す。 昨日あんなこと言われたもんだから、女子の視線がどうも気になるのよね。あの子たちの言うように、あたしへの興味なんか一過性のものだと思うんだけど。 席に着きながら、隣で何かの参考書に目を落としている遠藤さんにさっそく声を掛けてみる。「遠藤さん、おはよ」「あ、お、おはよう……」 お、敬語じゃないぞ。ちょっとは警戒、解いてくれたのかな?「順位表見たけど、遠藤さんすごいねー」「え……いや、そんな……」 硬い表情ながらも遠藤さんはほんのり頬を赤くする。「なに? テスト終わったとこなのに、もう次の勉強してるの?」「え、あ……うん……、次は二位になりたいけぇ……」「二位? 一位じゃなくて?」 コクリ。遠藤さんは至って真剣な表情で頷いた。 なぜ、微妙に二位……。 順を追ってということか? ま、まぁ、控えめな彼女ならでは、ということで……。「そっかぁ……、頑張ってねっ」 明るくそう言うと、遠藤さんはそれと意識して見ないとわからないくらい小さく微笑んだ。微妙な変化と言えども、少しずつ距離が縮まっていってるような気がしてちょっと嬉しくなる。 あたしは口元を緩め、窓の外へと視線を移した。頬杖をつき、街並みの向こうに見える瀬戸の海をぼんやり眺める。と、近くの女子の会話が耳に入ってきた。「もうすぐマラソン大会じゃねん? あぁ~、マジてぇぎぃわぁ」「はぁ、ほんまじゃ。8キロやこーマジありえんし。男子の12キロよりゃマシじゃあゆーても、でれぇきちぃわぁ。はぁ~、雨ザーザーで、のーなりゃええんじゃけど……」 うわ、マラソン大会とかあるんだ。まぁ、前の学校でも秋とかにそういうのあったけど……にしても8キロかぁ。結構な距離だ。はぁ~。 密かに溜息をついていると、委員長が朝の学習プリントを持って教室に入ってきた。「今日の朝学ぁー計算問題じゃけー」「え~、朝から頭回らんわ~」「てぇぎぃのぉ~」「まぁ、そねー嫌がらんでも」 沸き起こるブーイングに委員長は苦笑いで返す。「あー、まだ来てねぇやつおるな。回しにくいけぇ、各自取りに来られぇ」 ガタガタと席を立つ生徒たちに、あたしものっそり腰を上げる。「お、高槻。うぃっす」「……おはよ」「なんじゃあ、愛想ねぇのー」 いやいやいや周りのね、視線がありますから。そりゃあたしだって、『一位すごいね!』ぐらい言ってあげたいけど……。「じゃっ」 そそくさとその場を離れようとして、あたしは勢い余って後ろにいた女子に肩をぶつけてしまった。「いッたっ……」「ごめ――、あ」 この間女子トイレでやたら突っかかってきた、確かミホとかいう――同じクラスだったのかっ。「チッ……あっ、おはよぉ中沢くぅ~ん。うちにも一枚ちょうでぇ~」 ……な、なにその猫なで声。ってか、今チッて舌打ちしなかったか?「いっつもごめんねぇ、プリント取りに行けんで。うちフクじゃのに……」 フク……副? え。この子副委員長なのっ?「気にすんなって。杉本はバレー部の朝練付き合わにゃーいけんのんじゃけぇ」「ありがとぉ中沢君。うち、全然自信ねぇのに副委員長やこぉ選ばれてしもうて正直困っとったんじゃけど……でも、一緒のクラス委員が優しい中沢君でえかったぁ~。ふふ」「フッ、そねん上手言わんでも。――あ、おい、プリント二枚持っていきょーるぞ」「あっ、ほんまじゃあ~。うちって、なんでこねんぐしぃんじゃろぉ。テヘ」 ぐしぃ? ……って、おいおい、舌出して自分の頭グーで小突いたよ……。 あまりにあからさまなカワイ子ぶった様子にあんぐり口を開け絶句していると、振り向きざまミホとやらが氷のような視線をぶつけてきた。フンッと鼻を鳴らし、わざと肩に当たるようにして自分の席へと戻っていく。 中国の伝統芸、『変面』もびっくりの早変わり……。「高槻? そねんとこでなんボーッとしょんじゃ」「や、なんでも……はは」 ふと我に返り席に戻る。 あんな二重人格(?)の性格キツイ子が同じクラスだったなんて――しかも副委員長……。あぁ、また悩みの種が増えた…… と、嘆いていても仕方ないので、取り敢えず渡されたプリントの計算問題に取り掛かる。 悲しいことに、日に日に切り替え上手になっていくあたしであった。 photo by little5am
2016.12.06
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セーラー服の袖を捲り上げ、自転車を押しながら家までの坂道を上る。4時半を回っているとはいえまだ日は高く、夏の到来を思わせる気温が容赦なく体力を奪う。 ちょっと足を止め一息ついていると、「こりゃこりゃ、しゃなみちゃん。今日もがっこーお疲れさんじゃなぁ」 穂の開いたトウモロコシの陰から、長谷部さんちのおばあちゃんがひょっこり顔を覗かせた。「あっ、こんにちはぁ。……そうだ、昨日はいろいろお野菜、ありがとうございました」「へぇへぇ。ちょーどえかった、けーもってかれー。今掘ったばーじゃけぇうめーで。そっ!」 あたしは自転車を停め、おばあちゃんが差し出しているビニール袋を受け取った。「わ、こんなにたくさん……」「新ジャガじゃが! ひゃひゃひゃっ」 ご、ご当地ギャグ……?「ありがとうございますぅ、ハハ……」 でもほんと美味しそ~。ジャガイモがゴロゴロ入った袋を覗き、あれこれレシピを思い巡らす。 と、「お~い、ばぁーさんや~」 畑の向こうで声が上がり、なにやら茶色っぽい大きなぬいぐるみのようなものを抱えたおじいさんがこちらへとやってきた。「けー、尻んとこー破れてしもーたんじゃわ~。ちぃーとばー繕うたってくれんかの~」 どうもおばあちゃんの旦那さんらしい。前歯が一本抜けた、愛嬌のある風貌の人の好さそうなおじいさんだ。「なんじゃあじぃさん、でけー屁ぇでもこきょーたか。ひゃっひゃっ」「めーにちジャガイモばー、よう食うとるけぇーの。ふぉっふぉっ」 …………。 袋の中の大量のジャガイモに視線を落とす。いや、それは確かサツマイモのはず……。「じぃさんや、ほれ、こねーだ越してった高槻さんとこの娘さんじゃ。しゃなみちゃんゆーんじゃ、挨拶せられぇ」「ほぉ~、こりゃこりゃ初めまして。や~、でぇれぇべっぴんさんじゃがぁ」「初めまして、こんにちは」 ペコリとお辞儀をしつつ……ふと、おじいさんの抱えているものが気になり目を凝らす。 なんだろ、なんとなく見覚えが……「んん? なんじゃあ、けーか?」 あたしの視線を辿り、おじいさんが手にしているものを広げる。 その色、その形、そのとぼけた顔は――「こりゃー巷で流行っとるゲッタンじゃあ。可愛かろ~。ふぉっふぉっ」 駅であたしたちを出迎えた、あのゲッタン着ぐるみ! じゃあ、このおじいさんが中に!? 衝撃の再会(?)に絶句していると、おじいさんは目を細め、遠く海の方を見遣りながら熱く語り始めた。「わしゃ~、港瀬山ぁ――いや、こん音ヶ瀬を、もっぺん甦らせてぇーんじゃあ。むかしゃー、港じゃて日に何便も船ぇ行き来しょーてのぉ、商店街やこぅもよーう賑おうとった。せーが橋通ってからぁ、すぅーっかりすばろーしゅうなってしもうて……。じゃーけど、あん頃の音ヶ瀬を取り戻すために上のお役人さんらぁも頑張ってくれとる。今また、わしらん町は生まれ変わろうとしとるんじゃ! わしらがてごーせんでどねんすんならぁ? じゃけぇわしゃー、けー着て人集めるんが己に課せられた最後ん使命じゃと思うとるんじゃ!」 おじいさんが枯れ枝のような腕を振り上げる。 …………。そんな熱い思いで、あのとぼけた着ぐるみを……「でも、あの……冬はタイツ履いてくださいね」 おじいさんに圧倒されつつ、取り敢えずひとこと進言しておく。「んん、どっかで会うたかのぅ? お嬢さん」 と、――ゴロゴロ…… 和太鼓を打ち鳴らしているような轟きがどこからともなく聞こえ――「おっ、そべぇがきょーらぁ、ばぁさん」「ほんまじゃ、こりゃおえん」「――そべぇ?」 きょとんとしながら二人の視線を辿る。「雨雲じゃ。こりゃひと雨くるじゃろーで。梅雨も始まっとらんうちからはー夕立かのぉ。なんじゃあ、あさまっから蒸しーっとしょーる思うた」 さっきまで晴れていたはずが、いつの間にやら西の空は暗く、不穏な音を立てながら灰色の雲がもくもくとこちらの方へ迫ってきている。これはまずい。「あっ、じゃあ、あたしこれで――、ジャガイモたくさんありがとうございました!」「へぇへぇ、はよーいんどかれぇ」「インドカレー?」 インドカレーにジャガイモ入れろ?――ゴロゴロゴロ…… ま、まいっか、急がなきゃ。 自転車のカゴから鞄を取り出して肩に掛け、空いたところにジャガイモの入ったビニール袋を入れる。「けっぱんずかんようにのぉー」 意味不明の言葉で見送られながら、あたしは慌ただしくその場を後にした。 一天にわかに掻き曇り――の言葉のままに、空一面あっという間にどす黒い雲に覆われ、雷鳴がゴロゴロと重低音で響き渡る。ぽつぽつと落ち始めた大きな雨粒は、自転車を門の軒下に停める頃にはバケツをひっくり返したようなどしゃ降りに変わり、あたしは鞄を頭の上に乗せ、慌てて玄関の軒先に飛び込んだ。「はぁはぁ……なんなの、急に~」 制服の雨粒を軽く払い、玄関のブザーを鳴らす。と、すぐ近くにいたのか、彩香さんが素早く格子戸から顔を覗かせた。「さ、紗波ちゃん、大丈夫だった!?」 手には2本の傘とタオル――どうやらその辺まで迎えに来ようとしてくれてたらしい。「あ、はい、なんとか……もうそこまで帰ってきてたんで」「あー、よかったぁ。――はいこれ、タオル。すぐに着替えなきゃね」「すみません……あ、そだ、これ長谷部のおばあちゃんから――新ジャガらしいです」 差し出されたタオルと引き換えに、土の匂いのする袋を彩香さんに渡す。「わー、こんなにたくさん! なに作ろうかしら……」「取り敢えず、定番のジャガバターとかジャーマンポテトなんかどうでしょう」 髪を拭いながら提案してみる。「あ、美味しそう~」「他には、んー……いろいろありすぎて――」「私も早くそんなセリフ、言えるようになりたいな~」 彩香さんがキラキラした目を向ける。「あっ、いや、えらそうにすみませ――」 と、玄関の外でピカッと稲光が瞬き、「きゃっ、怖いっ」彩香さんがひしっとあたしに抱きついてきた。そして数秒後、――バリバリッ……ドォーーーンッッ……「きゃ~っ! お、落ちたぁっ……」「すごい音……。今の結構近いですね」「もうイヤ~、私、雷苦手なの~」――ザーーーッ…… 屋根に激しく打ち付ける雨音が土間に響く。あたしはふと、昔のことを思い出した。――『ママ、カミナリこわいっ』『おへそ隠してたら大丈夫よ、紗波』『ホント?』『うん。カミナリさんはおへそがだ~い好きなの。紗波のおへそ、どこかな~』『きゃはっ、くすぐった~い』『おへそ取られないように、ママがぎゅーってして隠してあげるね』―― そういえば昔、雷が鳴るたびママに抱きしめてもらってたっけ。柔らかくてあったかくて、いい匂いがして……安心感に包まれて、知らないうちに怖いのなんかどこかに飛んでいっちゃってた…… でもママはいなくなり、あたしは大きくなった。雷を怖がっていたあの頃は、もう遠い昔――――ザーーーッ……ゴロゴロゴロ……「さ、紗波ちゃんごめんね、いい大人が……」「あ、いえ……」 ふわっと、あの頃のママと同じ、女の人の優しい香りがする。 彩香さんのこういうところって、男の人にはすごく可愛く映るんだろうな。なんかほっとけないっていうか、守ってあげたくなるっていうか――、パパもきっと、そうなんだろうなぁ。――ザーーーッ……ピカッ……「きゃ、またっ……」 彩香さんがぎゅっとあたしにしがみつく。「いーち、にー、さーん――」 あたしは指を折って数えた。「――じゅうご」――ドォーーーンッ……「大丈夫、5キロ以上離れています」「え、そうなの?」「気温で多少誤差があるみたいですけど、光ってから音が鳴るまでの秒数×340メートルが落雷地点までの距離ってことらしいです」「へぇ~~」「さっきより少し遠くなりましたよ。逸れたのかも」「は~……あ、ごめんねっ、着替えなきゃいけないのに」 彩香さんは少し照れながら身体を離した。「着替えたらすぐ下りてきますね。まだ当分ゴロゴロいってると思いますから」「紗波ちゃん頼もしい……紗波ちゃんが男の子だったら私、恋しちゃいそう」「えっ……」――ピカッ、ザーーーッ……「な、なるべく早く下りて来てね」「はいー……ハハ」苦笑いを浮かべ、部屋へと向かう。「ただいま、ママ」 あたしは写真のママにひと声掛け、窓に激しく打ち付ける雨を恨めしげに見つめた。――ザーーーッ……ゴロゴロ……「……あ~ぁ」 会いたかったな、波琉…… photo by little5am
2016.12.03
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ようやく迎えた昼休み――「この絹さやの卵とじ、なかなか上手にできてるなー」 校内放送のクラシック音楽が響き渡る屋上で、ひとりお弁当を味わう。でも造船所の方まで見渡すことのできる屋上でのランチは、まるでパパと一緒に昼食をとっているようで、あたしは特に寂しく感じることはなかった。 昨日軽くアドバイスしておいたピーマンとウインナーのケチャップ炒めもなかなか美味しくできていて、むしろ何の気兼ねもなくランチタイムを満喫していると、優雅なピアノの旋律に紛れ、――ガチャッ、キィ…… 鉄の扉の開く音が微かに聞こえてきた。 えっ……嘘、誰か来たっ? 扉から左に回り込んだ壁際に座りお弁当をつついていたあたしは、フォークをくわえたまま固まった。 いくらひとりランチが平気とはいえ、さすがにそれを他人に見られるのはバツが悪い。ちょっとドキドキしながら右側を注視していると、角から現れたのはなんと委員長だった。「――あ」「うおっ……! こ、こねーなとこでなんしょーる、高槻」「なにって……見ての通り、お弁当食べてたんだけど」 これからはなるべく近づかないようにしようって思ってたとこなのに、なんでよりによって委員長……。「あー、おどれーた。まさか人がおるやこー……、高槻、おめぇ平気なんか」「は? なにが?」「あ、そうじゃ、おめぇにゃ通用せんのんじゃった」「……?」 なんのことだ。さっぱり意味がわからない。 昼食が入っているのかコンビニのビニール袋を手に提げた委員長は、きょとんとしているあたしの横にとすっと腰を下ろすと、「高槻は知らんのんじゃなぁ。こん屋上にまつわる恐怖の噂を……」 視点の定まらない目で、おどろおどろしげに囁いた。「なな、なによ、それ……」 クスリと不気味な笑みを浮かべ、委員長はビニール袋からジャムパンをひとつ取り出す。そして、パンッとわざと大きな音を立てて袋を開けると、動揺するあたしの前でジャムパンを半分に引きちぎった。「昔、こん屋上で飛び降りがあってのぅ……」「っ……!?」 あたしは思わず息を呑んだ。 パンの裂けたところから、赤いイチゴジャムがとろりと血のように垂れ下がっている。「ま、またまたぁ。嘘なんでしょ、どーせ……ハハ」「ちょーど、そん辺りじゃっ」 委員長がビシッと鋭い声ですぐそばの縁《へり》を指差したので、あたしはびくっと身体を震わせた。弾みでお弁当包みの上に転がり出たウインナーをすかさず指でつまみ上げ、委員長はポイッと口に放り込む。「うめーの、コレ」「なっ――、ま、まぁいいわ。で、その話ってほんとなのっ?」 にやりと口を歪める委員長。気付けば校内放送の音楽まで不気味なクラシック曲に変わっていて……「今から30年程前の事じゃ……」 タイムリーな選曲に腕を擦りながら、固唾を呑んで委員長の話に耳を傾ける。「そん頃、こん屋上は演劇部が劇の練習にようつこーとってのぅ。――ほれ、扉ん横に大きな姿見があったじゃろ」「う、うん……」 昨日初めて屋上《ここ》に上がってきて、自分が映ってどきっとしたやつだ。「あれで衣装やこーチェックしたりしての……ここは人目につきにくいけぇ、直前まで演目バレとーない部員らにゃー結構重宝がられとったらしい。――で、そん年の文化祭、演劇部は定番の『ロミオとジュリエット』をやることになったんじゃけぇど、ジュリエット役の女子部員は、実ぁ、ロミオ役の男子部員になげーこと片思いしとってのぅ。劇が無事終わったら告白しょー思うて、それを励みにひたすら練習を頑張ったんじゃ。せーで本番を見事にやり終え、評判も上々で勢いづいた彼女は、そのロミオ役の男子に二人っきりで記念撮影したい言うて、衣装を着たまま屋上来るよう伝えて……ジュリエットの衣装でドラマティックにロミオに告ろう思うたんじゃろうな。姿見に映る自分見て、こねん綺麗な私がフラれるわきゃねかろーって自信満々でいざ告ってみりゃーなんと! ロミオ役には密かに付き合うとる彼女がおってのぅ……。そいつはそそくさと屋上を去り、ショックのあまり正気を失ったジュリエットは何かに誘《いざな》われるようにふらふらと――」 あたしはゴクリと喉を鳴らし、委員長が指差す方へと恐る恐る目を向けた。 屋上の縁《へり》に立ち、悲しげに風に揺られるジュリエット…… あたかも今そこにいるかのように、その後ろ姿が眼裏に浮かび上がる。「そこの縁から……」 やめて……「地面めがけて――」 ああ、神様っ……「衣装を投げ捨てたんじゃっ」「やっ――、……へ?」 衣装? 身を投げたんじゃなくて、衣装? 顔を覆っていた手をそろりと外す。「こねーなドレスやこ、着とれるかー! ってな。……くっ、高槻おもれ~っ、ぶははっ」 きょとんとするあたしを指差し、ひとり笑い転げる委員長……「なっ……か、からかったのね!? 信じらんないっ!」 委員長の悪ふざけにまんまと引っ掛かったあたしは声を上げ憤慨した。「まぁまぁ、ジャムパン半分やるけぇ、許せ」「いらんわっ」 思わずこっち方面の言葉で突っ込む。「まぁ、飛び降りっちゅうのは嘘じゃけど、他はおおかたおうとるぞ? 下の階にいたやつらが上から落ちてくる衣装見て、誰か飛び降りた! ゆーてそん時は大騒ぎんなって――、すぐ真相はわかったんじゃけど、この30年の間にいろんな尾ひれが付いて……例えば、誰もおらんはずの屋上を赤いドレス着たジュリエットが歩いとっただとか、あの姿見に映った自分と目がおうたもんは呪われるだとか――」「ええッ!?」 め、目……合わせちゃった、あたし……「じゃから、せーは後付けの作り話じゃが。ぷっ」 そ、そうか。ほっ。 委員長はビニール袋からイチゴ味の牛乳パックを取り出すと、ぷしっとストローを突き刺した。――委員長、イチゴ好きか?「そんなこんなで、いつん頃からかそん話はほんまに飛び降りがあったかのよう、生徒らぁの間でまことしやかに語り継がれ、こげぇな恐ろし気なとこにゃーだぁれも近付かんようなった、そーゆーワケじゃ。まぁ、柵ものうて危ねーし、学校側も好都合じゃけぇ敢えて放っとったんかもしれんのぅ」 ん? と、そこでひとつ疑問が湧く。「委員長は、どこでほんとのこと知ったの?」「あー、実ぁ30年前、親父がちょーどここの生徒じゃってのぅ。そねーな話ありもしねーってこたぁ、よう聞いとったけぇ」「へぇ、お父さんもこの学校に……」 あたしがママの高校目指したように、委員長もお父さんと同じ高校行きたいって……そう思って入ったのかな?「でじゃ、親父がえろーええ景色じゃった言うもんじゃけぇ、いっぺん見とこー思うてのぅ。野球のボールが屋上ん方飛んでったっちゅーて嘘言うて鍵借りたんじゃ。野球部でもなんでもねーけどの、ハハッ。で、来てみたらこの景色じゃろ? また来てぇのー思うて、試しにそんまま鍵掛けんと返したんじゃわ。せーが4月の話で、未だにバレとらん。まぁ真実如何に拘らず、こんだけいわくつきのイメージがつきゃー、よっぽどの用がねぇ限り誰も上がってきとーはねぇわな」 ほー、委員長が屋上の扉、開けっ放しにしてたのか。でも誰も怖くて寄り付かず、気付かれないまま……ふむ。「ところで――あたし、ここでお昼食べるの結構気に入ってるんだけど、委員長はよく来るの?」「まぁ、ひとりでボーッとしてぇ時なんかにゃー、なんでじゃ?」「や、なんか……あんたといると視線が痛いっていうか……」「あぁ? 男子のか?」「は? 男子……?」 一瞬頭が混乱して、きょとんと委員長を見つめ返す。「や、その……おめぇ、結構アレじゃし? 男子ん間でも、よう話題に上りょーるっちゅーか……」 もごもごと歯切れ悪く答え、委員長はずびびーっと派手な音を立ててイチゴ牛乳を吸い上げる。 あれ……あたし今、何気に褒められ…… あたしは少しあたふたと言葉を返した。「いやいや、そっちこそっ。今日だってあんたに近づくなって、女子に詰め寄られてすごかったんだから」「マジで?」 腑に落ちなさそうに首を傾げる委員長。いや、自覚なさすぎでしょ。「まぁ、前はよう下駄箱に手紙やら何やら入っとったりしたけど、2年なってからは潮が引いたみてぇにぱったり――じゃけどのぅ?」 ……どういうことだ。あぁ、アレか? 抜け駆けは許さないわよ! 的な。さっきもそんなこと言われたし……まぁ、どっちにしろモテることには違いないワケで――「取り敢えずさ、マズいのよね。こんなとこ二人でいるの見られたら。だからこの場所、あたしに譲ってくれない?」「嫌じゃ」 早。「俺ぁー、来てぇ時に来るけぇ」 委員長はあぐらをかくと、袋からサンドウィッチを取り出し口いっぱいに頬張った。 ちっ。 あ~、また別のどこか探すか……でもここ、気に入ってるのよね。パパの造船所見えるのだって、たぶんここだけだろうし……「なんじゃ知らんが、えんじゃねん? バレんかったら。これまでみてぇにお互い気ぃつけて上がってくりゃーええこっちゃ。二人でおったとか言う前に、バレりゃーここ閉められてしまうけぇの」「それはそうだけど……って、あんたしょっちゅう来る気っ?」「鍵開けて出れるようにしたんは俺なんじゃけ、いつ来ようが俺の勝手じゃろーが。居候のおめぇにとやかく言われる筋合いはねぇが」 居候……。ムキになって、子供かっ。「ええか、こん場所ぁ一切他言無用じゃ。人ん口にゃー戸は立てれんけぇの。ここでは主のゆーこたぁよおー聞くように。あ、端の方行ったらおえんぞ、他の校舎から見えるけぇ」「…………」 女子のみんなは委員長のこの子供じみた素顔を知っているのだろうか……。それにしても、なるべく近づかないでいようと思った端から……「高槻、それ食わんの? いらんのんじゃったらなんぼでも食うたるぞ?」 冗談なのか本気なのか、委員長があたしのお弁当に手を伸ばす。「ぎゃっ、やめてよ! 食べるしっ」 フォークに突き刺したままの焦げた玉子焼きを、あたしは慌てて口の中へと放り込んだ。 photo by little5am
2016.11.30
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「あ~……」 休憩時間の女子トイレで、鏡を前にまたもやひとり溜息をつく。「なんか痛いと思ってたのよねー」 前髪を上げ、おでこにぽつんとできた赤い小さなニキビを恨めしく見つめる。これまでニキビとは無縁の肌だったのに、栄養バランスの乱れ――いや、ストレスか? 「まぁ、隠れるからいっか……」前髪を手櫛で整えていると、「えれぇ気合い入れて、そねーに男子にモテてーんかのー」 突然トイレ内に、呆れたような女子の声が響き渡った。ハッと振り返ると、入り口のところでユミを始め女子数人が、クスクスと肩を揺らし立っていて――、今朝、あたしのことをすごい形相で睨んでいたあの女子生徒の姿もある。 ユミは鏡の前に立つと、あたしの方を見ることなく髪の手入れをし始めた。 なんなのよ、一体……眉をひそめつつ、トイレの外へと足を向ける。と、ひとりの女子があたしの行く手を遮った。「なに、ちょっと――、外出たいんだけど」「――――」 ひょっとしてあたし、これからシメられようとしてるのか? しかもお決まりの女子トイレだし。 ユミは手入れしていたはずの髪を鬱陶しそうに払いのけると、徐にあたしを振り返った。「うちのワタルが、えろーあんたんこと気に入っとるようじゃけど……あんた、ええ気になっとったらおえんで」「は? いい気になるもなにも……あのねぇ、あたしほんっとに関係ないから。っていうか、なんであたしにあんなちょっかい出してくるのかこっちが訊きたいわ。あんたたち、ほんとに付き合ってるの?」 取り澄ましていたユミの顔色がさっと変わる。「つ、付きおーとるわっ。ワタルたぁ小学校ん時からの仲じゃっ」 小学校……。付き合うって何するんだ? トランプ? オセロ? ゲーム機で対戦? ちょっと古風に交換日記とか――「ブッ……」 想像すると妙におかしくて思わず吹き出す。「なっ、なん笑よんなら、あんたっ……」 しまった。余計怒りに火をつけてしまった。「あんたなぁ、ユミは女子の鏡じゃけぇね。昔っから小野っち一筋、ずーっと一途に想い続けてきたんよ」 隣の女子が友情厚く弁護する。「はぁ……」 あの軽い男のどこにそんな魅力が――首を傾げるあたしに、ユミが不服げに続ける。「ワタルは今じゃあすっかり赤点男じゃけど、昔ぁようできょーたんじゃ。こん学校入るんに勉強頑張らにゃおえんかったんはうちの方じゃったし……。ワタルは今ぁちぃとやる気がのーなっとるだけで、やりゃーできる男なんじゃ」 そうなの? ふーん、じゃあユミは小野のこと追いかけてこの学校に――「純愛、だねぇ」 その言葉にユミが意外に可愛らしく頬を染める。シメられている(?)最中にも拘らず一瞬ぽわんと甘酸っぱい空気が流れ、ユミはハッと我に返ったように慌てて口を開いた。「あ、あんたと馴れ合うつもりはねぇけーな」 ハイハイ、こっちもないですよ。「せーであんた、シュウヤとなんじゃあ親しゅうなっとるみてぇじゃけど、どねー思よん、シュウヤんこと」「委員長? どねー……って、別にどーもこーも……まぁ、結構いいヤツだとは思うけど」 首をぽりぽり掻きながら言うと、ユミの後ろにいた割と可愛い系の女子生徒が不意に声を荒げ突っかかってきた。「あんたまさか、あわよくばシュウヤと――やこ、思うとるんじゃねぇじゃろーなぁ!?」「ハイ?」「来たばーでなんも知らんとって、いきなり抜け駆けとかっ? ほんま、マジありえんけぇーな!」「抜け駆けって……」 いきなり何なんだ――ぽかんとしているあたしに女子生徒は一方的に捲し立てる。「このカズエやこー、どんだけなげーこと片思いしとる思よん、5年じゃ5年! そねーなんがいっぱいおるんじゃ。ぽっと出ぇのあんたやこー、みんなが認めるわきゃねかろーがっ」 こ、こわ……。いや、何が怖いって――激しく息巻いてる女子よりも、さっきからずっと黙ってあたしを睨んでる情念深そうなそのカズエとやらが不気味に怖い。 に、したって――「それは委員長が決めることじゃ?」 思わず言ったこの一言が火に油を注いだ。 声を荒げていた女子にどんっと肩を突かれる。「あんた、なん!? 自分が選ばれるとでも!?」「ハァッ? いやいやあのね、選ばれるとか選ばれないとか意味がわかんな――」「疫病神」 や、疫病……はいぃ⁉「これまでなんも問題ねかったのに……」 気の強い女子は唇をギリリと噛み締めると、憎悪に満ちた目であたしを睨んだ。「他ん男子もあんたが来てからなんじゃあソワソワしょーるし――、じゃけどせーって、ただ物珍しゅーて浮かれとるだけなんじゃけぇっ。ちぃーと都会から来たからっちゅーて、えらっそうに調子乗っとったらおえんで、あんた!」「ちょっと、あたしがいつそんな――」――おい、女子便、なんじゃ揉めよるぞっ。――ほんまじゃ、きょうてぇ~。 廊下から聞こえてきた男子の声に、ユミが興奮冷めやらぬ女子生徒の肩をポンポンと宥めるように叩く。「もうこの辺にしとかれぇ、ミホ。話大きゅうなったら面倒じゃけ、シュウヤこういうん嫌いじゃろ? ほれ、みんなも行こ」 その言葉に女子生徒たちはあたしを睨みつけながらも渋々踵を返す。去り際、ユミは念を押すように口を開いた。「あんた、あんまいろいろ掻き回さんとってよ」「な……」 嵐が去った後の枯れ木のように、よろりとその場に立ち尽くす。 な、なんなの寄ってたかって……一体あたしが何したっていうのよっ。 あまりに理不尽な言われようにぷるぷる拳を震わせていると、ギギィ~と鈍い音を立て個室の扉が開いた。「わっ……え? 遠藤さん?」 い、いたんだ……。「あの……で、出られんで……」「あー、ハハッ……ね、ちょっとぉ今の聞いた? いくらんなんでも疫病神はないよね~」 気まずい空気を変えるべく、少しおどけた口調で話を振ってみる。遠藤さんはうつむいたまま洗面台に近寄ると、蛇口の栓を捻り、ぼそぼそと呟くように言った。「……みんな、高槻さんの存在がこえーんじゃ……」「え……」 あたしが……怖い?「高槻さんは、なんとのぅみんなとは違うけぇ……。代わり映えせん単調な学校生活に思わぬ新しい風が吹いて、みんな戸惑うとるんじゃと思う……」「あたしがそんな、大層な……」 遠藤さんはハンカチで手を拭くと、黒縁眼鏡を外し、レンズを拭きながらこちらを振り返った。あまり見えていないのか、眼鏡を掛けている時にはない力強い眼差しで。 それは、コンタクトにしたらいいのに――と残念に思える程、綺麗な瞳だった。「高槻さんは……くんのこと……」「え?」 ぼそりと呟かれた言葉を訊き返す。「あ、いや、なんでも――ごめんなさい……」 眼鏡を掛けなおし、おどおど顔を伏せると、「あの、じゃ……」 遠藤さんは長い三つ編みを揺らしながら、パタパタと慌ただしく出ていってしまった。「えぇ~?」 ……もう、何がなんだか。 ぽつんとひとり取り残されたトイレで、あたしは今日何度目かの大きな溜息を吐き出した。 photo by little5am
2016.11.28
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「うぃっす、高槻」 靴を上靴に履き替えていると横から親しげに声を掛けられ、最近そういうものとは縁遠い状況にあるあたしは少し驚いて顔を上げた。「あ、委員長――」 そうだ、学校でもあたしのこと、多少は理解してくれるひとができたんだった。 委員長の笑顔に改めてそう気付かされ、「おはよ……」安心感にふっと表情を緩める。「うおっ、高槻が笑《わろ》ーとる……!」 ……また出た、小野。 溜息をひとつつき、そちらに目を遣る。「そりゃ、笑う時もあるわよ。ったく、ひとを鬼みたいに」 委員長が横でプッと吹き出す。「いや、そーじゃのーてっ。二人ともいつん間ぁにそねん親しゅうなったんじゃあ!」「べっ、別にそんな親しくなったワケじゃ……ちょっとやめてよ、そんな大きな声で」 ほら、また変な注目浴びてるじゃないのっ。「シュウヤだけずりぃっ、わしにもその天使のような微笑み向けてくれぇ~っ」「いや……あなたはそちらの方に微笑んでもらってください」 あたしは小野の後ろで怒りのオーラを放っているユミを指差した。「ぎゃっ、ユミ……!」「……死神が微笑むが如く、鎌でも振り下ろしてやろうかぁ、あぁ?」「ユ、ユミ、ゆーことがイチイチきょうてぇけぇ……」「誰が言わしとる! っとに、あんたってヤツぁ性懲りもなく!」「いででっ、DVDV!」「なんがDVじゃっ」 腕をねじ上げられ、小野が苦痛に喘ぐ。 毎回毎回、夫婦漫才か……。でも、ここまでくるとちょっと笑えるかも。ふっ。「ケンカする程仲がええって言うけぇのぉ。あんま見せつけんなやワタル、はは。――行くぞ高槻」 へ、行くぞ? い、いやいや、先におひとりでどうぞ。 だって、こんな注目されてる中――特に小野とギャーギャーやってるユミの横に立つ女子、その子がすんごい目であたしのこと睨んでるし。と、「ほれ、ボーッとしょーらんと」 委員長はあたしの腕を掴み、スタスタ歩き始めた。「ちょ、ちょっとっ……」 腕を引っ張るのはやめてくれー、余計目立つ!「まぁ、おめぇはもっと肩ん力抜くことじゃな。変に力まんとゆーに構えとりゃー、そのうちみんなもおめぇのことわかるじゃろーて」 委員長……「わ、わかったから、腕痛い……」「あ、わりぃわりぃ。そうじゃ、朝学プリント――俺、ちぃと職員室寄ってくけぇ。じゃ」 爽やかな笑みを残し、委員長は階段を駆け上がる。 あたしのこと励ましてくれるのはいいけど、絶対モテてる自覚ないよね……。 しかし、肩の力を抜けと言われましても…… 今日も今日とてクラスの女子に鋭い眼差しで迎えられ、うんざりしながら席に着く。と、ふと遠藤さんと目が合い――あたしはコホンと咳払いし、にこりと彼女に微笑んだ。「おはよ、遠藤さん」「す、すいません……」 何が? こっち見てたこと? っていうか、開口一番それですか……。「お、は、よ、う」 ゆっくりもう一度言い直す。「あ……おは、おはようございます……」「敬語はいいよー、同い年なのに」「あ、はぃ……すいませ……」 …………。「ねね、悪くないのにどうして謝るの?」「え……、その……」――ちょー見てん、転校生がサヤエンドウいじめよるで。――あー、あの子なぁーんも言い返せんけぇな。憂さ晴らしにちょーどええんじゃろ。 憂さ晴らし……確かに憂さも晴らしたくなるわっ、こんなクラスじゃね! この子も聞こえてるだろうに、言われっ放しでいいんだろうか――もどかしい思いで遠藤さんを見つめる。あたしと目が合った彼女は背中を丸め、益々小さくなってしまった。 まぁ、今のあたしがどうこう言える立場じゃないか……。 あたしは小さく溜息をつき、遠く窓の外へと目を遣った。 photo by little5am
2016.11.26
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「紗波って……音高《おとこう》の2年生だよね」「? そうだけど……なに?」「あ、いや――、男子高校生がピアノの練習なんか頑張ってるんだ、と思って」「あぁ、はは。でも本人、至って本気みたいよ。早くその曲弾けるようになりたいって――聴かせたいひとがいるんだって」「聴かせたい、ひと……」 波琉はぼそりと呟く。「うん。あ、そうそう、その委員長もね、初めて会った時、波琉みたいに手を差し出してきたの。――握手」「握手……」「でも急だったから、その時は思わずそっぽ向いちゃって……で、ちょっと気まずかったんだけど、今日少し話す機会があって、誤解が解けたっていうか……」「――昨日よりマシな一日って……それ?」「え、あー……まぁ、どうってことない話だよね。はは」 なんか改めてそう訊かれると、取るに足らない話というか……。 あたしはポリポリと頭を掻いた。「あ……いや、ごめん、そうじゃなくて……紗波の明るい顔のワケは、その委員長か――と思って……」 きょとんと見つめ返すあたしに、波琉が少し困惑したように視線を泳がせる。「? あー、えっとね、あとこれ――」 あたしは、横に置いていたかぎ針編みの手提げ袋を波琉の前に差し出した。「……?」「これね、あたしの……えと、新しいお母さんが作ってくれたお弁当」「新しいお母さんって――」「あたしのパパ、ついこの間再婚したんだ。パパの転勤と再婚が重なって――で、三人で岡山《こっち》に引っ越してきたの。お母さんっていっても、まだ28歳なんだけどね。ふふ、びっくりでしょ?」 あたしはわざと茶化すように言った。 波琉が驚いたような困ったような、複雑な表情を浮かべる。「――あたしのママね、7年前に事故で亡くなったの」「事故……7年前――」 波琉は言葉を詰まらせた。「それからは二人っきり――パパとあたし、支え合いながら暮らしてきたんだけど、パパに大事なひとができて……。何事も、ずっと同じってわけにはいかないんだね……」 最後は呟くようにそう言うと、波琉は言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。「紗波は……お父さんとの生活、大事にしてきたんだね」 ふと空気を重くしてしまっていることに気付き、慌てて明るい口調に切り替える。「あっ、別に、世間でよく言われてるような『継母』って感じのひとじゃないのよ? 逆に可愛らしいくらいで――、嫌味なところも全然ないし、すごく気を使ってくれるし、それに……パパだって幸せそうだし……」 こうやって口にすると、特別不幸なことなんて何もない。何もないのに…… あたしはかぎ針編みの手提げ袋をきゅっと握り締めた。「昨日はね、彩香さんが――あ、名前、彩香さんっていうんだけど――彼女がね、一生懸命作ってくれたお弁当、殆ど手を付けないで……でも、食べたことにして全部海に捨てちゃったんだ」 思い当ったのか、波琉は小さく頷いた。「ひどいでしょ、あたしって……。でもね、今日はちゃんと完食」 あたしは少しおどけた風に手提げ袋を揺らした。「嘘つかなくて済むなーって、今日はちょっと気が楽というか……まぁ、これもどうってことない話なんだけど。はは……」 とりとめのない話を真剣な顔で聞いてくれていた波琉は、あたしから視線を外すと、「――割り切れないことって、あるよね。そんな気持ちを抱えている自分にも嫌気が差したり……でも、自分ではどうしようもなくて、苦しい――」 遠く沖の方を眺め、噛み締めるようにそう呟いた。 曖昧な波琉の言葉はそれでもなかなか的を射ていて、あたしを理解してくれてる――と嬉しく思う反面、波琉もそんな気持ちを抱えているのだろうか――と、ふと疑問に思い、あたしは首を傾げた。 束の間思案するあたしに、波琉が優しい目を向ける。「紗波は何もひどくなんかないよ。他人を受け入れるのって、すごく難しいことだと思うんだ。でも、君は努力してる」「波琉……」「お父さんの幸せを思って、自分を抑えて周りを優先させてる――僕は君のこと、優しくて強い女の子だって思うよ」「あ、あたしなんて……そんな、全然――」 切ない程の夕映えのオレンジと穏やかな潮騒、そして波琉の優しい言葉が胸に沁みて、気が付けばあたしの頬をぽろりと一粒涙が伝っていた。「夕日の雫みたいだ……」 波琉がその綺麗な指で、あたしの涙を拭う。「強い女の子っていうのは訂正しとこうかな。だって紗波、無駄に頑張っちゃいそうだから……僕の前では弱くていいからね」「は、波琉ってば……あたしのこと泣かそうとしてるでしょ」 泣き笑いみたいな変な顔になりながら波琉を軽く睨む。「うん。泣いてる顔も可愛いし」 波琉の軽い冗談に顔が赤くなってる気がするけど、夕映えがごまかしてくれるから大丈夫だ。 あたしは少し照れながら、「――ありがと、波琉……」 小さな声でぼそぼそと、でも心の底からお礼を言った。 宵闇の淡い藍色が夕映えのオレンジを空の隅へと追いやった頃、あたしは帰宅した。「お帰り! 紗波ちゃん」「あ、ただいま……」 エプロン姿の彩香さんに出迎えられ家の中に入る。「遅かったのねぇ」「ちょっと……いろいろ、学校案内とかしてもらってて」「そうなんだ」「あ、これ、お弁当……美味しかったです。ごちそうさまでした」「わ、ホント? 紗波ちゃんがいろいろ教えてくれたから……うふっ、でも嬉しい」 彩香さんは嬉しそうに微笑んだ。あたしも悪い気はしない。「今日はね、長谷部さんとこのおばあちゃんがお野菜いっぱい持って来てくださって。お茄子とかピーマンとか絹さやとか――」「絹さや……」 さやえんどう――ふと、遠藤さんのことを思い出す。「なに? 紗波ちゃん」「あ、いえ……あっ、絹さやだったら簡単で美味しいレシピありますよ」「ほんと? わー、教えてもらっちゃおうかなー。お味噌汁だけ作って、あとは何にしようか迷ってたとこなの」「他には、んー、そうですね……茄子とピーマンで甘酢炒めなんかどうでしょう?」「わ、美味しそ~」「着替えたら、すぐ下りてきますね」 あたしは少し軽い足取りで部屋へと向かった。「ママ、ただいま」 机の上の写真を手に取る。「ママ、あたしね……ちょっと不思議な男の子に出会ったの。なんだろう……あたしのこと、すごく理解してくれてるっていうか――ふふ、空から見てた? だからもう大丈夫だよ。あたし、岡山《ここ》でなんとか頑張っていくね」 写真のママは、あたしににっこり笑い掛ける。 ママもあたしのこと、いつも優しく励ましてくれたよね。波琉みたいに…… なんだか、これからは少し前向きになれそうな気がする。そう、こういう風に少しずつ、いろんなことを改善していけばいい―― あたしは写真のママに微笑み掛けた。「ママの誕生日……あの時ママが言ってた、10年目の――もうすぐだね……」 photo by little5am Today's Pick Up♪ 大切な思い出の写真は 素敵なフォトフレームに入れて・:*:・゚ '☆,。
2016.11.22
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夕日を背にサイクリングロードを東へとひた走る。風は凪いでいないけど、海はもう金色の輝きを放っている。 赤いポストが小さく視界に入り、あたしは自転車の速度を緩め、乱れた呼吸を整えた。気の逸るまま飛ばしてきたせいか、なかなか胸の動悸が収まらない。 自転車を小屋脇に停め、カゴから鞄と手提げ袋を取り出す。昨日より軽い荷物――お弁当だってズルなしでちゃんと空っぽだ。――風の凪いだ金色の海、紗波と見たいな…… いるかな……波琉―― 高く伸びた雑草をもどかしく払いのける。でもそこに、波琉の姿はなかった。「いない、か……」 あたしは少しがっかりしながら、昨日と同じ岩の上に腰を下ろした。 沖に連なる島影は夕映えに黒く浮かび上がり、金色に輝く水面を取り囲んでいる。 あたしは膝を抱え目を閉じて、潮騒に耳を傾けた。穏やかに規則正しく打ち寄せる波音は、まるで地球の息遣いを聞いているかのようで心が落ち着く。疲れ切っていたのか、心地よい波音に意識が薄れかけた頃、「――紗波……」 耳のそばで優しく声を掛けられた。「ん……、あ」「もしかして寝てた? 危ないなー」 ふっと小さく息を吐き、波琉はあたしの隣に座った。 波琉の白い肌が、夕映えに溶け込みそうに赤く染まっている。あまりに風景に馴染みすぎていて、あたしは幻でも見ているのかと目をこすった。「ふふ、眠たいの?」 波琉がふわりと天使のような微笑みを向ける。 ああ、波琉だ……波琉にまた会えたんだ……「待った?」 波琉は悪戯っぽく微笑んだ。「えっ……べ、別に待ってたワケじゃ……」「なーんだ」 つまらなさそうに口を尖らせる波琉。でもすぐに、どちらからともなくクスクスと小さな笑い声が漏れ…… と、小さな鳥が数羽、ぱたぱたと波打ち際に飛んできた。初めてこの浜に来た時にも見かけた、スズメのような可愛らしい鳥だ。忙しそうに何かをついばんでは、寄せ来る波に揃って逃げ惑う――その姿が滑稽で、思わず笑みが零れる。「ふふっ、可愛い」 あたしの視線を辿り、波琉が、ああ――と口を開く。「トウネンっていうシギ科の渡り鳥だよ。渡りの途中で日本に立ち寄ってるんだ。この後このコたち、北極圏まで飛ぶんだよ」「えぇ、ほんとに? うわー、そりゃいっぱい食べなきゃだわ。波琉、詳しいのねぇ」「父さんの受け売りだけどね。それにしても食べた後にあんなに走って……なんだか消化に悪そうだ」「あははっ、ホント」 あんなに小さくても、逞しく一生懸命生きてるんだな……あたしも頑張らないと。「……紗波、今日はなんか明るい顔してるね」「え、そう?」頬に手を遣る。「――今日はね、昨日より少しマシな一日だったから……」「そっか、よかった」 波琉はにっこりとあたしに微笑んだ。水面の煌めきを受け、波琉の瞳がキラキラと輝いている。それがとても綺麗で、あたしは束の間その輝きに見入った。「波琉って、女の子みたいに綺麗ね」「女の子……」 褒めたつもりが、当人にはショックだったらしく軽く絶句している。 ぷ。波琉ってなんか可愛い。 最近なんとなくパパと距離を置いている身にはその反応がなんだかとても新鮮で、あたしは少し波琉のことをからかってみたくなり、茶化すように続けた。「ほんと、その辺の女子より全然イケてるもん。女装したら男子もイチコロかも。ぷぷっ」「…………」「睫毛もこ~んな長くてさ。マスカラなんかしなくたって――」 ガッと波琉があたしの手首を掴む。「……っ?」「そんなに僕のことからかって、楽しい?」 この前も思ったけど、波琉の細く繊細な指先は意外に力強い。からかっていたはずが一気に形勢が逆転し、あたしは少しうろたえた。「ほら、見て」「え?」 あたしの左手首を掴んだまま、波琉がその横に自分の左手を並べる。「大きさ、こんなに違うよ。女の子の手は小さい」 確かにあたしの手は波琉の手に比べ一回り程小さい。それよりあたしは、かざされた波琉の手の美しさの方に目がいったのだった。 オレンジ色の夕日に透ける、すらりとした長い指――繊細でありながら、女の子のそれとは異なる少し陰影の目立つ大きな手……「波琉の手、ピアノが似合いそう……」 波琉がびくっとあたしを振り返る。 はっ。波琉がこんなにムキになってるのに、あたしってば、またこんなこと――ピアノってちょっと女の子のイメージだもんね。「あー、ごめんねっ。でも今のは、からかったわけじゃなくて……」「君って、ほんとに……」 波琉はそれだけ言うと、あたしの手をそっと離し、抱え込んだ膝の間に顔を伏せてしまった。 ど、どうしよう……男のプライド、傷つけちゃった?「あっ、あのね、あたしのクラスの委員長がね、今すごくピアノの練習頑張ってるらしくて……って、まだ全然下手っぴなんだけど、今日その話聞いたもんだから、つい――」 慌ててそう言うと、興味を持ったのか波琉が伏せていた顔を僅かに上げたので、あたしはここぞとばかりに先を続けた。「なんかね、どうしても弾きたい曲があるんだって。えーと、なんて言ってたかな、ベートーベンの……えっと、なんか暗い感じ曲名だったんだけど……あっ、そうそう『悲愴』。それの第2楽章がどうとか――」「悲愴……第2?」 波琉がどこか怪訝な表情で訊き直す。「うん。波琉知ってる? その曲」「…………」 考え込むように視線を落としていた波琉は徐に顔を上げると、なんだか的外れなことを訊いてきた。 photo by little5am Today's Pick Up♪ 睫毛の長い男の子っていいな♪ マスカラより…まつエクより… まずは育毛!でしょ?☆⌒(*^-°)v
2016.11.21
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放課後の校舎内を委員長と並んで歩く。 無遠慮に投げ掛けられる視線と無責任な囁き声――委員長がチラリとそちらに目を向けると、途端それらは影を潜めた。「……あんたって、一目置かれてるのね」「さぁ、どうだか。みんな、おめぇが物珍しゅーて仕方ねぇんじゃ。こん学校は中高一貫でちぃーと閉鎖的なとこがあるけぇの。まぁ暫くの我慢じゃ」 ……暫くって、いつまでだ。「おい、高槻こっち。まずは共用棟からじゃ」「あ、うん」 委員長に歩調を合わせながら何気なく後ろを振り返ると、やっぱり皆(特に女子が)こちらを見てヒソヒソ言っているような…… いや、これって――あたしに向けてというより、委員長とあたしが並んで歩いているからなのでは? そうだ、さっきだって二人で遅れて化学室に行った時、女子たちがなにやら殺気立った様子でヒソヒソざわついていたではないか。 ひょっとして委員長って……モテる? まぁ確かに、見た目とか雰囲気とか――それもわからないでもないけど……っていうか、そんなのと肩を並べて歩いてたら益々あたしの立場、ヤバくなるんじゃ?「なにゅーブツブツ言よーる。ほれ、ここが視聴覚室じゃ。下の階にもあるけど高等部は主にこっちつこーとるけぇ、間違えんよーに」 ふ~ん……きょろきょろと辺りを窺う。「で、この奥が準備室――っておい、なん勝手にいらいよる!」「ハイハイ、すみませんね」 あたしはプロジェクターから手を離し、口を尖らせた。 なによ、ちょっと見てただけじゃない――って言い返したいとこだけど、さっき涙目になってるの見られてからなんかすっかり弱みを握られてしまった感じで、どうも強く出られないのよね。「ほれ、次行くぞ」 相変わらず委員長はえらそうな物言いで踵を返す。でも不思議とあまり腹は立たない。岡山弁の独特な言い回しがただきつく聞こえてしまうだけ、ということに気付いたせいもあるけど、委員長が結構いいヤツだということがわかったからだ。 委員長の手のひらがのせられた頭にそっと触れてみる。波琉と握手を交わした時のような温かな余韻がそこにはあった。「おい高槻、ボーッとしょーらんと早うこっち来られぇ」「ハイハイ」「ハイは一回でええ」 …………。「――で、ここが高等部の音楽室じゃ」 委員長がガラリと扉を開ける。 視界に飛び込んできた漆黒のグランドピアノに、越してきた当日、別棟で初めてピアノを目にした時の記憶が重なった。 委員長はピアノに歩み寄ると鍵盤の蓋を開け、赤いフェルトをするりと外した。「え、弾けるの?」 意味深な笑みを浮かべ、委員長が椅子に座る。 徐に鍵盤に指を置く仕草――まるでピアニストが指先に全神経を集中させているような間《ま》に、どんな素晴らしい曲が奏でられるのかとあたしは一瞬期待した。――ポ、ポーン……ポン……ポ、ポン…… ズルッ。「な、なに、その曲……」「実ぁ全く弾けん……ピアノっちゅーもんはほんま難しいのぅ。まるで右手と左手で別々の図形描いとるみてぇじゃ。はぁ……」「まぁ、別にそんな落ち込まなくても。世の中、ピアノ弾けない人の方が多いんだし」「じゃーけど、全く弾けんヤツがベートベンやこー弾けるようなったら、せーってやっぱり奇跡、なんじゃろうな」「ベートーベン? そりゃまぁ……奇跡、でしょうね」「その奇跡っちゅーもんを聴かせたいヤツがおって、ちぃーと頑張っとるんじゃけど――あ、ほんまもんよりレベル落としたやつじゃけどな。せーでもなかなか難しゅうて……」「なに委員長、ベートーベンの曲弾きたいの?」 コクリ。「――ぷ」 いつも取り澄ました感じの委員長が子供のように大きく頷くのを見て、あたしは思わず吹き出した。 えーと、ベートーベンってどんな曲あったっけ? 確か、『エリーゼのために』とか……とか……え、えーと……。「あー……ベートベンの一体何を弾きたいワケ?」「ピアノソナタ第8番『悲愴』第2楽章」「…………。な、なんか難しそうね……」「弾けるようになりてぇんじゃ。なるべく早う」 委員長……? それこそ『悲愴』感すら漂う委員長の真剣な表情に、茶化そうと口を開きかけていたあたしは静かに言葉をのみ込んだのだった。 一通り校内を案内してもらったら結構な時間になっていた。グラウンドで行なわれている部活動――野球部のノック練習の音や、その他運動部のランニングの掛け声などが生徒もまばらになった校内に響き渡る。「ごめん、こんな時間まで――今日は、その……ありがとう」 靴を履き替えながら、あたしはぼそりとお礼を言った。「――おめぇ、結構普通なんじゃな」「普通?」「もっととっつきにくいヤツかぁ思うとったけど、ちごーとったゆーことじゃ」 委員長はフッと親しげな笑みをあたしに向けた。「ほんっと失礼よね。あたし別にワケありでもなんでもなくて、ちょっとみんなと言葉が違うだけの、ただの転校生なのにさ」 と愚痴りながらも、つい口元が緩んでしまう。 あたしは委員長と肩を並べ、高等部の玄関を出た。「高槻、家どこら辺?」「あぁえっと、丘倉っていう……あっちの方のね、海沿いから坂を上がっていったとこ」 東の方角を指差しながら言うと、「え、丘倉? ふ~ん……」 委員長は視線を上げ、一瞬何か考えるような素振りを見せた。「? 委員長は? この近く?」「いや、俺ぁバスで音ヶ瀬まで行って、そっから電車ん乗って……結構、家遠いけぇ」「そうなんだ」「高槻は……自転車か。気ぃーつけての」「ああ、うん。キー付けて帰るよ、ふふ」 あたしは自転車の鍵を目の前でぶらぶらさせた。「ぶはっ、座布団一枚! おめぇ結構おもれぇやっちゃの。――ほんなら、また明日」 ……また明日―― 学校でその言葉を聞くのは、なんだかすごく久し振りな気がする。 ほんの数日前まで当たり前に友達と交わしていた言葉が、今は嬉しく胸に沁みた。 photo by little5am Today's Pick Up♪ 『悲愴』はベートーベン3大ソナタのうちのひとつ。 特に第2楽章の心に染み入るようなあの美しいメロディーは あまりにも有名ですね・:*:・(*´エ`*)ウットリ・:*:・
2016.11.20
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