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2017年10月29日

あなたは『嫌われる勇気』を誤解している

PRESIDENT Online より 

あなたは『嫌われる勇気』を誤解している

「アドラー心理学」を解説し、世界中で350万部を越えるベストセラーになった『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)。その内容を「身勝手な振る舞いを勧めるもの」と解釈している人もいるようだが、著者の岸見一郎氏は「それは誤解です」と断言する。新著『アドラーをじっくり読む』(中公新書ラクレ)の内容を踏まえつつ、徹底解説してもらった——。

ベストセラーゆえ生まれた「誤解」

『嫌われる勇気』が 世の中の多くの人に読まれていることは、 とてもうれしいことです。 しかしながら、 一方で、気がかりなこともあります。 それは、 アドラー心理学に対する 誤解が広まっているのではないか—— ということです。 なかでも特に気になるのが、 「共同体への貢献」 という考えへの誤解です。 そもそも アドラー心理学は 非常にシンプルなので、 かえって誤解されやすい心理学です。 正しく理解するには、 3つの方法があると私は考えています。 それはすなわち、 対話形式でまとめられた本を読むこと、 質疑応答の形になった本を読むこと、 そして、 アドラーの原著にあたることです。 『嫌われる勇気』 『幸せになる勇気』 (いずれもダイヤモンド社) は、対話篇としてまとめたものです。 質疑応答については、 私は講演会でも長い時間を とることがあります。 SNSでのやりとりもしてきました。 しかし、 最後の原著にあたることは、 なかなか難しいものです。

原著がそもそも誤解されやすい

アドラー心理学が 誤解を受けやすい理由の一つが、 この原著の作り方にあります。 アドラーには多数の著書がありますが、 アドラーは書くことに あまり執着がなかったため、 その多くが「聞き書き」であり、 講演録を編集者がまとめたものが多いのです。 それゆえ、 原著といえども、 各章の問題のつながりが はっきりしなかったり、 重複していたりして、 必ずしも整合性がない箇所があります。 これではなかなか 正確な読み解きはできません。 ですので、 新著『アドラーをじっくり読む』では、 代表作をいくつか選んで、 概要を紹介しました。 実は、本書のタイトルを当初 『アドラーを正しく読む」 にしようという案もありました。 それくらい、 これまでアドラーの著作が 「正しく」読まれていない、 と痛感していたからなのですが、 まずは「じっくり」 読むことが必要だと思います。 もとより、 私の解釈なので、 私とはまったく 異なった読み方をする人は おられるでしょうが、 今後、原著を読む時の 「羅針盤」のような役割を 果たせたらと思います。

リーダーこそ間違いやすい

さて、冒頭に述べた 「共同体への貢献」 という観点で話を進めましょう。 アドラーのいう 「共同体」 とは、 どこかの会社、 学校やチームなど、 ただ一つの具体的な共同体に 限定されるものではありません。 これはアドラー理解のための 重要なポイントです。 さしあたって、 自分が属する 家族、学校、職場、社会、国家、人類であり、 過去・現在・未来のすべての人類、 さらには生きているものも 生きていないものも含めた この宇宙の全体を指しています。 しかしながら、 現在、経営者をはじめ 組織のリーダーが説明する 「貢献感」は以下のようなものに なってはいないでしょうか。 自身の経営する会社、 運営する組織といった固有の 「共同体」へ「貢献」する気持ちを 持つことが、 従業員や部下を幸せへと導く——。 貢献感を持つことは大切ですが、 リーダーがこのように 考えることは危険なことがあります。 なぜこのようなことを言うか、 説明しましょう。 アドラー心理学は 「使用の心理学」 といわれることがあるのですが、 その意味を誤解している人がいます。 この「使用」とは、 「アドラー心理学を使う」 という意味ではありません。 アドラー心理学の 教えはシンプルですが、 それが教える技法を使うと、 他者がみるみる変わることを知った人が、 アドラー心理学が 「使える」ことに驚くのです。 しかし、 「使用の心理学」 というのは そういう意味ではありません。 大切なことは 何が与えられたかではなく、 与えられたものをどう 「使う」かだということであり、 人は誰でも自分の生を 選びうるという意味なのです。 そもそも 人を操作するために、 アドラー心理学を使えると 考えることは、 正しい理解とは とても言えないのです。 ですから、 リーダーが共同体への貢献を語る時、 従業員や部下を貢献させようとしていないかに注意しなければなりません。

共同体とは「理想」のもの

「共同体」、 そして「共同体感覚」こそ、 自分が環境をどう捉えるかで 幸福になれるかどうかが決まるという、 アドラー心理学の 大切な概念です。 先述しましたが、 共同体とは、 具体的なある一つの共同体ではないのです。 あらゆる意味で垣根を越えた 「理想」の共同体であり、 一つの組織ではなく、 もっと大きな共同体に 所属していると感じていることが、 「共同体感覚」 ということです。 したがって、 共同体への貢献は 特定のある共同体への貢献にとどまりません。 理想主義者であるアドラーは、 それほど理想的な 「共同体感覚」 を求めていたのです。 共同体に所属する人の観点で言えば、 特定の組織や 誰かから承認されればいい というわけではなく、 常により大きな共同体の 利害を念頭に置いて 行動しなければなりませんし、 嫌われようと 何をしてもいい というようなことにも もちろんなりません。 共同体への貢献と言う時、 その貢献によって得られる 「貢献感」は、 決して他人から 押し付けられたものであってはいけません。 貢献感も、 共同体と同じくアドラー心理学の キーワードの一つです。 貢献感を持てば 自分に価値が感じられ、 自分に価値を感じられれば、 課題に取り組む勇気を持つことできる。 この貢献感は 自らの内側から得られるように ならなければ意味がありません。 つまり、 働くことでも、勉強でも、 老いた親への介護であっても、 自分が「貢献している」 という実感を持つことが大切なので、 貢献感は決して 他者から強いられたものであっては いけないのです。

会社という共同体をどう考えるか

アドラーが使う共同体という言葉は ドイツ語ではゲマインシャフトです。 これは ゲゼルシャフト と対比して使われます。 簡単に言うと、 ゲマインシャフトとは 家族や地縁といった共同体組織です。 ゲゼルシャフトとは、 会社をはじめとする 産業や文明での営みを前提とした、 人為的目的をもって 作られた機能的な共同体です。 この区別に従えば、会社組織は、 ゲゼルシャフトです。 しかしながら、 特に日本の企業は、組織への 「貢献」や「忠誠」や 家族的なつながりを求めた、 ゲマインシャフトのような ——あくまでも「のような」—— あり方を続けてきました。 ところで、先に見たように、 アドラーは、 共同体=ゲマインシャフトという言葉を 使っていますから、 会社組織という共同体も ゲマインシャフトになります。 これはどう解すればいいでしょうか。 私の父は 昭和ひと桁生まれの会社員でしたが、 父の会社では 元旦に社員一同が集まって 年頭の挨拶をする慣習がありました。 さすがに 今ではそんな会社はないでしょうが、 通勤電車でも 会社のバッジを付けていたり、 昼休みにも 社員証を下げていたりする人などは、 企業へ忠誠を誓い、 それによって 誇りを得ているのではないでしょうか。 過剰なまでの忠節を提供し、 人生を担保されているかのように見えます。

閉じられた組織は行き詰まる

新卒一括採用、 終身雇用の時代では、 会社へすべてをささげることが、 一つの人生のモデルだったのはたしかでしょう。 しかし、 会社という一つの共同体への貢献は、 それを失った途端に 人を空虚な存在にしてしまいます。 モーレツ社員だった サラリーマンが定年退職後に 行きどころを失ってしまうのも、 そのためです。 ところが、 アドラーがゲマインシャフト という言葉を使う時、 その意味は既存の共同体ではなく、 外へと広がっていく共同体です。 内部では一体感があるけれども、 外に対しては閉鎖的であるという 普通の意味での ゲマインシャフトではないのです。 生き方が多様化した今、 一つの共同体だけへの貢献は、 外部には 敵対的であることを助長し、 その意味でそのような貢献は 危険なものになります。 新卒採用でも、 会社に忠誠を誓う人材を選んでいては、 今後組織は 行き詰まってしまうのではないか と思います。 以前、 旅行代理店で 講演をしたことがありましたが、 その日は たまたま新入社員の 面接試験の日でした。 面接を待つ学生の中に、 アジアの民族衣装を着た人がいました。 その企業の社員と 講演後に話したところ、 「あの子はとらない」 と断言しました。 「奇をてらった人間はいらない」 ということです。 企業へどっぷりと 忠誠を誓う人間しか採用されない ——それでいいのでしょうか。

押し付けられた「貢献」にだまされてはいけない

共同体に貢献することは あくまでも自分の問題です。 組織のリーダーが 貢献感を 部下や従業員に持たせようとするのであれば 問題です。 残念なことに、 過重労働による自殺や、 病気についてのニュースが あとを絶ちません。 「死ぬくらいなら辞めればいい」 と言えば、 話はそんなに 簡単な問題でないと言われます。 特定の「共同体」へ貢献することが、 その人のすべてを作ってしまうという 日本人のキャリア形成の 構造的な問題が背景にあるからです。 リーダーが 恐怖に基づいて貢献を強いるのであれば、 それがおかしいことに 気づくことは 容易かもしれませんが、 話が厄介なのは、 部下に自発的に貢献するように 仕向けることがあるからです。 上司は言うのです。 「私はやれとは言ってない、 あくまでも部下が 自発的に貢献しようとしたのだ」と。 こうして、 自発的な貢献が押し付けられます。 職場で「貢献感」を強調することは、 「ブラック企業」 の論理に近づきます。 いわゆるブラック企業と呼ばれる会社が、 会社にとって都合のいい 「貢献感」を社員に押しつけている 現実があります。 新国立競技場の建設現場で 働いていた方が自殺した事件も とても痛ましいものです。 「東京オリンピック」へ ボランティアとして参加することを、 じつは巧みに 「上」から押し付けようとする働きが あることはとても正しいとは言えません。 巧みな貢献感の 強要に断固として、 自分の中から 湧き出る言葉で 反論できるようになってほしいと願っています。 そのために、 自分が所属する共同体を越えた、 もっと大きく普遍性のある 「共同体への貢献感」を見いだし、 一歩を踏み出すことが、 「幸せになる勇気」なのです。

「嫌われる勇気」を持とう

最後に、 「嫌われる勇気」 という言葉への誤解についても 触れておきましょう。 嫌われる勇気とは、 人のことを考えない嫌われ者が 「嫌われてもいい」 と身勝手に振る舞うことを 勧める言葉ではありませんし、 嫌われても言うべきことは 言わないといけないと、 他者に自分の考えを 押し付けることでもありません。 現実の人間関係への不安を抱え、 貢献感を持てないでいる人、 他人との関わりを恐れている人に 「嫌われることを恐れずに」、 幸せへと飛び出していくことを 後押しする言葉なのです。 その勇気はむしろ 部下の立場にある人こそ 持たなければなりません。 嫌われることを恐れ、 上司の間違いを指摘せず 反論しなくなれば、 組織は衰退していきます。
言い尽くされたことだが 「嫌われる勇気」 は確かに名著だ。 この本を 読めば読むほど 感じるが アドラーを説明して 解説して納得させることは 心理学者よりも 哲学者の方が適任だ。 それは アドラーの言葉の 誤解されやすさにある。 普通の人間が ドイツ語以外の言語で アドラーの本を読んでも 正確に解釈することは かなり 難しいのではないかと思う。 その意味で 哲学者で 心理学にも造詣の深い人物が 日本人にアドラーを紹介することは とても意義深い。 だから こういった 読者の反応に応じた 岸見さんの解説や補足は 非常に意味がある。
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