「人間の一生」という大事業、お疲れさまでした。
・・・というわけで、今日も皆さんのご機嫌を伺いに参りました。
そうです、小説家のともなりたかひろです。
今日は、前回のように打算(自分の利益)に走ることなく、「 死後の世界はあるのか?」という真面目な疑問について、真面目に考えてみたいと思います。
その前に、大前提として、「死」とはなんなのか? という問題をちょちょっと片付けてみたい、と思います。
みなさんは、「生があるから死がある」、あるいは、「死があるから生がある」、つまり、「生の結果」=「死」、と思っているのではないでしょうか。
しかし、「生」と「死」の問題を、そのひとの「内面」(精神)と「外面」(肉体)に区別して考えると、どうもそうではなさそうです。
少し、考えてみてください。
そのひとの「人生の価値」(内面)の結果は、「死体」という無関係な「外面」となってあらわれます。
つまり、 「死」と「死体になる」ということは同一の事実ではない、ということが言えるわけです。
例えば、仮に「自殺したい」と思っている人がいるとしましょう。
けれども、 それは「死にたかった」だけであって、「死体になりたかった」ということではなかったはず です。
これが「死」の本質です。
では、次に本題の「 死後の世界はあるのか?」という問題について、面倒くさいですが、そして、読者の皆さんも面倒くさいでしょうけれど、少し語ってみたいと思います。
結論から言いましょう。
「死後の世界」はあるともないとも言えない。
それが人間の出せる回答の「限界」でしょう。
そして「 死後の世界」について考えることは、 「この世界」を超えてあるもの=「神」はいるのか、ということを考えることと同義です。
これについては、柄谷行人さんの著書『探求?U』の中で、最も上手い回答を考案しております。
それを要約いたしますと、 「この世界」を超えてあるもの(神)はなく、「この世界」が「在る」こと自体が「神」である 、と言っています。
つまり、 「神」は「この世界」そのもの(内在的)である 、ということです。
これを、スピノザという哲学者の「決定論」と言います。
しかし、宗教では、「この世界」を超越するような、さまざまな「人格神」(ヤハウェなど)を想像してしまいがちです。
ですが、その想像も、「この世界」に生きている人間の妄想、という意味では、やはり、「この世界」の中に回収されることになり、「この世界」を超越している、とは言えないわけです。
こう考えると、「死後の世界」など、ありそうもありません。
しかし、宗教の世界では、「死後の世界」はあるよ、「神」(人格神)はいるよ、と言わなければいけません。
言うまでもなく、「商売」にならないからです。
ここで、このブログお約束の関連話カットインです。
韓国映画に『シークレットサンシャイン』というのがあります。
あの映画のテーマは「宗教」でしたが、ことに素晴らしいのは、「宗教が持つ矛盾」の核心をついた、という点です。
「宗教の持つ矛盾」——。
それはずばり、 善人も悪人も平等に救ってしまう、という点です。
言い換えると、それが「宗教」の限界であるといえるわけです。
——などと、今日は、どうも湿っぽい話になってしまいました。
なので最後は、明るい・ノー天気な曲を紹介して終りたいと思います。
以下、ゴールデンボンバーの新曲です。
死 ん だ 妻 に 似 て い る [鬼龍院 翔 歌唱] [ボディースメルフレグランス(体臭付きカード)+CD]
この曲でもきいて、死の悲しみを吹き飛ばしましょう。
追記。
明るい・ノー天気といえば、もうすぐ「夏」がきますね。
もう、ぶっちゃけます。
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それでは。
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