以前の投稿
「本能寺の変」
「長篠の戦い」
今回、新たに腑に落ちた事があるので投稿します。
清須会議
●簡単に通説を説明。
【状況】
・本能寺の変で織田信長が殺害された後の織田家の家督をめぐって、清州で開かれた会議。
・集まった織田家家臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で、滝川一益は直前の神流川の戦いで後北条氏に惨敗し、信濃から伊勢へ敗走中で間に合わなかった。
【通説】
・信長の次男・織田信雄と三男・織田信孝が互いに後継者の地位を主張し引かなかったため、秀吉がその隙をついて勝家・秀吉ら宿老たちが事前に信長の嫡孫である三法師を御名代とすることで双方が了解した。
・良くドラマとかで見るのは、柴田勝家が信孝を推し、実権を握ろうとしていたところ、秀吉が意表をついてまだ幼いが直系の三法師を連れてきて実験を握ったて話です。
しかし、この話だといくら三法師が懐いたからと言って秀吉一人が後見人になって良いようにできるのか??
そもそも、直系男子がいたら、そらそれが正当な跡取りだよなって皆が納得するなら、いくら幼いとはいえ秀吉以外気が付かないとかありえるのか??
おかしな話です。
●今言われている内容で腑に落ちたのは、、
・そもそもは三法師が跡取りは決定しており、信雄か信孝がどちらが後見人になるかの話し合いだが、話し合いがつかず、とりあえず宿老による集団体制で意思決定をし織田家を運営する。
安土でも、岐阜でも無く、始めから三法師がいる清州に集まっていた事からもおそらくこれが真実では無いかと思われます。
その後の流れとしては、、
・後見人をどちらとも決めておらず、宿老の集団で意思決定をするはずが、信孝が勝手に三法師を自分の手元に置き、信雄の領地を奪おうとしたり、暴走を始めた為、宿老による集団運営が崩れていき、秀吉が信孝を抑えようと動いた。
・秀吉と対立した信孝が柴田勝頼を頼り、柴田勝頼・信孝 対 秀吉となり、勝利した秀吉の織田家での立場が強くなった。
いくら敵討ちに功績があったとはいえ、他にも宿老もいれば、織田家の次男・三男がいるのに、三法師の後見人になりいきなり一気に秀吉が実験を握るのは違和感がありますが、そおいった経緯の中で他が排除され実験を握っていくなら腑におちます。
個人的に、ずっと気持ち悪かったことで、ああ、それなら納得できるって内容だったので紹介してみました。
大河ドラマをやってくれるとテレビやSNSで最新の研究結果や異説なども紹介してくれて謎が解けたりするので楽しいですね。
タグ: 歴史