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2021年からデイトレ、スキャを中心に投資を開始 利益が年収を超えたため22年12月会社員卒業!! 1年はチャレンジしてその後はその後考えます...( = =) トオイメ目 あくまで個人の感じた事、やってみた感想を書いているので参考程度で自己責任でお願いします。 その他、気になったネタ、つぶやき・・
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2023年06月28日

長篠の戦いの謎

長篠の戦い.png

私には以前から通説では納得出来なかった歴史上の事件がいくつかあります。



長篠の戦い


長篠の戦いは、戦国時代の天正3年5月21日、三河国長篠城(現・愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千人の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である。

【決戦までの動き】

勝頼 は、天正3年(1575年)4月には大軍の指揮を執り三河へ侵攻し、5月には長篠城を包囲した。



信長軍 30,000と 家康 軍8,000は、5月18日に長篠城手前の設楽原に着陣。

信長は、30,000の軍勢を敵から見えないよう、途切れ途切れに布陣させ、小川・連吾川を堀に見立てて防御陣の構築に努める。

信長側は、鉄砲隊を主力として柵・土塁で守り、武田の騎馬隊を迎え撃つ戦術を採った。



一方、信長到着の報を受けた 武田陣営 では信玄時代からの重鎮たち、特に後代に武田四名臣といわれる山県昌景・馬場信春・内藤昌秀らは信長自らの出陣を知って撤退を進言したといわれているが、勝頼は決戦を行うことを決定する。

そして長篠城の牽制に3,000ほどを置き、残り12,000を設楽原に向けた。

これに対し、信玄以来の古くからの重臣たちは敗戦を予感し、死を覚悟して一同集まり酒(水盃)を飲んで決別したという。

【鳶ヶ巣山攻防戦】

5月20日深夜、信長は家康の重臣であった酒井忠次を呼び、4,000名の別働隊を組織し、長篠城包囲の要であった鳶ヶ巣山砦の奇襲を命じた。

【設楽原決戦】

5月21日早朝、鳶ヶ巣山攻防戦の大勢が決したと思われる頃の設楽原では、武田軍が織田・徳川軍を攻撃。

戦いは昼過ぎまで続いた(約8時間)が、織田・徳川軍から追撃された武田軍は10,000名以上の犠牲(鳶ヶ巣山攻防戦も含む)を出した。

織田・徳川軍の勝利で合戦は終結した。


今までの通説

武田勝頼がそれまでの戦いで、織田・徳川に対して勝利を重ねていた為、守りを固めなかなか出てこない織田・徳川連合が準備が整っておらず勝てると思った。

織田・徳川連合に3,000丁もの鉄砲があるとは考えず、または、鉄砲は1度撃つと次弾までの時間がかかる為、騎馬隊の突撃で崩せると思ったが、鉄砲の3段撃ちと言う(鉄砲隊を3列に分け、3交代で撃つ事により絶え間なく銃撃する)画期的な戦法により敗れた。

疑問点
開戦後しばらくで鉄砲の3段撃ちに気が付くし、その後も壊滅状態になるまで(8時間も)突撃を繰り返すのか??

勝頼が無能だからと言う描かれ方をしている物語も多いが、勝頼は長篠以前の戦でも、長篠以降の戦でも無能とは思えない戦を行っている。

勝頼が無能だとしても、優秀な家臣が多い武田で勝頼を止めれず壊滅するまで突撃をするのか??

3段撃ちは一次資料では出てこず、かなり後世に書かれた書物で出てくるので、そもそも無かったのではないか?

信玄亡き後、勝頼が焦っていた、勝頼と家臣が上手くいっていなかったなどなど、理由を説明するものはあります。

しかし、優秀な歴戦の強者が揃っていて、上杉謙信との戦いでは引く事も出来ていた人達が自殺の様に壊滅するまで突撃するのはしっくりこないのです。

最近腑に落ちた新説

新説?@
鉄砲の数に気を取られがちだが、実は当時は弾丸と火薬の確保が難しかった。

その為、実は武田側も鉄砲自体は意外に多く持っており、始めは鉄砲の撃ち合いから始まっているが武田側が先に弾丸が尽きた。

弾丸の確保が難しい当時なので、織田側もいずれ弾丸が尽きるはずと考え弾丸が尽きるまで突撃を繰り返した。

しかし、鉄砲の生産地国友と輸入拠点の堺を抑えていた織田側の弾丸が尽きる事はなく、武田が先に壊滅してしまった。


勝頼が無能だから突撃を繰り返したよりは合理的な理由があり納得できます。

ただ、武田も鉄砲の生産地と堺が織田側の勢力圏にある事は当然知っており、情報収集能力も高いはずなのに弾丸が豊富にあると言う事に気が付かないものなのかと言う疑問は残ります。

新説?A
まず、織田・徳川連合は兵数を少なく見せていた。

また、鉄壁の馬房柵に守られ鉄砲で待ち伏せて完膚なきまでに撃ち倒していたのではなく、当初弱く見せており、少し戦っては馬房柵の中に逃げ込んでいた。

確かに、長篠の戦の絵巻には馬房柵の中ではなく、前で鉄砲を撃っている姿が描かれているんですよね。

そうこうしている間に、奇襲部隊により長篠城が解放されたことが伝わり、武田側は挟み撃ちにされる前に撤退するか目の前の織田・徳川連合を打ち破るかの選択を迫られる状態になった。

数が少なく、準備も整っておらず、戦った感じでは思ったより弱い織田・徳川連合を前にして、勝頼は撤退ではなく目の前の敵を倒す選択をした。

しかし、馬房柵もあり、短時間で崩せないため、別動隊を横から後ろに回して一気に決着を付けようとした。

端に配置されている徳川軍と戦いながら別動隊が後ろに回り込んだところ、兵数を少なく見せ後方に伏兵として置いていた織田軍の鉄砲隊に周りを囲まれ一斉射撃を浴びせ続けられた、という説です。





この説で腑に落ちる事は、

?@武田軍が撤退しなかったこと。

?A武田軍の優秀な武将があまりに多く討ち死にしている事。
(別動隊に入っていた武将が鉄砲隊に周りを囲まれ一気に殲滅された。)

?B織田軍の少なく見せていた軍勢が有効に使える事。

?C鉄砲隊が馬房柵の前に描かれている事。

?D資料では端に配置されていた徳川軍で激しい戦いがあった事。

個人的には新説?Aが一番腑に落ちますが、?@でも通説よりは腑に落ちます。

皆さんはなぜ武田勝頼は戦を続けたのだと思いますか??



興味がある方はこちらのYouTubeを見てみてください。説得力があって面白かったです。
「長篠合戦の真実に迫る!歴史研究者乃至政彦先生と武田軍の作戦を大考察?」
https://www.youtube.com/watch?v=3m7uEhm9WY0&t=63s

タグ: 歴史
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