こんばんはぁ(*'▽')/
さて中々のタイトルですが…この事件に関しては皆様もご存知の通り諸説あります。
知らない人のために簡単におさらいしますと、長らく続いている幕府の体制を終わらせる志を持つ土佐郷士・坂本龍馬が、西へ東へ奔走して薩長同盟を締結させました。やがて龍馬の行動が身を結び薩長が倒幕を果たし大政奉還(幕府の終焉)へと時代は流れます。
ちなみに今の衆議院と参議院の仕組みについても坂本龍馬は考察しており、日本初の株式会社(亀山社中)を設立させたのも坂本龍馬です。
当初は倒幕を目的として薩摩(鹿児島県)の西郷隆盛や大久保利通、長州(山口県)の桂小五郎や高杉晋作などと知り合った坂本龍馬は何度も接見して話し合い、最新の武器を商いとしても大量に仕入れました。
ですが商いで最新の武器を仕入れながら、何気に坂本龍馬は得意先のグラバーと付き合い続けていましたが、ある時グラバーやその背後にいる金融資本家たちの目的を察します。つまり、幕府軍にも明治維新側にも武器を売って稼ぎ、その流れで日本国を牛耳って乗っ取ろうと思っているのでは?という疑心が龍馬に芽生えたのです。
結果論ですが、その龍馬の直感は正解でした。
グラバー本人も立派なフリーメイソンメンバーですし、その背景にはトランプ氏のおかげで有名になったディープステートたちがいます。この度の米国大統領選で陰謀論などではないことを多くの方が悟ったことでしょう。
そこで龍馬は日本国内で今以上戦うことは相手の思う壺であり、このままでは結果的に日本が乗っ取られてしまうという危機感を抱いたに違いありません。
これまで薩長連合を成立させるためとはいえ散々…幕府をディスって自分たちと同じ心意気であると熱弁する龍馬を見込んで、薩摩側も長州側も龍馬の言うことに耳を傾けています。ましてや薩長はお互い共に仲良しムードなど欠片もない間柄だったのです。
もちろん何より龍馬という人物に多くの地元藩士は期待して、龍馬のために何かと労う者や手伝う者も後を絶ちません。また龍馬と共にいた中岡慎太郎は、龍馬と同じ土佐藩の者で武市半平太の元にて剣術を磨き、武市が党首を務める土佐勤皇党に加盟し志士活動を開始します。
少しおさらいが長くなりましたので、ソロソロ確信部分に触れていきますが、そんなこんなで倒幕という大きな目的のために国内の色んな場所で、力のある有権者が次々と立ち上がり天皇を国王とし主権も握ってもらうことを大義名分に、幕府と真っ向から戦う雰囲気が国内に広がりました。
この明治維新革命は、後の日本にとって良くも悪くも多大な影響を与えましたが、何よりも土佐の武市半平太や長州の吉田松陰という偉大な日本人が早い段階で命を落としたのは残念です。
さて大政奉還に至るまで活躍した内の一人である中岡慎太郎は、京都の近江屋に龍馬が滞在していることを聞いたので訪問しました。
そこで両者共々…数時間後に斬られて亡くなりますが、その近江屋での事件で最も有力視されている説は、京都見廻組説、薩摩・長州からの刺客説、龍馬の影武者が斬られた説、紀州藩説、新選組の犯行説など様々ですが、影武者説は龍馬死亡時の前後における周りの証言からも無いでしょう。
一つ一つ言いますと時間が掛かり過ぎるので、ズバリ言いますが龍馬を斬ったのは目の前にいた『中岡慎太郎』です。その理由は下記の通りです。
?@両名が斬り合ったとされる現場は一般素人同士の切り合い後の惨状と同じでした。中岡は武市半平太の剣道場で師範代クラスの腕前であり、龍馬は北辰一刀流の免許皆伝つまり日本一レベルです。その両者が抜刀したとは思えない素人のような痕跡しか遺っていません。要するにこの二人が斬り合ったことを悟られない細工を場に居合わせた者が施したと言えます。その根拠は後に語ります。
?A周りの証言からも既に事件が起こる前から隣の部屋に6人いたはずです。その内の誰かが藤吉君を斬りましたが、これも多くの諸説とは異なり事件が起きた後でしょう。何故か後ほど事件が起こってから土佐藩士の6名が駆け付けたことになっていますが、それほどの短時間で6人もの藩士の居場所を突き止めて呼べるでしょうか?おそらく駆け付けたのは土佐藩の川村という医師だけです。もし各々の藩士を呼んだというのであれば、それは岡本君と思われますが無理があります。
?B上記の数名は、毛利恭助・谷千城・田中光顕・吉井孝輔・白峰駿馬、そして川村医師でしょう。その現場の真横にいた6名は事件後も黙秘を貫きました。しかも近江屋を経営する近江屋の者も当時の一件を最後まで一切語ろうとしなかったそうです。誰かが尋ねてきたことは事実ですが、それはその日に限ったことではありません。そこまで現場にいた人全員が頑なに口を閉ざした理由は龍馬と中岡の斬り合いの他に何があるのでしょうか。
?C土佐藩では大物の両名が死んでいるのに、どちらにも葬儀をせず状況の確認や検分もせず、調書もなかったそうです。中岡が組織した陸援隊も龍馬の組織した海援隊の人たちも腑に落ちず、この件を捜査した組織も特に以降は追及をしなかったのもおかしいと思います。?Bでも少し触れましたが龍馬と中岡の両名が斬り合うような事実が明るみになれば、土佐の最重要人物の両名がいなくなったことで薩長の人間から見た土佐人に対する考えや今後の付き合い方も変わるはずです。そうなると、この大事な時期も相まって確実に土佐藩の立場は一変します。ですので土佐藩士たち6名が証拠を隠滅したのです。
?D龍馬と中岡は同志ではありますが、中岡は薩長の方々と同じ武力討伐派です。もう一方の龍馬さんはグラバーたちのビジョンに気付き国人同士が戦っている場合ではないという考えの無血革命派でございます。そこで、ここにきてお互いに絶対譲れない考えが衝突したらどうでしょう?この時代の志士の意地と信念がガチで正面衝突すれば抜刀するしかなくなります。
?E薩長連合の成立には色んな人が尽力していますが、特に動き回っていたのは中岡です。移動した道のりや薩長の要人たちとの面会などの多さは断トツだったでしょう。その中岡の動きをコントロールしていたのが龍馬です。中岡は幕府を武力で討伐するという自分と同じ私心を持つ坂本龍馬の言うことだからこそ、死に目に遭遇しながらも奔走し続けたのです。しかし噂で幕府側の勝海舟なる人物などと昵懇の仲であると聞いたり、死に物狂いで中岡が動いている時に派手な女関係の噂を聞いたと事件の少し前に中岡は先斗町で働く知人の女性にボヤいていたそうです。
とりあえず一旦このぐらいで留めておきますが、細かいことを言い出せばまだまだあります。
ということで…中途半端な締め方となりますが以上の理由を考察した結果…龍馬を死なせた男は中岡慎太郎であると断言させて頂きます。
YouTube のほうでも動画で語っておりますので宜しくお願いします♪
それでは、またお会いしましょうm(_ _)m
=END=
さて中々のタイトルですが…この事件に関しては皆様もご存知の通り諸説あります。
知らない人のために簡単におさらいしますと、長らく続いている幕府の体制を終わらせる志を持つ土佐郷士・坂本龍馬が、西へ東へ奔走して薩長同盟を締結させました。やがて龍馬の行動が身を結び薩長が倒幕を果たし大政奉還(幕府の終焉)へと時代は流れます。
ちなみに今の衆議院と参議院の仕組みについても坂本龍馬は考察しており、日本初の株式会社(亀山社中)を設立させたのも坂本龍馬です。
当初は倒幕を目的として薩摩(鹿児島県)の西郷隆盛や大久保利通、長州(山口県)の桂小五郎や高杉晋作などと知り合った坂本龍馬は何度も接見して話し合い、最新の武器を商いとしても大量に仕入れました。
ですが商いで最新の武器を仕入れながら、何気に坂本龍馬は得意先のグラバーと付き合い続けていましたが、ある時グラバーやその背後にいる金融資本家たちの目的を察します。つまり、幕府軍にも明治維新側にも武器を売って稼ぎ、その流れで日本国を牛耳って乗っ取ろうと思っているのでは?という疑心が龍馬に芽生えたのです。
結果論ですが、その龍馬の直感は正解でした。
グラバー本人も立派なフリーメイソンメンバーですし、その背景にはトランプ氏のおかげで有名になったディープステートたちがいます。この度の米国大統領選で陰謀論などではないことを多くの方が悟ったことでしょう。
そこで龍馬は日本国内で今以上戦うことは相手の思う壺であり、このままでは結果的に日本が乗っ取られてしまうという危機感を抱いたに違いありません。
これまで薩長連合を成立させるためとはいえ散々…幕府をディスって自分たちと同じ心意気であると熱弁する龍馬を見込んで、薩摩側も長州側も龍馬の言うことに耳を傾けています。ましてや薩長はお互い共に仲良しムードなど欠片もない間柄だったのです。
もちろん何より龍馬という人物に多くの地元藩士は期待して、龍馬のために何かと労う者や手伝う者も後を絶ちません。また龍馬と共にいた中岡慎太郎は、龍馬と同じ土佐藩の者で武市半平太の元にて剣術を磨き、武市が党首を務める土佐勤皇党に加盟し志士活動を開始します。
少しおさらいが長くなりましたので、ソロソロ確信部分に触れていきますが、そんなこんなで倒幕という大きな目的のために国内の色んな場所で、力のある有権者が次々と立ち上がり天皇を国王とし主権も握ってもらうことを大義名分に、幕府と真っ向から戦う雰囲気が国内に広がりました。
この明治維新革命は、後の日本にとって良くも悪くも多大な影響を与えましたが、何よりも土佐の武市半平太や長州の吉田松陰という偉大な日本人が早い段階で命を落としたのは残念です。
さて大政奉還に至るまで活躍した内の一人である中岡慎太郎は、京都の近江屋に龍馬が滞在していることを聞いたので訪問しました。
そこで両者共々…数時間後に斬られて亡くなりますが、その近江屋での事件で最も有力視されている説は、京都見廻組説、薩摩・長州からの刺客説、龍馬の影武者が斬られた説、紀州藩説、新選組の犯行説など様々ですが、影武者説は龍馬死亡時の前後における周りの証言からも無いでしょう。
一つ一つ言いますと時間が掛かり過ぎるので、ズバリ言いますが龍馬を斬ったのは目の前にいた『中岡慎太郎』です。その理由は下記の通りです。
?@両名が斬り合ったとされる現場は一般素人同士の切り合い後の惨状と同じでした。中岡は武市半平太の剣道場で師範代クラスの腕前であり、龍馬は北辰一刀流の免許皆伝つまり日本一レベルです。その両者が抜刀したとは思えない素人のような痕跡しか遺っていません。要するにこの二人が斬り合ったことを悟られない細工を場に居合わせた者が施したと言えます。その根拠は後に語ります。
?A周りの証言からも既に事件が起こる前から隣の部屋に6人いたはずです。その内の誰かが藤吉君を斬りましたが、これも多くの諸説とは異なり事件が起きた後でしょう。何故か後ほど事件が起こってから土佐藩士の6名が駆け付けたことになっていますが、それほどの短時間で6人もの藩士の居場所を突き止めて呼べるでしょうか?おそらく駆け付けたのは土佐藩の川村という医師だけです。もし各々の藩士を呼んだというのであれば、それは岡本君と思われますが無理があります。
?B上記の数名は、毛利恭助・谷千城・田中光顕・吉井孝輔・白峰駿馬、そして川村医師でしょう。その現場の真横にいた6名は事件後も黙秘を貫きました。しかも近江屋を経営する近江屋の者も当時の一件を最後まで一切語ろうとしなかったそうです。誰かが尋ねてきたことは事実ですが、それはその日に限ったことではありません。そこまで現場にいた人全員が頑なに口を閉ざした理由は龍馬と中岡の斬り合いの他に何があるのでしょうか。
?C土佐藩では大物の両名が死んでいるのに、どちらにも葬儀をせず状況の確認や検分もせず、調書もなかったそうです。中岡が組織した陸援隊も龍馬の組織した海援隊の人たちも腑に落ちず、この件を捜査した組織も特に以降は追及をしなかったのもおかしいと思います。?Bでも少し触れましたが龍馬と中岡の両名が斬り合うような事実が明るみになれば、土佐の最重要人物の両名がいなくなったことで薩長の人間から見た土佐人に対する考えや今後の付き合い方も変わるはずです。そうなると、この大事な時期も相まって確実に土佐藩の立場は一変します。ですので土佐藩士たち6名が証拠を隠滅したのです。
?D龍馬と中岡は同志ではありますが、中岡は薩長の方々と同じ武力討伐派です。もう一方の龍馬さんはグラバーたちのビジョンに気付き国人同士が戦っている場合ではないという考えの無血革命派でございます。そこで、ここにきてお互いに絶対譲れない考えが衝突したらどうでしょう?この時代の志士の意地と信念がガチで正面衝突すれば抜刀するしかなくなります。
?E薩長連合の成立には色んな人が尽力していますが、特に動き回っていたのは中岡です。移動した道のりや薩長の要人たちとの面会などの多さは断トツだったでしょう。その中岡の動きをコントロールしていたのが龍馬です。中岡は幕府を武力で討伐するという自分と同じ私心を持つ坂本龍馬の言うことだからこそ、死に目に遭遇しながらも奔走し続けたのです。しかし噂で幕府側の勝海舟なる人物などと昵懇の仲であると聞いたり、死に物狂いで中岡が動いている時に派手な女関係の噂を聞いたと事件の少し前に中岡は先斗町で働く知人の女性にボヤいていたそうです。
とりあえず一旦このぐらいで留めておきますが、細かいことを言い出せばまだまだあります。
ということで…中途半端な締め方となりますが以上の理由を考察した結果…龍馬を死なせた男は中岡慎太郎であると断言させて頂きます。
YouTube のほうでも動画で語っておりますので宜しくお願いします♪
それでは、またお会いしましょうm(_ _)m
=END=
タグ: 近江屋
【このカテゴリーの最新記事】
- no image
- no image