例えば、通勤時間であればホームで電車を待つ時間や車内にいる移動時間。仕事途中のランチタイム。朝起きてから出勤するまでの待機時間。誰かと待ち合わせをした時の待ち時間、注文した料理がテーブルに届くまでの時間、病院の診療待ちなど・・。
日常生活の中で10分〜30分程度の隙間時間は何度も発生している。
喫煙者であれば一服でも・・っと思うところなのだが、その都度一服しているとタバコ一箱が一日で終わってしまうところである。一本当たり10分だとすると、一箱20本?10本=200分→3時間20分も隙間時間として、喫煙タイムという貴重な時間を満喫しているのだ。
しかし、3時間20分の隙間時間は一日に対する割合で考えると、実数値的にも多すぎるのである。
ここに休憩時間を加えると一日4〜5時間程の合計時間になるだろう。
小さな時間の活用例としては、本や新聞、スマホなどの情報ツールを利用して時間を満喫するという方法もあるだろう。また、ビジネス的に向上心がある場合は情報収集や勉学に徹している者も少なくない。
しかし、この隙間時間。睡眠時間のような、ひとつのまとまった時間として利用することが可能ならば、生活自体が変化するはずだ。
それでは発想を転換してみよう⇒平均6〜8時間の睡眠時間を分割し、隙間時間にその睡眠を取得することが出来るならば、24時間意識が稼働状態となり意識が継続する。そして【睡眠時間】として消費している時間を別の活動時間に充てることが可能だ=つまり【自由時間が6〜8時間も増える事になる】という思考も浮かんでくる。
しかし、現実的には体が持たないという状態になる。これは説明するまでもなく人間が自然に理解していることである。継続した睡眠時間の効果と必要性については、ここでは省略する。(?参考まで)
記憶の格納と精神整理には睡眠が必要不可欠なのである。よって睡眠時間を分割してトータル時間が8時間になったとしても、睡眠の効果を十分に生かし切れていないということだ。
それでは食事時間ならどうか。三食に分割せず、一回で一日分を摂取してしまえば・・・食の楽しみが一回になってしまっては、何のために生きているのかすら不明になるところである。
つまり【食欲】、【性欲(想像して)】、【睡眠欲】については、人間として生活する上で適度な摂取が必要なものである。それを分割して生きていくことが、人間の本質としての幸せ失う事ほかならない。
それではどうするか。入浴については一日一回で無くても・・と思うが、中年になると身体から染み出る脂が嫌なもので、二日目になると体臭が自分で我慢出来ないため却下。
外出の準備については、それなりの身なりを整えなければ嫌悪感を抱かれるとまずい。
トイレは規則正しくお願いしたい。
そのようなわけで・・隙間時間の利用法としては、これまで通り休憩時間として、適度に自分が好きなことをする時間にするのが最良・・っという考えではない。ふっと思い立って思考が突き進む結果が、そこにある訳ではないのだ。
なぜなら少し流行りの【早朝活動】や【週末起業】について意識の片隅にあるためである。最近では本まで発刊されている程なので、そのニーズが確かなのであろう。
自分の感覚では⇒時間を限られているサラリーマンや学生として生活している場合、その限られている時間外の活動とは自分で運用可能な自由時間であるのだ。
つまりその時間を有効に利用するかどうかという点にて【微量な成長差】が生じるという訳である。
【微量な差】と言う根底としては・・私自身も被雇用者として生活保険となる【お仕事を頂く】立場であり、その仕事を全うしなければ「日々の生活」を過ごしていく事が出来ないのだ(信用なしっ!)。
そのため裸一貫、自力で生き延びるために必要な能力も信用すらもない状態であり且つ、人様に面倒見てもらった状態にて【独自の能力発揮】を目指そうと思っている所存であり、【命を賭けて】程ではない為に「微量な成長差」とした。
しかしこの「微量な成長差」を継続する事にて、大きな成長とすることを目的に、日々努力したいところである。
はてさて、その隙間時間の有効利用にて『被雇用者』から『雇用者』への転身を果たした者が何人も居るではないか。
それに感化されない自分ではない。そのような訳で隙間時間に対する考えを深めたわけだ。つづく
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