正しくはジョン・フィッツジェラルド・"ジャック"・ケネディ。第35代アメリカ合衆国大統領。
ジョン・F・ケネディといえば、
・ニューフロンティア政策
・キューバ危機
・失業対策
・アポロ計画
・人種差別問題
など
いろいろありますが、何といってもダラスでの狙撃暗殺事件を思い出します。
この暗殺には謎が多く、2003年から2006年頃までビートたけしさんの冠で特別番組で採り上げられました。
私、この暗殺の謎にかかわることが大好きなんです。だから番組があると必ず見ていました。
先日、YouTubeで見つけた「ケネディ暗殺の深層」。真実味があります。
狙撃事件は1963年11月22日。
ケネディと妻のジャクリーンはリンカーン・コンチネンのオープンカーに乗り、タルダラスでパレードを行いました。
核実験の停止条約に署名し、また人種差別問題にも積極的だったケネディにとって、保守的なテキサスはケネディに対して好意的ではありませんでした。だからこそ、絶対に押さえておきたい票田だったのです。
パレードは当初、ヒューストン通りと交差するメイン通を直進するはずでした。
しかし間際で赤いルートに変更。これでは2か所で曲がるため車速が落ち狙撃されやすくなります。
事件後、最高裁長官アール・ウォーレンを委員長とした調査委員会、ウォーレン委員会が設置され翌1964年9月に大統領暗殺に関する公式な政府報告書、ウォーレン報告書がまとめられ、犯人とされたリー・ハーベイ・オズワルドの単独犯行と結論づけられました。
リー・ハーベイ・オズワルドは、事件後すぐに拘束され2日後、拘置所に移送中、マフィアと関係が深いジャック・ルビーに暗殺されています。
またウォーレン報告書には数々の矛盾点があります。
報告書では教科書ビル(Texas Schoolbook Depositry)6階からリー・ハーベイ・オズワルドが3発狙撃して暗殺したことになっています。
しかし、報告書でオズワルドはイタリア製のライフル銃、カルカノを使ったとされていますが、カルカノで6秒間に3発撃つのは銃のエキスパートでさえ無理だといわれています。
しかも教科書ビルから狙うのではパレードの後ろから。暗殺のフィルムはどう見ても後ろから撃たれたように見えません。
このウォーレン報告書が公開されるのは暗殺から76年後の2039年。
そもそもケネディは理想主義者と呼ばれ平和路線を行き、アメリカ社会の闇にメスを入れようとしました。
ケネディが暗殺されたのには複数説があり、
・キューバ・カストロ説
・旧ソ連KGB説
・CIA・産軍共同体説
・マフィア説
など、どれも有力なのです。
YouTubeで見つけた「ケネディ暗殺の深層」は、警察官殺害未遂で服役中のジェイムズ・E・ファイルズにインタビューされ、私が最後の1発を撃ったと言っています。
狙撃地点はグラシノールの丘(Grassy Knoll)。
今まで見てきたジョン・F・ケネディの特番での内容からしても、彼の証言には矛盾がありません。
彼の証言こそ、ジョン・F・ケネディ暗殺事件の真相だと結論付けてもおかしくないと思います。
(YouTube:takeharasinichi)
ジョン・F・ケネディの選挙では父ジョセフの功績が大きく、ジョセフは禁酒法時代に密造酒の生産・販売を行っており、マフィアと緊密な関係を持っていました。大統領選でもマフィアとのコネクションを最大限利用したといわれています。
実際に大統領選は接戦で、シカゴでの勝敗が鍵を握っていました。そこへシカゴマフィアのボス、サム・ジアンカーナが裏で動いたといいます。
しかしそこへ若い大統領、ジョン・F・ケネディは弟、ロバート・ケネディを司法長官に任命、ロバート・ケネディは持ち前の正義感からマフィア撲滅に取り組み始めます。これは父親の意向を受けてケネディの選挙運動を支えたシカゴマフィアにとって許しがたいことでした。
ジョン・F・ケネディの暗殺で狙撃手は3人。チャールズ・ニコレッティ、ジョニー・ロゼリ、ジェイムズ・E・ファイルズ。ニコレッティとロゼリはサム・ジアンカーナの手下。ジェイムズ・E・ファイルズに暗殺を依頼したのはニコレッティでした。
ケネディへの報復を狙うマフィア、大統領の平和路線を憎々しく見ていたCIA、軍需産業。そんな背景で暗殺事件は起きています。
マフィア説、これがケネディ暗殺事件の真相ではないかと思っています。
ですが、もうひとつ、ビッグオイル説というのがあります。
テキサス州ダラスにはビッグオイルがあります。
ビッグオイルは石油をはじめ、金融、ITさらに軍需産業から宇宙産業までにおよび、ごく一部の富裕層によって支配されています。彼らはその資本力からホワイトハウスへの大きな発言力を持ってきました。
そして政治に利用してきたのがリンドン・B・ジョンソンです。彼はテキサス州議会議員であった父の影響で政治家となり、法律がテキサスに悪影響に変わるようであれば必ず反対してきました。
1960年、ジョンソンは大統領選を前に民主党指名候補選びでケネディに敗れてしまいます。
しかしケネディはテキサスの票も欲しい。そこでリンドン・B・ジョンソンを副大統領にするという取り引きが行われます。ですがジョンソンはあくまで、ケネディとは対立していました。
ケネディがいなければ、自分が民主党指名候補だったと。
リンドン・B・ジョンソンはまだ大統領の座をあきらめてはいませんでした。テキサスのために。
ところがそこへ、大口献金者だった者の補助金不正使用疑惑が発覚しました。この疑惑はジョンソンにとって次期大統領はもとより、副大統領の座まで脅かすことになりました。
ケネディはこの頃、次の選挙でジョンソンを副大統領から降ろすことを考えていました。
だから、ジョンソンのスキャンダルは好都合だったのです。
1963年1月、ケネディは石油業者に対する優遇税制の廃止法案を提出します。
優遇税制は石油産出業者が収入の27.5%を優遇されると云うもの。これはジョンソン外しに対して有効な攻撃ではありました。が、してはいけないビッグオイルへの攻撃でもあったのです。
ケネディの暗殺から2時間後、ジョンソンは第36代アメリカ大統領への就任を宣誓。副大統領から昇格して大統領になったのです。もちろん優遇税制廃止法案は凍結。
しかしジョンソン大統領を待っていたのは泥沼化するベトナム戦争と反戦運動でした。
疲れ果てて大統領を退き郷里へ戻ってから4年後、暗殺から10年後にジョンソンは心臓発作でこの世を去ります。
1枚の写真があります。
ジョンソンが大統領就任を宣言するエアフォースワンの機内で左に写る男が中央のジョンソンにウインクしています。どういう意味なのか。
右には泣いているケネディの妻、ジャクリーンがいます。
ジャクリーンは
「こんなアメリカに住みたくない。」
とアメリカを去りました。
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カス、、