2011年07月09日
小倉城=豊前国企救郡=北九州市
小倉城
= 豊前国企救郡 = 北九州市小倉北区城内
規矩川(紫川)の河口部に位置する堅城。
勝山城・勝野城・指月城・湧金城・鯉ノ城ともいう。
井筒屋8階星ヶ岡茶寮より撮す
雄略18年(五世紀後半)8月戊申条に、「筑紫聞物部大斧手」が登場する。
「きく」(聞・企久・規矩・企救・伎久などと書く)は、筑紫の最北部、北は関門海峡、東は周防灘に面していて、古くから、鎮西の要衝にあたっていた。
古代、企救郡には、杜崎・到津の2駅があり、安閑紀では大抜屯倉も設置され、また、登美・板櫃には軍鎮が置かれていた。
天平12(740)年9月、藤原広嗣が反乱を起こし、板櫃川で官軍と戦った。板櫃軍鎮の大長三田塩籠や小長凡河内田道などは、広嗣軍の加わり殺された。
保元2年、平康盛が豊前国司となって下り、企救郡の豪族長野氏の祖となったという。
古代末期には、小倉城の起源となる城があったことが推測されているが、その遺跡は明瞭ではない。
文永年間(1264〜75)、維方大膳亮惟重が、小倉城を築き、以後、数代、居城していたが、延慶年間(1308〜11)、水原備中守のため落城したというが、確証はない(『角川日本地名大辞典福岡県』江戸時代小倉藩士春日信映「倉城大略誌」)。
元徳二(1330)年、黒崎土佐守が小倉に築城したというが、これも、確証はない。
観応二(1351)年十一月五日、宗像資村は、一色道猷の手に属し、小倉城を攻略した(観応3年3月23日の宗像資村軍忠状写)。これが信頼できる史料上の初見。
永禄十一(1568)年、毛利氏は、翌年の筑前攻めのため、海上通路の要所として、小倉津に平城を構え、南条勘兵衛を入れた。
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規矩川(紫川)の河口部に位置する堅城。
勝山城・勝野城・指月城・湧金城・鯉ノ城ともいう。
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井筒屋8階星ヶ岡茶寮より撮す
雄略18年(五世紀後半)8月戊申条に、「筑紫聞物部大斧手」が登場する。
「きく」(聞・企久・規矩・企救・伎久などと書く)は、筑紫の最北部、北は関門海峡、東は周防灘に面していて、古くから、鎮西の要衝にあたっていた。
古代、企救郡には、杜崎・到津の2駅があり、安閑紀では大抜屯倉も設置され、また、登美・板櫃には軍鎮が置かれていた。
天平12(740)年9月、藤原広嗣が反乱を起こし、板櫃川で官軍と戦った。板櫃軍鎮の大長三田塩籠や小長凡河内田道などは、広嗣軍の加わり殺された。
保元2年、平康盛が豊前国司となって下り、企救郡の豪族長野氏の祖となったという。
古代末期には、小倉城の起源となる城があったことが推測されているが、その遺跡は明瞭ではない。
文永年間(1264〜75)、維方大膳亮惟重が、小倉城を築き、以後、数代、居城していたが、延慶年間(1308〜11)、水原備中守のため落城したというが、確証はない(『角川日本地名大辞典福岡県』江戸時代小倉藩士春日信映「倉城大略誌」)。
元徳二(1330)年、黒崎土佐守が小倉に築城したというが、これも、確証はない。
観応二(1351)年十一月五日、宗像資村は、一色道猷の手に属し、小倉城を攻略した(観応3年3月23日の宗像資村軍忠状写)。これが信頼できる史料上の初見。
永禄十一(1568)年、毛利氏は、翌年の筑前攻めのため、海上通路の要所として、小倉津に平城を構え、南条勘兵衛を入れた。
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