E 【エネルギー・資源・環境】 原発・太陽光発電・原油・水 101
K【韓国】【北朝鮮】反日 慰安婦 徴用工 ベトナム虐殺 237
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ニコルさんの日記で「デートの際の割り勘」というテーマが出ている。このごろは、男女割り勘のデートも多いらしい。私は女性に勘定を払わせたことが無い。古い人間だからだけれど。女性の方から誘われた場合でも、その誘いを、あまり積極的には受けなくても、結果的に誘いに応じた限り、私が払った。「時代遅れ」だろうけれど、男とはそう言うもの・・・という固定観念がある。一度だけ女性からお金を借りて返さなかったことがある。学生時代からつきあっていた女性と、社会人、新入社員になって始めて男と女の関係になった時。朝、ホテルの支払いをしたら、財布の中にはもう、会社へ出勤するタクシー代も無くて、仕方なく彼女からタクシー代を借りた。○○○ちゃん、ごめん。でも、あの後、すぐ結婚しちゃったんだよね、君は・・・。だから、返す機会を失ったんだよ。
2005.08.01
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昨日の日記に続いて復刻日記である。今日は、非常においしい!日本料理を食べに行く予定なので、心ここにあらずで手抜きの復刻日記としたい。 □□□□□□□ 【復刻日記】ある日記を読んでたら、フォークの「神田川」の話題が書いてあった。歌詞の内容が私の大学生時代をほうふつとさせるもので、なつかしかった。しかし、本当にむかしむかしの物語だから、今の大学生の生活とはずいぶんちがう。入学して直後はしばらく中央線の西荻の伯父さん宅でやっかいになった。しばらくして同じ西荻で下宿したが、その下宿のおばさん(心の中ではババアと呼ぶ)と折り合いが悪くて、同じ中央線の武蔵境のアパートに移った。そこで2年過ごして、後半の2年は新宿戸山町のアパートに移った。上京した時は、関東平野の関東ロームの黒い腐植土にびっくりして、何となく暗い気持ちになった。私の実家は大阪でも神戸側で、花崗岩の六甲山地の地層の影響で土地が白っぽい。土地の色が、これほどちがうと、結構心理的にインパクトがあった。大阪育ちの私には東京の食べ物の味が濃い味なのにもちょっとおどろいた。まず受験の時に二・三日だけ下宿した家で出してくれた店屋物の親子丼ぶりの味が濃かったのに驚いた。学食や生協で食べた東京風のうどんにもビックリした。大阪のうどんは昆布出汁で色はほとんど付いていないのに、東京のうどんはたまりというのか、真っ黒だった。箸でちょっとかきあげると、まっ黄色い卵の黄身と白いうどんがポワ~ンと浮き上がってきた。味も濃くてなじめなかった。讃岐うどん全盛の今の東京で、こういう古典的・伝統的なうどんは健在なのだろうか?この伝統的な正統派東京うどんも、この頃のあまりの冷遇ぶりにすねて、もっと濃い味になっているのではないかと心配である。下宿にしろ、アパートにしろ、賄い付きでなかったから外食するか? 自炊するしかない。今は、飯屋スタイルのファミレスがあったり、家庭料理という看板で、みんな、なんの抵抗もなく入っている。しかし昔の飯屋はわびしく貧しく汚いところが多かった。肉体労働者が主な顧客だったと思う。外食も自炊も、どちらも侘びしく孤独で恥の多い作業である。外食という作業はまず、食べるものを決定しなければいけない。次に食べる店を決定しなければいけない。この順序が反対である方が普通かな?学食や生協で食べるのが学生としての本分かも知れないが、すでに昼食をたべているのだから、夕食もそこでというのもナニかと思う。それに大学をいったん離れると、どこかで食べなければいけない。蕎麦やうどんでは腹が持たない。カレーライスばかりも飽きる。だから栄養のバランスのとれた定食のある一膳飯屋に行くことが多かった。しかし、この一膳飯屋に一人で入るということは、一日の内で一番恥多きプロセスで、これは苦痛だった。高校時代はもちろん外食などしなかった。一家揃ってレストランに行くことはあったが、それは家庭の団らんの洗練版・豪華版にすぎない。高校時代に下校途中にわざわざ駅前まで行ってたこ焼きの屋台によって密かに食べたたこ焼きはまさに美味だったが、たこ焼きというものは暗がりの中で、何らかの後ろめたい理由があって、舌をやけどしながら、フーフーと急いで食べる場合だけがうまいのだが、余裕充分な状況で明るい場所で、ちょっと冷えかけのものを食べてもそんなにうまいものでもない。後ろ暗い時間に後ろ暗い状況でたこ焼きを食べろ!この日記の読者だけに伝える、私からの「たこ焼き賞味の極意」である。忘れないように頼む!つまり、今までひとりで外食したこともない私にとって、当時の労働者階級の濃い世界の殿堂のような一膳飯屋の汚れた暖簾をくぐるという行為にはとてつもない勇気が要った。暖簾の前を二三回言ったり来たりして呼吸を整えた後、最後に左右を見回して、友達や知り合い・親戚・関係者・教職者・警察関係者などがいないか、一瞬のうちに判断してから暖簾をくぐる。矛盾するようだが一人の場合はまだいい。だれか友人・知人と一緒に歩いていて、分かれる前にこんな一膳飯屋の前を通る時には、こんな店は全然知らないし、まして店の中でワリバシで「レバニラ炒め定食大盛り+白飯お代わり」などを食したこともない・・・という態度でそのいきつけの店を裏切りながら通り過ぎることになる。心なしか、店の中からおばさんが「見栄っ張りだね~と、こちらを軽蔑した目つきで見ているような気がする。なんとかその「自宅が東京」という特権階級の友人をまいてから、まだ用心して本屋で立ち読みをしたりして時間をつぶして、万が一にも彼がもどってくる事は無いという時間帯に突入したら、おもむろに定食屋に確信を持って進むのである。食べ終わって、また暖簾をサッとくぐって町に飛び込み、またなにごともなかったという表情で町を歩く。アパートに付く前に一般住宅の前を通る。家々からは幸せの黄色い電灯がついている。彼らは全員卑怯にも、一膳飯屋忍び入りの苦行など無しに美味な夕食を楽しく、さんざめきながら食しているのだ。本当にこの世の中には神も仏もないものだと思う。こんな高貴な孤独に耐えている私の胸に響く歌があった。ミルバやザ・ピーナッツが歌っていた「ウナセラ・ディ・トーキョウ」である。 ―――― ◇ ――――♪ 悲しいことも 無いのにどうして 忘れたのかしらウナセラ・ディ・トーキョウあ~あ(途中省略)♪ あの人はもう 忘れたのかしら とても悲しい♪ 街はいつでも 後ろ姿の しあわせばかりウナセラ・ディ・トーキョウあ~あ ―――― ◇ ――――本当にこの時間、魔の夕食時に、私とすれ違う人達はみな、自宅で家族と共に夕食を囲むという、しあわせそうな後ろ姿ばかりである。一瞬、背中をかきむしってやりたい気持ちになった。 ~~~~~アパートで自炊というのも侘びしい。佐藤春夫の詩に「秋刀魚」というものがある。妻に逃げられた男が一人わびしく七輪で秋刀魚を焼く。これは極度にわびしい。私はもちろん結婚をしていないので妻に逃げられてはいなかったが・・・。一膳飯屋苦行とどちらがわびしいかは計量化してみないと、数値化してみないと正確にはわからないが、わびしさの性格が違うようだ。ともかく、当時の学生の持っている文明の利器と言えば平均して下記の「四種の神器」だったと思う○ ラジオ○ 卓上蛍光灯スタンド○ 電気コタツ または 石油ストーブ○ 電気炊飯器当時は電気冷蔵庫を持っている学生なんていなかった。なんともシンプル極まる生活である。ただし私は、この上に二種の神器を隠し持っていた。○ テナーサックス○ 赤井のテープレコーダー 16インチスピーカー付きモダンジャズの同好会に入っていたので、これはどうしても必要だったのだ。自炊の話にもどるが、学生は料理の仕方なんて知らないのだから、肉野菜炒めが定番となる。これは当時のすべての学生の普遍的な真実だったと思う。この肉野菜の部分について、野菜はそのままでいいのだが、肉については注記した方がいいかも知れない。肉は高いからその代わりに、魚肉ソーセージがピンチヒッターとして登場する。さらに実情を究めると、実はピンチヒッターでは無くて、魚肉ソーセージの方がレギュラーなのだ。肉の方がピンチヒッターで恥ずかしそうにベンチにいることになる。「この財政状況だと私の出番は無さそうね」と、自分から二軍に行ってしまうこともある。こうなるともう呼び戻せないから魚肉ソーセージがレギュラーとして定着する。この頃はコンビニでこの昔なつかしいレギュラーを散見する。しかしもう、レギュラーの座は張れないで、いつもは二軍だが、監督の温情で久しぶりに一軍ベンチに入った超ベテランと言った風情だ。だれも本当は大活躍を期待していないんだけれど、年に一二度ぐらいは一軍にあげてやらないと隠れファンがうるさいと言うことかも知れない。飲み物はせいぜいお茶だが、ぜいたくな学生は牛乳の配達を受けていた。私も堂々のぜいたく学生で、牛乳+新聞の配達という豪華版だった。しかし暑い夏などはジュースとなる。「渡辺のジュースの素」という当時の大ヒット商品があって、これは毒々しいオレンジ色の謎の粉体で、これを水に溶かして飲むと、味も毒々しいが、無理に考えると「これもジュースの一種である」という実感が出てくる。自炊を共同でやることは、アパートの住人同士が友人になったら可能となる。どうせほとんどの住民が同じ大学だし、金もないので夜はすることもなく退屈で、誰かの部屋に集まっては夜遅く、あるいは朝までダベル事になる。親しくなりすぎるとお互いいたずらもしてしまう。特に私なんか、いたずらが生き甲斐だったから、ある時、真面目な男のパンツを脱がしたことがある。その男は大男で運動神経は皆無だったけれど、ものすごく力持ちの男だったが、ある拍子でふざけているうちに、ついついみんなで彼を押さえつけてパンツを脱がした。彼の裸の下半身はある理由でトップ・シークレットというか聖域だったようで、彼は激怒した。手元の木刀で私を本気で殴った。彼とちがって運動神経の固まりとも言える私は?サッと邪悪な木刀を避けたが、部屋の扉は運動神経が無かったのか、木刀に直撃されて深い傷を負ってしまった卒業してそのアパートを出る時には、どうしてわかったのか? 家主の奥さんにひどく叱られた上に高い補修費を支払わされた。トイレ・台所(と言っても流しとガス台があるだけ)は共同。もちろん風呂なんて無い。だから近くの銭湯に通うことになる。これは、一膳飯屋の「がまの油タラタラ」状態とは全然ちがう。アパートの友人達と一緒に湯屋に出かけるのは楽しい。 ―――― ◇ ――――♪ 貴方は もう忘れたかしら赤い手拭い マフラーにして二人で行った 横丁の風呂屋(中略)小さな石鹸 カタカタ鳴った(中略)窓の下には 神田川三畳一間の 小さな下宿 ―――― ◇ ――――私達の石けんもカタカタ鳴ったが、可愛い女子学生はいなかった。後に知ったのだが、偶然なことに、この私が通った風呂屋は「安兵衛風呂」といって、この「神田川」のモデルとなった、と言うか作者が通った風呂屋だったのだ。 ~~~~~いや、ひとりけしからんやつがいた。私の高校からの親友で一緒に進学したのだが、入学して半年するともうガールフレンドが出来た。同じ大学のある運動同好会で知り合ったらしい。この男は女の姉妹がいないくて男の中で育っているヤツだからとても無骨なヤツで、女性に対する好奇心が凶器のように肥大しているやつで、女性の気持ちなどわからない男だから、絶対モテないだろうと・・・油断していた私が悪かった。その女の子はとても小柄だがとても可愛いのである。愛し合っているらしい二人のかもし出す雰囲気がとても醜い。おまけに大学近くのアパートで「半同棲という大罪」を犯しているようなのだ。ついに、こーゆー間違ったことをしているカップルには断じて意見をして、仲を裂かなければいけないという義憤に駆られて、ある夜、級友と共に彼のアパートを急襲した。神田川沿いの道の行き止まりの木造アパート、その二階に彼の部屋があった。入ってみるとやはり彼女がそこにいた。可愛い女性と面と向かってみると、一瞬で私の義憤は霧散したばかりか、彼女から「彼女の級友に可愛い女性はいないのか?」という重要情報を聞き出そうという偵察モードに入ってしまった。私には臨機応変という才能があるのをその時始めて知った。偵察モードの一端として部屋の窓を開けてみたら、真っ暗な闇の中から、神田川のちょっと汚れた流れの臭いが漂ってきた。
2005.03.31
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愛読書(と言っても昔一度読んだだけだが)のひとつに、トニオ・クレーゲルをあげた。ついでに、書いてみたいことがある。トニオ・クレーゲルの主題は、「市民的気質」と「芸術家的気質」というものだと思う。主人公のトニオ・クレーゲルは、父親が商人である実務的な市民的気質のドイツ人、母親は対照的な芸術家気質の情熱的なイタリア人で、彼は母親の気質を受け継いでいる。トニオは、クラスメートの金髪の美少女に恋をするが、彼女はあきらかに市民的気質で、トニオは彼女に遠くから憧れを抱くものの、なかなか近づけない。この時の彼は芸術家特有の鬱屈した孤独感が強く、くったくがなく深く考えること無く行動できる彼女に、劣等感を感じる。その彼女は、同じ平凡な美少年と恋仲であって、ますますトニオは距離を感じて悩む。私自身も、青春時代には自分を「芸術気質」だと思っていた。これは錯覚だったのだが(笑)、青春時代には、だれでも自分を「芸術気質」だと思うものかも知れない。実は、私も一度、「市民的気質」の女性に激しい恋をしたことがある。 ~~~~~~~~~それまで私は、外国出張をくり返してビジネスに専念していたので?、つきあう相手もいろんな理由で外国人の女性が多かったし、出会っては別れるを、心ならずもくりかえしていたし、自分でもアウトサイダーを気取っていて、私は農耕民族の日本人タイプではなく、遊牧民族・騎馬民族タイプの放浪の民だと思い込もうとしていた。そのころ、彼女と出会ったのだが、彼女は読書が好きとか、深く考える知的なタイプではなく、本当に俗で幼稚な、(失礼!)平凡な性格の女性だった。(こんなに悪口?を言っていいのかな?)ただ、姉妹だけで育った女らしい、大事に育てられたお嬢さんという雰囲気があった。それまでの私は、どちらかというと、年上の知的でキツメの性格の女性に惹かれていた。ところが、そんな私が、その彼女を知って、どうしたことか、深い劣等感を感じた。彼女が人間としての王道を行っているように感じたのだ。それと同時に、この平凡な美女と、平凡な幸福な家庭を持って、平凡な普通の生活に途中乗車して、定住してしまいたいという、強い欲求を感じた。今までのすさんだ?生活はもうやめて、平凡な幸せにこっそりもぐりこんで、もう他人に、「変わり者」など言わせない生活をしてみたかった。海外でビッグ・プロジェクトを受注しても、それは即、出世にはつながらない。むしろその成績を上司に横取りされているし、出世へは遠回りになる、そろそろ内地で上級管理者!への道を着々と進むべきだ。そのためにも早く結婚をしなければ。そのためにも、この女性となら平凡ながら堅実な生活を営めるだろう。そうして、暖かく愛に満ちた生活に埋没したかった。どうせ文学や哲学を語り合うことはないだろうけれど、日々の愚にも付かない些事を話題にしているのも楽しいではないか?休日には、エプロンを掛けた彼女が、いそいそと美味しい食事を作って「さあ!どうぞ」と声を掛けてくれる。まるで、小坂明子の「あなた」の男性版のような夢だが・・・。そう思うとたまらなく彼女の愛が欲しくなった。半年ぐらいその熱は続いたと思う。彼女とデートもした。しかし、彼女が私にそれほど熱意を持っていないことはよくわかっていた。住む世界が違うというか、興味が全く共通していないのだ。だから話題も弾まない。いわゆる、きまずい「死の沈黙」がつづくこともあった。おまけに彼女は、私を貧乏な家庭の出身だと思いこんでいる。「やっぱり、ある程度、お互いの環境が違うと難しいわね・・・」そういう風にえらそうに言う彼女は、確かにミッションスクール(共学)出身だが、そこの学生はみな、お金持ちのお坊ちゃんお嬢様であるわけでもない(はずだ)。私の出身大学は、昔はバンカラな校風だったが、彼女はその大学の学生は昔風の苦学生ばかりだと思いこんでいるのだ。おいおい!どんな社会認識なんだ?これひとつ見ても、彼女の愚鈍さが(失礼)わかるというものだ。(プンプン!)第一、授業料はこちらの方が多少だが高くて、授業料値上げの大ストライキまであったんだから・・・。(こんなことを威張ることもないな)そんな風で結局ハッキリ振られたわけだが、その時の苦しみはひどかった。しばらく、そのトラウマが残った。しかし、後になって考えてみたら、実は私は、彼女という特定の女性自体に、本当の恋愛をしていたわけでもなかった。恋に恋していた(fallin’in love with love)、というか、むやみに、「普通の!」恋に、ひたりたかった。彼女には一種の甘い家庭生活や恋愛ごっこのような匂いがあって、その当時、いろんな意味で、冒険的なアウトサイダー的な道を長らく歩いていて、精神的に疲れを感じだしていた私に取って、彼女の存在は、とつじょ、「正常な市井人にもどらなければ!」と、私にも残っていたバランス感覚を強烈に刺激したのだ。一種のバランス感覚恋愛なのだ。(初耳の人もいるかも知れない)もし彼女と結婚していたら、どうせ基本的な部分で全く会わないのだから、私は妻をかえり見ない典型的な日本の夫となって、「飯! 風呂!」と言いながら、新聞を読んでいたかも知れない。(新聞は、今も読んでいるが)彼女は豚のように太って、子どもをコロコロたくさん産んだかも知れない。(コロコロ子どもを産んでいる家庭には申し訳ない)その子どもは「お父ちゃん」と、みだりに私にまとわりついて、私はその子供たちを蹴飛ばしながら、テレビのお笑い番組に見入っているかも知れない。(どうも、私は悪い状況しか想像したがらないようだ)だから、私は、私自身を、芸術家の孤独を知る「日本のトニオ・クレーゲル」だと思っている。芸術には全く才能のないトニオ・クレーゲルである。
2005.02.17
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アイビーおじさんという人の日記があったので、ふと思い出して、アイビーの想い出の復刻日記としたい。一部、書き直しをするかもしれない。 ★ ★ ★ ★ ★ ★買い物に関しては、人によって好きなものがあると思う。ウィンドウ・ショッピングをしていると思わず買ってしまうものがある。私の場合は、カバン・バッグ類、財布類、手帳、衣類と靴とナイフ、乞食市で売っているような得たいの知れない骨董品まがいの小物・・・などがそれに当たる。まだまだ、あるのだが、思い出せば書いてみたい。 ~~~~~~~~~この頃の若者はずいぶん背が高い。私は、昔の基準で言えばかなり大男だったので、衣類と靴には非常に苦労した。というのも、昔は衣類と靴にはサイズの大きいものが無かったのだ。中学までは背の高い方ですんだのだが、高校時代に急に背が伸びて、朝礼の時には列の一番最後に並ぶようになった。ここからが私の苦闘時代のはじまりである。先ず、運動靴の苦労がはじまった。私は背が高い上に、いわゆる『バカの大足』だからサイズが簡単には見つけられなかった。だが、実はどうして『バカの大足』、こういう言い方をされるのか? 理不尽さに納得が行かない。日本人は小柄な人間に味方するのか? いろんな言い方で大男をいじめる??『山椒は小粒でもピリリと辛い』『大男 総身に知恵が回りかね』『ウドの大木』五条の橋の上の果たし合いでも、小男代表の牛若丸が、大男代表・弁慶をヒラリヒラリと交わすところが受ける。『それにこの『バカの大足』が追い打ちをかける。運動靴は底がゴム製だから、革靴のように『履いている内に革がのびて足に馴染む』ということはありえない。とするとどうしても、適正なサイズを見つけなければいけない。ある店にはあるのだが、普通の店では私のサイズを見つけることはなかなか出来なかった。唯一、オニヅカ・タイガーというメーカーが大きなバスケット・シューズを売っていた。えらいメーカーである。私からの好感度のせいか? 今はアシックスという大メーカーになっている。バスケット・ボールという競技は大男が有利だから、大男が選手になる。だから、バスケット・シューズだけには、ビッグ・サイズもあった。(スニーカーという米国流の呼び方は当時は無かった) ~~~~~~~~~大学にはいると、当時は石津謙介さんの『VANジャケット』そのシニア版の『KENT』という、いわゆるアイヴィー・ファッションが流行っていて、私も付属高校から進学してきたお洒落なお坊ちゃんが多いモダンジャズのクラブに入ったことでもあり、アイヴィー(アイビーという方がいいかな?)ファッションに夢中になった。今はご婦人のファッションへの熱意を冷ややかに揶揄する私も、よーく考えてみれば、人のことは言えないからだなのである。ともかく、このバタくさいアイビーが、それまでの日本男性のおしゃれ意識を180度変えたと思う。それに当時は、六本木や銀座みゆき通りに、髪は短いクルーカット、綿パンの裾を折り返し、ボタンダウンシャツ、脇にはVANブランドの紙袋をかかえ、コインローファーを履いて、細巻のこうもり傘(どうも古臭い表現だな~)を持った、『みゆき族』という少年達が、これ見よがしに徘徊していた。また、そういう少年達を大橋歩さんが表紙に描いた『平凡パンチ』という都会的な青少年向けの週刊紙が創刊されて、『アイビーブーム』をさらにあおった。ただ、石津謙介さんのVANのアイビーは、本物のアイビーではなかった(と、私は言っておこう)。本物のアイビーファッションは、米国東海岸のエリート8大学、ハーバード、エール、プリンストン、コロンビア、ダートマス、コーネル、ペンシルべニア、ブラウン、通称アイビーリーグの学生のファッションで、その卒業生がそのままアイビー基調の着こなしをする。トラッド(トラディショナル)とも呼ばれるスタイルだ。J・F・ケネディー、スティーブンソンなどがその典型。メーカーとしては、ブルックス・ブラザーズが代表だが、ライバルのメーカーに、J・プレスというメーカーもある。昔、J・プレスのジャケットを一着持っていたのだが、サイズがちょっと小さすぎたので、ホームレス支援団体に送ってしまった。アイビーのジャケットを着たホームレスの人が、大阪西成区愛隣地区にいるはずだ。(後年、米国に行くようになって、義弟がブルックス・ブラザーズを愛用していたので、ブレザーやその他のものを買ったが、私はそれほど感銘していない。私はドレッシーな洋服・コートに付いては、やはり英国調が好きだ。)ブルックス・ブラザーズなどの本物のアイビージャケットは、ナロウ・ショールダーではあるものの、しっかりしたかちっとした仕立てで高級生地を使用している。アイビーリーグが伝統校・エリート校だから、アイビー・リーガーは社会に出てもエリート。そのエリートが着る背広だから、高級なのは当然。しかし、当時の日本の大学生は貧乏だったから(私の神田川の日記など、涙無しには読めない貧乏レベルである)、とてもそんな高級スーツは買えない。そこで石津謙介氏は、帝人と提携して、ペラペラの安物生地で、しかも生地をケチった思い切り細身のスーツを日本版アイビー・スーツとした。だから、私でも買えた訳だから文句を言ってはいかんな。そのうちにVANのライバル・メーカーとして『JUN』というブランドが出てきた。こちらの方は、トラッドというより、ちょっと欧州スーツ・コンテンポラリーと呼ばれるファッションの風味があった。とにかく、若者向けのスーツは、従来の英国調から肩幅の狭いアイビー調にすっかり代わってしまった。私に関して言えば、都合よく、父が米国へ出張していたので、茶色のスェードのジャンパーや、極細のネクタイ、革靴などを買ってきてくれた。それに、LEEのホワイト・ジーンズ、白のソックス、ボタンダウンのオックスフォード生地のシャツなどを着用すれば、アイビー・ボーイの仲間入りが出来た気持ちになった。----------------この極細のネクタイについてはちょっと書いておく。幅が極端に細くて、ワイシャツの前立ての幅しかない。しかも、ネクタイの下の部分、つまり表面には見えない部分には『ボタン穴』が空いていて、シャツのネクタイに止めるようになっていた。これでネクタイピンが要らなくなると言う理屈。このネクタイは気に入っていたんだけれど、どこに行ったかな~?----------------石津謙介さんのアイビーは貧乏な若者向けに、『細身』で『安い生地』と書いたが、私の独断と偏見だが、もう一つの理由があったと思う。それは当時大流行のモダンジャズの黒人プレイヤーの独特のファッションが影響していたと思うことだ。繰り返すが、これは私の個人的推測。私は大学でモダンジャズのクラブに入って、時々来日する黒人のモダンジャズ・メンのコンサートに行った。彼らも米国本土でも流行のアイビースーツを着ているのだが、お洒落な彼らは、思い切り細身のピッタリしたスーツにインプロヴィゼイションしているのだ。偶然かどうか、石津アイビーにそっくりなのだった。----------------で、靴の話だけれど、アイビーの靴には大きく分けると、ヒモ型とヒモ無しスリップオン型があった。ヒモで結ぶ靴のつま先はウィングチップという模様がついていた。プレーン・トーはあまり流行らなかった。スリップオン型は、甲の部分にコインをはさむ『コイン・ローファー』が主流だった。父は米国から、ウィングチップを買ってきてくれたのだが、アイビー・スーツでなく、ホワイトジーンズだと、ウィングチップは似合わない。スリップオン、とくにコインローファーを履かないと、画龍点睛を欠くことになる。それではいかんと、探したのだが、これも当時は私のサイズはなかった。あのアイビー御用達のリーガル・シューズでもだめだった。それで、普段はバスケット・シューズを履いていたのだけれど、スリップオンを大学近くの靴屋に発注した。しかし、この靴が出来が悪くて・・・。ブカブカだった。それに当時の白の棉ソックスはゴムがしっかりしていなくて、すぐズレ落ちてしまった。なんであんな粗悪品を売ったんだ?仕方が無いから、祖父がしていた膝の下に占めるガーターでソックスを吊っていた。苦労したものである。----------------・・・どうも、こんな事を書くつもりじゃなかったのだけれど、買い物の話で書き始めたのだけれど、思い切り迂回・寄り道をしてしまって、靴の苦労話になった。まぁ、いっか?買い物の話は、また書くとして一応今日は『これぐらいにしといてやるわ!』----------------追記。何げなく、脱線で書いたアイビーだったが、思いがけなく多くのコメントをもらい、それも『懐かしい』という声なのでうれしかった。ちょっと部分的に私のレスの繰り返しにもなるが、まとめておきたいことがある。石津謙介氏がはじめた日本式アイビールックは、日本の洋装若者メンズ・ファッション界の革命であり元年であったと思う。それまで、日本の若者のメンズ・ファッションには方向性もお手本も無かった。そこにアイビー・リーガーズのファッションを、多少モディファイして日本に移植した石津氏の功績は大きい。学生達が初めて、スーツを着るようになった。ネクタイをするようになった。方向性のあるお洒落をするようになった。フォーマルとカジュアルについて意識が出てきた。当時の男性服装雑誌だった『メンズ・クラブ』もたちまち、アイビー一色になった。----------------私自身は学生時代にこの石津アイビーの洗礼を受けて、社会人となって入社した時は、『今年はアイビーが入社してきた』と女性社員に言われるほどまだアイビーの影響下にいたが(!)、その後、英国駐在をしたこともあり、英国では私のサイズのスーツがザラにあったこともあり、さらには英国風の紳士ファッションが好きだったので、スーツ・コートなどの比較的フォーマルに近いものは英国調に、一方、カジュアルはそのまま米国風のジーンズ・ファッション・・・と言うことで、・・・今に至る。しかし、現在の私のカジュアルは、ユニクロ度80%と言ってもいいかも知れない。XLサイズが必ずあるユニクロは、昔、私に貢献してくれた『靴のオニズカタイガー社』と共に、『ほめてやりたい会社ナンバーワン』であり、出来れば私の推薦で『名誉の殿堂入り』させてやりたいものである。(勝手かな?)
2005.02.16
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死にかけた話・パリのマダムの話も完結しなければいけないのだが、先に、大昔の赤坂・六本木シリーズを一話、書こうと思う。(シリーズだから、いろいろあるのだが)その大昔のある時、赤坂のナイトクラブで、ある若いフランス女性と知り合った。フランス女性は、私が非常にセクシーだと思って尊敬申し上げている人たちだが、わがままな人が多いように思う。それはそれとして・・・。彼女と初対面の会話で、彼女がフランス人だと知って、私はその頃国際的なベストセラーになっていた「ピーターの法則」という本を話題にした。ちなみに彼女は、背が高くてやややせ形、繊細な容貌で、ブロンドの長い髪(これまで私が日記に書いてきた女性は、みんなブロンドだが、これは偶然で、私はブルネット(黒に近い、栗色の髪の毛)の女性も大好きで、むしろブルネットの方が好きかも知れない。マリリン・モンローの映画で「紳士は金髪がお好き」という映画があるが、まあ、一般に西欧の男性は、アメリカもそうかな?ブロンド女性が好きみたいだ。私はブロンド・ブルネット、両方ともいける。古代ギリシャでは、金髪が好もしい髪の毛の色とされていて、あの地中海沿岸では金髪率が低いにもかかわらず、女性はみながゲルマニア(今のドイツ)から輸入された石鹸(つまりアルカリ)で髪をブリーチして金髪にしたという。ミロのビーナスもブロンドなのかな?私の好きなニケ像は首がないが、ブロンドでしょ?ちなみにやはり、金髪率は緯度的に北に行くほど多くなる。同じ英国でも、南部イングランドと北のスコットランドでは大きく金髪度がちがう。ケルト民族は今はブルネットが多いが、ローマ帝国の歴史書によると「金髪の野蛮人」だったとか。その後にもっと金髪のゲルマン民族がフン族の侵入にトロコテン的に押し出されてローマ帝国を脅かして欧州を試合したのだが。まあ、そういう話はどうでもいいんであって、私は「ブルネットの猫でも、ブロンドの猫でも(ちがうかな? 黒い猫でも白い猫でも・・・だったね)、ネズミを捕る猫はみんないい猫である」と言った「とう小平」は、それなりに尊敬している。なお、「とう小平」の「とう」と言う字は機種依存文字なので、ここでは、変換できない。「ピーターの法則」というのは、当時世界的なベストセラーになったフランス人学者の書いた本で、「人は、有能な間は昇進を続けるが、昇進して新しい職位の仕事の質が変化した時点で無能になり、昇進がとまる。その結果、階層社会の上部は、無能な人であふれるという法則」。私自身をかんがみても、残念ながら思い当たるところのある、恐ろしくもシニカルな社会的理論である。彼女がフランス人と言うことで、私がこの本をちょっと話題にするやいなや、彼女は極めて饒舌にこの本への評価を学問的に知的に語りはじめて、それほど深く読んでいない私は、(精読してもそれほどわからないのだが)ただただ、「はいはい」と頭を下げて拝聴するだけとなって、やがて彼女がフランスのあの有名なソルボンヌ(パリ大学)の現役学生で「いらっしゃって」、現在は世界漫遊の旅に出て「いらっしゃる」のだ・・・と言うことを知ることになる。当時のナイトクラブの女性はこういう女性がいたのだ。彼女は私に、彼女の自宅の電話番号をくれて、数日後、六本木で待ち合わせた。時間的に言うと、ナイトクラブがそろそろ始まる夕方頃だが、彼女は「今日は休む」という。どこかで彼女と飲もうと思って、その当時、よく通っていた外国人の女性が経営者であるバーに入った。まだ、時間的にお客は一人もいない。席に着くなり、彼女はいきなり私に抱きついてきて、キスをし始めた。それだけでも驚いたが、ずっとキスを続けるのだ。セーヌ河畔のアベックみたなのだ。飲み物を飲むひまもない。私はキスには応じなければいけないし、ママには気を使わなければいけないし、うれしいが、やはり恥ずかしい、・・・ということで、(男は冷静だな~)、とまどったが、なにしろフランス人だからフレンチ・キスで、おいしくて?止めるわけにも行かない。でもこれがフランス流かな?と納得しながらキスを続けた。結局、やはり、まもなく、怒った? ママに二人は体よく追い出されてしまった。やはり、バーでフレンチ・キスはだめかな~?しかし、情熱の国スペインとはよく言うが、知性・芸術の国のソルボンヌの学生も、情熱的で衝動的だと言うことが、よくわかった。その後、どこで飲み直したか?食事をしたか?はよく覚えていない。昔のことだから中抜きの記憶なのだ。飲んだのは多分、キャンティだったろうと思う。食べたのはイタリア・マフィアのおじさんのニコラスだったろうと思う。タクシーで彼女を送っていって、別れのキスをしたら、彼女が、「私は、あなたと make love をしなければいけないわ」と涙声で言った。これが、涙ながらに話す文句かな~?さすがは、セックスが食事と同じ、フランス人だ。また、デートをして、こんどは彼女の下宿に泊まった。下宿と言っても、一軒家の一階部分を彼女が使っていて、家主さんは二階に住むという妙なシステムだった。入り口も別になっている。朝、気がついたら二階でフランス語が聞こえる。彼女が家主さんにフランス語を教えているのだった。フランス語を教え終えた彼女が下りてきて、私にキスをしてから、当然のように裸になった。私はそれをどう呼ぶのか?名前を知らないけれど、ウェストに金の鎖をベルトのようにしていて、これが首ならネックレス、手首だったらブレスレットなんだけれど。知っている女性は教えて欲しい。クラナッハの裸婦像のように、ホッソリした彼女の滑らかで白い肌に輝く金のチェーンには妖しい?感動を覚えた。彼女はその家にカギをかけていなかったので、私は彼女が働いている時には、会社帰りに彼女の家に上がり込んで彼女を待っていることもあった。ちょっときつめで、ちょっとわがままなお嬢さんだったが(とりあえず「ちょっと」をつけておこう)、他にガールフレンドもいないことだし、一人で帰宅するのも寂しいし、彼女にも優しい部分はあるし、私をとても好きそうだし、それに、やはり、独り身の男にとって、二人でいるとただ楽しい。ある日(昼間)、私がビジネス上の用事で或る会社を訪問して、地下鉄でオフィスに帰る途上、階段を登っていると、偶然、彼女が、階段の上から下りてくるのに出くわした。彼女は私を認めると、急に表情を変えて赤くなってうつむいて黙って脇を通り過ぎた。同行していた同期の同僚が、「おい、お前! あの女、やっちゃったんだろ?」と私に言った。あまり女性にはもてない男だったが、こういうカンは私より鋭いじゃないか?全く、彼女も、私との関係も、何も知らないのに、表情だけで読みとる洞察力には、驚いた。ま、仕事も出来た男だったが。でも、もうすこし言いようがあるだろうが。下品だぞ!(私も、あまり、えらそうなことは言えないが)しかし、誇り高いフランスの女性にも、こういう、恥ずかしがる反面もあるのかな?と意外だった。ある夜、私が彼女と眠っていたら、電話がかかってきた。彼女は長い間フランス語でしゃべっていたが、電話を切ってから少し泣いている。事情を聞くと、彼女のお父さんからだ。彼女の家は、確かパリのセーヌ河の中州であるシテ島にあるとのことで、写真を見せてもらったが豪邸である。おまけにローロス・ロイスとか高級車が二・三台写っている。お父さんの車だという。ヒエ~~! すごい。それに、彼女は、自分一人でフラットで住んでいて、イタリア車の名車、アルファ・ロメオ・ジュリエッタに乗っているという。ヒエ~~!そのアルファ・ロメオのガレージだか駐車場だかの料金を払え、とお父さんが言ってきたというのだが、東京にいて払えるはずが無いじゃないか。冷たいね。(当時は国際間の送金がまだちょっとややこしかった)それに、あんなに長い国際電話の料金の方が、ガレージの料金より高いだろうが!・・・と、私が怒ってもしかたがない。この父と娘の間には、暗くて深い溝があるようだ。個人主義のフランスだな~。ある朝、彼女から電話がかかってきて、至急来てくれと言う。行ってみると、首がむち打ち症になったという。あるイタリア人の男性に殴られたのだという。彼女はその男性が好きで、フランスから日本にまで追いかけてきたのだという。な~~んだ。ちょっとがっかり。それに、それじゃ、この私はどういう存在?病院に連れて行って、コルセットをしてもらった。彼女の首は常人より長め。モリジアーニの女性みたいだ。長めの首は、美人には見えるのだが、実生活面ではこういうふうに支障がでる場合があるようだ。猪首の女性は幸運ですよ。しばらくして、何かが原因で私達は、いさかいをした。彼女はフランス人特有のエゴイストで、それに感情的で激しい性格だから(女性はみんなそうかな?)、おとなしい?私も、ムカッとしたのだと思う。思わず、平手で彼女の頬を叩いた。叩いたとほんの軽くだけれど。それでも女性家族で育った私のはじめての行為だった。私が女性に手を上げたことなど無い。もちろん、現在、私は深く恥じて後悔しているけれど、その時は、私の手が、勝手に動いただけなのだ。(インド人みたいなことを言っているな、私は・・・)その時の私の潜在意識に、例のイタリア人男性がハッキリ存在していて、彼が彼女を叩いたと言うことは、彼は暴力的なマッチョの性格で、その彼に強くひかれている彼女は、マゾの要素が、少なくとも彼にはあるのだろう・・・という勝手な考え・嫉妬心が一瞬閃いたのだ。彼の真似をしたら、彼女は私を愛するようになるだろう・・・と。愚かだけれど、瞬間の事で、理性ははたらかなかった。しかし、彼女は当然怒って、私達の仲は終わってしまった。その後、ある夜、そのナイトクラブに行った。彼女ではまずい、と思ったので、他の女性を呼んでもらったら、彼女が強引に自分で私の席に来て座った。そこで私達は何もなかったように会話を交わしていたのだけれど、私は心持ち、もう一人の女性の方と多く会話を交わしていたと思う。すると、とつぜん彼女が私の手を取って、人目もはばからずに、彼女の柔らかな乳房に押しつけた。私は、これで、彼女は私に帰ってくれると思ったのだが、この後で会った時、彼女は私を、まだ許さないと言った。私は、それ以上はあきらめた。一度、夜中に彼女の家の前までタクシーで行ったことがあったが、結局そのまま帰った。あの胸に私の手を押しつけるという行為はなんだったのだろう。私への独占欲だったのだろうか?それとも、あきらめかけていた私に、もう一度彼女への執着を燃え上がらせておいて、冷たく断るという、手の込んだ残酷なことを考えていたのだろうか?その後まもなく、私は海外出張をしたし、お嬢さんも日本にはいなくなった。こういう風に、私は出張だらけだったから、落ち着いて、「美しい愛」をはぐくむ環境にいなかった。かえすがえすも、残念に思う。
2005.02.08
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一部の、私の女性との清く正しく美しいおつきあいの想い出日記を読んでくれる、奇特なのファンのために、シリーズで書いてみよう。昔々の話になるが、赤坂や六本木に外国人女性が働いていたバーやナイトクラブがあった。今は、外国人女性のいるバーやナイトクラブなんて、極くあたりまえで、山奥の温泉街にでさえあるらしい。しかし、本質的にちがうのは、働いている外国人女性だ。今は、発展途上国の女性が中心で、東南アジアはモチロンのこと、ロシアなどの東欧や、コロンビアなどの中南米の女性が多いらしい。「らしい」と言うのは、私は近年、そういう場所に立ち入っていないからだ。しかし、私が20代後半、30代であったころは事情がちがっていた。だいたい、外国人女性がそういう場所で働くことが基本的には無かった時代だし、東京でも、赤坂や六本木に数件あっただけだ。それに、働いている女性も、今とちがってプロはほとんどいなかったし、、働いている女性も欧米人ばかりだった。彼女たちは、旅行者ビザで日本に来て、小遣い稼ぎでそういう所でちょっと働いて、二三ヶ月のビザが切れたら次の国へ旅立つという女性がほとんどだった。その大半が女子大生だった。だから、いまのそういう場所とは雰囲気がかなりちがっているはずだと思う。私はそのころ、外国出張ばっかりで、帰国しても毎日夜遅く残業ばかりで、デートする時間なんて無かったので、夜遅く会社を離れた時だけが自由時間だった。それでもやはり、独り身の寂しさがあって、帰宅してもだれが待っているわけでもない。自然に、もう遅いのに赤坂や六本木に足が向かった。結果的に、そういう外国人の女性ばかりのナイトクラブで、飲むことが多かった。そこでは女子大生相手に英会話が勉強できるし、異文化を経験できるし、(これ、本当に言い訳かな?)、私は、日本女性にはふられてばかりだったし。
2005.02.07
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昨日の日記に参照した「我が秘密の生涯 MY SECRET LIFE」という本は、ヴィクトリア朝時代の英国のある著名な紳士が(すごいディレッタントでもある)匿名で書き残した性体験の詳細な記録である。赤裸々な体験告白と、ムダの無い直截な文体、性文学の名著でもあり当時の風俗の貴重な記録として定評である。明日の日本VS北朝鮮のサッカーの試合を控えて「前夜祭」として、焼酎を飲んでいる勢いを借りて、私なりの、日本女性との「我が秘密の生涯」を書いてみようと思う。私は日本の女性には振られてばかりだった。大学生時代だって、女性とはほとんどおつきあいが無かった。その当時は、男女が気易くおつきあいするという空気があまりなかったこともあったが、女子学生と半同棲していた級友のことを下記の「神田川」という日記にも書いたし、やるべきことをしていた人間はいたのだ。私の過去日記「神田川」そもそも、そのころの私には、女性に対して「つきあって欲しい」と申し出る勇気すら無かった。一度、級友に紹介してもらったすごい美人と一度デートしたが、ほとんど何もしゃべれなくて、明らかに相手はイライラして、二度と彼女とのデートの機会はやってこなかった。気の強そうな相手の女性の雰囲気に押されたのだ。もう一人は、逆に積極的な女性で、私のアパートに、夜、来て、なかなか帰らなかったから、「帰らないとやってしまうよ」おどかしてみたが(?)、動ずる様子もない。しかたがないので(?)、行為を試みたが、その当時は、女体の、特に下半身の神秘かつ複雑な構造についての基礎知識が無かったので、どこをどうしたらいいのか?もわからず、空砲を撃って失敗してしまった。もう一人は(結構いたじゃないか)、高校の時の同級生の紹介で、帰省中の実家近くのアルバイトで選挙運動員をしている時に、近所のお医者さんが議員の知り合いで、そのお嬢さんが手伝いに来ていた。一目見ただけで花のような、朗らかで、いかにも育ちのいいお嬢さんという雰囲気だった。女の姉妹だけの中という女の園で育った深窓の令嬢?は、一種独特の、男が抵抗できないような女らしい雰囲気としぐさをそなえているが、彼女はそういう女性だった。私は知的なキツめの女性や、アマゾネス・タイプのS型女性も好きだが、こういう女性らしい花のようなタイプにも弱い。(守備範囲がひろいのだ)それまで私は、はじめての選挙という大人の真剣勝負の状況の中で一生懸命、働いていて、彼女の存在には気がつかなかったのだが、ある日、彼女が私に話しかけてきて、すぐ相思相愛?の仲となった。相思相愛なんて、片想いと振られ専門の私にとって、はじめての、夢のような出来事だった!私たちの仲は、周りのアルバイト学生達もみとめていて、私の高校の同級生だった仲間達などは、思いがけず親身になって応援してくれて(今となって感謝の気持ちがわいてきた ありがとう! 友情に栄冠あれ!)、こうなると選挙など上の空で、天国のような日々だった。夏休み中だったので、そのうちに近所の盆踊りがあって、選挙の事務所が閉まろうという時に、彼女から盆踊りを見に行こうと誘われた。2人だけの盆踊りへの暗闇の中の行き帰りの夜道で、キスをしたいと思ったが、結局手も握れないまま事務所に帰った。私の優柔不断は筋金入りと言ってもいいと思う。そのうちに、バイトの学生の一人(京都の仏教系大学の人間だった)から、「選挙の時に、浮ついた心でけしからん」という「毛筆」の手紙をもらった。毛筆とは、さすが仏教系である。彼の言い分もわからないではなかったが、雇用主でもないのに、わざわざ私に手紙まで書いてくる彼も彼女が好きだったはずだ。選挙が終わっても、一二度、彼女とデートしたが、そのうちに彼女がデートに応じなくなった。私はあせって悩んだが、彼女は「私ももう年だから」と言い、両親からお見合いをすすめられているとほのめかす。彼女は私より年上だし、私は大学に入ったばかりだから結婚を言い出せる立場にはいない。それでも何とか複数カップルでデートを一度したが、何ら成果?が無いままに終わった。もう秋が迫り、新学期が始まろうという時期に、彼女から葉書が来て「選挙の時の仲間で同窓会をするから参加してくれ」と言われたが、彼女に望みが無くなった私は、意地になって行かなかった。いまでも彼女のことは忘れていないし、ときどき未練たらしく思い出したりもするが、失恋というものは甘酸っぱいものだ。もうひとり(オイオイ)、失恋した女性がいた。社会人になって同じ課の女性に紹介された彼女のお嬢様短大の同級生。国内線のスチュワーデスで、清楚で、彼女もいかにもお嬢さんというタイプだった。どこでどうデートしたかは覚えていないが、彼女が夜の散歩道に選んだのがホテル・ニューオータニと上智大学近くの神田川沿いの土手の並木道。そこで、土手に並んで座って、下を流れる夜の神田川と地下鉄丸ノ内線とJR総武線が走るのを眺めていた。そのうちに2人でキスをした。私にとってはじめてのキスだったので、ほんのちょっとキスをしただけで終わった。もっとしつこくするんだった!その後、彼女の自宅で、大手の会社の偉い人という感じのお父さんにも紹介された。私が大阪に帰省する時は彼女の羽田からのフライトを選んで、彼女は私の席に来て優しくサービスしてくれた。彼女の宿舎のホテルに行って夜の散歩をしたりした。しかし、そのうちに、選挙のお嬢さんと同じ様な状況になった。電話しても彼女の反応が思わしくなくなってきた。冬の雪のある日、青山のボーリング場に行った。私は学生時代ボーリングをちょっとやっただけだけれど、その頃は身体能力があったので、高得点を楽に出せた。それなのに、その日に限って、精神的プレッシャーのせいで、ろくなスコアが出せなかった。彼女の方は、堅実に私よりいいコアを出して、私の最後の面目も失墜した。まもなく、彼女を紹介してくれた同僚の女の子から彼女が同じ航空会社の男性と婚約したことを知らされた。いまでも彼女のことは忘れていないし、ときどき未練たらしく思い出したりもするが、失恋というものは甘酸っぱいものだ。同じ文句を書くな?航空会社の人間の奥さんと言えば、私は不倫の経験が一度だけある。私は独身だったが相手がもう結婚していたから、立派な不倫だと思う。不倫はしたことがないと言い続けてきた私だが、丹念に記憶をたどってみれば、少しはある。彼女はある外資系の会社の秘書だった。ビジネスの関係でその会社を訪れていたが、はためには私たちは仲良く見えたようだ。彼女の同僚が「てっきり、あなたは彼と結婚すると思っていたわ」と言ったという。そのころの私は、彼女との仲は意識していなかった。私が海外駐在になった時、彼女を含むその会社の幹部がその国に来て接待する事があって、彼女が誘ってくれて、その国の首都の夜の街を一時間ほど散歩した。帰ってきてホテルで幹部達に彼女を返すと、「あれ?もう帰ってきたの?」と、言われた。それから時間が経って、偶然に彼女と再会して、彼女とデートした。その時はじめて、彼女が結婚したこと、相手は某航空会社の人間だと言うことを知らされた。でも、もう後戻りは出来ない。夜、歩いている内に、私は私を振ってくれたスチュワーデスとのキス現場に彼女を誘導して、こんどはもっと時間をかけてキスをした。彼女とはその夜ホテルに泊まった。彼女が「夫は今日本にいない」という貴重な情報をくれたからだ。彼女とはそれっきりで、そもそも私は、女性との仲があまり長続きしなかったことが多い。ある程度以上の関係になると、精神的に重荷になるのだ。日本人女性とはこの程度だし、このように振られた(振られた話はもっと他にもあるので、続編として書いてもいいんだが)話ばかりだが、一度だけ、「栄光」に、ニアミスしたことがある。と言っても高校時代のことだが。それまで、私立の学校に通っていた私だが、高校は公立に入った。そこでは、男女が会話をするなんてほとんどあり得ない、硬派の世界だった。その高校で、数千人の生徒の中で美女とされる女生徒が数人いた。男性は、みなそうだろうけれど、私はそのころ(高校生)セックス・リビドーのピークにあって、日夜、セックスの悪夢に悩まされ、勉強など手につかないで、成績の方はさっぱりだった。今思えば、あの時に私は一時的に去勢してもらったら、それなりに勉学に励めて、もっと優秀校に進学できたかも知れないと言うとんでもない「見果てぬ夢」がある。だから私は東大生インポ説には(もしそういうものがあればの話だが)(失礼)、もろ手をあげて賛成する立場だ。ただスポーツだけは得意で、いろんなスポーツの祭典として校内大会というものがあって、私はラグビー・サッカーその他のスポーツでは(水泳をのぞく)花形だった。私の母親が、昔の私の同級生に会うと「alex君はスポーツがよくできた」と言うという。母親は「勉学がすごかった」と言って欲しかったらしいが、実態を尊重しなければいけない。私は私で、今までの私立のぬるま湯のようなお坊ちゃんの世界とはちがう、ハードな不良の男社会を見知って、これではいけないと思った。今までの自分がなんて女々しいのだろうと思い、意識して不良グループと交わった結果、欠課は頻繁になるし、教師からは見捨てられた。で、校内の美女の話だが、その中でも飛び抜けた美女の女生徒がいた。近辺の昔からの大地主の娘で、その家族の名前が地名にもなっているというお嬢様だった。雪のように色白で、つけ睫毛でもないのに睫毛が濃くて長い、校内の「女王様」だった。私は彼女と同じクラスにいて、おまけに彼女は私の前の席だったのだが、私はどうせ相手にされないと思っているから、彼女の後ろの席にいるだけで幸福ではあったのだが、わざと彼女に聞こえるように猥談のような話を級友としていた。彼女はおとなしい女性で、それには反応せずにジッと前を向いていた。ただ私も、さすがに彼女にはひかれていて、写真屋で手の平に入るほどの超小型カメラを小遣いで買って、制帽に穴を開けて、その穴から下校中の彼女の写真を撮った。その写真はまだ持っているが、当時のフィルムは高感度ではなかったので、女王様のお姿はブレている。後に大学時代、共に大学へ進学した級友たちと東京の安アパート会って酒を飲んでいたら、「彼女、おまえを好きだったんだよ」と言われた。他の不良の級友達も「なんで彼女はあんな野郎を好きなんだ」と嘆いていたという。オイオイ!なんで高校時代にそれを言ってくれたかったんだ!(涙)よく女性が「女友達なんて本当の友情じゃない そこへ行くと男友達は一生の誠実な友達でうらやましい」などと言っているのに、男同士の友情なんてこんなような、紙のように薄っぺらいものだったのか?(怒)世の中にはウソが多い!そういえば思い当たるが、最後の高校三年生の文化祭の準備作業中で、私が大工仕事をしていたら、女王様が二・三人のお付きを従え(美人にはかならずお付きがいる)てしずじずと近づいてきて、私にニッコリ笑ってチューンガムを一枚渡してくれた。確か多少のお言葉もいただいた記憶がある。私はなんにも考えずに、そのチューインガムをすぐ食べてしまったが、そうと知っていれば、家宝とか、永久保存版として残しておくんだった。その後、彼女は大学に進学して女子アマ・ゴルフで優勝していた。さすがお嬢様だ。やはり情報と善き友というものが、いかに重要であると言うことが、このことだけでもよくわかると思う。この私でもひょっとしてお金持ちの入り婿として、一生ゴルフでもして安穏に暮らして行けたかも知れないのである。持つべきは善き友。A FRIEND INDEED IS A FRIEND IN NEED.
2005.02.04
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今日は、昔の想い出を。 ~~~~~~~~~昔勤めていた会社で、若いころにほんの短期間受けた「スペイン」語講座の先生が、どうしてだか、「イタリア人」だった。私は、大学でスペイン語を第二外国語として習って、単位もチャンと取得したのに、スペイン語が全くしゃべれないと言う、一般常識からすれば奇跡の男。しかし、その当時は、その自覚もなく、新入生のつもりでスペイン語と真摯に戦った。わずか二ヶ月、8回だったけれど。それ以来、スペイン語に触れたことは無い。アディオス! ~~~~~~~~~そのスペイン語を教えるイタリア人の先生(男性)に、「イタリア人は世界一容貌的に美しい国民だと思いま~す」と言ったら、赤くなって恐縮していた。おとなしく、謙虚な、イタリア人らしくないイタリア人だった。私のイタリア人に対する美的評価は、もっぱら映画女優の美貌度を国別にして考えたものだったが、このごろ、欧州のサッカーを観戦しても、その評価は間違っていなかったと思う。イタリアのサッカーチームなんて、ちょっとジゴロ風だけれど、美男ぞろいだ。もちろん、イタリア国民全員が美男美女だというわけでは無いけれど、人間的で親しみやすい人が多い印象がある。人間的すぎて、ちょっといやなところもあるが。 ~~~~~~~~~同じく、会社の英会話講座で(自費で学ぶつもりは無いマナブ君だったのだ)、先生だった男性は、かなり有名な洋画の映画俳優だった。どこかで見た顔だと思ってはいたが。ときどき古い映画で彼を見付けて、「先生♪」という歌を口ずさんでいる。彼は、「日本人はとても優秀で正直で文化のある国民だ」と本気で思ってくれている素晴らしい!人だったが、同時に「その他のアジア人は全く低レベルの人間だ」という、「正しい認識!」の持ち主だった。「先生! 今、事態はそう簡単ではなくなってきていて、日本はもう、大変なんです!」 ~~~~~~~~~その英会話の先生が事情があって欠勤が続いた時に、代理として臨時に来てくれた、大学を出たばかりの若~いアメリカ人の女性は、名前からしてイタリア系アメリカ人で、すごい美人だった。彼女はアメリカ大使館員の娘で(どうもCIA職員の娘?)、自宅にも行ったことがある・・・といっても、大使館のコンパウンドの中のマンションだったけれど。なんとかしてもっと親しくなりたいと思って、寿司屋に連れて行ったら、タコを見て震え上がっていた。可哀想なことをした。あの当時はまだ外国人で寿司が好きだなんて奇特な人はほとんどいなかったし、タコ・イカは欧米人からすれば悪魔。今はマンハッタンで日本料理屋が数百軒なんて、考えてみるとすごいことだ。あるとき、あるアメリカ人の女の子のアパートの壁に、アメリカを出発する時に友人達が書いてくれた寄せ書きのようなものがピンで止めてあったのを見付けた。読んでみると「あの魚を生で食べるという東洋の国に、君は行ってしまうんだね!」という事が書いてあった。もちろん英語で。その女の子には、日本人も、毎日、刺身を食ってるわけじゃないんだ!第一、電気冷蔵庫がない昔は、生食するのは海の沿岸部の人だけで、内陸部の人は魚の干物を食べていたんだ。もっとも、京都では丹波地方で捕れたサバを徹夜で京都に運んだこともあって、それを鯖街道というだ・・・。と、そのように説明してやったんだが。
2004.12.15
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私は読んでいないが、「私が棄てた女」という遠藤周作の小説がある。読んでもいないのにどうして知っているのかというと、その題名が印象的だからだ。それにこの小説は浦山桐郎監督が映画化している。あらすじは、主人公が社長令嬢と結婚して幸福な日々を送るが、かってその肉体だけをむさぼっただけで捨てた女工が、彼との子供を中絶していて貧しい生活をしていることを知る、そこから彼の葛藤がはじまる・・・、そういう設定の映画だ。では私には「棄てた女」がいるか? ということになると、どうも自分を「よい人間」と思いたがる私の特質が邪魔をするのか? そういう私が悪人になると言う具体的な例が出てこない。その代わりに「私を棄てた女」については、恨めしい想い出が瞬時によみがえる。 ★ ★ ★ ★ ★ ★最近知った『驚愕の事実』なのだが、女性は、一つの恋愛が(その過程はどうあれ)終わると、その男性の事はまったく視界から消えるという。つまり過去の男の事は全く引きずらないで、新しい男が全視界を占めるという。昔の男が懐かしんで電話をかけてきても「フン!」てなものらしい。男なら昔の恋人の声を聴いた瞬間に、胸がジ~~ンとするものだが、女性は「なんの用事?」と思うだけだという。これは明石家さんま司会のテレビ番組でのテーマだったのだが、居並ぶ女らしい美女達がこの冷酷な女性の特質について、全く否定するところがない。それどころか、高嶋一家(高嶋忠夫・寿美花代・それに息子二人)の従姉妹にあたるヴァイオリニストの高嶋何とかさんなんかは、その冷酷の権化らしい。う~~ん!百年の恋も冷めるとはこのことだ。女性一般への恋だが。今まで女性をこの上なく貞淑で、淑やかで、繊細で、純潔な存在として夢見てきたのは、大きな間違いだったのだ。男が変わると、以前の男の事は「すべて削除」できる脳とハートをもつ生物らしいのだ。聴き終わったCDをを取りだして、新しいCDをセットするように、女性は男性をポイ!らしいのだ。悔しい!男は女性と別れた後も(その経緯は別として)(都合がいいかな?)、その女性を忘れることなく、想い出を大事にしている。男の方がよほど女らしいではないか?悔しい!いい機会だからこの際、私の幼児期からの、歴代の「私を捨てた女」をひとりひとり想い出しながら、今夜の丑三つ時にでも、近所の神社の大木にワラ人形をカ~~ン カ~~ンと打ち付けてみよう。そのワラ人形を踏みつけてもいい。その時間に、急に腹部がシクシク痛み出したら、その女性は、私を棄てた女です。・・・てな訳は、無いか?
2004.11.19
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私の記憶の奥底で、昔たしか「SM喫茶」という言葉があったという気がしていた。「SM」という激しくも鮮烈な世界と、「喫茶店」という、つつましくもほのぼのとしたスポットとのコントラストに、一体どのような「喫茶」なのか?興味を覚えたのだ。ところが最近、そのSM喫茶というものが不死鳥のごとくよみがえっているのを知った。たまたまある女神の名前をネット検索したら,その名前を持つこのSM喫茶が、呼びもしないのに検索に引っかかってきたのだ。飛んで火にいるSM喫茶なのである。このSM喫茶のサイトは美しい言葉で飾られている。~~ 音楽の無い静けさが神秘の世界への出発点なのです。過去の人生を捨てて今日から【素晴らしい未来への旅立ち】へ挑戦して下さいね。素晴らしい【愛への思いやり】・・真実のSMを男女スタッフが心を込めてご指導致します。 ショーを観に来られた女性客は大胆な会話に花を咲かせた後、「私も縛られてみた~い」「女王様を演じてみた~い」とショーへの飛び入り参加を熱望する。筋書の無いショーの始まりである。 Mに興味ある女性は縛られての逆さ吊りや十字架への張り付け。Sに興味ある女性は女王様の衣装に着替え鞭を持つ。その瞬間から雰囲気も女王様になりきってしまい、思わず溜息を付いてしまう変貌振りに店内は和気藹々ムードです。~~『店内は和気藹々ムード』だとは言うが、『真実のSMを男女スタッフが心を込めてご指導』されたら、真実の「S」か、「M」になってしまうじゃないか!『女王様とM女募集中! 本当にやる気のある女性募集しています。』・・・とも書いてあるが、こういう所で『本当にやる気のある女性』って、怖く無い? ~~~~~~~~~ 実は、昔は、いろんな種類の喫茶店があった。まず『美人喫茶』というのがあった。私が覚えているのは『プリンス』と『コンパル(金春)』。中は長いカウンターになっていて、美人たちがズラッとカウンターの中で立っている。客はスタンドに座って、トイメンの美人達と会話を楽しみながらコーヒーなどを飲む。それだけなんだけれど、この美人喫茶の美人達は本当に美人だった。今は美人だったら、いろいろなお仕事があると思うけれど、むかしは女優ぐらいしか思いつかなかったのではないだろうか?そういう、思いつかなかった美人が美人喫茶のカウンターの内側でにこやかに微笑んで私を迎えてくれたのだ。(別に私だけじゃないんだけれど)銀座のバーの喫茶店ヴァージョンと考えてみればいいのだと思う。今でもこういう美人喫茶があればいいのだけれど、今は美人のコストが高くなっていて、美人喫茶ぐらいの報酬では雇えないだろうと思う。 ~~~~~~~~~喫茶店といえば、大昔の、つまり私の高校生の頃までは、むやみに入ることをはばかれる社会的風潮があった。そう言えば映画館もそんな感じだった。私は平気だったけれど。そう言う喫茶店のメニューの一番底の方には 飲み物 とあって、『ウヰスキー』(わざと旧い「ヰ」を使ってみました)というのがある。これを注文すると(さすがに高校生の時ではなくて、大学生になってからだけれど)、お猪口ぐらいの小さなサイズのガラスのグラスにウヰスキーが注がれているのが出てくる。ストレートだ。もちろん、お水のチェーサーもついてくるが。 ~~~~~~~~~ジャズ喫茶というのもあった。私は高校の時からモダンジャズが好きになり、大学でモダンジャズの同好会に入ったほどだから、「ダンモ喫茶」と当時称していたモダンジャズがかかっている喫茶店で、毎日何時間も聴いていた時代がある。(なんだか、喫茶店という単語からどんどん、昔の記憶が出てくる)このダンモ喫茶では、普通は映画館でしか揃えないような、超高級なハイファイステレオ装置を備えていて、モダンジャズのレコードを大音響でかける。JBLとかアルテックとかいう、ジャズ向きのアメリカ製のスピーカーに、マッキントッシュなどのアンプ・・・。ダンモ喫茶の壁面全体がスピーカーになっていたようなすごい店もあった。その典型が新宿にあった木馬かな?このダンモ喫茶でかかるレコードは、客のリクエストによる。演奏中のレコードのジャケットは、客の目につく場所に掲げられる。モダンジャズのレコードのジャケットは、当時なかなか重要な役割を演じていたのである。数あるレーベルの中でも、ブルーノートというレーベルのジャケットがセンス抜群だった。 ★ ★ ★ ★ ★ ★中でも私のもっと好きなジャッキー・マクリーン、それにソニー・クラークの【Cool Struttin’】は、マンハッタンとおぼしき街中を、スリット入りの黒いタイトスカートをはいた脚線美のキャリア・ウーマンらしき女性がハイヒールでさっそうと歩いているもので、演奏も最高、ジャケットも最高の見本のようなレコードである。このジャケットの写真は下記で。ジャケットもうひとつ、今は超有名盤になったヘレン・メリルの【You'd Be So Nice to Come Home To】が入っている【Helen Merrill with Clifford Brown】。日本ではヘレンは「ニューヨークのためいき」とか「魅惑のハスキーヴォイス」とかの形容がお決まりだが、米国のアマゾンではこのレコードでのヘレンを【breathy】と表現している。このレコードを聴いていると、本当にヘレンの息づかい・つぶやき・あえぎが耳元で鮮明に聞こえ、悩ましいことこの上ない。このジャケットは、そんなふんいきを伝えるものになっている。ジャケットの写真は下記で。ジャケットジャッキー・マクリーンもヘレン・メリルも来日コンサートへ行った。特にヘレンは高校時代に初来日した時にその歌声とモダンな唱法にひとめ(?)惚れして、(本当はその美貌にもだが)、二回目に来日した時は大学生だったが、コンサートが終わった後、勇気を振り絞って楽屋に行き数枚のレコードにサインをしてもらった。今でも彼女の輝くプラチナブロンドが目に浮かぶ。 ★ ★ ★ ★ ★ ★ダンモ喫茶に戻ろう。自分の好きな曲をリクエストして、その曲がかかるまで、自分の席でジッとうずくまって待つのだが、この間の時間がまた、それなりにいいのである。リクエスト曲がかかると「みなさん これは私がリクエストした曲ですよ」的な表情を浮かべながらリズムをとる人が多いたまに自分の知らないレコードがかかると、そのジャケットを手にとって、ライナーノートを読んでみる。ダンモ喫茶の客はもちろんモダンジャズが好きな客ばかりで、普通の喫茶店のように集団やカップルで入ってきたり、コーヒーを飲みながら談笑する・・・ということはない。ひとりひとりが、ひたすらに曲に没入しながら何時間も過ごす。モダンジャズ・ファンという層は考えてみればおかしな人種だったなと思う。当時のダンモ喫茶の名前も覚えている。新宿の「きーよ」「ヨット」「DIG」「汀」「木馬」「ピットイン」「メッセンジャーズ」・・・。早稲田の「もず」。もう一軒あったな。渋谷の「オスカー」その他。東京駅と有楽町の「ママ」そういえば「DIG」は三軒ほどあって姉妹店らしかった。村上春樹が一時「DIG」のオーナーをしていたという。村上春樹の小説は二三冊持ってはいるのだがまだ読んでいない。ただし、その題名にひかれて「やがて哀しき外国語」という、彼が米国ニュージャージー州のプリンストン大学で客員教員(かな?)として過ごした頃の事を書いた本を読んだ。アマゾンの書評では「アメリカでの生活の実態が鮮やかに描かれている」とか「日本とアメリカの文化の違いが」とか「彼の本の中で一番好きな本」などと絶賛だが、私には、ありきたりで、何も発見や深さ・シャープさの無い、退屈でつまらない本だった。新刊書で買うのじゃなかったと思うほど。これで彼の小説を読む意欲が、また減退してしまった。今ではダンモ喫茶は、ほとんどもう死に絶えてしまった。吉祥寺に「メグ」という店があるそうだが。 ~~~~~~~~~私は入ったことがないが「電話喫茶」というのが一時流行った。店内の各座席のテーブルに電話機がのっている。その電話は内線でつながっていて、魅力的な異性を見つけると内線で「もしもし!」と話しかけるわけだ。一種の出会い系サイトといえないこともない。シャイな私?には、露骨すぎる感じがして、行こうという気が起きなかった。当時は「俳句喫茶」というものもあったというが、どんな喫茶店なのか? 見当もつかない。近くは「ノーパン喫茶」というのもあったな。これは、どんな喫茶店なのか? 行ったことが無くても見当はつく。松井秀喜選手が通ったというのは「ノーパン喫茶」ではなくて、「ノーパン・しゃぶしゃぶ」だった。ところでこの「ノーパンなになに」というネーミングは、「しゃぶしゃぶ」だけに与えるのはもったいないのではないか?「ノーパンすき焼き」とか「ノーパン焼き肉」とか「ノーパン信州蕎麦」とか「ノーパン・フランス料理」とか「ノーパン本屋」とか「ノーパン百貨店」だとか「ノーパン・スーパー」だとか「ノーパン薬局」とか「ノーパン・キオスク」だとか「ノーパン魚屋」だとか・・・。でも、さすがに、「ノーパン下着屋」は、おかしいかな? ~~~~~~~~~「歌声喫茶」というのも一時流行った。二三回行ったことがある。店内にリーダー(従業員)がいて、ロシア民謡や左翼系の歌を客に合唱させるのだ。当時の流行歌のいくつかは、こんな歌声喫茶から広まっていった歌がある。「ともしび」等はその代表格かな?追加。「名曲喫茶」というのがありましたね。今も一部に生存しているらしいけれど。クラシック音楽をかけてくれる。いい雰囲気だったけれどな~。渋谷にライオンというのがありましたね。
2004.11.13
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ある世界・業界でだけ通じる特殊な言葉のことを英語で jargon ジャーゴンといいます。もともとは鳥がぎゃ~ぎゃ~鳴く声と言うことで、転じて訳のわからないこと、そうして、商売・職業上の通用語・隠語・特殊な人たちだけに通じる通語などを言います。例えば英国の貴族が狐狩りをする時に着る赤いジャケットを、赤いにもかかわらず『ピンク』と呼びます。Tak-shonaiさんが「乙仲 おつなか」と言う言葉を、業界語として取りあげていたので、輸出手続き上の商社と乙仲の業務分担についてちょっと書いて見ようと思います。------私は商社に入社したあとすぐ、船積み課に配属されたので、乙仲(おつなか)さんとのつき合いの毎日でした。乙仲さんは英語で forwarding agent.例えば、上組さんなどが乙仲さんです。私にとっては乙仲と言う言葉は、ジャーゴンではないのですが、一般の人にはやはりそうかな?輸出の場合、乙仲さんはメーカーから商品を受け取って保税倉庫へ運び、通関にかけて、船済までを担当します。商社の船積み担当は、船腹予約(船の予約)をして乙仲と客先に通知、メーカーからの書類に基づいて通関用の船積書類を作成し、領事査証用の船積書類を作成し領事査証を受け、商工会議所で原産地証明をうけ、検査会社とメーカーの輸出商品の輸出検査を受け、検査書類と共にそれらの書類を乙仲に手渡し通関にかけてもらい、無事通関が通れば、今度は客先への船積書類を作成し、船が出航したら、商社の外為部門が、船積書類をL/Cと共に銀行の外為部門に持ち込みネゴ(L/Cの買い取り=客先よりの代金引き落とし)して入金となります。何十年も前のことで、今はこの通りではないかも知れない。
2004.10.17
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――― 昨日の続き ―――昨日の日記で『昔の米国の白人女性歌手の歌を聞くと、気分が落ち着いて幸せな気分になる』とかいた。考えてみたら、その原因は、私の個人的な体験にもあるのかも知れない。私の幼児期は米軍専用のラジオ局があって、毎日ガンガン、ジャズを流していた。ニュースも番組も音楽も・・・モチロンのことだがアメリカもの。そんな音楽番組の中で、圧倒的に多かったのが白人女性歌手の歌声だった。それに、その頃の私の家は米軍の将校家族が住んでいる特殊な地域に隣接していた。その地域は大きな洋館ばかりだったので、米国側としては絶好の物件?で、戦後すぐに接収されて将校の家族達が入居していたのだ。おかげで私は古き良き40年代の米国社会のコピーと隣接して生活していた。いまでも40年代50年代の米国の映画や「アメリカン・グラフィティー」などの懐かし系の映画を観ると、その中にあの住宅地で観た風景が再現するようで、懐かしい感情が押し寄せてくる。あのころの女性のロングスカート。彼女たちのちょっと英国風な短めのパーマの髪型。原色のドレス。赤い口紅。若い男性の短く借り上げた髪型。身体にピッタリした半袖シャツとチノパンツ。その住宅はほとんど緑の芝生に白いペンキを塗った柵がつきものだった。中にはプールのある家もあり、住宅自体も米国人好みに白くペンキで塗られたものが多かった。将校夫人達は、美人が多かった。今とちがって軍隊の地位が高かった事もあり、米国も階級制が今より強かったこともあり、将校の夫人には良家の令嬢が多かったのだろうと思う。美しいのはいいのだが、夏になるとショートパンツ姿で、マリリン・モンローのような正視出来ないほど悩ましい姿態で歩く姿は、幼いには刺激が強かった。もっとも、この頃は敗戦直後で、この住民は占領軍の将校の家族であり、私たち日本の住民とはほとんど交流が無かった。ある夏の日、私がその住宅街を歩いていると、焦げ茶色の長い毛の猫が道を横断した。考えてみたら当時の日本の飼い猫はほとんどが日本特産の三毛猫で、こんな毛足の長い種類の猫はいなかったから、外国種の猫だったに違いない。その住宅街の道は、当時の日本の道路としては特別に例外的にコンクリート舗装の幅広い道だった。私がその猫に近づくと逃げない。私が抱き上げたら、アメリカ人の私と同年齢ぐらいのブロンドをリボンで結んだ女の子が駆け寄ってきて、その猫を抱いた。そうして私に親しげに話しかけた。どういう会話を何語で交わしたかは覚えていない。その時、鋭い声がして、赤いドレスをした母親らしき女性が両手を腰に当てて、私たちをにらんでいた。結局その女の子は家に連れ戻され、お尻をパンパンされていた。猫を逃がしてしまったのが生けないのか? 被占領国の日本人の男性?と親しげに話したのがいけなかったのか? とにかく、この女の子は可哀想にお仕置きをうけてしまった。私の初の人種差別体験? である。この家の夫人は非常にキツイ人だと、日本人のメイドが母につねづね語っていたそうだが。それにアメリカ人の悪ガキどもが、私たちむけて空気銃を撃って喜んでいたのも思い出す。米軍基地反対!米軍は沖縄から去れ!(急に左翼化してみました) ★ ★ ★ ★ ★ ★私は楽天日記を今年からはじめる前は、ある映画BBSに投稿していたのだが、そこに書き込むことになったきっかけは、そのBBSの管理人さんが、映画女優のデボラ・カーのファンだったと言うことにある。私の好きな映画女優は、一番初めはヴィヴィアン・りーだった。映画を見たこともなかったのだが、映画雑誌で見る気品に満ちた、それでいて清楚な美貌にひきつけられた。私の女性に対する容貌的な好みは、彼女によって烙印されたのではないかと思う。次に好きになったのは、清純なピア・アンジェリという女優だ。有名な建築家だった父親の友人の映画監督が、まだその頃はローマの画学生だった18才の彼女を『明日では遅すぎる』という映画の主演に抜擢、一躍世界的なヒロインになった。中学生だった私は、テレビで放映された『明日では遅すぎる』の彼女を見て、はじめて精神的に女性にひきつけられた。彼女の大きな清純な、強い精神性を秘めた瞳に心を奪われた。それからの私は、男のくせに(!?)、当時大人気だった月刊の映画雑誌を読みふけった。少しでも彼女の情報や写真がないかとの一心だった。おかげでその頃の映画とさまざまな女優さんの情報には強くなった。映画雑誌からいろんな女優さんのスチール写真を切り取ってスクラップした。ピア・アンジェリ以外にもかなり好きな女優さんも出来てきたのだ。それから大学生になって上京してからは映画のことを忘れていた。新しい環境でそれどころではなかったのだ。次に社会人になって、かなり激務だったし、海外出張も多くて、映画どころではなかった。老年になって? ビデオ・レンタルショップに入ってみた。それまではソニーのβビデオ・デッキだったので、レンタルには不向きで眺める程度だったのだが、家族からのお下がりのVHSビデオ・デッキを持っていることに気がついてビデオを借りだした。初めはエロティック・サスペンスと言うジャンルのビデオを借りていた。文字通り、セクシーな美女がセクシーな場面を演じるので、大満足。邦画やポルノにはあまり興味がなかった。洋画ポルノは健全で(??)、セックスを明るく楽しく演じてくれるので真題意のだが、日本のポルノはどうも、泥臭く・汚く・貧乏くさく・変態くさく・・・、清く明るく正しい私には不向きなのだ。卑猥さが強すぎて、どうも後味が悪い。そのうち、アカデミー賞受賞作品コーナーで『地上より永遠に』という作品をレンタルして鑑賞してみた。冒頭の場面で、ハワイの基地に転属してきたモンゴメリー・クリフト(私の好きな男優)が、直属の上官(軍曹)のバート・ランカスターに自己紹介する。ランカスターというのは実に下士官が似合う男だ。また、そのしゃべり方が正に下士官。その時、オープンカー(というか、正確にはコンヴァーチブル)をブロンドをなびかせて運転して、基地の建物の前で停車して、建物に入って行く気品に満ちた美貌の女性。バート・ランカスターが『ヒュー! (彼女が乗り付けるとこのむさ苦しい軍隊の基地が)まるでロイヤル・ハワイアン・ホテルだ!』と彼女の美しさを賞嘆する。クリフトが『あの女性はだれですか?』とたずねる。『○○大尉(この基地の上官)の奥さんだ』とランカスターが答える。このシーンを見た時、私はある女性を思い出した。幼児期の米軍住宅地の住人のある女性を。私がまだ小学校の低学年だった頃、私の登下校途中で時々すれちがう白いコンバーチブルの自動車があった。運転しているのはブロンドの肌の白い女性だが、その彼女の横顔が、この『地上より永遠に』で基地にコンヴァーチブルで滑り込んできたデボラ・カーの、髪型も含めて、横顔にそっくりなのだ。念のため妹にもこの私の記憶を話してみたところ、妹もその女性を覚えているという。その将校住宅の人たちは、もちろんみな自家用車やジープを持っていたのだが、私には個別の記憶が無くて、ただ彼女のあまりアメリカ的ではない、繊細な上品な、美しい女神のような横顔だけを覚えている。その将校夫人の車は、私とすれ違う時にはかならず徐行してくれたので、よく見えたのだが真っ白な車体の内側はシートを含めてすべて、真っ赤な革製の内装だった。革製の内装というと英国車のジャギュアーが有名だが、このころは米国車も高級車はそうだったのだ。車種は、その車のスタイルからたぶん高級車のパッカードだったと思う。ビイュック、またはハドソンだったかもしれない。そうしてステアリングに指をかけたその指も、本当に白魚のように白く細かったことを鮮明に覚えている。私の初恋はいろいろある。なにしろ幼い日の想い出は、時系列的に前後がハッキリしないので、みんな初恋と呼ぶことにしているのだが、この将校夫人の場合は、長く記憶に埋もれていたのを発掘した考古学的な初恋・・・といってもいいと思う。デボラのこの映画での役柄も米国将校夫人、車もおなじような真っ白なコンヴァーチブル。この初恋の人とそっくりな貴婦人風英国女優、デボラ・カーを発見した私は、それからデボラ・カー主演・出演映画のビデオをアマゾン・米国から輸入した。どうして輸入かというと、日本のビデオは『王様と私』『めぐり逢い』『黒水仙』ぐらいしか発売されていないからだ。米国に行き機会には、ビデオ・DVDを必ず買った。一種のビデオ・ストーカート言えるかとも思う。この結果、現在の私はデボラ・カーのビデオ・DVDのコレクションでは日本有数かも知れない!!と言っても、彼女のビデオ化された映画は、多いと言ってもたかが数十本、難易度の低い「日本有数」である。デボラ・カーの他に、『バンド・ワゴン』などに出演しているダンサー兼映画女優,シド・チャリースも好きで、ビデオなどを集めた。ピア・アンジェリはもちろん。これらの場合も私は「日本有数のコレクター」の座に君臨している。特にピア・アンジェリの場合は、10本前後で『日本有数』となれるのだから、うれしい。残念ながら今となっては古い時代の女優となってしまった彼女たちの美しい姿は、もうビデオ・DVDにしか残っていないが、そのビデオを買い占め?てしまえば、彼女たちは永遠に私のものなのである。ひさしぶりに今晩は、私の美神達とビデオで逢おうかな?それに、いつものビールや焼酎では女神に申し訳ないので、ワインでも買ってこようか? とも思う。
2004.10.13
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久しぶりに女性ジャズ歌手のCDを聞いている。『JONI Sings』 というアルバムで、これは『JONI Sings songs by Victor Young and Songs by Frank Losser』というアルバムと、『JONI Sings songs by Jerome Kern and Songs by harry Warren』と言う、二枚のアルバムを一枚にした『TWO ORIGINAL CLASSIC ALBUMS ON ONE CD』と銘打ったお買い得CDだ。JONI JAMES は、昔のポピュラー・ジャズ歌手。清楚な美貌の白人女性で、とてもおっとり、しっとり、ゆっくりと、スタンダード・ジャズを歌う。今聞いていても、無条件に、優しく、暖かな、幸せな・・・、気持ちになる。いろんな好きな音楽の中で、私が『一番くつろげる音楽』と言えば、結局、こういう古き良き時代の米国の白人女性歌手の歌う曲・・・と言えると思う。なぜ白人女性歌手かというと、ディズニー映画などに代表されるような、不安も悩みもない、ただぬくぬくとしあわせなアメリカ的雰囲気をつくる歌声は、黒人歌手ではちょっと無理なのだ。黒人歌手の場合、その苦さのある塩辛い歌声に、暗く哀しい歴史の想い出がこもっていて、単純に無条件に幸福気分にはなれないのだ。ディスコ・クィーンと言われたドナ・サマーなどは、豊かななめらかなハッピーな歌声だから、例外かな?こういう『癒し系白人女性歌手』は、他に :ロースマリー・クルーニーダイナ・ショアジョー・スタッフォードドリス・デイパティー・ペイジ(テネシー・ワルツ)などがいる。それぞれCDを持っている。他に、ヘレン・メリルクリス・コナージューン・クリスティーアニタ・オディーというモダンジャズ系の歌手も、癒し系の曲を歌っている。私の好きなヘレン・メリルは失恋の唄のスペシャリスト美神だから、ちょっと哀しい唄が多いが、その哀しさの中でもしみじみ・しっとりとした儚い情感があって、結局いやされることになる。クリス・コナーはヘレンとちがって、ニューヨークかシカゴの優秀な上級秘書を思わせる、ドライで都会的で知的な歌い方。大学時代は、朝はまずクリス・コナーのレコードをかけてさわやかな気分になっていたので、彼女のCDを聴くと、その大学時代の朝を、懐かしく想い出す。
2004.10.12
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買い物に関しては、人によって好きなものがあると思う。ウィンドウ・ショッピングをしていると思わず買ってしまうものがある。私の場合は、カバン・バッグ類、財布類、手帳、衣類と靴とナイフ、乞食市で売っているような得たいの知れない骨董品とはよべないレベルの小物・・・などがそれに当たる。まだまだ、あるのだが、思い出せば書いてみたい。----------------この頃の若者はずいぶん背が高い。私は、昔の基準で言えばかなり大男で、衣類と靴には苦労した。というのも、昔は衣類と靴にはサイズの大きいものが無かったのだ。中学までは背の高い方ですんだので、苦労はなかったのだけれど、高校時代に急に背が伸びて、朝礼の時には列の一番最後に並ぶようになった。ここからが私の苦闘時代のはじまりである。先ず、運動靴の苦労がはじまった。私は背が高い上に、いわゆる『バカの大足』だからサイズが簡単には見つけられなかった。だが、実はどうして『バカの大足』、こういう言い方をされるのか? 理不尽さに納得が行かない。日本人は小柄な人間に味方するのか? いろんな言い方で大男をいじめる??『山椒は小粒でもピリリと辛い』『大男 総身に知恵が回りかね』『ウドの大木』五条の橋の上の果たし合いでも、小男代表の牛若丸が、大男代表・弁慶をヒラリヒラリと交わすところが受ける。『それにこの『バカの大足』が追い打ちをかける。運動靴は底がゴム製だから、革靴のように『履いている内に革がのびて足に馴染む』ということはありえない。とするとどうしても、サイズを見つけなければいけない。探せばあるのだが、普通の店では私のサイズを見つけることは簡単ではなかった。唯一、オニヅカ・タイガーというメーカーが大きなバスケット・シューズを売っていた。えらいメーカーである。私の好感度のせいか? 今はアシックスという大メーカーになっている。バスケット・ボールという競技は大男が有利だから、大男が選手になる。だから、ビッグ・サイズの運動靴(スニーカーという米国流の呼び方は当時は無かった)もありえた。こういう論理的帰結になる。----------------大学にはいると、当時は石津謙介さんの『VANジャケット』そのシニア版の『KENT』という、いわゆるアイヴィー・ファッションが流行っていて、私も付属高校から進学してきたお洒落なお坊ちゃんが多いモダンジャズのクラブに入ったことでもあり、アイヴィー(アイビーという方がいいかな?)ファッションに夢中になった。今はご婦人のファッションへの熱意を冷ややかに揶揄する私も、よーく考えてみれば、人のことは言えないからだなのである。ともかく、このバタくさいアイビーが、それまでの日本男性のおしゃれ意識を180度変えたと思う。それに当時は、六本木や銀座みゆき通りに、髪は短いクルーカット、綿パンの裾を折り返し、ボタンダウンシャツ、脇にはVANブランドの紙袋をかかえ、コインローファーを履いて、細巻のこうもり傘(どうも古臭い表現だな~)を持った、『みゆき族』という少年達が、これ見よがしに徘徊していた。また、そういう少年達を大橋歩さんが表紙に描いた『平凡パンチ』という都会的な青少年向けの週刊紙が創刊されて、『アイビーブーム』をさらにあおった。ただ、石津謙介さんのVANのアイビーは、本物のアイビーではなかった。本物のアイビーファッションは、米国東海岸のエリート8大学、ハーバード、エール、プリンストン、コロンビア、ダートマス、コーネル、ペンシルべニア、ブラウン、通称アイビーリーグの学生のファッションで、その卒業生がそのままアイビー基調の着こなしをする。J F ケネディー、スティーブンソンなどがその典型。メーカーとしては、ブルックス・ブラザーズが代表だが、ライバルのメーカーが・・・。社名を思い出せない。ジャケットを一着持っていたのだが、サイズがちょっと小さすぎたので、ホームレス支援団体に送ってしまった。アイビーのジャケットを着たホームレスの人が、大阪西成区愛隣地区にいるはずだ。ブルックス・ブラザーズなどの本物のアイビージャケットは、ナロウ・ショールダーではあるものの、しっかりしたかちっとした仕立てで高級生地を使用している。アイビーリーグが伝統校・エリート校だから、アイビー・リーガーは社会に出てもエリート。そのエリートが着る背広だから、高級なのは当然。しかし、当時の日本の大学生は貧乏だったから(私の神田川の日記など、涙無しには読めない貧乏レベルである)、とてもそんな高級スーツは買えない。そこで石津謙介氏は、ペラペラの安物生地で、しかも生地をケチった思い切り細身のスーツを日本版アイビー・スーツとした。だから、私でも買えた訳だから文句を言ってはいかんな。反省。そのうちにVANのライバル・メーカーとして『JUN』というブランドが出てきた。こちらの方は、トラッドというより、ちょっと欧州スーツ・コンテンポラリーと呼ばれるファッションの風味があった。とにかく、若者向けのスーツは、従来の英国調から肩幅の狭いアイビー調にすっかり代わってしまった。私に関して言えば、都合よく、父が米国へ出張していたので、茶色のスェードのジャンパーや、極細のネクタイ、革靴などを買ってきてくれた。それに、LEEのホワイト・ジーンズ、白のソックス、ボタンダウンのオックスフォード生地のシャツなどを着用すれば、アイビー・ボーイの仲間入りが出来た気持ちになった。----------------この極細のネクタイについてはちょっと書いておく。幅が極端に細くて、ワイシャツの前立ての幅しかない。しかも、ネクタイの下の部分、つまり表面には見えない部分には『ボタン穴』が空いていて、シャツのネクタイに止めるようになっていた。これでネクタイピンが要らなくなると言う理屈。このネクタイは気に入っていたんだけれど、どこに行ったかな~?(いつも これだよ!)----------------石津謙介さんのアイビーは貧乏な若者向けに、『細身』で『安い生地』と書いたが、私の独断と偏見だが、もう一つの理由があったと思う。それは当時大流行のモダンジャズの黒人プレイヤーの独特のファッションが影響していたと思うことだ。繰り返すが、これは私の個人的推測。私は大学でモダンジャズのクラブに入って、時々来日する黒人のモダンジャズ・メンのコンサートに行った。彼らも米国本土でも流行のアイビースーツを着ているのだが、お洒落な彼らは、思い切り細身のピッタリしたスーツにインプロヴィゼイションしているのだ。偶然かどうか、石津アイビーにそっくりなのだった。----------------で、靴の話だけれど、アイビーの靴には大きく分けると、ヒモ型とヒモ無しスリップオン型があった。ヒモで結ぶ靴のつま先はウィングチップという模様がついていた。プレーン・トーはあまり流行らなかった。スリップオン型は、甲の部分にコインをはさむ『コイン・ローファー』が主流だった。父は米国から、ウィングチップを買ってきてくれたのだが、アイビー・スーツでなく、ホワイトジーンズだと、ウィングチップは似合わない。スリップオン、とくにコインローファーを履かないと、画龍点睛を欠くことになる。それではいかんと、探したのだが、これも当時は私のサイズはなかった。あのアイビー御用達のリーガル・シューズでもだめだった。それで、普段はバスケット・シューズを履いていたのだけれど、スリップオンを大学近くの靴屋に発注した。しかし、この靴が出来が悪くて・・・。ブカブカだった。それに当時の白の棉ソックスはゴムがしっかりしていなくて、すぐズレ落ちてしまった。なんであんな粗悪品を売ったんだ?仕方が無いから、祖父がしていた膝の下に占めるガーターでソックスを吊っていた。苦労したものである。----------------・・・どうも、こんな事を書くつもりじゃなかったのだけれど、買い物の話で書き始めたのだけれど、思い切り迂回・寄り道をしてしまって、靴の苦労話になった。まぁ、いっか?買い物の話は、また書くとして一応今日は『これぐらいにしといてやるわ!』----------------追記。何げなく、脱線で書いたアイビーだったが、思いがけなく多くのコメントをもらい、それも『懐かしい』という声なのでうれしかった。ちょっと部分的に私のレスの繰り返しにもなるが、まとめておきたいことがある。石津謙介氏がはじめた日本式アイビールックは、日本の洋装若者メンズ・ファッション界の革命であり元年であったと思う。それまで、日本の若者のメンズ・ファッションには方向性もお手本も無かった。そこにアイビー・リーガーズのファッションを、多少モディファイして日本に移植した石津氏の功績は大きい。学生達が初めて、スーツを着るようになった。ネクタイをするようになった。方向性のあるお洒落をするようになった。フォーマルとカジュアルについて意識が出てきた。当時の男性服装雑誌だった『メンズ・クラブ』もたちまち、アイビー一色になった。----------------私自身は学生時代にこの石津アイビーの洗礼を受けて、社会人となって入社した時は、『今年はアイビーが入社してきた』と女性社員に言われるほどまだアイビーの影響下にいたが(大げさな!)、その後、英国駐在をしたこともあり、英国では私のサイズのスーツがザラにあったこともあり、さらには英国風の紳士ファッションが好きだったので、スーツ・コートなどの比較的フォーマルに近いものは英国調に、一方、カジュアルはそのまま米国風のジーンズ・ファッション・・・と言うことで、・・・今に至る。しかし、現在の私のカジュアルは、ユニクロ度80%と言ってもいいかも知れない。XLサイズが必ずあるユニクロは、昔、私に貢献してくれた『靴のオニズカタイガー社』と共に、『ほめてやりたい会社ナンバーワン』であり、出来れば私の推薦で『名誉の殿堂入り』させてやりたいものである。(勝手かな?)―― 続くかも知れない ――
2004.09.30
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このごろ日記を書く意欲が減退している。その代わりに、夜の町で飲む機会が増えた。いろいろ面白い?人間がいるものだ。ネット上における人間関係と、生の人間関係を交互に味わっている感じだ。人生の大半を過ごした東京を離れて、生まれ故郷の大阪に帰ってくると、友人関係をほとんど失ってなんだかつまらない。その代わり、読書が私の人生に現れて、プラスマイナス、ゼロかな?もう、先行きの人生も短いので、今までの人生の経験を書いて行こう。私の場合、かなり数奇な、面白い経験もあった。「さよならだけが 人生だ」さよならだけ・・・というと語弊があるが、要するに人生とは、出会いと別れだな~。
2004.08.25
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復刻日記。 ~~~~~~~~~さっき、ある日記を読んでたら、フォークの「神田川」の話題が書いてあった。なつかしーい!私の大学時代なんて、本当にむかしむかしの物語だから、今の大学生の生活とはずいぶんちがうはずだ。入学して直後はしばらく西荻の伯父さん宅でやっかいになった。しばらくして同じ西荻で下宿したが、その下宿のおばさん(実は「ババア」と言いたくてたまらないのだが)と折り合いが悪くて、同じ中央線の武蔵境のアパートに移った。そこで2年過ごして、後半の2年は新宿戸山町のアパートに移った。上京した時はいろんな不安に加えて、視界の中の基本色が私の実家近くのものとちがっていて、それに違和感を感じた。特に関東平野の関東ロームの黒い腐植土にびっくりして、何となく暗い気持ちになった。私の実家は大阪でも神戸・宝塚に近くて、そこには六甲山地があって、その六甲山地は花崗岩の山だから白い土だ。山ではなくて普通の土地の色も、さすがに真っ白というわけでもないがどちらかというと白っぽい。視界の底辺を支える(おおげさだが)土地の色がちがうと結構心理的にインパクトがあると思う。大阪育ちの私には東京の食べ物の味が濃い味なのにもちょっとおどろいた。受験の時に二・三日だけ下宿した家で出してくれた店屋物の親子丼ぶりの味が濃かった。学食や生協で食べた東京風のうどんにもビックリした。関西でうどん汁というと昆布出汁で色はほとんど付いていないのに、東京のうどんはたまりというのか、真っ黒だった。箸でちょっとかきあげると、まっ黄色い卵の黄身と白いうどんがポワ~ンと浮き上がってきた。味も濃くてなじめなかった。讃岐うどん全盛の東京で、今こういう古典的・伝統的なうどんは健在なのだろうか?この正統派うどんもこの頃のあまりの冷遇ぶりにすねて、もっと濃い味になっているのではないかと心配である。下宿にしろ、アパートにしろ、賄い付きでなかったから外食するか? 自炊するしかない。どちらも侘びしく孤独で恥の多い作業である。外食という作業はまず、食べるものを決定しなければいけない。次に食べる店を決定しなければいけない。この順序が反対である方が普通かな?学食や生協で食べるのが学生としての本分かも知れないが、すでに昼食をたべているのだから、夕食もそこでというのもナニかと思う。それに大学をいったん離れると、どこかで食べなければいけない。蕎麦やうどんでは腹が持たない。カレーライスばかりも飽きる。だから栄養のバランスのとれた定食のある一膳飯屋に行くことが多かった。しかし、この一膳飯屋に一人で入るということは、一日の内で一番恥多きプロセスで、これは苦痛だった。高校時代はもちろん外食などしなかった。一家揃ってレストランに行くことはあったが、それは家庭の団らんの洗練版・豪華版にすぎない。高校時代に下校途中にわざわざ駅前まで行ってたこ焼きの屋台によって密かに食べたたこ焼きはまさに美味だったが、たこ焼きというものは暗がりの中で、何らかの後ろめたい理由があって、舌をやけどしながら、フーフーと急いで食べる場合だけがうまいのだが、余裕充分な状況で明るい場所で、ちょっと冷えかけのものを食べてもそんなにうまいものでもない。後ろ暗い時間に後ろ暗い状況でたこ焼きを食べろ!この日記の読者だけに伝える、私からの「たこ焼き賞味の極意」である。忘れないように頼む!つまり、今までひとりで外食したこともない私にとって、労働者階級の濃い世界の殿堂のような一膳飯屋の汚れた暖簾をくぐるという行為にはとてつもない勇気が要った。暖簾の前を二三回言ったり来たりして呼吸を整えた後、最後に左右を見回して、友達や知り合い・親戚・関係者・教職者・警察関係者などがいないか、一瞬のうちに判断してから暖簾をくぐる。矛盾するようだが一人の場合はまだいい。だれか友人・知人と一緒に歩いていて、分かれる前にこんな一膳飯屋の前を通る時には、こんな店は全然知らないし、まして店の中でワリバシで「レバニラ炒め定食大盛り+白飯お代わり」などを食したこともない・・・という態度でそのいきつけの店を裏切りながら通り過ぎることになる。心なしか、店の中からおばさんがこちらを軽蔑した目つきで見ているような気がする。なんとかその「自宅が東京」という特権階級の友人をまいてから、まだ用心して本屋で立ち読みをしたりして時間をつぶして、万が一にも彼がもどってくる事は無いという時間帯に突入したら、おもむろに定食屋に確信を持って進むのである。食べ終わって、また暖簾をサッとくぐって町に飛び込み、またなにごともなかったという表情で町を歩く。アパートに付く前に一般住宅の前を通る。家々からは幸せの黄色い電灯がついている。彼らは全員卑怯にも、一膳飯屋忍び入りの苦行など無しに美味な夕食を楽しく、さんざめきながら食しているのだ。Dinner without toil なのだ!本当にこの世の中には神も仏もないものだと思う。「彼らに呪いあれ!」こんな高貴な孤独に耐えている私の胸に響く歌があった。ミルバやザ・ピーナッツが歌っていた「ウナセラ・ディ・トーキョウ」である。 ―――― ◇ ――――♪ 悲しいことも 無いのにどうして 忘れたのかしらウナセラ・ディ・トーキョウあ~あ(途中省略)♪ あの人はもう 忘れたのかしら とても悲しい♪ 街はいつでも 後ろ姿の しあわせばかりウナセラ・ディ・トーキョウあ~あ ―――― ◇ ――――本当にこの時間、魔の夕食時に、私とすれ違う人達はみな、自宅で家族と共に夕食を囲むという、しあわせそうな後ろ姿ばかりである。一瞬、背中をかきむしってやりたい気持ちになる。 ーーーー ◇ ーーーーアパートで自炊というのも言うまでもなく侘びしい。一膳飯屋苦行とどちらがわびしいかは計量化してみないと、数値化してみないと正確にはわからないが、わびしさの性格が違うようだ。当時は電気冷蔵庫を持っている学生なんていなかった。 ちょっと寄り道になるが、この「電気」冷蔵庫という表現に、注意深い読者なら気がつくはずだ。電気でない冷蔵庫もそれより昔になるがあったのだ。これは普通に単に「冷蔵庫」と呼ばれていた。氷屋さんが夏になると毎日、角形の大きな氷を配達してくれる。これを冷蔵庫のトップにある氷室に入れるだけでいい。ともかく、当時の学生の持っている文明の利器と言えば平均して下記の「四種の神器」だったと思う○ ラジオ○ 電熱器(蚊取り線香状のニクロム線を電気を通電して熱する)○ 卓上蛍光灯スタンド○ 電気コタツ または 石油ストーブなんともシンプル極まる生活である。ただし私はといえば、特権階級だったから(??)、今だから言えるが、この上に二種の神器を隠し持っていた。○ テナーサックス○ 赤井のテープレコーダー 16インチスピーカー付きモダンジャズの同好会に入っていたので、これはどうしても必要だったのだ。自炊の話にもどるが、学生は料理の仕方なんて知らないのだから、肉野菜炒めが定番となる。これは当時のすべての学生の普遍的な真実だったと思う。この肉野菜の部分について、実情を分析すると、野菜はそのままでいいのだが、肉については注記した方がいいかも知れない。肉は高いからその代わりに、魚肉ソーセージがピンチヒッターとして登場する。さらに実情を究めると、実はピンチヒッターでは無くて、魚肉ソーセージの方がレギュラーなのだ。肉の方がピンチヒッターで恥ずかしそうにベンチにいることになる。「この財政状況だと私の出番は無さそうね」と、自分から二軍に行ってしまうこともある。こうなるともう呼び戻せないから魚肉ソーセージがレギュラーとして定着する。この頃はコンビニでこの昔なつかしいレギュラーを散見する。しかしもう、レギュラーの座は張れないで、いつもは二軍だが、監督の温情で久しぶりに一軍ベンチに入った超ベテランと言った風情だ。だれも本当は大活躍を期待していないんだけれど、年に一二度ぐらいは一軍にあげてやらないと隠れファンがうるさいと言うことかも知れない。飲み物はお茶だが、ぜいたくな学生は牛乳の配達を受けていた。私も堂々のぜいたく学生で、牛乳+新聞の配達という豪華版だった。しかし暑い夏などはジュースとなる。渡辺のジュースの素という秘密兵器があって、これは毒々しいオレンジ色の謎の粉体で、これを水に溶かして飲むと、味も毒々しいが無理に考えるとジュースという実感が出てくる。少なくとも毒々しく、甘い。毒々しいの三拍子である。自炊を共同でやることは、アパートの住人同士が友人になったら可能となる。どうせほとんどの住民が同じ大学だし、金もないので夜はすることもなく退屈で、誰かの部屋に集まっては夜遅く、あるいは朝までダベル事になる。親しくなりすぎるとお互いいたずらもしてしまう。特に私なんか、いたずらが生き甲斐だったから、ある時、真面目な男のパンツを脱がしたことがある。その男は大男で運動神経は皆無だったけれど、ものすごく力持ちの男だったが、ある拍子でふざけているうちに、ついついみんなで彼を押さえつけてパンツを脱がした。彼の裸の下半身はある理由でトップ・シークレットというか聖域だったようで、彼は激怒した。手元の木刀で私を本気で殴った。彼とちがって運動神経の固まりとも言える私はサッと邪悪な木刀を避けたが、部屋の扉は運動神経が無かったのか、木刀に直撃されて深い傷を負ってしまった卒業してそのアパートを出る時には、どうしてわかったのか? 家主の奥さんにひどく叱られた上に高い補修費を支払わされた。トイレ・台所(と言ってもシンクがあるだけ)は共同。もちろん風呂なんて無い。だから近くの銭湯に通うことになる。これは、一膳飯屋の「がまの油タラタラ」状態とは全然ちがう。アパートの友人達と一緒に湯屋に出かけるのは楽しい。 ―――― ◇ ――――♪ 貴方は もう忘れたかしら赤い手拭い マフラーにして二人で行った 横丁の風呂屋(中略)小さな石鹸 カタカタ鳴った(中略)窓の下には 神田川三畳一間の 小さな下宿 ―――― ◇ ――――私達の石けんもカタカタ鳴ったが、可愛い女子学生はいなかった。いや、ひとりけしからんやつがいた。私の高校からの親友で一緒に進学したのだが、入学して半年するともうガールフレンドが出来た。同じ大学のある運動同好会で知り合ったらしい。この男は私とちがってハンサムでもないヤツで、女の姉妹がいないくて男の中で育っているヤツだから無骨なヤツで、、女性に対する好奇心が凶器のように肥大していてとてもイヤラシいヤツだから、・・・モテないだろうと・・・油断していた私が悪かった。その女の子はとても小柄だがとても可愛いのである。愛し合っているらしい二人のかもし出す雰囲気がとても醜い。おまけに大学近くのアパートで半同棲という大罪を犯しているようなのだ。ついにこーゆー間違ったことをしているカップルには断じて意見をしなくてはいけないという義憤に駆られて、ある夜、級友と共に彼のアパートを急襲してみた。神田川沿いの道の行き止まりの木造アパート、その二階に彼の部屋があった。入ってみるとやはり彼女がそこにいた。可愛い女性と面と向かってみると、一瞬で私の義憤は霧散したばかりか、彼女との会話を通して彼女の級友に可愛い女性はいないのか?を聞き出そうという偵察モードに入ってしまった。私には臨機応変という才能があるのをその時始めて知った。偵察モードの一端として部屋の窓を開けてみたら、真っ暗な闇の中から、神田川のちょっと汚れた流れの臭いが漂ってきた。
2004.08.18
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【ローマの休日とライター型カメラ】最近、「ローマの休日」という映画がデジタルマスター版となって再公開されたようで、ネット上でも大いに話題になっているようです。オードリー・ヘップバーンという人はもちろん世界の大スターですが、日本で特に人気があるように思います。私は「ローマの休日」以降のオードリーにはそれほど魅力を感じないのですが、「麗しのサブリナ」あたりは、まだ「ローマの休日」で世界を震撼させた?清新な魅力がまだ横溢しているように思います。もっとも、この衝撃のデビュー時のオードリーは「美人」とは呼ばれず「ファニー・フェイス」と呼ばれて当時の流行語になったものです。数日前に呼んだ雑誌の記事で、ある人が撮影所で「生」オードリーを見かけたが「映画の彼女とは違って、目と鼻と口が異常に大きくてアンバランスな顔だったのには意外な感じを受けた」と書いていますが、やはり実物はファニー・フェイスなのかな?私も昔ローマを訪れたことがあり、イタリア階段やチボリの泉や大理石でできた大きな円盤状の海神トリトーネの「真実の口」などを廻りました。ところであの「真実の口」はどうしても手を差し入れてみたくなるものです。ローマという街はやはり桁外れの魅力のある街で、さすがの私も?その時は感激で胸がいっぱいでしたが、今考えてみるとモノクロ画面の「ローマの休日」で描かれたローマの方がはるかに美しく魅力的なような気がします。「黒水仙」や「赤い靴」などの特に色彩の美しい映画をのぞけば、一般にカラー映画よりもモノクロ映画の方が街や人物をより美しく描写できるのではないでしょうか?あのオードリーやハンサムなグレゴリー・ペックがカラーだとしたら、あそこまで「永遠の名作」にならなかったかも知れない。暴論かも知れませんが、個人的にはそんなことを感じます。写真でもそうですが情報量が制限されたモノクロ画面の中の方に、人間はより想像力を働かせることができるのかも知れません。それから「ローマの休日」の中で、グレゴリー・ペックの友人のカメラマンが、ヘップバーンを隠し撮りするのですが、そのカメラがジッポーに似たライターにカメラを仕込んだ「ライター型超小型カメラ」。当時大いに話題になったようです。私はあれは日本製のコーナンとうカメラだと思っていたのですが実際は違いました。鈴木光学製で16ミリフィルムをフィルムカッターで8ミリに切断した8ミリフィルムを使用したもの。最初の発売は1951年「エコー8」、その後カメラライトと呼ばれたとのこと。 私も高校時代、このカメラではありませんがライターぐらいの大きさの豆カメラを買って、好きな同級の女生徒を下校の途中で隠し撮りしたという恥ずかしい過去があります。制帽にわざわざ小さな穴を開けて、そこから隠し撮りをしたんですが、あのカメラと写真は今でも手元にあります。
2004.08.17
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今日の私の掲示板(BBS)には、面白い書き込みをいただいている。私もプロ野球その他の雑多な落書き的書き込みを始めた。楽天日記の【掲示板】の新しい使用法を試しているところだけれど、結構いけそう。これで【日記】と【掲示板】を使い分けた、【二本立て】ができそう。しつこいけれど、私のサイトでは【掲示板=BBS】も読んで下さいね。 ~~~~~~~~~広島や長崎の原爆投下日に何も書かなかったので、罪滅ぼしに今日は私の戦争体験の復刻日記にしたい。なお、この日記は3月5日の日記です。このオリジナルにいただいたコメントも、興味ある方はオリジナルの日記のところでお読み下さい。 ~~~~~~~~~【私は今まで自分の戦争体験を何も日記に書いていないことに気づいて、はっとした】2004年3月5日 ----------------一昨日私はライターのタラナイさんのBBSへ書き込みをしていたのだが、それを読んだ同じくライターのミドル英二さんが私のすぐ後に「alexには戦争体験があるのか、それなら彼の日記を読み直してみよう」と書かれていた。それを読んで私は今まで自分の戦争体験を何も日記に書いていないことに気づいて、はっとした。実は他人のHPのBBSなどには戦争体験や戦後の社会情勢の印象・記憶などをボチボチ書いてはいたのだが、意識的ではなく、話し合いのプロセスとしてのものだった。これまでの日記は自分の本フェチぶりや、商社マンとしての海外体験などをダラダラ書いてきただけなのだが、他の人のBBSでの憲法改正などについての語り合いの中で徐々に私の戦時体験それに戦後体験を見返さなければいけない状況にはなっていた。新憲法・平和憲法の成立した当時のプロセスや、その時それを日本人がどう感じ、どう受け止めたのか? そういう現行憲法の身上調査もしておかないと憲法論議ができない。加えてその時はあるサイトでの、米軍の日本空襲という残虐非道な行為に関する義憤にあふれる告発も、私の戦争体験の記憶を刺激して、多少興奮気味の内容をタラナイさんのBBSに書いていたのだ。いずれにしてもこの時代に、戦争中や戦後の実体験を知る程の年令の人間は希少動物であることだけは確かだ。それに小泉純ちゃんなどはネット日記など書かないだろう。そんな点でもこの年令で楽天日記を書いている私には、多少の希少価値があるかな? この私にも、みなさんには書けない、しかし私からはみなさんに知らせるべきことがあるのだ。そんな点を一瞬にして指摘したミドル英二さんのジャーナリスティックなアンテナというものは、あらためてすごいと思った。 ―――― ◇ ――――ちなみに私は小泉純一郎首相とほとんど同年齢だ。ほんの少し若い・・・と言うことにしておこう。あと女性で私と年令の近い人達もチラホラいるのだが、ここに勝手にお名前を出しては失礼に当たるかも知れないので控えよう。一国の首相とただの老人ではずいぶん乖離があるが、そんなことは無視して、戦時中の記憶がある人間の一人ということで、戦時中および戦後の個人的な記憶をこれからときどき書いて行きたいと思う。平和だ戦争だ憲法だと言っても、今の若い人達は何も実感も無しに語っているのだから。 ―――― ◇ ――――私の戦争体験と言ってもまさか従軍してインパールで死ぬ思いをしたなんてものではない。終戦時は2・3才の幼児で、防空壕にひそんでいただけだ。ただ生死の間際の記憶というのはそんな幼児でも断片的ではあるが鮮明に覚えている。私は大阪市内の生まれだが、戦争中に一家が郊外に移った。爆撃を避ける疎開の意味があったと思う。疎開と言う言葉さえ今の人々は知らないだろうと思う。戦火を避けて安全だと思われる場所に避難・移住することだ。私が気がついた時には自宅の横に防空壕が出来ていた。英語で言うとシェルターという。防空壕にもいろんな形状のものがあると思うが、私の家の防空壕は大きな穴を掘って、材木やトタン屋根をかぶせ、その上に土を盛った、至極粗末なものだったと思う。爆弾が直撃したらひととまりもないが、爆撃機の目から逃れる機能は多少あったかも知れない。米軍機が近づくと空襲警報が発令になる。具体的にはウ~~ゥというサイレンが鳴る。そうすると一家全員防空壕に飛び込む。空襲警報が解除されるまで防空壕で過ごすことになる。今も覚えているのはある空襲警報で防空壕に飛び込んだ時の光景だ。暗い中で母が赤ん坊の妹を毛布で蓑虫のように巻いて(春巻きのようにと言った方が今は通用しやすいかな?)かかえていた。片隅には貴重な食料のサツマイモの煮たものが鍋に入っていた。これが当時の我が家の食事なんだが、煮たサツマイモだけなのだ。他に何もない。その内に、祖父と父が防空壕の外に出た。二人して双眼鏡でちょうど飛来した米軍の爆撃機をながめた。それは B-29 という、当時としては巨大な「空の要塞」と呼ばれた戦略爆撃機で、もうその当時は日本の対空戦力は壊滅していたから高射砲も撃たないし、迎撃戦闘機も飛び立たない。まったく無敵状態で、その銀色の巨大な機体は悠々と飛行していた。そのうちに B-29 が祖父と父を見つけて機関砲を発射してきた。肉眼で人間を見つけることが出来るほど低空で飛行していたのだ。日本の防空体制をなめきって。祖父と父はそれこそ命からがら防空壕に飛び込んで来た。しかし母の話ではその後、戦闘機が低空で飛来して、射的気分なのか?畑のニワトリを撃って行ったという。操縦席の防風の窓越しに操縦士の顔が見えるほどだったという。あるHPによると操縦士の顔がみえるほどの操縦席の風防持つ戦闘機はロッキード・ムスタングだという。プロペラ機最後の、完成された究極のプロペラ機だ。他のHPを読んでいたら目撃談があって、赤ん坊を背負っていた若い母親を撃った戦闘機もあって、赤ん坊の頭が吹っ飛んだそうだ・・・ ・・・。親戚に聞いた話では、徳島市も大空襲に会い、街中火の海で人々は灼熱の炎に追い立てられ、火傷が熱くて吉野川に次々飛び込んだという。その人々まで米軍の戦闘機が機銃掃射していったという。 ―――― ◇ ――――パール・ハーバーという日本軍の真珠湾攻撃を題材にした映画が二・三年前に日本で大ヒットした。この映画では真珠湾を攻撃した日本の戦闘機が、軍施設ばかりか小学校や病院まで銃撃することになっているそうだ。こんなのは全く事実無根で、英米側の人種差別的なねつ造なのだが。私はこんな映画なんか見たくもないので見なかったのだが、日本の若者は「カッコいい!」と詰めかけて大ヒットになったそうだ。 ―――― ◇ ――――防空壕の中ではそれほど恐ろしいとも思わなかったのだが、今でも悪夢にみるものがある。防空壕にいるのに何か大切なものを家の中に忘れたのだ。両親が止めるのも聞かず防空壕をとびだして、家の縁側に飛び乗って茶の間のガラス戸を開ける。見上げると、そこに見えるのは柱時計。それだけの夢なのだが繰り返し見る。私の家の庭に銀紙が降り下りた。正確に言えば銀色のアルミテープがどさっと落ちてきていた。B-29 は無敵とはいうものの、それでも一応は日本のレーダー設備に対する警戒もあってレーダー波を乱反射させて攪乱するためにこのアルミテープを大量に撒いたのだ。夜など空襲警報のない時でも燈火管制というものが敷かれていた。夜、電灯をつけると爆撃機の目標になるからと言うことで、電灯の笠を風呂敷で包む。これで電灯の光が細く真下だけを照らすことになる。昔は一部屋に電灯は天井に一個あるだけだった。それも60ワットかそこいらの侘びしい光だった。蛍光灯などはまだ発明されていなかった。潜水艦なんかには使用されていたような記事を読んだことがあるが一般家庭では、丸い笠に40ワットか60ワットの電球。それだけだった。その真下にちゃぶ台という丸いテーブルがあって、高さが30センチほど、脚は折りたたみ式だった。中央にコンロなどのための切り込みがある。ちゃぶ台、それは食事時のテーブルであり、一家団欒の場そのものでもあった。風呂敷に遮光された電球の光の下で一家三代合計六人が息をひそめていた。電気スタンドは一つだけあったのを覚えている。便所の電灯は20ワットと決まっていた。 ―――― ◇ ――――ある夜、二階からながめると遠い街が(今から思えば尼崎市あたりだったと思う)が米軍の空襲で真っ赤に燃え上がって空まで赤かった。実は終戦(敗戦と正確に言おう)の次の日には、私達の町が空襲の対象になっていて、その予告ビラが米軍機からまかれたという。その日、父は母に「俺だけは残るから、お前はこども達を連れて山に逃げろ」と言ったという。
2004.08.11
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今もそうですが(?)、私はオクテで、学生時代は少なくとも女性との性体験はありませんでした。もっとも、もう少しでゴールのテープを切るというところまでは行ったのですが。それは大学生の頃、私のアパートに知人の女性が来て、私のベッドに腰掛けたまま、夜遅くなっても帰らないのです。私が「帰らないとして、しまうよ」と、すごみをきかせて脅かしても?帰ってくれないのです。(これ、ちょっとおかしいかな?)やむなく、セックスをしなければならない羽目になり(これもおかしいかな?)、乏しい知識を振り絞ったのですが、情けないことに、動物がいともやすやすと成す行為が私にはできなかったのです。やはり、正しい理論と実技の研修が必要ですね。その頃は友人達と、いかにも性体験をすませたようなウソをつきあっていたのですが(面子と虚栄のためです)、実際はこのような惨状。同じく大学生の頃、新宿2丁目あたりに「ヌード・スタジオ」というのが数軒ありました。お金を出すと、ヌードの女性が現れて、客は画板と画用紙+鉛筆を渡されるのです。ある日、友人と芸術的意欲に燃えてスタジオの門をくぐりました。こんな所にいるとは思えないようなきれいなおね~さんが出てきまして、私は夢中でデッサンを始めました。高校時代は、体育と絵が一番得意科目だったという才能に恵まれた私ですから、極めて正確な精緻なデッサンができはじめました。その間に絵の下手な友人の方は、そのきれいなおね~さんに、女性の身体の各部分についての極めて具体的な情報開示を受けていました。私としては、それがうらやましいものの天賦の才が邪魔をして、ただひたすらデッサンに集中していたのです。制限時間になりました。きれいなおね~さんは、私のデッサンを眺めた後、なんとビリビリと私の作品を破いてしまったのです。ヌードスタジオに勤務しながら、芸術には理解のない女性でした。こんななら、はじめから女体講義に参加しておればよかった!!社会人になってから、ある外国人女性とつきあっていたことがあるのですが、ある夜、赤坂のディスコに呼び出されてある実業家を紹介されました。後で知ったのですが、彼女はその男性の愛人だったのです。もちろん彼には家庭もあり。事情を知った私は、彼女と別れようとは努力したのですが、彼女があまりにも美人だったので・・・。(以下省略)この場合も不倫になるのでしょうか?すみません。(早めに謝っておこう)
2004.08.05
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信州の白骨温泉の村営浴場で、白濁した源泉水が白濁しなくなったので、入浴剤を使用したと言うことで、「天下の一大事」になっているが、許してやって欲しい。その入浴剤だって、ブランドの草津温泉のものを使用しているんだから、居ながらにして「白骨」「草津」両温泉をワープしているようなものではないか?考えてみれば豪華な話だ。「そう言う話では無い!」って?すみません。 ~~~~~~~~~昔の話になるが、(私の話は99%昔話だ だからHNもalex99・・・、これはウソだけれど)、学生時代に試験が済むと、一夜漬けの試験勉強の連チャンのために神経をすり減らした私は、同病の友人達とその日の夜汽車にあてなく乗車、プチ放浪の旅に出た。 ~~~~~~~~~「あとで追記します」と書いたまま、追記も更新もしないでいましたが、追記します。最終の試験が終わった日の夜、新宿駅に行って中央線の夜行に乗るのが多かった。「行方定めぬ」旅と言うことで、とりあえずは高校の山岳部でなじみの松本あたりまで切符を買って夜行に乗り込む。確か、二十歳の誕生日もこんな夜行列車の中で迎えたことを思い出した。夜行列車では、あるきっかけで前の座席に座っていた文学的な雰囲気の紳士と会話を交わした。その紳士は私と同じ大学出身、先輩と言うことがわかった。その紳士は確かご自分を「シナリオ・ライター」としてご紹介された記憶がある。先輩と後輩と言うことでより親しくなった私達に、その紳士「山之井慎さん」は名刺をくれて、「遊びにおいでよ」と誘って下さった。今、このお名前で検索してみると、シナリオライターではなく、旅のテーマの曲の作詞家として結果が出た。とすれば、あの時の夜行の旅は、作詩のアイディアを探す旅立ったのだろうか? ~~~~~~~~~夜明け頃、茅野駅に着いて、駅の売店で名物の?信州蕎麦を食べた。私は関西人なのでうどん派で、学生時代はあまり蕎麦は食べなかったのだが、さすが本場!腹も空いていたのだが、この蕎麦がうまかった。もっとも、その時の私の知識では、日本の蕎麦粉は80%以上アフリカから輸入されているということだった。今もそうか?私は知らないが。テレビ番組などで、「手打ち蕎麦の名店」があって、そこへわざわざ東京あたりから遠路、車で駆けつける客が多らしい。私としては、「本当に、そこまで蕎麦がうまいか?」・・・とたずねたいところだが、思い直してみれば、そこまで「味がわかる」ということは、すごいことなのかも知れない。蕎麦と言えば、うどん。私は大阪出身だから、大学の生協食堂で初めて、私が「東京風うどん」と呼んでいるもの、お目にかかった時はビックリした。近ごろは讃岐うどんがブームらしいし、東京でもうどんは関西風が大半だが、昔は「東京風」があった。関西風はほぼ透明な汁だが、この東京風は外見上、真っ黒である。関西風のダシは昆布主体だと思うのだが(鰹節もあるかな?)、東京風は多分、そばつゆと似たダシなのだろうと思った。この真っ黒なうどん汁にショックを受けながら、ワリバシで恐る恐るすくってみると、白いうどんがニョロニョロッと浮かんでくる。これは文化的ショックだった。外面ではうどんが見えないのだ。それほど汁が濃かった。この東京風も、いまでも、どこかで恥ずかしげに生き抜いているかも知れない。消息をご存じの方は、ご一報頂きたいと思う。 ~~~~~~~~~茅野駅で蕎麦に感激した私達は、途中下車を決心した。(蕎麦と途中下車との密接な関係についてはいまだに自分でも納得できていない)まだ明け初めぬ早朝、信州の早朝の冷気の中、長い間バスを待って、白樺湖に向かった。近ごろテレビなどで、白樺湖の沿岸の風景を見ると、ホテルやらコテッジなどがギッシリ林立のようだが、当時は二・三軒しか建っていなかった。ロマンティックな(はずの)白樺湖で、男同士、哀しくボートを漕いだ。それから、思い直して想い出の上高地を目指した。上高地は、やはり日本離れした雰囲気がある。なんとなくカラッと乾燥した、ハイカラなヨーロッパ・アルプス風なのだ。高校時代は雄々しく「槍ヶ岳~穂高岳縦走」を果たした私だが、大学に進学しただけでもう、河童橋から前穂高岳を他人事のように見上げるだけで満足するという、怠惰の気質が、早くも芽生えていた。その後はよく覚えていないのだが、いろいろあって(?)、バスに乗って秘境と言われていた白骨温泉に着いた。もちろん旅館の予約などしていない。プラス、学生だから懐具合が寒い。それに季節的にも高度的にも寒い。その寒さの中で、渓流沿いの旅館探しをした。といっても、その旅館も数軒しかなかったと思う。その中で比較的私たちの経済的レベルに合致するのではないか?と思われる旅館に入り料金を交渉した。確か二人で三千円だったと思う。白濁?温泉にも入ったはずなのだが、肝心のこの辺の記憶がない。夜中に寝床の中に入っていると、暗闇の中、目の前の渓流の水音が高い。その時、私はかなり深刻なある悩みがあったのだが、その水音でますます物思いに耽って、なかなか寝付けなかった。白骨温泉というと、野天風呂ではなくて、この布団の中で聞いた渓流の水音を思い出す。
2004.07.13
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「墨を塗ったような暗闇」とか、「鼻をつままれてもわからない」とか「漆黒の闇」とか・・・。昔の夜の暗さはいろいろに表現される。現代の日本の夜は明るい。どの部屋も蛍光灯が煌々と隅から隅まで照らす。比較するものと言えば、日本の昔の夜の闇。その他には、日本の戦前の夜の茶の間。時代は今だけれど、欧州の家々の部屋の灯りだろうか?西欧では明るい部屋はパーティー用だけだ。 ~~~~~~~~~私は幼児だったけれど、太平洋戦争末期の、米軍の日本を焼き尽くす空襲の恐怖の下で生きたことのある人間だ。「B29 日本本土の大爆撃」サンケイ新聞社出版局発行の「第二次世界大戦ブックス (4)」という本がある。 ~~~~~~~~~「超空の要塞」B29を、米国のマスコミは、“地獄の巨鳥”とか“火の鳥”とよんだ。それはB17「空の要塞」の二倍も大きい巨人機であった。500機にもおよぶその大編隊は、日本の主要都市を焼け野原にした。日本の降伏があと一、二ヶ月おくれたら、B29の1000機編隊の大爆撃が、日本列島を“化石の荒野”と化して、原爆の投下を待たずとも、日本帝国は完全に消滅したであろうーーーと米英の戦史家はいっている。 ~~~~~~~~~米軍の原爆投下に勝るとも劣らない、この残酷極まる日本空襲に関しては、また別に日記で語ろうと思う。 ~~~~~~~~~閑話休題。私も一度、そんな太古の昔のような、漆黒の暗闇を経験した。私が30代の頃、私の会社の女性の先輩が信州に別荘を持っていた。私のお願いに対して、その先輩の別荘をただで貸してくれるという。この女性は私が新入社員として入社した頃からの先輩で、私を可愛がってくれた人なので、お願いしてみたのだ。当時、私にはガールフレンドがいて、アメリカ人の女性だったけれど、なんとか彼女ともっと intimate な仲になりたいと思っていた。intimate と言う言葉はいちおう日本では一般的に「親密な」と言うことになっているけれど、男女間で使うと、「一線を越えた」という、大変な意味の仲を指し示す言葉になる。私としては、ここで「一線」も「ニ線」も越えて、(もっと越えてもいいんだが・・・)(相手次第かな?)、彼女との男女間関係の、「成層圏安定水平飛行」に入りたい気持ちがあったので、この信州の別荘は絶好の舞台だった。二人で人里離れた信州の別荘で過ごせば、なるようにしかならないではないか?極めて自然に intimate relatioanship に収斂することがヴィジュアルにシミュレーション出来る。ジグゾーパズルというものがある。凸というものがあれば、凹が応える。魚心あらば水心。これをいくら強調しても空しいかも知れない。凸よりは凹が好きな私ですが・・・。 ~~~~~~~~~ビジネスの関係でつきあっていた他社のポン友に、「この檜舞台でどういう効果的な、端的な性的行動を取ったらいいのか?」という、哲学的アドバイスを求めたら、『alexさん、別荘では、有無を言わせず彼女を【外掛け】で一気に倒しなさい!』という、貴重なアドバイスをいただいた。果たして【外掛け】が四十八手の中で、一番有効な業かな?という素朴な疑問はあったが、とにかくワクワクした。軽井沢からはちょっと遠いが、信州の、白樺の林に囲まれたフィンランド直輸入の白木のコテッジでの、【外掛け】という人為的な、恣意的な、革命的な(それほどでな無いね)、運動によって、相思相愛の?男女の愛が結晶するのだ。【内掛け】 の方が、目的完遂には早いのではないか?(内側だから)、という現実的な事も考えたが、【外掛け】の方が豪快なイメージがある。【あびせ倒し】とか、 【押し倒し】も【倒し】業だからいいとは思ったが、そのへんの細かい差異は、いざ、現場に立ってみるとあまり意味をなさないのではないか?業をかけられる相手側の感情も勘案しなければならない。とにかく【すくい投げ】だけはいけない。相手に屈辱感を与える。【一本背負い】は致命的にイケナイ。相手に逃げられてしまう。それに【寄り切り】だけだと、水平移動だけで、何も起こらないので、この決まり手も避けたい。一応は、そういう、プラクティカルな考察もしてみた。とにかく、【業をかける】という積極性が大事なのではないだろうか?さもないと、【教育的指導】を言い渡されて、【効果】【技あり】と、立て続けに不利な体勢になるかも知れない。【消極的とは、善くないことなり】と武者小路実篤さんも言っている。(言っていないか?)とにかく、【外掛け】 なら、ガールフレンドが「あれ~~! ご無体な・・・」といいながらも、素直に!私の言うことを聞くような気がしてきた。日本の伝統業の威力を知って、歴史の浅い米国の現在の不条理な優位を反省してくれればもっといいかも知れない。彼女にすぐ、この、「別荘で水入らずプラン」を話したら、「ハウ・ナイス!」と喜んだ。そのあどけない表情にウソはない。彼女も【外掛け】を、心の底では望んでいるのだ。もう怖いものはなんにもない。一人で、足をとばして【外掛け】の練習もした。 ~~~~~~~~~しかし、世の中そんなに甘いもんじゃない。いろんな事情で、彼女は米国に急遽帰国することになった。で、私はむさ苦しい会社の後輩を引き連れて、信州の別荘におもむいた。確かに信州だけれど、ここには堀辰雄が保証したような「麦わら帽子をかぶった憂愁の美少女」なんてどこを探してもいない。ここは「美しい村」ではないらしい。「菜穂子さん」とつぶやきながら雑貨屋に入って、今夜の食材を買い込んだ。別荘で食事を作った。山岳部にいた人間だからキャンプ食は女性より上手だ。とりあえずは、腹が一杯になったが、野郎ばかりではその後に何もすることがない。それでも、時間は散文的に、自動的に経過する。まもなく、日が暮れて、もう眠ろうということになった。林の中にある別荘は、室内の灯を消すと、本当の漆黒の闇になった。耳がシ~~ンと鳴るほどの無音の世界でもある。「ふ~~ん、昔の人間はこんな夜の中で、ドップリすごしたのか」しみじみ、そう思った。座頭市が有利な世界だと思った。私のそんな深遠な哲学的な思索に感応したのか、いつもはがさつな後輩達も、言葉少なである。一人で林の外に出てみたら、それこそ、満天の星。降って落ちてきそうなのだ。【外掛け】の他にも、有効な業として、【内無双】とか、【小股すくい】とか、手を使う業の方が有効かも知れない。今ごろ、業の思いをめぐらしても、空しいか?
2004.07.02
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また、お聖さんの本だが、こんな一節がある。----------------【大阪の日本橋は電気屋さんの多い通りだけれど、夜、プーラプーラと歩いていると、浮浪者が意外に多かった。電気屋さんが多いところは、段ボール箱なんかもたくさんある。寝袋ならぬ寝箱をぐあいよくつくってノーンビリと軒端に横たわっている。---------------- 思い出したことがある。商社の新入社員だった頃は、受渡部という部署に配属された。ここは営業経理部と船積部を兼ねた部で、新入社員は営業に回される前に、ここで基礎をたたき込まれる。・・・なんて、きれい事で、実際は使いベリしない若者を奴隷のようにこき使う部署である。特に船積み担当は大変だ。昔は東南アジアへの輸出には、その国の在日大使館の領事査証が必要だった。これは出向前の通関の必要書類だ。だから、領事館に提出して、数日して受け取り、それを出向前の通関手続きに持ち込む。これが間に合わなかったら、船は出ない、煙も出ない。一日何百万円という(当時の金で)滞船料が発生する。新入社員としては、死んでおわびをするほか無い。(気持ちだけは)この査証に必要なINVOICEとPACKING LISTをタイプするのが大変な作業なのだ。これはプラント輸出の特殊事情と言える。プラントとは工場設備だから、これらの書類もとてつもなく大部のものになる。厚さ1センチにもなる大部のINVOICE/PACKING LISTを数部、作成しなければならない。タイプミスがあると練りゴムで消してまたタイプする。涙で文字が・・・、それほどではないが。しかし、このINVOICE/PACKING LISTが船荷のメーカーから、我々商社の船積み部に届くのが本当にギリギリの時間なのだ。二日間徹夜・・・なんて事もあった。毎日、11時に退社なんてザラで、9時に退社するときは、特別に理由を考えて「申しわけありませんが、お先に」と言って退社したものだ。だから、海外勤務になるまで、女の子とデートなんて余裕は無かった。大学でもデートは二回しかしたことのないオクテだったから、余計、縁遠いことになってしまった。だから、無事書類をあげた後は、バンザ~イとばかりに、夜の街に飲みに出かけた。新入社員の頃は、先輩や課長に連れて行ってもらわない限り銀座のクラブには行けなかったから、同期とは大学の頃の土地勘のある新宿で飲んだ。私の同期の親友は東大出だったけれど、バンカラ大学出身の私と気があって、いつもつるんで新宿で飲んだ。ある夜、そんなバンザイ状況で飲んだものだから、酔っぱらってしまった。歌舞伎町を歩いていると、女の子が地面に座っている。その頃、覚醒剤の使用が問題になっていた頃なので、この女の子も覚醒剤使用者か?と思った。何を思ったか(自分で言うか?)、私はその女の子に「ヤクをあげるから、私に付いてこない?」と声をかけた。もちろん、ヤクなんか持ってるはずはないのだが、何しろ酔っぱらっているのと、何しろ女の子が欲しい!という切実な本能でそう声をかけたのだ。酒とは恐ろしいものである(ひとごとか?)。「行くよ~」と女の子が応じてきた。やはり、私の鋭い観察眼はくもっていなかったのである。「じゃ、行こうか!」と、女の子と歩き出そうという時に、中年の女性に止められた。「あんた達なんて事をするのよ!」その女の子の手をひったくるようにして、その中年女性は消えていった。女の子の保護者なんだろうか?よくわからないが、とにかく、せっかくの獲物をさらわれたという冷酷な事実だけが、孤独な私たちに突きつけられたのであった。もっともヤクはもっていないのだから、例えあのままでも、なにも怒らなかったわけだが。しばらくブラブラしていて、都電も無くなった頃、一休みと喫茶店に入った。大きくてはなやかな喫茶店だなと思った。気がつくと、数人の美女に囲まれていた。声をかけられる。その前と逆の状況だ。ヤクは持っているのかな?しばらくして、鷹の様な観察眼とミュージシャンの耳を持つ私はピ~ンと来た。【彼女たち】は【彼たち】なのだ!足がゴツゴツしている。のど仏が出ている。声が野太い。いろいろあって、東大出はその中の一人に惚れられて、二人で消えていった。無念である。もう、独身寮に帰るにはタクシーに乗らなければいけない。しかし、独身寮は遠いところにあるから、高い。伊勢丹デパートの前を歩いていたら、段ボールをベッドに寝ている浮浪者がいた。その辺にも段ボールがあったから、私もベッドを作って寝た。カツカツ!!という音で目が覚めた。朝の通勤者たちが私の頭の近くを通る靴音だった。特にハイヒールのOLがやかましい。この音は実にうるさい。睡眠を妨げられながらも、なんとか、もうひと寝入りしてから会社に出勤した。「お 珍しく早いな!」事情を知らない課長が、遅刻常習者の私をほめる。東大出が、つかれた顔をして出社してきた。「彼女(?)のアパートを、出ようとすると泣かれちゃってさ~・・・」私も次回は試してみようか?と思った。
2004.06.16
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飲み物の話を。その国で飲んでこそ美味しい飲み物というものがありますね。例えばコーラ。米国でハンバーガーと一緒に飲むと実に美味しい。厳冬のドイツでケチャップの一杯付いたフランクフルト・ソーセージと共に食べると、空気がカラカラに乾燥しているから、これも美味しい。紅茶、それもミルク・ティーは英国で飲むと「これからはコーヒーを止めて、紅茶一本で行こう」と、固く決心するほど美味しい。飛行機の中の飲み物としても、British Airways英国航空では、やはり紅茶が素晴らしかった。ただし、ロンドンから中東へ向かう機内の調理は決まって七面鳥で、この味のない鳥肉はあまり歓迎できなかった。中東向けの機内の客には、豚肉が食べられないモスリムや、牛がダメなインド人などがいるので、無難な七面鳥にするのだが、せめてインド料理のタンドリ・チキンぐらいを段取り!してくれないものかな~>私はインド料理が大好きで、なかでもこの段取り・・・、じゃなかった、タンドリ・チキンが大好き。(私、マメにつまらないじょうだんを言うでしょう?)近所に本物のインド人がやってるインド料理屋があって、そこで一番辛いセット料理を食べるのが私の今のぜいたくです。これで私は夜の王様 マハラジャ!・・・って、気分になる。ちびまるこちゃんが、深夜、冷蔵庫を開けてミルクコーヒーをのみながら、「私を女王とお呼び!」と、そっくりかえる場面があるが、おんなじだよ。Air Franceはコーヒーが美味しかった。やはりお国によって、それに会社によっての得意飲み物レシピというものがあるもんです。ワインはいろんなワインがあるけれど、最近のワイン事情はわからないので、やはりフランスワインが好みに合う。フランス・ワインで思い出のあるのはシノンかな?ロワールのロゼだけれど、むかしパリでヒマな時に「ロワール河 城巡りツアー」にのってロワール河に沿って点在するお城を見て回った時に、シノン城へ行った。シノン城とは、あのジャンヌ・ダルクが18歳の時、「王太子シャルルを助けよ」という神の声を聞いて、はるばる旅をしてシノン城でシャルルと会見する。そう言う歴史的な城ですシノン城の部屋の中には、その時の様子を再現した人形がおかれています。私は城に興味があって、城の本を数冊持っていますが、城って言うのは一つの小都市ですね。城についてはいつか書いてみたいと思います。シノン城は一つの城ではなくて、三層の構造になっているようで、名城の一つです。シノン城見学を終えて、下のシノンの街のレストランでこのシノンを、シノンの城をながめながら飲んだのを想いまします。城というものは必ず高台にあるもので、街からは見上げる姿勢になる。今調べてみると、シノンではルージュしか出てこないけれど、私が飲んだのは間違いなくロゼ。あまり美味しくはなかったけれど。冷やして飲まなかったからかな?ドライ・マテニーというカクテルがある。カクテルの王様といわれるらしい。ヴェルモット3分の1、ジン3分の2。それをステアーし、好みのビターをちょっと落とすのが基本らしいが、このカクテルのお洒落度というか、意地というか、ヴェルモットを出来るだけ少なくする(ドライにする)のがポイントらしい。私は別に標準レシピでいいのだが、世の中にはカッコをつける人がいる。ヘミングウェイがマテニーが好きで、ヴェルモットの入ったボトルのコルクを、カクテルグラスにちょっとつける・・・なんてドライさで粋がったらしい。いや、これはウィンストン・チャーチルだったかな?これがひどくなると、ヴェルモットのボトルをチラとみるだけとか、さらにひどくなると心の中で想像するだけだなんて・・・。何考えてんねん!! と言いたくなる。話が長くなったが、私が一番のドライ・マテニーだとおもったのは今は無き米国の UNITED AIR で出してくれたもの。そのスチュワーデスも美人だったし。不思議な事に美人で親切なスチュワーデスが出してくれるカクテルは必ず美味。私の経験的な法則。今日はこれまで。続きは明日の日記として、書く予定です。
2004.06.06
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巨人vs阪神の3連戦でセ・リーグが開幕した。私は幼少時からの阪神ファンだが、ひどく旧式な阪神ファンであって、この頃のタイガース・ファンではない。試合そっちのけでメガフォンを叩いて大騒ぎなんて、私は絶対にしたくない。好プレーがでた時だけ、手を叩きたい。 ----------------幼稚園の時から父親に甲子園に連れて行かれたので、ほとんど自動的に阪神ファンになったのだが、それなら、同じように阪急ブレーブスの試合も西宮球場に見に行ったのに、それに阪急沿線に住んでいたのに、阪急ファンにならなかったのはどうしてだろう? ----------------阪急ブレーブスというチームには、どうも華がなかったのだろうか?ただ実力は十分あった。米田哲也、梶本隆夫というスーパー・エースがいたのだが、その他の選手の印象は少ない。もっとも、そのもっと昔のブレーブスには黒人のニューベリーという投手とブリットンという三塁手がいて、レインズというショートなどはデビューの年に首位打者となって翌年はすぐメジャー・リーグに転出してしまった。こんな事を書いてもわかる人なんて恐らくいないだろうけれど。 ----------------こう書いてくると、野球観戦というものも私の人生の中でけっこう印象深いものがあると思う。上に書いたように、幼い頃から甲子園で観戦したのだが、これは高校野球と阪神タイガースの試合の両方になる。記憶にある最も古い阪神タイガースの試合では、後に新発足したパシフィック・リーグの毎日オリオンズに引き抜かれた別当薫のプレーを見たような記憶がある。もう一つ確かではないのだけれど。その後、高校野球では和歌山新宮高校の超高校級、前岡勤也を見た。これはハッキリした記憶だ。前岡は当時、超高校級という呼び方をされたすごいピッチャーで、卒業とともに阪神に入団。ハンサムで長身。契約金が当時としては破格の400万円。話題性がすごすぎて、プレッシャーに押しつぶされたのか?練習もしないうちに投げさせられて肩を痛めたかで、結局全く花を咲かせないままに終わった。新宮高校のユニフォームは阪神と同じ縦縞だった。足を上げて投げ込む左腕のフォームには子供心にもオーラを感じた。彼が大成していれば阪神の人気は凄いものになっていただろうと思う、それほどの印象だった。この年は超高校級の当たり年で、前岡レベルの投手が少なくともあと二人はいた。小倉高校の畑に中京商の中山だ。この二人も見たということは、けっこう高校野球に通っていたと言うことだろう。この超高校級達はその年のイベントである全日本としてハワイ遠征に出かけた。高校野球で記憶に残っているのは徳島商の板東と静岡高校の石田。特に板東はエラの張った顔でとても高校球児とはおもえないオッサン風だった。静岡高校の石田は早稲田に入学したのだが大学野球では芽が出ないままで終わった。私の高校時代の級友(野球部のエースだった)も早稲田の野球部に入っていたので戸塚球場には時々顔を出していたが、彼もとても早稲田のレベルにはついて行けないようで彼の顔を見ることは出来なかったし、石田投手もレギュラー組には入っていなかった記憶がある。一度扁桃腺で40度の発熱をしたが、ちょうど早慶戦で、フラフラのまま神宮に連日出かけ、声の限り応援した。考えてみれば今の阪神ファンのことを全く言えない状態だった。言い訳をさせてもらえれば、対抗戦という雰囲気はちょっと特別だから。優勝の提灯行列をして早稲田から飯田橋を往復してから新宿に向かった。当時は優勝すると慶応が銀座、早稲田が新宿にくりだしてビアホールでビールの飲み放題。そのビール代はビアホールのおごり・・・といういい時代だった。新宿コマのあたりで気勢を上げていると、お付きを二人ぐらい連れた立派な年輩の紳士が「優勝したんだな これで飲みなさい」といって一万円札を手渡してくれた。恐らく先輩だったのだろうと思う。大喜びで飲みに行こうとしたら、だれかがその一万円を持って逃げて、大宴会は夢に終わった。それからまだ朝方まで騒いで、アパートに帰ってぶっ倒れて一日中寝たら、翌日はケロリと元気になった。「若か~った、あの頃・・・♪」・・・という事になる。 ----------------難波球場というのがあった。大阪球場とも呼ばれた。南海ホークスのホームグラウンドだった。この球場は観客席が狭かった。特にバックネット裏なんて、奥行きが無くて断崖絶壁から見下ろしているようだった。野村捕手が地味にプレーしていた。阪神の代表の息子さんが小学校の級友で、クラスごと甲子園に招待されたことがある。その時のピッチャーは阪神に入団して初年か?二年目の白面の渡辺省三。ミスタータイガースの藤村富美男。この人はそれほど背が高いわけでもないが、まるでタンクのようなガッチリしたからだ。全身に精気がほとばしっていて、他の選手とはオーラがまるで違った。今の選手のようなスマートさなどとは無縁の、オッサンくささがむんむんした人だった。これにくらべて川上哲治選手はそれほどのオーラを発散していた記憶はない。もともと色白の人が日焼けしたような肌色だった。しかし、しっかりヒットを打っていた。ま、このゲームも、やはり巨人が勝った。 ----------------テレビで観戦した阪神ではやはり、小山、村山の両投手が印象に残る。他にも大崎、バッキーといういいピッチャーがいた。打者でのソロムコ、ラインバックというファイト溢れる外国人選手がいた。それにしてもサード・三宅、ショート・吉田、セカンド・鎌田の内野陣はすごかった。特にショート・吉田。この人ほどのショートは空前絶後だろうな~。南海ホークスの木塚が匹敵するかな?今日は年寄りの単純極まる思い出話に終始しました。
2004.04.04
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msk222さんの日記を読んだら、同窓会で友達の老けぶりに驚くとあった。同級生を見てその老けぶりに、またはオッサンぶりに「ギョッとする」のはよくあるという。同窓会というものはお互いに「ギョッ!」「ギョッ!」ばかりかもしれない。私は同窓会には近ごろ行ったことがないが、会社の独身寮時代の寮生などに会うとその変貌ぶりにビックリすることがある。昔は若々しくてやんちゃで寮の中で暴れていたヤツが、なんだか、ぼけ~っとした、感性の神経をすべて抜かれたような・・・(そこまで言うこともないか)、そんなオッサンになっているのを見ると驚く。実は向こうも驚いているかも知れない。今ごろ「alexには驚いた」、そんな日記を書いているかも知れない。恐ろしい。ここで私の秘密を明かすと、私は不思議なことに心の中ではまだ青年なのです。(♪馬鹿は死ななきゃ~・・・)心理療法の一つに「退行療法 Hypnotherapy 」というのがあるそうで、意識としてその人の若い頃に、もどったものとしていろいろその当時のことを回想させる、そうしてその人の心の傷を探るものらしい。私も欧州で妻の友人(セラピスト)にそれをやってもらった。そのころ悩みがいろいろあって。その悩みの一つは妻との関係だったりして・・・。(これが冗談めかして真実を語る手法だ)セラピストの彼女、すご~く美人で・・・。ハグをするのが楽しみだった。・・・ あっ、そういう話じゃなかった。「あなたは、心の中で「何歳のつもりで」いつも暮らしているのか?」といきなり聞かれて、あらためて考えてみると、私はそのころ20代の意識でいることに気がついた。まさかこんな幼稚な人はこの楽天に来てはいないでしょうね?私は治療を受けなくても初めから退行してしまっていたらしい。だから心はいつでも若々しい青年。時には少年の時もある。(これはちょっとみっともないかな?)いたずらと冗談が何よりも好きなんて人間は、こんな精神年齢でないとやっていけない、本当のところ・・・。しかし、こんな私も企業に勤務していた頃は、さすがにちゃんと実年齢に近いふつうの意識年令だったのでご心配なく。彼女の怪しい誘導に身をまかせている内に、だんだん退行し出して(つまりもっと幼稚になって)(ただし催眠状態などではなくて会話をしているだけ)、ついに赤ん坊の頃を想い出した。その想い出というのは、今となっては真実の想い出なのか? 潜在意識を引きずったデジャヴみたいなものなのか? よくわからないんだけれど、とにかく、赤ん坊の私は乳母車に寝かされていて、そばにはだれもついていなくて一人なんだが、夕焼けの空をカラスが群れで帰って行く。父が大阪市内から郊外の住宅地の外れに家を建てた私の家は、すぐ後ろに山が迫っていて、その山にカラスが群生していた。そのカラスたちに私は「カー カー」とよびかけている。その時祖母が外出から帰ってきたのが記憶の中に入ってくる。両親に聞いたら本当にそういう事が多かったようだ。結局、時間も無いことでそのセラピスト(すごい美人 重ねて強調)、からの退行療法はそれまでとなって、私の心の中の深い傷は探り当てられないままに今も赤い血を流しているのだが(こんなところだけ文学的になる)、自分の意識年令は何歳なのか? ということもなかなか注目課題だと思った。 ―――― ◇ ――――NHKラジオ深夜便でなんと、ジョン・コルトレーン JOHN COLTRANE の特集をやっている。モダン・ジャズの巨人のひとり。私も大好きなんだが。特に今演奏中の My Favorite Things はいいな~。しかしこの曲がジュリー・アンドリュースの「サウンド・オブ・ミュージック」になるとMy Favourite Things となる。英国英語では u があるので。
2004.03.07
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一昨日私はライターのタラナイさんのBBSへ書き込みをしていたのだが、それを読んだ同じくライターのミドル英二さんが私のすぐ後に「alexには戦争体験があるのか、それなら彼の日記を読み直してみよう」と書かれていた。それを読んで私は今まで自分の戦争体験を何も日記に書いていないことに気づいて、はっとした。実は他人のHPのBBSなどには戦争体験や戦後の社会情勢の印象・記憶などをボチボチ書いてはいたのだが、意識的ではなく、話し合いのプロセスとしてのものだった。これまでの日記は自分の本フェチぶりや、商社マンとしての海外体験などをダラダラ書いてきただけなのだが、他の人のBBSでの憲法改正などについての語り合いの中で徐々に私の戦時体験それに戦後体験を見返さなければいけない状況にはなっていた。新憲法・平和憲法の成立した当時のプロセスや、その時それを日本人がどう感じ、どう受け止めたのか? そういう現行憲法の身上調査もしておかないと憲法論議ができない。加えてその時はあるサイトでの、米軍の日本空襲という残虐非道な行為に関する義憤にあふれる告発も、私の戦争体験の記憶を刺激して、多少興奮気味の内容をタラナイさんのBBSに書いていたのだ。いずれにしてもこの時代に、戦争中や戦後の実体験を知る程の年令の人間は希少動物であることだけは確かだ。それに小泉純ちゃんなどはネット日記など書かないだろう。そんな点でもこの年令で楽天日記を書いている私には、多少の希少価値があるかな? この私にも、みなさんには書けない、しかし私からはみなさんに知らせるべきことがあるのだ。そんな点を一瞬にして指摘したミドル英二さんのジャーナリスティックなアンテナというものは、あらためてすごいと思った。 ―――― ◇ ――――ちなみに私は小泉純一郎首相とほとんど同年齢だ。ほんの少し若い・・・と言うことにしておこう。あと女性で私と年令の近い人達もチラホラいるのだが、ここに勝手にお名前を出しては失礼に当たるかも知れないので控えよう。一国の首相とただの老人ではずいぶん乖離があるが、そんなことは無視して、戦時中の記憶がある人間の一人ということで、戦時中および戦後の個人的な記憶をこれからときどき書いて行きたいと思う。平和だ戦争だ憲法だと言っても、今の若い人達は何も実感も無しに語っているのだから。 ―――― ◇ ――――私の戦争体験と言ってもまさか従軍してインパールで死ぬ思いをしたなんてものではない。終戦時は2・3才の幼児で、防空壕にひそんでいただけだ。ただ生死の間際の記憶というのはそんな幼児でも断片的ではあるが鮮明に覚えている。私は大阪市内の生まれだが、戦争中に一家が郊外に移った。爆撃を避ける疎開の意味があったと思う。疎開と言う言葉さえ今の人々は知らないだろうと思う。戦火を避けて安全だと思われる場所に避難・移住することだ。私が気がついた時には自宅の横に防空壕が出来ていた。英語で言うとシェルターという。防空壕にもいろんな形状のものがあると思うが、私の家の防空壕は大きな穴を掘って、材木やトタン屋根をかぶせ、その上に土を盛った、至極粗末なものだったと思う。爆弾が直撃したらひととまりもないが、爆撃機の目から逃れる機能は多少あったかも知れない。米軍機が近づくと空襲警報が発令になる。具体的にはウ~~ゥというサイレンが鳴る。そうすると一家全員防空壕に飛び込む。空襲警報が解除されるまで防空壕で過ごすことになる。今も覚えているのはある空襲警報で防空壕に飛び込んだ時の光景だ。暗い中で母が赤ん坊の妹を毛布で蓑虫のように巻いて(春巻きのようにと言った方が今は通用しやすいかな?)かかえていた。片隅には貴重な食料のサツマイモの煮たものが鍋に入っていた。これが当時の我が家の食事なんだが、煮たサツマイモだけなのだ。他に何もない。その内に、祖父と父が防空壕の外に出た。二人して双眼鏡でちょうど飛来した米軍の爆撃機をながめた。それは B-29 という、当時としては巨大な「空の要塞」と呼ばれた戦略爆撃機で、もうその当時は日本の対空戦力は壊滅していたから高射砲も撃たないし、迎撃戦闘機も飛び立たない。まったく無敵状態で、その銀色の巨大な機体は悠々と飛行していた。そのうちに B-29 が祖父と父を見つけて機関砲を発射してきた。肉眼で人間を見つけることが出来るほど低空で飛行していたのだ。日本の防空体制をなめきって。祖父と父はそれこそ命からがら防空壕に飛び込んで来た。しかし母の話ではその後、戦闘機が低空で飛来して、射的気分なのか?畑のニワトリを撃って行ったという。操縦席の防風の窓越しに操縦士の顔が見えるほどだったという。あるHPによると操縦士の顔がみえるほどの操縦席の風防持つ戦闘機はロッキード・ムスタングだという。プロペラ機最後の、完成された究極のプロペラ機だ。他のHPを読んでいたら目撃談があって、赤ん坊を背負っていた若い母親を撃った戦闘機もあって、赤ん坊の頭が吹っ飛んだそうだ・・・ ・・・。親戚に聞いた話では、徳島市も大空襲に会い、街中火の海で人々は灼熱の炎に追い立てられ、火傷が熱くて吉野川に次々飛び込んだという。その人々まで米軍の戦闘機が機銃掃射していったという。 ―――― ◇ ――――パール・ハーバーという日本軍の真珠湾攻撃を題材にした映画が二・三年前に日本で大ヒットした。この映画では真珠湾を攻撃した日本の戦闘機が、軍施設ばかりか小学校や病院まで銃撃することになっているそうだ。こんなのは全く事実無根で、英米側の人種差別的なねつ造なのだが。私はこんな映画なんか見たくもないので見なかったのだが、日本の若者は「カッコいい!」と詰めかけて大ヒットになったそうだ。 ―――― ◇ ――――防空壕の中ではそれほど恐ろしいとも思わなかったのだが、今でも悪夢にみるものがある。防空壕にいるのに何か大切なものを家の中に忘れたのだ。両親が止めるのも聞かず防空壕をとびだして、家の縁側に飛び乗って茶の間のガラス戸を開ける。見上げると、そこに見えるのは柱時計。それだけの夢なのだが繰り返し見る。私の家の庭に銀紙が降り下りた。正確に言えば銀色のアルミテープがどさっと落ちてきていた。B-29 は無敵とはいうものの、それでも一応は日本のレーダー設備に対する警戒もあってレーダー波を乱反射させて攪乱するためにこのアルミテープを大量に撒いたのだ。夜など空襲警報のない時でも燈火管制というものが敷かれていた。夜、電灯をつけると爆撃機の目標になるからと言うことで、電灯の笠を風呂敷で包む。これで電灯の光が細く真下だけを照らすことになる。昔は一部屋に電灯は天井に一個あるだけだった。それも60ワットかそこいらの侘びしい光だった。蛍光灯などはまだ発明されていなかった。潜水艦なんかには使用されていたような記事を読んだことがあるが一般家庭では、丸い笠に40ワットか60ワットの電球。それだけだった。その真下にちゃぶ台という丸いテーブルがあって、高さが30センチほど、脚は折りたたみ式だった。中央にコンロなどのための切り込みがある。ちゃぶ台、それは食事時のテーブルであり、一家団欒の場そのものでもあった。風呂敷に遮光された電球の光の下で一家三代合計六人が息をひそめていた。電気スタンドは一つだけあったのを覚えている。便所の電灯は20ワットと決まっていた。 ―――― ◇ ――――ある夜、二階からながめると遠い街が(今から思えば尼崎市あたりだったと思う)が米軍の空襲で真っ赤に燃え上がって空まで赤かった。実は終戦(敗戦と正確に言おう)の次の日には、私達の町が空襲の対象になっていて、その予告ビラが米軍機からまかれたという。その日、父は母に「俺だけは残るから、お前はこども達を連れて山に逃げろ」と言ったという。
2004.03.05
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さっき、ある日記を読んでたら、フォークの「神田川」の話題が書いてあった。なつかしーい!私はこの歌をリアルタイムで聞いていたかどうか? 記憶は無いのだが、歌詞の内容が私の大学生時代をほうふつとさせるものなので、なつかしいのだ。私の大学時代なんて、本当にむかしむかしの物語だから、今の大学生の生活とはずいぶんちがうはずだ。入学して直後はしばらく西荻の伯父さん宅でやっかいになった。しばらくして同じ西荻で下宿したが、その下宿のおばさん(実は「ババア」と言いたくてたまらないのだが)と折り合いが悪くて、同じ中央線の武蔵境のアパートに移った。そこで2年過ごして、後半の2年は新宿戸山町のアパートに移った。上京した時はいろんな不安に加えて、視界の中の基本色が私の実家近くのものとちがっていて、それに違和感を感じた。特に関東平野の関東ロームの黒い腐植土にびっくりして、何となく暗い気持ちになった。私の実家は大阪でも神戸・宝塚に近くて、そこには六甲山地があって、その六甲山地は花崗岩の山だから白い土だ。山ではなくて普通の土地の色も、さすがに真っ白というわけでもないがどちらかというと白っぽい。視界の底辺を支える(おおげさだが)土地の色がちがうと結構心理的にインパクトがあると思う。大阪育ちの私には東京の食べ物の味が濃い味なのにもちょっとおどろいた。受験の時に二・三日だけ下宿した家で出してくれた店屋物の親子丼ぶりの味が濃かった。学食や生協で食べた東京風のうどんにもビックリした。関西でうどん汁というと昆布出汁で色はほとんど付いていないのに、東京のうどんはたまりというのか、真っ黒だった。箸でちょっとかきあげると、まっ黄色い卵の黄身と白いうどんがポワ~ンと浮き上がってきた。味も濃くてなじめなかった。讃岐うどん全盛の東京で、今こういう古典的・伝統的なうどんは健在なのだろうか?この正統派うどんもこの頃のあまりの冷遇ぶりにすねて、もっと濃い味になっているのではないかと心配である。下宿にしろ、アパートにしろ、賄い付きでなかったから外食するか? 自炊するしかない。どちらも侘びしく孤独で恥の多い作業である。外食という作業はまず、食べるものを決定しなければいけない。次に食べる店を決定しなければいけない。この順序が反対である方が普通かな?学食や生協で食べるのが学生としての本分かも知れないが、すでに昼食をたべているのだから、夕食もそこでというのもナニかと思う。それに大学をいったん離れると、どこかで食べなければいけない。蕎麦やうどんでは腹が持たない。カレーライスばかりも飽きる。だから栄養のバランスのとれた定食のある一膳飯屋に行くことが多かった。しかし、この一膳飯屋に一人で入るということは、一日の内で一番恥多きプロセスで、これは苦痛だった。高校時代はもちろん外食などしなかった。一家揃ってレストランに行くことはあったが、それは家庭の団らんの洗練版・豪華版にすぎない。高校時代に下校途中にわざわざ駅前まで行ってたこ焼きの屋台によって密かに食べたたこ焼きはまさに美味だったが、たこ焼きというものは暗がりの中で、何らかの後ろめたい理由があって、舌をやけどしながら、フーフーと急いで食べる場合だけがうまいのだが、余裕充分な状況で明るい場所で、ちょっと冷えかけのものを食べてもそんなにうまいものでもない。後ろ暗い時間に後ろ暗い状況でたこ焼きを食べろ!この日記の読者だけに伝える、私からの「たこ焼き賞味の極意」である。忘れないように頼む!つまり、今までひとりで外食したこともない私にとって、労働者階級の濃い世界の殿堂のような一膳飯屋の汚れた暖簾をくぐるという行為にはとてつもない勇気が要った。暖簾の前を二三回言ったり来たりして呼吸を整えた後、最後に左右を見回して、友達や知り合い・親戚・関係者・教職者・警察関係者などがいないか、一瞬のうちに判断してから暖簾をくぐる。矛盾するようだが一人の場合はまだいい。だれか友人・知人と一緒に歩いていて、分かれる前にこんな一膳飯屋の前を通る時には、こんな店は全然知らないし、まして店の中でワリバシで「レバニラ炒め定食大盛り+白飯お代わり」などを食したこともない・・・という態度でそのいきつけの店を裏切りながら通り過ぎることになる。心なしか、店の中からおばさんがこちらを軽蔑した目つきで見ているような気がする。なんとかその「自宅が東京」という特権階級の友人をまいてから、まだ用心して本屋で立ち読みをしたりして時間をつぶして、万が一にも彼がもどってくる事は無いという時間帯に突入したら、おもむろに定食屋に確信を持って進むのである。食べ終わって、また暖簾をサッとくぐって町に飛び込み、またなにごともなかったという表情で町を歩く。アパートに付く前に一般住宅の前を通る。家々からは幸せの黄色い電灯がついている。彼らは全員卑怯にも、一膳飯屋忍び入りの苦行など無しに美味な夕食を楽しく、さんざめきながら食しているのだ。Dinner without toil なのだ!本当にこの世の中には神も仏もないものだと思う。「彼らに呪いあれ!」こんな高貴な孤独に耐えている私の胸に響く歌があった。ミルバやザ・ピーナッツが歌っていた「ウナセラ・ディ・トーキョウ」である。 ―――― ◇ ――――♪ 悲しいことも 無いのにどうして 忘れたのかしらウナセラ・ディ・トーキョウあ~あ(途中省略)♪ あの人はもう 忘れたのかしら とても悲しい♪ 街はいつでも 後ろ姿の しあわせばかりウナセラ・ディ・トーキョウあ~あ ―――― ◇ ――――本当にこの時間、魔の夕食時に、私とすれ違う人達はみな、自宅で家族と共に夕食を囲むという、しあわせそうな後ろ姿ばかりである。一瞬、背中をかきむしってやりたい気持ちになる。 ーーーー ◇ ーーーーアパートで自炊というのも言うまでもなく侘びしい。一膳飯屋苦行とどちらがわびしいかは計量化してみないと、数値化してみないと正確にはわからないが、わびしさの性格が違うようだ。当時は電気冷蔵庫を持っている学生なんていなかった。 ちょっと寄り道になるが、この「電気」冷蔵庫という表現に、注意深い読者なら気がつくはずだ。電気でない冷蔵庫もそれより昔になるがあったのだ。これは普通に単に「冷蔵庫」と呼ばれていた。氷屋さんが夏になると毎日、角形の大きな氷を配達してくれる。これを冷蔵庫のトップにある氷室に入れるだけでいい。ともかく、当時の学生の持っている文明の利器と言えば平均して下記の「四種の神器」だったと思う○ ラジオ○ 電熱器(蚊取り線香状のニクロム線を電気を通電して熱する)○ 卓上蛍光灯スタンド○ 電気コタツ または 石油ストーブなんともシンプル極まる生活である。ただし私はといえば、特権階級だったから(??)、今だから言えるが、この上に二種の神器を隠し持っていた。○ テナーサックス○ 赤井のテープレコーダー 16インチスピーカー付きモダンジャズの同好会に入っていたので、これはどうしても必要だったのだ。自炊の話にもどるが、学生は料理の仕方なんて知らないのだから、肉野菜炒めが定番となる。これは当時のすべての学生の普遍的な真実だったと思う。この肉野菜の部分について、実情を分析すると、野菜はそのままでいいのだが、肉については注記した方がいいかも知れない。肉は高いからその代わりに、魚肉ソーセージがピンチヒッターとして登場する。さらに実情を究めると、実はピンチヒッターでは無くて、魚肉ソーセージの方がレギュラーなのだ。肉の方がピンチヒッターで恥ずかしそうにベンチにいることになる。「この財政状況だと私の出番は無さそうね」と、自分から二軍に行ってしまうこともある。こうなるともう呼び戻せないから魚肉ソーセージがレギュラーとして定着する。この頃はコンビニでこの昔なつかしいレギュラーを散見する。しかしもう、レギュラーの座は張れないで、いつもは二軍だが、監督の温情で久しぶりに一軍ベンチに入った超ベテランと言った風情だ。だれも本当は大活躍を期待していないんだけれど、年に一二度ぐらいは一軍にあげてやらないと隠れファンがうるさいと言うことかも知れない。飲み物はお茶だが、ぜいたくな学生は牛乳の配達を受けていた。私も堂々のぜいたく学生で、牛乳+新聞の配達という豪華版だった。しかし暑い夏などはジュースとなる。渡辺のジュースの素という秘密兵器があって、これは毒々しいオレンジ色の謎の粉体で、これを水に溶かして飲むと、味も毒々しいが無理に考えるとジュースという実感が出てくる。少なくとも毒々しく、甘い。毒々しいの三拍子である。自炊を共同でやることは、アパートの住人同士が友人になったら可能となる。どうせほとんどの住民が同じ大学だし、金もないので夜はすることもなく退屈で、誰かの部屋に集まっては夜遅く、あるいは朝までダベル事になる。親しくなりすぎるとお互いいたずらもしてしまう。特に私なんか、いたずらが生き甲斐だったから、ある時、真面目な男のパンツを脱がしたことがある。その男は大男で運動神経は皆無だったけれど、ものすごく力持ちの男だったが、ある拍子でふざけているうちに、ついついみんなで彼を押さえつけてパンツを脱がした。彼の裸の下半身はある理由でトップ・シークレットというか聖域だったようで、彼は激怒した。手元の木刀で私を本気で殴った。彼とちがって運動神経の固まりとも言える私はサッと邪悪な木刀を避けたが、部屋の扉は運動神経が無かったのか、木刀に直撃されて深い傷を負ってしまった卒業してそのアパートを出る時には、どうしてわかったのか? 家主の奥さんにひどく叱られた上に高い補修費を支払わされた。トイレ・台所(と言ってもシンクがあるだけ)は共同。もちろん風呂なんて無い。だから近くの銭湯に通うことになる。これは、一膳飯屋の「がまの油タラタラ」状態とは全然ちがう。アパートの友人達と一緒に湯屋に出かけるのは楽しい。 ―――― ◇ ――――♪ 貴方は もう忘れたかしら赤い手拭い マフラーにして二人で行った 横丁の風呂屋(中略)小さな石鹸 カタカタ鳴った(中略)窓の下には 神田川三畳一間の 小さな下宿 ―――― ◇ ――――私達の石けんもカタカタ鳴ったが、可愛い女子学生はいなかった。いや、ひとりけしからんやつがいた。私の高校からの親友で一緒に進学したのだが、入学して半年するともうガールフレンドが出来た。同じ大学のある運動同好会で知り合ったらしい。この男は私とちがってハンサムでもないヤツで、女の姉妹がいないくて男の中で育っているヤツだから無骨なヤツで、、女性に対する好奇心が凶器のように肥大していてとてもイヤラシいヤツだから、・・・モテないだろうと・・・油断していた私が悪かった。その女の子はとても小柄だがとても可愛いのである。愛し合っているらしい二人のかもし出す雰囲気がとても醜い。おまけに大学近くのアパートで半同棲という大罪を犯しているようなのだ。ついにこーゆー間違ったことをしているカップルには断じて意見をしなくてはいけないという義憤に駆られて、ある夜、級友と共に彼のアパートを急襲してみた。神田川沿いの道の行き止まりの木造アパート、その二階に彼の部屋があった。入ってみるとやはり彼女がそこにいた。可愛い女性と面と向かってみると、一瞬で私の義憤は霧散したばかりか、彼女との会話を通して彼女の級友に可愛い女性はいないのか?を聞き出そうという偵察モードに入ってしまった。私には臨機応変という才能があるのをその時始めて知った。偵察モードの一端として部屋の窓を開けてみたら、真っ暗な闇の中から、神田川のちょっと汚れた流れの臭いが漂ってきた。
2004.02.28
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今年は宝塚歌劇創立90周年だそうです。普段は宝塚歌劇を「世界七恥のひとつ」(ファンの方々、失礼!)とまで呼んでいる私ですが、やはり今日は敬意を表したいと思います。私は宝塚の近くで育ちましたし、祖父母と母がファンであったことから、幼い私も何がなにやら訳が分からないままに歌劇大劇場に連れられて行き、かずかすの名作を鑑賞?しました。越路吹雪さんが初主演した「ミモザの花の咲く頃」という作品も赤ん坊状態で観劇?したそうですし、春日野八千代さん、淀かおるさん全盛の頃はその舞台も覚えています。プッチーニのオペラ「トゥーランドット」も昔宝塚で観劇した記憶があるためか?最も好きなオペラの一つとなっています。あのころの宝塚の舞台はスターのオーラが違い、まさに華麗極まる舞台でした。ところが現在ときどきテレビで見る舞台は、少女漫画さながらで、何か肝心なものが抜けているように思えて仕方がありません。私が観劇したのは戦後ですが、戦前の宝塚は欧米の歌やショーをいち早く取り入れて、日本の最先端だったようです。ある音楽家の想い出でも、ある楽曲の譜面が欧米から入手できないので、宝塚歌劇からそれを借りて練習したとか。私の敬愛する田辺聖子先生は大の宝塚ファンで「新源氏物語」だったかな?脚本を書かれたはず。宝塚についての本も出版されていますね。「夢の菓子をたべて *わが愛の宝塚・写真付」私も読みました。しかし昨年は私が幼少のみぎりより慣れ親しんだ「宝塚ファミリーランド」が閉園となり、まさに暗黒の年でした。USJよ!お前も廃園になれ!
2004.01.08
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