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2021年08月24日
平和ボケとは何でしょうか
8月15日、日本では終戦の日でした。世界的には9月みたいですけれど。
75年、実に4分の3世紀、日本は戦争をしていません。戦争放棄の憲法があるので、戦争できません。しかし、戦力不保持を主張し続ける人に対し、平和ボケしているという批判があります。つまりは、たまたま攻撃されなかった、巻き込まれなかったから、今後も平和が続くだろう、戦争を回避できるだろうという幻想を批判する言葉です。
武装しなくては、武力なくしてはまともな外交はできない、国益は守れない、そう主張する方からの批判です。
一理あります。軍事力において勝る国が劣る国を蹂躙してきた歴史があります。武力がなければ国民や国土を守ることも、対等に外交することもままならないと感じられるのは、自然なことかもしれません。
しかし、戦争放棄、戦力不保持で平和に暮らす思考が「平和ボケ」と言われてしまうことには大いに抵抗があります。
戦争で、暮らしはどうなるでしょうか。
住宅地も田畑も焼け野原になり、鉄道も道路も破壊される。電気も水道も止まってしまう。食べるものは深刻なまでに不足し、仮に生産できたとして運ぶこともままならない。衣類、衛生用品、あらゆるものがない中、衛生状態は劣悪になり、病人は急増。伝染病も蔓延するだろう。餓死なんて日常。
想像できますでしょうか。「ボケ」なんていう否定語は好きではありませんが、どちらかと言えばこれを想像できずに、戦争放棄に異を唱える方が、私には「平和ボケ」という言葉が当てはまるように感じられてしまいます。
第二次世界大戦時、上記のような地獄絵図は、日本はもちろん、ソ連、ヨーロッパ、中国のあちこちで見られたでしょう。
あの悲惨な光景が風化していっている。わが国がどうなっていくのか、怖い。
今こそ、いや、常に過去の戦争を思い起こして、戦力に頼った末路に目を向けるべきです。
まず、強い軍隊を持とうとすることが、戦争抑止力になったかどうか。国土や国民を守ることができたのかどうか。
第二次世界大戦が起きた1939年当時、日本は世界でも5本の指に入る、強大な軍事力を有していました。その強大な軍事力を背景に外交がうまく進められたかと言えば、そんなことはありませんでした。1939年は日中戦争中でしたけれど、中国が日本の軍事力に怯えて抵抗をやめることもなかったです。1941年には、本国が日本の同盟国ドイツに占領されたオランダ領東インド(蘭印)すら、日本の石油貿易要求を拒み戦争になりました。
つまり、強大な軍事力で戦争を防ぐことはできなかったのです。
強力な武力に戦争抑止力がないとはもちろん言いません。抑止力があるかないかといえば、あるという答えになるでしょう。
しかしながら、その怖さによる抑圧を越える力、大儀とか世論とか国際圧力が働いた場合、武力は深くそして荒れた泥沼を生み出してしまう。
次に、自衛のための戦争なら致し方なしという声もあります。
しかしながら、侵略戦争、領土拡大目的と言って戦争を始める人はいません。大東亜戦争も、日本は自存自衛のためと言って戦争に突き進みました。
仮に今、尖閣や竹島や北方領土で衝突が起こった場合、どちらも自衛と主張するでしょう。それが発端で多数の国が入り乱れる世界大戦になったとしても、集団的「自衛」を主張するでしょう。
その場合でも、戦争になったら、正義も理屈も関係なくなります。軍事的に強かったグループの言い分が通り、勝者が敗者を裁き、戦勝国の主張が100年語られていくのです。
逆に、武力こそが国を守る力であった例ですが、そちらの方が圧倒的に多くいくらでもあるのは事実です。20世紀初頭は、西欧列強に支配されていない地域などほとんどなくなってしまいましたし、それ以前の歴史も武力による栄枯盛衰の繰り返しと言っていいでしょう。
しかし時代は変わり、およそ200の国が世界各地に、他国の支配下ではなく独立して存在しています。その中には、紛争地域もありますし、他国の武力に怯えている国もあります。しかしながら、衝突の心配がほとんどない地域も多いです。国によって所有する武力の強弱には大きな格差があり、まともな近代的戦争遂行など望めない国も少なくありません。100年前の、大正時代の旧日本軍さえ凌げない国防力の国もたくさんありそうです。極端ではありますが、戦車を1両も所有していない軍隊や、戦闘機を1機も保有していない軍隊も、いくつかあるみたいです。
持てる武力の強弱に限らず、主権が脅かされない世界、この大切さを思い続けていかないといけないと思います。
もし武力による威嚇が外交手段として認められてしまうならば、世界中のおよそ200の国々はそれぞれ軍拡に必死にならなければならないでしょう。そしてどうなるか。
国民の生活や教育等に使われるお金は軍事費に回り、家庭の働き手は兵隊や軍事産業の労働者として徴収され、生活は極めて貧しいものになります。そしてその後更に、外国に支配され誇りも思想も奪われるかもしれません。
国防の在り方には様々な意見があり、憲法9条に対しても賛否あります。どの考えが間違っているとは言いません。
ただ、これだけは言いたい。戦争で貧しくなる生活、無残な被災状況、こうしたことを想像し痛みを感じようとする姿勢があるところに、「平和ボケ」という表現は当たらない。