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アメリカで最も殺○率が高い州の闇...
2023.09.22
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【アメリカ大統領選】トランプ「圧倒的人気」で復活なるか【デイリーWiLL】
2023.09.17
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ハワイ旅行 その1先日、二度目のハワイ旅行をした今回驚いたことは8年前?の前回とは違って中国人観光客がハワイにも溢れていたことだ「中国人観光客の大量来日」「中国人観光客の爆買い」などと、われわれは驚いていたがそれは、日本だけに於ける現象ではなかったのだ私の宿泊したホテルは、予算の関係上(笑)中級ホテルだったが宿泊客の6~7割が中国人観光客ではないか?と思えるほどの勢いだった日本人も頑張っているが(笑)2割強、というあたりか?中国人は、さすがに私のように個人フリー観光をする、言う人達ではなくツアーで集団で来襲(笑)しているただでさえ、デジベルがすごい中国人が団体ともなれば雰囲気が一変するホテル内にあった、お土産点の女性韓国人オーナーの話では(韓国語・日本語・英語がしゃべれる)(大変感じのいい人だった)約四年ほど前から中国人観光客が現れ始め年々、その数が増えているというオーナーは、中国人観光客に対してそつなく応対しているがもう一人いる、やはり韓国人の店員はすっかり中国人嫌いになってしまっていて傍目にも、冷たい対応(笑)おまけに中国人は、まだ、英語もしゃべらないし中国人達の容貌や私がなじみのないその言葉から察して少なくとも北京または、その近辺の人ではない広東語圏内からでもないし福建や潮州の言葉でもない私はベトナムでの経験から広東語は、ほんの少ししゃべれる程度広東語に近い、福建・潮州のこれらの言葉はしゃべれないがその辺の言葉であろうと言うのはサイゴンの駐在員事務所のローカルクラークであった彼等の会話を聞き慣れているのでわかるのである)だいたい、東南アジアに華僑として出ていった人々は東南中国の人達で広東・福建・潮州などが中心そうすると、彼等は、相当な田舎から(笑)はるばる出て来た人々だ沿岸部は繁栄しているがこれから、という内陸部の人達だろうときどき、私の耳元で、大きな声を張り上げて知人を呼ぶ、などという暴挙には困ったが別に、感じが悪い人達でもないし明らかなマナー違反をしている風にも見え無いまあ、はじめての外遊(笑)なのだろうから楽しんでくださいと、暖かく見つめた(笑)
2015.05.07
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安い航空券とホテルだけのツアーがあったのでまた、ちょっと、ハワイに行くことにした前回のハワイ行きは、七年前初めてのハワイだったのだが楽しいはずのハワイで極悪韓国人のリムジンドライバーや短気なゴルフ場の往復の韓国人タクシー運転手に出会って大いに不愉快な思いをした今回は、韓国人に関わらないようにしよう韓国本国では、いやな人間に会った事が無いが海外出稼ぎの韓国人は、ひどいのが多いと言うのが私の感想しかし、そう言えば、以前は(ばあチャルさんも同じような経験をしたらしいが)三十数年ほど前に、ビジネスで韓国に行った際時間が余ったので、ソウル市内外国人向け観光バスに乗ったら女性バスガイドが、市内の案内地の説明に必ず日本の悪口を絡めるそのバスの客は、ほとんどが日本人であるのにもかかわらず「こんな無礼な国には、二度と来るものか!」と思ったのに最近は、数回出かけてしまっている(笑)以前ほど、反日気分が無くなった・・・と思っていたら、また、最近の反日モードであるまあ、個人ベースでは、さほどのことでもないはずだが----この昔のソウル訪問は、ビジネスの出張だった当時は、今とは、様変わり空港も金浦空港だったし到着すると、ムッとする濃いニンニクの臭いがしたし空港からロッテホテルまでの道は、あまり舗装されていないしそこをタクシーが猛烈な速度で爆走するし(笑)気のせいか?ロッテホテルの室内の調度品もニンニクの油でテラテラしていたしかし、今の韓国では食堂やレストラン、食料品店を除けば空港でもどこでも、ニンニクの臭いがすることは先ず無い韓国人もニンニクの臭いを気にはしているらしい----前回は、あまり、ハワイを楽しんだと言う事が無くホテルの部屋で酔っ払っていた記憶がある(笑)私は、ハワイって、どこがいいのか?よくわからないままだった今回も恐らくそうだろう例外は、クリスという米国本土で有名なステーキハウス・チェーンの店がホノルルにもあって行ったこと隣に座ったホノルル在住の米国人の男性となぜか、非常に気が合ってずっと、しゃべったり、笑ったりで、楽しかった彼に勧められたステーキが、また、非常に美味しかった今まで食べたこともその名称も知らないものだったがTボーン・ステーキに似ていた今回も、それを注文しようとしてステーキの名前を思い出そうとしているがどうも、その時、しっかり確認していなかったので思い出せないNYのブロードウェイのクリスには、ミュージカルを観劇した後、何度も行ったしヒューストン出張の際は、クリスでは、試しに1キロのステーキを食べてみた(笑)さすがに、一杯一杯だったが----前回の訪問ではあまり、印象が無かったハワイなのにワイキキの浜辺も、堂って事も無かったのにハワイアン・ミュージックを聴くと特に、古いハワイアンを聴くとなぜか? ハワイに行きたい気がしてしまう本当は、同じハワイでもオアフ島ではなくもっと田舎の離島などに行けば本当のハワイが味わえるのかも知れないしかし、本当は昔の東南アジアの浜辺の方が人もほとんどいなかったし汚染もなく本当に美しかった確かに、そういうところで余生を送るのも、人生の楽園かも知れない
2015.04.12
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いわゆる鉄道ファンというのが、日本では、非常に多い他の国では、そういう存在は、あまりポピュラーでは無いらしい例外は英国である日本の鉄道ファンは、カメラマニアだったり模型マニアだったりだが、英国はそんなレベルでは無い廃線になった鉄道を同好会を作って、再生して週1回、サービス運行したりしている鉄道が全国にある日本では、いくら鉄男(笑)ががんばっても、そこまでは行かないやはり、英国の方が1枚も2枚も上である私がロンドン駐在だった頃日本からある会社の取締役とお付きがロンドン支店に来社した軽い気持ちでロンドン案内をしようと思ったら向こうからリクエストがあったある鉄道模型店に行ってみたいと言うのであるその店の名前はたしか「STEAM LOCOMOTIVE」あたりだったと思うそれほど大きな店ではなかったが、とにかく、店中鉄道模型とそのパーツでいっぱいである中でも、鉄道模型のおおきなやつが何台も店の中に陳列されている重役さんは、パーツの買い物に夢中である私も、鉄道に興味が無いわけでもないので、興味深く、いろいろ、見物したなかでも、ひときわ大きな、実物かとも思えるほど大きな蒸気機関車の模型があった「これを買って日本に持って帰ったら高く熟れますかね?」やはり、商社マンという本能で、私は、そんな卑しい(笑)ことを重役に聞いた「そりゃ~、間違いなく売れますよ売れなければ、私が買います」重役さんは、本気である(笑)もし、この機関車を持って帰っても、当時、私は、日本ではマンション住まいだったから陳列も出来ないしかし、実家の庭なら、なんとか運転できそうであるしかし、そうなると、レールも買って帰らなければいけない私が、決断に迷っている間も、重役さんは買い物に夢中である結局、何時間もその店にいた----今、日本では、鉄道写真を撮るマニアで溢れているようである私も、カメラは趣味で、フルサイズのカメラに、大口径のレンズを何本も持っていて鉄道写真も趣味に入れてもいいと思っているその前に、バレーボールの女子選手を撮影するのが先かも知れない(笑)ただし、私は、あまり、根気がある方では無いから鉄道写真は、恐らく撮らないだろうバレーボールの方は、撮ろうかな?と、今まで思った事は何回もあるただ、バレーボール会場の照明でバレーボール選手の速い動きを撮影するためには私の持っているレンズの中でも、一番、口径の大きな、明るい、しかし重いレンズを担いで行かなければいけないそれに、そんな巨大なレンズで選手を撮影しているとあたかも、私が、女好きかのように誤解されるかも知れない(笑)体裁を気にする私としては、そこが問題である(笑)COCOLOGY CAFEのCoco99さんには、カメラとレンスの購入指導をしてあげたが自分で撮影するとなると、私には、そんなレンスを構える度胸がないそれに私は、リオ・ファンではあるが、彼女の写真をPCに溜め込むタイプではないというか、1枚もPCに入れていないそれよりも、なんと言っても、リオは、静止画ではなく、動画の選手であるもちろん、静止画にも耐える美貌の持ち主ではあるが試合でのバックアタックなどの動きが、一番、魅力的である----今までも、何回も、カメラについては書いて来たが私は、今まで、カメラを一体、何台買ってきたのか?自分でも数え切れないもちろん、銀塩カメラの数の方が多いが小型カメラも含めてみればひょっとしたら、合計、50台になるかも知れないよく思うのだが、人間の生涯の持ち物の内死ぬ時に手元のあるものと言えば、100分の一ぐらいではないか?人間はものを無限に買い込むが、そのほとんどが、行方知らずとなって消えて行く最後に棺桶に入るものは、着るものぐらいである(笑)本当に不思議と言えば不思議である行雲流水----機関車と言えば、私には、そこら辺の機関車マニアが裸足で逃げる話がある(笑)私は、本物の機関車オーナーだった事があるのであるこれは、本当である模型の機関車ではない(笑)ただし、蒸気機関車ではなく、ディーゼル機関車だったそれも、日本で、では無く、米国で、である前にも少し書いたが、私は、脱サラした後米国でアントレプレナーをしていた会社を設立したのである今まで書かなかったので、ここで少し書いてみる東部のある州のある廃業した鉄鋼メーカーの工場を買ってその敷地と建物をウォーターフロントのコンパウンドにする計画だった海に近い大きな川の河口に面したその工場はかなり大きくて一周するには、車でまわらなければならなかったし構内には、工場の建屋が十数軒あったその中には、製品を積み出す設備があってそこには、鉄道線の引き込み線が横付け出来るようになっていたその製品積み出し用に、ディーゼル機関車があったのであるその機関車は少し古くなっていたがデイーゼル機関車は蒸気機関車ほど精緻な構造ではないよく研究すれば、運転できるかも知れない私は、そう思って、いつか運転してやろうと思っていた共同経営者である義弟は器用な男で工場の大型ボイラーも再生して現用にしてしまったのだから機関車も整備できるかも知れないプライベイトな土地内の運転だから、免許も要らない(笑)しかし、施設の修理や建設が多忙で機関車を省みる暇はなかったその内に、私が欧州に行っている内に、義弟がこの機関車を処分してしまったその施設では、前のメーカーの膨大な施設・機械類を解体して引き取る専門業者が入っていたから彼らに引き渡したのだろう他にも、惜しい設備があった最も巨大な建屋には、これまた巨大な天井走行クレーンがあったのであるこれに乗って建屋を端から端まで走行させると爽快だったこの建屋は、サッカー場が取れるほどの広さだったからサッカーを上空から見るようなものである河に面した護岸には、やはり積み出しようの桟橋があったこの河では、近くのブラウン大学のボート部が練習をしていたモーターボートかヨットを買って、ここで船遊びをしようと思っていた----結局、この未来のウォーターフロントは改修が完了したものの米国の住宅ブームがしぼんでしまって初期の目的であるウォーターフロント建設は挫折した代わりに、方向転換して、建屋を倉庫にして、倉庫業に転換した十年ほど、そこで営業をしていたらある時期に大手の住宅メーカーがこの敷地を買って住宅街にしたいというオファーをしてきたそれに応じて、そこを売ったもう、何年前になるかな?これが、私の機関車オーナーとしての経歴である(笑)
2012.08.23
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◆ 9.11の10年のアニバーサリーである私は、あの日、なにげなく9時のNHKニュースを見ていたそうしたら、リアルタイムで、ツィンタワーが二機の航空機によって食いちぎられて行く信じられない気持ちだった私は、昔、あのツィンのWTCビルに、出張で通勤していたことがある私の勤めていた総合商社がWTCの中に、NY支社のオフィスをもっていて、私は、妹夫婦が隣州のコネティカットに住んでいたから、ホテルからではなく、そこからWTCに通勤していたのであるコネティカットからの列車のNYでの終点は、グランド・セントラル・ステーションであるそこから地下鉄に乗り換えて、マンハッタン島の南端にあるWTCに通った時期は冬で、エレベーターの静電気がすごかったことを覚えている昼食は、同僚達とビルの裾野にある日本レストランでとったあのレストランなどは、無事だったのだろうか?いや、無事であったはずがない当時はまだ、カラオケが一般的ではなく、日本人の通うバーでは、ピアニストがカラオケの伴奏を務めていた時代である後年、姪の結婚式に参列するために渡米した9.11から半年ぐらい経った頃である姪夫婦のマンションもマンハッタンにあるノース・イーストというジョン・レノンも住んで居た、グランド・セントラル・ステーションに近い地区であるその窓から、かってのWTCを望見してみたが、とうぜん、その姿は見えない姪が近寄ってきて「あのWTCは、ここからよく見えたのに、今は見え無い」と涙声で言った私も、グランド・ゼロを見てみようと近くまで入ったのだが、交通規制が厳しくて難しそうであった代わりに、まだ登ったことのないエンパイヤー・ステートビルに登ってみた下界ではイエローキャブが豆粒の大きさに見える映画「ウェストサイド・ストーリー」の冒頭でのマンハッタンの俯瞰風景を思い出させるただ、ウェストサイドは再開発されて、確か、ロックフェラーセンターなどになっていた ―――― ◇ ――――米国で住んで居た頃のちょっと想い出をグランド・セントラル・ステーションから近いブロードウェイでは、ミュージカルをよく見たし、その近くのビデオショップでは日本では買えない昔の映画のビデオを漁ったりしたアメリカン・バレエ・シアターでバレエを見るのも楽しみだったクリスというビーフステーキのチェーン店があらゆるステーキ・レストランの中で一番、おいしい主張中にヒューストンで、1キロのステーキを食べたことがあるハワイ、ホノルルでもクリスがあって、ここも最高にうまかった店内で愉快なアメリカ人の客と親しくなって、ジョークを言い合って、想い出も最奥であった昔々、コネティカットで妹夫婦と Victoria Station というステーキレストランによく行った店内は鉄道関係のプレートや動輪や駅名などがかざってある鉄道趣味インテリアの店だが、ステーキ専門店でサラダバーがあり、当時の私にはおいしかった(笑)後に、そのチェーンがダイエーの経営で日本にも移植され、六本木にも開店した行っては見たが、もう、舌のおごった(笑)私にはもの足らない味になっていたやはり、ステーキはクリスである ―――― 日本の話題 ――――◆ バカな鉢呂経産大臣に代わって、枝野が登場大嫌いな奴なので、これからまた、毎日、むかつく首無しの福助か、フグのような奴である(そこまでいうか?)(笑)官房長官時代、この男は、菅と共に情報隠蔽ばかりやっていた戦犯であるなぜ、この男を原発の担当の経産大臣に???野田「どぜう」首相の内閣は、60%のこう支持率だというが日本国民はどこまでバカなんだろう?人事だけをとってみても、まったくあきれるばかりではないか?◆ 一川防衛相◆ 鉢呂◆ 安住財務相(財務なんて、何にも知らない男)◆ 山岡 賢次国家公安委員会委員長拉致問題担当民主党の公安は歴代、どうなってるんだ???極左が就任したり、今回は、種々の疑惑で逮捕されても不思議ではない山岡が公安委員長どろぼうを警察署長にする様なものじゃないか!!やはり、民主党は売国奴党はやく、下野してくれ ―――― ◇ ――――◆ なでしこが帰国早速、ワイドショーなどに引っ張り回されているが質問するキャスターが、みんな、サッカー音痴で、決まり切ったレベルの低い、本質的にサッカーとは関係のない質問ばかりを、局が変わっても、番組が変わっても、やっているNHKの9時のニュースのスポーツ担当の女子アナも同じ少しは、なでしこのフィジカルな条件が悪かったことぐらい、本人達が言わないのだから、誘導質問でもして引き出してやってはどうだ?特に、報道ステーションの「くいだおれ太郎」古舘伊知郎のバカさが、いつものことだが、すごい(笑)マスメディアのあんたたちが、なでしこの体力を奪い、練習機会を奪ったのだから◆ 大臣になって、失敗しそうな政治家は、一見しただけで、愚かそうな顔つきですぐわかるあの鉢呂もそうだし、「私は安全保障に素人だから、これが本当の文民支配」などという驚天動地のとんでも発言の一川防衛相なども、しかり無能さが顔に出ているきょうは、このくらいにしといたるわ!
2011.09.12
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【復刻日記】これから毎日、【復刻日記】をひとつは書こう。 ~~~~~~~~【復刻日記】各国鉄道事情今日の「ザ・ワイド」を見て、世界中のメディアが今回の福知山線列車事故をトップ・ニュースであつかっている事を知った。その中でもユニークだと思ったのは韓国の新聞の見出しだ。この大惨事に対して、「日本人の自尊心も脱線」とか、「技術力の欠点が露呈」だとか・・・。なんとも、マナーの無い国民だな~。鉄道事情が悪くて何度も大事故を起こしている英国では、日本の電車事故を大きな驚きで受け止めている。「busiest and most sofisticated Japanese railway system 世界で最も過密で精密な鉄道システムを誇る日本の鉄道が・・・」とアナウンサーがしゃべっていた。米国でも三大ネットワークがトップであつかっている。車社会の米国では、日本のように電車が発達していない。たとえば、ニューヨーク州の隣の高級住宅街とされるコネティカット州から、ニューヨークに通勤するとなると、二つのオプションがある。車でフリーウェイを片道1時間ほどかけて(渋滞の程度にも依るが)、通うか?フリーウェイの渋滞地獄アムトラックという日本のJRのような鉄道で最寄りの駅からニューヨーク(グランド・セントラル駅 Grand Central station)へ通うか?グランド・セントラル駅正確に言うと、アムトラックは全国的な長距離の会社で、コネティカットとニューヨークを結ぶ路線は、同じレールを走る「北なんとか」という名前の会社なのだが。反対方向のニュージャージー州(ニュージャージー訛りでは「ニュージョイジー」と発音する)向けの列車も別会社で、少し離れたペンシルベニア駅(PENNSYLVANIA station)(多分ペンシルヴェイニアと発音すると思うのだが)から出ている。一般に外国の大都市の列車の駅は、一つの駅に扇の要のように集中しているのではなく、目的地別に数個の駅に分散していることがほとんどだ。ロンドンでも、数個の駅に分かれていたし、パリでも・・・、「北駅」とかがある・・・。(パリはあまりよく知らないので、・・・これぐらいにしといてやるわ)だから終着駅は本当に終着駅で、その駅で打ち止めになる。話が飛んでしまったが、この米国の電車は、日本の通勤時の電車のように3分に一本なんてダイヤでは来ない。一時間に2・3本がいいところだ。だからその利便性で、とても日本の電車にかなわない。これは米国だけでなく、どこの国でもそうだ。また話が飛ぶが、全国路線のアムトラックは、見上げるような巨大なディーゼル機関車が牽く、完全に汽車スタイルの列車?だ。駅に到着するときは、グォ~ンというディーゼルの音を響かせながら、またカ~~ン カ~~ンと鐘をつきながら入ってくる。さすが大陸の列車だと感じる瞬間だ。アムトラックの巨大な機関車アムトラックにも事故はあったそれで思い出したが、ロシアの列車も巨大だ。私が見かけたのは兵員輸送列車らしく、ほとんどの窓はカーテンが引かれていたが、そのカーテンの隙間から、ロシア独特の帽子をかぶった兵隊たちが見えた。また、思い出したが、サウジアラビアでアムトラックが走っていた。東海岸のアル・コバール(アルというのは英語の定冠詞 THE にあたる)(スペイン語の EL は,AL からの借用語)から首都のリアドまで、大砂漠を突っ切って走る。アル・コバールの駅なんてバス停に毛が生えたぐらいのものだが。アメリカが建設したものだが、アムトラックの機関車とアルミ製の丸い車体の列車をそのまま持ってきている。アムトラックの列車一度乗ったことがあるが、確か8時間ほどかかったと思う。途中はほとんど砂漠なのだが、以外にも緑の地域がある。サウジアラビアの大砂漠の地底には、太古の昔から石油のように地層の間に滞留した水が大きな湖のように存在している。乾燥しきった砂漠の下に満々たる水をたたえた地底湖があるとは皮肉な話だが、サウジはこの地底湖の水をくみ上げて(おそらく米国の石油掘削の技術が使用されているのだろうと思う)、灌漑を施し、農作物(主に小麦)を栽培し始めていたのだ。井戸からくみ上げた水を長大なパイプ状のスプリンクラーで放水する。そのスプリンクラーは、例えてみれば時計の針の様にグルグルと円形に回転して、その部分を緑に変える。そういう巨大な緑の円がいくつも連なる地域がある。こういう地域が拡大すると中東の気候も変わってくる。それに産油国の大都市は、海水を真水に変える海水淡水化工場からの水を使って、花壇や芝生を増やしている。おかげで、私が滞在していたアブダビやサウジでは、年に一回ほど大雨が降るようになった。木々に小鳥がさえずるようになった。乾燥を前提にして成り立っていた街に大雨が降ると街中、小さな洪水のようになる。列車がリアドに近づくと夜のとばりが降りる。列車はリアドに近づくとなぜかノロノロ運転になる。一時間ほどノロノロ運転を続けて、列車はどうやら砂漠越えの難行を終えてリアドの駅に到着。フランスの列車に乗ったことは無いが、地下鉄(メトロ)はある。しかし、メトロの駅の周辺は使用済みの切符が雪のように捨ててある。それにパリは犬のフンもそこいら中にしてある。英国の鉄道事情もあまりよくない。設備が古いし、従業員の質がよくない。列車が時間通りに運行されることはあまり無いという印象だった。私はロンドンの金融街、シティーというところにオフィスがあったので、ロンドン北部への路線の「ノーザン・ライン」という地下鉄で通勤していた。この地下鉄は、郊外では地上部分を、市内では地下を走る。ロンドンの地下鉄駅ノーザン・ライン路線図通勤の朝は、北部の地上駅で地下鉄を待つ。15分に一本ぐらいのダイヤだっただろうか?しかし、時間の正確さはともかく、列車が運休することがザラなのには悩まされた。どうも列車が来ないな~と思うと、アナウンスが始まって「Due to technical reason」・・・、つまり、技術的な問題で、つまり車両故障でまたは「Due to unavailability of driver」・・・、つまり、運転手がずる休みをしたから・・・「この列車は運休といたします」と沈着冷静にのたまうのだ。人種偏見かもしれないけれど、ロンドンの地下鉄の従業員は、駅員も乗務員もカリブ海出身の黒人が多いから、こうなのかもしれない。「オイオイ! 冗談じゃないぜ! いつもこれじゃないか!」とどなりたいところだが、周りを見渡してみるとさすがは英国人、何食わぬ顔をして表情を変えず新聞に読みふけっている(ふりをしている)。私は彼らが結構あせっているのを知っているが、彼らはそれを隠したがる。そういう環境にいた私だから、今では沈着冷静、どういう事態になっても興奮することはない・・・。(これが本当ならいいんだが)
2006.02.21
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一日に日記を三日分も書いたりしているので、PC無しの日記空白期間をだいぶ埋めることが出来た。ついでに、過去ログからコピーして、復刻日記としてみよう。これでまた一日分をかせげる・・・、って、一銭にもならないんだけれど。 ■■■■■■■ 「復刻日記」私がお薦め web site に入れているパリ在住のカリグラフィー作家、摩耶さんが、日記の中で「昔のポルトガル商人の古い日記を読んでいる」と書いていた。大航海時代のヴァスコ・ダ・ガマあたりの時代のものなんだろうか?面白いだろうな~。今日は「ポルトガル尽く」しといこう。 ~~~~~私にとってポルトガル人というとまずルイス・フロイスである。16世紀の日本にイエスズ会の宣教師として来日、膨大な「フロイスの日本史」を書いてくれた後、長崎で亡くなっている。信長や秀吉にも謁見し、世界のいろいろな情報を彼らに披露して重宝された。フロイスはそんな信長や秀吉の容貌や性格その他もろもろの情報を first hand で日記に書き込んでいて、それが今や極めて貴重な時代の証言となっている。私も「フロイスの日本史」の全集をもっていて、以前はちびちび読んだのだがその後は例にもれず「積ん読」になってしまっている。 ~~~~~彼の生涯の簡単な年表を下記に書いてみる。1532 リスボンに生まれる1543 (ポルトガル船が種子島に漂着 鉄砲伝来)1548 イエスズ会に入会 ゴア(インド)に向かう1557 ゴアで哲学・神学を修得1562 日本へ出発1563 日本到着 31才1569 織田信長に二条城で謁見1583 日本史執筆開始1586 大坂城で秀吉に謁見1592 マカオへ出発1595 マカオから帰国1596 日本史執筆完了1597 二十六聖人の殉教 殉教を記録 長崎で死亡正直なところこの年表はあるサイトにあったものを参考に他の飼料も読んで作ってみた。 ―――― ◇ ――――イエスズ会というとフランシスコ・ザビエルである。誰でも知っている歴史上の人物。フロイスは、インドのゴアに行った時にそこに滞在していたザビエルと会って、しばらく一緒に生活している。そのザビエルのみならず、イエスズ会はバスク人中心に運営されてきた。アメリカのボストンの近くにもイエスズ会が経営する HOLLY CROSS 聖なる十字架という優秀な大学がある。イエスズ会というのは発足当時はファナティックな宣教意識を持った、武力でもってでもキリスト教化をいとわない戦闘的な宗教団体だった。またバスク人というのはフランスとスペイン国境のピレネー山脈あたりに住む欧州の謎の民族。スペインからの分離独立を目指してテロを繰り返している民族でもある。奇妙なことに彼らの言語がそもそも印欧語に属さない謎の言語である。欧州で印欧語に属さない言葉なんて他には無いはず。それなのにバスク語はその印欧語に属していない!そんなはずは無いと思うんだけれど、事実だ。多分、印欧語を話す人々は先住のバスク人より遅れて欧州にやって来たのだろうと思う。もしその反対にバスク人が遅れてやってきたのなら、その途上の印欧語の海の中で、印欧語を受け入れるか?または印欧語をバスク語にある程度は取り入れたはずだと思う。バスク語には印欧語には無い、息を吸い込みながら発音する音があるという。一説によるとこれは長い期間、洞窟内で暮らした民族に特徴的な音だという。つまり氷河期に寒波を避けて洞窟内で暮らしていたのだろうと思う。クロマニヨン人の直系の子孫とも言われている。フランスではバスク人は味覚の鋭い人々として知られていて、レストランやビストロの経営者・シェフが多い。 ―――― ◇ ――――ポルトガルは東洋に大きな足跡をのこしている。インドネシアにもポルトガル領があったし(マカッサルだったかな?)、もちろん香港の隣のマカオはインドのゴアとならんで東洋の起点。そういえば、ボンベイ支店の現地職員にもゴアの出身者がいて、ダ・シルヴァなんていかにもポルトガル系の名前を持っているカトリック信者だった。マカオにはいまだにポルトガル語をしゃべるポルトガルの血をひいた中国人のマイノリティー社会があるというテレビのドキュメンタリー番組を見たことがある。徳島で亡くなったポルトガルの総領事モラエスも小泉八雲に似た境遇の知日外国人。文人で小説などを書き残していて、徳島市内にモラエス通りという通りがあり、そこにかれの旧居があったらしい。青空文庫にモラエスの作品はあるだろうか?通説ではポルトガル人が種子島に持ち込んだ鉄砲・種子島銃が日本に普及したと言うことになっているが、日本の堺で大量生産された鉄砲はポルトガル方式の鉄砲じゃないようだ。弾込め方式とかその他が違う。多分、中国とかそのあたりから導入した、もっと進化した鉄砲の技術を日本は別ルートで取り入れてそれを改良したらしい。そうして日本人はたちまち数千丁の鉄砲を作ってしまった。これは当時世界最多の鉄砲の所持率だった。だから、ポルトガルに対する感謝も半分でいいらしい。ポルトガルには行ったことがない。行ってみたい。特にリスボンの隣の大学町で古い町のコインブラ。コインブラって、響きが美しい。 ーーーー ◇ ーーーー去年、米国である結婚式があって私も招待されたのだけれど、その時に知人のポルトガル人の人々と話していて、アマリア・ロドリゲスの話がでた。出たと言うより彼らがポルトガル人だと言うことで、私としてはある種のサーヴィス精神もあって彼女の話題を出したのだが。昔の映画に「過去のある愛情」というフランス映画がある。フランソワーズ・アルヌール ダニエル・ジュラン主演のポルトガルを舞台の男女の愛情のもつれを描いた映画だが、たしかまだ高校生だった私は、この映画を映画館にまで観に行った。というより聴きに行ったと言う方が正しいかも知れない。この映画の主題歌「暗いはしけ」という歌をアマリア・ロドリゲスというポルトガルの女性歌手が歌っていて、この歌はポルトガル独特のファドといわれるジャンルのものなのだが、その当時は世界的な話題になっていて、私はその歌をラジオで聞いてからは、ぜひ彼女が出演して謳っているというこの映画を観たかったわけだ。実際に行ったことがないのにこう言うのもいけないかも知れないが、隣国スペインと比較してポルトガルはなんとはなしに貧弱というか侘びしい印象がぬぐえない。写真などで見るポルトガルの映像は黒い衣装をまとった猟師の女房などのものが多いからそういう印象になるのかも知れない。ヨーロッパと言うよりイベリア半島を数百年にわたって支配したムーア人(アラブ人)の面影も見えるような機がする。ファドというのは哀調を帯びた歌だ。スペイン風な激しいものとは対照的に淡い味わいで、まるで風になびく哀愁という風情がある。これにもやはりアラビアのエキゾティックな旋律が混じり込んでいるような気がする。やはりポルトガルにはそういう軽い持ち味があるのか?ポルトガル領だったブラジルの音楽、ボサノヴァも淡くて軽い。名画「黒いオルフェ」の主題歌「カルナヴァルの朝」もファドの直系の子孫という趣だ。ポルトガル語で「サウダーデ」という言葉がある。英語で近い言葉は solitude だろうけれど、それだけではない。この言葉は実に深くて微妙で・・・幅の広い意味のある言葉らしい。平凡社のスペインポルトガルを知る辞典には次のようにでているという。 ―――― ◇ ――――懐かしさ・未練・懐旧の情・愛惜・郷愁・ノスタルジー・孤愁。しかし、いずれの訳語もサウダーデの表す多面体的な意味のいづれかの面に対応するものであって、それが持つ意味の総体を示す訳語ではない。サウダーデとは、自分が愛情・情愛・愛着を抱いている人あるいは事物(抽象的なものを含む)が、自分から遠く離れ近くにいない、またはいない時、あるいは自分がかつて愛情・情愛・愛着を抱いていた人あるいは事物が、永久に失われ完全に過去のものとなっている時、そうした人や事物を心に思い描いた折に心に浮かぶ、切ない・淋しい・苦い・悲しい・甘い・懐かしい・快い・心楽しいなどの形容詞をはじめ、これらに類するすべての形容詞によって同時に修飾することのできる感情、心の動きを意味する語である。そこには、たんにそうした人や事物を思い描いたときに心に浮かぶ感情だけでなく、そうした人や事物をふたたび眼の前にしたいと願う思いも含まれている。サウダーデはこのように複雑で豊かな意味を持つ語であるから、外国語で1語によってその意味を表すことは不可能であることも、訳語としてあげられている種々の語の意味の一面しか表しておらず思い出す対象によって訳語が異なるざるを得ないことも明らかであろう。また大切にしていた物を手放さざるを得なくなったとき、心に感じる痛み・悲しみを伴う感情もサウダーデであり、家族・親友・恋人などと永く別れるときの惜別の情もまたサウダーデである。 ―――― ◇ ――――これでは長々しくて大変だけれど、私の解釈では「愛着のあるものから離れていることから生ずる執着を含んだ喪失感・悲哀感」なのでは?つまり英語で言うと nostalgy や missing feeling や in solitude がその核にあるのではないだろうか?ポルトガルは欧州の最先端、どん詰まりである。その先は茫漠たる大西洋。英国のコーンウォールの先端に文字通り「LAND END」という岬があるが、陸地が切り落ちていて、そこからは見渡す限りの大西洋である。まだ見ないリスボンにも(リスボアというのがポルトガル語の発音かな?)やはりそんな風景があるような気がする。大航海時代に船乗り達が未知の大海に乗り出した土地だ。そんな前例もない世界の果てへの恐ろしい航海に船出して行った夫や父親、恋人など・・・。そんな彼らを想いつづけて帰りを待ち続けた切ない感情が、ポルトガルの女性達の心の中に染みついてファドになったのではないだろうか? ―――― ◇ ――――「火宅の人」の作者、壇一雄が一時ポルトガルに滞在していたことがあって、たしか昔に週刊朝日に連載していた随筆に自ら書いていたが、ポルトガルではイワシの塩焼きが安くてまたことさら美味であるという。さらにそれにレモンを搾ってかけると・・・。・・・言うまでもあるまい。 ーーーー ◇ ーーーーまたアメリカでの結婚式パーティーでのポルトガルの人達との話にもどるのだが・・・。他の東海岸真性エリート白人連中に比べて遠慮がちなポルトガルの人々を気遣って、私はアマリア・ロドリゲスの歌が聞きたさに「過去のある愛情」を観に行ったこと、および壇一雄が好きだったというイワシの塩焼きがぜひ食べたいものだ・・・などとしゃべると、彼らがいきなり私に抱きついてきて「今度来たときには私たちの家に来てくれ!イワシの塩焼きをご馳走する ポルトガルのワインも最高だよ」というのだ。それだけでは無い。一人が自分の荷物の中からアマリア・ロドリゲスのCDを数枚とりだして「プレゼントする」といって聞かない。「せっかくのCDじゃないか?」と遠慮すると「ここではいくらでも安く売っているから大丈夫」という。たしかにこの州にはポルトガル系住民や移民が多く、いわゆるポルトガル・スーパーまでもあるのだ。遠慮無くいただくことにした。 ーーーー ◇ ーーーーフロイスからアマリア・ロドリゲスまで、私の本日の大航海もやっと帰港となった。ああ、しんど。
2005.03.24
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私の日記は、本来の日誌としての日記ではないので、日付は現実のものでもないし、そもそも意味がない。今日は実際には、9月11日。米国の同時多発テロの三年目。あのニューヨークのツイン・タワー・ビルが炎上している同時中継の画面をNHKのニュースで見て驚いていたら、二機めがまたリアル・タイムで突っ込んだのにはさらに驚いた。瞬間これはビデオではないか?など、現状認識がすぐには出来ずに少々混乱した。さらには、あの巨大ツイン・ビルが崩れ落ちるのを見ては、本当に信じられないことが目の前で連続して起こることに、不思議な感動さえ感じた。 ----------------私の勤務先のNY支店がこのビルにあった時があって、私は短期間だけれど出張ベースでこのビルに通ったことがある。当時は世界最高の建造物だった。冬場は静電気がすごくて、ドアに触れるのが恐ろしかった。昼食は同僚とすぐ近くの日本食堂に行くことが多かった。あの食堂などはどうなったのだろうか? ----------------私の姪夫婦の、日本風に言えばマンションが同じマンハッタンにある。ツイン・タワーはマンハッタンの南の先端で、姪のマンションは反対方向、アッパー・イーストにあるのだが。以前、姪のマンションからツイン・タワーを眺めたことがあるが、事件の後にはもうツイン・タワーを見ることはできなかった。『もうあそこにはあのビルが見えない』姪はそう言って涙ぐんでいた。現場に行こうと思ったが、現場は入場券を買って入るシステムになっていると聞いて止めた。代わりに、今まで登ったことのない、エンパイヤー・ステート・ビルに登ってみた。ツイン・タワーが無くなってから、このビルに登る人がふえたという。それにちょうど米国の独立記念日で、観光客やNY港に入港している軍艦の乗組員などが多くて、頂上近くの展望台までにエレベーターを乗り継いで45分もかかった。地上を見ると黄色いタクシーが豆粒の大きさでゆっくり移動している。NY港に停泊している観艦式の軍艦が見える。まわりには、このビルに負けず劣らずの摩天楼が林立している。ミュージカル映画『ウェスト・サイド・ストーリー』の冒頭の場面で、上空からのマンハッタンの俯瞰図が展開されるが、あれと似た風景だ。 ----------------もっとも、当時はスラム街だったウェスト・サイドはもう区画整理されてしまって、現在は『メトロポリタン歌劇場』がある文化の殿堂・リンカーン・センターになっている。 ----------------ウェスト・サイドと呼ばれた地域は、ハドソン河の西側だったわけだが、ロンドンでの比較的下層階級が住む地域は逆に『イースト・サイド』と呼ばれ、その住人達は『コックニー」または『イースト・エンダー』と呼ばれる。むかし、英国のテレビで『イースト・エンダー』という連続ドラマがあって、下町の庶民の生活を描いて人気番組だった。『イースト・エンダー』がしゃべる英語は独特で、オーストラリア英語と似ていて、共に『a』を『アイ』と発音する。例えば today は『トゥダイ』になるし、newspaper は『ニュースパイパー』になる。友達 mate は『マイ(ト)』となる。昔々のロンドンのタクシーの運転手達はみんな『コックニー』で独特の表現を持つ言葉を独特のメロディアスなリズムでしゃべっていたので、コミュニケーションが一苦労だが、この頃はそんなコクニー弁の運転手はめずらしい。 ----------------映画『キング・コング』で、主人公?キング・コングが美女をさらって逃げて、このビルの頂上あたりに登るシーンがある。展望台の売店では、このキング・コングがこのビルに登っているおみやげがならんでいる。古い映画が好きな私は、もう一つの『エンパイヤー・ステート・ビル映画』である『めぐり逢い』(デボラ・カー&キーリー・グラント主演)のおみやげも探してみたが、残念ながらこれは見あたらなかった。この『めぐり逢い』は、大西洋航路の客船で会った美男美女が、エンパイヤー・ステート・ビルのこの展望台で、クリスマス・イヴでの再会を約束した。しかし、約束の日に、ビルに近づいた美女はタクシーにはねられ半身不随となり、車椅子の生活になり、彼との再会をあきらめる。後に偶然の機会から、彼との再会を果たした彼女が彼に言う台詞 :「(タクシーにはねられた時は)上ばかり見ていたの。天国に一番近い所だけ。あなただけを…。」「あなたに絵が描けるなら、私もきっと歩けるわ!」(彼はプレイボーイ・ジゴロの生活から足を洗い、画家になったのだ)メロドラマを喜劇として鑑賞してしまう『冷徹な』私は何とも感じないが、この名セリフ・名場面が女性の涙を誘うらしい。この映画は4回もリメイクされ、米国婦人のもっとも好む『泣ける映画 ナンバーワン』らしいのだ。なお、この映画の主演女優・デボラ・カーは私のもっとも好きな女優の一人。こんなに上品でエレガントな人は、もう現代にはいないだろうと思う。
2004.09.10
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