湯村温泉 夢千代日記 吉永小百合
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隼四郎
一度都会に出てみると地元のことが気になってくるものです。 そういう自分の体験から、鹿児島を散策しながら「あっとらんだむ」にいろんなことをお伝えできればいいなと思っています。 どうぞお気軽におつきあいください。
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2014年05月18日
☆比志島城趾
中世の山城跡です。
鹿児島市皆与志町の比志島城趾の本丸あたりだということです。
今は見事な竹林になっています。
どのような氏族が治めていたのか、歴史的背景はまだ確認しておりません。
今後、また興味深い史実が明らかになってくると思います。
Posted by
隼四郎
at 18:56 |
歴史
|
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2014年05月16日
☆忠犬ハチ公の…
忠犬ハチ公の初代を創作したのは、彫刻家 安藤照氏です。
以下は誕生地にある表示文です。
…………………………………………………………………
安藤照 誕生地
彫刻家安藤照は、1892年(明治25年)現在のここ鹿児島市立病院の北東の一角で生まれました。東京美術学校在学中に、帝国美術院展覧会(帝展)に入選したのをはじめ、その後、『流れ』『芽生え』『踊りの構図』『大空へ』が、次々に特選になり、『大空へ』は、第一回帝国美術院賞を受けました。のちに帝展委員・審査委員となり、彫刻の本質的な造形性、特に量感の表現を主張し、1929年(昭和4年)塊人社を結成。代表作に、西郷銅像や忠犬ハチ公銅像があります。
…………………………………………………………………
また、以下ウィキペディアからの引用です。
…………………………………………………………………
安藤照
本名 安藤照
生誕 1892年(明治25年)
鹿児島県鹿児島市新屋敷通町
死去 1945年(昭和20年)5月25日(満54歳没)
東京都
国籍 日本
分野 彫刻
最終学歴 東京美術学校
代表作
西郷隆盛像(鹿児島市)
忠犬ハチ公像(初代、東京都)
受賞
帝国美術院賞
安藤 照(あんどう てる、明治25年(1892年) - 昭和20年(1945年)5月25日)は、日本の彫刻家(彫塑)である。
来歴
1892年(明治25年)、鹿児島市新屋敷通町(現在、鹿児島市立病院敷地の一角に誕生碑がある)。明治40年(1907年)に旧制県立川辺中へ入学するが、まもなく旧制県立二中へ転校。二中を8年かけて卒業し、東京美術学校へ入学。美術学校時代に帝展入選を果たしているが、卒業後も第3、5、6回帝展にて特選を受賞、大正15年(1926年)の第7回帝展では特選に加えて帝国美術院賞を受賞した。翌昭和2年(1927年)には帝展審査員に就任。彫刻の本質的な造形性、中でも量感の表現を唱えた。昭和4年(1929年)、塊人社を結成。1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍による東京大空襲の犠牲となって死亡した。享年54。
代表作
西郷隆盛像(鹿児島市)
西郷隆盛像
昭和3年(1928年)に東郷平八郎より依頼を受けてから、西郷の体格や外見の研究に1年を費やし、さらに国内の古美術や銅像見学に1年かけ、加えて銅像研究のため欧州へ渡った。帰国後7年を経て安藤は「身長5尺9寸、体重29貫、襟首19インチ、肥満であったが、肉つきは引き締まっており、相撲のため耳だこがあり、首は短く肩が小山のごとく盛り上がっている」との結論に至った。安藤が思い描いた構図は、故山の大地を、市民と同じ足で踏みしめ、胸を張って桜島と向き合う巨人だった。
かくして銅像は昭和12年(1937年)に完成した。また、土台製作の為に小根占(鹿児島県肝属郡南大隅町)より大小合わせて150有余の花崗岩を運ばせて、背景に城山と有機的に調和する小山を築き、造園した。西郷銅像について、安藤は『大西郷と銅像』(改造第十九巻九号、1937年)にて、次のように記述している。
「襟は十九インチ、身長は五尺九寸余、体重は二十九貫と云うので胴回りなどの研究を進めることもできた。翁の令孫隆治氏は柔道剣道の達人で相当偉大な体躯の持主であるが、この大将服を着用せられてなお二貫余の綿を入れなければならなかった。また私共が、二人も一しょに入れるような胴回りである」(文中に登場の西郷隆治は、二中において安藤(8回卒)の3年後輩(11回卒)で、卒業後は二中で柔道師範を務めた人物)作家の海音寺潮五郎は、著書『西郷隆盛』にて次のように述べている。
「これはぼくだけの見当だが、安藤は西郷の孫にあたる西郷隆治さんをモデルにし、それを彼の主観でアレンジして造形したのではないかと思っている。安藤は鹿児島二中の出身であるが、隆治さんも二中の出身だ。大体同じころに在学している見当でもある。隆治さんは西郷が奄美大島る流謫中にめとった島の娘アイカナの産んだ菊次郎の子で、西郷に最もよく似ているといわれている人である。(中略)ともあれ、安藤のつくった銅像は隆治さんによく似ている」
2008年(平成20年)12月30日の南日本新聞記事によると、西郷のモデルは、元・山形県議の男性であることが判明。安藤のアトリエで撮影された、銅像のひな型や肖像画などが写り込んだモノクロ写真が、男性の遺族宅で発見されたという。遺族は「(祖父の)目は隆治さんに似ていると思う」とも述べている。
忠犬ハチ公像(初代、東京都)
1932年に日本犬保存会の斎藤弘吉の寄稿から「忠犬ハチ公」が広く知られるようになったが、安藤は斉藤とかねてから知己であったことから是非ともハチ公の像を作りたいとの意を伝え、保存会からの依頼という形でハチ公像を作成した。当時ハチの飼い主となっていた小林菊三郎は代々木富ヶ谷に居住し、安藤のアトリエも初台にあったことから、小林がモデルとなるハチを連れて自宅から日参したという。
ハチ公像は1934年(昭和9年)4月21日に設置され、銅像の除幕式にはハチ自身(ハチは像完成の翌1935年3月に死亡)と300人もの著名人が参加した。この時完成した像は大東亜戦争の金属供出として1944年に撤去され、敗戦前日の1945年8月14日溶解されて機関車の部品の材料に充てられた。現在渋谷駅に立つ像は、原材料の銅不足のなか、銅像「大空に」を溶かして、息子・士の手によって1948年に完成したものである。
…………………………………………………………………
今月の25日は命日になります。
まだ道半ばで亡くなられたので、たいへん残念な思いがします。
でも、西郷さんの銅像と忠犬ハチ公の銅像というたいへん象徴的な像を創作されたことは、後世まで語り継がれると思います。
Posted by
隼四郎
at 21:46 |
歴史
|
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2014年05月13日
☆満月ですね。
今日は、旧暦で4月15日です。
日中はたいへん暑かったですが、夕方には心地よい涼しい風が吹いていました。
コンビニから出て、たまたま空を見上げたら見事な満月が上がっていました。
たそがれの 風に吹かれて 見上げれば
薄青の空 光る満月
Posted by
隼四郎
at 22:15 |
自然
|
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2014年05月09日
☆ふっくらモチモチの熱々をどうぞ!
新発売のマックチュロスです。
マクドナルド 鹿児島市易居町店で初めて食べてみました。
いわば、シュガーレスのドーナツといった印象ですが、外はパリッとして、中はふっくらモチモチとした食感でとても美味しかったです。
ソースは、シナモンシュガーか、メープルシロップのどちらかを選べます。
今日はシナモンシュガーにしました。香りがとても魅力的ですね。
ドリンクはカフェラテのSサイズで、ホットかアイスを選べます。
今日はホットカフェラテでいただきました。
セットで299円でした。
しばしの素敵なティータイムでした。
Posted by
隼四郎
at 14:55 |
グルメ
|
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2014年05月03日
☆幻の茶々まん寿う
昨日は八十八夜でした。
茶処、鹿児島市松元町に行ってきました。
松元駅前にある久古屋の「幻の茶々まん寿う」を買いました。
お茶の味と香りがたいへん素晴らしくて病みつきになりました。
帰りに松元町の春山の茶畑に立ち寄りました。
見渡す限りの茶畑が広がっていて気分爽快でした。
風車が林立していますが、霜除けだそうです。
高校時代は、秋になると全校生徒参加で、伊集院の徳重神社まで20kmの妙円寺遠行がありましたが、その際に
松元町の茶畑の中を通っていった思い出があります。
♪茶摘み
http://www.youtube.com/watch?v=S0kGEs3ph0s&feature=youtube_gdata_player
Posted by
隼四郎
at 23:54 |
グルメ
|
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2014年05月02日
☆♪妻をめとらば才たけて…
鹿児島市 山下町の名山小学校です。
前身は市尋校と呼ばれていたそうです。
現在の敷地は、戦前には鹿児島県立第二高等女学校がありました。
また、あの与謝野鉄幹が1880年(明治13年)から翌年まで、名山小学校に在籍していました。
昭和7年に市尋校の創立40周年を祝して、歌を詠んでいます。
なつかしき 名山小学
我が道を 知り得しことも
此処に 本(もと)づく
与謝野鉄幹
♪人を恋うる歌 与謝野鉄幹作詞 作曲者 不詳
http://m.youtube.com/watch?autoplay=1&v=iZawJIPucBY
Posted by
隼四郎
at 03:46 |
歴史
|
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2014年05月01日
☆薩摩藩財政改革の立役者
調所広郷は、まさに薩摩藩財政改革の立役者です。
鹿児島市天保山(てんぽざん)の松林の中に、その銅像が建てられています。
なぜ、天保山に建てられたのかと疑問に思っていましたが、調所広郷が天保山を造成したということで納得出来ました。
以下、その碑文の内容を紹介します。
(碑文)…………………………………………………………………
調所広郷の像
(通称 笑左衛門)
幕末に近い文政十年(1817年)薩摩藩の借金は、五百万両の巨額に達していた。
当時の藩の年収総額十数万両は、借金金利に遠く及ばず、正に破産の危うきにあった。
時の島津重豪公は、究極の策として一介の茶坊主上がりの調所広郷を家老に抜擢、藩財政改革を厳命した。
広郷はその期待に応え巨額の負債を解決し、あまつさえ五十万両の蓄えさえ残した。
更に藩政の興隆を図り、数々の土木工事を行った。平成五年八・六災害で惜しくも決潰あるいは撤去されたが、広く県民に親しまれた西田橋等五石橋も、天保山の造成も全てずの発案である。
改革は藩内に留まらず、広く海外交易にも力を注ぎ、琉球を通した中国貿易の拡大や、北海道に至る国内各地との物流の交易をはかって、藩財政の改革の実を挙げたのは、この調所広郷である。
だが歴史は時の為政者によって作られる。調所広郷は幕府に呼ばれ密貿易の罪を負い自害に追込まれ、今も汚名のままである。
しかし、斉彬公の行った集成館事業をはじめとする殖産興業、富国強兵策、軍備の改革の資金も、明治維新の檜舞台での西郷大久保の活躍も全て調所の命を賭け、心血を注いだ財政改革の成功があったからだと思う。
此処に調所の銅像を建立し、偉業を後世に遺ることを願う。
…………………………………………………………………
本当に調所広郷がいなかったら、薩摩からは明治維新を起こすことは出来なかったのでしょう。たいへんなピンチにウルトラCを演じてくれた功労者だと思います。歴史的な意義は計り知れないでしょう。
でも、借金を250年での延べ払いにするとかかなり強引な策を講じたり、奄美群島ではさとうきびだけのモノカルチャーを強いられ、貨幣流通を禁じられ、たいへんな犠牲もあったことも事実ですね。
また、調所広郷を題材にした「薩摩燃ゆ」を執筆された直木賞作家の安部龍太郎氏は、この本を上梓するまでは調所広郷のご子孫には知らせなかったそうです。
そして出版後、子孫の方にお知らせしたところ、一族以外には知るはずも無いことが書かれていたとたいへん驚かれたそうです。
昨年8月、鹿児島県立図書館で講演をされた時に言っておられました。
作家は、執筆する際には霊感やインスピレーションを得ることがあるのだろうと感銘しました。
Posted by
隼四郎
at 16:46 |
歴史
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