この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
広告
posted by fanblog
2023年08月30日
清須会議
以前から、いままでの歴史の通説では納得が出来なかった事で新しい説で腑に落ちた事を投稿してきました。
以前の投稿
「本能寺の変」
「長篠の戦い」
今回、新たに腑に落ちた事があるので投稿します。
清須会議
●簡単に通説を説明。
【状況】
・本能寺の変で織田信長が殺害された後の織田家の家督をめぐって、清州で開かれた会議。
・集まった織田家家臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で、滝川一益は直前の神流川の戦いで後北条氏に惨敗し、信濃から伊勢へ敗走中で間に合わなかった。
【通説】
・信長の次男・織田信雄と三男・織田信孝が互いに後継者の地位を主張し引かなかったため、秀吉がその隙をついて勝家・秀吉ら宿老たちが事前に信長の嫡孫である三法師を御名代とすることで双方が了解した。
・良くドラマとかで見るのは、柴田勝家が信孝を推し、実権を握ろうとしていたところ、秀吉が意表をついてまだ幼いが直系の三法師を連れてきて実験を握ったて話です。
しかし、この話だといくら三法師が懐いたからと言って秀吉一人が後見人になって良いようにできるのか??
そもそも、直系男子がいたら、そらそれが正当な跡取りだよなって皆が納得するなら、いくら幼いとはいえ秀吉以外気が付かないとかありえるのか??
おかしな話です。
●今言われている内容で腑に落ちたのは、、
・そもそもは三法師が跡取りは決定しており、信雄か信孝がどちらが後見人になるかの話し合いだが、話し合いがつかず、とりあえず宿老による集団体制で意思決定をし織田家を運営する。
安土でも、岐阜でも無く、始めから三法師がいる清州に集まっていた事からもおそらくこれが真実では無いかと思われます。
その後の流れとしては、、
・後見人をどちらとも決めておらず、宿老の集団で意思決定をするはずが、信孝が勝手に三法師を自分の手元に置き、信雄の領地を奪おうとしたり、暴走を始めた為、宿老による集団運営が崩れていき、秀吉が信孝を抑えようと動いた。
・秀吉と対立した信孝が柴田勝頼を頼り、柴田勝頼・信孝 対 秀吉となり、勝利した秀吉の織田家での立場が強くなった。
いくら敵討ちに功績があったとはいえ、他にも宿老もいれば、織田家の次男・三男がいるのに、三法師の後見人になりいきなり一気に秀吉が実験を握るのは違和感がありますが、そおいった経緯の中で他が排除され実験を握っていくなら腑におちます。
個人的に、ずっと気持ち悪かったことで、ああ、それなら納得できるって内容だったので紹介してみました。
大河ドラマをやってくれるとテレビやSNSで最新の研究結果や異説なども紹介してくれて謎が解けたりするので楽しいですね。
タグ: 歴史
2023年07月02日
本能寺の変
その1つが
本能寺の変
【本能寺の変とは】
1582年6月2日、畿内を手中に収め、武力で日本統一を目指す織田信長が本能寺に宿泊中に、家臣の明智光秀の謀反にあった事件です。
【光秀の動機】
織田家中でも1番の出世をし信長からの評価も高かった光秀がなぜ裏切ったのか??
400年以上たった今でも定説とされるものが確立していません。
いままで言われていた主な説は
?@光秀怨根説
・信長が光秀を家臣の前ではげと怒鳴りつけた。
・光秀が徳川家康の接待役を任されたが、信長に魚が腐っていると因縁を付けられ解任された。
・信長と口論になり、足蹴にされた。
・信長のせいで敵方に人質として出した自分の母親が斬首された。
・せっかく発展させてきた領地を僻地に領地替えされた。
などなど、信長に対する恨みが積もっていたという説。
?A将来不安説
他の信長家臣が失脚したり、謀反の末殺害されたりした為、光秀も将来が不安になり謀反に及んだ。
また、不安が積もりノイローゼになったという説。
?B黒幕説
・朝廷をないがしろにする信長を討つために朝廷が光秀に謀反を起こさせた説。
・将軍が復帰するために謀反を起こさせた説。
・秀吉や家康がそのままだと織田家の天下になる為、光秀をそそのかし謀反を起こさた説。
?C暴君討伐説
比叡山の焼き討ちや、将軍の追放、朝廷を蔑ろにする、蘭奢待の切り取り、自らを神と言うなどの暴挙に出る信長を止めるために謀反を起こしたという説。
?D野望説
ただ単に光秀が天下を取りたい野望で謀反を起こした説。
イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスの資料には光秀が「ずる賢く、計算高く、有能」「裏切りを好み、残酷で、独裁的で、偽装や計略が得意」だったと書かれています。
この事を考えると信長が無防備に本能寺に泊まり、周りにすぐ動ける有力な家臣がいない状態をチャンスと思い謀反を起こした可能性も考えられます。
?E四国説
四国の長宗我部との懐柔政策を光秀が任されており、四国は長宗我部の切り取り自由と約束していたのに、信長が急遽約束を反故にした。
また、それに激怒した長宗我部を信長が討伐しようとした為、面目をつぶされた光秀が謀反を起こしたという説。
【説に対しての違和感】
個人的な感想ですが、全部あり得るし、全てが積もり積もってと言う事も考えれますが、どれも決定打に掛けると言うか、謀反を起こさざる負えない状況とは言えず、その後有力な家臣団から反撃を受ける可能性を考えると動機が弱い気がします。
?@?A?C?D?Eの?Bの黒幕説以外ですが、
人間なんで恨みも不安も野心も面目が潰されたからも無いとは言えません。
動機としては分かります。
ただ、有能で知られる光秀にしては計画がずさんなんですよね。
信長を討つ事は十分出来るとして、その後天下を収める為の根回しが出来てなさすぎる状態で実行するだろうか?
君主を討っておいてその家臣がたぶん自分に味方してくれると根回しなしに考え、急遽行動におよぶのだろうか??
?Bの黒幕説は、 朝廷、将軍なら他の勢力にもっと根回しをするだろうし論外です。
徳川が味方に付くとか、秀吉が明智様が信長を倒してくれたら仕えますぜ、と言っておいていざ謀反を起こしたら裏切るって事であれば準備不足は納得が出来ます。
本来味方になるはずの有力な勢力が味方にならず敵に回ったので準備不足にもなります。
・ただ、秀吉と光秀はライバル関係だし、いくらおだてられても有能な光秀が秀吉次第の謀反を起こすだろうか??
秀吉が裏切った時の対策も立てずに。
・家康に関しては本拠地を離れ兵もろくに連れずに畿内にいるタイミングで謀反を起こしており、明智に加勢する状態に無い。
また、家康一行は命を狙われながら帰国しているのでつじつまが合わない。
そこで私がなるほどなと思った説が、
光秀、武田内通説
謀反を起こした時期には武田は衰退していますが、元々は戦国最強とうたわれた勢力です。
その時期に武田方と内通していたのがバレそうになって、やられる前にやるしかないとなったと言う説です。
この説に説得力があると思った理由が
?@明智光秀の筆頭家老だった斎藤利三の子供が細川家を頼り生き残り光秀の謀反の理由として語っています。
他の説が状況証拠だったり、推測な事に比べ、光秀方の内情を知りえる関係者が語っている事。
?A謀反後の準備が出来ていないのに急遽謀反を起こさざる得ない事。
?B他の説は今までの積み重ねではあるがなぜ今なのだろう?と言う疑問があるが、今である必要がる事。
?C武田との内通を知っていた、穴山梅雪が本能寺の年の2月に徳川に下っている事。
同5月に家康と共に信長に謁見している。
5月17日まで家康の接待役をしていた光秀は17日に坂本城に戻り、中国地方への出陣の準備をし、中国に向かう途中に進路を変え本能寺を襲撃している為、状況も証言と合う。
この説だと、 理由が切迫しており裏切らざる負えない、準備不足でも実施せざる負えないし、理由が発生してから最短で襲撃していて辻褄が合う 部分が多い。
いろんな考えがあると思いますし、答えなんて出ないのですが必要性が高いと言う点で私は一番この説を押します。
結構異説で描かれているどうする家康ですが、本能寺の変の理由をどう描くんでしょうね??
今から楽しみです。
タグ: 歴史
2023年06月28日
長篠の戦いの謎
私には以前から通説では納得出来なかった歴史上の事件がいくつかあります。
その1つが
長篠の戦い
長篠の戦いは、戦国時代の天正3年5月21日、三河国長篠城(現・愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千人の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である。
【決戦までの動き】
勝頼 は、天正3年(1575年)4月には大軍の指揮を執り三河へ侵攻し、5月には長篠城を包囲した。
信長軍 30,000と 家康 軍8,000は、5月18日に長篠城手前の設楽原に着陣。
信長は、30,000の軍勢を敵から見えないよう、途切れ途切れに布陣させ、小川・連吾川を堀に見立てて防御陣の構築に努める。
信長側は、鉄砲隊を主力として柵・土塁で守り、武田の騎馬隊を迎え撃つ戦術を採った。
一方、信長到着の報を受けた 武田陣営 では信玄時代からの重鎮たち、特に後代に武田四名臣といわれる山県昌景・馬場信春・内藤昌秀らは信長自らの出陣を知って撤退を進言したといわれているが、勝頼は決戦を行うことを決定する。
そして長篠城の牽制に3,000ほどを置き、残り12,000を設楽原に向けた。
これに対し、信玄以来の古くからの重臣たちは敗戦を予感し、死を覚悟して一同集まり酒(水盃)を飲んで決別したという。
【鳶ヶ巣山攻防戦】
5月20日深夜、信長は家康の重臣であった酒井忠次を呼び、4,000名の別働隊を組織し、長篠城包囲の要であった鳶ヶ巣山砦の奇襲を命じた。
【設楽原決戦】
5月21日早朝、鳶ヶ巣山攻防戦の大勢が決したと思われる頃の設楽原では、武田軍が織田・徳川軍を攻撃。
戦いは昼過ぎまで続いた(約8時間)が、織田・徳川軍から追撃された武田軍は10,000名以上の犠牲(鳶ヶ巣山攻防戦も含む)を出した。
織田・徳川軍の勝利で合戦は終結した。
今までの通説
武田勝頼がそれまでの戦いで、織田・徳川に対して勝利を重ねていた為、守りを固めなかなか出てこない織田・徳川連合が準備が整っておらず勝てると思った。
織田・徳川連合に3,000丁もの鉄砲があるとは考えず、または、鉄砲は1度撃つと次弾までの時間がかかる為、騎馬隊の突撃で崩せると思ったが、鉄砲の3段撃ちと言う(鉄砲隊を3列に分け、3交代で撃つ事により絶え間なく銃撃する)画期的な戦法により敗れた。
疑問点
開戦後しばらくで鉄砲の3段撃ちに気が付くし、その後も壊滅状態になるまで(8時間も)突撃を繰り返すのか??勝頼が無能だからと言う描かれ方をしている物語も多いが、勝頼は長篠以前の戦でも、長篠以降の戦でも無能とは思えない戦を行っている。
勝頼が無能だとしても、優秀な家臣が多い武田で勝頼を止めれず壊滅するまで突撃をするのか??
3段撃ちは一次資料では出てこず、かなり後世に書かれた書物で出てくるので、そもそも無かったのではないか?
信玄亡き後、勝頼が焦っていた、勝頼と家臣が上手くいっていなかったなどなど、理由を説明するものはあります。
しかし、優秀な歴戦の強者が揃っていて、上杉謙信との戦いでは引く事も出来ていた人達が自殺の様に壊滅するまで突撃するのはしっくりこないのです。
最近腑に落ちた新説
新説?@
鉄砲の数に気を取られがちだが、実は当時は弾丸と火薬の確保が難しかった。
その為、実は武田側も鉄砲自体は意外に多く持っており、始めは鉄砲の撃ち合いから始まっているが武田側が先に弾丸が尽きた。
弾丸の確保が難しい当時なので、織田側もいずれ弾丸が尽きるはずと考え弾丸が尽きるまで突撃を繰り返した。
しかし、鉄砲の生産地国友と輸入拠点の堺を抑えていた織田側の弾丸が尽きる事はなく、武田が先に壊滅してしまった。
勝頼が無能だから突撃を繰り返したよりは合理的な理由があり納得できます。
ただ、武田も鉄砲の生産地と堺が織田側の勢力圏にある事は当然知っており、情報収集能力も高いはずなのに弾丸が豊富にあると言う事に気が付かないものなのかと言う疑問は残ります。
新説?A
まず、織田・徳川連合は兵数を少なく見せていた。
また、鉄壁の馬房柵に守られ鉄砲で待ち伏せて完膚なきまでに撃ち倒していたのではなく、当初弱く見せており、少し戦っては馬房柵の中に逃げ込んでいた。
確かに、長篠の戦の絵巻には馬房柵の中ではなく、前で鉄砲を撃っている姿が描かれているんですよね。
そうこうしている間に、奇襲部隊により長篠城が解放されたことが伝わり、武田側は挟み撃ちにされる前に撤退するか目の前の織田・徳川連合を打ち破るかの選択を迫られる状態になった。
数が少なく、準備も整っておらず、戦った感じでは思ったより弱い織田・徳川連合を前にして、勝頼は撤退ではなく目の前の敵を倒す選択をした。
しかし、馬房柵もあり、短時間で崩せないため、別動隊を横から後ろに回して一気に決着を付けようとした。
端に配置されている徳川軍と戦いながら別動隊が後ろに回り込んだところ、兵数を少なく見せ後方に伏兵として置いていた織田軍の鉄砲隊に周りを囲まれ一斉射撃を浴びせ続けられた、という説です。
この説で腑に落ちる事は、
?@武田軍が撤退しなかったこと。
?A武田軍の優秀な武将があまりに多く討ち死にしている事。
(別動隊に入っていた武将が鉄砲隊に周りを囲まれ一気に殲滅された。)
?B織田軍の少なく見せていた軍勢が有効に使える事。
?C鉄砲隊が馬房柵の前に描かれている事。
?D資料では端に配置されていた徳川軍で激しい戦いがあった事。
個人的には新説?Aが一番腑に落ちますが、?@でも通説よりは腑に落ちます。
皆さんはなぜ武田勝頼は戦を続けたのだと思いますか??
興味がある方はこちらのYouTubeを見てみてください。説得力があって面白かったです。
「長篠合戦の真実に迫る!歴史研究者乃至政彦先生と武田軍の作戦を大考察?」
https://www.youtube.com/watch?v=3m7uEhm9WY0&t=63s
タグ: 歴史