アフィリエイト広告を利用しています

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog
プロフィール

隼四郎
一度都会に出てみると地元のことが気になってくるものです。 そういう自分の体験から、鹿児島を散策しながら「あっとらんだむ」にいろんなことをお伝えできればいいなと思っています。 どうぞお気軽におつきあいください。
リンク集
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog
2016年03月30日
☆鹿児島県 姶良市 平山城跡
hirayamajou 1 1459312617762.jpg
undefined



hirayamajou 7 1459312726505.jpg
undefined


hirayamajou 9 1459312846333.jpg
undefined


hirayamajou 11 1459312876180.jpg
undefined

島津義弘公が一時期居城とした

平山城跡です。

3月10日にオープンした

イオンタウン姶良から山の方に

向ってすすむと辿り着きます。

高速道路の下をくぐっていきます。

しばらく行くと、二級河川別府川が

開けてきます。

橋を渡って、右に曲がり、帖佐小学校

の脇道を山に向って進みます。

山道を10分くらい車でいくと頂上に

でます。

そこが平山城跡、八幡神社境内になります。

参拝客が少ないせいか、緑の苔がふっかふか

でgreen velvetのようでとても気持ちよかった

です。

春には桜祭りが行われるそうです。

掲示板には以下のように記されています。

…………………………………………

島津義弘は帖佐城の節、大いに

八幡宮を崇敬し、征韓、関ケ原の役の際も

戦勝祈願の事あり、数々の寄進をなした。

境内の大銀杏は、平山了清が植えると伝え

られる。

樹齢約700年、高さ14.5m、根回り11.4m

あり、町天然物に指定されている。

…………………………………………


Posted by 隼四郎 at 20:27 | 歴史 | この記事のURL
2016年03月02日
☆島津別邸 重富荘
001 1456892148198.jpg
undefined


002 1456892597470.jpg
undefined


003 1456892589517.jpg
undefined


004 1456892162325.jpg
undefined


006 1456892177291.jpg
undefined


007 1456892189542.jpg
undefined


009 1456892227391.jpg
undefined


011 1456892255273.jpg
undefined


014 1456892425316.jpg
undefined


017 1456892341804.jpg
undefined


018 1456892328966.jpg
undefined


019 1456892300223.jpg
undefined


022 1456892442131.jpg
undefined


025 1456892519861.jpg
undefined


026 1456892536828.jpg
undefined


丁度50年前、1966年に映画「007は二度死ぬ」の

ロケが重富荘で行われました。

坊津の秋目海岸でも行われ、地元鹿児島ではたいへん

話題になり、おおいに盛り上がりました。

映画の公開は1967年ですが、ロケは1966年に行われ

ました。

Nancy Sinatra - You Only Live Twice (HQ)
https://www.youtube.com/watch?v=hs8uYxTJ530


Posted by 隼四郎 at 19:55 | 歴史 | この記事のURL
2016年02月09日
☆GINZA 通りではない、GONZA 通り 
gonza st 1 1454677723979.jpg
undefined


gonza st 2 1454677898274.jpg
undefined


gonza st 3 1454677981641.jpg
undefined


gonza st 4 1454678091074.jpg
undefined


gonza st 5 1454678129975.jpg
undefined


gonza st 6 1454678245129.jpg
undefined


gonza st 7 1454678296747.jpg
undefined


SN3C0122.JPG
undefined


SN3C0124.JPG
undefined



GONZA 通りは鹿児島市天文館の東千石町と

中町の境目にある通りです。

ゴンザは18世紀にロシアに連れ去られましたが、

その非凡な語学の才能で、ロシア語と薩摩言葉

の辞書を20歳そこそこで作り上げた天才です。

この通りをゴンザに因んでGONZA 通りと名付け

たと掲示されています。

この通りには過日いろんな体験をしたお店がたくさん

あって、たいへん思い入れのある通りです。

まず、このGONZA 通り由来を記した掲示板のある

建物には、1970年代にその2FにALTECというジャズ

喫茶がありました。初めて出会ったジャズ喫茶でした。

よく平凡パンチを読みながらジャズを聴いていました。

また、浜田ビルの1Fには、鹿児島でのロック喫茶の

草分けとでもいうべきCORONETがありました。

1971年の4月にオープンして2008年まで37年間も

営業し、若者たちのメッカともなっていました。

またそのビルの2F奥にはCORONETが経営する

RIVERSIDEというジャズ喫茶もありました。

2Fの手前には、みそラーメンのおいしいマリモが

ありました。10年以上前に大口に移転していきました。

かつて東京食堂のあったところには、以前は蓬莱飯店

という中華料理屋さんがあって何十年も営業を続けて

いました。そこの娘さんがすごく美人で、個人的に

勝手に中町小町と名付けていました。

今、adidasのあるところには、かつては餃子とラーメンの

おいしい天津軒がありました。

また、CORONETのあったところは、かつてピーター

池畑慎之介氏のお母さんが淀川という割烹を営んで

おられたらしいです。

GONZA通りは、ジャズとロックに入り浸っていた青春

時代の忘れられないたいせつな思い出の場所です。


Подмосковные Вечера(モスクワ郊外の夕べ)
https://www.youtube.com/watch?v=KairmsARpyo


……………………………………………………

GONZA     〜ゴンザ通り由来記〜

ゴンザとは船乗りの息子、1728年藩命により大阪向け出港

したが、約半年後にカムチャッカに漂着、父を含む15人が殺された。

11歳のゴンザと35歳のソウザのみ助かり、2年間の奴隷と3年間の

シベリア横断の末、女帝の謁見に対し、ロシア語で答えるゴンザの

才能を見込まれ、日本語学校の先生に任命された。

ソウザ没後、12000語の薩摩弁を6冊の辞典にまとめ、21歳で没

した。その業績は天才的と各国の学者から絶賛されている。

昔この通りは市内で最初に栄えた所で御着屋という迎賓館があり

僧俊寛もこの付近から出港したという。ゴンザ達も大阪見物の晴着

などをこの通りで買い揃えたと推定される。


この由来から世界に誇るべきゴンザの業績を永く後世に残したく

「ゴンザ通り」と改称いたしました。


……………………………………………………


Posted by 隼四郎 at 14:21 | 歴史 | この記事のURL
2016年01月19日
☆鹿児島市 長田町 城ヶ谷
jogadani 1 1451992140655.jpg
undefined


jogadani 2 1451992160928.jpg
undefined


jogadani 3 1451992174766.jpg
undefined


jogadani 4 1451992494869.jpg
undefined


jogadani 5 1451992222368.jpg
undefined


jogadani 6 1451992236198.jpg
undefined


jogadani 7 1451992248483.jpg
undefined


jogadani 8 1451992286724.jpg
undefined


jogadani 9 1451992298173.jpg
undefined


jogadani 11 1451992367162.jpg
undefined


jogadani 13 1451992395928.jpg
undefined

城ヶ谷は城山への登山道の一つです。

西郷さん最期の地である岩崎谷の一つ裏側にありますので、

あまり目立たない登山道ですね。

城ヶ谷に昇る手前には、横山安武・森有礼成育

の地があります。

また、城ヶ谷の横道を上がって行くと、椋鳩十

先生が晩年住んでおられた旧宅があります。

さらに城ヶ谷をまっすぐ登って行くと、五代友厚の

誕生地に遭遇します。

今、NHK朝ドラの「あさが来た」で、ディーン・

フジオカが演じているあの五代友厚です。

あ、五代友厚は城ヶ谷で生まれたのかと気づかされ

ました。

五代友厚の銅像は今は、鹿児島市の泉公園に建って

いますが、長らく長田陸橋の上にありました。

小学校中学校の校庭からいつも見えていました。

誕生地に近いということもあったのでしょうね。

また、今は、昇りつめたところには個人の住宅が

あって、城山の頂上に行くには、城山団地

に迂回する必要があります。

たまたま出会った人によると、細い道があって

頂上にいけないことはないということでした。

城ヶ谷はあんまり陽の当らないひっそりとした谷地

ですが、閑静な住宅地です。

一回りしてきたら、なんだか物凄く懐かしいような

気持ちにさせられました。

古い鹿児島の気風が残っているのではないでしょうか。

My favorite place の一つとなりました。


以下は掲示板の内容です。

…………………………………………

◇椋鳩十旧宅案内

児童文学作家・椋鳩十(本名・久保田彦穂)は、

1952(昭和27)年から1987(昭和62)年までの35年間、

82歳の生涯を閉じるまでここ長田町の住居で過ごし

ました。

 人間と動物との関わりを描き続けた椋は、日本児童

文学において動物文学の第一人者としての地位を築き

ました。

 加治木高等女学校教師から県立図書館長に就任し、

長田町へ移り住んだ椋は、作家として創作意欲あふれる

もっとも充実した時期をこの地で送りました。

 「孤島の野犬」「マヤの一生」「モモちゃんとあかね」

など多数の作品が、桜島を眺められる2階の書斎から

生まれています。

 なお、鹿児島文学館の中に、「椋鳩十コーナー」を

設置しています。

…………………………………………

◇五代友厚誕生地(1835〜1885)

五代友厚は天保6年(1835年)ここ城ヶ谷に生まれ、早く

から世界に目を向け慶応元年(1865年)19名の留学生を

率いてイギリス・ヨーロッパに渡り、翌年、磯の紡績機

や蒸気船等を購入して帰国。明治維新では、西郷、大久保

らと共に活躍し、新政府の参与等を勤めました。

 明治11年(1878年)には、株式取引所の創設や大阪商法

取引所を設立し自ら会頭になるなど、大阪の商工業の発展に
大きく寄与しました。

…………………………………………



Posted by 隼四郎 at 21:54 | 歴史 | この記事のURL
2015年12月31日
☆島津義弘公初陣の地 岩剣(いわつるぎ)城
iwatsurugi castle1 20150102 1420508199486.jpg
undefined


Iwatsurugi castle2 20150102 1420508214856.jpg
undefined


Iwatsurugi castle3 20150102 1420508224453.jpg
undefined


Iwatsurugi castle4 20150102 1420508276067.jpg
undefined


Iwatsurugi castle5 20150102 1420508290439.jpg
undefined


Iwatsurugi castle6 20150102 1420508311420.jpg
undefined


Iwatsurugi castle7 20150102 1420508344243.jpg
undefined


鹿児島県姶良市の重富小学校近くにある

岩剣城は島津家17代当主である島津義弘公

の初陣の地です。

その麓には岩剣神社があります。

今年の正月1月2日に、知人の誘いで昇りました。

約20分で頂上まで辿りつきましたが、

結構険しい山道で、とてもきつく感じられました。

頂上からの眺望は素晴らしく、姶良市一帯と錦江湾

それに国分の城山まで見渡せました。

ガイドしてくれた方が「あれが船津温泉だよ」と指し

示してくれましたが、船津という地名のとおり過日は

そこまで海だったわけで、今は随分内陸で、かなり埋め

立てられてきた歴史が感じられました。

また、丁度今年放映されていたNHK大河ドラマの「花燃ゆ」

でしばしば映されていた萩の風景にもよく似ていました。

あんな険しい山道で、昔の人はよく戦っていたのだなあと

感慨深く思われました。

島津義弘公の初陣の地に赴いて行けたことが

本当に貴重な体験となりました。

以下は掲示板の内容です。

…………………………………………

◇岩剣城跡

岩剣城は戦国時代の代表的な山城です。

蒲生方によって享禄二年(1529)頃に

築城されました。

天文二三年(1554)には島津氏との間で

激しい戦いが行われ、この一帯が主戦場

となり、初めて鉄砲が使用されたと言われて

います。その後、島津義弘が山麓の平松に

居館を築いて、三年間城番を勤めました。

岩剣城は標高約225メートルの山頂部に

築かれた要害の地です。現在でも曲輪(くるわ)

や土塁、空堀が残っています。

◇岩剣神社

当社の創建ははっきりしませんが、天文十一年

(1542)の検札には「大旦那平重嗣、地頭重清」

と記されていた旨の記録があります。祭神は

大己貴命(おおなむちのみこ)。

社伝によれば、「天文二十三年、島津貴久が

渋谷一族を岩剣城に攻めた時、十月二日、

田布施金峰山の座主園田某が密かに岩剣神社の

御神体を白銀坂の陣営に勧請しました。

貴久はこの戦いに勝利を収めたならば、毎年

例祭日に神舞を奉納しようと願いを立てたところ、

その夜のうちに渋谷勢は逃れ去ったので、翌日

貴久は城に入ることができ、岩剣の本社へ御神体を

返しました。」とあります。島津義弘は平松在城の頃、

しばしば参詣し、神舞を奉納しています。



Posted by 隼四郎 at 19:47 | 歴史 | この記事のURL
2015年09月22日
☆城山ドン広場
don park 2 1441605739978.jpg
undefined


don park 3 1441605754280.jpg
undefined


don park 5 1441605824609.jpg
undefined


undefined
undefined
don park 8 1442314369843.jpg
undefined



鹿児島市街を見下ろす城山の頂上付近にある

広場です。

第一展望台に上る前の駐車場の奥にある土産物店

モールの石段を上ったところにあります。

「ドン」とは明治30年以来、正午の時報がわり

に撃たれた空砲の音のことだそうです。

ドンが撃たれたことから、「城山ドン広場」と呼

ばれました。

昭和30年代に、城山の第一展望台にあるお店に

実に西郷さんに似ておられた方が住んでいらっし

ゃいました。

鹿児島市立名山小学校の全校生徒を前に、その

ドン広場で、その木原龍太郎さんが、西南戦争の

お話をして下さいました。

その広場が、西南戦争当時、薩軍の本営地である

ことも説明して下さったはずなんですが、子ども

心には、何が何だかわからずに、西南戦争はどこ

か遠くのことだろうくらいの認識しかありません

でした。

今、振り返ると、薩軍の本営地跡で西南戦争の話

を聞くというのは、心が震えるくらい凄い体験で

した。

50年経って、その価値が理解できました。

木原さんから直接お話しを聞いたというのは、本

当に貴重な体験で、人生の宝物です。


薩南哀歌 西郷輝彦
https://www.youtube.com/watch?v=c-FbcM9x4Xo


…………………………………………

城山ドン広場

お昼だ「ドーン!」

—城山に舞い散る紙吹雪—

「ドンが鳴った、ヒィ(昼)がなった、メス(飯)食ぶ
ろ」と大正時代を鹿児島で生きた人は囃すそうです。

「ドン」とは明治30年以来、正午の時報がわりに
撃たれた空砲の音のこと。

当時は市役所の職員が、時計とにらめっこをしながら
、正午キッカリ点火、その瞬間「ドーン」という轟音

とともに、紙の弾が破裂、あたり一面に紙吹雪が舞い

散りました。

ドンが撃たれたことから「城山ドン広場」と呼ばれま

した。

この一帯は、島津氏入府以前の豪族、上山氏の城(砦)

のあった場所で、周辺の土塁が、今もその名残をとど

めています。

さて午砲ドンは、昭和12年、市役所のサイレン時報

にその役目を奪われましたが、終戦後「サイレンを聞

く度に、空襲警報を思い出してゾッとする。やめてほ

しい」という声が相次ぎ、サイレン時報の中止が決ま

ると、今度はお午にドンの復活を望む声が殺到したと

いうことです。

…………………………………………


Posted by 隼四郎 at 20:18 | 歴史 | この記事のURL
2015年03月24日
☆桜田門外の変に参加した有村兄弟誕生の地
arimura brother's birth place 1427116862901.jpg
undefined


arimua bros. guide board 1427116853733.jpg
undefined



この3月24日で桜田門外の変から155年になります。

鹿児島市高麗町に、桜田門外の変に参加した有村兄弟誕生の碑があります。

以下、パネルの内容をご紹介します。

……………………

有村雄助(1833年〜1860年)  有村次左衛門(1838年〜1860年)

安政時代、幕府の大老井伊直弼の弾圧で、多くの者が処刑される安政の大獄
がありました。それに対して、水戸藩の有志と結んで、井伊大老の襲撃に参加
したのが、雄助と次左衛門の兄弟です。

 万延元(1860)年3月3日の桜田門外の変で、井伊大老を一番先に切り込んで

いったのが次左衛門でした。また、雄助は決行には加わらず、計画の成功を京都

へ報告に向いましたが、途中で捕らえられてしまいました。この事件により、二

人は28歳(雄助)23歳(次左衛門)の若さで自害しました。

 次左衛門は千葉周作に剣を学んだことでも有名です。

……………………

次はWikipediaからの紹介です。
……………………
桜田門外の変(さくらだもんがいのへん、正字体:櫻田門外の變、正仮名遣:さくらだもんぐわいのへん)は、安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩浪士17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老・井伊直弼を暗殺した事件。この襲撃者らを「(桜田)十八烈士」[2]とも呼ぶ。またこの事件自体を「桜田事変」[3]や、「桜田義挙」[4]とも呼ぶ。
……………………

今、放映中のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」でも、桜田門外の変が必ず出てくると思います。

また、歴史研究会の方から聞いたところによると、有村家の子孫の女性が後日、井伊家に

嫁に行ったそうです。仇同士であったはずなのに、どうしてそんなことが可能だったのか、

歴史にはまさに奇奇怪怪な面もあるということでしょう。







Posted by 隼四郎 at 10:38 | 歴史 | この記事のURL
2014年12月30日
☆鹿児島市制施行125周年…起点はレトロな建物
SN3C0219.JPG
undefined


SN3C0220.JPG
undefined


SN3C0221.JPG



今年は、鹿児島市制施行125周年にあたります。

そこで、最初に鹿児島市の仮事務所として使用された建物を紹介

したいと思います。

その建物は鹿児島市山下町にあります。

鹿児島県立博物館の後ろの敷地、照国神社の前方にあります。

長い歴史がありますが、現在は玄関は封鎖されて使用されていません。

50年前までは鹿児島県立博物館として使われており、自分も何度か

見学に行った思い出があります。

それだけの由緒ある建物であれば、ただ荒れるにまかせておくのはあまりにも

勿体ないと思います。

クラシックでレトロなデザインも物凄く魅力的です。

史と景で県外にアピールしている観光立県としての鹿児島県であれば、こういう

二度と建築できない貴重な歴史的遺産は活かしておくべきではないでしょうか。

ぜひ、この建物が再び生かされますように切に願いたいと思います。

以下に、案内版の内容を紹介しておきます。


……………………

建物の由来

明治16年9月 県立興業館として建設された。壁や床は本県産の石材

(溶結ギョーカイ岩)を用い、イギリス人かあるいはフランス技師の設計

によったものといわれている。本願寺の大谷氏より1万5千円の建設

資金寄付を受けた。


明治22年4月 鹿児島市制の施行と同時に、市役所の仮事務所となり、

明治25年4月現在の市立美術館(旧市役所)が竣工するまで使用された。


明治27年7月 県物産陳列場と改称 委託販売も取り扱った。


大正10年4月 鹿児島商品陳列所と改称された。


昭和7年4月 県商工奨励館と改称された。


昭和20年6月 戦災のため内部は焼失し、石造部分のみ残った。


昭和26年11月 工費250万円で博物館として再建された。


昭和28年3月 県立図書館の郷土博物資料をこの建物に移し鹿児島

県立博物館として発足した。


昭和56年1月 新館整備に伴って県立博物館考古資料館として使用する

こととなった。


鹿児島県立博物館

……………………






Posted by 隼四郎 at 15:01 | 歴史 | この記事のURL
2014年12月25日
☆今年で200年目です。集仙台…鹿児島市仙巌園
information panel syusendai 20141217 1418824975425.jpg

observation platform syusendai 20141217 1418825122306.jpg

view from syusendai 20141217 1418827636801.jpg

viewing sakurajima from syusendai 20141217 1418827656609.jpg

letter monument senjingan 20141217 1418826190334.jpg


集仙台は鹿児島市仙巌園の中にある展望台です。

磯山公園とは別にある展望台です。

意外と知られていないようです。

自分も今年初めて知りました。

そして先週登ってみました。

お昼過ぎでしたが、寒くて雨模様のため、

自分以外には誰もいませんでした。

展望台の案内版には次のように書かれています。

……………………

集仙台

文化11年(1814)、27代島津斉興は25代

島津重豪の願いをうけて、この地に展望所を築きました。

ここからの眺めは絶景で、晴れた日には南は開聞岳、

東には大隅半島の福山まで一望できたとされており、

島津家の当主も、ここに登ると俗念を忘れるほどであった

といわれています。観水舎が「下の茶屋」と呼ばれたのに

対し、ここ集仙台は「上の茶屋」とも呼ばれていました。

……………………

築かれたのが1814年ですから、今年でちょうど200年に

なりますね。

帰りに仙巌園入口でガイドの方に200年目のことを言ったら、

岩肌に掘られた巨大な「千尋巌」の文字も同じ年に掘られたそうです。

3,900人動員して3か月で完成させたそうです。

かつて磯山へ昇るロープウェーの中からいつも眺めていましたね。

巨大な文字を岩肌に掘るのは中国文化の影響でもあると説明を

受けました。

200年目にはなるけれど、特別にアニバーサリー的なイベントはしません

でしたということでした。

でも、自分がたまたま今年行ってみて、200年目ということに気づいて

認識できたのは、本当にラッキーだったなと思いました。

また中腹の観水舎からは磯山の中腹を流れ落ちる滝を眺められるし、

別のポイントには稲荷川上流、吉野大地の川上から引いてきた水の疎水溝もあり、

歴史探索のいい体験が出来ますので、一度は行かれたらいいと思います。

でも坂もかなりきついのでそれなりの心積りが必要でしょう。

けっこう足腰にこたえましたね。

さらに、ガイドの方が「イノシシとは会いませんでしたか?」

と聞かれたので、驚きました。

いやー、本当に会わなくてよかったと胸をなでおろしました。



★2014年の旨さがあります。待ちに待った焼酎の新酒の季節がやってきました。この秋に収穫されたばかりの南薩摩産「黄金千貫」で仕込んだ出来たての本格芋焼酎「桜島年号焼酎」。★


Posted by 隼四郎 at 11:09 | 歴史 | この記事のURL
2014年12月08日
☆海ゆかば…軍神横山正治少佐顕彰の碑
umiyukaba 1_20141207_111346.jpg

umiyukaba 2_20141207_111415.jpg

profile_20141207_111451.jpg

poem 1_20141207_111606.jpg

monument 1_20141207_111725.jpg


今日は2014年12月8日です。

1941年12月8日、日本海軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、

開戦しました。

横山正治少佐は、その時、特殊潜航艇で作戦に参加しました。

戦死されましたが、軍神として、翌年映画が製作されました。

東映の「海軍」です。

また、戦後も再び松竹映画で製作されました。

また、三年ほど前、NHKテレビで、横山少佐の潜航艇が真珠湾の海底

で発見されたと報道され、海底に沈んでいる様子が映し出されました。

「海ゆかば」の碑は、鹿児島市の天保山公園の奥に建てられています。

少佐のプロフィール、少佐に捧げる詩、十一勇士鎮魂の碑文を以下に

紹介します。

……………………

昭和十六年十二月八日 あゝ壮烈!!
眞珠湾の華と散る

横山正治海軍少佐
片親なるも極めて明朗にして薩摩の
気風に満々た淡白なる性格にて而も
責任感強く事に当る士であった。人
格円満微笑ましき人物で到る処で持
てはやされたるも意に介せず高き自
己の職務に対し邁進し面目躍如たり
大正八年十一月十八日生 鹿児島市
下荒田町に出生
鹿児島市第二中学校卒業
昭和十一年四月一日 海軍兵学校入学
(六七期生)
昭和十六年十月十五日 任海軍中尉


……………………

横山正治少佐の霊に捧げる

黎明の中に微睡(まどろ)む大隅の連山
遥かなり北東を望めば
雲海に聳立つ高千穂の霊峰
瞳を転じて南西を指差せば
白扇を逆さにしたるが如し薩摩富士
暁の陽光、櫻島の頂を深紅に染め
山際より燦々と降り注ぐ光茫に
紫紺の海面華麗なり波渚に戯れ
色調燦爛として岩礁に踊る
城山の端に朧なり有明の月
濃紺の山頂にけたたまし明烏の一声
大西郷の精神を心の要とし
櫻島の息吹の中に
育成されし薩州健児
日本悠遠栄光の為、盡忠報国
歓喜の中に護国の鬼とならん
生を受けて艱難辛苦十幾星霜
時は昭和十六年十二月八日
怒涛逆巻く大洋の彼方
千里の波頭を乗り越え
真珠湾に遊弋する米艦艇に
一身一艇巨弾に転じ微塵となる
横山少佐の壮絶無比の闘魂
一億日本国民の肝胆を震撼す
身は千尋の海底に藻屑たるも
櫻吹雪の如く散りて尊し
其の勲功永遠に称えん
身を鴻毛の軽きに置き
国恩に報いる心底
薩摩隼人の権化たり
国破れても櫻岳昔日の如く
何故に怒るぞ噴煙今尚激し
日本人の心、頽廃の色濃く
日本列島、将に荒廃寸前にあり
塵埃の如く忘却されし少佐の幽魂
何を訴え、何を語るや
自己の一切を放擲し無我
国家安泰の為、国難に殉ず
日月流水の如し三十有余年
顧みる人も今は全くなし
少佐の心に何をもって償わん
魂魄櫻島の直中にあり
万代不易、悠久日本の
行手に燦然たり

昭和五十年十二月八日

作詞 大迫 亘


……………………


海ゆかば十一勇士鎮魂之碑

海軍中佐   岩佐直治

 群馬県前橋市天川原

海軍少佐   横山正治

 鹿児島県鹿児島市下荒田町

海軍少佐   古野繁實

 福岡県遠賀村虫生

海軍大尉   廣尾彰

 佐賀県三養基郡旭村

海軍特務少尉 佐々木直吉

 島根県那珂郡上府村

海軍特務少尉 横山薫範

 鳥取県東伯郡古布庄村

海軍兵曹長  稲垣清

三重県一志郡川合村

海軍兵曹長  上田定

 廣島県山県郡川迫村

海軍兵曹長  片山義雄

 岡山県赤磐郡五城村


シドニー湾攻撃

海軍中佐   中馬兼皿

 鹿児島県薩摩郡上東郷村

海軍少佐   松尾敬宇

 熊本県山鹿市大字谷原


……………………

以上です。

Posted by 隼四郎 at 21:35 | 歴史 | この記事のURL

×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。

Build a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: