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肥後人吉藩米良小川城址=宮崎

日向・米良小川は、小河谷(おがわだに)ともいう。米良地方は、日向国でありながら、江戸時代は、肥後国球磨郡のうちとされていた。九州山地中央部、一ツ瀬川上流域、同川支流小川川(おがわがわ)中流の山間部に位置する米良山中の一村。肥後国人吉藩領。但し、人吉藩の付属ながら、旗本交代寄合衆として参勤交代を勤めた米良氏が、幕府鷹巣山として支配していた。






 宝永元(1704)年、米良神社を勧請したという。祭神は磐長姫命で、大山祇命・豊玉姫命を合祀する。寛政四(1792)年閏二月、米良山を訪れた高山彦九郎は、『筑紫日記』に、「下りて米良の小川也、米良主膳殿の在所也、五ツに及んで板橋を渡りて小川八十吉所に宿す」「小川に一ノ宮と天神の社有り、館主榊原左京、同ク内記、禅院済福寺、真言宗不動院とて有り、家六十軒」と記している。

※米良氏は、菊池氏末裔といい、菊池氏同様に揃い鷹羽を家紋とする。その始源については、菊池能運の子重為(あるいは重次)の入山とする説、能運(または重朝)の弟重房の入山とする説などがあり、確証はない。宝永三(1706)年建立の西米良村小川に所在する第十代則重墓碑には、「氏は菊池、姓は天」とし、武重十一世の孫石見重次の入山と記す。城は村の中央の高台にあり、御尋間・控の間・小書院・大書院・御学問所などを備えた本邸のほか、裏には穀物蔵・馬屋・御金蔵・火焼の間などが置かれていた(『西米良村史』)。










 則重から後、米良本宗家は代々、主膳を号した。

 第十七代の米良主膳則忠は、幕末・維新期にあって、つよい菊池末裔意識をもち、尊攘派として活動した。元治元年、則忠が、相良家に提出した米良山系譜(相良家文書)には、米良石見を名乗った初代重次は菊池石見守国重の嫡子で、米良山に入ると、銀鏡(しろみ)に居館を構えたという。




 明治元年、則忠は、菊池姓への復姓願いを出し、翌年正月、菊池広次郎忠と名乗り、同十七年、菊池広次郎忠の嫡男武臣は、男爵を授けられた。











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