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久留米水天宮と真木和泉守

久留米水天宮と真木和泉守

久留米水天宮拝殿


久留米水天宮は、筑後久留米瀬ノ下にある神社。祭神は、安徳天皇・その生母建礼門院(平中宮徳子)・外祖母二位尼平時子、ほかに、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を合祀する。全国に散在する水天宮の総本社。水天宮の成立については詳らかではないが、水神信仰・母子神信仰に基づく神社であろう。社伝によると、中宮徳子に仕えた按察使局伊勢が、筑後川に逃れ、壇ノ浦で亡くなった安徳天皇をはじめ、平家一門の霊を弔い、同時に住民に加持祈祷を行ったのが始まりという。しかし、水天宮という社名と、筑後川の守護神とされていることなどから推測すると、本来は、筑後川水系の水神信仰が母体となっているのであろう。水天は、バラモン教の水神ヴァルナが仏教に取り入れられたものである。十二天の一つで、西方の守護神。元来は天空の神であり、龍族の王。五龍冠をいただいて亀に乗り、海中に坐して左手に羂索、右手に剣を持つ。はじめ、社地は、しばしば移ったという。これは、筑後川の氾濫と関係があるのかもしれない。元和六(1620)年、有馬豊氏は、丹波福智山から久留米に移封となり、これにともなって、福智山にあった瑞岩寺を移し、元和七年、禹門玄級を請じて開山として、大竜寺を創建し、150石を与えた。寛永三(1626)年、藩祖則頼の墓を、播磨国三木郡天正寺から改葬し、則頼の法号梅林院殿をとって寺号を梅林寺と改称し、さらに寺領200石を与えた。慶安三(1650)年、二代藩主忠頼は、この梅林寺山から筑後川畔の現在地に社地を寄進し、旧に復したという。寛文十(1670)年に社司が藩庁に提出した由緒書によると、祭神は中央が尼御前大明神、左右は荒五郎・安坊大明神という。当時、筑後川の水神は尼御前大明神(二位尼)、支流の巨勢(こせ)川の水神は九十九瀬(こせ)大明神(清盛)と信じられ、社の護符「五文字(いつもじ)」を受けると河童を退け、水難を避けられると信じられていた。寛延二(1749)年、若津(瀬下港と一体である川港)に出入りする大坂借船船頭中から神輿が寄進された。文政元(1818)年、9代藩主頼徳が、江戸の赤羽の上屋敷に分霊した頃から、水天宮の呼称が見られるようになるという。明治五(1872)年、この江戸の水天宮は、有馬屋敷とともに、現在の東京都中央区日本橋蠣殻町に移された。

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文化十(1813)年、真木和泉守保臣、誕生。筑後の人。父は真木左門施臣(としおみ)。

真木和泉守保臣銅像(久留米水天宮境内)


 真木家の始祖は、「真木家略系譜」によると、大和国石上神社神官某の娘・伊勢で、伊勢は、平知盛および清盛の時子(二位の尼)に仕え、建礼門院(徳子の入内とともに宮中に入り、按察局と称し、壇ノ浦における平氏滅亡の際、遺命により、安徳天皇以下一門の跡を弔うべく、筑紫国に流れ来たり、筑後川のほとり、鷺野原の地、すなわち、現在の所に住みついたという。平知盛の子に、従四位少将知時なるものあり、壇ノ浦より、肥後五家荘に逃れたが、その四男(平清盛曾孫)右忠は、ある日、伊勢を訪ねて、筑後の地に来たり、ついに、その養子となって、平氏の血脈を伝えることになったという。
  文治・建久の頃、伊勢は、鷺野原に、平氏一門を祀ったが、これが、すなわち、水天宮の創始といい、右忠が水天宮第一代の神職となったという。
  江戸時代に入り、慶安三(1650)年、右忠16代の孫・忠左衛門重臣は、有馬筑後久留米藩第二代藩主忠頼に、水天宮社殿の改築を願い出て、忠頼の意志により、今日の瀬下町の地に、壮大な社殿を築かせ、社地として、三潴郡京隈村(久留米市京町)のなかに七畝二十八歩を与え、物成免とした。
  この忠左衛門重臣は、肥後真木村(熊本県菊池郡大津町真木)の出身で、先代竜臣の養子となったが、出身地の名をとって、真木姓を称するに至ったという。以後、17代・与平次、18代・忠左衛門是臣、19代・右門三臣、20代・右門重臣と続き、和泉の父・左門施臣に至った。
通称、和泉守。名は保臣。号は紫灘。久留米水天宮の祠官であったが、江戸・水戸に遊学し、会沢安の影響を受けた。


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  文政元(1818)年十一月、藩主頼徳の命により、江戸芝赤羽の久留米藩邸内に、水天宮を分祀した功によって、中小姓格に列し、年額米六十俵を扶持されることとなり、以後、真木家に伝えられた。
  天保年間(1840〜43)、久留米に、水戸学が伝えられ、天保学と呼ばれた。水戸義公に淵源する水戸学は、幕末に至り、水戸斉昭を中心に、藤田幽谷・東湖、合沢正志斎らにより、形成された。木村三郎、村上守太郎によって、この水戸学が伝えられ、当時、すでに藩の青年武士等将来有為の人々は、この斬新な学風に惹かれ、藩内に広がった新しい学風は、おのづから旧来とは異なった一派を形成し、世間では、これら一派の人々を称して、天保学と呼んだ。
弘化三(1846)年、有馬筑後久留米第十一代藩主となった頼咸(よりしげ)は、佐幕的態度をとり、尊攘派真木和泉守保臣らの藩政改革策をおさえたので、保臣は脱藩して尊攘運動に挺身した。嘉永五(1852)年、保臣は、久留米藩藩政改革を企て、失敗し、幽閉された。彼は、尊王志士の中では、もっとも早く倒幕意見を持った人であった。



安政五(1858)年、江戸幕府は、尊王攘夷運動を弾圧した(安政の大獄)。
安政の大獄の頃、真木和泉は『大夢記』を書いて、天皇が天下の政治を行うべしとし、徳川氏は甲斐・駿河二国の領主とすべしと述べている。
文久年間になると、その説は、ますます尖鋭となり、具体的な討幕策までに発展していた。
文久元(1861)年十二月、「義挙三策」をつくり、第一策‐諸侯にすすめて事を挙げる、第二策‐諸侯の兵を仮(か)りて事を挙げる、第三策‐義徒のみによって事を挙げる、第一・第二策では、その兵力で大坂城を占拠すべしとし、第三策では、五、六百人の同志は動員できるが、これでは大坂城奪取はむずかしいから、京都市内攪乱戦術をとり、天皇を比叡山に移すべしと述べていた。
出羽庄内藩田川郡の郷士出身の清河八郎は、安政四年には駿河台で塾を開いていたが、尊攘思想にとりつかれてヒュースケン殺害事件に関係して幕吏に追われ、関東から奥羽にかけて転々として身をひそめていた。文久初年頃には、各地に清河八郎を匿(かくま)う同志がいた。清河は、その後、上京してさらに九州に赴き、文久元(1861)年十二月、保臣と会見した。平野国臣・伊牟田尚平(薩州藩士)の二人は、島津久光が明春大兵を率いて上京して勅命を得て江戸に下り幕府に改革を要求せんとする議あるを知って入薩し、形勢をさぐった後、十二月廿五日、松村大成宅に待機していた清河八郎とともに、瀬高へ来て、この夜、和泉守はひそかに山梔窩を抜け出て会談し、清河・伊牟田は上京してさきに連絡のある田中河内介を通し青蓮院宮(中川宮)の令旨を奉じてふたたび西下し和泉守と平野は筑・豊・肥の志士を糾合して決起の準備をし令旨の西下を待って水田を脱出し鹿児島へ走ることに決まった。





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