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田原坂=西南戦争の古戦場?A

田原坂

一の坂

田原坂は、麓の豊岡眼鏡橋から頂上までの標高差は、わずか80m。一の坂、二の坂、三の坂と頂上まで1.5kmの曲がりくねった道が続く。この道だけが、唯一、大砲をひいて通れる道路幅(3〜4m)であり、この坂を越えなければ官軍の砲兵隊は熊本まで進めなかった。官軍にとっては生死を制する道であり、ともに戦略上の重要地であり、この平凡な坂道が激戦の舞台となった。(現地案内板より)

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二の坂

田原坂は、熊本城から北に延びる舌状台地の北端にあたる坂で、当時、熊本に通じる唯一の拠点であった。

 熊本城を築いた加藤清正は、ここを北端の守りと考え、城から植木までの約1.5?qを、道を深く掘り込んだ凹道とした。道の両側に土手を積み上げ、土手の後方に隠れて通過する敵を攻撃するように造られていた。

 坂道は、蛇行しており、前方は少し先までしか確認できない。

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三の坂
伍長谷村計介戦死之地碑


谷村計介は、嘉永六年二月十三日、日向国諸県郡倉岡村(宮崎市大字糸原)に誕生。母はウメ。父は郷士坂本利右衛門。次男。

わずか生後三ヶ月で、母ウメが急変し、姉のワサが、親代わりとなって、計介を抱いて、一里も離れたところろへ、「もらい乳」に出かけたり、重湯を飲ませたりして育てた。

安政三年、計介、四歳。親戚の谷村家の家督を継ぐため養子となり、以後、谷村姓を名乗った。

明治三年、立志して、鹿児島に学び、山鹿流の兵学師園田成章の私塾に入った。

明治五年、鎮西鎮台鹿児島分営に入り、のち、熊本鎮台本営に移った。

明治七年、佐賀の乱に出征して功あり、六月、陸軍伍長となった。

また、台湾出兵に従軍。

明治九年、歩兵第十四聯隊兵として、小倉に在営。

十月廿四日、神風連の乱で熊本に使された。

明治十年二月、熊本第三聯隊に在営中、西南戦争が勃発し、同廿二日、熊本城は薩摩軍に包囲された。

二月廿五日、谷村計介は、鎮台司令官谷干城(たに・たてき)の命を受け、南下してくる官軍本隊に現在の熊本城の状況を伝達する密使として包囲を脱出することになり、鍋炭を全身に塗り、農夫に変装して、深夜、本妙寺の裏山に出て、途中、捕らえられること再度。捕まりながらも逃げだし、またしても吉次峠で佐々友房の隊に捕らえられたが、三月二日、高瀬の官軍の前哨戦に達し、野津少将に城内の状況を報告し、三月四日、自ら進んで田原坂戦に加わり、戦死した。

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谷村計介の碑

官軍は、左右にある木々から、薩軍の砲撃・切込みによって、苦戦した。戦いは17昼夜続いたという。それでも、官軍は、田原坂後方の七本(ななもと)が陥落するまで、この三の坂を突破することはできなかったという。




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